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17 天理教原典における むね と 心 の 意味 比較 解釈方法 森 要 進 旨 天理教の原典 おふでさき には 号 首 をとおして むね が 個所 心 こゝろ の表記が 個所 が 個所使われている 両語には特定 共 通の修飾語が連結しており その使い方を比較すると 両語の意味の違い 特性がみえ る

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Academic year: 2021

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〔序〕

天理教には,『おふでさき』( ),『みかぐらうた』( ),『おさしづ』( )の 原典がある。そ のうち,『おふでさき』は,世界中の人間だれもが読み親しみ,そこから親神の教えを理解し, 心に治め,実践することによって,この世を「神人和楽の陽気づくめの世界」( )にするため に, 年 か ら 年 に わ た っ て,天 理 教 の 教 祖(以 下,「お や さ ま」と 表 記)中 山 み き が, 号, , 首を和歌体形式で誌された直筆の書である。今も天理教教会本部にその原本 が残されており, 原典のうち,最も重要なものとされている。「つとめ」の地歌である『み かぐらうた』もおやさまによって書かれた原典とされる。『おさしづ』については,『おふでさ き』,『みかぐらうた』とは異なり,話し言葉を筆で書きとられた散文形式の原典である。 その原典『おふでさき』には, 号全号をとおして,[むね]が 個所,[心]が 個所 (そのうち,[こゝろ]の表記が 個所),首数でいえば, 首, 首において,それぞれ使 われている。その英語翻訳本が天理教教会本部から 年に初めて出版された( )。そのとき の訳本には,[むね]と[心]が,解釈の相違によって,英語では,“heart”,“mind”,その

天理教原典における「むね」と「心」の

意味、比較、解釈方法

〔要 旨〕 天理教の原典『おふでさき』には, 号( , 首)をとおして,[むね]が 個所,[心]([こゝろ]の表記が 個所)が 個所使われている。両語には特定,共 通の修飾語が連結しており,その使い方を比較すると,両語の意味の違い,特性がみえ る。そこから,[むね]は「神の心」に関すること,[心]は「神の心」と「人間の心」 が区別して使われていることが理解できる。そこで,[むね]を「神の心」と理解すれ ば,たとえば,[むねのうちより]は「神の心,神の立場から」と解釈できる。この解 釈をすれば,『おふでさき』に書かれている神の言葉を理解する方法が変わり,内容の 理解も変わってくる。神言を人間の視点とは異なった次元から理解することが可能にな る。 これらの見方について,『おふでさき』とともに,原典『みかぐらうた』の中で[む ね]と[心]がそれぞれ特定,共通の動詞,名詞,その他の修飾語と連結して使われて いる表現を比較,考察する。それらの用例をとおして,両語の持つ特性,意味の違いか ら起因する『おふでさき』の理解,解釈方法に焦点を絞り,[むね]と[心]について 考察を試みる。主たる資料としては,天理教の原典である,『おふでさき』,『みかぐら うた』とともに,『おさしづ』からも引用例を挙げて,論拠に加える。 〔キーワード〕 [むね],[心(こゝろ)],[むねのうち],[むねのうちより],[胸の道 は神の道やで]

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他の訳語が混在して使われている。両語の意味の解釈がいかに複雑であるかを示している。そ の後, 年にその改訳本が出版された( )。そのときには,「原文忠実」の翻訳方針から,特 別な箇所を除いて,基本的には,[むね]は,“heart”,[心]は,“mind”,となっている( ) 筆者は,最初の英訳本の出版当時から原語にある[むね]と[心]のそれぞれの言葉の表現, 意味,使われ方,解釈の方法について,深い関心と興味をもち,研究してきた。 年に出版された『おふでさき』の英語改訳作業において, 号 の歌にある〔よろつよ のせかい一れつみはらせど むねのハかりたものハないから〕の[むね]の英訳を“My heart”ではなく,“the heart”にしてはどうか,という意見が出た。原語の[むね]は,「神 のむね」,「おやさまのむね」を意味するのは明らかである。したがって,“I”を主語とし, [むね]の英訳を“My heart”とするのは妥当,自然であった。それだけに,“the heart” の提案を聞いたときには,さすがに驚愕した。と同時に,次のような考えがとっさに心に浮か ん だ。そ れ は,“My heart”に 何 の 疑 問 も 抱 い て い な か っ た 筆 者 が,そ の 訳 語 を“the heart”とすることによって,原語では判明しにくい[むね]の意味内容だけでなく,『おふで さき』にある神の言葉を次元の異なった角度から理解する機会を与えてくれることになるので はないだろうか,という考えである。しかも,訳語として決して間違いではない。主語がおや さまを示す“I”であり,初出の“heart”が“a heart”であれば,だれの[むね]か分から ず問題であるが,初出にもかかわらず,“a heart”ではなく,“the heart”となっていれば, その[むね]は,おやさまの“heart”を意味することは明白である。すなわち,「神の心」で ある。 その訳語が意図する重要な側面は,[むね]を“the heart”と翻訳することによって,他に 個所ある『おふでさき』の[むね]の表現が「神の心」であることを示す意味を引き出す可 能性があることである。そして,そのように考えることによって,本稿で論考する[むねのう ちより]の解釈を人間が「神の立場から」思案することが可能になる。 [むねのうちより]を「神の立場から」と理解すると,神の言葉が心に重く深く響き,質的 にも次元の異なった新鮮な内容の解釈が可能になる。一方,[むねのうちより]を「人間の胸 の奥(真)底から」という理解では人間がどれほど努力してもあくまでも人間の立場,心から の解釈に止まる。しかし,「神の立場から」という観点から解釈を試みると,それとは,全く 別次元の意味を掘り下げることが可能になるのではないか。その発想の発端が[むね]の英訳 提案“the heart”であった。 『おふでさき』の中で使われている[むね]と[心]またそれぞれに関連した表現について 個別に研究されている文献は過去に多数あるが,両語またそれぞれの言葉に連結した特定の表 現をとおしてみた両語の比較研究を目的とした先行文献は,笹田勝之が論文「むねのハかりた ものについて」の一部( )に両語の違いについて触れている以外には見当たらない。 そこで,本稿では,『おふでさき』(『みかぐ ら う た』も 含 む)の 中 で,[む ね]と[心] ([こゝろ])がそれぞれ特定また共通の動詞,名詞などと連結して使われている表現をとおし てみられる両語のもつ特性,意味の違い,その違いから起因する『おふでさき』の理解と解釈 方法に焦点を絞り,天理教学の視点を中心にして,[むね]と[心]について論考を試みる。 特に,[むね],[むねのうちより]の意味,解釈,その周辺について論じる。主たる資料とし ては,『おふでさき』,『みかぐらうた』とともに,『おさしづ』からも引用例を挙げて,論拠に 加える。 なお,本稿「Ⅱ[むねのそふぢ(ち)]と[心…いれかへ]」では,[むね]と[やしき]ま

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た[そうじ]との関連で[やしきのそうじ]も考察の対象に加えることを付しておく。また, 本稿の第Ⅱ章から第Ⅳ章まで,『おふでさき』と『みかぐらうた』の中で[むね]と[こゝ ろ]が特定また共通の修飾語と連結して使われている具体的な用例を引用して,その使い方を 比較,考察するので,その資料として,『おふでさき』は[むね]( ),『みかぐらうた』は [むね]と[こゝろ]( )の両語の出処を〔注〕に入れておく。(筆者注・本稿では,「本文」, 「注」に『おふでさき』と『みかぐらうた』から多くの引用があるが,その出処について,前 者は,たとえば,[第三号七]から引用の場合,[ : ]と表記,後者は[十二下り目九ッ] から引用の場合,[': ]と表記をした。)

Ⅰ [むね]と[心]に連結する動詞をとおしてみえる両語の意味内容の違い

『おふでさき』において,[むね]と[心]がそれぞれどのような動詞と連結して使われて いるのかを提示し,それらの表現をとおして,両語の意味する特性,相違点を対比,考察する。 [むね]については,〔注〕( )にある動詞と連結して使われている。[むね]が『おふでさ き』で使われている数は, 箇所あり,[心]は 箇所ある。したがって,使われている動詞 の数,種類も,[むね]は,[心]と比較して,その絶対数は極めて少ない。 次に,[心]がどのような動詞と連結して使われているかを〔注〕に例を挙げる( ) 『おふでさき』において,[むね]が 種類の動詞と連結して使われているのに対して, [心]と連結して使われている動詞は, 種類ある。様々な動詞と連結して使われている両語 を比較すると,[むね]と[心]が,次に類型的に分類しているように,対照的な意味を持っ ている。その中でも,[心]と連結して複数使われている,[いさむ],[いれかへ(ゑ)る], [さだ(た)める],[すます],[せきこむ],[つくす],[しあんする]などの動詞を[むね] と連結している動詞と対比してみると,[心]の特質が示唆されている。それは,神が人間を たすけたい,たすかってもらいたい,という人間に対する強い親心,期待,希望,促進,約束 が動きのある様々な動詞の種類とともにそのような要素を示す動詞が使われている内容によっ て理解できる。 これらの[むね]と[心]に付随した動詞の種類と使い方からみえる両語の類型の違いを整 理すれば,次のような見方ができる。[むね]は,〈 〉「常に,静的で動かないもの,変わら ないもの」〈 〉「神の領域」〈 〉「神の心,思案,観点」〈 〉「心の入れ物(器)」〈 〉「掃 除するもの」,を意味する。一方,[むね]と対比して,[心]には,次のような特性がある。 〈 〉「常に,動的で動くもの,変わるもの」〈 〉「人間の領域」〈 〉「人間の心(「心遣い」), 思案,観点」〈 〉「むねの内に在るもの」〈 〉「入れ替えるもの」,である。この類型の具体 的な内容については,論考する各章においてそれぞれ実証していく。 また,『みかぐらうた』において,[むね]は 箇所使われている。そして,[むね]が動詞 と関連して使われているのは次の 種類あるが,[むね]が単独で使われているのは 箇所で ある。その他は,[むねのうち]が 箇所,[むねのうちより]が 箇所,[むねしだい]が 箇所使われている。 〈 〉[むねのわかりた](よろづよ八首: ;%: );[むねがわからん](&: )〈 〉 [むねのうち すみきりました](!: );[すみきりました(…)むねのうち]($: ) 〈 〉[むねのうち(…)うつる](": )〈 〉[むねのうちよりしあんせよ](!: ;$: )〈 〉[むねしだい](#: ;$: ) 次に,『みかぐらうた』において,[こゝろ]は 歌( 箇所)使われている。[こゝろ]と

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連結する動詞は次の 種類がある。『おふでさき』で[心]と連結して使われている動詞が動 きのある性質を持っていることを述べたが,『みかぐらうた』においても動きのある動詞が使 われている。 〈 〉[いさめかけ](よろづよ八首: );[いさみくる](#: )〈 〉[さだめ](!: ); [さ だ め ゐ や う な ら](": ;&: )〈 〉[を さ め い よ](#: )〈 〉[わ か ら い で] (#: );[わからん]((: )〈 〉[うちわすれ]($: ;&: )〈 〉[なりてこい] ($: )〈 〉[あるなれバ](%: );[あるなら](): )〈 〉[でんぢのいらぬもの] (%: )〈 〉[す ん だ な ら](&: );[す み き れ]((: )〈 〉[も た れ つ け](': )〈 〉[あらひきる]($: ) [むね]が「わかる」という動詞とともに使われているのは,『みかぐらうた』において 箇所あるが,すべて,[むねのわかりた](よろづよ八首: ,Ⅸ: )[むねがわからん](Ⅺ: )と,「わかる」という表現と[むね]が連結して使われている。そして,その[むね]は 「神の心」を意味する。また,[こゝろ]については,[こゝろがわからいで](Ⅳ: )と [ひとのこゝろ(…)わからん](Ⅹ: )の 箇所で「わかる」という動詞と関連して使わ れている。前者は「神の心」であり,後者は「人間の心」と区別されている。注目すべき点は, [むね]はすべて「神の心」を意味し,[こゝろ]は文脈によって「神の心」と「人間の心」 が区別して使われていることである。

Ⅱ [むねのそふぢ(ち)]と[心…いれかへ]

『おふでさき』において,[むね]は「神」,[心]は「人間」を示す象徴的な表現として, [むね]は「そふぢするもの」であり,[心]は「いれかへるもの」であることが書かれてい るので,本章ではその根拠となる具体的な歌を挙げて,[むね]と[心]の意味をそれぞれ対 比,考察する。 [そふぢ(ち)]という言葉は,全部で 箇所使われている。それらの関連表現を整理,分 類すると次のようになる。Ⓐ[むねのそふぢ(ち)]Ⓑ[むねのうち…そふぢ(ち)をする] Ⓒ[むねのうちより…そふぢ(する)]Ⓓ[やしきのそふぢ(じ)]Ⓔ[そふぢ(ち)(を)… する(したてる)]Ⓕ[そふぢ(じ)]が単独の名詞形で使われている歌,である。これらの表 現について個別に考察する。 一方,[心]の特徴を示す表現としては,[心…いれかへ]がある。 また,『おふでさき』にある[心…いれかへ]という表現は,『おさしづ』では,[心]との 関連において,[入れ替え]という表記で 件存在している。さらに,『おふでさき』において は[むねのそふぢ(ち)]と表現されているのが,『おさしづ』では[心の掃除]という表現が 箇所ある。そこで,『おさしづ』では,なぜ,[胸の掃除]ではなく,[心の掃除]という表 現が使われているのかについても考察する。なお,『おふでさき』にある[むねのそふぢ (ち)]とは全く同じ表現ではないが,[胸掃除]という表現が,『おさしづ』において, 件 だけ使われている。(筆者注・原典からの引用文で太字の部分はすべて筆者によるものであ る。) なお,『おふでさき』において,[むねのそふぢ(ち)]という表現があって,[心のそふぢ (ち)]という表現が存在しない理由については, 例として,『おふでさき』 号 の歌に, [むねにほこりがつもりあれども]とあるように,[ほこり]は,[心]ではなく[むね]につ もる,と示されているからである。また,[心のほこり]( : )とあるように,[ほこり]

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は,[心]に属する性質を持つからである。したがって,[むねのほこり]という表現はどの原 典にも存在しない。[むね]自体には,[ほこり]は存在しないことの証であり,[むね]が 「神の心」を意味する つの根拠である。 Ⓐ[むねのそふぢ(ち)] .しかときけ三六二五のくれやいに むねのそふぢを神がするぞや : .けふからハせかいを月日みさだめて むねのそふぢにかゝる事なり : .にち!"にむねのそふぢにかゝりたら どんなものでもかなうものなし : .このさきをたしかみていよ一れつわ むねのそふちがひとりでけるで : .これみたらどんなものでもしんぢつに むねのそふちがひとりてけるで : .このさきハどんなものでもしんちつに むねのそふちをみなしてかゝる : .これさいかみなあらハした事ならば むねのそふぢがひとりでけるで : .このみちハうちもせかいもへたてない せかいちううのむねのそふぢや : .このかやしみへたるならばどこまでも むねのそふぢがひとりでけるで : .このみちハどんな事やとをもうかな せかい一れつむねのそふぢや : .それまでにせかいぢううをとこまでも むねのそふぢをせねばならんで : .それゆへにせかいちううをどこまても むねのそふぢをしたいゆへから : .これからハせかい一れつたん!"と むねのそふちをするとをもへよ : [むねのそふぢ(ち)]をする主体は,すべての歌において,「神」である。[むね]を「神 の心」と仮定すれば,その[むね]を「人間の心(心遣い)」が汚すのである。そのために, [むね]が本来備えている輝き,本質∼「神の心」∼を人間が見えなくなる。したがって,そ の[むね]に付いた「埃」,「汚れ」を取り除くために,人間が神の教えである[ほふけ] (「箒」)を持って,[そふぢ(ち)]をするのである。その掃除をする行為者は人間であるが, 「埃」,「汚れ」を取り除く掃除の主体は「神」(箒)であり,それが[むねのそふぢ(ち)]と 表現されている。 [むねのそふちがひとりで(て)けるで],という同じ文言の歌が 首あるが,「する」では なく,[で(て)けるで]と自動詞が使われている。自動詞と他動詞の両方で使われる動詞の 場合,限定がある場合を除いて,自動詞で用いられている動詞の主体は,「神」を指している 場合が多い。その他の代表的なこの種の動詞としては,[さだめる]と[さだまる],[おさめ る]と[おさまる]が挙げられる。一方,他動詞の主体は,人間である場合が多い。したがっ て,[むねのそふちがひとりで(て)けるで]も,人間が箒を持って掃除をする努力の結果と して,その主体である「神」によって,[むね]が綺麗な状態になる。この自動詞と他動詞の 関係は,人間が神の思いを心に治め,それを積極的,自主的に行動に移すことを神が人間に促 すという意図から他動詞で表現されており,その結果,神が働くという意味で自動詞が使われ ている。 Ⓑ[むねのうち…そふぢ(ち)をする] .このたびハなんでもかでもむねのうち そふちをするでみなしよちせよ : .むねのうちそふぢをするとゆうのもな 神のをもハくふかくあるから : .いちれつのむねのうちさいすきやかに そふちしたてた事であるなら : [むねのうち]の解釈については,本稿第Ⅳ章で詳論するが,「人間の心」である。[むね] が「神の心」を意味するのに対して,[むねのうち]の[うち]を「人間の心」と解釈し,そ れが[むね]の中に在る,とする。したがって,[むねのうち]という表現は,より鮮明に

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「人間の心」を示唆している。そこで,神が[むね]に付いた人間の心の埃を掃除する,とい う意味になる。引用した 首すべてについてその意味が当たる。 [むねのうちそふぢをするとゆうのもな 神のをもハくふかくあるから]( : )の歌の 直後には,[このそふぢすきやかしたてせん事に むねのしんぢつわかりないから]( : ) とあり,掃除の目的が書かれている。続いて,[この心しんからわかりついたなら このよは ぢまりてをつけるなり]( : ),と「つとめ」の手を教える,と書かれている。「むねのう ちのそふぢ」と「つとめ」との重要な関連性がこの 首で示されている。 また,同じ 号 の歌に続いて, 号 の歌には,掃除をするもう つの目的である,「神 の深い思惑」を間違いなく理解するためには,[むねのうちそふぢをする]ことの必要性が書 かれている。さらに,上記, 号 の歌に続いて,[それからわせかいぢううハきがいさむ よふきづくめにひとりなるぞや]( : ),と「(神人和楽の)陽気づくめの世界が神の力で 自然に実現できる」,と書かれている。すなわち,[むねのうち…そふぢをする]が「神人和楽 のよふきづくめ世界」の実現にとっては,必要不可欠な要素として述べられている。 Ⓒ[むねのうちより…そふぢ(する)] .せかいぢうむねのうちよりこのそふぢ 神がほふけやしかとみでいよ : .これをみよせかいもうちもへたてない むねのうちよりそふぢするぞや : .なにもかもこのせきこみがあるゆへに むねのうちよりそふぢいそぐで : .たん!"とつとめをしへるこのもよふ むねのうちよりみなそふぢする : [むねのうちより]の解釈についても,[むねのうち]とともに,第!章で詳論する。 『おふでさき講義』では,[むねのうちより]の解釈は,「人間の心の奥底から」( : ), 「人間の心の真底から」( : ),「人間の心の中から」( : ),「人々の胸の内」( : )と,すべて「人間の心」との関連でなされている( )。他の文献においても,表現の違い こそあれ,本稿で論考している[むねのうちより]を「神の心から」ではなく,「人間の心か ら」と解釈している。 Ⓓ[やしきのそふぢ(じ)] .このたびハやしきのそふじすきやかに したゝてみせるこれをみてくれ : .なにゝても神のゆう事しかときけ やしきのそふぢでけた事なら : [やしき]の意味( )は,[むね]の比喩的な表現とも解釈できる。屋敷そのものは綺麗であ るが,その中に生活する人間が汚すのである。より正確には,人間の心遣いが屋敷を汚し,汚 れ方も心遣いによって異なる。心を入れる器が屋敷で,心が人間とも解釈できる。[むね]を 具体的,物理的,可視的な[やしき]という言葉にたとえている。その表現によって,人間の 持っている[むね]に付いた埃を掃除する,という意味がより分かり易く理解でき,人間が神 の言いたい,伝えたい内容をそのまま受け入れ,実践しやすいようになる,という神の意図が みえる。 また, 号 の後に続く次の 首の歌は,[そふぢ]と[つとめ]と[よろづたすけ]の関 連性を示している内容を含んでいる。[つとめ]は,神にとっても人間にとっても一番重要な [よろづのたすけ一ちよ],[よろづたすけ]と示され,そのためには,[むねのそふぢ]は, 必要不可欠な行為であることが書かれている。 .もふみへるよこめふるまないほどに ゆめみたよふにほこりちるぞや : .このほこりすきやかはろた事ならば あとハよろづのたすけ一ちよ : .このさきハたん!"つとめせきこんで よろづたすけのもよふばかりを :

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Ⓔ[そふぢ(ち)(を)…する(したてる)] .これからハ高山いけいとびはいり いかなごもくもそふぢするなり : .すきやかにそふぢしたてた事ならば なハむねいそぎたのみいるそや : .しんぢつにそふぢをしたるそのゝちハ 神一ぢよで心いさむる : .これからハ神がをもていあらわれて 山いかゝりてそふちするぞや : .いちれつに神がそふちをするならば 心いさんてよふきつくめや : .このふしきなんの事やとをもている ほこりはろふてそふぢしたてる : .いまのみちほこりだらけであるからに ほふけをもちてそふぢふしたて : .このそふぢすきやかしたてせん事に むねのしんぢつわかりないから : .このほこりすきやかそふぢせん事に 月日いかほどをもふたるとて : .そふぢしたところをあるきたちとまり そのところよりかんろふだいを : .これからハせかいぢううを一れつに 月日そふぢをするでしよちせ : .このそふちすきやかしたる事ならば そのまゝすぐにまむりごしらゑ : .このほこりそふぢするのハむつかしい つとめなりともかゝりたるなら : .心さいしんぢつ神がうけとれば どんなほこりもそふぢするなり : .いちれつのむねのうちさいすきやかに そふちしたてた事であるなら : .このそふぢどふしてするとをもうかな とんないけんをするやしれんで : ここでは,「掃除をする」に関して,掃除をすれば人間の心はどうなるのか,逆に,掃除を しなければ人間の心はどうなるのかについて,人間の心の積極性,肯定性と消極性,否定性が 明示されている。「掃除をすれば」については,[神一ぢよで心いさむる]( : ),[心いさ んてよふきつくめや]( : )とあり,「心が勇んで,陽気づくめになる」,とある。逆に, 掃除をしなければ,[むねのしんぢつわかりないから]( : ),[月日いかほどをもふたると て]( : )とあり,「神が人間のことをいくら思っても,人間は神の心の真実が分からな い」,とある。だからこそ,神は,[どんなほこりもそふぢするなり],[心さいしんぢつ神がう けとれば],と神が人間の心の埃を掃除する,と書かれている。そのためには,人間の真実心 を神に受け取ってもらうことが条件である。 Ⓕ[そふぢ(じ)]が単独の名詞形で使われている歌 .そふじさいすきやかしたる事ならハ しりてはなしてはなしするなり : .このそふぢむつかし事であるけれど やまいとゆうわないとゆてをく : .きたるならわがみさハりとひきやハせ をなじ事ならはやくそふぢふ : .このそふぢうちもせかいもへだてない めゑ!"の心みなあらわすで : .このそふぢとこにへだてハないほとに 月日みハけているとをもゑよ : .このそふぢどふゆう事にをもている たすけばかりをふもているから : .このそふぢなんとをもうぞみなのもの 神の心をたれもしろまい : ここで注目すべき点は,[そふぢ]の中で,[このそふぢ]が, 首のうち, 首あり,その うち,その前の 首はすべて[むねのそふぢ]が使われているおり,その重要性が示されてい る。 [そふぢ(そふち)]のある表現で,[心]が使われているのは,次の 首がある。 .しんぢつにそふぢをしたるそのゝちハ 神一ぢよで心いさむる : .いちれつに神がそふちをするならば 心いさんてよふきつくめや : .このそふぢうちもせかいもへだてない めゑ!"の心みなあらわすで :

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.心さいしんぢつ神がうけとれば どんなほこりもそふぢするなり : .このそふぢなんとをもうぞみなのもの 神の心をたれもしろまい : [むねのそふぢ]を目的語として,神が主語として用いられている歌が 首のうち, 首あ り,ここにある[むねのそふぢ]の主体は神である。[かみがほうきや]( : )と示されて いるとおりである。既述したように,掃除をするのは人間の心と実践であるが,掃除をする主 は神である。 そのことは,次の 首の歌に明示されている。[神がほふけや]と書かれているように,胸 の掃除をする主は「神」である。しかし,[ほふけをもちてそふぢふしたて],とあるように, その箒を持って,掃除をするのは「人間」である。ところが,[ほふけ]そのものは「神」で あり,「神人和楽の陽気づくめの世界」の姿を比喩的にまた象徴的に表現している歌である。 .せかいぢうむねのうちよりこのそふぢ 神がほふけやしかとみでいよ : .いまのみちほこりだらけであるからに ほふけをもちてそふぢふしたて : 「神人和楽の陽気づくめの世界」については,親神が人間世界を初めるときに,「(前略), 人間を造り,その陽気ぐらしをするのを見て,ともに楽しもうと思いつかれた。」( ),という 神言の意味である。そこには,人間が自主的に積極的に陽気ぐらしをする行為に参画すること が述べられている。そのために神は人間に心を自由に遣うことを許された。その意味ではここ に陽気づくめ世界の原点がある。だからこそ,[ほふけ]そのものは「神」であるが,その箒 の存在を知り,それを手に持って使う行為をするのは人間である,と『おふでさき』に書かれ ている歌に意味がある。 次に,[心…いれかへ]をみてみる。 [心…いれかへ] .これからハ心しいかりいれかへよ あくじはろふてハかきによほふ : .しかときけこれから心いれかへて にんけん心あるとをもうな : .いまゝでと心しいかりいれかへて よふきつくめの心なるよふ : .これからハ月日たのみや一れつわ 心しいかりいれかゑてくれ : .これからハ心しいかりいれかへて 神にもたれてよふきつとめを : .これからハ心しいかりいれかへて よふきづくめの心なるよふ : .さあしやんこれから心いれかへて しやんさだめん事にいかんで : .いまゝでハとんな心でいたるとも いちやのまにも心いれかゑ : .しんぢつに心すきやかいれかゑば それも月日がすぐにうけとる : 「心をいれかえる」意志を持ち,その行為をするのは,「人間」である。そして,それを促 されているのが「神」である。 [むねのそふぢ],[むねのうち…そふちをする],[むねのうちより…そふぢ(する)],そし て,[そふぢ]と,[心…いれかへ]という表現の違いは,[むね]が掃除されれば,[心]が澄 みきる,入れ替わる,という順序を示している。 次の歌については,[どんなほこりもそふぢする]とあるが,これは,人間の心遣いによっ て,[むね]に埃を積む。その埃の付いた[むね]から「神」がその埃を掃除する,という意 味である。 .みづとかみとはおなじこと こゝろのよごれをあらひきる Ⅴ: .みれバせかいのこゝろにハ よくがまじりてあるほどに Ⅸ: .よくにきりないどろみづや こゝろすみきれごくらくや Ⅹ:

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日常生活に関わりのある心遣いを教えている「つとめ」で歌われる『みかぐらうた』には, [こゝろのよごれ],[こゝろにハ よくがまじりて],[こゝろすみきれ],とあるように,「心 は汚れる」,「心には欲が混じる」,「心は澄みきる」,という心の性質が示されている。 『おふでさき』には[むねのそふぢ(ち)]という表現だけであるが,『おさしづ』において は,[胸掃除]という表現が 件あり,『おふでさき』には存在しない[心の掃除]という表現 が 件存在するので,引用する。 [胸掃除] .さ あ!"身上に心得ん!"と言う。心より尋ねる事情,さあ!"事情は秘っそ!"に掃 除々々。(中略)どう言うて来るも,こう言うて来るも,掃除々々,一つの道や。どんな事聞こ か,胸掃除一条の模様しや。秘っそ!"と,柔らこいものが堅とう成る,との一つのさしづと。 (明治 年 月 日) [心の掃除] .さあ!"いかなる一つの事情,掃除一条,掃除一条すっきり掃除して了うで。皆片付ける道 具も要る。どうでも掃除をして掃き立てる。隅から隅まで,掃除一つ道を改め。掃除の道具も要 る,又片付ける道具も要る,治まる道具も要る,拭き掃除する道具も要る。いつも掃除や,あち らもこちらも掃除や。隅々までも掃除や。どういう処,心の掃除や。(明治 年 月 日 (陰 暦 月 日)一同へ御話(梅谷四郎兵衞家の御願を致せし処)) .何か世界見てたんのう。たんのうは真の誠より出る。真の誠はたんのう。たんのうは直ぐに 受け取る。(中略)これを見てたんのう。いつ!"まで今も今もと心言わず,今日は一日やれ!", 一日の日やれやれ言わずして,心にたんのう!"は直ぐと受け取る。第一内々心の掃除々々して, それより誠一つ,いつ!"までと諭し置こう。(明治 年 月 日 上田平治身上の願) .一つの思やん早く取り直して,実真なる心を定め。身はどうでも癒らんやない。早く一つの 心の掃除。一つの安心の道も運んで置かねばならん。それより実々の道へ運ぶようと。(明治 年 月頃(陰暦 月)(陽暦 月 日乃至 月 日) 松田虎太郎肺病に付伺) 『おふでさき』は,おやさまによって基本的には「月日(神)のやしろ」の立場から書かれ た原典である。一方,『おさしづ』は,「刻限さしづ」と「伺いさしづ」の 種類があり,基本 的には,「刻限さしづ」はおやさまが「月日(神)のやしろ」の立場から,一方,「伺いさし づ」は,おやさまが「ひながたの親」の立場から語っている。すなわち,人間の伺いに対して, 「神のやしろ」である,おやさまが「ひながたの親」として人間に理解しやすいように語って いる「さしづ」である。したがって,『おふでさき』では[むねのそふぢ(ち)]と表現されて いるのが,『おさしづ』では人間にとって「胸の掃除」よりも馴染みやすい[心の掃除]とい う表現がなされている。 このことを示すもう 例を挙げる。それは,『おふでさき』で 首において使われている 「やまい」についてである。『おふでさき』では,[このそふぢむつかし事であるけれど やま いとゆうわないとゆてをく]( : )と,「病はない」,とある。一方,「つとめ」の地歌 『みかぐらうた』では,[このたびあらわれた やまいのもとはこころから](Ⅹ: )と, 「病の元は心から」,と「病はある」,とある。人間をたすけたい目的から,それぞれ立場を変 えて,『おふでさき』と『みかぐらうた』で異なった表現を使い分けている。このように,お やさまが人間をたすけるために「月日(神)のやしろ」と「ひながたの親」の つの立場をも って教えを説いていることは,本稿の論考にとっても,見逃すことのできない重要な点である。 それでは,おやさまは,なぜ,『おふでさき』では[むねのそふぢ(ち)]という表現を使っ

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て,『おさしづ』では[心の掃除]という表現を使っているのであろうか。それは,『おふでさ き』では,[むね]と[心]の意味を明確に区別するためであろう。一方,既述のように,[胸 の掃除]という表現は人間にはあまり馴染みがない。そこで,おやさまは,『おさしづ』では, 「ひながたの親」の立場から,その意味を人間に理解しやすいように,[心の掃除]という表 現を使っている。 [心の掃除]とは,胸に積もった「埃」を払い,綺麗にすることである。「水」にたとえる ならば,「濁った泥水」(人間の心)を「澄み切った清水」(神の心)にする,といえる。換言 すれば,人間の心遣いを「我が身勝手な人間思案」から「人をたすける神思案」に変えること である。立場の違いが理解の違いを示す重要な点である。それが『おふでさき』では[むねの そふぢ(ち)],[心…いれかへ]という言葉で表現されている。 ここで,[心…いれかへ]の表現が『おふでさき』には 首あるが,『おさしづ』では「入れ 替え」という表現で 件ある( )。そのうち, 件を引用する。 [入れ替え] .一夜の間にも入れ替え,入れ替えしたら受け取る,と話の理も諭したる。これ知らずして, 通りてはどうもならん。口でどのような事唱えたとて,心に行い無くして神が受け取り出けん。 これ聞き分け。(明治 年 月 日) .さあ!"尋ねるからしっかり聞き分け。今一時でない。前一つの処よく思やんせよ。身上ど うなるこうなる。皆前々のいんねんである。これだけ信心すれども,未だ良うならん,と思う心 は違う。早く心を取り直せ。一夜の間にも心入れ替え。誠真実という心定めて,三日の日を切り て試せ。しっかり定めば,しっかり見える。早く聞いて踏み留め,とのさしづ。(明治 年 月 頃(陰暦 月)(陽暦 月 日乃至 月 日)) .人を救けるというは,真の心の誠の理が救ける。常に誠の理をあれば自由自在。常に誠の理 を聞き分けてこれより心入れ替えて,生涯一つの心と定め一つのこうのう渡そ。あしきはらいた すけたまへ天理王命,と,これ三遍唱え,又三遍々々々三々々の理を授けよ。しいかり受け取れ, さあ受け取れ。(明治 年 月 日) 引用した『おさしづ』で示されていることは,[心の掃除]とともに,「心の入れ替え」も人 間の努力が必要でそれを神が受け取る,とされる。

Ⅲ [むね]と[心]に共通して使われている修飾語からみえる両語の意味の違い

[むね]と[心]の両語に共通の修飾語と付随して使われているのは,次の 種類の表現が ある。Ⓐ[むねしだ(た)い],[心しだい]Ⓑ[むねのざ(さ)んねん],[心ざんねん]Ⓒ [むねのしやん],[心しやん]Ⓓ[むねのはかりたもの],[心わかりない],である。これら をいかに解釈するかは[むね]と[心]の両語の意味が区別して使われているかどうかを知る ためには重要な問題になるので,一つひとつ考察する。 Ⓐ[むねしだ(た)い],[心しだい] [むねしだ(た)い] [むねしだ(た)い]は,『おふでさき』では,次の 首しかない。 .一れつハみなめへ!"のむねしたい 月日みハけているとをもゑよ : .一れつわみなめへ!"のむねしだい どんな事をがかなハんてなし : 『みかぐらうた』には,[こゝろしだい]の表現はなく,次の[むねしだい]の 歌だけが ある。

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.むりにどうせといはんでな そこはめい!"のむねしだい Ⅶ: .このききらうかあのいしと おもへどかみのむねしだい Ⅷ: 『おふでさき』にある 首[めへ!"のむねしだ(た)い]の[むね]と『みかぐらうた』 の 下目 にある[めい!"のむねしだい]の[むね]の解釈については,注意を要する。そ れは,[むねしだ(た)い]の前に人間を示す[めへ!"]という言葉があるからである。し かし,「すべての人間のそれぞれの心の器である[むね](神の心)次第によって」,という解 釈ができる。それは,特に,引用 首の後半部[月日みハけているとをもゑよ]( : ), [どんな事をがかなハんてなし]( : )の内容を考えると,[むね]の主体は「神の心」 と解釈されるからである。 次に,『おふでさき』で使われている,[心しだ(た)い]について,考察する。用例数とし ては,[むねしだ(た)い]の 首に対して,[心しだ(た)い]の表現は 首と多い。 [心しだ(た)い] .しんぢつの心しだいのこのたすけ やますしなずによハりなきよふ : .そのゝちハやまずしなすによハらすに 心したいにいつまでもいよ : .なにゝても神のゆう事しかときけ みなめゑめの心しだいや : .しんぢつの心しだいにいづかたも いかなしゆごふもせんとゆハんで : .これきいてみな一れつわしやんせよ なにかよろつハ心しだいや : .しやんせよハかいとしよりよハきでも 心しだいにいかなぢうよふ : .これからハいかなむつかしやまいでも 心したいになをらんでなし : .これをみていかなものでもとくしんせ 心したいにいかなぢうよふ : .どのよふな事をするのもしんぢつの 心したいにみなしてみせる : .この事をこれをまことにをもうなら まことしんぢつ心したいや : .しんちつの心したいにとのよふな つとめするのもみなたすけやで : .月日にハこれをハたしてをいたなら あとハをやより心したいに : .これからわどのよなしことするやらな 心したいにとんな事でも : .このはなし月日のし事これをみよ 心しだいになにをするやら : .なにもかもよろづたすけをせくからに 心したいにどんな事ても : .月日にハなにかなハんとゆハんてな みなめへ!"の心したいや : .どのよふな事がありてもしんちつの 心したいにこわい事なし : .こらほどにさねんつもりてあるけれど 心しだいにみなたすけるで : .月日にハどんなところにいるものも 心しだいにみなうけとるで : [心しだ(た)い]の表現については, 首すべてにおいて,[むねしだい]における「神 の心次第」の解釈と対比して,「人間の心次第」を意味している。また,その表現数の多さに は,神が人間の心を救いたい思いが現れている。 『おさしづ』では,[むねしだ(た)い],[心しだい]はどのように使われているだろうか。 [胸次第]については,次の 件だけしか存在しない。 [胸次第] .さあ!"それ!"の処,心定めの人衆定め。事情無ければ心が定まらん。胸次第心次第。心 の得心出来るまでは尋ねるがよい。降りたと言うたら退かんで。(明治 年 月 日(陰暦 月 日) 教祖御話) .さあこれを家内中それ!"へ諭すよう。心で思う通りの守護という事も諭したるは今の事。

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さあ心次第に直ぐと現われる。どうせこうせは言うのやないで。そこは銘々の胸次第。(明治 年 月 日(陰暦 月 日)) 明治 年 月の[胸次第]については,「神の心次第」と解釈できる。それは,[胸次第心次 第]という表現は,前後の文にある内容と併せて考えると,[心次第]が[胸次第]と同列的 に使われているとは考えにくいからである。そのように考えると,『おふでさき』,『みかぐら うた』にある同じ[めい!"のむねしだい]の[むねしだい]の解釈も「神の心次第」と理解 できる。後の『おさしづ』[銘々の胸次第]についても,その前に述べられている[心次第] の使われ方と同様,[胸次第]は「神の心」と理解できる。したがって,[心次第]と[胸次 第]の表現は, 原典すべてにおいて,区別して使われている。 なお,『おさしづ』に は,[胸 次 第]が 箇 所 し か な い の に 対 し て,[心 次 第]に つ い て は, 箇所の多数にわたって使われている( )。[心次第]すべてを調べてみると,[銘々心次 第](明治 年 月 日(陰暦 月 日)),[銘々の心次第](明治 年 月),[めんめん心次 第](明 治 年 月 日)と あ る。そ し て,そ の[心 次 第]そ の も の に つ い て は,[心 次 第 々 々 々](明 治 年 月 日;明 治 年 月 日;明 治 年 月 日;明 治 年 月 日 ; 明治 年 月 日;明治 年 月 日),[心次第心次第](明治 年 月 日),とある。これ らの用例で分かることは,[人々の心,心次第](明治二十四年二月十七日)とあるように, 『おさしづ』で使われている 箇所の[心次第]は,「人間の心」と関連している。この用例 は,おやさまが人間をたすけたい強い親心の現れとして,『おさしづ』で多く使われているの ではないだろうか。そして,それらの[心次第]の表現は,[銘々の胸次第],[胸次第心次 第]における[胸次第]とは,明らかに異なった意味で使われている。 『おさしづ』にある件数は合計 万ほどあるが,そのうち,おやさまが「月日(神)のやし ろ」の立場から語っている「刻限さしづ」の数は, 件に満たない。他は,「ひながたの親」 の立場,すなわち,人間の伺いに対して,「神のやしろ」である,おやさまが「ひながたの 親」として語っている「伺いさしづ」である。その観点からも,『おさしづ』においては,[胸 次第]と比べて,[心次第]の表現が多いのは頷ける。 Ⓑ[むねのざ(さ)んねん],[心(…)ざ(さ)んねん] [むねのざ(さ)んねん] .いまゝでハ三十八ねんいせんから むねのさんねんまこときのどく : .このはなし四十三ねんいせんから むねのざんねんいまはらすてな : [心(…)ざ(さ)んねん] .これからハ月日の心ざんねんを はらするもよふばかりするそや : .こらほどにをもてはじめたこのせかい 月日の心なんとざんねん : .せかいにハたれかしりたるものハなし 月日の心ざんねんをみよ : .月日にわだん!"心ざんねんを どんな事てもみなはらすでな : .この心神のざんねんをもてくれ どふむなんともゆうにゆハれん : .それゆへにたすけづとめがでけんから 月日の心なんとさんねん : .今日の月日の心さんねんわ よいなる事てないとをもゑよ : 『みかぐらうた』には,[ざんねん]の表現としては,[むね]との関連で次の歌にある。 .このたびまではいちれつに むねがわからんざんねんな Ⅺ: [心(…)ざ(さ)んねん]の[心]には,すべてに月日あるいは神が付されており,[心 (…)ざ(さ)んねん]の主体は月日(神)を意味している。一方,[むねのざ(さ)んね

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ん]の[むね]には,月日あるいは神は付されていないが,月日あるいは神の心を意味するの は,明らかである。それは,[むね]は「神の心」であるという前提のもと,[心]は,誤解を 招かないように,「人間の心」と区別するために[月日]あるいは[神]が付されているから である。 本章では,「神の胸」,「人間の心」の関連で様々な角度から「むね」と「心」の比較を試み ているが,この「ざんねん」の用語に関しては,[月日],[神]に関連して,[ざ(さ)ねん], [ざ(さ)んねん]が使われているのは,『おふでさき索引』によれば,全号で 箇所ある( ) 神の人間に対する思いがいかに強く深いものであるかを示している。[月日],[神]が付され ている,[神のさねん(ざんねん,さねん,さんねん)],[月日のざねん(さんねん)]の表現 は,それぞれ, 箇所, 箇所使われている。 Ⓒ[むねのしやん],「心しやん] [むねのしやん] .このしんハどふゆう事であろふなら むねのしやんをこれがたいゝち : [心しやん] .みのうちのなやむ事をばしやんして 神にもたれる心しやんせ : .このたびわどのよな事もにんけんの 心しやんわさらにいらんで : .これをはな一れつ心しやんたのむで : [むねのしやん]の[むね]は,本稿の論考によれば,「月日(神)の心」を意味する。一 方,[心しやん]の[心]は,「人間の心」を意味する。 Ⓓ[むねのハかりた],[心わかりない] [むねのハかりた][むねが(も)…ハからん][むねがわからん][むねわかれば] .よろつよのせかい一れつみはらせど むねのハかりたものハないから : .こともでも一寸の人でハないからに をふくのむねがさらにハからん : .いまゝでハなにをゆうても一れつの むねもハからんひもきたらいて : .この事ハたれでもしらぬ事やから むねがわからん月日さんねん : .それしらずなんとをもふて上たるハ むねがわからん月日さんねん : .たん!"とむねがわかればひもきたる 月日の心ゑらいせきこみ : [心わかりない] .にち!"に神の心わせきこめど こともの心わかりないので : .このみちをはやくしこもとをもゑども 一れつ心わかりないので : .もふけふハいかほど月日ゆうたとて 一れつ心わかりないので : 『みかぐらうた』には,次の 歌で[むね]と「わかる」が使われている。 .よろづよのせかい一れつみはらせど むねのわかりたものはない よろづよ八首: .こゝでつとめをしてゐれど むねのわかりたものハない Ⅸ: .このたびまではいちれつに むねがわからんざんねんな Ⅺ: [こゝろ]については,次の 歌のみである。 .むらかたはやくにたすけたい なれどこゝろがわからいで Ⅳ: 『おふでさき』,『みかぐらうた』とも,使われている[むね]は,すべて「月日(神)の 心」と解釈できる。ただ,『おふでさき』 号 の[むね]の解釈については,注意を要する。 しかし,他に使われている[むね]の意味と読めば,多くの子供(人間)は「神の心」を理解 できない,とこの歌の[むね]も「神の心」と解釈できる。一方,[心]([こゝろ])の心は,

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「人間の心」を意味する。 以上,Ⓐ[むねしだ(た)い],[心しだい]Ⓑ[むねのざ(さ)んねん],[心ざんねん]Ⓒ [むねのしやん],[心しやん]Ⓓ[むねのはかりたもの],[心わかりない]について,[む ね]と[心]の意味を『おふでさき』と『みかぐらうた』にあるすべての歌について考察した が,[むね]は,「月日(神)の心」を意味し,[心]は,月日あるいは神の修飾語が付されて, 「月日(神)の心」と「人間の心」が区別して,示されている。その他の[心]は,文脈から, 「月日(神)の心」か「人間の心」が明らかに理解できるものである。したがって,[むね] と[心]の両語に共通の修飾語が使われているが,[むね]は「神」,[心]は神と人間の区別 がなされている。

Ⅳ [むねのうち]と[むねのうちより]

[むねのうち]の[むね]は「神の心」を意味し,[うち]は「人間の心」を意味する。辞 書にも「うち(内)」は「心」と定義されている( )。そこで,[むね]は[心]を入れる器で あり,その器の内(中)に,「胸の内に在るもの」という意味で,「人間の心」が在る。その [むね]の意味を含んで,『おふでさき』で使われている[むねのうち]という表現は,「人間 の心」と解釈する。 ところが,[むねのうち]に[より]が付いて,[むねのうちより]という表現になると, [むねのうち]の意味は全く異なる。[むねのうちより]における[むねのうち]の解釈は, 「人間の心」ではなく,「神の心の奥底,真底」となり,そこには,人間の心は一切介在しな い。したがって,[むねのうちより]は,「神の心(立場)から」,「月日の心(立場)から」, という意味になる。本章では,その根拠を『おふでさき』,『みかぐらうた』から考察する。 また,『おさしづ』からも[胸の内]と[胸の内より]のある表現を含む文章を引用して, その意味内容を考察する。さらに,『おさしづ』には,『おふでさき』には使われていない興味 ある表現として,[心の内]という表現が存在する。ところが,その『おさしづ』に[心の内 より]という表現は存在しない。ここにも[むね]が「神の心」を意味する根拠となるヒント が隠されている。 まず,[むねのうち]の表現は,『おふでさき』に合計 首に存在し,ここにすべて引用する。 Ⓐ[むねのうち] .このこどもしんぢつよりもむねのうち みさだめつけばいかなもよふも : .これからハせかいぢううのむねのうち 上下ともにわけてみせるで : .このたびハなんでもかでもむねのうち そふちをするでみなしよちせよ : .むねのうちそふぢをするとゆうのもな 神のをもハくふかくあるから : .これからハどふぞしんぢつむねのうち はやくすまするもよふしてくれ : .にち!"にすむしわかりしむねのうち せゑぢんしたいみへてくるぞや : .せかいぢう一れつなるのむねのうち 月日のほふゑみなうつるなり : .一れつハみなめへ!"のむねのうち ほこりいゝばいつもりあるから : .にち!"に月日の心をもうにわ をゝくの人のむねのうちをば : .せかいぢうしんぢつよりもむねのうち わかりたならば月日たのしみ : .それからハ一れつなるのむねのうち わかりたならば月日それより : .せかいぢうをふくの人のむねのうち みなすましたる事であるなら : .せかいぢうをふくの子共むねのうち わかるもよふがこれハないかよ :

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.このたびハ此むねのうちすきやかに はらすもよふやこれがだい一 : .いちれつのむねのうちさいすきやかに そふちしたてた事であるなら : .どのよふな事てもめへ!"むねのうち すましたならばあふなきわない : .月日にわどんなところにいるものも むねのうちをばしかとみている : .むねのうち月日心にかのふたら いつまでなりとしかとふんばる : .さあけふハどんなものてもしんちつの むねのうちをばたしかあらハす : .これをばなみへかけたならとこまても むねのうちをばひとりすみきる : .このさきハとこの人ともゆハんてな むねのうちをばみなみているで : .いまゝでハどんなものでもむねのうち しりたるものわさらにあるまい : .このたびハとんなところにいるものも むねのうちをばみなゆてきかす : 『おふでさき講義』によれば, 号 の歌にある[むねのうち]については,「親神の思い」, と解釈している( )。その歌以外の[むねのうち]は,すべて「気持ち」,[心]あるいは「心 の中」という表現で説明されており,それらはすべて「人間の心」と置き換えられる。ところ が,『おふでさき付註釋』によれば, 号 にある[むねのうち]は,「人間の心」と解釈して いる( ) 次に,[むねのうち]に連結する 種類の動詞をみてみる。 〈 〉[み さ だ め つ け ば]( : )〈 〉[わ け て み せ る]( : )〈 〉[そ ふ ち を す る] ( : , ),[そふちしたてた]( : )〈 〉[すまする]( : ),[すましたる]( : );[すました]( : ),[すみきる]( : )〈 〉[みへてくる]( : );[みている] ( : ; : )〈 〉[わ か り た]( : , );[わ か る]( : )〈 〉[は ら す] ( : )〈 〉[か の ふ]( : )〈 〉[あ ら ハ す]( : )〈 〉[し り た る]( : ) 〈 〉[ゆてきかす]( : ) [むねのうち]を[心]と解釈するもう つの根拠として,[むねのうち]と連結して使わ れている動詞が本稿第Ⅰ章で考察した[心]に連結した動詞と関連していることである( ) [むねのうち]に連結して使われている動詞 種類のうち,[みさだめつけば],[わけてみせ る],[すまする],[わかりた],[かのふ],[ゆてきかす]の 種類の表現が[心]と連結して 使われている動詞に含まれている。また,[むねのうち]で使われている 種類の動詞はすべ て[心]と同様に動きのある内容ばかりである。その意味から,[むねのうち]と[心]と表 現は異なるが,その内容は同じような意味をもつ。 [むね]だけに連結する動詞は,次の通りである。 〈 〉[ハかりた]( : ),[ハからん]( : ; : ),[わ か ら ん]( : ; : ), [わ か れ ば]( : )〈 〉[ふ さ め よ]( : )〈 〉[あ し く]( : )〈 〉[し や ん] ( : )〈 〉[は れ る]( : )〈 〉[つ も り]( : ; : )〈 〉[つ か ゑ き る] ( : )〈 〉[むつかし]( : )〈 〉[あらハす]( : )〈 〉[しりたる]( : ) [むねのうち]と[むね]に共通して使われている動詞は,[わかる]の 種類だけである。 [むねのうち]が目的格として使われているのは,次の 種類, 首ある。 〈 〉[み だ さ め つ け ば]( : )〈 〉[わ け て み せ る]( : )〈 〉[そ ふ ち を す る] ( : ; : ; : )〈 〉[すまする]( : );[すましたる]( : );[すまし た]( : )〈 〉[を も う]( : )〈 〉[わ か り た]( : ; : )〈 〉[は ら す] ( : )〈 〉[みている]( : ; : )〈 〉[あらハす]( : )〈 〉[し り た る] ( : )〈 〉[ゆてきかす]( : )

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次に,[むねのうち]が主格として使われているのは,次の 種類, 首がある。 〈 〉[みへてくる]( : )〈 〉[うつる]( : )〈 〉[つもりある]( : )〈 〉[か のふ]( : )〈 〉[すみきる]( : ) また,小野清一は,『みかぐらうた入門』で『みかぐらうた』全体をとおして以下に 歌あ る[むねのうち]の意味をすべて[人間の心]と解釈している( )。そこで, 箇所にある歌 をとおして,[むね]に[うち]が付された[むねのうち]は,既述のごとく, 号 にある [むねのうち]について,『おふでさき付註釋』は「人間の心」,『おふでさき講義』は「神の 思い」,と異なる解釈をしている。しかし,後者もその歌以外は,すべて[人間の心]と解釈 している。その[むね]に積もる心の埃を「掃除する」のであり,その[心]を「入れ替え る」のである。 『みかぐらうた』にある[むねのうち]は,「人間の心」の性質を次のように表している。 .このたびむねのうち すみきりましたがありがたい Ⅳ: .みなせかいのむねのうち かゞみのごとくにうつるなり Ⅵ: .このたびいちれつに すみきりましたがむねのうち Ⅷ: [むねのうち]が「すむ」,「うつる」という「むねのうち」の性質を示している用例が『お ふでさき』と『みかぐらうた』に共通に使われている歌がある。『おふでさき』には[むねの うち…すまする]( : ),[むねのうち…すましたる]( : ),[むねのうち…すました] ( : ),[むねのうち…すみきる]( : ),「むねのうち…すむ」,とあり,『みかぐらう た』には[むねのうち すみきりました](Ⅳ: ),[すみきりましたがむねのうち](Ⅷ: ),とある。「器」([むね])の中に在る「人間の心」([うち])が澄む,と解釈できる。また, 「うつる」については,『おふでさき』に[むねのうち…うつる]( : )とあり,『みかぐ らうた』に[むねのうち…うつる](Ⅵ: )とある。[心]が[むね]に映る,と解釈できる。 次に,[むねのうち]と[むねのうちより]の表現にそれぞれに[そふち(ぢ)]をするとい う動詞が連結している表現を考察する。興味深い対比である。 [むねのうち] .このたびハなんでもかでもむねのうち そふちをするでみなしよちせよ : .むねのうちそふぢをするとゆうのもな 神のをもハくふかくあるから : .いちれつのむねのうちさいすきやかに そふちしたてた事であるなら : [むねのうちより] .せかいぢうむねのうちよりこのそふぢ 神がほふけやしかとみでいよ : .これをみよせかいもうちもへたてない むねのうちよりそふぢするぞや : .なにもかもこのせきこみがあるゆへに むねのうちよりそふぢいそぐで : .たん!"とつとめをしへるこのもよふ むねのうちよりみなそふぢする : 最初の 首にある[むねのうち]の解釈については,[むね(神の心)]の中にある「人間の 心」であり,その心遣いによって,[むね]に付いた埃を神が掃除をする,という意味であろ う。 [むねのうち]に対して,[むねのうちより]は,神の心(立場)から人間の心(心遣い) を掃除する,という解釈ができる。 [むねのうち]の[むね]については,「神の心」と論述してきた。また,[むねのうち]の [うち]は,「心」を意味する,と述べた。したがって,人間の心は,[むね]という「心を入 れる器」の中に在る,といえる。それを[むねのうち]と表現し,[むねのそふぢ(ち)]は,

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「[むね]の中にある人間の心」を掃除する,と解釈ができる。そのように考えると, 号 , , 号 にある[むねのうちそふぢをする]という表現も違和感なく理解できる。加え て,第Ⅱ章では,『おさしづ』から,[心の掃除]という表現を引用した。この[心の掃除]は, [むねのうち]が「人間の心」を意味するとすれば,[むねのうちそふぢをする]という表現 も内容的には矛盾しないことを示している。 次に,[むねのうちより]について考察する。[むねのうちより]は,『おふでさき』には全 部で 首ある。それらをすべて引用する。 Ⓑ[むねのうちより] .このみちをしんぢつをもう事ならば むねのうちよりよろづしやんせ : .いまゝでハなによの事もせかいなみ これからわかるむねのうちより : .このところよろつの事をときゝかす 神いちじよでむねのうちより : .わかるよふむねのうちよりしやんせよ 人たすけたらわがみたすかる : .せかいぢうむねのうちよりしんばしら 神のせきこみはやくみせたい : .せかいぢうむねのうちよりこのそふぢ 神がほふけやしかとみでいよ : .これをみよせかいもうちもへたてない むねのうちよりそふぢするぞや : .一れつのむねのうちよりしんぢつに はやくわかりた事であるなら : .なにもかもこのせきこみがあるゆへに むねのうちよりそふぢいそぐで : .めへ!"にむねのうちよりしいかりと しんちつをだせすぐにみへるで : .たん!"とつとめをしへるこのもよふ むねのうちよりみなそふぢする : .このたびハむねのうちよりすきやかに はらさん事にあとのもよふを : .どのよふな事もしんぢつするからハ むねのうちよりひとりすみきる : 次に,『みかぐらうた』においては,[むねのうちより]は 歌が次のように使われている。 .なにかよろづのたすけあい むねのうちよりしあんせよ Ⅳ: .むしやうやたらにせきこむな むねのうちよりしあんせよ Ⅷ: ここに挙げた[むねのうちより]の歌の主体が神であることに注目すべきである。『おふで さき』においても,『みかぐらうた』においても,[むねのうちより]は,[神の心から],[神 の立場から],と解釈できる。特に,『みかぐらうた』の つの歌の後半部[むねのうちよりし あんせよ]は,全く同じ文言であるが,これを「神の立場から思案せよ」,と解釈すれば,そ れぞれの前半部の歌の内容に深い,質の異なる意味を見出すことができるのではないだろうか。 人間の立場からとは,次元の異なる理解が可能になる。 [むねのうちより]と連結している動詞は,『みかぐらうた』の 箇所も含めて,特に,[し あんせよ]が注意を引く。また,[そふぢ]と連結して使われているのが 歌あるのも特徴的 である。 『おさしづ』には,[胸の内]の表現が 件ある。ところが,それに対比して,興味深い事 実として,『おふでさき』には存在しない[心の内]という表現が 件ある。引用文を挙げ, それぞれの意味を[胸の内]と比較する。さらに,なぜ つの異なった表現が使われているの かを考察する。 まず,[胸の内]について考察する。[胸の内]は, 件あるが( ),そのうち, 件を引用 する。 [胸の内] .いかなる道も見えて来る。うっかりはしては居られん,そこで身に障り。あちらの事情が走

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り身上が迫る。身上迫るやない,世界の道が迫る。どんな道が見えても案じる事は無い。恐れる も心,案じるも心,勇むも心,皆々の心を寄せてよく聞いて置かねばならん。包み!"て胸の内, 遠くいかなるも心一つの道,心一つの理をめん!"一時という。(明治 年 月 日 午後 時 刻限御話) .さあ!"もう筆一点を打って印し掛け。もう一年後隠れた者ある。三つの道理という中に一 つ隠れた一つ理は,席に心になりて席の胸の内思案してみよ。年取れたる理察してくれにゃなら ん。(明治 年 月 日) .どうなろうとも成る道である!"。胸の内に包む事要らん。精神心の結んだ理だけ。(中 略)情に流れなよ,と言うた日ある。情に流れて了てからどうもならん。今日までいろ!"の理 を拵え,それではならん。皆心一つなら,何も言う事は無い。なれど,心という,二つ三つ散乱 の心あってはどうもならん。頼り無い。長らえて胸の内,たゞ一つの心で,今日の道。(明治 年 月 日) .内々それ!"中に,何不自由無きなれど,身上心得んというは,日日忘れられん。これ聞き 分けて,道の上にはどんなとこもある。又世界どんなとこもある。これ眺めて,よう胸の内に治 め,思やんせえ。どんな理,成る成らんの理をこれ聞き分け。人間は神の守護ある理であろ。よ う聞き分け。(明治 年 月 日) 『おさしづ』にある[胸の内]は,『おふでさき』と同様に,「心」と解釈できる。その視点 から,明治 年 月 日の「おさしづ」にある[胸の内に治め,思やんせえ]は,次の『おさ しづ』[心の内]の引用文[心の内に治め],とあるような,「心に治め,思案せえ」,という意 味に解釈できる。 次に,『おさしづ』に[心の内]は 件, 箇所あるが( ),そのうち, 件を引用する。 [心の内] .心だけの事をして居れば,心の内陽気なものや。一日の日は生涯の理と取って,心に運ぶだ けは生涯の受け取り,心だけの事情が十分という。(明治 年 月 日 朝) .心胆一つの理は応法という。どうでも!"というは世上,心の内は,神一条の道は今と言う。 今と言えばよう聞いて置け。身の処に一寸印,印あれば尋ねる。尋ぬれば諭そ。諭さば皆んなよ う思案せよ。(明治 年 月 日 朝) .救からにゃならんが一つの理,救けにゃならんが一つの理。これを心に一つ考え,心の内に 治め。救けにゃならん救からにゃならん理である。よう聞き分け。不自由さそ,難儀さそうとい う親はあろまい。この理聞き分け。(中略)いんねん一つの理も聞いて居るやろ。成ろうと言う て成らるものやない。成ろまいと言うて成りて来る。人間一代と思うたら違う。生まれ更わりあ る。この理諭すによって,心に治めてくれるよう。(明治 年 月 日) 『おふでさき』では[むねのうちより]という表記で書かれているが,『おさしづ』におい ては漢字交じりの[胸の内より]という表記で 件存在する。この言葉は,『おふでさき』と 同様,「神の心(立場)から」,という意味と解釈できる。 [胸の内より] .さあ!"身の処願い出る。なか!"の処,誠一つ受け取りて居る。いつになりたら一つ分か るやら。速やか思わくの処は一つ見よ。さあ!"よう胸の内より思案して見よ。思いも違う。残 らず我が心,一つの処,一つ案じ出てはどうならん。世界のためと思うて誠一つ定めて見よ。ど のくらいの人と言うても,かりもの分かるまい。一つたんのう定めてくれ。(明治 年 月) .さあ!"尋ねる事情尋ね,だん!"かりもの事情銘々身上一つの処分かり難ない。身上にて

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