レスピーギ歌曲の深層研究 ― レスピーギ作曲《森の神々 Deità silvane》の考察1 ―
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(2) 北海道教育大学紀要(人文科学・社会科学編)第69巻 第1号 Journal of Hokkaido University of Education(Humanities and Social Sciences)Vol. 69, No.1. 平 成 30 年 8 月 August, 2018. レスピーギ歌曲の深層研究 ― レスピーギ作曲《森の神々 Deità silvane》の考察1 ―. 鴨 川 太 郎 北海道教育大学釧路校音楽研究室. An Exploration into the Depth of Respighi’s Art Songs ― A Study of Respighi’s “Deità silvane”, Ⅰ ―. KAMOGAWA Taro Department of Music, Kushiro Campus, Hokkaido University of Education. 概 要 O.レスピーギは,いわゆるイタリアの「80年代世代」の作曲家で,3部作の交響詩(《ロー マの泉》 《ローマの松》《ローマの祭り》)の作曲者として,わが国でもつとに有名である。し かしながら,その歌曲についての研究は,日本において進んでいるとはいえない。例えば,レ スピーギの歌曲としては最後の方の作品であり,交響詩《ローマの泉》と《ローマの松》の間 に作られた芸術歌曲集《森の神々 Deità silvane》は,中期レスピーギの作曲技法や文学的指向 を探るうえで,非常に重要なものであるにもかかわらず,歌詞の完全な邦訳すら刊行されてい ない。小稿は,《森の神々》の詩の内容を洞察することが,レスピーギ歌曲の深層理解にとっ て急務であると考え,多角的な分析を通して考察を深めるものである。結果として, 《森の神々》 は19世紀末の退廃主義的・耽美主義的な雰囲気の中で,快活な古代神話世界を現出させるが, 「山」 の暗示するものによってその世界が象徴的に翳ってゆくさまを物語っていることが分かる。. はじめに 1998年~2000年に日本国内で出版された『レスピーギ歌曲全集 上・下』(既に絶版)は「全集」と謳われ てはいるものの,ポティート・ペダッラPotito Pedarra1による1985年の総作品目録にある歌曲が全て所収さ れているわけではない。中期レスピーギの特異な作曲技法や文学的指向を示す1917年作曲のピアノ伴奏版 《森の神々 Deità silvane》(P107)2は収録されていない。 1914年のポエメット3《夕暮れ Il tramonto》(P101)は,当初からメッゾ・ソプラノと弦楽四重奏のため. 97.
(3) 鴨 川 太 郎. に作曲されたものであり,同年作曲のピアノ伴奏版(P101a)はその縮小版として作られたものであって, 《森の神々》の作曲経緯とは明らかに異なっている。《森の神々》は元々,ピアノ伴奏の芸術歌曲(リーリ 4 として作曲され,室内楽版のポエメットとして再構成されたのは8年後の1925年のことである。 カ). 筆者は「ポエメット」も「リーリカ」としてとらえているが,ピアノ単独の伴奏形態をもつ歌曲以外は 「リーリカ」と認めない立場をとるにしても,《森の神々》を歌曲全集に含めないのは不備があると言わざ るを得ない。. 1.出典と作者について 《森の神々》の詩を書いたアントーニオ・ルビーノ Antonio Rubino は,1880年にリグーリア海岸沿岸の サンレーモで生まれ,サンレーモから北北西に30kmほどうねうねと山道を辿った先(直線距離では10kmほ ど)にあるバイアルドで没した。バイアルドは内陸の山岳地帯(マリッティメ・アルプス)の一角にあり, 山頂の標高は1627mの山の上の村である。 5 によれば,ルビーノは「アール・ヌーヴォーの流 イタリアの百科事典『トレッカーニ Treccani on line』. れに連動し, イタリアにおいて児童向けの挿絵や文学を一新」させた画家・イラストレーター・作家であり, 児童文学の中に「不遜な想像力を導入し,子どもの世界の中に,役割の否定や予想外のことを自由に盛り込 む面白さ」6を取り込んだ。独特な児童向けのイラスト画家としてのイメージが強い。 ルビーノには唯一, 『詩と図案 Versi e disegni』(1911年)という詩集があり,《森の神々》の詩もそこか ら取られている。『詩と図案』の第2部に,楽曲と同様,5つの小詩からなる「森の神々」が所収されている。 アール・ヌーヴォー調の装飾図案が各頁の天地に金色を連想させる橙色の単色で帯状に施され,その間に小 詩が一篇ずつ合計5頁にわたり黒色で印刷されている。また,小詩一篇分の大きさで,林檎のような果実を 愛でる牧羊神ファウヌスと葡萄の木に変身する妖精を装飾的かつユーモラスに黒色で描いた挿絵が,1つだ け標題頁の次頁に載せられている(図1)。. (図1)ルビーノ『詩と図案』pp.62-63. https://archive.org/details/versiedisegni00rubi (2018年3月26日閲覧). 98.
(4) レスピーギ歌曲の深層研究 ―《森の神々》の考察1 ―. 2.対訳と解釈 『森の神々』における詩の形式は伝統的なイタリアのソネット形式(ペトラルカ風ソネット)で,11音節 詩行が,4行+4行+3行+3行の14行で構成される。「水 Acqua」を除く全ての詩で,初めの8(4+4) 行の脚韻はABBA ABBA(交差韻)で,後半の6(3+3)行は CDE CDE(「牧羊神ファウヌスたち I fauni」 「黄昏 Crepuscolo」),CDE EDC(「花園の音楽 Musica in horto」),CDD EEC(「アイグレ Egle」) と厳格に韻を踏んでいる。「水」もABBA’ ACC’A DEF FED’ のように,やや逸脱はするものの,基本的な 押韻形式に沿っていて,擬古的な趣があるといえる。 全体的な内容としては,現代のイタリア人たちが小学校の頃から暗唱させられる,パスコリ Giovanni Pascoli (1855-1912)やダンヌンツィオ Gabriele D’Annunzio (1863-1938)の詩の影響下にあることは否めな デカデンティズモ. い。ふんだんに盛り込まれた象徴,言葉の響きの多様さ,また耽美的な物言いの数々。頽廃主義の流れの中 で生まれ,美しくも淫猥なる暗喩に富んでいながら,どことなくユーモラスで,音韻的にも映像的にも豊か なイメージを湛えているといえよう。 以下に対訳7を試み,現時点での解釈を記述する。. Deità silvane Antonio Rubino. 森の神々. アントーニオ・ルビーノ. . (試訳:鴨川太郎) 8. Ⅰ. I fauni.. 1.牧羊神ファウヌスたち. S’odono al monte i saltellanti rivi. 山では勢いよく小躍りする水の流れが. murmureggiare per le forre astruse :. 隠された険しい峡谷を通って囁いているのが聞こえ,. s’odono al bosco gemer cornamuse. 森では快活な小笛(ピッフェロ)のさえずりと一緒に. con garrito di pifferi giulivi.. 風笛(バグパイプ)が呻くのが聞こえる。. E i fauni in corsa per dumeti e clivi,. そして,丸い額の上に角を屹立させ. erti le corna sulle fronti ottuse,. 茨の茂みや小丘を求めて競い合う牧羊神たちが,. bevono per le lor nari camuse. 薄い秘薬や淫らな西風を. Filtri sottili e zefiri lascivi.. その低い鼻孔から吸い込んでいる。. E, mentre in fondo al gran coro alberato. また,大きな森の奥深いところで. piange d’amore per la vita bella. アルカディアの牧人のザンポーニャが. la sampogna dell’arcade pastore,. 美しい生ゆえの愛に涙している間,. contenta e paurosa dell’agguato . 奇襲に喜びと恐れを抱いて. fugge ogni ninfa più che fiera snella, . 熱望する花のように口の中で激しい思いに燃えながら,. ardendo in bocca come ardente fiore.. 野獣よりも敏捷に妖精たちはみな逃げていく。. 99.
(5) 鴨 川 太 郎. ドビュッシーの出世作となった《牧神の午後への前奏曲 Prélude à“L'après-midi d'un faune”)》(18921894)は,マネの挿絵入りで出版されたマラルメの『半獣神の午後 L'après-midi d'un faune』(1876)に触 発されたものだが,恐らくこの楽曲も詩も, 《森の神々》の作詩者・作曲者に多大な示唆を与えたに違いない。 「牧神」も「半獣神」も,また拙訳が用いた「牧羊神」もローマ神話の森の精霊ファウヌスのことであり, しばしばギリシャ神話における葡萄酒と快楽の神ディオニュソスの眷属であるパーンやサテュロスと同一視 されてきた。その姿は古代から現代に至るまでさまざまに描かれてきたが,この詩に登場する牧羊神たちは, ルビーノの挿絵にある通り,臀部から下は山羊脚で尻尾もついており,本来2つに割れているべき蹄は4つ に割れているように見える。鼻は低く耳は山羊のように長く尖る。額からは山羊の角が生え,巻き毛の頭髪 の周りを葡萄または木蔦の蔓のようなもので飾っている。このことは,ディオニュソスの持ち物として知ら れる「テュルソスの杖」が,先端に松かさをつけ,葡萄の蔓や木蔦で飾られるのが常であることと関連付け られよう。 「テュルソスの杖」はファルスのような形状となるため, 「生命力」や「豊穣」,あるいは「再生」 の象徴として考えられてきた。 また,古代ギリシャの装飾画では,しばしば馬のように屹立するファルスとともにサテュロスは描かれる が, ル ビ ー ノ の 挿 絵 や 詩 に は あ か ら さ ま な フ ァ ル ス の 描 写 が な い。 が,「 ピ ッ フ ェ ロ pifferi」「 風 笛 cornamuse」 「ザンポーニャ sampogna」といった管楽器や,「角 corna」はファルスの代替物とみてよいだ ろう。風笛もザンポーニャも羊の革などで作った大きな袋に有孔のパイプを何本か差し込んだ楽器(バグパ イプ)であり,ピッフェロも含めて発音はダブルリードによる。リード楽器であるということは,牧神パー ンとの関係性を想起させる。オウィディウスの『変身物語』によれば,パーンが妖精シュリンクスをわがも のにしようと追いかけたところ,それを忌み嫌ったシュリンクスが川の妖精に助けを求め葦に変身し,彼女 を悼んだパーンがその葦を何本か折り束ねてパンフルートを作るのである。ちなみに,南米アンデス地方の パンフルートはスペイン語で「サンポーニャ zampoña」と呼ばれるが,ルビーノはそれを知っていて,敢 えて zampogna とせず,スペイン語のパンフルートに発音が似ている異音同義語 sampogna を用いたのか もしれない。なお,マラルメの『半獣神の午後』でファウヌスが吹く楽器は,やはりリード楽器で,1つの 吹き口から共鳴管が2本に分かれる「アウロス」である。 もし,ルビーノの sampogna がパンフルートを指すとすれば,詩中,楽器で切ない愛の音楽を奏でるア ルカディアの牧人に,我々はダフニスの影を見ることにもなるだろう。ここで言う「ダフニス」は,ロンゴ ス(Λόγγος 3世紀ごろ?)が著したレスボス島を舞台に展開される恋愛小説『ダフニスとクロエ』のダフ ニスではなく,シチリアの月桂樹の林で拾われ羊飼いに育てられたダフニスである。テッサリア地方または アルカディア地方で月桂樹に変身したとされる妖精ダフネ Δάφνη の名にちなんで,月桂樹の林で拾われた ときに彼はダフニスと命名された。この美少年には悲しい物語が伝えられているが,彼にパンフルートの奏 法を教えたのがパーンであり,ダフニスは「牧歌」の創始者とされる。 ここで, 「アルカディア」が問題となる。アルカディアという地名は,現在でも中部ペロポネソス半島に 県名として残り,アテネ近郊にはギリシャ語で月桂樹を意味する「ダフニ Δάφνη」(妖精ダフネと同語)と いう集落もあるが,シチリア生まれシチリア育ちのダフニスが,ギリシャのアルカディアにいたわけではな い。また, 「アルカディア」を「古代の理想郷」と考えれば間違いとはいえないが,アルカディアはダフニ スの十分条件ではないので,アルカディアからダフニスを想像するのは論理的には正しくない。 しかしながら,これまでに述べたように,パーン,サテュロス,ファウヌスを混淆してみている詩人のイ メージの中には,パーンと切っても切れない関係で古来有名なダフニスがいた,とみるのは妥当であろう。 あるいは,個人名としては言及されない「アルカディアの牧人」という集合名から,ダフニスの名が示唆さ れる構造というべきか。ダフニスはその美貌ゆえに,男女問わず多くの神々や妖精に愛され,まさに「美し. 100.
(6) レスピーギ歌曲の深層研究 ―《森の神々》の考察1 ―. い生」を生きたのだが,遂には,嫉妬され失明させられて,世をはかなんだ末,断崖から身を投じてしまっ た。 さて, 第2連の後半で,牧羊神たちが低い鼻の穴から吸い込んでいる「薄い秘薬や淫らな西風」とは何か。 (図2)のボッティチェッリの名画〈春 Primavera〉(1477〜1482)では,画面右端で,捕らえた妖精クロ リスにしかめっ面で息を吹きかける灰青色の男として「西風」が擬人化された。この画に関する現在の一般 的な解釈では,同じ画面の中で,クロリスは懐胎し春を象徴する花の女神フローラへと変身する。いずれに せよ,ルネサンス期以降,西風ゼフュロスは春の訪れを告げる軽やかな使者として扱われてきたが,この詩 では,ファウヌスたちがまさに「春」を取り戻すための媚薬として「淫らな西風 zefiri lascivi」を吸い込ん でいるようである。. (図2)ボッティチェッリ〈春〉. では, 「薄い秘薬 filtri sottili」とは何であろうか。イタリア語で「媚薬」のことは filtro d’amore(愛の秘 薬)といい,filtri がここでは媚薬と同義であることが仄めかされている。「薄い」という形容詞は,酒類の アルコール度数が低いことを示す語でもあるから,その媚薬の濃度が薄いというのだ。さて,鼻孔から吸う 媚薬とは何であろう。春の草花の香りの中に,媚薬として効力を発揮するものでもあるのだろうか。 暑いシチリアを舞台にしたマラルメの『半獣神の午後』には,追い求めた妖精を自分のものにできなかっ たファウヌスが, 「未練を追い払うために葡萄の実をすすると,笑いが込み上げてきて,空っぽの葡萄の房 を夏空高く掲げ,酔っ払いたい一心で,その輝く果皮に息を吹きかけながら,晩方までそれを透かして見て いる」 (57行目~61行目)というくだりがある。半獣神が神業をもってして,葡萄をすぐ葡萄酒に醸成でき たのかどうかは定かでないが,彼らの頭目であるディオニュソス(あるいはバックス)は葡萄酒の神であり, 葡萄酒がもたらす酩酊や享楽の神でもある。 ルビーノはこのシーンにヒントを得て,牧羊神たちが葡萄の果皮から立ち上る淡い香気を吸うイメージを 詩にしたのではないか。葡萄酒は催淫剤であり,媚薬なのだから,その可能性は否定できない。. 101.
(7) 鴨 川 太 郎. 最後に,妖精と牧羊神との関係についてだが,ギリシャ・ローマ神話における妖精たちは大抵の場合,天 上の神々を崇拝し仕えるものであって,地上の(森の)神々であるサテュロスやファウヌスといった牧羊神 に対しては嫌悪感をもっている。 一方,妖精たちから忌み嫌われている牧羊神たちにとって,妖精は若く美しい獲物なのである。山羊は精 力旺盛で多産の象徴だが,下半身と頭部の一部(耳と角,場合によっては長い顎髭)が山羊そのものの牧羊 神は,妖精にとって恐るべき略奪者,まさに獣なのだ。ただ,不意を突かれた場合を除いて,妖精たちは微 風のように軽やかに逃げてしまう。牧羊神のややぎこちない山羊脚の走りでは,妖精になかなか追いつけな い。 Ⅱ. Musica in horto. . 2.花園の音楽. Uno9 squillo di crotali clangenti. けたたましい古代シンバルの甲高い音が. rompe in ritmo il silenzio dei roseti, . バラ園の静寂をリズミカルに打ち壊している,. mentre in fondo agli aulenti orti segreti. 秘められた芳しい花園の奥深くで. gorgheggia un flauto liquidi lamenti.. 笛が流麗な嘆きの歌を歌っている中。. La melodia con tintinnio d’argenti. 銀がカチャカチャと鳴る音を伴って,その旋律は. par che a vicenda s’attristi e s’allieti,. 交互に悲しんだり喜んだりしているように感じられ,. ora luce di tremiti inquieti,. ある時は落ち着きなく震える光となり,. or diffondendo lunghe ombre dolenti :. またある時は長く悲しい影を広げている。. Crotali arguti e canne variotocche10!. 鋭く鳴り響く古代シンバルとさまざまな音を出す葦笛よ!. una gioia di cantici inespressi. お前たちのための言葉なき賛歌の喜びは. per voi par che dai chiusi orti rampolli,. 閉ざされた花園から迸(ほとばし)り出るように思われ,. e in sommo dei rosai, che cingon molli. 奥深く秘された場所の中心で. ghirlande al cuor degl’intimi recessi,. しなやかな花輪が取り巻くバラの木々の頂きに,. s’apron le rose come molli bocche.. 柔らかな唇のごと,バラの花々,開く。. この「花園の音楽」の題名は,イタリア語とラテン語の混交,あるいはラテン語のみによってできている。 horto の意味は,ある部分で現代イタリア語の orto(菜園,野菜畑)に相当するが,horto は本来,ラテン 語の hortus(主格)の奪格であり,in horto で「菜園の中で」「庭園の中で」の意となる。ダンヌンツィオ の詩の題「閉ざされし庭 Hortus conclusus」のように,ラテン語の hortus は「菜園」に限らず, 一般的な「庭 園」をも意味する言葉であるので,ここでは内容から考えて,敢えて「花園」と訳出した。また,詩の中に もある「閉ざされた花園 chiusi orti」はラテン語では hortus conclusus ということになり,また別のパラ ダイムが広がってくる。 「閉ざされた園 Hortus conclusus」 (新共同訳)は『旧約聖書』の「雅歌・第4章・第12節」に見られる詩 句であり,本来は古代イスラエルのソロモン王が,自らの純潔な花嫁のメタファーとして用いた言葉であっ た。しかし,このイメージは程なく「聖母マリアの処女性」のメタファーと読み替えられ, 「雅歌」の同章・ 同節に続く「封じられた泉 fons signatus」や同章・第15節の「園の泉は命の水を汲むところfons hortorum. 102.
(8) レスピーギ歌曲の深層研究 ―《森の神々》の考察1 ―. puteus aquarum viventium」の「命の水」は「マリアの清らかさとともに,イエスによる贖罪を予告す 11 と理解されるようになった。かくして,「〈Hortus Conclusus 聖母の秘密の園〉は,ひとつの独立した る」 12 いったという。 図像伝統となって」. キリスト教国イタリアの詩人であり画家であるルビーノが, 「雅歌」の詩文や中世以来の「閉ざされた園」 の伝統図像を知らないはずはなかろうという推測のもと,「花園の音楽」や続く「アイグレ」「水」を読んで いくと,なるほど, 「雅歌」の変奏が聞こえてくるようである。この「花園の音楽」に限っていえば,第3 連の「閉ざされた花園から迸り出るように思われ」はやや唐突な感じがするのだが,これも「雅歌」の第4 章・第16節「北風よ,目覚めよ。/南風よ,吹け。/わたしの園を吹き抜けて/香りを振りまいておくれ。/恋 しい人がこの園をわがものとして/このみごとな実を食べてくださるように。Surge, aquilo, et veni, auster; perfla hortum meum, et fluant aromata illius.」 (ソロモンの花嫁の応答)に着想を得ているように思われる。 ただし,その五感を刺激するものは,ヘブライズムから発するキリスト教的な聖なる世界観からヘレニズム 的な古代神話の世界観にすり替えられていることに注目せねばならない。 13 から刺激を受けて詩を綴っている気配も感じられる。古来パー また, 「 〈五感の寓意〉と呼ばれる図像伝統」. ンの持ち物とされる「古代シンバル」と「葦笛」は聴覚を,「バラ」は視覚と嗅覚を,「震える光」と「長く 悲しい影」は視覚を刺激するものであろう。では,触覚や味覚を示すものはないだろうか。拙訳では「しな やかな花輪」としたが,第4連にある「しなやかな molli」は「柔らかい」という意味もあり,触覚の形容 詞でもある。また,直接的に飲食物の味を示すものはどこにもないが,拙訳では「唇」とした第4連の bocche は「口」の複数形であり, 「味覚の寓意」とはいえまいか。そして,「柔らかな唇 molli bocche」は 触覚と味覚の寓意を示すものではなかったか。 古代ギリシャ語の辞書編纂者アレクサンドリアのへシュキウス Hσύχιος ὁ Ἀλεξανδρεύς(5世紀ごろ) は,Νύμφη(妖精)の意味の一つに「バラのつぼみ」を挙げていたという情報もあるが14,唯一現存する傷 みの激しい15世紀の手書き写本は,神父たちによる改竄が度々あったらしい上に,ルビーノ自身がこの記事 を知っていたかどうかも定かではない。しかし,もし,ルビーノが知っていたとすると,この「花園の音楽」 はパーンの楽器(聴覚)と,口のごとく開くバラのつぼみ(視覚・嗅覚)によって,牧羊神たちと妖精たち の「ディオニュソス的な宴」を描いているように思われる。 いずれにせよ,図像学の伝統からすれば,「バラ」は時に聖母マリアの「聖なる愛」「精神的な愛」を,ま た時にアプロディテ(ウェヌス)の「俗なる愛」 「肉欲的な愛」を象徴してきたことは事実であり,当然ルビー ノも知っていたはずである。 「花園の音楽」は,聖母マリアが存在する遥か以前の,古代ギリシャ・ローマ 神話の世界を詠っているので,このバラは「肉欲的な愛」の象徴である。 蛇足ではないと思うのだが,牧羊神の持ち物とされる古代シンバル Crotaliは,イタリア語では「ガラガ ラヘビ」を指す言葉でもある。キリスト教世界にあっては,エヴァに知恵の実を食すよう勧めた蛇は悪徳の 象徴として扱われてきた。この「花園の音楽」には,バラ園の中をガラガラヘビが威嚇音を発しながらのさ ばり歩くイメージ,即ち「悪の花園」を「悪徳の権化」が支配するイメージを連想させるサブリミナル効果 がある。とは言うものの,この「悪」はキリスト教会におけるものであって, 『森の神々』の世界にあっては, 「悪」と断じるのは憚られよう。. 103.
(9) 鴨 川 太 郎. Ⅲ. Egle.. 3.アイグレ. Frondeggia il bosco d’uberi verzure,. 森が青葉を豊かに茂らせ,. volgendo i rii zaffiro e margherita :. 幾筋もの小川がサファイヤと真珠を注いでいる。. per gli archi verdi un[sic] anima romita. 孤独な魂が緑のアーチをくぐって. cinge pallidi fuochi a ridde oscure.. 青白い炎と一緒にほの暗くぐるぐる回っている。. E in te ristretta con le mani pure. 生命の清らかな泉のごとく汚れなき手によって. come le pure fonti della vita,. お前自身の中に閉じ込められ,. di sole e d’ombre mobili vestita. 陽光と移ろいやすい翳りを身にまとって. tu danzi, Egle, con languide misure.. アイグレよ,お前は切なげなリズムで踊る。. E a te candida e bionda tra le ninfe,. 妖精たちの中でも白い肌と金色の髪で際立つお前のために. d’ilari ambagi descrivendo il verde,. 木々の緑が陽気な曲がりくねった道を描き出し,. sotto i segreti ombracoli del verde,. その秘められた緑の葉蔭で,. ove la più inquieta ombra s’attrista,. 一番落ち着かない魂が悲しむそこで,. perle squillanti e liquido ametista. 清流の声にならざる喜びが. volge la gioia roca delle linfe.. 鮮やかな真珠と紫水晶(アメジスト)の液体を注ぐ。. ギリシャ神話には「輝く女(神) 」 「明るい女(神)」を意味するアイグレという名が散見される。この詩 のアイグレに相当すると思われる妖精または女神だけでも次の3柱はあるように思われる。 ① ウェルギリウスの『牧歌』第6歌・第20節に登場する妖精アイグレは,主神ゼウスを父に持ち,水辺 15 この叙述に着想を得たのが,上記「アイグレ」 の妖精ナイアスたちの中でも最も美しいとされた。. 第3連・第1詩行ではないか。パウサニアスの『ギリシャ案内記』第9巻には,アイグレが太陽神ヘ 16 ボッティチェッ リオスとの間に「美」と「優雅」を司る女神カリスたちを生んだと記されている。. リの〈春〉には画面左側でカリスの3美神が円舞する。 ② ヒュギーヌスの『神話集』によれば,太陽神ヘリオスとクリュメネとの間に生まれたヘリアデス(「太 17 オウィディウスの『変身物語』では,へリアデスの 陽の娘たち」の意)の1人にアイグレがいる。. 兄弟であるパエトンが,父神(ここでは太陽神と同一視されたアポロ―ン)の「太陽の二輪馬車」を 上手く御せず, (ローマ神話の)主神ユピテルの雷霆によって地上に叩き落され死に至る。この時, アイグレたちへリアデスは悲嘆のあまりポプラの樹に変身し,流される涙は琥珀となって川に滴り落 18 実際に,琥珀は樹液(ポプラの涙)の中などに含まれるテルペンという物質の化石で ちたという。. あるが,上記「アイグレ」の第4連・第1詩行は,パエトンの死を悼みポプラになったアイグレの魂 を詠っているように思われる。また,この詩の最終行にある「喜び gioia」は「宝石」の意味もあり, 最後に置かれた言葉「清流 linfe」が「妖精たち ninfe」と1文字違いで酷似していることはさておい て,linfe には「樹液」という意味があることも記しておきたい。. 104.
(10) レスピーギ歌曲の深層研究 ―《森の神々》の考察1 ―. ③ ヘシオドスの『神統記』は,夜の女神ニュクスが独りで産んだとされる娘たち,ヘスペリデス(「黄 19 ヘスペリデスの出自はさまざまに 昏の娘たち」の意)の中にアイグレがいることを述べているが,. 叙述され,偽アポロドロスの『ビブリオテケ』では,世界の西の果てで蒼穹を背負わされているアト ラスが,ヘスペリデスの父であるという。それゆえ,ヘスペリデスは,父のそばにある「ヘスペリデ 20 上記「アイグレ」 スの園」にいて,ヘラの黄金の林檎の木を百頭の蛇ラドンとともに守っている。. の第2連・第3詩行は, 「黄昏の娘たち」の1人でありながら,「輝く女」「明るい女」の名を持つア イグレについて言及しているようである。 これまでの考察で,ルビーノの「アイグレ」は,現代にまで伝えられている神話の叙述の中で,それぞれ 別のものとして語られている同名の妖精または女神のイメージを,まぜこぜに描いていることがわかる。 また,この詩は小川の流れが非常に美しく映像化されている。画家でもあるルビーノの面目躍如たる仕業 であろう。しかしここでは, 「サファイヤ」 「真珠」「紫水晶」などの宝石類が,ただ単に思いつくまま並べ られていると考えるべきではない。色彩や光沢,あるいはその透明度の共通性を利用して,宝石類を比喩と して詩作に用いることはよくあることだが,同時代では例えば,ダンヌンツィオの『新しき歌 Canto novo』 (1882)の第3巻・第8歌の中に以下のような一節がある。 La luna nova ne ’l tenero ciel d’ametista. son talamo i colli felici che tendono a ’l mare,. pende su Montecorno, come una falce d’oro.. vitiferi colli, grati a l’eterno sole;. La Dea s’addorme in un molle vapore azzurrino. tede li astri arridenti qua e là pe ’l profondo. che da le membra immani par salïente; a lei. zaffiro……… . 〔下線は引用者〕. 『新しき歌』はカルドゥッチが提唱した「懐古韻律 metrica barbara」をダンヌンツィオがいち早く取り 入れた詩集である。まだ10代であった詩人が,Elda Zucconi とアブルッツォ州の海辺で過ごした愛の思い 出から紡ぎ出したこの詩集は,懐古韻律を用いながらも,恋に陥った若者の熱情的なエネルギーとインスピ レーションに満ちている。 上記のダンヌンツィオの一節に取り込まれた宝石(「紫水晶 ametista」「サファイヤ zaffiro」)は,いずれ も夕方から宵のうちにかけての空の色合いを形容するために用いられている。 詩の大意は, 「アメジストの色をした優しい空の中,黄金の鎌のように三日月がコルノ山〔Corno Grande〕 に懸かっている。その巨大な山から立ち昇るように思われる穏やかな水色の靄の中で,女神〔三日月〕は眠っ ている。彼女にとって,海に向かって広がる幸いなる丘陵は新婚の床。葡萄畑の広がる丘陵は永遠の太陽に 感謝を捧げている。深いサファイヤ〔の色をした夜空〕のそこここには松明のごとく微笑む星々……」であ る。 一方,ルビーノの詩「アイグレ」では,小川に流れるもの,即ち「水」の形容として宝石が並ぶ。第1連・ 第2詩行にある margherita は,花占いに用いる「マーガレット」や「フランス菊」のことでもあり,そう 理解すれば,図3のJ.E.ミレイの〈オフィーリア〉(1851~1852)のように,水に浮かぶ花々のイメージが想 起されるが,ここでは,第4連・第2詩行にある perle の言い替えとして,ギリシャ語起源の古語の意味 ( 「真珠」 )であると解釈した。. 105.
(11) 鴨 川 太 郎. (図3)J.E.ミレイ〈オフィーリア〉. 青い水の色合いや透明感を比喩する「サファイヤ」と「紫水晶」。「真珠」のつややかな白は水の飛沫や泡 のイメージであろうか。また, 「サファイヤ zaffiro」の音韻映像は,春をもたらす生命力の象徴「西風,西 風の神ゼフュロス zeffiro」を連想させる。紫水晶(アメジスト)は元来,ギリシャ語の ἀμέϑυστος であり, 「酩酊状態」の反対語である。それゆえ,人間を酔態に陥らせない効用があると考えられてきた。そして, このことが後代,酒神ディオニュソスと妖精アメティストの物語を生むことになる。ルネサンス期フランス. の詩人 R.ベロー(1528-1577)による『アメティスト,またはバキュス〔バッコス〕とアメティストの愛 L’Amethyste, ou les Amours de Bacchus et d’Amethyste』がその祖型であろうと思われる。 さまざまな変奏はあるものの,概略は以下のようである。 月と狩猟と貞節の女神ディアーナ(アルテミス)に付き従う妖精のアメティストは,バッコス(ディオ ニュソス)に惚れこまれたが,うるさく付きまとわれるのを疎んじたためにバッコスの怒りに触れ,アメ ティストはバッコスが遣わした猛獣に襲われそうになる。襲われる直前にディアーナがアメティストを白 い石(あるいは無色の水晶)に変え彼女を守ったが,それを見たバッコスが自らの非道を悔い,葡萄酒を 21 石に注ぐと石は紫水晶(アメティスト,アメジスト)に変容したという。. この物語は現存する古代ギリシャの文献には載っておらず,ルネサンス期以降の創作と思われるが,ルビー ノも当然知っていたと考えるのは妥当であろう。つまり,「紫水晶」は単に色彩や透明感の比喩としてのみ 機能しているのではなく,ディオニュソス(葡萄酒)やアルテミス(月),あるいは「痴情の果ての残虐行為」 などのイメージまで喚起する記号として機能している。 では, 「真珠」は何を象徴するのか。H.ビーデルマンの『象徴事典 Enciclopedia dei simboli』には,「古 代ギリシャにおいて真珠は海の泡から生まれたアフロディテの象徴であった」22とか,S.ゴロヴィン(1930~ 2006)の著述を引用し,「東欧の宝石商にはよく知られた格言に曰く,『我々が信頼する真珠は,我々に白銀 の月の涙を得させてくれるが,それは喜びの涙である。』」23といった記述がみられる。また,例えば,T.タッ ソ(1544-1595)の『エルサレム解放 La Gerusalemme liberata』第6歌・第103連にも「昇りゆく月は既に. 106.
(12) レスピーギ歌曲の深層研究 ―《森の神々》の考察1 ―. 輝かしい光と冴え冴えとした真珠の氷をまき散らしていた。e già spargea rai luminosi e gelo / di vive perle la sorgente luna.」という,月の光のメタファーとして真珠が用いられている。 ヨーロッパ世界において,あるいは全世界的に見ても,真珠のイメージは「水」や「月」,あるいはアフ ロディテに代表される「女性的なるもの」と結びつきやすいようである。そう考えると,ルビーノが「アイ グレ」の中の小川に「真珠」をちりばめた意味が見えてこよう。真珠はまさに, 「水」であり, 「泡」であり, そして, 「月」との関連で,妖精アイグレが夜の女神ニュクスの娘であったことを想起させるのである。 Ⅳ. Acqua.. 4.水. Acqua, e tu ancora sul tuo flauto lene. 水よ,再びお前の柔らかな笛の上で,. intonami un tuo canto variolungo,. その音たちがキノコの香りや. di cui le note abbian l’odor del fungo,. コケと細いホウライシダの香りを放つ. del musco e dell’esiguo capelvenere,. 変化に富んだお前の歌を私に歌い始めてくれないか, そうして,全ての細い水脈を通って. sì che per tutte le sottili vene, onde irrighi la fresca solitudine, 24. 冷んやりとした孤独な場所を潤し,. il tuo riscintillio rida e subludii. 穏やかな音楽で宝石のごと輝かんばかりに. al gemmar delle musiche serene.. お前のきらめきが再び微笑み,流れ出さんことを。. Acqua, e, lungh’essi i calami volubili. 水よ,そして,ゆらゆら揺れる葦に沿って. movendo in gioco le cerulee dita,. 淡い空色の指をもてあそぶように動かしながら,. avvicenda più lunghe ombre alle luci,. より長い影と光を交錯させよ,. tu che con modi labili deduci. 思いに集中している私の額や草原の生活の上に. sulla mia fronte intenta e sulla vita. 儚げな物腰で. del verde fuggitive ombre di nubi.. 移ろいやすい雲の影となるお前よ。. 「水」にまつわる神々や妖精はギリシャ・ローマ神話において多数いるものの,筆者の不勉強のゆえ,目 下,水そのものの化身としての神や妖精が見当たらない。一般に,水そのものに生命を吹き込んだのは,ル ネサンス期スイスの医師・錬金術師パラケルスス Paracelsus(1493-1541)であったとされる。パラケルス スはその著書『妖精の書 Liber de Nymphis, Sylphis, Pygmaeis et Salamandris et de caeteris Spiritibus』 (1566)で,古代ギリシャからあった「四大元素」(水・風・土・火)の概念に,それぞれを司る精霊があ るとして名づけをしている。「水」の精霊はラテン語で「ニンフィス Nymphis」または「ウンディーナ Undina」と命名された。ニンフィスは複数形だが,一般的な「妖精」を示す言葉と同じである。ウンディー ナは「波 unda」から派生させたもので,現代イタリア語では「オンディーナ Ondina」 ,フランス語では「オ ンディーヌ Ondine」と呼ばれ,この名にちなんだ文学・芸術作品は枚挙にいとまがない。 また,パラケルススの呼び名ニンフィスから類推すると,ルビーノの詩の題名(「水」)は,ナイアデなど も含めた水にまつわる妖精をすべて包含するようでもある。 ビーデルマンの『象徴事典』によれば,水は「あらゆる生命体の根源であると同時に,溶解や溺死をもた 「生命を与え肥沃をもたらす面と,沈没や滅亡を暗示する面があるため,基本的な らす基本要素」25であり,. 107.
(13) 鴨 川 太 郎. 象意としては両義的である」。26 そして水は,「しばしば原初的な混沌と関連付けられて地下を流れるもので 27 あり,逆に,雨の形状で天から降るものとして,活気をもたらすものや繁栄の前兆と関連付けられる」。. 事実,ウンディーナは諸刃の剣のような存在である。フーケー Friedrich Fouqué(1777-1843)の中編小 説『ウンディーネ Undine』 (1811)が,ウンディーナを題材とするその後の芸術作品の直接的な祖型であ ることはよく知られているが,『ウンディーネ』の中に見られるいくつかの「精霊界の掟」が,「諸刃の剣」 となっている。 『ウンディーネ』の邦訳者,柴田治三郎の解説によれば,水精(ウンディーナ)の宿命は以 下の通りである。 ……水精は人間の女のような姿をしているが,魂がない。人間の男に愛されてその妻になると,魂をもつ にいたる。夫はその妻を水辺または水上で罵ってはいけない。その禁を犯すと,妻は永久に水中に帰って しまう。しかし死別ではないから,夫は他の女を娶ってはならない。もし他の女を娶るならば,水精自身 が夫の生命を奪いに現れることになっている。……28 即ち,ウンディーナは男性に愛や喜びを与えるものでありながら,その男性がひとたび禁を犯せば,男性 に深い喪失感や,場合によっては死を与える恐ろしい精霊であり,この二面性は前掲の『象徴事典』に見た 「水」の象意の二面性と重なる。 以上のような「水」や「水の精」に関する予備知識を踏まえて,ルビーノの詩を読み込んでみよう。 第1連にある「柔らかな笛」は何を示しているのだろうか。flauto には「古い時代に運河などを行き交っ た3本マスト(帆柱)の輸送船」という意味もあるが,詩は「お前の歌を私に歌い始めてくれないか」と続 くので, やはりここでは楽器の「笛」が妥当と思われる。水源から水が滾々と湧き出すイメージであろうか。 既に述べたとおり29,ルビーノが詩作した時にはドビュッシーの《牧神の午後への前奏曲》は広く知られて おり,フルートの中音域や低音域を多用する画期的な作曲技法によって,曖昧模糊とした穏やかな気怠さの ようなものが表現可能となっていた。そうした響きはまた,地の底から湧き出る水のイメージと重なったに 違いない。水が歌い出す(湧いて流れ出す)と,陰湿な場所に生息する植物(キノコ・コケ・シダ)が,思 い思いにそれぞれの香りを強く発するというのである。コケ musco(muschio)は「麝香」の意味もある言 葉であり,ホウライシダ capelvenere は「ウェヌス(アフロディテ)の毛髪」という意味のネーミングで, 「みるからにやさしく涼しげな」30 様子から,観葉植物にもされる。 第2連・第3詩行末にある subludii は恐らく subludiare なる動詞の接続法現在3人称単数の形であるは ずだが,筆者はこの語をイタリア語の辞書の中に見つけられなかったので,英訳・独訳・仏訳を参照した。 第3連で水辺の葦をゆらゆら揺らして,葦の影ができる位置も揺らす(結果として影と光を交錯させる) 水の色は,晴れた空の色を表す ceruleo(明るい青色)である。源泉から湧き出した水は,コケやシダの生 い茂る陰湿な場所を通って,晴れ渡った青空の色を映すところまで流れてきたことが分かる。 そして,第4連で水は蒸発し雲となって,下界の「私」や「草原の生活」を見下ろすことになる。 Ⅴ. Crepuscolo.. 5.黄 昏. Nell’orto abbandonato ora l’edace. 今しも廃園の中では,貪欲な苔と. muschio contende all’ellere i recessi,. 西洋木蔦(アイビー )が奥まった場所を獲得せんと争い,. e tra il coro snelletto dei cipressi. 優美な糸杉の木立の間では,. s’addorme in grembo dell’antica pace. 古えの平安の奥深く,牧羊神パーンが眠っている。. 108.
(14) レスピーギ歌曲の深層研究 ―《森の神々》の考察1 ―. Pan. Sul vasto marmoreo torace,. 絡み合うヒルガオが花々で飾る. che i convolvoli infiorano d’amplessi,. 大理石の広い胸の上に,. un tempo forse con canti sommessi. 昔,恐らく,低く抑えられた歌声に誘われて,. piegò una ninfa il bel torso procace.. 一人のニンフが美しくも挑発的な胴体をもたせかけた。. Deità della terra, forza lieta!. 大地の神よ,幸いなる力よ!. troppo pensiero è nella tua vecchiezza :. 年老いたお前の中には,深い思索があり過ぎて,. per sempre inaridita è la tua fonte.. それで,お前の泉は永遠に枯れてしまった。. Muore il giorno, e per l’alta ombra inquieta 太陽が没し,不穏な長い影ゆえに trema e s’attrista un canto d’allegrezza :. 喜びの歌は,震え,悲嘆にくれる,. lunghe ombre azzurre scendono dal monte. 山から青々とした長い影が降りてくるのだから。 この詩は,正しく19世紀末のキーワード「神々の黄昏」を詠ったものであろう。ヴァグナーが北欧神話の 神々の壮麗な宮殿ヴァルハラを炎上させる楽劇を構想し,ニーチェが高いアルプスの山から下りてくるツァ ラトゥストラに「神は死んだ」と言わしめた時代である。ルビーノの「黄昏」は,古代ローマの「森の神々」 にもたらされた。 第1連で, パーンに代表される牧羊神の死(あるいは活動の終息)が語られる。多産や豊穣の象徴でもあっ た牧羊神たちは,森だけでなく農耕・牧畜の守護神でもあった。牧羊神が活動しないために,耕されるべき 菜園は今や荒れ果て,コケやツタがはびこる場所となってしまった。パーンの眠り(あるいは死)を見守る のは糸杉である。現在では「お墓の木」としてのイメージが強いが,古代の地中海沿岸地域において,糸杉 はクロノス(サトゥルヌス)などの農耕神の象徴として,あるいは葉の茂り方が炎のさまに似ていることか ら太陽神ヘリオス(アポローン)や,アフロディテ,アルテミスなど美しい女神たちの象徴としても機能し 31 32 また糸杉は,「常緑樹で木材としての堅牢さから長寿の象徴でもある」。 ていた。. 第2連では,もはやヒルガオが絡みつく大理石の胸像としてしか名残をとどめない古代神話の神(牧羊神 であろうか)と,美しいニンフとの太古の肉体的な交わりが仄めかされる。「絡み合う d’amplessi」は「性交」 も意味する言葉である。 第3連の「大地の神 Deità della terra」は「森の神々 Deità silvane」の代替呼称であろう。詩行の音節数 を整えるためとも思われるが,オリュンポスの12神など,血統のよい神々は「天上の神」であり,それに対 して牧羊神ら森の神々は「地上の神」あるいは「下界の神」なのである。 さて,体の赴くまま奔放に活動していたはずの森の神々は,一体何について考えすぎたのだろうか。「泉」 33 「泉の枯渇」は「生命力の衰微」の暗喩でもあるが,当然そこに住まう も永遠に枯れてしまったという。. 妖精たちも死滅することになる。古代人が無頓着に発散していたであろう原始的なエネルギーの喪失。 第4連は,その喪失感がフロイトの言うような悲哀の過程に入っていく。「喜びの歌は,震え,悲嘆にく れる」 。 (フロイトが『喪とメランコリー Trauer und Melancholie』を発表したのは《森の神々》が作曲さ れたのと同年の1917年であった。) そして最終詩行で,恐らくは第3連の神々に深い思索をさせた原因が述べられる。それは「山の青く長い 影」である。青といっても azzurro は明るく鮮やかな青であって,日没前後に忍び寄る長い影の形容とし ては些か違和感がある。では「山」とは何か。 『トレッカーニ』によれば, 「山 monte」は,「サクリ・モンティ(聖なる山)Sacri monti」のことも指. 109.
(15) 鴨 川 太 郎. すとの記載がある。「丘や山の斜面にある特別な聖域」をロンバルディア地方では「聖なる山」と呼ぶ。「聖 なる山」では「行程に沿って順番に様々な礼拝堂が建てられていて,それぞれがイエスの生涯のエピソード のために奉献されている」。特に受難に関するエピソード(「十字架の道行き」)が疑似体験できるように, 「サ 34 クリ・モンティ」は「聖地の象徴的再現」がされていて,中世の修行のようなことができる場所である。. 即ち,森の神々を考え込ませ,悲嘆にくれさせ,死に至らしめたものとは,キリスト教会なのではないか。 聖母マリアがまとうマントの色としての「青 azzurro」は,イコノロジーにおいてキリスト教の「信仰」を 35 意味するものである。. 古代ラテン民族が信奉していた「森の神々」は,ある意味で作者ルビーノの祖先のエネルギーそのもので あったと言えまいか。 「喜びの歌」であったそのエネルギーが,キリスト教国イタリアにおいて,まさにキ リスト教の力によって鎮められてしまったことへの哀惜の念を詠じているかのようである。. おわりに 本研究はレスピーギ歌曲の深層構造を見極めるために行われている。本稿で見てきたとおり,今回の研究 対象曲集である《森の神々》に関しては,詩の内容を考察するだけでかなりの紙面が割かれる結果となった。 字数の制約上,音楽の分析は次に譲らざるを得ず, 《森の神々》の深層構造を完全に浮き彫りにするには至っ ていない。歌曲研究とは, 「詩」と「音楽」それぞれの分析結果をもとにはするものの,それらが融合され た時に如何なる様相を呈するのかを探ることと考えている。 解釈は一様ではないはずだが,どれだけ掘り下げて考えられたか,そして掘り下げた先に大水脈や大鉱脈 を発見できたかが研究の価値である。それは演奏者にとってはもちろん,鑑賞者にも,あるいは創作者にとっ ても大きなヒントを与えてくれるはずである。 古代ギリシャ・ローマ神話の中でも特に原始的で奔放なふるまいをする神的な存在について, 『森の神々』 は重層的に物語っていることを小稿は読み取った。古典古代の叙述に端を発し,その後の西欧文化の潮流の 中で,脈々と読み替えられ,新しく作り出されてきた様々な芸術作品のイメージが,19世紀末の思潮,とり わけ退廃主義や耽美主義,あるいは象徴主義と名状される志向の中に結実したのが『森の神々』である。 また,ラテン民族の原初的あるいは根源的なエネルギーそのものであったともいえる「森の神々」が,キ リスト教会の力によって抑え込まれ死に追いやられてしまったことを,作者ルビーノは嘆いているのではな いかという仮説に至ったが,このことについては,音楽の構造を探る次なる拙論においても,引き続き検討 することとする。. 注 記 1. 1945年生まれの音楽学者,イタリア・プーリア州のアスコリ・サティリアーノ出身,ミラノ在住。 2. 「P○○○」はレスピーギ作品の作品番号を示す。ペダッラ番号 3. ポエメットはピアノ単独ではなく,複数の楽器によって伴奏される歌曲を指す。. . 鴨川太郎「ピエートロ=チマーラ作曲《5つのリーリカ 第2集》 (1915年)の一考察――イタリア歌曲史におけるピエート ロ=チマーラの位置――」 『昭和音楽大学研究紀要』第27号(2012年) ,16頁参照。 4. 同前,14-17頁参照。 5. http://www.treccani.it/enciclopedia/antonio-augusto-rubino_%28Dizionario-Biografico%29/,2018年3月26日閲覧。 6. 同前。 7. 対訳をするに当たり,以下のCDのライナーノートや楽譜に付された英訳・独訳・仏訳を参考にした。. 110. .
(16) レスピーギ歌曲の深層研究 ―《森の神々》の考察1 ―. Ottorino Respighi, Deità silvane, Gemma Bertagnolli(Soprano), Fondazione Giorgio Cini, STR 33829 Art nouveau, Teodora Gheorghiu(Soprano), Harmonia mundi, AP054. . . Ottorino Respighi, Liriche, Art songs, 2007, Ricordi, NR 139627 8. 原書にナンバリングはされていないが,本稿では便宜上ローマ数字を付すものとする。また,原詩の表題にピリオドを 付したのは,原典 Versi e disegni に倣ったものである。 9. 原典である Versi e disegni では Un となっているが,これは文法的にも韻律的にも明らかな間違いであり,誤植と思わ れる。レスピーギの楽譜上でも Uno とされ,2音節分の音符が与えられている。 10. variotoccheは辞書で見つけることのできない言葉であったが,toccheをtoccareの過去分詞の古形toccoとみれば, 「演奏 された」という形容詞として考えられる。varioは「様々に」の意で副詞的に合成されたものとすれば,canneを形容する言 葉であるので,語尾が変化してvariotoccheとなる。 11. 池上英洋「花園に咲く薔薇の香り:園芸の図像学⑴」 『恵泉女学園大学園芸文化研究所報告:園芸文化 3』 (2006年), 7頁。 12. 同前,8頁。 13. 同前,12頁。 14. Schmidt, Moritz, ed. Hesychii Alexandrini Lexicon, Sumptibus Hermanni Dufftii (Libraria Maukiana) , 1867, p.577. 15. ウェルギリウス作,河津千代訳『牧歌・農耕詩』未来社,1981年,116頁-117頁。 16. パウサニアス作,飯尾都人訳『ギリシア記』龍渓書舎,1991年,646頁。 17. ヒュギーヌス作,松田 治・青山照男 共訳『ギリシャ神話集』講談社,2005年,218頁。 18. オウィディウス作,中村善哉訳『変身物語(上) 』岩波書店,1981年,51頁-68頁。 19. ヘシオドス作,廣川洋一訳『神統記』岩波書店,1984年,32-33頁。 20. アポロドーロス作,高津春繁訳『ギリシア神話』岩波書店,1994年,99-102頁。 21. Belleau, Remy, Les amours et nouveaux eschanges des pierres précieuses, Paris, France : Mamert Patisson, 1576, pp.4-6. 22. Biedermann, Hans, Enciclopedia dei simboli, Garzanti, 1991, p.389. 23. Ibid. 24. この subludii も辞書では見つけられない語であったが,注記6.に挙げた3つの文献に記載されたripples(英訳) , fasse onduler(仏訳),coule(仏訳),plätschert(独訳)から邦訳を試みた。 25. Biedermann, op.cit., p.4 26. Ibid. 27. Ibid. 28. フーケー作,柴田治三郎訳『水妖記(ウンディーネ) 』岩波書店,1978年,154頁。 29. 本稿4頁 30. 『ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典』https://kotobank.jp/dictionary/britannica/,2018年3月26日閲覧。 31. Biedermann, op.cit., p.124. 32. Ibid. 33. フーケー作,前掲書,71頁参照。また,同書の112頁以降に描かれる情景は,まさに水の中は妖精や神的な存在の住処で あることを示しているが,同書112頁にある「岩の裂け目を奔流する小川」といった「谷間」の記述は, 『森の神々』の中の 「1.牧羊神ファウヌスたち」のイメージに多大な影響を与えているとみるべきであろう。 34. http://www.treccani.it/enciclopedia/antonio-augusto-rubino_%28Dizionario-Biografico%29/,2018年3月26日閲覧。 35. 若桑みどり『絵画を読む~イコノロジー入門~』NHK出版,2012年,54頁参照。. 本研究はJSPS科研費 JP16K02297の助成を受けたものです。 (釧路校教授). 111.
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