Title
学習過程における連続、不連続の諸問題 −教育の比較文
化的考察−
Author(s)
波平, 勇夫
Citation
沖大論叢 = OKIDAI RONSO, 9(1): 201-237
Issue Date
1969-02-28
URL
http://hdl.handle.net/20.500.12001/11006
諸問題
一教育の比較文化的考察-波 平 勇 夫
は じ め に L 研究の理論的枠組………....・H ・-……・……・...・H ・..… 206 2. 世代と教育 …...・H ・...・H・...・H ・....・H ・...・H ・210 3. 教師、教材と児童・…....・H・....・H ・....・H・....・H・...… 216 4. マイノリティグループと教育 …・・・・……-………… 222 6. 文化遅滞 (Culturallag)と教育…・………...・H ・.. 229 おわりにはじめに
文化を広義 lと解釈して、特定社会のI
t!:代を通して伝達され、個人によっ (1) て学習された共通の生活(行動)様式とすれば、文化の機能そのものが教 (2) 育的であり、更に教育も広義に解釈すれば、文化過程(culturaltrocess) 叉は社会佑 (socialization)の過程となって、文イちと教育の関係は不可分 となる。 このような一見して一般的命題も、教育の諸面に明確に意識され始めた のは、ごく最近のことであり、今日でもそれを含めた教育の体系伯の胎動 はまだ続いているといえよう。というのは、文化と教育の問題を社会科学 の立場から取りあげている論文、著作が激増しているし、あるいは教育人-201-学習過程における連続、不連続の諸問題 類学 ρe(dagogicalanth1'oρology, M. Montesso1'i, 1913.,educational (3) anth1'O
ρ
ology, A. Rosentiel, 1954)等の名称も使用されつhあり、更には アメリカの諸大学の人類学、教育学のコースで、名祢(土ともあれ、このよ うな内容の講座がふえていく傾向にある。 教育を文化人類学の面から研究する場合の主なテーマは、従来文化とパ ースナリティ、カルチュラルダイナミックス (cultu1'al dynamicsー cultural change and accultu1'ation)、社会化等であった。しかし、このよ うな研究の成果はパースナリティ形成の解明に大いに役立ったlこせよ、直 接学校教育の指導技術にまで反映するには程遠かった。ところが教育学と 文化人類学の接近は、教育学の基礎理論に留まることなく、実践段階で教 育者が留意すべき課題も呈示しつ〉ある。このような実践技術、あるいは 実践的理論に資する教育学のー研究方法が、比較文化的研究 (C1.0SS -cultu1'al study)である。 スピンドラー (G.D.S
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indle1') によれば、教育の比較文化的方法と は、教育理論家および実践家の文化的覚醒 (cultu1'alawa1'eness)であり、 それは文化の一般的形態、性質の究明に留まらず、文化の伝達という教育 実践上に遭遇する、文化衝突 (cultu1'alconflicts)の問題に覚醒させる教 育のー研究方法である。 社会、文イじが異なれば、そこにおける教育の機能も升然異なることは、 今日では常識ですらある。ところが比較的、異質文化が複合する社会ある いは国家内部に立った場合とか、あるいは特定の社会叉は文化問内におけ る文化の多元化 (01'cultu1'alρ
lu1'alism) に伴う問題意識とし、う面では、 まだまだ疎いように思われる。たとえば、公教育制度下の学校で学ぶ子ど もたちは、民族文化、社会階層、地域性、世代、仲間集問(抑e1'g1'oups)、 親の職業などによって形成きれる下位文化 (sub-cultu1'es) 聞のずれ、衝 突ぞ経験することが最近広く研究されている。しかしこのようなずれや衝 突を自覚して今日の学校教育はなされているだわうか。たとえ自覚してい-202-ても、これを意識あるいは無意識の中に括弧に入れ、平均化して教育して いるといえないだろうか。 日本はアメリカと違って、社会構造上の多元佑がはっきりしない面もあ る(例、人種、社会階層等)。しかしこのことは下位文佑を規定する社会 構造上の多元イじを否定するものではない。更に、この閣の研究はアメリカ が先んじているために、この論文の資料となるモデ.ルは、アメリカの学者・ あるいは社会から借りたものが多く入っているが、われわれの社会におけ る同種の問題も見落しではならない。以上のような問題意識に立って、私 はこの論文を二つの面から構成した。一つは異質の文化聞の接触の結果生 ずる教育の連続、不連続の問題であり、いわばacculturationとcounter -acculturationの問題である。 acculturationは特定の文化を有する人々 が他の異質の文イちに順応する過程(anada
ρ
tingρ
rocess)として解釈され (4) ているが、この過程も厳i
穏にみれば不連続である。しかしこの不連続は、 矛盾衝突が縮少されたものであり、いわば不連続の連続とでもいえよう。 もし不連続ということを、進歩J と結びつけるなら、l
三田氏がし、われるよ うに、真に意味のある連続は変化をともなうものでみり、変佑なき連続は (5) 意味がない、とで志いえよう。事実、現代社会と未聞社会における教育の 機能的相違が、このことを物語っている(後述)。しかし順応の過程にお ける不連続が、 、進歩かではなく、進歩につながらない明間閣かをひき起 す場合がある。たとえば、アメリカにおけるいろいろな少数者集団に属す る子どもたちゃ、移民国における二世がこのような不連続を示す場合が多 い。これは acculturationに対して counter-acculturation とでもいえ ょう。このような不連続は同じ国民、民族内においても起る。たとえば、 外来文化が入ってくる場合、普通は地方よりは都市が、下層階級よりは上 層│料層が先にそれを吸収する(その程度は別として)。この場合、吸収し た集団とまTご接してない集団の不連続、あるいは同一人でも吸収前と後の 不連続などはこの例であろう。このような異質文佑聞の不連続の問題をこ学習過程における連続、不連続の諮問題 こでは
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としておきたい。 この論文の他の構成面は、特定の文佑内における教育の連続、不連続の 問題であれこれは特定社会の個人あるいは特定集団が、その社会の文化 に適応および順応するかしないかによって起こる問題である。いわば、s
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の問題で ある。いかなる社会も、個人や若い世代をそこの成員になるように型取っ たり、教え込む(
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ことによって、社会統合をはかり、それ によって個人も自我結合をはかるというのが、パースンズ(
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の社会体系と行動体系の連続でゐるが、社会構造の多元化、文化の重層化 は統合のモデルを普遍的なものになしえない。このため、同一社会内部の 集団と集団、個人と個人(たとえば親と子、教師と生徒)に不連続をもた らすことが考えられる。これを文佑閣の連続、不連続に対して、文佑内の 連続、不連続(
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としてお きTこい。 文化の連続、不連続の問題については、ベネディクト(
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、 ミード(M.Mead
,
1942, 1943、 シカコや大学クツレープのウオー ナー(W.L
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Warner
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1944)、ハヴィガースト(
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1949)等が代表者であるが、 50年代に入っておびただしい数の研究が発表 されて現在に至っている。これらの研究が現代教育の考察にどのような意 味をもっているか、以下のべていきたい。(1) Lalph Linton, "The Cultural Background of Personality", New York, Applenton・Century心rofts,1945, P .32
(2) Margaret Mead,・'OurEducational Emphases in Primitive Perspecti ve", in George D. Spindler ed. • "Education and Culture", New York,
Rinehart and Winston, 1963, P.309
(3) このようなアプローチの歴史的概観について、 GeorgeD. Spindler,“ An-thropology and Education: An Overview",1bid" PP. 53--83参照 (4) Harold L. Hodgkinson,"Education in So<::Ial and Culural Perspec
15) 上回蕪「教育における連続の問題」教育学全集1、小学館、 1967
、
PP153--1691 研究の理論的枠組
文佑内、文化聞というこつの概念を対立させる場合デリケートな問題 は、一つの文佑を他の文化から区別させる独自性の認知ということであろ うが、厳密には各文化の構成要素(たとえば、マードックG
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の、文化の公分母" )を取り出して、それを相互に比較したとき、各文化 の独自性が明確になってきょう。 しかし文化項目(
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を並 列して二つの文佑を比較するとき考えられることは、文化項目相互の内容 上の明確な差違、徹妙な差違、微妙な類似、明確な類似という連続、不連 続の面が出てきて、どこからどこまでが、その文佑独自のものであるかと いう問題に当面する。同様なことは、文化内における下位文佑を規定する 場合でもいえることである。完全に孤立した社会はいぎ知らず、民族の移 動、文佑の交流のあるところには、このような問題が伏在するものであり、 それに加えて、個人の心理的面あるいは個人差というものが、文イむの独自 (1) 性を見分けるのに障壁ともなりうる。 特定の文イじを記述する場合、この問題はいつもつきまとうものであり、 文佑の独自性あるいは独自の文化特徴(
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が捕えられない 限り、文佑聞とか文佑内という概念も定立されまい。しかし従来、言語、 宗数、教育、人間関係等の主要な文化要素によって文佑定位がなされてお り、特にこれらの要素の複合した民族という概念が、文イ白を統合する意味 で使用されている。 従って、この論文で文佑間という場合は、民族的基礎に根ぎす文佑と、そ れと対位される他の文佑の関係であり、文佑内とは同一文化における形態 上の分佑とそれらの機能に着眼した概念である。文化が異なれば、文化間学習過程における連続、不連続の諸問題 の不連続は当然予掛され右ことであるが、複合文化(従って複合民族)が 一つの国家を形成する場合、そこにおける教育は直接間接に国家的、国民 的性格につながるものであり、いかにして、複合文化に国家的要請である 共通基盤を附与しうるか、ここに文化聞の教育上の連続、不連続の問題が 起ってくる。 次に文化内の問題とは何であるか。同ーの文化を共有する限り、外部か らは一様に見えるけれども、実際は階層、世代、職業、地域、集同等に規定さ れる下位文化層が分イちしていることがすでに明らかである。文化の下位体 系化は行動体系の面からすれば、行動基準の分化であり、このような基準の 重層化は社会や国家体制からどのように認知され、処理されるべきである か。教育との関連から級密な考慮を要する問題である。 ここでひとまず、問題の枠組を上述の二つの面から整理してみよう。先 ず文佑聞の不連続はどのようにして現われるか。特定の文イちを観察しよう とするとき、われわれはその文化の諸相としての項目を記述することがで きる。この項目を比較的大きく区切っていぐと、二つの文佑は形態的には 大分似かよってくる。しかレ、例えば、親族M という項目は
A
、B
二つの 文佑に必須の項目であっても、両文化における、親族M の機能的意味は異 なる場合もある。 次に文イじを観察するとき重要なことは、社会体系あるいは行動体系にお ける文化の有機的面である。文佑はそれを構成する項目を単に羅列したも のではない。文化は行動体系と社会体系を連続させるメカニズムであるこ とを考えると、文佑要素あるれは項目が意味をもつの。は、これらの体系内 においてである。この意味で、特定の文化を理解せんとする場合、ぞの文 化の体系内に立って観察しなければならないが、問題はどの程度その体系 内に入っていけるかということである。勿論ある文佑の所持者がその文化 のよき観察者とは限らず、かえってそのことが、その文化の観察の障壁と なることもある。}このような文佑の有機的性質が、文化聞の不連続の問題を深遠なものに じている。文化聞の溝は貯なる接触とか、文佑項目の移入だけではうめら れないの文佑項目の移入・という場合、それがどの程度可能かということを 考えねばならない。文佑項目は文佑の構成要素であるが、その構成要素の 内容は、その文化の独自性に必須なもの、表相的なもの、その中間的なも の等、いろいろな程度の差が考えられる。 acculturationは文化の表相的 位置にある項目内容が、その対象になりやすく (diffusion というのはこ の表桐的項目内容の移入に多くみられる)、文佑の核心になればなる程進展 がおくれる。国際理解とか文佑問教育 (inter-cul~ural . e4ucation) と か称して、 、交流ρ を主としたプログラムが多くみられるが、 、交流' の段階ではそのプログラムの意図がどれ位実現されるか疑問である。 文化の有機的機能は個人の行動体系ともなって現われる。アメリカで、 ある貧民の救済の一環としてモダンな住宅施設を作って与えたところ、年 月が立つにつれ、このモダンな住宅施設は彼らの生活パターンに合わない (ときには不便さえ感じて)ことが意識され、ついにもとの生活パターン にremodelイちされたということがある。戦後聞もなしアメリカ人の建 てた、庭っきのコンクリート住宅を、ある沖縄の農家の人が買った。たち まち芝生の躍は雑草固となり、住宅は豚小島にしたという話がある。 この場合、住宅様式を文化項目として考えると、この項目を変えただけ で、人聞の生活パターンが変わるということにはならないし、更に(上述の ことから)この項目はそれ自体として意味があるというよりも、それが構 成する文化との関連において意味があれもしそれが移摘される場合、受け 入れ側に準じて remodelされる。 こうみると、acculturationは無条件に 起るわけではなく、ある程度の連続性がそれを決定すると考えられよう。 次に文化内における不連続の問題について考えよう。学習すべき文化項 目の内容が質量的に一定し、しかも量的に限定されるにつれ、文化内にお ける不連続の場面は、比較的少ないと考えられる。しかし、これはより静
学習過程における連続、不連続の諸問題 的社会でのみ可能であり、このような意味での連続は社会の発展を約束し ない。変イじする社会では文佑項目の内容は一定せず、却って細分佑、再編 成が、少しずつではあるが、常に進行する。変佑前と変化後では、その項 目の学習者間にある種の不連続をもたらす。同じ人でも変化を前後して学 習する場合、そのような不連続の場面に遭遇する。戦前戦後を適して教壇 に立っている教師の多くは、全体主義教育と民主主義教育の不連続を自己 の問題として意識していないだろうか。変化する社会では、個人内部の価 値葛藤が数多く考えられる。 文化内の不連続は、各文佑項目内容の学習序列によっても起る。理論的 には、各項目は特定文化を構成している序列体と考えられるが、それはそ のまま学習序列とはならない。たとえばある個人に学習される項目は、同 じ条件で他人に学習されるとは限らないし、同じ項目でも各個人の学習す る内容は、 cultural
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luralismの現代社会ではある程度ずれが生ずること が明らかになっている。 以上の概略から、現代教育の連続、不連続の諸点を文化内 -enculturat -ionの過程ーと文化間 - acculturationの過程ーの両面からまとめてみ ょう。 (1) enculturationは特定文化の求心力と、個人の動機づけのメカニズム によって規定される。 (2) 文化の求心力は、その統合作用に他ならない。文化の統合作用は社会構 造の一部として、あるいは他の構造との相E
作用によって制度佑(institu -tional ization)されるが、社会構造内(ここではパースンズのAGIL理 論に従って四つの面に分けよう)の機能的分化と、その相互作用(例えば アウトプットとインプット)の結果は、一方においては均衡が、他方におい ては社会構造内部に不均衡、断層、再編、変動が起り、制度佑の過程に多 様化現象が起る(パースンズは社会構造内部の均衡状況における制度佑のみを強調しているように思われる)。ここに下位文佑(sub-cultures)は形 成され、それは特定文佑の内容を複合体(cultural
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lural."sm)に導く。こ の結果は(1)で、述べた文化の求心力と個人の動機づけのメカニズムに多様佑 ぞ生じさせ、世代的、階層的、地域的断層(不連続)をもたらす。 (3) 従って上述の社会構造は一方において均衡状態を維持せんとする力 と、他方において不均衡状況における各構造面の機能分佑によって、文佑 構成要素に核心的なもの、中間的なもの、任意的なものを生じせしめる。 すなわち、均衡への方向は統合力を要求し、それによって核心的文化構成 要素が形成される。他方不均衡は文佑構成要素に多様佑を生じせしめ、複 雑な社会を形成する。従って enculturationの過程はこの重層構造によっ て捕えられなければならず、このことは学校教育における教材の選択、学 習構造佑に重要な意味をもっ。 (4) acculturationは,
enculturationと反対の方向への誘引力を持つと考え られる。従って acculturationが進む条件は、在来文イじの求心力が弱くな るか、他方の文佑の力が強くなるかである(アメリカにおけるユダヤ人、 メキシコ人、アメリカインディアン等の例はこのことを明らかにする)。 もし二つの求心力が同時に働くとき、どっちつかずのも辺境性 (margin -ality)グが行動の特質として現われる(少数者集団に属する子どもたち、 アメリカ二世、他の二世移民などの例)。 (5) このような求心力は、個人の動機づけのメカニズムにも影響する。し かし、このメカニズムを決定づけるのは、他方の文化の構成要素のもつ行 動価である。行動価のづれが、動機づけのメカニズムの一面であるにせよ (Festinger)、それは制度兆の過程を待たなければならない(このよう な場合、 Parsonsの制度化論が役立つ)。 (6) 各文化の構成要素は、有機的結合によって行動体系を形成すると考え られ、よってその要素だけを分離しても、 acculturattionは起るとは限ら学習過視における連続、不連続の諸問題 ない。このことは特に文化聞の教育(inter-culturaleducation)の場合考慮 しなければならない。 以
1
:
の枠組に沿って、あるいはそれを検証する意味で、特に学習過程の 面から連続、不連続の問題をのべ、ていきたい。 ー注(1)Norman C. Greenberg and Gilda M. Greenberg." Education of the American Indiand, in Today's World" Iowa. W. M. C. Brown Book Company, 1964, p, 192
世代と教育
附代の連続的過程:こよって、社会の存続は可能となるけれども、もし一 つの附代がその前の世代と全く同一体であれば、その社会はほとんど進歩 しないだλうし、またもし完全に絶縁体になっておれば、その社会は解体 するであろう。その意味で、世代間 lこはある程度の連続と不連続が同棲し ていると考えられら。W
:
代とLづ概念:士、もともと社会的歴史的共同基盤によって規定されて (1) おり、年代l
玄分というよりも、社会的歴史的感覚が世代を成立させる条件 である。こうみると、世代は不連続を前提とした概念といえる。ところが、 この不連続を文字通り不連続にせず、ある程度の連続を維持させ、いわば 不連続的連続を要請するのが現代社会であり、その要求を受けて立つのが 現代教育である。 世代的断層が特に明確になるのは、一世移民と二111:、三t
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の聞である。 たとえば、明治大正期に日木から移民して渡航した人々は、その頃の日本 の文化を身につけて異国の新しい文化に接するのであろが、彼らは新しい 文化への適応の必要性を感ずると共に、祖国の文化に対する感傷的愛肴度 も強い(これは日本人移民に限らず、相国意識を持った、アメリカのどのe
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ρにもいえる)。このような二重意識が直接間接に二世の教 育にも影響するが、問題点は彼ち(一世〉が持っている祖国の文化とは、 時間増間的にある一定時を境界として遮断:されたものであり、現代の日本 の社会に合わない面もでてくるということである。たとえば、両親の話を 聞いて、祖閏の文化に憧着の念を抱いて日本を訪ずれ、そして失望したと (2) いうアメリカ二1
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t.の話は、この辺の事情を物語ってし倍。このような世代 聞のずれは、単なる静的な意識構造のずれに終ることなく、危機的場面に 遭遇すると、明確な対立として表面化する。そのよい例が、第2次大戦中 のアメリカの二世部隊と彼らの親(一世)の対立である(日系人に対する (3) 差別扱いによれこの世代的対立は幾分なくなる)。対立という関係では (4) ないが、世代聞の亀裂は南米ヲラジルの日系人にもみられる。二世が社交 の場lこ親を避けようとする傾向は、汗水流して築いた財産も他人の手(二 世)に移るかと思うときびしい、という一世の気持とあいまって、世代聞 のはっきりした断層を示すといえよう。 一1
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移民と三世、三世の対立相主l!は日系人に限らず、他の民族にもみられ ろ。一般に一世は祖閏文化の影響力からぬき切れず、そのために二世は家 庭においては少なくとも、両親の文化闘に入らぎるをえない。彼らが両親 の言語与を使用すると、移民地の言語修得に少なからぎる障壁をつくる。し かも彼らは自分の両親そ恥じ4その劣等意識は、両親の民族的伝統や文化 に対する威信欠如となって表われ、行動の準拠枠組の欠損となりうる。こ のことは、ある社会学有・が示すように、犯罪や不適応の原因ともなるであ (5) 行動の準拠枠組の欠損ということは、どっちつかずということであり、 ここから彼ら独自の辺境性(
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が生ずる。つまり二世は家庭 内と家庭外とでは異なった文化を経験しなければならず、一世からすれば 二世は別の社会の人間として映ずる。一方二世は安住の場所が見つからず、 仲間集団だけが唯一の慰安の場所となる(少数者集団m
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-211-学習過程における連続、不連続の諸問題 参照)。 辺境性の前提条件は不連続ということであり、その意味ではこれは二世 の性格に限らず、われわれの社会の世代聞の問題でもある。この論文で展 (6) 関するようfC,階層文佑の衝突 (class-cultural conflicts)、文化的に複 (7) 合的社会 (culturallyρluralistic society)における文佑衝突の場面にお いては、世代聞に辺境的領域が寄在する。 青年期は一般にこのような辺境性によって捕えられている。勿論青年期 を画一的に辺境性として把握することは性急であり、個人差とか出身階層 などの影響を考慮した場合、既成価臨体系にスムースに移行する型もあり うる。しかしケニストン(KennethKeniston)によれば、このような、ま じめグ型の青年の生活意識は疎外感とその結果としての逃避傾向(彼は (8) これを
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rivatismと呼んでいる)に支えられている場合が多いという。 ハヴィガースト (Robertf. Havighurst)は青年期あるいは青年期文化 (9) (youth-culture) の特質を逸脱的性質にあるとし、フリードマン(M.R. UOI Freedman)は青年期の遅延にあるとみている。逸脱的性質といっても、 ハヴィガーストが分析しているように、必ずしも反社会的であるとは限ら ず、創造的面もあるが、既成の価値基準に合致しない面があるという意味 では、不連続的性質を有すると考えて差しっかえあるまい。逸脱を生み出 す原因はいろいろ考えられるが、最近注目され出したのが青年期の遅延と いうことである。つまり産業社会の進歩に伴い、青年の教育期間の延長が 余儀なくなされると、結婚がおくれたり、その他、大人'としてこの社会へ の参加の範囲が制限される。その間彼らは彼ら独自の生活意識を生み出し 。1) てくる。 世代閣の問題はこのような生活意識構造から解明されなければならない が、スピンドラーは、アメリカの伝統的価値体系がどのように変ってきた かを示すとともに、それが学校社会、教育体制にどう反映するかを解説し ている。大衆および 父兄
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一一「寸一一│一五組概
lue 教 育 委 員 学 生 年 議 の 若 い 教 師 教師 学生 この略図は、変化している社会の価値体系は単調ではなく、複合的である ことを示しているが、価値体系の両極にまたがる各層は固定的なものでは なく、相対的なものであり、例外もあるだろうし、彼自身認めているよう l丸 、仮説的傾向'の域を脱していない。けれども、多くの研究者によっ て支持され、引用されていることも事実であり、概略の価値は充分あろう。 このような価値体系の重層佑は教育上どのような意味をもっているか。 これは教育における連続、不連続の問題である。すなわち、世代的断層や 価値体系の重層化は、極端にいって、個人の側にも社会の側にもモデルに なるものをもあいまいにする。 社 会 解 体(
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という表現はこのモデ、ルの消失の結果に他ならない。モデルなき教育は考 えられないし、如何にしてそれを確立するかが現代教育の課題であろう。 しかもそのモデルが真に意味のあるものなら、上からあるいは外からの勺 おしつけ'ではないだろうし、ここでいう不連続を縮少したものに他なら ない。 一般に社会の諸制度は、教育も含めて、このような不連続の縮少を意図 している。何故なら、制度の意味が社会的個人的な面からの相E
要求充足 (13) を意図しているからである。しかし制度の機能は社会によって異なるわけ であり、ベネディクトによれば、現代社会は未聞社会に比べて世代閣の不 同 連続をうめあわせる制度が少ないということである。たとえば、世代聞の このような断層を連結させる(
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といってもよ いが)ための制度としこの教育も、現代社会では世代問、親子の不連続を特学習過程における連続、不連続の諸問題 日5) 質としているとミード (M.Mead)はのべている。彼女の表現を借りるな ら、 未開社会と現代社会の教育の性格の変化は、 from learning to ( 16) teachingとし?うことである。 Learning
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こ重点をおく教育は、個人の 要求と調和するが、 Teaching を主とする現代教育は合致しないと彼女 は考える。何故なら、 Teaching は学習者の意志(袈求)というよりも会ふふる
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誌が強く介入するからである。このような教育では、も母親は 自分が受けた教育とは違った方法で自分の子供を教育するキ (M.Mead)、 ということは珍らしくないのである。しかしこのことを直ちに親と子の不 連続と考えることは早計であろう。何故なら、変化している社会では、現 在の母親は直接教育を受けた当時の人間ではないし、自分が他人を教育す る時点では、すでに新しい世代に通ずる意識構造を再編成しつつあるとい うことが考えられるからである。しかしこれも程度の問題であり、親がす ぐ3ま被教育者の世代になりきれるということはありえない。 以上のような教育の性格の変佑は、機能の変イちでもある。すなわち、未 聞社会では現状維持が主であり、現代社会では、上の階層を除いて、教育 は社会移動 (social mobility) に多大な影響を及ぼす。ミードがいうよ うに、百姓の子どもが学者に、大工の子どもが銀行家、弁護士、医者にな るのも決して珍らしくはない。現代の産業社会では、この種の不連続は避 けられないだろうし、ある意味では望ましいことでもあろう。しかし忘れ ではならないことは、このような社会移動は心理的亀裂 (discrゆ 仰cy) を代償とするということである。更に不連続的社会移動を望ましいものと 考えるにしても、それを助長する教育は万人に等しく約束されているかと いうと、無条件に肯定的答は得られない(次節参照)。というのは、経済 的理由もさることながら、教育内容、方法t
の不連続の障壁が予組される からである。 }これまで述べたようにi
世代的断層が現代社会、現代文化、現代教育の特質ならば、そのような不連続をある場合には縮少し、ある場合には助長 して、個人及ぴ社会の維持発展をはかるためにはどのような教育的考慮が 必要だろうか。先ず、 cultural pluralism、 価値体系の分化、世代的断 層、社会移動の意味ぞ理解することである。現代社会では、特定の基準 が普遍的であり得ず、その意味で過去の文化財を教材にする場合、特に注 意する必要がある。勿論これは過去を否定するという意味ではなく、文化 財の教育内容としての意義に対する教育者の姿勢である。文化財が真に教 育的意味を発揮するのは、それがそのままの形で伝達されることではな く、学習者に彼の現実の立場からこれを分析させる能力、それを意味づけ る能力(綜合力)を発達させることにおいてではなかろうか。 (1) 日本教育社会学会編「教育社会学辞典
J
PP761"""673参照 (2) 村山有「アメリカ二世ーぞの苦難の聡史J
時事通信社、昭4
0
(3) Gordon W. Allport, "The Nature of Prejudice" Addison-Wesley Publishing Company, Inc., 1954 (4)角 l週房子「ブラツルの日系人」、潮新書、 1967 、 PP.91~105 (5) Gordon W. Allport, op. cit. P.256 (6) Harold L. Hodgkinson, "Education in Social and Cultural Perspectievs" Prentice-Hall. Irtc., 1963, P. 90 (7) George D. Spindler, "Education and Culture", New York. Rinehart and Winston, 19回, P. 381(8) R.
J
.
Havighurst,“Social Deviency Among Youth: Types and Signifi -cance", in the Sixty-fifth Yearbook of the National Society...for the Study of Education, NSSE. 1966, p.73 (9) Ibid.,P.70, P. 72 日 目 Ibid., P. 55 住) I1 bid. ( 12)George D. Spindler; op. cit., pp 136,
.
.
.
.
139 (1) 波平勇夫「制度化3J
沖大論議第8巻第1号参照 (14) R. Benedict,“Continuities and DiscontinuitiesinCultural Condition -ing", in M. Mead (ed.)“CHILDHOOD戸inContemporary Cultures“' The University of Chicago Press. 1963, ChaP; 2RJ
η 4
学習過程における連続、不連続の諸問題
間 M.Mead, "Our Educational Emphases in Primitive Perspective
ぺ
in George D. Spindler, (ed.), Ibid., P. 316, P. 318 日 目 Ibid.. P. 3113
教師、教材と児童
前節の最後の部分で触れたようt乙、現代社会の教育は個人のs
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に大いに貢献するが、同時に個人を選抗し、 階 層 化 す る こ と (1) も忘れではならない。教育の民主化は、万人を平等にすることではなく、 個人の能力を充分に発揮できる、つまり個性的自己実現の機会を平等に与 えることを大きな狙いのーっとしている。しかし現代の学校は、このよう な民主主義教育思想の実践の場として、まだまだその域に遥せず、あるい はそれに逆行する面も含んでいる。その一つが、教育の階層的支配、ある (2) いは学校教育の階層的不連続である。 この面の研究はウオーナー(W.L
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を中心とした人々によっ て開拓され、教育社会学の一大領域となるに至り、現在では教育研究の定 石となって、ことさらこれを論ずる必要もないように思われる。しかし最 近の傾向として、この一般理論を具体イじした事例研究と、これの過大評価 に対する反証的研究がみられるので、この両方の傾向を参考にしながら、 階層的断層が反映する現代教育の不連続の問題についてのべたい。 階層は社会的威光と同時に複合的指標(特質)によって規定されるが、 先ず威光の基準としては、収入、職業、家柄、教育歴、住宅および住宅地 域等である。階層が教育にどう影響するかは、集団的指標、めるいは上に あげた階層的インデックスの描き出す集団的特質をみれば明らかである。 階 層 の 集 団 的 特 質 は 何 か 。 ハ ヴ ィ ガ ー リ ト と ニ ュ ー ガ 一 ト ン(
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、カーJレ(fo
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l)によるアメリカの五 (3) つの階層文佑の特質を簡単にまとめると、次のようになる。上の階層(u仲erclass)の特質として、彼らは幾世代もの問、財産と地位を築いて きた人々であり、現在ではその伝統的威光が彼らの社会的地位を支えてい る。最上の階層に属するが故に、彼らの社会意識は未来への志向というよ り、過去、伝統に根ざし、この意味で教育も、現状維持的な階層意識に基づ く大人の役割を引継ぐ以外には、重要な意味をもたない。つまり教育は現 状維持にこそ資すれ、 ‘未来像'を描くことはありえない。カールはこの 階層を指して、優雅な生活 (gracefulliving)と呼んでいる。 このような保守的階層に対して、中の上 (upper-middleclass) に属す る人々は、大部分がそれより下の階層から移動しているので、精力的で野 心的で・ある。彼らは専門職、管理職等で指導的な地位を占め、収入もかな りあるが、 、金n I乙対する意識は強い。現在の地位は教育の恩恵による場 合が多く、それ故に教育l乙対する期待は強い。しかも彼らは上の階層に対 する憧慢も強く、それは未来志向として、あるいは強い信仰心として表わ れる。勤勉、楽天主義、倹約等、ウェーパーが資本主義精神と呼んだもの、 あるいはアメリカの伝統的精神はこの階層が代表するといえよう。カール はこの階層の中核的社会意識を、経歴 (career)n とみている。 中の下 (lower-middle class) に属する人々は、教育、 信仰に熱心で あるという点では中の上層と似ているが、彼らの地位、職業、収入、生活 意識等から刈、市民'的である。いわゆるホワイトカラーはこの階層の人 々に多く、小ぎれい、小じんまりして、生活に過不足はなく、角のとれた' 平均人 (thecommon man)"は彼らである。彼らは子どもに‘従)1買'で あることを期待し、円滑な人間関係を尊ぴ、いろいろな活動に参加する。野 心的でもなければ、投機的でもなく、経済的、安定。、 、独立'は彼らの 誇りである。カールはこの階層の特質を、体面(res抑ctability)n とみてい ヲ ,~。 下の上 (u
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per-lower class) の代表者はフソレーカラーであり、 時期 的に後半の移民の二代田が多いといわれる。労働組合以外は社会活動への学習過程における連続、不連続の諮問題 参加はあまりなく、経済的にはやや不安定で、、、稼いだ分はほとんど使う'へ のが傾向であり、未来へ托す夢はあまりない。そのため教育の必要性は感 じつつも、実際には教育は特に重要ということはない。カールはこの人々 を、なるがままついていく (gettingby)"で表現している。 下の下 (Lower-lowerclass)は文字通り、 どん底の階層であるが、この 人々はそれにこだわるとか、それを乗りこえるということはせず、宿命的 に彼ら自身を受けとめている。 以上は、大部分のアメリカ
ω
社 会 学 者 が 認 め て い る ア メ リ カ の 社 会 階 層の特質である。今のぺた通り、各階層にはそれぞれの生活態度、教育観が あり、もしこれが事実とするなら、各階層の子どもを集めている学校(実 際は階層的分佑がみられるが)は、いろいろな下位文化、価値基準のるつぼ (meltingρ
ot)となり、学校教育で示される価値基準は、各階層のどちらか (4) を支持したり、どちらかに片寄ったりする。そうすると、支持されなかった 階層の子どもは、家庭やその他のレファランスグループで保持した価値基 準と学校で学習すべきものとω
不連続を経験し往ければならない。 ホッチキンソン (HaroldL
.
Hodgkinson)はこの不連続の問題につい (5) て次のようにのべている。 (ζのような不連続の状態において)t
こだ一つの可能なとるべき道は、いろいろ な行動基準があるというとと、しかも学校では一つの基準に従って行動し、家庭で は他の基準で行動しなければならないという乙とを、子どもたちに悟らせる乙との ように思える。学校は普通ζの方法を採用しているが、結果はどうであろうか。正 しいとか正しくないということはない、人々はただ周囲の人々がやっていることを やっているに過ぎない等ということを、小学校の年令の子どもたちが感ずるという ととは、いいことだろうか。道徳的基準や判断は成程相対的なものであるが、そう だと知れば、大学生 (sophomore)にとってもショックとなるだろうし、ましてや 人格形成期の子どもたちにとっては、かなりの痛手となろう。もし教師が、この相 対的であおベき道徳内容を強要せず、自分の教育的行為をなしうるなら、子どもた ちもよろとんで、彼の計画(game)を傷つかずに実施するζとができるであろう。しかし教師が、自分のやり方が正しい方法だ、唯一の方法だといいだすや否や、別 の行動様式を知っている子供たちは、すぐに葛藤状況におかれる。 教育方法上の文化的覚醒という面から、当然ホッチキンソンの立場は正当 な評価を受けるべきであるが、もし彼が各文化の特質というものを目的論 的に捕えるなら(たとえば下層階層の生活文化の害在意義を認めると同時 に、それ自体に子どもたちの教育の目標をみいだすというような)、それ は誤りであろう。 では次に、学校教育のどういう場面に、階層的行動基準が不連続の契機 を生ずるかというと、先ず教育行政官、校長、教師、父兄および子どもの 教育観、カリキュラム、教材(特にテキスト)、教育方法、評価(特にテ ストの作成)等がその主な対象となっている。 学校文佑あるいは学校の価値体系が中流階層に根ぎしていることは、階 層と教育の問題に関するほとんどの著作が一致しているが、中流階層の文 イじがどのような形で学校教育に反映し、他の階層文化と衝突するか、その いくつかの問題場面にふれよう。 (6) 先ず中流階層の文イじを代表するものとして教師があげられている。大部 (7) 分の教師は階層的に中の下叉は下の上の出であるといわれ、収入だけを考 (8) 慮しでも、下の階層の出身が多いといわれているが、彼らは中流階層の地 (9) 位を築いており (zゆwardmobility)、それ故に彼らの学校教育に対する期 待、未来への期待は強い。このような価値体系、更には彼らのことば使い、モ ーラル、生活習慣は前述した下眉階級の基準とは相入れないものがあり、 それにもかかわらず、教師は自分らの行動基準はアメリカの文佑を代表す 目 印 刷 ると考えているため、下層階層の子どもたちは葛藤状況に陥いる。教師は なおも地位向上への意識をたえず持ち続け、そのために下層階層の子ども (12) の多い学校から上層階層の学校へ転出するものが多く、あるいは上層階層 の人々の意見、生活様式を採り入れようとする傾向があり、それが強けれ (13) ・ぱ強い程、下層階層の子どもたちから隔離するばかりである。勿論教師の
学習過程における連続、不連続の諸問題 教育観、指導技術、パースナリティ、職業倫理などを考慮した場合、画一 的に論ずることはできないが、社会の文化風土がもたらす職業観への影響
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4l は否めない。 教師と並んで教科書も階層文化の衝突、文化の不連続をっくり出してい ることが指摘されている。教科書は中流階層の文化に傾倒しているといわ れるが、具体的には、中流階層の代表的価値基準である清潔、倹約、民主 自由 (161U
司 的家族関係、教材の選定および配列、教科書の言語内容などが、下層階層 の子どもたちに不連続の場面を提起する。社会生活を中心とした教科(例、 社会科)と抽象的思考を要する教科(例、数学)とでは階層的影響は異な る、つまり後者にはほとんどそのような傾向はなく、あるとすれば前者の ような教科に限られる、という批判があるかも知れない。しかし社会的経 験と抽象的思考力とは別のものではなく、下層階層の子どもは抽象的思考 ( 1町 力に欠けているとさえ報告されている。それが事実なら、その原因は知能 の差違ではなく、社会的経験の学習の差違に他ならない。 このような学校教育における価値体系、あるいは文化の不連続の研究に 日 目 対する批判もある。たとえばウェイランド(
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は教師 を中流階層として位置づけることに批判的である。つまり現在の階層概念 は大ぎっぱな面があり、教師の階層的位置づけもなおさらである。たとえ ば教師の出身階層(
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は広範囲にわたり、特に女教師はこ の面が顕著である。教師が彼らの階層文イじを教育に反映するという場合で も、教師はそれぞれ個性的なパースナリティ要因が異なるし、たとえ彼ら の行動基準が中流階層に基づいているとしても、この行動基準が教育の目 標設定、指導実践、評価などに直接反映するものではない。何故なら教育 は教師によって独占されるものではなく、現在のビューロクラティックな 社会では、皆がついて行けるように計画される。それから学校教育が中流階 層に偏向しているという場合、だからといって、下層階層の文化に偏向す (20) べきだということではないだろうし、学校教育の評価を適してみられる階層的相違と、単に学校は中流階層に偏向しているということとは区別きれ なければならない。さらに教育は個人の階層的移動に貢献してきたし、下 層階層の子どに彼らの文化を強化することよりも、彼らの生活意識高揖が 教育の本望であり、そのためには当然の帰結として不連続が予想されるで はないか。 以上は教育の階層的研究に対する彼の見解である。確かに従来の研究は 誇張されている面もないではないが、誇張しではならないということは問 題はないという意味ではない。
。
。
さらに今日のわれわれの社会は中流階層が拡大してきたし、消費経済の 浸透は、人々をして画一的方向に向けている。しかし収入が同じとか、同じ 倒 物を使っているから、人々の考えはみな同じということにはなら伝いし、 個人差はもとより、文化的志向 (cultural orientation) ということが、 現代教育の理解に重要ではなかろうか。階層的アプローチといっても、わ 闘 が国の階層的区分はアメリカの場合ほど明瞭ではないし、同じ問題が同じ 方法でとらえられるとは限らないが、われわれの社会にも似たような問題 はある。何よりもまず、教師のこの問題に対する認識が大切であろう。 (1) Pitrim A. Sorokin, "Social and Cultural Mobi1ity,"Free Press Paper back Edition, 1964, pp. 182、',193(2) Rober J.Havighurst and Bernice L. Neugarten, "Society and Educa tion
ぺ
Allynand Bacon. Inc., Second ed., 1964, p. 230, P.235 (3) Ibid., pp. 22 ... 30(4) Martin Mayer.“The Schools". Doubleday& Company, New York, 1963, p 127
(5) Harold L. Hodgkinson,・'Educationin Social and Cultural Perspecti ves, Prentice-Hall, Inc., 1963, p. 127
(6) Robert R. Bel1. "Social Class Values and the Teachers
ぺ
inRobert R. Be,1led., "The Sociology of Education: A Sourcebook", The Dorsey Press. Inc., 1963, p. 253. p,256学習過程における連続、不連続の譜問題 (8) Patricia C. Sexton,“Education and lncome", The Viking Press, 1964, P.229 (9) Robert
J
.
Havighurst and Bernice L. Neugarten, op. cit., pp. 466-467 q日RobertR. Bell, op. cit., p. 254 日1) Harold L. Hodgkinson, op. cit., p. 89, p.90 間 Ibid.,pp. 92...95 ( 13) Patricia C. Sexton, op. cit., p. 231 U41 RobertJ
.
Havighurst and Bernice L. Neugarten, op. cit., pp. 468... 47S Ul5RobertR. Bell, op. cit., p. 256 日 目 Martin Mayer,
op. cit.,
pp. 127...131 U司 PatriciaC. Sexton, op. cit., p. 36 日目 David P. Ausubel and Pearl Ausube,l "Ego development among segregated negro children", in A. Harry Passow ed., "Education in depressed arears", Teachers College, Columbia University, 1964, p.
125
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l S9 loan R. Wayland, "Old Problems, New Faces, and New Standards". in A. Harry Passow ed., lbid.. pp. 56 ... 59 側 MartinMayer, op. cit., p. 130 帥 PitrimA. Sorokin, op. cit. 倒 HaroldL. Hodjkinson, op. citリ p.211 倒木原健太郎、新堀通也編、「現在教育社会学」、明治図書、p
.
5
2
4
マイノリティクツレープと教育
これまでのべた前二節の不連続の問題は、どちらかというと、文化内の 問題であった。次に文化聞の例をみてみよう。マイノリティグループ(
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がすべて独自の文佑体系を保持しているかどうかは疑 問であり、あるいはマイノリティクツレープの問題は文佑聞の不連続の問題 だけに限られないけれども、従来それは支配集団(
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はマイノリティク・ループの基準とし(1) て(1)数量的割合、 (2)法的観点、(3)出生等を挙げているが、バロン
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が指摘するように、数量的基準では必ずしも規定されない。 彼はニューメキシコ州のアングロ・アメリカ人とラテン・アメリカ人の 例、南アフリカ連邦共和国での白人と黒人の例で説明しているが、古代ギ リシヤの都市国家スパルタでも同じことがいえよう。彼は権力構造 (ρo
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によって少数者集団(
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と多数者集団(
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を区別し、前者は従属、特権消失、偏見、差別等の当事者 であり、一般に攻撃的で、集団序列とそこにおける彼らの地位に敏感であ り、他方後者は、他の集聞に対して社会的勢力をもった人種、宗教団体、 (2) 国民等であると定義する。 このような文化的、人種的、宗教的、社会的な権力構造は政治、経済、 教育など国民生活の各方面に反映されている。特 iこ教育上問題となるの は、マイノリティグループに対する偏見、差別等の社会的距離と、マイノ リティグループ自身のつくる自己防禦が二重になっているということであ る。マイノリティク勺レープといっても一様ではなく、ワ十一ス(
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は(1)共寄型 ρ(l
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、(3)成就型(
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, (4)闘争型(
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に分けているが、社会的位置づけ、 対外的あ るいは対自的関係から生ずる集団特質は共通するものがある。 マイノリティグループの集団特質は、一方においては集団聞の関係(
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から、他方においては集団それ自体の内部の関係(
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から向けられる偏見、差別、距離意識等とそれに対するマイノリティ ク・ループの反応様式が考えられる。次に集団内の関係から生ずる問題を考 慮する場合、二つの問題状況があるように思われる。その一つは、移民な どにみられるように、マイノリティグループが“
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としての位学習過程における連続、不連続の諸問題 置を与えられる以前に、多数者集団 (majoritygrou向) とは既に異質的 で、しかもその異質性が強化される場合である。たとえばアメリカにおけ るスペイン系、中国人、日系人、ユダヤ人、アメリカインディアン等であ り、日本では朝鮮人などが典型的であろう。この系統に属するマイノリテ ィク勺レープの特徴は、祖国文佑、民族文化、民族意識を保持し、強調し、 鼓吹する傾向である。勿論固執度はそれぞれの民族によっても異なるし、 同じ民族でも世代聞やその他の文佑あるいは集団内の諸要因によって変化 することもある。しかし彼らに共通する面として、エスノセントリシズム (et hnocentricism)や、彼らの歴史的、社会的地位が関連していること はいうまでもない。このような問題意識が強ければ強いほど、それだけま た他の集団からの偏見、差別が強ければ強い程、彼らの固執的要素は強化 される。つまり一方においては集団内の団結、連帯、維持補強をめざし、 他方では集団聞の地位回復のため、いろいろな組職活動を計画実施す る。このような民族中心主義的傾向(あるいはこれに類する)とその組織 的活動は、確かに彼らの横の連携と社会的地位向上に貢献している面もあ (4) るが、それは外部の集団や文化への適応をはばむ要因ともなっている。 その一例としてメキシコ系アメリカ人 (Mexican-Americans)の場合、 彼らは白人文佑(彼らは白人と区別されている)、新教文化の中にあって、 (5) 彼ら独自の社会経済的、文化的基盤をもち、このような基盤の諸相として (6) (7) (8) の家族制度、宗教(旧教)、連帯的社会制度、白人の未来志向(future-or・ (9) (10) ientation)に対する現在志向 ρ>(resent-orientation)、言語等が支配的文 イじ(白人文佑)への同イじをさまたげている障壁となっていることが指摘さ れている。しかもこのような文佑的不連続状況下にあって、教育上最も犠 牲をこうむるのがこの社会の子どもたちである。 子どもたちは家の内と外とでは異なった文化を受容しなければならな い。その結果、家庭における行動基準と学校で要求される行動基準は相入 れない面があると、葛藤的場面を経験する。このような状況下にあって、
子どもたちの逃れ場所は仲間集団 ρe(er-grouρs,or age-grouが) とい 凶 う。価値葛藤、文化的不連続は疎外感、辺境性を生みだし、そしてその結 果としての下位文佑形成(例、抑er同gruu
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culture)に至るプロセスは、 他の文化的不連続の場合にもみられるが、文佑聞の場合にそれが顕著とな る。 以上はマイノリティグループが祖国文化、民族文化を擁護している場合 の問題状況であるが、これと区別される他の系列に属するマイノリティグ ル{プについて、次に検討したい。この集団は前者のように、遺産として の文化"はないが、 minority としての社会的位置が生みだした文化を 身につけている人々である。アメリカにおける黒人の場合がその例で、彼 らは文佑的見地からみるなら、合衆国以外に祖国はない。けれども、彼ら にとってその祖国文佑は、他の支配集団と同様に等しく分有されていると は限らず、ある場面では共通の、他の場面では部分的な、更に別の場面で は彼ら独自の行動様式がみられる。これまでみてきた通り、文化はいろいろ な場面で屈折し、多様兆して、不連続的状況を呈しているので、この問題 は黒人だけの問題ではない。しかしその屈折のしかた、多様佑の面(facets) に彼ら独自の問題領域がみられる。 即ち彼らは長い間の隷属的、 差 別 的社会構造によって、経済的、社会的、教育的に社会の底辺に位置づけら れ、これの悪循環は底辺的地位を固定的なものとし、これが偏見、差別、 遅滞に一層の拍車をかける。彼らは英語を話すが、それは、共通語'とし ての英語ではなく、南部なまり、俗語、彼ら独自の表現等が頻発するため に、白人社会への適応を阻害される。このような言語習慣は、子どもの不 適応の原因ともなれ特に学校では正規の英語を強制させられるため、学 校と家庭では不連続的、あるいは二重言語的 (bi-lingal)生活を経験しな ければならない。 以上のようなマイノリティグループの二つの分類は、集団の認知過程 (identity)、目標 (goals)、組織佑 (organisation)にも相違点を示す。学習過程における速続、不連続の諮問題 先ず組織化と目標の面からみると、精神的あるいは文化的、祖国切をも、っ たマイノリティグループは民族的誇りを維持するとともに、それによって 連帯意識を容易にはかり、相互扶助、社会的地位回復関努める。彼らは優 勢な集団との共存か、できれば拡大伸長を意識的にもくろんでいるので、 ( 12) それが却ってスムースなアカルチユレイシヨンをはばむ要因ともなる。更 に彼らの民族意識、民族文佑、連,情意識は世代を通じて強イじされるけれど も、新しい世代は他の文化や集団との接触(又は acculturation)が強い ので、世代的距離となって表われてくる。この型のマイノリティグループ に属する人々は、彼ら自身の認知にそれほどのためらいを示さず、一種のー 誇りさえ感ずる。 しかし一般にマイノリティグループに属する人々は、自己認知に逃避的 傾向を示す。しかもこの人々は、偏見、圧力、差別が加われば加わる程その 傾向をおびてくる。改姓したり同胞を避けたりして、自己の主場を隠そう. とする日本のマイノリティグループ、現実のきびしさと良心の阿責に煩悶 する「破戒」の主人公にその傾向をみることができる。しかもこの傾向は 第二の型のマイノリティクリレープ、つまり、祖国なき " minority gro
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に強いように思われる。何故なら、彼らは諮りにできる民族文佑がな いばかりでなく、 minorityとしての位置に対する偏見、差別などによ って、現実からの逃避機制を形成していくものと思われる。たとえば黒人 (13) の児童は人種的認知に抵抗し、黒人の友人を避けたり、白人と比べて彼ら ( 14) を低く評価したりする。更に同じ黒人が他の黒人を知的、経済的レベルか ら差別したりしながら、他方ではいわゆるアメリカ文佑の枠組から後退し 日 日 たり、それによって、自己の欠陥、無関心、反社会的行動を合理佑しよう とする態度、もしくは白人との接触、競争から後退して、彼ら独自の枠組 をつくり、心理的庇護 Ctsychologicalshelter)をそこから得ょうとする態 U6) 度等は、不適応機制を示すものに他ならない。 以上のような不適応機制の一面は日本の混血児にもみられる。レミの会の平野威馬雄民が「混血児は同じ混血児を量発ゅよう:とする傾向があるよう. t.:'j といっているが、これは混血児怯対lJ.-t~;白木の栓会苦闘置をづ'Q.'!jti園J 定観念に対する彼らの反応である。その画定観念は大かれきがながれ」欄見、 差別、劣等視であれそのような社会的位置終安堵の道ぞ見出す芯と冶で きないだろう。彼らが同じ混血児を避けだり、自分らと同じ身体的特徴令 した外国人を避けようとする傾向は、 minority どしての社会的位置に, 対する自己防衛の心理で・あろう。 積極的社会参加ではなく、逃避的行動をとる理由は、集団全体の社会的 位置からくる個人個人の自信の欠如である。社会からは異質視され、彼ら 自身としては所属集団はあっても、準拠集団があいまい、不安定、二重性, (ambivalence) を伴っている場合が多く、そこに自信の欠如
6
起因する であろう。特に文化、教育の不連続という観定からこの問題をみた場合、 一般社会、学校教育の提示する、基準'はマイノリティクVレープの基準と なり得ない場合が多く、そ乙から子どもたちの行動の二重性、葛藤、逃避 等が生ずると考えられる。 以上二つのグループに分けて示した通り、マイノリティグループは、そ の形成過程によって問題の起点は異なるが、社会の全体的枠組からみた場 合、問題は同一点に帰着するように思われる。その帰着点とは不連続に他 ならない。よって教育上留意すべき点は、教師が子どもたちの社会的、文 化的特質を理解するとともに、彼らの自尊心 (self
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esteem) を回復する ような枠組を与えることである (それは子どもたちの文化的特質を全面的 に奨励するという意味ではない)。たとえば個々の子どもたちの適性の発 見はもとより、彼らの集団的特質を考慮したカリキュラムの編成、教材の 配慮などは大切な指導技術である。 この点に関して、アメリカにおけるメキシコ系の子どもたちと教科書の 問題をあげておこう。子どもたちの使っている歴史の教科書はメキシコ戦 争(アメ リカ合衆国とメキシコの戦争-1846""48年)と1910年のメキシコ-227-学習過程における連続、不連続の諸問題 政変
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以後の両国の緊張関係争扱っているが、こ のような教科書はややもすればアメリカ中心に書かれているため、祖国メ 聞 キシコに悪い印象を与えないとは限らない。家庭や社会では祖国の伝統文 佑に住み、たえず祖国への思慕tとかられているメキシコ系アメリカ人や彼 らの子どもたちに、このような教科書がいかほどの‘教育'を保障するで あろうか。子どもたちの生活文化を無視したり、否定したり、歪曲した学 校教育は、教育の不連続を内包し、そこから学校、教師、教材、一般に教 U四 育と子どもの疎外関係が生ずる結果となる。注 (1) Francis J. Brown, "Our racial and National Minorities", New York, Pr可mtice-Hal,lInc., 1937, pp. 4 ... 9
ditto.,“Edutcational Sociology" Modern Asia Edition, Sec. ed., p. 622 (2) Milton L. Barron,“American Minorities", New York, Alfr'吋 A.
Knopf 1957, p.3
(3) Luis Wirth. "The Problem of Minority Groups", in Milton L. B岨rron,ed.,“American Minorities. "Ibid., p. 12
(4) D唱.vidP. Ausubel and Pearl Ausubel, ,'''Ego Development Among Se -gregated Negro Children," in A. Harry P飴sow,edリ“Educationin
D唱pressedArears", New York, T,伺chersCollege, Columbia Univer宮i
-ty,羽田, p. 122
(5) Clark S. Knowlton, "1‘he Spanish Americans in New Mexico", Soc iゆ10唱lYand Social Research, Vo1.45, No. 4, 1961 (6) Margaret Clark,“Health in the Mexican-American Culture", Unive -rsity of California Press, 1959, P. 155 (7) George Eaton Simpsion and J. Milton Yinger, "Racial and Cultural Minorities
ぺ
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