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統一テーマ「法思想史学にとって近代とは何か」について

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Academic year: 2021

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今回のシンポジウムは、日本法哲学会の学術大会の歴史の中で、法思想史といわれる領域それ自体を主題に据えた 初めてのシンポジウムだと言える。その意味で記念すべきこのシンポジウムは、一三世紀から二○世紀までの西ョ− ロッパの多様な思想家・思想運動を素材としつつ、これらの報告を結びとめる共通要素として﹁近代﹂という概念を 設定し、法思想史学がこの近代という思想運動をいかにとらえてきたかに焦点を当てることとした。 1 今日、なぜ法哲学者が﹁近代﹂を問い直す必要があるのか。それは一言でいえば、本学会の近年の統一テーマであ ︹ 発 題 ︺

統一テーマ﹁法思想史学にとって近代とは何か﹂について

一キーワード“点的自我、世界疎外、 一 天 ① 琶 夛 己 ﹃ Q の ” ロ 色 。 、 ︽ 匡 画 一 切 ① 患 ︾ − ご ○ ユ ロ ー 0 0 6 9 . 9 0 0 − ■ 0 . 9 0 − ■ 、 1 0 . 9 . 9 0 Ⅱ Ⅱ 1 0 1 − ■ 一 ■ 1 . 9 0 . 1 1 ︲ I ︲ 1 ︲ 1 ︲ 1 ︲ 1 ︲ 1 ︲ 9 | シ ン ポ ジ ウ ム の 趣 旨 離脱、コンヴェンション、生物学的唯名論 四一一①。“ごOPQ厨の.ぬ卸媚の。]の己骨︺○○コぐ①コロ○コ︾ず一○一○m一○四一己○コ︺一国四一房ご︶

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発題 る﹁法の支配﹂やリバタリアニズムを例に挙げるまでもなく、今日の法哲学の営為そのものが、近代の思想運動の多 2 様な所産の﹁問い直し﹂と﹁再認識﹂の不断の試みにほかならないと思うからである。 九つのパネリスト報告の布置としては、まず、トマス・アクィナスによって集大成された中世までの理性像・人間 像から近代が何を奪い取ったかに注目する河見報告、それに対し、ノミナリズム神学における﹁神の絶対力﹂の思想 が近代法思想に及ぼした影響を論じる小林報告を、第一のグループと考えることができる。 次いで、ョ−ロッパ各国における代表的な近代法思想を扱う第二のグループとして、近代自然法学の世俗的変容を 完遂したヒュームの正義論の意義を再考しようとする下川報告、ルソーの共和主義的解釈の積極的意義を論ずる神原 報告、カントの法思想の中に、近代の特徴たる﹁理性の自律﹂と﹁法の自律﹂との相互促進を見てとる高橋報告、そ して、ベンサムが言わば﹁世界の立法者﹂としてパノミオン馬合法典︶という普遍的法典を構想していたことに注 目する戒能報告を一括りにすることができよう。 さらに、ヘーゲル法思想のうちに近代の個人主義的な法・道徳哲学の止揚を見てとる永尾報告、ドイツ歴史法学そ れ自身のうちに﹁普遍性を追求する近代﹂と﹁ゲルマン民族の個別性に固執する反近代﹂とが同居していた点に注目 する堅田報告、反近代を標傍すると同時に近代の技術的理性の貫徹という性格をも備えるナチズムを分析する南報告 が、第三のグループを構成すると言える。 最後に、法思想史に関する浩渤な体系書を上梓されたばかりの笹倉会員には、全報告に対する包括的なコメンテー ターの役割を引き受けていただいた。 しかし、法思想史学における近代を問い直すと言っても、それは容易な作業ではない。近代を.定の時間的尺度 二 点 的 自 我 と 近 代

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の中において連続的に生起してきた思想運動﹂ととりあえず解釈したとしても、その時代範囲、思想家、思想内容と もに広漠としていて、あまりに多様なものを包摂している。したがって、この基調報告では、時代としての近代に現 われてきた多様な現象を列挙することによってではなく、﹁近代﹂という思想運動の特徴を根っこのところでっかみ とろうと試みることで、その責めを塞ぎたい。その際、私が注目したいのは、チャールズ・テイラーが唱える点的自 我 谷 口 月 白 巴 の ① g と い う 概 念 で あ る 。 まず私は、二○世紀の多くの思想家が、﹁近代﹂という物心両面にわたる世界的な思想運動を、﹁疎外﹂という現象 徹 井によって特徴づけてきたことに着目したい。例えばハンナ・アーレントは、近代の性格を決定する重要な出来事とし 暇て、第一に、新科学の発展第二に、アメリカの発見とそれに続く地球全体の探検、第三に、宗教革命という三つを て

即挙げ、これら各海が生活世家ら人關脱却していく﹁疎外﹂のプロセスーすなわち世界疎外lを不可避拝

にったと指摘している。彼女によれば、デカルト以来の近代哲学もまた、この世界疎外と歩調を合わせつつ、魂、人格、 か 銅人間一般ではなく、もっぱら自我に関心を注ぎ、世界や他者との間に起こる経験すべてを、人間内部の経験へと還元 鮭しようと試みてきたのである︵雪⑯且巨や認︸目.っ︶。 近 てチャールズ・テイラーもまた、自己探求という意味における内向性盲君胃含①脇︶、産出的能力言昌①胃冒乏①易︶ つ 唾の重視と並んで、離脱l距離を置くことl自切の巨隠胆の日のgという概念を、近代の自我の重要な特徴に挙げてぃ 学 史る。彼によれば、そもそも、﹁われわれが自己を持つ﹂、あるいは、﹁人間という主体は本質的に自我として定義され 想 認る﹂という考え方自体が、われわれの近代的な相互了解の反映にほかならない。 マプラトンに端を発する中世の存在秩序においては、宇宙そのものが、﹁様々なイデアを具体化したものであり、理

一一性善lそして神学的にはl神を顕一手る価値的秩序司昌。﹃墨患・冒だと見なされた。つまり、世界そ

統 のものにも価値や知識が内在すると見なされ、人間の正しい知識や価値づけは、この事物の秩序によって具体化され 3

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発題 ロックが、人格を、﹁行為およびその功罪を自らのものとする法廷用語﹂PC鼻①巳計.い目.患︶と表現して、思考 する存在が行う行為すべての﹁責任の帰属点﹂として説明しているのは、まさに、点的自我を象徴するものと言える。 法思想史の文脈で重要と思われるのは、この点的自我こそが、﹁生命や自由をも自己の自然的属性として所有する主 しかし、デカルトに象徴される近代の自我はもはや、外的事物からのみならず、経験・身体を含めた自己の諸能力 からも、二元論的に距離を置く言の①眉眉①︶ようになった。したがって、デカルト以降は、人間が様々な仕方で反 応する諸々の客体が、世界を構成することになる。これに対応して、近代の﹁距離を置いた﹂主体にとっては、思考 と価値づけはまさにわれわれの﹁心の中﹂に置かれることになるわけである。このような意味における世界からの自 己の離脱は、機械論的世界観と新科学の前提でもある。そこでは世界は、価値を具体化した秩序としてのコスモスか ら、言わば︿死せる物質﹀へと変質したのである。 自らの属性・能力からも離脱しうる自我は、規律そして自己改造の必要条件でもあった。テイラーは、改造のため に自己の諸能力に対してさえラディカルな﹁離脱﹂の態度をとれるこのような主体を、点的自我言匡ロ、冒巴⑫①己と 名づけた角g﹃自ら窓︾弓己。その代表的論者と言えるジョン・ロックは、人格言①勗目︶を、物質的あるいは非物質 的な実体︵2房冨己8︶ではなく、﹁意識の同一性﹂へと還元した︵冒呉①ご計︾P目.邑。 現在考えているものの意識が結合しうるものすべてが同一の人格を構成し、一つの自我︵めのSとなる。.・・・:そ してそれは、その意識が及ぶかぎり、そのものの行為すべてを自己に帰属せしめ、自分のものとして所有する。 河見報告でも言及される。 ている﹁意味﹂に、人間が正しく結合することから生じるとされた。世界と人間の魂との関係は、いわば全体と部分 4 であるかのように解釈されていた︵弓昌さ﹃ご窓︺届写。このような中世の自然的秩序がもつ今日的意義については、 ︵P○○六①﹄や﹁輿障唖司﹄己

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統一テーマ「法思想史学にとって近代とは何か」について(桜井徹) 体﹂という所有的個人主義の前提であり、したがって、外界の事物に対する排他的支配を可能にする﹁近代的所有 権﹂の哲学的基礎にもなったという点である。 かってC・B・マクファーソンは、そのロック解釈から所有的個人主義というモデルを提出した。すなわち、ロッ クの﹃統治二論﹂においては、神によって創造された共有の世界の中で、人間は、自らの生命、身体、自由、そして 労働に対しては排他的な所有権を有しており、これを、労働を通して共有地に混入することによって、無制限に所有 物を蓄積できるという所有権擁護論が説得的に展開されているというのである昌画、g①刷○己ら§。このように人間 は自らの所有物言﹃g①﹃gとして﹁生命、自由、財産含ぐ$号①畠①切四且①切国扇⑫︶﹂を享受する権利をもつという考 え方は戸○烏①己電&﹄皇、﹁点的な自我﹂が自らの能力・属性に対して距離を置いた姿勢をとるというロック自身 の自我論を前提にしないでは理解できないものである。 このような人間観においては、原理的には、﹁人間は他者なくして存在しうる﹂ことになる︵弓四三自己$︾屍巴。テ イラーによれば、このように事物から﹁離脱﹂した主体は、自分の目的を、自らを包摂する大きな存在秩序によって 命ぜられるのではなく、自分自身の内部で発見できるという意味で、独立した主体だからである。 社会契約説の伝統においても、それまでは、政治権力を創設する合意を結ぶ共同体の存在をあらかじめ前提とする ことができたのに対して、一七世紀に初めて、﹁その共同体はいかに始まったのか﹂を説明する必要が生じた。その 試みは、自然状態において人々の﹁自然的平等﹂を想定し、人々がまず政治社会︵のCQ①国印gぐ罠の︶において結合し たことを認めたグロティウスに始まると言える。つまり、グロティウス以降の社会契約論者は、政府を創設するため 戸 、 の伝統的な統治契約l第二の契約︵go目目農の﹃屋ョ︶lに先立って、そもそも各個人が政治共同体を設立するた 三所有的個人主義と社会契約説

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発題 めに結合することを約する第一の契約︵go日日目日匡邑の存在を論じる必要が生じたのである。 6 国家の設立までにこのように複数の契約︵合意が必要であることを最も織密に論じたのが、一七世紀後半の自然 法論者プーフェンドルフである。神原報告が論じるルソーも、﹁社会契約論﹂の冒頭で﹁人民︵胃呂亙が国王を選 ぶ行為を検討する前に、人民が人民になる行為を検討するのが適切だ﹂と述べているが、この点において、ルソーも 近代自然法論の伝統に忠実だった。 このような契約による国家形成を支えたのは、個人にとっては、自らの生命・自由はもちろん意思や目的といった 属性・能力も自らの﹁所有物﹂であり、このことについて各人は他者に何も負っていないという個人主義的想定であ る。排他的所有者である個人だけが、自らの意思や目的をより大きな集団へと拘束することができるし、さらには特 定の統治者への服従義務をさえ自ら創造することができるのである。 テイラーも指摘するように、今日のわれわれは依然として、政治社会を個々人の意思による﹁創造物﹂と考えるか、 さもなければ、個人やその集団の目的を達成するための﹁道具﹂として理解・評価する傾向を社会契約説から引き継 いでいる。もちろん、一七世紀以来、このような原子論的・道具主義的な社会観に対抗して、全体論的・共同体主義 的に社会を把握する見方が繰り返し主張されてきた。永尾報告がとりあげるへlゲルの近代自然法論批判も、この系 列を代表する一つだと言える。しかし、今日に至るまで、原子論的・個人主義的な社会観が常にわれわれの常識によ り近く、それに対抗する社会観を提出する者が自らの証明責任を負わされてきたのである弓昌さ﹃こ$︸己甲畠。 さらに近代の法思想を決定的に特徴づけたのは、とりわけ一七世紀以降の自然法論者たちが﹁絶対的な自由を行使 する神が人間の自己愛目己保存︶をも意欲する﹂と解釈することによって、主意主義神学とヘドニズムが融合する に至ったことである。その結果、人間に自己利益の追求を命じる自然法は今や、﹁神の命令﹂であると同時に、﹁理性 の命令﹂でもあると見なされるようになったわけである︵弓四三○﹃尼電︾鬮色。このような思想家の代表例として、ロ

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統一テーマ「法思想史学にとって近代とは何か」について(桜井徹) 井 一 二○世紀ドイツの哲学者ヴィレム・フルッサーもまた、人間の文化的発展そのものを、徐々に人間が生活世界から 離れていく﹁疎外﹂の過程として描いている。 彼によれば、第一に人間は、物そのものの世界から脱却して、物を操作し、道具を作る存在になった。第二に、扱 われる物が三次元性を脱却することによって、われわれは観察者になるとともに、画像を描くという実践を知った。 第三に、画像という二次元性を脱却することによって、われわれは記述者になるとともに、テクストを作成するよう になった。そして第四に、ルネッサンスとともに、アルファベットという一次元性を脱却することにより人間は数学 というコードを用いる計算者となり、近代の科学技術という実践を生み出すに至ったのである。 このように生活世界からの脱却が進行するに従い、われわれの対象としての世界111客体lと、この対象に立ち 向かう人間l主体lとの間に徐々に﹁裂け目﹂が拡がっていくことになった。前近代においては、対象たる世界 はそれ自体﹁生命﹂をもつもの、あるいは、生命ある者によって運動を付与されたものだったのに対して、ルネッサ ンス以降、われわれは客体としての世界を、われわれを下から支える〃生命なき〃文脈︵物質︶として理解するよう になった。その意味で、近代の実践はすべて、客体を臣従させようとする主体の試みだったのである︵国ロ⑫の①﹃ ﹄@や︽︶0 フルッサーもまた、このような近代の数的思考にとっては、世界だけでなく、人間もまた、点的さ匡昊目①三であ ワ j り、モザイク的であり、﹁分解したり合成したりできるもの﹂としてとらえられると主張する︵国匡のの①﹃己虐︾届.訳一 井一九九七︶。 ツクの同時代人であるリチャード・カンバーランドがいるが、彼から功利主義思想まではもうほんの一歩である︵桜 四世界疎外の帰結としての近代

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発題 他方で、﹁主体による客体の支配﹂という関係そのものにも、近代の哲学と科学の進展に伴い疑いの眼が向けられ てきた。それは外でもない、客体たる世界の確実性への信仰が掘り崩されていくのと並行して、主体としてのわれわ れの﹁自我﹂もまたその根拠を損なわれてきたからである。もし物質的世界が不可分の粒子であるどころか、物質の 根源ともいえる電子や光が、実験によってあるいは粒子としてあるいは波動として立ち現われるというような二重性 を備えていることが明らかになったとすれば、客体たる世界は﹁相互に交差する︵関係︶場の歪み﹂自匡の印の﹃ら程︾圏. 訳一二頁︶でしかないということになる。主体が、客体に対する認識と操作という関係によって自らを確立してきた とすれば、このことは、その重要な足場が揺るがされることを意味している。 他方、フルッサーによれば、フロイトとフッサール以降、われわれが何らかの確実な核心を持っておりlあるい はわれわれ自身が確実な核心でありl、その核心によって自らをアイデンティファイできるという信念はもはや損 なわれてしまっている。また、知識あるいは真理は﹁思考﹂と﹁思考されたもの﹂との一致であり、したがって﹁思 考﹂を﹁思考されたもの﹂から区別できるとの通念も、lハイゼンベルクの不確定性原理という著名な例を別にし てもl﹁すでに知られている現象だけが知覚される﹂、つまり﹁知るという行為は知覚に先行しなければならない﹂ という心理学的発見によって大きく揺るがされている︵国こいの①民ら程︾圏︲獣.訳二丁三八頁︶。 ○頁︶。このように、人間が自らの離脱した思考の客体となるに応じて、いわば﹁点﹂として扱われるようになると 8 いうことは、人間がその属性を含め、﹁計算の客体﹂として把握される可能性を示している。功利主義が人間の幸福 を、計算可能なものとして、つまり個人間比較が可能なものとしてとらえ、幸福の最大化を法設計の原理に据えるた めには、まずもって、このように人間そのものが、経験や効用といった属性を所有しうる﹁点的な主体﹂へと還元さ れることが必要だったのである。

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統一テーマ「法思想史学にとって近代とは何か」に ついて(桜井徹) しかし、このような近代的な認識モデルへの侵食は、すでにヒュームやカントが先鞭を付けていたのである。ここ では、下川報告も論じるヒュームを特にとりあげ、その思想史的意義について論じたい。 すでに述べたように、ロックは、何らかの実体の同一性ではなく、意識の同一性が人格を構成すると考えたが、ヒ ュームは﹃人間本性論﹂において、ロックの立場をさらに劇的に表現し、人間の自我を﹁目にも留まらぬ速さで互い に継起し絶えず流動・運動しつつある様々な知覚の束あるいは集合にすぎない﹂畠匡目①ごg虐卜・・らと喝破した。 こうして、ロックの﹁点的な﹂自我は、言わば﹁無﹂にまでその内実を削ぎ落とされてしまったわけである。 しかし、ここで私が言いたいのは、ヒュームが、このように自我を﹁多様な知覚が次々と登場する一種の劇場﹂ 宮屋.︶へと格下げすることによって、主体の確実性に対する信仰が次第に崩されていく近代の傾向を、﹁点的な自 我﹂の成立した直後から先取りしていたということだけではない。下川報告も述べるように、ヒュームは、所有権、 そして約束という制度の成立には、﹁共通利益の一般的感覚﹂両g①且のgのの98日日○コ目①﹃①のこという意味における コンヴェンション︵合意が人間相互間において結ばれることが必要だと力説した。つまり、所有権とは、単に﹁物と いう客体に対する主体の私的な関係﹂ではなく、﹁外界に関する間主観的な公共的関係﹂であることを強力に主張し たのである。ヒュームはまた、コンヴェンションこそが、約束と呼ばれる言語形式︵目冒○目の①⋮︶と併せて、約束の ルールの﹁拘束力﹂を創造すると考えていた。つまりヒュームは、近代の法体系を根底から支える基本的な規範が﹃ ﹁互いの利益感情を間主観的に承認しあった人間相互間の感覚的なネットワーク﹂ともいうべきコンヴェンションを 前提とする人為的なプロジェクトであることを強調していたのである︵桜井一九八八︶。 9 他方、フルッサーは、主体が確実な核心をもっとは信じられなくなりつつある現代の状況においては、われわれは 五ヒュームによる近代的認識モデル批判

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発題 最後に、南報告との関連で、ウィリアム・オッカムが擁護した唯名論を、進化論で名高いチャールズ・ダーウィン が、地球上の﹁生命の歴史﹂にまで徹底的に適用したことにも注意しておきたい。ダーウィンは、﹁それぞれの種に は、個体が逸脱できない固定された限界が存在する﹂と考えた当時の通説に対して、種や変種というカテゴリーはあ くまでも﹁相互に近似している一連の個体に、便宜のために任意に与えられているもの﹂にすぎないと反論した e閏葛ご屍記︾圏.訳︵上︶七五頁︶。ダーウィンが、生物種に関して徹底的な唯名論を要請したのは、個体差が自然 選択により、変種、亜種、種へと徐々に推移すると彼が考えたことの必然的な帰結である。個体に生じる変異が、生 存競争によって漸進的に種にまで拡大していくものなら、種の間の境界はあくまで暫定的、名目的なものでなければ 様相とダイナミズムを与えているのである。 に常に新たな攪乱要因を抱えていたことの例証だと言えるし、このことがまた、近代に、容易に把捉できない複雑な た人物と評することができるのではあるまいか。このようなヒューム解釈は、近代の思想運動そのものが、その内部 ら、まさにヒュームは、近代の世界観が成立したそばから、すでに﹁近代以後﹂にまで突き抜けるような示唆を与え れる者こそが本物のポスト・モダンだと主張する︵司冒朋閏ら程︺ミ.訳二七頁︶。もし彼の時代診断が正しいとするな 自由の本質とは合意の形成とそのデザインとにかかわることを意味する﹂が、彼は、このような自由の定式を受け容 れば、これはすなわち、﹁すべての認識、すべての価値が暫定的な合意を投影弓旦①冨○巳したものにすぎないこと、 な対話から生まれたコンヴェンションにほかならないと言うのである︵句盲腸9乞程︾蹟.訳二六頁︶。フルッサーによ 認識とその選択肢とは、われわれ自身の創る法・法則︵の隅23︶によってデザインされるが、その法とは間主観的 自分自身を、対話的ネットワークの結節点負9房目匡晨ごとしてしか受け止められないと述べる。つまり、世界の 六人種主義的思考とダーウィニズム 10

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統一テーマ「法思想史学にとって近代とは何か」について(桜井徹) ﹁全体I種lは個体の集合にすぎない﹂とみなすダーウィンの生物学的唯名論が法思想の観点からも重要だと 思われるのは、それが、ダーウィンの知的背景をなす個人主義哲学と自由主義経済思想の反映だと考えられるからで ある。各個体こそが自由な競争によって自らの利益を追求すべき存在だと考える個人主義思想︵言&ぐ画巨農の日︶は、 今やヒトだけでなく、すべての生物へと投影されることになったわけである。 しかし他方、ダーウィン自身が社会ダーウィニズムの先頭を切って、生存競争の主体、つまり自然選択の客体を、 ﹁個体としての生物﹂だけではなく、あえて部族言弓①⑳︶、国民含昌○国的︶、人種︵38の︶といった集団へと敷術し たことは、特に注目に値する。ダーウィンによれば、生存競争によって﹁数世紀以内に、文明化した人種が、世界中 の未開人種を滅ぼしてそれに取って代わるということはまずまちがいない﹂のであるe胃乏旨屋ども臼.訳一二九 頁 、一 ○ ならないからである。 文明人と未開人とが、そして列強の国民同士が、互いに生存競争を行うという社会ダーウィニズムの図式は、そも そも、ダーウィン自らの生物学的唯名論と強い緊張関係をはらむものだった。しかしながら、﹁形質がたまたま相互 に近似している一連の個体﹂であるというだけの国民や人種に、生存競争の主体たる地位が与えられることによって、 唯名論的な生物観がもともと抱え込んでいた個人主義的含意が、民族や国家そのものにまで押し及ぼされるに至った。 つまり、﹁劣った﹂人種や民族もまた不適者として生存競争の中で淘汰されていく運命にあるというように、民族間 の闘争を生物学的必然性として描くことが可能になったのである。 南報告が論じる人種改良学をテコにしたナチスの民族共同体思想は、もともとは社会ダーウィ’一ズムに発する人種 主義的思考が、大規模な社会〃設計〃の野心と結託したものと性格づけることができる。そもそも唯名論によって基礎 づけられた進化論的生物学が、その生存競争の主体を﹁個体﹂から﹁人種﹂や﹁民族﹂へと横滑りさせ、唯名論の個 11

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人主義的含意もこのような﹁民族共同体﹂にまで及ぼされたときに、ユダヤ人に対するドイツ人の全面的な闘争が生 題 、 、 、 、 発物学的に正当化されるという帰結が導かれたとしてもあえて怪しむに足りない。 ともあれ、以下の九つの報告と一つのコメントは、﹁近代﹂という思想運動の多様な側面に、それぞれ異なる角度 から、おそらくは異なる色のスポットライトを当てる試みだと評しうる。コーディネーター役を務めた筆者としても、 一○個の﹁語り﹂が言わば連続小説のように一つの﹁物語﹂を予定調和的に呈示することを期待してはいない。むし ろ、それらが互いに様々なきしみと不調和を顕わにして、今後長く、実りの多い探求と対話を喚起することを祈って やまない。 ︻ 引 用 文 献 ︼ 崖︻g号四四コ.農.屋麗.目青国冨ご昌苫○ミミ昏冨.○三の眉Qご己ぐ①風ごgo宮8曾卑の閉.[ハンナ・アレント︵志水訳︶﹃人 間 の 条 件 ﹂ 筑 摩 書 房 、 ’ 九 九 四 年 。 ] 甸言朋閏︾ぐ忌日.邑這.琴ミ智鷺蚤ミミ弔さ言迂.因g普里日匡aC房附一号島田呈日目.[ヴィレム・フルッサー︵村上訳︶ ﹁サブジェクトからプロジェクトへ﹄東京大学出版会、一九九六年。] ロ閏夛言︸の富1$・民$.○苫ご砲○員廻雪旦恕§鴎ごミ冒畠具之ミミミ粋胃ミミ.宮口号貝吉冒冒目﹃畠.[チャールズ・ ダ ー ウ ィ ン ︵ 八 杉 訳 ︶ ﹁ 種 の 起 源 ︵ 上 ・ 下 ご 岩 波 書 店 、 一 九 九 ○ 年 。 ] l屍己.望、c§①ミミミミ・負員粋胃冒葛ミ静ミご葛きめ胃&3房.宮口号貝旨冒三日﹃畠.[今西錦司責任編集 ﹁ 中 公 バ ッ ク ス 世 界 の 名 著 ダ ー ウ ィ ご 中 央 公 論 社 、 一 九 七 九 年 ︵ 第 二 版 の 翻 訳 ︶ ・ ] 国匡ョの︾p画く己.ざ9.﹄ご§房免旦函ミ葛邑苫之ミミ笛.向島扇QgC.国z98二四且冨.zo﹃8邑・○×昏鼻Oxさaご己ぐ①風q

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統一テーマ「法思想史学にとって近代とは何か」について(桜井徹) 冒民ゆき盲.己雪国ごC目ざ員房鴎具o・鳥ミミ、ミ・両旦詳89勺.旨堅①言○四国耳己鴨恥8日耳昼鴇ご己ぐ閂望耳甲$“[大槻 春 彦 責 任 編 集 ﹁ 中 公 バ ッ ク ス 世 界 の 名 著 ロ ッ ク ヒ ュ ー ム ﹂ 中 央 公 論 社 、 一 九 八 ○ 年 。 ] Iら計.﹄蜀届蔚亀8ミ偽ミ、畠弔昏ミミ︹ミ号爵言苫愚息と芽8.固昌尉・9勺.函.富&岸9.○鷲貝具Q閏①且呂も昂朋. 三四8胃﹃の。。ゞの.国ごs望、専言8罠里侭。ミミ習麓8吟ミミミごミミ罫ミ○×ずa率○×ざaご己ぐの扇ご申の脇.[C・B・ マクファーソン︵藤野ほか訳︶﹃所有的個人主義の政治理論﹄合同出版、一九八○年。] 桜井徹一九八八﹁ヒュームにおけるコンヴェンションの観念﹂ヨ橋研究﹄第一三巻第二号。 I一九九七﹁近代自然法論と功利主義の交錯lカンパーランドにおける仁愛と公共善﹂﹁国際文化学研究﹂︵神戸大 学 国 際 文 化 学 紀 要 ︶ 第 八 号 。 弓四己○量○ゴ四ユ①いら$⑥の。震言一 の 昌 言 鴎 串 ︶ ﹃ の の の 旦尋?浄気,○四日耳己鴨・冨開駕国閏ぐ画己ご昌蔚筋ご勺吊朋 13

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