著者
柳原 敏昭
雑誌名
東北大学史料館紀要
巻
14
ページ
35-50
発行年
2019-03-15
URL
http://hdl.handle.net/10097/00126874
はじめに 東北帝国大学新聞は、1936年10月から1938年 8 月まで、東北帝国大学新聞会によって発行さ れた。新聞会は教員の会長・顧問、理事(学生主事)1)、そして各学部から選出された学生委 員からなっていた。同新聞は、新聞紙法の適用を受けており、発行には公費も投入されていた。 大学の顔ともいえる存在であったといえよう2)。 この新聞は原則毎月 2 回、28号まで発行されたが、現在まとまったかたちで現物を確認でき るのは、わずかに創刊号(1936年10月26日)の 3 ~ 6 面に過ぎない(東北大学史料館所蔵。 1 ・ 2 ・ 7 ・ 8 面の写真も残る)。このほかに東北大学史料館所蔵『思想関係新聞記事』と旧石巻文 化センター所蔵「布施辰治関係資料」にそれぞれ二つずつ記事の切り抜きがのこされている3)。 また、東北大学史料館所蔵の『大学新聞関係書類』という簿冊に当時の学生課が「左翼的記事 ノ主ナルモノ」と判断した記事見出のリストが掲載されている4)。東北大学にとって貴重な資料 であるにもかかわらず、どのような新聞であったかを知る手がかりはごくわずかなのである5)。 そうしたなか、2017年 5 月、東北大学史料館は、『東北帝国大学新聞』第12号(1937年 6 月14 日発行)を古書肆から購入することができた。多少の劣化はありつつも、すべての紙面が揃っ た現状では唯一の「完型品」である(後掲の写真参照)。小稿ではその希少性に鑑み、概要を紹 介するとともに、東北大学史において重要と思われる記事のいくつかを取り上げ、解説を付す こととしたい。 なお以下、原則として次の略号を用いる。 東北帝国大学:東北大 『東北帝国大学新聞』:『新聞』 東北大学史料館所蔵『大学新聞関係書類』:『書類』 『大学新聞関係書類』所収の学生課による「左翼的」記事見出リスト:「記事リスト」 『新聞』の引用にあたっては、旧字体を新字体に改め、ふりがなは省略した。また、本来の縦 書きを横書きに直した。句読点や一字下げが不安定な箇所が散見するが、原文のままとした。 1 概要 まずは、『新聞』12号の概要を述べよう。 判型はブランケット判(通常の新聞紙に同じ)で、 4 面からなる。前述した創刊号は、やは りブランケット判であるが、 8 面構成である。創刊号が記念号6)として特別編成で、通常号が 4 面だったのか、あるいは中途から紙面が減少したのかどうかはわからない。 題字下には、次のようにある。 毎月二回発行 定価 一部金五銭(以下、原文は縦書き-引用者) 広告料 一行金五十銭 記事中二倍場所指定二割増 発行編輯兼印刷人 米倉策郎
〈資料紹介〉新出の『東北帝国大学新聞』第12号
柳 原 敏 昭
発行所 仙台市片平丁東北帝大内東北帝国大学新聞会 電話番号・振替番号略 定価、広告料の基準等が知られる。「発行編輯兼印刷人」の米倉策郎は法文学部の学生である。 次に記事の見出し(判明する場合は執筆者)と広告主を 1 ~ 4 面それぞれについてまとめて 表として掲げる。記事を先、広告を後とし、概ね紙面の右から左、上から下の順で掲載した。 紙面構成で意外なのは、第 1 面がすべて広告で埋められていることである。あるいは、上記 の「広告料(中略)記事中二倍 場所指定二割増」と関係があるのかもしれない。つまり、 1 面の 広告料を高く設定し、そこに多くの広告を載せることで収入を増やそうとしたということである。 1 面の広告の大部分が専門的な書籍の宣伝であることに大学新聞らしさが出ているといえようか。 表 東北帝国大学新聞12号概要 掲載面 番号 区分 名称 筆者 広告主 備考 1 面 1 広告 寺島柾史『日本科学発達史』 渡部政盛『日 本的なるものゝ研究』 松室隆光『演習平面 立体解析幾何学問題詳解』 他 啓文社 2 広告 『重要高等試験科目問題集』 高等試験研究会 3 広告 「愛国切手に拠る標語募集!懸賞金一千円」 丸善アテナインキ 愛国切手は、土井晩翠子息栄一―晩 翠―宮城県選出代議士・内ヶ崎作三 郎のルートで帝国議会に提案された 慈善切手を起源としている(* 1 )。 4 広告 瀧川幸辰『刑法雑筆』 文友堂書店 5 広告 内田穣吉『日本資本主義論争』 『世界政治 経済情報』第一輯・第二輯 清和書店 6 広告 日本のインキを代表する 丸善アテナインキ 7 広告 ミルクホールへ ! 早川牧場ミルクプラント 地元 8 広告 『河北経済』六月号 河北新報 地元 9 広告 林博士遺著刊行会編纂『和算研究集録』 東京開成館 10 広告 土屋喬雄編著『日本資本主義史論集』 服部 之總・信夫清三郎『日本マニュファクチュア 史論』 育生社 11 広告 石橋栄達他『動物学』 裳華房 12 広告 中村重夫編『金融法典』 南郊社 2 面 1 記事 学内時評 前進か後退か 2 記事 評議員会決定 明年度予算案決定 航空工 学科実現か 〝準戦時代〟色濃し 工学部 経費七十数万円 航空工学科創 設 理学部 〝原子物理学〟外五講座新設 医学部 解剖学講座充実 法文学部 日本固有法論講座外三講座新 設 本部関係予算 学生集会所、寄宿舎(医) 主として学生施設 学生集会所 医学部寄 宿舎 武道場 講堂 3 記事 創立記念日 今年は至つて寂寥 二十年勤 続者表彰式 4 記事 (医)総長座談会 学生の質問意外に少く 閑散を極む 5 記事 高等官懇親野球 先生方奮戦 6 記事 日本文化講義 〝最近の電気工学に就いて〟 工学部渡邊教授 7 記事 機械学会 通俗講演会 8 記事 北畠顕家六百年記念祭挙行―史学会主催― 9 記事 経済学友会春季総会 新委員決定す 10 記事 シュプランガー博士講演会 日独文化交歓 聴衆堂に溢る 11 記事 定期身体検査 入念丁寧に行はる 12 記事 夏山は招く 体連山岳部スケジュール 13 記事 近く作品展開催―写真同好会張切る― 14 記事 日大(医専)でも食堂自営か? 学友会委員 自治会訪問
15 記事 廣濱教授を囲み〝高文 座談会〟 16 記事 物理優勝 渡邊教授(岩)の力闘空し 自修 会庭球大会 17 投書 シュプランガー博士を聴く 18 記事 ウィリアム氏 溶岩流研究に来朝 19 記事 法学会賞 受賞者決定 20 記事 理学部 自動車同好会生る 21 記事 天狗集まる 工明会 22 広告 革靴新調並修繕及附属品 小澤靴店 地元 23 広告 原稿募集 投書箱へ! 編輯室へ! 新聞会 24 広告 『国家試験』 『国家試験』は雑誌。 25 広告 『学生評論』七月号 学生評論社 3面 1 寄稿 科学 メタビオロギーへの動向 永野為武 永野為武(1910―94)は当時、理学部 副手。のち東北大学教養部教授。俳人 としても知られる(*2)。 2 記事 研究所巡り⑤ 沖の江ノ島海猫の名所 女 川海洋水産化学研究所 3 寄稿 染色体 科学用語と古典 Y 生 4 寄稿 感想 SM 生 5 寄稿 電子望遠鏡及顕微鏡の考察 藪本忠一 藪本忠一は、1937年 4 月東北大理学 部入学、40年卒。国際電気通信株式 会社技術研究所などを経て、戦後は 静岡大学・明治大学教授を歴任し た。1937年 6 月時点では東北大生 (* 3 )で新聞会委員。 6 記事 科学トピツク 抜山博士研究完成 臨海実 験所新装成る 7 広告 キリンビール 麒麟麦酒株式会社 8 広告 理髪洋髪は東海林 東海林理髪店 地元 9 広告 ワインツワイグ著『日本コンツエルン発達史』 ヨールソン著『資本主義貨幣制度論』 最新 入庫 図南荘書店 地元 10 広告 スヰング 仙台文化キネマ 地元 11 広告 Camera は櫻井光栄堂! 櫻井光栄堂 地元 12 広告 万年筆パイロット 文房堂 地元 13 広告 本邦唯一の文化新聞 日本学芸新聞 日本学芸新聞社 14 広告 蓄音機とレコード 名曲豊富 東楽堂 地元 15 広告 御写真はつぼゐ つぼゐ 地元 共済部指定 16 広告 古本 伊藤博文堂 地元 17 広告 洋菓子 純喫茶 果実 ヒロセ 地元 4 面 1 寄稿 風刺映画覚え書 スラップスティック喜劇 は滅んだ 今村大平 今村は普通「太平」と表記される。映画評論家、1911―86、(* 4 )。 2 記事 太田教授留任運動座談会 3 記事 声明書 4 寄稿 ザメンホフの弁護(下) 小泉七郎 小泉七郎(本名:大泉八郎、1910― 44)は、河北新報記者で仙台エスペ ラント協会会員(* 5 )。 5 広告 近日開店間近 丸見屋 地元 喫茶店 6 広告 エビス生ビール エビスビヤホール 地元 7 広告 時計・ユビワ 猪股 地元 8 広告 洋菓子とパン クローバー 地元 9 広告 十七日より三大名篇 恋人の日記 描かれ た人生 人生謳歌 日乃出映画劇場 地元 10 広告 衛生技術親切本位 オリオン理容所 地元 11 広告 本格的アメリカスヰングジャズ演奏 スヰング 地元 喫茶店 12 広告 初夏は颯爽とビールで バー・キリン 地元 13 広告 十五日開店 タモン 地元 食堂 14 広告 甘党も辛党もお揃いで だるま 地元 食堂 15 広告 初夏の陶酔境 孔雀 地元 居酒屋 * 1 : 後藤斉「寄付金つき切手の生みの親 土井英一」(同『人物でたどるエスペラント文化史』一般財団法人日本エスペラント協会、2015年)。 土井英一はエスペランティストでもあった。 * 2 :「永野為武教授著作目録」東北大学記念資料室(1974年) * 3 :東北大学史料館所蔵『学位183 東北大学』(1962年) * 4 : 杉山平一『今村太平:孤高独創の映像評論家』(リブロポート、1990年)。同著には、「今村太平という人は、第二次大戦中から戦後にか けて十数年、日本の映画評論、映画批評界を席巻した人物である」との記述がある。なお、今村は1932年に共産党シンパとして検挙され、 以後、保護監察下にあった。 * 5 : 峰芳隆監修 柴田巌・後藤斉編『日本エスペラント運動人名事典』(ひつじ書房、2013年)、後藤斉「70年前のエスペラント・カップル」(同 『人物でたどるエスペラント文化史』一般財団法人日本エスペラント協会、2015年)。大泉は、東大在学中に社会主義運動に関わり、退学 となったという。
2 学生食堂問題 ここからは、筆者の関心に基づいて、次の三つの主題に関わる記事等を紹介し、コメントを 加えておきたい。①学生食堂問題、②太田正雄医学部教授留任懇請運動、③学生課から「左翼的」 と見なされた記事、である。まず、①から始めたい。 【資料 1 】学内時評 前進か後退か(表 2 面- 1 ) (一) 昨冬、本学四学部学生間に提唱された本部食堂の改善問題は、結局自営を目指して準備委 員会を結成し極力其の実現の為に協力するに非れば根本的改善は到底不可能なりとの結論の 下に、法文共済部の積極的乗出しとなり工明会、自修会と提携して種々奔走する処あつたが 其後具体的進捗を見るに至らずして今学年度に持越され、今や再び上記三団体の間に其の具 体策が真剣に考究されるに到つてゐる、今理、工、法文三学部学生の総合的意見を見ると先 づ現在食堂経営を改善す可き目的を以て広く学生大衆に呼び懸け食堂問題に対する輿論を喚 起し学生大衆の絶対なる支持の下に改善準備委員会を結成、然る後漸次初志の目的を達成せ んとするにある模様であるが(ママ)斯くの如き改善案が、根本的改善策として最初に結論された 自営実現への第一歩の前進であるか、或は事勿れ主義に禍ひされた無意識的妥協であるか、 将又、前進の為の戦略的後退であるかは、今後の活動と其の実行とに其の判断を俟つ事とし て我等は深甚なる注視を怠らざるものである。 抑々此の食堂問題提唱の直接の動機は医学部自治会に於ける自営食堂の明朗なる成功に刺戟 せられて此処に其の端を発してゐる事は我等のよく知る処である。 蓋し医学部に於ては、其の地理的不利其の他の原因に依つて現在の本部食堂の如き請負制 の食堂経営が数回に亘つて失敗に帰した結果、請負制の経営は医学部に於ては到底不可能な る事が結論され、自治会監督下の請負制なる変態的方法を採るの止む無きに至り、然も此の 方法が又赤字続きの不成功を齎して、遂に食堂は自治会の癌的存在であつたものである。 (二) 斯く医学部食堂の歴史が物語る如く、この学部に於ては自営に至らざるを得ない必然性が 最初から存在したのである。而してこの必然性の具体化を可能ならしめた偉大なる力は、医 学部四百の学生大衆を打つて一丸とした自治会の組織のあつてこそ始めてこれを発揮する事 を得たのである。 さて、斯かる認識の下に本部食堂の改善運動を眺める時、我等は此処にやゝ趣きを異にせ るものあるを認める。即ちこの度の運動はその組織と機能とを夫々異にする前記三団体の綜 合的運動であり、就中、痛切に感ずるのは最も活動的であるべき共済部の組織が法文学部の 有志団体に過ぎざる事実である。この事が該運動の実践に於て或ひは致命的無力を暴露すべ き事あるを我等は最も懸念する。 この意味に於ても法文学友会の一日も早き誕生を切望して止まない。真に法文学部の全学 生を包含する学友会の逞しき力こそ学生々活の向上と文化的教養とに資するものである。 学友会の設立運動も今学年に持ち越され時に設立実現への努力がなさるべき好期を迎へて ゐる。この成功と失敗とは一に掛つてその学友会の組織如何に依つて決定される、即ち全学 生の意志を正しく反映し、真に代表し得るものでなければ寧ろ無きに如かざるの轍を踏む事
となるからである。真に力ある学生団体を生むためには全学部学生の力強き支持の許にその 運動が進められなければならぬ。形骸的存在に過ぎざる観のある小委員会は、充実せる高校 別代表団の復活を速かに行つて学生の自主的成長の自由を確保する学友会の設立へ邁進すべ きである。 食堂運動並びにこれと直接不可分離の関係にある法文学部学友会設立運動の成功を切望し、 当該運動に携はる委員の熱意に期待して止まない。 1937年 6 月当時、東北大には理・医・工・法文の四学部があり、医学部が北四番丁(現在の 星陵地区)、他の三学部が片平に校舎を構えていた。 片平地区の食堂は、民間業者が大学の委託を受けて経営していた。ところが、この食堂に対 する学生の評判はすこぶる悪かった7)。 こうした不満を受け止めたのが、法文共済部である8)。1931年 7 月頃に実質発足し、1934年 1 月に公認された、現在の大学生協類似の相互扶助組織である。片平地区に売店を持ち、共同購 入した文房具や生活必需品を販売するほか、文化活動も活発に行っていた。 法文共済部は、1937年 2 月15日に学生課と食堂自営について交渉したが、学生課は承知しな かった(『特高月報』昭和12年 2 月9))。同 6 月 8 日には、新聞会主催で「学生々活を語る座談会」 を開催し、食堂問題も議題にのぼせた(『特高月報』昭和12年 6 月)。資料 1 は、食堂問題が佳 境に入った時期に書かれた、通常の新聞であれば社説に相当する文章である。 ここで指摘されているのは、法文共済部中心の運動の限界であり、片平地区の三学部が一致 して運動する必要性を説いている。その際の焦点は、学友会を動かすことであるとも言ってい る。 資料 1 に見える工明会、自修会がそれぞれ工学部、理学部の学友会である。一方、法文学部 にも強立会と称する学友会があったが、学部学生自治会設立運動が勃興する中で、1932年12月 に解散となっていた10)。 そうした状況の中で、資料 1 は、法文学部学友会を再建して、理・工学部学友会と共に食堂 問題解決に邁進すべきだと主張しているのである。上述の新聞会主催「学生々活を語る座談会」 でも法文学部学友会問題が討議されている(『特高月報』昭和12年 6 月)。また、後掲の資料 4 でも法文学部に学友会が必要との発言が複数なされている。ただし、学友会は、本来、教職員 と学生の親睦団体の域を出るものではない。資料 1 は、既存学友会も含めて、「学生の自主的成 長の自由を確保する」団体へ変革することを提唱している。 ところで、片平地区に学生自営の食堂は実現したのであろうか。答えは否である。法文学部 学友会も再建されることなく終わっている。 一方、医学部の場合は、かなり様相を異にしていた。資料 1 にもあるように、食堂の学生自 営が実現していたのである。医学部には、1922年頃に発足した自治会という生協類似の組織が あった11)。この団体の尽力で1932年末に、まず単なる民間業者の請け負いによる食堂から「自 治会監督の下の請負制」による食堂へと移行した。しかし、これは「変態的方法」との評価を 受け、ついに1936年秋までに自治会自営の食堂を実現したのである。『新聞』 2 号には「医学部 自治会自営食堂、明朗な学生自治の勝利」(1936年11月18日)、同20号には「学生自営の凱歌(自 治会食堂決算報告)」(1937年11月29日)という記事があったことが知られる(「記事リスト」)。
学生サイドの評価とはいえ、かなりの成功を収めたのはまちがいなかろう。 それと関連するのが『新聞』12号所掲の次の記事である。 【資料 2 】日大(医専)でも 食堂自営か? 学友会委員自治会訪問(表 2 面-14) 去る十一日(金)突然日本大学医学専門部学友会委員十名が医学部自治会を訪問した、例年 の如く日大の修学旅行の仙台訪問であるが、今回訪問の目的は殊に本帝大新聞紙上により自 治会食堂が学生自身の手において経営されていゐることを知り、経営状態及び学生の利用程 度等について非常な関心を持ち是非その詳細を実地において見たいといふ意嚮であつたので ある、日大においても学生食堂は非常に粗悪なるため学生の排撃を喰ひ、本学自治会の食堂 自営の成績を聞き、遂に学友会が食堂経営を決意するに至つたので今般修学旅行を利用し自 営食堂の実地見学に来たものであつた、同委員等は早速食堂委員との懇談会を開き、如何に 学生が食堂を利用してゐるか、また自営が如何に合理的であるかを実践的に把握して非常に 喜んで帰つた、翌日学生一○○余名が再び医学部を訪れ、加藤内科の講義を聴き、講義終了 後自治会大広間において懇親会を開き、食堂自慢のランチの饗応に大喜びで仙台を出立した、 今度いよ〵 〳 最初は三千円の予算で学友会が食堂を自営する事に決意したのださうである 日本大学医学専門部の学生が、修学旅行のついでに医学部自治会をたずね、食堂経営につい て実情を見聞したという記事である。医学部の学生自営食堂が、全国的にも注目を集めていた ことが知られよう。 3 太田正雄医学部教授留任懇請運動 続いて、太田正雄医学部教授留任懇請運動関係記事を取り上げる。 太田正雄(1885-1945)は、1926年に東北大医学部皮膚病学・黴毒学講座の教授として迎え られた人物である。医学部附属病院長、評議員も歴任している。一方で、木下杢太郎のペンネー ムで知られる当代一級の文学者、文化人でもあった。しかし太田は1937年 5 月に東京帝国大学 医学部に転出する。その情報は同年 3 月に学生の知るところとなり、前代未聞の留任懇請運動 が展開された12)。ここで取り上げる二つの記事はそれに関わるものである。 【資料 3 】声明書 太田教授留任懇請運動実行委員(表 4 面- 3 ) 太田教授に対する留任懇請は、医学部学生の真摯なる叫びにも拘らず、遂に不成功に終わ つた。この全面的責任は実行委員会にあるのであつて、我々は、深くこの罪を感じ、こゝに 数次の鳩首熟考を重ね、教授訪問に際し示された示唆と、我々個々の感得事項を綜合検討し て、教授転出の遠因を究め将来に備ふる結論を得て、聊か我々の不明を謝する考へである。 太田教授との折衝において感得せる示唆を経とし、先輩の助言委員会の討議を緯として、 本学優秀化の根本策を考究するに、 第一に本学の発展は、先づ懸つて教授団の努力にある。幸に当医学部は堂々の教授陣を張 り、その研究は能く東北帝大の名を海外に宣揚し得た。今後はなほ、更に鋭鋒を内部に向け、 制度、設備の欠陥を匡し、このためには教授団及学内一般の一致協力を望んで已まない。 第二に研究機関の綜合的組織化に努力すべきである。太田教授転任の理由の一も、本学に
おける癩研究所設立の可能性の希薄にあることを非公式に仄かされた。近来文部省予算は極 度に縮小されてゐる故に、研究所設立の問題は結局地元の寄附に財的援助を求めねばならな い。本学が不利とするのはこの点である。しかし、研究者が斯界の権威者であり、研究対象 が社会の要望と進展方向に沿ふものであれば、何等かの打開策無しとしない。優秀なる教授 を発見して支援し、これを適当なる方法を以て対外的に宣揚し篤志家を動員すべきである。 我々は一応本多総長の金研を想起する必要があると信ずる。 第三に我々学生及同窓生は、愛学運動のため、各自の位置において努力すべきである。太 田教授は、東大が母校であるが故に一種望郷に似た気持に支配さるゝ所もあつて転任を決意 したと語られた。人情の自然としてさもあるべきで、我々も、この言葉の前には一種索漠た る感無きを得ない。我々は無条件に艮陵畑出の人物を以て、教授陣を堅めんとする派閥的野 心を云々するのではなく、現在の教授団に遜色なき一流人物の同窓より輩出するのを切望す る者である。斯くして我が学園の充実性は如実に顕揚せられ、同時に教授転任に際しての望 郷の情云々の顧慮は不必要に帰すると信ずる。斯かる方向への種々な具体的方策は兎も角と して、教授級以上の人材を、本学より雲の如く嗾出さすべく努力すべきである。以上簡単な がら留任懇請の経過結論を省るに、畢竟学内行政、就中教授任免に関しての学生意志表明の 運動であつた。そして、本学の健全なる発展こそ留任運動の根本対策なるを結論して実行委 員の責を終り、今後の永続的活動を各学内団体に希望し、その実現を期待する。 (起草委員、藤田、荒井、梅津) 【資料 4 】太田教授留任運動座談会(表 4 面- 2 ) 貧弱なる研究設備が転任の第一原因 宮 崎 今夕新聞会の主催で皆様の御出席をお願ひ致しまして此処に太田教授問題を中心に座談 会を持ちましたのは、此の問題は単に医学部のみの問題として片附けられない多くのものを その中に含んでゐると思はれますので全学的の問題として皆様と御一緒に考へて見たいと思 つたからです。先づ何故こんな事が起つたか又我々は此の問題に対して如何なる態度を採る べきか又将来斯る問題を防止するには如何にすべきか等に就いて検討し度いと思ひます。そ の前に一通り医学部の方からこの問題の経過をお話し頂き度い。 藤 田 大体の経過を申して見ます。太田教授が遠山教授の後任として東大に転任するかも知れ ないと云ふ風説は昨年の夏頃からあつたのですが我々はこんな風説で動くわけには行かない ので実際問題として採り上げたのは三月になつて東大及び本学の教授会で太田教授転任の件 が討議された時からです、太田さんは木下杢太郎としても著名であるし又遠山教授と並んで 皮膚科の権威である、我々としては衷心から太田さんを慕つてゐるので成功不成功は別問題 として留任運動を起さうと云ふことになつたのです、それで三月二十二日に第一回の有志委 員会を開いて太田さんを訪問、事情を聞いた処極く最近転任を決意せられたとの話でした、 此の決意を学生の留任懇請の熱意で翻して頂く為にいよ〵 〳 休暇後の四月に入つて具体的運 動をやる事にした、只其の際学生運動が兎もすれば思想的背景を云々され易いから気を付け て純然たる師弟の情に発したものであると云ふ動機を強調したのです、四月になつて艮陵自 治会両委員会を開き留任運動を起す事に決定、直ちに学生大会を開いて(一)留任運動を起 す事(二)実行委員として十六名の学生代表を選ぶ事(三)具体的方法は実行委員に一任の
事の三提案をなして可決を得た。選ばれた学生代表は卅日に太田さんを訪ねて学生の意嚮を 伝へて極力留任を懇請した。然し残念乍ら今からでは翻意は不可能だとの答へを聞いたので す、我々はそれでは転任を決意された動機に付いてお伺ひし度いと申した処恩師土肥教授の 下に学んだ東大が母校である事が最も大きい動機である、又之は夢かも知れぬ事で公式には 言へぬが癩研究のためには東大の方が設備の上で可能性がより大であると思はれる事である と述べられた、こんな有様で我々の運動は実質的に失敗に帰したのです。 宮 崎 只今のお話で大体判りました、太田さんが東大に行かれた動機としては東大出身の事は 別として底を割れば公式には言へぬがと前提された研究設備の不足に学者として障害を感ぜ られてゐたわけですね。 藤 田 学者としての立場から言へば研究所がない事が大きな原因だと思ひますね、尚ほ原因と しては此の外に東北の学生は張り合ひがないという事があるのじやないか。 宮 崎 東大が母校である事は仕方がないとして今藤田君が挙げられた二つの原因が問題になる と思ひますがさうすると研究所設立に就いては何かお考へですか。 藤 田 研究所の設立の可能性を作る事であると思ふね、当面の問題としては軍需予算が膨大の ため文部省予算は益々小さくなる状態で、多くは先づ地方の財閥が寄附して作れば文部省で 維持して行くと云ふ方針らしいが東北にはそんな財閥がない、又文化に対する理解も少い。 茅 野 工学部は軍需景気で軍備に関係ある研究も多いから設備はまあ完全であるし教授が東大 に移つたと云ふやうな事もないから学生も幸福なわけです。 設備 要望の叫びは学生から‼ 白 井 理学部では三月の卒業生送別会に太田教授を迎へてお話しを伺つたので特に教授には懐 しみを感じてゐたし今度去られるに就いては非常に淋しみを感じた、然し留任懇請は先生に 御迷惑を掛けないか何うか…… 藤 田 然し学生は欲を持つてよいと思ふ、少くとも希望を伝へる事位は許されるだらう、帝大 は何所の帝大も同じであるべきで植民地視されて卑屈になる必要はない。 白 井 先生が去るのを防ぐには学生として不可能な事、例へば地理的、経済的条件等と一方可 能な、例へば学生がよく張り切つてゐて魅力があるといふ事などとを区別して地理的不利等 の条件を勉強で補はなければならない。 兵 藤 僕は入学した許りでよく分りませんが要は学問に対する熱情が根本問題で之が教授と学 生とを結び付けるべきである。 赤 坂 さうだ、我々の問題となし得るのは真理に対する熱情を持つ事だらう、東大が母校だと 云ふ事には我々としては何とも仕方のない事だし研究の設備だとか予算などは政治的問題で 我々学生としては無能の事ではないか、太田さんの場合我々は真理、文化に対してどれ丈熱 心だつたかと云ふ事が問題であると思ふね。 佐 藤 さうですね。 藤 田 然し設備を全然問題外だと無関心では居れない、成程文部省の予算は少いが特別のもの には研究所の経費も出るし其処でなければ出来ない研究もある。金研も住友が出したそうだ が特色ある重要な研究を多くするには大いに設備の問題が関係する。 梅 津 学生と教授とを結ぶのは真理への熱情であるべきだと言ふ事は実にその通りです、然し
我々が太田さんが去られる主要な原因が設備の不足にある事を知つたら安心して居れないじ やないか、教授も満足して真理の探究に没頭する事が出来ない、究極の目的を達するには是 非共此度の運動がなされなければならなかつたものであるし又研究設備に対する叫びも当然 起るのではないだらうか。 兵 藤 さうです。僕等も此の運動にその意義を認め、又この運動の成功を祈つてゐた、只それ が失敗したのは残念な事だ。 赤 坂 僕は文化的施設に学生が無関心であつてよいと云ふのではないがさう云ふ問題を採り上 げる形式が問題だ。 宮 崎 何う云ふ形式でせうか。 赤 坂 それは新聞を通じたり他の機関を通じて教授達に知らせて教授会を動かすより方法がな い。 藤 田 教授に知つて貰ふには我々の学部では学生の団体もあるし更に直接に教授にこんな運動 の意嚮を伝へる方がよい、兎に角学生が動かなくては話にならないのじやないか、又教授の 政治的手腕や熱心さが力を発揮するのであつて例へば京都では癩の研究所を生物学で持つて ゐると云ふ話だが之などは全学的に教授が結束して要求した結果得たものださうだ。 宮 崎 さうすると斯んな要求は学生側の要望の叫びと同時に之を反映する先生方の協力も必要 であると云ふ事になりますね。 梅 津 実際此の度の留任運動は始めから失敗に終る見透しも多かつた、それにも係らず兎も角 やつて見た結果から云へば失敗したとは云へ学生の希望や意志が具体的な姿で現れ得た丈で も効果は大きいと思ふ。 齋 藤 で、其の希望や意志を伝へる機関への希望があるわけだねまあ、学内行政にとでも云ふ か之に学生の要求を知らせる事は大きな問題ですね。 宮 崎 今はさう云ふ機関がありますか、学生全体としてどんな希望を持つてゐるかを伝へるも のがないと云ふ事は……他の学部のやうに全学的な学生団体がある所はまだ便利ですが法文 など学友会的なものを持つてゐないのは全く不便でもあるし不利ですね。 佐 木 理学部の自修会なども親睦に重きを置く会で別に留任運動をやつた歴史もないし、又や るにも不適当じやないか…… 梅 津 其の点は艮陵会なども同じ事ですね、自治会にしろ艮陵会にしろ此の度の運動の事は全 く非常手段的なものと云へるでせう、只それにしても斯う云ふ会があつたからこそやればや れたのであつて、其の点は全然ないよりははるかに学生の希望を伝へ得るでせうね。 内 藤 法文にももつと学生と大学当局との中間的機関を作ること、例へば学友会のやうなもの を作り、学生自身の希望を示す事は実際必要になつて来るね 大 友 学生が先生を鞭撻するとでも言ふか…… 茅 野 工学部では学生の猛烈な希望で出来た航空研究会がある為に現在航空科が新設されるか どうかと云ふことまでになつてゐる、之などは配属将校の後援もあるが兎に角学生の声と云 ふものは大きいね。 和 泉 さうだ、教授の研究所設立は学生から要求されてこそ可能だね。 三 澤 結局学生が後押しになつて教授に研究所設立の為に気運を作って貰ふ、それと同時に我 我は仙台市民にもアピールして本学の存在に対する誇りと恩恵とを認識せしめて一緒に此の
気運を起させるやうにすれば実現が可能であるまいか。 藤 田 専門外の人達にも知つて貰ふ事は宣伝上必要だらうね。 三 澤 例へば長岡半太郎博士のやうに自分の貴重な研究の時間を犠牲にして阪大総長の椅子を 引受けたのも一(ママ)重に市民の熱心な要望に応へた為だと聞いてゐる、我々は本学を愛する者と して凡ゆる方法を講じて卒業後と雖も此の目的の為に邁進すべきだらうと思ふね。 齋 藤 留任運動の結論として挙げられた設備の問題は学生の手では不可能じやないかと云ふ疑 問も出たがそれとても学生の熱如何に依る事が大きい事が分つたが、法文でも異つた形で例 ば図書館などの大きな予算も欲しいがそれが実現出来ない、工科なんかと異つて軍備とは関 係ないしいつまで経つてもウダツが上らない、更に法文ではもしこんな運動を起さうと思つ ても力強い学友会もないし情けないものだね。 三 澤 法文でも優秀な教授の東大転任の噂を聞きますが良い教授がどし〵 〳 東大に行かれるの に学生が之に対して不満を感じて居り乍ら何等学生全般の希望を伝へる事が出来ない時は黙 つてビールでも飲んで居ますか(一同爆笑)此の点、佐藤君辺り何らお考へですか。 佐 藤 それは黙つて居られないだらうと思ひますがね……僕はビールなんか飲みませんし…… 宮 崎 さうしますと医学部において起つた留任運動から我々学生全体が真理追求に対する科学 的精神を強烈に持つ事と、更に学内行政にも何等かの方法で反映し得るやうな学生の力を得 たいといふ二つの結論を得たやうです、同時にこれに関連して学友会を持たない我々法文学 部の場合が最も身近かに感じられます、で、我々としては必然的に学友会の問題を検討する ことになるわけです、ではこれで一応医学部における留任運動に関しては終ることにします 出席者 (医)細谷、藤田、三浦、梅津、三澤、飯田 (理)白井、佐木 (法文)大友、内藤、兵藤、赤坂、佐藤 (工)茅野 (本紙側)齋藤、宮崎、中込 太田教授留任懇請運動については、医学部学友会(艮稜会)機関誌『艮稜』41号(1937年 6 月18日)所掲の「太田教授留任懇請運動経過報告」(以下、「経過報告」)が詳細である。まずは、 それによって経過の概略を記す(いずれも1937年)。 ・ 3 月22日 艮陵会と自治会の合同有志委員会が開催され、学生代表 5 名(二瓶泰、荒木忠、梅津治三 郎、木村武、阿部泉二)が太田を訪い、翻意をうながす。 また、運動の動機および形式を次のように定める。 ① 動機:「敬愛する教授の転任を黙視し得ぬ純然たる師弟の情に発せるもの」である。東大 による地方大学からの優秀な人材の引き抜き批判の意味も込める。 ② 運動の形式:「妥当穏便にして師弟の情より発せる純真なる運動として誤解を避ける」。 新学期を待って、艮陵会・自治会合同委員会で正式討議する。 ・ 4 月30日 医学部学生大会が開かれ、各クラスより 4 名ずつの太田教授留任懇請実行委員が選ばれる。
その後、太田を訪問。メンバーは以下。 1 年 高山 三浦 八木 西山/ 2 年 大辻 高野 室野 窪田 3 年 梅津 木村 藤田 荒井/ 4 年 鈴木 三田 荒木 鮒橋 ・ 5 月 2 日 実行委員会、執拗な運動はかえって師弟の情にもとるとして、運動を打ち切る。 ・ 5 月 8 日 太田に東大転任の発令。 ・ 5 月19日 医学部主催で太田教授送別式および記念講演会が開催される。 ・ 5 月21日 教職員・学生が見送る中、太田が東京へと出発する。 『新聞』12号の発行は1937年 6 月14日であるから、資料 3 ・ 4 は、太田が転出した直後のもの ということになる。 まず資料 3 は、留任懇請運動の終結にあたって出された声明書である。内容は、前出の「経 過報告」と重なるところが多いが、単体の声明書としては従来知られていなかったものである。 次に資料 4 は、当事者であった医学部学生に理・工・法文学部学生、新聞会委員も加わって 行われた座談会の記録である。太田の転出と留任懇請運動が医学部のみならず、全学的な関心 を呼んでいたことがうかがわれる。ここで語られている経過( 2 番目の藤田の発言)は、「経過 報告」と一致している。興味深いのは、当時の東北大の状況を学生たちがどのように受け止め、 感じていたかについて率直に語っていることであろう。大方が研究施設の不備をいう中で、工 学部学生が軍事研究にも触れて、研究資金や設備に満足であることを述べているのは注目され る。また、学生たちが自らの要求をいかに大学運営や教員人事に反映させていくかという問題 意識を強く持っていることがわかる。 声明の起草委員、座談会参加者についても見ておこう。 声明起草委員の 3 人、藤田、荒井、梅津は、「経過報告」から、医学部 3 年生で、太田教授留 任懇請実行委員に選出された人物であることが判明する。このうち藤田と梅津は座談会にも出 席している。 1937年 7 月時点の新聞会学生委員は『書類』所掲の名簿によって知ることができる(全24 名)。それと座談会参加者を照合してみると、17名中 9 名が現役の新聞会委員であったことがわ かる。声明起草委員の三人も含まれている。 (医)*細谷(憲)、藤田、三浦、*梅津(治三郎)、*三澤(健吾)、*飯田(一夫) (理)*白井(六藏)、*佐木(崇夫) (法文)大友、内藤、兵藤、赤坂、佐藤 (工)*茅野(富三男) (本紙側)*齋藤(昌、法文)、*宮崎(友夫、法文)、中込(武雄、法文) *印を付した者が新聞会委員であり、フルネームが判明する場合はそれを補った13)。下 線を施した者は、先掲の声明起草者14)。「本紙側」の中込は1936年11月の委員名簿には見 えるが、37年 7 月の名簿には見えず、同11月の名簿では補欠となっている(『書類』)。 他方、太田正雄の東北大における学生との関わりとしては、森鷗外の会を主宰していたこと が知られている15)。この会は、非合法活動の結果、検挙され、放校処分となったものの、「転向」 後に復学を認められた医学部生が中心となって作ったものである。毎月、太田の下で森鷗外を 中心とする文学作品を読み、討論する会であった。いわゆる思想善導の一環ではあるが、それ とは一線を画し、学生たちの自主性を尊重したことが特長である。一般学生も多く参加してい
た。発足は1937年 2 月。太田の東大転出後は、法文学部助教授の河野与一が引き継ぐが、1938 年春に解散させられた。 鷗外の会メンバーと声明起草者・座談会参加者とを比べると、声明起草者では、荒井(政雄) と梅津が、座談会参加者では、梅津・三澤が重なる。ただし、荒井・梅津・三澤の 3 人にこの 時点で被検挙歴はない。 4 「左翼的」記事 既述のように『書類』には、創刊号~23号で、学生課が「左翼的」と判断した『新聞』記事 の見出(寄稿の場合は執筆者も)が掲載されている(「記事リスト」)。12号で該当するのは次の 二つである。 広告 学生評論七月号 投書 シュプランガー博士を聴く まず、『新聞』によって、前者の全文を載せれば以下のようである。 【資料 5 】学生評論 七月号(表 2 面-25) ソビエート同盟の将来…シドニー・ウエッブ 新島襄と同志社黎明期…谷綾夫 ルネクレールの歩んだ道…齋木昂 (学生自由放談) △大学生の質的低下…(金一守) △大学生の現代的性格…(山岸一夫) △経済界の展望…(小川茂) 学生時評 世界情報 国内カレッヂ・ニュース ミュンヘン大学生に寄す… 創作・麦の伸びる頃…吉木謙鬼(鬼木謙吉の誤り-引用者) ◇学生文化雑誌紹介(途上、丘人、選手制度批判) 学生評論社 定価三十銭 『学生評論』は、「滝川事件の敗北」にもかかわらず「なお学問・思想の自由を擁護し、滔々 たるファシズムの浸透をくいとめ」ることを目的として、京都帝国大学を中心とする関西の学 生によって編集・発行されていた雑誌である16)。したがって、学生課からマークされていたこ とは理解できる。ただし、『新聞』の他の号にも『学生評論』の広告が掲載されていた可能性が 高いにもかかわらず、同誌広告が「記事リスト」に載っているのはこの一回だけである。ある いは、学生課は「ソビエート同盟」に反応したのかもしれない(執筆者のシドニー・ウエッブ はイギリス人で、フェビアン協会の設立者として名高い)。 一方、次はどうであろうか。
【資料 6 】投書 シュプランガー博士を聴く(表 2 面-17) シュプランガー博士の講演を聞いた。最初に率直な感想が許されるならば ─ この碩学の 流るゝ如き弁説と鮮かな教授的身振りとの外には私は何等得るところがなかつた、といふ事 である。最初の講演「国民道徳と個人道徳」は、帰するところ十八世紀のブレルヂョア的自 由主義的道徳が今日の独占資本主義社会に最早通用し得なくなつたこと、即ち、それはフアッ シズム的全体主義的道徳によつて代られねばならぬ事 ─ この一事を博士一流の抽象的形而 上学的構文によつて「深遠に」述べられたに過ぎぬ。集団道徳と個人道徳の相剋 ─ 博士は 「ヨーロッパは今全面的道徳的改革に当面して居る」と言ひ、この興味深きテーマについて 考察を進めたが、この両者の火花散る戦場をマドリッドの、パリの、ベルリンの街頭に求め ずして人間の「魂」の中に見出してゐる。勿論、一応それは正しい。道徳は「魂」の問題な のだから。然し、それでは不充分だ。問題はかゝる「魂」を持つて歴史的現実、世界的転換 時代に苦闘しつゝある民衆に在るのだ。民衆の持つ魂と文化と ─ 自由にあるのだ。吾々は 博士の全ての「抽象的にして深遠な」哲学的言辞を具体的言語を以て翻訳せねばならぬ ─ 「ヨーロッパは今、フアッシズムが勝つか或ひは敗北するかの転換点に立つてゐる」 エドワルト・シュプランガー(1882-1963)は、ドイツの哲学者・教育学者である(『新教育 学大事典』第一法規出版株式会社、1990年)。当時、ドイツ文化使節として日本に滞在しており、 『新聞』12号の別の記事「シュプランガー博士講演会 日独文化交歓 聴衆堂に溢る」(表 2 面-10)によれば、1937年 6 月 2 ・ 3 日に東北大法文学部第 1 講義室で講演を行っている(日 本語通訳付き)。演題は、それぞれ「国民的道徳と個人的道徳」、「文化形態学の諸問題」。 4 日 には講演内容について質疑応答する機会も設けられたという。 資料 6 はそれらに対する所感である。とりわけ「左翼的」とは感じられないが、「反ファシズ ム」的ともとれる論調が学生課の目にとまったのであろうか。いずれにしても当時の学生課の 「左翼的」なるものの基準がかなり曖昧であったことが知られよう。 おわりに 『新聞』の発行には、1933年の滝川事件における運動の高揚と挫折の後に全国的に起こった学 生文化運動、さらには国際的に見れば反ファシズム統一戦線運動17)に連なるという側面があっ た。したがって、新聞から政治性を除去しようとする大学当局と活動的な一部学生委員との間 には常に緊張がはらまれていた。それが表面化するのが1937年 7 月20日、本稿で紹介した12号 の発行から 1 月余り後のことであった。 この日発行された『新聞』14号所載の「挙国一致」という記事18)が新聞紙法により注意処分 を受ける。教員からなる新聞会顧問会議は対応を協議し、学外には問題の部分を黒く抹消して 配布させることとした。また、編輯責任者である米倉策郎を注意処分とし、始末書の提出を命 じた。当時、『新聞』は学生課による事前検閲を受けていたから、本来このようなことは起こり えないはずである。実は、当該記事は検閲後に印刷所において密かに加えられたものだったと いう(以上、『書類』)。米倉は、まもなく編輯責任者を免ぜられる19)。 同じ年の12月、全国で多数の社会民主主義者を中心とする人々が検挙された。世にいう人民 戦線事件である。学者・研究者では、労農派マルキストと目された人物が標的とされ、翌1938
年 2 月、東北大でも法文学部の宇野弘蔵助教授、杉森二郎助手らに司直の手が及んだ。ほぼ同 時に新聞会関係者の米倉策郎、鮒橋虎万三20)、斎藤昌、三澤健吾、中込武雄、梅津治三郎も検 挙された(『特高月報』昭和13年 3 月、 6 月)21)。『特高月報』昭和13年10月では、共青(日本 共産青年同盟)と関係する学生が合法性を装いながら、「編輯方針を反ファッショ人民戦線の線 に沿はしむることに決定し」て、『新聞』を発行し続けたとされている。『特高月報』の記述に はフレームアップが多いから、頭から信じるわけにはいかないが、一部学生委員に反ファシズ ム運動の一翼を担うという意識があったことはまちがいなかろう。なお、鮒橋、三澤、梅津の 容疑には森鷗外の会の活動も(梅津については太田教授留任懇請運動への関与も)含まれてい た。 学生委員をはじめとする関係者の大量検挙という事態に、新聞会は動揺した。建て直しが模 索されるものの、1938年 8 月20日発行の28号を以て『新聞』は停刊となり、短い歴史を閉じた。 今回陽の目を見た12号は、1937年 6 月という『新聞』が大きな曲がり角にさしかかったころの 歴史の証言者ということになる22)。 それにしても、『新聞』 1 号分だけでも相当な情報量であり、東北大学史ひいていは近代大学 史研究に資するところが大きい。東北帝国大学新聞の所在情報があれば、ぜひ史料館まで寄せ ていただきたい。 ―― 注 1 ) 1936年11月の会長以下は次の通り。会長:石原謙法文学部教授、顧問:三枝彦雄理学部教授、八木精一医 学部教授、濱住松二郎工学部教授、新明正道法文学部教授、武内義雄同学部教授(学生課長)、理事:高 木秀一学生主事。 2 ) 東北帝国大学新聞については次を参照。中川学「大学新聞の歴史(上)」(『東北大学百年史編纂室ニュー ス』 8 、2001年)、『東北大学百年史』通史 1 (東北大学、2007年)の第 1 部第 2 編第 6 章「戦前期東北帝 国大学の学生運動」、同第 3 編第 1 章「人民戦線事件と大学自治問題」(いずれも柳原執筆)、『東北帝国大 学 学友会誌・学生新聞記事目録(付 東北帝国大学学友会誌・大学新聞関係資料)』(科学研究費補助金 基盤研究(C)「帝国大学学生史資料の基礎的研究-東北帝国大学を中心に-」研究代表:永田英明 報告 書、2012年)。なお、戦前の東北大学には新聞紙法の適用を受けた媒体として、このほかに『艮稜』、『東 北帝大法文時報』があった。前者は、医学部学友会の機関誌で、創刊は1925年。以後、継続して発行され、 現在に到っている。後者は法文学部学友会(強立会)の新聞で、1928年から1932年まで発行された。いず れも全学的新聞としての性格を持っていたが、学部学友会の新聞という制約を免れなかった。 3 ) 吉川圭太「資料紹介『東北帝国大学新聞』掲載の布施辰治執筆記事について」(『東北大学史料館紀要』 5 、 2010年)、『東北帝国大学 学友会誌・学生新聞記事目録』(前掲)。旧石巻文化センター所蔵「布施辰治関 係資料」は現在、石巻市教育委員会所蔵となっている。 4 ) 『東北大学百年史』通史 1 ・第 1 部第 3 編第 1 章(前掲)、『東北帝国大学 学友会誌・学生新聞記事目録』 (前掲)で見ることができる。 5 ) 他大学、たとえば東京大学、京都大学、北海道大学、一橋大学などの戦前の新聞がよく残されているのと は対照的である。 6 ) 『新聞』創刊には、東北大創立25周年を記念する意味もあった。 7 ) 『東北大学百年史』通史 1 ・第 2 編第 6 章(前掲) 8 ) 法文共済部については、『東北大学百年史』通史 3 (東北大学、2010年)の第 4 編第 2 章「東北帝国大学
時代の「生協」」(柳原執筆)。 9 ) 『特高月報』は、複製版(政経出版社、一九七三年)による。以下同。 10) 『東北大学百年史』通史 1 ・第 2 編第 6 章(前掲)。なお、1920年に理・工・医学部の参加で全学学友会が 発足し、その後、新設された法文学部も加わった。しかし、運動部と文化科学部の対立などによって求心 力を失い、1929年年末に解散となった。1936年になって大学が全学学友会再建を模索するが、成功しなかっ た(『東北大学百年史』通史 1 ・第 2 編第 6 章、前掲)。 11) 法文共済部と同種の組織であり、自治会と称するが、法文学部自治会のようないわゆる学生自治会とは異 なる。医学部自治会と医学部学生食堂については、『東北大学百年史』 3 ・第 4 編第 2 章(前掲)。 12) 太田正雄(木下杢太郎)とその留任懇請運動については、とりあえず柳原敏昭「太田正雄東北帝大医学部 教授(木下杢太郎)と学生たち」(三浦秀一編『東北人の自画像』東北大学出版会、2010年)参照。 13) 「(法文)」の内藤のフルネームは内藤知周と考えられる(『内藤知周著作集』亜紀書房、1977年)。また、 大友は大友知であろう(『特高月報』昭和13年10月)。 14) 声明起草者の一人である梅津治三郎は、戦後、東北大学教育学部教授となる(桑島と改姓)。 15) 柳原敏昭「太田正雄東北帝大医学部教授(木下杢太郎)と学生たち」(前掲) 16) 「復刻にあたって」(『学生評論』復刻版月報 1 、白石書店、1977年)。発行されていたのは1936年 5 月~37 年 7 月。『新聞』12号に広告が載った1937年 7 月号で停刊となった。 17) 今日では、国際的な反ファシズム統一戦線運動=人民戦線運動構築の上で大きな契機となったコミンテル ン第 7 回大会(1935年)およびそれ以降のコミンテルンの活動が、実はスターリンのソ連至上主義による 恣意的・ご都合主義的な「指導」下にあったことが知られている(不破哲三『スターリン秘史』全 6 巻、 新日本出版社、2014~16年の特に 1 ~ 3 巻)。しかし、各国・各地の現場では、その方針が積極的に受け 止められ、運動の前進をもたらした場合があったこともまた事実である(混乱や悲劇をもたらした場合も あった)。 18) 当該記事について「記事リスト」は、「「挙国一致」三浦正(米倉)」のように記す。学生課は、米倉策郎 が執筆していたと判断していたことがわかる。 19) 以上の記述については中川学「大学新聞の歴史(上)」(前掲)、『東北大学百年史』通史 1 第 3 編第 1 章 (前掲)参照。 20) 医学部 4 年生。創刊時の新聞会委員、森鷗外の会会員、太田教授留任懇請運動実行委員。 21) 「記事リスト」は、1938年 2 月15日発行の『新聞』23号までを対象としているから、おそらく同年 2 月の 米倉策郎ら新聞会関係者の検挙を契機に、『新聞』記事を見直したものであろう。なお、「記事リスト」に 見える執筆者のなかに、宇野弘蔵・向坂逸郎・大内兵衛・茨木薫(東北大法文学部助手)・中川清(栗原 百寿の筆名、東北大法文卒業生)など人民戦線事件で検挙された者が多数見える。同事件以前、社会民主 主義(者)は合法であったから、学生課の検閲基準が同事件の以前と以後とで変化した可能性が考えられ る(ただし、上記の人物がすべて社会民主主義者であったわけではない)。 22) 日中全面戦争開始(1937年 7 月 7 日)の直前ということを考えれば、日本史・世界史の曲がり角における 歴史の証言者ともいえる。 【附記】 東北帝国大学新聞12号のエスペラント関係記事について、後藤斉氏(東北大学大学院文学研究科教授)か ら種々ご教示を得ました。記して謝意を表します。
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