大学炎上す
著者名(日)
和田 吉人
雑誌名
東洋大学史紀要
号
1
ページ
120-139
発行年
1983
URL
http://id.nii.ac.jp/1060/00002560/
Creative Commons : 表示 - 非営利 - 改変禁止 http://creativecommons.org/licenses/by-nc-nd/3.0/deed.ja、
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日 時﹁
大
学
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L 場 甫水 会 館 一 九 八 二 年 一 二 月 一 一 一 一 日 所 田中菊次郎(百年史編纂 室 ) 、 小野沢主計(百周年記念事業事務局次長 ) 、 村野 一治( 同課長 ) 、 鈴 木 聞き手 俊光(同主任 )和
国吉
人氏略
歴
一 九 三 五(昭叩 ) 年 3 月 一 九 一 五 ( 大 正 4 年 ) 年 刊 月 2 日 神 奈 川 県 生 ま れ 東洋大学予科修了 一 九 四 五 ( 昭 却 ) 年 9 月お日 東洋大学文学部仏教学科卒、研究科に入学 -120ー一九四八︵昭23︶ 一九五〇︵昭25︶ 一九五五︵昭30︶ 一九六五︵昭40︶ 年 図書館職員 年 東洋大学図書館司書養成講座主幹 年4月 社会学部助教授、図書館学専攻 年 社会学部教授、現在に至る。六十八歳 和田先生は、ちょうど終戦の年のご卒業で、東洋大学の当時の状況、空襲とか学徒動口貝、終戦前後から授 業再開というようなこと、また東洋大学の特長となった図書館学や、その夏季講座を、中心となって進めら れた。それらについてお聞きしたいと思います。まず先生は、学生時代の専攻は仏教学であった、それが図 書館学へ変わられた。そこらあたりからうかがいます。 和田 そうですね。それは自分自身の問題と社会的条件というものと二つあると思うのです。私は仏教学科を 卒業しましたが、やはり自分の最も頼りにするものは、本だと思ったのです。仏教学の研究ももちろん面白かっ たのですが、啓発されたものは本だと思うのです。本を中心にして学校を運営しないと、満足な運営ができない ということは深く感じました。従って図書館にどうしても熱心にならざるを得ない。それからね、少しいきさつ がありまして、いまおっしゃった空襲の最中に、司書の岩本末子さんという女性がいられて、一人でやっておら れた。何といっても空襲のさ中に、あの大部の本を護るということは、女性としては大へんなことなんです。私 121
はまだ学生だったんですが、まあ見るに見かねてということもありますが、あのころの学生はいまと事情が違い まして、大体数が少い。みな出征していってしまったんです。男の学生は数えるほどしかいなかった。それで職 員と学生の間は非常に親密だったのです。図書館の仕事なんかも、見かねて手を出す。岩本さんの方でも﹁それ でよろしい﹂ということだったのです。 図書館だけでなくて、図書館の階下にあった事務室の事情もそうだったのです。学長さんが一人いらして、事 務は四課があって、庶務、教務、学生、会計に課長さんが一人ずつと女の子一人ついている、総勢はせいぜい七、 八人だったので、学生が時間割編成までやった。私も時間割表をつくった覚えがありますよ。私も学生だったの ですが、図書館の仕事をお手伝いしたのです。
終戦時は学生十数人
ー学生は何人くらいいたのですか。 和田 私は昭和二十一年春の卒業が、二十年の秋に繰り上げになりました。終戦真際になってみんな男は出征 しましたので、三人か四人しか残っていません。あとは女性で十人そこそこでした。あの当時は︵文学部は︶旧 い四つの科、史学も入ったばかりで、ほんの僅かでした。 それからね。終戦のとき、アメリカ軍からごっそり洋書が入ってきたのですよ。本学の学生はそれまで漢文し かやっていない。横文字はみな下手だった。岩本さんは﹁これは困った﹂ということで、私に手紙がきました。 私はそのころ研究科、いまでいう大学院生で一年くらい学校を離れて、坐禅をしていた。私はもともと坊さんで 122なかったのですが、そのとき非常に坐禅に興味をもったものですから。岩本さんは、アメリカ軍から横文字の本 がどっさり入ったが、横文字を読めるのがいない、あなたは横文字をやるらしいからと、声がかかったのです。 覚束ない英語です。私はドイツ語の方に熱心だったのですが、それで坐禅を一年ぐらいで切りあげて、図書館の 仕事をやることになったのです。 これが個人的な問題だったのですが、社会的の問題としては、うちの大学はご承知のとおり、昔から坊さんに なるか、先生になる人かどっちかだったのです。ところが学校教育というものが、もう飽和状態でないかと思っ たのです。就学率はアメリカに比べても決して劣らない。しかし図書館が劣勢だ。今後は図書館を充実しないと、 だめになってしまう。デモクラシーというのは、知る権利を保障するということが基本ですね。学習する機会を 田 日本人全部に均等に与えるということの方が一番大切だ、基礎になるのはそれだと思ったのです。それで、ちょっ と遅れるのですが、図書館に入った翌々年に図書館学講座をやる決心をしたのです。それが図書館学に転向した 事情です。 仏教学を志されたのは、どういう動機からですか。坊さんじゃないといわれましたが、何かお家との関係 はなかったのですか。
哲学が出発点でした
和田 そういうことじゃございません。私は哲学をやりました。最初は西洋哲学をやろうと、それは家族のも のもそう思っていたらしいのですが、だんだんやっていくうちに、弁証法というのが非常にはやりましてね。若い人たちがそれでもって、うつつを抜かしておったのです。唯物論からくるのと、観念論からくるのもありまして、 私は両方から興味をもちました。いろいろやっているうちに、仏教の中に弁証法があるのですね。それに気がつ いた。それまでは仏教にはご縁がなかったのですが、予科にいるうちに考え方が変わってきたのです。インドの 哲学をやらないとまずいと思いました。それに気がついたことが一つの収獲だと思っています。 終戦のとき卒業生は十数名しかいなかったということですが、全体をみましてそれ以前の予科時代の学生 数はどれくらいでしたか。 和田 多くありませんでした。専門部というのがありまして百人から二百人、予科は全体で七十人くらいいた と思います。藤村作先生が学長になられたとき︵註一九三四年・昭和9︶﹁どうもこの学校はたるんでいる﹂と いわれるのです。その前の学長、高楠順次郎先生のときは、そうはおっしゃらなかったのですが、藤村先生はは げしい先生でしてね。こんなたるんだ学校では駄目だからと、採点をきびしくしたのです。うちの学校には、昔 はそういうところがあったのですが、私の入学したころは考えが変わりましてね、そういうことがなくなってい た。それを復活して、勉強しないものは全部落としてしまえということになって、予,科が二年間に十四人に減っ ちゃった。それが四つの科に散らばった。哲学は和田がいくだろうといわれていたのですが、仏教に変わったも のですから、一人もいません。国文科が一番多かったです。しかし昭和十八、九年ころは徴兵の関係もあったの でしょう。予科の人数は大へん多かったようです。それが学徒出陣でまた減ったのです。 予科というのは大学令による大学へ進むための経過措置ですか。 一124
和田 予科をつくったところは、たとえば北大でも予科といったようですが、高等学校と全然同じです。 ー大学へ入るための予科なんですね。先生が予科を出られたのが一九三五︵昭和10︶年ですが、学部は一九 四五︵昭和20︶年ご卒業ですから、問がかなりあるんですが⋮⋮ 和田 それは、学部へ入って一年やったところで病気になったのです。単位を三分の一くらいとって、いやもっ と多かったかな。三年は論文に専心するつもりでしたからね。二年生になったところで咳血したのです。それか らずっと療養です。もう一度帰ってきたら、もとの単位が生きたですから、それでやっと卒業できたのです。足 かけ八年です。 そうですね。学部はもとの単位が生きるようになっていますから。ご病気の方はその時分はいい薬もなかっ たですね。帰ってこられると、もう学徒動員でしょう。 和田 しばらく経って学徒の代々木出陣に参加しました。︵註・学徒出陣壮行会は一九四三11昭和1811年10月 実施︶それからしばらく勉強できたのですが、勤労動員が続きました。
勤労動員が続く
勤労動員はどうでした。 和田 いろんな動員がありまして、学内でやったものもある。私はそうでした。会社︵工場︶へ行くものもあ るし、北海道へ食糧増産の援農隊に出かけた人達もいました。 学内作業というのは海軍が使う望遠鏡のケース造りでした。学内工場だったのですな。いまの三号館の二階に 125一材料を持ちこんでました。空襲で焼けてから、石川島播磨造船へ行ったこともあります。朝から晩まで働き続け ました。労働時間ですか、時間は数えませんでした。食事は出ました。 ーそうすると大学の授業はないわけですか。 和田 授業はなくなって、先生にお願いしてやってもらったこともあります。専任の先生が少く、非常勤の先 生が多かったが、数えるほどしかいません。いまの大学設置基準というものは、なかったのじゃないかな。
20・4・14の大空襲
空襲で大学が焼けますね。あのときはおられましたか。 和田 ええ、いました。大学の近くに住んでいたものですからね。私は家族というものがありませんので、自 分の家が大学だと思ったのですね。いつもは学校へきていました。 大学は空襲に何回かやられたのです。一九四五︵昭和20︶年四月十四日が一番大きかったのでしょうか。あの ころ専任の先生が宿直なさったのですよ。その時はちょうど坂本幸男先生︵仏教学︶が宿直しておられた。後藤 彦次郎庶務課長もきていました。小柄な人ですが、ちょうど大学にいました。私も空襲の前にきていました。 ご眞影が講堂の裏の金庫に入って安置されていましてね。空襲時の危いときは、まずご眞影を持ち出す。つぎ に銃砲を持ち出せ。三番目は書類ときまっていたのです。あの空襲のとき、後藤さんが危いと思ったのでしょうか、 ご眞影の金庫を開けようとしたのですが、開け方がよく分からない。それで﹁坂本先生﹂と呼んだのです。 坂本先生は三号館の屋上で﹁ああ、きたきた﹂と敵機をみていました。私は下の方にいた。呼び声でいっしょ 126一になって講堂の中へ入っていった。私は学生ですから、ご眞影のことですから、講堂の入口でとまった。そのと きパラパラと焼夷弾がきた。低空で飛んできて落とす。焼夷弾は密集して斜に落ちてくる。爆弾といっしょに投 げてきた。それが講堂の向うに落ちた。講堂に隣接していた目賀田男爵家の人が亡くなって、身体の一部が飛ん できた。爆弾が講堂の向うに落ちたので、私も坂本先生も命びろいしました。三号館の屋上なんかにいたら、爆 風でふっ飛ばされたでしょう。
炎の中の東洋大学
それで それじゃというので、坂本先生はこ眞影を、こう担ぎましてね、ご眞影には紐がついてまして、そ れを担いで、逃げようということになった。その前に私は千駄木で空襲をうけた経験がありました。この時はこ う行けばよいと、わかっていました。坂本先生をご案内して駒込中学校に逃げこみました。坂本先生は学校へ引 き返えそうといわれて、帰ってきましたら、周囲が焼けていて中へ入れない。仕方ないから駒込中学校に戻りま した。しばらくすると大学の方は焼け落ちて、煙ってはいるんですが、煙さえ気にならなければ入れる。私は防 毒マスクをしょっちゅう持ってましたから、それを被りまして、火がくすぶって、オキのように真っ赤になって いる中を、厚い靴をはいていたので、学内へとびこんだのです。どんどんどんどん焼けてましたよ。 一番心配したのはやはり図書館です。図書館にはヨロイ戸がついていて、それが降ろしてあった。いまも地下 になってますね。いまはどうなってますか。 一番下は観光科の実習所になっています。 127図書館は焼けなかった
和田 そこが焼けてるんですね。図書館は本がいっぱいつまっている。下で燃えている。本がいっぱいある書 庫の下が炎です。それを消そうと、用水があったのですが、その水をバケツをもって投げこんだ。水を投げこん でも、真っ紅に焼けてますから、私の投げた水が野球のバットのような形で落ちる。そのときだけ黒くなるが、 たちまちまた真っ紅になる。これは全く焼け石に水でしたね。 これはしかしヨロイ戸があるから助かったのですね。とうとうそこから火が出なかった。ヨロイ戸を開けると ボッと焼けますので、二、三日そのままにして、ヨロイ戸が冷めるのを待って開けました。図書が焼けなかった と云う事は戦後学校が立ち上がるのに、非常な力になりましたね。 ーいまの短大事務室の下ですね。何に使っていたのですか。 和田 戦争中は食堂です。あとの半分は食堂の倉庫かなんかでなかったでしょうか。焼跡から塩が出てきた。 それをなめたことを覚えています。 そのころ大学の事務所は大講堂にあったのですか。 和田 いや、事務所は、あのころは図書館、すなわちいまの短大事務室のところじゃなかったでしょうか。学 長さんのイスがそこにあって、そのイスに坐わって叱られたことがあります。 ー現在の短大事務室ですね。その下が焼けたわけですが、焼け残った図書館︵書庫、閲覧室︶が、今の短大 事務室の上にあったのですね。 一128 一和田 そこの書庫の部分にヨロイ戸がついていたのです。 教室はどうでしたか。 和田 木造校舎が三棟あった。みんな焼けました。焼けた三号館の二階が漆原産業の工場でした。爆撃の後は 風が出まして大へんなことでした。そうそう、吉田熊次先生のお家も焼けましてね。先生が奥さんといっしょに、 大学まで逃げてこられましたが、学校も焼けていたんです。御殿町に住んでいられた。本学はすでに何回か空襲 を受けていて、これで大部分焼けてしまいました。 すると大講堂と図書館︵書庫と閲覧室︶と西校舎が残った。西校舎は鉄筋ですから焼け落ちることがない、 ということですね。大講堂ですが、大講堂そのものは残っていたんですね。若干焼けた跡があるんですがね。 和田 あれがね。近くに爆弾が落ちましたでしょ。そのため、大きなこんな石がね、石畳なんでしょうね。そ れが飛びあがってポンと講堂の屋根に落ちたんでしょうね。屋根に小さな穴があいた。焼夷弾がまとまって落ち るものですから、焼夷弾がそこから転びこんだんじゃないかと思います。講堂には天井が張ってあります、そこ が焼けているんです。講堂がやられたら大変だと、私は屋根裏へ上がっていきました。もうもうと煙が立ちこめ てますから、火元がなかなか見つからない。ようよう探して、火元のあるところへ水をかけた。しばらくは煙が 少くなる。また多くなる。また火元を探して水をかける。三回か四回かやりましたかな。やっとおさまりました。 大講堂は石の階段をあがったところですね。その内部はどうでした。 和田 天井から燃えればやられたでしょうが、食いとめられたので、内部はそう激しく焼けませんでした。 129 一
四月十四日の一番被害の大きかったときは油脂焼夷弾でした。直径五センチくらいの、太いやつが、大学の庭 に落ちました。屋上になんかいたら、それに当たって死んだかも知れません。焼夷弾は三白から四百発あったで しょうね。大学構内に落ちたものです。それは、大きな穴を掘ってありましたので、その中に放りこみました。 大講堂と図書館の間に築山みたいなのが、残ってるでしょう。その奥に大きな穴を掘ったのです。この部屋︵甫 水会館三階円了記念室︶の半分くらいありましたか。掘った後はコンクリートを張らなきゃ防火用の用水池にな りませんが、その余裕もなかったんじゃないですか。進駐軍がくるというときは、鉄砲−軍事訓練用の銃もーそ こへ投げこみました。 大学の近所はどうでした。
大学周辺も焼野原
和田 近所は焼けちゃいました。東洋大の建物と京北が残っていました。駒込中学から見ると、突兀︵とつこつ︶ として大きな建物が出た。東洋大学のそばにそんな建物があったかなと考えて、坂本先生と﹁何だろ、何だろ﹂ と話しましたが、住友銀行だったのです。普段は木造家屋の中に埋もれてますからね、そう肴町ですね。協和銀 行ですか。それはなかったと思います。あの建物は戦後のものじゃないですか。安田銀行はありましたね。いま の白山上の生協のところです。 ︵註・駒込中学は住友銀行の東北方約一五〇メートルにあり、大学からは白山通、東片町、本郷通を距てて、東方約四 〇〇メートルにある。︶ 130一1安田は白山上にあったから、かなり聾えた感じだったです。校舎は焼けて学生もいない。焼け跡の中で細々 とやはり作業を続けていられたのですか。 和田 焼けた跡で作業したかどうか、はっきりしません。その後、私はまだ学生ですから、大学へはもちろん 来ました。そのころ授業はありませんでしたし、学内工場もなかった。私は時々石川島の勤労動員に行ったりし てました。身体の丈夫な学生は重労働のところへ行っちゃうのです。私は病弱でしたから。図書館の方も私は職 員ではありませんので、お手伝いというところでした。 やがてすぐ終戦ですね。八月卜五日前後はどうしていられましたか。 和田 やはり学校 近所にいました。千駄木で焼けて、こんどは浅嘉町で焼けて、その後は谷中から通って ﹁ m いました。終戦は谷中で知ったのではないでしょうか。ご放送は聞きませんでした。 さて、戦後の授業再開については、文部省から八月二十八日附で指令がありましたが、直後は教職員も少く、 施設はこんな状態では、簡単にまいりませんでしょう。 和田 私の存じあげているところでは、先生方では小沢文四郎先生がいらした。毛塚栄五郎、長原鉄腸、坂本 幸男先生、︵一九四三‖昭和18‖年の職員名簿をみながら︶このあたりはいられました。そして図書館に岩本さん。 大学の陣容からは再開できたはずですね。 私は二十一年春に卒業するはずだったのを、二十年秋に卒業して、研究科に入りました。当時の研究科は授業 はなかったので、私は学校を離れて坐禅に出かけました。大学へはこなくてもよかったのです。論文を書けばよ
かったので、毎年一回ずつ論文を出していました。坐禅は一年だけ、何にも分からず帰ってきましたね。大体食 糧難でしたから、身体が弱いもんで、ですから公案も何も分らなかったのです。 ー授業再開は、十月一日と記録されています。
アメリカ軍が洋書の贈物
洋書はいつごろ入ってきたのですか。 和田 昭和二十二年私は僧堂の方にいました。大学へ帰ってきたときには、洋書が図書館の机の上に山のよう に積まれていました。大した本じゃないんですが、あの時分は印刷物に飢えていましたから、一時は役に立ちま した。占領軍がくれたのです。感心ですね、兵隊がちゃんと本を読んでいるのです。軍隊の移動図書館に司書が ついていまして、日本語とか日本の経済とか、文化とか非常に勉強してましてね、えらいもんだと思いました。 昭和十七年ころですか、私が療養所から帰ってくる前に、文学部は不要不急の学部だ、文学部の学生は軍医に なるため医学部にしろと、新聞に出ていたので、医者にされちゃかなわないと、あわてて帰ってきたのですが。 アメリカ軍はそんなことをいっていないのです。 卒業式は二十一年三月二十五日にも行われているのですが⋮⋮ 和田 そうです。あの年度は卒業式を二回したのです。戦地から帰還した人たちは二年在学したことになった のですが、われわれの一級下のも卒業してますから、繰上げて二年ですんだのでしょうか。 昭和二十一年には社会学科、文学科等が開設されましたが、先生のご研究は。 132和田 仏教です。まだ社会学へ移ってないわけです。仏教学の﹁空観﹂を研究していました。これは仏教の基 礎で、他の諸宗もこれがどういう風にあらわれるか、ということなんです。いわゆる﹁空観宗﹂という﹁般若経﹂ を中心としたもので、史的にいうと、あまり発達した仏教ではないんですが、その方面に手を伸ばしていました。 ーそこで、戦後の日本になってくるわけですが、大学の空気も変わって、新しい時代を迎えるといいますか、 そんな空気がだんだん出ましたが、急激な変化はありませんでしたが。 和田 それは大変な変化でしたね。ご承知のとおり、本学は明治以来ずっと文学部だけで通してきましたが、 終戦後になると経済学部、そのつぎが法学部、それは記録にあるでしょうから略しますが、学生が大へんに増え ましたね。文学部というのは先生の方が多いくらいでしたが、これで大学は急に膨脹しました。
図書館学夏季講座を公開
二十四年に新制大学になりますから、そこで大分整いますね⇔先生の図書館学夏季講座というのは、全国 的に有名だったのですが、いつごろから始まったのでしょうか。 和田 私が図書館学へ入ったのは、昭和二十三年です。はじめて正式の図書館の職員になったのです。それよ り以前、西義雄先生から﹁仏教科の助手をやってくれ﹂といわれまして、助手のつもりでやっていたのですが、 調べてみると記録にありませんので、あれはどういう意味だったかわかりません。最近、助手の項は抹殺して履 歴を訂正しました。講座はニーr四年に準備して、二十五年に開きました。これは外部にも公開しましたが、最初 は本学の学生が多かった。外部からは現職にある人が聴講生にきましたね。その年は図書館法ができて、秋に講 133一習規定ができました。司書が法律上の資格になったのです。文部省令で司書養成講習規則がきまりました。私は しばらくの間は、この法律の講習でなしに、公開講座として行っていました。もちろん法律上の資格は与えました。 図書館学の本に、それを問違えて書いているものがあって、ぜひ直してもらわなきゃならんのですが、私は自分 の考えで始めたのです。法律はあとからついてきたのです。法律ができたからやったわけではなく、日本の将来 を考え、ぜひやらなきゃならないから始めたのです。 1先生ご自身の図書館学の学習は、東大へ通っていられたと聞きますがー 和田 助手のつもりでやっていたとき、研究室に本がどっさりありますから、これをどういう風に整理しなきゃ ならないかということは、心配でした。それには図書館学の知識と技術がないとできません。いちおう分類はし ましたが、技術がないものですから、不十分でした。そのことは気がついていました。司書になってからは、当 時夏時間というのがありましたね。夕方早く仕事がおしまいになるのです。その時間を利用して、東大で講習を やってくれたりしたのです。あらゆる機会をつかんで勉強しました。アメリカも熱心だったので、本は取り寄せ てくれたりしましたし、夏時間いっぱいやりました。文部省の図書館職員養成所、これは上野図書館の前にあっ たのですが、そこでも講習がありました。アメリカの専門家を呼んで東大でもやったのです。それから法律がで きてからは現職者を再教育することになり、そのための講習が東大でありました。私も参加しました。本学で図 書館法による講習をはじめたのは、その翌年だと思います。 1参加者は幾人くらいありましたか。 134
和田 全国から集まってきまして、多いときは、五百人以上でした。うちの全学生数より多かったことがあり ます。それで講習は、夏は朝から晩までやりました。夜間もありました。現職の人も教育を受け直さねばならな いので、私より年上の人が多かったのですよ。館長さんクラスです。しばらくの間はそういう方が多かったので すが、だんだん若くなりました。 大学の近くの人が夜間に通えるのですね。通年講義にきました。遠い人はそれができないもんだから、夏 休みにきて、先生方が宿まで世話されましたね。 和田 宿といっても夏しか使わないものでしたが、学寮を明けることもできなかった。それで私は独力で夏の 寮を用意しなければならなかったのです。ただ、水戸和一さんの板橋の学而寮は明けてもらえました。学生にい なかに帰ってもらったのです。大へんありがたかったですよ。 五.白人もきていて、資格認定は相当きびしくされたそうですね。 和田 それは学校の名誉のために、社会的責任として。大分抵抗がありましたが、ある水準以下は不合格にし ました。しかし、何回でも追試験をしました。現職者は派遣されてきていますから、落ちるわけにいかない、泣 きながらようやく資格をとりました。 大学が大きくなり、図書館も広くなって、本学の職員も試験を受けましたね。 和田 そうです。私は講習をやりながら、うちの大学は怠けていては、卒業できないという印象、真面目な大 学という評判を日本全国に与えたかったのです。 135一
学内では和田先生の講習はきびしすぎるという声をかなり聞きました。圧力もかかったんではないですか。 和田 それと戦うことに、ほとんど私の余力を使っちゃいましてね。そりゃ大へんでした。 ー大正後期の学長、境野黄洋先生はきびしかったので、それが排撃をうけた一因ともいいますが、境野、藤 村精神が和田先生に乗り移ったんじゃないですか。︵笑︶ 和田 境野先生のことは、ずっと前に田舎で聞いていました。私が講習を始めたときは、昔の学生が教授になっ ていましてね。松浦貞俊さんという方ですが、この人が応援してくれました。百万の味方を得た思いでした。和 田はひどいことをしていると、ごうごうと非難されたときです。昔は、うちの学生さんはしっかり勉強したのです。 私の学生時代に前学長だった中島徳蔵先生が、倫理学を教えていられました。先生は孟子の研究者で、孟子は性 善説ですから、強制しなくてもみんな勉強すると考えられたんじゃないですか︵笑︶。これは通用しなかったよ うで、後の藤村作学長がいわれるように、たるんじゃったのではないでしょうか。 1明治末期に卒業した方の話を聞いたことがありますが、東洋大学の学風は、まじめで、おとなしくて、よ く勉強したといっておられました。 和田私の父なども、その点を高く買っていました。哲学館講義録を読んで勉強したということです。 1図書館学夏季講習はいつ取りやめになりました。 和田 四十八年でした。私はまだあれが不必要になったとは思ってないんですが、大分非難が多いのですね。 二ヵ月とか四ヵ月で資格を与えるのではあまり安易に養成しすぎるというのです。これは、実は誤解に基く意見 136
なのですが、岡田温先生も、もうやめていいんじゃないかといわれる、先生方の中でもやめた方がいいんじゃな いかという意見が多くなって、いちおう解散しました。 1他の学校はどうでした。 和田 うちが講座を始めた翌年、昭和二十六年に慶応でアメリカの費用で日本図書館学校ができました。実質 的には図書館学科なんです。大学の中のスクールですね。その呼び方はアメリカの真似をしたんじゃないでしょ うか。いまは図書館情報学科といっています。 うちの学校は二十五年に始めたといっても、専攻生はいないのです。ほかの専攻をもった学生が、いまでいうと 図書館学課程というのがありますね。そういう形でした。専攻生を募集したのは社会学部ができた昭和三十四年 からです。私もそのときは社会学部設立準備委員会の委員を勤めていましたが、マスコミ、福祉、図書館の三専 攻に加えて、教育を入れたかったのですが、教職課程の先生方と調整がつきませんでした。それぞれの専攻は科 にする条件なのですが、その約束を果していないんです。 慶応のほかには現在、国立図書館情報大学が筑波にあります。これは図書館職員養成所が短期大学になり、学 芸大学の跡にあったのですが、それが四年制になって、短大から変ったのです。図書館法による講習は、関東で は鶴見大学が古くからしていますし、東洋大学がやめた後で、大正大学が始めています。 1どうも長時間ありがとうございました。最後に女性パイオニア・岩本先生に哀悼の意を表します。 和田 岩本先生は五号館のエレベーターで事故死されました。扉が開いたが、籠︵かご︶は上にあった。知ら 137一
ずに入られて転落されたのでした。没後、助教授になられました。私は講座の案内書に死亡している岩本先生の 名を書き入れました。文部省のお役人が、故人じゃないかというのですが、私は岩本さんの精神は生きていると いいました。役人は笑いましたが、しばらくの間はそのままにしておきました。 ︹付︺ 1、早乙女勝元著﹁東京大空襲﹂︵岩波新書、一九七一年刊︶によれば二十年四月の空襲は、十三]夜十一時すぎか らB29 六〇機が、小石川造兵廠を中心に、豊島、荒川、王子、小石川、淀橋、四谷、牛込、麹町などを襲い、さらに二日 後の十五日にも夜十一時すぎからB29二〇〇機が、京浜地区に来襲し、大森、蒲田の城南地帯と、川崎市、横浜市、鶴見地 区の広い範囲に波状攻撃を加えた。この二同の爆撃で、都内で約二十二万戸が全焼、死者三千三百人︵警視庁資料による︶ を出した。東京大空襲最大のものはこの年三月十日未明の無差別・絨椴爆撃で、浅草区など下町の八万人の市民が死んでい る。B29の機数は三三四機とされている。 四月についで五月は二↑四日、二十五日と東京の焼け残りの町へ、さいこの火の雨がふりそそいだ。 2、﹁東京大空襲戦災誌第2巻﹂︵東京空襲を記録する会、一九七三年刊︶からの抜粋 ﹁昭和二〇年四月=∴日の空襲時は、私は防衛宿直であった。午後=時頃警戒警報中、防空本部から、空襲警報の一報 が地下防空本部に入り、サイレンが鳴り出した。 屋上に上がってみると、同時に数機のB29が照明弾を数百発、後楽園陣地に落とし、さらに焼夷弾をバラマイていた。味 方高射砲隊も負けずに応戦し、静かなる夜空に、弾の音が段々と鳴り渡り、曳光弾と機関砲の弾が交差し、火柱が区内︵小 一138一
石川︶の数箇所から立ち昇っていた。理化学研究所や、東京大学付近では大火事となり、頭上には低高度で数卜機のB29が 最低速度で旋回しながら、焼夷弾を落とし、房総方面へ去っていった。 その時間は三〇分くらいではなかったろうか。もうれつな風速と熱風をともなった真黒い煙が昇ってきた。⋮⋮当夜の小 石川区の死者は二八名、羅災者は二万八〇〇〇名、多くの文化財を焼失したと記録は伝えている。L︵小石川区原町一=、区 役所勤務、中後芳郎︶ 139