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【調査報告】浦添原遺跡出土の華南三彩鶴形水注: 沖縄地域学リポジトリ

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Academic year: 2021

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Title

【調査報告】浦添原遺跡出土の華南三彩鶴形水注

Author(s)

仁王, 浩司

Citation

浦添市立図書館紀要 = Bulletin of the Urasoe City

Library(14): 83-86

Issue Date

2003-03-28

URL

http://hdl.handle.net/20.500.12001/23726

(2)

浦添原遺跡出土の華南三彩鶴形水注

仁 王 浩 司

はじめに る。これらの建物については古くから球陽や 浦添原遺跡は仲間浦添原に所在する貝塚時 琉球国由来記などに依拠した研究が続けられ 代から近但の複合遺跡て、グスク時代を主と する。現況では市立浦添中学校の校舎やグラ ウンドとなっており、これからの社会を背負っ てゆく学徒諸君が勉強やクラブ活動に真摯な 態度で打ち込む姿を遠望することができる。 私も大いに触発され、沖縄学研究室にお願い して掲載許可をいただき、本稿を著した次第 である。 さて、学校敷地には浦添原遺跡のほかに、 琉球王家の菩提寺であった龍福寺や、浦添間 切の行政を担った浦添番所があったといわれ ているが、その実体については数点の略図や 想像図が残されるのみで、なお不明な点が多 いのが実状である。 現在、浦添市教育委員会では浦添中学校校 舎改築事業に伴う埋蔵文化財発掘調森を実施 しているが、これに先立つ試掘調査のなかで 華南三彩鶴形水注の台脚部が出土した。本稿 では龍幅寺・浦添番所の変遷や浦添原遺跡の 既往の調査を概観した上で、新たに出士した 華南三彩鶴形水注について紹介し、若干なが ら今後の課題と展望を示したい。 浦添原遺跡位置図

(3)

龍福寺 けられたのがいつの頃かは定かではないが、 衆知のことではあるが、龍福寺は中学校グ 少なくとも18世紀前葉には設置されていた ラウンド南西端に所在していたと考えられて ものと考えられている。(3) いる。もとは極楽寺と呼ばれ、浦添グスクの 番所の敷地は堅牢な石垣によって囲まれて 西に位置していた。(I)浦添ようどれ下方にあ おり、石垣内部には仕切の石垣が渡されてい る、現在では採石によって大きく削り取られ た。仕切の石垣によって画された二つの空間 てしまった土地が、かつての寺域と推定され のうち、一方に母屋が、他方に「牌屋」があっ る。(2)極楽寺は、 13世紀の英祖王代に那覇 た。母屋は五間X三間以上の広さで、周囲に へ流れ着いた僧禅鑑によって建てられた臨済 幅ー間の縁側をもち、内部の奥には床の間が 宗の寺で、琉球における仏僧仏寺の始めとい われる。 15世紀の初め頃に寺が荒廃したため、 あった。浦添番所の中心的施設である。 1881年番所を訪れた上杉県令(知事)は、 「前谷」に移建された。現仲間自治会館の敷 その紀行文の中で「門、西南ノ間に向ヒ、老 地内に「寺小」という地名が残ることから、 松秀茂シ、福木五株、其間二狭マリ、側ラニ 移建先をそこに求める説もあるが確証はない。 重硼ノ上二、蘇鉄ヲ種へ連ネタリ。路ノ右門 その後、この建物も火災によって焼失した ノ正面二当リ、甘木ノ枝幹、老蒼トシテ天ヲ ため、 1475年尚円王によって浦添原に移建 蔽フ。其下二小池アリ、青頑水二浮ブ。」と され、寺名を龍福寺に改めた。これが中学校 記す。床の間には山水の画軸があり、瓶に松 グラウンド下に埋もれているとされる龍福寺 枝が活けられていた。(4) 跡である。寺は1609年の薩摩侵入時に兵火 によって再び焼失し、のち尚寧王によって再 浦添原遺跡 建された。 1792年に台風で損壊したが、王 浦添原遺跡は、 1978年浦添中学校グラウ 府によって修復された。 1884年尚家の私有 ンド西側ブロック積み工事で遺物の包蔵が確 財産となったが1909年頃に廃寺となり、建 認され周知の遺跡となり、これまでに発掘調 物は那覇市泊に移建された。 査や試掘調査が行われてきた。 龍福寺は尚家の私有財産となるまで移建・ 1984年と85年10月から翌年3月の二度に 再建に一貫して首里王府が関わる格式の高い わたり、市教育委員会はグラウンド整備に伴 官寺であった。寺内には舜天王から尚巴志ま う発掘調査を実施した。この調査で溜め井状 での歴代王の位牌が安慨されており、第二尚 の方形遺構や人頭大の石灰岩を並べた石列な 氏王統以前の王を祀る王廟的存在であったと どを確認し、瓦、中国産青磁、白磁、染付、 いえる。また、龍福寺に関わる伝説として、 肥前産青磁や染付、大和産陶器、沖縄産陶器、 寺の獅子像がしばしば寺外の田地へ行って稲 古銭、青銅製かんざし、青銅製や陶製のキセ を食い荒らしたため、時の王が寺に田地七畝 ル雁首、ガラス製小玉などの遺物が大量に出 を賜って獅子の食料に充てさせたとの話が伝 土した。出土遣物はおおむね14・15世紀か わる。 ら大正・明治期に比定されるが、龍福寺と直 接関係する遺物や遺構は確認していない。(5) 浦添番所 また、 2001年には中学校敷地内1lヶ所に 王府時代の役場であった浦添番所は、現浦 トレンチを設けて試掘調査を行い、うち6ヶ 添郵便局前の道路(県道38号線)に位置して 所でグスク時代から近世の遺構・遺物を確認 いた。首里から北谷、読谷山、越来間切へと した。(6) 続く交通の要所にあたる。この地に番所が設

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し~__i O 5cm 0---~- 十~●ー一―~ート..., 華南三彩鶴形水注 華南三彩鶴形水注 今回報告する資料は、 2002年に追加実施 した試掘調査によって出土した。いわゆる華 南三彩水注の台脚部で、側面右半分を欠失す る。 残存高は4.4cm。底面は長円形を呈し、長 径8.6cm、残存短径7.1cmを測る。身中線を もって型造りされ、外底面および内底面には 雑な指頭圧痕やナデが観察できる。特に内底 面は接合の痕跡が明瞭に残る。側面の図柄に は水波や植物が施され、釉は淡緑色。水波は 前面から後面へ移行するに従い徐々に乱雑に なっていき、最終的には水波の単位も不明瞭 なものとなる。胎土は軟質の淡黄白色で粒子 は粗い。 同様の台脚をもつ水注として鶴、鯉、龍、 ザリガニ形が知られる(7)が、沖縄県出土の 台脚付水注は鶴形に限られることから、鶴形 水注と断定した。これは池に鶴が立つ姿をモ チーフとしたもので、 16世紀頃に位置づけ られる。県内における類似資料は首里城、今 帰仁グスク、銘刈原遺跡から出土しており(8)、 他に豊見城市内確認の伝世品が知られる。19) おわりに 近年の調査によって、浦添原遺跡の実体が 次第に明らかとなりつつある。特に、新しい 支配者の交代に伴う祭事に``聖なる容器"と して用いられた(10)三彩水注が出土したこと は、 16世紀頃に浦添原を占有していた集団 の社会的地位・階層を示唆する遺物として注 目され、その性格は一般集落とは異なってい たと解釈せざるを得ない。しかしながら、こ の集団と龍福寺との関係や、この地に浦添番 所が置かれるに至ったプロセスなどは依然不 明なままである。今後の発掘調査の成果を期 待したい。 なお、話を鶴形水注に限ると、豊見城市内 確認の伝世品は前面から後面まで水波が丁寧 に施されるのに対し、先述したように浦添原 遺跡の出土品は徐々に乱雑なものとなるため、 型式的に新しくなる可能性を指摘しておく。 本稿をまとめるにあたり、遣物実測ならび にトレースを仁王佳代氏(那覇市文化財課臨 時職員)に、図版作成を嘗間つかね氏(浦添 市文化課臨時職員)にお願いした。文末なが ら御芳名を記し、感謝申し上げる。

(5)

〔注〕 (1)西原栄正氏は、発音上の「にいに対して「西」 の字を当てるのは誤りで、浦添グスクの「北」 とするべきと指摘している。なお、本文中で 示した極楽寺推定地は浦添グスクの北にあた る。 西原正栄「極楽寺の変遷(龍福寺考)」『浦添 市文化財調査報告書第2集』浦添市教育委員 会1982年 (2)『史跡浦添城跡整備基本計画書』浦添市教育委 員会 1996年 (3)「資料編 2 民話芸能・美術工芸l 『浦添市史 第三巻』浦添市教育委員会 1982年 (4)「資料編1 浦添の文献資料」 『浦添市史 第 二巻』浦添市教育委員会 1981年 (t,)「通史綱浦添のあゆみ」 『浦添巾史第一巻』 浦添市教育委員会 1989年 (6)『浦添原遺跡・龍福寺跡・浦添番所跡浦添中 学校校舎改築事業に伴う埋蔵文化財範囲確認 発掘調査』浦添市教育委員会 2002年 (7)亀井明徳「明代華南彩釉陶をめぐる諸問題」 「明代華南彩釉陶をめぐる諸問題・補遺∼ 『日 本貿易陶磁史の研究』同朋舎出版 1986年 (8)新垣力「南西諸島出土の華南彩釉陶について 一緑釉・三彩などを中心に一」 『南風ねっと ゎーく(分科会1: 南西諸島貿易陶磁学習会) 第14回資料』 2000年 (9)「豊見城村内確認の明代三彩鶴型水注」 『豊見 城村文化財調査報告書第3集』豊見城村教育 委員会 1988年 • 金城亀信「豊見城村内確認の明代三彩鶴型 水注」 『文化課紀要第 6号』沖縄県教育委員 会 1990年 (10)前掲亀井文献 側 面 前 面 後 面 内 底 面 外 底 面

参照

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