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文学に現れた土佐の風土と人間 中古篇 ; 2 : 室戸津寺・地蔵菩薩霊験記と幡多妹兄島

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(1)イ22(I). 中古篇 国. 義. 文 学 に現 れ た土 佐 の風 土 と人間. ︱︱室 戸 津 寺 ・地 蔵菩薩 霊験 記 と幡 多妹 兄島︱ ︱. 村. た と いう 。. は. じ. に.   第六 今昔 物 語集 、 巻第十 七、 地 蔵 菩薩 値 火 難自 出 堂 五四 め. って、 そ の小 僧 を探 し た が 、 行 方 は知 れず 。 以来 津 寺 の地 蔵菩 薩 と 毘 沙 門 天 に対 す る人 々の信 仰 は ま す ま す 深 く な っ. 堂 の外 へ出 て立 って いた。 人 々は 火を消 し た のは毘 沙 門 天 のし た こと 、 人 々を 呼 び集 め た のは地 蔵菩 薩 の方 便 だ と 言. 々に急 を 告 げ た の で、 人 々が消 火 に来 てみ る と 、 本 堂 は軒 先 が焦 げ た だ け で、ご 本 尊 の地 蔵菩 薩 と 脇 侍 の毘 沙 門 天 は.   一人 の小 僧 が村 里 の家 ま ず 、 こ の話 の要 旨 を 述 べる 。 土佐 の室 戸 の津 にあ る津 寺 が、 野 火 で焼 け よう と す ると き 、. 1. を取り扱う こととした。. 中古篇︱︱ 三教 指揮 ・土佐 日記﹂を同誌第 二十 五号 に発表 した。本篇は、さら に続け て中 古 の説話 第 二十 四号 に、 ﹁. を﹁甲南国文﹂ 石上乙麻呂その他︶ 古代篇﹂ ︵ 文学 に現れた土佐 の風土と人間﹂と いう題名 で、 そ の ﹁ 筆者 は、 さき に ﹁. 竹.

(2) (2)イ 2ゴ. 一 八頁︶ この地蔵菩薩 の霊験談 に ついては、筆者 は拙著 ﹃ 室津﹂の項2 〓一 五︱ 〓一 土佐 日記 の地 理的研 究土佐国篇﹄の ﹁. で触れたと ころ であり、若干重複す る点 があ る ことを、あらかじ めお断りし ておき た い。 ﹃ 今 昔物語集﹄ と ﹃地蔵菩薩 霊験記﹄︱︱ そ の成立と相 互関係︱︱. まず、 この説話 の生まれた時代 を考え てみた いが、 この話 の収載 され ている ﹃ 今昔物語集﹄ の成立年代 に ついて見. てみる こととす る。そ の前 に、作者 に ついては、宇治大納言源隆国と いう説は、現在 は疑 いを抱く学者 が多 い。さ て. 成 立年代 の下限 に ついては、﹃ 山田英雄 ・昭和一 一 四年二月︶ 一 岩 波大系本﹄の ﹁ は嘉承 の頃2 一一六頃︶ 解説﹂ ︵ とし ている。. ﹃ 小 学館 ・日本古典文学全集﹄ の﹁ 解説宍今野達 ・昭和四九年六月︶ は、﹁ 片寄正義 の保安元年2 一二〇︶ 以後成 立説をも っ. て 一応 の帰結点 とする。 ﹂とし ている。至文堂 の ﹃日本文学史 2中 古﹄ ︵ 昭和五〇年 一一月版︶の、﹃ 長野嘗 今昔物 語集﹄ ︵. と も現存 ﹃ 今昔物 語集﹄ に限 っては成 立 の上限となり、 それは今昔 が隆国原撰 であ ると否と には直接 かかわらな い問. こ も、 この保安 元年説 に賛成 し て いる。さら に今 野氏 は、右 の文 のあと に、コ 〇 一〇年な いし二〇 年代 は、少 なく 題 であ る。 ﹂ と述 べている。. さ て、 ﹃ 今昔物 語集﹄ の巻 々の編成を見 るに、巻 一︱ 五が天竺、 巻六︱十が震旦、巻十 一︱汁 一︵ 但十八と廿 一は欠巻︶. 一〇〇年前後 とす る説が多 い。 ﹂ と し ている。 ここでは右 の諸氏 の説 を 目安とし て考え ていく こととす る。. 〇 年四〇 年代 にはす でに成 立し ていた のではなか ったか。 ﹂と述 べている。 そし て続け て、 ﹁今昔﹄全体 の成 立は 一. 4﹃ 題﹂ の3 今昔物 語集﹄ で、右 の今 野氏 の説を紹介し ている。中 野氏 はまた右 の解題 で、 ﹁ 今昔 の巻十 五は、   一〇 三. かかわ ってく る のではな いかと述 べている。中 野猛氏 は ﹃日本 の説話 ・別巻︱︱ 説話文学 必携﹄ の ﹁ 説話文学書 目解. ま た今 野氏 は ﹃日本 の説話 2古代宍 昭和四八年 一〇月︶の ﹁ 鯖 の木 の話﹂で、久安 二年2 一四工 ○が今昔 の成 立年時 に. 村. 義 一 竹.

(3) が本朝とな って いるが、本朝 の部、巻十 一以下はわが国 に仏法 伝来 以降 の仏法 に関す る事柄を記し ているが、巻十六. の四十話は観世音菩薩 の霊験諄を記し、巻十七 の五十話 のうち、初 め の三十 二話が地蔵菩薩 の霊験諄 で占 められ てい る。本稿 で扱う のは、 そ の第六話 であ る。. 量○ に生存した三井寺上座 ー 一〇一 この ﹃ 今昔﹄ の地 蔵菩薩 霊験諄 の有 力な出典とし て、後 一条天皇 の御宇貧 O Iハ. 巻本︶が 一 上中一 続群書類従本﹄ ︵ 実 容 が編集し た ﹃地蔵菩薩 霊験記﹄が擬せられている。現存 し ているも のの 一つに、﹃. 諸 十 四巻本﹄ は吉 田幸 一氏 の ﹃古典文庫﹄ の末尾 の ﹁ あ るが、 これは ﹃ 十 四巻本﹄ の巻 一、巻 二の部分 に当 たる。﹃. 大 正大学 図書館蔵本﹂ が、 ﹃古典文庫﹄ の中 に複製せら 再版本﹂ で ﹁ 本書誌﹂ によれば、七種類あるが、その中 の ﹁. 九年四︱ 一 一 全四冊、昭和一 肛細地蔵菩薩霊験記﹂とあり、巻 一の初 めにコ三井寺上座実容編集﹂とあ る ︵ れ ている。初 めに ﹁. せられ、そ の後 巻下 の説話 が散供し、天正四年以後 程も無 く良観が巻下を擬撰し、か つ続編を撰するに当り、其等. 敬福経﹂ 鍵♯ ⋮⋮等 の経文を引用し改更 を反映し て、全般 的 に仏教的教 誠を 一層濃厚ならしむ べく説話 の末尾に ﹁. 混清文 に書 き 改 められ、 その際、沙門観 日 ・曽我 兄弟 ・唐僧覆法師 の一 量扁が増加 せられると共 に、当時 の社会情勢. 巻下十 五話、都合 三巻三十九篇 のも のであ ったが、 それが鎌倉時代末期乃至室町時代 に入 ってから読 み下し の和漢. 響縦じ 、恐らく僧 侶 の編集 にふさわしく漢文体を以 て撰述 せられ、上中下三巻からなり、巻上九話 ・巻中十五話 o. 八︱ 一〇一 ○に、 三井寺上座実 容が、当時 の社会的文学 的事情 より推測すれば象報響需 一 一 ユ 後 一条天皇 の長 元年間貧 〇一一. 。 0結語﹂によ った︶ 者の ﹁. 左の文は主として前 薩 霊験記﹄ に ついて﹂ 翁古典文庫﹄複製本 o解説︱昭和三九年四月︶によ ってまとめると 次 の如 くなる︵. 文学語学﹄第七号︱昭和三二年二月︶及び、﹁地蔵菩 ﹁ られ ている。真鍋氏 の論文 ﹁ 地蔵菩薩 霊験記ヒ ︵ ﹃ 今昔物語﹄と ﹃. さ て、 この現存 の ﹃地蔵菩薩霊験記﹄ には問題があ って、真鍋広済氏 の研究 によれば実容 の原 撰本 ではな いと考 え. 。 十 一月発行︶. 文学 に現れた土佐の風土と人間. (3) イ2θ.

(4)  .  . 承. せ ら れ. た も. の が 即. ち 続 群 書. 類. 従 本. 霊 験 記 の 底 本 と な. っ た 系 列. の も. の で あ. る と 推 定. せ ら. れ. 、. 従. っ て 現 形. 態. の 本. 霊 験. ”  散乱錯雑したもと の巻下の説話を輯録して纏めたも のが即ち貞享元年上梓の十四巻本 であり、下巻開失 のままに伝 イ. イ. >. て いる。 右 によ って、 ﹃ 今 昔 物 語集 ﹄ と ﹃地 蔵菩薩 霊 験 記 ﹄ と の文 章 対 照表 を 掲 げ る。. 薩 値 火 難 自 出 堂 語 ﹂ の文 を対 照 し てみ る こと とす る。 古 典 文 庫 の方 は、 ﹁巻 六 、十 七 火 難 除 滅 事 ﹂ と いう 標 題 が つい. 底本︱鈴鹿本︶ 大 系本 ﹄ ︵ を 用 い、 十 四巻 本 には前 述 の ﹃古 典 文 庫 本 ﹄ を 用 いて、﹃ 今 昔 ﹄ の第 十 七 巻第 六 話 、 ﹁ 地 蔵菩. こ の真 鍋 氏 の説 は 一般 に支 持 さ れ て いるよ う であ る。 筆 者 も これ に従 う こと とす る。 こ こ では 、 ﹃ 今 昔 ﹄ は、 ﹃ 岩波. の漢 文 体 のも のを 想 定 す べき であ る 。. <     記 そ のま ま の姿 を 以 て ﹁ 今 昔 物 語 ﹂ の出 典 と考 え る こと は不 当 であ り 、原 典 には現在 見 る こと の でき な い実 容真 撰. 一 義         ﹃今昔物語集﹂と ﹃地蔵菩薩霊顕記﹂と の文章対照表.  . 一.  .  . 。           一  彼ノ地海罵孤絶ヽ 則.  . ︲. ︲. ︲ ︲︲ ︲ ゲ 削物訓剰 ︵ 川 蔵菩薩 値火難自出堂語︶     一       一     地蔵菩薩霊験 記 ︵ 一 火難除滅 事 ︶                  一. 1 1 1. 村  ・ 竹.

(5) ニウ ツリナ ント スルトキ小僧 一人走 り来 テ津 ノ寺唯今焼 ナ. 然 ル 二四辺 ノ草木皆 ナ野火 ノ為 メ ニ焼キ失 ハレ焔 スデ ニ堂. 此 ノ津 ノ人 ノ家 毎 二走 り行 ッヽ叫 Zムて ﹁津 寺 、只今 、焼 ヶ失. ント ス人 々カ ヲ合 セテ火 ヲケ スベシト走 り廻 ル. ナ ャ ノビ キ 諄 薦 ガ、 ぽ ン ノ、 ﹁先 年 ■ 野火 毎 来 て 此 野悉 ク” ヶ / 忽二 二 一人 1 ″払卜速 二里 ォ人皆 鵬 ζ 火 ヲ覗洋 ご 卜o. 津 ノアタリ ノ人来り集 テ見 ル 二四方 ノ草木皆 ナヤケテ堂 ハ. 蓮花 ヲ離 テ庭 二立チ給 ヘリ脇士 ノ毘舎門天 ハ手 ニヌレタ ル. 火焔 ニウゾ モレテ アリ シ ニ本尊地蔵 ニテ在ガ御足 二泥付 キ. 不焼 ズ。而 生て 堂 ヱ削ノ庭 ノ中 貢 等身 ノ地蔵井 ・吐沙門天、. 松 ノ葉 ヲ持 テ庭 二立玉 フ. 津辺 ノ人、皆 、此 ンフ聞 ζ 走 り集 り来 テ津 寺 ヲ見 生て 堂 ノ四 コ ヘド 面 ノど リノ草木 、皆 、焼ヶ儲 ヘリ。堂 貧 属 ノ木厠駕 ンピムモ 各 、本 ノ堂 ヲ出デヽ立給 ヘリ。但 て 地蔵 ハ蓮花座 二不立給 て 吐沙門 ハ鬼 形 ヲ不踏給 ズ。. 有 ソレ ヨリ コノカ タ往来 ノ舟 人 モ人民 ア マタゾ 詣 テケ 難レ. レタ リ. 童ブ 時 モ 津 ノ人、皆 、此 レヲ見 一て 涙 ヲ流 ビァ泣 キ悲 台ァ云 ク、  一 人皆希有 ノ思 ヲナ シケリ是 レ地蔵 ノ告ヶ玉 フ ニコソト シラ ﹃ 此 ノ火 ヲ消 ッ事 ハ天王 ノ所為也 、人ヲ催 ン集 ムル事 ハ地蔵 ノ方   一 便也﹄⊥ 不て ナ 一  此 ノれぽ g寺〓ル其 ふ喘二本 ョリ然 ルヽぽ元 ζ         一. フト ギ 一  此 レヲ思Zて κ第〃秘聾不 議、其ノ罵郁上ム︵■脇γ 此 レ.  詣デ、 ■つ 地蔵 井 ・吐沙門天 二結縁 ン不奉 ズ土ムフ事 元 ど 一. ﹂が動冷 ︺ ︶ 峰申 鯰瘍欠踊奎 囃 イゴ8(5).

(6) で 庭 二立給 t 或 ハ小僧卜現 ジテ人ヲ ハ、火難 二値 テ、堂 ヲ出 ´ 催考火ヲ伴滞 な﹁此 て 皆 、期郁 キ事也 。 ッ ヘタト ャ。 二地蔵 井 ニ彎 ご ﹁″トナ語り伝 レ 人車, ノ. ︵ 各欄の番号は引用する時の便宜上から付けたもの︶. 今 は昔﹂ が ﹃霊験記﹄ では、 コ 条 天皇 の 今昔﹄ の ﹁ 右 の対 照表を見 て気付 く ことを 二、三挙げ てみよう。まず ﹃. の宣布 に役 立 てよう とし たも のであ る。. れり と せず、まず 地 蔵菩薩 そ のも のに ついて概説し、続篇を撰述するに当 っても能う限り ﹃別証﹄を添え て地蔵教. 即ち良観 は天 正四年 以後 の地蔵信仰者 であり、地蔵教 の鼓 吹僧 であ って、従 って単 に地蔵話を集録するを以 て事 足. 。 解説﹂壬 二頁︶ るとし て、次 のよう に述 べている翁古典文庫﹄本、第 一冊の ﹁. 引証﹂ の経文 は恐らく良観 が加えたも のと思 われ 真 鍋氏 は、 これら巻第 四第 四話 の末尾以下 に時 折見受 けられる ﹁. 聖因 ■ 云 水 火災 一 絶悪夢 一 七者 虚耗辟除 八者杜 二 九者 出 入補護十者多遇二 夫 四者 現存寿 益五求者 遂意六者無 二. 何等為レ 香供養階礼讃歎是 人居所即得 二 十 一土地豊壌 二者家宅永安三先亡生 焼レ 十種利益 一 法 地蔵形像 一 調本願経云作 二. は最後 に ﹁ 引証﹂ とし て経文を引用し て次 のような文を付 記し ている。. 此 レヲ思 フ ニ﹂ 以下 が仏菩薩 の利生を たたえ ている のに対し ては、コ並験記﹄ 今 昔﹄ の最後 の部分側 の ﹁ 第 二 に、﹃. 落 とし て いる。 これは ﹃今 昔﹄ の方 が、具象 的 で文学 的 であ ると いえよう。. 今昔﹄ は、寺 の堂 の軒が焼 け焦げ ていて、 そ の由来を物語る形 であ る のに、コ並験記﹄ は全く このこと は 第 二に、﹃. 御代﹂ と明記し て いる点 である。実 録的傾向と いえよう。. (6)イ ゴ/ 村 義 一 竹.

(7) 前 に掲げ た ﹃ 今 昔﹄ と ﹃霊験記﹄翁地蔵菩薩霊験記﹄を略称する。以下同じ。 ︶の ﹁ 対 照表﹂ に見 るよう に、同じ仏菩薩. の利生を説 く にも、﹃ 今昔﹄ の方 は、物語的 ・文学 的と言 い得可く、国並験記﹄ の付 記 の ﹁ 引証﹂となると、全く の布. 教 のため の文 となる。 それは自明 のこととし て、コ並験記﹄ の本文と ﹃ 今昔﹄ の文とを比較す るに、﹃ 今昔﹄ の方 が漢. 文調が強 く残 っていて、簡潔 で力強 い。特 に顕著 な のは、 センテンスの長短 であ る。 ﹃ 今 昔﹄ の国 の先年 二野火出 デ. 来 テ﹂ 及び0 の ﹁ 津 ノ辺 ノ人皆此 レヲ聞 テ﹂ の条 の両者 の文章を対 照すると、 そ の特徴 がよく分 かる。特 に0 の ﹁ 津. ノ辺 ノ﹂ の条 は、部分的 に多少文 の内容 の違 いはあ るが、コ並験記﹄は センテ ン スが 二 つであ るが、﹃ 今昔﹄ の方 は五. つであ る。 なお ﹃ ﹂は 一つのセンテン スと見 る。 今昔﹄ の ﹁ 但 シ地蔵 ハ蓮花座 二不 立給 ズ、. 真鍋氏 の言うよう に、実容原撰 の原典が漢文体 であ ったとすれば、﹃ 今昔﹄ の文章 は、﹃現存霊験記﹄よりも、遥 か に原典 に近 いと いう ことが できよう。 3  説話 に書 かれた事件とその舞台 の歴史地 理学的考察. これ で 一応 ﹃  この説話 の 事件 の舞台 と な った 土佐 の国 の 室戸 の津 に つい 今昔﹄と ﹃霊験記﹄と の比較を終 え て、 て、﹃ 今 昔﹄ の本文 に即し ながら、歴史地 理学 的考察を行な ってみたい。. まず この説話 に書 かれた事件 の 時代 であ るが、 ﹁ 其 ノ津 二住 ム年老 イタ ル人﹂ が、 ﹁ 此 ノ堂 ノ槍 ノ木尻 ノ焦 レタ ル. 本縁 ヲ﹂ 語 って、﹁ 先年 二野火出 デ来 テ﹂ とあ る表現から、 この寺 の軒先 の焦げ た のが現存し ている こと、この老 人 の. 現在 の高知 県室戸市 室津 であ る ことは疑 いの余 地 がな い。津寺も、室津 の現在 の室津 川河 日の東岸 の山上 にあ る寺 に. 次 に この事件 の起 こ った場 所 であるが、 ﹁土佐 ノ国 二室戸津 卜云 フ所有 り﹂ と いう文 から、土佐 の国安芸郡室津、. 実見談 であり、﹁ 先 年﹂ と いう語から、さし て年数 が古くな いと いう設定 であると言 えよう。. 文学 に現れた土佐 の風土 と人間 イゴ6(7).

(8) 竹 第 1図. 室. 村. 義 一. 津. 付. (8)イ ゴ5 近.

(9) 間違 いな い。 現 在 、 四 国 霊場 第 二十 五番札 所 で、 正 式 には宝 珠 山 津 照寺 と称 す る が土 地 の人 は皆 、津 寺 と言 い、 この. 八〇六︱八 一〇︶ 寺 のあ る小 山 を 津 寺 山 と いう 。 海 上から望 む と 、 そ の山 の形 が宝 珠 に似 て いると いう の で、大 同 年 間 ︵. に、 空海 弘法 大 師 が自 ら 開 創 し たと伝 え ら れ て いる 。 宝 珠 山 の山 号 は こ こから起 こ ったと いう 。 本 尊 は大 師自 刻 と 伝. え ら れ、 延 命 地 蔵菩 薩 であ る が 、慶長 のころ 、 藩 主 が室 戸沖 で暴 風雨 にあ い危 い所 を 、 こ の寺 のお かげ で助 か ったと. いう 話 か ら 、 別 名 揖 取 地 蔵 と 呼 ば れるよう に な った と いう 。 現在 も 漁 師 や船 乗 り の信 仰 が 厚 い。 本 尊 は木 彫 の地 蔵菩. 薩 であ る が 手 足 など 痛 み が 甚 く 、 昭和 五十 年本 堂 新 築 落 慶 法 要 に際 し修 理開帳 し たが 秘 仏 と な って いる。本 堂 の厨 子. の中 に納 めら れ、 そ の前 に、 同 じ木彫 の像 を 刻 ん で安 置 し、 それ に並 ん で毘 沙 門 天 の像 も 安 置 さ れ て いる。 これ は製. 作 年代 は不 詳 であ る が相 当 古 い時 代 のも のであ る と いう 。 以上 は 、 同寺 住職 大 西 龍 真 氏 に、最 近 筆者 が聞 いたと ころ によ る 。. 室 な お ﹃大 系 本 ﹄ の頭 註 に、 室 戸 ノ津 を ﹁ 高 知 県 安 芸 郡 室 戸 崎 町﹂ と し て いる のは、  厳 密 に いう と 正 し く な い。 ﹁. 戸崎 町﹂ と いう のは、 過 去 にも 現在 にも存 在 し な い。津 呂 か ら 室 戸 岬 の突 端 にか け て の地 域 を 占 め る 旧津 呂村 を 、 昭. 和 四 年 か ら ﹁室 戸 岬 町﹂ と 称 す る こと にな る が 、 こ の津 寺 のあ る室 戸 ノ津 は、 室 戸 岬 町 でも な い。 それ は津 呂 よ り 三. キ ロ北方 の室 津 であ る。 ﹃ 大 系 本 ﹄ の頭 註 が 、 続 け て ﹁ 土佐 日記 の室 津 か﹂ と い って いる のは 正 し く、両者 と も 現在. 地名 の相互関係及びその変遷に ついては、 拙著 ﹃土佐 日記の地理的研究﹄ 一五二 ・一五三 ・三 一四 ・三 一 の室 戸 市 室 津 であ る ︵ 。 五頁参照︶  一. 室 津 ﹂ の語義 は 、右 の拙 著 で述 べた如 く 、 山 と 山 に囲ま れ た室 のよ う な津 の意 であ って、 こ この地勢 に ふさ なお ﹁. て いる。 室 戸 と いう 呼 称 は 、 古 代 には津と 戸 は音 が 相 通 じ た の で、 室 津 が ム ロトと も 発音 さ れ、 室 戸 と書 き 、 そ この. わし い名 であ る 。兵 庫 県 揖 保 郡 御 津町 ・山 口県 熊 毛 郡上 の関 町 にも 室 津 と いう 港 が あ って有 名 であ り 、地 形 も よ く似. 文学 に現れた土佐の風土 と人 間. (9) イゴイ.

(10) θ)イ ゴ3 (ゴ. 村 義 一. 出 世 間 的 な世 界 に対 し て、 俗 人 の住 む 所 と いう 意 味 も 感 じ ら れ る が 、 津寺 ︱津 寺山 か ら 相 当 な距 離 のあ る集落 。村 落. 津 ノ辺﹂ の いず れ も 、 は じ め の ﹁人 里﹂ と 同 じ 集 落 を 指 す と 考 え ら れ る。 こ の場 合 ﹁里 ﹂ と いう語 には 、寺 と いう ﹁. 津 ノ 辺 ノ人﹂ の か と いう点 であ る 。 そ のあ と の方 の、 小 僧 が ﹁里 ノ人皆 出 デ テ、 火 ヲ消 ツベシ﹂ と いう時 の里、 ﹁. こ こで問 題 に な る のは、 右 の文 中 の ﹁人 里遥 カ ニ去 リ テ通 ヒ難 シ﹂ と いう表 現 で、 こ の ﹁人 里﹂ は、 ど の辺 を 指 す. あ り 高 さ 三 四 メー ト ル、 幅 約 五〇 メー ト ルのお椀 を 伏 せ たよ う な か わ い い小山 であ る。. 、西 に愛 宕 山 2 〓三 メート ル︶が あ り 、 そ の間 は約 六 〇〇 メー ト ルで、   ほ ぼ そ の中 間 に  津 寺山 は、 八五 メート ル︶ 床山︵. 現在 の室津内港︶は 、  そ の旧室 津 川 の河 口港 であ った と 考 え ら れ る。 室 津 川河 回 の小 平 野 は、 東 に城 古代 の室 津 の港 ︵. が港 内 に流 入 す る のを 防 止 す る た め、 現在 のよ う に津 寺 山 の西 側 へ河 口を移 し、 川 筋 を 付 け替 え たも のと いわ れ る。. 岬寄り︶の水 尻 部 落 の所 で海 に入 って いた のを 、 近 世 の初 め野中 兼 山 ・一木 権兵 衛 ら が室 津 港 を 改修 し たと き 、 土砂. 室戸  現在 の内 港 の東 端 ︵ で、岸 から 五十 メー ト ルぐ ら い であ る。 な お室 津 川 は 、 も と は東 方 城 床山 の麓 近 く を 流 れ 、. ︶か ら 、 北 方 の津 寺山 の麓 の、 の大き い道路が北方 に出来 て、その方が幹線にな っている。  津 寺 に 登 る石 段 の 所 ま では直 ぐ. 最近はバイパス   現 在 でも 室 津 港 の内 港 の北岸 の国 道 五十 五 号線 の旧線 ︵ まず ﹁ 其 ノ所 ハ海 ノ岸 ニシ テ﹂ と いう点 は 、. う 人 里 ・里 は 現 在 の何処 のあ た り を 指 す かを 考 え て み た い。. テ、走 り集 り来 リ テ津 寺 ヲ見 ル ニ⋮ ⋮﹂ と あ る。 右 の表 現 によ り 津 寺 の位置 と海 と の関 係 、 人 里と の距 離 、 こ こに い.  此 レ ヲ聞 キ  皆 、  焼 ケ テ失 セ ナ ムト ス。 速 二里 ノ 人皆 出 デ テ、 火 ヲ消 ツベ シ﹄ 卜。 津 ノ 辺 ノ人、 ク、 ﹃津 寺 、 只今 、. デ来 テ、山 野 悉 ク焼 ケ ケ ル ニ、   一人 ノ小 サキ僧 忽 ニシ テ出 デ来 リ テ、 此 ノ津 ノ人 ノ家 毎 二 走 り 行 キ ツ ヽ叫 ビ テ 云 ハ. 先 年 二、 野 火 出 さ て この説 話 の冒 頭 に ﹁ 其 ノ所 ハ海 ノ岸 ニシ テ人 里違 カ ニ去 リ テ通 ヒ難 シ﹂ と い い、 そ のあ と に ﹁. 港 であ る の で ﹁ 室 戸 ノ津 ﹂ と 言 った も のと 筆者 は考 え る。. 竹.

(11) を 指 す も のと 考 え ら れ る。 逆 に いう と 、津寺山 及 び室 津 泊 地 は集 落 か ら 、 か なり 離 れ た 孤 立 し た存 在 であ ったと推 察 ヽ さ れ る。 お そら く 人家 は 、室 津 川流 域 の東 西 の山 際 近 く に拠 って いた であ ろう 。 こう いう 地 勢 の場 合 、 古来 人 々は、. そ の安 全性 か ら山 麓 に住 む のが普 通 であ る。 こ の霊 験 記 の話 が、   一〇 三 二年ご ろ採 集 さ れ たと し て、 九 百 年代 から 一. 千 年代 の初 めご ろ の姿 を 写 す も のと考 え てよ く は な か ろう か 。 そう す ると貫之 が寄 港 し た当時 と お およ そ同じ時 代 と. 考 え る こと が でき る 。 こ の説 話 が 、 ど れく ら い現 地 の実 状 に 即し て いる か、 そ の信 憑性 に問 題 は あ ろう が、 この文 を 読 む と 、地 理的 な事 項 は 、 ほ ぼ実 地 の状 況を 伝 え て いると 考 え ら れ る。. 本 文 のあ と の方 に、 そ の後 日談 と し て、 ﹁ 此 レヲ見 聞 ク 人 ﹃奇 異 ノ事 也﹄ 卜悲 ビ貴 ブ 事 元限 シ。其 ヨリ後 、其 ノ津. ヲ通 り過 グ ル船 ノ人 、 心有 ル道 俗 ・男 女 、此 ノ寺 二詣 デ、其 ノ地 蔵 井 ・吐沙門 天 二結 縁 シ不 奉 ズ ト云 フ事 元 シ。 ﹂と あ り 、 これ は津 ︱ 港 が 、 津 寺 ︱ 津 寺 山 に近 い こと を 示 し て いる 。. な お古代 の室 津 郷 の集 落 の状 況を物 語 るも のと し て、 ﹃続 日本紀 ﹄ 巻 二八、称 徳 天皇 神 護 景 雲 元 年 ︵ 七エ ハ七︶ 六月 の条. に、 土佐 国安 芸 郡少 領 凡直 伊賀 麻 呂 が稲 二万東 、牛 六 十 頭 を 西 大 寺 に献 じ、外 従 六位 下 か ら 外 従 五位 上 を 授 けら れ た. と いう 記事 が あ る 。 少領︶  伊賀 麻 呂 は室 津 の別 府 ︵ と 称 し 室 津 に いた。  山 本武雄 氏 ︵ 室戸市羽根在住︶は、   こ の稲 二万 東. の農業 生 産 力 を 、 後 世 の ﹃長宗 我部 地 検 帳﹄ 2 五八七︶の農 地 宅 地 等 の分 布 及び面 積 と 照合 し て、 古代 の室 津 の人家. は 、津 寺付 近 に は少 な く 、 ニ キ ロほど 上流 の東 岸 の領 家 、 蔵 戸 か ら 、 さ ら に稲石 ︵ 室津神社 の所在地Y 長 野 ・大久 保 の. 辺 ま で、 津 寺 か ら は 五 キ ロほど 上 流 ま で集落 を 作 って、 農 耕 を 行 な って いたも のと 、 推 論 し て ﹂“ 。 そう 考 え れば 、 ん な に遠 く の里 の家 毎 に走 って行 って言 い伝 え た行 為 の異 常 性 が 一層生 き てく る。. 今 昔﹄ の ﹁ ﹃ 其 ノ所 ハ海 ノ岸 ニテ人 里遥 カ ニ去 リ テ通 ヒ難 シ﹂ の表 現 が適 切 であ るし 、 地 蔵 菩 薩 が小 僧 に化 け て、 そ. 文学 に現れた土佐の風土 と人 間 ゴ). =2 (″. イ.

(12) (12)イ II 村 義 一 竹. 4  こ の説 話 の特 徴. 今 昔 ﹄ 巻第 十 七 の第 六話 の土 佐 の津 寺 を 舞台 と し た地 蔵菩薩 の霊 験 談 は 、 ﹃ 今 昔 ﹄ の中 で、ど な お 、 こ こで こ の ﹃. のよ う な位 置 を 占 め 、 類 話 には ど のよ う なも のが あ る か を 瞥見 し てみ た い。 この説 話 の主要 な要 素 であ る 、第 一、地. 蔵 菩 薩 が小僧 に化 け て行 動 し たと いう ケ ー ス、第 二、 火 災 を 避 け て仏 が堂外 に逃 れ たと いう ケ ー ス、 の 二 つに ついて. 見 てみ よう 。 この説 話 の収 めら れ た 巻 十 七 には 、前 にも 述 べた よ う に三十 二 の地 蔵菩 薩 の霊 験 談 が 載 って いる ので、. 地 蔵菩 薩 、 変 小僧 形受 箭語 ﹂ に見 出 だ さ れ る。話 の要 旨を 紹  第 二 話 、 ﹁ そ れ に つい て見 る と 、 第 一のケ ー スの話 が、.   一人 の小 さ い僧 が 出 て来 て矢 介 す る 。平 諸 道 の父 が 戦場 で矢 を 射 尽 く し て窮 地 に陥 り 、 氏 寺 の地 蔵 の加 護 を祈 ると 、. を 拾 い取 って諸 道 に渡 し 、 戦を 勝 利 に導 いた。 そ の小 僧 は 矢 を 拾 う 背 に敵 の矢 を射 立 てら れ 行 方 知 れず な る。後 に彼. が そ の氏 寺 に詣 でる と 、 地 蔵菩 薩 の背 に 一筋 の矢 が射 立 てら れ て いた 。彼 は地 蔵菩薩 が我 を 助 け ん と て変 化 な さ った. と 思 う に悲 し く て泣 く泣 く礼 拝 し た。 そ の辺 の人 々は 、 この事 を 見 聞 い て泣 き 悲 し ん で貴 び奉 ら ぬ者 は無 か ったと い う。. 地蔵菩薩を信仰する︶ を菩 薩 が 一身 を 犠 牲 にし て助 け たと いう の こ の話 と 津寺 の話 を 比 較 す る に、 これ は 一人 の人 間 ︵. であ る が、 津 寺 の方 は 、格 別 具 体 的 な 利 益 を受 け た者 も 犠 牲 にな ったも のも いな い。 不 特 定 多 数 の民衆 に仏 の有 難 さ. を 知 ら せ る た め の行 為 であ った と いう こと に筆者 は 深 い興 味 を 感 じ る。 そし て地 蔵菩 薩 と 毘 沙 門 天 の行 為 を 、津 の人 々は ど のよ う に受 け と め て いる か を 見 てみ よ う 。. 津 の人 々が皆 、 小 僧 の知 ら せ に驚 い て津 寺 に駆 け つけ ると 、 堂 の周 囲 の草 木 は皆 焼 け て いる のに、 堂 は軒 先 が焦 げ. て いる だけ で焼 け て いな い。 そ し て堂 の前 の庭 に等 身 大 の地 蔵菩 薩 と 毘 沙 門 天 が出 てき て立 って いる。 但 し いず れも. そ れ ぞ れ堂 内 に いる時 と ち が って、 蓮 華 座 には いず 、 ま た鬼 の姿 を し た者 を 踏 ん で いな い。 そ の時 、 人 々は これを見.

(13)  人を 呼 び集 め た のは、 こう いう有 難 て、 涙 を 流 し て泣 き 悲 し ん で いう 。 ﹁この火 を消 し た のは毘 沙 門 天 のし た こと 、 ﹂と。 い こと を 皆 に見 さ せ よ う と いう 地 蔵菩 薩 の方 便 であ る 。. こ の時 の津 の人 々の心 理状 態 を 整 理し てみよう 。ま ず 0 お 堂 が焼 け な か った こと 、次 に0 二人 の仏様 が自 分 で歩 き. の辺 土 の無 知蒙 昧 の民 が 、 仏 心 を 理解 す る善 男 善女 と し て描 か れ て いる こと に意 外 の感 を抱 く も の であ る。 仏教 説話 ! と し ては このよ う に扱 い描 く こと は、 至極 当然 であり ふれ た こと であ ろう が、 この説 話 を 採 集 し 、 記 録 し 、 編纂 し た. な さ った のだと素 朴 に そ う 思 った。 そ の考 え方 は根 本 的 なと ころ では、少 し も変 ら な い であ ろ う が 、案 外 古代 の、 こ. 民 衆 の信 仰 心 が薄 い の で、 それ を 目覚 め さ せ る ため、 お 地 蔵 様 は敢 え て こ のよ う な慈 悲 深 い大 仕 掛 け な ド ラ マを演 出. 感 懐 を 漏 らす こと を お 許 し 願 う ならば 、最 初 に この物 語 を 読 ん だ時 、僻 遠 の地 土佐 では未 だ 仏法 の教 え が普 及 せず 、.   こ こで筆者 の正直 な  こ の津 の庶 民 は素 朴 純情 な衆生 と し て描 か れ て いると 見 る べき であ ろ う 。 え る べき でぁ ろう 。. 知 ら さ れ ると皆 駆 け つけ た の であ る。 だ が それを さら に深 め さ せよ う と し た菩薩 の慈 悲 心 か ら 出 た行 為 であ ったと考. こう 見 てく ると 、 津 の人 々は 一通り の信 仰 心 は持 って いた こと に な る。 であ れば こそ、 津 寺 が 焼 失 の危機 にあ ると. の気 持 ち を表 現 し た も の であ ろう 。. い こと 、 超 自 然 的 な現象 、 それ は 即ち 仏 の超 現実 的 な力 を 見 せ てく れ 、 仏 への信 仰 を 目ざ め さ せ てく れ た感 謝 と感 激. ろを 、教 え 知 ら せ て、 義 務 を 果 さ せ てく れ た こと への感 謝 の念 が 湧 いた であ ろう 。今 一つは 、 そう いう 文 字 通 り有 難. あ った ら 火 を消 し に駆 け つけ る のは衆 生 と し て当 然為 す べき こと であ る の に、 それを 知 ら ず に いれ ば 怠 慢 と な ると こ. て、 涙 を 流 し た であ ろう 。 さ ら に地 蔵菩 薩 が小僧 に化 け て皆 を 消 火 に駆 け つけ さ せ た こと に つい ては、 お寺 が 火災 に.  火 を 消 し た のは脇 侍 の 毘 沙 門 天 の仕 業 と 思 い、 申 し 訳 な いと いう気 持 ち と 讃 嘆 の気 持 ち が合 し ろう 。 次 に彼 ら は 、. を 表 す る、 いと 0 に は 、 そ の超 現実 的 な行 為 への讃 嘆 と 、 そ ん な こと ま でお さ せし て申 し 訳 な い、 と いう気 持 ち であ. 出 し た こと 、 そし て 日 ふ だ んと 違 って地 べた に立 って いる こと 、 に対 し てい には仏 の威 力 、 超 自 然 的 な力 に驚 き敬 意. 文学 に現れた土佐 の風土 と人間 3) (ゴ. イゴθ.

(14) 中 央 の人物 が 、少 な く と も 土 佐 の、 田舎 の村 人 たち ︱︱ 農 民 や漁 民 たち を 、 そう いう性 格 と 意 識 を 持 つ人間 と し て見 て いた こと は 一つの動 か し 難 い歴 史 的 事 実 であ る。.   こ の津 寺 の話 の第 二 の要 素 、 火 災 を避 け て仏 が 堂 外 に逃 れ た例 話 と し て管 見 に 入 ったも のに、 ﹃ 今 さ き に挙 げ た、. 昔 ﹄ 巻 十 六第 十 二話 ﹁ 観 音 為 遁 火 難 去 堂 給 語 ﹂ があ る。 聖 武 天 皇 の御 代 に、 和泉 国称 努 の山 寺 の観 音 堂 が 火 災 に遭 っ. た時 、  正 観 音 の木 像 が自 ら 堂 外 に出 て 焼 失 を 免 れ たと いう 霊 験 談 であ る。 山 寺 の僧 たち は涙 を 流 し て感 激 し たと い. う 。 津 寺 の場 合 と 全 く 同 じ ケ ー スであ る が 、 津 寺 の場 合 よ り も 話 の スケ ー ルが小 さく 、 民衆 が 登場 し な いし 、 衆 生 教. 化 の目 的 意 図 が稀薄 であ る 。 かく 見 てく る と 、   この津 寺 の話 は 類 話 中 でも 、  な か な かす ぐ れ た作 品 であ ると いえ よ う。. なお、 この津寺 の話 で、 ﹃ 地蔵菩薩 霊験記﹂ では、右 の文章対 照表側 の条 に ﹁ 脇士 ノ毘沙門天 ハ手 ニヌレタ ル松 ノ. 奉 ル ヘシ﹂と地蔵菩薩 の霊験談らし い結び方 で終 っている。舞台 が 一足飛びに二百キ ロ西方 の足摺 岬 に飛ん でいて、. に残 る弟子達 が足ずりをし て 悲しんだ ので、 ﹁ 彼 ト コロヲ足摺 り御崎 卜申 ス也 人皆 ナ所願 アラバ先 ツ地蔵菩薩 二祈 リ. 篭り補 陀落山 に参 る ことを祈願し、長保 三年栄念と いう弟子と舟 に乗り海上遥かに消えると いう話 であ る。 そし て後. っている。 百七十字余り の短文 であ るが、 津寺を指すと考い られる︶に  阿波からき た賀来 上 人と いう僧 が、 ﹃ えヽ 彼 ノ寺﹄︵. 記﹄ には、右 の文章対 照法 に載せた本文と、 これも前 に記載し た ﹁ 引証﹂と の間 に、津寺 の話と は無関係 な話がは い. これ は津寺 の話と関係 のな いこと であ る ので、 今ま で触れ なか ったが、 実 は ﹃古典文庫﹄ 所収 の ﹃地蔵菩薩 霊験. 5 付 記. 葉 ヲ持 チ テ庭 二立玉 フ﹂ とあ って、昆沙門天 が火を消し た ことを表 わし ている のはおもしろ い。. (Iイ )イ θ9. 義 一 村 竹.

(15) こと と す る。. は め. に. 一一   今 昔 物 語集 巻 第 二十 六、 土佐 国妹 兄、 行住 不 知嶋 語第十 じ. リニケリ。 ムトテ、 躍二暮ユ  一. 人 ノ子 ヲ船 二守 リロ ニ置 ζ   父 母 ハ殖 女 雇 乗 具 ヲ船 二取 入 テ渡 ヶ当 t 十 四 五歳 許有 男 子 、其 ガ弟 二十 二三歳 許 有 女 子 、   一一.  家 ノ 可 殖 程 二成 ヌンで 其 苗 ヲ船 二引 入 ζ 殖 人 ナ三雇具 ンζ 食 物 ョリ始 テ、 馬 歯 ・辛 鋤 ・鎌 ・鍬 ・斧 ・錯 ナゴ ム物 二至 ェァ、.   己 ガ住 浦 二種 ヲ蒔 ζ   苗 代 ニ ム事 ヲンフ、 今 昔 、 土 佐 国 、幡 多 郡 二住 ヶル下 衆有 ヶ七 己 ガ住 浦 ス 非 デ他 ノ浦 二田 ヲ作 ヶ窒 、. 土 佐 国妹 兄、 行 住不 知嶋 語第 十. 用 い て いる 。 こ こ では ﹃大 系 本 ﹄ によ り 、 両 者 の異 って いる部 分 は論 考 を 進 め て いく上 に必要 な部 分 を 対 照 し て いく. 今 昔 ﹄ の頭 註 で、 両者 は 同原 拠 と 見 てお り 、後者 は ﹁同文 的 同話 ﹂ と いう 語 を 小 学 館 の ﹃日本 古 典文学 全 集 ﹄ も 、﹃. にも 、 巻 第 四 の四 の ﹁ 妹 背 嶋 の事 ﹂ と し て、 文 章 は若 干違 う が 、 同 じ 内 容 の話 が載 って いる。岩 波 の ﹃大 系 本 ﹄ も 、. ﹃ 今 昔 物 語 ﹄ には、第 二十 六 巻 にも 、 土 佐 の国 を 舞台 と し た右 のよ う な標 題 の説 話 が載 って いる。 ﹃宇 治 拾 遺 物 語﹄. 1. 名語源説話をかけた話である。 これに ついては稿を改めて ﹃ とはずがたり﹄ の項で触れることとする。. の作品 ﹃ とはずがたり﹄ に出 てくる足摺岬から二人の法師が補陀落 に渡航する話と同工の補陀落渡海 にアシズリの地. 辻棲が合わない。あるいは同じ土佐の国の話なので、ここ へまぎれ込んできたむ のか。じ つは中世、  〓二〇〇年ごろ. 文学 に現れた土佐 の風土 と人間 イθ8(ゴ 5).

(16) 6)イ θ/ (ゴ. 義 一 村 竹. 白 地 卜思 ζ 船 ヲバ少 ン引居 テ綱 ヲパ奔 テ置 タリヶ笙 、 此 二人 ∠里部 ハ船 底 二寄臥 タリクルガ、 二人乍 ラ寝 入 ラ 七 其 間 二塩 満 ニ. 、 船 ハ浮 タリヶルマ 放 ッ風 二少 ン吹被 出 タリヶル程 t 千 満 二被 引 ζ 遥 二南 ノ澳 二出 ヶ七  澳 二出 テ ィ貧  弥 ョ風 二被 吹 テ、 ヶィハ. レぐ 泣 迷 → モ可 為様 モ元 ζ   只被 吹 テ行 ヶ七  父 母 ハ殖女 モ 〓 元 澳 二出 テン 芽 行 。 其時 重里部 驚 テ見 貢 懸 タル方 一 帆 上 タル様 ・. 共 、誰 ヵハ答 l 卜為 化 返 ヽ求 騒 不 雇 得 ンζ 船 二乗 ムトテ来 テ見 ミ 船 モナζ 暫 貧 風 隠 二差 隠 タルカト思 ζ 此 走 り彼 走 り呼 へ 、 云 甲斐 元 テ止 ・ フ七 グドモ、 跡 形 モ無 レ. ハ. レ嶋 二吹付 ヶ七 土 、 敢 テ人 元 く 可 返 様 モナヶレバ、 二人泣 ハ 里部 、 恐 ヽ陸 二下 ζ 船 ヲ繋 テ見 レ. 遥 二南 ノ沖 二有 ヶ j 然 ζ 其 船 7ハ. ニムて ﹁今 ハ可 為 様 ナζ 然 リトテ命 ヲ可奔 二非 t 此食 物 ノ有 ム限 コソ少 ンイ モ食 テ、 命 ヲ助 ヶメ。此 ガ 居 タンドモ甲 斐 元 ζ 女 子 ノ. 貧 去 来 、 此 苗 ノ不 乾前 二殖 詮 卜。 男 子 、 百 ハ 〓 汝 ゴム全 随 t 現 二可 然 事 也 ﹂ ト ラ ・プヵ命 ハ可 生 。 然 レ. 何一 失 畢 ナム後 貧 何 ・. τ ι 然 ζ 斧 ・錮 ナド有 ヶレで 木 テ、水 ノ有 クル所 く 田 二作 ソペキゾ求 メ出 ンζ 鋤 ・鍬 ナド皆 有 ヶズ 、 苗 ノ有 ヶル限 々 皆 殖 .. 軍 成 言∼ 。可 然 一 耳有 ヶ 去、 伐 テ奄 ナド造 テ居 タリヶ生 、生 物 ノ木 、 時 二随 テ多 ヵりヶンで 其 ヲ取食 γ 、 明 シ暮 ス程 二、秋 ・   作 タル. 田、 糸 能 出 来 タリヶレぐ 多 ク苑 置 ζ 妹 兄 過 ス程 二、漸 ク年来 二成 ヌレ食 然 リトテ可有 事 二非 査貧 妹 兄 、夫 婦 二成 1. レヲ亦 夫 妻 卜成 ンも 大 ナル嶋 也 ヶズ 、 田多 ク作 り弘グテ、其 妹 兄 ガ産次 一タリァ 然 テ年 来 ヲ経 程 二、 男 子 o女 子 数 産 次 ヶζ ■︵ ル孫 く 嶋 二余 ル許 成 ・子 、 千 今 有 ナ七 土 佐 ノ国 ノ南 ノ沖 貢 妹 兄 ノ嶋 トテ有 トゾ人語 りζ 、 前 生 ノ宿 世 二依 コソ貧 其 嶋 ・ 〓 行 住 、 妹 兄 モ夫 妻 トモ成 クメトナ釜 中り伝 夢 ルトも 此 ヲ思 Z一 島 ﹂ は何処 か 2  下 衆 の住 む ﹁浦 ﹂ と 兄妹 の漂 着 し た ﹁. 先 ず 第 一に説 話 の舞台 の場 所 の問 題 を 見 てみ よ う 。 冒 頭 に、 土 佐 の国 、幡 多 の郡 の浦 に住 ん で農業 に従 う 下 衆 の話.  これ は、 後 に子 ども の兄妹 の流 れ つく島 、 ﹃宇治 だ と 記 し て いる 。 では幡 多 の何 処 の海 岸 かと いう 点 が 問 題 にな る 。. 妹 背 嶋 の事 ﹂ と 名 付 け て いるが 、 そ の島 が何処 か、 と いう問 題 が関 連 し てく る。 こ こ 拾 遺 ﹄ の方 では 、 話 の標 題 を ﹁.

(17) イOδ. (ゴ. 7). 文学 に現れ た土佐 の風土 と人間 第 2図. 高知県幡多郡西海岸地域図. 20″. 洋ト. 等 製宅 `. 1、. f″. / t. ご 言重 範海. ノ. 澤 晴. _・ ― ‐― い 、. 藩 政中期 ︶よ り 土佐国古地図︵ T回 知県立図書館蔵︶. 上 図説明. :(. )内 は、宿 毛 市 (昭 和 29年. 3月. ). 大 月町 (昭 和 32年 2月 )の 合併 が成 る まで の そ れ ぞ れの町 村 名 を示 す 。 2沖 ノ島 は行 政 上 宿 毛 市 に属 す る。. 3柏 島と四国本土との間には橋が架か.

(18) 8)イ θ5 (ゴ. で 一応 話 の筋 を た ど る こと と す る。 右 の農夫 が 、 ﹁ 他 の浦 ﹂ に 田を 作 って い て、   田植 え を せ んと自 分 の ﹁ 住 む 浦﹂ の. 苗 代 で育 てた 苗 、 食 物 、 農業 用 具 な ど を 舟 に積 み込 み 、 十 四、 五歳 の男 の子 、十 二、 三歳 の女 の子 を船 の番 人 と し て.  田植 女 を 雇 いに上 陸 し た所 、 残 し、   二 人 の子 供 が 船 底 に眠 って いる 間 に潮 が満 ち てき て、  綱 で つな い でな か った の で、  風も 出 て沖 に流 さ れ てい って 行方 知 れ ず な る。  二 人 は遥 か南 の沖 にあ る無 人島 に漂 着 し て、  そ こ で生 活 を し始. め 、 や が て成 人 し て夫 婦 と なり 、子 孫 が多 く な って栄 え て今 に土佐 の国 の南 の沖 に妹 兄 ノ嶋 と い って有 ると 人 が 語 っ た、 と いう の であ る 。. さ て こ の農 夫 の住 む ﹁ 浦 ﹂ は 何処 か の問 題 に 返 る こと と す る。 ﹁ 浦 ﹂ と いう語 に つい て考 え てみ る に、 ﹁ 裏 ﹂ と 同義 で、海 の表 ︱︱ 外 洋 に面 す る所 でな く 、 汀 線 が 陸 地 に湾 入 し た、 そ の内 側 の義 と 解 さ れ る。 そし て、 そ こは 人 間 の住. と いう 熟 語 が 、 よ く そ の語意 を表 わ し て いる 。 では幡 多 の郡 の海 岸 のど のあ たり かを 、 そ の海 岸 線 の地 形 か ら 考 え て. む の に適 し 、 人家 が 存 在 し集 落 が形 成 さ れ る こと が多 い。 ﹁ 津 々浦 々﹂ ︵ 太平記、 巻第七船上合戦事、 大系本巻 一二 〓一 一 七頁︶. み よ う 。 土 佐 湾 の沿 岸 は、 ﹃土 佐 日記﹄ の航 路 に当 た る浦 戸 から東 は海 岸 線 が単 調 であ る が 、西 の方 は出 入 り が 多 く 、. を探求す る方 が、 この場合 は、有効適 切 である。ま た、 この島自体 、 この物語 の舞台 とし て、ど の島 の可能性 が強 い. で は 、 こ の地 域 の中 の ど の辺 の浦 か を 考 え て み よ う 。 こ の浦 の位 置 を 絞 って い く の に は 、 逆 に そ の船 の漂 着 し た 島. よ る。. 7 o7 ・0発行 、 うち浦が十︶ が、 十 二 ︵ あ る。 以上 は 、 高 知 新 聞 社 編 纂 、   昭和 4   二十 万 分 の 一の ﹃最新 高 知 県 地 図﹄ に 1. 直 線 距 離 五十 四 キ ロの間 に岬 ・崎 ・鼻 と いう 名 の つく 突 出 が、  二十 を 数 え 、 浦 ・津 o泊 と いう 語 の つく海 岸 の集 落. 。 足摺 岬 か ら宿 毛市 の長 崎鼻 ま で、 いが 、 小 さ な 屈 曲 が 多 い︵この四国西南部海岸は ﹁ 足摺宇和海国立公園﹂とな っている︶. 特 に この話 の舞 台 の候補 地 と な る 足 摺 岬 か ら 西 、 柏島 か ら 北折 し て宿 毛 ま では、 伊 予 西海 岸 ほど の大 き い出 入 り は な. 村. 義 一 竹.

(19) 文学 に現れた土佐の風土 と人 間. か は 、 追求 す べき 主 題 でも あ る。 幸 いな こと に、 土 佐 の国 の沖 には、 足摺 岬 以東 の上 佐 湾 には、島 ら し い島 は 一つも. な い。 足摺 岬 か ら 以西 宿 毛 ま で の間 の沖 に は 、柏島 の西 南 西 六 キ ロに沖 ノ島 が あ り 、 西 北 西 十 二キ ロに鵜来 島 が あ り 、.   沖 ノ島 と 鵜来 島 の二島 であ るが 、 鵜来 島 は そ の周 辺 に姫 島 ・蒲 葵 島 等 の小 島 があ る。 こ の中 で人 が住 ん で いる のは 、. 面 積 一 ・三平 方 キ ロ世 帯 数 六 四、 人 口 二〇 七 人 であ る が 、 平 地 に乏 し く水 が なく昔 から 米 はと れ な い。 現 在 は漁 業 ・. 出 稼 ぎ が多 い。 沖 ノ島 は面 積 一〇 ・五平 方 キ ロ、周 囲約 十 七 キ ロ、世帯 数 三〇 三 、 人 口九 八六 人、傾斜 の急 な 土 地 に人. 家 と わず か な農 地 が あ って、も と は少 し ではあ る が稲 作 を し て いたが、 現 在 は住 宅 地 が ふえ たり し て、米 作 は 全 く し. 。 、 2 2 、 て いな いと いう 。 以上 昭和 2 5 o・ o・現在 の数 字 で 宿 毛 市 役 所沖 ノ島 支 所 に つい て 筆者 の調 べたも の であ る 漁 業 と 出 稼 ぎ が多 いが 、水 があ って農 業 が でき る のは、 こ の島 だけ であ る。.  田 二作 リ ツ ベキゾ 水 ノ有 リ ケ ル所 ノ、 ﹃今 昔 ﹄ の文 を み ると 、 この兄妹 は 、 此 の苗 の乾 れ ぬさき に植 え よ う と 、 ﹁. 求 メ出 ダ シ テ鋤 ・鍬 ナ ド皆 有 リケ レバ、 苗 ノ有 リ ケ ル限 り皆 殖 ヱテケ リ ⋮ ⋮秋 ニモ成 り ⋮ ⋮作 リタ ル田 イ ト ヨク﹂ 出 来 たと あ る。 こ のよ う な地 理的条 件 を 満 たす島 は、 こ の島 嶼 の中 には沖 ノ島 し か な い。.   こ の兄妹 の父 の住 ん で いた ﹁ 浦 ﹂ は 何処 では この沖 ノ島 諸 島 以外 の島 の可能 性 は 、 ど う か。 こ こ で前 に保 留 し た、. 放 ツ風︶に少 し 吹き 出 さ れ 、 千 満 か の問 題 に 返 ろう 。 本 文中 に、 潮 が満 ち て浮 ん だ船 は、 岸 から沖 に向 か って吹 く 風 ︵. に引 か れ て、 ﹁遥 カ ニ南 ノ澳 二出 デ ニケ レ バ、弥 ヨ風 二被 吹 テ、 帆上 ゲ タ ル様 ニテ行 ク。 ⋮ ⋮然 テ、其 船 ヲ バ遥 カ ニ. 浦﹂ 南 ノ沖 二有 リ ケ ル嶋 二吹付 ケ タリ﹂ と あ る の で、 南 の方 に流 され て行 ったと 考 え ねば な ら な い。 し たが って こ の ﹁.   こ の地 嘔串 ・叶崎 ・大堂海岸等がある︶ と 考 え てみ る に、 土   幡 多 半島 の南 海 岸 ︵ を 、 第 一案 と し て足摺 岬 から 柏島 ま で の、. 話 で は 、 九 州南 方 か ら 土 佐 沖 にかけ て黒 潮 流 軸 が南 西 か ら 北東 に流 れ て い て、 そ の可 能 性 は な いだ ろう と いう 。 ま た. 帯 の南 方 には島 は な い。 遥 か南 西 約 二百 五十 キ ロの九 州 の種 子 ガ島 あ たり の可 能 性 は な いかと考 え る に、 地 元 の人 の. (ゴ. 本 文 の文 章 を み ても 、 それ ほど 遠くま で行 ったと は考 え にく い。 お そら く お そく と も 、 そ の 日 の明 か る いう ち に着 い. 9) イθイ.

(20) た の では な いかと 考 え ら れ る。 し たが って、 こ の第 一案 は除 外 す る。. 次 に第 二案 と し て、 柏島 ・宿 毛間 の西 海 岸 を 考 え てみ よ う 。 この海 岸 線 そ のも のが 、十 五度 ぐ ら い真南 から 西 へ振 って い る から 、沖 ノ島 と す ると 、 こ の海 岸 線 の浦 から は、 ど の浦 から でも 、   ほ ぼ 三十 度 ぐ ら い西 に振 る ので南 々西 と. いう こと にな ろう が 、 それ く ら いの揺 れ は 許 容 さ れ てよ い であ ろう 。 この海 岸 に は、 上 り 潮 ︵ り北 C ・下 り 潮 ︵ 南かヽ 北. ゝら南 へ︶ と いう 沿 岸 流 が あ り 、 上り 潮 に のると 北 方 、 力   伊 予 の方 へ行 き 、下 り 潮 に のると南 方 、沖 ノ島 の方 へ流 さ れ る. と いう 。 こ の場 合 は ﹁ 南 ノ沖 二﹂ と あ る の で、 下 り 潮 に の った こと にな る。 上 り 潮 ・下 り 潮 は時 によ って変 わ る と い. う 。 では 、 こ の西 海 岸 のど の辺 と比 定 す べき であ ろう か。 土 地 の人 にき く と 、 こ の海 岸 線 は山 が海 に迫 って い て農 業 一. ったと あ る が 、 そう いう こと は大 いにあ り 得 る こと であ り 、 自 分 の住 む浦 に種 を 蒔 い て苗代 を 作 り 、 そ の苗 を 船 に入. のあ たり は海 岸 に平 地 は少 な い のだ か ら 、 こ の物 語 の冒 頭 に、 ス その下衆は︶己 レガ住 ム浦 ニ ハ非 デ他 ノ浦 二田 ヲ作 ﹂. ︲ う す ると 長崎 鼻 の南 方 の小 筑 紫 港 のあ る湾 か 北 側 の ﹁ 内 外 の浦 ﹂ ﹁ 湊 浦 ﹂ のあ る湾 か と 、   いう こと にな る。 総 体 に こ. も 可 能 であ ると いう 。 土 地 の人 の意 見 と し ては、 地 形 そ の他 か ら どうも 小 筑 紫 と いう 感 じ がす ると の こと であ る。 そ. 適 地 は な いと いう 。 北 端 の方 の小 筑 紫 地 区 な ら平 地 が あ って農 業 が でき ると いう 。 さ ら に宿 毛湾 の北岸 の片 島 あ たり 義. ぎ て不 適 当﹂ と い って いる が 、 土 佐 の西 南 端 の柏島 か ら な ら 約 六 キ ロで近 過 ぎ ると いう 論 も 成 り 立 つが、 こ の場 合 右. と て、 土 佐 の国 の南 の沖 にあ ると ぞ、 人 語 り し ピ と いう 条 の頭 註 で、沖 ノ島 説 は 、 ﹁こ の説 話 の内 容 からす れ ば 近 す. な か った であ ろう か ら 、 日暮 れま で には島 に着 いたと 考 え ら れ る。 ﹃宇治拾 遺 ﹄ の小 学 館 本 で、 文 の末 尾 の ﹁ 妹 背島. 十 キ ロ強 ぐ ら いと な る 。 田植 え に行 く のだ か ら 朝 出 発 の予 定 であ っただ ろう か ら 、 船 が流 れ始 め た のも 、 そう 遅 く は. た め に は 船 によ る と いう実 状 をも よ く 示 し て いる と言 う べき であ ろう。 小 筑 紫 あ たり と す ると 沖 ノ島 へは、 距 離 は 二. 古 代 に は 、山 の迫 った海 岸 地帯 は陸 上 の交 通 は困 難 であ り 、 こ の物 語 の場 合 のよ う に、 苗 ・食 物 ・農 業 用具 等 を 運 ぶ. れ て、 ほ か の浦 へ運 ん だ と いう 叙述 は、 じ つによ く幡 多 郡 の海 辺 の農業 の特 徴 を つか ん で いる と いう べき であ ろう 。. 村. (2θ )イ θ3. 竹.

(21) ︲ t近 す ぎ な いと 考 え る。 の如 く 小 筑 紫 辺 の蓋 然 性 が 極 め て強 い の で、 右 に述 べた如 く 約 二十 キ ロあり 、 決 し ”. な お こ の第 二案 の場 合 、 第 一案 の条 で考 え たよ う に、 九 州 の南 西 の諸島 へ漂着 し たと いう 想 定 は、 そ の条 で述 べた. は ﹃宇 治 拾 遺 ﹄ の編者 は 、 国 ︱ く にを 国 郡 制 の国 でな く 、 も っと 漠 然 と し た地 域 の つも り で用 い て いる のかも し れ な. 小林智昭校注 ・訳と は何も 触 れ て いな い 。 あ る い のは 、 ﹁国 ﹂ に何 ら か の疑 義 を 感 じた から であ ろう か。 ﹃小 学 館 本 ︵. 渡辺綱也 ・西尾光 一校註置 の註 に ″ 今 昔 ﹁己 ガ住 浦 ニ ハ非 デ他 ノ浦 ニン と し て いる ﹃大 系 本 ﹄ の ﹃宇 治 拾 遺 物 語 ︵. 者 がち が う 国 の 田を 作 る こと が可能 であ った か 、大 いに疑 義 があ る。. 失 う であ ろう 。 それ に仮 り に地 理的 o経 済 的 に、 そ のよ う な農 業 経営 が可 能 であ ったと し ても 、 行政 的 に全 く 管 轄 権. な いが 、 そう す ると こ の場 合 の比 定地 と し ては地 域 が極 め て局 限 され で推 理 の幅 が なぐ な って、考 証 の合 理妥 当性 を. ほど の伊 予 と の国境 の藻 津 辺 な らば、他 国 でも すぐ 隣 の村 と いう こと にな る か ら 、 そ のよ う な経 営 が でき な い こと は. の肥培 管 理を し 、 ま た取 入 れ に行 ったり す る の に、時 間 と 労 力 が か かり す ぎ る。 あ る いは、宿 毛 片 島 の西方 の四 キ ロ. も し 伊 予 の国 へいく と す れ ば 、片島 周 辺 で六 キ ロ、小 筑 紫 から では、 八 キ ロも あ る こと にな る。 田植 え を し 、 あ と. いう 農 作 上 の風習 も 一興 が あ る。. こ の説 話 の初 頭 に、 自 国 でなく他 国 に出 向 い て田作 り を し たと あ る が、 他 国 は接 壌 の南 予 を さ す であ ろう 。 こう. 野村八良校註置 は 、次 のよ う に述 べて いる。 こ の ﹁国 ﹂ と いう 用 語 に関 連 し て、朝 日新 聞社 の ﹃日本 古 典 全書 ︵. 浦 ﹂ と あ る の に対 し て ﹁国﹂ と いう 語 を 用 い て いる。 他 ノ浦 ﹂ ﹁己 ガ 住 ム浦 ﹂ と ﹁ と あり 、 ﹃ 今 昔 ﹄ に ﹁己 が浦 ﹂ ﹁. 土 佐 国幡多 の郡 に住 む 下 種 有 けり 。 お のが 国 にはあ ら で、 異 国 に田を つくり け り 。 お のがす む 国 に苗代 を し て⋮. さ て ﹃宇 治拾 遺 物 語 ﹄ に は、 冒 頭 の部 分 に、. よ う に、 そ の可 能 性 は な いと 考 え てよ い。 し たが って、第 二案 の場 合 、 こ の船 の流 れ着 く島 は沖 ノ島 に絞 ら れ てく る 。. 文学 に現れた土佐の風土 と人間 ). イθ2(2ゴ.

(22) (22)イ θゴ. い。t かし それは誤解 を招く。﹃ 今昔﹄ の ﹁ 浦﹂ の方 がは っきりし ていてよ い。  そし てその方 が、 地 理的 ・社会 的実 状 に合致 す る。 3  沖 ノ島 の歴史. ここで沖 ノ島 の歴史を探 ってみる こととす る。  現存史料 で 一番古 いも のはやはり ﹃長宗我部地検帳﹄ である。沖 ノ. 島 の分 は、表 紙 に、 ﹁ 土佐国幡多 郡興之島 弘瀬浦地検帳﹂とあり天 正拾七年己丑十 二月十 三 日の検地 で、 興 ノ島 ヒ ロセ                          ヒ ロセ ノ浦. 一所 六 代 下ヤシキ                ル 不見 軒 居. 以 下 六十 一筆 で、 壱 町 四段 二十 九 代 壱 分 才 の面 積 であ る。 そ の土 地 の種 類 によ る内 訳 は、 ﹁下 屋敷   士 τ反 四十 九代 才 、. 下 で悪 い こと が わ か るc な お ﹁ 代 ﹂ は、 土 地 の面 積 の単位 で、 五歩 ︵ 五坪︶  ま た末 尾 に は ﹁ に当 た る。 張 紙﹂ を し て、. 下 田三代 弐 分 、 下 畠 壱 町 三代 三分 、 荒分 弐 反 二十 三代 弐 分 ﹂ と あ る。 田が極 め て少 な い こと 、 屋敷 も 田も 畠も 等 級 が. 境 目 ﹂ と し て、 ﹁伊与 分 卜土 佐 分 ト ノ堺 ノ事 ﹂ と し て、 島 を 北 西 部 ︵ ﹁ 伊予︶ 土佐︶ と南 東 部 ︵ と に分 け る境 界 の地 名 を 示. が激 し く な り 、 明 暦 二年 2 六五ユ ○ 幕府 に提 訴 し た。  結 局 ﹃地 検 帳 ﹄ の記載 が証 拠 と なり 、 土 佐 藩 の主 張 が通 る が、. ら に拡 大 し よ う と し て、沖 ノ島 の境 界 と 両 方 が絡 ん で、  伊 予宇 和島 藩 ︵ 伊達氏︶ 山内氏︶の両 藩 の間 に境界 論 争 と 土 佐藩 ︵. 島 西方 四 キ ロにあ る姫 島 が 好 漁 場 で、 こ の島 も 南 北 に分 割 ︵ 土佐分はず っと少な い︶し て いた が、 こ の漁場 を 伊 予 側 が さ. 伊 予分 の中 心 地 を 母 島 と い い、 土 佐 分 のそ れ を 弘 瀬 と いう 。 いず れも 、海岸 が割 に平 坦 な西 岸 にあ る。  と ころが沖 ノ. 右 の ﹃地 検 帳 ﹄ の記 事 によ って、 す で に こ の時 、   沖 ノ島 を 伊 予 と 土 佐 が分 割 し て領有 し て いた こと を示 し ている。. し て いる 。. 村. 義 ― 竹.

(23) 幡多本上 の篠山 でも境界 争 いが起 こりヽ  こちらは土佐藩 が譲歩 し て四年目 の万治 二年 ︵Iハ五九Yに解決した0  以上 ﹃ 宿毛市史﹄ そ の他 によ る。. 畳 一枚大と をみると、 元禄十 三年2 七〇〇︶ 土佐藩 が幕府に提出し た ﹁元禄 の国絵図﹂を縮写した ﹁ 土佐 国古地図︵.  ほぼ両藩 で折半し ている。なお鵜来島 は藩政時 代 は宇和島藩領 であ った。明治 別掲図 のよう に沖 ノ島 ・姫島とも に、. 七年貧 八七四︶ 七月沖 ノ島 ・ 姫島 ・ 鵜来島 の全域 が高 知県に移管され た。明治 二十 二年 の市 町村制 の施行 に際し て、弘瀬. 帳 の状態と 元禄 ・寛保 の時代 と大きな差はなくな る こと になる。. る。土佐 では、筆者 の郷 里、 旧長岡郡南部 など では、農家 の田の所有面積を表 わす のに、あ そ こは五十石あると いう と、五町歩 を意味す る。すなわち 一段を 一石 に換算する のである。 この場合、も し それ が適 用 できれば、天正 の地検. 代 は 一代 五歩 とし て 一九 五歩 で、  三十歩 で 一畝 であ るから、  合計壱町 四段六畝十 五歩とな  六畝十五歩余りとなり、.  一四石 三斗 八升 四合を、 ﹃ 右 の石高 、 地検帳﹄ の、 土地面積 の壱 町四段二十九代壱分才と比較し てみよう。三十九. 二、猟銃〇 、牛〇、馬〇 、船舶 o漁網〇、とな っている。.  弘瀬村 は石高 は、 右 の元禄 のと同じ で、 寛保三年 ︵一七四 こ の ﹃土佐国七郡郷村帳﹄ には、  戸数四〇、  人口 一三. 一 局  一四石 三斗 八升 四合 劫嶋 弘瀬村. こ御絵 図 に添え て 幕府 に提出 した ﹃郷村帳︱土佐国七郡地高﹄ には、次 の如くある。 元禄十六年2 七〇一. さ て沖 ノ島 の、天正 の ﹃ 地検帳﹄以後 の史料 を見 てみよう。土佐 の領分 である ﹁ 弘瀬村﹂ のみ出 ている。. 風が多 く激し い。. でいる。し かし宿毛市 の中 心宿 毛からは海上約 二十 キ ロはなれた離島 であり、交通不便 で平地 は少 なく、気候は雨 o.  昭和二十九年宿毛町などと合併 し て宿毛市 を作 って現在 に及ん 村 ・母島 ・姫島 ・鵜来島 が合併 し て沖 ノ島村 を作り、 文学 に現れた土佐の風土 と人間. (23) イθθ.

(24) )399 (2イ. 義 一 村 竹. 右 に述 べた よ う な沖 ノ島 の土 地 状 況 が、 ﹃ 今 昔 ﹄ の描 い て いる島 の自 然 及び兄妹 の土 地 開墾 と 耕 地 の増大 、子 孫 の繁. 栄 と 一致 す る か 否 か 。 こ の説 話 の後 半 の部 分 を 整 理 し てみ よ う 。 前 にも 一度 触 れ た が 、 漂 着 し たと き 、 こ の苗 の枯 れ. ぬう ち に植 え よ う と い って、 水 のあ る所 で田を 作 る こと の でき る所 を 探 すと いう点 は 、 沖 ノ島 は水 は あ る し、  狭 いけ. れ ど農 地 と な る よ う な 土 地 は あ る のだ か ら 、   一応 物 語 と合 致 す ると いえ よう 。ま た ﹁ 生 物 ノ木 、時 二随 ヒ テ多 カ リ ケ. レ バ﹂ と いう 点 も 、 こ の島 は 風 は強 いが、温 暖 で亜 熱 帯 植 物 が見 ら れ る から、合 致 し て いる と いえ よ う 。 そし て兄妹. が夫 婦 にな って、 男 子 女 子 を た く さ ん生 み、 ﹁   こ の島 は面 積 大 キ ナ ル嶋 ナ リ ケ レ バ 田多 ク作 り弘 ゲ タ﹂ と いう点 は、. が 一〇 ・五平 方 キ ロ、 周 囲 が約 一七 キ ロあ る から 、 ま ず 大 き いと い ってもよ か ろう 。 田 を多 く 開墾 し たと いう点 、 戦. 国時 代 から 藩 政 時 代 に か け て 一町 四段 ぐ ら いだ か ら 、 ﹃ 物 語 ﹄ の文 章 から いう と狭 小 な 感 じ は す る が、 ゼ ロから出 発 し た のだ から 、 こ の程度 でも ﹁ 多 ク作 り弘 ゲ ﹂ たと いえ な い こと も な か ろう。. 戸 数 、 人 口 の点 は、 物 語 は ﹁ 嶋 二余 ルバカ リ ニ﹂ な ったと 言 って いる。寛 保 の ころ、 弘 瀬 村 は 四〇 戸 で 一三 二人 で. あ る が、 これ は 伊 予 領 の母 島 の方 は除 い てあ る の で、 母 島 も 入 れ る と 、大ま か に い って、 そ の倍 の八〇 戸 三六 四人ぐ. ら いと 推 定 し ても よ か ろう 。 し た が って、 こ の点 も 物 語 の文 章 と ひど い食 い違 いは な いと 言 え よ う 。. 筆者 は、 地 理的 条 件 、   潮 流 の実 態 及 び物 語 の文 章 表 現 等 か ら 漂 着 先 は沖 ノ島 一本 に絞 ら れ たと 想 定 し て、  沖 ノ島 の. 地 理と 歴 史 が 、 物 語 の内 容 に合 致 す る可 能 性 を 追 求 し 考 証 し てき た。 し かし 、ま だ不 安 な材 料 が な いわ け ではな い。. そ の 一つは、 こ の島 は 傾斜 が 急 で、 船 が着 く のに適 し た海 岸 が少 な く 、特 に比 較 的 平 坦 な 浜 辺 のあ る のは西海 岸 の母. 島 や弘 瀬 のあ たり であ って、 北 北 東 から 漂流 し て い て自 然 に つく 、 北 部 乃至 北東 部 は適 地 に乏 し いと いう点 であ る。. し かし 、 北東 部 の、 か つて伊 予 と 土 佐 と の境 界 と な って い た ﹁ア シ ノ フリ ノリ﹂ など 船 が着 く こと が でき ると の こと であ る。.

(25) 398(25). 背 ︶島 か 4  沖 ノ島 は妹 兄 ︵. 妹 兄島 ﹂ であ ると言 ってよ いかど う か。 吉 田東 伍 の ﹃大 日本 今 昔 ﹄ や ﹃宇 治 拾遺 ﹄ の いう ﹁ さ て こ こで沖 ノ島 を ﹃. と断 定 し て いる。 こ の こと に つい ては、 す で に土 佐 の国学 者 安 養寺禾 麻 沖 之 島   古 名 妹 兄島 と 日う ﹂ 地 名 辞書 ﹄ は 、 ﹁ 一 が ヽ そ の著 ﹃土 佐 幽考﹄ 翁鎌一 助城こ で次 の如 く述 べている。 呂 鑑 婦妊ЮH明 押舗 ︶ 一 一 妹背嶋. 処 上是 恐 訛 二称 妹 背 一乎今 此 嶋伊 予 土佐 両 国 広瀬 一 或 日幡多 郡西南 海 中 有 二 沖嶋 一 蓋 是 也 嶋中 有 下名 二 出二 宇 治拾 遺 物 語 一. 中三 分之 一                                           一     L ﹁. 妹 背山 ﹂と いう 標 高 四〇 四 弘瀬に同じ︶を イ モセ の訛 ではな いかと い って い る。 と ころ が、 こ の島 の中 央 部 に ﹁ 広瀬︵. メー ト ルの山 が あ る 。 イ モセ山 と いう山 は 何処 に でも あ る山 な の で、 偶 然 の暗 合 かと 思 わ れ る が二 応 注 目 し ておく Ю. 国立国会図書館蔵︶に ﹁ 土佐 の いも せ島 ﹂ と いう短 文 が採 録 さ れ て 土 佐 文 庫 ﹂ 第 二輯第 一号 ・大 正 五年 二月 ︵ な お、 ﹁. 妹 背 島 の事 ﹂ の粗 筋 を 紹 介 し たあ と 次 のよ う に述 べて いる。 いる。 ﹃宇治 拾 遺 物 語 ﹄ の ﹁. 今 按 ず る に今 の沖 の島 をも 山 と 云 ひ其 手前 な る を こや の嶋 又其 手 前 な るを 広 瀬 と いふ此 も や は おも や、 小 や の島 は ︵ 小 屋螂耀融陀ひ ろ せ は いろ せ な る べき かと先畳硲丹物 語 な り棺鋤仲枝. 弘瀬︶と いう のも 多 い地名 右 の文中 で、 問 題 と な る のは 、 ﹁ひ ろせ は いろ せ な る べき か﹂ と いう条 であ る。 ひ ろ せ ︵. で、 こ こ の語 源 も 未 詳 であ る が 、 ﹁いろ せ﹂ は同 母 の兄 弟 を いう の で、 この説 話 に関 係 の深 い語 であ る。. 今 昔 ﹄ の全文 を 引 用 し たあ と に、 ﹁ 今 も こ の島 の中 史 の高 い山 を妹 兄山 と い って いる の で、 恐 ﹃宿 毛市 史 ﹄ では 、 ﹃. ら く 、 こ こに いう ﹃妹 兄島 ﹂ と は、 こ の沖 の島 の こと に間 違 いな か ろう﹂ と 言 って いる が 、筆 者 は現 段 階 で、 それ だ. け の理由 では 、 そう 断 定 す る の に時 躇 す る。 それ に は 、 イ モ セ山 と 呼 ば れ る全 国 の多 数 の山 が な ぜ そう 呼 ば れ る かを.

(26) (26)397.   こ の島 は 兄妹 が流 れ つい て開 いた島 だ と いう 話 を 知 って いる が 広 く 調 べる必要 が あ る 。 現代 の沖 ノ島 の地 元 の人 は 、. 四︶ 一 一 そ の伝 承 が い つご ろ か ら あ る かを 知 る こと は困 難 であ る 。 管 見 に入 った資 料 と し ては、 前 記 の ﹃土 佐 幽考 宍 一七一. が最 も 古 い。 な お 現 地 に、 こ の島 を イ モセ島 と言 った と いう痕 跡 は発 見 され な い。問題 は や はり な ぜ こ の島 を妹 兄島 と 呼 ば ず 沖 ノ島 と 称 し て いる か の点 にあ ろ う。 後 考 にま つ次 第 であ る。 5  こ の浦 の農 業 の産 業 史 的 考 察. な お この説 話 を 漁 業 史 ・農 業 史 の上 か ら 注 目し て いる高 知 県 の歴 史 学 者 二人 の論文 を 紹 介 し た い。第 一は ﹁土佐 史. 江 戸時 代 以前 の 土 佐 の漁 業 に つ 現在 、高知県立図書館郷土資料係長︶の ﹁ 昭和 2 掲 載 の広 谷 喜 十 郎 氏 ︵ 談 ﹂ 一 一六 号 ︵ 4 ・3︶ い てい﹂ で、次 のよ う に述 べて いる 。. 良 田無 く 、 海 物 を 食 し て自 活 し 、船 に乗 家 船 ﹂ と も いう べき性 質 の舟 であ り 、対 馬 国 の ﹁ 注 目 さ れ る。 こ の舟 は ﹁. 親 子 四 人と 食 糧 や種 々の農 具 及 び稲 苗 を 乗 せ た上 に、 幾 人 か の 田植 人をも 乗 せ よう と いう 大 型 船 であ った ことも. 一 七頁︶と いう 漂海 民 的 な海 人 が、 こ の地 域 でも 活 躍 し たとも 推 測 さ 石波文庫 一 一 り て南 北 に市 雑 す ﹂ 翁魏志倭人伝﹂ 山. あ り ま す。 これ は代 掻 の用 具 で、 水 を 入 れ て田を 掻 く 代 掻 は水 田作 業 のな か でも 重 労 働 な の です が、 これ は主 と し. ん で辛鋤 が み え て いま す が、 これ は後 代 の梨 と はち が って踏 鋤 の こと です 。 当時 一般 に役 畜 と し ては 馬 歯 ︱ 馬 紀 が. 田を掘 り お こす 最 も 基 本 的 な農 具 は鍬 です が、 鍬 は 平 安時 代 には相 当普 及し ていたも のと 思 われ ま す 。 これ と並. で、 この説話 の中 の農 業 用 具 に つい て、 次 のよう に述 べ て いる 。. 4 ・H︶ 現在高知県立追手前高校教諭︶の ﹁古代 土 佐 の歴 史 そ の五 ﹂ 昭和 4 土 佐 史 談 ﹂ 一二 四号 ︵ 掲 載 の前 田和 男 氏 ︵ 次に ﹁. 広 谷 氏 は農 業 の発 達 と 漁 業 の発達 の相 関性 に注 目 し て いる 。. れ る から であ る 。. 村. 義 一 竹.

(27) 文学 に現れた土佐の風土 と人 間 39δ (27). て 田植 の際 に苗 を 植 え 易 く す る ため の準 備 作業 で、 これ に家 畜 を使 用 す れ ば相 当労 働 も. 軽 減 さ れ る わ け です 。馬和. の使 用 は、 そ の性 格 上 恐 ら く 田植 が はじ ま ると共 に出 現 し た の では な いかと 考 え ら れま す 。 幡 多 郡 の下 衆 と 呼 ば れ. た農 民 が、各種 の農 具 をも ち 家 畜 を 使 用 し て耕 作 にあ た って いた こと は、農 業 技 術 の進歩 と そ の普 及 を示 し て いる よ う です 。. 前 田氏 の言 われ る よ う に、 か なり大 掛 り な農 作業 と 推 測 さ れ 、 農 業 経 営 の規模 が相 当 大 き いと 考 え ら れ る 。殖 人を. 一 雇う と いう のは、 田植 え を す る 人 の意 であ るが、 土佐 では 古 来 原 則 と し て 田植 を す る のは女 であ る 。 それを ソー ト メ. 早乙女 の意︶ ︵ 馬鍬Y 辛 鋤 ︵ 唐鋤︶は牛 馬 に引 か せ て 田を す き な ら し たり 、 と いう 。 な お 馬 歯 ︵   す き 返 す 道 具 であ る が、 土. あるいは牛︶は、 ど うし たかと いう こと は何 も し るさ れ て いな い ので分 か ら な いが 、 あ る いは 現地 で借 こ の場 合 、 馬 ︵ り た か。. こ こ で、 このく だり の ﹁ 今 昔 ﹄ と ﹃宇 治 拾 遺﹄ の文 章 のち が いに つい て 一言 し た い。 農 具 を 、 ﹃ 今 昔 ﹂ は馬 歯 ・辛. 大斧︶の六種 を あ げ て いる のに対 し て、 ﹃宇 治拾 遺 ﹄ は、 ﹃ 鋤 ◆鎌 ・鍬 ・斧 ・鉛 ︵ 大 系本﹄ は仮 名 書 き で、 ﹁な べ、 かま 、. す き 、 く は、 か ら す き ﹂ と か き 、 ﹃ 小 学 館 本﹄ は ﹁ 鍋 ・釜 ・鋤 ・鍬 ・型 ﹂ と 漢字 を書 いて い る。 ﹁かま﹂ は仮 名 では. ﹁鎌 ﹂ か ﹁釜﹂ か 、 分 か ら な いが、 お そら く ﹁な べ﹂ の次 に く る のだ から ﹁釜﹂ と と る べき では な か ろう か 。両者 の. 今 昔 ﹄ は ﹁斧 ・鋼 ﹂ と いう材 木 を 切 る道 具 を 入 れ て いる のに対 し 、 ﹃宇 治 拾 遺 ﹄ は ﹁ 鍋 ・釜﹂ と い 大 き な ち が いは、 ﹃. 食物 ﹂ を 入 れ て いる のだ から炊事 用 具 を持 参 す る のは お かし い。 田 う 炊 事 用 具 を 入れ て いる こと であ る。 こ の場 合 ﹁. 植 を し な がら炊事 な ど でき るも の では な い。 弁 当 を 用意 し て持 参 す る のが常 識 であ る。 そう いえ ば 、 そ の食 物 を ﹃宇. 治 拾 遺 ﹄ は、 わざ わざ ﹁ 植 ゑ ん 人ども に食 はす べき物 より は じ め て﹂ と 断 って いる が、 これ は雇 人も そ の家 の人も 含. 。 ど うも ﹃宇 治拾 遺 ﹄ は原 話 にさ か し ら を加 え て いる あるいは ﹁お八 つ﹂も含まれたかもしれん︶ め て 全 員 の昼食 であ る ︵ 感 じ が し てなら な い。.

(28) (28)395.  ど う も よく分 か ら な い。  田植 を す る に必 こ こ で ﹃今 昔 ﹄ が 、 ﹁斧 ・鋸 ﹂ と いう木 を 伐 採 す る道具 を 携 帯 す る のは、. 要 な 道 具 を 作 る た め であ ろう か 。 し かし これ が 思 いがけ な く も 、 幼 い兄妹 が無 人島 で住家 を 作 る の に役 立 と う と は、. 親 たち も 知 る由 も な か った であ ろう 。 何 か し ら 因縁 め いたも のを 読者 に感 じ さ せ る。少 なく と も 、 こ の説 話 に関 す る. u 今 昔 ﹄ は例 によ って、 話 の末 尾 を 、 ﹁そ の島 にも 行 き 住 み、 限 り、一 今 昔 ﹄ の方 が遥 か に文 芸 と し てす ぐ れ て いる。 ﹃. 妹 兄も 夫 妻 と な った のは 、 前 生 の宿 世 に依 って であ ろう ﹂ と 教 誠 で結 ん で いる。近 親 相婚 に対 し 、 こ の時 代 は、 それ.   一種 の贖 罪 感 を 与 え て、 な んと なく ほど の罪 悪 感 は な か った かも し れ な いが、 こ の結 語 は、 わ れ わ れ後 世 の読者 に、 救 われ る 感 じ が し て、 読 後 感 が明 か るぐ な る 。. は特 徴 的 であ る。 人 間 の健 康 な生 命 力 を 感 じ さ せ る。 そ し て、 それ は 土 佐 と いう南 国 の明 か る さ 、 お お ら か さ に相 通. ては、 こ の度 は追 求 す る ま で に到 ら な か った。 こ の兄妹 の、 妹 の方 が し っか り し て決 断実 行 のリ ー ドを と って いる の. さ て、 筆 者 は本 稿 で こ の 一篇 の物 語 の風 土 的 な 側面 に つい て の考 証 に でき る だ け つと め た が 、 そ の中 の人間 に つい. 6  結   び. 義. 秦山集﹄十四 o明治3 ︵3︶ 谷秦山 ﹃ 土佐国式社考﹄  谷氏蔵版 ・﹃ 4︶ 7 、 土佐 日記むろ つの泊りに ついて﹂昭和3 ︵4︶ 山本武雄 ﹁ 4頃孔版 にて発表、のち昭和4 ・3室戸市教育委員会発行 同市教育. 0 一三二一︱ 四頁。 0 ・・ 民話と法華経と地蔵菩薩と﹂﹁日本 の説話﹄ 2古代 東京美術 昭和8 註 ︵1︶ 植松茂 ﹁ 4 o・ 続 回木紀﹄後篇 三四三頁。 ︵2︶ 国史大系本普及版 ﹃. んば 幡 多 郡 の女 性 に対 す る私 たち の イ メー ジ に 一致 す る 。. と 述 べて いる のは、 ま こと に適 切 であ る。 そし て、 この妹 の積 極 性 は 、 土佐 人、 特 に土佐 の女 性 、 さ ら に言 い得 可 く. ﹂ 息 吹 き の漂 う佳 品 。 兄妹 相 婚 と いう 非 倫 理的 な素 材 も 、 す こや か な原 始 の香 り に浄 化 され て、 何 の嫌 味 も 感 じな い。. 南 国的  長 野 嘗 一氏 は、 ﹁ ず るも のが あ ると い ったら 言 い過 ぎ であ ろう か。 朝 日 の ﹃古 典 全 書 ﹄ の ﹃今 昔 ﹄ の註 釈 で、. 村. 一 竹.

(29) 文学 に現れた土佐 の風土 と人間. (29) 39イ. 研究協議会編集 ﹃室戸 のくらし﹄ に採録 。. O 幡多 郡下巻 の二﹂ 二三 で二七頁 ︵5︶ 高知県立図書館   昭和 0 4 。3 ol発行 ﹃長宗我部地検帳﹄ 駅刻 版 ﹁ 宿毛市 史﹄ ︵6︶ 高 知県宿毛市教育委 員会 昭和 2 5 o3 o3.発行 ﹃ 0 。 ︵7︶ 高 知県立図書館  昭和 0 5 。3 o2発行猷刻版 ﹃皆山集﹄ 9  四八三頁 3年版 一〓壬二頁 。 ︵8︶ 高 知新聞社発行   ﹃高 知年鑑﹄  昭和 3 ︵9︶ 先生熔丹 谷真潮 〓 批旭勧︶の通称を丹内と いう. 追  記 室 戸 津 寺 地 蔵 菩 薩 霊 験 記 ・近 世 版 ﹂ 考 ・ 一  ﹁. 。.  四東京堂発行、 中尾尭著 ﹃古寺 巡礼辞典﹄ 現在 の出版物 で、 津寺 に ついて解説したも ので管見 に入 ったも のに 、. ︲ ︶ 4年初版、0 、 上︶阿波 ・土佐編﹁昭和4 ︵ 昭和8 5年改版︶の二書 があ 4年 、国札所研究会 発行 平幡良雄著 ﹃四国八十 八ガ所 ︵ る。 二書 とも ほとんど同じ内容 で、あらまし次 の如く である。 ︵ここでは国 による︶. 国は単 に﹁ 僧 し に姿をかえ て、あらかじめ知らせ て歩き、人 々を 寛保 二年室津 に大火があ った時、 こ本尊 が小僧 ︵ 避難させたと いう。. 今昔物語﹄ の霊験談とは、寺 の火災を消す に集まれと いう のと、避難せよと いう のと違 っては いるが、 これは、 ﹃ 本尊 が僧 に化け て火災を知らせ て、行動を指示する点 は全く 同じ である。. 今昔﹄ の時代と違 って、ず っと時代 が下  一千年前 の ﹃ 今 昔﹄ の話と余り に似過ぎ ている点と、 筆者 は、 この話が ﹃. って近世 の中期、今 から 二百年ぐら い前 に、 そのような不思議があ ったと いう ことに疑義を抱 いた。まず当 の津寺 の. 室 戸 のくら 住職大西氏 に訊くと、 そう いう ことは聞 いていな いと のこと であ る。 昭和四十七年室戸市教育委 員会編 ﹃.

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