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明治期哲学堂『哲学堂来観諸君名簿』第一号からみた 利用統計を見る

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明治期哲学堂『哲学堂来観諸君名簿』第一号からみ

著者

出野 尚紀

著者別名

ideno naoki

雑誌名

井上円了センタ一年報

23

ページ

209-235

発行年

2014-09-20

URL

http://id.nii.ac.jp/1060/00006909/

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209 明治期哲学堂

治期

学堂

来観

諸君

簿

尚紀

id en o n ao ki はじ め に 井上円了が 後 半生を懸けて﹁哲学﹂を弘めるために建設整備したものが、哲学堂である。このことは、地図 中 にも﹁井上哲学堂 ﹂ と記さ れ ていることからもわか る ︵1 ︶ 。 まず、哲学堂︵現在の四聖堂︶が、明治三十七︵一九〇四︶年三月に 竣 工した。しかし、このときに完成し て い た建築物は四聖 堂 ︵ 2 ︶ の みであった 。他の施設については 、大学を退隠した後 、﹁精神修養的公園とすること に 定 め ﹂ ︵ 3 ︶ て 以降である 。明治四十 ︵一九〇七︶年十二月の ﹃修身﹄四巻十二号に発表さ れ た ﹁哲学堂拡張予 告﹂の通りに 構 築物の建設を続け 、明治四十一 ︵一九〇八︶年内に六賢台 、三学亭の外見が作ら れ ︵4 ︶ 、明治 四 十 二 ︵一九〇九︶年十一月に 、六賢台 、三学亭 、哲理門が完成した 。以 後 、大正元 ︵一九一二︶年までに常 識 門、髑髏庵、無尽蔵を建設し、大正二︵一九一三︶年十月に宇宙館が竣工し、大正四︵一九一五︶年までに絶 対 城、鬼神窟と建 設 してゆき、同年十月の絶対城の竣工をもって、現存する古建築物がすべて揃い、翌年七月から 図 書の公開が始まった。そして、大正七︵一九一八︶年に建築物も 含 めて七十七場とまとめら れ るポイントがす

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べて揃った 。しかし 、建築物以外の 構 築物は 、多くがいつ作られたかは不明であ る ︵ 5 ︶ 。 円了の死後 、子息の玄 一 氏は大正十五︵一九二六︶年﹃哲学堂拡張私案﹄を発表し、その計画に基づいた須弥苑に収めるべく、昭和 十 五︵一九四〇︶年に和田嘉平治作の 釈 迦涅槃像と聖徳太子像が 戦 没者供養のために作ら れ 、四聖堂と宇宙 観 に 収 められている 。 さて 、東洋大学井上円了研究センターに ﹃哲学堂来観諸君名簿﹄ ︵ 6 ︶ 十 三冊が 所 蔵されている ︵ 7 ︶ 。その内 の 一 冊が、名簿の第一冊目にあたり、明治三十七年七月三日から明治四十三年六月十二日までの記録である。こ の 時期は、四聖堂竣工から六賢台などが竣工した翌年までという期間であり、まさに哲学堂建設途上の時期の記 録 である。 他 に、 大 正二年六月九日から 大 正三年七月二十三日までの第五号、 大 正四年十二月十九日から 大 正五 年 六 月三十日までの第十号 、 大 正五年一月十六日から七月十日までの第十一号 ︵ 8 ︶ 、大 正六年五月六日から十一 月 二十 六 日までの第十 六 号 ︵ 9 ︶ 、 大正七年一月一日から五月三十一日までの第十八号 、大正七年十二月八日から 大 正 八 年 七月十日までの第二十一 号 ︵ 10︶ 大 正八年九月一日から十一月十六日までの第二十三号 、 大 正十一年三 月 二十五日から五月四日までの第三十三号、 大 正十二年五月二十から七月三十日までの第三十九号、 大 正十二年七 月 三十一日から十一月三日までの第四十 号 ︵ 11︶、大 正十三年一月二十二日から三月三十一日まで第四十二号 、 大 正 十三年四月一日から六月二十二日までの第四十三号、昭和二年七月十七日から八月二十九日までの第六十五号 である 。 これら﹃哲学堂来観諸君名簿﹄には、数多くの人びとの名前が記入されている。これに名前を記した来観者 は ど のような人びとなのであろうか。円了と知己であるのか、哲学堂の近辺に 住 んでいるのか、広告されて訪れた の かなど、来観者の層がそこから読み取れるのではないだろうか。さらに、哲学堂の性 格 も、大学移転予定地 時

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211 明治期哲学堂 代 、建設途中、完成 後 の円了死去まで、死去 後 の財団法人時代、戦局の悪化など、社会状況の変化に従って変 化 したことだろう。幸いにして名簿のなかに第一号があり、大学移転予定地時代から建 設途 中までの状況を示し て い る。最初期の哲学堂がどのような場所であったかを考察するために、第一号に記述した人 び とについて分 析 し ていきたい 。 哲 学堂 の 由 来 円了は 、四聖堂を建てた理由として 、﹁哲学堂は今より五年前 、すなわち明治三十七年 、哲学 館 の大学公称 を 文部省より許可せられたる紀念として一棟を建設したるに始まり ﹂ ︵ 12︶ と 述べている 。そもそも 、哲学館が大 学 公 称を認めら れ た明治三十六年 ︵一九〇三︶年十月一日付で 、﹃東洋哲学﹄第十巻十号に 、四聖堂の設計図が 発 表さ れ ている。この時点では、将来哲学 館 大学が移転してきたときに学園の中心となり、学風を示すモニュメ ン タ ルな建物として、四聖堂が建てられた。設計図発 表 の時点では、大学開設の紀念であったが、完成時にはそ れ だ けではなくなっている 。それについて 、﹁此堂は 、主として大学開設 の 紀 念なるも 、之と同時に 、哲学館事 件 の 紀念 、修身 教 会発表の紀念 、日露戦役の紀念となるもの ﹂ ︵ 13︶ と 大学公称だけでなく 、全部で四つの出来事 の モ ニュメント 施設 としている ︵ 14︶ 同時に紀念している事象を簡単に説明する。哲学館事件とは、明治三十五年十一月に、卒業試験に際して、 中 島 徳蔵がミューアヘッドの倫理書から問題を出したところ 、﹁動 機 が善なら ば 弑逆が許される﹂ということが 答 案にあったため、文部省視学官隈本有尚が国体に反するとして報告し、文部大臣菊池大麓から中等 教 員の無試 験 検 定の認可を取り消さ れ 、そのことが社会問題となるとともに学生数の減少という大打撃を受けたことである 。

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修 身教会とは、欧米旅行中に、キリスト教の教会が日曜礼拝に際して、成人に対して道徳を説いていたことを 実 見 し、帰国後、同様に社会 教 育を行い、国民道徳を振興するために﹃修身 教 会雑誌﹄を明治三十七年二月に発刊 したことである。日露戦役は、同年二月にロシアとの戦 争 が起こったので、その戦勝祈願と戦没者慰霊という こ と である。これらを釈迦、孔子、ソクラテス、カントの四聖に報告したり、淵 源 としたり、祈願したりという目 的を 合 わせ持っていた。 そして 、円了が哲学館大学を退隠した後の 、社会 教 育 、民間 教 育の一発露として 、公衆の便益のために 、﹁国 家社会の為に 尽 くし、世の中より受けたる大恩に報謝する 決 心 ﹂ ︵ 15︶ に 従って、整備さ れ たものである 。 来 観諸 君 名 簿に つ い て ﹃哲学堂来観諸君名簿﹄と記してきたが、標題は、図1のように、第一号は表紙の記述では、 ﹃哲學館大學紀念 堂即哲學堂來 観 諸君名簿﹄となっている。大きさは、縦二百三十八ミリメートル、横百五十八ミリメートルで あ る 。一枚二十行の 原 稿用紙を二つ折りに 使 用しているため一頁が十行で、一 冊 は百九十六頁である。また、右上 二〇一のシールは識 別 記号である 。表紙裏には 、図2のように ﹁来観諸君ヘ敬白ス﹂ ﹁本堂御来観ノ諸君ハ此 名 簿ニ御姓名住所﹂ ﹁月日ヲ御記載アランコト 深ク懇請スル所ナリ﹂ ﹁若シ又本堂ニ関スル詩文和歌俳句等ノ 玉 作﹂ ﹁アラハ併セテ本帖 ︵ 16︶ ニ 御揮毫アランコト ヲ望ム﹂ ﹁哲学堂主人再拝﹂と六行に渡って書か れ ている 。 そ して 、最初の原稿用紙には 、﹁哲学堂の記﹂が糊付け添付さ れ ている 。そのため 、名簿の部分は 、百九十四頁 、 千 九百四十行分となる。各頁には、 住 所、姓名を書きやすいように、その間に 横 線を引いてあり、年初に頁を 改 めたときなどに 、﹁ 住 所﹂ 、﹁姓名﹂が書き込まれている 。一行を一人分としているが 、代表者だけが名前を記す

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213 明治期哲学堂 もの、一行に 複数 人の姓名 が あるもの、 逆 に数行を一人 で 占 有する者があり、行数と 人 数 は一致しない。また、欄外 に姓名を記したものも一 件 あった 。 詩文や和歌は、別に記す冊 子を作ったため、実 際 に記さ れ ているものは、有馬 祐政が 明 治三十七 年 七月三日に 記 し た和 歌一首のみである。 名簿内容の検討は 、まず 、 月 ごとの来観者と、記載さ れ た姓 名の 数 である。まず、 団 体 の一員で 記 名がない者と 記 名がある 個 人に分けて考 え る 。そして、記名がある来 観 者 のなかで 、﹃ 東 洋大学人 名 図1 哲学堂来観諸君名簿 第1号 図2 哲学堂来観諸君名簿 表紙裏

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録 役員 ・教職員 戦 前編﹄ ︵以下 ﹃人名録﹄ ︶ ︵ 17︶ 、﹁井上円了関 係 人名辞典﹂ ︵以下 ﹃円了研究﹄ ︶ ︵ 18︶ 、﹃東洋大 学 一 覧﹄ ︵以下 ﹃一覧﹄ ︶ ︵ 19︶ に 姓名が記載されている人 び とを ﹁①人名録﹂ 、﹁②円了研究﹂ 、﹁③一覧﹂と分け 、さ ら にそ れ ぞ れ に記さ れ ている人たちの数がどのようになっているか全七通りに場合分けした 。また 、住所欄に ﹁ 軍人﹂や ﹁僧職﹂ 、﹁東洋大教職員﹂と職業を記した人びとの職種別の数をあげた 。哲学堂の近隣には 、中野と 戸山に陸軍の施設があったため 、軍人の来訪が見られた 。﹁ 僧 職﹂は 、円了自身が真宗大谷派の寺院子弟とし て 生 まれ、生涯にわたって僧侶と関係を持ったこと、中野区上高田の早稲田通り沿いに寺町が広がっていること か ら 、寺院関係者であると明記している場合に区分をした。そして、円了が学長を務めていた哲学館大学とその 名 称を変 更 したものである東洋大学 ︵ 20︶ と 京北中学 校 ︵ 21︶ は 、円了ととくに縁が 深 いため 、﹁東洋教員﹂ 、﹁京北 教 員﹂とした 。﹁新潟﹂として 、円了の出身地である新潟県の 住 所を記した人びとは項目を立てた 。第一号の期 間 に住所と姓名のみを記した来観者がいる道府県は 、東京府以外の四十六道府県のなかで新潟県と愛媛県のみ で あった 。野方村とその ﹁近隣﹂の町村に住んでいた人びとの数を取り上 げ た 。﹁近隣﹂の町村は 、現在の中野 区 を構成する野方村と中野村、そ れ ら二村に隣接した豊多摩郡代々幡村、淀橋町、戸塚村、落合村、杉並村、和田 堀 内村、井荻村と北豊島郡石神井村、上練馬村、中新井村、上板 橋 村、長崎町、さらに、隣接しなくとも四聖 堂 を中心に中野区が内接する円を描いたときに、この円のなかに含まれる地域を持った豊多摩郡大久保村と北豊 島 郡 高田村 、下 練 馬村とした ︵ 22︶ これらの範囲であれ ば 、哲学堂まで気軽に徒歩で 、日帰り往復できたと思わ れ る からである。そして、学生・生徒で在学校を記載した人びとは、学校別に記載し、哲学館大学は東洋大学とし た 。また 、﹃一覧﹄には 、教職員だけでなく 、卒業生や在 校 生 、退学者の姓名まで記載されているので 、現東 洋 大 学の学生の場合、学校名を記していない人間も、これで判明した場合も人数に含まれる。学校 別 に記載する 理

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215 明治期哲学堂 由 は、学校の所在地や 教 育目標、 教 員の交流などから、哲学堂がどのような学校に知られていたのかが見られる からである 。以上の事項について年 別 に表にまとめ 、その傾向を探る 。﹃哲学堂来観諸君名簿﹄は 、名簿という 性 格 から繰り返し来観した人たちがいる 。そのような人たちの取扱いであるが 、﹁記名数﹂は 、何人の人が名 前 を記したかを見るものとして、各年一つの名前に付き一人とし、その年に名前を記した人の 数 を示している。 例 え ば、明治三十七 年 七月に二回名前を書いても、一回分のみカウントしている。また、明治三十七 年 と三十八 年 に一回ずつ書いた場合は 、それぞれの年に一回ずつカウントしている 。﹁記名数﹂以外の項目は 、 概 数のもの も あるため、重 複 して数えている。よって、明治三十七年﹁七月﹂の項目に二回名前が書いてあると、二回とカ ウ ントとした 。 ところで 、﹃円了研究﹄に記載されている人 び とは円了と個人的な関係があった人たちであり 、新潟県の住 所 を記した人たちも同 様 に考えられる。 ﹃人名録﹄や﹃一覧﹄に教職員として名前があるが、 ﹃円了研究﹄に姓名 が なければ、奉職している学校により、哲学堂を訪れたことになる。哲学堂の近隣地域の 住 民の多寡は、哲学堂 が そ の地域でどれだけ受容されていたかを示すデータとなると思われる。東京市内の在住者も多くみられる。し か し、名簿に姓名が見られない来観者を住地で分けて取り上 げ ても、連続性が見られる場合は、リピーターの存 在 に依存し、また、その来観者が属する社会 層 もハッキリと判らないことが多いことから取り上げなかった。ただ し、特記すべき人が来観している場 合 は、来観日とどのような人物かを略記する。学生などの来観 者 は東洋大と 京北中学が多いことが予想されるが、それ以外の学校の学生・生徒がどのくらい来観していたのかをみたいから である。本文中に姓名を記すときに敬称は省 略 した。 なお、考慮に入れておかなければならないことは、この名簿に書かれている人びとが来観者のすべてではない

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ことである。名簿第二十一号の期間にあった円了の焼香式に参会者がいないように、行事の場合は、来観したけ れ ども姓名を書かなかった人も少なからずいたはずであり 、従者も姓名を記していない場合があるだろう 。ま た 、東洋大学の学生が、住所として実家を書いている場合があるので、遠隔地の場合実 際 の居住地ではないこと もありえる。 明治 三 十 七 年 四聖堂が完成し 、四月八日に開堂式を 挙行 ︵ 23︶ し た 。しかし 、名簿に記入がある最 初 の日は 、七月三日 ︵ 日 ︶ の 五人 で ある 。 名簿上の総来観者数は百七名で、記名者数 は 九十六名である。七月は、十五日︵金︶二十三 人 、二十三日︵土︶十五人とまとまった来堂 が ある。三日とも多くは 東 洋大・京北中の関係者 ︵ 24︶ であり 、この月が六十二人と 最 も多く見ら れ た。その後、八月六人、九月六人、十月十五 人 、十一月十四人 、十二月に四人と来 観 者 が あった。十月十五人うち 八 人は、十月三十日 の 孔 子誕生 会 出席 者 である 。 ﹃人名録﹄に名が上がっている人は三十人 、 表1 明治 37 年来観者 内訳 数 月 数 全数 107 11 月 記名数 96 12 月 ①人名録 33 ①のみ 3 13 月 ②円了研究 38 ②のみ 4 14 月 ③一覧 47 ③のみ 25 15 月 軍人 3 ①+② 13 16 月 僧職 7 ①+③ 0 17 月 62 東洋職員 15 ②+③ 4 18 月 6 京北職員 4 ①②③ 18 19 月 6 新潟 1 10 月 15 近隣 1 11 月 14 東京帝大 2 12 月 4 東洋 11 早大 3 豊山 6 京北 10

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217 明治期哲学堂 ﹃円了 研 究﹄は三十八人 、﹃一覧﹄は四十七人である 。﹃人名 録 ﹄のみが四人 、﹃円了 研 究﹄のみが四人 、﹃一覧 ﹄ の みが二十五人である 。そして 、﹃人名録﹄と ﹃円了 研 究﹄が十三人 、﹃人名録﹄と ﹃一覧﹄はおらず 、﹃円了 研 究﹄と﹃一覧﹄が四人、三つすべてに上がっている人が十 八 人という結果である。 職業別では、軍人は陸軍工兵大尉渡部象と中野の電信 教 導大隊の二人の計三人である。僧職は七人いるが、 そ の 内の四人は円了と知己である。そして、東洋 教 員十五人、京北 教 員が四人である。新潟県と住所に記したの は 一 人だが、この上原三四郎は円了関 係 の﹃人名録﹄に名が上がっていない。近隣地域の人は野方村禅定院の一 人 である 。学生については 、帝国大学が二人で 、﹃人名録﹄と ﹃円了 研 究﹄に名が上がっている日下寛と真言宗豊 山 派に属す吉田尭昇である。東洋大の学生は十一人だが、このなかには 終 了年次から在学中とした人も含む︵ 以 下 同 様 ︶。早大の学生三人が十一月三日に一緒に来ており 、豊山中学生が七月三十日に二人と十一月二十日に 四 人 の六人 、京北中学が七月二十七日に団 体 で十人来ている 。﹃一覧﹄のみの人が多いのは 、四聖堂完成の年で あ り、大学移転候 補 地でもあったため、東洋大の学生や卒業生なので﹃一覧﹄に姓名が載っている人びとが多く 来 観したためであろう。 特記すべき人物として、河口慧海が二回目のチベット旅行を前に、九月十三日当時釜山に住んでいた荒 浪 平 治 郎とともに来観している。また、孔子誕生会には、円了の 終 生にわたる師である石黒忠悳、明治天皇の側室だ っ た 園祥子、哲学 館 で長年教鞭を執った鼎義曉、帝大教授の島地黙雷などが参加している。 明治 三 十 八年 総来 観 者数は六百二十九名、記名者数は九十四名である。一月一人、二月二人、三月五人、四月二十一人、五

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月六人、六月三人、七月十五人、 八 月一人、九月百二 十 四 人 、十月百三十六 人 、十一月三百十三 人 、十二月に二 人が訪 れ ている。九月三十日に星市三郎に引率さ れ た 京 北の生徒が百十七人、十月二十二日の孔子誕生会に 東敬 治 と邨河通世に引率された学生が百余人、十一月十四日 に 小 林 准之助他七名に引率された板 橋 小学校の児童約三 百人が訪 れ ているため数が 大 きくなっている。このよう に 、総数で記載さ れ た来観 者 が五百人以上いるため、 全 数 六百二十九人に対して記名数九十四人と大幅に少なく な っている 。 ﹃人名 録 ﹄に名が上がっている人は十六人 、﹃円了 研 究﹄ は十九人、 ﹃一覧 ﹄ は二十三人である。 ﹃人名 録﹄の み はおらず、 ﹃円了 研 究﹄のみが三人、 ﹃一覧﹄のみが十三人である。そして、 ﹃人名録﹄と﹃円了 研 究﹄が六人、 三 つすべてに上がっている人が十人だが 、﹃人名録﹄と ﹃円了研究﹄ 、﹃円了研究﹄と ﹃一覧﹄の二つは記載がな い という結 果 である。 軍人は中野の電信 教 導大隊の四人であり、僧職が三人、東洋 教 員が十一人、京北 教 員が一人いる。東洋大の 教 員には、四月二十九日に来観した、本冊子で唯一の欧米人であるH.H.ガイがいる。 近 隣地域の人は三人で あ る が、二人は寺院名も記している。 表2 明治 38 年来観者 内訳 数 月 数 全数 629 11 月 1 記名数 94 12 月 2 ①人名録 16 ①のみ 0 13 月 5 ②円了研究 19 ②のみ 3 14 月 21 ③一覧 23 ③のみ 13 15 月 6 軍人 4 ①+② 6 16 月 3 僧職 3 ①+③ 0 17 月 15 東洋職員 11 ②+③ 0 18 月 1 京北職員 1 ①②③ 10 19 月 124 近隣 3 10 月 136 東洋 6 11 月 313 京北 117 12 月 2 美術学校 1 ※ 10 月、11 月は概数を含む

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219 明治期哲学堂 学生については、東洋大が六人来観し、京北中が前述のように百十七人の団体来観している。京北 教 員はそ の 引 率者邨河通世である 。また 、美術学 校 の一人は 、﹃円了研究﹄に名前のある 津 田信夫であるが 、その 他 の学 校 からは来観者の記録がない。 四月九日日曜日に降誕会が行わ れ 、七月二日と十月八日の日曜日にも来観者が多いため、何かしらの行事が 行 われ た模様である。四月十八日と十月八日に円了 夫 妻の媒酌人を務めた目賀田逸子が来 観 してい る。 明 治三 十 九 年 総来 観 者数は四十七名で、記名者数は四十六 名 で ある。一月一人、二月二人、三月六人、四月二 人 、五月七 人 、七月一 人 、九月五 人 、十月九 人 、 十 二月に十四人が訪 れ 、六月、八月、十一月は 記 名 者 がいなかった。全 数 が四十七人、記名 数 が 四 十 六人と一人の違いなのは、 豊 多摩郡立農業 補習 学 校生徒の高野豊次郎の来観が四月一日と五月三 十 日の二回あるからである 。 ﹃人名 録 ﹄は七人、 ﹃円了研究﹄は十人、 ﹃一覧﹄ 表3 明治 39 年来観者 内訳 数 月 数 全数 47 11 月 1 記名数 46 12 月 2 ①人名録 7 ①のみ 1 13 月 6 ②円了研究 10 ②のみ 6 14 月 2 ③一覧 13 ③のみ 9 15 月 7 僧職 3 ①+② 2 16 月 0 東洋職員 2 ①+③ 2 17 月 1 新潟 3 ②+③ 0 18 月 0 近隣 3 ①②③ 2 19 月 5 東京帝大 2 10 月 9 東洋 6 11 月 0 慶大 1 12 月 14 一高 1 京北 1 郡立農業補習学校 3

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は十三人である 。﹃人名録﹄のみは一人 、﹃円了研究﹄のみが六人 、﹃一覧﹄のみが九人である 。そして 、﹃人 名 録 ﹄と﹃円了研究﹄が二人、 ﹃人名 録 ﹄と﹃一覧﹄が二人、三つすべてに上がっている人が二人いるが、 ﹃円了 研 究﹄と﹃一覧﹄の 組 み 合 わせは記載がない 。 来訪者が少ないこの年は、僧職が三人、東洋教員が二人いる。新潟県と住所を記したのは、五月三十日の川上 半四郎と三輪茂一 、十月二十一日に ﹃人名録﹄のみに姓名がある西 脇保 治という円了の知己があった三人で あ る 。近隣地域の人は一般の三人である。学生については、東京帝大農科大学から二人、東洋大が六人、慶大と 一 高が一人来 観 し、帝大生と同じ五月三十日に郡立農業補習学校の生徒が二人来 観 し、前述のようにその内の一 人 である高野が二度来ているので 、三人となる 。また 、京北中は一人いるが 、この年に団 体 来観は記さ れ ていな い。 十月二十一日に、後に理事などを務める税所篤秀が来観している。十二月三日には、当時講師で蛇の目ミシ ン の 創業者である秦敏之が訪れている。十二月十九日には、哲学館卒業後にインドでサンスクリットを学 び 、円了 の 第二回外遊の 途 上コルカタで河口慧海と三人で記念写真を撮った大宮孝潤が来 観 し、そして、十二月二十六日 に仏教学 者 の常盤大定と南条文雄が来観している 。 明治 四 十 年 この年も前年に続いて 、来 観 者が少なく 、総来 観 者数は四十八名で 、記名者数も十八名である 。一月に八人 、 二月と三月に来観 者 はなく、四月一人、五月〇人、六月四人、七月二人、八月一人、九月五人、十月二人、十 一 月 二十人、十二月に五人が訪れている。

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221 明治期哲学堂 ﹃人名 録 ﹄は六人 、﹃円了研究﹄は四人 、﹃一覧﹄は十七人 である 。﹃人名録﹄のみはおらず 、﹃円了 研 究﹄のみが一人 、 ﹃ 一覧﹄のみが十一人である。そして、 ﹃人名録﹄と﹃円了 研 究﹄が三人 、三つすべてに上がっている人が三人いるが 、 ﹃ 人名録﹄と ﹃一覧﹄ 、﹃円了 研 究﹄と ﹃一覧﹄の 組 み合わ せ は 記 載がない。 ﹃円了 研 究﹄のみに姓名が上がっている人は、 山本鎮三郎である。 職業別は、医師が一人、東洋 教 員が三人、京北 教 員が四人 である。この医師とは、長岡 藩 の 藩 医を 務 め、日本医科大 学 の前 身 校を創立した長谷 川 泰である。長谷 川 は新潟出 身 で あ る が、 住 所は東京になっている。近隣地域の人は一般の五人 で ある。 東洋大の十四人は、十一月三日に来 観 した東洋大学生九州同志会の十三人と十二月一日に明治三十八年に続 き 二回目の来観である青 樹 波水である。京北中の三人は佐崎重暉に連 れ ら れ て来観している 。 明 治 四十 一 年 総来 観 者数は百八十五名で 、記名者数は百五名である 。一月二人 、二月四人 、三月〇人 、四月二人 、五月〇 人 、六月五人 、七月〇人 、八月八人 、九月〇人 、十月二十六人 、十一月百三十三人 、十二月に五人が訪 れ てい 表4 明治 40 年来観者 内訳 数 月 数 全数 48 11 月 8 記名数 48 12 月 0 ①人名録 6 ①のみ 0 13 月 0 ②円了研究 4 ②のみ 1 14 月 1 ③一覧 14 ③のみ 11 15 月 0 医師 1 ①+② 3 16 月 4 東洋職員 3 ①+③ 0 17 月 2 京北職員 1 ②+③ 0 18 月 1 新潟 0 ①②③ 3 19 月 5 近隣 5 10 月 2 東洋 14 11 月 20 京北 3 12 月 5

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る。 ﹃人名 録 ﹄は九人、 ﹃円了研究﹄ は 二十七人 、﹃一覧 ﹄ は三十一人で あ る 。﹃人名録 ﹄ のみはおらず、 ﹃円了 研 究﹄のみが十六人 、﹃ 一覧﹄のみ が二十一 人 である 。そして 、﹃ 人名 録 ﹄と ﹃円了研究﹄が一人 、﹃人 名 録 ﹄と﹃一覧﹄が二人、 ﹃円了 研 究 ﹄ と﹃ 一覧﹄三人 、三つすべてに上 がっている 人 が六 人 いる 。 職業別は、軍人五十五人、東洋 教 員 五人である。軍人はすべて 陸 軍士 官学 校 生で、十一月二十五日に五十一人、二十八日に四人が来観した。東洋大の教員としては、十一月二十一日 に三宅雪嶺が初めて記名している。また、前年来観した秦敏之が十一月二十九日に家族五人で来観している。 新 潟県は三人で、円了の妹西脇リイが含まれる。近隣地域の住民は八人で、家族連れも二 組 五人見られる 。 学生は、東京帝大が九人で、法 科 、医 科 、工 科 であるが、医 科 と工 科 の五人は﹃円了研究﹄に姓名がある。 東 洋からは二十八人来観している。この年も十一月三日に 東 洋大学九州同志会が来観し、十月七日と十一月一日に 六 人ずつ訪れている。慶大から一人来ている。美術学校の一人は、後に釈迦涅槃 像 と聖徳太子 像 を制作する和田 表5 明治 41 年来観者 内訳 数 月 数 全数 185 11 月 2 記名数 105 12 月 4 ①人名録 9 ①のみ 0 13 月 0 ②円了研究 27 ②のみ 16 14 月 2 ③一覧 31 ③のみ 21 15 月 0 軍人 55 ①+② 2 16 月 5 僧職 1 ①+③ 1 17 月 0 東洋職員 5 ②+③ 3 18 月 8 新潟 3 ①②③ 6 19 月 0 近隣 8 10 月 26 東京帝大 9 11 月 133 東洋 28 12 月 5 慶大 1 美術学校 1 東京高師 1 真宗大 2 一高 4 京北 11 順天 1

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223 明治期哲学堂 嘉 平治である 。東京高師は一人 、真宗大は二人で 、一人は 後 に大谷大 教 授となる赤沼智善である 。一高が一人 、 京 北 が 十一人、 順天 中 が 一人である 。 さらに、七十七場の硯塚や筆塚を作る田中良雄の初記名が十一月二十五日にある。また、一二月十一日に今 村 猛雄が来 観 しているが、このとき井上円了と水村新蔵を前に立たせて、六賢台の写真を撮っており、その写真 は 哲学堂の 絵 はがきセットの一葉になっている ︵ 25︶。なお、この日の記名 者 は今村のみである 。 明 治 四十 二 年 総来観者数は三百七十四名 、記名者数は二百十七名である 。一月十六人 、二月十八人 、三月十七人 、四月 六 人 、五月百四十三人、六月六人、七月四人、 八 月二十五人、九月九人、十月六十四人、十一月三十五人、十二 月 三 十一人が訪 れ ている。 ﹃人名録﹄は七人 、﹃円了研究﹄は十九人 、﹃一覧﹄は十八人である 。﹃人名録﹄のみが一人 、﹃円了研究﹄のみ が九人 、﹃一覧﹄のみが九人である 。そして 、﹃人名録﹄と ﹃円了研究﹄が一人 、﹃人名録﹄と ﹃一覧﹄が〇人 、 ﹃円了研究﹄と﹃一覧﹄四人、三つすべてに上がっている人が五人いる。 職業別は、軍人三人、僧職七人、東洋 教 員七人、郵便局員一人である。軍人は、陸軍士官学校生貴志信三、 海 軍編 修 官錦織精之進、清国陸軍軍人曽超の三人で、海軍からの記名はこれが初めてである。曽は、同郷の早稲田 留学生岳誦先、蕭粛と十一月三十日に来観している。島根県簸川郡知井宮村の森山元昶のような哲学館の卒業 生 や、早稲田通り沿いにある上高田の寺町のなかに現存する源通寺と高徳寺の住職など近隣の寺院の人が来 観 し て い る。新潟県は一人で、西脇保治が三回目の来 観 である。近隣地域の住民は五十四人で、十二月五日に来訪した

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豊 多摩郡淀橋町の津田家のような家族連れや八月十六日の江古田の住民十人のような 仲 間を誘い合っての来訪 が ある 。 学生は 、東京帝大が十一人 、東洋大が十月二日に訪 れ た東洋大学四声会会員七人 、早大が九人 、真宗大が 一 人 、東京高商が三人、東京高工が二人、東京外語が一人、歯 科 医専が一人、 福 岡医 科 が一人、一高が十七人、 京 北 が百七人 、早稲田中が二人 、早実が一人 、日本中が一人 、大成中が二人 、郁文 館 が一人 、曹洞宗学林が四人 、 表6 明治 42 年来観者 内訳 数 月 数 全数 374 11 月 16 記名数 217 12 月 18 ①人名録 7 ①のみ 1 13 月 17 ②円了研究 19 ②のみ 9 14 月 6 ③一覧 18 ③のみ 9 15 月 143 軍人 3 ①+② 1 16 月 6 僧職 7 ①+③ 0 17 月 4 東洋職員 5 ②+③ 4 18 月 25 郵便局員 1 ①②③ 5 19 月 9 新潟 1 10 月 64 近隣 54 11 月 35 東京帝大 11 12 月 31 東洋 7 早大 9 真宗大 1 東京高商 3 東京高工 2 東京外語 1 歯科医専 1 福岡医科 1 一高 17 京北 107 早稲田中 2 早実 1 日本中 3 大成中 2 郁文館 1 曹洞宗学林 4 府三中 1 岩倉 2 開成 1 豊山師範学校 1

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225 明治期哲学堂 府 立三中が一人、岩倉 鉄 道学校が二人、開成中が一人、豊山師範学校が一人である。一高生の十人は十月三日に 訪れた寄宿寮生である。京北中学校は、団 体 来観があり、五月一日に田中治六、古沢藤市、三島定之助が引率し て一年生百五名が来観している。五月一日には、他にも三十四人と十六人の総数での記入がある 。 特筆すべきこととして、伏見宮博義王と華頂宮博忠王が、十二月十九日に東洋大学卒業生で家 附 の井上光太 郎 ら 三人とともに来観していることが上げられる。この兄弟の来訪は、卒業生の存在の他に、伏見宮別邸が中野 坂 上 付 近 にあったことによるかもしれない。 明治 四 十 三 年 総来 観 者数は八百二十三名で、記名者数は五百九十五名である。一月二十七人、二月十三人、三月十六人、 四 月 百五十九人、五月六十四人、六月四十七人、七月二十七人、 八 月十三人、九月九十人、十月百五十七人、十 一 月 百五十二人、十二月五十八人が訪れている。 ﹃人名 録 ﹄は十八人、 ﹃円了研究﹄は三十三人、 ﹃一覧﹄は二十六人である。 ﹃人名 録 ﹄のみが二人、 ﹃円了研究 ﹄ の みが十四人、 ﹃一覧﹄のみが九人である。そして、 ﹃人名 録 ﹄と﹃円了研究﹄三人、 ﹃人名 録 ﹄と﹃一覧﹄一人、 ﹃円了 研 究﹄と ﹃一覧﹄四人 、三つすべてが十二人いである 。全 数 八百二十三人に対して 、円了または東洋大 学 の 関 係 者と判る人は、前年から減りだしているが、 本 年は四十五人と五パーセント強しかいない 。 職業別では、軍人九人、僧職八人、東洋教員と京北教員六人ずつ、慶大の教授が一人である。十一月六日に 前 田 慧雲、湯本武比古ら七人が、東洋京北両校から訪 れ ている。新潟県は十人で、円了の次弟井上円成夫妻や甥 の 水 島義郎が来観しており、真宗大学生二人と東京帝大生一人も 含 む。近隣からは百四十九人が訪 れ ており、一 月

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二十八日には、現在円了の墓がある蓮華寺の前 住 職加藤海誓が﹁右ハ現 住 職金子慈叡氏ニ代リ深野亀太郎氏ト 共 ニ来訪アリ墓地ノ件ヲ約定ス﹂と記している。三月十五日、五月十八日、十月九日、二十四日、十一月六日、 十 四 日と、二桁の数で近隣住民が来 観 している日がある 。 学生は、 東 京帝大四十三人、京都帝大一人、 東 洋大十一人、早大八人、真宗大八人、 東 京高商四人、 東 京高工 二人、東京外 語 一人、一高五十三人、三高一人、独協学 校 十一人、京北中百三十五人、早 稲 田中一人、済美学 校 十 七人 、京華中一人 、麻布中一人 、曹洞宗学林三人 、府立一中一人 、府立三中三人 、目白中学三人が来ている 。 表7 明治 43 年来観者 内訳 数 月 数 全数 823 11 月 27 記名数 595 12 月 13 ①人名録 18 ①のみ 2 13 月 16 ②円了研究 33 ②のみ 14 14 月 159 ③一覧 26 ③のみ 9 15 月 64 軍人 9 ①+② 3 16 月 47 僧職 8 ①+③ 1 17 月 27 東洋職員 6 ②+③ 4 18 月 13 京北職員 6 ①②③ 12 19 月 90 慶応職員 1 10 月 157 新潟 10 11 月 152 近隣 149 12 月 58 東京帝大 43 京都帝大 1 東洋 11 早大 8 真宗大 8 東京高商 4 東京高工 2 東京外語 1 一高 53 三高 1 独協 11 京北 135 早稲田中 1 済美学校 17 京華 1 麻布中 1 曹洞宗学林 3 府一中 1 府三中 3 目白中学 3

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227 明治期哲学堂 東京帝大には十月二十四日に九人連 れ で訪 れ た経済学者大内兵 衛 、十一月十四日に三人連 れ の東洋大学第二十二 代 学長 佐 久間鼎がおり、知人同士 連 れだって来観していることが数回あるため、数が多くなっている。 東 洋大に は四月七日に来観した清からの留学生阮鑑光と伝銅がいる。一高に、十月八日来観の第一高等学校北斗会終身 会 員十人が含ま れ 、寮生と明記ある人たちを中心に連 れ だって来観している。京北中は四月三十日に安藤弘、柴田 甚五郎、佐崎重暉に引率さ れ た一年生百三十三人が来観している。独協から来ているのは、近隣に在住の生徒江 原 駿一、名倉謙二が友人を連れてきたからである。済美学校は、現在の杉並区堀ノ内一丁目の杉並区立済美小 学 校の校地にあった私立学校である。目白中学は、目白大学とは関 係 なく、落合村にあった学校で、中央大学付属 高校や中央大学杉並高校の母体となった学校である。 二月二日に円了の娘婿で円了の死 後 財団法人哲学堂の理事となった金子恭輔が、三月二十一日と六月六日に思 想家大 川 周明が、六月十三日には昭 和 十四︵一九三九年︶年から東洋大学で教える宗教人類学の宇野円空が、 そ して、十月二十三日に目賀田逸子が三度目の来観をしている 。 明治 四 十 四 年 記載は六月十二日までである。総来 観 者数六百五十六名、記名者数四百三十三名である。一月三十三人、二 月 百 五十八人、三月八十七人、四月百二十八人、五月二百十四人、六月に三十六人が訪れている。 ﹃人名録﹄は二人 、﹃円了研究﹄は四人 、﹃一覧﹄は五人である 。﹃円了研究﹄のみが四人 、﹃一覧﹄のみが三 人 である 。そして 、﹃人名 録 ﹄と ﹃一覧﹄が二人である 。﹃人名 録 ﹄のみ 、﹃人名 録 ﹄と ﹃円了研究﹄ 、﹃円了研究 ﹄ と ﹃一覧﹄ 、三つすべてに上がっている人はど れ もいない 。全数八百二十三人に対して 、円了または 東 洋大学 の

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関 係 者と判る人は、前年から更に減り、本年は九人と一パーセント強しかいない。 軍人が八人 、僧職は十三人であるが 、秋の来観が多かった東洋大と京北中の 教 員はこの期間に来観していな い 。軍人は歩兵連隊、中野電信隊、陸軍大学だが、歩兵連隊には、一度目には近隣の住所を書いた 深 野辰五郎 が い る。 僧 職は、中野、浅草、田端の他、長野県と神奈川県も見える。新潟県が六人、愛媛県が十一人、 近 隣から は百三十三人が来観している。新潟県には、西脇保次、西脇純平二回、国井基という﹃円了研究﹄に姓名がある 表8 明治 44 年来観者 内訳 数 月 数 全数 656 11 月 33 記名数 433 12 月 158 ①人名録 2 ①のみ 0 13 月 87 ②円了研究 4 ②のみ 4 14 月 128 ③一覧 5 ③のみ 3 15 月 214 軍人 8 ①+② 0 16 月 36 僧職 13 ①+③ 2 17 月 東洋職員 0 ②+③ 0 18 月 新潟 6 ①②③ 0 19 月 愛媛 11 10 月 近隣 133 11 月 東京帝大 11 12 月 東洋 0 早大 23 慶大 4 明大 1 京都医科大 1 国学院 1 東京高商 3 東京高工 2 神戸高商 2 一高 5 二高 1 独協 4 京北 120 早稲田中 1 府一中 2 府四中 1 目白中学 19 実践女学校 1 陸軍戸山学校 8 陸軍幼年学校 1 落合小 55

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229 明治期哲学堂 知人四人分が含ま れ る。 愛 媛 県からの来観者は四月十六日に訪 れ た十一人であるが 、﹃人名 録 ﹄と ﹃円了研究﹄ 、 ﹃円了研究﹄の三冊から姓名は 確 認できなかった 。近隣からは 、日曜日を中心に家族や知人が連れ立って訪れ て い る 。 東京帝大が十一人、早大が二十三人、慶大が四人、明大が一人、京都医科大が一人、国学院が一人、東京高 商 が三人、東京高工が二人、神戸高商が二人、一高が五人、二高が一人、独協学 校 が四人、京北中が百二十人、 早 稲 田中が一人 、府立一中が二人 、府立四中が一人 、目白中学が十九人 、実践女学 校 が一人 、陸軍戸山学 校 が 八 人 、陸軍幼年学校が一人である。また、落合小学校が遠足と思われるが五十五人来観している。京 都 医科大学 生 の 浮田友樹、二高の浮田茂穂は兄弟と思わ れ る同姓の早稲田中生浮田秀樹と来観している。独協には、近隣在 住 の 二人が今年度も来 観 している。京北中は、本年も一年生百二十人が一斉に来 観 しているが、その引率者は記さ れ ていないため、教員の来観者がいなくなっている。東京帝大には四月二十三日に大内兵 衛 の二回目、早大に は 五月十五日に西 條 八十がいる 。実践女学園の生徒鈴木梅子は 、慶大生鈴木錠之助 、陸軍幼年学校生鈴木辰之助 、 そ の弟鈴木勝之助という兄弟四人で来観している 。 三月五日に、円了の次女澄江が神保義と来 観 した。三石賤夫宅に下宿していた小眠繁太郎、袋木重安、永田 信 熊、吉田賢次という四人が四月七日に来 観 している。また、五月二十五日に神田睦講の佐久間佐太郎 他 五人が 来 観しているが 、新井薬師 梅 松院などに詣でるついでに哲学堂を訪れたのだろうか 。前述の三県の他にも 、宮 崎 県 、群馬県、千葉県、奈良県、山形県、埼玉県、福島県、山口県、福岡県、島根県、徳島県、栃木県、岡山県と い った住所が見え 、三月九日には 、清国の貴州から日本に来ていた王正福 、張友棟 、李懋森という三人が来 観 し、李懋森は三月二十八日にも来 観 している。

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考 察 各年度の記録に含めなかったが 、監修をした古宇田実 、実 際 の建設の取りまとめを 担 当した山尾新三郎の他 、 ﹁ 大工﹂を職業として記した人もいた 。彼らは来観ではなく 、工事のために訪 れ たが記名したとも考えら れ る の で、 ﹁大工 ﹂ は取り上げなかった。 月ごとの来観者数を見ると、円了が学長を務めていた明治三十七年、三十八年に孔子誕生会が行われたりし て い るが、秋の十月十一月に多くの人 び とが連れだって来観している。春四月や五月に突出しているのは、京北 中 学一年生が来 観 しているためである 。 三つの人名 録 から判る円了の知人または東洋大学生の割合は、明治三十七年が百七人中六十七人の六十三パー セ ント、三十 八 年が六百二十九人中三十二人の五パーセント、三十九年が四十七人中二十二人で四十六. 八 パー セ ント 、四十年が四十八人中十八人で三十七 .五パーセント 、四十一年が百八十五人中四十九人で二十六 .五 パ ーセント 、四十二 年 が三百七十四人中二十九人で七 .八パーセント 、四十三 年 が八百二十三人中四十五人 で 五.五パーセント、四十四年が六百五十六人中九人で一.四パーセントである。団 体 が多かった三十八年を 除 く と低 落 傾 向にあり、特に四十一年から四十二年にかけて、三割弱に激減といってよい減り方を見せている。こ れ は四十一年に六賢台 、三学亭の外観が整った他にも 、 種 々の施設が整備されたため 、近隣住民を始め 、東京 市 民 、学生が多く訪 れ ることになったのであろう 。 近 隣住民は、明治三十七年に一人、三十八年に三人、三十九年に三人、四十年に五人、四十一年に八人であ っ た ものが、四十二年に五十四人、四十三年に百四十九人、四十四年に百三十三人と、四十二年以降、特に四十三 年と四十四年は、それまでとは比べられないほどの来観者となっている。そして、一年生が団体で来観していた

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231 明治期哲学堂 京北中学生を 除 いた学生数も、明治三十八年など東洋大と京北中を 除 くと僅かに一人であったが、明治四十一 年 から四十四年まで順に記すと、四十七人、七十一人、百七十三人、二百九十人と 増 えている。また、各年度で 数 を取っていない人 び との多数は 、近隣地域に含めなかった現在の東京二十三区の地域に 住 んでいた人 び とで あ る 。さらに、東京以外の居住地域も、円了の親族が住んでいた新潟県は別として、哲学館から東洋大学の卒業 生 を中心としていたが、明治四十四年には円了と知人関係になかったと思われる人 び とが東北から九州にかけて の 十 六県から来 観 している 。 来観した軍人は、士官学校生が大挙して訪れた明治四十一年を除いて、一桁であるが、そのなかに、近隣地域 出身 者がいた。僧職は、東洋大の卒業生、上高田など近隣の寺院、円了が所属した真宗の寺院の住職などであ っ た ことが判明している。都新聞、中外日報、中央新聞の記者の姓名が見えるけれども、来観に 際 しての記事の 有 無は判らず、円了を尋ねてきたということも 考 えら れ る。 学生は、 東 京帝国大、一高、早大が 東 洋大と京北中以 外 では多いが、帝大には、円了で知己であったと判る 人 が含まれ、早大には、近隣地域に下宿していたと思われる人がいる。独協も早大と同じく近隣地域の在住者が 連 れ てきている。また、目白中学は、近隣地域の下落合に学校があった。巣鴨にあった真宗大谷派の真宗大や駒 込 の 吉祥寺にあった曹洞宗学 林 、護国寺にあった豊山師範学校という僧侶を養成するための学校の生徒も訪れてい る 。その 他 に兄弟で訪れた学生が見られる 。 女性の数は少なく、目賀田逸子や穂積銀子のような円了の知人か、秦利舞子のように家族に同伴して訪れてい る 人が多かった。これは、当時女学校で 教 えられていた学問分野に哲学がなかったことや、女性が是非歩いて で も訪 れ たいと思わせる装置の欠如が 考 えら れ る。また、夫の随伴として名前を記さ れ なかったということも 考え

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ら れる 。しかし 、この女性の少なさも 、近隣住民が増えるに従って 解 消されつつある 。また 、日本人以外では 、 哲学館大学で英語を 教 えていたガイと、日本に留学していた清国人が訪れている。 まと め 四聖堂竣工当時は 、哲学館大学の施設として 、哲学館教員と哲学館大学生などの円了の知己が多く訪れてい た 。そして、孔子誕生会などの学校行事に利用されていた。しかし、円了が哲学館大学を退隠して以降、円了 が 哲学を通じて庶民を啓蒙する精神修養的公園、修身 教 会運動の拠点として独立経営することとなり、その性格 が 当然のように変化し、広く開か れ た 施 設となった。しかし、明治四十五年に箱根を避暑のために訪 れ ていた円了 が ﹁天皇不 例 ﹂を聞き 、哲学堂に籠もって回復を祈った り ︵ 26︶、天皇崩 御後 の大正元年八月から九月の大喪ま で 哲学堂で謹慎した り ︵ 27︶ という行動をとっている 。これは 、公人としての円了が業務を行った公邸のような役 割 も哲学堂が果たしていたからではないだろうか。そ れ が、死後は財団法人化もしくは国家に報恩のために寄附し て井上家の私物としないこと、という遺言に 表れ ているように思わ れ る 。 さて 、﹃哲学堂来観諸君名簿﹄で 、最も多く来観したのは 、九回来観した小石川区に住んでいた山内勝二 で あった。二番目は、七回来観した豊多摩郡千駄谷町に住んでいた大津武敏であった。この二人は、円了との関 係 が見ら れ ない。そ れ は、まったくの庶民が愛好し、来訪していたことを意味すると思わ れ る。人数面から考察し た ように、六賢台などが竣工したのは明治四十二年十一月であるが、 東京 帝大生と一高生が二十四人訪 れ ている 前 月十月以降は、寒暖の 厳 しい時期でも二桁の人が訪れている。明治四十二年秋に園内が整備されたことが一つ の 転 機 になり、未完であったが、学を志す若人と庶民に開かれた施設になったといえるのではないだろうか。 そ

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233 明治期哲学堂 の ため、小学生が団 体 で来たり、同じ字から連 れ 立って来たりというようになったのであろう。 哲学館大学の移転予定地であった明治三十八年までの時期は、行事などに使われる通常使用されない特別な 場 所 であったと考えられる。円了が大学を退隠した後の明治三十九年から明治四十二年九月までは、整備 途 中で 充 分 な施設もなく、特別な日を除いて人もあまり訪 れ ない場所であった。そして、明治四十二年十月以降は、未 完 であったが、人 び とが気軽に訪れる開かれた場所であったといえる 。 ︻註 ︼ ︵1︶ 例 え ば 、貝塚爽平 ︵監︶ 、清水靖夫 ︵編︶ ﹃明治前期 ・昭和前 期 東京都市地図2 東京北部﹄ 柏 書房 、一九九六年 、 一 〇六頁の ﹁練馬 ・中野一九〇九﹂図の左側に ﹁井上哲学堂﹂と記されており 、そこには 、四聖堂 、六賢台 、賛 仰 軒 らしき建物と天狗松を指す針葉 樹 などの記号が記さ れ ている 。 ︵2︶ 竣 工時の建物の名 称 は 、﹁哲学堂﹂であったが 、本稿では建物については ﹁四聖堂﹂を使い 、﹁哲学堂﹂は全体を指 す場 合に使う 。 ︵ 3 ︶ 井 上円了︵述︶ 、井上玄一︵編︶ ﹃哲学堂案内﹄哲学堂事務 所 、一九二六年、二頁 。 ︵4︶ 井 上円了﹁南船北馬集﹂第三編、 ﹃井上円了選 集 第一二巻﹄ 東 洋大学、一九九七年、五百四十九頁。 ︵5︶ 例え ば 、筆塚については 、哲学堂の彫刻類を手がけた田中良雄宛に 、形と費用を示した大正四年二月五日付の葉 書 が 、東洋大学井上円了記念博物 館 に収蔵さ れ ているので 、そ れ 以降に作ら れ 、設置さ れ たことが判るが 、そ れ でも 設 置日は不明である 。そ れ 以外の構造物には 、完成日のみならず 、名 称 のみが残るだけで 、写真すら残っていない ため、どのようなものであったかがまったく不明なものがいくつもある。 ︵ 6 ︶ ﹁ 哲学堂来観諸君名簿﹂については 、三 浦 節夫 ﹁ 井上円了と哲学堂公園100年﹂ 東 洋大学井上円了記念学術セン ター編 ﹃井上円了センター年報 第十一号﹄ 、東洋大学 、二〇〇二年 、五十三︱百三十四頁の九︱九二頁に 、概要 と 年月 別 参観者数があがっている。

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︵7︶ な お、冊子の他に、紙に記されただけの状態の名簿も帙内に収められている。 ︵ 8 ︶ 帳 面の最初の行に日付はなく 、住所は ﹁〃﹂となっており 、いつ訪れたどのような集団の続きなのかは不明 。日 付 が付いている最初の日が一月十六日であり、第一〇号と時 期 が重 複 している。 ︵9︶ 表紙の記載は ﹁大正六年﹂ 、一頁目の記載は ﹁大正五年﹂となっている 。三浦節夫前掲書では大正五年となってい る が、 筆 者 が再調査しところ ﹁大正六年﹂と来観日に年も書いた人がいた 。冊子がいつどのようにして作られた か は 不明であるが 、こ れ も大正五年のものとすると 、大正五年五月六日から六月三十日の間は 、名簿が三冊以上あっ たことになり、 他の時期に比べて、 名簿 数 が多くなってしまうので、 大正六年のものと判断した。時期については 、 今後名簿に書かれている人 び との履歴を調査して、判別をつけたい 。 ︵ 10︶ 円了死去の報が伝わって以降 、来 観 者数は激減し 、五月五百八十五人から六月は九十三人と六分の一ほどになって いる 。また 、円了の葬 儀 は 、六月二十二日に東洋大学葬として白山の東洋大学講堂で行われ 、その後 、遺骨を奉じ て和 田山の哲学堂に移動し 、焼香式と記念撮影ののち 、蓮華寺に埋骨されたと ﹃東洋大学百年史﹄七一〇頁に記 さ れ ているが、円了の葬 儀 が行わ れ た六月二十二日に記載さ れ ている来観者数は、ゼロ人である。 ︵ 11︶ この号は大正関東大震災の発生を含む 。そのためか 、九月一日より十八日まで来 観 者がおらず 、九月の来 観 者数 が 少 なくなっている 。 ︵ 12︶ 井 上円了 ﹃ 井上円了選集第一巻﹄一九九七年、五五〇 頁 ︵ 13︶ 東 洋大学創立百年史編纂委員 会︵ 編 ︶﹃ 東 洋大学百年 史 資 料 編Ⅰ上﹄ 東 洋大学、一九八八年、三一 頁 ︵ 14︶ 東 洋大学創立百年史編纂委員 会 、 東 洋大学井上円了記 念 学術センター ︵ 編 ︶﹃ 東 洋大学百年 史 通 史 編Ⅰ﹄ 東 洋大学 、 一 九九三年、六七七︱六八八頁参照。 ︵ 15︶ 井 上円了、一九二六 年 、五頁 。 ︵ 16︶ ﹁ 併セテ本帖﹂を墨 線 で消し、朱で﹁別帖﹂と右に記す 。 ︵ 17︶ 東 洋大学井上円了記念学術センター︵編︶ ﹃東洋大学人名 録 役 員・ 教 職員 戦前編﹄東洋大学井上円了記念学術セン ター、一九九六 年 。 ︵ 18︶ 三 浦節夫 ︵編︶ ﹁井上円了関係人名辞典﹂東洋大学井上円了研究 会 第三部 会 編 ﹃井上円了研究四﹄東洋大学 、一 九

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235 明治期哲学堂 八 九年、二百三十三︱百四十一頁。 ︵ 19︶ 東 洋大学同窓会 ︵編︶ ﹃東洋大学一覧﹄東洋大学同窓会 、一九一〇年 。その該当年度の役員 、教員 、職員 、在学生 に 、それまでに学位や称号を得た者 、在学した学生を総覧した冊子 。ただし 、館外生や 、科目履修のみの学生は 記 載 さ れ ていない。 ︵ 20︶ 東 洋大学は 、現在でも円了の遺言に従って 、十一月第一土曜日に哲学堂祭を哲学堂で行っているほか 、講義や行事 の一つとして哲学堂を学生が訪れるものが存在しており 、在職 者 が哲学堂を業務として訪れることがある 。とくに 新人職員は哲学堂 祭 に参加する必要がある 。 ︵ 21︶ 円了がつくった ﹁京北﹂を冠するものに明治三十二年開校の京北尋常中学校と明治三十八年開園の京北幼稚園があ り 、円了が名誉校長になった後に開設された学校に 、明治四十一年開校の京北実業学校があった 。大正二年に東 洋 大 学と合 併 し 、東洋大学財団 ︵この表記は ﹃東洋大学創立五十年史﹄二二〇頁の表記で京北中学 校 ・京北高 校 、 京 北白山高校のホームページにおいても使わ れ ている︶の一部でとなったが 、戦後の昭和二十六 ︵一九五一︶年に分 離 、平成二十三 ︵二〇一一︶年に合併し 、現在は二校とも学校法人東洋大学の併 設 校である 、京北中学校 ・京北 高 等 学校と京北白山高等学校となり 、京北幼 稚 園も存続している 。記載は ﹁京北中学校﹂となっているが 、生徒 、 教 職員 ともに一つにまとめた。なお、園児であると記載さ れ ている姓名はなかった 。 ︵ 22︶ ﹁町 ﹂と﹁村﹂については、記載 初 年である明治三十七年を 基 準としする 。 ︵ 23︶ 井 上円了 、 前 掲 書 、 五五五頁 。 ︵ 24︶ 教 員としては 、日清高等学部も含め 、内田周平 、有馬祐政 、土屋弘 、下田義照 、安藤弘 、東敬治 、八木光貫 、赤 堀 又 次郎 、杉谷佐五郎 、三石賤夫 、田中治六 、立柄教俊 、三島定之助 、古沢藤市 、星市三郎 、湯本武比古といった名 前 が見え、学生時 代 の西山哲治もこの月に訪れている。 ︵ 25︶ 絵 はがきの原紙となった写真を水村新蔵の孫にあたる小見やよい氏が所有しており 、調査の 際 に拝見の 機 会を 得 て 、写真裏面の 文 面と当日の日記を確認した 。 ︵ 26︶ 井 上円了 ﹃ 井上円了選 集 第一三巻﹄ 東 洋大学、一九九七年、三三四︱三三五頁 。 ︵ 27︶ 井 上円了、前掲書、三四三頁 。

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