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ヘーゲルとキルケゴールの悲劇観

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(1)Title. ヘーゲルとキルケゴールの悲劇観. Author(s). 豊福, 淳一. Citation. 北海道教育大学紀要. 第一部. A, 人文科学編, 24(2): 57-70. Issue Date. 1974-01. URL. http://s-ir.sap.hokkyodai.ac.jp/dspace/handle/123456789/4017. Rights. Hokkaido University of Education.

(2) . 第 24 巻 第 2 号. 北海道教育大学紀要(第一部A). 昭和49年1月. ヘー ゲ ル と キルケ ゴール の悲 劇観 豊. 福. 一. 淳. 北海道教育大学釧路分校哲学研究室. r Junichi T( )YoがUKU: Hegel s und Kierkegaards Anschauung t iber d ie Trag6di e. は. じ. め. に. ヘ ー ゲ ル は そ の 青 年 時 代 か らギ リ シ ア悲 劇 に 深 い 関 心 をよ せ, な か で も ソ フ ォ ク レス の 『オ イ デ ィ プ ス 王』 と 『ア ンチ ゴ ー ネ』 を 愛 読 し, 『ア ンチ ゴ ー ネ』 に つ い て は 翻 訳 ま で 試 み た こ と は よ く 知 られ た 事 実 であ る. 最 初 に 青 年 ヘ ー ゲ ル の 心 を と らえ た も の が, ギ リ シ ア 哲 学 で な く, ギ リ シ ア 悲 劇 で あ っ た こ と は ヘ ー ゲ ル 哲 学 の 人 倫 的 性格 を よ く あ らわ して い る と い え よ う. ヘ ー ゲ ル は 『精. 神現象学』 , 『歴史哲学』 , 『法哲学』 などの著作においても, 古代悲劇をとりあげ, とくに 『美学』 においては古代悲劇と近代悲劇の対応をとりあげている. そ れ で は, ヘ ー ゲ ル と キ ル ヶ ゴ ‐ ル 両 者 の 古 代 悲 劇 に 対 す る 見 方 は どの よ う に 違 う で あ ろ う か.. 古代悲劇に連関して当然あ らわれる近代悲劇, あるいは宗教的悲劇に対する両者の見解は どのよう に相違しているであろうか, また, 両者それぞれの哲学, 人生観, 世界観をきずきあ げるうえで, お の お の の 悲 劇 の と らえ 方 が どの よ う に 作用 して い る で あ ろ う か. こ の 小 論 で は こ う した 問 題 を取 り 扱 っ て み た い と 思 う.. まず考え られることは, ヘー ゲルの悲劇観が終始, 人間的, 弁証法的観点か らと らえ られている ことである. たとえば, 古代悲劇では悲劇が相対立する両力の永遠の運命的葛藤とみ な さ れ て い る. ヘ ー ゲ ル は, イ エ ナ 期 の 『人 倫 の 体 系』 の な か に ギ リ シ ア 悲 劇 を と り 入 れ る こ と に よ っ て, は. じめて彼独自の人倫の哲学を構成 したのであるが, 完成された 『精神現象学』 において, まさしく ヘーゲル哲学の体系的な基礎を, このギリシア悲劇か ら得ている. ギリシア悲劇の要因が一面では 単純すぎるほど図式的に整理されているとしても, 悲劇的諸力が弁証法的にと らえ られ, さ らにこ の観点が近代国家のなかに生きて働く政治と経済, 国家と市民社会という対立にまで展開されるの である. また, 古代悲劇のもつ人倫的, 実体的側面が近代悲劇の個人的, 主観的側面と対比される こ と によ っ て, 安 定 した 観 点 が つ ね に 古 代 か ら得 られ て い る こ と が 知 られ る. 若 き ヘ ー ゲ ル が 『キ. リス ト教の精神とその運命』 でと らえる, イエスとその教団の悲劇は, 運命を単に 「主 観 的 必 然 性」 とするのでなく, 人間的主体的にと らえる観点が生きている. さ らに悲劇が個人の悲劇に終 ら ず, 共同体の悲劇として歴史的社会的観点か ら着実に追求されているのである . と こ ろ で, キ ル ケ ゴ ー ル に お い て は, そ の 悲 劇 観 は さ らに 複 雑 で あ る。 『あ れ か こ れ か』 第 一 部. で古代悲劇をとらえる際には, 彼はアリス トテレス, ヘー ゲルの言葉を引用 するなど該博な知識を 示しなが ら, 冷静かつ客観的に問題を展開している. 血族, 民族, 国家にまつわる客観性を重視す る こ と に よ っ て, 古 代 悲 劇 の 偉 大 さ を 承認 す る 点 で, キ ル ヶ ゴ ‐ ル は ま さ しく ヘ ー ゲ ル の 影 響 を ぅ. - 57 -.

(3) . Vo l . 24 No .2. i lof Hokka ido Uhi i i journa t t s on IA) ver on (Sec y of Educat. January ,1974. け て い る. しか し キ ル ケ・ゴ ー ル は こ れ に あ きた らず, 古 代 悲 劇 を 自 己 の 体 験 に も と づ い て 解 釈 しな お し, 19世 紀 デ ンマ ー ク に 生 き る ア ンチ ゴ ー ネ を創 作 しな お す の で あ る. そ の 場 合 の 生 き 方 を キ ル. ヶ ゴ‐ルはみずか ら 「主観的弁証法」 と称 して, ギリシア悲劇の 「客観的弁証法」 に対しておと し めてはいるが, 客観的な らびに主体的な生の脈絡か ら逃れえない自己の運命への凝視がそこにのぞ いて い る. した が っ て, キ ル ケ ゴ ー ル に と っ て 古 代 悲 劇 は 古 代 悲 劇 で あ り つ づ け る の で な く, 現 代 の 人 間 主 体 の 悲 劇 に どの よ う に か か わ り を も ち, どの よ う に 生 か さ れ る か が 問 題 と な る の で あ る. さ らに, キ ル ケ ゴ ー ル に と っ て 真 の 宗 教 的 絶 対 的 な 悲 劇 はイ エ ス で あ り, こ れ に 迫 る 人 物 と し て, 聖 書 中 の ア ブ ラ ハ ム を は じめ 多 く の 人 物 が あ げ られ る. た と え ば, ア ブ ラ ハ ム の 立 場 は 客 観 的. 立場の, あるいは主体的なキルケ ゴールの立場の到底及びえない, おそるべ き信仰の騎士の典型で ある. キルケ ゴールの場合には, 古代悲劇と近代悲劇を時代によ って区別するとい うよりは, 自分 の生き方とか らみ合わせなが ら問題が問い直され, 美的悲劇, 倫理的悲劇, 宗教的悲劇の区別によ っ て, そ れ ぞ れ ドン・ ジ ュ ア ソ (ま た は フ ァ ウ ス ト, ア ハ ス ウ ェ ル), ア ンチ ゴ ー ネ (ま た は 古 代 の 悲 劇 的 英 雄), ア ブ ラ ハ ム (ま た は ヨ ブ, パ ウ ロ) の 三 段 階 に 分 け る こ と が で き る よ う に 思 わ れ る. ヘ ー ゲ ル と キ ル ヶ ゴ ‐ ル 両 者 の 哲 学 は, こ の 悲 劇 の 解 釈 を め ぐ っ て 大 きく 異 な っ て く る の で あ る.. 1 . ヘーゲルの悲劇観 ヘー ゲルは 『精神現象学』 において, 古代悲劇にもとづく独自な人倫哲学を展開 している. これ はヘーゲル初期の哲学的悲劇観の完成を示すものであり, ここでその重要な 点をとり あ げ て み た し・.. 人倫的世界において 「人倫の悲劇」 を構成するのは, 「人間の捷」 と 「神々の綻」 である. 人間 の捷を代表する ,人倫の精神は, 現実的実体としての民族であり, 現実的意識と しての国民である. それが普遍性の形式をとるとき, 「周知の法律」 であり, 「現行の習俗」 であるし, また個別性の 形式をとる とき, 「各々の個人における自己自身だという現実的確信D」 (クレオ ソ) となる. こ の公共的人倫的な国家権力に対立するのは, 神々の捷としての自然的な 人倫共同体, 「家族」 であ る. い ま 問 題 に な る の は, こ の 公 共 的 精 神 対 家 族 の 神 Penaten の 対 立 で あ る. 家 族 に 固 有 な 積 極. 的目的は個別者そのものに, しかも生者に関するのでなく, 死者に関するものである. 「死は個人 ) 」 である. 埋葬という最高の 義務が 「神々 が個人と して共同体のために引受ける最終最高の 労働2 の捷」 の究極をなし, この義務が個 人に対立する人倫的な意味における積 極的行為と な る の で あ る.. ところが′ , 国家は現実の活動を 「統治」 にもつのであるが, この精神は全的な力として諸個人を 否定的統一のうちに回収し, 独立させず, 自分の生命を全体のうちにもつこと を意識させるもので ある. 統治は個 人の独立と私有権, 人権と物権の体系, 個人的目的のための労働, 獲得, 享受を認 めはするが, しか し諸体系の孤立を否定 し, 自己保存を追求する個人に 「戦争」 という労働を課す る. そこで死という否定的実在が国家に固有な力となり, 国家もその真実態と権力の保証を他方の 「神 々 の 捷」 に も つ こ と に な る の で あ る. こ う した 考 え 方 は, ヘ ゲ ー ル 独 自 の も の で あ り, 国 家 と 家 族 の い ず れ も 絶 対 的 で な く, お の お の. がその根源的な力の源泉を相手のうちにもっという, 有機的で弁証法的な見方に徹しているのであ る.. そしてヘー ゲルによれば, 神々の提と人間の淀とは相互に移行しあうものであり, その具体的あ らわれが兄弟である. 兄弟は家族という直接的 人倫か ら発 しなが ら, これを去り, 現実的人倫であ る人間の淀へ参与する. ところが妹姉は家庭の主宰者であり, 神々の淀の擁護者である. アンチ ゴ ー 58 一.

(4) . 第 24 巻. 第2号 ,. 北海道教育大学紀要 (第一部A). 昭和49年1月. ‐ネ と ク レ オ ンの 対 立 に 見 るよ う に, こ こ に 男 女 両 性 の 対 立 が あ り 各 自 の 使 命 が あ る 家 族 は 国 , 。. 家に自己の普遍的実体を見, 国家は家族に自己の威力と保証を得るのである. 地下の威力は地上に その現実性を得, 両者いずれも単独では自己完結的ではないのである. 男性と女性の結合は全体の媒介者の役 を勤め, 両極に分裂 しなが ら, 全体を無媒介に統一づける ものである。 そのことによ って人倫的世界は無限なものであり続け, 男女の調和は対立する両項 へ 移行し, 相手を絶滅する恐ろしい運命の否定的運動と なるが, これは永却にわたる必然性なのであ る。 この運命の必然性は, 国家にではなく, 個人の絶対的自立存在に移って行くことになる. 人倫 的行為は他 方の淀を行為により侵害す るこによ って, 行為の結果としての罪責 Schu d を負うこと l になる。 ここでも行為して罪責に陥 るのは特定の個人でなく, 内容的には身分の淀や習俗であ る . 現実の行為が どういうものか, 倫理的自己意識 は行為してみてわかるわけで, オイ ディ プスは, 殺 したものが父であり, 妻と して姿 った王妃が母であ ることが隠されている。 しかし, 行為者は犯罪 と自己の責任を否認す ることができないのであ る. ヘ ー ゲ ル に お いて は, キ ル ケ ゴ ー ル の と り あ げ る よ う な 隠 れ た 近 代 的 個 人 の あ り 方 は 問 題 に な り. えず, たとえ個人は無意識だとしても, その背後に種族や血族の淀があり, 可能性のうちに閉じこ め られたものを, 意識的, 無意識的に実行するのが運命の必然性であ る. アンチ ゴーネが自分の反 対す る淀と権力を暴虐不正とし, 兄の埋葬によ り故意に罪を犯す場合, 行為者の性格を規定す るパ トスが個人を突き動かすの であり, その罪責はより純粋である。 個人は, 自己の 普 遍 者 (ク レ オ ソ) と直接的に即目的に-であるため, 自己の人倫的権力が反対の権力のために没落するとき 生 , きのびることはできず, 同時に相手方も害を加えたに劣らず, 害を蒙っているのである. 人倫的権 力相互間の運動は没落によ って終り, いずれの性格も罪責に陥り, このために亡びることとなる. 双方が同じく屈服して初めて絶対的正義が成就され, 人倫的実体は両方を呑み込む否定的威力と し て, 全 能 の 正 しい 「運 命」 と して 登 場 してし・る. 事 態 は ア ンチ ゴ ー ネ の 二 人 の 兄 に つ い て も 同 じ で あ り, 国 家 権 力 に 関 し, 二 人 の 兄 弟 は 同 等 の 権. 利をもちなが ら, 一者は敬意を受け, 他者は共同体の敵と して, 敬弔の拒否を受けるが, いずれに せよ, 兄弟は互いの手によ って破滅するのである. 地下の精神を打ち 倒すことは, その反対に転換 し, 最高の正義は最高の不正 となり, 勝利は敗北にかわるのであ る. ア ンチ ゴ ー ネ 自 身 に お い て も, 普 遍 者 は そ の パ トス と して, 個 人 的 行 為 と して あ らわ れ, 必 然 性. が偶然性の形をと っている。 家族は国家成立の場であり, 個人が国家の地盤である。 そのために, 国家は家族の幸福を妨げ, 個人を普遍性に解消することにより, 自己の存立を得るか ら, 自分が抑 圧しなが ら同時に不可欠なもの, すなわち, 女性において内なる敵を見出す. 「まことに女性は国 家永 遠 の アイ ロニ ー」 で あ る。 ア ンチ ゴ ー ネ は 「神 の 淀 は 昨 日 の も の で も な け れ ば, 今 日 の も の で もな い。 否, そ れ は 無 窮 の 生 命 を も つ も の で あ っ て, 何 人 も そ れ が どこ か ら来 た か を 知 らな い3 )」 。. と語 っているが, 人倫の法則は偶然的に見えても, 真実には理性的なものである。 古代における真 実の人倫的根底は, 各人が自分の義務を守ることで あり, 近代的な各個人の主観的信念にもと づく 反省的人倫ではありえないのである。 このようなヘーゲルの均衡のとれた悲劇観は, 静的であると同時に動 的であり, 有機的弁証法的 であり, 哲学的にも完成 した形態をとっている. このことは 『人倫の体系』 における自由民と非自 由民 と の 対 立 が, ア ポ ロ ンと ェ ウメ ニ デ ー ス と の 対 立 と して, 女 神 ア テ ナ の 一 票 に よ り 悲 劇 が 喜 , 劇 に 終 る の と 軌 を 一 と して い る. す で に 『人 倫 の 体 系』 1803年) に お い て, ヘ ー ゲ ル は 貴 族 と 市. 民, 国家と市民社会とが相対立するものとして, 両者の関係が悲劇的であることを指 摘 し て い る が, その根底にはギリ シア悲劇が存在し, 古代悲劇は同 時に近代悲劇に発展することを明 らかに し 一 59 -.

(5) . Vo l ・24 NO .2. i 七 ido Un iver i 1of Hokka on . A) journa t fon (Sec s y ofEducat. January ,1974. ている. 「悲劇とは, 人倫的自然がその非有機的自然 (幽界) との葛藤に捲き込まれないよ うにす るため, これを運命として自己か ら分離し, 自己に対立させるとともに, 自己が抗争 しているこの ) 」 で あ る. こ の 悲 運命を承認することによ って, 自他の統一である神的実在との和解をうること4 劇では, 公界の神的威力と私事の地上的な力とが絶対に相争 っており, 人倫は, この欲望と労働の 差別にある市民という否定的契機を媒介することによ って, 初めて蘇生するのである. ヘー ゲルは こ う した 人 倫 組 織 の 悲 劇 的 構 造 を, アイ ス キ ュ ロ ス の 悲 劇 『オ レス テイ ア』 に あ らわ れ る 復 讐 の 女 神, エ ウメ ニ デ ー ス に 見 出 して い る. そ こ で は, 光 神, ア ポ ロ ンと 幽 界 の 威 力, エ ウメ ニ デ 【 ス と. による公私の対立 が女神アテナによ って解決, 止揚されるのである. こ う した 公 私 の 対 立 の 解 決 は, アイ ス キ ュ ロ ス 悲 劇 に お い て, 幽 界 の 威 力 エ ウ メ ニ デ ー ス に 捧 げ. る祭壇を町のうちに設けると同 じく, 第二身分を神に捧げた供御とすることによ って得られるので あり, そこで生まれた 矛盾の解決は, 社会的には国家を通じて経済を抑制支配することであ った. ヘー ゲルは国家を絶対的なものとするの であるが, この近代国家の内部に成立する危機, 悲劇とは 市民階級のもつ経済的力であった. 一方で国家をたてな が ら, 市民階級のもつ経済的力が国家と相 争 って悲劇に陥 らざるをえないというこの見通 しは, ヘー ゲルの 冷静な客観的洞察を示すものであ る.. 人倫の悲劇におけるヘー ゲルの解決はかなり図式的なものであり, 人間存在を光と地上的なもの とに分けて, 精神へ止揚する形式をとるが, そこには社会的な深い認識が加わっている. ヘー ゲル は 例 証 と して, アイ ス キ ュ ロ ス の 『オ レス テイ ア』 を ひ い た が, そ の な か で ア ポ ロ ンに 復 讐 す る エ. ウメ ニデースの和解は, 社会的展開の過程では, 両原理のいずれも決定的に勝利を収めず, 両者の い っそう新たな闘争が 「人倫の悲劇」 をあ らわすという事実を明 らかにするものであった. この両者の対立は, 市民の私的生活がその中心を家族にもつものと して, 国家と家族 (幽界のェ ウメ ニ デ ー ス は そ の 象 徴) と の 対 立 を 示 す も の で あ っ た. しか し, そ こ に は 自 然 的 な も の と 社 会 的. なものとの複雑な弁証法が存在 し, 現象学におけるアンチ ゴーネの悲 劇でも, ク レオンの代表する 国家的合法性の立場 が勝利する必然性とアンチ ゴーネの代表 する家族, 社会状態の優越する人倫的 争いを弁証法的矛盾と してみている. その考察には, 既に見たように, 人間の淀 (国家) は統治と して過度の独立を得るようにな った個々人や団体を普遍者につれも どす義と して働 き, 神 々 の 淀 (家族) は個々人に対 し過度に強力にな った普遍者を均衡につれもどし, 個別者の権利を擁護する 義と して働くのである. 地上的なものの家族と並んで, 経済的生活の計り知れぬ力 を光である国家 活動の統制を必要とすると考えたのは, ヘー ゲルの客観的な現実認識にもと づいている. つぎに, 古代悲劇に対してヘーゲルの近代悲劇に対する考え方を知る手がかりとして, 一つは, イ エスとその教団の悲劇についての見解と, 一つは古代悲劇に 対する浪漫的近代悲 劇観があげ られ る で あ ろ う.. ここでは青年 ・ー ゲ ル の 『キ リ ス ト 教 の 精 神 と そ の 運 命』 (1797) に よ っ て 代表 さ れ る, キ リ ス ト教の悲劇をとりあげてみよう. 『美学』 においても, 浪漫的芸術を形成するのは, まず, キリス トの誕生と死と復活を中心とする宗教的世界である ごとく, この悲劇の考察においてもヘー ゲルの 見方は, 古代中世悲劇の考察にとどま らず, 近代的個人および国家の悲劇への連関をここにのぞか せており, 有機的図式に見 られない, 歴史的社会的事実についての 鋭い洞察がある. すなわち, ヘ ー ゲルの提出した問題は, イエス自身の生き方な らびに, キリスト教団の示した生の悲劇に対する 解 決策 は, 現 代 に お い て も 有 効 で あ る か と い う こ と で あ っ た. 答 は 「否」 で あ っ た. キ リ ス ト 教は. 「宗教に対する最も深い衝動に満 足を与えつつも, その衝動をかなえてやることなく, それを無限 の, 消 え や らず, う ち 鎮 め られ ぬ 一 つ の 憧 標 に 変 えて しま っ た.」そ して ま た, ヘ. - 60 -. ゲル の と り あ げ.

(6) . 第 24 巻. 第2号. 北海道教育大学紀要 (第一部A). 昭和49年1月. た結論は 「教会と国家, 神への 奉仕と生活, 礼拝と道徳, 宗教的行為と世俗的行為とを, 決して一 )」 と述 べ て い る つ に 統 一 しえ ぬ こ と が キ リ ス ト 教 の 運 命 で あ る5 . . キ リス ト教 の 矛 盾 は さ ま ざ ま な 形 で あ らわ れ る が, ま ず, ィ ェ ス と 教 会 と が 分 離 して しま い 教 。 会 は 遂 に 制 度 性 を止 揚 す る こ と が で き ず, そ の こ と が ィ ェ ス の 生 き た 教 え に 逆 に 作 用 し, キ リ ス ト 教 そ の も の を破 滅 に 導 く こ と と な る. つ い で, 神 の 王 国 と 国 家 の 関 係 が 分 裂 す る こ と に よ っ て 神 , の 王 国 か ら国 家 を追 放 す る こ と は で き た が, し か し国 家 は 遂 に 止 揚 しえ な か っ た そ の た め イ エ , ,. スと教会の運命は, 国家によ って自由を喪失することとなるの である. さらに, 個 人が全体である ような調和 した関係はギリシア民族に しかありえず, 古代か ら近代市民社会への発展は歴史的進歩 ではあるが, 制度性を止揚 しうる神の王国は過去に しか存在しないものとな った。 こうした点にキ リ ス ト教 の 悲 劇 性 が 認 め られ る の で あ る。. ところで, ヘー ゲルの制度性止揚の方向は, 死せる客体性を個人の現実的生によって回復する弁 証法的なものであ った. そのため, 人間と神との宗教的合一が客観的世界の制度性を止揚しうると 考えたのである。 ュ ダャ教の客体的律法性, 制度性に対して生きた愛を説くのがイエスの使命であ っ た. しか し, ヘ ー ゲ ル は こ の 愛 の も つ 限 界 に 気 づ か ざ る を え な い. 愛 の 限 界 と は 何 か. 愛 は 主 体. 的な生きて働く作用であるが, それ自身では孤立的で客体性を欠き, 主客の間に生きた関係をたて ることができないのである。 そこで, 最高の人間精神である宗教の衝動が主客の 合一を求め, 信仰 は主客の同一, 主体が客体の産出者, 認識者であることを自覚する。 かくして信仰は, 主体が信仰 の対象のうちに自己自身を再発見するときにのみ可能となる. このとき精神でないものが精 神を認 識しうるのである。 宗教は愛と反省との弁証法的統一として, 道徳, 愛, 宗教心という意識の諸形 態の連関が形 づく られる。 カ ント倫理学が法的刑罰組識とその内面化であるのに対して, より広い 生 き 生 き した, 純 粋 な 必 然 性 = 運 命 に よ っ て, ヘ ー ゲ ル は カ ン ト を 越 え る の で あ る. 法 は 生 の 一 断. 片にすぎないのに, 運命は自己崩壊と自己再建という弁証法的運動である. 「人は運命のうちに自 ) 己自身の生を認識する6 。」 ヘー ゲルの思想的展開においてきわめて重要な役割をもつ運命概念は, まず, それが社会生活における生きた包括的関係をとらえることを可能にしている. これはやがて 現象学, 法哲学で完成することになる. さ らに, 運命概念は社会共同体全体の包括的生に ついての ものであ ったが, また個人にも結びついている。 運命は自己を敵とする意識であ り, 愛によっては じめて和解が成立するのである。 ヘーゲルにおいては, 運命との闘争の自発的断念は, 愛によって は止揚できなかった制度性をより広い段階で再生産することを意味し, その限りイエスとその教会 の悲劇的性格は決定的である。 こうしたヘー ゲルの近代悲劇のと らえ方の, 個人的な らびに社会的側面か らする柔軟さ, 弁証法 的把握は高く評価されなければな らない. 古代悲劇観では図式的な解決を一部に含むとはいえ, 近 代悲劇観に見るように, その根底につねに歴史的, 社会的視点が存在 したことは注意すべき事実で ある. 古代悲劇のほうがより大きく人倫的側面か ら評価, 摂取され, 近代悲劇はよりい っそう歴史 的, 社会的側面か らとらえ られるとい ってよいであろう. 最後に, ヘーゲルの古代悲劇に対する近代悲劇の比較を 『美学』 か らとりあげて検 討 し て み た し・.. ヘーゲルによれば, 近代悲劇はそれ自身の領域に 「主観性の原理」 を最初か らとり入れている. 性格の主観的内面性を本来の対象と内容にし, 同じく 行為を情況の外面的偶然によって衝突に陥ら 1 )目的の多様性,( )悲劇的性格そのもの, t せるのである. ヘーゲルは近代悲劇を( 2 引悲劇的結末と和 ) 解の様式の三つに分けて考察している7 . 第一に, 目的に関しては, 浪漫的悲劇において, 苦悩と情熱の主観性がいかに中心的役割を演じ - 61 -.

(7) . 1 vo .24 No ,2. i i ion IA) ido Univer l 。f H0kka t on (Sect Journa s y of Educat. }anuary ,1974. ていようとやはり人間の行為においては, 家族, 国家, 教会等の具体的領域か らする特定の目的の 基盤を欠くわけにはいかない. ところが近代では, こうした具体的圏内で, 主観性自身の原理がそ の権利を得たことによ って, あ らゆる領域に新 しい契機があ らわれたのである. 近代人は主観性を 彼の行為の目的や基準に しているのである. 他面, 主観性は自己を唯一の内容として把握し, 「愛 や個人的名誉」 な どを決定的な目的とするが, しかし, ヘーゲルが真の目的として追求 する客観的 普遍的なものの契機は, 浪漫的恋愛や名誉の追求には欠如している. ギリシアの人倫生活では, 個 人はそれ自体自由で独立ではあ ったが, 現実の国家の当面の一般的関心か らはなれたり, 時代の現 状に肯定的に内在する精神的自由の状態か ら離脱することはなかった. 人倫の普遍性と個人の抽象 的自由とが, 内外ともにギリシア人の生活原理に したが って統一的調和を保っていたのである. 崇 高 な 古 代悲 劇 に お け る 個 人, ア ガメ ムノ ン, オ レス テ ス, オイ デ ィ プ ス, ア ンチ ゴ ー ネ, ク レオ ン らは, 個 人 的 な 目 的 を も っ て は い る が, そ の 行 為 の 内 容 と して 彼 らを か り た て る パ トス は, 絶 対 的. な権能を有するものであり, そのためそれ自体において普遍的な関心をもつものである. ただし, ヘ ー ゲ ル は 『フ ァ ウ ス ト』 を と り あ げ, 学 問 上 の 満 足 の 喪 失, 地 上 的 な 享 楽 の 楽 しさ, さ らに 絶 対. 的なものを求める悲劇的努力な どが内容の拡がりを与えていると述 べて, 悲劇における目的の多様 化 の 近 代 的 傑 作 と して い る. シ ラ ー の ヵ 【 ル ・ モ ア や ヴ ァ レ ソ シ ュ タ イ ン の 追 求 す る 普 遍 的 世 界 目. 的も, 一人の個人の主観的熱狂によ って達成されるのではなく, 多くの人々の意志で, 彼 らの意志 に反 して, また無意識のうちに達成されるのである. しかし一般に近代悲劇では, 個人が行為し, その情熱で追求するものは, その目的の実体的なものでなく, 彼 らの心情の主観性, または彼らの 性格の特殊性が満足を求めるのである. 古代悲劇と近代悲劇の間に生ずる区別に注意すれば, ハム レッ トにおいても, 彼の倫理的復讐における真の衝突は, ギリシア的な人倫的人間関係をめぐって お こ る と い う よ り は, 彼 の 主 観 的 性 格 を め ぐ っ て お こ る の で あ る。 ハ ム レ ッ ト の 高 貴 な 魂 は こ う し. た活動に向いてお らず, この世と生に倦み, 決断と試みと実行との渦中にふり廻され, もちまえの ため らいと情況の外面的な錯綜とによ って滅びるのである. 第二に, 性格に関 して, 古代悲劇の英雄たちは彼ら自身の完成 した本性に対応する倫理的パ トス に決意を固めるとき, 必然的に同 じ権利で対立する人倫の力と葛藤に陥 らざるをえないと考えてい た. ところが近代悲劇では固有の性格そのものは, 自己目身のうちで正当化されたも の を つ か む か, あるいは不正と犯罪へ導 かれるかは偶然であ って, 主観的願望と欲望, 外面的影響などによ っ て決定されるのである. したがって, そこでは悲劇は, 目的の特殊化, 情熱と主観的内面性のゆえ に悲劇的深みと, 美の本質的な基盤と客観的条件を形成 しえないのである. フランスやス ペイ ンの 悲劇的人物も, ただ特定の情熱, 愛, 名誉, 支配欲, 専制などの単なる人格化として通用 するにす ぎ な い. と こ ろ が す ぐれ た 巨 匠 と し て の シェ ク ス ピ ア で は, マ ク ベ ス の 支 配 欲, オ セ ロ の 所 有 欲 な. ど, 悲劇的英雄の全情熱を要求するときでさえ, こうした抽象が豊かな個性を喰いつく さないのみ か, この規定において個人はいつも全的人間でありつ づけるのである. 近代的性格を示す特徴は, 彼らの頑固さ, 内面的動揺と衝突にある. 優柔不断な弱さ, 揺れ動く 反 省, 思 考 癖 な ど, ゲ ー テ 初 期 著 作 の ワイ ス リ ソ ゲ ソ, 『ス テ ラ』 の フ ェ ル ナ ン ド, と く に ク ラ ヴ. ィ ゴな どがそうである. ここでは性格がそれ自身確固としたものをもたず, 確実でない. これに対 し, リア王や グ pスターは老人の生来の愚かさのため錯乱に陥るが, この盲目のなかで彼は初め て, 彼 の 子 供 た ち の 愛 の 本 当 の 区別 に つ い て 目 が 開 け る の で あ る.. ま さ に シ ェ ク ス ピ ア は, 動 揺. し, 分裂 した性格の叙述に対し, それ自身確固とし, 首尾 一貫した人物の最も美 しい例を与えてい る. 情熱の生成, 偉大な魂の進行と経過, その内的発展, 彼 らの情況, 内的結末との自己崩壊的闘 いの様相 がツェクス ピア悲劇の最も興味深い内容である. - 62 一.

(8) . 第 24 巻 第 2 号. 北海道教育大学紀要(第一部A). 昭和49年1月. 最後は, 近代的性格の直面 する悲劇的結末に関して であり それに伴う悲劇的和解の仕方である , . 古代悲劇では, 永遠の正義は運 命の絶対的力として自立的であり, そのことによ って衝突する特殊 な力に対して 人倫的実体を保護したのである。 他方, 近代悲劇でも同様な正義は, 目的や性格の特 殊化において非常に抽象的に, また非常な不正と犯罪においてあ らわれるのである たとえばマク , ベス, リチ ャ ー ド三世などがそうである 高貴で美しい心情が運命的 闘いにおいて 外面的偶然の , , 不幸により没落する のを見るとき, こうした単なる悲劇は空虚で, 怖 しい外面的な必然性にしかす ぎない, このような進行は人の心を強く感動させるとしても, それはただ嫌悪すべきものに しかす ぎず, 外面的偶然と本来の内面的な美しい性格の素質と一致すべ きだという要求をおこさせる こ . う した 点 で, ハ ム レッ ト の 悲 劇 に は 和 解 が あ る の が 感 じ られ る 外 面 的 に は ハ ム レ ット の 死 は レ . , ア テ ィ ー ズ と の 戦 い と 剣 の 交 換 に よ っ て 起 っ た よ う に み え る. しか し, 彼 の 心 情 の 底 に は 最 初 か ら. 死が横たわ っていて, こうした悲 しみや憂欝や, 生のあらゆる情況への嫌悪において, 死が外から 忍びよる以前に, 彼は内面的嫌怠にとりつかれた絶望的な人間だということがわかるか らである. 以上のように, ヘーゲルの古代悲劇に対する近代悲劇のとらえ方は, まことに安定 した基準を与 え, キ ルケ ゴ ー ル に 無 視 で き な い 影 響 を 与 え た の も 当 然 だ と 考 え られ る こ の 圧 倒 的 な ヘ ー ゲ ル 悲 .. 劇観の影響下か ら, キルケ ゴールはいかに して脱出し, 彼独自の悲劇観を形成 したか, 以下その経 過と推移を見てみよう。 2,. キ ル ケ ゴー ル の悲 劇 観. ヘ ー ゲ ル の 影響 を う け な が らも, ヘ ー ゲ ル に 比 べ て, キ ル ケ ゴ ー ル の 悲 劇 観 は は る か に 複 雑 で あ る, ア ンチ ゴ ー ネ を 中 心 と す る キ ル ケ ゴ ー ル の 古 代 悲 劇 観 は, ヘ ー ゲ ル を 受 け つ い で 客 観 的 で あ る. が, それを越えてなお自己の体験に即してア ンチ ゴーネを近代的に解釈しなおす試みがあり, 近代 悲 劇 に 対 して は, フ ァ ウ ス ト, ド ン 9 ジ ュ ア ソ, ア ハ ス ウ ェ ル, ド ソナ リ エ ル ヴィ ラ, マ リ ー ・ ポ. ーマルシェ, グ レーチヘ ソなどに対する深く切実な関心が見 られ, さ らに真の宗教的悲劇 の典型に 見られる絶対的観点が成立することになる。 いま そ う した キ ル ケ ゴ ー ル の 悲 劇 観 を す べ て 洗 い 出 す こ と は と て も でき な い が, ヘ ー ゲル の 悲 劇. 観との連関において, われわれの主題に関係のあるものだけをとりあげてみたいと思う. 『あれか こ れ か』 第 一 部に お い て, キ ル ケ ゴ ー ル の と り あ げ る 問 題 は, 古 代 悲 劇 に 固 有 な も の が どの 程 度 ま. で現代悲劇にとり入れられ, 真に悲劇的なものが現代悲劇にあ らわれるか, ということである。 ア リス トテレスは, 行動の根源は思考と性格であると述べたが, ギリ シアでは行動が性格か ら生ずる の で なく, よ り 客 観 的 な 地 盤 か ら成 立 す る, と して キ ル ケ ゴ ー ル は, ギ リ シ ア 悲 劇 の 「対 話」 と. 「独白」 に注目し, 対話はそのなかに一切がこめ られるほどまだ十分反省的でなく, 独白とコロス のなかに別の契機を見ている. コロスは悲劇のより叙事詩的現実をと らえているとしても, 個性の なかに汲みつくされない, 余分のものを暗示するし, 独白にはより多く好情詩的集中があり, それ には行動と情況のなかで汲みつくされない何かがある。 古代では, 行動=事件であり, それは叙事 詩的契機であるが, 主体性を自己内にいまだ反省 したものではない. たとえ個人が自由に活動しよ うとも, それは国家, 血族, 運命などの現実的諸規定に包まれているのである。 この現実的諸規定 がギリ シア悲劇の本来的運命であり, 主人公の没落は自分の行動の結果ではなく, 受難である。 けれども, 近代悲劇においては, 英雄の没落は本来的に受難ではなくて, 行為である。 ここでは 「性格」 と 「情況」 が支配的であり, 悲劇の主人公は主観的に自己内反省 しており, この反省は彼 を国家, 一族, 運命へのあ らゆる直接的関係か ら引離し, 自分自身のこれまでの生か らさえ引離す のである. 大切なのは自己自身の行為の特定の契機 である. 悲劇は情況と対話のなかで汲みつくさ ー 63 -.

(9) . I VO .24 No .2. i ion (Sec i t do Univer i f Hokka lo Journa on I A) t s y of Bducat. January ,1974. れ, 叙事詩的な前景も後景もなく, 主人公は自分自身の行為とともに立ち, 倒れるのである. キルケ ゴールによれば, 行動と苦悩の中間に, 主人公は悲劇的罪過 hamartia を も つ こ と に な る が, 主体性が反省的になればなるほど, この罪過は倫理的となるの である. 個人に罪 が な い 場 合 と, 絶対的に罪過がある場合, そのいずれにも悲劇的関心は存在 しない. 現代において, 一 切の運 命的なものを個性と主体性に転化しようとするのは悲劇の誤解である. 過去の罪過について 知ろう とせぬ場合, それは運命的, 倫理的となるが, 個人の全生涯を彼自身の業とし, 責任を負わせるの は 「美 学 的 罪」 で あ る. こ の 点 で, 美 学 的 罪 を 代表 す る の が フ ァ ウ ス ト と ド ン・ ジ ュ ア ソ で あ る.. 18 35年か ら38年にかけて, キルヶ ゴールの思想的な らびに宗教的発展に重大な影響を与えた三つの 形 象, す な わ ち, ド ン・ ジ ュ ア ソ, フ ァ ウ ス ト, 永 遠 の ュ ダャ 人 ア ハ ス ウ ェ ル は, 美 的 段 階 を あ ら ) わすものとしてキリス ト教の外で営まれる人生の三重の方向を代表 するものであった8 . 43年 の こ の 『あ れ か こ れ か』 で, ァ ・ス ウ ェ ル が 脱 落 して い る も の の, フ ァ ウ ス ト と ド ン・ ジ ュ ア ソは 依 然. 美学的罪の中心人物である. アハスウェルに代って, キルケ ゴールは, 不幸な幼年時代の環境の激 しい影響のため, 没落 した人間をとりあげ, 彼の没落は悲 劇的ではなく, その個人が悪質であるこ とになるが, しかし 「それほどまでに個人が自分自身の幸福の創造者, 自己の創造者たろ うとする て 絶望を ) 現代的な力の充実な幻想である9 .」 と述 べている. そこでは時代は悲 劇的なものを失っ , ばか りである. 得る した が っ て こ う した 意 味 で, キ ル ケ ゴ ー ル も 個 人 は す べ て い か に 本 源 的 で あ る う と, や は り 神,. 自分の時代, 民族, 家族, 友人たちの子であり, その点にこそ真理をもつものであり, この全的な 相対性において絶対者たろうとすれば, 笑うべ きものとなる, と考えている. 個 人が絶対的であろ うとするとき, 悲劇的事態がおこるのである. このような点にキルケ ゴールの近代悲劇に対する批 判 が こ め られて い て, ヘ ー ゲ ル の 立 場 か ら大 き い 影 響 を う け て い る 面 の あ る こ と が 知 られ る. ア リス トテ レス は, 悲 劇 は 観 客 に 恐 怖 と 同 情 を 呼 び お こ す べ き も の で あ る と 述 べ た. キ ル ケ ゴ ー. ルはヘー ゲルの同情論をとりあげ, 同情には二種類あり, 一方は受難の有限な面に向け られる普通 の同 情 で あ り, 他 方 は 真 の 悲 劇 的 同 情 で あ る, と した. こ れ は 正 しい 観 察 だ と して も, キ ル ケ ゴ ー. ル自身にはあまり重要でない. 同情は普遍的感動 だとして古代悲劇にも現代悲 劇にもあてはまるか らであ る. だがー ゲルが真の同情について述 べて いることは真実で力強いという. 「これに反して o ) 真の同情は, 受難者の同時に倫 理的な正当性への同感 であるl .」 ヘー ゲルが同情を一般的に 考 察 し, その差異を個性の差異において考察 しているのに対し, キルケ ゴールはむ しろ同情の区別を悲 劇的罪過の区別に関 して主張している. キルケ ゴールによれ ば, 「古代悲劇は, 悲哀 Sorg は よ り 1 ) 」 深く, 苦痛 Smerte はより少ない. しかし現代悲 劇は, 苦痛はより大きく, 悲哀はより少ない1 L i d l 子供が大人の苦 し 古代悲劇は e s e に相当するもので, とい う. こ の 場 合 の 苦 痛 は 後 の 苦 悩 , i 脳) を感じるほど反省的 でないが, 彼の悲哀は無限に深い. むのを見るの と同じで, 子供は苦痛 ( ギリシア悲劇の悲哀もそれと同じで, より完全で調和的であり, 非常に優しく深い. ところが, 近代悲劇は, 大人 が子供の苦悩を見るのと同じで, 苦痛 (悩) はより大きく, 悲哀はより少ない. 現代悲劇は, 主人公が自分の全罪過の苦 悩を受け, 自分の罪過の受苦において 自分自身を透視点に するため, 苦痛が大きい. 「最もきびしい苦痛は明 らかに後悔であるが, 後悔は倫理的事実であ っ て, 美学的事実ではない. 後悔は全罪過を総体的に浮きぼりにするため, 最もきびしい苦痛である 2 ) が, まさ しくこの透明さのために美学的関心をひ きおこさない1 .」後悔におけるこの苦痛は美学的 苦痛ではないに しても, 明 らかに新 しい時代 が最高の悲劇的関心として目ざしている苦痛である. キルケ ゴールの現代悲劇にひかれる最も大きな理由は, こうした個人的主体的苦痛に対する共感, 傾斜の念である. このように, キルケ ゴールは自分の体験する後悔の苦痛を, 近代悲劇のなかに位 - 64 一.

(10) . 第 24 巻 第 2 号. 北海道教育大学紀要 (第一部A). 昭和49年1月. 置 づ けよ う とす る の で あ る.. 「われわれの時代は 家族・国家 ◎ 社会のあ らゆる実質的規定を失 って 個々人を全く彼自身にゆ , だねざるをえないために, 個人が厳密な意 味で自己みずか らの創造者となり したが て彼の罪過 っ , 3 ) は罪に, 彼の苦痛は後悔になる1 。」 さきの個人が血族 などの社会的連関か ら離れえない, とする 見方に反 論する形で述べ られたこの内容は, 個人の社会的連関を考慮しなが らも この連関 の稀薄 , 化を認めざるをえない形をとっている。 したがって, これは観客も同 情をもたず それゆえ悲劇的 , ではない. キルケ ゴール自身の内面的悲劇に対する周囲の無関心と冷淡 否 逆に彼の不可解な態 , , 度に対する激しい世間的非難が 彼に悲劇的考察への大きなきっかけを 与えたこ, とは間違いないであ ろ う. オイ ディ プ ス, ア ンチ ゴ ー ネ を 扱 っ た ソ フ ォ ク レス の 悲 劇 三 部 作 は 純 粋 な 悲 劇 的 関 もが主題の , 中心である。 個人が罪過をもつのは心 情の敬度さに即応して いる ュダヤ教と対比してみれば ュ 。 , ダ ャ 教 は あ ま りに も 倫 理 的 で あ っ て エ ホ バ の 呪 は 恐 ろ しい が 正 当 な 罰 で あ る ギ リ シ ア で は 神 々 , 。 の 怒 り は な ん ら倫 理 的 性 格 を も た ず, 美 学 的 あ い ま い さ を も つ の で あ る と こ ろ で, 『ブ イ ロ ク テ 。. テス』 に お い て は, キ ル ケ ゴ ー ル の 見 る と こ ろ で は 古 代 ギ リ シ ア の 悲 劇 的 な 苦 悩 で あ り な が ら , ,. 悲哀か ら近代的な苦痛 (悩) へ移行している。 主人公はだ れも自分の苦痛を知 らぬため 「つねに , 自分の苦痛とともにただひとりでいたいと欲し, この苦痛の孤独のなかで新しい苦痛を求めるよう ) 4 な, 本来の反省 的苦痛1 」 が生まれている. 他方, ヘーゲルは, 近代悲劇における性格の情熱 頑 , 固 さ (例 え ば マク ベ ス) に 対 し, ピ ロ ク テ テス に お い て は 内 容 の 充 実 した 頑 強 さ で あ り 総 じて , , 人倫 上 正 当 な 意 義 を も っ た パ トス に よ っ て 裏 づ け られ て い る と 説 い て い る1 5 ) 古代 悲 劇 では ア , , 。 リス トテ レス の 『詩 学』 で も プ ラ ク シス (ミ ュ トス) が エ ー トス よ りも 重 要 な 第 一 の 構 成 要 素 , と して あ げ られて い る よ う に, 行 為 の 発 展 を 中 心 と す る も の で あ た が っ , ツ ェ クス ピ ア 劇 を は じ. め, 近代悲劇では運 命の変転が主として性格そのもの の内面的発展にあることは ヘーゲルの立場 , か らすれば, まさに浪漫的芸術 の主観的内面性の原理にもとづくのである 「この運命の発展は個 。 人の行為か ら発する発展であるにとどま らず, 同時に内面 の生成過程 であり 当の性格その ものが , 突進 し, 狂暴化 し, 分裂 し, あるいは疲労困慰するところに生ずる発展である ギリ シア人の場合 。 には, 重要なのは行 為の実体的内容たるパ トスであって 主体の性格ではなく 運命はこの一定 し , , た性格にはあまり関係がない。 この性格は行為を おこなっているあいだも本質的には発展しつづけ 6 る の で は なく, 最 後 に い た っ て も 最 初 の ま ま で あ る1 )J ブイ ロ ク テ テス を め ぐる ヘ ー ゲ ル と キ ル ケ ゴ ー ル の 見 解 は こ こ でも 分 裂 し キ ル ケ ゴ ー ル 独 自 の 解 釈 が ま す ま す は き り す る こ と に な る。 キ , っ. ルケ ゴールによれば, ギリシア悲劇におけるように, 悲哀は苦痛の運動とは正反 対の運動をもつ 。 無垢であ ればあるほど, 悲哀は大きい。 反省にと らわれなければと らわれないほど 悲哀は大きい , のである. 「真の悲劇的悲哀 は罪過と透明さの契機をも ち, 真の悲劇的苦痛は無垢とあいまいさの 7 ) 契機をも っている1 ,」 悲哀の規定と苦痛の規定とはあいふれあう 弁証法的なものである。 キルヶ ゴ‐ル自身の生について考え れば 彼の生が両者の相即 すなわち 古代悲劇的罪過 (運命) と近 , , , 代的悲劇的あいまいさ (主体性) の契機を兼ねそなえているとみ られ キルケ ゴールが単純にロマ , ン的悲劇に同調しえないのもそのためであろう。 a ) キ ル ケ ゴ ー ル の ア ンチ ゴ ー ネ 観 ( 以 上 の よ う な観 点 か ら, キ ル ケ ゴ ー ル は こ こ で, 独 自 の 体 験 に も と づ い た 特 異 な ア ンチ ゴ ー ネ 観 を 展 開 して い る。 テ バ イ の 王, ラ ブ ダ コス の 一 族 に 神 の 呪 い が か か り, オイ デ ィ プ ス はス プ ィ ソク ス を 殺 し テ バ , イ を 解 放 した が, ま た 父 を 殺 し, 母 と 結 婚 した。 い ま ア ンチ ゴ ー ネ だ け が こ の 秘 密を 知 て い る っ 。 - 65 一.

(11) . ・24 No 2 Vo l .. i i i t t lof Hokka ido Univer 1 on I A) ty of BdL ca on (Sec s Journa. J Zmuary ,1974. ここで登場するのは, 現代悲劇的なものとしての 「不安」 である. 不安は 一種の反省で悲哀とは異 な っている. 不安は, 主体が悲哀を自分のものとし, 自分に同化 する器官であり, 悲哀を相手に し てあくことなく活動する. 不安は悲哀を愛 すると同時におそれている. 不安は 二重の機能をもつ. 「一方は悲哀の廻りを歩き廻りなが ら, たえず悲哀にふれ, この手探りによ って悲哀を発見する発 見の運動と, 他方は突発的で, ただの 一瞬間に悲哀全体をと らえ, この瞬 間はただちに継続に移行 して不安を感 ずる at 8 ) する1 .」 これは純 粋に悲劇的である. 不安は 反省の規定であり, 何かに対 tes for Noget とい う 言 葉 で, 私 は 不 安 を, 私 に 不 安 を 感 じ さ せ よ う と す る も の か ら区 別 す z engs. る. 不安という語は客観的に使うことはで きないのである. 不安は時間的であり, 現在でなく, 過 去か未来に関係 している. ギリシアの悲哀は現在的で, ギリシア的生もそぅである. 悲哀はより深 く, 苦痛は少ない. 不安は本質的に悲劇の一部をな している. ハムレッ トがあれほ ど 悲 劇 的 な の は, 母の犯行に感づいている か らである. 悲劇と不安の関係については, 美的段階の人物の一人, ドン・ ジ ュ ア ソに つ い て も あ て は ま る. キ ル ケ ゴ ー ル に よ る と, ド ン・ ジ ュ ア ソの 生 は, 不 安 の な か に 生 ま れ た 感 性 の 全 威 力 で あ っ て, ド ン・ ジ ュ ア ソ 自 身 は こ の 不 安 で あ る が, こ の 不 安 は ま さ に. デモ ーニッ シュ な生の歓喜である. この不安は彼のなかで主観的に 反省された不安ではなく, 彼の エネル ギーとなる根源的な 不安である. アンチ ゴーネの悲劇的罪責は, 王の禁令にさ か らって 兄を埋葬したことである. この場合の対立 は, 兄妹の愛と敬度さに対する懇意的な人間の禁令ではない. ここにあるのはオデイ ィ プスの運命 の反響であり, 後陣痛である. 没落するのは 一個人ではなく, 一小世界であり,一度解放されると, 客観的悲哀がすさまじく進み, 父の悲しい運命の増幅された悲哀 が拡がる。 アンチ ゴーネは, 自由 こ行動するのでなく, 父祖の罪責を 子孫に報いる 「運命の必然性」 に貫かれて 行為するのであ に▽ る. キルケ ゴールは, ヘーゲルと同 じ客観的な運命の必然性を承認 してはいる が, しかしヘー ゲル . の悲劇解釈に 反対し, 人間の淀と神々の淀との両力の遊戯, 弁証法的運動を認めてはいない. キ ル ケ ゴ ー ル が 自分 を モ デ ル に して 創 作 した ア ンチ ゴ ー ネ は, 生 き 生 き して い る が, す で に 死 ん. でいる. 彼女は秘 密に満ちているため 沈黙 している が, 彼女は自分の悲哀を誇りに し, それに執 念 をも っている. 彼女の悲哀はたえず運動 し, 苦痛を生み, 苦痛とともに生まれる. 彼女は悲哀の花 嫁である. 彼女は自分 の生を, 父と自分自身の運命についての悲哀に捧げる が, 彼女はその苦痛の なかで偉大 である. アンチ ゴ【ネは, ギリシア悲劇ではあ らわれ, 現代では隠れる. 古代悲劇でも ょり近代的な プィ ロクテ テス が, 他人も自分の悩みを知ってくれるょうに と願ったのに, 現代的な 反 省 的 苦 悩 の う ち に あ る ア ンチ ゴ ー ネ は, 自 分 の 苦 悩 を 知 っ て も らい た い な ど と は い さ さ か も 考 え ない の であ る.. アソチ ゴ【ネの悲劇的罪過は, 一つは彼女が兄を埋葬することであり, いま一つは彼女が二つの 悲劇か ら生ずる父の悲 しい運命の脈絡のなかにあることである. 「一族, あるいは 一家の罪過を個 個の主体に 関係 づける弁証法は, 主体 が罪過の苦しみを受ける だけというのではなく, 罪過をとも に負い, 罪過に関与するというよ うに関係 づけるが, この弁証法は現代のわれわれには縁遠いもの が古代の悲劇的なものの再生に思いを寄 9 ) である1 .」 キルケ ゴールの説こうとするのは, われわれ せようとすれば, 「個人はすべて自分自身の再生を考慮しなけれ ばならない. 単に精神的な意味に 0 ) おいてだけでなく, 一族の母胎か らの再生という無限の意味においてである2 .」 個人を 一族に関 係 づける古代悲 劇の弁証法は 「客観的弁証法」 であり, 本質的に敬度性にもとづいている. ところ が 「主観的弁証法」 はその関係を廃棄 し, 個人を連関か ら引き上げるのである. キルケ ゴールはこ こで自己反省 して, こう語 っている, 「個人が孤立 していれば, 個人は絶対的に自分自身の運命創 )」 い ず れ に して も, 悲 劇 は な く, 「悪」 1 造者か, 人世の く遠 の 実 体 の 単 な る変 形 で あ る か で あ る2 .. - 66 一.

(12) . 第 24 巻 第 2 号. 北海道教育大学紀要 (第一部A). 昭和49年1月. のみが存在する. 個人の自己へのとらわれは悲劇ではなく, 自己の 「業」 V先r k で あ る。 キ ル ケ ゴ ールの説く主観的弁証法は, なるほど主観的弁証法に沈みこむことによっ て, 真の悲劇ではなく, 悪に変形するのみである. しかし, キルケ ゴールの意図するのは, 単なる主観的弁証法ではなく, 個人を一族に関係づけながら, それか ら逃れることなく苦しみなが ら, 自己の苦悩にとりくむ 「主 体的弁証法」 であろう。 その限り, 主体的弁 証法は, 主観的内面的限界があり, ヘーゲルの非難す るように実体的客 観性のない弱みをもつであろうが, しかしこれは近代人の逃れえ ぬ運命として個 個人に対決することを要求するものである. 『後書』 において 「主体性が真理である」 といわれる とき, この主体性には, 単なる自己内に 沈みこむ主観性の危険と, 真理を主体との本来的なかかわ り方でと らえる二面性がありうる が, キルケ ゴールはより積極的な主体のあり方をとることによっ て ヘ ー ゲ ル と訣 別 して い っ た の で あ る。 ギ リ シ ア の ア ンチ ゴ ー ネ に は, 父 の 罪 過 と 苦 悩 は 外 面 的 な 事 実 で あ っ て , 彼女の悲 哀をもっ て し. ては動かない不動の事実である。 現代のアンチ ゴーネは父の生前にもあの秘密を知っ ていたのに , 父に打明ける勇気はなく, 父の死により彼女には自分の秘密か ら解放される唯一の逃道が奪われた こ と に な る. 父 自 身 が あ の こ と を 知 っ て い た か どう か, 彼 女 も 知 らな い オイ ディ プ ス は 民 衆 に は .. 幸福な王として生き, 尊敬さ れているし, 彼女自身も父を称賛 しか つ愛している 彼女は苦悩にみ . ちた秘密のために秘密 が知れるのをおそれ, 彼女はこの面か らも悲哀でなく, 苦悩を与え られた の であ る. さ らに 複 雑 な こ とに は, こ の ア ンチ ゴ ー ネ は 恋 を して い る そ こ に 新 た な 悲 劇 的 葛 藤 が あ ら わ .. れ, 彼女は苦悩を抱いたまま 彼のものとなりうるか, または誰かに打明けることが許されるか と , いうことをめ ぐって自分自身と戦う。 彼女は自分の生を秘密のために犠性に しようと していたカ\ いまは彼女の愛が犠性として要求される。 秘密が勝ち, 彼女は愛を失う。 ここに彼女 の 父 へ の 愛 と, 自分自身への愛との間に第二の葛藤がおこる. 葛藤をおこすもう一つの力は, 彼女の恋人への 感応的な愛である。 恋人は愛されているのを知り, 大胆に干渉する。 レギ ーネを意味するこの恋人 は, 愛 を 誓 う ご とに ア ンチ ゴ ー ネ (キ ル ケ ゴ ー ル) の 苦 痛 を 大 きく し, 嘆 息 を も らす た び に 悲 哀 の. 矢を彼女の心臓に ますます深く刺 しこむのである。 思い余っ た彼女は父の墓へ逃れるが それは 恋 , 人の愛の切願が正反対の結果をもた らしたのであっ た。 父への愛と恋人への愛という葛藤 をおこす 力は, 行動をおこしえないほ ど均衡している。 彼女の苦痛は恋人との共感的な苦悩により増大して いる。 死によって しか彼女は平和を見出しえず, 彼女の生は悲哀に捧げられる。 彼女は死によって 運命的に次の世代に及ぶ禍を断ち切っ たのである。 死の瞬間に, 彼女は愛の至情を, 自分が彼のも の であ る こ とを 告 白 しう る の で あ る. ア ンチ ゴ ー ネ は, 生 に ま す ま す 深く 刺 さ る が 生 を 奪 わ な い 矢. のように, 自分の秘密を心臓にもっている。 秘密が心臓に刺さっている間は生きてい られるが そ , れを 引 き抜 く 瞬 間 に 彼 女 は 死 な な け れ ば な らな い。 キ ル ケ ゴ ー ル に お い て は こ の 「肉 中 の 刺」 は ,. 単なる主観的性格の作用に帰せ られるも のでもなければ, 人倫的な運命の必然性に帰せ られるもの でもない. 両者の混じりあっ た, 独特な, 主体的ひき受けを要求するものである 「古代悲劇的な . ものの現代悲劇的なものへの反映」 というテーマが物語っているように, 「人の必要とする確固た る根底は悲劇的なものであり, この悲劇的なも のは古代悲劇的なものと現代悲劇的なものとを分割 することなどはとてもできず, む しろまさしく両者を結 びつけるものだ2 2 ) 」 か らである. 古代的人 倫的な父への想い出が彼女の死の動機であるが, しかし近代的個人的な意味では, 彼女の不幸な愛 が動機となっ て, 想い出が彼女を殺すにいたっ たという限りで, 彼女は生者の手によっ て死んだの で ある。. キルケ ゴールの主体的弁証法は, 国家と家族, 人間の淀と神々の淀以外に, 主人公の負い目に満 - 67 一.

(13) . Vo l .2 .24 No. i i i f Hokkaido Univer lo on I A) t on (Sect Journa s y of Bducat. january ,1974. ち て は い る が, 主 体 的 な 愛 を も う 一 つ の 軸 と して 転 回 して い る. ヘ ー ゲ ル は ア ンチ ゴ ー ネ の こ の 愛. について, 個人的な恋の 目的をもっ てはいるが, それは本来的関心事ではないと して, あくまで行 為の内容と して彼 らをかりたてるパ トスという実体的なものは, 絶対に正当 づけ られるべ き理由の あるものだとしている. ヘー ゲルの観点では, 古代の高速な悲劇には, 浪漫的な意味での恋愛の情 熱は全く入りこむ余地はなかっ たのである. これに対してキルケ ゴールの考察では, 実体的パ トス と恋愛の情熱とは相争う二つの力と なり, 現代的個人悲劇への接近が見 られるのである が, ここで はまだこの主体の弁証法は心情的なものに流れていて, 個人の苦悩 がより高い倫理的なものに引 き 上 げ られて は い な い. し か し, キ ルケ ゴ ー ル の 目 ざ す 主 体 性 の あ り 方 は, 彼 の 特 異 な ア ンチ ゴ ー ネ. 論に終るのでなく, それを越える倫理的, 宗教的次元に高まる べ きことを 示唆している. キルヶ ゴ ールの近代悲 劇 観とそれを乗り越える人間像は, むしろ倫理的, 宗教的著作によくあ らわれている と考え られる. 現代のアンチ ゴーネをめ ぐっ て, キルケ ゴールの .主体的弁証法と客観的弁証法とはい ずれが重要 なのであろうか. キルケ ゴール自身は客観的弁証法を高くにおき, 主体的弁証法をおとしめている ように見える が, しかしこの両者はそれだけに終るものではない. 第一に, 現代という時代におけ る個人的主体の悲劇的性格である. キルケ ゴールも認めるように個人は そこかか ら逃れえない. 古 代人が血族と共同体か ら逃れえなかっ たように, 近代人は孤独な, 他と切り離された自己か ら逃れ えないだけに, キルケ ゴールに とって主体的弁証法は その成果を客観的に公表 するよりは, これと 真 剣 に と り 組 ま ざ る を え な な い も の で あ っ た. 第 二 に, 『後 書』 に 見 られ る よ う に, あ る い は ソ ク. ラテス賛美に見 られるように, 客観性に対する主体性の優位は キルケ ゴールの大き な 課 題 であ っ た. それに向かっ て進んでいく 大きな道程, 移行過程をこのアンチ ゴー ネ像に見出すこ と が で き る。 良かれ悪 しかれ現代のア ンチ ゴーネは, 主体的以外に生きえないのである. 美的主体性の生き ゴ 方 に は 他 に も, ドン・ ジ ュ ア ソ, フ ァ ウス ト な ど の 生 き方 が あ り う る が, しか しこ の ア ンチ ー ネ. う契機を の生き方は容易に倫理的主体性につ ながるものである し, 倫理的主体性は信仰と逆説とい. 加 え る こ とに よ っ て, ま た 容 易 に 宗 教 的 主 体 性 に 進 み う る も の で あ る. キ ル ケ ゴ ー ル の 目 ざ す 宗 教. 的主体性か ら, 悲劇をもう一度見直 してみることに したい. ) キルケ ゴールの倫 理的宗教的悲 劇観 @ アンチ ゴーネの悲劇に対して, 「キリス トの場合は, 絶対的な行動と絶対的苦 悩との同一性によ り, 美学の及 ばない形而上学的な悲劇 である. キリス トの苦悩は絶対的に自由な行動であるか ら絶 ) 3 対的であり, 彼の行動は絶対的な従順であるため, 絶対的な苦悩である2 .」 キリストの悲劇は絶 対的であり, この悲劇的苦 悩には何人も及 びえない. これと並ん でキルケ ゴールの倫理的宗教的悲. 劇 観 を よ く あ らわ す も の は 『お そ れ お の の き』 に お け る ア ブ ラ ハ ム で あ ろ う. そ れ で は, 古 代 ギ リ シ ア の 悲 劇 的 英 雄 と ア ブ ラ ハ ム は ど の よ う に 違 う の か. 娘 を 国 の た め 儀 性 に 捧 げ る ア ガ メ ム ノ ン. は, 終始一貫倫理的なものの限界内に とどまっている. これに対して, 一人息子イサクを犠性に差 し出すア ブラハムは, 信仰による無限の運動を行ない, 神に対する絶対的な 義務の前に倫理的な義 務を目的論的に停 止 したのである. しかもア ブラハムはその情熱と背理的なもの の力で息子を取り 戻すのである. 信仰とは, 個別者が個別者として普遍的なも のより高くにある という逆説である. 個別者 が普遍的なもののなかにあっ た後に, 普遍的なものより高くにある個 別者として孤立する. ヘー ゲルでは, 人倫的な古代 の悲劇的英雄が最高のものであって, 測りえない ア ブラハムは悪とい う こ とに な る. ヘ ー ゲ ル は, 悲 劇 的 英 雄 と 同 じく, ア ブ ラ ハ ム を 倫 理 的 な も の の 限 界 内 に と どま ら せ る の で あ る. キ ル ケ ゴ ー ル に よ れ ば, ア ブ ラ ハ ム は 倫 理 的 な も の の 全 体 を ふ み 越 え て お り, よ り高 い 目 的 を 倫 - 68 一.

(14) . 第 24 巻 第 2 号. 北海道教育大学紀要 (第一部A). 昭和49年1月. 理の外にもっ ている. しか しア ブラハムが普遍的なものを踏み越えたのは, 純粋に私的な企てであ る. 悲劇的英雄では逆説的なものは媒介され, 人倫的徳によっ て偉大である. ア ブラハムは個人的 徳により偉大であるが, 逆説的なものは媒介されない. 人の生き方をすべて国家の理念とか社会の 理念に水平化するのは大変容易で, 媒介もすぐ行なわれる. しかし, 個別者が個別者として普遍的 なものより高くにあるという逆説には決して至りつかないのである。 悲劇的英雄にな ら, 自力でも なれるが, 信仰の騎士にはなりえない。 信仰の騎士は個別者となるために, 普遍的なものを諦める が, 試みによっ て普遍性へ逆戻りする危険を常にもっ ている. 他方, 悲劇的英雄は普遍的なものを あ らわすために, 自己自身を諦め, 無限の運動を行なっ て普遍性のうちに安 らうのである。 悲劇的 英雄は自己の義務を果たすための自己の願望を断念する. 信仰の騎士には願望と義務とは同一であ り, 彼は両方とも断念する. 絶対的義務が人倫的義務の断念を要求するのである。 アリステレスは詩学で筋の二つの要素, 「急転と発見」 をあげたが, ギリシア悲劇は盲目で, 目 を欠く大理石像に等 しい. 隠されていること (その結果としての発見) は運命にもとづき, 謎のよ うな起源をもち, そこに消える. 子が父を殺し, 姉 が弟を犠性に捧げようとする. 最後の瞬間に, 父あるいは弟とわかる. この種の悲劇は 「反省的現代」 の関心をひかない. 近代悲劇は 運命を放棄 し, 自己を解放 し, 目をあげ, 自己自身を眺め, 自己の悲劇的意識のなかに 運命をとり入れたので あっ て, 隠れも顕わになることも主人公がみずか ら責任を負う自由な行為である。 美学では隠れてあることが英雄的なことであるが, 倫理学は顕現を要求 して, 隠れを罰する. ア ンチ ゴーネには愛よりも, 現実の課題の解 決が重要であり, 愛は告白されず, 主人公に巨大な責任 が負わされる. 倫理学は顕現を要求 し, 美的幻覚にとらわれず, 英雄がみずか ら娘に運命を告げる ことこそ,倫理的勇気であることを証明する. そのことが普遍性を表現するか らである。 ところが, 宗教においては, 一人の人間を偉大た らしめるものは, じつは秘密と沈黙である. これはまさしく 内面性の規定である. ア ブラハムは語 らず, 隠れていた. 悲劇的英雄は孤独のおそる べ き責任を知 らず, 倫理学の寵児となる. ソ クラテスは知的な悲劇的英雄であっ たが, 諦めの無限の運動と信仰 の運 動 を 同 時に 行 な う ア ブ ラ ハ ム は, 背 理 の 力 に よ り, イ サ ク を 得 る こ と に な る の で あ る. こ う した キ ルケ ゴ ー ル の 宗 教 的 悲 劇 観 は, 1843年 以 来 の 一 連 の 宗 教 的 講 話 の な か で, ヨ フ, ヨ ハ. ネ, パウロ, アソナという宗教的典型のなかで具体的にあ らわれているが, かかる 一群の人間像は すべて真に内面的に自由な人間の典型であり, 悲劇的状況のなかで自己の魂を忍耐のうちにかち取 っ た 人 々 で あ る. こ こ で は 一 二 の 例 を あ げ る に と どめ る が, こ う した 生 き 方 の う ち に キ ル ケ ゴ ー ル. は明 らかに自己の生き方の指針を見出したのであり, その意味でこれは要重な彼の人間観, 悲劇観 であ る.. たとえば最初にあ げられるのは, 旧約のヨ ブである. すべてを失いなが ら, ヨ ブの最初の言葉は 「主は取りたまう」 ではなく, 「主は与えた」 であっ た。 この世で最も貴重な財産と子女をなく し ても, 主はすべてを取りたもうたのではなかっ た. なぜな ら 「主はヨ ブの称賛を, 心の平安を, そ ) 4 の平安が生まれる信仰の誠実を取りたまわなかっ たか らである2 .」 アンチ ゴーネとは大きく 生き ブ するヨ 主への信仰の故に現実の悲劇的事態を耐え忍ぶし は, 方を異に 、 また忍びえたのである。 3年の 『二 つの講話』 に見る, 女予言者アソナの謙虚な自己否定, 何物をも望むことのない また4 敬度な心情と態度, ここでも問題は同じである。 「忍耐を要求するような真実の期待のみがまた忍 耐を養成する. しか し真実の期待は人間に本質的に関わるようなものであり, それを成就すること は人間自身の力に任せ られてはいない. それゆえ, ほんとうに期待している人は誰でも神に関係し 忍耐は神か らの受難の贈り物であるが, 同時に神は善い完全な贈 り物として新 らしい 神関係を与えるだけでなく, 人間の側に天へ向かう信仰を与える。 しかしこの信仰を確立し, 実存 5 )」 て い る2 .. - 69 一.

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