• 検索結果がありません。

独占の概念 : 新オーストリア学派の立場

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "独占の概念 : 新オーストリア学派の立場"

Copied!
23
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

1

独  占 の 概 念

 一新オーストリア学派の立場一

越  後  和  典

 私は昨年,本誌所収の一連の拙稿で,新古典派経済学の競争概念と,それを 前提として構築されてきた主流派産業組織論の理論と政策論の一端を批判的      に考察した。またそこでは,ハイエク(F.A. Hayek)やヵーズナー(1. M. Kirzner)に典型的にみられる新オーストリア学派の競争概念が,ハイエクのい うカタラクシー(catallaxy)の本質把握にとって決定的に重要な意義を有する ことを力説し,主流派産業組織論に代るべき市場機構の適切な分析方法を工夫 するには,この競争概念を基軸にすえる必要があることをも示唆してきたつも りである。  そのさい,新オーストリア学派の競争観と整合的な独占概念ないし独占理論 についても,部分的に言及してきたのであるが,それらは極めて不十分であっ て,その詳細な考察は,これを他日に期したい旨ことわってきたいきさつがあ る。この小稿の目的は,そのさいの約束の一端を果すことである。  ところで,カタラクシーないし市場経済の本質解明にとって,レリバントな 競争理論を展開してきたといってよい新オーストリア学派の陣営内でも,こと 独占概念に関しては,必ずしも統一的見解が形成されているようには思われな い。ミーゼス(L.Mises)およびカーズナー型の見解と,ロスー“’・一一ド(M. N. Rothbard)およびアルメンターノ(D. T、 Armentano)型の見解に大別しうる ような両論が存在することは,同陣営内の論者によって,つとに指摘されてき       のたところである。 1) 拙稿〔6〕,〔7〕,〔8〕,〔9〕を参照。 2) Cf., Arrnentano (1), Block (2), O’Driscoll, Jr. (22), and Pasour, Jr. (24).

(2)

 2 彦根論叢第227号

 そこでこの小論では,まずコンベンショナルな独占概念を代表すると思われ る新古典派経済学の独占概念を簡潔に要約・批判した後,カーズナーとロスバ ードの所説の要点を紹介・批判し,最後に独占研究の現代的意義について,所 懐の一端を述べる予定である。 1  新古典派経済学で共通的な理解がえられていると思われる独占概念について は,その特徴を,構造・行動および成果の三側面について要約することが便利 である。  まず構造面では,独占はある財・サービスの唯一の売手ないし生産者を意味 すると考えられているごとくである。語源的にも独占(monopoly)はmonos       3) (only)とpolein(to seli)の合成語であるから,この理解は一見正当であるか にみえるQ  論者によっては,独占をやや広義に理解し,いわゆる寡占(oligopoly)をも 独占に含めて論じることがあるし,また独占を本来の売手独占に限定すること       4) なく,買手独占(monopsony)に適用するケースが存在することも周知の通り である。しかし,いずれにしても独占とは,当該財・サービスの市場に競争者 が全く存在しないか,或は存在しないに等しいような市場構造を意味している ことは明らかである。  次に市場行動面での独占の特徴として理解されている点は,いわゆる独占価 格の理論がこれを端的に示しているように,独占者が価格ないし産出量に対す る支配力を行使するということである。支配力を行使するとは,通常,独占者 がその利潤を極大化するために,限界収入と限界費用が等しくなる点に生産を 制限することをさす。独占者の対面する需要曲線は,完全競争下の個別企業の 3) Cf,, Rothbard (26) p. 590. 4)買手独占をmonopsonyという言葉で表現したのはRobinson,」.〔25〕(訳本p.  281)であるが,Machlup〔18〕(訳本p.139)は,これはPビンソソ女史の古代ギリ  シャ語についての誤った知識に由来する用語法が定着したためという。

(3)

      独占の概念  3 需要曲線のように,水平ではなく,右下がりの勾配をもつから,その産出量に 対して設定される価格は,限界収入および限界費用を越え,独占者は独占的超 過利潤を収得しうるというのである。  さらに,独占者は生産を制限し,独占価格を設定するという価格ビヘイビア を示すのみならず,その地位を強化・保全するために,製品差別化などによっ        ら  て参入障壁を高めたり,いわゆる強圧行動(coercive practices)によって,潜在 的競争者を排除するなど,多面的に独占力を行使するものと想定されてきた。  独占者のこのような独占力・市場支配力の行使は,周知のように一国の経済 成果に望ましくない影響を及ぼすと考えられてきた。たとえば,ハーバーガー (A.Harberger)は,競争と独占との経済的帰結の相違を,有名な三角形の         厚生上の損失の図形を含む費用・便益モデルで図示している。また古くから論 じられてきた独占の資源配分上の損失に加えて,近年、ラィベンシュタイン (H.Leibenstein)のいう独占のX非効率性による損失が注目されるにいたり, その大きさの具体的な計測を試みる者すら出現していることも周知の通りであ 」)

Qo

 このように,独占はそのパフォーマンスにおいては,資源のミス・アロケー ションを生み,消費者厚生を損うというのが,主流派経済学の標準的見解であ る。なお,そのような独占の形成は,一般に次のような要因によるものとされ てきた。 5)強圧行動(coercive practices)とは,略奪的価格引下げ,圧搾操作などを指し,標  準的な産業組織論のテキストに詳しく説明されている。たとえば,Caves〔4〕(訳本  pp.76∼80)を参照されたい。 6)Cf., Harberger〔12〕。なおハーバーガー型の独占による厚生上の損失の議論と,そ  れを前提とする実証的研究の持つ欠陥を正確に指摘した最近の最も注目すべき業績と  してLittlechild〔17〕がある。 7)Leibensteinのエックス効率性の理論については,さしあたり〔!6〕を参照された  い。なお,Scherer〔28〕(p.466)によれば,エックス非効率による厚生上の損失の  大きさは,少くとも独占による資源配分上の損失と匹敵し,おそらくそれ以上だろう  と推測している。筆老はエックス非効率の測定などは,現代経済学にみられる悪しき  計量化傾向の典型と考えている。

(4)

 4  彦根論叢 第227号  第1は,その財・サービスの生産分野,すなわち当該産業への新規参入の法 律ないし政府による禁止である。アルメンターノはこれを法律的参入障壁を呼    き  んでいる。特許権や関税等による広汎な保護手段をどの程度この範躊に含める ことができるかは,定かではないが,この点については後に論及する。  第2は,アルメンターノのいう非法律的参入障壁であり,主流派産業組織論 の強調する製品差別化と規模の経済性は,その最も主要な:ものといえよう。す なわち,商業的に成功した製品差別化は,それを成功させた企業に独占的地位 を与えるし,そうした既存企業の支配する産業への新規参入を困難にするとい うのである。また規模の経済性にともなう企業の最適規模の拡大は,創業に要 する資金の調達難の点から参入障壁を高めるにとどまらない。市場規模の拡大 テンポよりも,最適規模企業の生産量の拡大テンポの方が速い場合には,必然        9) 的に市場集中度は上昇し,独占化への傾向が強まることも強調されてきた。  こうした非法律的参入障壁の重視や,規模の経済性を有力な根拠とする集 中・独占化傾向の強調は,いわゆる近代経済学者のみならず,マルクス経済学 者においても,認められるところである。むしろ自由市場における「独占資本 主義」への固有の傾向を否定するマルクス経済学者は存在しない,といって過 言ではあるまい。  上記の主流派経済学的な独占概念ないし独占観には,多くの欠陥が認められ る。まず第1に,構造的視点から独占を当該財・サービスの唯一の売手と定義 することは,語源的には疑問の余地のない正当なものと考えられようが,経済 学的には,この定義は同一財・サービスの限定という難問を含み,主観的な判 断を伴う恣意的なものになりかねない。        ユの  この定義によれば,ロスバードも指摘しているように,個々の売手ないし生 8)Cf., Armentano〔1〕,なお拙稿〔6〕参照。 9) 詳細は拙稿〔7〕を参照。 10)Cf・, Rothbard〔26〕PP,590∼591・なお, Robinson〔25)PP.4∼6,(訳本PP.5∼7)  も参照されたい。

(5)

      独占の概念  5 産者の間に何等かの差別性が認められうるかぎり,それらの売手ないし生産者 はすべて独占者たりうる。たとえば,弁護士Aは,Aの法律:サービスの供給に ついて独占者であり,医師Bは,彼のユニークな医療サービスの供給に関して 独占者であるといえる。この議論を徹底させると,市場制度の下におけるすべ ての人間は,彼自身のユニークな財産について排他的所有権をもっていると考 えてよいから,すべての人がそれぞれ独占者があるという結論になる。このよ うな独占の定義が無意味であることは論をまたない。  しかもここで注意すべぎことは,たとえば,等しい素材で製造され同一の用 途に役立つと思われるA生産老のX財と,B生産者のY財が,同質財か異質財 かを決定するのは,市場における買手(消費者)のみである,という点である。 市場における買手のテストを経るまでは,A生産者のX財とB生産者のY財と が同質の一剣であるか,異質の二野であるかを何人といえども事前に確認しえ ないのである。このことは,同一財の範囲が極めて不確定的であり,消費者の 主観的評価に依存することを意味する。だから財の物理的特性などによって, エコノミストがある種の財を一丁としてグルーピングすることは,恣意的であ るという批判をまぬがれない。このようにみてくると,独占をある財の唯一の 売手(生産者)と定義することが適切でないことは明白であろう。  さらに注意すべきことは,唯一の売手という意味での独占者は,ハイェクや ヵーズナーのいう発見過程としての競争から,まぬがれうるものではない,と いうことである。けだし独占者といえども,消費者に関する情報は所与ではな く,それを発見すること,つまり競争が不可避となるからである。  次に,市場行動的視点から,独占価格の設定というビヘイビアを示す者,あ るいは独占価格を実現しえた者を独占者と考えるという規定はどうであろう か。この独占の定義は,新古典派経済学の立場に立つ論者の著作で暗黙の承認 をえているのみでなく,ミーゼスもその主著〔20〕で肯定しているごとくであ る。  問題は,一体独占価格とは何かという点であるが,ミーゼスはこれについて 次のような同義反復的な定義を試みている。 「独占者がより多くの供給量をよ

(6)

 6 彦根論叢第227号

り低い価格で販売することによってよりも,その製品のより少い量をより高い 価格で販売することの方が,より高い純収益を獲得できる条件の下では,独占 がなかったならば実現しえたであろう潜在的な市場価格よりも高い独占価格が      ユ  出現する」と。  これは要するに独占者ないし企業間のカルテルは,もし需要曲線が「競争価 格」の点で非弾力的であれば,極大収益の点に達するまで生産量ないし販売量 を制限し,価格を吊上げるだろうが,需要曲線が「競争価格」の点で弾力的で あれば,独占者はより高い価格を実現するために生産量ないし販売量を削減し ないだろう,という考えを示すものと理解される。  上述した独占価格が設定されるとき独占が出現するという定義の一つの長所 は,売手ないし生産者が唯一かどうかといった点とは無関係に,独占を定義す ることができ,したがって,上述の構造的な視点からなされる独占の定義にっ きまとう難点をまぬがれうるということである。その反面,この定義はロスバ        エ ラ ードの鋭く指摘したような以下の諸欠陥をまぬがれ難い。  最大の欠陥は,比較基準となる「競争価格」を識別できないということであ る。上記の定義は,売手ないし生産者は,彼の製品に対する需要曲線が,その 点をこえると弾力的となるところまで供給量を制限し,価格を吊り上げるとい う仮説に依存している。しかし独占価格をそれと比較しうるような「競争価 格」なるものが,どこかに存在していたり,エコノミストが何等かの方法で客 観的に算定できるようなものではないのである。  需要曲線の勾配は,売手ないし生産者が指令して決定するものではなく,代 替的な他財の購買を考慮する消費者の価値評価によって,きまるものである。 また何人であっても,その形状を事前に正確に把握することは不可能であり, それはただ企業家的に推測されるほかない。あらゆる売手ないし生産者は,そ うした需要曲線の推定によって,収入を極大化しうるような生産量ないし価格 を設定しているのであって,そこで実現される価格が「競争価格」であるのか 11) Mises (20) p. 275. 12) Cf,, Rothbard (26) pp, 593一一一595.

(7)

       独占の概念  7       ユの 独占価格であるのかを,われわれが識別できる筈はない。換言すれば,個別的 需要曲線が水平でないかぎり,あらゆる企業の価格形成は独占的であり,彼は 独占者ということにもなりうる。しかし水平的需要曲線なるものが背理である ことはすでに別面〔6〕で述べた。  しかし,ここでより高い価格の実現を期待して供給の制限を行うというビヘ イビアが,いわゆる独占者に固有なものではなく,経済人一般にみられる正常 で普遍的なビヘイビアであることを,より具体的に説明しておくことは,おそ          ユのらく無駄ではあるまい。  第1に,ある財の所有者(生産老)は,その財が次;期に大きく値上りすると 予想するならば,当期の販売をさしひかえるだろう。これは誰でも行なう供給 制限であるが,投機的目的をもって行われるときは,大規模な供給制限を伴う だろう。しかし彼は投機者であって,彼を独占者とはいわないだろう。  第2に,ある財ないし資源の所有者は,その主観的な時間選好にもとづいて 自己の資産を売却しようとする。この場合,彼がもし将勲こ対してより低い割 引率を適用するならば,より高い時間選好を持つ人に比べ,彼の販売の型は, 現在の市場へのより大きい供給制限という特徴を示すことになろう。われわれ は,彼を独占者というだろうか。  第3に,売手ないし生産者は,市場へのそのサービスの供給を,そのために 失うことになるレジャーの価値を考慮して制限するだろう。われわれは,レジ ャー選好の強い老を独占者というべきだろうか。  以上のような事例は枚挙にいとまがないが,ブ・ック(W. Block)も指摘す るように,こうした供給制限を,いわゆる独占的供給制限と区別することは不 可能である。市場行動視点からの供給制限という独占の定義は,この点でも説 得力を欠いているように思われる。  最後に成果的視点からの独占害悪論にも基本的な点で疑問があることを指摘 しておこう。独占が有害であるという場合,その独占をどのように定義するか 13) lbid,, pp. 604一一607. 14) Cf., Block (2).

(8)

 8  彦根論叢 第227号 によって,その批判の仕方も異ることになるが,最初に独占を唯一の売手ない し生産者と定義した場合を想定する。前述のように,すでにこの定i義自体に欠 陥があるが,このことは暫くおき,かりにこの定義が有効であると仮定して議 論を進めよう。いうまでもなく,特定の財・サービスの売手ないし生産者の数 は経済成果の良否と何の関係もない。独占が有害であると一般に考えられてい るのは,それが競争を妨害ないし排除するからであるが,政府による参入阻止 (法律的参入障壁)がなされる場合を除き,独占は競争を妨げるものではな い。競争を新オーストリア学派的な意味において,すなわち,ハイエクのいう 知識の「発見の手順」,カーズナーのいう企業家精神の発現過程とみるならぽ, すでに拙稿〔6〕において論及したように,独占は企業家精神の発揮=競争の 所産であって,歓迎されるべきものでこそあれ,非難されるべきものではあり えない。それは,他企業に先がけて消費者に対して効率的にサービスする方法 の開発に成功した証拠であるといえよう。いつの時代,どの産業でも,先駆者 は常に唯一の生産者,すなわち独占者なのである。そして自由市場を前提する かぎり,この意味の独占者が絶えず潜在的競争者からの挑戦によって,その地 位を脅やかされていることも前述した通りである。  第2に,市場行動視点からの独占の定義を前提した場合はどうか。既述のよ うに,この定義自体有効なものとは思われないが,かりに生産量を制限し,価 格を吊り上げるといった企業のビヘイビアを独占的とみなし,その意義を考え        ユら  てみよう。この場合,ロス・“’ 一一ドが・・ット(W.H. Hutt)の「消費者主権」の 概念に対する批判で使用している事例を借用して説明することが,問題の本質 の理解に有用であるように思われる。ロスバードは大略以下のような議論を展     ユの 魅している。  いま世界的に著名なあるボクサーのビヘイビアを想像してみよう。彼が年間 何回試合を行うかは,試合の相手とその条件,とりわけ彼の獲得可能な貨幣所 得,試合による疲労度,勝利からえられる精神的優i越感,試合のために断念せ 15) Cf., Hutt (14). 16) Cf,, Rothbard (26) pp. 561一一566.

(9)

       独占の概念  9 ねばならないレジャーの価値等々を総合的に考慮して決定することになろう。 もし彼がより少い回数の試合からより多くの満足を得ることができると判断す れば,彼は肉体的には年間50回以上の試合を行うことが出来るとしても,実際 には3回しか試合しないかもしれない。しかしこのことをもって,彼は供給 (試合)を制限し,価格を吊上げ(独占価格の形成),消費者の経済厚生を減 少させ,消費老主権に反する反道徳的な行為をした,と非難されるべきだろう か。答は否である。  彼のこの供給制限行為は,人は消費者にサービスすることによってのみ所得 を稼得しうる,という自由市場経済の基本的性格と何等矛盾するものではない からである。自由市場経済の下では,あらゆる個人は,消費者であるとともに 生産者である。生産者としての彼は,その持てる労働力・土地・資本を市場へ どれほど供給するか(供給しないか)を決定する権利(個人主権)を持ってい る。彼がこの主権を行使しその満足を極大化しようとする行為は正当であり, 何等非難に値しない。  一体何故にかのボクサーは,供給(試合)を制限することによって「独占価 格」を形成しえたのであろうか。それは,彼の供給するサービスに対する需要 が非弾力的であるからにほかならない。しかし,非弾力的な需要スケジュール は,純粋に消費者の自発的な選好の表明である。それは生産者(ボクサー一 )が 消費者(観客)を暴力的に強制して形成させたものではない。だから,もし消 費者がこのボクサーの「独占的行為」に立腹するならば,このボクサーをボイ コットすることによって,容易にその需要曲線を弾力的なものに変更しうる筈 である。つまり,高い料金を支払って試合を観る者が激減すれば,かのボクサ ーがその欲する所得を稼得するためには,料金を下げ,試合回数を増やすほか ない。しかるに,消費者がそのような行為にあえて訴えず,かのボクサーも年 3回しか試合を行わないという事実は,現実の状況に対する消費者の満足を意 味するものである。すなわち,このことは,ボクサー一と同様に観客も,年間3 回の試合に高い料金を支払うという自発的交換から,十分に利益をえている何 よりの証左ではないか。

(10)

 10 彦根論叢 第227号  ロスバードは,およそ以上のような議論を展開し,生産者は個別的にか,あ るいはカルテルによってか,いずれにしてもその生産ないし販売量を制限する であろうが,それは,その販売から予想される貨幣収入を極大化するためであ って,上述のボクサーのケースと同様,何等非難されるべきではない,とい う。けだしその制限は生産者・消費者の両当事者にとって自発的であり,そこ で形成される「独占価格」なるものは,消費者がその満足の極大化を企図して 行う純粋に自発的な選択の表現である需要曲線の形状と,その企業家的な推定 を反映するにすぎないからである。  カーズナーとともに最近の新オーストリア学派を代表する・スバードによれ       ユア  ば,三通りの独占ないし独占者の定義が考えられる。第1は,ある財の唯一の 売手を指し,第2は,特定の生産分野を特定の個人またはグループの為に留保 するという内容をもつ国家による特権の供与によって,他の者がその分野へ参 入することを禁じられている状態を意味する。第3は,独占価格を実現しえた 人を独占者と見倣すという定義がそれである。このうち第1と第3の定義につ いては,すでに前節で批判的に考察した。そこで残るのは第2の定義である が,ロスバードやアルメンターノは,これこそが自由市場とは両立しえず,競 争を阻害するという意味で,本来的かつ正統的な独占の定義であると主張す る。最近,新オーストリア学派の陣営内でも,このロスバードの見解が優位を 占めつつあるように思われる。そこで,この見解をやや詳しく論評したいと考 えるが,その前に,カーズナーの見解について論及しておく必要がある。  カーズナーの独占観は,その師ミーゼスの考えを継承したものであり,ミー ゼスの独占観は,上記の第3のそれと本質的には同一であると考えられる。す なわちミーゼスは上述したように,「独占価格とは,競争市場が許す限度まで, その販売量を拡大するよりも,その販売総量を供給制限する方が独占者にとつ i7) lbid,, pp, s90一一〇r93.

(11)

       独占の概念  11       ユ   て有利となるような価格」を意味すると述べたが,カーズナーも,「独占化さ れた資源の所有者は,そのストックの若干を市場へ供給することを制限し,よ        ユの り少い残りの量に対して市場が支払うべき価格を吊り上げる」と述べている。  ミーゼスとカーズナーの独占ないし独占価格の定義には,若干のニュアンス が認められるが,あえてそれを無視して共通点に着目すると,両者とも価格を 吊上げる(独占価格を実現する)目的で,資源を供給制限(withholding)する ことを独占者の特徴(必要条件)と考えているように思われる。新オーストリ ア学派のブPック〔2〕やアルメンターノ〔1〕が両者を同一視し,ミーゼス =カーズナー見解と呼んでいるのは,この点を重視するからにほかならない。  さて,カーズナーも特定の財・サービスの唯一の売手の地位を独占と考える ような独占の通説的見解を批判し,すでに別稿〔6〕で論評したような彼の競 争概念にとってレリバントな独占概念を求めるのである。彼によれば,企業家 精神ないし企業家的機敏性の発揮には,いかなる資源も必要としない。それは いわば市場で取引しようとするすべての人に解放されているが,資源の所有は その性格上,独占的でありうる,というのである。  独占的であるというのは,彼の競争者が彼と同一の行為をなすこと(dupli− cation)をかりに有利と考えても,そうすることが彼の競争者に許されないよ うな竹岡のあることを意味するという。この点をカーズナーは,「彼がなすと ころのことを他の企業家がなすことの脅威からまぬがれている生産者の地位を    ヨの 意味する」といい,そうした禁止的な参入障壁の存在は,資源の独占的所有に        基づくと考えるのである。  因みに,カーズナーは,製品差別化とか,最適規模企業の拡大に伴う創業に 必要とされる資本規模の大きさ等,コンベンショナルな価格理論や産業組織論 で参入障壁を形成する要因とみなされているものは,既存企業に一時的な優位 18) N猛ises 〔20〕p.359. /9) Kirzner〔15〕p.110. 20)  Ibid., P.106. 2!)lbid・・P・97・

(12)

 12 彦根論叢第227号 をもたらすにすぎず,参入を阻止する要因たりえないという。製品差別化の如       ヨ   きは,かえって「対抗的な企業家の競争的兵器庫における戦略的武器」であ る,とさえ述べている。  さて,資源の独占的所有の意味での独占が競争過程に及ぼす影響として,カ ーズナーは,第1に,彼以外の者の企業家的活動を,他の財の生産活動,ない し彼の独占する資源を使用しない生産方法の採用へと転換させるという効果を 指摘している。たとえば,オレンジ・ジュースを生産するにはオレンジを入手 せねばならな:い。かりにオレンジ・ジュース生産に有利な機会を発見した企業 家がいたとしても,すでにオレンジそのものが他の企業家に独占されていると したら,彼はこの分野へ参入することができない。企業家的過程は,彼をオレ ンジを使用しないですむ他の飲料水の生産に向わしめることになろう,という     う のである。  第2に,独占者は消費者の欲する財,たとえば,オレンジ・ジュースの生産 に必要な資源‘(オレンジ)の供給を制限することによって,これを過少に使用       の し,そのことによって,彼は独占価格(利潤)を実現することになろうという。 このような独占者の利益は消費者のそれと背馳するともいうのである。  ところで,このオレンジ・ジュースの原料となるオレンジの独占的所有とい う意味での独占概念には,いうまでもなく欠陥がある。それは,製品市場と同 様,資源についても,その定義いかんによっては,独占は成立しないし,逆に すべての資源所有者が独占者たりうることにもなる,ということである。たと えば,いまカーズナーの例示したオレンジのかわりに,日本産のみかんについ て考えてみよう。みかんといっても静岡産あり,広島町あり,伊予産あり,さ らに有田産ありというように,その産地は多いから,かりに伊予のみかんを, 独占しえたとしても,徳島や有田のそれをすべて買占めることは不可能であろ う。あらゆる産地のみかんを特定の個入が独占的に買占めるという事態は,余 22) lbid,, p. 210, 23) lbid., p. 107. 24) lbid., p. 111.

(13)

       独占の概念 13 りにも非現実的であり,空想的である。逆にみかんの製品差別化に着目すれば, 同じ伊予のみかんであっても,愛媛の響町農協のみかんというように限定され てくる。だから,ある特質をもったみかんを十分に狭く定義すれぽ,すべての みかん生産農家は資源独占者である,ということもできる。つまり代替性に着 目して広く定義すれば,みかん独占というようなものはありえないし,差別性 に着目して狭く定義すれば,すべてのみかん生産者は資源独占者でありうる。 だからこのような曖昧な定義は,前述した唯一の売手(生産者)即下占者とい        うラ う定義と全く同様に,意味をなさない。  かつてハイエクは,独占を特定の製品ないしサービスの売手が買手を強圧 (coerce)しうるかどうかを基準として定義しようとしたことがある。あたか も,オアシスにおける泉の所有老の如く,人びとが完全に依存する基礎物資を         独占者がコントロールする場合に発生する強圧が独占であるというのである。 このようなケースは全く存在しないわけではないが,現実の世界ではレア・ケ ースというべきであろう。通常は,買手が価格に影響されることなく購入する 必需品,つまり完全に非弾力的な需要曲線をもつ財とは,想像上の産物にすぎ ないからである。  なおカーズナーのいう供給の制限による独占価格の実現という考え方が,ミ ーゼスの独占観と共通する性格をもっていることは,すでに指摘・批判ずみで あるから,ここでは省略する。  ところで,ここでカーズナーのために一言弁護しておきたいことがある。そ れは彼がいうところの資源独占による消費者利益の侵害を,彼は必ずしも社会 悪とは見ていない,という点である。供給制限により,消費者が不利益をこう むるといっても,この点は長期的視点からは全く異なる評価を与えることがで 25) この論点はいうまでもなく,産業概念の有効性の問題とも関連する。とりわけ産業   組織論が対象とするような産業概念は,きわめて曖昧で,恣意的といわねばならな   い。売手集中度の分析等も,このような:恣意的な売手グループ(産業)を前提するか   ぎり,厳密な批判にたえられないように思う。 26) Cf., Hayek〔13〕p.136.

(14)

 14 彦根論叢 第227号        ヨリ きるとカーズナーは考えている。  カーズナーのいう長期的視点とは,現在の資源独占を,企業家がその資源を 買占めることによって,独占的所有者となることを決意したまさにその初期の 企業家的意思決定に関連づけて考慮することを意味する。この視点に立てば, 資源所有の独占とは,稀少資源の入手時に開始された企業家的プランの完成に ほかならない。そのプランは,彼がその資源を特定の用途に使用することの価 値,つまりその資源の持つポテンシャルを,企業家的機敏性によって知覚した ことが前提となる。他方,企業家的機敏性に欠ける他の生産者は,その資源の ポテンシャルを認識することに失敗したのである。このことの意味するもの は,この「結果としての独占者」に企業家的要素がなかったならば,その資源 の利用はおくれただろうということである。  ヵーズナーは,以上のように議論を進め,独占者の資源支配の解消を企図す る政策について次のような評価を下している。すなわち,独占者の資源支配を 解消させる政策,換言すれば独占者からその地位を奪う政策は,短期的視点か らは消費者の利益にかなうように見えるが,長期的視点からはそうとはいえな い。後者の視点からは,最初に資源独占を生み,その資源を現在の用途にふり 向けた企業家は,資源の利用可能性と消費者の嗜好との問の調整を改善したの であり,しかも彼はその資源の制限的利用から利益をうる目的でそうしたので ある。企業家の最初の行為を利用しつつ,その行為の動機づけとなった利潤を 奪うことは賢明とはいえない。かくて,カーズナーは以下のように結論する。 「彼らの企業家的機敏性が到達せしめた有利なその地位を,恣意的に奪う社会 政策は,将来におけるそうした機敏性を抑制することにならざるをえない。機 敏性は,それが彼を独占の地位に導くときですら,消費者の嗜好が満足させら         れる範囲を改善するだろうから,その抑制は遺憾といわねばならない」と。 27) ヵーズナーのいう長期・短期の区別は,標準的な近代経済学の教科書のそれとは全  く異ることに注意すべきである。詳細は〔15〕第5章(pp。187一一211)を見よ。 28)Cf., Kirzner〔15〕pp.241∼242.なお,以上のカーズナー所説のより詳細な紹介は  拙稿〔5〕においてすでに十年も前になされている。

(15)

欝占の概念  15  さて,私はここでいよいよPスパードのいう前述の第2の独占の定義,すな       29) わち新オーストリア学派の最有力な独占についての見解に論及すべき段階に達 したように思う。その独占の定義によれば,前述したように,独占は国家によ る特定の個人ないしグループに対する特権の供与によって,はじめて形成され るという。けだしその特権を与えられた者に留保されている特定の通商ないし 生産分野へは,他者の参入は許されないからである。この事態こそが,自由市 場では決して発生しえない,新オーストリア学派的意味での競争の反対概念と       30) しての独占である,というのがこの説の要点なのである。  このいささか古風な独占の定義は,イギリスのコモン・ローの独占観と一致 するものであり,16∼ユ7世紀のイングランドにおいて,商業と外国貿易の独 占,営業の自由をめぐって展開された王権とリベルタリアンの歴史的闘争に由        31) 来する由緒ある定義といってよい。多くの経済史家がこれを初期独占と呼んで いることは,常識に属する。  アダム・スミス(A.Smith)もかの『国富論』〔30〕で,政府によって賦与 された特権としての独占を,市民の「自然的自由」の侵害として激しい攻撃目 29)なぜロスバードの見解を,新オーストリア学派の最有力的見解とみるかは,一つに   は,ミーゼス,カーズナー型の見解を,アルメソターノやブロック,ロスバード等が   批判しているためであるが,いま一つには,ミーゼスその人が,ロスバードの見解に   賛成していたらしいという推測による.ミーゼスの妻の回顧的エッセイ〔19〕(p.158)   によれば,ミーゼスはロスバードの主著〔26〕がミーゼスの独占分析に完全に同意し   ていない点について,友人の質問に答え,「Pスバードがその研究書の中で述べてい   るすべての言葉に賛成である」といっている。察するところ,ミーゼスにとっては,   ロスバードとの異同をそれほど問題潤していなかったのではあるまいか。なお,ミー   ゼスの独占の定義は,前記の主著の〔20〕と〔21〕(pp・114∼115)とで,若干の相違   のあることにBlock〔2〕は注目している。 30) Cf., Rothbard〔26〕pp.59ユ∼592, 3!)Cf.,0’Driscoll Jr.〔22〕pp.191∼193.邦語文献として最:も注目されるのは岡田与   好〔23〕である。いずれ独占禁止政策を取扱うとき論評したい。

(16)

 16  彦根論叢 第227号 標としたことは周知の通りである。もっとも,『国富論』の中には,さまざま な独占概念の萌芽と見られるものが散見されるが,これは古典といわれるほど の書物に,多かれ少なかれ認められる共通の特徴である。大切なことは,その 片言隻句にとらわれず大局にたって彼の真意を読みとることであろう。そし て,このような立場から『国富論』を読めば,彼が独占を潜在的競争者を排除 する排他的な権利の政府による供与として把握し,それが「残忍苛酷な法律」 によって麦持されていることを攻撃していることは明らかであろう。とりわ       き う け,植民地貿易に対する独占に関説している個所は興味深い。  ガルブレイス流にいえぼ「英語で独占という言葉は悪い意味を持っており, それ以上に非暴力的な悪さという響きを持った言葉はごくわずか一詐欺,破       おお  壊活動,男色一しかない」が,このように,独占が邪悪な利益の追求ないし 暴政という響きを伴った悪い意味を持つ言葉として印象づけられてきたのは, その言葉の歴史的沿革の然らしめるところといってよい。  ところが,このような独占概念は競争概念がそうであったように,新古典派 経済学によって恣意的に歪曲され,あたかも非法律的参入障壁によって,自由 市場の中から自生的に独占が形成されるかのように論じられるとともに,他方 で伝統的な反独占感情を利用して,元来,競争と背馳するものでも,消費者利 益を損うものでもありえない大企業や,集中化された市場構造そのものを独占 として非難するという誤りをおかしてきた,というのがアルメンターノなどの       ラ 強調してやまない点である。  さらに,ロスバード流の独占の定義ないし独占観によって,政府の反独占立 法を論評すれば,独占を発生せしめる唯一の存在たる政府が,積極的な反独 占・反トラスト政策を講じるが如きは背理も甚だしく,その効果に期待できな いぽかりか,かえってそのような市場への介入が,新たな独占形成の原因とな 32)Smith〔30〕岩波三三く一)p.125,286,⇔p.338,371,375∼8,407∼8,㈲p.133,  433等参照。なお0’Driscoll, Jr. oP. cit., PP.193∼!96. 33)Galbraith〔11〕訳本251ページ。 34)詳細は拙稿〔6)を参照されたい。

(17)

       独占の概念 17 りかねない,ということになる。政府がこの点でなしうることといえば,一切 の法律的参入障壁を撤廃し,市場への介入を断念する以外にない,というのが           彼らの主張である。  新オーストリア学派の政策論の多くは,シカゴ学派やフライブルク学派な ど,他の自由主義思想を奉じる学派のそれと大同小異であるが,反独占政策に 関する批判については,きわだった特徴があるように思われる。国家を唯一の 独占の創出者と見るロスバードはもとより,ミーゼス,ハイエク,カーズナー 等,自由な市場においても,独占が形成される可能性を認める論者でさえ,そ の独占の形成と維持には,多くの場合,国家の助成が有力な役割を果している        ことを強調してやまない。  かつてハイエクは,本文だけでも400ページをこえる大著『自由の基本法』 〔13〕において,現代国家の経済政策ないし福祉国家の諸問題を論評したが, 独占に関説するところはまことに少ない。とくに独占問題については,“mo− nopoly and other minor prob工ems”と題する小節で,実質的には2ページにわ       きマ  たり論及しているだけである。これは彼が独占問題を文字通りマイナーな諸問 題の一つと考えている証拠といってよい。独占は,その厳密な定義はともあ れ,望ましくないが,反独占立法はそれ自体私的独占よりも,より有害である こと,それにもかかわらず,現代経済学は反トラスト立法のごときものを過大 に評価するきらいがあること,こうした認識は,新オーストリア学派の論客に 共通するものといえよう。  ところで,国家を独占の唯一の創出者とみるロスバードの独占観には果して 問題がないだろうか。率直にいって筆者は,ロスバードの独占の定義もまた, 彼の批判する独占の第1の定義(唯一の生産者・売手説)がもつ同様の難点を まぬかれがたいと考える。それは,政府特権の享受者たるロスバード的独占者 35) Cf., Rothbard (27) pp. 59一一61. 36) この点を的確に指摘しているのは,新オーストリア学派の経済学への適切な入門書  であるShand〔29〕(pp.125一一135.とくにp.131)である。 37) CL, Hayek (13) pp, 264一一266., Shand (29) p, !25’.

(18)

 18  彦根論叢 第227号 といえども,代替財・代替サービスの売手からの競争に直面する可能性がある からである。  たしかに,国家によって参入を阻止されている分野へ,私企業が合法的に参 入することは不可能である。しかし,独占分野で生産される財・サービスの代 替財・サービスの生産を行うことは可能であろう。だからロスバードのいう独 占が競争を完全に排除しうるには,自由に代替財を生産・流通させる可能性を も否定する全面的な国家統制を必要とすることになろう。そのような事態が非 現実的であることは論をまたない。  このように考えてくると,さきにロスバードによって三通りに定義された独 占概念は,Pスバード自身のそれをも含めて,いずれも問題を残しているとい わざるをえない。  元来,独占概念は,ドリスコール(0’Driscoi1)も示唆しているように,政策 論的含意と無関係に興味のある問題ではなく,むしろ,その政策論的含意こそ        38) がわれわれの興味をそそるのである。してみれば,あれこれと独占概念を詮索 するよりも,ロスバード的独占概念を中心とした新オーストリア学派の独占概 念のもつ現代資本主義における政策論的意義の解明に焦点をあてた考察こそ が,望ましくまた必要でもある,といえないだろうか。

V

 Ptス/〈 ・一ドやアルメンターノが固執する独占概念が,典型的には初期独占の それであることは明白である。そのような市民革命以前の特権的商人の特質を 表現するのに最:もふさわしい概念をもって,現代資本主義の独占問題を解明す るのは,必ずしも適切でなく,おのずから限界があるのではなかろうか。  他方,規模の経済性や製品差別化が原因となって形成された巨大規模企業や 高度に集中された市場構i三等,アルメンターノのいう非法律的参入障壁をもつ 産業を独占として批判することは,別稿〔6〕で指摘したように合理的根拠を 38) Cf., O’Driscoll, Jr. (22) p, 209.

(19)

       独占の概念  ユ9 欠くものである。このようないわゆる近代的独占は,カーズナー的意味におけ る競争の実践者であり,消費者利益を増進するものでこそあれ,損うものでは なく,したがってそれらが何等非難に値しないことは繰りかえし述べるまでも なかろう。  してみれば,一体われわれは現代資本主義の独占問題をどのように理解すべ きなのであろうか。問題の核心はどこにあるのだろうか。ハイエクのいうよう に,それはマイナーな問題にすぎないのであろうか。       39)  現代資本主義は,マルクス経済学者がいみじくも国家独占資本主義と呼ぶよ うに,政府の市場ないし企業活動に対する種々な形態での,様々な手段による, 様々の程度における介入・干渉を特徴としている。このような事態は,国王が 寵臣に対して外国貿易の独占権を認許するケースに典型的にみられる初期独占 を攻撃するためにこそ適切な用語であった独占といった,いわぽ手垢に汚れた 概念では,十分に理解しえないのではあるまいか。現代資本主義における政府 の市場に対する広汎な介入・規制は,私企業によって拒否されないばかりか, むしろ多くの場合,積極的に期待・歓迎され,私企業は政府規制の中に新たな 利益追求の機会を創造・発見しつつあるように思われる。このような現状は, 独占といった歴史の垢で錆びついた概念よりも,より現代的な,レソト・シー       40) キーソグ(rent−seeking)という概念によって,より明確に理解しうるように思 39)マルクス経済学でいう国家独占資本主義とは,その厳密な定義は暫くおくとして,   「私的独占体」が国家ないし公権力を体制維持を含む自己の利益のためにJ多面的に  利用するにいたる時期または状況を意味しているごとくである。ところが,ロスバー  ド的な独占観では,上述のように私的資本は国家を利用し,その享受した特権による  参入障壁に守られて,はじめて独占になりうる,というように理解されている。あら  かじめ形成された独占が国家を利用するのと,国家を利用して独占になるのとの相違  はあるが,両者が独占と国家の関係に着目している点は興味をひく。 40) ここでは.とりあえず,rent−seekingの概念を, Pasour, Jr・〔24〕(p 219)になら  って,「政治活動を通じて所得機会を創出しようとする個人あるいはグループによる  企図!と一応規定しておく。なおここでいう政治活動は,制度を創り出したり,それ  を運用ないし利用したりするあらゆる活動を含むものと理解されたい。なおrent−  seekingについては,さしあたり,Buchanan et. al.〔3〕が参考をこなる。

(20)

 20 彦根論叢第227号 われるがどうであろうか。  レソト・シーキングの概念と独占概念の異同,およびその関連性についての 詳察は別の機会にゆずるとして,とりあえず,ここで事柄の本質を理解するた めに,フリーードマン(M。Friedman)の述べる次の事例を借用して考察を進め たい。         フリードマンは次のような例をあげる。ここに6万ドルの貯金を持つAB両 氏がいるとする。Aはその6万ドルで需要の多い製品の製造工場を建設したの に対し,Bは6万ドルでニューヨーク市でのタクシーの営業免許証を買った。 両者ともその行為によって個人的財産をつくったことになるが,Aのそれは公 衆にとって有用な資:本財であり,彼は社会の生産能力を増加させたことにな る。これに対しBの財産は,以前のタクシー営業免許証所有者から,その財産 を移転しただけであって,社会の生産能力はこれによっていささかでも増減し たわけではない。  タクシーの営業免許証に市場価値が生じるのは,その免許証の数が当局によ って制限されているからである。Bは政府のつくった特権的グループ(カルテ ル)の一員となったわけで,その結果,Bはその労働の価値とタクシーの運転 の費用を上回る料金収入をうることができるのである。もしタクシーの営業許 可制限を廃止すれば,タクシー業界は自由競争となり,料金は下がるだろう。 これによって公衆は利益を得るが,Bの営業免許証は無価値となり,彼は財産 を没収されたのと同一の状態になる。だから彼は当然猛反対し彼の既得権益を 守ろうとするだろう。しかしこの意味でのBの財産没収は,Aの工場没収とは 同日の談ではないことに注意せねぽならない。Aの場合,もしそれがなされる とするならば,公衆に便宜を与える物的資産を国家が収用し,それによって公 衆の利益を損ねることになろう。しかしBのケースでは,公衆の利益はかえっ て増進することになるのである。  フリードマンは以上のような趣旨の議論を展開し,このようなタクシーの営 41)Friedlnan〔10〕訳本pp.79∼82参照。

(21)

       独占の概念  21 業免許証と本質的に同様のケースとして,「トラック運送業やバス事業へのI CC(州際交通委員会)の規制,航空会社へのCAB(民間航空局)の規制, テレビ・ラジオ・電話などへのFCC(連邦逓信委員会)の規制,石油や天然 ガスの上限価格規制,職業の資格規制,家賃統制,農産物価格支持,関税と輸 入割当制限など枚挙にいとまがない」事例を指摘している。そして,これらは いずれも,上述したタクシーの営業免許証と同様に,「公衆を害するような法 律によって,無からつくり出された私的権益の例である」と断罪するのであ る。  ここで,フリードマンの挙げたタクシー営業免許証のような事例に対して,       べ   レソト・シーキングという名称を付すことが許されるならば,現代社会がレソ ト・シーキング社会としての特質を帯びていることは余りにも明白であろう。 そこに発生する企業と政治(政治家・官僚)との癒着,政治を利用しての私企 業の利益追求におけるゆがんだ企業家的機敏性の発揮こそが,さまざまな不正 と腐敗を生み,体制そのものを腐蝕させているのではないか。ここに現代の独 占問題の核心があり,この核心に分析のメスを入れるのでなければ,独占研究 はその社会的生命を失うことになろう。  新オーストリア学派の論客たちも,独占の定義をあれこれ詮索し,いわゆる 初期独占の中にその典型を発見して自己満足するのは,決してその本意ではあ るまい。国家による法律的参入障壁という彼等の独占観は,現代にもっと深く 広く生かされねばならない。新古典派経済学ないし産業組織論のように,藁人 形を敵と誤認して攻撃するような愚行は避けねばならないが,同時に錆びた剣 はこれを研ぎなおすか,新しい武器と取り替える必要があるのではなかろうか。        引用文献および参照文献 (1) Armentano, D. T., “A Critique of Neoclassical and Austrian Monopoly Theory”,  Spadaro, L. M,(ed.) New Z)irection in Azsstrian Economics, PP.94∼110 ユ978. 42)念のためことわっておくが,フリードマンは上述の例に,rent−seekingという名称  をつけているわけではない。なお,シカゴ学派の政府規制に関するすぐれた文献とし  て,Stigler〔3!〕をあげておぎたい。

(22)

22 彦根論叢 第227号 (2) Block, W., “Austrian Monopoly Theory−A Critique”, Journal of Libertarian    studies. vol. 1. No. 4 (1977), pp. 271t−279. (3) Buchanan, J. M., Tollison, R. D., & Tullock, G., Toward a Theory of the    Rent−Seeking Society. 1980. 〔4〕Caves, R., American Industry:Stracture, Conduct, Performance,1964.小西唯雄    訳『産業組織論』東洋経済新報社,昭和43年。 〔5〕 越後和典「企業と市場一理論的展望一(1)(2)」『季刊現代経済』第14号(昭和49年),    第17号(昭和50年)所収。 〔6〕   ,「競争の概念」『彦根論叢』第218号(昭和58年1月)所収。 〔7〕  .「市場構造の意義」『同上』第219号(昭和58年3月)所収。 〔8〕  ,「産業組織論に対する一批判」『同上』第221号(昭和58年7月)所収。 〔9〕  ,「カルテルとその規制」『同上』第222,223合併号(昭和58年11月)所収。 〔10〕Friedman, M, Tyranny of the stattcs guo.1984.加藤寛監訳『奇跡の選択』三笠    書房,昭和59年。 〔11〕 Galbraith,」. K., The IVew Jndustriαl State.3rd. ed.1978.都留重人監訳『新し    い産業国家』TBSブリタニカ,昭和55年。 (12) Harberger, A, C., “Monopoly and Resource Allocation”, American Economtc    Rewieze,, Proceedings. Vol. 44 (May 1954) pp. 73一一87. (!3) Hayek, F. A., The ConstitutiJon of Liberty. 1960. (!4) Hutt, W. H., “The Concept ef Consumer’s Sovereignty”, Economic Journal.    (March 1940) pp. 66一’一77. (15) Kirzner, 1. M., Competition and EntrePreneurship. 1973. (16) Leibenstein, H., General X−Efficiencbl Theory and Economic Development. 1978. (17) Littlechild, S, C., “Misleading Calculations of the Social Costs of Monopoly    Power”, Economic Journal. 91 (June 1981) pp. 348一一363. 〔18〕Machlup, F., The EeonomicsげSeller’s Competition.!952.福田敬太郎監修・嚴    部正博訳『売手競争の経済学』千倉書房,昭和40年。 (19) Mises, M., Mor Years with Ludwig von Mises. 1976. (20) Mises, L., Human Action. 3rd Revised ed. 1963. (21) 一, Pganning for Freedom. 4th ed. 1980. (22) O’Driscoll, Jr., “Monopoly in Theory and Practice”, Kirzner, 1. M., (ed.) Met−    hod, Process, and Atcstriαn Economics:Essay in HonorげLudwig won Mises.1982, 〔23〕 岡田刑期「独占と営業の自由』木鐸社,昭和50年。 (24) Pasour, Jr, “Monopoly Theory and Practice一 Some Subjectivist lmplications:    Comment on O’Dri$coll”, Kirzner (ed.) oP. cit, pp. 215一一一223. 〔25〕 Robinson, J., The Eeonomics of lmperfeet Competition. First ed.1933.加藤泰男

(23)

  訳『不完全競争の経済学』丈雅堂書店,昭和37年。 (26) Rothbard, M. N., Man, Economy, and State. !962. (27) 一, Power and Market. 1970.

独占の概念

23 (28) Scherer, F. M,, lndustrial Market strttcture and Econonzic Perfor・m,ance, 2nd ed.   1980. (29) Shand, A. H., The Capitalist Alternative: An lntroduction to Neo−Austrian   Economics, 1984. 〔30〕 Smith, A., An lnguiry into the Nature and Causes of the WealthげNations,   (ECannan ed. Modern Library!937)水田洋訳『国富論上・下』河出書房新社,   昭和45年。大内兵衛訳『国富論,(→に’㊨㈲㈲』岩波文庫,昭和15一一!9年。 〔3/〕Stigler, G J., The Citizen伽4伽3耐θ:Essay on Regulation 1975,余語将尊・   字佐美泰生訳『小さな政府と経済学』東洋経済新報社,昭和56年。

参照

関連したドキュメント

の変化は空間的に滑らかである」という仮定に基づいて おり,任意の画素と隣接する画素のフローの差分が小さ くなるまで推定を何回も繰り返す必要がある

うのも、それは現物を直接に示すことによってしか説明できないタイプの概念である上に、その現物というのが、

成される観念であり,デカルトは感覚を最初に排除していたために,神の観念が外来的観

に着目すれば︑いま引用した虐殺幻想のような﹁想念の凶悪さ﹂

例えば,立証責任分配問題については,配分的正義の概念説明,立証責任分配が原・被告 間での手続負担公正配分の問題であること,配分的正義に関する

例えば,立証責任分配問題については,配分的正義の概念説明,立証責任分配が原・被告 間での手続負担公正配分の問題であること,配分的正義に関する

これは基礎論的研究に端を発しつつ、計算機科学寄りの論理学の中で発展してきたもので ある。広義の構成主義者は、哲学思想や基礎論的な立場に縛られず、それどころかいわゆ

[r]