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WOLFGANG FIKENTSCHER 「法の方法」(八)

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回 何 回 開 ロ 同 ) 叶 口 出 -Z の 同 Z の 著 者 と 出 版 社 の 承 諾 に も と づ く 翻 訳 で あ る 。 65-W奈良法学会雑誌

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第13巻1号 (2000年12月) 目 次 第 二 八 章 出 明 。 同 H V と 冨 ﹀ 悶 } 円 以 後 の 法 の 方 法 ー 1 マ ル ク ス 的 な 法 域 │ │ l (第十巻一号、第十一巻一号・二号・三号・四号及ぴ 第十二巻一号・二号) A 斗 A h v 日

α

一このことのための他の事例は命令してゆく委任である。みずからの意思を形成し、また、それをあらわす個々人の政治的な自 Q u i

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由 は 、 回 目 以 出 円 、 と F P H N H によれば存立しないので、政治的な方向は、無産階級の最もよく意識された力によって、したがってロシ ア共産党中央委員会政治局の民主々義的中央集権主義の構造において形成される。そこから政党の決定機関の正しい政治的な意識 問は下に向って分けられ、また、種々なる組織段階の上で政党構成員を通して評議会にみちぴき入れられる。今や評議会ではいかな Sる意思形成ももはや行われではならないということは決して悪い意思、あるいは、民主主義的な原理の意識的な否定ではなくして、 評議会は、そのあと、政党を通して前もって決定されていることを決定しなければならないということである。自由な政治的な決 定ならば、無産階級の正しい政治的な意識を変造するということに至るであろう(所謂﹁選帝位主義﹂)。

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第13巻1号←-66 それゆえ、より低い評議会からより高い評議会への決議の移送は自由な委託の形態で行われてはならない。このことならば、恐 らく、正当な意識はより高い評議会に子わたされることなく、また、そこから中央委員会とその政治局に返送されるという結果に なるであろう。命令してゆく委託のお蔭で、政党の決定は評議会へ向う途上でより高い執行機関また最高の執行機関へ到達し、ま た、それとともに政治的な伝達の循環を完成するということが保障される。他方においてマルクス主義的学問思考の進歩のないこ と が 一 不 さ れ る 。 命令してゆく、あるいは(不鮮明な)直接的な委託は、したがって、マルクス的な社会構造において、﹁民主主義的な中央集権主 義﹂の本質的な構成要素を履行する課題を持ち、すなわち、下部の統一体の総意をまずさしあたってそれを越えている政党的な意 思形成の統一体へ移送することを持つのである。政党は上からの、最終的にはロシア共産党中央委員会政治局からの正しい意識へ それが指示すること、あるいは、それに﹁一致すること﹂を受取るのである。政党の﹁枢要メンバーの機能﹂にしたがって下部の 統一体では政党構成員は必要な数のなかにあり、また命令された影響をもって代表されるのであり、この構成員はこの正しい意識 を下部の統一体全体に知らさなければならない。その際、また、政党の外部にある住民の表象の契機、西洋的な民主主義の残照も またとりあげられるが、しかし、恒に、政党の方針はこの素材を形づくり、また、最終的に衝突の事案において決着をつける。特 定の代表(固有の意義における選挙についてマルクス主義的体系において語られることはできない)は、さらに、下部の統一体に おいて形成された総意を次のより高い統一体に移送する。この子続は国家の領袖に政党の領袖の意思を広い確認の経過を越える廻 り道をして再び持ち運ぶ。乗り物はその際命令してゆく委任であり、この委任は下部の統一体の代表者を厳格に総意の再表現に拘 束するのである。上部の統一体における票決の際自己の意思を開陳する代表者は呼び戻され、すなわち、罷免され、また自己批判 を行わなければならない。 その際、﹁民主主義的中央集権主義﹂を通して、すなわち、上から下への、また、下から上へのあの運動、住民のなかでの必然的 p h u 日なものへの洞察の意義における広汎な意識形成は確保されるのである。この原理を富﹀回一円はの c 岳山綱領と

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2

綱領の批判にお S ( 瑚 ) いて起草した。命令してゆく委任を含めて自己確認手続は、それゆ、ぇ、政治的なマルクス主義のレ

l

ニン主義的な歪曲でも決して なく、ましてスターリン的歪曲でもなくして、すべての変種のマルクス論の統合的な構成要素である。

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67--WOLFGANG FIKENTSCHER

r

法の方法」同 命令してゆく委任が西欧民主主義の代表的な委任と比較されるならば、使者│代理人の区別との比較が押し迫ってくる。使者は 他人の意思を惇達し、代理人は彼に委託されている信託権限の枠の中で自己の意思を形づくる。同様に次のことが言われうるであ ろう、派遣された者はマルクス主義的な体系において他人の意思、下部の統一体の総意を傍達するし、代表的な基本権民主々義に おける派遣された者は彼に法律により、また、選挙の委任によって委託された信託

l

権限の枠のなかで自己の意思を形づくる。比 較はじつに明確であると思われる。しかし、それは正鵠をえていない。 マルクス主義的体系において人間一般は基本権民主主義の、あるいは、悲劇的な民主主義の意義においていかなる意思も持って いない。むしろマルクス主義においてへ

l

ゲル的な決定論が通用するのであり、それによれば(また意思形成の)自由は必然的な ものへの洞察であるにすぎない。出開。開 F には﹁脚の上へおかされている﹂ということが通用することはもちろんである。それゆえ、 この決定論の決定してゆく力は﹁精神﹂ではなくして、物質である。しかし、このことは政治的な意思の運送過程(意思形成過程 ならば間違っているであろう)には数え入れないことである。個々人と個々人の集団、下部の統一体がいかなる意思も持たないと いうことが決定的である。そのことにマルクス主義において﹁必然性﹂を決定する必然性、また、何が最終的に中央委員会の政治 局の課題であるかを媒介する必然性がもとづいており、その理由は政治的権力のより高い統一体は存在しないからである。民主々 義的な中央集権主義は、したがって、政府の形態であり、へ

l

ゲル的 1 マルクス主義的な由来の決定論に鋳造されており、また、 他のいかなるものにも鋳造されていない。そして、命令してゆく委任は、民主主義的な中央集権の統合的な構成要素として、この 種の決定論者にとってのみ適当している。このことは命令してゆく委任に関する議論においてしばしば見られていないところであ ヲ 令 。 S.557 (g) 批 判 回以下はマルクス主義的な法理解を述べること、そしてそれを批判することに依拠しているので、包括的な宮﹀同一同批判の最も重 要な観点だけが強調されるにすぎない。今まさに述べられた、また、ただの一人もいない﹁真正の﹂マルクス主義者によって聞い

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第13巻1号一一68 かけられたマルクス主義的な構想の統一性から、たとえ、大きい思想の建物の一つの点だけがよろめくとしても、全体が崩壊する というなりゆきになる。この意義においてマルクス主義に関する各々の個々の批判は必然的な全体の批判であり、このことは、し ばしば行われていることをあきらかにしており、これとマルクス主義批判家は法秩序において闘わされているのであり、この法秩 序においてマルクス主義は国家の基本法に高められているのである。 マルクス主義の批判は一つの命題にまとめられることができる。すなわち、使用価値は交換価値と異なっているということは証 明されていないし、また、証明されることはできないのであり、その理由は、主観的な評価を述べている使用価値は測られること ができないからである。マルクス主義的に考える人は、したがって、主観的な価値評価の客観化、それゆ、ぇ、思考の、意見の、ま た、出版の自由の政治的なねじ曲げに依拠している。 他人のための労働のない世界は現在のこの世界よりより正しいものであるということは信じることができるにすぎない。しかし、 この信じることは学問性に高められ、また、この学問性は政治的に拘束的とされるので、使用価値倫理のなかに必ず独裁が政治的 な生活形式として横たわっている。 マルクス主義は、したがって、正義の問いかけを経済・社会そして政治のなかに誤った終局巨的に際して包み込んでいる。マル クス主義は生産力の(正しいと感ぜられた)分配と(正しくないと感ぜられた)生産関係の相異を述べるがいつわりである。その ( 閉 山 ) 際マルクス主義は HWC 打開開 Z の﹁大きな二律背反﹂のなかえ織りこまれる。マルクス主義は市場にふさわしい、また、歴史的に計測 しうるものを国民経済の政治的にのぞましいものと混同しており、方法的に信頼できない仕方である。 生産関係の不法、また、支配階級が行っている不法はこの理由づけをもって信ぜられることができるにすぎないので、また、他 面においてマルクス主義はそのことに基礎づけられた政治的な支配要求を代表するので、マルクス主義はその見解を公然と討議し てはならない。その理由は、マルクス主義に対してその正義の尺度の非合理性がさしだされ、また、そのことを通して政治的な支 配要求と通用要求から基盤が奪われるという危険をおかすからである。しかし、そのことを通して、マルクス主義はその政治的な 委任を遂行することが妨げられるであろう。マルクス主義は、したがって、心情の独裁においてのみ政治的な支配に到達すること 0 6 日ができる 0 マルクス主義は独裁の外部で生きることはできないということは誤認されてはならない。二つの階級理論は本質を通し q u

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69-WOLFGANG FIKENTSCHER

r

法の方法

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(刈 て必然的に全体主義的である。マルクス主義は、非難すべき剰余価値をすくい取るというその要請を、証明することができること を欠如しているので、いかなる政治的に有効な批判にもさらしてはならない。証明できないことを政治的な支配要求の基礎とする 人は寛容でないことに身を捧げる。このことは今日まで依然としてマルクス主義と、その他のすべての全体主義の歴史的な運命の ま ま で あ る 。 凶マルクス主義はその発生以来ただ二つの現実的に真剣な障碍を克服しなければならなかった。一九世紀の終り頃すべての工業 国民において社会主義者の民主主義的な、また、自由を求める方向は多くの尊敬と政治的な影響を与えるように配慮されたので、 宮 ﹀ 同 一 円 と 開 Z の回、出がやはり白から理解しているように出発したマルクス主義の大衆基礎は(それが現実に今までに存在していたな らば)消滅した。とりわけイギリス、その当時指導的な工業国民において、マルクス主義は民主主義的な伝統に対して自己を貫徹 することができなかった。この板ばさみの認識において指導的なマルクス主義者によって、特に E w Z H Z と 河 O 印 ﹀ 円 、 口 同 回 出 向 回 C 同 の に よって、相手方は表現の文言を変更させられたので、大衆基礎の公理はすくなくとも理論上維持されることができた。これは帝国 主義│理論のはじまりであった。この基礎によってロシアにおけるマルクス主義は旧ロシアの帝政の全体主義的な機械主義の受容 のもとで広汎な政治的な基礎をもたらすように配慮することができた。 マルクス主義にとってその歴史の経過の道に邪魔している第二の重要な障碍はそれほど社会政治的なものではなくして普遍的に 民主政治的なものであった。

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↓ ﹀ 巳 Z と 国 弓 F 白山との同盟はマルクス主義をファシズムとさらなる比較する平面にもたらし、その 結果、その後褐色と赤色の独裁が意味を同じくすることが広まった。生き残るために、マルクス主義は民主主義的な正統性を必要 としたし、この正統性をマルクス主義に

ω

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Z 体制は与えることができなかったが、しかし、この体制は、第二次世界戦争後の 現代の民主主義において正統な立場を保持する状況にマルクス主義を移した。ここから、マルクス主義を人間化する。この主義の ために民主主義的な複数の思考を要求する。そして、この思考を一般に多くの正統な民主主義的な方向のもとにある一つの方向と して宣言する数限りない骨おりがあきらかにされる。それを終局点とする骨おりは最近﹁新マルクス主義﹂としてかさねがさねに n u d 日詳記されている 0 マルクス主義の一種の誤った発展として把握された﹁スターリン主義とのまさにこの論争を通して、新マルクス S ( 郎) 理論の進行のなかで、マルクス主義はかようなものとして強い躍進を遂げた。

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第13巻1号 70

α

しかし、新マルクス主義は、スターリン主義、また、マルクス主義の他の形式と同様に、富﹀間同と H U 4 0 国印とによって文言化 ( 川 出 ) された本質的理念の一変種であるにすぎない。マルクス主義

i

内在的には、スターリン主義への道も人間主義的な、あるいは人道 (町四) 的なマルクス主義への道も決定されていない。マルクス主義とキリスト教を一致しうるもの、比較されうるもの、相互に一補充しあ うもの等々と説明する試みはこの関連に属している。なかんづく、何回 Z 印 斗 回

5

n

同の、マルクス主義から﹁人間的な﹂側面を奪い とる試みは強調されることができる。論題七(司開口何回国﹀何回のための論題が意味されている)が強調しているように、宗教的な情操 自体が社会的な生産物であることにより、それゆえ、目白何回∞﹀わ回、非歴史家、非弁証法家が行っているように、生産物につき生産 することは忘れられることはできないし、また、忘れられではならない。﹁それゆえ﹂ということは何回 Z 印 叶 ∞

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同の命題のなかで 理由づけられていないし、また、理由づけられることはできなくて、そればかりか論理に衝突しているのであり、その理由は、 明 開 口 何 回

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とその第七論題において宮﹀間同が宗教的な情操を社会的な生産物と説明するならば、それとともに、あきらかに、単 一因果性が暗示されるべきであるし、この因果性は宗教を上部構造のうちに数え、それゆえ、社会的な、また、経済的な条件に依 拠すると説明するのである。∞戸 O何回によって苦労して求められた宗教的に生産することはここから論理的に導かれない。回円、︹ ) ( U 出 が、生産物から生産することを、すなわち、因果性を反対方向に遡ることに導くために、歴史と弁証法を引用するということは、 上に詳述した哲学的な矛盾を確認しているのであり、歴史的な決定にもかかわらず行為を指示することに到達するために、この矛 盾は、へ

l

ゲルの弁証法はすでにある方向から他の方向にみちぴかれるという方途で苦労して求められるという点に存立している。 人聞が屈服しなければならない逃げ道のないこと、人聞が肯定しなければならないそれ、人聞がしたがってその行動の基準的な 価値表象にしなければならないそれのもとへ人聞を強制することは、マルクス主義の本質である。この主義は歴史的な被条件性と 準 へ

l

ゲル的な流儀における行為の委任をむすびつけることを試みる。しかし、この論理操作は、人間が歴史の自然の観察とすべ ての経験にしたがって確かに持っている可能性、すなわち、価値の聞でみずから決定する可能性から入院を分離する。人間は回開。回、 ハ υ 坊のもとで、また足﹀同凶のもとでその政治的な平信徒の神官の身分をぬがされ、そして、歴史的に決定することを通して格下げされ q u る。その論理操作は中世におけるカトリック教会の進んでゆく歩みに強く似ているのであり、教会は神と人間との聞に教会とその 職務担当者を媒介する人として押し進めた。人聞はこの論理操作の際、決定と自律的な意識を要求する権利を失う。完全に首尾一

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7l--WOLFGANG F!KENTSCHER

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法の方法」

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貫して中世的教会と中世の国家は拷聞を許容したのであり、その理由は、この点においてこそ人間の自己の立場に対する権利が欠 如していることが開示される。そして、中世の教会と国家が信仰ある人聞の神の直接性から離れ、また、人間をそのことをもって 中照的な媒体としたということを拷聞が証明しているように、マルクス主義の良心の強制は、それは人聞を同様に中間的な媒体化 された必然性の下僕たらしめるということを証明している。 それとともに同時に、マルクス主義とキリスト教は一致するのかどうかという問いかけに対する回答が与えられる。人間的な信 仰関係の神の直接性がキリスト教の一部であるならば、すなわち、宗教改革を神の前での彼自身の司祭であるという各々の世俗人 の権能、そして彼と神との関に立っている教会の司祭の仲介者の機能を放棄するという各々の世俗人の権能としてみたところのも のがキリスト教の一部であるならば、書かれた中間的な媒体化は許されない。キリスト教とマルクス主義は一致しない。 新約聖書の証言は、信仰の直接的な神との関連の許容性、いな、もっぱらの許容性のために語っているということにいかなる疑 問の余地もない。ここで考えることができるすべての証拠の代りに、マルクス主義に特にあきらかに関係するので、パウロの﹁正 { 即 ) しい意識﹂に反対する立場、信仰において初心の者と既に入信している者を分離することに反対する立場があげられる。同じ線の 上に各々の人間的な業績原理に反対して書かれたガラテアの手紙があり、この手紙は、上述の直接性を、 F C J ﹁ 回 開 問 に よ っ て 俗 人 司 ( 叩 即 ) 祭と呼ばれたのであるが、特に強く前面に立てている。 俗的│政治的な領域において、それゆえ、同じ理由からマルクス主義と﹁政治的な俗人司祭職﹂、すなわち、基本権民主主義にと って個々人の自律的な政治的決定という不可欠の原理とは一致しないことが示される。マルクス主義と民主主義は、したがって、 同様に一致しない。たとえ、このことが多くの社会的に義務を背負っている人にとって苦しみを与えているとしても│この人は 7 日ルクス主義を特に理解しやすい社会的な救済論として信頼している│マルクス主義は必ず恒に同時に政治的であり、また、政治的 忌 ( 瑚 } 行為をするようにうながすがゆえに、この主義は基本権民主主義の政治と一致しないという意味表明は疑われないものである。 非政治的なマルクス主義が存在する場合のみ、一面においてマルクス主義の一致性、他面において民主主義とキリスト教が長︿ 保たれるであろう。しかし、マルクス主義は使用価値上父換価値│差額の問題に関する自由な意見形成を許容しないし、したがっ てこの差額を投票で決定されないものとしているので、マルクス主義は政治的なものが遮断されていないし、また、それとともに

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第13巻1号 72 憲法違反である。政治のないマルクス主義はまさにマルクス主義ではない。そして政治を伴うマルクス主義は独裁である。マルク ス主義の著作家が、政治的でないことを欲していると自分勝手に思っているとしても、彼はこのことから免責されることはできな い。第一の命題に疑問を抱く者はマルクス主義の全体の構成要素を否定する。第二の命題、マルクス主義は独裁を意味するという 第二の命題に疑問を抱く者は内在的│論理的批判の規則に遵わない。 ) 1 n ( マルクス主義の克服の理論 ( 加 ) 前述のところから、マルクス主義のあきらかな欠陥を充足してゆく願いを危くすることなくして、いかにして人々はマルクス主 義の政治的に望まれない継起を避けることができるかという出発点が生じてくる。 内容的にマルクス主義にとっていやな歩み、すなわち、使用価値

i

交換価値差額に関する信仰が拘束を及ぽすことはないよう にされるにちがいないであろうということが必要であるであろう。使用価値を証明することができないこと、及ぴ、それを操作す ることができないこと、及び、正しい価格の宗教(適法な

l

値うちのよ市教)としてのマルクス主義の性格が外に示されることが ( 加 ) できるであろう。 方法的な観点において回開。回、の精神概念を絶対的に置くという批判的な背後の基礎を問いかけることの意義において解釈を変 ( 加 ) えること、また、新しく理解することはり田口何回門出印開 Z の提案に従われるにちがいないであろう。絶対的に置くということが政治 的な重要性をもって背後の基礎を問いかけられてさしっかえないという瞬間において、個々人の政治的な俗人司祭職が再びつくら れる。それとともにマルクス主義はそのすべての変種において崩壊することはもちろんであるが、基本権民主主義的自由は再ぴつ η 4 日くられるのであり、このことはマルクス主義の社会的な願望に決して損害を及ぽす必要はない o n b マルクス主義が政治的体系を牛耳るところでは、それが戦勝を獲ることの可能性が限定されることはもちろんである。とくに民 主主義的な中央集権主義は、しばしば忠われているように、マルクス主義的な独裁の弛緩ではなくして、むしろ、この独裁の道具 の一つである。同じことは、その意識が要求された正しい意識と方向が異なっている人々によって要求される自己批判について通

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73-WOLFGANG FIKENTSCHER

I

法の方法」

ω

用する。マルクス主義的体系における自己批判は、むしろ、個々人の固有の意識に対する権利のそこでの否認のための証拠であり、 また、そのかぎりで、気づかいの精神病院における対立者(すなわち、誤った意識をともなった人間)をマルクス主義理論的に充 分にふさわしく指示すること、また、強制をもって取り扱うことをともなう段階の上に立っている。そのかぎりでマルクス主義は 大陸の中世の教会と方向を異にして異なっているものではないのであり、それを信じない者にとっては死に値するものであった。 民主主義において、他の異なる意見を持っている人は、その意見を変えないでとどまり、また、このことのために信奉者を得ょ うとする権利と政治的な義務とを持っている。その人は、その場合、彼の意見に関して多数を獲得する機会と基本権を通して桟を きされた枠において政治の形成に決定してゆく影響を得る機会を持っている。マルクス主義的な体系において、別異に考、える人は、 みずからに儀式一般を許容することが、革命的な対立に一致する場合、滅亡から免れるために、自己批判の儀式を自由に使うにす ぎない。もしもそうでなければ滅亡は今なお歴史的な必然性であり、また、決して不法でないにすぎない。 内的な移民もまたマルクス主義体系において可能でない。平穏のままにされる基本権、よりひどく文言化すれば、考える自由に ( 加 ) とって愚かさと怠惰を求めるそのように決定的に重要な基本権は民主主義にとって本質必然的である。マルクス主義は、人間が内 的に関与しないということを認容することはできない。この理由から、内的な移民が妨げられるということ、その方法が寄生であ 氾 ( 制 ) ( 加 ) 日ることに反対することを詳細な立法が予見している。この点においてもマルクス主義はフアツシズムに等しいものである。無為に 円 b すごすことを求める、異なって考えることを求める、また、間違って考えることを求める権利を除外することを通してマルクス主 ( 加 ) 義において宗教的な狂人としてある穫の道化師を享受する可能性もまた切りとられる。 根底においてマルクス主義を内部的に批判的に考える二つの可能性だけが存立しているにすぎない。その一つは、人々が社会主 義の内部的な自然法を舵をとるということのなかに存立しているのであり、それは、このことが満足させられた領域のために、社 ( 加 ) 会主義を窮極的に獲得した領域のために若干の理論家によって承認されている通りである。第二の可能性は既に違法なものの枠の なかで動いている。学者の対立が問題であり、この学者は体系のためになんらかの理由から欠くことのできないものである。この ( 捌 ) 範時に

ω

﹀何回話。巧!反対が属しているのであり、その政治的な運命はやはり未解決である。 マルクス主義的外的領域において上述のことから、基本権民主主義とマルクス主義との間の対話が戸が開けられたままにしてお

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第13巻1号一一一 74 かれるべきであるならば、マルクス主義者との交際のために五つの規則がまもられるべきであるということが結果としてでてくる。 (この著作において、上述の第二章の終りで詳述されているように、批判は原則的に戦術に移行されないが、しかし、ここから次 に 例 外 が つ く ら れ る ) 、 ︽ 凶 M 何 回 口 円 。 一 ] ︼ 問 。 ロ N N O 吋 ω 同 α ︼ ﹁ ロ ロ 問 川絶えずマルクス主義者と語ることが必要であり、その際へ

l

ゲル的な思考が﹁知性を破壊すること﹂を再三再四明示する ︿ 。 一 ロ ロ E 2 ω ヨ 5 ことが、なかんづく、重要である。意思主義における歴史的な被決定性から弁証法的な激変を理由づけることができないこと、上 ﹀ ] ω

述で問題にした

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巳 Z と 何 回

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,∞円。。固との意義における﹁それゆえ﹂を理由づけることができないこと、また、必然的なもの a 佳 日への洞察に限定され、そして、自由な概念を政治的な行為の基礎にしているこの概念を維持することができないことは、この思考 巳 U からでてくるすべての帰結をもって再三再四あきらかにされるべきである。

ω

第二の原則はマルクス主義者は決して決定権限を有する民主的な組織体へ収容されてはならないと述べている。マルクス主 義者が民主的な組織体にはいるや否や、彼等は革命へのその政治的な義務づけにもとづき(民主主義的意義における)組織体を澄 用する状態におかされる。民主主義的体系における管轄、職務規程、手続規則はあの最大限の可能な調整であり、少数者の地位の あの保障であり、また、個々人の意識のあのいたわりであり、このいたわりは基本権民主主義のために特筆すべきである。したが って、なかんづく管轄、職務規程などをマルクス主義者に反対して使用することが通用するのであり、マルクス主義者は、民、主主 義的な組織体に侵入すること、あるいは、そのなかで働くことを試みるのであり、このことと絶えず﹁形式主義﹂を非難すること とが交易されることはもちろんである。この点において譲歩が行われるならは、共存と関係する必要はない。各々の譲歩は規定さ れたマルクス主義的な意識の争いにおいて終るか、あるいは、その勝利とともに終るか、いずれかである。マルクス主義者を民主 主義的な専門集会から遠ざけることは、また、それゆえ、共存に敵対的であることではなく、その理由は、マルクス主義者の手に はいっている各々の民主主義的な制度は共存のために消失しているからである。 同マルクス主義の欠快を充足する機能を取りこわすために、社会的な領域において絶えることなく改革すること、そして、改 良することは本質的である。社会的に弱者の利益に反対している非社会的な社会は基本権的な民主主義的な手段をもって社会的な ( 捌 ) もののために骨折っている社会として、通用することを要求するマルクス主義的独裁によりよい口実を本質的に与えるのである。

(11)

同マルクス主義的に統括された土地から﹁社会主義的な陣営﹂を形成することを通して国際法体系は基礎となる変遷を経験し た。﹁社会主義的な陣営﹂の一部でない国家はそのことを通してよ疋義して言えば

i

﹁ 非

i

社会主義的な陣営﹂に押しこめられ、こ の陣営は、今日、どの陣営にも属さないもの、ファシストの独裁及ぴ自由な国民に分かれる。このことは、︿司 O 包 ﹀ と U

開 。 問 。 。

の意義における国際法的な関係は社会主義的な陣営との関係においてただわずかに全体として存立しているということを意味して F h υ 日いる。社会主義的な陣営またはその部分が、非社会主義的な陣営のなかで活動している前衛を含めて、企てられている規律の仲間 q u であるかぎり、対応しているマルクス主義にふさわしい譲歩の要求に対立してのみ反対側に譲歩することが注目されるにちがいな 75--WOLFGANG FIKENTSCHER

r

法の方法

J

仰 以上のことにつき次のことが意味されている。すなわち、マルクス主義は、既に述べられているように、意識の独裁を通して定 義される。この点に社会的な陣営と西欧の前衛にとって規則的に統一的な一言語規律が依拠している。このことは、各々の考えるこ とができるおぜん立の際社会主義的な陣営の側からの譲歩としてマルクス主義的な言語規律の変更を要求することを可能にする。 社会主義的な陣営あるいはその部分に向けての譲歩は、それゆえ、善一口語規律は他面で一つの特定の点において、あるいは、若干の 点において変更されるということに依拠されるべきであった。譲歩は、承認された言語規律が遵守されなければ、撤回されるべき であり、(また、おぜん立ては断片的な文化との交際において自明であるべきであったように、そのかぎりで開けておかれるべきで ある。)このことを通して、譲歩は適当な譲歩をもって対抗措置がとられるということが担保されており、その理由は、言語規律は 社会主義的な意識の表現であり、また、この意識は│民主主義的な中央集権の、命令してゆく委任の、また、社会主義的な陣営一 般の道具によって

I

操縦する機能を所持しているからである。社会主義的陣営の実体的な譲歩は、上述に対して、

l

断片的な法思 考の、時間もなく、また、信頼もない思考のためにこそ

1

傾向的にむしろ下位的、また、一過的な意味を持っている。 間以上のことは、集団と政党(﹁政党﹂という単語はマルクス主義者一般にとってふさわしくないかどうか、その理由は、マル 同 M釦 吋 ω クス主義者は全体の部分であること│部分ーを欲するのではなくして、独裁権を主張するのであるから)は政治的マルクス主義を いとなみ、禁止し、管理し、あるいは、なんらかの方法で基本権民主主義的な結合体に対して不利益が及ほされるべきであるかど うかの、基本権民主主義の政治的実践においてそのように激しく争われた問いかけを投げかける。決定委員会における上述の理由

(12)

第13巻 1号一一 76 づけられた不採用は、どっちみち重荷を負わしてゆく制裁であり、しかもこの制裁はマルクス主義者の遊びの規則を侵すために自 己に義務を課すことのために容易に首肯されうるものである。ここでは禁止の、刑事訴追の、公的な登場からの排除の重大な問い かけなどが問題である。 マルクス主義者を、あたかも民主、王義者であるかのように、取り扱うことは、原則的に優先して前に引きだされるべきである。 このことは、なかんづく、そのかぎりで上述の川、間及ぴ凶で言われた点のように成果をもって注目されることが通用する。それ でもってマルクス主義者が政権の座につくならば、彼等が行為するように取り扱われないことはもちろんであるが、﹁あたかも-n h U 日刊であるかのような﹂民主主義的な取り扱いの教育的な効果は意味がありうるし、また、マルクス主義的な領域の内部で分裂に立ち q u 至ることがありうる。 上述のことは、既により多くのマルクス主義的な方向が存在するならば、より多く通用することであり、これらの方向は、相重 なってより高い革命の適合性で鏑を削ることをつとめる。例をあげれば、現在、無政府的全体主義的マルクス主義とレ

l

ニン 的│全体主義的マルクス主義は分離して発展しているように思われるので、基本権民主主義は突然に、また、たしかに、そのせい ではなく、﹁左翼一偏向性﹂と﹁左翼官僚主義﹂との聞の媒介者的地位へ動いてゆく。後者は、きわめて、その意図に反して右翼の隅 に、ファシスト的な隅に再び見られるのであり、また、基本権民主主義はその真ん中に立っている

l

。このような状況において基 本権民主主義の教育的課題は容易に履行されるべきであったのであり、その理由は[上述山]の会話もまた知的水準の上で行われ ることができるからである。けだし、周知のように、マルクス主義は基本権民主主義の土壌の上で、なかんづく、知識層に、独裁 制において、それに反して労働者層に話しかけるのである。 しかし、マルクス主義的な﹁左翼の再独裁化﹂(文言化は吋回開。ロ C 問 者 ﹀ ロ 。 月 Z 。に帰せられる)が、おそらく、基本権民主主 印 。 -巾 -H m u 向 。 一 義の競技規則が真剣に問いかけている経済危機の枠のなかで、形態を承認するならば、社会的な統制、法治国家的に担保されて、 マルクス主義的な政治を必要とする。その場合、すべての人がそれにしたがって生きている競技規則をそれを通して喪失しないこ 同 H M ロ ︿ O u E とが重要であり、その理由は、若干がこの規則を使用し、その結果、競技規則が廃止されるからである。その場合、﹁ドイツ共産党 同 ω ι 戸 } 内 凶 ︼ ぬ ロ 何 ︼ L h w ω ω -禁止﹂、﹁過激派に関する告示﹂、反テエロリズム法などが成立する。マルクス主義者から、その際、事情に従って否決された程度

(13)

77--WOLFGANG FIKENTSCHER

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法の方法J(刈 において社会に対する影響が引き抜かれることができ、しかも彼等を殉教者にすることなく、そして、絶えず、彼等の個人的な確 信を最大限にいたわるのである。西側は、東側がその異教の徒を閉じこめると同様に、その共産主義者を閉じこめるという命題は、 間違っている。この命題が実際において通用すべきであったところで、不法が行われている。西側は、独裁の友人が間違った意識 を持ち、間違って考えるがゆえに、この友人を防ぐのではなくして、この友人が目的とした政治的な効力が社会的な共同生活をお びやかすがゆえに、また、その限りにおいてのみ、この友人を防ぐのであり、この効力において、各人は正しいと考えることを考 えてよく、また、行ってよいのである。マルクス主義的な法秩序は、それらが間違った意識を持ち、間違って考え、そして、その ことを通して、目的とすることなく、マルクス主義的な意識の独裁を危くするがゆえに、その異教の徒を閉めだすのである。多く の民主主義的な意識内容が存在するが、しかし、マルクス主義的な意識内容だけが存在するにすぎない。その点において、また、 げ 岡 田 MUl ︿時﹃ E 日そこからの政治的な帰結において、﹁ドイツ共産党│禁止﹂と﹀

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色。己おとの聞の区別が横たわっているのであり、そのおり q u おりの対立者に対する進行の原因に関係すると同様に、具体的な裁可にも関係しているのである。 次のことが通用することはもちろんである。すなわち、西欧の民主主義とその政党が今日の全体主義的な危険としてのマルクス 同 m丘 町 宮

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ω 自 主義につき明らかな理解を持つならば、﹁過激派に関する告示﹂、無政府主義者の訴訟、共産党政党の禁止などの問いかけにおいて、 多くのことがより冷静に論理操作されることができるであろう。このようにして、しかし、かたい形式、精神的な堅固さを欠如し ていることは代りとなるものを得なければならないし、また、かたい形式は多くのことを悪く代用するにすぎない。 しかし、マルクス主義的な独裁に対して自衛するすべてのことは、マルクス主義者とのその独裁と社会の状態の改良に関する 冨﹀。叶印刷叶 CZ の 会話(毛津東が上述の引用で述べているように)が行われないならば、効果をあげないのである。人々は、マルクス主義の手から 社会的な論題を慎重にとりあげなければならないし、マルクス主義に損害を与えないためにそれほど著しいものではなくして、社 会的なものを独裁の無用の長物から解放するためである。マルクス主義は、それに替られた社会主義が世界のいかなる国において、 同時に、基本権を擁護している民主主義をもって実現されないということがあきらかに判明されて以来、進歩の妨げとなった。社 会的な衝動を背負っている負担から、ひとたび、まぬがれると、マルクス主義は無のなかへ解消するのであり、窓口旬。ロ呂のフア ッシスト的な独裁の奇妙な承認と同様である。

(14)

第13巻1号一一 78 そこでマルクス主義一般からマルクス主義的法理へ移行されるべきである。 2 、マルクス主義的法理論 (イ) 原則、価値論への接合 マルクス主義的な法理論は主張された使用価値上交換価値│差額からみちびきだされる。マルクスの論題は、法体系は社会的な、 そして、経済的な体系に対立し、また、社会的な、そして経済的な体系の不正義を修正することができないという方向に行ってい る。このことをあきらかに示すために、冨﹀同一同は、その国有の考えと傾向に反して、若干の単純化と観念化を承認することにより、 彼は資本主義体系を分析する。彼は、第一に、│暫定的な研究仮説として、自由、法律の前の平等及ぴ各々の人にとって正義が保 障されていることをみとめる。したがって、法律の前にいかなる特権を与えられた階級も存在しない。第二に、宮﹀同一円は、経済の 領域においても、また、いかなる種類の強盗もあらわれないということを措定している。彼は、すべての商品のために、労働力を 含めて、正しい交換価値が支払われるということを真実として承認する。 H M ( ) 羽田山は言っている。 S.568 ﹃臣、向﹀同阿はここで急進的に単純化したということを知っていることはもちろんである。その理由は、彼の見解によれば労働 者にはただきわめて稀に公正な取り扱いが承認されるからである。別言すれば、彼等は通常欺されている。しかし、彼はこの 観念化された前提から出発することにより、経済体系それ自体がこの抜きんでた法体系のもとで労働者をその自由を充分に享 受することを妨げるにちがいないということを示そうと試みる。すべての﹁正義﹂にもかかわらず労働者は結局、そのことに ( 加 ) よって、奴隷より以上にはるかによりよいものではない﹄ 労働者は、すなわち、その労働力を人が買わなければならない時に持つ価値を持っているにすぎないし、また、この価値は、自

(15)

己、妻及び子をしっかり生活を維持するために必要である額に及ぶのである。労働者はそれゆえ、純然たる生存の最小限を取得す るにすぎない、その理由は、労働の使用価値はその交換価値よりより高いからである。その差額、剰余価値は資本家によって報酬 なくして吸いつくされる。この搾取は資本主義体系にとって内在的である。資本主義体系の法秩序は、経済的に略奪であるそのよ うな搾取を設定するのであり、決して刑罰規定、例えば、窃盗と強盗に対する刑罰規定のもとに設定するのではない。この考慮か ら宮﹀同一円にとって法的な観点において、生産者(労働者)は資本主義体系の定立された法によって見捨てられるということがでて くる。法律制度の改善もまた彼には何んの役にも立たないであろう、けだし、上述の平等取り扱いのために金持ちも貧乏人も同じ 仕方で取り扱われ、それゆえ搾取という点につき何物も変更されない。冨 K F同一円は解決を具体的に﹁苦しい仕事からの解放﹂のなか に見ているのであり、﹁仕事日の短縮﹂のなかに、抽象的に最終的に使用価値のための経済のなかに見ているのである。法体系は、 ﹀ ロ 問 。 円 高 c m d ぐ ︼ ω n F 2 2 したがって、宮﹀同一円にとって心痛をなくする自己陶酔、事実をべ

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ルでつつみかくす道具、ひどい不正義を固定化するよ りほかのなにもなく、しかもそれらを除去するいかなる手段でもない。 79--WOLFGANG FIKENTSCHER

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去の方法

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(川 (ロ) 可能なマルクス主義的法理解 臣、向﹀同一円の法に対する批判的な態度は、いかにマルクス主義が法を理解するかという二つの原則的な可能性を許容する。その一つ のマルクス主義的見地から一不される可能性は、法一般を歴史的過程における役に立つ道具として拒否することであり、法を資本主 義の歴史的な段階といっしょに呪うことであり、また、社会主義及ぴ共産主義を妨害してゆく付属品としての法なくして組み立て ることである。他の可能性は、法を特定の経済秩序のそのおりおりの属性として理解すること、また、法をそのことを通して革命 の道具として社会主義及ぴ共産主義のためにもまた要求することのなかに存立している。人々が第二の道を行くならば、法は社会 n w u ぉ主義の移行の段階においてのみ、あるいはまた、共産主義の国家のない最終段階においてもまた、変ることなく役割を演んずべき q u かどうかのさらなる問いかけがある。 ( 釦 ) 発展は、すべてここで言及された観点はマルクスの理論家によって代表されたということを示した。

(16)

第13巻1号一一80 法批判的路線 やす 圧倒的に法批判的吉田叶開岡田勾 i k r司一虚無的な)路線は冨﹀忍円から開

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た 。 ﹂ 分業の影響を通してはじめて、既に述べたように、マルクス主義的理論において、この始源的な社会秩序は変更させられた。こ の社会秩序はそれにつずいて階級に分裂した。その理由は、一つの階級は生存手段を我が物として占有し、また、他の階級を搾取 A り 日したからである。この時点において、演緯は法秩序と国家が誕生した、というのである。それゆえに法は、これら二つの階級の間 q u の階級闘争、分裂のなかにおいて、支配階級の利益を保障すること、また、この階級の利益のために社会的不平等を維持すること に奉仕する道具であるといわれる。法は、支配してゆく階級の階級に対する関係あるいは隷属された階級に対する関係を規律する 社会規範の全体として定義されることができるであろう。その際に支配階級はよく組織化された国家の助けなくして維持されるこ とはできないといわれる。国家自体はこの見解に従えば支配階級の形成物であり、搾取された階級の抑圧のためと、また、支配階 級の利益を保障するために整備されている。 歴史的な発展の窮極目的はマルクス主義的な予言は法のない、また、国家のない社会であり、そこでは分業の不都合な成りゆき は再び揚棄される。法はこの目的段階においてもはや必要ではない。 E U A H Z にとって、社会主義的社会を資本主義的社会から共産主義的社会への移行として定義する課題及ぴソヴィエットロシヤの ( 加 ) ために理由づける課題が存立した。 E U 4 2 にとってもまた法は支配してゆく資本家階級の道具にすぎなかったし、また、そのかぎ りで無産階級にとって拘束するものでもなかったし、また、むしろ、うち勝って滅ぽうと試みる道具であったにすぎない。資本主 問 。 n F 帥 m H O 闘 。 -ロ 義社会から社会主義社会を越えて共産主義社会への移行は

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によれば法規則によって実行できなかったし、あるいは、法

(17)

81一一-WOLFGANGFIKENTSCHER

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(刈 律から援助を経験することはできなかった。あまねく知られているのは戸開

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の命題、﹁独裁は直接に暴力を支えとしている権力 ( 川 ) であり、この権力はいかなる法律にも拘束されない﹂ということである。 この法批判的見地を深めることを

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印を通して法についての把握が経験した。彼はマルクス主義的な上部構造理論を 個々の点において法に適用することを企てた。したがってそのおりおりの正義の表象は﹁商品を生産してゆく社会の社会関係の論 司 ( 加 ) 町 山 理 ﹂ に 一 致 す る の で あ る 。 円 、 山 ( 別 ) 同 ︾ K F C F は、マルクス主義的な法理論の体系的な仕上げを法形式の特殊な唯物論的観念│批判として始めたこと、また、﹁短い輪郭﹂ の形態において提示したことを同戸山 C 同 ﹀

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の今なお残っている功績と名づけている

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印は、その際、ところ で、一面では、法という対象につき法理論的な研究視野の特殊な分析の特殊な対象として追考すること、他面では、しかし、宮﹀間同 とともに考えて、法をマルクス主義的に歴史的│弁証法的な批判の対象として方法的に子を加えることを欲することという板ばさ ( 日 ) みに陥ちつ入た、と詳述していることは正しいことである。そのことを通して司﹀印口問﹀ Z 窃は法について語らなければならなかっ たのはもちろんであるが、それを冨﹀

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とともに拒否しなければならなかった。﹁可﹀

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の﹁法理論﹂は、二つの相互に離れ ようとする原射の間で揺れているのであり、一面では法形式の独立性と現実の実存に際しての方法論的端緒と法形式の社会理論的、 歴史的唯物論的な商品所持者関係における契約形式に演絡することを理路整然と繰り返すに際してこの方法論的端緒との間であ ( 別 ) る ﹄ 。 そのことを通して℃﹀出己主

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は、いかなる原因から法をマルクス主義的に考察することは法という研究対象の相対的独立性を

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従来から承認しなかった(そして承認することができない)かという問いかけを提立することができなかったということである。 このようにして吋品

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拐は多くのことを費やして法という研究対象の方法論的独立性を救済したのであるが、しかし、対象の

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仲 骨 E n E E E H R E S H M E F S ( 捌) 平面で歴史的な唯物論者の千年王国説的パトスとともに死滅してゆく市民現象としての法の非独立性を宣言した。 ﹀ - u ω

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の あ とにつずいて﹁認識人類学的な端緒﹂の見地からマルクス主義的法理論の救済を試みる。何故、一面では﹁法﹂にマルクス主義的 にかかわることが存在すべきであるか、他面では、しかし、ひとしくマルクス主義的な見解に従うようなものとしての法は資本主

(18)

第13巻1号 82 義とともにいっしょうに克服されなければならないか、という理由を、司﹀山口問﹀

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が実際にあきらかにすることができなかったか ぎ り 、 H v k r d F は賛同されることができる。遂に吋弘己同

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窃は、彼によっておそらく得ょうとつとめられなかった認識の際、彼の研 究対象、法はただ資本主義においてのみ存在するにすぎないということ結果になっていることはもちろんであり、また、

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叶 句 作 H C F ( 担 ) が彼にこのことをとがめるとき、彼は非難を原則的に通用させるにちがいない。 ( 別 ) 宮 ﹀ 同 } 子 関 門 目 立 宵 且

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-﹁ コ ム ウ ネ 一 の 日 々 ﹂ に お け る 回 目 開 門 司 叶 の 文 言 化 、 ﹁ こ の 日 々 は 民 族 の 信頼を取得したし、また、いつでも、呼ぴもどきれることができた﹂ということはみずからのなかでの矛盾である。信頼は時間(へ l ゲ ル主義│マルクス主義のなかに存在していない時間│)を呼ぴもどす性質をもたないことを前提としているのであり、もしそうでなけれ ば使者をもたらすことだけが問題である。しかしまだ決して使者に関してはへ l ゲル主義│マルクス主義は語ることができない、そのた めには次のことを。 ( 川 出 ) 同

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(刈 ( 抑 ) 巴 田 口 自 の 出 印 開 Z ( 上 述 の 注 一 三 を 見 よ } は 、 回 開 の 開 F はその精神概念をはじめから批判的に理解したと思っていることはもちろんであ るが、上述の理由から後についてゆくことはできない、と思っている。そのことは同盟戸を越えでることを妨げないし、また、超験し てゆく意義においてマルクス主義的な問題を克服するために、。田口何回何回路 Z の 回 開 の 開 F の精神の概念を使用することを妨げない。

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﹁一人のままに残される権利﹂、﹁みずから愚か者をつくる権利﹂。︿

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巧 豆 が か つ て 文 量 一 一 同 化 し た よ う に 、 別 異 に 考 え て よ い か 、 あるいはまた全く考えてはならない、有名でない権利であることはもちろんであるが、民主主義にとって欠くことのできない権利が問題 である。全く別異の意義において刃包

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田口のもとで演じた(演じなければならなかった?)役割。 (剛山)そのためには以下の注二二一以下のところ。そのうち、この﹁改革主義﹂は、しかし、既に再ぴ公的に不興を買っているように思え ヲ 申 。 (叩刷

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マルクス主義における別異に考えてゆく思考の違法 性につき富。曲目向田口における働いている大衆の代表はその聞いかなる疑いももはや許容しなかった(ノーベル平和賞を受け容れることを

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巧に禁止することを参照)。 (捌)サイゴン陥落後タイ国首相関白問包叶思広冨

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は一九七五年六月末中華人民共和国支邦と外交関係を締結する際、いかにしてタイ閏

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