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村上春樹「沈黙」における現在性─饒舌、「沈黙」の暴力

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村上春樹「沈黙」における現在性

──饒舌、

「沈黙」の暴力

 

 

 

  「僕 は 大 沢 さ ん に 向 っ て、こ れ ま で に 喧 嘩 を し て 誰 か を 殴 っ た こ と は あ りますか、と訊ねてみた」という一文より始まる村上春樹「沈黙」は、全 集『村 上 春 樹 全 作 品 1979 ~ 1989 ⑤ 短 篇 集 Ⅱ』 (講 談 社、一 九 九 一 ・ 一) に 書 き 下 ろ し の 形 で 収 録 さ れ、高 校 二、三 年 生 向 け の 集 団 読 書 テ キ ス ト (第 2期B 112) としても刊行 (『沈黙』 全国学校図書館協議会、 一九九三 ・ 一) された。 そ の 後、修 正 さ れ『レ キ シ ン ト ン の 幽 霊』 (文 芸 春 秋、一 九 九 六 ・ 一 一) に、 また、 別の形で修正され 『はじめての文学 ・ 村上春樹』 (文芸春秋、 二〇〇六 ・ 一二) にも収録された。本稿は初出に拠る。   まず「沈黙」の概要について述べていきたい。冒頭の引用は、飛行場で の待ち時間に、中学生の頃よりボクシングを続けていることを、仕事仲間 の「大沢さん」から聞かされた際の「僕」の反応であり、それは「たいし て 意 味 の な い」 「ほ ん の ち ょ っ と し た 好 奇 心」に よ る「質 問」で あ っ た こ とが引用の直ぐ後に「僕」の内面として明かされるのであるが、しかしこ れ 以 降、本 作 は、 「大 沢 さ ん」の 直 接 話 法 に よ る 返 答 が 大 部 を 占 め る こ と となる。そこでは、私立の中高一貫校に通っていた「大沢さん」が、中学 二年時に同級生「青木」を殴ったこと、そしてその復讐のように、高校三 年 の 夏、 「青 木」に よ っ て あ ら ぬ「 噂 」を た て ら れ、結 果 と し て 二 学 期 か ら卒業までの半年間、集団から無視をされ学校内で孤立する「地獄のよう な状況」に陥ることとなった体験について語られていく。   集団読書テキストとして刊行されていること、また集団からの疎外とい う、いじめに関わる問題性を描いていることもあり、授業実践も含め、本 作を教育的な枠組みで捉えるものも多い。例えば村上春樹は「故のないい じめにあって、孤立して一人でじっとそれに耐える男の子の姿が描かれて いる。 (略) 僕にもそういう種類の経験がある、そういう精神のあり方に共 感するところがあ る (1 (注 」とし、別の機会でも「この話の語り手が体験したの と同じような心的状況を、僕自身一度ならず経験した (略) 。僕としては、 自分がそのときに感じた心情を少しでもリアルに、物語というかたちに換 えてみたかったのだ。 (略) この短編小説は僕の予想を超えて、多くの人に 切実に読まれているようだ。 (略) 同じような立場に置かれたことのある (そ し て 今 も 置 か れ て い る) 人 々 の 心 の 支 え に 少 し で も な っ て く れ た ら、僕 と し てはとても嬉しい」と述べてい る (2 (注 。   額面通りにとれば、ここでは「大沢さん」のみが「語り手」とされてお り、疎外された「大沢さん」の立場に比重をおいて読むことが求められて いるかのようでもある。ただし本稿では、既に他の論考でも為されている 学苑 ・ 日本文学紀要   第九二七号   一六三~一七三(二〇一八 ・ 一)

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よ う に、 「大 沢 さ ん」の 語 り だ け で な く、そ の 内 容 を 再 構 成 す る「僕」の 語 り に も 改 め て 注 意 す る こ と に よ り、そ こ に 孕 ま れ る そ れ ぞ れ の 暴 力 性 ──他者に安易にレッテルを貼ることの暴力性について検討し、その上で、 そうした問題を描出していく本作が持ち得る現在性、具体的には、戦後か ら連綿として存在し続け、近年ますます顕著となっている、世界を一面化 し、そこで二元論を発生させてしまうような価値観が蔓延するような状況 において、本作がどのような機能を果たし、如何に有効性を持ち得るかと いうことを明らかにしていきたい。 1   内実のない「深み」 ──安易なレッテルを貼ること   冒 頭 の 引 用 に 対 し、 「大 沢 さ ん」は「ど う し て ま た そ ん な こ と を お 聞 き になるんですか?」と問うが、 「僕」は「とくに深い意味はありませんよ」 と答える。 「大沢さん」は「基本的には一度もありません」と返すものの、 しかし 「正直に言うと」 、 中学二年、 ボクシングを習い始めて直ぐの頃 「一 度だけ人を殴った」と翻し、その上で、ボクシングを始めた契機や魅力に ついて語っていく。 「大沢さん」は、 「ボクシングを気に入った理由のひと つ」を、 「そこに深みがあるから」とし、 「それに比べたら殴ったり殴られ た り な ん て 本 当 に ど う で も い い こ と」 「深 み を 理 解 で き て い れ ば、人 は た と え 負 け た と し て も、傷 つ き は し ま せ ん」 「大 事 な の は そ の 深 み を 理 解 す ること」と繰り返す。そこで語られる「深み」について馬場重 行 (3 (注 は、先述 の村上春樹の言説なども踏まえた上で次のように述べる。 (略) 「深み」 とは何か。 ここにこの作品のポイントもある。 この語の意味を 「大 沢 さ ん」は 具 体 的 に 説 明 し て い な い が、読 み 手 に は そ の 内 容 が 伝 わ る よ う に 作 品 は 語 ら れ て い る。常 識 や 良 識 か ら 見 る と 優 等 生 に 見 え る「青 木」の よ う な タ イ プ の 人 間 の、底 の 浅 い 実 像 を 見 抜 く 眼 力。 「深 み」と は、例 え ば そ う し た類の洞察力に通じるものの捉え方であり、 対象の足元に広がる世界を透視し、 そ の 特 性 を 冷 静 な ま な ざ し で 認 識 す る 力 で あ る。こ れ を 共 有 す る と こ ろ に、 この作品を読む意義がある。   た だ し、こ こ で む し ろ 注 意 し た い の は、 「こ の 語 の 意 味 を「大 沢 さ ん」 は具体的に説明していない」という箇所であり、つまり「深み」という概 念の内実についてである。例えば、しばしば為される村上春樹作品への批 判、具 体 的 に は 渡 部 直 己 (4 (注 に よ る、 「こ の 作 家 が、作 中 に し か る べ き 核 心 的 な謎を導入しながらその周囲のきわめて些細な事物への注視を組織すると き、前者は一貫した黙説法のもとへおかれ、後者の表情がひたすら丹念に 綴 ら れ つ づ け る」 、「決 定 的 な 何 か」の「周 到 な 拒 絶」 、と い っ た 批 判 が あ るが、 「大沢さん」による「深み」も、その内実はやはり明確に語られず、 抽象的なものとなっている。他の村上春樹作品についてはまた別に検討が 必要であろうが、本稿でまず考察したいのは、そもそも「沈黙」という作 品 に お い て、 「大 沢 さ ん」の 語 る「深 み」は 特 権 的 な も の と し て 描 か れ て いるのかということである。馬場重行のように「その内容が伝わるように 作品は語られている」とすることは、一見、渡部直己の批判に抗するもの のようであるが、 そのように 「青木」 を 「底の浅い」 存在とし、 「大沢さん」 の 語 る「深 み」に 内 実 を 認 め て い く 場 合、 「大 沢 さ ん」/「青 木」と い う 構図、つまり人間としての優劣、序列が生まれることとなる。ただしこれ より見ていくように、本作は、そうした序列を生むあり方、具体的には、 他者を一面的に評価し、安易にレッテルを貼り、そこで二元論を生み出し

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てしまうようなあり方の問題性自体を浮彫にし、描出するものとなってい る。   予 め 述 べ れ ば、 「大 沢 さ ん」の 語 る「深 み」に 内 実 な ど は 存 在 し な い。 そ も そ も こ の 言 葉 自 体 が、 「僕」の「と く に 深 い 意 味 は あ り ま せ ん よ」 (傍 線引用者、 以下同) という発言を受けてのものとなっている。 もちろん 「大 沢さん」がどこまで意識的であったかは不明であるが、ボクシングをして い る と 知 っ た 瞬 間 、「 こ れ ま で に 喧 嘩 を し て 誰 か を 殴 っ た こ と は あ り ま す か 」 と聞き、その質問に「深い意味」はないとする「僕」の態度に対し、結果 と し て 批 判 的 に 応 ず る も の と な っ て い る。 「大 沢 さ ん」の 印 象 と ボ ク シ ン グが結びつかなかったがために、 「ふとそんな質問をしてしまったのだ」 「ふ とそう訊ねてみたのだ」と「僕」は再構成の語りの段階において弁明を繰 り 返 す が、し か し そ れ が ボ ク シ ン グ を 始 め た 契 機 に つ い て で は な く、 「喧 嘩をして誰かを殴ったことはありますか」という質問になることには飛躍 がある。つまり、やはり再構成の語りの段階においては「おそらくは余計 な質問」であったと「僕」自身認めているように、ここでの質問は、ボク シングから即座に「喧嘩をして誰かを殴」ることを連想するという、ステ レオタイプなものでしかない。そして、そうしたボクシングに対して為さ れ る「深 い 意 味」の な い 安 易 な レ ッ テ ル 貼 り に 対 し、 「大 沢 さ ん」は ボ ク シングには 「深みがある」 と突き返すのである。 このように確認すると、 「大 沢さん」の語る「深み」には一見内実が伴っているかのようであるが、し かし実際には、両者には非常に似通った点があり、表裏の存在に過ぎない ことが徐々に明らかとなる。 次は、 ボクシングをしていると聞く以前の 「大 沢さん」に対する「僕」の評価である。 (略) 大 沢 さ ん は ど う 考 え て も 二 十 年 近 く も ボ ク シ ン グ を 続 け る よ う な 人 柄 に は 見 え な か っ た か ら だ。彼 は 物 静 か で、あ ま り で し ゃ ば ら な い 人 間 だ っ た。 仕 事 ぶ り は あ く ま で 誠 実 で、誰 か に 何 か を 無 理 に 押 し つ け る と い う よ う な こ と は 一 度 と し て な か っ た。ど ん な に 忙 し い と き で も 声 を 荒 ら げ た り、眉 を 吊 り 上 げ た り す る こ と は な か っ た。他 人 の わ る ぐ ち を 言 っ た り、愚 痴 を こ ぼ し た り す る の を 耳 に し た こ と は 一 度 も な か っ た。 彼 は 言 う な れ ば 人 が 好 感 を 抱 かざるをえない人間だった 。   一定の期間を経て構築された評価、 「人が好感を抱かざるをえない人間」 という、言わば〈善人〉という評価が、ボクシングをしていると聞くや否 や、 「喧 嘩 を し て 誰 か を 殴」る と い う、言 わ ば〈悪 人〉と し て の 評 価 に 反 転する極端なあり方。しかし、こうした短絡は作中の「僕」に限ったこと ではなく、本作発表から現在に至るまで、徐々にインターネット空間など が浸透する過程で、より顕著になっているものと言え、例えばそれは、近 年しばしば指摘されるようなコミュニケーションの〈キャラ〉化といった 現象にも見出すことができる。自身の固有性への信仰を失った個人個人が、 代替として「キャラ」を演じ、類型化された振舞いを続けることと、コミ ュニケーション偏重主義などをもたらすインターネット空間の浸透は連動 してお り (5 (注 、 そのようなインターネット空間において 「情報としてのわたし」 が収集され、それが先回りして自身に「再帰的」に振舞いを迫る状況にお い て (6 (注 、そしてそこで自身が引き受けた、または振り当てられた〈キャラ〉 を互いに確認しながら演じ続けなければならないような「再帰的コミュニ ケ ー シ ョ ン」が 顕 著 と な っ て い く 状 況 に お い て、 〈キ ャ ラ〉か ら 外 れ た 振 舞いをすることは居場所を失うことを意味す る (7 (注 。そうした状況を体現 する

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かのように、 「大沢さん」に貼られていた「好感を抱かざるをえない」 〈善 人〉というレッテルも、それとは結びつかないボクシングという情報を導 入されるや否や、実際には「喧嘩をして誰かを殴」るような〈悪人〉とい うレッテルに、貼り替えたくなるような欲望をもたらしてしまうのである。   そして、こうした「僕」を一見批判するかのような「大沢さん」も、先 述 の よ う に 同 様 の 問 題 性 を 抱 え て い る。 「大 沢 さ ん」は、中 学 二 年 時 に 殴 った同級生「青木」について「浅薄」 「自分っていうものがない」 「他人に 対 し て こ れ だ け は 訴 え た い っ て い う も の が 何 も な い」 「自 分 が 認 め ら れ て いれば、それだけで満足」 「そういう自分の才覚にうっとりしている」 「風 向きひとつでただくるくると回っているだけ」などと語る。つまり、ここ でもやはり自身の語る「深み」に対応するもののように、その「浅薄」さ が強調されるが、しかし注意しなければならないのは、それが「こんな奴 は 殴 ら れ て 当 然」 「こ の 男 は 害 虫 の よ う な 人 間」と、言 わ ば〈悪 人〉と い う評価にまで直結していくことである。 「青木」が一方で、 「多くの級友」 からは 「公正で謙虚で親切な人間」 、「感心」 すべき 「頭のいいたいした男」 という、言わば〈善人〉という評価を得ていることは認識しているのであ る が、そ れ を 反 転 さ せ る よ う に「害 虫 の よ う な 人 間」と い う、 〈悪 人〉と 断定していくあり方とは何か。   ま ず 注 目 し た い の は、 「大 沢 さ ん」に よ れ ば、他 人 に 認 め ら れ る こ と に 満足し、 そのように振舞える 「自分の才覚にうっとりしている」 という 「青 木」のあり方が、まさにコミュニケーションが〈キャラ〉化した状況自体 を体現するもののようになっていることである。つまり、自身が引き受け た 〈キャラ〉 に相応しい振舞いをその場に応じて演じられるという 「青木」 を、 「浅薄」 で 「実」 がないと批判するが、 繰り返すように問題であるのは、 そ れ が〈悪 人〉と い う 評 価 に ま で 直 結 し て い く こ と で あ る。 「僕」は「大 沢 さ ん」に「人 が 好 感 を 抱 か ざ る を え な い」 〈善 人〉と レ ッ テ ル を 貼 り、 実際にはそれに相応しくない要素があると判断すると〈悪人〉というレッ テルに貼り替えたくなる欲望に駆られるわけであるが、 「大沢さん」 も、 「多 くの級友」にとって〈善人〉とレッテルを貼られている「青木」に対し、 実 際 に は そ う で は な い と い う 見 立 て を し て い く こ と で、 〈悪 人〉と い う レ ッ テ ル に ま で 貼 り 替 え よ う と す る。つ ま り、 「大 沢 さ ん」に よ る「青 木」 批判は、一見、コミュニケーションが〈キャラ〉化した状況自体への批判 のようでありながら、 〈善人〉 というレッテルに相応しくないということが、 〈悪人〉というレッテルにまで反転してしまうことに窺えるように、 「僕」 と同様に、やはりそうした状況の枠内にあるものに他ならず、言い換えれ ば、単に「青木」に貼られた〈善人〉というレッテルを 剥 がそうとする行 為に過ぎないことがわかる。 もちろん直接的には、 中学二年時に自身が 「試 験でカンニング」をしたという「 噂 」を「青木」が広めていると聞かされ た こ と に も 因 る が、 「多 く の 級 友」が「青 木」を 称 賛 す る 度 に「ひ ど く 不 快な気分になった」とあるように、 「もともと」 「青木」を「嫌い」な「大 沢 さ ん」は、 〈善 人〉と い う レ ッ テ ル 自 体 に も 違 和 感 を 抱 き 続 け て お り、 そしてそうした評価に相応しくない存在とすることが、結果的に〈悪人〉 と い う 評 価 に ま で 直 結 し て い く。 〈善 人〉/〈悪 人〉と い う 評 価 は 容 易 に 反 転 し か ね な い も の で あ り、 「僕」と 同 様、一 面 的 な レ ッ テ ル を 貼 る も の として機能してしまう「大沢さん」の語る「深み」にも慎重にならざるを 得ないということが、 「大沢さん」自身から窺い知れるのである。

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2   自 身 を 投 影 す る 語 り ── 「 わ か っ て い る の は お そ ら く 僕 だ け 」   以上のように確認した上で、次に「青木と僕とはあらゆる意味で対照的 な立場にいました」と語るものの、実際には、やはり両者が非常に似通っ て い る と い う こ と、よ り 適 切 に 言 え ば、 「大 沢 さ ん」が、無 意 識 に 自 身 を 投影しながら、 「青木」 について語っているということを検証していきたい。 中 学 二 年 時、 「試 験 で ひ と つ で も 一 番 を 取 れ ば」欲 し い も の を 買 っ て も ら え る と い う 約 束 を 両 親 と 交 わ し た「大 沢 さ ん」は、 「と に か く 英 語 で 一 番 を取ってやろう」とし、結果的に一番となる。しかしそれが「英語の試験 に 関 し て は ず っ と 一 番 を 続 け て い た」 「青 木」の 恨 み を 買 い、カ ン ニ ン グ をしたという「 噂 」を広められ、その話を聞かされた「大沢さん」は「頭 に 来」て 殴 っ て し ま う。 「青 木」に つ い て は「大 沢 さ ん」に よ る 語 り か ら 判断する他ないが、 しかし 「対照的」 と述べつつも、 語れば語るほど、 「青 木」は「大沢さん」自身と表裏を成す人物像となっていく。どの科目でも 構わないにも拘らず、何故か「青木」が「ずっと一番を続けていた」英語 で「と に か く」 「一 番」を 目 指 す 点 に も 既 に 対 抗 心 が 窺 え る が、加 え て、 自身が引き受けた〈キャラ〉に相応しい振舞いをその場に応じて演じられ る と い う「青 木」の あ り 方 を、 「わ か っ て い る の は お そ ら く 僕 だ け」と ま で語ることは何を意味するのか。一方「大沢さん」は、自身を「目立たな い人間」 、「そういうタイプ」とするが、ただし「本だって僕くらい沢山読 んでいた人間は他にいない」とも語り、他にもボクシングなど「自身の世 界」を持っていたという主張もする。 僕はある意味では早熟な人間でもありました。 だから同級生とつきあうよりは、 一人で本を読んだり、 父親の持っていたクラシック音楽のレコードを聴いたり、 ボ ク シ ン グ ・ ジ ム に 通 っ て 年 上 の 人 た ち の 話 を 聞 い た り し て い る 方 が 好 き で し た。 (略) だ か ら 僕 も あ ま り 自 分 と い う も の を 表 に 出 さ な い よ う に つ と め て いました 。   ここでは、あえて学校や同級生に背を向けていたとされており、だから こそ「僕も若かったし、自分ではうまく隠しているつもりでも、たぶんそ ういうのを自然に鼻にかけて、 他人を見下しているようなところがあった」 と も 語 る。前 提 に は、 「入 っ た と き か ら 好 き じ ゃ な か っ た」と い う、学 校 的価値観への意識的なあり方があり、それを「見下し」背を向け、一方で 「ジムで会う人たち」 からは 「本当にいろんなことを学びました」 とするが、 具 体 的 に 何 を 学 ん だ の か が 語 ら れ る こ と は や は り な く、 「深 み」と 同 様、 そこに内実は存在しない。こうした姿勢は、 「〈学校的世界〉を否定しなが らも、大沢自身けっしてそこから切断されることを望んでいない様子が明 ら か 」 (8 (注 とも評されるように、私立の中高一貫校に通うなど経済的に恵まれ た環境に支えられた上でのニヒリズムに過ぎず、むしろそうした価値観に 囚われているあり方が顕著である。学校的価値観を強く意識しているから こそ、 そこで、 あえて 「自分というものを表に出さないようにつとめ」 、「目 立 た な い 人 間」と い う「タ イ プ」と し て 振 舞 お う と す る。 「大 沢 さ ん」は そのことに無自覚ではあるものの、まさにそうしたコミュニケーション状 況の中で〈キャラ〉を演じていると言え、そのため「青木」も同様に── 自 身 と は 対 照 的 な「タ イ プ」で あ る も の の ──「ス タ ー」 「オ ピ ニ オ ン ・ リーダー」を演じており、またそのように振舞える「才覚にうっとりして い る」に 相 違 な い と 見 な さ れ て い く こ と と な る。 「青 木」が「体 か ら 発 散

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す るエゴと プライドの臭い」を「とてもたくみに消し去ってい」たという こ と が「わ か っ て い る の は お そ ら く 僕 だ け」と い う 論 理 も、 「自 分 と い う ものを表に出さないようにつとめていました」 、「自分ではうまく隠してい るつもりでも、たぶんそういうのを自然に鼻にかけて、他人を見下してい るようなところがあった」 、「そういう無言の自負心のようなものが青木を 刺激した」という自己分析が、投影されたものに他ならない。このように、 「青 木」が 実 際 に ど の よ う な 姿 勢 で あ っ た か は 不 明 で あ る に も 拘 ら ず、自 身の身の処し方を前提とするように評することで、やはり「青木」も言わ ば〈キャラ〉を演じている存在と位置付けられていくのであり、更には先 述のように、実際にはその振舞いに相応しくない〈悪人〉とまでされてい くこととなる。   ど れ だ け 言 葉 を 尽 く し て も、 「青 木」が ど の よ う に 考 え て い た の か の 証 明にはなりえず、むしろ語れば語るほど、実際には「大沢さん」自身が学 校的価値観に囚われているあり方が示されることとなり、そうした評価軸 を前提として語られる以上、両者は「オピニオン ・ リーダー」か「目立た ない人間」かという「タイプ」の差異、言い換えれば、染まるか背を向け るかという意味において、表裏の存在としかならない。両者は似通ってい る の で は な く (9 (注 、あ く ま で も「大 沢 さ ん」が 自 身 を 投 影 し な が ら、 「青 木」 について語っているに過ぎず、 「害虫」である「青木」を殴った後、 「嫌な 臭いのする虫を呑み込んでしまったような気分」となるのは、 「大沢さん」 の考える「青木」像が、実際には自身に還ってくるものであり、元々自身 の内部に巣食うものであるからに他ならない。 3   未消化な語り ──未だに「青木」を殴り続けていること   このように確認していくと、次のような指摘にも注意が必要となる。 (略) 「   」に よ っ て く く ら れ て い る「大 沢 さ ん」の 語 り は、 (略) あ た か も 語 り 慣 れ て い る か の よ う に 整 理 が 行 き 届 い て お り、入 念 に 編 集 さ れ た か の よ う な 印 象 を 受 け ま す (略) 。「僕 は 本 当 は こ の 話 を し た く な い ん で す」と 言 う か ら に は お そ ら く、 「僕」に 対 し て 初 め て 自 分 の 過 去 を 打 ち 明 け て い る の で し ょ う が、 そ の「大 沢 さ ん」の 体 験 と い う ノ ン フ ィ ク シ ョ ン 0 0 0 0 0 0 0 0 は、い つ か 語 ら れ る こ と を 前 提 に、 「大 沢 さ ん」の 中 で ず っ と 手 入 れ さ れ、 物 語 化 0 0 0 さ れ て き た か の よ う で す ((注 (注 。   しかし 「大沢さん」 の中高時代についての語りは、 そこまで都合よく 「物 語化」されているだろうか。見てきたように、語れば語るほど自身の問題 性を表出させ、しかもそのことに無自覚なあり方は、むしろ未だ過去に囚 われ続け「物語化」しきれない要素を窺わせるものとなっており、そうし た語りに疑念を示すのが「僕」である。次は本作末尾である。   僕 は そ の ま ま 続 き を 待 っ て い た の だ け れ ど、話 は そ こ で 終 わ っ た。大 沢 さ ん は テ ー ブ ル の 上 で 両 手 を 組 ん で、た だ じ っ と 黙 っ て い た。/「ま だ 時 間 は 早 い け れ ど、ビ ー ル で も 飲 み ま せ ん か」と 少 し あ と で 彼 は 言 っ た。飲 み ま し ょう、と僕は言った。たしかにビールが飲みたいような気分だった。   岡 田 康 介 ((( (注 は、 「大 沢 さ ん」が 高 校 時 代 に「ジ ム で 会 う 人 た ち」と 練 習 後 に ビ ー ル で 交 流 を 深 め て い た こ と か ら、 「ボ ク シ ン グ 仲 間 た ち と の 深 い 信 頼関係」をあらわすものとしてビールがあるとし、その上で、話が終わっ

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た後に飲み物がコーヒーからビールに変わることを、両者が「体験談を共 有」し「仕事仲間を越えた間柄に深まっていく過程」をあらわすとする。 しかし実際には「大沢さん」の語りに「僕」は懐疑的な態度を示している。 既に岡田 豊 ((注 (注 が詳細に論じているように、 「青木」 への憎悪を隠さずに 「害虫」 などと悪し様に語る「大沢さん」の語りに対しては、視線と意識をそらす ように 「僕」 は窓外のボーイング 7‌ 3‌ 7を見るのであり、 また 「大沢さん」 が未だに悪夢にうなされ妻にしがみつき泣く夜もあると語った後に窓外を 見た際には、雲が「蓋のように重く、空にかぶさ」り「管制塔も飛行機も 輸送車両もタラップも作業服を着た人々も、そんな雲の影にあらゆる色と いうものを吸い取られてしまっていた」 と 「僕」 は語ることで 「大沢さん」 の心理を比喩的に表し、未だに「出口の見えない状況から脱し切れていな い」あり方を示す。そのため、本作末尾の「そのまま続きを待っていた」 と い う 語 り に は、 「話」が そ こ で 終 わ っ て し ま う こ と へ の 批 判 が 込 め ら れ て い る と さ れ る。も ち ろ ん 当 初 は、 「深 い 意 味」の な い 質 問 を し た「僕」 を 批 判 す る か の よ う に、 「大 沢 さ ん」の 体 験 談 は 語 り 始 め ら れ て い る。し かし、そうした質問は「おそらくは余計な質問」と内省され、また「大沢 さ ん」の「話」に 対 し て も 懐 疑 的 な 態 度 が 示 さ れ る な ど、 「大 沢 さ ん」と の体験を再構成する「僕」の語りからは、他者を一面的に捉えること自体 の問題性が浮彫にされていくこととなる。   そのことを検証していくため、次に再び「大沢さん」の語りと、未だに 「出 口 の 見 え な い 状 況」に 陥 っ て い る あ り 方 に つ い て 見 て い き た い。飛 行 場での「大沢さん」とのやり取りを再構成する「僕」の語りの現在がどの 時点にあるのかは不明であるが、過去を語るという点では「大沢さん」の 語 り と 同 様 で あ る。し か し 異 な る の は、 「僕」が 飛 行 場 で の 質 問 を 内 省 す る 姿 勢 を 見 せ る の に 対 し、 「大 沢 さ ん」が ほ と ん ど 中 高 時 代 の 自 身 の 視 点 を対象化、相対化する姿勢を見せないことにある。あるのは「僕も若かっ た」 、「まだ中学生です、そこまではクールになれません」といった弁明に 過ぎず、当時の価値観自体を否定するものは存在しない。もちろん記憶は 常に再構成されるものであり、当時の価値観を推し量ることなど不毛であ る が、 「大 沢 さ ん」の 語 り は、過 去 と 現 在 に 隔 た り が 存 在 し な い も の の よ うに為されていく。 そのことをまず窺わせるのが、 高校三年の夏休みに 「も う学校には行きたくない」という言葉を残して自殺した「松本」について の語りである。 死 ん だ 級 友 の こ と は 気 の 毒 だ と 思 い ま し た。何 も そ ん な ひ ど い 死 に 方 を す る こ と は な い の で す。学 校 が 嫌 な ら、学 校 に な ん て 来 な け れ ば い い の で す。そ れ に あ と 半 年 も す れ ば 嫌 で も 学 校 を 出 て い か な く て は な ら な い ん で す。な の に ど う し て わ ざ わ ざ 死 な な く て は い け な い ん で す か。僕 に は よ く 理 解 で き ま せ ん で し た。た ぶ ん 何 か の ノ イ ロ ー ゼ だ っ た ん だ ろ う と 僕 は 思 い ま し た。明 け て も 暮 れ て も 受 験 の 話 し か 出 な い ん で す か ら、頭 が お か し く な る 人 間 が 一 人くらい出てきたとしても、とくに不思議はありません。   そ の 後、 「松 本」が 誰 か か ら 殴 ら れ る な ど の「い じ め」を 受 け て い た と いう話が出回り、それを利用して中学二年時の復讐のように「青木」があ ら ぬ「 噂 」を た て た こ と で、 「大 沢 さ ん」は 疑 惑 を か け ら れ、結 果 的 に 学 校で孤立し「地獄のような状況」に陥ったとされるのであるが、注意すべ きは、それでも「大沢さん」の「松本」に対する印象に変化が見られない ことである。もちろん先の引用は、当時の「大沢さん」の心境として語ら れ て い る が、 「松 本」の 自 殺 後、自 身 も 学 校 で「地 獄 の よ う な 状 況」に 陥

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る体験をしているのにも拘らず、それを語る現在の「大沢さん」からは何 ら「松 本」を 慮 る よ う な 言 葉 は 出 て こ な い。つ ま り、 「も う 学 校 に は 行 き たくない」という言葉に対しての「学校が嫌なら、学校になんて来なけれ ばいい」という当時の心境から、あたかも変化がないもののように語られ、 見ていくようにそれは、ボクシングという「深み」に接していた自身と比 較し、 「松本」 の自殺を学校的価値観に囚われたものと捉え、 未だに 「青木」 同 様 に「見 下 し て い る」こ と に あ る。実 際 に、 「大 沢 さ ん」が「立 ち 直」 る契機になったとされる場面では、ボクシングに関する描写が詳細に語ら れていく。そして重要であるのは、そのようにボクシングを媒介のように して 「立ち直」 ったと認識していることこそが、 未だに変化が見られず、 「出 口の見えない状況」に陥っていることの最大の要因に他ならないというこ とである。次は、学校で孤立中の「大沢さん」が偶然「青木」と同じ電車 の車両に乗り合わせた場面である。 ず い ぶ ん 長 い あ い だ 僕 ら は お 互 い の 顔 を 見 て い ま し た。青 木 と し て も 目 を そ ら し た ら 負 け だ と 思 っ て い た の で し ょ う。 (略) で も 最 後 に は 青 木 の 目 は 震 え て い ま し た。ほ ん の 微 か な 震 え で す が、僕 に は そ れ を 感 知 す る こ と が で き ま し た。僕 に は そ れ が は っ き り と わ か り ま し た。そ れ は 足 が 動 か な く な っ て し ま っ た ボ ク サ ー の 目 で し た。自 分 で は 動 か し て い る つ も り な ん で す が、実 際 に は 動 い て い な い ん で す。自 分 で は そ れ が わ か ら な い ん で す。動 い て い る と 思 っ て い る ん で す。で も 足 は と ま っ て い る。足 が と ま る と 肩 が 滑 ら か に 動 か な く な る。す る と パ ン チ に 力 が な く な る ん で す。そ う い う 目 で し た。な ん だ か 変 だ と 思 う、で も そ れ が ど う し て な の か 自 分 で も わ か ら な い ん で す。/ そ れ を 境 に 僕 は 立 ち 直 り ま し た。 (略) ボ ク シ ン グ の 練 習 に も 通 う よ う に な り ま し た。負 け る わ け る に は い か な い ん だ と 僕 は 思 い ま し た。青 木 に 勝 つ と か、 そ う い う こ と じ ゃ あ り ま せ ん。人 生 そ の も の に 負 け る わ け に は い か な い と 思 ったんです。   注意すべきは、もちろん実際に手を出しているわけではないが、これま で再び「殴る」ことを想像しつつも、それを抑制してきた「大沢さん」が、 結局ここで 「足が動かなくなってしまったボクサーの目」 をした 「青木」 を、 あたかも「何度も何度も殴る」ように追い詰めていくことである。ボクシ ン グ に お い て、 「殴 っ た り 殴 ら れ た り な ん て 本 当 に ど う で も い い こ と」で あり、それが「自分が深い穴の底にいるみたいな気」にさせるもの、つま り 自 身 と 向 き 合 う 行 為 で あ る の な ら、何 故 こ こ で「青 木」を、 「足 が 動 か なくな」り、言わば必然的に「負け」ざるを得ない弱い「ボクサー」に喩 え、その上でそうした存在に自身を対峙させ、解放された「気」になって し ま う の か。こ こ で の「立 ち 直 り」は、 「青 木 に 勝 つ と か、そ う い う こ と じゃありません」としながらも、結局はそうした強弱の枠組みのものに過 ぎ ず、 「深 み」が あ る と さ れ る ボ ク シ ン グ も、単 に 他 者 と の 競 争 の 原 理 ──「大沢さん」にとっての学校的価値観と同様──の中で喩えられ、更 にはそうした抗争の場で起きる私闘のためのもの、まさにステレオタイプ な「喧嘩をして誰かを殴」るためのもののように貶められていくのであり、 それは中学二年時の暴力の反復に他ならないものである。   ここでボクシングは、結果的に他者との序列を構築するためにしか機能 していない。再び「ボクシングの練習にも通うようにな」ったと語るが、 自身がそのように「深み」のあるものを通して「立ち直」ることができた と 認 識 し て い る か ら こ そ、 「松 本」の 自 殺 に つ い て は、具 体 的 な 事 情 を そ

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の 後 に 聞 い て い る に も 拘 ら ず、 「学 校 が 嫌 な ら、学 校 に な ん て 来 な け れ ば いい」という理屈から更新されることがないのであり、自身のように「深 み」との関わりを持ち得ずに、学校的価値観に囚われるように自殺したと いう見立てに押し込み続けてしまう。それは「青木」と同様に「見下し」 の 対 象 と し か な ら な い の で あ り、そ の よ う な 視 点 は、 「明 け て も 暮 れ て も 受験の話しか出ない」という競争の原理と同様のものに他ならないが、そ もそも学校をそうした場としてのみ捉えること自体に、囚われた一面的な あり方が強くあらわれている。また「本当に怖いと思うのは、青木のよう な 人 間 の 話 を 無 批 判 に (略) 信 じ て し ま う 連 中」 、「自 分 が 何 か 間 違 っ た こ と を し て い る (略) な ん て (略) 考 え た り し な い」 、「真 夜 中 に 夢 を み る の も そういう連中」 とするが、 中学二年時、 「青木」 が 「 噂 を広めているという」 話 を 人 づ て に 聞 き、 「頭 に 来」て 殴 る「大 沢 さ ん」も「 噂 」を 信 じ る 存 在 に他ならず、更に「松本」を少しも慮らずに「見下し」続けるあり方など も、同 様 に「夢 の 中 に 出 て く る」 「顔 と い う も の を 持 た な い」存 在 に な り 得る危険性を孕むものである。   ここまで見てきたコミュニケーションのあり方や競争の原理などは、当 然、卒業後の社会とも切り離せるものではないが、三一歳の現在、そうし た 世 界 に 身 を 置 き な が ら も、 「大 沢 さ ん」は 未 だ に 全 て の 要 因 を、中 高 時 代 に 還 元 し 拘 泥 す る こ と で、 「夢」に 象 徴 さ れ る よ う に 怯 え 続 け る こ と と なっている。高校三年時の「青木」を、中学二年時と「ほとんど何もかわ っ て い」な い と し、 「あ る 種 の 人 間 と い う の は 成 長 も 後 退 も し な い」と 見 なす「大沢さん」自身は、現在に至るも「ほとんど何もかわって」いない。 現在もボクシングを続けていることは、裏を返せば、電車での体験がその 場限りでの勝利に過ぎず、再び陥れられ「負け」ることを恐れるあまり、 その後も序列を構築する手段として、あたかも自己防衛のために行わざる を 得 な く な っ て い る 状 態 を 窺 わ せ る も の と な っ て い る。 「大 沢 さ ん」は こ れらのことに無自覚であるが、言うなれば未だに心の中で「青木」を殴り 続けているのであり、だからこそ「喧嘩をして誰かを殴ったことはありま すか」という「僕」の質問に過剰に反応し自己を正当化する「話」を饒舌 に 展 開 し て し ま う。そ し て そ こ で の、 「深 み」と「浅 薄」さ を 対 比 す る 語 りは、序列を明確にし、自らを正当化しているという点において、一見、 明快な「物語化」が為されているかのようでもあるが、しかしそれは、あ くまでも自身にとって都合の良い世界でしかない。つまり「大沢さん」が 否定的に語る要素が、全て自身に還ってきてしまうことなどは、世界や他 者がそのように一面的に捉えられるものではないということを逆説的に証 明することとなっており、それは聞き手としての「僕」の態度にも示され るように、結果的に様々な疑問を想起させるものとなっていく。 4   「沈黙」の危険性 ──自身への還元の困難   このように他者を一面的に捉えるあり方は、確認した現在のコミュニケ ーションの〈キャラ〉化の状況などに限定されることではなく、近年ます ます顕著となっている。それは、流動的でグローバル化した時代、流動的 なメディア環境に耐えかねるように排外的に「壁」を作ってしまう現在の あり方に象徴的と言 え ((注 (注 、また二〇〇一年の同時多発テロ以降の世界内戦状 態とも呼ばれる状況や、二〇一一年の東日本大震災以降に顕在化した戦後 日本が抱え続ける〈壁〉の存在にも見て取れる。例えばそれはインターネ ット上などに溢れる、自身にとって都合が良く、一面的にしか世界を見な い者同士の衝突に顕著であるが、木村朗 子 ((注 (注 は、震災後、拡散している「東

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北 支 援 か 否 か」 「脱 原 発 か 推 進 か」と い っ た 安 易 な 二 元 論 と、ま た そ れ と 表裏のものとしての多くの作家の沈黙のあり方を、 震災自体ではなく、 「戦 後に長い時間をかけて築かれた言論の壁」にあるとする。またそのような 〈壁〉 、言い換えれば一面的な価値観の蔓延を田中和 生 ((注 (注 は、戦後から現在に 至 る ま で 機 能 し 続 け る「共 同 幻 想」 (吉 本 隆 明『共 同 幻 想 論』河 出 書 房 新 社、 一 九 六 八 ・ 一 二) に あ る と し、そ の 根 底 に、原 子 力 発 電 の「安 全 神 話」な ど に 象 徴 さ れ る、 「豊 か さ」を 最 優 先 す る た め 第 二 次 大 戦 の 戦 死 者 か ら 被 災者や原発作業員などを「都合の悪い同胞」とした上で、そうした存在を 「切り捨て」ることを「仕方ない」とする意識があるとす る ((注 (注 。   そ の よ う な 状 況 に お い て、 「本 当 に 怖 い と 思 う の は、青 木 の よ う な 人 間 の 話 を (略) そ の ま ま 信 じ て し ま う 連 中」と い う、 「大 沢 さ ん」自 身 に 還 っ てくる言葉を一見乗り越える「僕」のあり方、そして同時に、そこで「沈 黙」に留まりもする「僕」のあり方には、現在にまで射程の及ぶ本作の重 要な問題性が示されている。当初、一面的でステレオタイプな質問をした 「僕」は、それを内省する姿勢も含め、 「沈黙」を守れずに饒舌に展開され る「大沢さん」 の一面的で、 過去の自身の視点をほとんど対象化しない 「話」 を、 「そのまま信じ」るのではなく、 「沈黙」とともに懐疑的な態度を示す のであり、それ自体にはひとまず一定の意義を見出すことができるだろう。 しかし注意すべきは、震災以後の状況や、また集団による「大沢さん」の 無視などにも窺えるように、事態に対し単に「沈黙」を守ることも、結局 は「壁」に屈するものに過ぎないということである。言い換えれば「僕」 は懐疑的な態度に留まってしまっている。それは「大沢さん」の危険性に どこまで気づいているのかという問題となるのであり、 同時にそれは、 「大 沢さん」の「話」を通すことで、 「僕」が自身の危険性にどこまで気づき、 どこまで向き合えているのかという問題にも連なっていく。興味深いのは、 「大沢さん」の語る「青木」像が、 「大沢さん」自身が抱える危険性を体現 するという構造、言い換えれば、他者を通して自身が浮彫になるという構 造 に な っ て い る の に も 拘 ら ず、 「大 沢 さ ん」が 無 自 覚 で あ る の と 同 様、ま さ に そ う し た 他 者 で あ る「大 沢 さ ん」の 姿 を 通 し て も、 「僕」は 自 身 が 有 する危険性を明確に見出すには至っていないことである。つまり本作が重 要なのは、単に他者を一面的に捉えていくことの危険性が描出されている ということにあるのではなく、 そのような似姿を通しても、 「僕」 の 「沈黙」 に象徴されるように、それを自身に容易には還元することができないあり 方が描出されていることにあり、それは、安易にレッテルを貼り合うこと やコミュニケーションの〈キャラ〉化なども含め、ほとんど揶揄されてい るとも言える現在のあり方が、実際には想像以上に根深い問題としてある ──戦後から現在に至るまで存在する〈壁〉──ということを浮彫にする こ と と な っ て い る。末 尾 の ビ ー ル は、 「大 沢 さ ん」に と っ て は 高 校 時 代 か ら続けるボクシングと同様のもの──怯えからの自己防衛──に過ぎず、 「僕」に と っ て は「沈 黙」に 留 ま る あ り 方 を 示 す も の で し か な い。そ の よ うに互いに他者を見ないあり方、 「僕」 の質問に過剰に反応する 「大沢さん」 の饒舌と、結果的に「僕」が陥る「沈黙」という構図を通すことで、改め て読み手が自身に何を還元させ、世界をどのように捉えていくのかという ことを突きつけてくる点にこそ、本作の現在性があると言えるのである。 ( 1)‌ 村 上 春 樹「解 題」 (『村 上 春 樹 全 作 品 1990 ~ 2000 ③ 短 篇 集 Ⅱ』講 談 社、二 〇〇三 ・ 三) 。

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( 2)‌ 村上春樹 「かえるくんのいる場所」 (『はじめての文学 ・ 村上春樹』 文芸春秋、 二〇〇六 ・ 一二) 。 ( 3)‌ 馬 場 重 行「村 上 春 樹「沈 黙」論 ──「深 み」の 共 有 へ」 (馬 場 重 行 ・ 佐 野 正俊編著『 〈教室〉の中の村上春樹』ひつじ書房、二〇一一 ・ 八) 。 ( 4)‌ 渡 部 直 己『不 敬 文 学 論 序 説』 (ち く ま 学 芸 文 庫、二 〇 〇 六 ・ 二。初 刊 は、 太田出版、一九九九 ・ 七) 。 ( 5)‌ 斎 藤 環『キ ャ ラ ク タ ー 精 神 分 析 ── マ ン ガ ・ 文 学 ・ 日 本 人』 (筑 摩 書 房、 二〇一一 ・ 三) 。 ( 6)‌ 水 野 博 介『ポ ス ト モ ダ ン の メ デ ィ ア 論 ── 過 渡 期 の ハ イ ブ リ ッ ド ・ メ デ ィ アと文化』 (学文社、二〇一四 ・ 三) 。 ( 7)‌ 注( 5)に同じ。 ( 8)‌ 尾 形 大「村 上 春 樹「沈 黙」を 読 む(一)── 高 等 学 校 国 語 科 教 材 と し て の 一視点」 (「教育 ・ 研究」二〇一二 ・ 三) 。 ( 9)‌ 岡田豊 「村上春樹 『沈黙』 に関する一考察──大沢の 〈沈黙〉 / 「僕」 の 〈沈 黙〉 」( 「駒 沢 国 文」二 〇 〇 六 ・ 二) 、深 津 謙 一 郎「村 上 春 樹「沈 黙」論 ── 内なる 〈他者〉 への想像力」 (「文芸研究」 二〇一五 ・ 三) は、 「青木」 と 「大 沢さん」 に共通するプライドの高さが、 互いを刺激し合ったとするが、 「青 木」に つ い て は 証 明 の し よ う が な く、ま た「大 沢 さ ん」自 身 が、プ ラ イ ド の高さを実際に周囲に発散していたという点も、本稿とは文脈が異なる。 ( 10) 風丸良彦『村上春樹短篇再読』 (みすず書房、二〇〇七 ・ 四) 。 ( 11) 岡田康介 「〈再話〉 される大沢/ 〈物語化〉 する 「僕」 ──村上春樹 「沈黙」 論」 (「横浜国大国語研究」二〇一四 ・ 三) 。 ( 12) 岡 田 豊(注 9)に 同 じ。付 け 加 え れ ば、ボ ー イ ン グ 7‌ 3‌ 7に つ い て は、そ の 機 種 を す ぐ に 判 断 す る あ り 方 か ら、 「僕」が 飛 行 機 に あ る 程 度 の 関 心 の あ る 人 物 と 捉 え ら れ て お り、そ の た め、 「青 木」を 批 判 し た 後 に「微 笑」 を 向 け る「大 沢 さ ん」か ら、自 身 の 関 心 の あ る 事 柄 に 目 を そ ら せ た と 指 摘 されている。 ( 13) 藤田直哉 『新世紀ゾンビ論──ゾンビとは、 あなたであり、 わたしである』 (筑 摩 書 房、二 〇 一 七 ・ 三)は、そ う し た 状 況 を 象 徴 す る も の と し て、サ ブ カ ル チ ャ ー 領 域 な ど に お け る 近 年 の ゾ ン ビ の 流 行 を 指 摘 し、そ の 現 象 が、 「過 剰 流 動 性 そ れ 自 体 を 飼 い 慣 ら し、自 ら の 一 部 を 流 動 性 の 中 に 投 げ 入 れ た り、身 に ま と う こ と で 現 代 に 適 応 し よ う と す る 新 し い ラ イ フ ス タ イ ル の 可 能 性 を 提 示」し、一 方 で「そ の よ う な 生 き 方 に は 限 界 が あ る こ と を 告 発 する」両義的なものであるとしている。 ( 14) 木 村 朗 子『震 災 後 文 学 論 ── あ た ら し い 日 本 文 学 の た め に』 (青 土 社、二 〇一三 ・ 一一) 。 ( 15) 田 中 和 生『震 災 後 の 日 本 で 戦 争 を 引 き う け る ── 吉 本 隆 明『共 同 幻 想 論』 を読み直す』 (現代書館、二〇一七 ・ 二) 。 ( 16) 拙稿 「川上弘美 「神様 2‌ 0‌ 1‌ 1」、 竜田一人 「いちえふ」 、 カトーコーキ 『シ ン サ イ ニ ー ト』が 浮 彫 に す る 戦 後 日 本 の 問 題 性 ── 東 日 本 大 震 災 以 降 の 文 学、マ ン ガ の 表 象 分 析」 (後 藤 隆 基 編 者『 〈 3・ 11〉後 の 表 現 を 考 え る』 ‌ 立 教 大 学 日 本 学 研 究 所、二 〇 一 七 ・ 九)で は、そ の よ う に 一 面 化 し た 状 況 の 中 で、隠 蔽 さ れ 塗 り つ ぶ さ れ て し ま う よ う な 問 題 性 自 体 を 浮 彫 に し て い る小説、マンガについて論じている。 (やまだ   なつき    日本語日本文学科)

参照

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