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66 ロシア ファシスト党とハルビンの反ユダヤ主義 The Russian Fascist Party and Anti-Semitism in Harbin 中嶋毅 Takeshi NAKASHIMA はじめに 1931 年にハルビンの亡命ロシア人によって創

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はじめに  1931年にハルビンの亡命ロシア人によって 創設されたロシア・ファシスト党(Русская Фашистская Партия)は、亡命ロシア人ファシ スト組織のなかで最も重要なものとなり、同党 の書記長であったК. В. ロザエフスキーが党内 の指導権を確立した。ロシアにおける反ユダヤ 主義の動きは、ロシア人の移動に伴ってハルビ ンにも流入したが、ハルビンの反ユダヤ主義は 1920年代には新たな環境の中でロシア・ファシ ズムの一要素となり、極東におけるユダヤ人問 題の一部を構成することになった。  本稿は、満洲国におけるロシア・ファシズム の思想と運動およびファシスト組織と日本軍当 局との関係を考察することを通じて、ロシア人 ファシストの活動が満洲国における日本のユダ ヤ人対策と密接な関連を有していたことを明ら かにすることを課題とする。本稿が対象とする ハルビンは、中東鉄道(日本では東清鉄道・東 支鉄道として知られる)の拠点として1898年に 建設が始められた。そこには帝政ロシアの諸制 度が移植され、中東鉄道の庇護のもとで「中国 の中のロシア」が形成された。1917年のロシア 十月革命とそれに引き続いて起こった内戦は、 ハルビンをロシア人亡命者(いわゆる白系ロシ ア人)の一大中心地に変えた。その後1924年の 中ソ協定および奉ソ協定の結果、中東鉄道は中 ソ合弁企業となり、鉄道管理のため多数のソ連 国籍者がハルビンに居住するようになった。中 東鉄道が満洲国に売却される1935年までのおよ そ10年間は、ハルビンのロシア人人口の約半数 をソ連国籍者が占めていた。ハルビンにおける ロシア人ファシストの活動は、こうした特殊な 状況に影響を受けていたのである。  長いあいだ歴史家は、このユニークなロシア 人ファシストの動きに関心を寄せてきた。欧米 では、オーバーレンダーの先駆的研究がロシア・ ファシズムの歴史を概観した。また、ファシス ト党に参加したロシア人亡命者や同時代人のイ ンタビューを利用したステファンの浩瀚な著作 は、アメリカ合衆国と満洲のロシア人ファシス トの動向を生き生きと描き出した1。一方、今 日では、ソ連解体後に機密解除された新たな史 料を用いた研究を利用できるようになった。ロ シアの歴史家オネーギナは、国家保安省文書 館(現在は連邦保安庁文書館)でロザエフスキ ーの尋問調書を発見して翻刻した2。またオコ ロコフは、世界中のロシア人ファシストの活動 を扱った広範な著作を刊行し、満洲のファシス ト党にも焦点を当てている3。オコロコフの著 作は、未公刊史料の利用や同時代文献の翻刻な ど当該テーマに新たな光をあてたものだが、残 念ながらいくつかの重要な問題では典拠が明記 されていない。なお日本では、戦間期の反ユダ ヤ主義についての研究はあるものの4、ロシア・ ファシスト党についての歴史研究はほとんど皆 無といってよい。しかし同時代の日本では、満

The Russian Fascist Party and Anti-Semitism in Harbin 1931⊖1937

中 嶋   毅

Takeshi NAKASHIMA

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洲における権益確保の観点から、ロシア・ファ シストの動向がある程度調査されており、それ らは時に貴重な情報を与えてくれる。  これまで満洲におけるロシア・ファシズム運 動は、ファシズム運動そのものおよび世界各地 のロシア・ファシズム諸組織の関連を中心に検 討されてきたが、ハルビンにおける反ユダヤ主 義の観点からみると、ファシスト組織と日本当 局とりわけ軍当局との関係を検討することが重 要であると考えられる。そこで本稿は、はじめ にハルビンにおけるロシア・ファシスト組織の 形成過程とそこでの反ユダヤ主義の位置づけを 考察し、ロシア・ファシズム運動が多様な要素 から構成されていたことを確認する。そして、 ファシスト党と日本軍当局との協力関係を考察 することを通じて、ハルビンにおける日本当局 のユダヤ人に対する対応の変化を検討すること を課題とする。なお煩雑さを避けるため、「満 洲国」および「満洲」は括弧を省略した歴史用 語として使用する。 1 ロシア・ファシスト組織の形成 ―ファシスト党前史  ロシア人ファシスト・グループの登場につい ての情報はあまり明確ではないが、ロザエフス キー尋問調書によれば、ハルビン法科大学の学 生A. H. ポクロフスキーを中心に同大学生たち によって1922年に最初のファシスト・サークル が組織されたという5。一方、日本側情報によ れば、1922年にザグレブ(クロアチア)でペル ヴーヒンなる人物によってロシア・ファシスト 団が形成されており、1923年にハルビンに極東 支部が開設されたという(支部長ポクロフスキ ー)6。しかしいずれの情報でも、その具体的な 活動状況は不明のままである。  ファシスト・グループの活動がにわかに具 体 性 を 帯 び て く る の は1925年 に 入 っ て か ら で、この年にハルビン法科大学の学生ポクロフ スキー、ルミャンツェフらが、ロシア学生協 会の下に「ロシア・ファシスト組織(Русская Фашистская Организация)」を結成した。この 組織は1926年以降ハルビンの若者の間でファシ スト宣伝活動を活発化した7。1927年になると ファシスト組織の指導者ポクロフスキーは、ロ ザエフスキーとともに「極東ロシア労働者ファ シスト国民組合連合」を設立してさらに広範な 活動を展開し始めた8  この時期にロシア人学生の間でファシズム運 動が活発化した背景には、ハルビンにおけるソ 連勢力の拡張があった。1924年に中東鉄道が中 ソ合弁企業となり、多数のソ連国籍者がハルビ ンに移住したのである。それにともなって、元 来は亡命系教員によって創設され運営されてき たロシア人高等教育機関(ハルビン法科大学お よびハルビン工業大学)にソ連系学生が大量に 入学した。これらの大学では、ソ連系学生と亡 命系学生との間の対立が発生し、学生組織もソ 連系と亡命系の二つの組織に分裂して対峙し た9。こうした事情に対して亡命系学生は危機 感を抱き、反ソ活動としてのファシズム運動を 強化したと考えられる。これに加えて、1925年 にハルビンに移住して法科大学に入学したロザ エフスキーがファシスト組織に参加して積極的 な活動を展開したことも、運動の活性化に影響 を与えていた10  ロシア・ファシスト組織の行動指針は、1928 年には「ロシア・ファシスト運動の一般規定」 として明文化された。これは、イタリア・ファ シズムの理念であるコーポラティズムを来る べきロシアの社会経済システムの原理として、 「神・国民(Нация)・労働」を組織のスローガ ンに掲げていた。このスローガンの下にロシア・ ファシストは、共産党員とユダヤ人ネップマン のくびきからロシア人を解放する「国民革命」 を遂行することを目指していた11。その際にロ シア人をまとめる中核とされたのが正教信仰で あり、その結果ロシア・ファシズムは強い宗教 性を帯びることになった。  1929年から31年にかけて、中国東北は著しい 混乱状況をむかえた。1929年の中ソ紛争におけ るソ連軍の勝利は、ソ連勢力の撤退を期待する

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亡命反ソ勢力の願望を打ち砕いた。さらに1929 年に始まった大不況の波及は、亡命ロシア人の 経済状況を急速に悪化させ、多数の失業者を生 み出した12。こうした中で「ロシア・ファシス ト組織」は、活動資金不足に悩まされながらも 積極的な反ソ活動を展開し、とりわけ不況の中 で失業に苦しむ若者に対する宣伝活動を繰り広 げた13  一方でロシア・ファシスト組織ではこの時期、 戦術をめぐって指導者間に深刻な紛争が起こっ ていた。史料上の制約からその詳細は必ずしも 明確ではないものの、1931年に「ロシア・ファ シスト組織」は分裂し、ロザエフスキーら脱退 組が新たにロシア・ファシスト党を結成した14 同党の総裁には右翼ナショナリストのВ. Д. コ スミン少将が選出されたが、その実質的な指導 者は書記長となったロザエフスキーであった。 こうしてハルビンのロシア・ファシズム運動は、 新たな段階を迎えることになったのである。  「ロシア・ファシスト組織」は当初は必ずし も明確な活動方針を提示していなかったが、フ ァシスト党が組織されてから同党は1931年に 「党綱領」を発表した。これは基本的には1928 年の「一般規定」に沿った内容で、それを精緻 化したものであった。「一般規定」と比較すれ ば、国家制度や民族政策などの点で多少は具体 的方策を提示してはいたものの、祖国を離れた 地での主張は全体として理念的なアピールにと どまっていた15  1931年のロシア・ファシスト党規約にあらわ れたロシア・ファシズムの理念は、イタリアお よびドイツのファシズムの影響と革命前ロシア の右翼的ナショナリスト運動の伝統の双方から 構成されていたととらえることができる。ドイ ツの歴史家レーヴェは、ロシア・ファシズムに みられるロシア的伝統を強調し、イタリアのフ ァシズムとロシアのファシズムとの相違を重視 した16。たしかにロシア・ファシズムは、革命 前のロシアの右翼ナショナリズム運動の伝統を 受け継いでいた。しかしいうまでもなく、イタ リアやドイツを初めとする各国のファシズム運 動もそれぞれの歴史の中から生じているのであ り、歴史的展望の中でそれぞれのファシズムと その前身となったさまざまな運動とを比較して その意義を考察することも重要である。  伝統的なロシア・ナショナリズムとロシア・ ファシズムを比較してみると、コーポラティズ ム国家観・「国民革命」・イタリア型運動形態を 新たな要素として指摘することができる。第一 に、ロシア・ファシスト党綱領は、その国家の 基盤をロシア人勤労者の職能組合においており、 各組合の代表が全ロシアの「ゼムスキー・ソボ ール」(一種の議会)を構成して階級対立のな い社会を作り出すことを想定していた17。第二 に彼らファシストは、この新しい国家を作り出 すために、ロシアの勤労人民が共産主義体制を 打倒する「国民革命」を追求した。旧体制への 復古を目指す旧来の白衛派とは異なり、ロシ ア・ファシストは伝統的支配体制とは異なる新 たな国家体制を目指す「擬似革命」的(本質的 には権威主義的な)改革を追求したのである18 さらにロシア・ファシズム運動は、イタリアや ドイツの運動と類似した「若者の活動」であっ たという特徴を指摘できる。その中心はハルビ ンの大学生グループであり、彼らの中には戦争 (この場合はロシア国内戦)の退役軍人が多数 含まれていた。彼らは古い白衛派の指導者たち の方針に強い不満を抱いており、目指すべき政 治のスタイルとしてイタリアのファシズムを選 んだのである19。イタリア・ファシズム運動で 用いられた擬似革命的レトリックや組織メンバ ーの制服、新しいシンボルや歌、街頭での行進 やパレード、大衆集会、暴力的行動主義などの 運動形態は、ロシア人ファシストにも取り入れ られて、若い亡命ロシア人をファシズム運動に 引き入れる上で利用された。  ファシズム運動の特徴のひとつである反ユダ ヤ主義についてみると、その表れ方は国によっ て大きな相違があることはよく知られている。 ハルビンのロシア・ファシズムにおける反ユダ ヤ主義についていえば、たしかにそれは反共産 主義とともにファシズム運動の構成要素の一つ

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であった。早くも1927年には、『ロシア人のた めのロシア』と題されたファシストのパンフレ ットが、ユダヤ人によるロシア支配と中国での 共産主義宣伝を非難していた20。また、1927年 の十月革命10周年の際には、ハルビンでもソ連 系ロシア人と亡命系ロシア人との間で対立が発 生し、ファシスト青年たちがユダヤ人を非難す るビラを撒いたり反ユダヤ主義的狼藉をはたら いたりしていた。そしれこれ以降、ハルビンの みならず中東鉄道沿線のロシア人居住地区で反 ユダヤ主義的暴行事件が頻発するようになっ た21  一方、レーヴェも指摘するように、ロシア・ ファシストの反ユダヤ主義はロシア正教の理念 に基づく宗教的で伝統的なものであり、ナチ 党のような人種主義に基づいたものではなかっ た22。1920年代にあっては、ロシア・ファシス トの出版物における反ユダヤ主義的言辞はむし ろ多くはなく、1931年のファシスト党綱領にお いても反ユダヤ主義的言辞はほとんど見られな かった。この点でも1920年代のロシア・ファシ ズムは、イタリアのファシズムを自らのモデル の中核においていたように思われる。 2 ロシア・ファシスト党の活動と日本当局の 在満ユダヤ人対策 1931—1935  1931年9月の満洲事変、翌32年2月の日本軍ハ ルビン占領と3月の満洲国の成立は、満洲のロ シア語話者コミュニティに劇的な変化をもたら すことになった。この変化の中でロシア・ファ シスト党は、急速にその勢力を伸ばしていった。 日本の警察当局の調査によれば、ロシア・ファ シスト党が創設された1931年におよそ200名で あった党員数は、1932年初頭には800名にまで 増加し、さらに同年末までに同党は約2,500名 の党員を擁するまでに拡大した23。この急激な 勢力伸長の理由の一つは、大不況によって引き 起こされた亡命ロシア人青年の失業増加と生活 困窮であったが、それとともに大きく貢献した のはロシア・ファシスト党とハルビンの日本軍 当局との協力関係の構築であった。  ファシスト党自身による説明は、ロシア人フ ァシストが1931年の満洲事変以前から日本の国 粋主義者との協力関係を追求していたことを明 らかにしている。彼らファシストの見解では、 満洲への日本の進出は日本とソ連との衝突を不 可避にするものであり、ファシストが欧米のユ ダヤ・フリーメーソン連合に対抗するためには 日本との強力な連携を構築する必要があったの である24。こうしてファシスト党は、日本当局 との協力を模索することになった。  ロシア人ファシストと日本軍当局との直接の 関係は、遅くとも1931年後半には形成されてい た。日本人ジャーナリストの大澤準が1931年9 月にロシア語日刊紙『ハルビンスコエ・ヴレー ミャ(ハルビン時報)』を創刊した際、ロザエフ スキーは当時勤務していた亡命系ロシア語新聞 『ザリャー(暁)』から通信員としてハルビンス コエ・ヴレーミャ社に移籍した。大澤はハルビ ン特務機関のエージェントで、ロシア人亡命者 からなる秘密機関を組織しつつあった。ロザエ フスキーは大澤を介して特務機関との関係を作 り出し、大澤はロザエフスキーを通じてファシ スト党総裁コスミンに活動資金と様々な便宜を 提供しつつ、ファシスト党を日本軍当局の協力 者として引き入れることに成功した25。このこ とがファシスト党の勢力拡大に大きく寄与した のである。  ステファンの研究が指摘したように、ロザエ フスキー自身も日本軍当局に積極的に協力した。 1932年初め、日本軍のハルビン占領直前に、ロ ザエフスキーは日本軍による挑発行為の中心に 位置していた。ステファンによれば、ファシス ト党員による中国人商店の襲撃がロシア人と中 国人との間の衝突を引き起こした時、大澤はロ ザエフスキーと中村という名の新聞記者を、日 本国旗を掲げた自動車で事件現場に派遣した。 その際にロザエフスキーは、彼らが銃撃される かもしれないと警告を受けたが、果たして彼ら の車は実際に現場付近で銃撃された。ハルビン の日本総領事館は、中国当局と在ハルビン領事

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団に対して、本件が日本の公用車に対して中国 人警官がおこなった意図的攻撃であると主張し た26。この種の挑発行為に基づいて、日本軍部 隊は1932年2月にハルビンを占領したのである。 もう一人のファシスト党指導者M. A. マトコフ スキーもまた、ハルビンの日本当局に対するロ シア人亡命者の反感を抑制することに努めて、 日本当局に積極的に協力していた27  ハルビンのロシア人ファシストが党機関誌 『ナーツィヤ』を発行し始めた1932年になると、 ファシストによる反ユダヤ主義的論調が徐々に 増加し始めた。『ナーツィヤ』誌編集部は、ナ チ党の著名な反ユダヤ主義イデオローグであっ たアルフレート・ローゼンベルクの反ユダヤ主 義的主張を翻訳して紹介するとともに、ロシア 人ファシスト自身もユダヤ・フリーメーソンに よる世界支配を非難した28。ハルビンのファシ スト党は1933年7月には、ハルビンのロシア・ クラブを会場にフリーメーソン問題についての 連続公開討論会を開催し、延べ6,000名におよ ぶ参加者を集めた29。のちに刊行された討論会 の記録によれば、ロシア人ファシストたちは、 フリーメーソンの目標をユダヤ人によって支配 される世界共和国の建設にあるととらえ、ファ シズムのみがユダヤ人の邪悪な目論見に勝利し うると主張していた。この討論会でファシスト 党指導者ロザエフスキーは、ユダヤ人に対する 古典的非難を繰り返し、ロシア革命がユダヤ・ フリーメーソンによって準備され、組織され実 行されたと強調した30  ロシア人ファシストによる反ユダヤ主義的言 辞が1930年代初頭に過激化した理由は必ずしも 明確ではないが、その背景の一つには彼らが 1932年に機関誌を発行して独自の主張を自由に 展開できるようになったという事情があった。 そしてそこには特務機関からの資金提供が大い に寄与していたのである。さらにいま一つの要 因として、ナチ党の攻撃的な反ユダヤ主義に大 きな影響を受けたことが推測される。機関誌の 刊行開始以来ファシスト党は、イタリアとドイ ツのファシズム運動について熱心に紹介してい たが、1932年にナチ党が選挙で急速に勢力を拡 大すると、機関誌『ナーツィヤ』はヒトラーの 政治指導について詳しく紹介するようになっ た31。ハルビンのファシストの関心はこのころ から、イタリアのファシズム運動からドイツの ナチズムへと次第に移行していったようにみえ る。ナチ党の躍進は、ハルビンのファシストの 伝統的な反ユダヤ主義を刺激したかもしれない。  ファシスト党の活動が次第に活発化する中で、 一部のファシスト党員は、ハルビンの富裕なユ ダヤ人資産家の誘拐事件に直接関与していた。 1931年10月、食料品店経営者のС. Д. タラセン コが誘拐され、身代金1万円(5千米ドルに相当) を支払うことで解放された。また翌32年3月に は、薬局経営者で会社役員であったМ. В. コフ マンが誘拐されて身代金が要求されたが、被害 者は殺害された。さらに同年10月、運輸会社社 長の子息であるИ. シェレリが誘拐され、身代 金2万円の支払いと引き換えに解放された。こ れらユダヤ人資産家誘拐事件の頂点にあったの が、1933年8月に発生したカスペ誘拐事件であ った。ハルビンを代表するホテル・モデルンの 経営者ヨシフ・カスペの息子で、フランスで学 びフランス国籍を取得した有望な若手ピアニス トのセミョーン・カスペが誘拐され、犯人は身 代金30万円を要求した。父カスペは身代金支払 いを拒み、犯人側との交渉と警察当局の捜査の 末、同年12月にはロシア・ファシストの犯人グ ループが逮捕されたが、セミョーンは遺体とな って発見された。被害者セミョーンがフランス 国籍であったことから、この事件はフランス領 事館をまきこんだ国際的なスキャンダルとなっ た。取調べの結果、カスペ誘拐殺害事件の犯人 グループは先行する3件のユダヤ人誘拐事件に 関与していたことが明らかにされたのである32  当時のロシア語話者コミュニティでは、これ らの誘拐事件とりわけカスペ事件の背後に関東 軍ハルビン憲兵隊が関与していると広く信じら れていた。一方、現存する文書館史料には、事 件への現地日本当局の直接の関与を示唆する史 料は当然ながら残されてはいない。そもそもカ

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スペ事件についての核心的情報は、記録として は当初から残されていなかったと推測される。 なぜなら、事件の首謀者たちは悪事についての 証拠資料を残さないのが自然だからである。し かしながら、日本の外務省記録と事件に関する フランス外務省報告書、および同時代のロシア 語新聞や回想録などの情報を比較検討してみる と、ハルビン憲兵隊通訳であったコンスタンチ ン・イヴァノヴィチ・中村が、これらの諸事件 に関して憲兵隊とファシスト党メンバーの犯人 グループとの関係を取り持つある種の秘密エー ジェントの役割を果たしたと推測される33  1933年12月5日に執り行われた犠牲者セミョ ーンの葬列は数千の人々が参加した大規模なも のとなり、民族の違いを超えて事件がハルビン 全体に大きな衝撃を与えたことを改めて示し た34。新聞報道によれば、この時に弔辞を読ん だユダヤ人コミュニティの指導者で医師であっ たアブラハム・カウフマンが、事件の処理をめ ぐってユダヤ人コミュニティに渦巻く大きな不 満を強い口調で示したという。この弔辞は満洲 国の当局筋の強い反発を引き起こし、カウフマ ンは「当局に対する公然たる敵意を示す分子に 満洲国の領土から去ることを勧める」との警告 を受けることになった35  ハルビンのロシア・ファシスト党機関紙『ナ ーシ・プーチ(我らの道)』はこのカウフマン 演説を激しく批判し、ユダヤ人とソ連およびボ リシェヴィズムをことさらに結びつけて非難す る中傷を展開した36。カスペ事件で被害者とな ったのはユダヤ人であったにもかかわらず、セ ミョーンの葬儀が図らずもハルビンのユダヤ 人コミュニティの影響力を示すことにつながり、 ファシスト党が事件に関与したとみるフランス 領事館シャンボン副領事の事件捜査への介入に 対する白系ロシア人ファシストの反発と相俟っ て、ユダヤ人と白系ロシア人との間の対立関係 を昂進させる契機となったのである。  こうした中で、反ユダヤ主義的風潮の高揚を 憂慮するユダヤ人コミュニティを揺るがす出来 事が起こった。1934年11月末、カスペ事件に関 する一件書類がハルビン警察庁から検察当局に 送られたとき、ハルビン警察庁刑事科長の江口 治が、カスペ誘拐殺人の実行犯に同情すら示す 悪名高い声明をハルビンの露字紙に発表したの である。江口は、事件の容疑者たちが反ソ活動 の資金難を一挙に解決するために、ソヴィエ ト・ロシアと結託して巨利を得たといわれたユ ダヤ人ヨシフ・カスペからその資金を奪取しよ うと犯行に及んだと述べて、犯人たちを「熱烈 なロシア愛国者」と特徴づけ、事件が政治的性 格を持つものであると論じた。そして江口は、 犯行の政治的動機に鑑みて、司法当局が容疑者 たちに寛大な措置をとることを希望した37。一 方、これに先立つ1934年5月には、満洲国民生 部警務司長宛の報告においてハルビン警察庁長 が、同事件は刑法上の犯罪であり政治的・民族 的背景をもつものでないことは明白であると指 摘していた38  事件に対するハルビン警察庁の評価を変化さ せた要因について、在ハルビン総領事代理であ った長岡半六は1935年1月の本省宛報告におい て、前年11月末の江口声明が「某方面ヨリノ註 文ニ基キ特ニ政治的考察ヲ加ヘタル結果ニ依ル モノナル趣」であり、この声明がユダヤ人社 会を刺激したことについては異論もあるよう だ、と指摘していた39。ここでいう「某方面」 とは、明らかに日本軍当局を指すものであった。 この時期ハルビン特務機関は、白系ロシア人を 満洲国に統合し特務機関のもとで彼らを統制す るためのロシア人機関を組織化しつつあり、そ れは1934年12月末に「満洲国白系露人事務局」 の創設となって実現された。ハルビン特務機関 は、自らが組織しつつある白系露人事務局の主 要構成員として、長年にわたり日本軍と深い関 係を持っていたザバイカル・コサックの元首領 グリゴリー・セミョーノフの配下と併せて、コ ンスタンチン・ロザエフスキーが率いるロシア・ ファシスト党のメンバーを登用した。それはフ ァシスト党指導部が早い段階から特務機関に積 極的に協力していたためであり、ファシスト党 は特務機関にとって利用価値の高い実働部隊だ

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ったからである40。特務機関は、影響下におい ていたファシスト党を日本軍の忠実な協力者と して利用し続けるために、ロシア人ファシスト を強力に支援しなければならなかったと考えら れる。  ハルビン特務機関の主導により創設された白 系露人事務局は、満洲在住のロシア人亡命者の 統合を目指す日本軍当局の路線に従わない人々 のみならず事務局の指導権を認めない人々にも 圧力を加えることを通じて、ロシア語話者コミ ュニティにその影響力を強めていった。満洲国 において独自の自律性を維持していたユダヤ人 コミュニティは日本軍当局による圧力行使の主 要な対象であったと同時に、この流れに掉さす ロシア人ファシストをはじめとするロシア人反 ユダヤ主義者の標的として改めて浮上したので ある。 3 日本側の在満ユダヤ人対策の変化と ファシスト党 1935—1937  1934年11月のカスペ事件被疑者についての江 口声明は、当然のことながら世界中のユダヤ人 コミュニティで強い反発と憤慨を引き起こした。 上海の『イスラエルズ・メッセンジャー』誌編 集長のエズラもまた江口声明に強い衝撃を受け、 事件の調査をおこない不当な判決を阻止するよ う強く訴えた41。外務省はこうした要請を無視 しえず、広田弘毅外相は森島守人ハルビン総領 事に対してこの間の事情を報告するよう要求し た。またアメリカ合衆国では、カスペ事件の裁 判が公正におこなわれることを求めるようエズ ラから依頼を受けて、アメリカ・ユダヤ人会議 議長でユダヤ教ラビのステファン・ワイズとユ ダヤ人哲学者ホレイス・カレンが1935年2月に 齋藤博駐米大使を訪問して日本当局の協力を求 めた。これに対し齋藤大使は、本件の真相を外 務省に問い合わせることを約束した42。齋藤大 使の求めに応じて外務省は、森島総領事に対し てカスペ事件のその後の経緯とハルビンにおけ る反ユダヤ主義の状況についての報告を要請し た43  ハルビン総領事館は、カスペ事件への日本人 の関与を強く否定するとともに、ハルビンでの 反ユダヤ主義的風潮は組織的なものではないと 強調した44。しかし外務省は、事件への現地日 本軍の関与を疑い、ハルビンの状況が国際社 会に与える影響を憂慮したようにみえる。外 務省の雰囲気は満洲側でも察知していた模様 で、1935年2月には関東軍司令官で在満特命全 権大使兼帯の南次郎大将が広田外相に対し、ユ ダヤ人を激しく攻撃しているファシスト党機関 紙『ナーシ・プーチ』が関東軍の支援を背景に 有していると想定されていることに鑑みて、関 東軍参謀長が白系ロシア人の反ユダヤ主義的傾 向の取締りと新聞その他の宣伝に一層注意する よう関係方面に命じたことを報告した45。また 森島総領事は、ハルビンでの反ユダヤ主義的傾 向の高まりについて特務機関長の安藤麟三大佐 と協議し、対ユダヤ人工作は対白系ロシア人工 作とは別に講ずることを取り決めた46  ファシスト党員をはじめとするロシア人亡命 者からの反ユダヤ主義的迫害とそれに対する日 本軍当局の暗黙の支持は、1935年を通じて続い た。『イスラエルズ・メッセンジャー』誌の記 事を伝えた外務省記録によれば、同年8月には ハルビン警察庁が白系ロシア人密偵の告発に基 づいてシナゴーグを家宅捜索した。また10月に は、警察がユダヤ教ラビのレヴィンとユダヤ人 コミュニティ指導者カウフマンの両名の自宅を 捜索した。さらに皇帝溥儀がハルビンを訪問し た際には、ハルビンのユダヤ人コミュニティで 著名であった12名のユダヤ人が一週間以上検束 されたという47。森島の後任総領事であった佐 藤庄次郎は在満特命全権大使南次郎に対し、フ ァシスト党機関誌『ナーシ・プーチ』が反ユダ ヤ主義的主張を展開し、官憲および軍部はこれ を黙認するのみならず、むしろこれを助長して いるように見受けられると報告した。さらに佐 藤は、満洲国と日本の当局者が最近になってユ ダヤ人の利用に着目し始めておりユダヤ人に対 する不当な圧迫はできるだけ避けるよう満洲国

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官憲を指導しつつあるように思われること、し かしこの動きはまだ首脳部の意向に過ぎず警察 当局はユダヤ人を被害者とする事件の捜査に消 極的であること、を伝えていた48  この間、国内戦期に日本軍が支援した反共産 党部隊指導者セミョーノフの支持者とファシス ト党員から構成された白系露人事務局は、事務 局への登録手続きを通じて満洲国のロシア人亡 命者の統合を着実に進めていった。1935年5月 におよそ18,700名であった事務局登録者は、翌 36年10月には44,000名にまで急増した49。事務 局が登録作業をおこなったのは、民族的ロシア 人だけでなく、ウクライナ人、グルジア人、タ タール人、アルメニア人など旧ロシア帝国民を 構成した多様なロシア語話者であった。一方ユ ダヤ人は、事務局の主要メンバーに多数のファ シスト党員が入っていたこともあって、当初は 事務局とは無関係であった。しかし1936年に入 ると、ハルビンのシオニスト修正主義者の青年 組織であるユダヤ人青年連盟(ベタール)が、 ユダヤ人亡命者に対して白系露人事務局への登 録を呼びかけるという出来事が起こった。ベタ ールの主張によれば、白系露人事務局は半官組 織であり、ボリシェヴィキの軛を打倒した後の ロシアの再建に従事する満洲国の創造的勢力 からユダヤ人が排除されてはならならないので、 ユダヤ人も事務局に登録せねばならないのであ った50。こうしてユダヤ人もまた、徐々に事務 局に登録し始めたのである。  たとえ不本意ではあったとしても51、ユダヤ 人が自発的に白系露人事務局に登録するように なった以上、ロシア人ファシストによる反ユダ ヤ主義的圧迫は抑制されねばならなかった。な ぜなら、かかる行為はユダヤ人を含むロシア語 話者の統合を進める白系露人事務局の方針に抵 触することになったからである。しかし1936年 に至ってもなお、ロシア人亡命者によるユダヤ 人の密告やユダヤ人に対する攻撃が続いた。同 年3月と4月には、ハルビン憲兵隊の白系ロシア 人密偵の告発によって無実のユダヤ人が憲兵隊 に逮捕されるという出来事が起こっていた。お なじく4月には、ソ連籍ユダヤ人の印刷業者ア ブラモヴィチの息子が誘拐されて身代金を要求 される事件が発生した。こうした状況に対して ユダヤ人コミュニティは、独自のネットワーク を駆使してハルビン在住ユダヤ人の苦境を発信 しており、ユダヤ人団体の圧力を受けた駐英大 使吉田茂はハルビン総領事の佐藤庄次郎にユダ ヤ人の被害状況の調査を求めた。この要求に回 答した佐藤は、軍部および満洲国当局のユダヤ 人に対する意図的圧迫を否定したものの、ハル ビンにおけるユダヤ人圧迫が深刻なものであり、 こうした現象の背後に当局の事実上の黙認があ ることを認めていた52  ユダヤ人に対する圧迫が長く続いたことは、 世界各国のユダヤ人コミュニティの批判をもた らしただけでなく、ハルビンからのユダヤ人人 口の流出を引き起こした。ユダヤ史研究者ブレ スラーによれば、1931年に約13,000人であった ハルビン在住ユダヤ人は、1935年までに5,000 人程度にまで減少したという53。こうした中で、 在満ユダヤ人に対する日本当局の対応は、彼ら に対する圧迫を黙認する態度から反ユダヤ主義 的圧迫を抑制しユダヤ人を統合・利用する方向 へと徐々に変化していったように思われる。  1936年6月にはハルビン地方法院で長らく続 けられたカスペ事件の裁判が結審し、暫行懲 治盗匪法第1条により4名の被告に死刑、2名の 被告に無期徒刑の判決が言い渡された。同法は 第5条において「盗匪に関する案件は上訴を許 さず」と定めた厳しい法律であったが、ハルビ ン高等法院は地方法院の判決を承認せず、同月 18日には同法第6条に基づいて提審を命じた54 高等法院は同月23日、第1審訴訟手続きにより 本件の再審を命じ、翌37年1月11日にハルビン 高等法院は事件の再審を開始した。同月29日、 高等法院第1法廷はハルビン地方法院の原判決 を覆し、本件犯罪は刑法第371条第1項により無 期徒刑又は7年以上の有期徒刑に属すべき重罪 ではあるが1934年の満洲国帝政施行時の大赦令 に該当するとの判決を下して、被告6名全員が 釈放された55。事件そのものは、こうして幕を

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閉じたのである。  同時代人の回想や従来の研究が指摘するよう に、カスペ事件の背後には実行犯たる白系ロシ ア人ファシストの背後にハルビン憲兵隊と特務 機関の支援が存在していただけでなく、ハルビ ン憲兵隊自体が事件に深く関与した疑いが濃 厚である。カスペ事件に至る一連の誘拐事件 を通じて憲兵隊・特務機関とロシア・ファシス ト党は相互に利用しあうある種の共犯関係にあ り、カスペ事件での犯行グループの摘発はこの 関係を揺るがしかねない出来事であった56。フ ァシスト党員の犯行グループの処刑によってフ ァシスト党の離反を招くことは、憲兵隊と特務 機関にとって忠実な協力者を失うだけでなく自 らの悪事の暴露という危険を伴うものでもあっ た。ファシスト党員を利用した白系露人事務局 を通じてロシア人亡命者の統合を図る方針を進 めていた特務機関は、いかなる手段を用いても ファシスト党員の犯罪者を救済せねばならなか ったと推測される。カスペ事件の実行犯の釈放 は、日本軍当局とファシスト党犯罪者との共犯 関係に終止符を打つことになり、これによって 軍当局はファシスト党による反ユダヤ主義的圧 迫を抑制する自由を得たと考えられる。  白系露人事務局の創設を指導してロシア人亡 命者の統合を図ったハルビン特務機関長の安藤 麟三少将は、カスペ事件の最終結果を見届け た後の1937年5月にハルビンを去って東京に帰 任した57。その後任となったのは、ポーランド 駐在武官やハルビン駐剳第3師団参謀長を経験 した樋口季一郎少将であった。広く知られるよ うに、この樋口機関長の下で1937年12月に第1 回極東ユダヤ民族大会が開催され、満洲国にお けるユダヤ人対策が大きく転換することになる。 この大会で選出された「極東猶太民族協議会」 は、白系露人事務局を通さずユダヤ人の利益を 直接表出する目的で創設されたという58。これ 以後、ユダヤ人に対する日本当局の対応は、「五 族協和」のスローガンの下でユダヤ人を統合し 協調関係を創出する方向に向かったのである。 おわりに  祖国を離れた満洲の地にあって、1931年に政 党組織を結成したロシア・ファシズム運動は、 1930年代に大きく発展した。しかしこの成功は、 満洲を占領した日本軍当局との密接な協力関係 によって達成されたものであり、ファシスト党 が亡命ロシア人社会で幅広い支持を獲得した結 果ではなかったのである。ハルビンのロシア人 社会では、ファシスト党員は当初はむしろ無頼 漢視されていたが、その行動力を認めた日本軍 当局と相互利用の関係を構築していった。しか し圧倒的に優勢な日本軍当局の力の下で、ファ シスト党はすぐに、満洲において日本の利益を 追求する先兵として利用されるようになったの である。  1934年12月には、主要なファシスト党員が重 要な役職に就いて組織された白系露人事務局が 誕生し、日本軍当局はこの組織を通じてロシア 語話者コミュニティを統合し始めた。反ソ戦略 のために白系ロシア人の利用を目論む日本軍当 局は、彼らの間にあった反ユダヤ感情も利用 しつつ白系ロシア人を統合することを優先した。 ロシア・ファシスト党による反ユダヤ主義的行 動が1936年に至っても日本軍当局によって黙認 されていたのは、このような状況においてであ った。他方でハルビンのユダヤ人に対する圧迫 は、世界各地のユダヤ人コミュニティの批判を 引き起こした。日本の外交当局は、諸国のユダ ヤ人指導者からユダヤ人に対する迫害の抑制の 要求を受け続けた。  この間ハルビン特務機関に支援された白系露 人事務局は、着実にロシア人亡命者の統合を拡 大していった。この成功をうけて、ユダヤ人青 年の一部を中心に、事務局への登録を通じてユ ダヤ人の利益を表出しようとする動きも現れた。 さらにこの時期には、安江仙弘ら親ユダヤ的傾 向の軍人や日産コンツェルンの鮎川義介ら一部 の財界人によって、日本の国益のための「ユダ ヤ人利用論」も議論され始めていた59。この点 からみると、1937年初頭のカスペ事件の最終的

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決着は、ハルビンにおける日本当局のユダヤ人 への対応におけるひとつの転機となったように 思われる。白系露人事務局を創設してファシス ト党員を利用しつつ白系ロシア人工作を進めた 安藤麟三特務機関長は、カスペ事件の実行犯を 釈放してファシスト党との特別な関係を清算し た後に東京に帰任した。  ハルビンのユダヤ人に対する日本当局の対応 の転換は、親ユダヤ的とされる樋口季一郎の事 績に着せられることが多い。たしかに樋口の下 でユダヤ民族大会が開催され、これ以降日本当 局のユダヤ人対策は劇的な転換を示していく。 しかし樋口自身はある程度ユダヤ事情に通じて はいたものの、いわゆる「親ユダヤ」ではなく 「『排ユダヤ否定』で充分」という宥和的立場で あり、しかも安藤の離任ののち樋口着任までに 3カ月の空白があった60。こうした事情を考慮 すると、満洲におけるユダヤ人対策の転換を樋 口が主導したというよりもむしろ、ユダヤ人対 策の転換を進めるために「排ユダヤ否定」(論 者の)樋口がハルビン特務機関長に選ばれたと いうことができよう。 【注】

1 E. Oberländer, “The All-Russian Fascist Party,” The Contemporary History, vol. 1, no. 1 (1966); John J. Stephan, The Russian Fascists: Tragedy and Farce in Exile 1925⊖1945 (New York & London, 1978).

2 “Отчет о моей 20⊖летней антисоветской деятельности: К. В. Родзаевский.” Кентавр. 1993. № 4. 3 Окороков А. В., Фашизм и русская эмиграция (1920⊖1945 гг.). М. 2001. 4 阪東宏『日本のユダヤ人政策 1931-1945:外交史料館文書「ユダヤ人問題」から』(未来社、2002年)、 丸山直起「満州の反ユダヤ主義」『明治学院論叢 法学研究』75(2003年)。 5 “Отчет о моей 20⊖летней антисоветской деятельности.” С. 98. 1936年 に ロ シ ア・ フ ァ シ ス ト 党 の 公式党史は、最初のファシスト組織が1922年に形成されたと記していた。История российского фашистского движения. Харбин. 1936. С. 11. 6 『外事警察報』第70号(1928年)、195⊖196頁. あるロシア語史料集によれば、最初のロシア人ファシ スト組織は、ザグレブでP. B. チェルスキー将軍によって創設されたという。Политическая история русской эмиграции 1920⊖1940 гг. Документы и материалы. М. 1999. С. 303, 335. 7 Российская эмиграция в Маньчжурии: Военно-политическая деятельность (1920⊖1945) . Южно-Сахалинск. 1994. С. 45. 8 “Отчет о моей 20⊖летней антисоветской деятельности.” С. 99. 9 Корецкий А. П. “Эпопея русского эмигранта (баз героики).” Россияне в Азии. 1996. № 3. С. 133⊖134. 10 “Отчет о моей 20⊖летней антисоветской деятельности.” С. 96⊖97. ロザエフスキーは1907年に公証人の 息子に生まれ、24年に中等学校を卒業した。この尋問調書によれば、彼はソ連で大学に進学すること を望んだが、ソヴィエト体制に批判的な見解を持っていたために大学入学を認められなかったという。 ソ連時代に彼がどのような見解を持っていたかは不明である。 11 Фашист: Ежемесячный журнал борьбы за национально-трудовую Россию. 1928. № 2. С. 10⊖11. 12 未公刊文書の情報によれば、1932年段階でのロシア人亡命者の失業率はおよそ20%であった。 Государственный Архив Хабаровского Края (ГАХК). Ф. 830. Оп. 1. Д. 218. Л. 23. 若年層の失業率はさら に高かったことが推測される。 13 Нация. 1933. № 8. С. 14. 14 История российского фашистского движения. С. 16⊖17. 15 Программа Русской Фашистской Партии. б. м. С. 4⊖13.

16 Heinz-Dietrich Löwe, “Russian Fascism in Harbin and Manchuria,” in D. Ben-Canaan et al. (eds.), Entangled

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17 Программа Русской Фашистской Партии. С. 9⊖13. 18 Нация. 1932. № 2. С. 11.

19 Нация. 1933. № 8. С. 12.

20 Россия для Русских! б. м. 1927. С. 6⊖7.

21 Кауфман А. И. “Поселок Харбин.” Бюллетень Игуд Иоцей Син. 1996. № 345. С. 186; Chizuko Takao, “Russian-Jewish Harbin before World War II,” Japanese Slavic and East European Studies, vol. 32 (2011), p. 46. 22 Löwe, “Russian Fascism in Harbin and Manchuria,” pp. 146⊖149.

23 『外事警察報』第138号(1934年)、58頁。

24 Нация. 1934. № 19. С. 33⊖34. ロザエフスキーは、こうした方針がН. П. メーヂの提唱によるものであっ たとしている。“Отчет о моей 20⊖летней антисоветской деятельности.” С. 101.

25 “Отчет о моей 20⊖летней антисоветской деятельности.” С. 101⊖102.

26 Stephan, Russian Fascists, p. 69; National Archives and Records Administration (U.S.A.), Records of General Headquarters Supreme Commander for the Allied Powers (GHQ SCAP), International Prosecution Section, Numerical Evidentiary Documents Assembled as Evidence by the Prosecution for Use before the International Military Tribunal for the Far East, 1945⊖47, Entry 329 of Preliminary inventory NM-11, Record Group 331, Document No. 2364 (Rodzaevskii affidavit), pp. 6⊖7.

27 Балакшин П. Финал в Китае: возникновение, развитие и исчезновение Белой Эмиграции на Дальнем Востоке. Том 1. Сан-Франциско. 1958. С. 189. 28 Нация. 1932. № 2. С. 19⊖20; № 3. С. 24⊖26; № 4⊖5. С. 37⊖38; № 6. С. 21⊖22. 29 Нация. 1933. № 8. С. 17. 30 Основы юдо и масоно-ведения: Отчет о знаменитых диспутах о масонстве в июле 1933 г. в Харбине. б. м. 1936. С. 7, 12⊖13, 29⊖31. 31 Нация. 1932. № 4⊖5. С. 28⊖36. 32 外務省記録 D. 2. 6. 0. 40、森島守人総領事発菱刈隆在満特命全権大使宛公信(公領機密第753号第1項) 昭和8年12月14日。Заря (Харбин). 5 декабря С. 7; 6 декабря С. 5; 7 декабря С. 5, 1933. 33 カスペ事件と日本軍当局との関連については、中嶋毅「カスペ事件をめぐる在ハルビン・ロシア人社 会と日本 1933⊖1937」『人文学報』(首都大学東京)第490号(2014年)を参照。 34 Рупор (Харбин). 6 декабря 1933. С. 7. 35 Рупор. 8 декабря 1933. С. 5. 36 Наш путь (Харбин). 8 декабря С. 4⊖5; 10 декабря С. 3, 1933. 37 Заря. 28 ноября 1934. С. 7. 38 外務省記録D. 2. 6. 0. 40、森島総領事発広田弘毅外相宛公信(機密第166号)昭和10年2月6日別添資料。 39 外務省記録I. 4. 6. 0. 1⊖2「民族問題関係雑件・猶太人問題」第3巻、長岡半六総領事代理発広田外務 大臣宛(機密第31号)昭和10年1月14日。この文書は広く知られており、阪東『日本のユダヤ人政 策 1931⊖1945』48頁および丸山「満州の反ユダヤ主義」10⊖11頁が紹介しているほか、カスペ事件関 係文書にある同報告の写し(在米公館に送付した添付資料)を用いた砂村哲也『ハルビン教会の庭』 (PHPパブリッシング、2009年)71⊖72頁も触れている。 40 この組織については、中嶋毅「満洲国白系露人事務局の創設―1934⊖35年」中村喜和ほか編『異郷に 生きるV―来日ロシア人の足跡』(成文社、2010年)、123⊖139頁を参照。

41 外務省記録I. 4. 6. 0. 1⊖2第3巻、N. E. Ezra to M. Shigemitsu, Shanghai, 14 December 1934; 21 December 1934.

42 外務省記録D. 2. 6. 0. 40、齋藤駐米大使発広田外相宛公信(第60号)昭和10年2月5日。上海のエズラ やニューヨークのワイズらの動きについては、丸山「満州の反ユダヤ主義」15⊖16頁も参照。

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43 外務省記録D. 2. 6. 0. 40、広田外相発森島総領事宛公信(第9号)昭和10年2月6日。 44 外務省記録D. 2. 6. 0. 40、森島総領事発広田外相宛公信(第37号ノ2〔極秘〕)昭和10年2月8日。 45 外務省記録D. 2. 6. 0. 40、南大使発広田外相宛公信(第108号)昭和10年2月7日。 46 外務省記録D. 2. 6. 0. 40、森島総領事発広田外相宛公信(第39号)昭和10年2月12日。こののち特務機 関において対ユダヤ人工作がどのように展開されたのかは興味深い問題だが、この点についての具体 的情報はない。 47 外務省記録I. 4. 6. 0. 1⊖2第3巻、在満洲国特命全権大使南次郎発広田外相宛公信(公機密第2292号)昭 和10年12月6日。 48 外務省記録I. 4. 6. 0. 1⊖2第3巻、佐藤総領事発南在満特命全権大使宛公信(公領機密第2221号)昭和10 年12月5日。なおこの報告によれば、前註47で紹介されているシナゴーグの捜索事件は9月7日のこと であったという。

49 ГАХК. Ф. 830. Оп. 1. Д. 1. Л. 27об. (1935年); “The White Russians in Manchuria,” Contemporary Manchuria, vol. 1, no. 3 (Sept. 1937), p. 23 (1936年).

50 Луч Азии. 1936. № 17. С. 8. 51 ユダヤ人にとって白系露人事務局への登録が苦渋の選択であったことについては、高尾千津子「ハル ビンのユダヤ人社会」阪本秀昭編著『満洲におけるロシア人の社会と生活―日本人との接触と交流』 (ミネルヴァ書房、2013年)259頁を参照。 52 外務省記録I. 4. 6. 0. 1⊖2第3巻、佐藤総領事発在英国特命全権大使吉田茂宛公信(公領機密第1号)昭 和11年9月19日。

53 B. Bresler, “Harbin’s Jewish Community, 1898⊖1958: Politics, Prosperity, and Adversity,” in J. Goldstein (ed.),

The Jews of China, Volume One: Historical and Comparative Perspectives (New York, 1999), p. 209. それぞれ

の年次におけるハルビン在住ユダヤ人人口の典拠は不明であるが、同時期にユダヤ人人口が大幅に 減少したこと自体は同時代人のカウフマンも指摘している。Кауфман “Поселок Харбин.” Бюллетень Игуд Иоцей Син. 1997. № 350. С. 23. 54 『満洲日日新聞』1936年6月19日7頁。暫行懲治盗匪法および同施行法については、帝国地方行政学会 編纂『満日対訳満洲国六法全書』(帝国地方行政学会、1934年)、131⊖136頁を参照。 55 『満洲日日新聞』1937年1月30日7頁。 56 この点についての詳細は、中嶋「カスペ事件をめぐる在ハルビン・ロシア人社会と日本」を参照して ほしい。 57 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版(東京大学出版会、2005年)406頁。

58 Bresler, “Harbin’s Jewish Community, 1898⊖1958,” p. 209; 高尾「ハルビンのユダヤ人社会」260頁。 59 この問題は多くの文献が触れているが、ここでは西山克典「戦間期日本におけるユダヤ人問題につい て―覚書(1)」『国際関係・比較文化研究』(静岡県立大学)第8巻第1号(2009年)42⊖43頁を参照。 60 樋口季一郎『アッツ、キスカ・軍司令官の回想』(芙蓉書房、1971年)357頁。1936年にハルビン憲兵 隊特高課長に着任し、ハルビンのユダヤ人社会との関係をもっていた河村愛三は、樋口を「ドイツ系 武官で…右翼的な色彩が強い人」でユダヤ人に対して厳しい態度をとるのではないかと推測していた (同書359⊖363頁。ただし河村の回想には、いわゆる「オトポール事件」についての叙述など依拠しが たい部分もある)。なお河村は、1925年から3年間ハルビンで諜報活動に従事してハルビン在住ユダヤ 人の間に人脈を築いており、1936年のハルビン赴任後には対ユダヤ人工作にも従事した注目すべき人 物である。Theodore Kaufman, The Jews of Harbin Live on in My Heart (Tel-Aviv, 2006), p. 117 も参照。 [*本研究は科研費(24320152)・(25370867)による研究成果の一部である。]

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