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資本と所有
荒 木辿. 夫
1 マルクスは,『資本論』第一巻の最終編「資本の蓄積過程」において,次の ようにのべている。 「最初の資本は,10,000ポンドの前貸によって形成された。その所持者は, どこからそれを手にいれたのか?彼自身の労働や彼の先祖の労働によって だ!経済学者の代表たちはみな一様にこう答えてくれる。そして,実際に も彼らの仮定は,商品生産の諸法則に一致するただ一つのものであるよう にみえる。(Das ursprUngliche Kapital bildete sich durch den Vorschuss von 10,000 Pfd. St. Woher hat sie ihr Besitzer? Durch seine eigne Arbeit und die seiner Vorfahren! antworten uns einstimmig die Wortftihrer der politische Oekonomie, und ihre A. g!tlgn!pe−ahme.s. ch.itnt in der Tat die einzige, 2) die zu den Gesetzen der Warenproduktion stimmt.)」(下線は引用者) 1)「ショユウ」の概念は,大きくは,共同か私か社会か個人かの区分を手はじめに,経 済的,法律的の別。観念的,現実的の違い。経過的,結果的の差。私有の代表=資本制 的私有内でも,自然人と法人(特に株式会社),独占と自由の区別。社会主義的共有下で も官庁管理と自主管理の相違等々が存在し,多岐複雑を極めている。マルクス自身も, その生涯中,疎外や物神的転倒による資本制的私有の批判を展開するが,その内容の消 長,変改,進展を通して,その全容は多義的な様相を呈している。それは,Eigentumの みならず,Aneignung,はては, Besitzの用語一つ一つにおいてさえそうである。本稿 は,もちろん「ショユウ」一般を論ずるものでもなく,また資本制的私有の現代的状況 までその射程にいれるものでもない。さらに,株式会社論も保留する。いわば,それら の原点の原点ともいうべき「労働力」と「1:多」の「労働力保持者」の「生産手段」 私有に関する資本制的基礎を明らかにしたい。 2)K.マルクス『資本論』(『マルクス・エンゲルス全集』第23b巻)758頁(『K. Marx・ノそして,この「経済学者たち」の「仮定」をマルクス自身も「本質」からの 「現象(Erscheinung)」としての「仮定」という条件つきで容認している。 すなわち, 「…………最初は,所有権は自分の労働にもとつくものとしてわれわれの 前に現われた。少くとも,このような仮定が認められなければならなかっ た。ただ,同権の商品所持者が相対するだけであり,他人の商品を取得す るための手段はただ自分の商品を手放すことだけであり,そして自分の商 品はただ労働によってつくりだされうるだけだからである。(UrsprUnglich erschien uns das Eigentumsrecht gegrUndet auf eigne Arbeit. Wenigstens musste diese Annahme gelten, da sich nur gleichberechtige Warenbesit− zer gegenUberstehen, das Mittel zur Aneignung fremder Ware aber nur die Ver−ausserung der eignen Ware, und letztere nur dprch Arbeit her− 3) stellbar ist.)」(下線は引用者) 4) ところで,「商品生産と商品流通とにもとつく取得(領有)の法則または私 5) 有の法則(das auf Waarenproduktion und Waarencirkulation beruhende Gesetz der Aneignung oder Gesetz der Privateigentums)」の「正反対物」 6) への「転変」(フランス語版(ロア版)では「商品生産(la production marchan一 \F.Engels Werke』Band23, S.608)以下,次のように略記.『全集』(23b)(「Werke』 (23)). 3)K.マルクス『全集』(23b)76G頁((『Werke』(23)SS,609∼610) 4)K.レンナー(筆名,J、カルネル)によれば,資本制的「領有(Aneignung)」は「法律 的」には,資本の「法定果実」の取得を意味し,適法である。しかし,「歴史的」「経済 的」にみるなら「資本」による労働者の「収奪」である,という。(「Die Rechtsinstitute des Privatrecht und ihre soziale Funktion 一 Ein Beitrag zur Kritik des BUrgerlichen, 1929」(加藤正男訳『私法制度の社会的機能』法律文化社,1968) 5)重田澄男氏は,「所有(Eigentum)」は,「物を支配しうる観念的な物的支配」としての 純「法律」的概念であり,「領有(Aneignung)」は,本来は,「無主物先占」としての法 概念であるが,マルクスは,独自に「事物についての現実的な事実的我物化」としての 経済的概念として扱った,とされる。(『マルク.ス経済学方法論』有斐閣,1975) 6)K.マルクス『全集』(23b)760頁(『Werke』(23)S.609)「初版・資本論』幻燈社書 店,663頁(『Das K:apital』(青木書店復刻版)S.571)
資本と所有 277 de)」の「所有法則(lois de propriet6)」の「資本主義的専有の法則(lois de 7) 1’appropriation capitaliste)」への「変化」)については,『資本論』のドイツ 語版各面とフランス語版の考証を通じ,多くの検討が重ねられてきた。その さい,冒頭の商品生産を行う主体については,歴史上実在したか,または論 理的に仮設された「単純な小商品生産者」と解する論者にたいし,ブルジョ ワ社会の深層の「表面」に「仮象」化した虚構としての単純商品所持者とみ 8) る見解が大きく対立している。本稿は,この二大潮流ともいささか異なる試 7)K.マルクス『初版・資本論』(フランス語版(ロア版))法政大学出版局,240頁(『Le Capital』(traduction de M. J. Roy)(極東書店復刻版)p.257)なお, appropriationは訳 書では「奪取」と訳している。ちなみに,第32章(ドイツ語現行版では第24章第7節) のexpropriation(ドイツ語もExpropriation)は「収奪」と訳しわけている。 8)つとに,宇野弘蔵氏は,独自の方法論にもとづき,「本源的蓄積」無用の議論を展開 し,転回論における商品生産者も歴史上の単純な小商品生産者とおさえ,これを原理か ら除外される。『価値論の問題点』(法政大学出版局,1863)など参照。 蛯原良一氏は,『所有論の歴史』(世界書院,1986)において,現行『資本論』の「法則 転回」には二種の混同がみられるが,その「フランス語版(ロア版)」は,これを修正し た,といわれる。すなわち,正しい「転回」は,ジョン・ロック,アダム・スミスの系 譜に属するものであり,自らの労働にもとつく「単純商品生産」よりの「資本制的生産」 への移行であり,また誤った「転回」は,A・E・シェルブリエの「賃労働者の労働の販 売による賃銀獲得=商品生産」,その労働の利用による「剰余価値の資本による所有=資 本制的生産」である,と。また,平田清明氏も実在の「単純商品」を前提し,その資本 と賃労働への分解を「概念展開」させるべきとの見解を披渥されている。(『市民杜会と 社会主義』岩波書店,1969) 佐藤金三郎氏は,歴史的に実在する「単純商品生産」の設定をあくまで認められず, 「ブルジョワ杜会の表面(仮象「Schein」)」より「深層(本質)」への「弁証法的転回」 こそが正しい,と考えられる。(『商品生産の所有法則』「経済研究」第30巻第3号,1979 ・ 7) 藤田勇氏も,佐藤氏と同様,かの「弁証法的転回」をブルジョア的所有法則の「第一の 法則(「表面層(die oberflachliche Schichte)」)」から「第二の法則(「かくれた背景 (versteckter Hintergrund)」」への移行と考えられる。(『近代の所有観と現代の所有問 題』日本評論社,1989) 田中菊次氏は,マルクスの「商品生産の所有または領有法則の資本制的生産の領有法則 への転回」を「生産手段の私有」方式の変化にすぎないとし,改めて,労働過程におけ る「労働にもとつく所有」の確示を提唱されている。(『マルクス経済学の学問的達成と 未成』創風社,1989) 大野節夫氏は,広義の所有を「所有=生産手段・労働力にたいする「主体的関係」」,「領 ノ
見をこの「現象」的把握を手がかりに検討することが,その狙いである。 II なにはさておき労働を基軸に所有論を考えるさい,次の『ドイツ労働者党 綱領評注』(マルクス)の一文を座視するわけにはいかない。 「…………人間があらゆる労働手段と労働対象との第一の源泉たる自然に たいして,はじめから所有者として対し,この自然を人間の所有物として 取り扱うかぎりでのみ,人間の労働は使用価値の源泉となり,したがって 9) また富の源泉となる。」 すなわち,富の源泉は,「人間」による「自然」の優先的確保が予めあってこ そ,その同じ「人間」の「労働」を唯一つ指名しうる,というわけである。 しかしながら,この「あらゆる労働手段と労働対象との第一の源泉たる自然」 とは,全くの天然大地であるのか,それとも一度なりとも労働の洗礼をうけ たいわゆる生産手段を指すのかは分明ではない。しかし,マルクスのこの評 注での引続く一文は,後者の意のごとくである。 「ブルジョアが労働には超自然的な創造力がそなわっているかのようなつ くりごとを言うのは,はなはだもっともである。なぜなら,あらゆる社会 状態と文化状態のもとで自分の労働力以外になんの財産ももたない人間が, 対象的労働諸条件の所有者となっている他の人々の奴隷とならなければな らないのは,まさに労働が自然によって制約されている結果だからである。 彼は,この他の人々の許可があるときにだけ働くことができ,したがって, 10) 彼らの許可があるときにだけ生存することができるのである。」 このマルクスの説明は,一種の巧妙なる労働所有論である。すなわち,所有 \有(取得)=労働生産物の領有」に二分し,「転回」論を「商品生産の所有法則=「孤立 的」な「商品交換に私的形態規定された所有」」から「資本家的生産に実体的根拠をもつ」 「領有(取得)法則」への移行とする「フランス語版」の正当性を主張される。(『生産 様式と所有の理論』青木書店,1979) 9)K.マルクス『全集』(19)15頁((『Werke』(19)S.15) 10)同前,15頁(ibid., S.15)
資本と所有 279 の源泉は,自然と労働の両肢であるとしながらも,最終的には労働一本に落 着しうるからである。すなわち,労働生産物としての自然の占有が労働によ る生産物の所有を決定するのである。かかる見解は,ひいては生産手段の所 有形式いかんが,労働による所有内容を左右するという見地にも導かれよう。 いずれにしても,所有が所有を決定する。かくて,最良のさいとても,物的 資源の稀少性から解放されることは一切ない,ということになる。 しかし,マルクスは,同じ『評注』のやや先のくだりで次のようにも言う。 「共産主義社会のより高度の段階で,すなわち個人が分業に奴隷的に従属 することがなくなり,それとともに肉体労働と精神労働との対立がなくな つたのち,労働がたんに生活の手段であるだけでなく,労働そのものが第 一の生命欲求となったのち,個人の全面的な発展にともなって,またその 生産力も増大し,協同弥富のあらゆる泉がいっそう豊かに湧きでるように なったのち そのときはじめてブルジョア的権利の狭い限界を完全に踏み こえることができ社会はその旗の上にこう書くことができる一各人は,そ の能力に応じて,各人にはその必要に応じて!(Jeder nach seinen Ftihig− 11) keiten, jedem nach seinen BedUrfnissen!)] この言明は,詮ずるところ,所有の必要なき社会の宣言である。すなわち, 一方に,利用しうべき土地の無際限・無尽蔵な存在,他方に,これを自在に 活用しうる科学の裏目的な発達(なかでも工学的応用技術)を前提するなら ば,予め囲いこむ必要なき自然にこれまた稀少量から解放された第二の自然 (加工自然)を対置しうるのであり,労働者にとっての最小限の義務は第一 の自然の人工化につきるのである。要するに「能力に応じて」働き「必要に 応じて」使う「稀少」ならぬ「豊穣」の世界の実現公約は,経済的エゴ消滅 の予測でもある。この「黙示録」への決定的挑戦状ともいうべき声明は,い かにも社会進化の極点を明示しており興味深い。しかも,かかる見地の原点 には,片や天然大地,片や労働の富源泉区分が控えているのであり,かくし て,二つの異趣の支配根拠を指示している。先の労働への所有源泉一元化論 11)同前,21頁(ibid., s.21)
が,なによりもまず,生産手段の所有はその生産当事者の労働力をなんびと が支配しているかにあるとし,そしてまた,新生産物の所有もその生産当事 者の労働力の差配をなんびとがおさえているかにあるとし,いずれも労働力 の囲いこみを共通項としている。要するに,その労働力支配者が,労働力保 持者と同一人であるか別人であるかによる分別であり,究極的には,人類と しての「人間」が人類としての自分を支配するのである。生産手段も生産物 もともに人間に所有される。いわば,人類史に唯一つ公認される「悪循環」 をなすのである。そして,人間体に寿命あるかぎり,その労働力は未来永劫 に囲いこみの対象から除籍されることはない。しかしながら,かの所有廃止 説の原点的理解にたつなら,一方では,人間が「自然」を支配し,他方では, その同じ人間が「労働力」を支配するとせずばなるまいが,この人間による 労働媒介抜きの自然支配のアン・ジッヒこそ所有なきパラダイス論の格好の 温床である。 ところで,人類にとっての最終の保険は,自分自身を除く地球自然である。 この前提中の前提が人類にたいして進歩の旗手たりうるか,それとも退歩の 予兆者でしかありえないかの論定は沙汰の限りである。しかも,一歩譲って, 限度なき大自然を前提し,第二の自然開発の際限なき科学技術の展開を提示 したとてこれまた希望的観測の域を全く出ないであろう。かくして,自然支 配を足がかりとするパラダイス社会到来論は,政党のプロパガンダでしかあ りえない。マルクスの本意は,なかなかに確定しがたいが,恐らくは『資本 論』の本源的蓄積の最終節に明示される「生産手段の共同占有を基礎とする 個人的所有の再建」なる控え目で禁欲的な薔薇色社会の提言こそが,終生不 変の信念であった,というべきであろう。かくして,この『評注』の正解は, 前者であり,この見解こそが現実主義者にして理想の体現者でもあるマルク スの真像なのである。 われわれは,とりあえず,この『評注』を指針としつつ,かの「仮定=現 象」の「本質」箇所はどこか,そして,その内容はなにか(もし,なければ, なんであるべきか)を確定したい。それは,いかなる社会にも共通な,との
資本と所有 281 意味で根源的な「労働過程」であるのか,それとも,本来的(eigentlich)な ものにたいする起源(Ursprung)としての「本源的蓄積」であるのか,であ る。さしあたりは,前者の検討から始めることにしよう。 III マルクスは,労働過程では,所有論を展開しない。否,商品論でも,少な くともその冒頭では明示しない。そして,最終的には,その本格的な説明は, 資本の蓄積過程にもちこされる。それは,なぜか。その問いに答えるには, なにはともあれ,労働過程の内容の再吟味が必要である。ところで,労働過 程の構成基本には,まず,そのプロセスの本源的な武器庫,天然の大地があ る。そのなかには,その本体が加工されて使用価値となるはずの素材もあれ ば,加工主体たる人間労働のアンプたるべき資材としての加工客体もある。 さらに一歩進んで,加工ずみの労働対象や労働手段としての自然が新規に参 入する。このいわば,天然の処女地と人工自然との二つの自然が,労働を基 軸に,両分されるわけだが,いま,有限なるものの人による囲いこみを所有 なる用語で表わし,その所有を労働により決するものとすれば,大前提たる 無垢の自然は,所有したがって人によるなんらかの囲いこみを一切,要しな い無尽蔵の宝庫なる要件を帯びざるをえない。かくて,労働過程は,何ぴと の支配にも属せざる大地を労働そのものが自由自在に変形・変質せしめ,そ の果実を自己の完全差配下におくとの帰結を招かざるをえないのである。し かし,かかる内容をいかなる社会にも共通なものとして導出・提示するわけ にはいかない。さりとて,逆に,労働を加える以前の全自然を労働以外のな にかにより所有するものと特化することも当をえない。なぜなら,所有源泉 の二元提示となるであろうからである。いずれにしても,自然と労働の「劃 然たる区分」のうえにたつかぎり,「労働にもとつく所有」を社会一般に共通 でしかも一元的な規定として整序することはできないのである。 翻って,資本主義社会の出発点は,労働対象・労働手段と生活資料の一方 的独占である・しかも所有の基本を労働に求めるかぎり,これらの本源的物 “
資は,生産物の観点からのものでなければならない。労働による非加工物は, 当面除外される。かくして,本源的蓄積も労働一ただし,自己労働一にもと つく所有に合致する。しかし,ここにはある一定額の生産手段を購入しうる 人と全くの無一文の人との暗々裡の想定が隠されている。それが自発的なも の一一方の勤勉,他方の怠惰一か,強制一例えば暴カーによるのかは不問と しても,やはり一群の人々による生産手段の一方的所有が他の一群の人々の 労働の源泉の支配を根拠づけているのである。ともかくも「初めに,生産手 段の独占ありき」である。しかし,フィルムをさらに巻き戻すならば,天然 の自然庫の労働にもとつかざる一方的先占がそこから排除された人々の生殺 与奪の権利を確保し,’自然の直接的所有が労働の間接的所有に優先したので ある。「初めに,天賦の自然独占あDき」である。あらまほしき「労働にもと つく所有」がその前提たる「自然の囲いこみ」の再認により経過的にせよそ の根底においては制限されたとの解釈も十分,有効であろう。しかるに,マ ルクスは,そのような見解を一切黙殺し,終生,V+MへのCの完全分解を ドグマとするラディカルな批判を堅守するのである。では,資本制社会に固 有の形式の考察下でも再登場する,先刻のごとき理論的節穴を塞ぐ切札的鍵 は,何か。それは,ともかくも天然大地の狭義化である。すなわち,自然そ のものの無尽蔵ないし豊富な存在量,その没所有ないし片面所有などの想定 解除である。自然は,加工自然の材料たるべきものに限定し,その所有宣言 を加工自然の主体たる労働力の保持者に行わしめよ。そのことは,労働によ る所有一元化を空論から免罪する。いわば,「労働にもとつく所有」の最初の 権利者への支配権全面委譲である。このことは,「生産物=加工ずみ自然」を 原理の始源とすべきことの歴史的告発ともなる。しかし,われわれの理論的 巻戻しには一定の但し書を必要とする。すなわち,現実的・顕現的前提とし て,生産手段C,したがって,その前提の前提たる加工自然用自然の占有は 陰関数化すべきこと一これである。かくして,労働過程においては,無制約 な天然自然はもちろんのこと加工対象たりうべき自然を前提したとしても, かかる同一人をおしたてての「労働にもとつく所有」を歴史貫通的に展開する
資本と所有 283 ことはかなわぬのである。 さらに,考えうる労働所有一般への斬りこみ口は,労働の源泉たる労働力占 有者の任意化である。労働所有のターミナルは,労働力の保持者である。こ の一般化は可能であろうか。答は否である。なんとなれば,かかる保持者も 被保持者も,おしなべて自由な開放者たることが必須要件であるからである。 かかる個人は,自由な自分か,自由な他人(複数)の労働力を差配するとせ ずばなるまいが,その社会的敷術化はとうてい不可である。「労働カ所有にも とつく,労働による所有論」は,たとい,その主体を特定せずとも,少なく も「資本制」以前の諸社会には「ないものねだり」の空砲となるであろう。 すなわち,奴隷にしても隷農にしても生命活動そのものや労働以外の生命活 動の規制を自分以外の何ものかによってうけておD,賃労働者のみがすべて において自由な市民権を確保しつつも,ただ一つ,労働なる生命活動を他人 の強制支配下におきうるからである。人間支配の内容は最小限に絞られ,そ れが人(の一部)と自然を囲いこむ所有と一義化するのは,資本制社会をお いてありえようがないというわけである。一般に,人間が自然を差配するの であり,有限な人間は支配ずみ自然を無限化することはできない。それは, パラドックスであるばかりでなく,人が神を創造するに等しい。よって,有 限な人間生命体は加工自然に唾づけし,棚囲いする。加工自然の震源は人間 労働であり,かくて人間の中枢中の中枢は労働力となる。いま,天然自然一 般ではなく,技術的に加工可能な輪切り自然を前提しよう。かかる有限自然 は,所有対象たりうる。それは,加工自然力=労働力の保持者の財源なので ある。富の一源泉たる自然は,加工の前後を問わず,他の源泉,労働の本体 の所有者に帰属するが,それは,市民的自由の手放し的讃歌の下にあるかぎ りにおいて一意的である。人の支配は,労働力の支配であり,労働力の支配 は,加工可能自然および加工ずみ自然の二つを囲いこむのである。しかし, 資本制社会の壁頭では,自分の労働にもとつく所有のすりかえ移動があり, しかもそれは,「すでに生産した生産手段」の人から人への強制移転である。 かくて,天然自然との直接的対面からは,少なくとも一駒のずれが必要なの
であり,Cはその分解を歴史的論理の名において最後の一瞬に断念せざる をえないのである。要するに,生産手段を何ぴとかが生産し,それを別の何 ぴとかが強引なる戸籍がえをし,そして,ある時点で,その「別の何ぴと」 は生産現場から退隠するのと引換えに「はじめの何ぴと」が改めて生産現場 に復帰し,生産物の所有権は放棄する,との現実的な公約厳守は,資本制社 会の発端ただ一つに限られるのである。
IV
前節でみたごとく,自らの労働にもとつく私有の現象的転倒の本質的真像 を「労働過程」に求めることは,どうやら筋違いであった。したがって,今 一つの始源の心当たり「本源的蓄積」の検討にはいることとしよう。 マルクスは,「本源的蓄積」章の冒頭で,まず,前章までに説かれた資本と 蓄積の関係を「悪循環(fehlerhafter Kreislauf)」(Kapital und Arbeitskraft . kapitalistische Produktion 一一〉 Mehrwert 一〉 Akkumulation 一〉 K. und A.)から免訴するためにも,本来的蓄積の前提として「先行的蓄積(previous accumulation)」を「仮定(unterstellen)」せずばなるまい,とする。ところ で,この先行的蓄積の事実による肉付には,まずもって,「愚にもっかない子 供だまし」の説明がある。すなわち,「勤勉で,賢くてわけても倹約なえり抜 きの人」のみが先行の資本を造出し,「なまけもので,あらゆる持ち物を,ま たそれ以上を使い果たしてしまうくずども」はその恩恵に浴せず,というも のである。しかし,この勤勉のみが唯一の致富手段ないし所有源泉とする新 生的な「牧歌的」見解は,誤りである。勤勉以外のものによって支えられた 「封建的所有」が,「自由な自分の労働にもとつく私有」を狭み,さらにその 廃嫡にもとつく「資本制的所有」へと転変する所有再編的な鎮魂曲風見地こ そが,正しいのである。旧来の生産者と生産手段の所有関係を抜本的に改革 して新装の関係を造りだす「歴史的過程」の結末が,生産手段の一方的独占 と無産労働者の否応なき出現となるのである。この解体の中心,「全過程の基 礎」は,「隷農」の封建的な土地への繋縛からの解放による新・被支配者,賃資本と所有 285 労働者の創出であり,これを補う「同職組合規制」の解体である。また同じ 解体は,新主人,「資本家」に敵対する旧支配者,封建領主や同職組合親方の 没落消滅でもある。前者は,新社会の払暁であり,後者は旧社会の夕暮とな る。この解体の具体的なプロセスは,国ごとにその彩色を異にするが,その 典型例は,イ・ギリスである。 もっとも,これら西ヨーロッパ本国の裏面をなす,かかる封建的拘束から 自由な「近代植民地」にあっては,広大な「処女地(jungfreulicher Boden)」 を「自分の労働にもとつく私有」下におく自由な移住者をも一時的に生みだ し,「組織的植民(systematic colonization)」策のごとき,この賃労働者化の 試みの挫折もおりこむが,やがて,これら植民地のなかから,自生的な資本 関係を醸成するエリートも立ち現われるにいたる。その一例が,アメリカで ある。 そして,私有を基底におくかぎり,「自分の労働にもとつく個人的私有」が 自由人の出発点をなすが,本国はもとより植民地の一部でさえ,一貫して, この私有の暴力的廃棄をもって資本制的私有の暁鐘を鳴らすのである。かく のごとき荒療治を経た,条件づき自由の資本制的私有が,人類最後の「人権 宣言」でありえようはずはない。必ずや,入相の鐘を予兆するであろう。し かし,それは,資本制的私有の滋養分を吸収しつくしたうえでの「共同占有」 を基礎とする「個人的所有」の創成でしかないと結ぶのである。 かくて,「本源的蓄積」は全「理論」の後背地をなすものであり,イギリス やアメリカはその「例証」の位置に止まるものである。 かえりみるに,いわゆる本源的な資本の一方的蓄積の視野に限定しての前 社会の解体史は,一つの事実,集積資本の独占者とそれからの解放者の二極 存在の本質論的解釈である。西欧の封建社会末期にあっては,領有せられざ る土地は,処女地を含めて猫の額程もない。かくて,所有は,労働にもとつ く一元化を拒否する。そこには,私権力と公権力による補佐にもとつく所有 が個人的な内容を資本制的な内実に強制転化する。そのプロセスは,封建社 会のドラスティックな全面解体の部分像をなす。それは,牧歌流れる極楽の
縮図ではなく,さながら血の雨の降る黙示録の世界である。自由と独立の確 立史ではなく,抑圧と強制の再編史なのである。 西ヨーロッパ封建社会の解体史中,所有にかかわる一面を理論的に切りと り,イギリスを例にとるならば,それは,マルクスの画くごとき本源的蓄積 の構図となる。それは,教会領,直轄地,封地,共有地などの解体による隷 農,封建家臣団の解体・追放→工業を中心とする産業の革命的再編・整備→ 無産者の近代産業への大規模な再吸収(並行してのヨーマンリーなどの自営 業者の没落)なる大筋を阿鼻叫喚のうちに確示される封建的所有から近代的 所有への転回・強制となる。ここには,国権力のあけっぴろげな加担がその プロセスの性格を大写しするが,資本制社会の発端を隈どる所有が自由なら ざるものなることを刻印もするのである。自由社会の基礎的根幹は,不自由 な所有を錦の御旗とするが,この本質は,やがて労働にもとつく所有により 現象的に隠蔽される。その現象上の自由な所有論の転変は改めて本来的蓄積 論で展開されるのである。 かくして,資本制社会を,労働にもとつく所有として現象的にせよ展開し うるためには,一方に,労働の濾過をうけた生産手段と生活手段の集積独占, 他方にその一切合切の分散喪失といった資本主義の発端の本質的理解をいっ たん忘失・消去する必要がある。すなわち,それらが強制暴挙の産物だとい うことを一先ず括孤にいれねばならない。そしてこのいわば空白の事実を所 与として,それらの,これまでの「いかにして」とこれからの「いかにして」 を労働にそくした所有論として展開しなおさなければならないのである。そ のためには,すでに生産ずみの労働対象と労働手段,つまり,C部分とその 外部に控える加工生活資料の温存凍結がぜがひともの必須要件となる。Cの 分解操作が,とどのつまりはVとMに帰するとの見解をドグマとして斥ける 決定的理由はここにあるのである。われわれの社会が,ピンからキリまで自 由独立の社会でありとおすためには,かかる「als ob」な労働所有社会である ことを自証せざるをえないのである。労働こそが所有の源泉であり,勤勉は 競争社会の適正なる標語である。ただ出発時のこの一歩の差は,現社会の存
資本と所有 287 続するかぎりゼノンの「アキレスと亀」である。階級としては,資本家はあ くまで資本家でありとおし,労働者は最後まで絶対的窮迫のこの地位に甘ん ぜざるをえないのである。 なにはともあれ,資本制社会の発端は,偽装にせよ,志操高き門出でなけ ればならない。そして,労働が経済価値の本体であるならば,その成果は, この労働の発出者に帰属して然るべきである。勤勉実直なる資本家は,その 恩寵に浴し,怠惰無気力な労働者は,その恩恵に預れない。この出発時の決 定的な相違が,その後の両者の運命を左右するのである。資本家は,始源の 蓄積資本を元本として労働者には手持ちの生活資料をその労働力と引かえに 提供し,生産現場での直接労働から手を引くのである。資本制生産の前提の 前提を問責することにより,それが採りうる最良の仮定でさえ,入類の選び うる最後の理想像ではないことを確認することこそ,生産手段Cの徹底的分 解(V,Mへの)を峻拒した,マルクスの学的英断であったのである。農工 商を含めた全産業が,かかる自己労働にもとつく生産者であるとの想定は, もちろん事実に反する。さりとて,ヨーマンり一のごとき類例を探しあてる こともできないではない。だが,その例の例証としての効力は弱い。したが って,工業中心の産業革命を基軸とする資本制生産の前夜の総決算史とは, 全く逆行・転倒するが,本社会の払暁には,できうるかぎり薔薇色の現象を 本質にみたてて出航するほかないのである。 ヘーゲルならずとも学的「始源(Anfang)」の確定は至難中の至難事であ る。わが資本制社会の発端,本源的蓄積は,あくまで労働を核として理論的 に構成されねばならない。その申し子「本来的蓄積」は,複数の「自由な」 「他人の労働者」を所有し,自らは労働現場から離脱した単数(家族を単位 とする)の人によって取りしきられる蓄積であった。かくて,「自由」を転回 軸とする,この「逆」は「単数」の「自分の労働」にもとつく蓄積となる。 しかも,この自由は強制排除の戦果であり,同じこの自由は強制介入により 解体再編される。封建的所有の解体の第一釣果は「自分に自由に属してはい ない労働力」の「解放」であった。またこの「自分の労働にもとつく私有」
が「他人の労働にもとつく私有」に転変するプロセスは,自分に肉体的に属 する労働力の他人による肩代り支配の道行である。前社会からの移行プロセ スは,原理的にはカットしうる。しかし,本社会内での発端移行は消去不能 である。よって,一工夫が必要である。「最初の資本(ursprttngliches Kapital)」 を「本源的蓄積」から「本来的蓄積」に移植のさい,「本質」と「現象」の関 係を適用するなら,社会いれかえのドラスティックなドラマは隠蔽され,あ たかも社会発端の「自由な自分の労働にもとつく私有人」は人口の極少部で 人口の大半は所有拒否の「のらくらもの」であるとの「現象」図を示しうる のである。隷農の転属民(全面化も理論的理想)の資本家元祖への一瞬の移 しかえであり,「自分の労働にもとつく私有」のなにくわぬ固守である。 よって,冒頭商品・貨幣論に,労働過程を先発させることも,特定の生産 関係を帯した単純商品生産者を明示することも禁欲した謎の一端が解けるで あろう。資本制的生産の入場口での,封建的所有を解任された自由な自らの 労働にもとつく所有者を労働によらざる「収奪(Expropriation)」を介して交 代所有する初代資本家が,「単純商品生産者」を詐称することにより,剰余価 値の石女たることも自ら独白することになるのである。隷農を中核とする封 建的生産層よりの転化民のさらなる転化民の始祖こそが資本制生産発動後の 「深層」の「表面」としての「商品流通」を先取代弁するものといえよう。
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なお,以上の小論の欠を補うものとしては,『全集』(MEGA)第二部の第 3,6巻の内容の吟味,それにいたる蓄積論史の検討,『資本論』各庁との改 めての照合などがなんとしても不可欠である。さらには,現代の資本制的私 有と原理の結節点の導出も緊急不可避の研究課題である。かかる回り道の果 てにこそ始めて,共同占有と個人的所有の密月のなんたるかの糸口もつかみ うることであろう。資本と所有 289 参 考 文 献 1)K.マルクス『経済学哲学草稿』(K.Marx F. Engels Werke, Band(40>(以下, MEW, B.のごとく略記)『資本論草稿集』(1)(3)(4)(5>(6)(7)(8>,大月書店(K.Marx F. Engels Gesamtausgabe, zweite Abteilung Band (1.1)∼Band(3.6)以下, MEGA, B.のごとく略記)『資本論綱要』岩波書店(MEGA Ab.2, B.4・1)『資本論』大月書店(MEW, B.23)初版,幻燈社書店(Das Kapital, erster Band(青木書店復刻版)フランス語版 (ロア版)(Le Capital,(極東書店復刻版)) 2)平野義太郎『民法におけるローマ思想とゲルマン思想』(1924)(増補版)有斐閣,1970 3)K.レンナー『私法制度の社会的機能』(「Die Rechtsinstitute des Privatrecht und ihre soziale Funktion−Ein Beitrag zur Kritik des BUrgerlichen,1929)法律文化社,1968 4)川島武宜『所有権法の理論』岩波書店,1949 5)藤田進『近代の所有権と現代の所有問題』日本評論社,1989 6)向井公敏『「経済学批判要綱」における領有法則の転回について』「経済学雑誌(大阪 市大)」第69巻第6号,1968 7)佐藤金三郎『資本論研究の一争点』「経済セミナー」(7月号),1976 8)佐藤金三郎『商品生産の所有法則』「経済研究」第30巻第3号,1979 9)頭並博『領有法則の論理的転回』「商学論集」第47巻第1号,1978 10)中川弘『領有法則の転回一論争の一断面についての検討・試論』「講座・資本論の研究」 第2巻,青木書店,1980 11)向井公敏『資本蓄積論の形成』「資本論体系 3」有斐閣,1985 12)清野康二『蓄積論の成立と領有法則転回論』「経済学研究(北大)」第36巻第2号,1986 13)正木八郎『マルクス価値論の再検討』(1),(2>「経済学雑誌(大阪市大)」第90巻,第1 号,第2号,1989 14)大野節夫『生産様式と所有の理論』青木書店,1979 15)宇野弘蔵『価値論の問題点』法政大学出版局,1963『増補農業問題序論』青木書店, 1965 16)石井英朗『商品経済と私有制について1「思想」485号,1964 17)塚本健『「商品生産の所有法則」について』「唯物史観」第6号,1968 18)大内秀明『宇野経済学の基本問題』現代評論社,1971 19)山本哲三『領有法則転回論と経済学批判』「経済学研究(北大)」第24巻第4号,1974 20)永谷清『科学としての資本論』弘文堂,1975 21)平田清明『経済学と歴史認識』岩波書店,1971,『市民社会と社会主義』岩波書店,1969 22)望月清司『マルクス歴史理論の研究』岩波書店,1973 23)山田鋭夫『領有法則の転回』「資本論を学ぶ」(II),1977 24)山田鋭夫『経済学批判の近代像』有斐閣,1985 25)遊部久蔵「商品論の構造』青木書店,1973 26)宮本義男『資本論の再生産論体系』有斐閣,1977 27)蛯原良一『所有論の歴史』世界書院,1986 28)田中菊次『マルクス経済学の学問的達成と未成』創風社,1989
29>平野厚生『マルクス資本蓄積論の研究』青木書店,1981 30)早坂啓三『商品論における私的所有の位置と性格』「アルテス・リベラルス(岩手大)」 第16号,1975 31)重田澄男『マルクス経済学方法論』有斐閣,1975 32)高須賀義博1マルクス経済学の解体と再生』御茶の水書房,1985 33)浅見克彦『所有と物象化』世界書院,1986 34)西野勉『経済学と所有』世界書院,1989