Author(s)
石原, 清香
Citation
沖縄史料編集紀要 = BULLETIN OF THE
HISTORIOGRAPHICAL INSTITUTE(35): 75-97
Issue Date
2012-03-30
URL
http://hdl.handle.net/20.500.12001/10284
近世琉球の傾城
と
統
制
令
―
傾城証文を中心に―
石原
清香
はじめ に 近世琉球の遊女 に つい て の 研究は 伊 波普 猷 「 尾類の 歴 史」に 端 を発す る 。 伊 波 氏 は 、 「渡地遊廓」 の成立年代は不明と し つつ 「辻 ・仲島遊 廓」が 一 六七 二年 に 王 府により設置され 、 そ の設置 理由は「他国人や離島の人 や田舎の人を相手 にさせる 」ため と 指 摘して い る ( 一 ) 。琉 球に おけ る遊里や 遊 女 を め ぐ る 統制 令 に 関して は 『羽 地仕 置 』 など を 紹 介し 、 近 世から 大 正期に至るまで 終 始、取 締りが貫 徹し 得なか っ たこ とを 指 摘 して い る 。こ のほか 、 主に 「冊封使録」から唐人 と の 関係の 概 要 を 、 ま た「羽地 家 家之 傅 物語」や 伝承か ら 薩摩人と の関係につい て述べて おり、その後の 遊女研 究 の多 くが 伊波氏の 成果 を踏襲して い る ( 二 ) 。 しかし 、 近年 で は 新たな視点で遊 里 や 遊 女 を めぐる状況 が 考察 され 始 め て い る 。 例 え ば 、 照 沼 麻 衣 子 氏 は 辻 や 仲 島 、 渡地 の 遊 里 はそれ ぞ れ自然 参 集的に 発 生したととらえ、 特に渡地に つ い て は 『球陽』など に記録された思案橋の 由来の記述から、 島津の琉 球 侵攻、 す なわち 一 六 〇 九 年 以前 から遊女 が存在していた可能性を 指摘している ( 三 ) 。こ の こ と は 、 「 王 府 に 設 置 さ れ た 遊 廓 」 か ら 「 自 然参集した 遊 里」へ 位 置づけ が 変 わ り 、 新たな視 点で その 制度を 見直 す必要 を 示唆 し て い る 。 ま た 、真栄平房昭氏 は 、琉球 ・ 薩摩間の人的交流に着目し、薩 摩藩から派遣され る役人と 琉球の女 性 と の 関 係の諸相 を明らかに して いる ( 四 ) 。 さ らに、 豊 見山和行氏は近世琉球の身分制を分析しな がら 、父親 が 士 族 身分 で あ っ て も、母 親 が 「 傾 城 」 、 ま た は 薩 摩 けい せい 人 ・ 唐人 と交際 し た 場 合 に は、そ の 子 ど もは 百 姓 身分 と さ れた こ とを指 摘 し て いる ( 五 ) 。 こ の ほ か、渡 辺 美季 氏 は 琉球 ・薩 摩間の 交 流 や 琉 球の身分制を 合わ せて 考察す る なかで琉球の遊女の実 相に 迫 って い る ( 六 ) 。 このよ う に 近 世琉球 の 遊女をめ ぐる研 究 は 新 た な 視 点 で再 検討 され つ つ あ る と い え よ う 。 し か し 、 近 世 琉 球 の遊 女を めぐ る一 連 の統制 令 や 傾 城証文の意義についてはい まだ 検討 の余地 が ある 。 本稿 では以上のような先行研究をふ まえ、 近 世琉球 の 遊女・遊 里 を め ぐ る 統 制 令 の 内 容 と 変 遷 に つ い て 傾 城証 文 に 着 目 して 分析す るこ と で 、 近 世 琉 球 に お け る 民 衆 統 制 の 一 端 を 明 ら か に す る こ と を試 みたい 。 近世 琉 球 に お ける 傾 城 証 文 とは、 士 族 ・ 百 姓 の 別 を 問 わ ず 毎 年提出 を 義 務 づ け ら れ た も の で 、 遊 女 奉公 契約 の意 味を 持つ 近 世 日 本のそれとは 異なり 、 「 傾 城 慰 」を し な い こ と 、 お よ び傾 城に けい せい なぐ さみ な ら な い こ と を 誓 約す るも ので あ る 。ま た、証 文 内容は三 条から なり、傾城 に 関する内容の他に、 薩 摩 藩 から派遣 された役人 へ の 応対 を 丁 寧 に す る こ と 、 薩 摩 役 人 と 掛 売 ・ 掛 買を し な いこ と を 誓 約す るも のがあ る 。 しか し、 証文 の 歴 史 的 意 義 に つ い て 、 伊 波 氏 は 「 この誓 約 書は まっ た く の空文 に 終 わ った ( 七 ) 。 」 と 評 し 、 士 族 た ち は み な 一 様 に 違 反し形だけの 誓 約 だ っ た と 述べて い る ( 八 ) 。 また豊見山氏は一七三五年の『 久 米仲里 間切公事帳 』 と 一八 三 一年の 『 久米仲里間切公 事帳』双 方に収めら れ た傾城証 文の内容 から、王府 が 一貫し て 「傾城禁 圧」を令達 し ていた こ とを明ら か にして い る。その上で 秘密裏 に 「傾城 」 を呼び寄せたり「申し請 け 」 たりし た ことで 罰 せられ た 事例を「琉球評定所僉議」から紹 介し 、 傾 城証 文 の 無 効 性を 示 し て い る 。 さ ら に、 傾城証文 中 に 見 られる「明暦以来度々被仰渡候趣 」 の「明暦 以来」とはどの統制 令を指して い るのかなど 、 解明すべき課題も 指摘して い る ( 九 ) 。 一方で 、 明治の 県 政時代に も県官の間で 私的 な 誓 文とな っ て 残 って い た と 述 べ ら れて いる よう に ( 十 ) 、少な く と も 制 度 と し て は 浸 透 したも の だ っ たと 思わ れ る 。 しかし、全 く 効 果 のない証 文を 提出させ 続 け る だ ろうか。 ま た、 傾城とかかわ る内容以 外に、 薩 摩役人 と の 関 係にかかわ る 内容が 盛 り込まれて い るのはなぜな のか 。 本 稿 で は 、 以 上のような 問題関心のもと 、傾城に関 す る一連の 統 制 令の中 に 傾城証文 を位置づ け 、 その意義を考察した 上 で証文 の内容を分析し た い。 こ れ により 王 府 が 士族 層のみ な らず諸間切 の百姓にも 傾 城証 文提出を 義務づけ た意図を明らかに す る ことを 目的 とす る。 な お 、近 世琉球の 史料上、 売買春を 行 う 女性をさして 「傾 城」 と表記 さ れる こと が多 い た め、 以下、本稿 で は史 料に 従い 「傾 城」 を使用す る。また、元号は 各史料 に 従 っ た。 第一章 近世琉 球 の傾 城 を め ぐ る統 制令と王 府の 意図 近 世 の那 覇は、琉球 の 外から や っ て くる人 々 や田 舎百姓、 諸島 の人々が 混在す る 港町であ り、王府 に と っ て は取り締 まりが難 し い場所と 認識 されて い た ( 十一 ) 。 先 行 研 究 に お いて 、遊客で あ る 男性 に対す る 取締りと して 主な 分析 対 象 と さ れて い る の は 、 『 羽地仕 置 』 に あ る 王 府 役人が 「 傾 城」を 抱 え置くことを禁じた覚書である。 こ の覚書か ら、伊波氏 は「沖縄 人士がど れほど尾 類に趣味を有し て いたか 」 が分かる と して いる ( 十二 ) 。宮 城 栄 昌 氏 は 、 『 羽 地 仕 置 』 を 書 い た 向 象 賢 の 置 か れ た 状 況を 、 「 薩摩のきげん」を窺いつつ自国の 疲 弊状況を回復 す る使命を負 っ た も のとして おり ( 十 三 ) 、 上層階級 で あ る士族た ちが 「傾城 買 い」 をし ている背景 に は 「薩摩侵略後 の負 担加重」 に よる 百 姓 の困窮 化 を 挙げ て い る ( 十四 ) 。ま た 、 照 沼 氏 も 、 琉 球 の 役 人 と 傾城の 関 係か ら「社 会 的な 階層」 の差に言及して いる ( 十五 ) 。 ここで は 、先行研究を 踏まえな がら、 近世琉球の傾 城や傾 城
慰を する 男性が ど の よ うな 者だったのか、および傾城に関する 統制 を加えた王府の意 図を 明 ら か に した い 。 傾城 をめ ぐ る 統制令の嚆矢は『羽地 仕置』の田舎百姓から 傾城 を出して はな らな いと いう 規 定 で あ る 。 当然なが ら、傾城らしき 女性はそれ 以 前に もす で に 存在 し 、 同時に彼女ら と関係を もつ男 性も あ っ た こ と が 確 認 出来 る ( 十六 ) 。王 府は ど の よ う な 論 理 で 傾 城 や 傾 城慰 を問題 視 し 統 制す る よ う に な っ て い っ た のだろ う か 。 傾城に つ い て 蔡温は 「 傾 城 の 存 在は『人 倫』の 妨 げ で ある が 、 那覇は会 船所 であるた め 傾 城 が い な くてはい かなる問題が起こる か わ からな い 。 こ のため、以前から那覇に傾城を 置 い て い る こ と は、結局のとこ ろ 政 治 をお こ な うた めに 必要 である ( 十七 ) 。 」 と 述 べ 、 いわ ば 「 必 要 悪」と 見 て い たこ と が 分 か る。 傾城 は秩序を乱す存 在 で あ り 理念上は 一切禁止すべき だが、 那覇の状況か ら 治 安 維 持のため に例外的 に必 要だと認 識し ていた と 言 え よ う 。 こ れ を 踏 まえ、近世琉球に おける傾城を めぐる統制令 の 変 遷 をみ て み よ う 。表1は、管見の 限り確認され る傾城をめ ぐ る 統 制令 を 時 系列に並べた も の で あ る。 以下 、表に沿っ て 傾 城 への 統制を み て い きたい。 表1 : 傾 城 を めぐる統制令 の変遷 発布年 規制内容 ① 一六 六七 田舎百姓の 「 傾城 慰」 、 傾 城稼業 の 禁止。 ( 羽 地 仕置) ② 一六 七三 改めて 、 士 族 層( 特 に 王 府 役人 )の 「傾城 慰 」が禁止 される 。(羽地仕置 ) ③ 一六九五 傾城 証文 の 導 入 。 (評 定 所 僉議) ④ 一七 一九 王府 の 把 握し て い る傾城以外の女 性 が、唐人の宿へ出 入り を禁じ ら れ る 。( 康煕五 八 年亥八月 冠船日 記 ) ⑤ 一七二 五 傾城の 子 、唐 人 ・ 薩摩人と の交際 後 に産 ま れ た子 を系 図に 記載す る ことが禁じられる。 ( 球 陽 ) ⑥ 一七 三〇 『 系 図 座 規模帳』に⑤の 内 容が 明 記 され る。 ⑦ 一 七三五 諸 間 切の公事 帳内に傾城証 文 の 記事が見いだせる。 ⑧ 一七四六 改め て 、 士 族 女性の傾城稼業禁 止。 (伊波普 猷 「 ずり と称 する遊 女 」) ⑨ 一七六九 首里 ・泊村 ・ 久米村、 那 覇 ・諸間切 から傾城証文 の提 出継 続 が 確認され 、 制 度とし て 完 成 した こ と が わ か る。 (大 与座規模帳) ⑩ 一八六四 異国 人に 傾 城 の 存 在が 露 見 し な い よ う に 、 辻 ・ 中 島・ 渡地 で 春 の聯句の 内容 に気をつけ る よう 指示。 ( 異 国 御用 掛 日 記 ) ⑪ 一八 五四 異国人へ は、琉 球に傾城 は い ないと答 えるよう 指 示 。 (異 国人 江 返 答 之 心 得 ) ⑫ 一八五六 異国 人 の 要 求 により、民家の門を解放 す る こ とになっ たため、傾城の家だと悟られない よ う対策 を 指示。 ( 人来着 日 記〔 一 三 八八号〕 ) ⑬ 一八 六 五 冊封に 伴 い、先 例 通り、傾 城以外の 女性と 唐 人との交 際 禁 止 。( 慶 応 元 年八月七日 評 定所条書 ) ⑭ 一八六六 傾城も含め た 琉球人 女 性の 唐人 宿出入 り を禁止。 ( 慶 応二 年二月廿 五日 評定所 達 )
第一 節 百姓の 傾 城化と「傾城慰」への 統制 最初の 統 制 令 は 、 寛 文 七年 ( 一六 六 七 ) の田 舎百 姓が「 傾 城慰」 をす ること 、 傾城 にな るこ と を 禁 じ たも ので あ る ( ① )。 ただ し 、 こ の 時点で 辻 ・仲島 は ま だ 村立 て さ れ て おらず、 那 覇には 遊女 が散在する 状 況 に あり王府に「遊 廓 」 と 目される場 は 確立 し て い な か っ た 。 ま た 、 諸村 で 傾 城 を 抱 え 置 く こと を警 戒 し てい る こ と か ら 、王府の 言う傾城が「遊 廓 」の 傾城の み を指し て いる とは断言 でき ず、 日常的に売 買 春 を し て いる女性が傾城と認 識 されて い たと 思わ れる 。 ①には 、「田舎人の中から傾城をする者を出すこと 、 また 、 『 傾 城慰 』をす る こ と は堅く 禁 止す る ( 十八 ) 」と あり 、 田 舎百 姓 の 売 買 春 を 禁じ て い る 。 こ の 条 文 は 他 間 切 のノ ロを 呼 ん で の 祭 祀 の禁 止や 樫木(チャーギ)を 用 いた普請の 禁 止などと同時に布達され て いる こ と から間 切 統治の一環 で あったと思われ る 。 また、 最 後 の一文には「右此節相定候間」とあ り、① か ら田舎 百 姓に 対する 傾城を め ぐ る 統制が 始 ま っ たこと が 指 摘 でき よう 。 このよ う に王 府 が 田舎 人、 つ ま り各 間切に 住 む人 々 か ら傾 城 を 出 す ことを禁じた背景として は 、間切を越えた 人 の移動を規制す る政策の 一環と の 指 摘 が あ る ( 十九 ) 。ち な み に 、 明 治 三 六 年 ( 一 九 〇 三 ) の「 娼 妓 」の 出身 地を 参照す る と 、 島尻郡 出 身者は総 数二 六 七人 であり 、 その内訳は 小 禄七一人、真 和志五 〇 人、 豊見城 三 六 人 で あ る 。ま た 、 中 頭 郡 出 身 者 は総 数三 六〇 人 で あ り 、その 内 訳 は浦添九八人、西原九六 人 、 中 城七八人、国 頭郡では総数 が三五 人と 他 の 地 方 と 比 較 し て 極 端 に 少な い ( 二十 ) 。 こ の こ とから、 一九〇三 年時 点では 那 覇近隣 の 間切出 身 者 が 多い こと が指摘 で きる が、 近 世期に も 「近田舎之 女 共右宿出入仕け い せい之仕形ニ而 ( 二十一 ) 」と あ る ように、 諸間切、特に那覇近隣の 間切の百姓女 性 が 傾城稼 業 を するため に那 覇へ流入し て いた と考 えら れ る 。 また、①の 覚 書の出 さ れる一ヶ 月前には 、 百 姓困 窮の原因に な る こ とと 身分秩序 の問 題か ら、 華美 な 冠 婚 葬 祭 を やめ さ せ る よ う 命じて お り 二( 二十 ) 、間 切 の 逼 迫 し た 状 況 が 窺 え る 。 関連 して「羽 地 家 家 之 傳物語 」 で は 、向 象賢の 行 った田 舎 百 姓へ の 統 制 の 効 果 を 百 姓が 余 裕 を 持 って 生 活 出来 るこ と に 繋 が っ たと 評 価 して おり ( 二十 三 ) 、こ の こ と か ら も 田 舎 百 姓 の 「 傾 城 慰 」 禁 止 は 百姓 の生活を安定させる政策の 一環で は な い かと 考えられる。 統制令①は、 こ の よ う な間切の 逼迫状況 を鑑み 、 さ ら に間切 人口の減少防 止策として 布 達され たと考えら れる。 しかし、① の 統制令が守られた かは疑 わ しい。①の 出 された五 年後の 一 六七 二年 、辻・ 仲 島の村 立 てが 行われ 、 その後、徐々 に 遊里 化して い く 。 村立 て の 翌年 、延宝元年 ( 一六 七三 ) には 、 『 羽地仕置 』におい て士族、特に 役人の「傾 城 慰」が 禁 じ ら れる(②) ( 二十 四 ) 。向 象 賢 の 一 連の 政 策 は 、 「琉球 王 国の 置かれ た 厳し い 現 実 」 を「 いかに 打 破 す る か」と い う 問 題意識の下 に 行 わ れ 、 特徴の一つとして「伝統 的な価値観」に従って 行わ れる「虚 礼」を排除・合 理 化 し 、 琉 球 人の 「 意 識 改 革 」 を 計 ろ う と し たこ と が 指 摘 さ れ て い る 五( 二十 ) 。 士族 に 対し て 家 禄を 支給され ているという自覚 を 促そう と し て いたと
考えら れ る。 また、役 人 が 傾 城 を抱え 置 き、王 府 の 仕 事 を 疎 か に し ている こ と が 、 薩 摩藩へ伝 わっ ては 国 辱 である と 述 べ てお り、 薩摩 藩 へ の 外聞を視野 に 入れ た内 容に な っ て い る。 こ の ように役人の「 傾 城慰」を対 外 的に「恥」と 認識したよう な例 は近 世日本で は見られな い 。殊 に十七 世 紀初頭の江戸 は武家 屋敷 が密集し、人口 比 率 も 男性 が圧倒 的 に 多 い 社 会 で あり 、 ま た 性 犯 罪を予防す る という治安維 持の観 点 から遊 廓 が設け ら れ て い たと さ れ る 六( 二十 ) 。 近 世日本では武家の男性 も町人 の 男性 も遊女 と の交 際は外 聞 につ なが る問題 と はな らな か っ たと 思わ れ る 。 一方 、 近 世琉 球 で は 「王 府 へ の 奉 公 を 疎略に す る 地 頭の 存在 と いう 問 題 に 直 面 」 して いた ( 二十 七 ) 。王 府 が 役 人 の 怠 慢を 問 題 視し て い た ことは 、「この よ うな 役人たち は す ぐに 地頭所や 知行を取り 上 げ 、 隠居の身と し てどんな遊山で も すれば 良 い」との 文言から も分か る。 ただ 、 琉 球で の統 制が厳 格 に 機 能し たと いうよりも、 あく まで も戒 めと捉 え る べ きで あろ う 。 第二 節 傾城 証文の 導 入 と 士族層へ の牽制 さ て 、② で士族男 性の「傾 城慰」を禁 じ た も の の 効果は 見 られ なかったよ う で 、 「傾城慰」により裁 か れる事例がい くつか 確 認 される。 こ の ような状 況のなか 、傾城証文の制 度 が 導 入さ れる こ とにな る 。 ③康熙 三 四年 ( 一六九 五 ) 『評 定 所 僉 議 』 (傾城慰之儀ニ付 十月限五人与 証文 差 出 申 僉 議之事) 僉議 傾城慰之儀跡々ヨ リ 稠 敷御禁止被仰 付 為 出入候儀 迄モ 堅相糺 混乱不仕 様ニト被仰渡置 候 、 然 処 頃 日不締ニ有之饒波 親 雲 上 在所ニ為出入 申ニ付其沙汰 被 仰付候 、 右通未 断 ニ罷 成儀 笑 止 千万之儀ニ 被 思召 上候、如 此体ニ有之 候 ハヽ 御 法 度之 筋相 守 可申哉僉 議仕首尾可申上之由被仰付候、 各申談候 ハ 五 人 与并 横目方 江 堅被仰付 十月 朔日限ニ 証文 ニテ 平 等 所 ヘ 申出候 ハ ヽ 右証文取調平 等之側 ニ テ首尾被申上模ニ被仰付可 然奉存候 、 以上、 亥 四月 十八 日 八( 二十 ) 〈後 略 〉 (傾城慰は以前から 厳 しく禁 止 し て お り 、 ( 傾 城 を ) 出 入 りさ せ る こと も 堅 く 糺 して 混乱 し な い よ う に 言い つけて き た。し かし 、最近では不締まりとなり饒波親雲上 が自宅 へ (傾城 を)出入りさせた 為その処 分をす る よ う 指示されている。 こ のように 不道徳 な ことを 笑 止千万 と お 考 え で ある。 こ の よ う な 有 様 な ので 禁令を遵守させ る にはどうすべ きか検討しその 首尾を報告す る よ うにと指示さ れ た 。各 々討議 し た結果、五 人組と 横 目方 へ堅く 言 いつけて 、十月一日 ま で に 証文を平等 所 へ 提出さ せ 、内 容を確認 して平等之 側 か ら そ の 顛 末 を報 告 させる決まりとするの が妥 当では な い か と考 えた 。 以 上。 ) 「傾城慰」が一 向 に止まない こ とを憂慮した 国王 が 表 十五人衆 へ対策を吟 味 す る よう指示し 、 その結果、傾城証文を提出さ せ る べきだと判断 された こ とが分か る。 や は り、王 府 が 問 題視 して い
るの は 「 傾 城 慰 」 で あ り 傾 城 の 存 在 自 体 に は 言及 さ れ な い 。こ の ことか ら 傾城証 文 のそも そ も の 目 的 は「傾城 慰」を 防 止す ること であった ことが分か る 。 証文の内 容に つい ては 次 章 で詳述 す る が 、③ から四〇 年後の⑦ 雍正 十三 年 ( 一 七三五 ) の『間切 公事帳』に 記 載された書式で は 、 村 か ら傾 城 を 出さ ない こ と 、 「 傾 城 慰」 を し ない こ と 、 さ らに は 薩摩役 人 へ礼 儀 正 しく 接し 掛買をし な い こと が誓約されており 、 単に「傾城慰」を抑止す る ための内 容 で は な い。 こ こ で は 、 薩 摩 藩と の関 係 も 視 野 に 入 れ た 内 容 にな って い る こ と に留意し つ つ 、 僉議 の 内 容か ら 王 府 は あ く ま で も 「 傾 城 慰 」 を規 制す る目 的で 傾 城証 文を 導 入 し た こと を確認 し て お き た い 。 このほ か 、五 人 組 や横 目方 へ通達 し ている こ と か ら、 諸 間 切か ら も 傾 城 証文を提出させる 意図があった と思 われる 。 実際に 、 乾 隆三 四年 ( 一七六 九 ) の 『 大与座規模帳』で は、地域ごと の傾城証 文の 書 式 や 提 出 期 日な どが 定 め られて お り 広 く提 出を 求め たこ と が分か る 。 こ のことから 遅 くともこの時期 ま で に は制 度として定 着したと考え られ る(⑨ )。 以上か ら 、実態 と 乖離し て いた とは言え、傾 城証文の導入によ り 、 両 先 島を の ぞ いて 琉 球 に お いて は 傾 城 稼 業も 傾城と の 交 際 も ほぼ 全 面 的 に 禁 止 さ れ たと 考 え ら れ る 。 ま た 、 『 球 陽 』の記 事 によれば、 「 家 譜 に記載 さ れた 本家 の系図 を乱す 者 (傾城の 産んだ子 )を百姓身分 に 貶 し 、 さ ら に系図座の 役人に今後 も 家譜に入れな い よ う に 諭 し て厳 禁 し た 九( 二十 ) 」と あ り 、 傾 城の 産んだ子 どもを系 図 に 記載す る ことを禁じ 百 姓身分としたこ と が 分かる( ⑤ ) 。その五年後 の『系図 座 規 模帳』 に も 、「 傾城 の 産んだ 子 どもを 系 図へ入れ ること は 、人倫を 乱す 原因にな るので 決して行っ て はならな い 。 」と明記され て い る ( ⑥) ( 三十 ) 。王 府 は 、 身分制 と からめた政策に よ り士族男性と傾 城 との 関係 を牽 制 し よ うとしたと思わ れ る。 こ の よう に傾城の 問題 は身 分の 問題 にも繋が って いた 。渡辺美 季氏は 、 王府 の こ うし た 政 策 か ら傾 城 へ の 忌 避 感 を 見 い だ し 、 「この頃 王府 が 統 治イデオ ロギーと して 積 極 的に儒 教 思想を導入 ・利 用 し て い たこ と と も か か わ る も のと 考 え ら れ る 。 」 と 指 摘 し てい る 一( 三十 ) 。 これに 関 連し て、 乾隆 十 一 年 ( 一七四六 ) には改め て士 族の女性 が傾 城に なる こ と を禁 じ ら れた (⑧ ) 二( 三十 ) 。⑧ か ら 、 一 七 四 六年 に お いて も 相 変わ ら ず 傾 城 は存 在 し て い る ば か り か 、 さら に士 族女 性 も傾 城 と な る 事 例 があっ た こ と が分 かる 。 禁 止 の 理由 は 「 士族 の 節義 」が失わ れるためとされて いる。近世期、 王府 が女性に求め た節 義 と は「 婚 姻 後 は 夫 へ の貞 操 を 永久 に 守 ること は もちろ ん 、 家 を 守 り 、祭 祀を守る こと が 節 義、 すなわ ち 女 の 道 ( 三十三 ) 」で あ り 、 『四本 堂 家 礼 』によ れ ば、女 性 が み だ り に外へ出 て 交 際す る こ と が 禁 止され、も っぱら 家内 で の 付き合い(夫の親族・外戚 等との 関係 )を上 手 く 行 うこ と を 期 待 され て い る 四( 三十 ) 。 ⑧で は「 士 族 の娘に傾城稼業をさせた 場合は系 図を取り上げ百 姓身分と す る 」と あり 、士 族身分が 傾城 に な ることに強 い 忌避 観 が窺 える 。 士 族 女 性 が 家族 関係 の基 であ る 夫 婦 関 係 を 脅 か す傾 城 に な ること は 、身分 秩 序の問題もあり 、 統制令上のみなら ず社 会
的 な 観念 上からも 禁じ られたと考え られる 。 ただし、 こ こで注意したいの は、 士族 女性 も身売りしなく て は なら ないほ ど 生活が逼迫していた と い う 点 で ある。 し かし⑧ で は 、 家計の 逼 迫 に より士 族 女性 が 奉 公へ出 る のは仕方 がない、 と 述 べ る に 留 ま り、 改善 策 は 打 ち 出せ て い ない。 第三 節 唐 人 ・異 国人の 来 琉と傾城 をめ ぐる統制令 こ の ほか、近世琉球 の 遊里や傾城に 対 す る統制令 として 興 味 深 いのは④、⑩~⑭の統制令で 、 これ らは唐 人 や異国 人 との関係 か ら出された禁令 で あ る 。 ④は冊封使の 来 琉 に際 し通達さ れた内容 であり、豊見山和 行氏 によ って 紹 介 されて い る 五( 三十 ) 。④ の 統 制 令 に は 「 為 差 知 け い せ い 之 外 、 た う 人宿立寄間 敷 」とあ り 、唐人との交際を 許可され て い るの は 、 「為差知け い せい」のみと分かる ( 三十 六 ) 。こ の よ う に 傾 城 以 外 の 女 性 が 唐人の交際す る こ と を 禁じる 統 制は、最 後の冊封 となった同 治 五 年 ( 一八六六 ) にも 見ら れ 、 一 貫 し た 統制だ っ た( ⑬ ) 。豊見山 氏 は、④ の 統制は そ の後 那 覇 近隣に 通 達され た こと 、あわせて 商 売 目的 で 百 姓女性 が 唐人宿へ 出入り す る こ と を 問題視し て い た こ と を指摘し、あくまでも「 首 里 王 府の 管轄 外に位置す る 遊女的百 姓」への 取り締まり を 目指 して いたと指 摘して い る 七( 三十 ) 。 これは、 す でに 存在 する傾城の 中 に王府 に よっ て把 握され黙 認 さ れ た傾 城 が 存在 した こと を 示 唆し てい る 。 この こ と か ら 、 王 府 は建前と して は傾城の排除を目指し つつも、実態とし て は 傾城 を 徹底 的 に 禁圧 ・弾圧 し 排 除 す る こ と はで き な かっ たこ とが 分 か る 。 ま た 、冊封使一行には清朝から滞 在 中の心得 が出さ れ て お り 、 賭 博 や 酒 乱 、 傾城 (土 妓) 遊びを 慎 む よ うになどという 具 体的 な 指示が天使 館 の大 門に 張り出 さ れて い た 八( 三十 ) 。実 際 に 冊 封 使 の 側 か ら 出さ れ た 告 示 文 の 中 に は 、 性病 に罹 患す るリ スク に言及し つ つ 、 傾城 と の 交際をたしな める内容も見られ る ( 三十九 ) 。こ の こ と か ら 、 清 朝 にと っても 傾 城との交際 が 外交上警 戒されて い た ことがわかる 。 実際に王 府は、冊封使一行の帰国後 に唐人 が 琉球に 残 っ て い な い か辻・仲島 ・ 渡地を捜索さ せたり ( 四十 ) 、冊 封 使 か ら 「 土 妓」 を 排 斥す るよ う 要 請が 出て い る こと か ら 一( 四十 ) 、 傾 城遊びに つい て は 、琉中関係 において外交問題化す る可能性のある案件であっ たと言えよう。 関連 し て 、同 治五 年 ( 一八六六 ) の冊封 と それに 伴 う琉球 国 内の 傾城統制 につ いて 検 討 し た い 。 こ の 時 期 は 、「異国人」 、つ まり欧 米人の来 琉が 頻発し 、 王府は対 応に悩ま されて い た時期であ る 。 王 府 は、 これまでと異なる状況下の冊封となる こ とから、唐人に 対して い か に 対応すべき か 詳 細 に検討して い た。 一八 五八 年の段 階 で 、 異国 人が 滞在 す る なか請封すべきか否か 王府内で 議 論 があり 、 ここ に傾城を めぐ る 対 応も 含 ま れて いた ( 四十 二 ) 。 唐人は冊封使録などの 記 録から 琉 球に傾城が い る ことを知 っ て い るた め、傾城 は存在しな い とす る 王 府の方針に つ いてどのよう に 了承を 得 るか対 策 を練って いる ( 四十 三 ) 。具 体 的 に は 、冠 船 の 期 間 中 に 限 り、傾城を那覇以 外の田舎へ強制移 住させ、唐人が傾城と 接 触 で き な い 状 況を作 り 出し てい た。 これに 関 し て は 、 移 住 先 の 状 況 も ふくめ て 麻生伸 一 氏の 論 考 で 紹 介 さ れ て いる ( 四十四 ) 。
冊封の前年まで は 先例と 同 じ対応をす る 予定で ⑬ が 出 されてい るが 、 翌 年 に 出 さ れ た ⑭で 傾城も 含 めて 唐 人 と の 関 係 が 禁 止 さ れ たのは、 こ の ような対 応があったためであ る 。豊見山 氏は 、 「 琉 球には建前 上 、遊女 は 存在しな い と いう首里 王府 の取った遊 女 政 策 は 、 欧 米 船 との 間 で 発 生 する ト ラ ブ ル を未 然 に 防 止 する た め の 手段 ともな っ て い た」 と指 摘 し て い る 五( 四十 ) 。 この ほ か 、 ⑭ では 「 尤 横 目 并 た う 人 宿 主 共 見 聞 い た し 違 背 之 者 有 之 候ハ ヽ 、 早速 披露 いたし候 様可申 付 事 六( 四十 ) 」と の 通 達 が あ り 、 大 和横 目 や 唐人 宿の 主人 が取 締りに 当 たっ ている 点 も興味 深 い。 こ の こ とから、 辻・仲島 ・渡地はすで に遊里と認識されているに も かかわ ら ず 、 普段から遊里を取り 締 ま る 、吉 原遊廓で 言 え ば大門 の門番 に あたるような 役人 は存在し なかっ た と考えら れる。平常 時は傾城や 遊 里を 直 接 統制し な か っ たものの、冊封にあ た っ て 直 接的な 統 制がな さ れ た と 言 えよう 。 他方、異国人へ の 対応が分か る 統制 令は ⑩⑪ ⑫ で ある 。 ⑪で は「傾城が い るかと尋ね て き た ら、琉球(本島) や 島 々 に もい ない( と 答 え な さ い ) 七( 四十 ) 」と あ り 、 傾 城 を 含 め た 琉 球 人 女 性 と 異国人の接触を一 切 禁 止したことが分か る。琉球 の女性 と 異 国 人 が接 触 し ないよ う 気 を 配 っ ている こ とか ら、 王 府 は 自 国 の 女性 を 保護 し た の で は な い か と 思 わ れ る 。 しか し、 実際 に は 傾 城 は 那 覇 に 住 ん でい た た め 、 異国 人に そ の 存在を悟られぬ様 、⑩ や ⑫ のよう に 具体的 な 指示が出される こ と にな っ た 。 異国人た ち が 遊 里 も含 め て あ ち こち散策 する ことは ま まみ ら れ た。 道 光 二八 年 ( 一八四八 ) の「英人 逗留付那覇ニ而日記 」 による と、 ベッテル ハイ ムは辻村 もよ く通過 し てお り、何 度 か辻 村の傾 城宅へ押し入っ て いる。さ らに、咸豊 六 年 ( 一八五 六 ) にはフラン ス人宣 教 師ジラール 、 メルメ 、 フューレの三名と 中国人一名 が 滞 在 し て お り、 王府に対 して 散策す る 際の追行 や、民家の門 を閉ざ すこ とを止めるよう等の 要 求をし て いる ( 四十 八 ) 。こ の 結 果 、 民 家 の 門 戸 を開けて お く こ と に な るのだが 、傾城の存在 が 露 見し な い よう具 体的な対 策を指示 して いる (⑫ ) 。 内容は 、「異国人が傾城宅へも 立ち 入る可 能 性があ る 。家 に 女 性しか い な い ことで 疑 いが立ち、 傾城 の 存 在 が 知れて は 問 題 な の で 、 今後 異 国 船が 来 着 し た ら 下 人 を抱え置い て いる者は 異 国 船の滞在中は勿論 、普 段 で も 家 の 中 に 置き 、下 人のな い 者は親戚など 親し い者に頼んで 、異国人が来た ら家主 と し て挨拶 させ、 異 国人 を持 てな し て ご ま か し なさい 。 た だし、傾城達の衣服や道具 など は こ れまで通り質 素に し、 異国人 の目 に 付 く と 支 障 が あ る道 具な ど は 除外す る か 、 深 く 覆って 隠 す 等して、問題に な ら な いよ う堅 く取締 り な さい ( 四十 九 ) 。」 とな っ て いる 。 このほ か 、 道 光二 六 年 ( 一八四六 ) には 、異 国 人 に 興 味を持 た れ ぬよう 辻 ・ 仲 島・渡地に対し て 歌の禁 止 が 布 達 さ れて いる ( 五十 ) 。管 見 の限り、遊里 に対して 細かな指 示を出す例は、 異 国人に関 わ る 統 制と 同 治 五年 の 冊 封 時 の 強 制 移 住 に 限 ら れ て いる 。こ のよう に 異 国人滞在にかか る 遊里 ・ 傾 城統制で は直接的 かつ具体 的な 統制 が なさ れた ことが特 徴であっ た。 このように、 傾 城 を含め た すべ ての琉球 人 女 性 と 接 触 さ せ ない よう に し た 背 景 に は 、 当 時 の 王 府が 異 国 人 の 来 琉 や 滞 在 に 悩 ま さ
れ て おり 、滞 在が長 期 化す る要 因を 排し たか ったことがあ るので はな いだろ う か 。 ま た 、 子 どもが 産 ま れ た場合の対 応 は極めて 不 透明であ り、トラ ブルにな る可能性も十分 に あったと思 わ れ る 。 さらに唐人 の ケース を 踏まえ る と 、 病 気 に罹患した際の対 応 な ど 王府 にと って は 回 避し た い 事 態 も 想 定 さ れ た ので はな いだろ う か。 以上のよ うに、傾 城 や 「傾 城慰」をめ ぐ る統制 令 の変 遷を追っ て そ の意図を考察 してきた 。①から ③ ま での間に徐 々 に統制 の 範 囲が広 く な り 、両先 島 をのぞ い た 士 族・ 民衆の売 買春は傾 城証文 に て ほぼ全面 的に禁止とな ったと考えられる。 王 府は、 諸 間切の 百姓に対しては間切の経済状況の 改 善のため 、 士 族男性 に 対して は役人の心得 として 、 士族女性に 対 しては 節 義を求め る こ とで売 買春を 禁 じて いた。 そ の後 、 ⑤⑥⑧の よ う に 身分制の成立 に伴う 士族 層 へ の牽 制がみら れる。 ま た 、傾城を めぐ る統制令は 王 府の理念 や 時 代ごとの外 交 関係 が反映さ れ て はいる も のの、 実 態を伴 っ た も の で は な かった。 そ の根底には「傾城 =必要悪」 と みる蔡温の位置 づ けが踏 襲 され 、 統 制 令 の 通りに 傾 城を一 掃 す る 意 図 はな かっ た の では ない か と 思 われ る。実 際 に取り締まり にあ った 事例 の大半 は 、 「 傾 城 慰」を 咎め られ たも ので あ り 、 傾 城 稼 業 を し た ため に裁か れ た事例 は 確 認で き な い 。 一方で 遊 里や 傾 城 に直接的 な 統 制が なされる のは、 冠 船時 や異 国人逗留時であった 。 王府は 清 国 や 欧 米 との外交問題 を懸念し 、 王 府 が主体的 に統制で き る 琉球の民衆を 統制したと考えられる 。 ここ か ら 、近 世 琉 球 に と っ て 外 交が いか に重 要な 位 置 を占 めて い たのかが 窺える。 同時 に、傾城稼 業 を禁じな がらも 、 その存在自体を問題視した り完全に管理下におくことも な かった 。 また、統 制令から見 る 限 り、 王府は、身 売 りの 直接的な 原因で あ る貧困の問 題 を含めた 、 傾城 自身 の置か れ た状況 に 対す る関心が 低かったと 言 わざるを 得 ない。 第二章 「傾城証文」 とその意義 第一節 傾城証 文 の内 容と提 出 方法 前章で は 、王 府による 傾城統制 令の変遷を整理し 、傾 城証文の 位置づけ を試 みた。 傾 城証文 の 導入に よ り 、 実態と乖離していた ものの、 より広範 囲の 士族・ 百 姓の売買 春 が 禁 じ られた こ とを確 認 し た。 ここ で は 、具 体的な証 文の書式や 内 容 を 取り上 げ て 、 傾 城証 文の意 義 を 検 討し た い 。 第一項 『大与座規 模帳』の内容 まず 、 『 大与座規模帳』の書 式から 傾 城証文の内容を分 析し 、 その 上で 「明 暦以来被仰 渡 候趣 」 と はど の 統 制令を指して いるの かを 検討し た い。 証文の提 出を求 め られたの は、首里・那 覇・ 泊・久米村 ・ 諸間 切と幅広 く 、 士族・百姓とも 提 出し て い た。 乾隆 三四年(一 七 六 九)の『大与 座規模帳 』に書式が 納 められて い る ことから、遅く
とも こ の 時点 まで には 制度とし て 完 成して い た と 思われる。ここ で は 各地の書式を 比較検討す る ため 、 『 大与座規模帳』 の書式の 文面を 取 り上 げたい 。 『大与座規模 帳』で は 「 首 里・ 泊・久米村」と「那覇・田舎 中」 は区別 さ れ た 書式 が 提 示 さ れて おり 、証 文は与中で 取 りまと め、さらにそれぞれの町や間切の 責 任者 が一 紙に まとめ て 提出 す るよう 指 示されて いる。以 下の書式 は与中から提出さ れた傾城 証 文を 一紙 にまと め たも ので あ る 。以 下 、 条文をあ げ て 内 容 と 王 府 の統制意図を 検討 して みた い。 【史 料1】 乾 隆三四 年 ( 一七六九 ) 『大 与座 規模帳 』 一 傾城証文之儀毎年十二月朔 日限差 出 候、尤 首 里中ハ与 中 銘々加判 サセ村地頭ニテ取 集、泊 那 覇久米村ハ各構之 里主 御 物 城両 長 史 頭取、諸在郷ハ両惣地 頭ニテ 証 文一紙ニ総差 出候事 附 証文 調 様 左ニ 記 首里中并泊 久 米村証文条書 証文 一 傾城慰 仕 候儀御 禁 止之 事 一 対 御国 元之 衆 応 答 律 儀 可 仕事 一 従 御国元之衆万賭物請 取 間敷事 那覇并田舎 中 証文 之 条 書 証文 一 傾城慰 又 田舎百 姓 ヨリ /百姓ヨリ 傾城仕 儀 御禁止之事 一 対 御国元之衆応答律儀可仕 事 一 従 御国元之衆万賭物請 取 間敷事 右之条々明暦以来度々被仰渡候趣 猶 又 可 相守候。依之 与 中 参 会/那 覇 四町中・ 泊村 中・久米 村 中 ・ 噯 間 切 中 堅 相改 候 得 共 違背之 者 無 御 座 候/相改無 違 背段銘々証文取置之 段 若於後 日相違 之 儀御 座候ハヽ 其沙汰 可 被 仰 付候以上 何十二月朔日 ( 五十 一 ) 【史料 1 】によれば 、 「首里・泊・久米村」用 と 「 那 覇・ 田舎 中」用の書式では 、一条目 の傾城に関す る 条 目が若 干 異なっ て い る こ とが分かる 。 「首里・泊・久米村」用で は「傾城慰」を し な い こ とを誓約す る もの であるのに 対 し 、 「那 覇・田 舎 中」用 で は 町百姓・ 田舎 百姓から傾城を出さない こ との 誓 約 も付 け 加 えられ て い る。 前 者 で は 、百姓が 傾城 にな ることへ の言及がな い ことか ら、 士族層の男性 を対象に し た 証文 だ っ たの では ない かと思 わ れ る。しかしながら、だからと い っ て 首里・泊・久 米村の町 百姓が 傾城 と の 交 際 や 傾 城 稼 業 を 黙 認 され たわ けで はな かろ う 。 町 百 姓 が証文から欠落して い ることにつ い ては、 当 該地域の 村々から提 出された 傾城証文が確認 で きず 、判然とし な い。 だ が 、一連の統 制令を踏ま え る と 、当該地域の町百姓も同じよ う に売買春 が規制 されて い たので は な い だろ うか 。 双方の証文 で 「傾城 慰 」を禁 じ て い る こ とについ ては、第一 章 で検 討した よ うに 、 王 府の 仕事 に 支 障 を きた す こ とを 懸 念 し て い たと 思 わ れ る 二( 五十 ) 。 二種 類 の 証 文 に共通して い る第二 条 ・第三条 は、薩 摩 役人と の 関係 に関す る 条項で あ る。具体 的 に は、薩 摩 役人へ の 対 応 を丁寧
にす る こ と 、 掛 売 を し な い と の 誓 約 で あ り 、 薩 摩 人 と 琉 球 人 の ト ラ ブ ルを回 避 し外交 問 題化 する ことを 避 けよ う と する 意 図 が あ る ことは明白 で あ ろ う 。 この 項目 は全地 域 から 提出さ れ る傾 城 証 文に 加 え られ てお り 、 王 府 が 直接統制できる 琉球の士 族層・百姓層全体に誓約さ せる形 を取っ て いる と 思 われる。 つ ま り 、 自国の傾 城に 関わる 統 制以外 に、 薩 摩 藩 と のトラブルを 避け るた めの統制 が並列さ れて いる の である。 ま た 、 『 大与座規模帳』で は 、傾城証文の提出を怠った 場合の 罰則 も 設 け ら れ て い る 。 そ れ に よ れ ば 「 唐 物 証 文 ・ 奇 妙証 文 ・ 傾 城証文 の 提出 期 限 を 守 れ な か っ た 場 合、十 五 日まで は 一日に罰金 を三百文ずつ科 す 。それ以 上遅延し た者は 寺 入れ十日 とす る。 そ れでも 遅 延す る者は 吟 味の上 、 上 役 の 指 示を受けて処分をしな さ い ( 五十 三 ) 。 」 と あ り 、 比 較 的細 かな 規 定 にな って いる。こ のことから 証 文 類 の 提出 を怠る こ とは まま あった こ とと思われる ( 五十 四 ) 。 しかし、 提出しな ければ罰 則 を 科 す と規定され て いる こと から、 証文と実 態 が乖離して いたり、王府の統制 の 意図が必ずしも浸 透 して いなく て も 、 証 文 を提出 さ せ 王 府 の 統制を厳 守す る旨を誓約 させよ う との 意志が読 み取れる 。つまり、実態 は どうあれ まずは 証文を提出させる ことで 、 王府の趣意を浸透さ せ ようと し て い た の で はな い だ ろ う か。傾城証文もこ のような「民衆統 制」の一 方 法だ っ た と考 えられ る 。 第二項 那覇 の 傾 城証 文 に つ い て 次に、 実 際 に 与中か ら 提出され た傾城証 文の内容 や 、 提出の 方 法な ど 具 体 的 な状 況を検 討 して みた い。 管見の限 り、現 在確認 できる傾城証 文には、諸 間 切の百 姓 から 提出された 傾 城証文と 『福地家文書』 に 収められた那覇士 族 の 与 中から提 出され た 傾城証文と の 二種類 が ある。 諸間切提出 の 傾 城 証 文 に つ い て は、 少数 では ある ものの『 間 切 公事帳』 から抽出することができ た 五( 五十 ) 。梅 木 哲 人 氏 は 、 『 間 切 公 事 帳』は雍正十三年(一七三 五)に初め て 王府から下 付 され 、 「 王 府から一間 切 に対し て 、その 間 切支 配 の ため に出され た規則 ・ 法 令集 」で あ る と位置づけて いる ( 五十 六 ) 。そ の た め 、 間 切 の 特 徴 が 反 映 さ れた法令集 と いう性 格 を持つ が 、 例えば 、 「 切 支 丹改」など諸間 切 に 共通す る 事項も多く見られ、傾城証文 も その一つ であ る。 現 存 す る『間切公事帳』の なかで 、 傾城証 文 が確認 で きたのは 、久 米仲 里間 切 ・ 具 志 川間 切、 越 来 (具 志 川 ) 間 切、 与那 城 間 切、 渡 嘉 敷 間 切 、 美 里間 切、国 頭 方の もの である ( 五十 七 ) 。 一 七三五 年の 美 里 間 切 の も の と 推 定 さ れ る 公 事 帳 に は 、 「 御 国 元衆取合并傾城慰等之儀ニ 付」 とあ る こ と か ら、傾 城 に 関 する 統 制と薩 摩 か ら 派遣さ れ た役人 に 関す る 統 制は区別されて い た こ と が分か る ( 五十 八 ) 。 し かし 、道光十 一年(一八三 一)の久米仲里間切 の 『 間切公事帳』 で は「傾城証文之儀」 と あ り 、 「 傾 城 証文」の呼 称が 定 着 して い る こ と が 指 摘でき る 九( 五十 ) 。 これは、 乾 隆 三 四 年 (一 七 三六)の 『大与座規模帳』の表現 が 定着した もの と思 われる 。 こ の よ うに 、間 切に おい ては、傾 城に 関する 統 制 と 薩摩役 人 と の 関 係に関す る統制を同時 に誓約す る証文を「傾城 証 文」とする王府
の認 識が 徐々 に 定 着し て い く 様 子が 読 み 取 れ る 。 ま た 、傾 城証文の 存在を確認 できた『 間切公事 帳 』に記載 され た書式を みると 、 証文の 集 め方にや や 変 化 が あ る ものの、みな十 二月朔 日 付けで 惣 地 頭 か ら 大 与 座へ提 出 され ること に な っ て い る 。 例え ば、美里 間切で は 、村々 の 地頭 ・村掟の奥 書 を 付 け た 証文を 十一月二五日 までに 間 切番所 へ 提出さ せ 、二 九日 ま で に 惣 地 頭 へ 提出、 そ の後、惣地 頭 か ら 大 与 座 へ 提出 さ れ ていた 。 さらに 、 「掟公事 」に記されて いることから 、各村におい て傾城証文 を 作 成して 集 める のは村 掟 の仕 事であ る こと が分か る 。 ただ し 、 前 項 【 史 料 1 】で みた よう に 、 『大与 座 規模 帳』で は 首里・泊・久米村提出用と那覇・諸間切提出 用 が 提示さ れ て お り 、 少なくとも両先島以外の地域から提 出され て いた こと が指摘 で き る。 また 、 こ れら『間切公事 帳 』に記載 された傾城 証 文は、 各 村 で一紙にまとめら れた 書式であり 、【史 料1】 と 同じ形式 であ る。 諸村 に お いて 五人与 ご と に 証 文 が 提 出 さ れ た と思わ れ る が 、残 念 なが らその 形 式の 史料は 確 認出来な かった 。 以上を踏まえ、 こ こでは 特 に、 『福地家文書』に 見られる那 覇 士 族 の与中 か ら提出 さ れた傾城証文を 検 討し、諸 間切から提出さ れたその 差異に着目して 傾 城証文 の 持つ 意義を 考 察し たい。 『福地家文書 』の傾城証文の大まかな内容は 、 「 傾 城 慰」をし ない こ と を誓 約す る も のであり、百 姓より傾 城を出さ ない ことに 言及がな い こ とか ら、おそらく士 族 層の証文である と 思 わ れる 。 福地家 は 六代・唯紀と七代・唯延 が 御物城にまで 昇進 した那覇 士族の有 力な家系であり 、 『福地家 文書』はその一家系に残され たま と ま っ た 史 料 と さ れて い る ( 六十 ) 。証 文 が 収 録 さ れ て い る の は 裏 文 書で あ る が 、 傾 城 証文以 外 にも多 数 の証文や差出などが 残されて いる ( 六十 一 ) 。 さて 、 『 福地家 文 書 』 に収 録され た 傾城証文 は、 与 に 属 す る 者 くみ の氏 名が 記さ れた上で 印 鑑 が 押 されて い るなど『大与座規模帳』 の書 式はもちろ ん 、諸間 切 各村提 出 の傾城証文とも異なった形式 で書かれて い る 。 『大与座規模帳』の雛形と諸間切から提出さ れ た傾城証 文は、必ず三条か ら成り、薩摩の 役 人 と の 関 係に 関 す る 内容 と傾城 に 関す る内容 が 同時に誓 約 さ れ て いた 。 し かし、 以 下 の那 覇士 族の 傾城証 文 で は 、 傾 城 に 関す る統制の み に 言及して 証 文が 作成さ れ て お り 、「 明 暦以来 」 と の 文 言 も 見 当 た らな い。 【史 料2】 証文 依跡 々 傾 城慰堅御禁止被仰 付 置 候処、頃日 不 締有之 ニ 付、 六 人 与 参会遂 詮 儀 証 文差 出、 弥常 々御 法 度 之 筋 相 守 、 若 与中相 背 者 於有之 者 早速可 致 披露 候 。 且又六人与 差 引を 以毎年十 月 朔 日 限、証 文 那覇役人江可差出旨被仰渡趣奉得其意 候 、 依 之 六 人 与参 会弥堅固 吟味仕 候 処 、 違背之 者 一人も無御座候、若 隠置於後 日脇より露顕仕 候 ハヽ、当人者勿論 六人与迄其沙 汰 可被仰 付 候、以上 。 辰十月朔 日 二( 六十 ) 〈以下略〉 【史料 2 】 は 、 那 覇士 族 の 与 中 から那 覇 役 人 へ提出 さ れた傾 城 証文 で あ る。正確な 年 代は不明 だが 、深 澤秋 人氏が 道 光 二 四 ( 一 八四 四 ) 年とした「証文(上 国 ・従内願文書 )」 と同じ 人 間から 提
出 さ れたことから同 年 に 提 出されたもの で あ ろ う 。 ここで 問 題とな る のは「御法度」の解釈である。 「御 法度」と いう 表 現 は 、 王 府 か ら の 統 制 令 に対 して 使 わ れ る 例や 薩 摩 藩から の命令に対して 使 われ る例が 見 られ る。ま た 、 『 内務省文書』の 「 起 請文」 で は、 キリ シタン改めに 関して「天 下 御法度」 と表現 されて い る こ とから、幕 府 法 を指 して いる こ と が分かる ( 六十 三 ) 。つ ま り 、 各 文 書 の 背景 ごと に「御法度」の意 味は異な り 、 【 史 料2 】の 「傾城慰 」に関す る直接の 統制令を 出している主体 を 考える 必 要 がある。 第一章で 検討し た よう に王 府は 、寛文七年 ( 一六六七 ) 以降 、 「傾城慰」や 傾 城 稼業を 禁 じて いた。さらに 、康熙三四年 ( 一六 九五 ) には、度重な る統制に も関わらず「 傾城慰」が止ま な かっ たた め に 傾城証文 の制度が 導入された 。 このこと から 、 「 御法 度」は王府 に よる傾城に関す る 一連の統制令を指 す ことが分かる 。 次に、 証 文 の 内容に つ い て だが、王府 の 趣意 を 汲 み 入 れ、傾 城 との交際 をしな い ことを 誓 約さ れてお り 、傾 城 証 文の 制度 が導 入 されるき っかけと なった僉議の内容が 、 そ の まま反映された こ と が分かる。この こ と か ら、 あくまで「 傾 城慰」を禁じる統制 に つ いて は 、 王 府 役 人 の怠 慢や 間 切 の 維 持 に か か る王 府 の 国 内 統制 の 一つ で あ る と 考 え ら れ る 。 【史 料 2 】 に 見 ら れ る よ う な 、 傾 城 に 関 する 条 項 の み を 誓 約 す る 証 文は 、 『 福地家文書』内 で は全部で 五 件 確認される。その 全 てがほぼ同じ文章 で あ り、 雛 形 が存在し て い る こ とは明白 であ ろ う。 しかし 、 『間 切公事帳 』 や 『大与座規模帳』 の傾城 証 文 の 書式 に見られる 薩 摩 の 派遣役人に 関 係す る誓約は 、 ど のよ う に 行 わ れ てい た の だ ろ う か 。 『 福 地 家文 書』 には、 【 史 料 2】 と 同 様 、 与 中 から提出された証文 に 、 薩 摩 役 人に 関す る内容 が 見受 けられる 。 【史 料3】 証文 一 御国元之衆より万売物賭請 取 間 敷事 一 対御国元之衆 常々応 答 律儀可 仕 事 右之 通明暦以 来度々 被 仰渡候 処 、頃 日猥 ニ罷 成候 間、向 後 堅 相 守 与中相糺、毎 年十月朔日首尾可 申 上旨 被 仰 渡奉 得 其 意候 、 私共参会吟味仕候 処、少 も 違背之者 無御座候 、 若隠 置 於 後日 相顕候 ハ ヽ 、 其沙 汰 可 被仰付 候 、 以 上 四( 六十 ) 〈以下 略 〉 【史 料3】 は 【史 料2】 と 同じ与 中 から 提出さ れ た 、 薩摩の 役 人 との 関係にかか わ る証文 で ある。日付 や 年代は不 明 だ が、 他 の 与 か ら 提出され た同様の内容の証 文には「辰十月 朔 日」と記され て いることか ら 、十 月中に出された書 類だと 思 われ る。 諸間 切から提出さ れ た 傾城 証文と 比 較す ると 、誓約内容は【 史 料1】の二 条 目 ・ 三 条 目 に あ た る薩 摩 役 人へ の対応を丁寧 に す る こと、 薩 摩人から諸々 の品物を 受け 取ら な い こと の二件で あり 、 一条 目 の 傾 城 に関 す る 誓約 の み が 欠 如 し て い る 。 ま た 、 「 明暦以 来」以 下 の文章 は 諸間切 提 出の傾城 証文と 同 様に、報 告し た状況 に相違があったら処罰を受け る との内容 である。以上 より 、 「 明 暦 以 来 度 々被 仰 渡 」た 統 制 令に は 、 薩摩 藩 か ら王 府 へ 出 さ れ た 通 達 等 を視野に 入れる 必要 があろう 。
さ ら に 、 【史 料 2 】 と 【史 料3】 を 併せ て見 てみる と 、 双 方 と もに 「十 月 朔 日限 」 で 提出 する こと が義 務づ けら れ て い る こ と が 分かる。また、 与 中 で 参会し て 吟味をした 結 果、 違 反 者 は い な い と報告 す る方 法も同様 である。この ことから 、 【 史 料 2】 の 傾 城 に 関 す る 誓約 と【 史料 3 】 の薩 摩の役人と の 関係 に関す る 誓約 は 、 同時 に提出 さ れ た 証文で は な い かと 考えら れ る。 つまり、同 じ 与の者に よっ て作 成 さ れた 【 史 料2 】 ・ 【 史 料 3 】 は、同時 に那覇役人へ提出 され、それぞれ 里 主・御 物 城に 提 出 さ れた と考えられる。その 後 、里主・御物 城 が 大与 座 へ 提出 する際 に、 【史 料 2 】 ・ 【 史 料3】 双 方 の 内 容 を一 紙に ま と め、 「 傾 城 証 文 」 とし て提 出し てい た と 考 え られる 。 この ほ か 、 少 な く と も 道 光二四年 ( 一八四四 ) の時点 に おい て 、 那覇 で は 傾城に 関 す る 統 制 と薩摩役人との関係 に 関す る 統 制は、同 日の提出期 限 である も の の与中から は 別 個 の証文を提出 させて お り、別々の統制令 のもと に取 ら れ た証 文 で あ る と 認 識 さ れて い た と 考 え ら れ る 。 これ は 、 先に 指摘 し た 「 御 国 元 衆 取 合 并 傾 城 慰 等 之 儀 」 と する 雍正十三 年 ( 一七三五 ) の諸間切の認識と似通っ て い る 。ただ 、 道 光十 一年 ( 一八 三一 ) の『 間切公事帳』に は 「傾城 証 文」との 呼称 が 見 られ るこ とから 、 傾城にか か る 統制と薩 摩役人と の関係に関 する統制をあわせ て「傾城証文」と認識されていた と 考 え られる 。 しかし 、 それか ら 約十年 を 経た後も 、那覇では別々に 証文を取 っ てい た こ とは 興 味 深い 。 同 時 に 提 出 する も の の 、 性 格 が違 う も の として受け止 められて いたの で はない だ ろうか 。 以上のよ うに、那覇士族から提 出された と思 われる 傾 城証文に ついて 検 討し て み た。 那覇士 族 の与中から提 出され た 傾城証 文 は 、 「傾城慰」の統制と薩摩 役 人への対応に関する統制は 別 個 に誓約 されて い たこ とが 大きな 特 徴で あ る 。 日付を み ると、十二月朔日付けで大与座へ提出す る前 段 階 にお いて 、 諸 間 切 各 村 で は 十 一 月 二 五 日 付 け で 村 掟が 集 め る こ と に な っ て い た が、 那覇 では 那覇役 人 が十 月 中 に 集 め て い た こ と が分 か る。 詳 細 は確認し得 な い が 、諸間切 の対応 で 見られた よう に、 那 覇 役 人か ら上役の 里 主 ・御 物城へ提 出され、次書をし た上で大与 座へ提 出 され たと 思 わ れ る 。 ま た 、那覇士 族の与中からは、傾城に関 わ る 証文とは別 に 、 薩 摩役人との関係 に 関わ る証文が作成されて い た。両者は 提 出期限 が「 十 月朔日 限 」 と同 時 で あり、 諸 間 切 の 傾 城 証 文 や 雛形に 見 ら れた「明暦以来」との文言も 見 られる。 こ の ことと 、 『大与座規 模帳』に見 られる那覇の傾城証 文 の雛形とを付き合 わせて考える と、 【 史 料 2 】 ・ 【 史 料 3 】 の 内 容 を 一 紙 に ま と め た 内 容 が 、 雛 形 と合 致 す る こ とが分 か る。 つ ま り、 那 覇 では 道光 二 四 ( 一八四四 ) 年の 段 階 におい て 、『 大 与 座規模帳』の 雛形 に 照 らし合 わ せれば 、 一条目と 、 二 条目・三条目を別個に作成・収集し て いた こと が指 摘でき る 。そ の後 、里 主・御物 城から 大 与座へ提出され る 際に一 紙にまと めら れ 、 それを 「 傾城証 文 」として 提出して いたと考え られ る。 こ の ことから 、少なくとも 那 覇 に おいて は 、 「 傾 城 証文」を 国 内統制に 関す る 証 文と薩摩 と の 間の ト ラ ブル回避 のための証 文 を 別の性 格 の統 制令 として認識し て い た と 思 わ れ る 。
第二節 「明暦以来度々 被 仰渡趣」とは何か 前 節 で指摘 し たよ うに 、近世琉 球の傾 城 証文は 制 度化さ れ た 民 衆統制の方法 の一つで あり、そ の内容は国内の傾城に関する統制 と、対外関係上の問題を避 けるための 関 す る 統制 である。 な ぜ 、 内政上の統制と対外関係上の統制に関す る誓 約が同一 の証文内 で 行わ れ て いる のだろ う か 。 そ こ で 注 目したいのは、 傾 城証文 の 最後に あ る「明暦 以来度々 被仰 渡 候 趣 」 はど の 統 制 令 を 指 して い る のかと い う 問 題で ある。 また 、傾 城 証 文の 制 度 化の 直 接 のきっ か け と なっ た 一 六 九 五 年 の 僉議 の 内 容 に ふ れ るこ と な く 、 「 明 暦以 来 」 と し て い るこ と に 注 意し たい 。 「 明暦以来」と 表され る 統制 令が 傾城をめぐ る 統制の そも そも の 根 幹をな す と 考 えら れ る 。ここ に 、 傾 城証 文を提 出 さ せ 続 けた王 府 の意 図 が 窺 え るの ではない だろうか。 管見の限 り、明 暦 期 ( 一六五五~一六五七年 ) には、王府から出 された 傾 城や 傾城 慰 に 関 す る統制令は 確 認で きな い 。 そこ で 、 薩 摩 側か ら 琉 球側へ 通 達され た 統制令 に 目 を 向け た い 。 明暦三年 ( 一六五七 ) 九月 十一日 に は、 薩摩 家老 から 三司官 へ 「島 津久通 外 六 名 連署 掟書(以下 「 掟書 」 ) 」 が 通達されて い る 五( 六十 ) 。 「 掟 書」の 内 容は、南蛮船や 唐 船が 漂着 し た 際の処理の指示や 、琉球 の士 族 の 服装 、武 具 に 関 す るも のまで 多 岐に 亘って い る。 「掟書 」 と同 時に 薩摩の 家 老から琉球へ渡 海 す る 面々へ「島津 久 通 外六名連署條書(以下「條 書 」 )」 が通達 さ れて い る が 、 そ の 主 な 内容は船 頭や水主への規制や 女 性 や 武器の 移 動に関 す る規制 である ( 六十 六 ) 。真 栄 平 房 昭 氏 は 、こ の 明 暦 三 年 ( 一六五 七 ) の「條書」を 薩摩の琉 球支配にかかわ る 海事法と 位置づ け 、武具 と 女性の問 題 は領 主権力 に と っ て 大 きな関 心 事で あ っ たこと 、 明暦の「條書」 は後 に 継 承 さ れ た 指 針 で あ っ た こ と を 明 ら か にし て い る 七( 六十 ) 。さ ら に 氏は、 船 頭・ 水主た ち の非法行 為は 薩摩藩に とっ て琉球 支 配 の 安 定を損なう 要 因の一 つ であり 、 「條書」はその規制 装置の役 割を 持っ て い たと指摘して い る 。 琉球側 に通 達された「掟 書」に も 「條書」と 同 じ項目 が 含まれて おり 、薩摩の船頭・水主への統制 は、 琉球 にも 通 達 され て い た 。 以下 、 傾 城証 文の 内 容 と関 連す る と思われる事 項を挙げ 、その関 わりを検討したい。 「掟書」 の条 目で 傾城 証文の内容 と 関連しそうな項目を整理す ると 、在 番 の 下 人 ・ 船 頭 ・ 水 主 な ど の 横 柄な 態度 を戒 め、 琉 球 人 に対す る 押 売 り・押 買 い、掛売を禁 止す る も のと 、酒 色の戒めと 琉球 の 女 性と の関 係に関す るもの に 大別で き る 八( 六十 ) 。真 栄 平 氏 は 、 薩 摩の役 人 や船頭 ・ 水主の 逸 脱行為は無く ならなかったものの、明 暦の「掟書」の内 容は後々も引き継がれて い き、 薩摩の海 事法の 基本 にな っ た ことを明らか に し て い る 九( 六十 ) 。こ の こ と を 踏 ま え る と 、 同様の内容を 含 む 「掟書」は、薩摩側の対琉 球政策の 一端が 琉 球 側 に も通達されたもので あ り、琉球側は協 力を求め られて い たと 考えられる 。 「條 書」 と 傾 城 証 文の項目を対 応さ せて みる と 、 似通った内容 が見い だ させる。 まず、傾 城証文の 三条 目の「一 、 従 御国 元之 衆 万 賭物 請取間敷事」に注目したい 。 「 條 書 」 の 二条目・三条 目
・五 条 目 に見 られ る 、 在番 の 役 人を 始め とした 薩 摩人の 押 売 り ・ 押買い、掛売に対す る 統制と併せて考える と 、王府 が 以上の三項 目を達成す る ため に、自 国 の百姓 ・ 士 族 に 対 して 統 制 して いるの では ない かと思 わ れる 。 実 際に、 「 條 書 」 の 最 後 の 一 文は、 「 各 以 此心得 嶋 中諸事堅固ニ可被申 付 候、 聊緩 疎有間 敷 者 也 。」 であり 、 「掟書」の趣意を汲み受けた上 で 、 手を抜く ことなく国 内 を治め るよう に と述べ ら れて いることから 、琉球側 に「條書」の内容 に 沿った形で自国を 統制 す る ことが求 められて いる ことが 分 かる 。 次 に 、 琉 球の女性と渡海 す る薩 摩人と の 関係に関す る 一条目 ・ 四 条 目・五 条 目・ 七条目に 注目する と、 薩摩側 が 警戒し て いる の は、 薩 摩 の船頭 ・ 水主が 琉 球に向かう途 中の島 々 や 琉 球 に おい て 、 現地の女 性 と の交 際 や 所帯を持つこ と 、 在 番 奉行所の役人が 酒 色 に溺れ 統 治 に 支 障 を き た す こ と で あ る こ とが 分かる 。 しか し 、 「掟書」が 出 された一六五 七年 の段階 で は、辻・ 仲島は村 立ての 前 で あり 、 『 琉球国由来 記 』によれば、人家は無か っ たと さ れ て いる。しかしながら、那覇には傾城らしき女 性 が 散 在 し て いる 状 況で あ り 、 王 府 側 は そ の存 在 を 把 握 で き て い な か った ので はな い かと 思わ れ る 。把 握で きて いな いと いう こ と は 、 「條 書 」 の一条 目・ 四条目・五 条 目・七条目に見 ら れる、 薩 摩 の 役人 や船 頭・ 水 主が 遊 女 や 現 地 の 女 性 と の 交 際 を 禁 止 す る 内 容に 協 力 す る こ と は、 難しく な る。さ ら に、傾城を完全に 排除 す る ことはそ う簡単に で きる こと ではない。 また、先 に 触 れたよ う に 「 條書」 の 三条目 の 内容 から 、 薩 摩の 役人 や 船 頭 ・ 水 主 な ど が 那 覇 の みな らず 、諸間切 にも 出 向 く 可 能 性 が あったこ とが示唆 される。このことから、 間 切内に 売 買春を する 女性 がい た場合 、 トラ ブ ル が起 こる こ と も予 想 さ れる 。 そ の ため、傾城証文の 一条目で 傾城を出 させない と 誓 約させる ことに なっ た の で は ない だろうか。さ らに 、諸 間 切 から 傾 城 を出さ な い こと は先 述 の 通り 、 王 府の 国内 統制 の 意 図も 含 む こ と が 可 能で あ る。 王府は薩摩 側 から出 さ れた「 掟 書」に準 じた統制の 意 味合い と 、 国 内 の統制 の 意味合いを併せて 誓約させ て い たの で は な い か と考えられる。 以上 のよ うに、傾城証文の内容 と明暦三年 ( 一六五七 ) の「掟 書」 を 比 較検 討して み ると 、傾 城証文は、全条 とも薩 摩 側の要求 に即 し た 内 容 だ っ たと 考 え られ る。つま り 、 「 明 暦以来 度 々 被 仰 渡候 趣」とは、 明 暦 三 年の「島津久通外六 名 連署掟書 」を指し て いる と考えられ 、 「掟書」の内容を琉球国内で 王 府 が 適用・ 運 用 す る ため に 再 構成し た も の が 傾 城証 文で はな いかと 考 えられ る 。 おわ り に 本稿 では、 実 態 を 伴 わ ない 証文とさ れ て き た 傾 城 証 文 が提出 さ れ続け た 意義を明らかに す る こ と を 目的とし た。 そのためにま ず 、 近世琉球の傾 城をめぐ る 統 制令を整理・再検 討 し 、傾城証 文の位置づけを考察 し た。そ の 結果、傾城証文は、 評定所 の 僉議を き っかけ に 特に傾城 と の 交際 を 禁 じ る ために導 入 されたこ と 、 ま た 百姓の傾 城化を 禁 じる内容も 含 むことから、宮 古・八重山 を のぞく 全 地域を 対 象に売 買 春を禁じる統制である こ とを 指 摘 し た 。ま た 傾 城証 文 に 限らず 、 統制の趣 意が 貫徹せずと
も、まずは証 文で 誓約 させる こ とが民衆統制の 一 つの方 法 であっ たと 思わ れ る 。 次 に 、傾 城証文の誓約内容 を再 検討 した上で 「 明 暦以来度々被 仰渡候趣」 が どの統制令 を 指し て い る の か検討 を 加えた。 傾城証文の内 容は次の 二点に大 別できる。 一 つは、 王府の国 内 統制である「傾城慰」の 禁 止・ 百姓の傾城化 禁 止 への誓 約 である 。 もう一つは薩摩 藩 との外交 問題を起こさな い ため、 薩 摩の役人 へ の対 応を 丁寧 にし 掛け 買いしな いと の誓約 で あ る 。 こ の二点に関 係す る と 思 わ れ る 統 制 令 の う ち 、明 暦 期 に出 さ れ て い たの が 、 「島津久通外 六名連署 掟書」で あった。本稿 で 検 討 し たように 、 「掟書 」 の内容を琉球国 内 で 王 府が主体的に 適用・ 運 用 す るため に再 構成 し た も の が 傾 城証 文で あ る と 考 えられ る 。その た め 、 国 内統制のみ な らず、外交に関わる内容も含 ま れた と 思 われ る。 た だ し 、 評定 所の僉議 内容から傾 城 に 関 する 項目に つ い て は王 府 の 国 内 統 制 の一 環 で ある こと は 明 白 で ある。 た だ、 こ こ で留意 したいのは、第 一 章 で みた一連の 統制令より も 「掟書」が先行し て通達さ れ て い た こと である。 この ことから、 「 掟 書 」の内容 を きっ か け に、 国 内 の「傾 城 慰」 や傾 城稼 業 へ の統 制 が 行 わ れ る よ うに なった 可 能性 が指摘 で きる 。 次に、 諸 間 切 、 那 覇 士 族 の 与 中 から 提出 さ れ た傾 城 証 文をそ れ ぞれ分 析 す る こ と で 、 間 切 や 那 覇な ど諸地域におい て 、傾城証文 がどの よ う に 認識されて い たのかを明 らかにした。 諸間切 に お い て は 、雍 正十三年 ( 一七三 五 ) の段 階 で は 、 「傾 城」 に関す る 統制と薩 摩の 役人 と の 関 係 に関す る 統制 は別個の 統 制 と 認識されて い たが 、その後 、 道 光十 一 年 ( 一八三一 ) の段 階で は両者をまとめて「傾城証文」と 認 識して い た。那覇におい て は 、 道光二四 ( 一八 四四 ) 年の 証文で も 「傾城 証 文」 との 呼称は見ら れ ず、 証文 も別個 に 提出さ せ て い る こ とか ら、傾 城 に 関 する 統 制 と 、 薩摩と の 関係 に関す る 統制は別 々 に 捉えられていたことが分か る 。 以 上 のように、傾城 証 文の内容は王府の 国内統制 と外交に 関 わ る統制が同時に 行 われたと い う 性格 を持つ。 また、沖 縄本島・ 本 島周辺の 島 々 の諸間切から提出され て お り、広範囲 か ら提出 さ せ て い た と 言えよう 。諸間切の田舎百姓か ら傾城を 出さな い ことを 誓約 さ せ て い る た め 、 遊 里 統 制 と い う よ り 民 衆 統 制 の 一形 態で あ ったと考え ら れる 。 ま た 、実態を 伴 わなくとも提 出させ続け た 意図と し て は 、薩 摩 藩と のト ラ ブ ルを 回 避 す る た め に 、 王 府 が 自 ら 統 制可能な 琉球の 士 族 ・百姓 に 対して 統 制を行っ た結果であ る と思 われる。 同時に 、 「 掟 書」の内 容 を 踏ま える と、傾城証文によっ て 自国の 傾 城統制 を行い、 「掟 書」の 趣 意に沿った 対 応 を し て いる ことをアピ ー ル す る 狙 い もあ ったの で はない だ ろうか 。 しかし 、 「島津久通外六名連署掟書」の 内容は果たしてどの 程 度、琉球側に影響 し たの だ ろ うか。 本 稿 で は 触 れる ことが で きな かっ たが 、 今 後 の 課 題 とし た い 。
( 一 ) 伊波普猷 「尾 類の歴史 」『 沖縄 女性史』平 凡 社ラ イブラリ ー ( 二 〇〇〇 ) ※初出 は 小 澤 書店 ( 一九 一九 ) 、九 〇 - 一〇〇頁 ( 二 ) 例 え ば、 来和 雀 ( 久 志 助善) 「 辻の 今昔」 『 歓楽郷 辻 情話 史集』沖 縄郷土 文 化 研 究 会 ( 一九三 四 ) 、神 山 邦 彦 『 辻情 史』神 山 青巧 舎 ( 一九六六 ) 、宮 城 栄 昌『 沖縄 女 性 史 』 沖縄 タ イ ム ス 出版 部 ( 一九 六七 ) など 。 ( 三 ) 照沼麻衣子「 近 世 期琉球に お け る遊里の 成立およ び遊女 の 姿 」『立 教 大 学日 本 学 研究 所年報』立教大学日本学研究所 ( 二〇 〇五 ) 、六五頁 ( 四 ) 真栄 平 房 昭 「 琉球海域に お ける交流の諸相 」『沖縄県史 各論編四 近 世 』沖 縄 県 文 化 振興 会公文 書 管 理 部 史 料 編 集室 (二〇〇 五 ) ( 五 ) 豊見 山和行「近世琉球の 士と 民(百姓 )」 大橋幸 泰 ほか 編『 〈 江 戸〉の 人 と身 分六 身分 論を ひろ げる』吉 川弘文 館 (二〇 一 一 )。 な お 、 豊 見 山氏 は同論文 におい て 、母 親が「 傾 城」だったと の理 由 で 百 姓 身 分 とさ れた 後 、 筆 造 り の 技術 で 国 用に立 ち 新参士族に 取 り 立 て ら れた 事例 を 紹 介 して いる( 「 新参慎姓家譜 」沖縄県 立 図 書館 蔵 )。 ( 六 ) 渡辺美季「境界 を 越 え る人 々 」 井 上 徹編『 海域交 流 と政治権 力の対応』汲 古書院 (二〇 一 一 ) ( 七 ) 伊波普 猷 前掲 書、 一 〇 五頁 ( 八 ) 伊波氏の こ の 位置づけは多くの 研究に踏 襲 さ れ て きた。 宮城氏 は『沖縄女性史』沖縄タ イム ス 出 版部 ( 一九六 七 ) 、九 七 - 九八 頁 で 傾城 証文に つ い て「 士族 た ち の そ の 証 文 は 全 く 無 効 力 で あ っ た 」 と 述 べ て い る 。ま た 、 那 覇 市 企 画 部 市 史 編 集 室 編 『 那 覇 市 史 資料編 第 二 巻 中の 七 那覇の民 俗』 ( 一九七九 ) でも伊波 氏と ほぼ同じ評価 がなさ れ て い る。 ( 九 ) 豊見 山 和 行「 犯罪と 刑 罰 」『新・ 琉 球 史 近世編(上 )』 琉 球新報社 ( 一九 八九 ) 、二七六 - 二七七 頁 に て 指摘 さ れ ている 。 ( 十 ) 宮城栄 昌 『沖縄女性史』沖 縄タ イム ス 出 版部 ( 一九六 七 ) 、九 七 - 九八 頁 ( 十一 ) 「十二 訴 訟 写 ( 道光二六年~二七年)一三八六 号」 琉球王 国評定 所 文 書編集委員会編 『 琉球王 国評定 所 文 書 第二巻』浦添市教育 委 員 会 ( 一九八九 ) 、五八 二 頁に「那覇 者 会船所ニ而旅 人其 外田舎諸島 之 者共入 込 罷 在 、 下 知方 茂 届 兼 候 付 而 ハ、 下 役 共召列 、 無 調 法 之者 ハ則 々 其 取 扱 不仕ハ 不 叶事 候処 、下遣 両 人 ニ 而ハ 数ケ所懸而之 事ニ而 中 々手式及兼 、 適無 調法 者与 見及候而も手を付涯々取 扱 難成、 至 而 差 支 申 候」 とあり、 那覇は統 制しにくいと認識さ れ て い た こ とが分 か る 。 ( 十二 ) 伊波 普猷「尾類 の 歴史」前掲 書 、九三 - 九四頁 ( 十三 ) 宮城栄 昌 前掲 書 、 九 六 頁 ( 十四 ) 宮城栄 昌 前掲 書 、 九六 頁 ( 十五 ) 照沼 麻衣子 前掲書、六九頁