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宮沢賢治文学における地学的想像力(10) : 基礎編・「盛岡附近地質図」の検証 -飯岡層の扱いを中心に-

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︻ 論文 ︼

宮沢賢治文学

における

地学的想像力

基礎編

: ﹁

盛岡附近地質図

検証

飯岡層

いを

中心

本稿 は ﹁ 宮沢賢治文学 における 地学的想像力 ﹂ という テーマ の 下 に 企図 された 、 連作論文 の 一 つである 。 これま で 、 ︵ 一 ︶ ﹁ 基礎編 : 珪化木 ︵ Ⅰ ︶ 及 び 瑪瑙 ﹂ ︵ ﹁ 文学部紀要 ﹂ 文教大学文学部第 21 -2号 ︶ 、 ︵ 二 ︶ ﹁ 基礎編 : 珪化木 ︵ Ⅱ ︶ ﹂ ︵ ﹁ 言語文化 ﹂ 第 20号 、 文教大学言語文化研究所 ︶ 、 ︵ 三 ︶ ﹁ 基礎編 : ︿ まごい 淵 ﹀ と ︿ 豊沢川 の 石 ﹀ ﹂ ︵ ﹁ 注文 の 多 い 土 佐料理店 ﹂ 第 12号 、 高知大学宮沢賢 治研究会 ︶ 、 ︵ 四 ︶ ﹁ 応用編 : 楢 ノ 木大学士 と 蛋白石 、 発展編 : ジャータカ と 地学 ﹂ ︵ ﹁ 文学部紀要 ﹂ 文教大学文学部第 22 -1号 ︶ 、 ︵ 五 ︶ ﹁ 応用編 : 修羅意識 と 中生代白亜紀 ﹂ ︵ ﹁ 文学部紀要 ﹂ 文教大学文 学部第 22 -2号 ︶ 、 ︵ 六 ︶ ﹁ 応用編 : 第三紀泥岩 と 影 ︱ 朔太郎的不安 との 類似性 ︱ ﹂ ︵ ﹁ 文教大学国文 ﹂ 第 38号 ︶ 、 ︵ 七 ︶ ﹁ 基礎編 : ﹃ 地質調査 ルートマップ ︺ ﹄ の 検証 ︵ その 1 ︶ ︱ ﹃ 五間 ヶ 森 ﹄ とその 周辺 ︱ ﹂ ︵ ﹁ 文学部紀要 ﹂ 文教大学 文学部第 23 -1号 ︶ 、 ︵ 八 ︶ ﹁ 応用編 : ﹃ 岩頸 ﹄ 意識 について ︱ ︿ 現実 ﹀ と ︿ 心象 ﹀ ︱ ﹂ ︵ ﹁ 文学部紀要 ﹂ 文教 大学文学 部第 23 -2号 ︶ 、 ︵ 九 ︶ ﹁ 基礎編 : 安山集塊岩 ︱ 花巻農学校 での 土性調査実習 にからめて ︱ ﹂ ︵ ﹁ 宮沢賢治研究 annual ﹂ № 20︶ を 発表 している 。 本稿 では 、 盛岡高等農林二年 の 実習 で 行 った 盛岡付近 の 地質調査 に 焦点 をあてる 。 賢治 における 地質学 の 実際 を 追調査 し 、 地質学徒 としての 賢治 の 姿 を 確認 する 作業 を 通 じ 、 後年展開 される 賢治 の 文学活動 に 、 新 たな 視点 を 見 出 そうとする 試 みである 。 キーワー ド : 飯岡層 、 盛岡附近地質図 、 石英安山岩 、 石 ヶ 森 、 燧堀山

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一 ﹁ 盛岡附近地質調査 ﹂ ﹃ 新校本宮沢賢治全集 ﹄ ︵ 第十 六巻下 ︶ ﹁ 年譜 ﹂ の 大正 五年 の 項 に 、 次 のような 記述 が 見 られる 。 七月八日 ︵ 土 ︶ 農一 ・ 二 の 二年生 、 関教授引率 により 盛岡付近地質見学 。 この 日以降二年生一 二名 が 三名宛 、 四班 に 分 かれ 、 地質調査 を 行 う 。 賢治 は 細山田良行 、 小菅健吉 と 組 んで B 班 を 編 成 、 盛岡西北部 、 厨川村 、 滝沢村方面 を 担当 し た 。 この 調査結果 は 、 盛岡高等農林学校 ﹁ 校友会報 ﹂ 第 33 号 ︵ 大 6 ・ 3 ︶ に 、 ﹁ 盛岡附近地質調査報文 ﹂ と 題 され ﹁ 農学科第二部第二年生 ﹂ の 共同執筆 として 掲載 され た 。 ﹁ 盛岡附近地質図 ﹂ も 付 されている 。 亀井茂 ︵ ﹁ 宮沢賢治 と 盛岡高等農 林学校断片 ︵ 八 ︶ ︱ 賢治 らの 盛岡附近地質調査 の 動機 と 経過 ﹂ 、 ﹁ 早池峰 ﹂ 第 25号 、 平 11・ 3 ︶ は 、 関教授 の 在任中 、 盛岡附近地 質調査 を 課 せられたのが 賢治 らの クラス のみであった ことを 指摘 し 、 地質調査 の 実施 には 賢治 の 係 わりが 大 きかったのではないかと 推測 し 実証 を 試 みている 。 論 中 、 亀井 は 推測 の 根拠 の 一 つとして 、 関教授 が ﹁ 校友 会報 ﹂ 第 28号 、 大 4 ・ 9 ︶ に 執筆 した ﹁ 普通岩石 の 肉 眼的識別 に 就 て ﹂ を 挙 げている 。 これは 、 Bowles 著 ﹃ T

ABLES FOR THE DETERMINATION OF COMMON

ROCKS ﹄ を 翻訳 したもので 、 賢治 らの クラス が 第一 学年 にあたる 年 の 九月 の 発表 である 。 ﹃ 新校本宮沢賢治 全集 ﹄ ︵ 第十六巻下 ︶ ﹁ 補遺 ・ 伝記資料篇 ﹂ で 確認 する と 、 ︿ 地質 ﹀ に 関 わる 科目 には ﹁ 鉱物及 び 地質 ﹂ があり 、 一年次 、 週二時間 の 配当 であった 。 二年次 、 三年次 に は ︿ 地質 ﹀ に 関 する 科目 はない 。 したがって 、 関教授 が 賢治 らの クラス で ﹁ 鉱物及 び 地質 ﹂ の 講義 をしてい る 時期 に ﹁ 普通岩石 の 肉眼的識別 に 就 て ﹂ が 発表 され たことになる 。 亀井 によれば 、 関教授 は 前書 き 部分 で ﹁ 余 は 本校卒 業生及在学生諸子 より 野外 に 於 て 使用 するに 便 なる 普 通岩石識別表 なきやとの 質 問 に 接 すること 既 に 幾回 な るを 知 らず ﹂ と 記 しており 、 野外 で 使用 できる 普通岩 石識別表 の 必要性 を 痛感 していたようである 。 さらに

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﹁ 余 は 本月 の 初 め 米人 O. Bowles の 著 したる 普通岩石 識別表 と 題 する 袖珍書 を 得 て 通読 したるに 細部 に 立 ち 入 りては 間然 すべき 点多 きも 大体 に 於 ては 実用 の 目的 に 適 へるを 認 め 之 を 述 し 取捨及補正 を 施 し 本会報登載 することとせり 夏期休業中 に 於 ける 野外 の 観察 に 対 し 多少 の 稗益 を 與 ふることあらば 幸甚 とする 所 なり ﹂ と あることから 、 ﹁ 夏期休業中 に 於 ける 野外 の 観察 ﹂ が 翻 訳 の 契機 となっていることが 理解 される 。 亀井 は 、 結 論 として 、 関教授 の ﹁ 夏期休業中 に 於 ける 野外 の 観察 ﹂ 翻訳 を 契機 に 、 賢治 が クラス の リーダー として 盛岡附 近地質調査 の 実施 を 相談 ・ 立案 し 、 関教授 に 提言 した のではないかと 述 べている 。 私 は 、 亀井論 を 根拠 ある 推定 と 肯定 する 立場 から 、 ﹁ 盛岡附近地質調査 ﹂ を 検討 する 作業 を 通 じ 、 賢治 ら の 地質学徒 としての 力量 が 見定 められるのではないか と 考 えた 。 特 に 賢治 の 場合 、 この ﹁ 盛岡附近地質調査 ﹂ が 契機 となり 、 翌年 ︵ 大正六年 ︶ の ﹁ 江刺郡地質調査 ﹂ 、 翌 々 年 ︵ 大正七年 ︶ の ﹁ 稗貫郡地質及土性調査 ﹂ へと 発展 していったと 考 えられ 、 それらの 体験 が 、 作家 ・ 宮沢賢治 の 誕生 に 欠 かすことのできない 要因 の 一 つに なっていったことは 確実 である 。 それゆえ 、 これまで 詳 しく 検証 されることのなかった ﹁ 盛岡附近地質調査 ﹂ を 本稿 で 取 り 上 げることは 、 宮沢賢治文学 の 特質 を 理 解 する 上 での 意義 ある 基礎研究 になると 思 われる 。 次 に 示 すのは ﹁ 盛岡附近地質調査 ﹂ の 結果作成 され た ﹁ 盛岡附近地質図 ﹂ ︵ 地図 1 ︶ である 。 この ﹁ 盛岡附近地質図 ﹂ は ﹁ 盛岡附近地質調査報文 ﹂ に 付 されて ﹁ 校友会報 ﹂ ︵ 第 33号 ︶ に 掲載 されたもの である 。 本稿 において 特 に 検証 しようとすることは 、 賢治 を 中心 とする B 班 が 担当 した 、 西北部 の 滝沢村付 近 から 、D 班 が 担当 した 西南部 の 飯岡村付近 にかけて の 地質 の 判断 に 関 する 事柄 である 。 亀井 によれば 、 調 査 は 必 ずしも 全員 で 実行 されたわけではないようであ る 。 夏期休業 は 七月二十一日 から 九月十日 までであ るが 、 調査 は 前記 ﹁ 年譜 ﹂ のように 大正五年七月 八日 から 始 められたらしい 。 A 班 の 塩井 によると

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﹁ その 時 、 多 くの 生徒 は 、 休暇前 には 、 少 し 調査 にいったが 、 夏休 みになると 、 調査 を 人 に 頼 んでおいて 皆 、 国 へ 帰 ってしまった 。 そ の 時 に 調査 を 任 されたのが 、 宮沢君 と 私 であ った 。 宮沢君 は クリノメーター の 使 い 方 が 上 手 で 、 よい 露頭 を 見 つけて 丁寧 に 、 そして 正 確 に 調査 された 。 ﹂ としている 。 クラス が 盛 り 上 がり 、 始 められたは ずの 調査 ではあったが 、 十二名 の クラス 中九名 が 県外出身者 であり 、 待 ちかねた 夏休 みともなると 、 結局 、 日頃 よく 歩 き 回 りこの 地域全体 をよく 知 り 、 地質学 に 一番明 るく 、 しかも 関先生 に 最 も 密接 で 、 この 調査 でも クラス の 頂点 に 立 っていたと 思 わ れる 賢治 と 、 他方 、 当時級長 であった 塩井 に 残 り のすべてが 任 されてしまったのであろう 。 おそらく 、 賢治 はこの 地質調査 の 多 くの 部分 に 関 わ っていたのではないかと 推定 される 。 特 に 、D 班 の 受 け 持 ちである 南西部 の 飯岡村付近 の 調査 は 、 賢治 も 確 実 に 関 わっていたようだ 。 現在残 されている 、 蟹沢山 ︵ 現 ・ 盛岡市飯岡 ︶ の 輝石安山岩 の 標本 は 、 賢治 が 採 取 したものだということが 判明 しているからである 。 これらのことからいえることは 、 私 が 本稿 で 検証 し ようとする 、 飯岡層 に 属 する 山 々 の 地質 や 成 り 立 ちに 関 する ﹁ 盛岡附近地質図 ﹂ の 判断 は 、 賢治 が 実際 にそ の 目 で 確 かめたものとしてよいのではないかというこ とである 。 ただ 、 賢治 が 調査 した 当時 には 、 飯岡層 と いう 呼 び 名 は 存在 していなかった 。 二 ﹁ 飯岡層 ﹂ という 新区分 飯 岡層 村井 ︵ 1960 ︶ 命名 。 模式地 は 都南村 飯岡 。 御所 ダムサイト 付近 および 北上河谷西縁 に そって 南北 に 分布 。 輝石安山岩質 の 水冷 された 溶 岩 ・ 同質火山角礫岩 からなり 、 凝灰質砂岩 ・ 泥岩 をはさむ 。 都南村湯沢 の 温泉 ボーリング でも 確認 され 、 そこでは 未命名火砕岩類 にかさなり 、 層厚 約 800 m。 ボーリング 地点 での 最下部 の 凝灰質 砂岩 ・ 泥岩 は 貝化石 Masudapecten iwasakiensis と CN 3 後期 ∼ 4 初期 の ナンノ 化石 をふくむ ︵ 大

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上 ほか 、 1988 ︶ 。 ﹃ 日本 の 地質 2 東北地方 ﹄ ︵ 日本 の 地質編集委 員会編 、 共立出版 、 198 9 ・ 8 ︶ 飯岡層 を 昭和三十五 ︵ 1960 ︶ 年 に 命名 した ﹁ 村 井 ﹂ とは 、 岩手大学工学部 の 村井貞允教授 のことで 、 岩手県内 の 地質 に 関 する 第一人者 であった 。 村井 の 命 名 した 飯岡層 は 、 現在入手 しうる 代表的 な 地質図 とい ってよい 内外地図株式会社発行 の ﹁ 北上川流域地質図 ︵ 二十万分之一 ︶ ﹂ ︵ 著作権所有者 ㈱ 長谷地質研究所 、 昭 55・ 9 ︶ にも 用 いられており 、 ﹁ Io﹂ の 記号 が 付 さ れ 、 緑色 に 彩色 されている 部分 がそれである ︵ 地図 2 ︶。 模式地 は ﹁ 都南村飯岡 ﹂ である 。 飯岡 は 、 ﹁ 盛岡附近 地質図 ﹂ の 西南 にある 紫波郡飯岡村 ︵ 現 ・ 盛岡市飯岡 ︶ のことで 、 飯岡山 や 蟹沢山 がある 。 飯岡層 の 範囲 は ﹁ 御 所 ダムサイト 付近 および 北上河谷西縁 にそって 南北 に 分布 ﹂ ということである 。 ﹁ 御所 ダムサイト 付近 ﹂ とあ るが 、 むろん 当時御所 ダム はなかった 。 東 から 盛岡市 で 北上川 に 注 ぐ 雫石川 をせき 止 めて 御所 ダム ︵ 着工 ・ 昭 42、 完成 ・ 昭 56︶ は 造 られている 。 ﹁ 北上河谷西縁 にそって 南北 に 分布 ﹂ ということだが 、 そこに 含 まれ る 山 や 川 を 挙 げるならば 、 北 は 、 岩手山 の 東山麓 にあ たる 茄子焼山 あたりからはじまり 、 沼森 、 石 ヶ 森 、 鬼 古里山 、 燧堀山 と 南下 し 、 小岩井農場 の 東側 の 山並 み を 成 す 高峰山 、 大沢坂峠 、 篠木峠 、 烏泊山 と 南下 する 。 ここで 雫石川 の 侵食 により 飯岡層 はいったん 途切 れ 、 飯岡山 、 蟹沢山 で 復活 する 。 矢巾町 あたりからは 、 帯 状 に 露出 し 南下 し 、 葛丸川 の 中流域 である 三鞍山 あた りを 含 み 南限 となる 。 飯岡層 の 特徴 は 、 ﹁ 輝石安山岩質 の 水冷 された 溶岩 ・ 同質火山角礫岩 からなり 、 凝灰質砂岩 ・ 泥岩 をはさむ ﹂ ということである 。 この 解説 にしたがうならば 、 飯岡 層 を 成 す 山 々 は 、 海底 で 噴出 した マグマ ということに なるだろう 。 ﹁ 凝灰質砂岩 ・ 泥岩 をはさむ ﹂ とは 、 噴出 物 の 海底 での 堆積 、 または 、 地上 から 泥 の 流入 による 堆積 を 意味 している 。 ここで 問題 となるのが 、 賢治 らが 作成 した ﹁ 盛岡附 近地質図 ﹂ と ﹁ 北上川流域地質図 ﹂ との 相違点 である 。 ﹁ 北上川流域地質図 ﹂ で 飯岡層 と 示 されている 箇所 を

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﹁ 盛岡附近地質図 ﹂ に 重 ねてみると 、 現在 の 飯岡層 が 、 ﹁ 盛岡附近地質図 ﹂ においては ﹁ 新火山岩石英安山岩 ﹂ 地帯 、 ﹁ 水成岩第三紀 ︵ 火山屑 ︶ ﹂ 地帯 、 ﹁ 新火山岩安山 岩 ﹂ 地帯 の 三区域 に 分割 されていると 見 て 取 ることが できる 。 ﹁ 盛岡附近地質 ﹂ を 少 し 詳 しく 見 てみよう 。 まずは ﹁ 深造岩 ﹂ ﹁ 新火山岩 ﹂ ﹁ 水成岩 ﹂ の 区別 から 始 められ ている 。 さらに 、 ﹁ 深造岩 ﹂ は 花崗岩 、 閃緑岩 、 橄欖岩 、 蛇紋岩 に 区別 される 。 これらの 岩石 は 地図 の 東側半分 に 見 られ 、 北上山地 を 形成 している 。 ﹁ 新火山岩 ﹂ は 、 石英粗面岩 、 石英安山岩 、 安山岩 の 三種 に 区別 される 。 石英粗面岩 の 小 さな 噴出 を 図幅 の 東側 に 確認 できるが 、 多 くは 図幅 の 西側 で 、 石英安山岩 も 安山岩 も 飯岡層 の 範囲内 に 含 まれる 。 ﹁ 水成岩 ﹂ は 、 地図 の 東 、 西両側 に 見 られるが 、 東側 は 古生層 のもので 、 西側 は 第三紀 の 海底火山 の 噴出 により 形成 されたと 考 えているようで ある 。 先 に 言及 した 飯岡層 に 重 なる ﹁ 三区域 ﹂ だが 、 この ような 地質系統 の 相違 は 飯岡層 においては 区別 される ことがない 。 この 相違 は どこから 生 じるのか 。 そして 賢治 らの 調査報告 は 適切 であったのか 、 否 か 。 興味深 い 点 である 。 以下 、 私 の 行 った 調査結果 を 適宜加 えながら 考察 を 進 めていく 。 三 ﹁ 盛岡附近地質調査報文 ﹂ ﹁ 盛岡附近地質調査報文 ﹂ は 、 ﹃ 新校本宮沢賢治全集 ﹄ ︵ 第十四巻 ︶ ﹁ 雑纂 ﹂ ﹁ 校異篇 ﹂ によれば 、 ﹁ 賢治 の 執筆 部分 は 明 らかでないが 、 全体的 に 賢治 の 文体 めいた 箇 所 が 散見 する ﹂ とされ 、 ﹁ 賢治 の 執筆部分 を 分離特定 す ることができないため 、 本巻 では 表題 に ︹ 共同執筆 ︺ と 付記 して 全文 を 本文 に 掲 げた ﹂ とある 。 この 調査 に おいて 、 賢治 は クラス の リ ーダー 的存在 であったこと は 確実 と 考 えられるので 、 本稿 では 、 一応 、 ﹁ 盛岡附近 地質調査報文 ﹂ での 観察結果 は 、 賢治 の 考 えとほぼ 同 じものと 仮定 しておく 。 問題 の 飯岡層 に 関 わる 地域 は 、 ﹁ 地理及地質 の 概要 ﹂ ︵ ﹁ 盛岡附近地質調査報文 ﹂ ︶ の 中 で 、 ﹁ 第三区域 ﹂ とし て 、 次 のように 記述 されている 。

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第三区域 は 図幅 の 西端 に 近 く 南走 する 一連 の 岡巒 にして 主 に 第三紀層 より 成 り 新火山岩 を 随 伴 す 、 其北端 は 石 ケ 森 ︵ 四四六米 ︶ より 起 り 燧堀 山 ︵ 四六六米 ︶ 高峰山 ︵ 四二 〇 米 ︶ 烏泊山 ︵ 三八 九米 ︶ となり 、 雫石川 を 隔 て 、 宰郷山 ︵ 三六八米 ︶ に 対峙 し 、 更 に 南走 して 図幅外 に 出 て 遠 く 南晶山 マ マ ︵ 一一三 〇 マ マ 米 ︶ 以南 に 亘 れる 小山脈 をなし 、 其雫 石川以北 に 於 ける 岡巒 の 西側 は 岩手火山 の 南部 の 麓野 にして 、 図幅以外 に 於 ける 小岩井農場 を 載 せたる 台地 をなす 。 この ﹁ 第三区域 ﹂ が 、 ちょうど 飯岡層 に 重 なってい ることが 理解 されるだろう 。 山 の 連 なりだけみれば 、 ﹁ 第三区域 ﹂ は 飯岡層 そのものといってよい 。 しかし 、 そこに ﹁ 地質系統 ﹂ という 要素 を 加 えたとき 、 ﹁ 盛岡附 近地質報文 ﹂ では 次 のように 記 されることとなり 、 飯 岡層 の ﹁ 輝石安山岩質 の 水冷 された 溶岩 ・ 同質火山角 礫岩 からなり 、 凝灰質砂岩 ・ 泥岩 をはさむ ﹂ という 解 説 では 、 説明 しきれない ﹁ 地質系統 ﹂ が 示 されている ことに 気 づくのである 。 第三区域即 ち 図幅 の 西端 を 南北 に 連走 せる 岡巒 は 主 として 第三紀層 より 成 る 、 岩石 は 概 ね 凝灰質 にして 下部 は 流紋質凝灰岩 より 成 り 、 上部 は 安山 岩質凝灰岩 よりて 代表 せらる 、 而 して 此連山 はそ の 北方 に 於 て 石英安山岩 を 伴 ひ 、 南方 に 於 ては 之 に 接 して 安山岩 の 広 き 露出 を 見 る 、 該第三紀岡巒 は 図幅 の 下部西端 に 於 て 雫石川 によりて 横断 せ らる 問題点 を 整理 すると 三点 になる 。 第一点 は 、 ﹁ 岩石 は 概 ね 凝灰質 にして 下部 は 流紋質凝灰岩 より 成 り 、 上部 は 安山岩質凝灰岩 よりて 代表 せらる ﹂ である 。 区域 と しては 、 燧堀山 、 高峰山 、 烏泊山 がそれに 当 たると 考 えられる 。 賢治 らは ﹁ 第三区域 ﹂ の 基本的地質 を ﹁ 凝 灰岩 ﹂ と 捉 えているのだ 。 それゆえ 、 ﹁ 盛岡附近地質図 ﹂ では ﹁ 水成岩 ﹂ と 分類 されているのである 。 しかし 、 通常 イメージ するような 凝灰岩 をその 地区 で 見出 すこ とはできない 。 私 の 調査 では 、 ﹁ 輝石安山岩質 の 水冷 さ

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れた 溶岩 ・ 同質火山角礫岩 ﹂ ︵ 前出 ﹃ 日本 の 地質 2 ﹄ ︶ という 説明 がそのまま 当 てはまる 地質 だと 判断 される 。 この 時点 では 、 賢治 らのいう ﹁ 水成岩 ﹂ という 地質分 類 をそのまま 受 け 止 めることに 躊躇 せざるを 得 ない 。 ただ 、 宮城一男 は 、 その 著書 ﹃ 宮沢賢治 ︱ 地学 と 文 学 のはざま ﹄ ︵ 玉川選書 、 昭 52・ 4 ︶ に ﹁ 流紋岩質凝 灰岩 ﹂ 地帯 の 写真 を 掲載 し 、 賢治 らの 調査報告 の 正 し さを 証明 しているかのようである 。 宮城 は 鬼越坂 の 峠 付近 に ﹁ 流紋岩質凝灰岩 ﹂ が 見 られるとし 、 挟 まれて 現 れる 砂岩 の 層 から 貝化石 を 採取 した とも 述 べている 。 化石 の 存在 は 、 賢治 が 弟清六氏 に 繰 り 返 し 語 っていた ことであり 、 宮城 の 調査 の 意義 を 証 している 。 しかし 、 私 は 未 だその 場所 を 突 き 止 めることができていない 。 鬼越坂峠附近 で 確認 できるのは 、 岩手山 の 火砕流 と 推 定 される 赤土 の 層 で 、 砂岩層 を 挟 む 地層 ではない 。 今 後 に 期 したいと 考 えている 。 宮城 の 調査 で 気 になる 点 がいくつかある 。 著書中 ﹁ 鬼 越山 ﹂ の 記述 が 見 られるが 、 ﹁ 鬼越山 ﹂ という 名 の 山 は 存在 しない 。 おそらくその 位置 ・ 高 さからいって ﹁ 燧 堀山 ﹂ のことであろう 。 ﹁ 燧堀山 ﹂ の 調査 は 、 加藤貞一 の 著書 ﹃ 宮沢賢治 の 地的世界 ﹄︵ 愛知出版 、 2006 ・ 11︶ でも 記 されている 。 加藤 は 、 燧堀山 の 麓 の 地層 と して ﹁ 風化 した 流紋岩質火砕岩 ﹂ の 写真 を 著書 に 載 せ ているが 、 私 は 、 この 場所 も 確認 しかねている 。 また 、 加藤 は 宮城 のいう 砂岩層 にふれておらず 、 化石 に 関 し ても 未採取 のようである 。 宮城 の 調査 に 戻 るが 、 宮城 はこの 地域 の 基本的 な 岩 石 を 流紋岩 ︵ リパライト ︶ と 判断 している 。 これはど う 考 えても 誤謬 である 。 局所的 に 流紋岩 を 見出 すこと は 不可能 ではないにしろ 、 この 付近一帯 の 山地 の 基本 的岩種 は 、 安山岩 である 。 この 山中 から 採取 される 玉 髄 は 安山岩 の 隙間 に 発達 した ものである 。 宮城 は 玉髄 を 流紋岩中 に 発達 したものと 説明 している 。 通常 、 安 山岩 と 流紋岩 を 見違 えることはあり 得 ないことなので 、 理解 に 苦 しむと 指摘 しておきたい 。 問題 の 第二点 は ﹁ 此連山 はその 北方 に 於 て 石英安山 岩 を 伴 ひ ﹂ である 。 飯岡層 の 定義 に ﹁ 石英安山岩 ﹂ の 存在 は 含 まれていない 。 賢治 らのいう ﹁ 石英安山岩 ﹂ 地帯 は 、 石 ヶ 森 に 代表 される 岩手山 の 東側山麓 に 連 な る 山 々 のことと 考 えられる 。 ﹁ 盛岡附近地質報文 ﹂ では

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﹁ 石英安山岩 ﹂ に 関 し 、 次 のように 説明 がなされてい る 。 ○ 石英安山岩 図幅 の 西北隅石 ケ 森附近 に 稍 々 広 く 現出 し 灰白 色 せ る 石基中 に 斜長石石英及疎 に 稍大 なる 黒色 の 輝石 を 散点 す 、 本岩 は 英 輝 ママ ︵ 英 ︶ 安山岩 に 属 す るものにして 頗 る 淡色鉱物 に 富 めるを 特徴 とす 。 本岩 は 往 々 頁岩 の 破片 を 含 み 恐 らくは 第三紀層 をなせる 流紋質凝灰岩 を 貫 きて 噴出 せしものの 如 し 、 風化 するときは 先 つ 大 なる 板状 をなし 遂 に は 石英砂 を 含 める 土壌 を 形成 す 。 この 記述 を 飯岡層 との 関連 から 見直 すならば 、 石 ヶ 森附近 に 広 く 分布 する 石英安山岩 の 山 々 は 、 飯岡層 を 成 す 第三紀層 を 貫 い て 地上噴出 したもの 、 ということ になるだろう 。 石 ヶ 森 、 沼森 の 岩石 に 石英 の 結晶 が 含 まれることは 、 前稿 ﹁ ︵ 八 ︶ 応用編 : ﹃ 岩頸 ﹄ 意識 につ いて ︱ ︿ 現実 ﹀ と ︿ 心象 ﹀ ︱ ﹂ で 紹介 したが 、 今回 、 大森山 の 標本 を 採取 することができた 。 石 ヶ 森 の 西方 に 位置 する 山 である 。 考古石材研究所 ︵ 代表 ・ 柴田徹 ︶ に 分析 を 依頼 したところ 、 少量 であるが 石英 の 結晶 の 存在 することが 確認 され 、 石質 として 安山岩 に 近 い デ イサイト ︵ 石英安山岩 ︶ という 鑑定 であった ︵ 写真 1 ︶ 。 変質 もほとんどないということであり 、 明 らかに 細粒 安山岩 としての 飯岡層 よりも 新 しい 時代 の 形成 である 。 第三点 は ﹁ 南方 に 於 ては 之 に 接 して 安山岩 の 広 き 露 出 を 見 る ﹂ である 。 この 区域 は 、 紫波郡飯岡村 の 山 々 であり 、 村井貞允 により 、 飯岡層 の 模式 とされた 場所 である 。 ただ 、 不可思議 なのは 、 私 は 、 飯岡村 ︵ 現 ・ 盛岡市飯岡 ︶ の 山 々 を 諸処観察 したが 、 飯岡層 の 模式 となるような 、 ﹁ 輝石安山岩質 の 水冷 された 溶岩 ﹂ や ﹁ 同 質火山角礫岩 ﹂ を 見出 すことができないことである 。 見出 されるのは 、 陸上 で 噴出 したと 推定 される ﹁ 輝石 安山岩 ﹂ ばかりである 。 実例 として 、 飯岡山 ︵ 写真 2 ︶ と 蟹沢山 ︵ 写真 3 ︶ の 輝石安山岩 を 挙 げておく 。 ﹁ 盛岡 附近地質報文 ﹂ では ﹁ 輝石安山岩 ﹂ に 関 し 、 次 のよう に 説明 がなされている 。 ○ 輝石安山岩

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図幅 の 西南部飯岡山附近 に 産 するものは 多少玻 璃質 を 帯 び 、 暗灰色 の 石基中 に 斜長石 の 白斑 を 有 し ? に 酷似 し 、 犬森山及八幡館山附近 に 産 する ものは 緻密 にして 淡鼠色 を 呈 し 、 稲荷崎山附近 に 産 するものは 稍風化 して 赤灰色 の 石基中 に 斜長 石 の 白斑 を 有 し 暗色鉱物 は 多少褐赤色 に 変 ず 、 本 岩 より 化生 せし 土壌 は 概 するに 樹木 の 生育不良 ならずして 、 地形宜 きを 得 ば 植林上 の 利益少 なか らざるものと 認 む 。 賢治 らは 、 ﹁ 第三区域 ﹂ の ﹁ 石英安山岩 ﹂ と ﹁ 輝石安 山岩 ﹂ を ﹁ 新火山岩 ﹂ と 分類 している 。 すでに 記 した が 、 ﹁ 新火山岩 ﹂ は ﹁ 水成岩 ﹂ ︵ 凝灰岩 ︶ を 貫 いて 噴出 した マグマ との 推定 である 。 その 推定自体 は 正 しいこ とと 判断 されるが 、 ﹁ 新火山岩 ﹂ の 山 々 はいつごろ 形成 されたのか 。 第三紀 とすれば 、 新第三紀 だろうが 、 新 第三紀 とするなら 、 中新世 なのか 漸新世 なのか 、 それ とも 第四紀 まで 下 るのか 。 このような 疑問 の 解答 を 、 従来 の 飯岡層 に 関 する 解説 から 導 き 出 すことはできな い 。 なぜなら 、 飯岡層 の 区域 は 、 賢治 らが 観察 ・ 区分 した ﹁ 新火山岩 ﹂ ︵ 北部 に 石英安山岩 の 山 々、 南部 に 安 山岩 の 山 々︶ と ﹁ 水成岩 ﹂ の 両区域 を 含 み 込 んで おり 、 そこに 区別 を 認 めていないからである 。 内外地図株式会社発行 の ﹁ 北上川流域地質図 ︵ 二十 万分之一 ︶ ﹂ ( 前出 、 昭 55・ 9 ) の 付表 では 、 飯岡層 は 新 第三紀 ・ 下部中新世 に 位置 づけられている 。 おおよそ 、 一千万年 ∼ 二千万年前 の 形成 ということになる 。 ただ 、 この 時期 の 形成 であるなら 、 グリーンタフ 変質 を 受 け ているはずで 、 同時代 の 地層 、 例 えば 豊沢川流域 に 広 がる 大荒沢層 ︵ 幕館層 ︶ や 大石層 などは 、 すべて グリ ーンタフ 変質 を 受 けている 事実 がある 。 グリーンタフ 変質 とは 、 岩石 に 含 まれる 輝石 ・ 角閃石 などの 鉱物 が 熱水変質 により 緑泥石 に 変 化 することである 。 ところ が 、 賢治 らが 観察 ・ 区分 した ﹁ 新火山岩 ﹂ は 石 ヶ 森 の 石英安山岩 も 飯岡山 の 輝石安山岩 も グリーンタフ 変質 を 受 けていないと 観察 され 、 新第三紀 でもずっと 新 し い 鮮新世 ︵ 約百五十万年前 ∼ 五百万年前 ︶ か 、 さらに 新 しい 第四紀 の 形成 と 推定 されるのである 。 第四紀 の 例 としては 岩手山 を 挙 げることができる 。 岩手山 は 第 四紀更新世 のころの 形成 で 、 その 誕生 は 新 しく 、 わず

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か 三十万年前 に 姿 を 現 し 始 めた 山 である 。 では 、 岩手山 の 火山活動 と ﹁ 新火山岩 ﹂ との 形成時 期 の 関係 はどうなのか 、 この 点 に 関 しては 、 前稿 ﹁ ︵ 八 ︶ ﹂ ︵ 前出 ︶ で すでに 指摘 したことだが 、 詩 ﹁ 小岩井農場 ﹂ 下書 、 第五綴 の 中 で ﹁ 鞍掛山 ﹂ にふれ 、 ﹁ あれはきっと / 南昌山 や 沼森 の 系統 だ / 決 して 岩手火山 に 属 しない 。 / 事 によったらやっぱり / 石英安山岩 かもしれな い ・・・ ﹂ と 記 していることを 考 えに 入 れるなら 、 賢 治 は 、 岩手山麓 にある 鞍掛山 や 沼森 が 、 岩手山 と 形成 時期 を 異 にすることを 理解 していたといえるだろう 。 さらには 、 童話 ﹁ 沼森 ﹂ で 、 沼森 は ﹁ 石 ヶ 森 とは 血統 が 非常 に 近 いものなのだ ﹂ という 見解 も 示 しており 、 本稿 で 取 り 上 げている 石 ヶ 森 もまた 、 岩手山 とは 形成 時期 を 異 にすると 賢治 が 考 えていたことにな る 。 四 ﹁ 岩手火山群地質図 ﹂ さて 、 ﹁ 新火山岩 ﹂ の 形成時期 はいつかという 問 いの 答 えは 、 すでにふれたが 、 旧来 の 飯岡層 に 関 する 文献 を 調 べても 見 つけ 出 すことはできない 。 幸 い 、 ﹃ 岩手山 の 地質 ︱ 火山灰 が 語 る 噴火史 ︱ ﹄ ︵ 岩手県滝沢村教育委 員会 、 平 12・ 3 ︶ に 、 最新 の 地質調査結果 ︵ 岩手火山 群地質図 ︶ が 掲載 されており 、 ほぼ 、 問 いの 答 えを 知 ることができる ︵ 地図 3 ︶ 。 著者 は 、 当時地熱 エンジニ アリング 株式会社 に 所属 し 、 滝沢村文化財調査委員 と して 岩手山 の 火山活動 を 研究 していた 土居宣夫 ︵ 現在 は 岩手大学教育学部 ︶ である 。 土居 の 見解 にしたがえ ば 、 賢治 らのいう ﹁ 新火山岩 ﹂ ︵ 石 ヶ 森 ・ 飯岡山 ︶ は 、 三 ッ 森山安山岩類 に 分類 され 、 燧堀山 ・ 高峰山 ・ 烏泊 山 の 山 々 とは 形成時期 において 明確 に 区別 されること になる 。 燧堀山 ・ 高峰山 ・ 烏泊山 は 、 新第三紀中新世 ︵ 五三 〇 万年前 ∼ 二三五 〇 万年前 ︶ の 形成 で 、 石 ヶ 森 ・ 飯岡山 ︵ 三 ッ 森山安山岩類 ︶ は 新第三紀鮮新世 ︵ 一六 五万年前 ∼ 五三 〇 万年前 ︶ の 形成 である 。 このような 区分 が 可能 になったのは 、 岩石 の 年代測定 が 行 われて いるからである 。 K ︱ Ar法 という 放射性元素 を 用 いた 絶対年代 の 測定 は 、 従来地層 の 層序 から 推定 していた 岩石 のおおよその 形成時期 を 、 ピンポイント で 押 さえ ることを 可能 にしたのである 。 石 ヶ 森 や 飯岡山 が 新第三紀鮮新世 の 形成 であるとす

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るなら 、 グリーンタフ 変質 を 受 けていなくて 当然 であ り 、 そのことは 同時 に ﹁ 新火山岩 ﹂ が 飯岡層 の 定義 か らは 外 れると 判断 されることになる 。 結論 として 、 後 に 一括 して 飯岡層 と 名 づけられる 区域 を 、 賢治 らが ﹁ 新 火山岩 ﹂ 区域 、 ﹁ 水成岩 ﹂ 区域 として 異 なる 地質系統 と 記載 したことは 、 極 めて 実体 に 忠実 な 分類 をしたと 判 断 される 。 なお 、 沼森 の 形成期 に 関 し K ︱ Ar法 で 測定 した 結果 、 238 万年前 ︵ 誤差 ± 1 、 蒜山地質年 代学研究所 ︶ と なった 。 地質年代 でいえば 、 新第三紀鮮新世 で 、 三 ッ 森山安山岩類 に 属 する 石 ヶ 森 の 形成期 と 一致 すること になる 。 童話 ﹃ 沼森 ﹄ での 、 ﹁ 石 ヶ 森 とは 血統 が 非常 に 近 いものなのだ ﹂ という 賢治 の 判断 を 、 科学的 に 裏付 けた 測定結果 といえるだろう 。 地図 3 の 左上 が 岩手山 で 、 中央部 の 青紫色 の 箇所 が 、 小岩井農場 の 東側 に 連 なる 燧堀山 ・ 高峰山 ・ 烏泊山 の 山 々 となる 。 飯岡層 としての 分類 である 。 その 区域 の 北側 と 南側 にそれぞれ ピンク 色 の 区域 が 確認 されるだ ろう 。 北側 が 石 ヶ 森 を 含 む 山 々、 南側 が 飯岡山 を 含 む 山 々 で 、 ともに 三 ッ 森山安山岩類 と 分類 されている 。 石 ヶ 森 を 含 む 山 々 が 、 安山岩 の 山 々 と 分類 されている ことに 関 し 、 直接土居氏 にお 伺 いしたところ 、 北側 の 区域 では デイサイト ︵ 石英安山岩 ︶ の 存在 も 確認 され ており 、 すべてが 安山岩 であるというわけでなく 、 形 成時期 に 焦点 を 当 てた 地質図 なので 、 賢治 らが ﹁ 石英 安山岩 ﹂ としたことに 、 特 に 問題 はないとのことであ った 。 五 ﹁ 水成岩 ﹂ の 問題 これまで 、 賢治 らの 作成 した ﹁ 盛岡附近地質図 ﹂ に 関 し 、 問題点 を 幾点 か 検討 してきたが 、 おおよそのこ とは 解決 ができたと 考 えている 。 しかし 、 本稿 には 未 だ ﹁ 水成岩 ﹂ の 問題 が 残 さ れている 。 賢治 らは 、 調査地区 に ﹁ 水成岩 ﹂ の 多 く 存在 するこ とを 指摘 している 。 ﹁ 盛岡附近地質調査報文 ﹂ では 、 ﹁ 水 成岩及 その 風化物 の 記載 ﹂ として 、 ︵ 一 ︶ 古生層 、 ︵ 二 ︶ 第三紀層 、 ︵ 三 ︶ 洪積層 ︵ 第四紀古層 ︶ 、 ︵ 四 ︶ 沖積層 ︵ 第 四紀新層 ︶ に 分 け 、 記述 している 。 中生層 の 区分 が 見 られないのは 、 盛岡付近 には ﹁ 水成岩 ﹂ としての 中生

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層 を 見出 すことができないからである 。 岩手県全体 と してみるなら 、 三陸地方 に ﹁ 宮古層群 ﹂ という 、 後 に 日本 で 最初 の 恐竜化石 の 発見 となる 中生代 の 地層 が 存 在 している 。 ︵ 一 ︶ 古生層 は 図幅 の 東側 、 すなわち 北 上山地 に 見 られるもので 、 本稿 の 課題 と 直接関 わっていない 。 ︵ 二 ︶ 第三紀層 は 、 図幅 の 西側 に 見 られ 、 本稿 において 考察 しなければならない 大 きな 問題 が 存在 する 。 ︵ 三 ︶ 洪積 層 ︵ 第四紀古層 ︶ と ︵ 四 ︶ 沖積層 ︵ 第四紀新層 ︶ は 本 稿 の 問題 とは 直接的 には 関 わっていない 。 ただ 、 前稿 ﹁ ︵ 九 ︶ 基礎編 : 安山集塊岩 ︱ 花巻農学校 での 土性調査 実習 にからめて ︱ ﹂ で 洪積層 ︵ 第四紀古層 ︶ に 関 し 言 及 していることを 記 しておく 。 ﹁ ︵ 二 ︶ 第三紀層 ﹂ の 記 述 を 次 に 掲 げる 。 本層図幅 の 西隅 に 分布 し 、 主 として 凝灰質 の 岩石 より 成 る 、 本層 を D 成 する 岩石中重要 なるものは 流紋質凝灰岩及 び 安山岩質凝灰岩並 びに 半熔頁 岩及 び 角礫岩 とす 。 ○ 流紋質凝灰岩 稍脆弱 にして 触 るれば 粗鬆 の 感 を 生 じ 灰白色 に して 灰状 の 外観 を 有 し 実質中 に 細 き 石英 の 粒子 を 散布 す 図幅 の 西北鬼越山以北 に 稍広 く 分布 し 金沢 、 影添 於 ママ て 好露出 を 見 る 、 多 くは 流紋岩 の 砕 屑 を 混淆 し 又往 々 硅板岩粘板岩 の 砕片 を 雑 ゆ 、 本 岩中 に 散布 せる 石英粒 の 大部分 が 錐形式 の 結晶 より 成 れるは 特 に 注意 すべきの 価値 ある 所 とす 、 採堀 して 竃材 として 賞用 せらる ︵ 滝沢石 ︶ 本岩 は 石英砂 を 含 める 粗鬆 なる 土壌 を 形成 す 、 雫 石川以南 の 第三紀層中 に 於 ても 広 く 本凝灰岩 の 分布 するを 見 る 例 へば 宰郷山附近 に 於 けるが 如 し 、 其 の 一部 に 於 て 杉 、 松 、 落葉松 の 造林 せらる るありて 生育佳良 なるを 見 る 。 ○ 安山岩質凝灰岩 図幅 の 西北部篠木坂及鬼越坂附近 に 産 す 、 緑灰色 若 は 暗灰色 にして 外観風化 したる 普通安山岩 に 酷似 す 往 々 其間隙 に 玉髄 を 充 たす 。 ○ 半熔頁岩 細粒状乃至緻密 にして 多少玻璃状 をなし 黒色或 は 紫灰色 を 呈 す 、 頗 る 堅硬 にして 敲 けば 美響 を 発

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す 、 本岩 は 第三紀水成岩殊 に 砂岩或 は 頁岩 が 熔岩 の 熱 の 為 に 半 ば 融解 し 多少玻璃状 に 化 したるも のにして 高帽山鬼越及 び 其以南 の 所 々 に 産 す 、 実 質中 の 空隙 に 石英又 は 玉髄 の 顆粒或 は 細脈 を 有 す 、 大沢峠 に 産 するものは 殊緻密 にして 黒色 の 岩 体中 に 細 き 白斑 を 散布 し 一見 ? に 類 す 。 ○ 角 礫 岩 頁岩質及 び 安山岩質角礫 が 細 き 砂泥 によりて 膠 着 せられたるものにして 、 安山質凝灰岩 に 近似 す 、 緑灰色 を 呈 し 風化 するときは 茶褐色 に 変 ず 、 第三 紀層 の 北部鬼越附近 に 於 て 所 々 に 小露出 をなす 。 この 記述 が 対象 にしている 区域 には 、 燧堀山 ・ 高峰 山 ・ 烏泊山 の 山 々、 およびその 山中 にある 鬼越坂 や 大 沢坂峠 、 篠木坂峠 が 含 まれる 。 飯岡層 の 特徴 がそのま ま 当 てはまる 区域 で 、 まさに 、 ﹁ 輝石安山岩質 の 水冷 さ れた 溶岩 ・ 同質火山角礫岩 ﹂ から 成 っている 。 そのこ とがなぜ 問題 となるかというと 、 ﹁ 輝石安山岩質 の 水冷 された 溶岩 ・ 同質火山角礫岩 ﹂ という 記述 は 、 飯岡層 が ﹁ 火成岩 ﹂ 地帯 であることを 意味 し 、 賢治 らのいう ﹁ 水成岩 ﹂ 地帯 とは 判断 されないからである 。 ﹁ 本層図 幅 の 西隅 に 分布 し 、 主 として 凝灰質 の 岩石 より 成 る ﹂ という 記述 の 根拠 を 賢治 らはどのような 観察 から 得 た のだろうか 。 ﹁ 凝灰質 の 岩石 ﹂ ならば 、 確 かに ﹁ 水成岩 ﹂ であるが 、 私 が 観察 し た 範囲 では 、 ﹁ 凝灰質 の 岩石 ﹂ と 呼 べる 地質 は 局所的 な 区域 に 限定 されてしまうのであ る 。 ここで 、 加藤貞一 ︵ ﹃ 宮沢賢治 の 地的世界 ﹄ 前出 ︶ の 分析 を 紹介 しておきたい 。 ﹁ 盛岡附近地質図 ﹂ や ﹁ 盛岡 附近地質報文 ﹂ の 内容 にまで 踏 み 込 んだ 解説 としては 唯一 であり 、 先駆的業績 といえるだろう 。 ただ 、 実地 の 調査 を 行 わずに 判断 していると 思 われる 記述 もあり 、 本稿 で 私 が 問題 にしている 地域 に 関 し 疑問点 がないわ けではない 。 自説 を 述 べる 前 に 加藤 の 見解 を 確認 して おきたい 。 第三紀層 の 区分 としては 、 流紋質凝灰岩 ・ 安山 岩質凝灰岩 ・ 半熔頁岩 ・ 角 礫岩 です 。 ﹁ 流紋質凝 灰岩 ﹂ は ﹁ 流紋岩 ︵ 質 ︶ 凝灰岩 ﹂ とすべきところ です 。 ﹃ 大鑛物学 ﹄ 下巻 ︵ 67頁 ︶ でも ﹁ 流紋岩質

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凝灰岩 ﹂ と 記 してあります 。 また 、 異質岩片 の 含 有 も 観察記載 しています 。 よく 見 ていますね 。 問 題 は 、 ﹁ 半熔頁岩 ﹂ です 。 こんな 術語 はありませ んし 、 記載 では ﹁ 砂岩或 いは 頁岩 が 熔岩 の 熱 の 為 に 半 ば 融解 し 多少玻璃状 に 化 したるもの ﹂ とあり ます 。 上述 した 広義 の ﹁ ホルンフェルス ﹂ のこと でしょうか 。 少 なくとも 熱変質 を 受 けた 堆積岩 の ことでしょう 。 分布域 は 明確 に 示 されていません が 、 北上川以西 は 火山砕屑物 に 広 く 覆 われていて 、 賢治 らの 地質図 ではそれらの 被覆 をはがして 書 いてあるので 、 だいぶ 推定 が 多 いのです 。 ﹁ 角礫 岩 ﹂ は 、 ﹁ 頁岩質及 び 安山岩質角礫 が 細 かき 砂泥 によりて 膠着 せられたるものにして 安山質凝灰 岩 に 近似 す ﹂ と 記 されており 、 今 で 言 えば ﹁ 安山 岩質凝灰角礫岩 ﹂ のことでしょう 。 問題 は 、 加藤 の 指摘 するように ﹁ 半熔頁岩 ﹂ である 。 加藤 が ﹁ 広義 の ﹃ ホルンフェルス ﹄ ﹂ ﹁ 熱変質 を 受 けた 堆積岩 ﹂ と 解釈 していることに 、 異論 はない 。 ただ 、 気 になるのが 、 加藤 のいう ﹁ 北上川以西 は 火山砕屑物 に 広 く 覆 われていて 、 賢治 らの 地質図 ではそれらの 被 覆 をはがして 書 い てあるので 、 だいぶ 推定 が 多 いので す ﹂ の 記述 である 。 特 に ﹁ それらの 被覆 をはがして 書 いてある ﹂ はどう 理解 したらよいのか 。 ごく 自然 に 読 むなら 、 ︿ 賢治 らは ﹁ 火山砕屑物 ﹂ の 下 に ﹁ 半熔頁岩 ﹂ が 存在 すると 推定 しており 、 その ﹁ 半熔頁岩 ﹂ を 地質 図 に 書 き 込 んだ ﹀ となるかと 思 う 。 もし 、 加藤 の 意図 がそのようだとするなら 、 それはあり 得 ないことでは ないか 。 加藤 のいう ﹁ 火山砕屑物 ﹂ とは 飯岡層 のこと にほかならず 、 賢治 らは ﹁ 層厚約 800 m ﹂ ︵ 前出 ︶ と される 飯岡層 の 下 に 存在 する ﹁ 半熔頁岩 ﹂ の 存在 を 記 述 していたということになる 。 それでは 、 地質調 査 と してのあまりに 不自然 である 。 賢治 らは ﹁ 北上川以西 は 火山砕屑物 に 広 く 覆 われていて ﹂ という 知識 を 十分 に 有 しており 、 それは 、 ﹁ 盛岡附近地質図 ﹂ において ﹁ 火 山岩屑 ﹂ が ﹁ 水成岩 ﹂ の 一種 として 分類 されているこ とからもいえることである 。 おそらく 加藤 は ﹁ 北上川 以西 ﹂ の ﹁ 火山砕屑物 ﹂ を 火成岩 と 捉 えており 、 賢治 らの 記述 する ﹁ 水成岩 ﹂ と 矛盾 すると 考 えたのだろう 。 それゆえ 、 火成岩 である ﹁ それらの 被覆 をはがして 書

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いてある ﹂ と 解説 したのではないか 。 したがって 、 真 の 問題 は 、 賢治 らはどのような 石 を もって ﹁ 半熔頁岩 ﹂ と 判断 したかであ る 。 ﹁ 半熔頁岩 ﹂ は 賢治 らにとって 地中深 くに 存在 するものでなく 、 地 表面 において 観察 しうるものと 考 えるべきである 。 ﹁ 半 熔頁岩 ﹂ の 問題 はいまだ 未解決 ということを 確認 して おきたい 。 第三紀層 として 賢治 らが 考 えているのは 、 ﹁ 凝灰質 の 岩石 ﹂ である 。 そして ﹁ 凝灰質 の 岩石 ﹂ として 、 ﹁ 流紋 質凝灰岩 ﹂ 、 ﹁ 安山岩質凝灰岩 ﹂ 、 ﹁ 半熔頁岩 ﹂ 、 ﹁ 角礫岩 ﹂ の 四種 を 挙 げているのである 。 まず 、 ﹁ 流紋質凝灰岩 ﹂ だが 、 私 は 賢治 らの 指摘 する 金沢 ・ 影添地区 での 露頭 を 確認 できておらず 、 したが って 標本 の 採取 もできていない 。 ﹁ 金沢 ﹂ の 地名 は 現在 で も 残 されているが 、 ﹁ 流紋質凝灰岩 ﹂ の 痕跡 すら 発見 できなかった 。 金沢 で 確認 できたのは 、 飯岡層 の 基盤 岩 である 細粒安山岩 と 、 賢治 が 新火山岩 と 呼 ぶ 大森山 からの 転石 と 判断 される 石英安山岩 であった 。 ﹁ 影添 ﹂ の 地名 に 至 っては 滝沢村役場 でも 確認 することができ なかった 。 また 、 ﹁ 滝沢石 ﹂ なるものを 知 る 人 にも 出合 えなかった 。 今後 の 課題 とせざるをえない 。 ただ 、 ﹁ 地質調査報文 ﹂ には ﹁ 本岩 は 石英砂 を 含 める 粗鬆 なる 土壌 を 形成 す 、 雫石川以南 の 第三紀層中 に 於 ても 広 く 本凝灰岩 の 分布 するを 見 る 例 へば 宰郷山附近 に 於 けるが 如 し ﹂ ともあり 、 賢治 ら がどのような 石 を ﹁ 流紋質凝灰岩 ﹂ と 呼 んでいたかは 宰郷山 を 調査 する ことによって 知 ることができる ︵ 写真 4 ・ 5 ︶ 。 宰郷山 は ﹁ 雫石川 ﹂ の 南側 にある 男助層 に 分類 される 凝灰岩 層 だが 、 付近 の 山 が デイサイト 質 か 安山岩質 の 凝灰岩 であるのに 対 し 、 その 山 だけが 流紋岩質 であることは 注目 に 値 する 。 破砕 した 流紋岩 も 多 く 含 まれており 、 石英 の 粒 も 確認 できる 。 賢治 らが 宰郷山 を 選 び 記述 し た 理由 が 頷 けるところだ 。 それにしても 、 宰郷山 で 見 られるような ﹁ 流紋質凝灰岩 ﹂ を 滝沢地区 で 見出 すこ とができないのはなぜだろうか 。 私 の 調査 が 徹底 して いないためであ ろうか 。 次 に 、 ﹁ 安山岩質凝灰岩 ﹂ だが 、 ﹁ 図幅 の 西北部篠木 坂及鬼越坂附近 に 産 す ﹂ とある 。 篠木坂 や 鬼越坂 は 地 図上 でも 場所 がはっきりしており 、 調査 が 可能 であっ た 。 ただ 、 ﹁ 緑灰色若 は 暗灰色 にして 外観風化 したる 普

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通安山岩 に 酷似 す 往 々 其間隙 に 玉髄 を 充 たす ﹂ という 岩石 がどれなのか 、 判断 の 難 しいところである 。 写真 6 として 掲 げたものは 、 鬼越坂 のもので 、 飯岡層 の 定 義 でいえば ﹁ 安山岩質火山角礫岩 ﹂ に 当 たると 考 える 。 水冷 された 安山岩 の マグマ が 自破砕 し 、 その 隙間 に 玉 髄 が 充填 されたものである 。 その 意味 では ﹁ 火成岩 ﹂ に 分類 すべきか と 思 うが 、 もし 、 火山砕屑岩 が 水底 で 堆積 しその 隙間 を 玉髄 が 充填 したと 考 えたとするなら 、 賢治 らは 凝灰角礫岩 の 一種 として ﹁ 水成岩 ﹂ の 扱 いを した 、 と 推定 することは 可能 かと 思 う 。 問題 の ﹁ 半熔頁岩 ﹂ だが 、 ﹁ 砂岩或 は 頁岩 が 熔岩 の 熱 の 為 に 半 ば 融解 し 多少玻璃状 に 化 したるもの ﹂ とその 形成過程 が 記述 され 、 ﹁ 細粒状乃至緻密 にして 多少玻璃 状 をなし 黒色或 は 紫灰色 を 呈 す 、 頗 る 堅硬 にして 敲 け ば 美響 を 発 す ﹂ とされる 。 もとが ﹁ 砂岩 ﹂ ﹁ 頁岩 ﹂ であ れば ﹁ 水成岩 ﹂ ということになるが 、 私 が 観察 した 範 囲 では 、 そのような ﹁ 半熔頁岩 ﹂ を 確認 することはで きなかった 。 ﹁ 高帽山鬼越及 び 其以南 の 所 々 に 産 す ﹂ と あり 、 ﹁ 実質中 の 空隙 に 石英又 は 玉髄 の 顆粒或 は 細脈 を 有 す ﹂ とも 記 されている 。 石英 や 玉髄 を 伴 う 岩石 は 、 燧堀山 ・ 高峰山 ・ 烏泊山 の 山 々 ならば 、 多 くの 場所 で その 存在 が 確認 できるため 、 証拠 として 決 め 手 とはな らない 。 ﹁ 大沢峠 に 産 するものは 殊緻密 にして 黒色 の 岩 体中 に 細 き 白斑 を 散布 し 一見 ? に 類 す ﹂ とあること から 、 大沢坂峠 も 調査 したが 、 安山岩質火山角礫岩 を 多数見出 しただけである 。 また 、 ﹁ 細粒状乃至緻密 にし て 多少玻璃状 をなし 黒色或 は 紫灰色 を 呈 す 、 頗 る 堅硬 にして 敲 けば 美響 を 発 す ﹂ という 条件 の 岩石 ならば 、 これもいたるところで 確認 することができる 。 それら を 写真 7 、 写真 8 、 写真 9 、 写真 10として 掲 げるが 、 薄片 ︵ プレパラート ︶ による 顕微鏡観察 を 依頼 ︵ 前出 ・ 考古石材研究所 ︶ した 結果 、 すべて 、 安山岩 が 急激 な 水冷 により 緻密化 した ﹁ 細粒安山岩 ﹂ とのことであっ た 。 やや 強引 な 推定 ではあるが 、 賢治 らは 、 この 細粒 安山岩 を 誤 って ﹁ 半熔頁岩 ﹂ と 判断 したのではないか という 考 えを 提示 しておきたい 。 多 くの 場合 、 層理 が 平行状 に 入 っており 、 堆積岩 としての 頁岩 の 性質 を 連 想 させたのではないか 。 他方 、 賢治 らの 判断 を 裏付 ける 調査結果 も 得 られた 。 細粒安山岩 の 近 くで 、 ﹁ 水成岩 ﹂ であることが 明 らかな

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凝灰角礫岩 を 採取 した ︵ 写真 11 。 地層 の 成 り 立 ちの 複雑 が 感 じられる 。 写真 11 場合 、 特 に 凝灰角礫岩全 体 が グリーンタフ 変質 を 受 けており 、 繰 り 返 し 起 こっ たと 考 えられる 新第三紀中新世 の 海底火山 の 活動 が 、 この 地 の 地層 を 複雑 にしたようである 。 ﹁ 角礫岩 ﹂ だが 、 ﹁ 頁岩質及 び 安山岩質角礫 が 細 き 砂 泥 によりて 膠着 せられたるものにして 、 安山質凝灰岩 に 近似 す ﹂ とある 。 この ﹁ 砂泥 によりて 膠着 せられた ﹂ 角礫岩 は 、 燧堀山 の 南側 の 麓 で 、 幅十 メートル 、 高 さ 五 メートル ほどの 露頭 を 見出 すことができた ︵ 写真 12 ︵ 写真 13 。 このことは 、 燧堀山 が 細粒安山岩 の みから 成 る 山 でないことを 示 しており 、 賢治 らが ﹁ 水 成岩 ﹂ 地帯 と 判断 したことが 頷 ける 証拠 となるだろう 。 偶然 だが 、 この 角礫岩層 に 接 する ︵ または 含 まれる ︶ 大型 の 角礫 ︵ 流紋岩質 ︶ が 、 その 内部 の 隙間 に オパー ル を 充填 させていることを 発見 した ︵ 写真 14 。 これ まで 調査 した 他 の 箇所 が 、 すべて 玉髄 を 充填 させてい たのに 対 し 、 この 場所 だけが オパール であることは 、 本稿 の 目的 とは 別 に 、 興味深 い 問題 である 。 燧堀山 ・ 高峰山 ・ 烏泊山 の 山 々 を ﹁ 水成岩 ﹂ と 賢治 らが 判断 したことの 是非 だが 、 ﹁ 安山岩質凝灰岩 ﹂ に 関 しては 、 現代 の 地質学 からいえば 火山角礫岩 であり 、 それを 、 火成岩 ︵ マグマ の 自破砕 ︶ とみるか 、 水成岩 ︵ 堆積岩 ・ 凝灰岩 ︶ とみるかは 、 意見 の 分 かれるとこ ろと 思 われる 。 ﹁ 半熔頁岩 ﹂ に 関 しては 、 これまでの 調 査 では 確認 することができなかった 。 賢治 らが 細粒安 山岩 を 見誤 った 可能性 が 高 いとしておく 。 ﹁ 角礫岩 ﹂ に 関 しては 、 ほぼ 賢治 らの 報告通 りの 地層 を 確認 するこ とができた 。 総合的 には 、 燧堀山 ・ 高峰山 ・ 烏泊山 の 山 々 は 、 安 山岩質 マグマ が 海底 で 噴出 し 形成 したもので あり 、 火 成岩 と 判断 すべき 区域 を 広 く 有 するが 、 明 らかな 水成 岩 も 諸処 に 確認 され 、 賢治 らの ﹁ 水成岩 ﹂ という 判断 はそれなりに 根拠 のある 判断 であった 、 といってよい と 思 われる 。 ︵ 了 ︶

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