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東アジア医療史より見たベッテルハイム史料(1): 沖縄地域学リポジトリ

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Author(s)

帆刈, 浩之

Citation

沖縄史料編集紀要 = BULLETIN OF THE

HISTORIOGRAPHICAL INSTITUTE(36): 29-40

Issue Date

2013-03-29

URL

http://hdl.handle.net/20.500.12001/11445

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東アジア医療史より見たベッテルハイム史料(1)

帆刈 浩之 はじめに 本稿は 1846 年から 1854 年まで琉球に滞在したプロテスタント宣教師、バーナード・J・ ベッテルハイムの史料をもとに、東アジア医療社会史の視点から彼の医療活動を検討する ものである。(1)琉球におけるベッテルハイムの活動については、照屋善彦氏による包括的な 研究や琉球語研究に関する分析などがあり、(2)琉球史を彩る著名人として一般にも広く知ら れるものとなっている。しかし、ベッテルハイムに対する評価は総じて厳しく、琉球滞在 中に多くのエネルギーを注いだ医療活動に関する評価も十分とは言い難い。現在、ベッテ ルハイムの日記・書簡の多くはすでに A. P. ジェンキンズ氏によって翻刻され、様々な観 点からの分析が可能となっている。(3)本稿においても、ベッテルハイムの活動や思想を広い 歴史的視野から再評価できればと思う。 19 世紀中期の東アジアでは、プロテスタントの医療宣教活動が中国を中心に活発に展 開されており、琉球もそのネットワークに組み込まれようとしていた。当時の宣教師たち は「病気を治す」ことをモットーに活動を拡大させていた。そして、自らの医学を科学的 な優れた学問として位置づけ、東アジアの伝統医学を蔑視して止まなかった。こうした当 時の東アジアの医療宣教師たちの価値観をベッテルハイムも共有していたのであろうか。 また、あわせて中国や琉球の在来医療に関する記述や衛生観などについても検討したい。 1.東アジアにおける医療宣教 はじめにベッテルハイムが東アジアに到来した 19 世紀半ばにおける医療宣教活動につ

HOKARI Hiroyuki: On the Potential Uses of Sources Created by Bernard Bettelheim from the Viewpoint of East

Asian Medical History I

(1) 本 稿 で 主 と し て 用 い た 史 料 は、A. P. Jenkins 編『 沖 縄 県 史  資 料 編 21 The Journal and Official Correspondence of Bernard Jean Bettelheim 1845-54 Part I(1845-1851)近世2 』(沖縄県教育委員会、2005年) である。以下では、『県史 21』と略す。現在、すでに Part II (1852-54) が刊行されており、今後検討したい。 (2) 照屋善彦『英宣教医ベッテルハイム:琉球伝道の九年間』人文書院、2004 年。

(3) A. P. Jenkins,"TIMEO DANAOS ET DONA FERENTES: Ryukuan Interaction with the Missionary Bernard Bettelheim", in Evgeny Steiner, ed. Orientalism/Occidentalism: Languages of Cultures vs. Languages of

Description. Russian Institute for Cultural Research, Moscow: Sovpadenie, 2012. は、過去の研究が持つバイ

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いて概観しておく。(4)東アジアにおける近代史の幕開けは近代西洋との邂逅であることは異 論がなかろう。そして、医学分野では人体解剖図や牛痘接種技術の伝播をもって、近代化 の始まりとされることが多い。しかし、医学の技術面のみを見ていては、歴史の深層は見 えてこない。西洋人は医学伝播のために東アジアに進出したのではなく、キリスト教の布 教、アジア物産の確保、植民地支配などの目的があり、多くの場合において医学は手段で あったということを近年の医療社会史研究は明らかにしている。(5) 東アジアにおけるキリスト教の布教活動において、最初に西洋科学を手段として用いた のはマテオ・リッチである。その後、16 ~ 18 世紀にかけて多くの西洋人宣教師が西洋 の「進んだ」天文学や数学などの知識を中国に伝えた。その中には医学知識も含まれてい た。著名な医者・哲学者・数学者であったテレンツ(Johannes Terrenz Schreck)は 17 世紀 初頭の中国で診療こそしなかったが、検死・人体構造の知識を中国語に翻訳した。さらに、 1692 年には医者ではない二人の宣教師が康熙帝の三日熱マラリアをキニーネによって治 療した。これにより、少しでも医学知識のある宣教師は宮廷医師として採用された。宮廷 医師ジョセフ・コスタ(Joseph Costa)などは、20 年間も中国で診療活動に従事、宮廷内 のみならず、一般民衆をも治療したという。しかし、当時の時代背景からカトリック教会 の宣教師が医師になることは禁じられていた。 その後、ヨーロッパでは立憲革命、アメリカ独立、フランス革命、そして産業革命など、 時代を画する事件が相次ぎ、西洋諸国の植民地支配を背景とした宣教活動が展開されて いった。そうした中、医療が果たす役割は増大した。一つは植民地における西洋人の健康 保持のため、もう一つは現地住民に慈愛を示す有効な宣教手段として最大限活用されたの であった。 プロテスタントによる布教活動に見られる特徴は、現地語による福音の紹介、近代知識 の教育、病気治療の3本柱であった。そのため、伝道会の赴くところには、印刷所、学校、 そして病院等が教会とともに設立されたのである。

(4) G. H. Choa, Heal the Sick was their Motto: The Protestant Missionaries in China. The Chinese University Press. 1990. David Hardiman ed., Healing Bodies, Saving Souls: Medical Mission in Asia and Africa. Rodopi, N.Y. 2006. 吉田寅「中国キリスト教初期医療伝道史研究:ホブソン著中国語医学書の一考察」『立正大学文 学部研究紀要』12、1996 年。 (5) 「医学史」ではなく、「医療史」、あるいは「医療社会史」なる研究視点を有した研究は 21 世紀の歴史 学研究の中でも、とくに研究の進展が見られたジャンルであろう。それは、医学技術の進歩を跡付け るような「内史」としての医学史に対して、人類と病との関わりを社会や経済、文化など外的な文脈 から分析しようとする「外史」としての医療史ということができる。さらに、医学史が近代西洋医学 を到達点とする単線的、かつ発展史観であることが多いが、医療社会史は洋の東西はもとより、伝統 医学、呪術や民間療法なども、その射程に入れた多元的な視角を備えている。これは何も西洋近代医 学の成果を否定するものではない。むしろ、脳死や遺伝子治療などの問題からも窺えるように、科学 技術の進展と社会倫理とのアンバランスを認識する上で意味深い研究であるといえよう。

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最初に中国に進出したプロテスタント教会はロンドン伝道協会(London Missionary Society)である。1807 年、マカオにプロテスタント宣教師であるロバート・モリソン (Robert Morrison)が到来し、プロテスタント伝道が開始された。彼の業績は、中国語の文 法書、中英辞典の編集など多数あるが、聖書の中国語訳の刊行が著名である。モリソン自 身は医療設備のない布教先で行える最低限の医学知識は学んでいたが、実際上は医師では なかった。それでも彼は医師こそが布教の邪魔をされることなく、民衆に接近できる仕事 であると確信するに至り、中国で最初の診療所を開設した。こうして、モリソンに続く宣 教師たちは、中国では医学と布教活動の結合こそが効果的であると考えるようになった。 中国において本格的にプロテスタント医療宣教活動を行ったのはアメリカから来たピー ター・パーカー(Peter Parker)であった。1835 年、彼は中国人富商の支援もあり、広東のファ クトリー内に眼科医院を設立した。初年度から 2,000 人を超す患者を集め、寄付金は西 洋人だけでなく、中国人からも寄せられた。その後、潤沢な資金の運用や事業運営のた めの組織が必要とされ、1838 年、広東において中国医療伝道会(The Medical Missionary Society in China)が組織された。その首唱者はピーター・パーカーおよび元東インド会社 付き医師であったトーマス・カレッジ(Thomas Colledge)である。その宣言文には次のよ うに組織の趣旨が記されていた。 中国人の間で医療活動を行うことから得られる成果として、住民と外国人との友好的な 交流、欧米の人文と科学の普及が挙げられ、最終的に「哀れな迷信に支配されている地で 神の福音を紹介する」ことができると述べていた。なお、パーカーはこの時、副会長に選 ばれている。ここで注目すべきことは、設立の会合が広東の商工会議所で開催され、提 唱者の一人であったカレッジが当日欠席し、代わって会長にウィリアム・ジャーディン (William Jardine)が就任したことである。彼は、東インド会社付きの医師から商人に転身 した人物で、東アジアのアヘン貿易を独占したジャーディン・マセソン商会の経営者であ る。19 世紀中期の医療宣教活動と商業活動が密接につながっていたことが窺える。 ベッテルハイムが琉球に滞在した 19 世紀中葉は、まさに中国における医療宣教活動が 発展の時期を迎えていた。 当時、アヘン戦争直前の反英気運が高まる中にあっても、医療宣教は着実に発展して いった。実際のところ、アヘン問題の処理のために広東に派遣されてきた林則徐のヘルニ アをパーカーが治療し、林が西洋医学を賞賛したことによって、清朝高官がパーカーの病 院を訪れることが多くなったという。パーカーを中心に展開されていた中国での医療宣教 は、1838 年末、ロンドン伝道会によって派遣された医療宣教師ウィリアム・ロックハー ト(William Lockhart)の着任によって、新たな発展が見られた。パーカーによって経営され、

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いったん閉鎖されていたマカオの医院は彼によって再開され、1839 年には、伝道会から 更に医療宣教師ベンジャミン・ホブソン(Benjamin Hobson)が来華した。 1827 年 カレッジ、マカオに眼科医院設立。 1835 年 パーカー、広東に眼科医院設立。 1838 年 広東に中国医療伝道会設立。 1843 年 香港に教会医院を設立(ロックハートが設立、ホブソンが運営)。 1844 年 ウィリアム・ロックハート、上海に医院開設。 このように広東や上海、寧波など、中国の開港都市では宣教師による医療活動が着実に 展開されていた。こうした状況をベッテルハイムは常に意識していたであろう。次に琉球 訪問前のベッテルハイムが得たであろう情報と琉球での活動に対する期待について検討す る。 2.広東訪問と医療宣教への期待 東アジアに到達したベッテルハイムはまず香港において琉球渡航の準備にあたった。香 港の知識人やクリスチャンから情報を集め、当初は直接、琉球へ行くのではなく、福州か 上海で中国人通訳を獲得したほうがよいと考えた。(6)しかし、琉球と福州との間をジャンク 船が往来していることはわかったが、当面の船便がないという理由により香港から琉球に 直行するルートを選んだ。(7) こうした情報はすでに中国で活動していた宣教師たちからのものであり、例えば、ロン ドン伝道会によって厦門に派遣されたストロナク(Stronach)(8)は、厦門の清朝官僚から豪 華な欧風料理でもてなされるなど、尊敬されていたという知らせに大変勇気づけられてい る。(9)こうした情報も琉球での活動に大いに期待を抱かせたであろう。 さらにベッテルハイムは、琉球を訪問した経験を持つピーター・パーカーに会うため、 3月末、広東を訪れた。 「パーカー博士は私に彼の家でキリストの説教をするよう促した。(中略)広東には多くの支持者 がいることがわかった。(中略)朝の礼拝が終わると、博士とともに病院へ行った。患者を含め、 多数の人々が神の言葉を聞きに来ていた。150 人は下らない。(中略)パーカー博士の病院は珍 (6)『県史 21』1846 年2月 21 日、p.22。 (7)『県史 21』1846 年3月2日、p.33。

(8) 原文では Stronok だが、正しくは Stronach。Alexander と John の兄弟で廈門で活動していた。 (9)『県史 21』1846 年2月 28 日、p.32。

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しい手術が多く行われていることで知られていた。壁のあちこちに中国人画家の描いた 20 から 30 もの腫瘍の標本が、個人患者の肖像画とともに掛けられていた。大きさや部位からして非常 に珍しいだけでなく、博士はすべての手術を成功させていた。病院の担ぎ人夫は、左こめかみ から耳と首にかけて 18 ポンドほどの腫瘍ができていた。治癒後、彼は生涯、無償で病院の担ぎ 人夫として働くことを引き受けた。病院の名声を上げているのは、土着民に対する眼の治療で あった。博士には手術において先進技術を備えている2人の助手がいたが、驚いた事に彼らは 解剖学の表面的な知識しか心得ておらず、パーカー博士が行うことを観察する以外、理論的な 勉強はしていなかったし、福音に関しても無知であった。おそらくイエス・キリストという名 前以外、キリスト教に関する知識は有していなかっただろう。英文一行すら読めなかっただろ う。」(10) ベッテルハイムは、パーカーの病院を訪問し、実際に博士の手術を見学、眼科治療を中 心に中国人の助手を雇いながら、手広く事業を進めていたことを観察している。しかし、 科学知識の欠如やキリスト教への無知など中国人の「野蛮さ」も指摘している。さらに、パー カーの賞賛すべき活動にも関わらず、反英闘争の真っ只中、一部の中国人からは嫌悪され ていることにも言及している。 「パーカー博士は、貧しく不幸な中国人を支援する為の呼びかけをしていることが知られている にも関わらず、住民の一部から脅かされており、「白い悪魔」と呼ばれていると言っていた。」(11) また、早くから商品経済が浸透していた広東には富裕階層が形成されており、西洋との 交易によって西洋文明を積極的に受け入れる土壌が育っていた。経済面でもデルタという 地理環境を生かし、養蚕が盛んであった広東は 19 世紀の後半、器械製糸工場で優れた生 糸生産を実現しており、多くの婦女が繰糸女工として労働するという状況が見られた。そ して、経済的自立を獲得した女工たちの中から封建的父権社会に反発し、そこからの離脱 を図る者が現れた。いわゆる「自梳女」と呼ばれる女性たちで、生涯結婚せずに「金蘭会」 などの扶助組織をつくった。(12)パーカーがこうした女性たちを診療した縁により、ベッテル ハイムは特異な広東文化に触れることになる。 「入院中の中年女性の親戚という上品な女性たち数名がパーカー夫人を訪ねた。私は客間に招か (10)『県史 21』1846 年3月 27 日、pp.51-52。ここで触れられている「病人の肖像画」は中国人画家で ある Lam Qua(林官)こと、関喬昌によって描かれたものである。西洋画の技法を学び、ピーター・ パーカーのもとで多数の医学画を描いた。 (11)『県史 21』1846 年4月2日、p.54。 (12) 桑名晶子「中国華南における不落家の起源・形成」『史苑』 55(1)、1994 年。岸本美緒「結婚しない 同盟:広東製糸女工の人生設計」『地域社会論再考 明清史論集2』研文出版、2012 年。

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れた。そこには彼女たち9人と通訳の言語学者がいた。彼女たちは、広州から約 20 マイル離れ た仏山の人で刺繍工人として雇われていた。彼女たちの礼儀正しくおだやかな仕草は広東民衆 の粗野さとはかなり違っていた。彼女たちはパーカー夫人が仏山の自分たちを訪れることを心 から願っていると何度も表明した。そこには外国人に対する土着民の親切心が表れていた。広 東の下層民は皆、自国政府に反抗的であり、すべての外国人に対して同様、英国人にも激怒し ている。午後に私たちは彼女たちの船に乗り、家に招かれた。床、壁、椅子、ソファは鮮やか な布と刺繍カバーで覆われ、非常に華やかな光景だった。彼女たちは音楽家を呼んで演奏させた。 少女が二弦ギターに合わせて歌い、老婦人の息子の一人が銅鑼を打った。それは耳をつんざく ばかりの音であったが、非常にテンポ良く続いていた。家族の一員である病気の少年がパーカー 博士に紹介され、診察の後、博士の家に招かれた。双方に善意が満ちていた。」(13) 開港まもない香港とは異なり、18 世紀半ば以来、欧州諸国との貿易が行われてきた広 東には、西洋の文物が早くから伝播していた。アヘン戦争後まもない時期に広東を訪れた ベッテルハイムは、西洋人を排斥する中国民衆を垣間見つつも、西洋医学を受け入れてい る富裕層の存在を知ったのである。 中国から琉球へ渡航する船舶に関し、ベッテルハイムは福州から琉球へと渡る琉球貢船 ではなく、広東からオーストラリアへと向かう軍艦に乗り、途中で琉球に立ち寄ったので あった。その軍艦は広東で茶を搭載した後、香港において商船としての登録を申請し、シ ドニーへと向かう船だった。(14)東アジアの伝統的な朝貢貿易ルートではなく、アジアで植民 地を拡大させていたイギリスの植民地ネットワークの勢力を見て取れる。 また、ベッテルハイムは広東を発ち琉球に向かう際、「パーカー博士に、広東総督から 琉球国王への紹介、若しくは推薦状を書いてもらうように頼まなかったことが残念でなら ない」とも記している。(15)この考えの実効性は疑わしい。琉球王国が清朝の朝貢国であった ことを知っていたが、清朝官憲からの紹介が琉球での宣教活動に利用できるかどうかに関 しては確信を持てないでいたことが窺える。 このように琉球訪問の前、広東においてパーカーの医療宣教活動のある程度の成功を見 たベッテルハイムは、琉球での活動に多少の期待を持ったであろう。しかし、琉球で思い 描いていたような活動ができなかったため、結果的にかなりの焦燥感に苛まれたことであ ろう。 (13)『県史 21』1846 年4月3日、p.54。 (14)『県史 21』1846 年3月 26 日、p.51。 (15)『県史 21』1846 年4月 21 日、p.59。

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3.琉球における医療活動と科学 琉球におけるベッテルハイムの医療活動の概要は、すでに照屋善彦氏によって明らかに されている。ここでは主としてベッテルハイムの琉球の在来医療や琉球人への視線を検討 したい。 ベッテルハイムは診療所の門に掲げる看板の制作を琉球人に依頼する。そこからは広東 のパーカーが運営する病院のような規模になることを願う気持ちがうかがえる。 「…見出しは、香港の病院と同じく、仁施医局と右から左に読む。意味としては無料なおかつ高 潔に薬を提供する施設ということであった。看板には私の(病院設立の)趣旨と患者が守るべ き規則が記されていた。病院が来客でいっぱいになることを願い、…」(16) 「先述したが、本日、香港の病院での運営規則を多く採用した漢字入りの大きな看板を掲げた。 内容の要旨は以下の通りである。 兄弟よ!ヨーロッパの数か国において医師として成功を収め、私は今、あらゆる種類の薬 品と器具を用い、皆様の病気を治療いたします。英国によるこの恩恵はあなたたちの英国船 への親切に対する報酬です。そのため、誰でも頭・目・耳・鼻・四肢などの如何なる病気に でも罹ったら、この診療所に来て下さい。神の慈悲により、治療に尽力します。びた一文 頂くことなく、薬も差し上げます。当院同様、広東・上海・寧波・香港にも病院が設立され、 毎年何百もの人々に多大な恩恵を与えています。また、多くの中国官僚たちにも讃えられ ています。 [ 無料診療所 ] 規則:1.当診療所は日曜日を除き、毎日9時から 12 時まで開室する。 2.患者は各自、鉢・さじなどを用意すること。 3.入院患者は常に清潔を保つこと。 4.入院患者は静かにする(付き添いは決められた時間内に)。 5.酒・アヘンは禁止。 6.貧者は毎日、米とお金、また必要な台所用品を受け取ることができる。 7.どの患者も医師の指示に厳密に従わなければならない。飲食などについても同様。   この規則に従える者は当診療所を第二の家と考え、友人・兄弟とみなされる。 こうした私からの申し出が土着民に受けいれられれば、診療所の開設経費がかかり、創設間 もない我々の組織に多大な負担となることは疑う余地がない。しかし、私は広東で設立された 「中国医療伝道会」に薬やその他の供給を申請しようと思う。また彼らも疑いなく私を代理人と して認めてくれるだろう。私の知る限り、中国にいる医療宣教師はみな伝道会に所属しており、 (16)『県史 21』1846 年6月 20 日、p.108。

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すべての会はこの目的、すなわち、中国人への無料医療救済のためだけに設立されている。私 の友人で、伝道会の積極的な運営代表であるパーカー医師は間違いなく私の申し出を喜ぶだろ う。認可されれば、相当な経費節約となるし、結果的には伝道会への助けとなるであろう。私 はただ、土着民がこの申し出を利用してくれることを望むばかりだ。とにかく、民衆に対する、 こうした公示はおそらく抑圧されてきた琉球人にとっては初めてのことだし、私たち及び私た ちの活動への関心を集めるだろう。神の厚意と祝福によって、よい結果が得られんことを。」(17) ベッテルハイムの「仁施医局」は彼が香港滞在時に見聞した香港教会医院のノウハウを 参考に計画されたことがわかる。そして、広東に設立された「中国医療伝道会」と緊密な 関係を築こうとしていた。そして、最初の患者がベッテルハイムのもとを訪れた。 「…午後、足に怪我をした男がやって来た。彼は今朝、馬の背に乗ったが、うまく乗れなかった ため落馬した。私は可能な限りの慎重さでこの男の傷を縛り、痛みを和らげた。私の医者とし ての必要性を見せる上での初仕事であったため、神を讃えた。土着民が私のもとを訪問するこ とが許されたことは明らかであった。…」(18) ベッテルハイムは病気治療にあたるだけでなく、「迷信」に支配されている琉球の医者 や民衆を教育したいとも考えていた。 「…[ 琉球人の迷信を批判して ]、その後皆に解剖図と手術器具、またそれらの使い方を見せた。 皆私を理解したように思えた。私は、『皆さんの子や兄弟を連れてきなさい。そうしたら、良い 医者になるためにはどうしたらいいかを教えましょう。また琉球の医者を連れてきなさい。教 えますから』…」(19) そして琉球の医療知識に対して近代西洋医学の価値観から否定的な評価を下している。 「本日、那覇の地方官からベッテルハイム夫人(妻)の健康と病状を尋ねる手紙を受け取った。 その中には小さな乾燥した緑の豆と赤根ピクルスのような物もあり、この手紙が何なのか知る すべもなかった。前者は中国全土において清涼・解熱作用があると考えられている。彼らは豆 をゆでると、砂糖水と一緒にして消炎薬として飲む。もちろん、西洋の医学理論ではこの考え は認められない。豆は全く甘味がなく、煎じ薬は水と変わらないほど薄められて味が無かった。 後者の贈り物は吐き気を催す以外の何物でもなかった。それは甘さ、塩気、そして酸味が同時 に味わえた。これは目新しく面白い味ではあるが、イギリス人の口には合わない。私たちの付 (17)『県史 21』1846 年5月 23 日、p.109。 (18)『県史 21』1846 年5月5日、p.78。 (19)『県史 21』1846 年5月 10 日、p.83。

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き添い人は後者へのこの判断にとても驚いたようだ。」(20) 那覇の地方官からの贈り物は、夫人の体調不良を考慮したものであったと考えられる。 「緑の豆」(green peas)は西洋のグリーンピース(豌豆)ではなく、中国由来の「緑豆」で あろう。中国医学で、緑豆には解熱・解毒・利尿作用があるとされる。また「赤根ピクルス」 は「茜」の根および根茎を乾燥させた漢方薬「茜草根」(婦人の月経不順の薬)であろう。 「…医療を実践している者として、土着民の奇妙な考えに触れておきたい。彼らの腸がゴロゴロ 鳴る時、これは腸内の芋虫が空腹から泣いていることによると言う。治療はもちろん、できる だけたくさん食べることである。この考え方は地元の医者によって中国からもたらされた。ま た「五臓」(肝臓・心臓・胃・肺・腎臓)という考えも。」(21) 古来、中国医学の世界では体内のムシが病気を引き起こすと観念されていた。中国最古 の医書『黄帝大経』にはすでに体内寄生虫に関する記述があった。漢民族の南進とともに 南部中国の温暖湿潤気候に特有な地方病に遭遇し、ムシに関する関心は強まる。(22)それは経 験による成果でもあったが、想像上の産物として、時には道教など宗教的色彩を帯びるこ とも多かった。日本では独自に発達した鍼術の医学書に多くのムシが掲載されていた。(23)琉 球にも中国や日本から伝えられた医学理論にムシを病因とする病気の治療法が存在したと 思われる。しかし、17 世紀の顕微鏡発明による寄生虫学を含む西洋医学を学んでいたベッ テルハイムにとって、こうした観念は迷信でしかなかった。 「…私は次のように言わねばならない。中国における医学技術は全く取るに足らないものだ。そ の証拠に広東の総督耆英は気分が悪い時、英国人医師に往診を頼んでいる。また上海や寧波の 立派な病院では数百人の中国人患者が英国人医師の治療を受けているのだ。時計の仕組みを知 らない人はそれが壊れた時、修理することはできない。現在、中国人医師たちは人体の仕組み を何も理解しておらず、どうやって病気を治せるだろうか。しばしば老婦人が治療に成功する ことがあるが、彼女は医者だろうか。」(24) 琉球の医療が中国由来の知識であり、そして中国医学は解剖学の知識もない、非科学的 (20)『県史 21』1846 年6月 16 日、p.105。 (21)『県史 21』1846 年 12 月5日、p.181。中国医学における五臓には「胃」ではなく「脾」が含まれる。 (22) 范家偉の研究を参照。例えば、『六朝隋唐醫學之傳承與整合』香港:香港中文大學出版社、2004 年。 (23) 戦国時代の日本で刊行された鍼術の医書『針聞書』には 63 種の「ハラノムシ」が描かれていた(長 野仁ほか編『戦国時代のハラノムシ:『針聞書』の愉快な病魔たち』国書刊行会、2007 年)。最近の研 究成果として、長谷川雅雄など著『「腹の虫」の研究』(名古屋大学出版会、2012 年)がある。 (24)『県史 21』1847 年1月 12 日、琉球国王への書簡3、p.269。

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なものだとベッテルハイムは断ずる。時計の仕組みを例に挙げるなど、機械論的な身体観 が明瞭に示されている。また、老婦人による治療という記述からは呪術的な病気治療の存 在を窺わせる。 「今週に入り数日間、通事たちと宗教・道徳・科学に関する非常に役立つ会話を行った。特に解 剖学の標本は彼らの関心を集めた。骸骨は驚かせると同時に役に立った。私は彼らの宗教の偽 りをまさに人体の仕組みから証明した。彼らの宗教の目的は「胃袋」である。…(中略)…私 は彼らに言った。『あなた方は内臓以外の体の部位すべてをコントロールできる。なぜなら、心 臓と胃袋はキッチンのようなものであり、それ以外の何物でもないからだ。それは動物的な日 常生活における倉庫であり、神は人にそれを管理させようとしたのではなく、人生の主な目的 でもない。』…」(25) ここからは内臓に対する見方に関する東洋医学と近代西洋医学の違いを見て取れる。身 体全体を一つの有機体と見なす東洋医学における臓腑論は西洋医学のそれと比べ、広い概 念として捉えねばならない。ベッテルハイムは通事との会話によって、琉球人が胃腸など の臓器を重視していることに気づいていたが、近代西洋医学に典型的な機械論的身体観か ら価値判断している。むしろ人の意思では自由にならない内臓などの身体部位を軽視して いた点にベッテルハイムの精神性を見て取れる。そして、彼は東洋医学の後進性の背景と して琉球人の宗教を批判し、琉球人を啓蒙するためには科学的な教育が必要であると考え ていた。 「…私はマクゴワン博士が、著書の序文に私たちは彼らの前に福音を築くと同時に、儒教信奉者 たちに科学を教えなければならないと書いていることをしっかりと見た。…」(26) そして、寧波の医療宣教師マクゴワン(Dr.MacGowan)が電気に関する科学書を中国語 訳していることに関し、「電気の現象は、彼らの自称『科学』をすぐに揺るがすことだろう」 と記している。(27)西洋科学の優位性を誇っていたベッテルハイムではあったが、19 世紀半 ばの西洋医学では、まだ細菌学説は確立されておらず、病気の原因は汚れた環境における ガス状の存在(ミアズマ)だと漠然と考えられていた。 「[ 那覇の市場にて ]…このような市場の悪臭は少しも目立った特徴とは言いがたい。腐敗した野 (25)『県史 21』1851 年8月9日、p.542。 (26)『県史 21』1851 年7月 20 日、p.536。 (27)『県史 21』1851 年7月 20 日、p.537。

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菜の皮が水たまりに覆われるように投げ込まれ、食べ物のかけらとゴミの山などを見ると、こ のような市場はミアズマの発生地点だと考えられる。道理で多くの病気が近隣に存在するはず だ。もっとも私の医療援助は今のところまだあまり必要とされていないが。」(28) ある時、ベッテルハイムは自分の娘の体調不良の原因が、長雨により泥が井戸に流入し たためだと考えた。そして、その地域の住民の発病は不可避であるとして、那覇里主へ衛 生環境の改善の請願を行った。それは、那覇の井戸はすべてに蓋がなく、井戸の口が地面 と同じ高さであり、木の蓋をすべきだというものだった。また石炭と明礬を投入すること で井戸水の浄化を提案した。(29)この提案に対して、王府は次のように返答した。井戸は堅固 に造られており長雨でも濁水が混入することはない。また、木蓋や木炭・白礬を用いる必 要はない。そして、夫人と女児の体調不良は井戸の汚染が原因ではなく、流行病の邪に当 たったからだと述べた。(30)首里王府のベッテルハイムに対する頑なな姿勢は容易には変わら なかったのである。 小結 ベッテルハイムが琉球を訪れた 19 世紀中葉は、まさに英国が東アジアに勢力を拡大し つつある時期であった。プロテスタントの医療宣教活動も患者や中国人徒弟を増やし、中 国における拠点も増加していった。広東を訪問したベッテルハイムはピーター・パーカー が運営する眼科医院の「成功」を直接目にする機会に触れることで、琉球における自らの 活動に期待を膨らませていた。さらに広東で設立された中国医療伝道会との連携も計画し ていた。東アジアの医療宣教ネットワークを視野に入れながら、ベッテルハイムは琉球に 足を踏み入れたのである。 琉球におけるベッテルハイムは、中国における医療宣教の先達に習い、科学に立脚した 「優れた」近代西洋医学を「迷信深い」琉球人に教えるという姿勢に立ち、医療を実践した。 琉球在来の医療については、「非科学」的な中国由来の医学と見なし、儒教とともに否定 的な見解を持っていた。彼は近代西洋科学を一つの判断基準として琉球の伝統医学を差別 視したが、その際、「中国由来」など中国を媒介にしていた点は留意しておきたい。 医療社会史研究に特有の視点として、社会的存在としての医師という問題がある。国家 が近代アカデミズムによって養成された医師の権力を担保するに至ったのは近代以降であ る。それ以前は、病気治療の能力を持った者こそが信頼(或いは信仰)の対象であった。 (28)『県史 21』1846 年8月2日、p.131。 (29)『県史 21』1849 年4月 27 日、那覇里主宛、pp.304-305。 (30)「G人より差出候文及G人江差遣候文之大意」61、『琉球王国評定所文書』第6巻、浦添市教育委員会、 1991 年、p.86。

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その意味で患者にとって、ある医術が科学的か否かという問題は重要ではなく、医療宣教 師と呪術医は対等の関係だったと言える。実際、中国で外科手術を中心に目覚ましい治療 効果を上げたプロテスタント医療宣教活動は、医学としてではなく魔術として捉えられる ことがあり、キリスト教を攻撃する流言が広がることにもなった。琉球の民衆がベッテル ハイムの医術を目にした時の反応はどのようであったか。琉球王国による隔離政策の影響 もあり大きな摩擦も起きず、琉球社会はベッテルハイムの医療行為に対して、冷静かつ客 観的な態度を保持できたようにも思えるが、詳細は今後の課題である。 その後、東アジアで影響力を増した近代西洋医学は実験と統計という手法を導入するこ とで、細菌学や衛生学などの専門分野を生み出しつつ、社会改革や植民地統治において絶 大な効果を発揮するに至る。その背景には世界規模の貿易の拡大、移民の増大による疫病 流行があった。交易で栄えた琉球も疫病の流行から自由ではなかった。当時、世界規模で 危険視されていた天然痘の予防策としての種痘に関し、ベッテルハイムは牛痘接種を琉球 に伝えたと言われている。今回用いた史料にも、種痘に関する記述は多いが、次回に稿を 改めて考察したい。

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