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新島研究 106号☆/4.井上

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新島七五三太は何故国禁を犯して

密航を企てたのか

井 上 勝 也

〈はじめに〉

今年(平成 26 年)は新島七五三太が元治元(1864)年 6 月(旧暦)箱館 から密航を企てて丁度 150 年目である。当論文は 150 年後の現在、新島が何 故国禁を犯して密航を企てたのかを考察することを目ざしている。 当時密航は幕府のご法度で、命懸けの重大な決断と実行で、捕まれば本人 はもとより、親族にも類が及んだにもかかわらず新島は何故に密航を企てた のか。彼の密航は彼の生き方、思想を理解する上でキーワードであると考え る。 嘉永 6(1853)年 6 月、蒸気軍艦を含む 4 隻のアメリカ軍艦が突如江戸湾 入口の浦賀に来航した。蒸気軍艦の来航が鎖国体制の我が国に与えた衝撃は 誠に甚大であった。蒸気力を艦船に応用することは、我が国が海によって守 られているという既成の観念を吹き飛ばした。爾来我が国は新しい歴史の時 代に入った。激動と急変、硬直化した幕藩体制に代わる新しい国家の青写真 を求め、急速に近代化を推し進める時期が始まった。 天保 14(1843)年に江戸で生まれ、明治 23(1890)年 47 歳で亡くなった 新島襄の生きた時代はまさに日本の激動期であり、近代国家の形成の時期と 重なる。彼はこのような時代に何を考え、国禁を犯して密航を企てたのか。 そして彼はアメリカへの密航の成果を持ち帰って何を目ざそうとしたのかを 考察することは、彼の本質に迫る大きな問題である。 以下Ⅰに新島の密航までに海難事故でやむをえず海外に渡航し、鎖国下の 我が国に貴重な情報を提供して近代化に貢献した 3 人の漂流民を紹介する。

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そしてⅡは新島の密航に影響を及ぼしたと思われる時代背景を 1)天保の改 革、2)アヘン戦争、3)ペリー艦隊の来航、4)ロシア艦隊対馬占拠事件を 通して考察し、Ⅲに新島の生い立ちに見られ、密航につながると思われる諸 問題を取り挙げ、〈おわりに〉で新島が何故密航を企てたのかについて、先 行研究者の解釈を紹介しつつ、最後に私の解釈を述べたいと思う。 新島は天保 14(1843)年、佐幕藩であった上州安中藩(3 万石)の江戸詰 下級武士である新島民治の長男として、江戸神田小川町にあった安中藩邸内 シ メ タ で生まれた。彼は七五三太と名付けられたので、当論文ではワイルド・ロー ヴァー号のテイラー船長から Joe1)と呼ばれるまで新島七五三太の名前を踏 襲することとする。

Ⅰ 鎖国下に海外に渡航した人たち

−大黒屋光太夫、中浜万次郎、浜田彦蔵

江戸幕府が学術修行及び貿易のために海外渡航を許可したのは慶応 2 (1866)年 4 月である。従って新島が密航を真剣に考えていた頃は未だ幕府 の海外渡航の禁止が継続し、渡航が露見すると本人は死罪を、そして家族も 何らかの難が及ぶと信じられていた。 幕府は、17 世紀にヨーロッパ勢力のアジア進出を危惧し、全人民を統制 するために寛永 10(1633)年に鎖国し、日本船の海外渡航の禁止、海外在 住の日本人の帰国の禁止、貿易地の制限、ポルトガル人の追放を命じたが、 これらの背景には全国に広がりつつあるキリスト教を禁止し、宣教師の国内 潜入を防止することも理由の 1 つであった。 幕府の鎖国下で新島のように意図的に密航を企て、それに成功した人物は 記録上はいない。しかし漂流によって偶然先進国に赴いた 3 人の代表的な人 物を紹介しよう。

1

)大黒屋光太夫(1751−1828)

大黒屋光太夫は伊勢国の船頭で、天明 2(1782)年米を積んで江戸に向か う途中遠州灘で暴風雨にあって漂流、アリューシャン列島のアムチトカ島に

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漂着、その後ロシアに渡り、女帝エカテリーナ二世に謁見、寛政 4(1792) 年ロシア使節ラックスマンに伴われて根室に帰って来た。大黒屋は漂流民と ホ ク サ ブ ン リャク して西欧社会に接触した最初の見聞を「北槎聞 略」という名でまとめ、豊 富な図を用いて風俗や言語など、ロシアに関する貴重な情報を幕府に提供し た。

2

)中浜万次郎(1827−98)

中浜万次郎は土佐の国の漁民で、14 歳の彼が天保 12(1841)年漁に出た ところ暴風に遭い、アメリカの捕鯨船に助けられ、ニューイングランドで学 校教育を受けた。彼はアメリカ船で嘉永 4(1851)年琉球まで戻って来た。 同 6(1853)年には幕府の普請役格に登用され、安政 4(1857)年には軍艦 教授所の教授方となった。この間に新島と接触している。万延元(1860)年 遣米使節の通訳として咸臨丸に乗り、太平洋上で大時化に遭って、アメリカ 海軍のブルック大尉と共に咸臨丸の難破を防いだ。明治 2(1869)年、官立 の洋学校である開成学校の教授に任命され、英語を教えている。明治 3 (1870)年 9 月、明治政府は近代戦争である普仏戦争(1870−71 年)を実見 するために大山巌や品川弥二郎らをヨーロッパに派遣したが、中浜は通訳と して同行している。

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)浜田彦蔵(1837−97)

浜田彦蔵も中浜と同じく漂流民であった。嘉永 3(1850)年、彼の乗った 船が遠州灘で突風に遭い、難破してアメリカ船に救われ、滞米 8 年、日本人 として最初にカトリックの洗礼を受けてジョセフ・ヒコと改名し、アメリカ への帰化第 1 号になった。彼は安政 6(1859)年帰国し、神奈川の米国領事 館付通訳として日米修好に貢献した。彼は横浜で日本で最初の新聞「海外新 聞」を発刊し、アメリカを始め外国情報を日本語で報道した。また彼はリン カーン大統領直伝の民主政治を維新の志士木戸孝允や伊藤博文に伝えた民主 主義の先覚者であった2)。北垣宗治教授の研究によれば、ジョセフ・ヒコと 新島の間に接点があり、フィリップス・アカデミー在学中の新島はヒコに父 民治からの申し出があれば、彼の手紙を横浜の宣教師に渡して、アメリカに

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いる自分に転送してほしいというものである3) 以上の 3 人に対して、アメリカに渡ってアメリカを自分の眼で夷情探索し ようとした人物に吉田松陰(1830−59)がいる。長門国萩藩士の彼はアメリ カ東インド艦隊司令長官ペリー(M. C. Perry, 1794−1858)が安政元(1854) 年 1 月、再度江戸湾深く来航した折に下田港で金子重輔(変名)と二人で旗 艦ポーハタン号に乗り込み、密航を執拗に懇願したが丁重に拒否され、その 後幕府に自首した。幕府との和親を望むペリー提督は彼等に同情的で、「二 人の頭をはねると云ふ最も厳重な刑罰を与えないことを望む」4)と彼の『日 本遠征記』(四)に書いている。ペリーは、国禁を犯して海外で情報探索し ようとする若者に好感をもっていたが、大統領の命令を体した彼はアメリカ と日本の信義を優先したのであろう。松陰は、開国することによって日本の 生き残りを模索していた佐久間象山(1811−64)の勧めでアメリカへの密航 を決断したのである。もし彼が密航に成功しておれば、どのような思想の持 主になって帰国したか大変興味がある。ちなみに文久 3(1863)年、薩英戦 争を体験した薩摩藩が 2 年後の慶応元(1865)年、幕府の許可を得ることな く、密航の形で藩の留学生、18 歳の森有礼を含む合計 15 人をイギリスに派 遣することになった。藩は 15 人の中に攘夷で凝り固まった青年を入れてい る。彼に近代国家を目の当たりにして攘夷が不可能であることを実感させる ためであった。 当時の若者たちが尊皇攘夷を主張し、欧米列強を夷狄(野蛮な異民族)と して日本から排除しようとする狭隘な考え方に固執し、また一部は倒幕を目 ざして過激な行動に走る中で、新島の密航という大胆な行動を実行するまで の態度は冷静であり、沈着であった。私は新島七五三太を研究する上でこの ような新島に何が大胆な行動をとらせる要因になったのかを知る必要がある と考えている。

Ⅱ 世界史の中の 19 世紀日本−その時代背景

1

)天保の改革〈天保 12(1841)年−14(1843)年〉

天保の改革は江戸時代約 260 年間におこなわれた 3 番目で最後の大きな幕

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政、藩政の改革であった。新島が生まれる直前におこなわれたもので、幕藩 体制を建て直すための政策転換を目ざす大改革であった。体制の基礎を揺る がす要因になった天保の大飢饉(1833−36 年)を直接の契機として、幕府や 藩の財政の逼迫や農村の荒廃、百姓一揆の頻発、外国船の度重なる来航とい った内憂外患は幕府や藩の土台を揺るがした。鎖国という祖法に転換を求 め、開国を強いる外国勢力に対して、老中水野忠邦(1794−1851)は辣腕を ふるった。彼は天保の改革の前年の天保 11(1840)年に始まったアヘン戦 争を他山の石と捉え、強い危機感を抱き、幕府の権威を回復させて西欧列強 の東漸を防ぐ方策を打ち出そうと懸命の努力をした。しかしながら天保の改 革の 4 年前の天保 8(1837)年に起こった大坂町奉行与力大塩平八郎(1793 −1837)の乱が、天下の台所である大坂で起こり、首謀者が幕府の与力で、 著名な陽明学者であったこともあって、幕府の威信を落とした。大塩平八郎 は町奉行に窮民の救済を上申したが、聞き入れられず、翌年近隣の農民に挙 兵を促したが、失敗して自刃した。事件の影響力は甚大であった。 幕府の末端機構で治安を統括する大塩平八郎の乱に象徴されるように、体 制が弱体化し、既に幕府の権威は失墜し、幕府権力の衰退は進み、天保の改 革は幕藩体制それ自体を立て直すには至らなかった。財政の逼迫や関係する 大名たちの足並みが揃わず、水野忠邦の失脚と共に天保の改革は失敗に終わ った。

2

)アヘン戦争(1840 年−42 年)

この戦争は欧米列強の東漸の一環であり、イギリスが清国にしかけた典型 的な侵略戦争である。天保 13(1842)年 6 月、幕府は長崎のオランダ商館 長からアヘン戦争の終結後イギリスの軍艦が日本に向かい、貿易の要求を拒 否されると戦争に訴えるという情報を入手し、これが幕府の対外政策と海防 政策を積極的に進める動機になった5) 幕府は当初からアヘン戦争の情報を収集して戦争の実態を把握していた。 ロシアを始め列強との戦争を避けるための海防策として江戸湾の防備を固 め、天保 13 年異国船打払令に代えて薪水給与令を出して異国船に穏便な対 応をした。また高島秋帆(1798−1866)を抜擢して西洋砲術を採用するとと

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もに、各藩に台場の建設を求めた。アヘン戦争及び清国と英仏連合軍の戦争 であるアロー戦争(1856−60 年)はますます幕府や諸藩に列強からの侵略の 可能性と海防の緊急性を認識させた。 幕府の所在地であり、内外の情報が最も早く且つ多く集まってくる政治の 中心地である江戸にあって、青少年時代を過ごした新島七五三太(彼は祐筆 職の長男)にも日本のおかれた現状を伝える情報が少なからず届いていた筈 である。

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)ペリー艦隊の来航(1853 年、54 年)

弘化 3(1846)年 5 月、アメリカの東インド艦隊司令長官ビッドル(James Biddle, 1783−1848)は軍艦 2 隻を率いて浦賀に来航した。日本が開国して条 約を締結する意思を確認するためであったが幕府の強い開国拒否にあって従 順に退去した。 嘉永 6(1853)年 6 月、東インド艦隊司令長官ペリーは蒸気軍艦を含む軍 艦 4 隻を率いて浦賀に来航した。ペリーは久里浜に上陸し、浦賀奉行にアメ リカ大統領フィルモアの国書を提出して開国をせまった。佐久間象山や吉田 松陰は浦賀に急行してペリー艦隊の動静を視察している6) 黒船見物に大挙江戸湾に繰り出した民衆は「泰平の眠りをさます上喜撰た った四杯で夜も眠れず」と率直な驚きの気持を表現した。10 歳の新島七五 三太も黒船見物に押し寄せた野次馬から多くの情報を得たと思われる。 ペリーが来航した翌月の嘉永 6 年 7 月、プチャーチンの率いる 4 隻のロシ ア軍艦が長崎に来航、通商と開国を求めている。 安政元(1854)年 1 月、ペリーは軍艦を 7 隻に増やして再度来航し、今度 は江戸湾深く侵入して投錨した。アメリカ議会の決議によって権限を与えら れたペリーは日本に関する 40 冊近い文献を読んで7)日本の風土や民族性を 含む可能な限りの予備知識をもち、毅然たる態度で幕府との交渉に臨んだ。 軍艦に積まれた大砲は陸地に向けられ、時々空砲を発して威嚇した。江戸庶 民は黒船の空砲に周章狼狽し艦砲射撃によって江戸が焼野原になるのではと 恐怖におののいた。江戸 100 万人の食料はもっぱら海路で運ばれ、備蓄はお よそ 1 週間程度しかなかった。

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天保の改革の一環として、幕府は外国船の江戸湾封鎖を想定して、利根川 河口の銚子から利根川を遡り、印旛沼を開削して江戸川に繋ぐ水路を計画し たが、工事費の高騰や台風による高波で工事が中断し、江戸時代に 3 度も計 画されながら成功しなかった。幕府は外国船によって江戸への食糧補給の道 を断たれ、兵糧攻めに遭うことを避けたかったのである。幕府の存続を危険 に晒すことになるからである。 ペリーの軍艦 7 隻が江戸湾深く侵入して威嚇射撃をおこなった安政元年 1 月には、新島は満 11 歳になっていた。彼は現在の 11 歳と違って、もっと精 神的に成長していた。国防の責を負う武士の卵として、彼は我が国の現状を 理解し、第 2 のアヘン戦争に発展して外国に主権を奪われるのではと危惧し ていた。 ペリー艦隊の 2 度にわたる来航と幕府の祖法を放棄しての開国は安政 5 (1858)年、新島 15 歳の時であった。これらの少年期に体験した最大の事件 は生涯記憶に留まり、彼の思想形成に影響を及ぼしたことが考えらえる。

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)ロシア軍艦対馬占拠事件(1861 年)

文久元(1861)年 2 月、ロシアの軍艦が海軍の拠点をつくるために対馬に 来航し、府中(対馬)藩に土地の租借を求めると共に、芋崎を不法占拠し た。府中藩と幕府は自力でロシア軍艦を退去させることができず、イギリス 公使オールコック(Rutherford Alcock, 1809−97)に頼んでイギリス軍艦 2 隻 を使ってロシア軍艦に退去を迫り、8 月になってやっと退去させることがで きた。このロシア軍艦対馬占拠事件は幕府の海防能力の欠如を如実に示すも のであり、日本への侵略と植民地化の危機意識は幕府のみならず各藩にも広 がっていった。とりわけ武士階層にはこのような情報は意外と早く伝わるも のである。 第 2 のアヘン戦争ともいわれるアロー戦争(1856−60 年)について、我が 国にも詳しい情報が入ってきていたが、アメリカ総領事ハリス(T. Harris, 1804−78)はこのアロー戦争を最大限に利用して、安政 4(1857)年 11 月、 マサヨシ 筆頭老中の堀田正睦らにイギリス、フランスの艦隊が日本を攻める可能性を 示唆している8)。このような状況の中で起こったロシア軍艦対馬占拠事件は

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幕府や諸藩に大きな衝撃を与えた。

Ⅲ 新島の生い立ちに見られ、

密航につながると思われる諸問題

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)新島のペリー艦隊来航の印象

新島が亡くなった翌年の明治 24(1891)年に、彼の恩人ハーディー(Alpheus Hardy, 1815−87)の三男である A. S. ハーディーによって編集された Life and

Letters of Joseph Hardy Neesima, 1891に興味のある記事が載っているので引

用したい。「まさしくその時(1853 年のこと)ペリー提督に率いられた有名 なアメリカの艦隊が突然日本の水域に現われた。それは我が国にものすごい 動揺をひき起こした。人々はアメリカ船の大砲の恐ろしい音にびっくりし た。しかし主な大名の大部分がアメリカ人に対して非常にせっかちにも戦闘 開始の雄叫びをあげ、幕府にすぐさま日本の水域から追い払うように主張し た。しかし我々には砦もなければ軍艦もなく、大砲もなく、戦うために訓練 された兵士もいなかった。将軍の主な顧問たちは、日本の水域からアメリカ 人を追い払おうと試みることが如何に無益であるかをすぐさま悟った。アメ リカ人たちの目的が全く平和的(peaceful)であることを知っていたので、 貿易のためにいくつかの港を開くことに同意した」9)。これらの文章は 1853 年からかなりの年月を経て新島がアメリカ時代の記憶を辿って書いたと思わ れるが、ペリーの来航が砲艦外交であり、peaceful であるという解釈は歴史 的事実に反するもので、彼のハーディーを意識した表現であり、アメリカサ イドの見方であるといえる。いずれにしてもこの文章から彼が捉えたペリー 艦隊の来航当時の我が国の状況を推察することができる。

2

)新島の蘭学修行

新島は安政 3(1856)年、13 歳の時、開明的な藩主板倉勝明に抜擢されて 蘭学を学び始めるが、教師の転勤で長続きしなかったものの、その後断続的 に蘭学の勉強をしている。Life and Letters に「当時私は物理学と天文学につ いての簡単な論文を読めるぐらいにオランダ語を読んでいた」10)とある。当

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時というのは彼の 15、6 歳の頃で、幕府は安政 5(1858)年、米、英、仏、 蘭、露の国々と安政五ヵ国条約を結び、愈々開港して自由貿易を開始する頃 である。また怒涛の如く外国の情報や物品が流入し始める頃でもある。ちな みに彼が英学を始めるのは文久 3(1863)年からである。オランダの影響が 急速に小さくなり、逆にアメリカやイギリスの影響が急増する時期で、新島 の英学開始は時代的には遅いほうである。彼は中国語を通して主に海外の情 報を得ていたものを時代の推移とともにオランダ語や英語に移行していっ た。もっともこれらの外国語を通して欧米の新知見をどこまで得ることがで きたか疑問である。要は彼の関心が日本の外に向けられ、外国語を使って直 接懸命に情報を収集していると推察することができる。

3

)新島の学問への渇望

新島は藩主板倉勝明の影響もあって少年期から武士に必要な剣や槍や乗馬 の技術を磨くよりも学問への願望が強烈であった。彼は 15 歳の時(1858 年)、安中藩の家老であり、幼少年期から可愛がられていた尾崎直紀に宛て て、漢文で次のような手紙を送り、彼の心境を吐露している。「日本騒動、 紛然将有乱、若及乱敬幹不能学書、今不学恐失時、宜使敬幹入塾開矇目、是 僕之以赤心所願也」11)新島の意識の根底にはペリー艦隊の来航(1853, 54 年) と開国、クリミヤ戦争(1853−56 年)、アロー戦争(1856−60 年)があり、 日常的に起こる江戸市中の夜討ち、盗賊や安政の地震(1854 年)や津波、 江戸の地震(1855 年)といった天変地異があり、今にも江戸に大きな騒乱 が起こるのではないかと危惧していることがわかる。彼はこのような非常時 にこそ勉強に精を出したいが、藩の祐筆職補助の職務に縛られてできないの で、是非(蘭学)塾に行けるようにご高配願いたい、私の衷心からのお願い です、と家老に哀願している。新島の真情が伝わってくる手紙である。

4

)外国軍艦と帆掛舟との対比

万延元(1860)年、17 歳の新島は軍艦教授所で教授から外国の蒸気船に ついての話を聞いており、実物をみたいと思っていた。或る日彼は江戸湾岸 を歩いていて、沖合にオランダ軍艦が投錨しているのを発見した。彼は威厳

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のある、海の女王と日本の不体裁な帆掛舟を比較して、堂々とした戦艦を建 造した外国人は日本人よりも知的で優れた国民であると確信した12)、と Life and Letters で述べている。引き続いてこの出来事が彼に我が国を革新しよう とする野心を鼓舞する大きな実物教育(object lesson)になった13)とも述べ ている。新島は、我が国がなすべきことはまず海軍をつくることと、外国貿 易を容易にする洋式の船を造ることだともいう。 我が国は安政 5(1858)年、米、蘭、露、英、仏の 5 ヵ国と修好通商条約 を締結し、箱館、神奈川、長崎、新潟、兵庫を開港し、翌年 6 月、神奈川、 長崎、箱館の三港で自由貿易を許可した。その結果貿易の方法を知らない我 が国は怒涛のように入ってくる外国製品をコントロールすることができず、 我が国の銀貨の流出を阻止する方法を早急に学び、合せて自国の防衛のため に海軍を創設すべきであるという考え方は当時の良識ある若者たちの発想で もあった。

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)軍艦教授所に入学(1860 年 11 月∼62 年 9 月)

万延元(1860)年 11 月、17 歳の新島は築地の軍艦教授所(後の軍艦操練 所)に入学し、数学、航海学を週に 3 回、1 年 10 ヵ月(うち麻疹にかかっ て 3 ヶ月休学)在学した。 幕府は近代海軍の調練の必要性と緊急性から、オランダ政府に海軍教育班 の派遣を依頼し、安政 2(1855)年長崎に海軍伝習所を開設した。諸藩から 第 1 次伝習生約 130 人が参加を許された14)。幕府はまた安政 4(1857)年第 1次伝習生がオランダから献上された蒸気外輪船観光丸(720 トン)を操っ て江戸に着いたのを機会に、同年 4 月から江戸築地の講武所に併設して軍艦 教授所を開設し、幕臣に限らず大名の家臣にも門戸を開放した。観光丸を操 船してきた第 1 次伝習生の中から何人かが教授をつとめ、アメリカ通の中浜 万次郎も教授に加わって、測量、航海術等を教えている。 新島はワイルド・ローヴァー号の船上でテイラー船長と共に天測をおこな って船の位置を割り出しているが、これは軍艦教授所時代に学んだ航海学の 実習といえる。新島の残した洋学研究ノートを調査した島尾永康教授は「残 っているノートでは、航海学とその基礎である球面三角法に関する計算が最

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も多く、具体例としては天測による緯度計算が最も多い」15)という。 万延元(1860)年 1 月に咸臨丸(625 トン)が日米修好通商条約批准の随 行艦として、長崎の海軍伝習所の第 1 次伝習生や勝海舟や日本近海で難破し たアメリカの測量船のブルック船長等が乗り込んで太平洋を横断してサンフ ランシスコに着き、同年 5 月に浦賀に帰港した。安政元(1854)年 1 月に来 航した当時のペリーの旗艦ポーハタン号(2415 トン)は同条約の批准書交 換のために、遣米使節の新見豊前守等を乗せてパナマ運河を経由して大西洋 に入り、首都ワシントンに向い、批准書を交換して一行は同年 9 月に帰国し た。咸臨丸には 96 人の、ポーハタン号には 77 人の日本人が乗っていたの で、新島は軍艦教授所に出入りする彼らから興味のある話−アメリカでは日 本人使節が大歓迎されたことやアメリカ人の親切さ、人間としての立派さ、 日本人の夜郎自大さ、身分制、世襲制で固められた日本と違って、ケンタッ キーの山の中で育っても能力があれば大統領になれる実力本位のアメリカ、 ガス灯の明るさやアイスクリームの美味さまでも−聞く機会があったであろ う16)

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)洋式帆船快風丸に乗船

新島は文久 2(1862)年 11 月から翌年 1 月までの 70 日間アメリカ製の洋 式帆船快風丸(180 トン)に乗って江戸と瀬戸内海の玉島を往復した。軍艦 教授所で学んだ航海学の実習になった。彼は江戸にあって狭い藩の屋敷に住 んでいたが、桜田門外の変(1860 年)、東禅寺襲撃事件(1861, 62 年)、生 麦事件(1862 年)と攘夷派の反幕運動や外国人殺傷事件、百姓一揆などが 全国的に頻発する中で、太平洋という大海原が青年新島の鬱屈を吹き飛ば し、飛躍的に視野を拡大させた。海を辿れば外国へ行けることを示したこの 航海は彼に新しい広い世界があることを悟らせた。大海原は彼に未来への夢 と冒険心をかきたて、直接感性に訴える教育になったといえる。

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)三冊の書物による意識変革

①『聯邦志略』 20歳の新島は文久 3(1863)年、意識変革を引き起こす程の書物に出会っ

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た。当時の若者たちは外国情報を得ようとして、手っ取り早く漢文で書かれ た書物を読んでいるが、彼らにとって漢文は容易に読めたからである。新島 が最大のショックを受けたのは、アメリカン・ボードの中国派遣宣教師とし て 1830 年広東に渡ったブリッジマン(E. C. Bridgman, 1801−61)が中国語 で出版したアメリカ合衆国の歴史、地理、政治、文化、教育等について書か れた『聯邦志略』であった。北垣宗治教授の研究では、この書物を新島に貸 レンケイ してくれたのは杉田廉卿(1846−70)の可能性が高いという17)。この書は我 が国に嘉永 6(1853)年初めて輸入され、同種類のものがその後輸入されて いる。幕府もこの書物に注目して、箕作阮甫が訓点を加えて元治元(1864) 年江戸で出版し、佐久間象山、吉田松陰、横井小楠、橋本左内など、多くの 憂国の志士に読まれ、大きな影響を与えている。 新島は彼の乗ったワイルド・ローヴァー号の船主ハーディーから「何故密 航を企てたのか」を尋ねられてハーディーに提出した手記の中に、彼の密航 の動機になった『聯邦志略』について書いている。彼は「私はこの書を何度 も読み、脳髄が頭からとろけ出る程驚いた」(I read it many times and I was wondered so much as my brain wouldmelted out from my head.)〈sic〉 18)と最大級の

驚きを示している。その理由はこの書物には全ての問題が協議で決まるとい う表現がしばしば見られ、主権在民の民主主義が説かれ、独立宣言文の要約 が載っており、大統領や無月謝学校、貧民救護所、懲治監等についても詳し く書かれているためである。例えばアメリカには義務教育の学校があって、 無月謝であること、身の回りの世話ができなくなったお年寄りは施設に入 り、地域の人々に守られて余生を送っていること、そして彼が一番驚いたの は、国家の指導者(大統領)が人民の選挙で選ばれるということである。 「独立宣言文」は人間の基本的人権が謳い上げられ、人間の生まれながらの 平等、生命、自由、幸福の追求の権利を保障するために政府がつくられ、こ れらの目的を破壊するような政府を改廃(alter or abolish)することができ るという革命権が主張されている。新島が『聯邦志略』に載った独立宣言文 の要約の意味を大凡理解していたのではと思われる表現が彼の密航理由の手 記に見られるので引用したい。「我が国の支配者は合衆国の大統領のようで あらねばならないと思った。私はつぶやいた。おゝ!日本の支配者よ、なぜ

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あなたは我々を犬や豚のように虐げるのか。我々は日本人である。もしあな たが我々を統治するのであれば、あなたは我々をあなたの子どものように愛 さなくてはならない。(中略)なぜ幕府は我々を自由にしないのか。否! 我々はそのような野蛮な幕府を倒し(cast away)、アメリカ合衆国のように 大統領を選出しなくてはならない」19)。これらの文章は、新島が幕藩体制を 厳しく批判し、アメリカのように国家の指導者を国民が選ぶといった斬新な 考え方をもっていたことを想像させるような表現である。 1776年のアメリカの「独立宣言」や 1789 年のフランスの「人権宣言」、 そして 1946 年の日本国憲法に高らかに謳い上げられている国民主権や基本 的人権の思想は、新島が生きていた幕藩体制下には微塵もなかった。個が圧 殺され、階層、身分の上下関係にがんじがらめに縛られて、窒息しそうにな っている彼にとって、太平洋を隔てたアメリカが日本とはまったく異なった 体制で、そこに住む人民が主体的な生き方をしていることを知ったことは、 「脳髄が頭からとろけ出る程驚く」に値する大きな発見であった。新島は社 会体制と人間の生き方の関係にも気づいていたのではないかと思われる。 元治元(1864)年 6 月、21 歳の新島は箱館から密航を企てるまでの 2 カ 月弱、開港地にある各国の領事館や外国船やロシア病院や海防施設に興味を 示している。例えば弁天台場(弁天崎砲台)について彼は次のような兵学的 知識を示している。即ち敵船が弁天台場から離れて航行すれば、我が国の球 形の弾丸では届かないので台場は無用の長物であるという20)。なぜなら我が 国の大砲の弾丸は当時 1 km ぐらいしか飛翔しないのが多かったからであ る。幕府は財政的危機にある各藩に膨大な費用のかかる台場の建設を各地に 命じているが、当時の日本製の大砲の能力からして台場が役立たないことを 新島は指摘するのである。ちなみにこの弁天台場は幕末の洋式兵学者武田斐 三郎(1827−80)がオランダの築城書をもとに設計したもので、10 万両の巨 費を投じて完成した砲台であった。江戸幕府は安政 4(1857)年に完成した 武田斐三郎設計の西洋式砦である五稜郭と共に、文久 3(1863)年完成した 弁天台場を北の守りとして重要視していた。従って新島が想像する以上に飛 翔距離のある最新の大砲が備え付けられていた筈である。 新島は、10 年前の吉田松陰と違って外国を夷狄とは捉えていなかった。

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日本より文化、文明の進んだ国だと認識していた。彼はアメリカ製の快風丸 が、軍艦教授所で学んだ学問によって、我が国の帆掛舟とは格段に進歩した 外航船であることを理解する専門知識をもっていた。 ②キリスト教関係の書物 新島の青少年期(1850 年代後半∼60 年代前半)は外国の情報を求める若 者が増え、キリスト教を知ろうとするためではなく、外国情報を得るため に、キリスト教関係の書物が読まれていた。上海や香港で印刷されて、長崎 から輸入される書物は幕府の舶来図書の検閲を受けるが、書名だけでは中味 を理解することができず、また検閲の量が急激に増えたこともあって検閲制 度が形骸化していた21)。安政 6(1859)年以降開港場で外国人が持ち込む場 合や、来日した宣教師たちが持ち込む場合もあった。 新島はキリスト教に関心をもっていても、当時それを日記等に書き留めて おくことはできなかった。しかし彼の友人の発言や、彼が残した僅かな資料 が意外な事実を我々に示している。彼の友人で、蘭学や英学を学び、安政 3 (1856)年蕃書調所に入り、洋書の翻訳や通弁をすることになる津田仙(1837 −1908)は文久 3(1863)年新島が秘かに聖書の研究会に参加していたこと を後年次のように語っている。「余が若年の頃は耶蘇教とし言へば、一般に 悪しざまに罵るもののみありしが、友人に杉田廉卿なる人あり。(中略)当 時廉卿は翻訳方にて福地源一郎氏及び余などと務向の同じかりしまま、至っ て親しかりき。廉卿は英書と蘭書を解ししが、元来宗教心ふかき人として、 解剖学など究めゆくに従い、遂に神を認め、而して之を奉ずるには基督教な らざる可らずと信ずるに至りぬ。新島襄氏即ちそのころの七五三太君に斯教 をすすめしもこの廉卿なり。かくて廉卿は漢籍に通ずる吉田賢輔らと共に、 英訳、漢訳の教書を調べ、まことに神こそ天地の主宰なれと主張しぬ」22) 津田仙も杉田廉卿も吉田賢輔も新島の友人或いは先生で、彼らは当時幕府の 役所に出仕していながら、秘かにキリスト教の研究会に参加しているという のは注目に価いする。 新島は 1865 年 10 月、ハーディーに提出した密航理由の手記で、ハーディ ーにキリスト教を自由に学ぶことも密航の理由の 1 つであることを理解して もらうために、最大限記憶を辿りながら自分のキリスト教認識を次のように

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綴っている。「私は初めて神を理解しました。神は大地を大空から分け、大 地に光をつくり、草や木や人間や鳥をつくりました。そして男の脇腹の骨を 切って女をつくりました。(中略)私はイエス・キリストが聖霊の子(Son of Holy Ghost)であることがわかりました。そして彼はあらゆる世界の人々の 罪のために十字架にかけられました。従って我々は彼を我々の救い主 (Saviour)と呼ばねばなりません。(中略)それから私は神に感謝しなくて はなりません。私は神を信じ、神に正直にならねばなりません」23)。「一つの 考えが私の頭にひらめきました。それは私の両親が私をつくり、育ててくれ ましたが、本当は天父(Heavenly Father)のものです。従って天父を信じ、 天父に感謝し、天父の差し出す道に突き入らねばならないということで す」24) これらの文章から新島が旧約聖書の創世記等を読んでいることがわかる。 そしてキリストが聖霊の子であり、我々の救い主であり、天父であるという 彼の理解は、キリスト教の中核概念を押さえているといえる。彼は密航理由 の手記から 20 年たった明治 18(1885)年に書いた自叙伝(My Younger Days)で、彼のキリスト教への開眼をもう少し洗練された表現で述べてい る。「神を父として認められるようになってから、私はもはや私の両親と離 れ難く結び合わさっているとは感じなくなりました。私は子としての関係に おける孔子の教えが狭すぎ、誤りであることを初めて悟りました。私はその 時申しました。『私はもはや私の両親のものではなく、神のものである』。私 を父の家に強くつなぎとめていた丈夫な絆がその瞬間ばらばらになって断ち 切られました。私はその時私自身の道を歩まねばならないと感じました。私 は、私の地上の両親よりも天父に仕えねばなりません。この新しい考えが藩 主を捨てて、家や国家を一時離れる決心をする勇気を私に与えてくれたので す」25) 新島はこれまで身につけていた忠君や親に対する孝行を重視する封建倫理 をキリスト教の世界観によって克服し、彼を拘束していた幕藩体制の縛りか らも自由になることができた。幕府によって厳禁とされていた新しい価値基 準に従って彼は自分の生き方を規定し、「大死一番の飛躍」(salto mortale) をなし遂げたことをハーディーに理解してもらいたかったのであろう。彼は

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キリスト教関係の書物によって意識の変革をなし遂げ、それが密航という大 きな決断を可能にする要因の 1 つになったのでは、と私は考える。 新島のキリスト教理解は、上述のごとく外国の文化を理解するためといっ た表面的なものではなかった。キリスト教の本質に迫っている。例えば箱館 からボストンまでの約 1 年間の海上生活で耽読した漢訳聖書の「ヨハネ伝」 3章 16 節「神はそのひとり子を賜ったほどに、この世を愛して下さった。 それは御子を信ずる者がひとりも滅びないで永遠の命を得るためである」 (原漢文)に遭遇し、彼は最も感銘を受けたという。膨大な聖書の中で、こ の個所を「福音の要となる聖句」26)と彼に言わしめるだけの聖書理解がそれ までに深まっていたとは驚きである。この問題は専門の聖書学者のさらなる 研究を待ちたい。 ③『ロビンソン・クルーソー』 文久 3(1863)年、満 20 歳の新島が『聯邦志略』やキリスト教関係の書 物と同じく大きなショックを受けた書物にダニエル・デフォーの『ロビンソ ン・クルーソー』がある。彼は「この書は私に外国を訪れたい願望を引き起 こした」27)と書いている。 本書は 1719 年、イギリスで刊行され、オランダ語に訳されたものを日本 語に重訳したもので、『イソップ物語』とともに幕末に広く読まれていた。 『ロビンソン・クルーソー』には当時 2 種類の翻訳書があったが、新島が読 んだのは横山由清訳の『魯敏遜漂行紀略』と黒田麹蘆訳の『漂荒紀事』のう ち、後者即ち黒田訳であろうと、日本近世英学史の研究家重久篤太郎教授は いう28)。その理由は京都大学図書館が『漂荒紀事』三巻六冊の写本を収蔵し ており、各冊の奥書に「安中侯板倉氏蔵本借写」の文字があり、安中の板倉 勝明侯の甘雨亭叢書に入っていたものではないかと推察する。もう 1 つの理 由は、横山の訳本はダイジェスト版で、「最も省略して其大体を挙げ、児童 の嬉戯に供へしもの」29)と横山自身が書いているからである。 新島は幼い頃から祖父の寵児であったので、彼は祖父に『ロビンソン・ク ルーソー』を見せて読むように勧めた。すると祖父は読んで次のように孫に 忠告した。「お前、こんな本は読んではいけない。私はこの本がお前を誤っ て導くのではと心配している」30)。この祖父はひたすら努力して足軽のうち

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の最上級の地位にまで登りつめ、77 歳まで何人かの足軽を監督し、上役の 命に従って雑役を勤める信頼と責任のある役についていた31)。硬直化した社 会に不満を募らせている孫が『ロビンソン・クルーソー』を読んで、あらゆ ることに果敢にチャレンジする主人公ロビンソン・クルーソーの生き方に共 鳴し、現状打破への一縷の望みを抱いたとすれば、祖父は新島家の将来が危 ぶまれると直感したのであろう。 『ロビンソン・クルーソー』の主人公は 17 世紀中頃の清教徒革命を成功に 導いた清教徒たち−聖書の教えを純粋に守り、イギリス国教会の腐敗を糾弾 する正義感と行動力をもった勤勉な中産階層−がモデルになっていた。具体 的には『ロビンソン・クルーソー』には緻密な計画性と合理的な行動によっ て、絶海の孤島で孤独に耐えてたくましく生き抜き、28 年後に文明世界に 戻ってきた独立自尊の主人公が描かれている。この市民革命を推進し、18 世紀後半の産業革命を牽引する自立した人間の生き方は、体制に従属し、行 動の自由を奪われて呻吟していた新島に新しい生き方のあることを気付かせ た。自分の置かれている立場を「籠の鳥」とか「袋のネズミ」32)と表現し、 自由に飛び立ちたい欲求に駆られている彼に、ロビンソン・クルーソーのよ うな奔放な生き方が彼に新しい未知の世界に挑戦する意欲を喚起したのであ る。 20歳の新島にとって、この年に読んだ 3 冊の書物が彼の価値観、人生観 を激的に転換させる起爆剤の役割を果たしたといえよう。

〈おわりに〉新島七五三太は何故密航を企てたのか

新島の密航には遠因と近因がある。遠因は既に見てきたように、彼が生ま れ育った我が国の内憂外患、疾風怒濤といった時代背景である。幕藩体制崩 壊の兆しが顕著になり、国防の責を負う武士階級にとって、外圧を阻止し、 内治に貢献するという武士の使命感が彼に働いていたことが考えられる。 私は次に新島の密航について、まず代表的な 2 人の研究者の分析を紹介し たい。そして最後に私の解釈を述べたいと思う。 最初に挙げる森中章光(1894−1990)氏は同志社における新島研究の先達

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として、氏の果たした役割は過小評価すべきではない。しかし氏が新島研究 に没頭し、新島に魅せられ、盛んにその成果を発表していた頃は、丁度我が 国が昭和 12 年日中戦争を開始し、引き続いて昭和 16 年太平洋戦争に突入し て、東京帝国大学の教授の中に熱狂的な皇国史観を教壇から鼓吹する国粋主 義的歴史学者がいた時代でもあった。森中氏は主著である『殉国の教育者新 島襄先生の生涯−海外修学篇』(昭和 17 年刊)で国士風の新島を描き、時代 を反映した表現を多く使っている。例えば次のような文章がある。「戦運漲 り、国運の前途暗澹たるを思ふ時、彼は憂国の至情に胸をうって、熱涙滂 沱、大義のために彼自身からも亦起たんことを希って止まなかったのであ る」33) 新島は箱館滞在中ロシア正教の来日宣教師ニコライ・カサトキン(I. D. Kasatkin, 1836−1912)の求めに応じて彼の日本語、日本文化の家庭教師を引 き受けた。そのテキストに使った『古事記』について森中氏の叙述を紹介し よう。「惟ふに、彼が江都を去って遠く函館湾頭に国家の危機を思ひ、深憂 の胸を痛めつつも、日本民族の精神生活に於ける統一原理を具現せる、日本 民族の悠久なる大理想を宣言せるこの神典、日本民族の萬邦無比なる国家的 精神が最も根深く、最も力強く全巻に貫流充溢せるこの古典…」34)。この古 典とは『古事記』のことであり、ここに当時の日本思想における『古事記』 の位置づけが、そして森中氏の『古事記』の評価が如実に示されている。 森中氏が言う「弐十歳前後の青年新島七五三太はこの渾沌たる世相を眺め て、如何に感じたことであろう。おそらく彼の胸中憂国の情制し難きものが あったに違ひない」35)といった理解だけでは彼の密航という大胆な行為を表 現することは困難ではなかろうか。 新島の青少年時代は、我が国がいつ何時列強に侵略されるかも知れないと いう危機的状況にあったことは事実である。しかし憂国の情だけでなくもう 少し複数の理由を挙げて立体的、総合的に彼の心理や行動を理解しなければ ならない。 本学の法学部で政治思想史を担当されていた伊藤彌彦教授は北垣宗治編 『新島襄の世界』(1990 年刊)に「新島襄の脱櫪」という題で論文を載せて いる。新島の密航について直接言及し蘊蓄を傾けた論文で、教授の独自の解

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釈が滲み出ている。次に教授の分析を紹介したい。 伊藤教授は最初に新島の密航を「脱櫪」36)というキーワードを用いて説明 する。「脱櫪」の「櫪」とはかいばおけ、馬小屋を意味し、脱櫪とは馬小屋 に縛られている馬が自由を求めて脱出することをいう。新島は江戸の約 4000 坪の方形の安中藩邸で生まれ育ち、この閉鎖的な空間が彼の世界であった。 教授は次のように述べている。「脱国に関して従来からいわれている国家的 危機意識とか西欧探索といった積極的かつパブリックな諸動機もさることな がら、幕末期の新島襄の抑圧と飛躍の足跡をたどってみると、もっと内面的 でなまなましい私的動機、また旧社会から飛び出したいという局面突破的な 動機も大層強烈であったといわねばならない」37) 次に伊藤教授は新島の脱櫪の動機を次のように述べている。「もちろん私 的動機がすべてだったと考えているわけではない。もしそうならば私的動機 が満たされた段階で、平凡な一市民に堕してしまって、積極的な社会活動な ど続けなかったであろう。かといって公的使命観やキリスト教的信条からの み新島の行動動機を解釈するのではあまりにもきれいごとすぎると思われ る。むしろ人間新島襄のなかのどろどろした私的動機がやがてパブリックな 社会的活動に展開していくという構造のなかに新島の偉大さがあったと思わ れる」38) 私も伊藤教授の分析に大凡そ同意見である。しかし 1 つこだわるのは新島 にとって密航という大胆な行動を正当化する大義名分即ち行動の理由づけと なるはっきりした根拠と推進力があった筈である。それが彼のいう「国家の 為」ではなかったか。 新島はニューイングランドに到着後たびたび父民治や弟双六に密航の理由 を「国家の為」だと言っている。彼にとっての「国家」とはちっぽけな安中 藩のことではなく、安中藩を越えて幕藩体制崩壊後の我が国の在り方が常に 彼の念頭にあった。彼の『聯邦志略』を読んでの驚きはアメリカ合衆国とい う近代国家が我が国と決定的な相違があるということであった。万延元 (1860)年の遣米使節に同行した人たちから収集したアメリカ情報も彼には 大きなカルチャーショックであったと思われる。新島は 1865 年 10 月、ハー ディーから「何の目的でアメリカに来たのか」と問われ、「……唯々種々の

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学科且聖経を修業仕、国家の為万分の力を竭さんと存し……」39)と述べてい る。近代的学問やキリスト教を学びたい。それが国家の為即ち近代国家の形 成に役立つのだと考えていたのではないか。 新島は 1872 年 5 月から 1 年 3 カ月、岩倉使節団の一員として米欧 8 カ国 の教育状況を調査して廻った。そこで彼はアメリカを始めヨーロッパの近代 国家における大学の数をアメリカ 368、イギリス 34、ドイツ 30 と具体的に 挙げている40) 新島の畢生の事業は、日本にキリスト教を宣教し、キリスト教主義の中等 教育機関をつくり、それを大学に昇格させることであった。そして究極的に はアメリカのような自治自立の人民の力によって社会の変革を可能にするデ モクラシーの国家の建設を夢想していたといえないだろうか。彼にとってこ れらの事業はお国の為であった。明治政府が東京大学をつくって統治 (government)に必要な人材の育成を目ざしたのに対して、新島は地方にキ リスト教主義の学校をつくり、人材ではなく人物の育成を目ざしていた。 新島の生涯を繙くと、密航はもとより彼が帰国後亡くなるまでの 15 年間 に強力な大義名分があったからこそ不可能を可能にするような活動ができた のではと考える。例えば明治 8(1875)年の学校設立時は筆舌に尽くし難い 困難に出合い、山本覚馬の協力もあって 1000 年の都のあった京都の地にキ リスト教主義の学校を創ることに成功した。明治 15(1882)年から始まる キリスト教主義の大学設立運動および資金募集の運動も困難を極めた。明治 21(1888)年の教会合同問題も、主義主張を貫こうとする新島の考えに反対 する人たちが身内からも出てきた。 新島は 47 歳という短い生涯で、日本の風土や体制に馴染まないことを十 分承知の上で、なおかつ行動の理由づけとなるはっきりした根拠(大義名 分)を見出し、万難を排して実現に取り組む姿勢を示した。彼は「知足安 分」という生き方の対極を生き続けたといえる。 新島の畢生の目的は「自由教育・自治教会・両者併行・国家万歳」41)であ った。彼のいう「国家」とは第 2 次大戦中繰り上げ卒業をして戦地に送られ た学徒兵が体験した国家主義的な国家ではなく、自治自立の人民によって構 成され、彼らが変革の主体になるような民主主義的な国家であった。

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新島は何故密航を企てたのかという問いに対して、伊藤教授が指摘するよ うに、色々な理由が考えられる。封建的桎梏から逃れたいだけではない。キ リスト教を自由に学びたいという願望もあった。私はそれらに加えて幕藩体 制崩壊後の近代国家を模索することも大きな目的ではなかったかと考える。 新島を教育者或いは宣教師という視点から迫る方法もあるが、彼は自由教育 (liberal arts education)を、そしてプロテスタントキリスト教のうちの会衆 派教会(Congregational church)を通して、彼の理想とする近代国家像を米 欧滞在中及び帰国後に着々と構築し、風土の異なる日本の地でデモクラシー 国家の実現に粉骨砕身した。彼は勝海舟の問いに対して彼の理想国家の完成 を 200 年先だという遠大な計画をたてていた。彼は「千里の志」をもって、 万難を排して、自分の健康を省みず、目的の実現に邁進した。 もう一度、何故彼は密航を企てたのか、という問いに対して、それは彼の 信ずる vision(幻、理想像)を求め、アメリカでそれを実現するための方策 を探求するためであり、それが「お国のため」になると確信していたからで はないか、というのが私の結論である。 環境(歴史的、風土的)が人間をつくる。しかし人間は環境を変える力を 潜在的にもっている。新島は幕藩体制の中で生きながら、体制に矛盾を感 じ、体制を変革して新しい体制を構築しようとして懸命に生きた典型的な人 物であるといえよう。それを実現するために当時とてつもない行動(密航) をとったのではと考える。 出典

1)A. S. Hardy ed., Life and Letters of Joseph Hardy Neesima,(Houghton Mifflin & Co., 1891),p.40(以下 Life & Letters と略す).

2)近盛晴嘉著『ジョセフ・ヒコ』人物叢書 114(吉川弘文館、1974 年)、p.63. 3)北垣宗治「万次郎とヒコと新島襄」(Doshisha Spirit Week 2005 春)、p.138. 4)土屋喬雄、玉城肇訳『ペルリ提督日本遠征記』(四)(岩波文庫、1958 年)、p.65.

5)明治維新史学会編『講座 明治維新 1.世界史のなかの明治維新』(有志社、2010

年)、p.45.

6)吉田松陰 道家龍助宛書簡 嘉永 6 年 6 月 6 日付『吉田松陰全集』5 巻(岩波書 店、1935 年)、pp.152−153.

(22)

7)重久篤太郎「新島先生と洋学」『新島研究』31 号(1965 年)、p.11.

8)T. ハリス著 坂田精一訳『日本滞在記(下)』(岩波文庫、1954 年)、pp.86−89. 9)Life & Letters, pp.21−22.

10)ditto p.27.

11)尾崎直紀宛(安政 5 年 7 月上旬)『新島襄全集』3 巻 書簡編 1(同朋舎、1987

年)、p.5.

12)Life & Letters, p.28. 13)ditto 14)島尾永康「新島襄と科学」『新島研究』57 号(1980 年)、pp.11−12. 15)同上、p.13. 16)服部逸郎著『77 人の侍アメリカへ行く−万延元年遣米使節の記録』(講談社文 庫、1974 年)、pp.166 ff. 17)北垣宗治訳「新島襄の生涯と手紙」『新島襄全集』10 巻 注解、p.382. 18)Life & Letters, pp.3−4.

19)ditto pp.4−7.

20)「函館紀行」『新島襄全集』5、p.18.

21)小沢三郎著『幕末明治耶蘇教史研究』(亜細亜書房、1944 年)、p.157. 22)「津田仙氏の信仰経歴談」『護教』344 号、1898 年 2 月、p.2.

23)Life & Letters, pp.7−8. 24)ditto, p.9.

25)ditto, pp.30−31.

26)「ヨハネ伝第十三章十六節ノ句ニツイテ」『新島襄全集』2 巻 宗教編、p.309. 27)Life & Letters, p.30.

28)重久篤太郎著『日本近世英学史』(教育図書、1941 年)、pp.138−142.

29)横山由清訳『魯敏遜漂行紀略』安政 4 年 9 月の復刻版の解題(丸井工文社、1975 年)、p.3.

30)Life & Letters, p.30.

31)鏑木路易「安中藩制と新島家の人々」北垣宗治編『新島襄の世界−永眠百年の時 点から』(晃洋書房、1990 年)、pp.17−19.

32)Life & Letters, p.7.

33)森中章光著『殉国の教育者新島襄先生の生涯−海外修学篇』(泰山房、1942 年)、 p.41.

34)同上、p.50. 35)同上、p.40.

(23)

36)伊藤彌彦「新島襄の脱櫪」北垣宗治編『新島襄の世界−永眠百年の時点から』(1990 年)、p.41 ff. 37)同上、p.46. 38)同上、pp.46−47. 39)父民治宛書簡 慶応 3(1867)年 3 月 29 日付『新島襄全集』3 巻、p.32. 40)「地方教育論」『新島襄全集』1 巻、p.408. 41)横田安止宛書簡 明治 22(1889)年 11 月 23 日『新島襄全集』4 巻、p.246.

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