小十郎をはぐくんだ人々
山陰道鎮撫使西園寺と幼少期の小十郎
7 従軍木札(両
りょう掛
がけ)
6 甲冑
8 山陰道鎮撫使一件史料巻子 官軍達書(写)
中川小十郎は1866(慶応2)年1月、丹波国桑田郡馬うま路じ村(現亀岡市馬路町)に生まれた。68年正月、青年公卿の西さい園おん寺じ公きんもち望が 山陰道鎮ちん撫ぶ総そうとく督として新政府軍を率いて丹波に進駐すると、父の中川禄ろく左ざ衛え門もんをはじめ馬路の人々は「弓きゅうせんくみ箭組」を結成して従軍 し、西園寺公とのつながりがうまれた。少年時代の小十郎は田た上がみしゃく綽俊しゅんのもとで致ち遠えん小学校に学ぶとともに、その私塾にも通 い学問の手ほどきをうけた。その後田上に従って京都や七なな尾お(石川県)に遊学して勉学に励んだ。5 山陰道鎮撫使絵巻
冒頭「発向」の部分。1868(慶応4)年1月、新政府から山陰道鎮撫総督に任命された西園寺公望は、薩長の兵を率いて雪 の山道を越え馬路村に進駐した。父祖の維新の顕彰をおこなった小十郎は1922(大正11)年、郷里の馬路村に顕彰碑を 建設するが、一行の行軍の模様を一巻の絵巻として描かせた。 山陰道鎮撫に従軍した実父中川禄左衛門 が、荷札として持ち歩いた木札。表面には 「御守衛士中川録左衛門」、裏面には「慶応 四辰年正月山陰道鎮撫使御供之節」とある。 両苗郷士の従軍を物語る貴重な資料である。 1868(慶応4)年1月5日、山陰道鎮撫総督西園寺公望が薩長の藩兵に守ら れ馬路村に進駐した。これを出迎えた人見・中川の両苗の郷士たちは「弓 箭組」を組織して山陰の戦いに従軍した。両苗の人びとは官軍から発せら れた文書を大切に守り伝えてきた。 中川家(生家・堀の内)に伝えられた甲冑。小十郎の実父の 禄左衛門は弓箭組の隊長として山陰道鎮撫に従軍した。こ の甲冑は江戸時代のものと考えられ、その使用状況は不明 であるが同家に代々伝来されてきた。10 『越後土産』
11 四書
9 山陰道鎮撫使行程地図
武平太 禄左衛門 予備門など 夏目漱石 田上綽俊 謙二郎の書生 一木喜徳郎・岡田良平 友人 友人 謙二郎 師 鎮撫総督 中川小十郎 弟 兄 母 夫婦 姉弟 秘書官 養子 下宿山
陰
道
鎮
撫
使
関
係
者
中川小十郎をめぐる人々
養父 実父 長男 叔父 戸長 校長 西園寺公望 文部大臣 総理大臣 弟子12 中川小十郎をめぐる人々
和綴本の『越後土産 初編全』•『えちごみやげ 二篇全』。二編 の裏表紙には「明治元年辰十二月朔 西園寺殿御内 中川百介 散滛(山陰)重経 北越新発田ニて求之」とあり、西園寺に従っ て北陸に従軍した叔父の百介が越後で買い求めたものである。 新刻校正『論語』・『大学』・『孟子』・『中庸』。裏表紙には「西園寺殿近士 中川百介」の署名がある。東北の戦争から京都にかえった西園寺は私 邸内に私塾「立命館」を創始するが、従軍した叔父の百介たちもここで学 んだと思われる。これらの書籍は初期「立命館」の創立を物語る史料であ る。『孟子』巻之十三 盡心章句上には「立命也」の部分が所載されている。『万国地誌略』『地理問答』『内国里程問答』など馬路の小学校の 教科書。末尾には「致遠館生徒 中川重興」の署名があり、小 十郎たちの学習の軌跡をたどることができる。 小学校を卒業した小十郎は「名教場」(寺院の修行)へいく予定であったが、馬路の小学校から京都に転じた田上綽俊は小十郎の才能を伸ばす よう養父にはたらきかけた。かくて小十郎は京都に遊学、田上のもとで漢学の修業を続けることになった。 1877(明治10)年から、小十郎は師の田上綽俊にしたがって 京都に、また能登の七尾に遊学、さらに1879(明治12)年、 叔父の中川謙二郎の勧めで東京遊学の途につく。郷里の養父 武平太は逼迫する家計をきりつめ学費の捻出につとめ、その 学資の支出をこまめに記録している。 小十郎の京都遊学時代に撮影した写真とおもわれ、元服前のおかっ ぱ頭の童子姿の少年が小十郎で、右の壮年の男性は小学校や京都遊 学時代の師の田上綽俊である。
13 幼少の小十郎と田上綽俊
16 重興学資預ヶ記
17 中川小十郎遊学地図
14 小学校時代の教科書
15 中川武平太宛 田上綽俊書簡
1877(明治10)年8月1日 拙も今暫滞京之積も ニて、好寓居相求候ヘ共一向 見当不申候処、漸ク今日当リ 聖護院辺ニ一寓居 確定、 少シ辺僻ニ候ヘ共避暑 読書等ニハ別て宜敷場所也、 願クハ御令息様御一所へ今一遍 致勉強度、尤名教場御引入 ニも相成居候ハハ、敢テ請フ所ニ 非ス1879(明治12)年、東京へ遊学の途に でた小十郎は叔父中川謙二郎のもとに 下宿し東京府第一中学校(現日比谷高 校)へ進学した。そこで終生の友とな る岡田良平・一木喜徳郎兄弟と親交を むすぶこととなった。 帝国大学在学中の小十郎が翻訳した経済 学の実用書。多面的な興味関心や経験が 後の官界や実業界での活躍の素地となる。 1884(明治17)年、小十郎は大学予備門(第一 高等学校)へ進学するが、夏目漱石(塩原金之 助)をはじめ多くの学友とともに講義をうけ た。「成績表」には小十郎(左端)や漱石(右から 4人目)の名前がみえる。 小十郎の叔父の中川謙二郎が、能登の七尾から帰京した小十郎に、学問のおもしろさや大切さを述べて東京遊学をすすめる。翌1879(明 治12)年9月小十郎は東京へと旅立つことになる。
小十郎の東京遊学
1879(明治12)年、小十郎は叔父の中川謙けん二じ郎ろう(後東京女子高等師範学校校長)の強い勧めもあって東京に旅立つところとなった。 小十郎は叔父のもとに下宿し、岡おか田だりょう良平へい(後文部大臣)・一いち木き喜き徳とくろう郎(後宮内大臣)兄弟たちと友誼を深めた。東京府第一中学(現 日比谷高校)や予備校の成せいりつがくしゃ立学舎・東京専門学校(現早稲田大学)・東京大学予よ備び門もんに学び、夏なつ目め漱そう石せきをはじめとした多くの友人た ちと多感な青年時代の日々を送った。婦人啓蒙雑誌『以い良ら都つ め女』の発行、ボーカー著『実用経済学』の翻訳など、幅ひろい教養と学 力を身につけていった。やがて帝国大学法科大学政治学科に学び、1893(明治26)年帝国大学を卒業すると文部省に入り、井いのうえ上 毅 こわし 文部大臣のもとで高等教育の改革に従事することになる。18 中川小十郎宛 中川謙二郎書簡
1878(明治11)年9月6日19 成立学舎時代の友人たち
21 大学予備門時代の成績表
(東京大学総合図書館 所蔵)20 ボーカー著『実用経済学』
1890(明治23)年 冨山房刊 (立命館大学平井嘉一郎記念図書館 所蔵) 東京 ニ留学スルヲ以テ適等ナリト 田上先生始メ公認スルノ時ニ至レバ 東京ニモ出ルベシ、東京 大学モ卒業シ亦学ブニ 苦シムニ至レバ清国ニモ航スベシ、 米国ニモ航スベシ、欧州ニモ航ス ベシ、学問ハ決シテ際限ナキモノ也。 生涯学問ヲナシテ、ユクユク天下 屈指ノ人トモナレルモノナリ。小生モ 晩年ナレトモ、近々愈丹波 ヘ帰リ、直様再ヒ東京ヘ参リ 更ニ専ラ勉強スル積ナリ。君モ小十郎が南桑田郡長の石田真平にあてた書簡。小十郎は 自身が大学の寄宿舎へ入った後も、丹波から遊学した郷 里の青年たちの監督にあたり、その塾の維持のための資 金援助を郷里の郡長に求めている。 1893(明治26)年7月、小十郎が帝 国大学を卒業する前後に撮影した 同級生との記念写真。夏目漱石(前 列右)は東京高等師範学校講師とな り(翌年体調をこわし松山へ)、小 十郎は官界に入る。他の二名が平 服なのに対し、小十郎と漱石の両 名は正装である。 1893(明治26)年7月、小十郎は帝国大学法科大学政治学 科(現東京大学法学部)を卒業して官界に入る。取得科目 と担当教授を列記した証書の教授の名前に、私学京都法 政学校(立命館)の校長となる富井政章の名前をみること ができる。
22 石田真平宛 中川小十郎書簡
1891(明治24)年元旦 (亀岡市石田敏氏 所蔵)23 帝国大学卒業記念写真
24 帝国大学卒業証書
(立命館大学平井嘉一郎記念図書館 所蔵)中川小十郎と夏目漱石
慶応3(1866)年1月丹波の農村に生まれた中川小十郎と、翌 年1月江戸の町に生まれた夏目漱石の二人は、東京の中学校や 予備校で共に学んだ間柄であった。漱石のいくつかの作品の 中には小十郎との交遊についてふれたものがある。 (東京府第一中学校時代)「其頃東京には中学と云うものが一 つしか無かった。…僕は正則の方に居たのだが、柳田卯三郎、 中川小十郎なども一緒だった。」(「落第」明治39年) (成立学舎時代)「(小十郎らと学んだ教場は)駿河台の成立学舎 といふ汚ない学校で…我等も悉く下駄の侭あがった。上草履や 素足で歩く様な学校ぢゃないのだから仕方がない。床に穴が 開いていて気を付けないと縁の下へ落ちる拍子に向脛を摺り 剝く丈が普通の往来より悪い位のものである。」(「満韓ところ どころ」明治42年) (予備門時代)「(樺太庁の)平岡長官や、それから君が世話に なったといふ中川第一部長は、二人とも予備門時代に於ける 余の同窓である。平岡君とは夫程親しくはなかったが中川君 とは別懇の間柄であった。…此のうちで誰が一番先に馬車に 乗るだらうといったのは此の中川君であった。誰も答へない 先に、まあ己だらうなといつたのも此中川君であつた。」(「高 原蟹堂著『極北日本』序」大正元年) 晩年の小十郎は立命館の生徒たちに自らの青年時代につい て懐かしく語りかけている。「(予備門時代)神田の裏神保町に 末広といふ下宿屋があって、そこに漱石や中村是公などが下 宿していたので我輩等は学校の帰りにそこへ立ち寄って漫談 をやるのが例であった…漱石は何時も部屋の片隅に寝ころん でいて黙々として仲間の所謂漫談を聞いているのであった。 今からどう考へても此の塩原金之助が夏目漱石になったこと が真事実だと思へない位だ。」(中川家史料 10855) 文学者として民間にあった漱石と、官界にすすんだ小十郎 の二人はその後まみえることはなかったようであるが、小十 郎にとって東京生まれの漱石は敬愛すべき友人であった。 (長谷川 澄夫)1893(明治26)年、帝国大学を卒業した中 川小十郎は文部省に入省した。教育行政官と しての小十郎は、井いのうえ上毅こわし・西園寺公望両文部 大臣のもとで、高等学校の制度設計や京都帝 国大学、日本女子大学校の創設にかかわった。 西園寺文部大臣の秘書官としての小十郎は、 日本各地を視察するなかで、経済社会を活性 化させるための「実業人」育成の必要性を考え るようになっていった。 文部官僚としての小十郎は、しばしば地方の学事視察に赴いた。本史 料は、西園寺文部大臣の視察に随行した際に発行されたもの。 視察現場では、人材の東京一極集中による地方経済の疲弊を目の当た りにし、小十郎は、地方を活性化させる「中等人士」を育成する必要性 を考えるようになっていった。 1898(明治31)年、憲政党を母体とする第一次大隈重信内閣が成立する と、西園寺文部大臣はわずか4ヶ月で辞職、後任に尾崎行雄が就任した。 大隈内閣は、憲政党の代議士を各官庁の要職へ送り込む、いわゆる「猟 官運動」を行い、その影響で、小十郎に対しても辞職勧告が下された。 職を失った小十郎は、日本女子大学校創立者の成瀬仁蔵の紹介で、大 阪の加島銀行理事に着任し、活躍の場を関西へ移すことになった。 それぞれ「文部属」「文部大臣秘書官」「帝国大学書記 官」に任ぜられた際に発行されたもの。 文部省入省後の小十郎にとってもっとも大きな出来 事は、西園寺公望文部大臣との出会いだった。西園 寺は幕末以来の中川家との関係から、有能な若手官 僚に成長していた小十郎を、大臣秘書官に抜擢した のだった(当時、満29歳)。中川小十郎の生涯におよ ぶ西園寺公望との交流はここから始まった。 小十郎の秘書官昇進の報に接した郷里の馬路の中川 一族の人々は、西園寺へ礼状を送付すべく相談する。 家内で相談するメモに一族の喜びとともに、西園寺 との新しい出会いのはじまりを伝えてくれる。
文部官僚時代
28・29・30 辞令
任 文部属 1893(明治26)年7月27日 任 文部大臣秘書官 1895(明治28)年8月27日 任 京都帝国大学書記官 1897(明治30)年6月28日31 中川武平太宛中川禄左衛門書付
1895(明治28)年8月32 随行命令
1896(明治29)年4月13日33 辞令(辞職勧告)
1898(明治31)年7月2日25 西園寺公望
26 中川小十郎
27 井上毅
開かれた学びの場の創造へ
文部省入省直後の小十郎は、井上毅文部大臣のもとで、あらたに高等学校(旧制高校)を設置するための「学科調査」に従事していた。 本史料は、その一環として小十郎が提出した、京都大谷中学校の学科規則改正案である。彼の初仕事だったのだろうか。井上文相の加筆を受 けた記念として、小十郎の手元で大切に保管されていた。 日本女子大学校は1901(明治34)年に成瀬仁蔵に よって創立された日本初の私立の女子高等教育機 関である。小十郎は、1898(明治31)年5月から創 立事務幹事長として同校の創立事業にかかわって いた。 幹事長としては実質2ヶ月ほどのかかわりであっ たが、その後も成瀬との交流は続き、寄付などの 形をとった協力が続けられた。 『教育報知』539号に掲載された小十郎の論考。 ここで小十郎は、欧米社会のような格差社会を日 本にもたらさないための方法として、中等階級の ひとびとへ向けた実業知を授ける教育の必要性を 説いた。こうした、高いレベルの「実業人」による 企業社会の成長を目的にした教育を行うべきとの 考えからは、京都法政学校につながる小十郎の教 育観をはっきりとうかがうことができる。
34 文部属当時起案ノ原議
1893(明治26)年9月21日 (立命館大学平井嘉一郎記念図書館 所蔵)36 成瀬仁蔵
(日本女子大学 所蔵)35 日本女子大学校創立事務所日誌
1893(明治26)年5月3日(発行元 日本女子大学)37 中等教育の拡張
1897(明治30)年 (国立国会図書館 所蔵)加島屋時代
商業部理事 1899(明治32)年2月1日 賞与給付 1899(明治32)年7月 下の広岡浅子の書簡に対応する辞令。 小十郎は加島屋「商業部」の理事に就 任し、約半年でその成果に対する特 別報奨が与えられた。小十郎の経営 者としての手腕を示す史料である。 1898(明治31)年の政界変動の余波をうけた 小十郎は、予期せぬかたちで官界を去ることに なった。日本女子大学校創設の関係から、大阪 広岡家の加か島じま屋やへ入社した小十郎は、実業家と して大同生命保険株式会社の創業に主導的な役 割を果たした。 近年発見された史料で、小十郎が同家の従業 員教育を担っていたことが明らかになった。小 十郎は社内に夜学を設置し、公立学校へ通えな かった丁稚や手代のために、“開かれた学びの場” を提供していたのだった。 加島銀行の広岡浅子は、成瀬仁蔵に中川小十郎の働きぶりを書き送っていた。 これによると、小十郎は加島屋の経営改革案として、「商業部」の設置や、利益を度外視した、会社の社会的「信 用」の上昇を優先させることを提案していたようである。広岡浅子も小十郎とよくよく相談のうえ、改革に 従事していくつもりだった。こうした小十郎の提案は、のちに大同生命保険の創業へとつながっていく。39・40 辞令
42 成瀬仁蔵宛 広岡浅子書簡(複製)
1898(明治31)年12月13日 (日本女子大学 所蔵)38 加島銀行
41 広岡浅子
(大同生命保険株式会社 所蔵) 広岡家前途之方針、中川之考ト 我々之考ト大差ハ無之様存候。中川之 方針トシテ陳述セシコト左ニ、 三ケ年若クハ五ヵ年間ハ少々利益ナキモ 拡張ヲ図リ信用ヲ専ニ注意スルコト。 「商業部」 ヲ来一月ヨリ必ス設置スルコト。 追々ハ政界トモ連絡ヲ通ゼザルベカラズ。加島屋社員47名の記念集合写真。台紙裏に「明治参拾二年 一月八日午後一時半加島銀行庭前ニ於テ写之」とある。 中央に、広岡家本家主人(9代目久右衛門正秋)とならんで 理事の中川小十郎、支配人の祇園清次郎など幹部社員がな らぶ。前列には丁稚だろうか、まだあどけない顔をした子 供たちが写っている。彼らは小学校を卒業(ないし中退)し て、加島屋に奉公に出されていた。小十郎は彼らの向学心 を満たすための夜間教育機関を社内に設置したのだった。 1900(明治33)年 春陽堂刊 加島屋の広岡浅子は、「草鳥寮」という社員教育機関 を設置していた。同時代に執筆された広岡浅子の伝 記記事によって、中川小十郎が「草鳥寮」の寮長で あったこと、また、小十郎のアイデアで、仕事終わ りに番頭、丁稚が学べる夜学が設置されていたこと が明らかになった。 こうした小十郎の教育実践は、京都法政学校の雛形 となっていったと考えられる。
43 加島屋社員 集合写真
1899(明治32)年1月8日44 佐藤得三 『名流の面影』
台湾銀行時代の中川小十郎と南方経済進出
小十郎が台湾銀行に勤めた大正年間は、台湾銀行にとって 特別な時期であった。第一次世界大戦により、アジア経済圏 における欧州勢力の影響力が後退し、この機に台銀が南方へ と経済進出することが新たな目標となったのである。 この状況下において、小十郎はいかなる活動をしていたの か。それを知る手掛かりとして、1920(大正9)年2月13日に 小十郎から下村宏台湾総督府民政長官に宛てた一通の書翰 (中川家史料 10009)を紹介する。本史料では、小十郎が下 村に堤林数衛という人物を紹介している。堤林とは、当時の ジャワ島のスマラン茶商公会特派員である。彼は、台湾現地 人の民間団体である茶商公会の設立功労者たる郭春秧と「提 携して輸出入業に従事せられ同地(ジャワ)に於ける我か代表 的有力者」であった。茶商公会は、第一次世界大戦勃発後、 茶需要が急増した機に乗じて南方への輸出を推進し、利益を 得ていた。特に蘭印(オランダ領東インド)における包種茶の 輸出活動は、目を見張るものがあった。しかしこれを危惧し た蘭印政府は、国内産業保護政策として外国茶の輸入を禁止 する。台湾全体の経済にも影響する大問題であった。これに 対して郭・堤林は、蘭印政府をはじめ、「禁輸解禁の為に(中 略)当地に於て多方面とも交渉」し、運動を行ったのである。 総督府とも提携し、台銀の南方進出の一助となっていた茶 商公会の危機に対して、小十郎は手を差し伸べる。小十郎は 下村に対して「御行見の上事情御聞取り下され同君の願意徹 底致候様特別の御援護切に願上候」と依頼した。さらに、「台 湾銀行も同茶商公会の援助者たる関係もある」として、「今回 の解禁運動に付ても相応に協力致し度と存し山成(喬六:台 銀)理事の方へも別に一書差出置き候間、御都合により協力 運動方山成理事へ御下命下され度」と要請した。小十郎は、 総督府と台銀が連携し、茶商公会を援助するよう下村に交渉 したのである。結果この運動は功を奏し、禁輸命令は撤回さ れた。このように南方経済圏の確立に向けて積極的に斡旋し ていることは、台銀時代における小十郎の活動を示す一端と なろう。 (十河 和貴)京都法政学校の創立
加島屋が京都で経営する朝日生命保険の副 社長となった小十郎は、新しい学校づくりへ 乗り出した。文部官僚時代から構想し、加島 屋で経験した「実業人」育成というアイデアを より大きな形で実現すべく、1900(明治33) 年6月、鴨川河畔の清せい輝き楼ろう(旧 大和屋旅館)の 一室で、京都法政学校を開校した。「学びた いものはどこまでも個人主義で学んでほし い」、教育の機会均等を語る小十郎のこの言 葉は、いまの立命館に息づいている。 中川小十郎が起草した京都法政学校の 創立予算書。ここからは当初の学校創 立構想が垣間見える。校主の上には名 誉校長が置かれ、これは、京都帝国大 学の初代総長木下広次に依頼する予定 だったようだ。賛助人には田中源太郎 (京都銀行創立者の一人)の名もみえる。 付属の書簡は小十郎の部下だった西田 由が、三井物産の河原林樫一郎に法政 学校創立の助力を願い出たもの。京都 法政学校が京阪神の実業家の協力で創 立されたことがうかがえる。 京都府より出された私立京都法政学校設立認可書。 立命館が定める創立記念日は、法政学校開校日の6 月5日、設立認可申請日の5月4日と何度か変遷して きたが、現在は、設置認可が下りた5月19日を創立 記念日にしている。 1900年に設立認可を受けた京都法政学校は当初、夕 方から夜間にかけて開校される夜間学校だった。こ れは、同校の講師のほとんどが京都帝国大学の教授、 講師たちによって行われていたためである。開学当 初を回想する学生の言葉からは、向学心に沸き立つ 学生の熱気と教室を灯すランプの油煙が呼応した、 ノスタルジックな学びの空間が浮かび上がってくる。46 京都法政学校創立予算書
1899(明治32)年10月25日47 私立京都法政学校設立認可書(複製)
1900(明治33)年5月19日 (立命館大学平井嘉一郎記念図書館 所蔵)48 開学当初の京都法政学校
45 清輝楼
京都法政学校の講義録。小十郎の学校創立のねらいは、実業者へ向けた 教育の場の提供だった。学びたいと考えている実業者は全国にいる。中 川小十郎は、京都帝国大学の教授らによって行われている京都法政学校 の講義の様子を講義録として刊行し、学びの裾野を広げようとしたのだっ た。また、こうした講義録刊行事業には、中川小十郎の教育理念と学校 経営の手腕の両面がよくあらわれている。 京都法政学校は1903(明治36)年に京都法政専門学校に改組。史料はその 時期のもの。 1903(明治36)年7月第一回卒業生に授与された卒業証 書。各学科の各人ごとの科目にもとづいて修業の認定 をおこなっている。 「民法」や「商法」、「民事・刑事訴訟法」など実用の専門 学の履修状況がうかがえる。(書林「法蔵館」西村七兵衛 氏旧蔵資料) 当時の史料をもとに開校当時の教室内を再現した模型。京都法政学校 は清輝楼という料亭の一室を間借りして開校した。1901(明治34)年に は、京都御所清和院御門に近い広小路に校舎を移転した。
49 清輝楼模型(内観)
50 清輝楼模型(外観)
51 京都法政専門学校講義録
(立命館大学平井嘉一郎記念図書館 所蔵)52 卒業証書 京都法政学校第一回卒業生
1903(明治36)年7月10日小十郎は京都法政学校創立後も、樺太庁、台湾銀行 とさまざまな場所で活躍していた。彼が立命館(1913 年に京都法政大学から改称)総長に就任し、その事業 に専念するのは、1931(昭和6)年からだった。 この史料は夜間部学生へ向けた講話録である。「学び はどこまでも個人主義で」と語っているところは興 味深い。小十郎は学園の「園丁」として、学生の自己 実現のための学びを支援することを誓っている。 1913(大正2)年、財団法人「立命館」の設立と「私立 立命館大学」への名称変更に際し、西園寺公望から祝辞と して寄せられたもの。現在、扁額「立命館由来記」として学宝に指定されている。 由来記の内容については、下記の通り。
53 総長講話
1930年代54 立命館由来記(複製)
1913(大正2)年12月13日 明治の初めに、 私(西園寺) は京都に 「立命館」 と い う 塾 を つ く り、 学 問 を 学 び 国 家 に 有 為 な 人を育てようとした。 その後故あって閉校し、 名前が残っているだけだった。 数 年 前、 中 川 小 十 郎 君 が 京 都 法 政 学 校 を 創 る と き、 「 立 命 館 」の 名 前 を 扁 額 に し た い と 頼 ん で き た。 私 は 中 川 君 の 志 に 喜 ん で こ の 三 字 を書き与え、人材育成の目的を託した。 中 川 君 は、 私 が 明 治 維 新 の と き に 山 陰 道 を 守 る た め に 丹 波 に 向 か っ た 折、 私 の 部 隊 に 加 わった中川禄左衛門の息子である。 最 初 に 書 い た 扁 額 は 火 災 で 焼 失 し て し ま っ た け れ ど も、 学 校 は そ の 後 発 展 し、 中 学 校 を 附 属 し、 今 回 財 団 法 人 に 改 組 す る こ と に な っ た。 そ の 際、 以 前 私 が 書 き 与 え た「 立 命 館 」を 財 団 法 人 の 名 前 に す る こ と に な り 大 変 う れ し く 思 っ て い る。 今 日 の 学 問 の 姿 は 当 時 と 違 う か も し れ な い が、 学 問 は 知 識 を 得 る だ け で な く、 人 間 性 を 高 め 国 の た め に 尽 く し 何 事 に も 全 力 で 取 り 組 む こ と に よ っ て 実 を 結 ぶ も の で あ る と い う 考 え 方 は 今 日 の 学 校 で も 忘 れ て は な ら な い と 思 う。 こ の こ と を 財 団 法 人 立 命 館 の 成 立 に あ た っ て 名 前 の 由 来 と し、 祝 辞 と し たい。樺太と実業家 中川小十郎
1908(明治41)年、中川小十郎は樺からふと太庁に第一部長として赴任、1912(大正元) 年に去るまで同島の経営に尽力した。 教育方面では、各地の小学校へ寄付をおこない、小学校の普及につとめた。 また、樺太神社創立にあたっては事務主掌を務め、小十郎の提案により並木道(中 川並木)が整備され、いまなお人々のいこいの場となっている。 こうした事業は1909(明治42)年の樺太視察により培った見識に裏打ちされたも のであった。開発・経営の緒についたばかりの樺太にとって、実地の経験と理論 をすり合せて行くことはきわめて重要で、小十郎の実業経験が大いにいかされた。 実業家 中川小十郎の側面が大いに発揮されたのは、産業開発の分野であった。 手つかずの天然資源であった樺太の林野は、建材として活用されだしてはいたが、 小十郎はその端材の工業利用について調査している。明治に入り注目されだした 技術(乾かんりゅう留)と、その採算性を気にかけていたようだ。あるいは、産業の基礎とな る鉄道の敷設の最終局面にも、鉄道事務所長として立ち会っていた。 また、小十郎は貧民救済の施設である慈恵院の理事にも名を連ねる。財団法人 として設立されたこの機関は、島内唯一の救療施設であった。これをあえて民間 に託すことは、富者による慈善の行動をうながす意味があった。 一見、関係のないこれらの事業であるが、ここには小十郎一流の現状を踏まえ、 専門的な知見にもたより、その真価を見極めるという実業的な思考がいきている。 『樺太写真帳』上 1910(明治43)年 日露国境標石に腰掛ける中川小十郎。写真に見 えているのは、日本側の碑面で、ロシア側には ロシア帝国の双頭の鷲のマークが刻まれていた。 内閣書記官兼総理大臣秘書官から樺太庁事務官への転任 を命じる辞令。 樺太庁は1907(明治40)年4月1日の樺太庁官制の施行に より設置された機関で、小十郎はその最初期に赴任した ことになる。 樺太庁に赴任した小十郎は、第一部長に任命された。 赴任当時の第一部は教育、商工業、水産、警察などを所 管する部局。長官である平岡定太郎(三島由紀夫の祖父) のもとで産業からインフラ、官庁業務まで手広い範囲を 担当していた。 開市間もない樺太・豊原へ、小十郎は夫妻で移った。 写真は1909(明治42)年2月、吹雪の後に官舎前で 撮られたもの。 1907(明治40)年、それまで敷かれていた軍政を解 消し、樺太庁官制が施行される。これに伴い、樺太 を所管する樺太庁が設置された。所在地である豊原 も、官制施行にあわせて造成された都市であった。 写真は、市内南東部に所在していた樺太庁庁舎。 庁舎左に足場囲いがみえること、庁舎前が荒涼と した状態であることから開庁間もないころのもの であると推察される。55 国境巡視中の中川一部長
56 辞令(任 樺太庁事務官)
1908(明治41)年7月6日57 辞令(補 第一部長)
1908(明治41)年7月6日58 雪中の中川夫妻写真
1909(明治42)年59 樺太庁庁舎
『樺太日日新聞』1931(昭和6)年1月5日、 1面(国立国会図書館 所蔵) 小十郎の樺太東西海岸視察に随行し た葛西猛千代による回顧記事。 1909(明治42)年7月4日~27日まで 西海岸を、8月5日~22日までかけ、 東海岸の各所をめぐり、生活実態・ 教育・産業について調査が行われた。 回顧記事は昭和期に入り掲載された ものであるが、視察の日程や視察先、 小十郎の動向・関心などがよく分か る史料となっている。 各地のアイヌ惣代と樺太日日新聞、 樺太庁員などの集合写真。前列左か ら3番目が樺太日日新聞社長の脇田 嘉一。2列目1番左の白いスーツ姿 の人物が葛西。 小十郎に対し、アメリカへの調査出張を命じるもの。 6月13日に樺太豊原を発った小十郎はいったん東京に立ち寄り、 横浜から海路アメリカを目指した。7月8日にサンフランシスコ に到着すると、以降はシカゴ、デトロイト、ニューヨーク、ワ シントンなどを歴訪。8月18日に横浜に帰着したと推定される。 実に2ヶ月にもわたる調査出張であった。 1910(明治43)年7月27日 (立命館大学平井嘉一郎記念図書館 所蔵) 「四十三年七月廿七日 於 紐育 謄写ス」と記される。便箋は現在も 営業している、タイムズスクエアにあるホテル アスター・ニューヨー クのもの。宿泊先だったのだろうか。 書かれている内容は、空気を遮断して熱を加えることにより木材か ら木炭・タールなどを精製する技術(木材乾留)について。小十郎は 「古来ヨリ行ハルヽ炭焼事業ノ発達セルモノニシテ木材利用ノ化学工
60 中川小十郎氏
巡視随行記
61 東西海岸視察行程図
63 出張命令書
1910(明治43)年6月6日62 アイヌ惣代等記念写真
64 木材乾餾及蒸餾 原稿
「明治四十四年七月調製 樺太庁第一部土木課」による樺太地図。ペンで「四十四年度 伐採箇処」「承認区域」が書き込まれている。豊富な資源として注目された樺太の林 野であったが、無尽蔵な利用は固く戒められていた。そのため、資源を有効に活用 できる木材乾留が注目されたのである。 薬学に精通した技術畑の人物である塚越卯太郎が小十郎に送った書簡。 宛名は「中川一部長」となっており、職務上の関係からの書簡のやり取 りであると推測される。 その内容は、木タール処理の方法やアセトンについてで、いずれも乾 留事業に関するもの。かなり専門的な内容がやり取りされている。 1939(昭和14)年3月1日、日本工業倶楽部会館にて行われた樺中出身者懇談会の記 念写真。前列中央が小十郎。左隣には、第二部長として小十郎と樺太経営にあたっ た尾崎勇次郎、さらにその左には豊原乾留工場長嘱託であった塚越卯太郎が並んで いる。 小十郎の右隣の人物は大学予備門の同級生であった太田達人。太田は樺太庁中学校 の校長を勤めた人物で、夏目漱石「硝子戸の中」にも友人Oとして登場している。 鉄道全通式は盛大に行われた。朝から花火があがり大泊、栄浜の両端 から出発した賓客列車の到着をまって余興、式典が開始された。豊原 駅には蕎麦、寿司、汁粉などの模擬店がならび、喜劇の余興も行われ た。本写真は、その式典風景を写したものであると推察される。 『樺太日日新聞』 1912(明治45)年7月22日、1面 (国立国会図書館 所蔵) 軍政期に大泊―豊原間に敷設された軽便鉄道は、樺太庁期に入り普通鉄道に改 築。1912(明治45)年7月22日には大泊―栄浜間全通とあいなった。小十郎は 同年4月に鉄道事務所長に任命され、鉄道事業の締めくくりを担った。 式典冒頭の式辞において小十郎は「産業の振興は基礎を交通機関の整備に取る 就中鉄道敷設のことなる人文開発の前提にして拓地殖民の先駆たり」と鉄道全 通を祝している。
65 樺太地図
1911(明治44)年66 中川小十郎宛 塚越卯太郎書簡
67 樺中出身者懇親会記念写真
1939(昭和14)年3月1日69 鉄道全通式式典風景
68 拓殖鉄道全通式
1912(大正元)年8月29日 島内唯一の救療施設である慈恵院 の登記簿。「博愛慈善ノ主義ニ依リ 自活シ得サル者ヲ救済シ天恵ヲ全 ウセシムルヲ目的」としたこの施設 の理事に小十郎も名を連ねている (八 理事ノ氏名住所)。 運営資金の出処について「賛助員ノ 拠出金」「篤志者ノ寄附金」が「官庁 ノ下付金」よりも先に記載されてい る点に注目したい(七 出資ノ方法)。 (立命館大学平井嘉一郎記念図書館 所蔵) 樺太慈恵院の経営に関して小十郎が述べた文章。慈恵院は「同 胞相憐」の道徳的観念に基づき経営されるべきである、との主 張が繰り広げられている。小十郎の考えでは樺太庁費により同 院を維持するということは、法律の力により道徳上の美徳を隠 蔽することに他ならなかった。 慈恵院の設立と時を同じくして樺太を去ることとなった小十郎 であるが、自身の生存中はできる限りの援助をすることを申し 添えている。
70 樺太慈恵院登記簿
72 樺太慈恵院経営に関する意見(草稿)
71 樺太慈恵院
平岡定太郎と中川小十郎
1908(明治41)年、中川小十郎は樺太庁に赴任する。この 時期は、軍政から樺太庁制に切り替わり、ようやく長期的展 望で様々な事象が動き出す、始動期にあたるものであった。 この当時、樺太庁は二部制をとっており、第一部を中川が、 第二部を尾崎勇次郎がまとめ、樺太庁長官は平岡定太郎が務 めた。しかし、実際には長官は議会や中央政府との交渉のた め樺太を空けることが多く、その際には第一部長がその任に あたることとなっていた。その点で、第一部長は長官に次い で樺太庁を支える重責を担うものであった。 ところで、この樺太庁のツートップ―中川と平岡が東京大 学予備門(第一高等中学校)の同級生であったことは意外と知 られていない。学生時代から時を経て、はるか北の地でかつ ての同級生がともに働くことになったのである。 そのときの印象を大阪朝日新聞の記者であった高原操が 『極北日本』に書き残しているが、平岡は「『斯うする積り』、『あ アする積り』つまり『積り/\』話で、雪達磨見たやうな」、遠 大な構想を広げるタイプであったようである。対する中川は、 加島屋などの実業界を経験した実務畑の人間であり、お互い によく補いあっていた。 鉄道院総裁であった後藤新平にあてられた杉山茂丸書簡 (『後藤新平書簡集(DVD版)』299-65)には、樺太の鉄道敷設 に奮闘する平岡の姿が垣間見えるが、平岡の描いた計画は独 力では実現不可能なもので、平岡を慮る杉山の言には鬼気迫 るものがある。 さて、この鉄道計画がどうなったのかというと、1912(明 治45)年4月に中川が鉄道事務所長に任命され、同年7月大泊 から栄浜にいたる全線が開通。ひとまず鉄道整備は完了する。 これが平岡の壮大な計画図のいかほどまでを実現したものか は分からないが、実務畑の中川の存在は樺太経営を遂行する ためにはなくてはならないものであった。また、苦労も多かっ たであろう樺太時代であるが、中川の顔はそれまでのどの時 代より「面白うなつて福々して」いたと知己である高原が述べ ており、充実した日々を送っていたようである。 (眞杉 侑里)西園寺の秘書として
戦前昭和期、西園寺公望は「最後の元老」として国政に携わり、重責を担った。その西園 寺を公私にわたり支え続けたのが中川小十郎である。 西園寺の秘書として小十郎は、貴 重な政治情報のやりとりを行い、政治家と西園寺とのパイプ役を担った。同時に、西園寺 が病気の際は、身辺の世話もした。西園寺の死去まで、小十郎は何度も京都と興津坐漁荘 (西園寺の別荘)の間を往復し続け、心身にわたり西園寺を支え続けた。小十郎の実直な性 格は、西園寺はじめ多くの人々から信頼されていたのである。 当時宮内大臣であった一木喜徳郎から中川小十郎に宛てた書簡。一木とは 学生時代からの旧友であり、交流が続いていた。この私的ルートを通して 西園寺の病状などの情報が伝達されていたことがわかる。元老である西園 寺の病気は、政治と直結する大問題であった。一木が小十郎の健康を気遣 うほどに、西園寺に対する小十郎の奉仕は格別であったのである。 民政党の領袖・山本達雄は、浜口雄幸首相遭難事件直後に小 十郎に書簡を送った。このとき小十郎は、時局を非常に心配 している西園寺の身辺で世話をするため、興津に滞留してい た。その苦労をねぎらう内容である。国家の非常時において、 小十郎は西園寺の側を片時も離れようとはしなかった。また 同時に、元老と政界上層部との連絡役をも果たしていたとい 西園寺の晩年、小十郎は西園寺の病気平癒を願い、一株の富 士桜を興津の坐漁荘に贈った。植樹の趣味を持つ小十郎なら ではの贈り物である。西園寺はこれを大いに喜び、すぐに庭 に植えさせた。この後、西園寺の病気は一時回復するも、同 年11月に死去する。小十郎の厚情で満ち溢れた桜は、西園寺 の最期を暖かく見守った。 1927(昭和2)年時点までの内 閣の形態を中心に、政権の移 動を系図にして表わしたもの。 「我国に於て立憲制の政治組織 を出現するに至った迄の事情 を知ることが、其後に於ける 事態の因て生ずる原因を明に する為に必要であり、又其形 式が出来て其運用が之に伴は ない事由を察知する上に、頗る必要」であると小十郎はいう。幕末からの 歴史を通観し、現在の到達点を再確認しようという小十郎の意思が読み取 れる。また、これを作成した時期は、小十郎が最も期待していた田中内閣 であったことから(十河論文参照)、田中内閣が一つの到達点であるという ことを示す目的があったという見方も可能であろう。 小十郎は、1935(昭和10)年より「明治・ 大正・昭和 三朝政権移動史」の著述 に着手した。常に政治の中心にあり続 けた西園寺のそばに仕えた小十郎は、 明治から昭和初期にかけての政権交代 時の様相を、後世に残そうと考えた。全 227章という膨大な量の著述は、当時の政局の様子を知る上できわめて貴重 な史料となっている。これは後に、中川小十郎著、後藤靖・鈴木良校訂『近代 日本の政局と西園寺公望』(吉川弘文館、1987年)として発行されている。73 坐漁荘前で取材を
受ける中川小十郎
74 中川小十郎と西園寺公望
77 新聞切抜き「台風一過の坐漁荘」
1940(昭和15)年78 三朝政権移動史
79 三朝政権移動図
1927(昭和2)年11月10日80 中川小十郎宛 山本達雄書簡
1930(昭和5)年11月20日76 一木喜徳郎
75 中川小十郎宛 一木喜徳郎書簡
1930(昭和5)年4月12日素顔にせまる
漢詩の趣味
幼少時代、小十郎は田上綽俊のもとで漢詩を習い、多くの漢詩を詠み残している。 それ以後、漢詩は小十郎の生涯を通した趣味となった。東京遊学時代に詠んだ「立志歌」 や彼が好んだ「寒山詩」などからは、その時々における彼の心情を読み取ることができる。 1882(明治15)年、東京専門学校への入学を ひかえた小十郎が詠んだ漢詩。漢詩は、幼 少期からの小十郎の重要な自己表現であっ た。当時、学問で身を立てるために上京し ていた小十郎は、過去に経験したことのな いような苦しい日々を過ごしていたと想像 される。自分を激励するかのような「立志歌」 には、希望に満ち溢れた未来に向けた、向 上心豊かな若き日の小十郎の心情があらわ れている。 小十郎が幼少時代に学習していた際のノートが 現在も残されている。漢詩の基本的な作り方を 勉強している様子がうかがえる。 中川小十郎が、幼少時代に田上綽俊のもとで詠んだ漢詩を、 1942(昭和17)年に製本したもの。このときに小十郎は、 師匠の田上から「愛山」という号をもらっている。この後も 小十郎にとって漢詩は生涯の趣味となったが、作詞をした のはこの幼少期から青年時代にかけてのものがほとんどで あった。それゆえ小十郎は、「予生涯ノ好記念タルベキモノ ナリ」として大切に保存していた。 「白雲道人」は、小十郎が成人 して後に好んで用いた号。 中川小十郎(重興)が青年時代に詠んだ漢 詩。勉学に苦闘する心境が綴られている。 用紙は襖紙を利用している。年末(歳暮)に はがした襖紙に思いのたけを綴ったこと がわかる。81 「立志歌」
1882(明治15)年10月1日82 少年時代に作りし詩
84 漢詩「歳暮述懐」
85 白雲道人作 漢詩
86 中川小十郎蒐集書画帳
83 中川小十郎重興書画帳
植樹の趣味
植樹もまた、小十郎の趣味の一つであった。 樺太庁在勤時代、樺太神社創立にあたって参道 に植樹事業を行い、「中川並木」と呼ばれる並木 を完成させたことや、関東大震災の記念とし て自邸に檜木立を造った経験が語られている。 植物の成長を見守ることは、彼の教育者とし ての姿と通じるものがあったのであろう。 小十郎が立命館の学生向けに書いたもの。植樹は、単なる趣味に留 まらず、実業面においても植樹の技術を活用していたことがうかが われる。小十郎は植樹のコツとして、「物事は何でも誠実にやれば大 抵のことは失敗せぬ」と語っている。植樹を例に、失敗を恐れず、誠 実さを持って挑戦することの大切さを学生に伝えている。(出典:『立 命館禁衛隊』第65号) 小十郎の学生時代の友人である、作家・夏目漱石の名著「吾輩は 猫である」になぞらえて書いたエッセイ。小十郎の趣味が園芸で あること、園芸の面においても、西園寺の弟子であることなど が内容として書かれている。植樹や園芸など趣味の面でも西園 寺と気心が知れた仲であったことが、西園寺との信頼関係を構 築する上で大きかったことが想像される。 「夜間部在学生への訓話」(中川家史料 11116) の原稿には、植樹の趣味と小十郎の教育理念に 一定の連関性があったことが明確に書かれてい る。はじめに園芸の趣味を通じた業績を訓話し た上で小十郎は、「私は(立命館)学園の総長で あると同時に学園の園丁である」と述べる。自 分は「自然放任主義」であるから、学生に干渉は あまりしない。個々人が「国家有為の材幹」とな るために勉強を通して各々に成長する「場」を設 け、設備を整えることこそが、教育者としての 自分の役割であるという信念を小十郎は持って いたのである。植物が「自然」に成長していくと ころに手を差し伸べ、形を作っていく小十郎の ガーデニング方法は、立命館学園の教育方針に も確かに生かされていたのである。87 現在の中川並木
88 植樹の趣味
1936(昭和11)年6月5日発行89 我輩は園丁である 原稿
教育者・中川小十郎と園芸の趣味
90 中川並木碑
家族とのつながり
小十郎が五十路を迎えた年に、実父禄左衛門に宛てた書簡。ここから十年間 を目途に、一仕事を成し遂げようという決意を父親に述べている。このとき 小十郎は台湾銀行副頭取に就任しており、中央政界から離れた土地でも一層 活躍することを誓っている。養父武平太とともに、実父禄左衛門もやはり小 十郎にとって大切な父親であった。両父への想いを背負って、小十郎は台湾 銀行での仕事に勤しんだのである。 小十郎を支えた人物として忘れてはならないのが、両親である。 時には叱責を受けることもあったが、単身親元を離れた小十郎の身 の上を、 両親は非常に気遣っていた。こうした家族のあたたかさが、 小十郎の努力を陰ながら支えていたのである。 中川小十郎の手による額装であると考えられる。 1914(大正3)年 中川一族を祀る祖霊社の前 での写真。左から2人目が81 歳の中川禄左衛門、左から3 人目が77歳の武平太である。91 実父 中川禄左衛門 肖像
94 養父 中川武平太 肖像
95 中川武平太 愛用の横笛
92 中川禄左衛門宛 中川小十郎書簡
1913(大正2)年1月9日93 中川小十郎 好栄宛 中川武平太書簡
大正期96 中川祖霊社前にて
中川老分の写真
小十郎が台湾に渡航する際に、父・武平太が息子の船中で の旅を心配して送った書簡。万一の時には、同封の御神詠 を三度唱えて海中に投げ込むように指示している。さらに は台湾神社の神符も同封されている。小十郎はこの書簡を、 後年まで「特別の関係のもの」として大切に保存していた。 父の息子を想う気持ちが、小十郎にとって非常に喜ばしかっ たのであろう。小十郎の実母・さきから小十郎に宛てた書簡。さきは東京に遊学していた小十郎へ「わ た入(綿入れ)トはをり(羽織)ト送」った。また、中川家一同が「みな/\無事」である ことを報告し、小十郎を安心させている。親元を離れ、多忙であった小十郎にとって、 母からのあたたかな書簡と贈り物は、大きな活力となったことであろう。 さきは1888(明治21)年に死去している。
97 中川みき(養母)・中川さき(実母)
98 中川小十郎宛 中川さき書簡
年不詳 6月8日中川小十郎の人生観 -息子にあてた手紙から-
中川小十郎の生涯を振り返ると、彼の持つ肩書きの多様さ に驚かされることがある。文部大臣秘書官、大同生命筆頭取 締役、貴族院議員、台湾銀行頭取、立命館大学総長等、様々 な顔をもち、細部まで挙げればきりがない。この経歴ははた からみれば、十分誇り得るものであったように見える。しかし、 中川本人は自分の人生を必ずしも「成功」とは捉えていなかっ た。立命館大学図書館に所蔵されている『暖流』(中川小十郎著、 勝田節子編 1990)の中には息子の重之助に宛てた手紙が収 録されており、そこには正直な思いが綴られている。 1919年12月(当時54歳)、今後の身の振り方について中川は 次のように語っている。「今一たび実業家としてと云ってくれ るが自分には其望みはない。さらばと云って政治家でもない。 徳のない自分、人から誤られやすい自分。」「世から理解されね ば世に立つことも望みがない。」「今後のわれはいったいどうす ればよいのであるか」と自分の立場の曖昧さを悲観しているの である(20頁)。当時台湾銀行の頭取として十分な結果を出す ことができていなかったことも多分に影響しているだろう。 しかも1925年には半分更迭される形で頭取職を辞した。そし て、1930年(64歳)には金銭的には決して恵まれなかった自身 の人生をして、「ああ、今日までの自分の一生は失敗の一生で ある」といい、息子達には同じ過ちを繰り返してほしくないと までいっている(68頁)。実業家や政治家として自身の業績に 対し相当な後悔をしていたといえる。 ただ、中川の人生における事業がすべて失敗だったかとい えばそうではない。『暖流』からは2つの職務に関しては人生 をかけて取り組んでいたことがわかる。1つは西園寺公望へ の「情誼」と献身である。近親者のいない西園寺の私設秘書兼 世話係として中川は晩年には京都から頻繁に興津を訪れてい た。そして手紙の中で「公爵ニ仕フルコトハ生涯ノ勤務」にし たいと述べており(109頁)、西園寺もまた中川を必要とし、最 期には中川に対し当分京都に帰らず興津に滞在してほしいと 引き止めたという。 もう一方は、その西園寺から引継いだ立命館であった。前 の人生を悲観した手紙の中でも「立命館を創立したことはこれ は偶然の仕合せだ。尤も今日猶大成したとは云へないがこれ で二三年盡力すれば基礎は出来るだろう。自分の人格を代表 するものはこの立命館であらう」としている(67頁)。つまり立 命館を成功させることは彼の人生をかけた命題であったので ある。中川は常々書簡で息子達に対し、生涯勉強を続けるこ との重要性を説いていた。学生を終えて社会人となっても人 間は日々勉強し、精進しなければならないという。それは自 身の人生の「失敗経験」から得た生きた教訓であったと思われ る。こうした教育、勉学への思いが立命館の創立にも影響し、 生涯をかけてやり遂げるべき職務となったのであろう。中川 の生前は経営が安定しておらず、個人の財産をなげうって経 営にとりくんでいたようで、その職務が完遂したとは言い難 いかもしれない。しかし、今の立命館大学を見て中川はどう 感じるだろうか。今度こそ満足しうるだろうか。 (寺澤 優)史料名 年 月 日 差出・作成 受 取 所 蔵 史料番号 1 瓶(寒山詩「多少般数人」) 1938 1月16日 立命館大学 平井嘉一郎記念図書館 貴重書庫 2 花瓶(寒山詩「天生百尺樹」) 立命館 史資料センター(井野祝峰氏寄贈) ― 3 花瓶(寒山詩「一為書剣客」) 1938 1月16日 立命館 史資料センター ― 4 軸(寒山詩「一為書剣客」) 立命館 史資料センター 44831 5 山陰道鎮撫使絵巻 立命館大学 6 甲冑 立命館 史資料センター ― 7 従軍木札(両掛) (中川禄左衛門) 立命館 史資料センター 44837 8 山陰道鎮撫使一件史料巻子官軍達書(写) 1868 1月5日 (官軍執事ほか) (人見中川両苗) 立命館 史資料センター 41657 9 山陰道鎮撫使行程地図 立命館 史資料センター ― 10 『越後土産』 中川百介 立命館 史資料センター 43710~11 11 四書 立命館 史資料センター 43712~4371544024~44029 12 (人物相関図)中川小十郎をめぐる人々 立命館 史資料センター ― 13 幼少の中川小十郎と田上綽俊 立命館 史資料センター 30372 14 小学校時代の教科書 立命館 史資料センター 12566~1256812564/ 15 中川武平太宛 田上綽俊書簡 1877 8月1日 田上綽俊 中川小十郎 立命館 史資料センター 21482 16 重興学資預ヶ記 1877 12月 中川武平太(重敬) 立命館 史資料センター 10860 17 中川小十郎遊学地図 立命館 史資料センター ― 18 中川小十郎宛中川謙二郎書簡 1878 9月6日 中川謙二郎 中川小十郎 立命館 史資料センター 12502 19 成立学舎時代の友人たち 2月 立命館 史資料センター 50021 20 『実用経済学』 1890 立命館大学 平井嘉一郎記念図書館 21 大学予備門時代の成績表 東京大学総合図書館 22 石田真平宛中川小十郎書簡 1891 元旦 中川小十郎 石田真平 亀岡市 石田敏 23 帝国大学卒業記念写真 立命館 史資料センター 50521 24 帝国大学卒業証書 1893 7月10日 帝国大学総長 従四位 勲四等 濱尾新 中川小十郎 立命館大学 平井嘉一郎記念図書館 貴重書庫 25 西園寺公望 立命館 史資料センター ―
史料一覧
史料名 年 月 日 差出・作成 受 取 所 蔵 史料番号 26 中川小十郎 立命館 史資料センター ― 27 井上毅 立命館 史資料センター ― 28 辞令 (任 文部属) 1893 7月27日 文部省 中川小十郎 立命館 史資料センター 12752 29 辞令 (任 文部大臣秘書官) 1895 8月27日 内閣総理大臣 従二位大勲位 侯爵 伊藤博文 文部属 中川小十郎 立命館 史資料センター 12763 30 辞令 (任 京都帝国大学書記官) 1897 6月28日 内閣総理大臣 正二位勲一等 伯爵 松方正義 文部省参事官 従七位 中川小十郎 立命館 史資料センター 12786 31 中川武平太宛 中川禄左衛書付 1895 8月 禄左衛門 武平太 立命館 史資料センター 20738 32 随行命令 1896 4月13日 文部省 文部大臣秘書官 中川小十郎 立命館 史資料センター 12772 33 辞令 (辞職勧告) 1898 7月2日 文部大臣 尾崎行雄 文部書記官兼文部省参事官 中川小十郎 立命館 史資料センター 12805 34 文部属当時起案ノ原議 1893 9月21日 井上毅 中川小十郎 立命館大学 平井嘉一郎記念図書館 貴重書庫 35 『日本女子大学校創立事務所日誌 』(復刊) 1898 5月3日 立命館 史資料センター ― 36 成瀬仁蔵 日本女子大学 37 中等教育の拡張 1897 中川小十郎 デジタルコレクション国立国会図書館 38 加島銀行 立命館 史資料センター 30294 39 辞令 (商業部理事) 1899 2月1日 広岡家 加島銀行理事 広岡礦業部理事 中川小十郎 立命館 史資料センター 12813 40 辞令 (賞与給付) 1899 7月 広岡家 理事 中川小十郎 立命館 史資料センター 12815 41 広岡浅子 大同生命保険株式会社 42 成瀬仁蔵宛 広岡浅子書簡 (複製) 1898 12月13日 広岡浅子 成瀬仁蔵 日本女子大学 43 加島屋社員 集合写真 1899 1月8日 立命館 史資料センター 30295 44 佐藤得三『名流の面影』 1900 佐藤得三 立命館 史資料センター ― 45 清輝楼 立命館 史資料センター ― 46 京都法政学校創立予算書 1899 10月25日 中川小十郎 立命館 史資料センター 11309 47 私立京都法制学校設立認可書(複製) 1900 5月19日 京都府 中川小十郎 立命館大学 平井嘉一郎記念図書館 貴重書庫 48 開学当初の京都法政学校 立命館 史資料センター ― 49 清輝楼模型(内観) 立命館 史資料センター ―
史料名 年 月 日 差出・作成 受 取 所 蔵 史料番号 50 清輝楼模型(外観) 立命館 史資料センター ― 51 京都法政専門学校講義録 立命館大学 平井嘉一郎記念図書館 52 卒業証書 京都法政学校第一回卒業生 1903 7月10日 京都法政学校 西村七兵衛 立命館 史資料センター ― 53 総長講話 中川小十郎 立命館 史資料センター 11119/11120 54 立命館由来記(複製) 1913 12月13日 西園寺公望 立命館 史資料センター ー 55 国境巡視中の中川一部長 1910 立命館 史資料センター 30298 56 辞令(任 樺太庁事務官) 1908 7月6日 内閣総理大臣 正二位勲一等 侯爵 西園寺公望 内閣書記官兼 内閣総理大臣 秘書官 従五位 中川小十郎 立命館 史資料センター 12848 57 辞令(補 第一部長) 1908 7月6日 内務省 樺太庁事務官中川小十郎 立命館 史資料センター 12850 58 雪中の中川夫妻写真 1909 2月 立命館 史資料センター 50036 59 樺太庁庁舎 立命館 史資料センター 50164 60 中川小十郎氏巡視随行記 1931 1月5日 葛西猛千代 国立国会図書館 61 東西海岸視察行程図 立命館 史資料センター 62 アイヌ惣代等記念写真 樺太豊原久富 立命館 史資料センター 50077 63 出張命令書 1910 6月6日 内閣 樺太庁事務官中川小十郎 立命館 史資料センター 12857 64 木材乾餾及蒸餾 原稿 1910 7月27日 中川小十郎 立命館大学 平井嘉一郎記念図書館 貴重書庫 65 樺太地図 1911 7月 樺太庁第一部土木課 立命館 史資料センター 10966 66 中川小十郎宛 塚越卯太郎書簡 塚越卯太郎 中川一部長 立命館 史資料センター 10211 67 樺中出身者懇親会記念写真 1939 3月1日 立命館 史資料センター 50535 68 拓殖鉄道全通式 1912 7月22日 国立国会図書館 69 鉄道全通式式典風景 立命館 史資料センター 50159 70 樺太慈恵院登記簿 1912 8月29日 立命館 史資料センター 10982 71 樺太慈恵院 立命館 史資料センター ― 72 樺太慈恵院経営に関する意見(草稿) 中川小十郎 立命館大学 平井嘉一郎記念図書館 貴重書庫 73 坐漁荘前で取材を受ける中川小十郎 立命館 史資料センター 50039
史料名 年 月 日 差出・作成 受 取 所 蔵 史料番号 74 中川小十郎と西園寺公望 立命館 史資料センター ― 75 中川小十郎宛 一木喜徳郎書簡 1930 4月12日 一木喜徳郎 中川小十郎 立命館 史資料センター 10258 76 一木喜徳郎 立命館 史資料センター 30354 77 新聞切抜き「台風一過の坐漁荘」 1940 中川小十郎 中川好栄 立命館 史資料センター 10076 78 三朝政権移動史 中川小十郎 立命館 史資料センター ― 79 三朝政権移動図 1927 11月10日 中川小十郎 立命館 史資料センター 11163 80 中川小十郎宛 山本達雄書簡 1930 11月20日 山本達雄 中川小十郎 立命館 史資料センター 10263 81 立志歌 1882 10月1日 中川小十郎 立命館大学 平井嘉一郎記念図書館 貴重書庫 82 少年時代に作りし詩 中川小十郎 立命館大学 平井嘉一郎記念図書館 貴重書庫 83 中川小十郎重興書画帳 中川小十郎 立命館大学 平井嘉一郎記念図書館 貴重書庫 84 漢詩 「歳暮述懐」 中川小十郎 立命館 史資料センター 44829 85 白雲道人作 漢詩 中川小十郎 立命館大学 平井嘉一郎記念図書館 貴重書庫 86 中川小十郎蒐集書画帳 (中川小十郎) 立命館大学 平井嘉一郎記念図書館 貴重書庫 87 現在の中川並木 立命館 史資料センター ― 88 植樹の趣味 1936 6月5日 中川小十郎 立命館 史資料センター ― 89 我輩は園丁である 原稿 中川小十郎 立命館 史資料センター 11127 90 中川並木碑 立命館 史資料センター 50175 91 実父 中川禄左衛門 肖像 立命館 史資料センター ― 92 中川禄左衛門宛 中川小十郎書簡 1913 1月9日 中川小十郎 中川老大人 立命館 史資料センター 43363 93 中川小十郎 好栄宛 中川武平太書簡 中川武平太 中川小十郎 好栄 立命館 史資料センター 10164 94 養父 中川武平太 肖像 立命館 史資料センター ― 95 中川武平太 愛用の横笛 立命館 史資料センター 30426 96 中川祖霊社前にて中川老分の写真 1914 立命館 史資料センター 50263 97 中川みき(養母)・中川さき(実母) 立命館 史資料センター 50271 98 中川小十郎宛 中川さき書簡 6月8日 中川左喜 中川小十郎 立命館 史資料センター 30283
中川小十郎 関係年表
年 月 出来事(網掛けは小十郎に関する事柄) 1866 慶応2 1 中川小十郎 京都府丹波国桑田郡馬路村(現 亀岡市馬路町)に誕生(1月4日) 1867 慶応3 * 1868 明治元年 1 西園寺公望 山陰道鎮撫総督 中川禄左衛門、武平太、百介ら「弓箭組」従軍 1868 明治元年 6 西園寺公望 会津征討越後口総督府大参謀 1869 明治2 9 西園寺公望 私塾「立命館」を創始 1870 明治3 4 私塾立命館に差留命令(私塾立命館の閉鎖) 1871 明治4 3 西園寺公望 フランスパリに到着 フランスパリコミューンの成立宣言 1872 明治5 * 1873 明治6 中川小十郎 馬路村小学校通学(推定) 1874 明治7 田上綽俊(しゃくしゅん) 馬路村に招聘される 1875 明治8 田上綽俊 馬路村小学校校長 就任(致遠館小学校と改称) 1876 明治9 * 1877 明治10 3 中川小十郎 馬路村 致遠館小学校下等科 卒業(推定) 1877 明治10 12 中川小十郎 田上綽俊について京都遊学 1878 明治11 3 中川小十郎 田上綽俊に随従し能登七尾へ行く 1879 明治12 9 中川小十郎 上京 叔父中川謙二郎宅に寄寓東京府第一中学(現 東京都立日比谷高校) 入学 同級生に塩原金之助(夏目漱石) 1880 明治13 8 西園寺公望フランス留学から帰国(横浜港) 1881 明治14 12 中川小十郎 東京府第一中学を退学 成立学舎(予備校)に通う 1882 明治15 10 中川小十郎 立志歌を詠む 1882 明治15 11 中川小十郎 東京専門学校(現在の早稲田大学) 入学 1883 明治16 * 1884 明治17 9 中川小十郎 東京専門学校 退学 東京大学(明治19年より帝国大学)予備門 入学 同級生に塩原金之助(夏目漱石)、平岡定太郎、太田達人、南方熊楠など 成立学舎の出身者が中心になり中川小十郎、夏目漱石、中村是公、太田達人、佐藤友態、橋本左五郎らとともに 「十人会」を組織する 1885 明治18 * 1886 明治19 * 1887 明治20 * 1888 明治21 * 1889 明治22 7 中川小十郎 第一高等中学校(旧 予備門) 卒業 帝国大学(現東京大学)法科大学法律学科 入学 1889 明治22 9 中川小十郎 帝国大学法科大学政治学科へ転籍 1890 明治23 中川小十郎 R・ボーカー『実用経済学』を翻訳 冨山房より刊行 1891 明治24 * 1892 明治25 * 1893 明治26 7 中川小十郎 帝国大学法科大学政治学科卒業 文部省 入省 1894 明治27 西園寺公望 文部大臣 就任 1895 明治28 中川小十郎 文部大臣秘書官 就任 1896 明治29 1 西園寺公望文部大臣 「東京及ビ京都ノ帝国大学基本金トシテ交付セラレンコトヲ請ウ」と演説 1897 明治30 3 成瀬仁蔵を中心として日本女子大学校創立発起人会 結成 1897 明治30 6 京都帝国大学設立 初代総長木下広次 中川小十郎書記官(初代事務局長) 1898 明治31 5 中川小十郎 日本女子大学校創立委員会幹事長 就任 1898 明治31 7 広岡浅子、成瀬仁蔵を介して中川小十郎に加島屋(広岡家の屋号)の再建を依頼 1899 明治32 2 中川小十郎 広岡家鉱業部理事(大阪) 就任 1899 明治32 2 中川小十郎 株式会社堂島米穀取引者監査役(大阪) 就任(月は推定) 1899 明治32 4 中川小十郎 真宗生命株式会社筆頭取締役(大阪) 就任 1899 明治32 6 中川小十郎 真宗生命改め朝日生命保険株式会社、筆頭取締役副社長(大阪) 就任 1899 明治32 10 京都法政学校創立事務所(朝日生命保険本社 京都市六角麩屋町西入ル) 設置 1900 明治33 5 中川小十郎 私立京都法政学校 創立 1900 明治33 6 私立京都法政学校、上京区東三本木丸太町上ル仲之町の仮校舎(清輝楼)で開校 1901 明治34 12 仮校舎から、上京区清和院口寺町東入ルの広小路新校舎に移転 1902 明治35 3 中川小十郎 朝日生命、護国生命、北海生命合併成功さす 大同生命(現 大同生命保険株式会社)とする 同社筆頭取締役就任年 月 出来事(網掛けは小十郎に関する事柄) 1902 明治35 9 中川小十郎 加島銀行理事、大阪堂島米穀取引所監査役 辞任 1903 明治36 3 中川小十郎 大同生命保険株式会社 退社 1903 明治36 6 中川小十郎 京都帝国大学書記官 再任用 1903 明治36 * 1904 明治37 * 1905 明治38 4 西園寺より「立命館」の名称継承の許諾を得る 1905 明治38 4 西園寺より「立命館」の大扁額を寄贈される 1905 明治38 9 私立京都法政大学附属普通学校として「私立清和普通学校」を創立 1906 明治39 1 第1次西園寺内閣 成立 1906 明治39 4 中川小十郎 総理大臣秘書官 就任 1907 明治40 * 1908 明治41 第1次西園寺公望内閣 総辞職 1908 明治41 7 中川小十郎 樺太庁第一部長 任官 1909 明治42 * 1910 明治43 * 1911 明治44 8 第2次西園寺内閣 成立 1912 明治45大正元 9 中川小十郎 樺太庁第一部長 辞職 台湾銀行副頭取 就任 1913 大正2 12 中川小十郎 財団法人立命館理事 就任 1914 大正3 * 1915 大正4 * 1916 大正5 9 中川小十郎 京都市長候補に選任されるも、固辞 1917 大正6 * 1918 大正7 * 1919 大正8 * 1920 大正9 8 中川小十郎 台湾銀行頭取 就任 1921 大正10 * 1922 大正11 * 1923 大正12 * 1924 大正13 * 1925 大正14 8 中川小十郎 台湾銀行頭取 辞任 立命館館長職に専念する 1925 大正14 12 中川小十郎 貴族院議員 就任 1926 大正15昭和元 * 1927 昭和2 * 1928 昭和3 4 寄附行為改正、総長制を廃して館長制を制定中川小十郎 館長 就任(1929年2月まで中学校長を兼務) 1929 昭和4 * 1930 昭和5 * 1931 昭和6 7 職制改正、館長を総長と改称中川小十郎 初代総長 就任 1932 昭和7 * 1933 昭和8 8 中川小十郎 中学校・商業学校両校校長を兼任(1941年まで) 1933 昭和8 9 京大瀧川事件で退官した教授・助教授ら18名を招聘 1934 昭和9 * 1935 昭和10 * 1936 昭和11 * 1937 昭和12 * 1938 昭和13 * 1939 昭和14 * 1940 昭和15 11 西園寺公望 死去(11月24日)<満90歳> 1940 昭和15 12 西園寺公望を学祖とすることを決定 1941 昭和16 * 1942 昭和17 * 1943 昭和18 * 1944 昭和19 10 中川小十郎 死去(10月7日)<満78歳>