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阿衡の紛議 : 上皇と摂政・関白

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Academic year: 2021

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阿 衡 の 紛 議 は   じ  め  に   い わ ゆ る阿 衡 の 紛 議 は、 一 般 に 仁 和 三年 ( 八 八七 ) 閏 十 一 月 、 即 位 直 後 の 宇 多 天皇 が 基 経 に与 え た勅 書 の 中 に あ っ た 、 ﹁ 宜卞 以 二 阿 衡 任 一 為 中 卿 之 任 上 ﹂ と い う 言葉 を と らえ て基 経 側 ( 実 際 には基 経 の 家 司 藤 原 佐 世 の 解 釈) が 阿 衡 に は典 職 な しと 批 判 し 、基 経 が   切 の 政 務 か ら手                               む を ひ いた こと で国政 が渋 滞 し た事 件 を いう 。 そ ん な わけ で こ の 事 件 は 言 葉 尻 を と ら え て の 些 細 な ト ラブ ルと理 解 さ れ が ち であ る。 意 外 な こ と だ が 、 これ ま で事 件 そ のも のを分 析 し た研 究 が な い のも 、 そ う し た 理 解 と 無 関 係 では な か ろう。   こ の事 件 に つい て留 意 す べき 点 は、 第 二 に、   ﹁ 阿 衡﹂ の 語 を 用 いた のが 発 火 点 に はな っ た が 、 そ れ 以前 に、 宇 多 と基 経 と の間 で 紛 争 に 発 展 し かね な い状 況 が あ っ た こと であ る。 し か し こ れ ま でそ の辺 り に つ いて関 心 をも つこ と は殆 ど な か っ た。 第 二 に 、 こ の紛 争 に お い て は、 も っ ぱ ら基 経 側 の 反 応 だ け が取 り上 げ ら れ 、宇 多 側 の 対 応 に つい て検 討 さ れ な か っ た こ と であ る。 し かし 事件 の 経 過 を 子細 に辿 る な ら、 摂 政 ・ 関白 に 対 す る宇 多 側 の認 識 、 端 的 に いえば 誤 解 が紛 議 を惹 き 起 こ し、複 雑 にし た要 因 であ っ た こ とが 分 か る はず であ る。 阿衡 の 紛 議 に つ いて はそ の辺 り か ら抜 本 的 に 検 討 し直 す 必 要 が あ る。   第 三 に、 こ の 紛 争 は 結 局 摂 政 ・ 関 白 の立 場 や 職 権 を め ぐ る ト ラ ブ ル                                                     であ っ た から 、 こ の 事 件 の 検 討 は お の ず から 摂 政 ・ 関 白 論 と な ら ざ る を得 な いが 、 これ ま で の 研 究 では、 摂 政 や関 白 の登 場 す る契 機 を 皇 位 継 承 と の関 係 にお いて み る視 角 を欠 い て い た こと であ る。   良 房 ・ 基 経 が 摂 政 や 関 白 にな り得 た根 拠 は 、通 説 のよ う に 天 皇 の 外 戚 ( 近 親 ) であ っ た り 、 天 皇擁 立 に尽 力 し た 点 にあ っ た こ と に は違 い な いが 、 七 世 紀 末 の藤 原 京 時 代 、持 統 女 帝 の 孫 文 武 の即位 が 女 帝 と不 比等 の 協 力 に よ っ て実 現 さ れ たよ う に、 皇 位 継 承 は 一 時 期 を除 いて天 皇 家 と藤 原 氏 と の 妥 協 の産 物 であ っ た と い っ て よ い 。 し た が っ て良 房 ・ 基 経 に至 り 、 天皇 権 の 代 行 あ る い は天 皇 の 補 佐 ・ 後 見 の職 が 摂 政 ・ 関 白 と いう 形 で明確 化 し は じ め た こ と に つい ても 、 そ れ ぞ れ の時 期 にお け る 皇 位継 承 と の関 わ り方 か ら見 る必 要 が あ っ た。 これ ま で欠 け て いた そ のよ う な 視 点 か ら 見 る時 、 摂 政 ・ 関 白 はあ ら た な 相 貌 を 表 す に違 いな い。   以下 本 稿 で は、 右 に述 べ た よ う な 観 点 か ら摂 政 . 関 白 の登 場 し た経

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窓 史 緯 や そ の政治 史 的意 味 を明 ら か に し、 そ れ を 通 し て阿 衡 の 紛 議 の 真 相 を解 明 す る こ と に努 め た い。   な お 本文 中 、 と く に 記 さ な い 限 り 史 料 は ﹃ 三代 実 録﹄ に よ って い る。 一  摂 政 ・ 関 白 の系 譜 ① 摂政 の 条件   摂 政 の系 譜 を明 ら か にす る た め に、 順序 は逆 にな るが 、 基 経 が 摂 政 と な っ た経 緯 か ら検 討 を はじ め た い 。   基 経 に、   ﹁ 保 コ 輔 幼 主 嚇摂 コ 行 天 子 之 政 嚇如 二 忠 仁 公 ( 良 房 ) 故事 一﹂ と の 詔 が下 さ れ た の は貞 観 十 八年 ( 八七 六 ) 十 一 月 二 十 九 日 のこと で あ る。 こ の日清 和 天 皇 ( 二十 七 歳 ) は九歳 の 皇 太子 貞 明 親 王 こと 陽 成 天皇 に 譲 位 し、 詔 を下 し た の であ るが 、 そ の 詔 には熱 病 に悩 まさ れ て ﹁ 不レ 堪 レ 聴 二 朝 政 こ るだ け でな く 、 近 年災 異 が頻 り に起 こり 、 そ の こ と を思 う たび に気 が 沈 み、 譲 位 を 決 意 し た と あ る。 確 か に暴 風 ( 貞 観 十 六年 ) や 大 旱 ( 同 十 七 年 ) 、 淳 和院 ・ 冷 然 院 の焼 亡 ( 同 十 六 ・ 十 七 年 ) など 災 害 が 相 次 い で起 こ っ て い る 。 と く にこ の 年 ( 貞 観 十 八年 ) 四 月 の 大 極 殿 の焼 失 は、 遷都 以来 始 め て の 出 来 事 と いう だ け でな く 、 そ れ が内 裏 の正 殿 であ っ た だ け に 清 和 の シ ョ ック は小 さ く な か っ た ろ う。 皇 太子 貞 明 が 、 清 和 自 身 が 即 位 した年 齢 ( 九歳 ) に な っ て い た こ と もあ っ て これ が 譲 位 に踏 切 ら せ た理 由 と 思 わ れ る。   こ の時 基 経 は右 大 臣 で、 上 席 に は 左 大臣 源融 が い たが 、 右 の 詔 に ょ

昆 懸 跨 朕 且不 ・ 欲・ 奪 真 志 こ とあ っ て 、融 は 体よく引 退 させら れ て い る 。 これ にょ り基 経 は政 界 の ト ヅ プ と し て陽 成 を補 佐す る こ と に な る。   さ て わ たく しが 留 意 し た い の は、 譲 位 に 際 し て上 皇 清 和 が基 経 に求 め た そ の立場 であ る。 詔 に は左 大 臣 源 融 の こと を述 べ たあ と、 次 の よ う に見 え る。   少 主乃 未 レ 親二 万機 乏 間 確 摂レ 政 行レ 轟 許、 近久 忠仁公乃 如レ 罫   佐朕身 久 相扶仕奉崢 又古人 有 ・ 言 利 上 多岐 時瀰下毳 奈所・   閾 是以 太上天轟 伊 号毛 簍 亦諸乃 服 御 乃 物停 賜 布   そ の 主 旨 は、 忠 仁 公 ( 良 房 ) が 自 分 ( 清 和 天皇 ) を 補 佐 し た よ う に、 ﹁ 少 主 ( 陽 成 天 皇 ) ﹂ が国 政 を執 れ な い間 は、 ( 少 主 に 代 わ っ て) 基 経 が摂 行 し てほ し い、 と い い、 自 ら の 譲 位 に つい て は、 国 家 財 源 の 負 担 が多 く な る か ら、   ﹁ 太 上 天 皇 ﹂ の 称 号 も そ れ に付 随 す る服 御物 も 辞 退 す る、 と いう も の であ る。 これ は上 皇 権 の放 棄 を表 明 した こと に 他 な ら な い。 これ 以 前 、 淳 和 天 皇 が譲 位 に際 し て、   ﹁ 上 多 き 時 に は下 苦 し む﹂   ( ﹃ 続 日 本 後紀 ﹄ 天長 十 年 二月 二十 八 日 条) と し て や は り 上 皇 の 称 号 とそ の待 遇 の辞 退 を 申 し 出 た こ と が あ る が、 そ れ は当 時 、嵯 峨 上 皇 が存 在 し て おり 、 二上 皇 と な る か ら であ っ た。 し か し清 和 の場 合 、上 皇 は いな か っ た から 、 辞 退 の真意 は別 の所 にあ っ た と み な け れ ば な ら な い 。 そ れ は清 和 が 上 皇 の身 分 を 放棄 す る こ と で、 基 経 に、自 ら に 代 わ る立 場 を求 め たと し か考 え ら れ な い 。 こ の事 実 は摂 政 の本質 を考 え る上 で き わ め て重 大 であ る。   これ に 対 し て基 経 は 二 日後 の十 二月 一 日 、  ﹁ 右 大臣 従 二位 兼 行 左 近 衛 大将 藤 原 朝 臣 基 経 抗 表 辞 二 摂 政 こ と て辞表 を提 出 し た が、 そ の中 で

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阿 衡 の 紛 議 基 経 は次 の よ う に述 べ て い る 。     伏 奉 二 去 月 廿 九 日伝 国  詔 命 一 日、 少 主 未 レ 親 二 万機 一之 間 、 臣 基 経

    兼 資 、 况 先 帝 之 親舅 、  陛 下 之外 祖 、人 望 皆 帰 、 官 歯 既 貴 ⋮ ⋮   忠 仁 公 こと 良 房 は徳 が 高 く功 績 も 大 で、仁 義 の資 質 を兼 ね 備 え て い た だけ で なく 、 先 帝 ( 文 徳 天皇 )の親 舅 に し て陛 下 ( 清 和 天皇 )の外祖 父 であ った。 だ か ら こそ 人望 を集 め、 官 も 尊 い の であ る、 と。 す な わ ち基 経 の 考 え は、良 房 の故 事 にな ら っ て自 分 に国 政 を 摂 行 せよ と の 仰 せだ が 、 良 房 が 摂 政 と な っ た のは ( 人 格 資 質 はも と よ り) 天皇 の ﹁ 外 祖 父 ﹂ だ っ た から だ 、   ( 自 分 は そ う で は な い) と いう も の であ り 、 そ れが 辞 退 の理 由 と な っ て いる。 基 経 の場 合 、 陽 成 天 皇 は基 経 の 妹 、高 子 の 子 であ る から 、 基 経 は 天皇 の伯 父 に当 り 、 ミウ チ 関 係 で い え ば ( 外 ) 祖 父 の立 場 には 及ば な い。   し かし 清 和 は基経 の 辞 退 を認 めな か っ た 。 そ こ で 基 経 は 二 度 目 の 上 表 文 を 提 出 す る が ( 同十 二月 四 日) 、 そ れ に は幼 帝 に対 す る 基 経 の考 え 方 が 述 べ ら れ て い て注 目さ れ る ( な お 、上 表 文 は す べ て 菅 原 道 真 作 。  ﹃ 本 朝 文粋 ﹄巻 四 に収 め る) 。     臣 謹検 ゴ 前 記 ↓太 上 天 皇 在 レ 世 、 未 レ 聞 ご 臣 下摂 7 政 、 幼 主 即 位 之 時 、     或 有 二 太 后 臨 冒 朝 、  陛 下 若 宝 調 重社 稷 {憂 調 思幼 主 (臣 願 公 政 之 可     レ 驚 二 視聴 一者 、 将 レ 聞 二 勅 於   陛 下 噛 庶 事 之 無 レ 妨 二 施 行 一 者 、 又 請 二     令 於 皇 母 ↓ ⋮ ⋮   す な わ ち 太上 天皇 が在 世 し て い る時 、 臣 下 が 政 務 を執 る と いう こ と は聞 いた こと が な い 。 ま た幼 帝 の場 合 、 そ の母 であ る皇 太后 が ( 幼 帝 に代 わ っ て) 政 務 を 行 な う こ と はあ る。 陛 下 が も し 国家 を重 ん じ幼 主 を憂 え る な らば 、願 わく ば ど う か天 下 の重 大 事 は 勅 を陛 下 ( 上 皇 ) に 仰 ぎ 、 そ の 他 の 小 事 は令 を皇 太 后 に請 う よ う にし て いた だき た い 、 と いう の であ る。 た だ し ﹃ 三代 実 録 ﹄ で は ﹁ 太上 天皇 在 世 云 々 ﹂ の 記 載       が なく 、 幼 主 の こと を思 う な ら 、  ﹁ 皇 母尊 位 之 後 、乃 許 二 臨 レ 朝 之 義 宀 臣竭 レ 力施 レ 功 、 不 二 敢懈 緩 こ と あ り 、基 経 は 皇 太 后 の 下 で政 務 を 執 る こ と を申 し出 て い る 。 のち の 編 纂 物 に ﹁ 太上 天皇 在 世 云 々﹂ の部 分 が 落 とさ れ て い る の は、 そ の後 の政治 過 程 を考 えれ ば 意 図 的 な も のと 思 わ れ る。 いず れ に せよ 、 こ こ に は 幼 帝 を代 行 す る の は 上 皇 ( 天 皇 の 父) も しく は皇 太 后 ( 天皇 の 母 ) と いう認 識 の あ っ た こ とが 示 さ れ て い る。   む ろ ん清 和 は これ も 許 さ ず 、結 局基 経 は 陽 成 の ﹁ 摂 政 ﹂ とな っ て い る。 元慶 三年 ( 八七 九 ) 九 月 九 日 、斎 宮 の 伊 勢 下 向 に供 奉 す る神 祗 大 副 大 中 臣 有 本 に対 し て、基 経 が ﹁ 代 二 天 皇 こ っ て勅 を下 し て おり 、 基 経 の役 割 を 知 る こと が 出来 る。   二度 にわ た る基 経 の 上 表 文 を通 し て知 られ る の は、 上 皇 や 皇 太 后 の 政 治 関 与 が 社 会 的 通念 と な っ て いた こ と であ る。 譲 位 が 一 般 化 す る な か で生 れ た 政 治 概 念 であ る こと は いう ま でも な い。 し たが っ て清 和 が 上 皇 の立 場 を 放 棄 し た の は 基 経 に 上 皇 権 を行 使 さ せ るた め であ り 、 基 経 の摂 政 は清 和 の上皇 権 を踏 襲 し たも の と い って よ い。 摂 政 が ﹁ 天 皇 ﹂ 権 の代 行 者 と な り得 た の は、何 より も 上 皇 にな り 代 わ っ て の こと であ り 、   ﹁ 上 皇 ﹂ 権 の 代 行 老 た る こ とが 第 一 義 であ っ た こと を 見落 と し て はな ら な い 。 こ こ で 摂 政 登 場 の 背 景 を理 解 す るた め に、 し ば らく 平 安 期 にお け る上 皇 の立場 に つい て見 て おき た い。

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②   ナ ジー オイ 相 承 と 承 和 の 変   そ も そも わが 国 で は、 上 皇 ( 太 上 天 皇) の政治 介 入 は、 当 然 の こ と と いわ な いま でも 決 し て異 例 な こと で はな か っ た。 藤 原 京 時 代 、 持 統 が孫 の文武 に 譲 位 し、 上 皇 と し て ﹁ 共 治 ﹂ し た よ う に、上 皇 は本 来 政                                           治 に 関 与す べき 立 場 と し て出 現 した も のだ っ た か ら であ る。 上 皇 の 地 位 お よ び身 分 に つい て はそ の後 、 法 制 上 、 天 皇 の次 位 に規 定 さ れ る が 、実 際 に は天皇 の 父 ( あ る い は母 ・ 兄 ・ 姉) であ る こ と 、 つま り家 父 長 と も いう べき 立 場 から 政 治 面 に上 皇 の意志 が 反映 さ れ、 奈 良 時 代 に は聖 武 や孝 謙 のよう に上 皇 が 大 権 を も ち 、 政 治 に 介 入す る の が む し ろ常態 にな っ て いる。 そ れ が 皇 権 の ス ム ーズ な継 受 を 目的 と し た譲 位 本 来 の 意 図 に 添 うも のであ っ た 。 し た が っ て譲 位 の 制 が確 立 し て いな い段階 では、 上 皇 の 行 動 や 発 言 は政 治 的 な 波紋 を誘 発 す る 可能 性 を含 ん で いた。 平安 初 期 の 弘 仁 元 年 ( 八 一 〇 ) 、 嵯 峨 天皇 の 即 位 直 後 、 平 城 上 皇 と の間 に 起 っ た薬 子 の 変 は、 譲 位 が 慣 例 化 す る 過 程 で早 晩 惹 き 起 さ れ る こと が予 想 さ れ た上 皇 権 力 と 天 皇 権 力 の対 立 が原 因 で あ り、                     ⑤ 起 るべ く し て 起 っ た事 件 であ っ た と いえ る。   し か も こ の 薬 子 の 変 は、 そ の後 に おけ る嵯 峨 の政 治 に大 き な 影響 を 及 ぼ す こと にな る。 と く にそ れ が 上 皇 と 天 皇 と の対 立 で あ っ た こ と に かん が み 、① 上 皇 権 の 抑 制 、 はも と より 、 ② 皇 権 そ のも の の 安 定 化 、 の必要 性 を痛 感 さ せ た。 上 皇 御 所 と し て の ﹁ 後 院﹂   ( 冷 然 院 ・ 朱 雀 院 ) を 京中 に 始 め て設 け た の が 前 者 ( ① )であ る とす れ ば 、 後 者 ( ② ) を 意図 し て案 出 さ れ た の が 、 次 に み るよ う な 皇 位継 承 に 独 自 の 原 則 を 導 入 し た こと で あ る。   す な わ ち薬 子 の変 によ っ て皇 太 子高 岳 親 王 ( 平 城 上 皇 皇 子) が廃 さ れ たあ と 、 嵯 峨 の 弟 大伴 親 王 が 立 太子 し た。 次 の淳 和 朝 で は 上 皇 嵯 峨 の皇 子 正 良 親 王 が 立 太 子 さ れ て い る。 そ のあ と正 良 こと 仁 明朝 で も 新 上 皇 淳 和 の皇 子 恒 貞 が皇 太 子 に立 て ら れ て い る。 これ ら に共 通 し て い る の は、 いず れ も現 天皇 の 皇 子 で は なく 、 上 皇1 1 前 天 皇 の 皇 子 が 立太 子 さ れ て い る こと であ る。 次 代 の皇 位 継 承 者 ( 皇 太 子) に、 そ の つ ど ﹁ 上 皇 の子﹂ を 立 て る と い う こ の方 式 は ﹁ 父 子 相 承﹂ で はな い し、 と い っ て ﹁ 兄弟 相 承 ﹂でも な い 。 具体 的 に は ﹁ 伯 叔 父 ←甥 ﹂を基 本 とす る                                                           ⑥ 継 承 であ り 、世 代 交 替 の 在 り方 から 、 わ た く し は ﹁ オ ジー オイ 相 承 し と 呼 ぶ こと にし て い る が、 上 皇 は現 天 皇 の父 で はな いた め に 、 そ の 立 場 や 権 限 はお の ず か ら抑 制 さ れ る こと にな る。 父 子 ( 嫡 系 ・ 直 系 ) 相 承 と の大 き な違 い であ る。 これ を 上 皇 権 の 抑 制 によ る皇 権 の 安 定 化 と み る ゆ え ん で あ る。  嵯 峨 や淳 和 の皇 子 が 一 代 を 置 いて そ れぞ れ 即位 し た と い う結 果 だ け を み る と 、 い か にも 嫡 系 相 承 ( 父 子 相 承) の ご とく であ るが 、 嵯 峨 の 意 図 す る と こ ろ はあ く ま でも ﹁ 譲 位 を 前 提 と す る皇 位 継 承 ﹂   ( オジー オ イ 相 承) にあ り 、そ れ は同 時 に譲 位 そ のも のを安 定 化 す る措 置 であ っ た と いえ る であ ろう 。 父 子 相 承 を 避 け 、 一 世 代 を隔 て る こと にし た の は即位 年 齢 の 低 下 を避 げ ると いう 意 図 も あ っ た と考 え る。   七 世紀 、持 統 女 帝 以 来 の皇 位 継 承 が嫡 系 相 承、 す な わ ち文 武 -聖 武                   ⑦ 1 基 王 へ と草 壁 の 嫡 系 に限 定 しす ぎ た た め に却 っ て混 迷 を招 き 、 結 局 奈 良 末 に至 り 、 そ の 皇 統 は断 絶 し た。 嵯 峨 の措 置 は、 こう し た 父 子 ( 嫡 系) 相 承 のも つ 危 険 性 に学 び つつ見 出 だ した 新 た な皇 位 継 承法 で あ っ た。 嵯 峨 はそ の 実 現 のた め に皇 后 の立 場 を 重視 し 、後 宮 の 再 編 ・

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阿 衡 の 紛 議                               整 備 に腐 心 し た こと は 別 に述 べ た の で、 繰 り 返 さ な い 。 女 御 ・ 更 衣 の 制 度 化 も 皇 族 賜 姓 も 、 ま さ にそ う し た目 的 実 現 に向 け て の 措 置 であ っ た。 し か し こ のよ う な嵯 峨 の 思 惑 も 、 承 和 の 変 によ っ て 一 挙 に消 滅 し た 。   承 和 九 年 ( 八 四 二 ) 七 月、 嵯 峨 上 皇 が 没 し て 二日 後 に 起 っ た、 い わ ゆ る承 和 の 変 の経緯 に つ いて は省 略 す るが 、 そ の 結 果 、皇 太 子恒 貞 は 責 任 を追 及 さ れ て廃 太 子 さ れ 、 翌 八月 、 仁 明 天 皇 の皇 子 道康 が皇 太子 に立 てら れ た。 留意 さ れ る のは、 廃 太 子 恒 貞 は前 天皇 ( 上 皇 ) の 皇 子 であ っ た から 、 こ の 事 件 に よ っ て仁 明 1 恒 貞 と いう 非 父 子相 承 か ら、 仁 明-道康 と いう父 子 相 承 へ と 切 換 え ら れ た こと であ る。 これ は譲 位 制 下 の皇位 継 承 、 い う な らば 平 安 朝 的 な 皇 位 継 承 法 の 安 定 化 を考 え て いた嵯 峨 の 意 向 にそ むく も のと い わね ば な ら な い 。                                     こ の 事 件 は嵯 峨 の 皇 后 嘉 智 子 と良 房 の利 害 の 一 致 によ っ て企 て られ た も のと い っ て よ いが 、 従 来 こ の 変 に 関 し て 、皇 位 継 承 の原 則 が 切 換 え ら れ た こと に注 目 す る こ と は な か っ た よ う に思 わ れ る。 そ れが 重 要 な の は、上 皇 の 政 治 介 入 を可 能 と す る条 件 が 再 び生 ま れ た か ら で あ る。 し かも 父子 相 承 は即 位年 齢 の 低 下 を も た ら す土 壌 と な っ た。   こ う し て上 皇 の存 在 が 重 視 さ れ る 状況 が醸 成 され つ つ も 、 現 実 の政 治 過程 で は、 しば らく 上 皇 が 登 場 す る こと はな か っ た。 そ の 後 の天 皇 が 、仁 明 天 皇 つい で文 徳 天 皇 と 二代 続 いて在 位中 に亡 く な っ て い る か ら であ る。 そ し てそ れ が上 皇 に 代 わ る存 在 と し て天 皇 の 母 方 の ミ ウ チ 、藤 原 氏 の介 入を 許 す 土 壌 と な っ た。 いわば 上 皇 権 の未 熟 さ が藤 原 氏 の政 治 介 入、 す な わ ち摂 政 登 場 の 誘 因 と な っ た の であ る。   こ のよう な推 移 を 見 れば 、清 和 が上 皇 と し て存 在 す る限 り 、 上 皇 に 代 わ るも の ー 摂 政 の登 場す る余 地 はなく 、 基 経 が 摂 政 にな る こと はな い。清 和 は基経 を摂 政 とす る た め に自 ら の上 皇 権 を 放 棄 し た の で あ る。 ③   良 房 の 〃 摂 政 "   基 経 の 摂 政 が 清 和 の上 皇 権 を 踏 襲 した も の であ っ た とす れば 、 そ の 際 引 合 い に出 さ れ た ﹁ 忠 仁 公 ﹂ こと 良 房 の立 場 も 同 種 のも の であ っ た と いう こ と に な ろう 。   た し か に 良 房 の 摂 政 も 上 皇 権 の代 行 と いう 意 味 合 いが強 い。 しば ら く 、 遡 っ て良 房 の 場 合 を 考 え てみ る。                   良 房 に 摂 政 の 詔 が 下 さ れ た の は貞 観 八 年 ( 八 六 六) のこ と で あ る。 た だ し こ れ 以前 、 天 安 二年 ( 八 五八 ) 八 月 、 文 徳 天 皇 が 亡 く な り、 良 房 の 娘 明子 所 生 の 皇 太 子 惟 仁 こと 清 和 天 皇 が 即 位 し た が、 時 に九 歳 の 幼 少 で あ っ た こ と から 良 房 が 事 実 上 の代 行 、 す な わ ち摂 政 の 任 に当 っ た こ と は こ れ ま で指 摘 さ れ てき た 通 り であ る。   ﹃ 公 卿 補 任 ﹄ に は良 房 に つい て、 即 位 の日 ﹁ 十 一 月 七 日 宣旨 為 二 摂 政 こ と あ り、 摂 政 の宣 旨 が あ っ た こ とを 記 す が 、  ﹃ 三 代実 録﹄ に は見 え な い。 後 世 の追 記 と み て よ い であ ろう 。   良 房 の場 合 留 意 さ れ る の は、 そ の前 年 、斉 衡 四年 ( 八 五 七) 二月 十 九 日、 太 政 大 臣 に任 命 さ れ て い る こ と で あ る。 し かも 良 房 は当 時 右 大 臣 であ っ た から 左 大 臣 を 経 ず に 就 任 し た こ と に な る。 ただ しそ の前 月 ( 正 月 ) 、 良 房 は、 長 年 右 大 臣 に在 任 し て いる こ と を 理由 に 二度 ( 二十 一 日 ・ 二十 六日 ) にわ た っ て 辞表 を提 出 し て い る。 む ろ ん文 徳 は許 さ ず 、 詔 を下 し て、   ﹁ 右 大 臣 正 二位藤 原良 房 朝 臣波 朕 之 外 舅 那利、 又 稚

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親 歪 大坐時種 助髪 供蠱 所 L もあると い い、 また 右大臣 の 官 は 先 帝 ( 仁 明 天皇 ) が 任 命 し た も の で あ っ て、   ﹁ 朕 未 レ 有 レ 所 レ 酬 、 是 以 、 殊爾 太 政大 臣 乃官 爾上 賜比治 賜 ﹂ う と述 べ て い る ( ﹃ 文 徳 実 録 ﹄ ) 。   良 房 は こ の太政 大 臣 任 命 に対 し て三 度 辞 表 を提 出 し て い る が、 む ろ ん形 式 的 な手 続 き で、 いず れ も 文 徳 は認 め て いな い。 た だ し、 職 田 ・ 資 人 ・ 帯 刀 な ど 太 政大 臣 の 給 与 ・ 待 遇 に つ いて だ け は 辞 退 を了 承 し て い る 。 こう し た経 緯 を考 え ると 右 大 臣 の辞 表 は文徳 を促 す た め の ジ ェ ス チ ャ ー であ っ た と し か思 え な い。 結 果 は良 房 の思惑 通 り で、 文 徳 は 太 政 大 臣 と いう破 格 の 昇 進 を も っ て良 房 に報 いた ので あ る。 ち な み に 任 官 の 二日前 、木 連 理 ・ 白 鹿 が 献 上 さ れ 、 これ を瑞 祥 と み て天 安 と 改 元す る詔 が下 され て い る。 明 ら か に太 政 大 臣 の 任 命 に連 動 す るも の で あ り 、 そ れが 特 別 の 人 事 であ っ た こと を 示 し て い る。   さ て太 政 大 臣 に つい て は、 か つて 天智 朝 の 大 友 皇 子 や 持 統 朝 の 高 市                                                     皇 子 など 皇 親 が 任 じら れ 、 そ れ が 執 政官 的 な機 能 を有 し た こと は知 ら れ る と こ ろ であ る。 人 臣 で は 令 制 以降 、 不比 等 や そ の息 武 智 麻 呂 ・ 房 前 、 同 永 手 ・ 百 川 ら に没 後 の 贈 官 と し て与 え られ る のが 例 と な っ て い た。 そ の 間 仲 麻 呂 が こ の宮名 を ﹁ 太 師し と改 め て自 らが 就 任 し、道 鏡 が ﹁ 太 政 大 臣 禅 師 し に任命 さ れ る こと は あ っ たが 、 一 般 に は い ず れ も 特 異 事 例 と み なさ れ 、 し た が っ て 生前 太政 大 臣 に任 じら れ た 良 房 が人 臣 最 初 とす る の が 通 説 と な っ て いる。 結 果 は そ の 通 り であ るが 、 し か しそ う し た理 解 が 大 事 な 点 を見 落 と す こ と に な っ て い るよ う に思 わ れ る。   大 友 皇 子 や 高 市 皇 子 と い っ た 皇 族 の太 政大 臣 のあ とを う け 、 飛鳥 時 代 か ら奈 良 時 代 に かけ て 登 場 し た知 太政 官 事 も す べ て皇 親 が 任命 さ れ て い るが 、看 過出 来 な い の は、 いず れ も そ の 任 命 が 時 の 上 皇 の 死 を き っ か け に し て行 な われ て い る こと であ る 。 こ の 事 実 は 太 政 大 臣 ・ 知 太 政 官事 の 役 割 が上 皇 の立 場 なり 役 割 と 共 通 し て いる こ と を 示 し て い   る 。換 言す れば 、 太 政 大 臣 ・ 知 太 政官 事 は 皇 親 が上 皇 に代 わ る役 割 を 与 え ら れ 、任 命 さ れ たも の と考 え る。 こう し た こと か ら わ たく し は、 天 皇 の外舅 で あ る良 房 の太 政 大 臣 任 官 も 上 皇 に 代 わ る 立 場 が 与 え ら れ 、 そ れ によ っ て良 房 は皇 族 ( 皇 親) に 準 じ る 扱 いを受 け る よ う に な っ た と 見 る。 これ に は良 房 が これ 以 前 から 特 別 の立 場 にあ っ た こ と と も 無 関 係 では な か っ た ろ う。   す な わ ち良 房 は文 徳 の外 舅 、 皇 太 子 惟 仁 ( のち の 清 和 天皇 ) の 外 祖 父 であ っ た こ と に加 え て、 室 が 嵯 峨 の皇 女 、 源潔 姫 であ っ た。 潔 姫 は 弘 仁 五年 ( 八 一 四) 五月 、 嵯 蛾 天 皇 の皇 子 女 八 人 が賜 姓 さ れ た折 り、 源朝 臣 を賜 っ て臣 籍 に下 さ れ て いる が ( ﹃ 新 撰 姓 氏 録 ﹄ ) 、こ の 嵯 峨 に 始 ま る 一 世 源 氏 は賜 姓 皇 族 の中 で はも っ と も 格式 が高 か っ た。 良 房 はそ の 一 世 皇 女 を嵯 峨 の勅 に よ っ て娶 っ た 最 初 の 非 皇 族 者 であ っ た ( ﹃ 文 徳 実 録 ﹄ 斉 衡 三年 六月 一 一十 五日条 ) 。 これ は 良 房 の 父 冬 嗣 が 嵯 峨 の 腹 心 で あ り、 嵯 峨 の信 任 を得 て い た こ と によ るも の であ る が 、冬 嗣 の 娘 の 順 子 が東 宮 時 代 の仁 明 の後 宮 に入 っ た こと と と も に、破 格 の 扱 い で あ っ た と み なけ れば な ら な い。藤 原 氏 と 皇 室 と の関 係 は これ 以 前 、桓 武 天皇 の 延 暦 十 二年 ( 七九 三) 、 藤 原 氏 に限 っ て 二世 王 ( 女 王) と の 婚 姻 が 認 め ら れ ( ﹃ 日 本 紀 略 ﹄ ) 、 そ れ以 来 別 格 扱 いさ れ て いる が 、 良 房 の場 合 は そ れ をも 超 え る扱 い であ っ た わ け で、潔 姫 と の婚 姻 は両 者 の 結 合 を よ り深 め 、強 い ミウ チ意 識 を抱 か せ た こ と は間 違 い な い。 文 徳 が良 房 を 太政 大 臣 に任 じ、 準 皇 族 の立 場 を 与 え た のも そ う し た ミウ

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阿 衡 の 紛 議 チ意 識 の 表 れ と い っ てよ い であ ろう 。 病 弱 の文徳 は 、 当 時 ﹁ 頻 り に万 機 を廃 す ﹂ ( ﹃ 文 徳実 録 ﹄ 天 安 二年 八月 六 日条 ) と いう 状態 であ っ た か ら 、良 房 の太政 大 臣 就 任 は文 徳 を補 佐 し後 見 者 と し て の立 場 を 求 め た も の であ っ た と い っ て よ い であ ろう 。   文徳 が没 し た後 、 清 和 が 即 位 す る に及 び 、 周 知 のよ う に、 太 政大 臣 良 房 が 事実 上 の ﹁ 摂 政 ﹂ と な っ たが 、 そ れ は亡 く な っ た 文徳 に 代 わ る 上 皇 の立 場 に立 っ た こと を意 味 す る。 そ れ が 、 九 歳 と い う か つて 例 の な い幼 少 天 皇 の即位 を可 能 に し た理 由 であ る。 ち な み に 清 和 は生後 八 ヵ月 で立 太 子 し て以 来 、 即位 後 も 内 裏 に遷 ら ず 東 宮 に住 ん で いる ( 貞 観 六年 に始 め て 内 裏 に入御 す る) 。 こう し た ことも 過 去 に 例 を み な い が 、 そ の東 宮 は 良 房 の邸宅 であ っ た可 能 性 が 強 い。 そ れ が 可能 で あ っ た のも 良 房 が 〃 上 皇" の立 場 を与 え られ て いた から であ る 。 良 房 に つ い て は人 臣 最初 の 摂 政 と いう よ り ク 上 皇 " に な っ た と いう方 が 、そ の 立 場 を よ り 正 確 に 表 し て い る。   良 房 の 養 嗣 子基 経 が、 清 和 上 皇 か ら、   ﹁ 忠 仁 公 の故 事﹂ に な ら っ て 幼 主 陽 成 天 皇 を補 佐 し て ほ し い と要 請 さ れ た の は、 ま さ に右 に 述 べ た ご とき 意 味 で の 良 房 の 役 割 で あ り立 場 であ っ た 。   さ て 良 房 が 正式 に 摂 政 と な っ た の は応 天 門 事 件 の 直 後 、 貞 観 八 年 ( 八 六 六) 八月 十 九 日 の こと で、太 政 大 臣 良 房 に対 して 清 和 は、 ﹁ 摂 ゴ 行 天下 之 政 こ と の 勅 を下 し て い る。 同 二十 二 日 の勅 に ﹁ 廼 者 災 異 荐 臻 、内 外 騒 然 、 須 事 頼 二 公 助 理 嚇 且得 中 謐 静 と と あ り 、 内 外 騒 然 と し て い る時 こそ 良 房 の助 力 が 必要 だ と い う のが 理 由 であ る。 これ ま でみ て き た よ う に、良 房 はす で に 事 実 上 摂 政 の立 場 にあ り 、 し た が っ て こ の 時 、 改 め て摂 政 に 就 任 し た のは応 天 門 事 件 が き っ か け であ っ た こ と は 間 違 いな い。 良 房 が こ の 事 件 にど の程 度 関 わ っ て いた の か は不 詳 であ るが 、 こ の事 件 を 最 大 限 に 利 用 し た こ とだ け は確 か であ る。 ち な み に 清 和 は 二年 前 の 貞 観 六年 正 月 に元 服 し て、 同 十 ↓ 月 、 内 裏 に遷御 し て いた 。 そ う し た こと か ら良 房 の権 限 や 地 位 を改 め て明 確 にす る 必要 が あ っ た こと も事 実 で あ ろ う。 摂 政 の勅 はそ のた め に下 さ れ た も のと い え る。   こ の時 の 勅 は そ れ ま で の良 房 の立 場 を 追 認 し た も の にす ぎ な いが 、 そ う だ と す れば 留 意 され る の は、 摂 政 は元 服 前 と いう 、 のち にみ る よ う な 原 期 が こ の時 点 で は まだ な か っ た こと であ る。 元 服 後 でも引 き続 き ﹁ 摂コ 行 天 下 之 政 こ せ よと の勅 が 下 さ れ 、 事 実 上 摂 政 と な っ て いる か ら であ る。 し か し こ のあ と清 和 は手 勅 を 下 し たり ( 貞 観 八 年 十 二月 八 日) 、 承 和 の 仁 明 朝 以 降 絶 え て いた聴 政 を 復 活 し 、 み ず か ら紫 宸 殿 に出御 し て政 を視 た り し て お り ( 貞 観 十 三年 二 月十 四 日) 、良 房 はど ち ら か と い えば 、 の ち の関 白 的 立 場 であ る。 そ の意味 では元 服後 は 関 白 と い う原 則 の萌 芽 が み られ るが 、 関 白 と は いわ ず 天 下 の政 を摂 行 し て いる と こ ろ に こ の時 期 の ﹁ 摂 政 ﹂ の特 徴 が あ る。   と も あ れ 大 事 な 点 は、 良 房 の場 合 、 文 徳 が 亡 く な っ た こと で摂 政 と な っ た と いう 事実 であ る。 そ れ は な かば 偶 然 の所 産 と い っ てよ いが 、 これ に対 し て基 経 の 摂 政 就 任 は清 和 が 意 図 的 に上 皇 権 を 放 棄 し た 結 果 実 現 し た こと であ る。 し か し良 房 と基 経 と で就 任 の経 緯 は 異 な っ て も 、 ど ち ら の場 合 も上 皇 権 を踏 襲 し たも の であ っ た こと を 再 度 確 認 し て おき た い 。 摂政 と はも とも と上 皇 の権 能 に他 な ら な か っ た 。

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 幼

帝忌

  清 和 天 皇 が 譲 位 に際 し て基 経 に幼 帝 陽 成 の 摂 政 を命 じ た こ と は前 章 で述 べ た通 り であ るが 、 清 和 は これ 以 前 から 、 基 経 現 任 の 右 大 臣 が ﹁摂 政 乃 職 爾 波 不 一一相 当 こ と し て、 太 政大 臣 に就 く よう 健 し て い た。 し か し基 経 の辞 退 によ っ て 実 現 し な か っ た。 元 慶 四年 ( 八 八〇 ) 十 二 月 四 日 、 そ の 清 和 が 没 し た 日 、陽 成 は勅 を下 し、 清 和 の遺 志 を 伝 え て 基 経 を 太 政 大 臣 に 任 じ 、  ﹁ 摂 政 之 職﹂ は これ か らも 一 層 勤 仕 し て ほ し いと述 べて いる。 こ の任 官 は、 左 大 臣 源 融 を越 階 し て のも の で、 基 経 を 陽 成 の " 良房 " に 仕 立 て よ う と し た ( 故 ) 清 和 の意 図 がう かが わ れ る。   と こ ろが 基 経 は 、 こ れ を強 く 辞 退 す る。 そ こ で陽 成 は、 あ ら た め て ﹁此 職 、 太 上 天皇 ( 清 和 ) 之 所 ご 拝 授 こ ( 十 二月 十 五 日) であ り 、 自 分 が自 由 に出 来 るも の で はな いと 述 べ て従 う よう に求 め るが 、 基 経 は 執 拗 に辞 表 を提 出 し、 そ れ は 四度 ( 通 例 は三 度 ) に 及 ん で い る。 そ の あ げ く 自 邸 に引 き こも った た め、 国 政 は完 全 に スト ッ プ し て し ま う。 た だ し この間 ( 元 慶 五 年 正 月 十 五 日 ) 、 基 経 は 正 二位 から 従 一 位 に昇 叙 され て い るが 、 こ の方 は辞 退 し た形 跡 が な い。 太 政 大 臣 の辞 退 は よ ほど の理 由 あ っ て の こ と であ ろう 。 し かも 翌 元慶 六年 正 月 二 日 、十 五 歳 の陽 成 が 元 服 す ると 、 同 月 二十 五 日、   ﹁ 請 卞 罷 二 摂 政 一 帝 親中 万 機 と と、 今 度 はそ れ ま で就 任 し て いた摂 政 に ついて も辞 表 を提 出 し た 上、 陽 成 自 身 が 万 機 を 親 裁 す る よう に要 請 し て 再 び 政務 を ボ イ コ ッ ト、 そ れ はじ つに 一 年 半 にも 及 び 、 つ いに 同 七年 十 月 、弁 史 ら が基 経 の邸 宅 堀 河 第 に行 って庶 務 を 処 理 す る と いう 事 態 にま で至 っ て いる。   清 和 没 後 にお け る こ のよ う な 基 経 の 一 連 の 行 動 -二度 にわ た る執 拗 な 政務 のボ イ コ ッ ト を ど う 理解 す れ ば よ いの か。   太政 大臣 に つい て は、 そ れ に任 じ られ る資 格 を考 え れ ば 基 経 が 躊 躇 し た のは当 然 であ っ た と思 わ れ る。 太 政 大 臣 は本 来 、皇 親 が 就任 す べ き ポ スト だ っ た か ら であ る。 す で に述 べ た よう に、養 父 良房 は 天 皇 の 外 戚 であ る だけ で なく 妻 も 嵯 峨 の娘 であ っ た から 、 太 政 大 臣 に 就 任 し て 不思 議 はな いが 、 陽 成 の伯 父 にす ぎ な い基 経 に はそ ぐ わ な い 官 職 で あ っ た。 そ の意 味 で は基 経 が 、 陽 成 天 皇 の外 祖 父 でな い こと を 理 由 に 摂 政 を拒 否 し た論 理 と 一 貫 し て い ると い ってよ い であ ろ う。   ただ し太 政 大 臣 任 官 を 再 三再 四辞 退 し た理 由 はそ れば か り では な か っ た と思 う 。 端 的 に いえ ば 、 基 経 の陽 成 に対す る嫌 が ら せ であ り 、 威 嚇 であ っ た。 そ れ ば かり か、 基 経 は こ の 時 す でに陽 成 を廃 位 に追 い込 む意 図 さえ も っ て い た よう だ 。 そ の こと が 表面 化す る の は 元 慶 七 年 ( 八 八 三) 十 一 月 十 日 、陽 成 の乳 母 紀全 子 の 所 生 、 散 位 従 五 位 下 源 蔭 の男 益 が 殿 上 で 陽 成 に格 殺 さ れ る と い う 事 件 が 起 き た時 であ る。 兼 て から陽 成 の 言 動 に手 を 焼 いて いた基 経 も 、 こ の時 ば かり は参 内 し、 同 十 六日 、  ﹁宮 中 庸 猥 の群 小 ﹂ を 追放 し て いる。 そ の 結 果 陽 成 は翌 八年 二 月 、基 経 に 手 書 を送 り、 病 気 を理 由 に譲 位 す るが 、 実 際 は基 経 によ って退位 に追 いや ら れ たも 同然 で あ っ た。 太 政 大 臣 の辞 退 は理 にそ っ た も の であ るが 、 そ の根底 に陽 成嫌 い と いう 基 経 の私 情 が 強 く 働 い て い た こと は確 か であ る ( 陽 成廃 位 後 、太 政 大 臣 に就 任 し て い る) 。   基 経 の行 動 から 帰 納 さ れ るも う 一 つ の こと は、 摂 政 が 幼 年 天 皇 を補 佐 す るも のと の明 確 な 認識 を 基 経 が も っ て いた こ と で あ る 。 陽 成 の ﹁ 元 服 ﹂ を理 由 に摂 政 を 辞 任 し た のが そ の こと を示 し て いる。 こ れ は

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阿 衡 の 紛 議 良房 に はみ ら れ な か っ た重 要 な点 であ るが 、 これ に つい て は のち に 取 り 上げ る 。   さ て 陽成 に代 わ っ て即 位 し た のが 五 十 五 歳 の 時 康 親 王 こと 光孝 天 皇 であ る。 基 経 の従 兄 にあ た るが 、 これ ま で の天 皇 に 比 し て 基経 と の血 縁 関係 は無 き に等 し い。   基 経 に血 縁 のあ る人 物 が いな か っ た の では な い 。 当 時 基 経 に は妹 高 子 の子 、 貞 保 親 王 ( 陽 成 天 皇 の弟 ) が いた し 、 とく に娘 佳 珠 子 に は清 和 天 皇 と の問 に貞 辰 親 王 が いた か ら ( 貞 保 と 同様 、 こ の時 十 歳 前 後 で あ っ た ) 、 基 経 が 望 む な ら外 祖 父 ( 貞 保 の場 合 は外 舅 ) と し て幼 帝 の 後 見 にあ た る こと 、 す な わ ち摂 政 と な る こ と は意 の ま ま で あ っ た ろ う 。 と こ ろが 基 経 は み ず か ら そ の特 権 的 な 立 場 を 放 棄 し て光孝 を擁 立 す る。 これ は基 経 が ミウ チ の幼 帝 を立 て る の を強 く 忌 避 し た こと の 表 れ に他 な ら な い 。 陽 成 が ミウ チ ( 甥 ) であ っ たば かり に、 かえ っ て負 い目 に な っ て し ま っ た。 基 経 は陽 成 にも 幼 帝 にも 懲 り た の であ る 。 ち な み に当 初 基経 が要 請 し た の は承 和 の変 で廃 太 子 さ れ た 恒貞 親 王 ( す でに 入道 し て お り、 号 は恒 寂 ) で、 当 時 六十 歳 であ っ た 。 し か し強 く 辞 退 さ れ 、 五 十 五歳 の光 孝 に定 め られ たと いう ( ﹃ 恒 貞 親 王伝 ﹄ ) 。 二 度 ま でも 高齢 者 を選 ん で い るわ け であ る。   そ れ に し ても 基 経 が ﹁ 摂 政 ﹂ の 座 を放 棄 し て ま で も ミウ チ関 係 の薄 い、 し かも 高 齢 者 の光 孝 を 擁 立 し た の は 何 故 か。 そ の後 の常 識 をも っ てす れ ば 不可 解 と し か思 え な い選択 だ が 、基 経 に は権 勢 欲 が な か っ た と いう こ と であ ろう か。   そ う で はあ るま い。 わ たく し はそ れ を、 ひと え に陽 成 の上 皇 権 を 撲 除 す るた め であ っ た と見 る。 こ の時 陽 成 は十 七歳 であ っ た 。 し た が っ て遙 か に年 長 の五 十 五歳 の 光 孝 が 立 つこ と で陽 成 の家父 長 権 、 す な わ ち 上 皇 とし て の立 場 は事 実 上無 き に等 し いも の とな ろう 。 これ は天 皇 に よ る上 皇 権 の抑 制 で、 逆転 し た発 想 であ る。 それ を意 図 し て基 経 は 高齢 者 を擁 立 し た の で あ る。 当 初 基 経 が 六十 歳 の恒 貞 を 要 請 した のも 同 様 であ る。 いず れ に し ても 問 題 が 上 皇 権 にあ った こと を 看 過 し て は 光孝 擁 立 の意 味 は 理解 出 来 な いと 考 え る。 光 孝 も ま た そ う し た基 経 の 音 心 図 を誰 よ りも 敏 感 に捉 え て い る。   光 孝 が 即 位 し て ニ カ月 後 、 元 慶 八年 ( 八 八四) 四 月 十 三日 、漢 の明 帝 の言 葉 、 ﹁ 我 子 不 レ 当 卞 与 二 先 帝 子 一等 上 ﹂ を引 用 し て、 自 ら の皇 子 女                                           二九 人 す べ て に源 朝 臣 を与 え 、左 京 一 条 に貫 付 し た のが そ れ で あ る。 勅 に は嵯 峨 天 皇 以 来 の例 にな ら って国 費 を省 く た め と あ る が、 皇 子 女 の皇 位 継 承 権 を 放 棄 す る こと で、基 経 に権 勢 の座 を保 障 し た の で 臼あ る。 天 皇 と し て驚 く べ き 自 己抑 制 と い わ ねば な ら な い。 し かも 太 政 大 臣 基 経 の立 場 を 明 確 にす る た め に、 翌 五 月九 日 には太 政 大 臣 に つい て 職 掌 が あ る かど う か、唐 の 官 名 で は何 に 当 る か を調 べさ せ て い る。 し か し菅 原 道 真 ら 諸 博 士 八人 の 一 致 し た意 見 は、 太 政 大 臣 に定 ま っ た職 掌 はな いが 、 職 事官 で はあ る、 と いう も の で あ っ た ( 同 五月 二十 九 日) 。 そ こ で 翌 六月 五日 、 光 孝 は基 経 に詔 を 与 え 、 そ の功 績 は ﹁ 乃祖 淡 海 公 ( 不 比等 ) 、 叔 父 美濃 公 ( 良 房) 与り毛 益左利﹂ と い い、自 分 も そ れ に報 いた いと思 う が基 経 は 必ず や 辞 退 し て ﹁ 政 事 若 壅 世无 ﹂ と思 い悩 ん で、   ﹁ 本 官 乃任 爾、 其 職 行牟﹂ と 所 司 に ( 太 政 大 臣 の 職 掌 を) 調 べ さ せ た が 、  ﹁ 師 範 訓 導 乃美爾波非安利介り。 内 外 之 政 无 レ 不レ 統 久毛 有 倍加利計利 ﹂ と し て 、   仮使爾 無・ 所・ 職久可 ・ 有 驚 朕耳 目 腹 心 邇所・ 侍 幣 特 分二 朕

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史 窓

自二

総・

応・

・下之

茴霎

二垂

   仰 7 成 、 と 述 べ 、基 経 に ﹁ 奏 す べき こと 、 下 す べ き こと﹂ i 機 務 奏 宣 の 権 限 を 与 え て い る。機 務奏 宣 の権 限 と はす なわ ち のち の 関 白 の 職 掌 であ る。 関 白 の語 はみ え な い が、 関 白 の実 が こ こ に始 ま っ て いる こと はす で に 指 摘 さ れ て い る 通 り であ る。 し か し こ こ でわ た く し が 注 目 し た い の は、光 孝 が 基 経 に 最 大限 の 権 限 を与 え よ う と して いる に 屯 か か わ ら ず 、 そ れ が ﹁ 摂 ゴ 行 天 子 之 政 こ す る こと で はな か っ た点 で あ る。 少 な く と も 陽 成 時代 の 摂 政 のご とき も の で はな か っ た。 五十 五歳 と いう 光 孝 の年 齢 であ っ て み れば 、 天 皇 権 を 代 行 す る役 割 は不要 で あ っ た か ら であ る。 し か し 一ヵ月後 の 七月 六日 に基 経 が光 孝 に 提 出 し た上 表 に は ﹁ 方今 左 右 大臣 、朝 之 柱 石 、 国 之 葭 孳 、舜 既任 二 其 菱 龍 ↓周 能 得 二 其 魯 衛 { 画 一 之 寄 、 将更 待 レ 誰 ﹂ と い い、左 右 大 臣 が朝 廷 の柱 石 と し て 存 在 す る の にど う し て自 分 ご とき が 必 要 であ る の か、 と 謙 遜 し て い る が 、 む ろ ん本 心 で はな い 。 そ う い い つ つ 、 実 は自 ら の立 場 と 権 限 を 明 確 化 した か っ た と み て よ いで あ ろ う。   これ に対 し て光 孝 は 二日後 の八 日 、 早 速 勅 書 を 送 り、   三 事 不 レ 詢 如 レ 蒙 レ 霧 、 故命 二 其 事 事 諮 稟 ↓ 欲 レ 令 下 夫 知中 朕 之 於 レ 公 无 三一 日 不 二 相 見 荊 無 上 三一 事 不 二 相 詢 一 也L と 、 ﹁ 関 白﹂ の役 割 を 繰 り 返 し述 べ て お り、 ﹁ 摂 政 ﹂ の語 を 用 いる こと は な い。 ま た そ の勅 書 の 中 で ﹁ 如 何 責 二 阿 衡 納                                           以 二 忍 レ 労 力 7 疾 ﹂ と い い、 基 経 のこ とを ﹁ 阿 衡﹂ と称 し て いるが 、 こ れ が 後 に お こ る事件 に関 わ るも のと し て留 意 さ れ る 。   こう し た や り 取 り か ら知 られ る の は、 幼 年 天 皇 と 成 人 天皇 と でそ の 後 見 者 に立 場 の 違 いが あ る こ と、 換 言 す れ ば 摂 政 と 関 白 に は 職 掌 の 違 い のあ る こと が次 第 に明 ら か と な り、 光 孝 と 基 経 の 二人 は そ のこ と を 了解 し て いた と いう こと で あ る。 先 に述 べ た よ う に、 陽成 の元服 後 、 つま り成 人 天皇 と な っ たあ と す ぐ に基 経 が摂 政 の 辞 表 を 提 出 し た の も 、基 経 に こう し た認 識 が あ っ た から であ る。 ち な み に光 孝 の在 位 中 は 、 一 度 た り とも 政 務 をボ イ コ ットし た こと は な か っ た。 そ れば か り でな く基 経 自 身 、 日本 紀 の中 から 聖 徳 帝 王 や 有名 諸 臣 を 抄 出 さ せ た                             ⑮ り 、  ﹁ 年 中 行 事 障 子 ﹂ を献 進 す るな ど 、積 極 的 に 国 政 を 担 当 し て い る。 三  摂 政 ・ 関 白 論 争   さ て 、 そ の 光 孝 が在 位 三年 で病 床 に臥 す よ う にな り 、仁 和 三年 ( 八 八 七) 八 月 二 十 二 日、 基 経 以 下 の公 卿 た ち は光 孝 に 上 表 し 、 立太 子 を 要請 し た。 同 二十 五 日、 光 孝 は詔 を下 し、   ﹁ 朕 之 諸 児 、 皆 錫 二 朝 臣之 姓 画斯 誠 節 二 国 用 ↓ 息 二 民 労 一之 計 也﹂ と述 べ た あ と ﹁ 第 七息 定 省 、 年 廿 一 、扶 コ 侍 朕 躬 画未 二 曽 出 7 閤 、 寛 仁 孝 悌 、 朕 所 二 鍾 憐 ご であ る と の理 由 で定省 を親 王 に 復 し、 皇 嗣 と し て い る。 翌 二十 六 日 、定 省 は 立 太子 し た が 、 こ の日光 孝 が 崩 御 し た の で、 翌 日 践祚 し て いる。 二十 一 歳 の 宇 多 天皇 であ る。 一 度 臣 籍 に 降 下 し た者 が 皇 位 に即 く のも 異 例 な ら、 立 太 子 の翌 日 に 践 祚 す る の も 前 例 の な い措 置 であ っ た 。 す べ て基 経 の 尽 力 によ るも のと み て 間違 いな い。   十 一 月 十 七 日 、 大極 殿 で即位 し た宇 多 は早 速 基 経 に勅 書 を 送 り 、 そ の補 佐 を 要請 し た あ と 、  ﹁ 如 レ 此 之 言 若有 二 辞 退 { 更 亦 不 レ 住 二 世 間 (小 子 不レ 摂 二 世 間 之 政 (抛 二 小 君 之 号 一逃 コ 隠 山 林 {是 所 レ 念 也 ﹂ と 述 べ て基

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阿 衡 の 紛 議 経 の恩 義 に 深 謝 し た こ と は よく 知 ら れ て いる。 ま た のち に宇 多 が 左 大 臣 源 融 に語 っ た と こ ろ によ れば 、基 経 に向 か っ て、   ﹁、今 無 レ 親 レ 可 レ 憑 、 既 成 レ 孤 未 レ 覚 レ 知 ご 政 事 嚇更 属 二 誰 人 嚇惣 無 二 善 悪 一皆 以 当知 、況 卿 従 二 前       ヘ   ヘ                                                           ヘ    へ 代 {猶 摂 政 焉 、 至 ご 朕 身 一親 如 二 父 子 碗 宜 二 摂 政 一耳 ﹂ とも 述 べ た と い う ( 以上 ﹃ 宇 多 天 皇 御 記 ﹄ ) 。 し かし阿 衡 の 紛 議 は こ の 直 後 に下 さ れ た 宇 多 の 詔 に端 を発 す る。   仁 和 五 年 十 月 と い えば 、 そ の紛 議 が終 結 した あ と の こと にな るが 、 そ れ 以前 、 宇 多 が ﹁ 朕 本 意﹂ を 認 め た と いう 手紙 に 対 し て 、基 経 は次 のよ う な返 事 を 送 っ て いる。     基 経 従 レ 始 无 二 何 意 ↓然 前 詔 者有 ¥ 可 レ 関ゴ 白 大 少 事 一 之恩 命 加後 詔 者     以 二 阿衡 之任 一為 二 卿 任 一 者 也 、 微 臣 疑 二 先 後 之詔 其趣 一 同 { 暫 不 レ    覩 二 官奏 噛敬 慎 之 懐 、 更 无 二 他 腸 {                                           ( ﹃ 宇 多 天 皇御 記﹄ )   こ こ で基 経 は、最 初 の 詔 に は ﹁ 関 白 ﹂ と い いな が ら 、 へ あ と の 詔 には それ を ﹁ 阿 衡﹂ と 言 い換 え た ことが 不 満 だ っ たと 述 べ て い る。 し か し 宇 多 に対 す る基 経 の不満 は こ の 時 に 始 ま っ た ので はな い。 じ つ は前 段 階 と も いう べ き 下 地 が あ っ て のこ とだ っ た。 そ の辺 り の こと を 理解 し なけ れ ば こ の 事 件 の本質 を と らえ る こと は出 来 な いと 考 え る。 以下 、 事 件 の発 端 と そ れ 以 後 の 経 過 を追 っ て検 討 し てみ た い。   そ も そ も 即 位 直 後 の 十 一 月 二 十 一 日、 宇 多 は基 経 に対 し て次 のよ う な詔 を下 し て い る 。         ︹ 基 経 ︺   尸 賜 下 摂 政 太 政 大 臣 関 ゴ 白 万 機 一 詔 上    詔 、 朕 以 二 涼 徳 一奉 二 茲 乾 ↓ 符 臨 二 鳳 晟 一而 如 レ 履 一薄 氷 ( 撫 二 龍 軒 一而    若 レ 渉 淵 水 嚇 自 レ 非 二 太 政 大 臣 之 保 護 扶 持 嚇 何 得 下 恢 一一宝 命 於 黄 図 一    正 車 旋 機 於 紫 極 上 哉 、 鳴 呼 三代 摂 政 、 一 心 輸 レ 忠 、 先 帝 聖 明、 仰 二 其    摂 録 ↓朕 之冲 眇 、 重 以 二 孤 煢 ↓ 其 万 機 巨 細 、 百 官 惣 レ 己 、 皆 関 調 白    於 太 政 大 臣 ↓然 後 奏 下 、 一 如 二 旧事 (主 者 施 行 、   これ が ﹁ 関 白﹂ の 詔 の 初 見 で、 作 者 は宇 多 の侍 読 橘 広 相 であ る。 前 に述 べ た よ う に、光 孝 の 勅 と ほぼ 同 様 の内 容 で、 こ こ に ﹁ 旧 事 の如 く せ よ ﹂ と あ る のが 、 そ のこ と を さす 。                                           へ   あ                     ヘ      へ   気 にな る の は、宇 多 ( 側 ) が 表 題 で は ﹁ 賜 下 摂 政 太 政大 臣 関 ⇒ 白 万 機 一詔 上 ﹂ と い い、詔 中 でも 基 経 を ﹁ 三代 ( 清 和 ・ 陽 成 ・ 光 孝 ) の 摂 政 し であ っ たと 記 し て いる こと であ る。 基 経 に対 し て ﹁ 摂 政 ﹂ と して 協 力 を 要 請 した こと は 前 述 し た通 り であ る。 これ を み る限 り 、 宇 多 は 基 経 に ﹁ 摂 政﹂ と い う 立場 で ﹁ 関 白 ﹂ す る こと を 求 め て い る。 換 言 す れ ば 宇 多 は 摂 政 の権 限 と は 天皇 を関 自 す る こと であ るー そ う 理解 し て い た如 く であ る 。 のち の 常 識 か らす れ ば 混 乱 し そ う であ る。   こ の詔 に対 し て 閏 十 一 月 二十 六 日、 基 経 から 辞 退 の上 表 文 が 提 出 さ れ た 。   ﹃ 政事 要 略 ﹄  ( 巻 三十 ) に収 め るそ の内 容 から い っ て 、 当 時慣 例 通 り の 上 表 文 であ っ た と み て よ いが 、 留 意 さ れ る の は そ の 表 題 が             ヘ    へ ﹁ 太 政 大 臣辞 二 摂 政 一第 一 表 ﹂ と記 さ れ て い る こと であ る つ   す で に 光 孝 時代 、摂 政 と関 白 の 違 い は明 白 な 事 実 と し て受 け と め ら れ て い た 。 した が っ て基 経 はそ の 立 場 が 宇 多 の 摂 政 で はな く 、 関 白 で あ る こと を 十 二分 に了解 し て い た。 宇 多 が 成 人 天 皇 であ る以 上 、摂 政 で はあ りえ な い し、事 実基 経 が そめ 立場 を 求 め た形 跡 も な い。 にも か か わら ず 基 経 が こ の 辞 表 に ﹁ 摂 政 ﹂ と記 し た の は、 宇 多 の詔 の文 言 を ' 反 語 的 に用 い る こと で、 そ の 誤 用 に反省 を促 しだ も の で はな か っ た ろ う か。 ・ そ こ に は基 経 の苛 立 ち す ら感 取 さ れ る。 し か し宇 多 側 に は基経

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史 窓 の仕 掛 け た 謎 が ま っ たく 理解 出 来 て いな い 。 と いう のは次 に掲 げ るよ う に、 こ の辞表 に 対 し て下 さ れ た勅 答 ( 翌 二十 七 日) も 言 葉 使 い の点 で前 詔 と何 ら変 わ る 所 が な か っ た か ら であ る。 お そ らく こ のよ う なや り 取 り が 続 いた ら 、 そ れ だけ でも ト ラブ ル に発 展 す る 可能 性 は十 分 に あ っ た と 考 え る。   と こ ろが 二度 目 の 勅 はそ れ に とど ま ら な か っ た。 そ の 中 に ﹁ 阿 衡 の 任 ﹂ と 記 さ れ て いた。 問 題 と な る箇 所 だ け 抜 粋 し て 掲 げ て お く ( ﹃ 政 事 要 略 ﹄ 巻 三 十 ) 。       答 三 太 政 大 臣 辞 二 関 白 一勅  橘納言作 勅 、 太 政 大 臣 藤 原 卿 、 中 務 省 昨 進 二 表 函 ↓ 披 而 読 レ 之 、 有 レ 辞 二摂 政 { ( 中 略 ) 、宜 下 以 二 阿 衡 之 任 一為 中 卿 之 任 昂 先 帝 右 執 二 卿 手 ↓ 左 撫 二 朕 頭 嚇 託 以 二 父子 之 親 嚇結 以二 魚 水 之契 嚇宛 如 レ 在 レ 耳 、 豈 而忘 乎 、 援 レ 筆 哽 咽 、 言 不 二 多 及 ↓                                                     ヘ   へ   繰 り返 す こと にな るが 、 こ こ でも 宇多 は ﹁ 答 三 太 政 大 臣 辞 二 関 白  勅 ﹂                             ヘ    へ と い う 一 方 、 本 文 で は ﹁ 有 レ 辞 二 摂 政 こ と 記 し て お り、 関 白 と 摂 政 の 語 を混 用 ⋮ と いう の は第 三者 の判 断 で、宇 多 は同 じも のと し て用 いて い る。 こ のこ と は起 草 者 広 相 を 含 め て宇 多 側 が、 摂 政 と関 白 の立 場 な り職 権 の 違 い を こ の時 点 でも 認 識 し て いな か っ た こ と を示 し て い る 。 こ の 勅 が問 題 に な っ た の は、 そ の上 さ ら に 基 経 の立場 を い う の に ﹁ 阿 衡 ﹂ を持 ち出 し た こと にあ る。 基 経 は 一 切 の政務 か ら手 を ひき 、 自 邸 に 退 いて し ま っ た。 何 故 基 経 は怒 っ た のか。   阿衡 は 中 国古 代 の 宰 相 のこと で、 いわ ゆ る三 公 ( 太 政大 臣 ・ 左 大 臣 ・ 右 大 臣) を さす 。 こ れ以 前 、 前 述 し たよ う に 光 孝 が勅 書 の 中 で基 経 の こと を ﹁ 阿 衡 ﹂ と述 べ て い た。 そ こ で は問 題 にな ら な か っ た こ の 言 葉 が こ こ で問 題 にな っ た の は 、 基 経 の 家 司 藤 原 佐 世 ら が ﹁ 阿 衡 ﹂ は典 職 な しと 断 じ た こと によ る。 こ のこ と は基 経 が 、 自 分 は 摂 政 では なく 関 白 であ る、 と す る 一 方 、 関 白 そ の も の は決 し て 閑 職 では な いと考 え て いた こと を示 し て い る。 こ の点 は重 要 であ る。基 経 は 関白 を実 のあ る重職 と考 え て お り、 名 誉 職 に甘 んじ る気 は毛 頭 な か っ た こ と を物 語 っ て いる。   そ れ にし て も最 初 の 詔 に 見 られ な か っ た ﹁ 阿 衡 ﹂ の語 が 二度 目 の 勅 に何 故 用 いら れ た のか。 思 う に そ れ は、 光 孝 の時 、 基 経 の立 場 を表 す の に用 いら れ た ﹁ 阿 衡 ﹂ を持 ち出 す こ と で、 基 経 に対 す るよ り 大 き な 敬 意 を示 した も の であ ろう。 基 経 に全 面 的 に頼 る宇 多 と し て は、 す べ て ﹁ 旧事 の如 く ﹂1 1 光 孝朝 にな ら っ た つ も り であ っ た のだ 。 そ こ に悪 意 など あ ろう はず はな か っ た。   宇 多 は事 情 が よく 分 から な いま ま に 左 大臣 源融 を し て基 経 を 慰 撫 せ し め た が、 聞 き 入 れ られ ず 、 基 経 の 政 務 のボ イ コ ット はほぼ 一 年 間 も続 く こ と に な る。 宇 多 が 長 大息 が 出 る と い っ た のは ( ﹃ 宇 多 天 皇 御 記﹄ ) 、 こ の 間 の こ と であ る。 そ れ にし て も基 経 は事 件 の 最 中 、 何 故 自 分 の 意 見 を宇 多 に伝 え な か っ た の か、 と疑 いたく も な る。 そ の 意 味 で 良 房 ほ ど の 権 勢 欲 は な か っ たと し ても 、陰 湿 さ は免 れが た いし、 スヶ ー ル の 大 き さ は感 じ とれ な い。   そ れ は と も かく 、 基 経 が 宇 多 に要 求 し た のが何 であ っ た かは、 翌仁 和 四 年 ( 八 八 八) 六 月 二 日、 宇 多 が 源 融 の助 言 に従 っ て 先 の 勅 を取 り 消 し、 あ ら た め て下 し た勅 に明 ら か であ る。 そ れ は、                                         ヘ     へ     去 十 一 月 廿 一 日下 一一詔 書 一 云、 万 機 巨 細 皆 関 訓 白於 太政 大 臣 一然 後 奏     下 、 而 上 レ 表 天 、 固 執 二 閑 退 之志 {爰 即 令 下 二 左 大 弁 橘 朝 臣 広 相 一作 中

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阿 衡 の 紛 議    勅 答 鉛而 下 レ 之 、 其 結 句 云 、 以 二 阿 衡 之 任 一為 二 卿 之 任 ↓而 尚 持 レ 疑 、     不レ 肯 レ 視 レ 事 、 天 下 之 務 皆 尽 擁 滞多 利 、 於 レ 是 使 下 二 明 経 紀 伝 之 道 人     々等 一勘 う 之 、 申 云 、 阿 衡 者 是 殷 世 三公 官 名 、 三公 者 坐 而 論 レ 道 、

畠貝

煩砕

・頼二

導襲

   前 詔 波下 世流、 而奉 レ 旨 作 二 勅 答 一 之 人 広相 加引 一一阿 衡 一波、已 乖 二 朕 本

倍母

弥固

退

御坐

重天

述二

   御 意 一 天宣 久 、 太政 大臣 自 今 以 後 、 衆 務 乎輔 行 比百 官 乎 統 賜倍、 応    レ 奏 之事 、 応 レ 下 之 事 、 如 レ 先諮 禀 与 、 朕将 一垂 拱 而 仰 ザ 成 止 宣 、 御    命 乎 衆 食 止宣 、 と い うも の であ っ た ( ﹃ 政 事 要 略 ﹄ 巻 三十 ) 。  主 旨 は ﹁ 阿 衡 の任 を 卿 の任 と 為 せ﹂ と い っ た こ と が基 経 を怒 ら せ、 そ のた め に国 政 が 渋 滞 した こと を述 べ た あ と 、 これ を打 開 す る た め に 学者 ら の 勘 文 を徴 し た と こ ろ、   ﹁ 阿 衡﹂ は坐 し て道 を論 ず るだ け のも の で 典 職 な し と い う のが 一 致 し た 意 見 であ っ た。 そ う で あ る な ら、 確 か にそ う し た貴 い 人 に政務 を執 っ ても らう こと は出 来 な い で あ ろ う ( だ か ら阿 衡 の 語 を用 い た のは間 違 いだ っ た) 。 し か し朕 の本 意 は 基 経 が 万 政 を 関 白 し自 分 を教 導 補 佐 し てく れ る こと であ っ て 、 そ のた め に前 詔 を 下 し た のだ。 し か し広 相 が ﹁ 阿 衡﹂ の語 を引 用 し た のは朕 の 真 意 に背 く も の であ っ て、 基 経 が ます ま す 固 辞 す る のは当 然 のこ と で あ っ た 、 と い い、改 め て ﹁ 衆 務 乎輔 行 比百官 乎統 賜 倍、 応 レ 奏 之事 、 応 レ 下之 事 、 如 レ 先 諮禀 与﹂ 、 す な わ ち光 孝 時 代 と そ っ く り の立場 、 関 白 を 命 じ て い る 。   こ こ から知 ら れ る のは、 第 一 に、 こ こ にき て宇 多 が関 白 あ る い は基 経 の立場 を明 確 に し て い る こと 、 第 二 に、勅 に は 記 さ れ て い な いが 、 摂 政 と関 白 の 違 い に つ いて も 理解 し て い る こ と、 であ る。 基 経 の職 掌 に つい て、 以 前 あ れ ほ ど 用 いて い た ﹁ 摂 政 ﹂ の語 が こ こ で はま っ た く 出 て こな い のが何 よ り の 証 拠 で あ る。 換 言 す れ ば 光 孝 時 代 に明確 にな っ て いた 概念 と 同 じ に な っ た こ と であ ろう 。 これ は自 分 の立 場 が 関白 であ ると し た基 経 の 意 向 に従 っ たも のと い っ てよ い 。 お よ そ 一ヵ 年 に 及 ぶ 基 経 のサ ボ タ ー ジ ュ の間 に、 さ す が に 宇 多側 も そ の理解 に 到 達 し た の であ る。 そ の 意 味 で事 態 は落 ち着 く と こ ろ に 落 ち 着 い た の で あ り 、 ま た そ の 限 り に お い て基 経 は決 し て不 当 な 要 求 を し て いた わけ で はな い 。   阿衡 事件 の 裏 に は 、宇 多 に寵 愛 さ れ た 橘 広 相 と 基 経側 の 佐 世 を中 心 と す る 学 者 間 の 陰 湿 な対 立 が あ っ た こと も 事 実 であ る が 、宇 多 が成 人 であ っ た こ と に加 え て、 ミ ウ チ関 係 が な か っ た だ け に 基 経 の立 場 に つ いて議 論 の 生 じ る余 地 が あ っ た こと は確 か であ る。 そ こ で 基 経 の 位 置 付 け を 明確 に し よ う と し た こ とが 却 っ て裏 目 に 出 て し ま った。 し か し 、 な によ り も宇 多 自 身 が問 題 の本 質 を つ か ん で いな か っ た と ころ に 事 件 を複 雑 にし た最 大 の 原 因 があ っ たと い っ てよ い 。   し か し 、 こ の のち 一 時 期 の 中 断 を経 て摂 致 ・ 関 白 が 常 置 さ れ るよ う にな っ た 基 経 の子忠 平 の時 には、 両 者 の概 念 は明 確 な も のと な っ て い る。 す な わ ち妹 穏 子 の生 ん だ幼 帝 朱 雀 の 摂 政 とな っ た 忠 平 は、 天 皇 の 元 服 後 は関 白 に 改 め ら れ て い る。 し かも 、 そ の切 り替 え が ﹁ 仁 和 の 故 事 ﹂   ( ﹃ 日本 紀 略 ﹄ ) にな ら っ た と さ れ て い る こと に留 意 し た い 。 仁 和 の 故 事 と は、 光 孝 の時 の基 経 の例 と いう こ と で、 そ の 時 期 に摂 政 ・ 関 白 の 概 念 が ほぼ 出 来 上 が っ て いた こと を 示 し て い る。 宇 多 の阿 衡 事 件

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史 窓 は、 そ の段 階 よ り も 逆行 し た た め に 起 っ た事 件 に他 な ら な い 。

  ﹁ 阿 衡 の紛 議 ﹂ に関 す る従 来 の研 究 に欠 け て いた の は、 も っ ば ら基 経 ( 側 ) の対 抗 的 な 反 応 を 見 る にと ど ま り 、宇 多 天皇 側 の言 説 に つい て の 検 討 が殆 ど な か っ た こと であ る。基 経 はす で に光 孝 朝 を通 し て、 幼 年 天 皇 と成 人 天 皇 と で後 見 者 と し て の立 場 ・ 権 限 の違 い、 す な わ ち ﹁ 摂 政 ﹂ と ﹁ 関 白 ﹂ に違 いが あ る こと を 了解 し て いたが 、 宇 多 天 皇 方 はそ のこ と を理 解 し て いな か っ た 。 本稿 はそ の 点 に着 目す る こ と に よ っ て、 こ の事 件 の真 相 を 明 ら か にし た 。 こ の事件 を経 たあ と、 摂 政 ・ 関 白 の 立 場 ・ 権 限 は明 確 と な る。   し たが っ て阿 衡 の紛 議 を 検 討 す る こと は、 そ のま ま出 現 期 に おけ る 摂 政 ・ 関 白 の本 質 を 論 ず る こと でも あ っ た が 、 こ れ に つい ても 従 来 の 研 究 は基 本 的 な 理 解 に欠 け て いた 。 そ れ は摂 政 が天 皇 の父 、 す な わ ち 上 皇 が 不在 の際 、 そ れ に代 わり 、 そ の立 場 を踏 襲 す る形 で登 場 し た と いう 視 角 が な か っ た こと であ る。   し たが ってそ の権 限 も 当 初 は上 皇 権 そ のも の であ っ た。 当 初 の摂 政 1 と く に良 房 の場 合ー は天 皇 の 年 齢 に 関 係 な く そ の立場 を維 持 し、 天 皇 が 成 長 し ても 関 白 に切 り 換 え ら れ な か っ た のが そ のこ と を端 的 に示 し て い る。 そ の意 味 で摂 政 は譲 位 の制 が な け れば 登 場す る可 能 性 はな か っ た と い そ よ ㎏・   し か し十 世 紀 初 期 に定 着 し た 段 階 の 摂 政 ・ 関 白 は 、 ミウ チ 関係 だけ が 肥 大 化 し て外 祖 父 であ る こと が要 件 と な り 、 上皇 の 存 否 と は無 関係 と な っ た。 これ は ミ ウ チ関 係 に配 慮 す るあ ま り 、 み ず か ら の立 場 を放 棄 す る 上皇 が続 い た こと に よ る必 然 の 結 果 であ る。 天 皇 の 年 齢 に よ っ て摂 政 ・ 関 白 と いう 立 場 ・ 権 限 が 細 分 さ れ るよ う にな っ た こ とと 合 せ て、 これ が 出 現 期 の摂 政 ・ 関 白 と のも っ と も大 き な違 いであ る。   そ の点 で九 世 紀 末 に起 き た 阿衡 の紛議 は、 天 皇 の後 見 者 を そ の 父 ( 上 皇 ) から 母 方 の祖 父 ( 外 祖 父 ) へ 移行 さ せ た紛 争 であ り 、 摂 政 ・ 関 白 を 中 枢 とす る貴 族 政 治 の成熟 を促 し た事 件 であ っ た と いえ る であ ろう 。 註 ① 阿衡 事 件 を取 り 上げ たも のと し て は坂 本 太 郎 ﹃菅 原 道 真 ﹄ ( 昭和 三十 七   年 ) 、弥 永 貞 三 ﹁ 阿衡 の紛 議 ﹂   ( ﹃ 日 本 と世 界 の歴 史﹄ 六所 収 、 昭和 四十 五   年) 、所 功 ﹁ 寛 平 の治 の再 検 討 ﹂   (﹃ 皇 学 館 大 学 紀 要 ﹄ 五、 昭 和 四 十 五年 )   な どが あ る。 ② た と えば 竹 内 理 三 ﹁摂 政 ・ 関 白﹂ ( ﹃ 律 令 制 と貴 族 政 権﹄ 第 二 部 所 収 、   昭 和 三 十 三年 ) 、角 田 文衛 ﹁ 尚 侍 藤 原淑 子 ﹂( ﹃ 紫 式 部 と そ の時 代 ﹄ 所収 、昭   和 四 十 一 年 ) 、 橋 本 義彦 ﹁ 太 政 大 臣 沿革 考 ﹂   (﹃ 平 安貴 族 ﹄ 所 収 、 昭 和 六十   一 年 ) 、笹 山 晴 生 ﹁ 平 安初 期 の政 治改 革 ﹂   ( ﹃ 岩 波 講 座 日本 歴 史 ﹄古 代 三 、   昭 和 五 十 一 年 ) 、森 田悌 ﹁太 政 官 制 と 摂政 ・ 関 白 ﹂  ( ﹃古 代 文 化 ﹄ 一二 九 ー   五、 昭 和 六十 二年 ) 、 目崎 徳 衛 ﹁ 摂政 良 房 ﹂ ﹁ 関 白 基経 ﹂ ( ﹃ 王朝 のみ やび ﹄   所 馭 、 昭 和 五十 三年 ) など 。 ③ ﹃ 三 代実 録﹄ 貞 観 十 八年 ( 八七 六 )十 二月 四 日 条 に は ﹁ 臣 謹 檢 二 故事 宀   皇 帝 之 母 、 必升 二尊 位 画 又察 二前 修 ↓ 幼 主之 代 、 太 后臨 レ朝 、陛 下 若 宝罰 重 天   下 朔憂 コ思 幼 主 噛則 皇 母尊 位 之 後 、  ( 以 下略 ) ﹂ と あ る 。 ④   瀧 浪 ﹁奈 良 時 代 の上 皇 と ﹃ 後 院 ﹄ ﹂  ( ﹃ 目本 古 代 宮 廷 社会 の研 究 ﹄ 所収 、   平 成 三 年) 。 ⑤ 瀧 浪 ﹁ 薬 子 の変 ﹂ ﹁ 薬 子 の変 と 上 皇 別 宮 の出 現 ﹂ ( 注④ 前 掲 書 ) ⑥ 瀧 浪 ﹁ 女 御 ・ 中 宮 ・ 女 院-後 宮 の再 編 成﹂ ( ﹃ 論 集 平 安 文 学 ﹄ 三 所 収 、   平 成 七 年 ) 。 ⑦ 瀧 浪 ﹁ 孝 謙 天皇 の皇 統 意識 ﹂ ( 注 ④ 前 掲書 ) 。 ・           讐

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⑧ 瀧 浪 、注 ⑥ 前 掲 論 文 。 ⑨ 良 房 が 嘉智 子 と 連 繋 し て 実 現 した 道康 立太 子 は藤 原京 時 代 、持 統 と 共 に   文 武 天 皇 の即 位 を 実 現 し た藤 原 不 比 等 を彷 彿 と さ せる。 端 的 に言 えば 良 房   自 身 、  〃 平 安 朝 の不 比等 " た ろう と し て いた 気 配 が あ る。 瀧 浪 ﹃ 平 安建   都 ﹄  ( 平 成 三年 ) 参 照 。 ⑩ ﹃ 三 代実 録 ﹄ ( 貞 観 八年 八月 十 九 目条 ) に よれ ば 、 ﹁ 勅 二 太 政 大 臣 {摂 嵩   行 天 下 之政 こ と あ り 、 こ こ に摂 政 と いう言 葉 はな いが 、 これ が 事 実 上 の   ﹁ 摂 政 ﹂ と み て よ い。 ⑪ 竹 内 理 三 ﹁ ﹃ 知 太 政 官 事﹄ 考 ﹂ ( ﹃ 律令 制 と 貴 族 政権 ﹄ 第 一 部 所 収 、 昭 和   三 十 三 年 )。 ⑫  村 井 康彦 ﹃ 律 令 制 の 虚 実﹄  ( 昭 和 五 十 ︼ 年 ) 。 ⑬ 瀧 浪 ﹁初 期平 安 京 の構造 ー 第 一 次 平安 京 と第 二次 平安 京 ー ﹂ ( 註④ 前掲   書 ) 。 ⑭  阿 衡 に つ いて は ﹃ 続 日本紀 ﹄ 天 平 宝字 二年 ( 七 五 八) 八 月 二 十 五 日 条   に、   ﹁ 其伊 尹有 華 之 滕 臣 、 一 佐 二 成 湯 ↓遂 荷 二 阿衡 之 号 一﹂ と 記 す の が 初 見   で、 こ こは宰 相 の意 。 ⑮ 瀧 浪 、 注⑨ 前 掲 書 。 ⑯ 譲 位 の制 は そも そ も 中 国 か ら導 入 さ れ たが 、そ れ が制 度 的 に定 着 す る こ   と のな か っ た 中国 で摂 政 ・ 関 白、 す な わ ち摂 関 政 治 が 出 現 し な か っ た 理 由   と 考 え る 。 阿 衡 の 紛 議

参照

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