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武家教育に於ける家訓について : 特に菊池武茂起請文を中心として

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(1)Title. 武家教育に於ける家訓について : 特に菊池武茂起請文を中心として. Author(s). 長谷川, 亀雄. Citation. 北海道學藝大學紀要. 第一部, 10(2): 332-339. Issue Date. 1960-02. URL. http://s-ir.sap.hokkyodai.ac.jp/dspace/handle/123456789/3731. Rights. Hokkaido University of Education.

(2) . 第 10 巻. 北海道学芸大学紀要 (第一部). 第 2号. 昭和35年2月. 武家教育に於ける家訓に就 いて --特に菊池武茂起請文を中心として--. 長. 谷. 川. 亀. 雄. 北海道学芸大学岩見沢分校教育学研究室. ’ ’ ・Sa]murai ly Precepts of ‘ Ka江I S’ eo HASEGAW A : FaIni. kuchi一「 0n the V刃ritten P1 幻 Lochi Ki edge 0賃ered by Takel. 家訓はいうまでもなく各時代各階級を通じて親が子孫にあたえた訓戒であるが, 武家教育資料と して武家の家訓をみると, 武家が どのような生活理念のもとに, いかなる教育をその子弟になさん としたかを推 察することができる. しかしおなじく武家とはいえ, 国内に争乱の絶えなかった武士 の興起より徳川氏支配までの, いわゆる前期封建社会の武家と, 武は尚んだが国内はすでに泰平 となり, 争乱もほ どんとなかった徳川氏支配下の武家の間にはおのずからその生活の実態もことな り, 子弟の教育には相違がみと められる. ) 中吉野朝の勤王家として父武時, 兄武重, 弟武光な どと奮戦 した この小論では多数の武家家訓1 九州の豪族, 菊池武茂 (たけもち) 起請文について当時の武家教育の特質を検討し, 前期封建社会 における武 家教育の理想, その方法な どを主として考察してみたい, 11世紀半ごろ) 肥後国菊池郡に下向 菊池氏は本姓藤原氏で関白道隆四代の後胤則 隆が延久年間 ( 2 ) し菊池氏を称 したこ とが十七代菊池武朝申状 でもはっきりしている. また武茂は十二代菊池武時の五人目の嫡子で菊池より分かれて支族木野氏の祖となったが, 起請 ) 女にも舎兄肥後守云々とあるから十三′ 代武重の弟であったことが推察される3 . 起請文はいわゆる広福寺文書として原本は現在熊本県玉名郡広福寺蔵となっているが, 延元三年 )に起請せられ 1 338年) 肥後国鎮守阿蘇大明神ならびに菊池氏が深く帰依していた鳳様山聖護寺4 ( たもので前文, 後女があり八ヶ条より成っているが, 九州勤王軍の首将であった兄武重も同年七 月 菊池一家の家憲を制定し八幡宮の神前で血判起請し, 10名にあまる弟たちの惣領として一家一門 に, 家憲の遵守を要求し, 各自私慾を捨て を休め奉らんことを誓わせしめている.. 勤王の大義を守り, あくまで賊徒足利軍を討って辰襟. . 延元三年といえば北畠顕家や新田義貞が戦死し, 尊氏がほ しいま に幕府を開いた年で, 南北朝 4世紀末にしてはじめて到達されたのであった. 合一 はこの後約60年1 いま国史資料集, 日本教育文庫家訓篇等を参照して菊池武茂起請文の全文をこ. に記すと次のよ. う で あ る,. 敬奉し対二三世常住一切三宝, 殊者鳳儀山聖護寺七仏五十余代仏祖, 井満山護法善神八部, 当 国鎮守阿蘇大明神御前-所二発願-起請文事 -332-.

(3) . 武家教育に於ける家訓に就いて. 一 武茂弓箭の家に生て, 朝家に仕ふる身たる間 天道に応て正直の理を以て家の名をあげ , , 朝恩に浴して身を立せんことは, 三宝の御ゆるされをかうふるべく候 其外私の名聞己欲 , のために, 義をわすれ恥をかヘリみす, 当世にへつらへる武士の心をなかく離 べく候 . 一. 己欲のため親疎によりて, 五常の道にそむくべく は世にある べか らず候, それも愚闇の身 にて候間, 正理を不守 してあやまり候はん時は, 御いさめに応じて, やがて正路に本づく べく 候.. 一. 己前の二箇条の道を守候はん事は, 当世難義の事に候と雄も, 釈迦牟尼仏の正法を護持し 奉, その志至誠に存候間, 条々発願に, 若あやまりおかし候罪過に依て, 天罰を受候と難 も, 末代当正法破滅之時, たとひ一日一夜にても, 正法を護持 し奉らん信心を此身におこ し候功徳を随喜 し候に依て, 先在家正直の順を立候所也, 此願あきらかに三宝竜天の照鑑 あをき奉候, 護法の志よりほかは, 柳も私の望はなく候也, 此願真実にして夫心に通じ候 はゞねがはくは釈尊正至二千慈尊出世-, 断絶なくして, 法界衆生を済度して同証二法性之 身一.. 一. 正法を護持し奉る発願は, 今生の名利栄華をながくすて. 後生菩提のみちを, 一すちにも とめたてまつらん, 僧侶を清浄の信心をおこして守護帰敬申候べし,. 一 公法出仕, 或私の交衆等の外 は, 心をおこして名聞栄華をたしなみこのむべからず候 , 為二在俗之身間, 柳徒然をな ぐさめんために, 俗塵のわざを行ぜんをばのぞく, 当世不実 の者の振舞, 井女武二道にはづれ, 仏法興隆の為ならず して, 法にもれて- 国家のついへ た ら ん 事 を ば, 為 し護ニ持 正 法-か た く 停二止 之-.. 一. 釈尊正法寿命をつぎたてまつらんがために, 自殺生井於ニ領内一六斎日の殺生を ながく禁 断せ しむ べく 候. ー. 舎兄肥後守子々孫々までいましめを定置れ候て, 正法護持之志 至誠にましまし候はゞ , , 武茂随喜仰信の心を発して子々孫々までに誠を定置候て 且為し君為し家 真俗同心に正 , , 路を守て, 如来正法を護持し奉べく候,. 一 聴聞正法の深恩を為し奉ニ報謝-, 生々世々正 法紹隆しましまし候はん時は 必一世むまれ , 値奉て, 正法に信心を起 し, 結コ師弟之縁-共可し奉し護ニ持正法ー候, 併発願起請女如し件 . 若壌二斯起請文之旨-候者, 三宝仏祖, 天竜護法善神 冥罰を武茂か八万四千毛孔ことに罷蒙 , て, 今生には白瀬黒瀬の病を受, 当来には七生まて仏法に不し可し奉し値候 伏願三宝証明随喜 , 護念竜天納二所順-成就. 延 元 三 年 八月 十五 日. 藤 原 朝 臣 武 茂 (花 押). 以上が起請文の全文であるがそれ ではこの起請文からわれわれは前期封建社会の武家教育の特質 としていかなることを考察しうるだらぅか. 以下その考察を若干述 べてみたい , 一333 「.

(4) . 長. 谷. 川. 亀. 雄. 2. 先ず第一に起請文の第一条にも 「武茂弓箭の家に生て朝家に仕ふる身たろ間, 天道に応て正直の 理を以て、家の名をあげ,朝恩に浴して身を立せんことは三宝の御ゆるされをかうぶるべく候」 と云 っているが如く, 当時の武家にとっては家の名を 、あげるということ, す なわち家名の尊重というこ とが, も っ とも 重 大 な こ と で あ っ た と 推 察 さ れ る.. このことは武茂の兄武重が同 じく延元三年七月 二十五日八幡宮神前に捧げた血判起請文 (広福寺 旧蔵菊池神社文書) からも容易にうか ゞえるが, 菊池氏にかぎらずす べての武家にとって家名の尊 重ということは封建社会 の武家の生活形態したがってそれから生ずる武家道徳の最大特質とも云い う るも の で あ っ た の で は な か ら う か.. 武重と云えば彼は父武時とともに南朝の武将で菊池家の惣領として一族の統制にあたり大に活躍 した が, そ の 活 躍 ぶ り は 次 の よ う で あ る.. 1 331年) が起ると父武時と博多で九州探題北条英時攻撃軍に加わり, 父武時戦死 まず元弘 の乱 ( 1 3 34年) によって肥後守に任ぜられ, 足利尊氏の反乱 に先立って肥後菊池に帰えるが, 建武中興 ( 1 335年) (箱根合戦千本槍) また新田 には新田義貞の征討軍に加わり箱根で戦功を立て いる. ( 軍が敗れ足利軍が これを追って京都 に迫ると大いに奮戦し, 尊氏が九州に敗走したのちに大挙西上 1 336 して揚津兵庫に上陸すると, 武重は義質の軍に加わり大いに奮戦している. そして延元元 年 ( 年) に本国菊池郡に 帰り, 九州勤王軍の首脳としてその後も大活躍しているが, その起請文, すな わいふ. 3代惣領肥後守武重が神前に捧げ わち現在熊本県隈府の菊池神社に宝蔵されているものは菊池家第1 べき一家一門の協力同心を要請している の家風家憲ともみる たもので, それには菊池家 , 起請文は 大部分が仮名で書いてあり 「よりあいしゆのなひたんの事」 と題 され相当読みにくいがいまこれを 読みやすいように仮名を漢字に宛て. 書 き 改 め る と 次 の よ う で あ る。. 寄合衆の内談の事 . 天下の御大事は内談の議定ありと云ふとも, 落居 の段は, 武重が所存に落し着く べ し 一 国務の政道は内談 の議を尚す べし, 武重勝れたる談を出す と云ふとも, 管領以下 の内談衆 一 統せず は武 重が儀を捨てらるべ し, 一 内談衆一 統して菊池の郡に於いて, 堅く畑を禁制 し山を尚して茂生の樹を増し, 家門正法 ・ と共に竜華の暁に及ばんことを念願す べし, 謹んで八幡大菩薩 の明照を仰ぎ奉る 藤原武重 (花押血判) 延元三年七月 廿五日 一. これでみると彼は一家の指揮統裁の絶対権を家督すなわち惣領である自分が執るが, 家督一人の 専決が重大事の決定にあたって不測の分裂を招かん事を予防せんために家督の下に管領を置き, 管 領の下に内談衆数名をおいたいた ことがわかる. 第一条にもあげているように 「天下の御大事は, 内談の議定ありと云ふとも, 落居の段は, 武重が所存に落し着くべし」 で管領内談の人々は意 見は 提出し計画に参与はできても, その計画の決 定権は家督である自分であることを定めている. このように惣領の絶対権が尊重せられ, 家の名をあげる, す なわち家門の名誉ということが, 武 家にとって最大の関心事であり, その反対に家名 を堕す, 家名を汚す ということが, 彼等にとっ て最大の恥辱とされたのは封建社会の 「家」 を中心とする生活形態 から由来するものではなからぅ カ.. 「すなわち封建社会においては, 社会の単位が 「個人」 ではなく 「氏」 や 「家」 で, したがって 「334-.

(5) . 武家教育に於ける家訓に就いて. 「個人」 はその 「氏」 や 「家」 の首長の道具に過ぎなく 「人間」 は血縁的集団のうちに埋没して, ) 」 たゞその集団の典型的性格を実現することが, 個人の生活の, また人間の生活の全部であった5 。 と 云う こ と が でき よ う.. 軍記物語にもしばしばあるように武家が職場で 「音にも聞きつらん, 目にもみよ, 我こそは何々 天皇何代の後胤, 何何の国の住人, 何何の何男, 云々……」 というような長い名乗上な どいかに当 時の武家が, 自己の 「家」 を尊重しか がわかる. しかしまたそ の反面恩賞の不公平から前期封建 社会においては武家が しばしば反乱し利害打算に依って心替りした例は枚挙にいとまもないほ どあ り, いわゆる 「侍は草のなびき」 という言葉すら承久軍物語に出ているが, むかしからわが国でよ く人のロにせられる 「人は一代, 名は末代」 という言葉も武家社会というものを考えることなしに は, 理解するが不可能なのではなからぅか, 要するに封建社会における道徳に関して は次のように云へるであろう. すなわち封建 社 会 で は 「個人」 は 「氏」 や 「家」 という集団の 「無名戦士」 に過 ぎないのであり, 当時の社会は, 「氏」 や 「家」 と い う 対 立 的 生 活 体 の, 「闘 争」 の 「場」 で あ っ て, 「協 同」 の 「場」 で は な か っ た の で,. 個人や社会が, それ自体の秩序をもっという意識は, 時代の人間の頭では考えられなかったのであ る,. ノ. 、そ れ は道 徳も 亦 「対 立 的」 で あ っ た こ と を 意 味 す る の で あ る. 氏 族 間 の 闘争 と い う こ と が, フ ュ. ーダリ ズム時代の生存競争であった以上, 道徳も 「闘争」 の心理の上に成り立って いるものでない わけに行かない. すなわち 「氏」 や 「家」 の 「不合理的」 絶対性を確立すること, それらの生活体 の闘争の 心理を強めることに, 道徳の重点が置かれたのである, 「氏」 や 「家」 という生活形態は, その一つ一つは, 強靭な心理的の紐帯で結ばれてはいるが, 「 他の 「氏」 や 「家」 との間に は, 何等それを結ぶ心理的紐帯はなく, たゞ相互に反撰する. 同極の 電気のような心状にあったのである. 道徳は, 所属の 「氏」 や 「家」 の絶対性を保つ心と行動の法 則であり, 氏族間のフュトダリ ズム的対立乃至闘争の心理の 「昇華」 であった. 民族を一つの全体 とした 「国家」 とか, 生活集団の全体的綜合体としての 「社会」 とかいうものは, 封建時代の生活 ’生活体の道徳は意識に上らな 形態として成立していなかったので, 道徳的心理としても, そういう か った, …… (中略) … …. 近代においては, 道徳は, 一方に社会の単 位としての 「個人」 のそれと, 他方に, 全体的生活体 としての 「社会」 ,のそれとに裏点をおいている. すなわち個人道徳と社会道徳とが, 近代生活の道 徳の両極をなしているのだが, 封建時代の道徳に は, その二つ とも欠けていて, 個人の道徳が, 「氏族」 または 「家」 の道徳のうちに埋められていたと同時に, 「社会」 の道徳は, 「氏族」 また 6 ) という見解 が死生相結托強固な主従関係 (勿論それ は 「家」 の道徳に分裂されていたのである」 は御恩と奉公という関係に由来する) より成立した武家社会において, 彼等にとっては家名を重ん ず る こ と が, い か に 重 大 事 で あ っ た か と い う こ と の 背 景 に 理 解 さ れ う る の で あ る.. 18 5年に壇の浦でを 一 体武家はなにも封建社会 (平家は1 まるびており, この年院のゆるしを得て頼 1 9 2(建久三) 年彼が鎌 朝は全国に守護, 地頭をおいているが, 封建社会の成立は大体この頃叉 は1 7(慶応三) 年, すなわ 8 6 倉に幕府を開き朝廷から征夷大将軍に任ぜられた年 とみてよくこれから1 ち明治維新までが封建社会とされる.) に お い て 発 生 した も の で な く, そ の起 り は とをまく 平 安 時 代 藤原道長の全盛時代, すなわち掘関政治ころからである. 石清水八幡宮の神前 で元服しその冠者名を八幡太郎と称せられ後世弓箭の武神として大いに尊崇 10 1 3~8 7 1~6 2 0 8 5 ) で武名を大いに東北 であげ せられた源義家は, 前九年の役 ( ) や後三年の役 ( 一335-.

(6) . 長. 谷 川. 亀. 雄. たが, 彼は勿論立派な武将でその時代は平安朝柵関政治の時代である. 叉 寒月 や衆徒の群議を過 ぎて後 という句が蕪村にあるが, 不平あるごとに朝廷に強訴した僧兵の暴行を防ぐために源平二氏が用い られたのも, 平安時代即ち白河法皇が院で政治をとられていたころである. 45年) によりなされた律令制が時代のたつま 6 僧兵の発生については大化改新 (. 次第に崩れる. と同時朝廷の 僧侶に対する取締が衰え反面いわゆる南都北嶺と称せられる奈良の興福寺や比叡山の 延暦寺, その他東大寺とか三井寺の荘園が増大し無頼の徒が多く諸大寺に集まり僧となり, 秩序の 混乱した社会情勢のも と仏法擁護の美名にかくれ武芸を練習して寺院警備にあたったとされるが, 1世紀こるからであり, この勢力に対抗するものと これを要するに僧兵の勢力が増大したのは大体1 2世紀中ばとみるべきである. しての武家のそれが拡大したのは1 3. l age なお平安時代における文化の代表者 (Ku tur t r ) は貴族社会における公家であるが, 彼等の r うちでも勢力のあったのは藤原氏一門で同じ藤原氏の出であっても北家でない人たちは中央におい て志をえることができず国司として地方に下り土着した者も多かった. この小論で考 察 してる起請 文の菊池氏の祖もさきにもあげた菊池武朝申状でもわかるようにそのような人だった. なお平氏もおなじく武士の語源が国語の 「さむらふ」 から由来しているように, 元来は貴族につ かえ, 殿上に昇殿をゆるされない, いわゆる地下 (ぢげ) であったが, 清盛が政権をとった11 67年 から壇の浦の滅亡までの27年間がも っとも全盛時代で, この全盛時代も彼は太政大臣といういわゆ る律令制度における貴族の最高位を朝廷からあたえられたわけでその一門の生活形態もこの期間は 武家のそれでなく公家のそれであったから, それから頼朝のやうに幕府を開いたわけでないから武 政治 ということはできない. したがって封建社会の開始はやはりまへにも述べたように頼朝が全国 185年か, あるいわ彼が朝廷から征夷大将軍 (略して将軍) に任ぜられ鎌倉 に守護, 地頭をおいた1 に 幕 府 を 開 い た1192年 と す る が 至 当 で な か ら ぅ か.. すなわちこの頃からわが国の社会は古代国家から中世的封建制へと, つまり貴族の世の中から武 士の世の中へと移行したのである. l tur t そ して そ れ と と も に 文 化 の 担 い 手, (Ku rager) も 詩 歌 管 弦 を 中 心 と した 公 家 か ら武 を 中 心 と する 武 家 と な り, こ. に社会の中心階級である武家にとっての教育がまた時代とともに次第に彼. 等のために組織化されるようになったと考えられる, なお武士の発生については次のように云われている. 「律令政治の乱れとともに地方政治の無秩 序さも激化した. 国司の模暴に対して農民たちは徒党を組んで反抗し, 自然に武力が要求される社 会的条件がみなぎってきた. 有力な地方豪族 は, 自衛のために配下の有力農民を武装させた. この ようにしだいに武士団が生れていったのである, その中心となったのは主として土着の郡司層であ ったが, 中央から下った官人の土着した者もあり, また荘官の武装化もめだってきた. この現象は 各地にみられたがとくに東国に著しかった. このように武士団は, はじめは地方豪族の一族を中心として つくり上げられた戦闘組織であ った が, やがて中央貴族の地方に下った者を中心に統合され, 家子・郎党として組みこまれた. これら ) 上級武士がいわゆる武士の棟梁で, 桓武平氏と清和源氏がその代表であった7 .」 以上家名の尊重ということを中心にして何故武家が一家団結して大いに武力を練らなければなら なかった, そしてこれがまた菊池武茂起請文の中心思想と考えられるが, これを要するに初期封建 社会の時代的特質から考 察するならば, 武家社会は主従制即ち奉公とその物質的裏付けをなす土地 -336一.

(7) . 武家教育に於ける家訓に就いて 給与制換言すれば恩給制即ち御恩から成立し時代的推移の点から考察するならば古代的支配 関係の 内部に封建的諸関係が根をはり次第に封建制度が成立し, 古代権力は朝廷であったがそれは次第に 公家の手に, そして武家は最初公家への寄生的ないし妥協的関係であったが, それが漸次対立的関 係となり, 主従制と恩給制の結びつきによって, すなわち御恩と奉公の関係において封建制 度が成 立してゆきいわゆる武家を中心とする武士の世の中が現出したものと思われる÷ 38 3 (永徳三) 年足利氏の三管領 (北条氏が なお菊池武茂起請文よりも時代は少しあとになるが1 執権として将軍を輔佐したように管領とは幕政の大綱を握るもの) の一人斯波義将 (よしまさ) が 子孫に武士としての心得や作法を書きのこしたものといわれる竹馬抄 (もっともこれは斯波義将が 書いたものではないという説もあるが) の一節にも家名を重んすべきことが次のように述べられて い る. 弓 箭 と り と云 ふ は, わ が 身 の こと は申 に お よ ばず, 子 孫 の 名 を お も ひ て 振 舞 べ き な り, か ぎ り あ る 命 を お しみ て, 永 代 う き名 を と る べ か ら ず, さ れ ば と て, 二 な き 命 を ち り は い の ご とく お も ひ て, 死 ま じ き 時 身 を う しな ふ は, か へ っ て い ひ が ひ な き 名 を と る な り, た と ヘ ば 一 天 の 君 の 御. ため, または弓箭の将軍の御大事に立て, 身命をすっるを本意 と云ふなり, それこそ子孫の高名 をも 伝 ふ べ け れ, 当 座 の 気 い さ か い な ど は, よ く て も あ しく て も, 家 の ふ かく 高 名 に な る べ か ら ) ず8 ,. これを要するに家名を重んずる, 一家の名誉, 武門のほまれ, 弓箭とる身は名こそ情けれ, とい う武家教育の理想とも云う べきものは, わが民族思想から考察するならばなにも封建時代の武家か は考えられずむしろ古くはわが国の最も古い家訓の一つであると思われる大伴 9 家持の職族歌 月こも明瞭に言立 (ことだて) として歌われているわけではあるが, 時代がつねに戦 ら はじま っ た こ と. 乱で緊張しており, 生死の境を馳駆した前期封建社会の武家にとっては何よりも所領安堵すなわち 「家」 と いう こ と が 大 切 な こ と が ら であ っ た と 思 わ れ る.. その故にこそ一族の強固な団結が要請されたのである. そして一族が 団結するためには惣領に服 従し一族のために自己を犠牲にすることが武士の道徳とされそして一族のむすびつきの精神的な中 心が氏神であったの である, さきに考察した武重の 「よりあいしゆのなひたんの事」 でも明らかなように特に嫡子中の惣領の 責任は当時においては非常に重いものであり, つまり惣領は家督として一族の長であるとともに戦 場では一族の軍事指揮官であり, 一族はいつも惣領を中心として固く団結していたことが彼の起請 文からも推察される. そして今日の用法とはことなるがこの惣領にしたがう一族のものは庶子であり, 惣領と一族庶子 の結びつきがいわゆる惣領制度である. なお一族以外のもので も烏帽子子, 猶子として血を分けた肉親でなくても一族の団結に加へられ た,. 次に武茂起請文のいま一つの特長であると思われる当時の武家と信仰の関係を考察したい. 4. 起請文の第三条にも記されているように 「正法を護持し奉らん信心」 という仏教の影響力は菊池 氏一族に非常に強くはた らいていたとみる べきである. 1 338年) 一族の信仰の中心ともいう べき聖護寺 に山林を寄進 し それは武茂の兄武 重が延元三年 ( 一337-.

(8) . 長. 谷 川. 亀. 雄. た時の寄進状からも明らかてある. 原支は非常に仮名が多く読みずらいが, 漢字を宛て〉書き直すと次のようになる. 寄進し奉る肥後の国菊池の郡の内鳳鏡山聖護寺の敷地の事 四至. 東限る兵藤 (ひようとぅ) 大道, 南限る豆小野 (まめおの) の在家の前の大道, 西限る 穴川 (あなかわ) の西の大川, 北限るかせむれ獄 (たけ) の絶頂, 津江(つえ) 堺山(さ か い や ま) を 限 る. 鼓 の 峠 の 下 の 林, 詳 しく は 別 紙 に あ り.. 右寄進し奉る志は, 大智上人深山禅寂の地に於いて, 仏祖の正法を紹隆し給ふ宿願深重にまし ます間, 武重清浄堅固の信心を起 して, 当山の事は尽未来際, 大智上人に寄附し奉る所なり, 当時の住持職己下大小公私の事武重が子々孫々長く相縞ふ何らず, 開山上人の付法 相 伝 の 門 弟, 代々法燈を相続して弥勤下生の朝に至る迄, 断絶せしめざらん為なり, 伏 して願くは, 仏 祖加被護念し絵ひて, 家門久 しく盛りに子孫貞心にして武略を天道守て, 長く本朝の鎮将たら ん, 依って忠を朝家に致 して, 正法を護持し奉らん為に寄進状件の如し. 延 元 三 年 三月 廿 七 日. 藤 原 武 重 (血 判 花 押). 1 342年) に捧げた起請文, あるいは武貞, 時基 さらにまた武茂の嫡子木野次郎武直が興国三年 ( な ど一門の人たちによる同年捧げられた起請文からも明らかである. いまそれらを平泉燈博士著 「菊池勤王史」 からこ. に 記 す と 次 の よ う で あ る.. 敬奉対三世常住一切三宝殊者鳳鏡山七仏五十余代仏祖御前誓申発願事 外行五常天道之正理, 内守解脱生死一大事, 可為自利利他之益候 雄為頭目手足, 不可為法- 浩之候 於真俗二諦, 不敢違師命, 一心奉護持正法, 可命報謝父母深恩候 此条変違申候者, 直罷蒙天罰, 可失二世本願候, 例発願誓女如件 藤原. 興 国 三 年 壬午 三月 十 七 日. 武 直 (花 押). 敬奉対三世常住十方三宝, 殊者 ヒ仏五十余代仏祖井天竜護法善神御前, 発願誓女事. 右発 願志者, 謹守師回之旨, 外順五常天道之理, 内行出離 生死之法, 生々世 々奉護持如来 正 法, 伝法燈千弥勤下生之農, 傷発願誓女如件. 若令違弦願候者, 直可罷蒙三世常住十万三宝天竜護法善神御罰候 興 国 三 年 壬 午 五月 三 日. 藤原. 武 貞 (花 押). 藤原. 時 基 (花 押). 藤原. 武 世 (花 押). 藤原. 惟 武 (花 押). 藤原. 武 澄 (花 押). 源. 長 弘 (花 押). 以上をみてもいかに菊池家一族の仏教にたいする崇敬ふかく正法護持の精神強烈かゞ推察される が, 菊池一族にたいしてか>る強烈な信仰生活をなさしめるに至った聖護寺の開山大智 (だいち) 禅師とはそもいかなる人であったらう. 4年春秋社発行) の第38章元明交通に入元の僧 辻善之助博士の日本文化史W吉野室町時代 (昭和2 - 338-.

(9) . 武家教育に於ける家訓に就いて と して 実 に そ の 主な も の の み に て も71名 あ げ ら れ そ の う ち の 人 と して 大 智 に 関 して は 次 の よ う に 記 さ れて い る。. 大智 字は素渓, 或は祖継といひ, 詳ならず. 肥後大慈寺の寒巌義美に謁 し, 義美の寂後は加 賀 の大乗寺に壁山紹理に謁し, 参究七年, つひに許可を受けた. 正和三年 ( 1 31 4 ) 元に渡航 1 324 し, 古林清茂, 中峰明本等の諸 禅師に歴謁し, 滞留十一年, 正中元年 ( ) 帰朝し, 能 登に至って 坐山 禅師を省す。 つひに一寺を加賀の古野郷に開いて紙陀寺と号した。 後肥後 に帰り, 菊池郡に聖護寺を構へて住した. 菊池武時崇仰甚だ篤く, 玉名郡に広福寺を建て て開山とした。 貞治五年 (正平二十一年) ( 1 36 6 ) 寂すo 平安朝においては仏教は主として貴族的色形がつよくその教義も難解であったに反し鎌倉以後に なると仏教が広く民衆の中に惨透しことに禅宗が武士の気風に投合し武家によって崇敬帰依された こ と は 誰 も知 る とこ ろ で あ る.. とにかく大智禅師という僧はさきの略歴でもわかるように曹洞宗の傑れた僧で菊池一族に対して も深い精神的想化と宗教的信念を与えていたことが推察される. (以下次号, 註記は次号に一括し て 掲げ る こ と と す る). 9- 一33.

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