六朝隋唐の王后・王太子号について ─ 禅譲におけ
る事例を中心に ─
著者
柴 棟
雑誌名
集刊東洋学
巻
120
ページ
1-21
発行年
2019-01-24
URL
http://hdl.handle.net/10097/00129948
1 六朝隋唐の王后・王太子号について(柴)
六朝隋唐の王后・王太子号について
│
禅譲における事例を中心に
│
柴
棟
はじめに ﹁ 禅 譲 ﹂ は 王 朝 交 替 の 重 要 な 方 式 と し て、 特 に 中 国 の 六 朝隋唐︵魏晋南北朝隋唐︶において重要な意義を有してい る。王莽は﹁周公輔成王﹂の故事により、摂政となって皇 帝位を手に入れた。曹魏は禅譲によって魏王朝を開き、後 の六朝隋唐の各王朝はこの方式に倣っ た ︶1 ︵ 。この禅譲制度に ついては研究成果の蓄積があるが、禅譲の前における受禅 者の嫡妻や嫡嗣の名号については研究が少ない。管見の限 り、周国林氏の考論において禅譲の前における権臣の嫡妻 や嫡嗣の名号の改変について言及しているが、その改変の 持つ意味については詳しく説明していな い ︶2 ︵ 。 そこで本稿では、六朝隋唐における王后・王太子号の諸 例と王后・王太子号の沿革を整理した上で、その役割を分 析し、六朝隋唐の禅譲政治に焦点をしぼって検討したい。 一 六朝隋唐における王后・王太子号の諸例 漢の延康元年︵二二○︶十月、魏王曹丕は漢献帝から禅 位され、黄初に改元した。漢魏王朝の交替は禅譲によって 完成し、 このモデルが中世王朝交替の主要な方式になった。 ただし、漢魏の禅譲は一日にしてならず、その間に長い準 備が必要とされた。この過程の中で、曹丕の父曹操の爵位 や 礼 遇 は 絶 え ず 引 き 上 げ ら れ た。 以 下、 ﹃ 三 国 志 ﹄ 巻 一・ 武帝紀によって簡単な整理を行う。 ︹ 建 安 ︺ 十 七 年︵ 二 一 二 ︶ 春 正 月、 ︵ 中 略 ︶ 賛 拝 不 名、 入朝不趨、剣履上殿、如蕭何故事。 ︹建安十八年︵二一三︶ ︺五月丙申、天子使御史大夫郗 慮持節策命公為魏公曰、 ︵中略︶加君九錫。 ︵中略︶錫 君軒県之楽、六佾之舞。 ︹建安十九年︵二一四︶ ︺三月、天子使魏公位在諸侯王 集刊東洋学 第一二〇号 平成三十一年一月 一 −二一頁2 上、 改授金璽、 赤 紱 、 遠遊冠。 ︵中略︶十二月、 ︵中略︶ 天子命公置旄頭、宮殿設鐘 虡 。 ︹建安二十一年︵二一六︶ ︺夏五月、 天子進公爵為魏王。 ︵中略︶天子命王女為公主、食湯沐邑。 ︹建安二十二年︵二一七︶ ︺夏四月、天子命王設天子旌 旗、 出入称警蹕。 ︵中略︶冬十月、 天子命王冕十有二旒、 乗金根車、駕六馬、設五時副車、以五官中郎将丕為魏 太 子 ︶3 ︵ 。 ︹ 建 安 二 十 四 年︵ 二 一 九 ︶︺ 秋 七 月、 以 夫 人 卞 氏 為 王 后 ︶4 ︵ 。 これによると、建安二十二年十月、曹操への礼遇は極点に 達し、皇帝とほぼ同じになったため、爵位を追加すること はこれ以上できなくなった。そこで、尊貴を示すためには 妻子の名号を変えるしかなくなり、曹操の嫡子と嫡妻の名 号は︵王︶太子・王后になった︵後述するように、諸王の 嫡妻の名号は後漢以後は王妃であり、諸王の嫡子の名号は 曹魏以後は世子である︶ 。 曹操が魏王に昇進してから間もなく、劉備は建安二十四 年七月に漢中王についた。彼の妻子の名号は王后・王太子 になった。章武元年︵二二一︶ 、劉備が皇帝位についた後、 彼の妻子の名号も皇后・皇太子と改称し た ︶5 ︵ 。孫権の状況も 同じである。黄初二年︵二二一︶十一月、曹丕は太常の邢 貞を派遣して孫権を大将軍に任命し、呉王に冊封し、九錫 を 与 え た ︶6 ︵ 。 そ れ と 同 時 に、 孫 権 は 孫 登 を 王 太 子 に 冊 立 し た ︶7 ︵ 。 黄 竜 元 年︵ 二 二 九 ︶、 孫 権 が 皇 帝 位 に つ い た 後、 彼 の 嫡嗣の名号を皇太子と称し た ︶8 ︵ 。孫権は王位・皇帝位につい た時に、 群臣は夫人の徐氏を后に冊立するよう上奏したが、 彼 は 歩 氏 を 后 に 冊 立 す る こ と を 望 ん だ た め、 十 余 年 の 間、 后を冊立することがなかっ た ︶9 ︵ 。こうした特別な理由がなけ れ ば、 孫 権 は 呉 王 に な っ た 時 に 王 后 を 冊 立 す る 可 能 性 も あった。いずれにせよ、これらの冊立は漢・魏の皇帝の承 認を得ることなく、彼らが自ら決定したことであり、この 点は曹操の状況とは異なる。 漢魏王朝の交替は、曹氏父子二代の努力により、最終的 には禅譲方式で実現された。この方式は司馬氏にも採用さ れる。そして、魏晋交替の時期にも、嫡妻と嫡嗣の名号に ついて漢魏交替の際と同様の改変が為された。 咸熙元年 ︵二 六四︶三月、司馬昭は王位につき、同年十月、司馬炎を晋 世子にし た ︶10 ︵ 。その後の咸熙二年︵二六五︶五月、 ﹃三国志﹄ 巻四・三少帝紀には、以下の記載がある。 命晋王冕十有二旒、建天子旌旗、出警入蹕、乗金根車 六馬、備五時副車、置旄頭雲罕、楽舞八佾、設鐘 虡 宮 県。 進 王 妃 為 王 后、 世 子 為 太 子、 王 子・ 王 女・ 王 孫、 爵命之号如旧儀。
3 六朝隋唐の王后・王太子号について(柴) これによると、晋王の司馬昭が天子と同格の礼遇を有した 後、彼の妻子の名号に漢魏交替の際と同様の改変が為され たことを窺える。ここの﹁旧儀﹂は漢魏禅譲前の名号制度 で あ り、 ﹃ 晋 書 ﹄ 巻 二・ 文 帝 紀 は こ れ を﹁ 帝 者 之 儀 ﹂ と 記 載する。ここに至り、晋王はまもなく皇帝位につく。 八王の乱と永嘉の乱を経て、司馬睿をはじめとする僑姓 士族は南渡して政権を樹立したのち、北方の胡族政権を打 倒することを望んでいた。建武元年 ︵三一七︶ 春二月辛巳、 司馬睿に皇帝位を継承させるために、愍帝は平東将軍の宋 哲を遣わして詔書を持って江南へ行かせ た ︶11 ︵ 。ただし、司馬 睿はすぐに即位せずに何度も辞退した。 し か し、 ﹁ 魏 晋 故 事 ﹂ を 援 用 し て 晋 王 位 に つ き、 大 赦、 改元を行った。その直後に王世子の司馬紹を晋王太子に冊 立 し た ︶12 ︵ 。 王 妃 の 虞 氏 は 永 嘉 六 年︵ 三 一 二 ︶ に 死 去 し た が、 虞氏を王后に追尊し、その上で有司は王后のために廟を立 てようと上奏し た ︶13 ︵ 。この時、 司馬睿は帝王ではなかったが、 既に帝王としての実質を得ており、あとは名号を改変する だけであった。太興元年︵三一八︶三月、愍帝の崩御を知 り、同月丙辰に司馬睿は皇帝位につき、その十四日後の庚 午に王太子を皇太子に冊立し た ︶14 ︵ 。その後、太興三年︵三二 〇︶八月戊午に、敬王后の虞氏に敬皇后を追尊し た ︶15 ︵ 。この ことから見ると、司馬睿は﹁魏晋故事﹂を援用して晋王位 についた後、彼の妻子の名号を王妃・王世子から王后・王 太子に改称している。これらは帝王の実質を持ちながらも 帝王でない人物が皇帝位につく前に、彼の妻子に与える専 用の名号であった。 元興二年︵四○三︶十一月、桓玄が禅譲によって晋を簒 奪 す る 前 も、 彼 の 妻 子 の 名 号 は 上 述 と 同 様 に 改 変 さ れ た。 ﹃晋書﹄巻九九・桓玄伝には、以下の記載がある。 玄矯制加其冕十有二旒、建天子旌旗、出警入蹕、乗金 根 車、 駕 六 馬、 備 五 時 副 車、 置 旄 頭 雲 罕、 楽 儛 八 佾、 設鐘 虡 宮県、妃為王后、世子為太子、其女及孫爵命之 号皆如旧制。 これによると、楚王の桓玄が天子としての諸々の礼遇を獲 得した時、あわせて彼の妻子の名号も改変している。ここ での﹁旧制﹂はかつての王朝禅譲の前段階における権臣の 妻子の名号制度を指す。 以上のような名号の改変は五胡十六国時代にもよく見ら れる。例えば、大興二年︵三一九︶に劉曜が石勒を趙王に 封じようとした事例がある。その時劉曜は ﹁曹公輔漢故事﹂ に 倣 い、 ﹁ 出 入 警 蹕、 冕 十 有 二 旒、 乗 金 根 車、 駕 六 馬 ﹂ な どの礼遇を与え、彼の夫人・世子を王后・太子に冊立しよ うとしたが、石勒の舎人曹平楽が石勒に叛乱の意志がある こ と を 進 言 す る と、 劉 曜 は 封 賞 を 止 め た。 こ れ に 対 し て、
4 石 勒 は 不 満 を 示 し て 令 を 下 し、 ﹁ 趙 王・ 趙 帝、 孤 自 取 之、 名 号 大 小、 豈 其 所 節 邪。 ﹂ と 述 べ た と い う ︶16 ︵ 。 咸 和 七 年︵ 三 三 二 ︶、 石 弘 は 石 虎 を 丞 相・ 魏 王・ 大 単 于 に 封 じ、 九 錫 を 賜り、 彼の妻子の名号は王后 ・ 太子とされ た ︶17 ︵ 。咸康三年︵三 三七︶ 、慕容 皝 が燕王についた際も、 ﹁魏武 ・ 晋文輔政故事﹂ に 倣 い、 妻 子 の 名 号 を 王 后・ 太 子 に 改 め て い る ︶18 ︵ 。 そ の 後、 禿髪 傉 檀が王位についた時もまた、 その妻子の名号が王后 ・ 太子に改められ た ︶19 ︵ 。以上の例を見ると、このような名号の 改変は漢族政権だけでなく、胡族政権でも通行した。この 名号は、皇帝になる野望を持つ者が正式な称帝の前に、彼 らの妻子に与える名号となった。 南北朝時代の禅譲前にも、上述の名号の改変がよく見ら れる。はじめに南朝の事例から見ていく。元熙元年︵四一 九︶七月、劉裕が宋公から宋王となり、同年十二月、晋恭 帝 は 天 子 の 種 々 の 礼 遇 を 劉 裕 に 賜 っ た。 ﹃ 宋 書 ﹄ 巻 二・ 武 帝紀中には、以下の記載がある。 天子命王冕十有二旒、建天子旌旗、出警入蹕、乗金根 車、駕六馬、備五時副車、置旄頭雲罕、楽舞八佾、設 鐘 虡 宮県。進王太妃為太后、 王妃為王后、 世子為太子、 王子・王孫爵命之号、一如旧儀。 劉裕の生母の趙安宗は興寧元年 ︵三六三︶ に彼を生んだ、 後に病死し た ︶20 ︵ 。その後、劉裕の父親である劉翹は蕭文寿を 後妻として娶った。この蕭文寿が前引史料中の王太妃・太 后である。劉裕が宋公となる以前に、豫章公に冊封される と、 蕭 氏 は 豫 章 公 の 太 夫 人 と な り、 劉 裕 が 宋 王 に つ く と、 蕭氏は王太妃となっ た ︶21 ︵ 。劉裕が上述の天子の礼遇を獲得し た後、 蕭氏は王太后となったのである。永初元年︵四二〇︶ 六月、劉裕が皇帝位につき、蕭氏が皇太后となるま で ︶22 ︵ 、王 太后の名号は六ヶ月の間使用された。そして、 義熙四年 ︵四 〇 八 ︶、 劉 裕 の 嫡 妻 の 臧 愛 親 は 死 去 し、 そ の 後 豫 章 公 夫 人 を追贈されていたか ら ︶23 ︵ 、前引史料の王妃・王后はこの臧愛 親であり、豫章公夫人と同様、追贈されたものと考えられ る。 前 引 史 料 の 世 子・ 太 子 は 劉 裕 の 息 子 の 劉 義 符 で あ り、 彼は十歳の時に豫章公世子に冊立され、宋台を立てた時に 宋の世子に冊立され、元熙元年︵四一九︶に宋の太子に冊 立され た ︶24 ︵ 。永初元年六月、劉裕が皇帝位につき、その後の 八月に、臧氏は皇后を追諡され、劉義符は皇太子に冊立さ れ た ︶25 ︵ 。 昇明三年︵四七九︶四月壬申、蕭道成が斉公から斉王に なった。十四日後の同月丙戌、宋順帝は天子の種々の礼遇 を 蕭 道 成 に 賜 っ た。 ﹃ 宋 書 ﹄ 巻 一 〇・ 順 帝 紀 に は、 以 下 の 記載がある。 命斉王冕十有二旒、 建天子旌旗、 出警入蹕 、 乗金根車、 駕六馬、備五時副車、置旄頭雲罕、楽儛八佾、設鐘 簴
5 六朝隋唐の王后・王太子号について(柴) 宮県。進世子為太子、王子・王女・王孫爵命之号、一 如旧儀。 また、この名号について、 ﹃南斉書﹄巻一・高帝紀上には、 以下の記載がある。 王世子為太子、王女・王孫爵命一如旧儀。 ここでの世子・太子は蕭道成の嫡子の蕭賾である。彼は斉 国が立てられた時に世子に冊立され、その後王太子に冊立 さ れ、 宋 斉 の 禅 譲 が 完 了 し た 後 に、 皇 太 子 に 冊 立 さ れ た ︶26 ︵ 。 なお、王妃を王后に冊立する記載が見られないが、その原 因は蕭道成の妻劉智容が泰豫元年︵四七二︶に死去してい たからであ る ︶27 ︵ 。その後、劉氏は昇明二年︵四七八︶に﹁竟 陵公国夫人﹂と追贈され、 昇明三年︵四七九︶に﹁斉国妃﹂ と追贈され、建元元年︵四七九︶に﹁昭皇后﹂と尊諡され た ︶28 ︵ 。なぜ劉氏は王妃から王后に追諡されなかったか。それ は、蕭道成に上引の礼遇や名号が与えられた僅か五日後の 同月辛卯に、宋順帝は禅譲の詔書を出してお り ︶29 ︵ 、禅譲をあ まりに短期間のうちに完遂したため、劉氏を王后に追諡す る時間的余裕がなかったからであろう。 中興二年︵五〇二︶三月癸巳、蕭衍が梁公から梁王とな り、 同 月 丙 午 ︶30 ︵ 、 斉 和 帝 は 天 子 の 種 々 の 礼 遇 を 蕭 衍 に 賜 り、 彼 の 妻 子 の 名 号 も 改 め た。 ﹃ 南 斉 書 ﹄ 巻 八・ 和 帝 紀 に は、 以下の記載がある。 命 梁 王 冕 十 有 二 旒、 建 天 子 旌 旗、 出 警 入 蹕、 乗 金 根、 駕六馬、備五時副車、置旄頭雲罕、楽舞八佾、設鐘 簴 宮懸。王子・王女爵命一如旧儀。 また、この名号について、 ﹃梁書﹄巻一・武帝紀上には、 王妃・王子・王女爵命之号、一依旧儀。 と あ る。 明 ら か に、 ﹃ 梁 書 ﹄ で は﹁ 王 妃 ﹂ と い う 記 述 が 加 えられている。蕭衍の夫人の郗は永元元年︵四九九︶八 月に死去しており、蕭衍が梁公位についた後、梁公妃に追 贈 さ れ た。 そ し て、 皇 帝 と な っ た 時、 皇 后 に 追 崇 さ れ た ︶31 ︵ 。 これまでの前例によれば、蕭衍の爵位や礼遇が格上げされ た際に、 彼の正妻に名号を追贈した可能性がある。その上、 斉和帝が禅譲を行ったのは、蕭衍が上述の礼遇や名号を与 えられた十日後の丙辰であっ た ︶32 ︵ 。時間的余裕から、郗氏に 相応しい名号を追贈することは可能であった。加えて、 ﹃梁 書 ﹄ に は、 ﹁ 王 妃 ﹂ と い う 記 載 が 見 ら れ る。 と こ ろ が、 上 述の﹃南斉書﹄ ・﹃梁書﹄に世子・太子という記載が見られ ない。その原因は、蕭衍の長男である蕭統はその時わずか 一歳だったことにあるだろう。斉梁禅譲の後、有司が儲副 を冊立することを上奏した時に、梁武帝の蕭衍は﹁天下始 定、百度多闕﹂を理由とし、上奏を受け入れなかった。そ の後、群臣の強烈な要求のもとで、天監元年︵五〇二︶十 一月に蕭統を皇太子に冊立し た ︶33 ︵ 。
6 太平二年︵五五七︶十月戊辰、陳霸先は陳公から陳王と なり、同時に、梁敬帝は天子の種々の礼遇を陳霸先に賜っ た。 ﹃梁書﹄巻六・敬帝紀には、以下の記載がある。 命陳王冕十有二旒、 建天子旌旂、 出警入蹕、 乗金根車、 駕六馬、備五時副車、置旄頭雲罕、楽儛八佾、設鐘 虡 宮県。王后・王子女爵命之典、一依旧儀。 また、この名号について、 ﹃陳書﹄巻一・高祖紀上には、 王妃・王子・王女爵命之号、陳台百官、一依旧典。 とある。続いて、三日後の辛未に、梁敬帝は禅譲の詔書を 出し た ︶34 ︵ 。右の史料に王妃や王后の記載が見られるが、 世子 ・ 太子の記載が見られない。何故なら、陳霸先の世子克が死 去しており、陳霸先が陳公から陳王に冊封されてから︵同 時 に 天 子 の 礼 遇 を 獲 得 し た ︶、 梁 敬 帝 が 禅 譲 の 詔 書 を 出 す までの時間が三日と非常に短いため、世子克を太子に立て る時間も必要性もなく、陳霸先即位後に追贈することも可 能だったからである。そして、彼は皇帝位についた後、世 子克に孝懐太子を追贈し た ︶35 ︵ 。陳霸先の前夫人銭氏は前に死 去したが、後妻として章氏がいた。陳覇先は侯景の乱を平 定して長城県公に封ぜられた時に、章氏は夫人を拝してい る ︶36 ︵ 。これまでの前例に従えば、上述の過程において彼の正 妻章氏の名号を変えた可能性がある。しかし、 ﹃梁書﹄ と﹃陳 書 ﹄ の 記 載 は 一 致 せ ず、 前 者 は﹁ 王 后 ﹂、 後 者 は﹁ 王 妃 ﹂ である。 ﹃陳書﹄巻二・高祖紀下によると、陳覇先即位後、 十月辛巳の条には﹁立夫人章氏為皇后﹂とあり、皇后とな る前の名号は王妃・王后ではなく夫人であった。では、章 氏の名号の記載はなぜこのように混乱したのだろうか。 その混乱の原因は、陳霸先が陳公から陳王になった日と 天子の礼遇を獲得した日とが同じであり、そして、その後 僅か三日にして梁敬帝が禅譲の詔書を出したことと密接な 関係がある。この過程における陳霸先の王爵は以前のよう な二つの段階、即ち第一段階で王となり、第二段階で天子 の礼遇を得るというプロセスを経たわけではなく、第一段 階から即座に皇帝と同格の礼遇を獲得している。そのため に、彼の嫡妻の名号も二段階を経ることなく、王后に変更 されたと考えられる。二つの史籍は異なる側面に重点を置 き、 ﹃梁書﹄の王后は変更後の名号を記し、 ﹃陳書﹄の王妃 は変更前の名号を記したのであろう。 このように考えると、 太平二年︵五五七︶冬十月戊辰、陳霸先は陳公から陳王に なって天子の礼遇を獲得した後に、 ﹁旧儀/旧典﹂ によって、 彼の嫡妻の名号を﹁王后﹂と称したはずである。 次に北朝の事例を見ていこう。斉文襄王の高澄が死去し た後、武定八年︵五五〇︶三月庚申、孝静帝は斉郡王の高 洋 を 斉 王 に 冊 封 し た。 同 年 の 五 月 甲 寅、 ﹃ 魏 書 ﹄ 巻 一 二・ 孝静帝紀には、以下の記載がある。
7 六朝隋唐の王后・王太子号について(柴) 詔 斉 王 為 相 国、 総 百 揆、 封 冀 州 之 勃 海・ 長 楽・ 安 徳・ 武 邑、 瀛 州 之 河 間・ 高 陽・ 章 武、 定 州 之 中 山・ 常 山・ 博陵十郡、二十万戸、備九錫之礼。以斉国太妃為王太 后、王妃為王后。 これによると、魏斉禅譲以前に、高洋の母親や嫡妻の名号 に変更があった。なお、ここに太子の記載が見られない原 因は、当時高殷が六歳とまだ幼く、世子に冊立されなかっ たからであ る ︶37 ︵ 。孝静帝は高洋が上述の礼遇や名号を与えら れた二日後の同月丙辰、禅譲の詔書を出し た ︶38 ︵ 。そして、高 洋は皇帝位につき、五月辛酉に王太后を皇太后に尊し、六 月丁亥に高殷を皇太子に冊立して、王后の李氏を皇后に冊 立したのであ る ︶39 ︵ 。 大定元年︵五八一︶二月丙辰、周静帝は楊堅に天子の礼 遇を与えると同時に、禅譲の詔書を出した。その時、楊堅 の妻子の名号に変更があった。 ﹃隋書﹄ 巻一 ・ 高祖紀上には、 ﹁王妃為王后、 長子為太 子 ︶40 ︵ ﹂とある。これに対して、 ﹃周書﹄ 巻八・静帝紀には、 ﹁王后・王子爵命之号、並依魏晋故事﹂ とある。楊堅が皇帝位についた後、王后の独孤氏を皇后に 冊立し、王太子の楊勇を皇太子に冊立し た ︶41 ︵ 。ただし、独孤 皇后と楊勇の本伝には、二人が王后・王太子にされたこと を伝える記載がない。 義寧二年︵六一八︶隋唐禅譲の前に、李淵の礼遇が高ま るにつれて、彼の家族の名号も前代のように変わった。こ れについて、 ﹃隋書﹄巻五 ・ 恭帝紀には、 以下の記載がある。 五月乙巳朔、詔唐王冕十有二旒、建天子旌旗、出警入 蹕、 金 根 車 駕、 備 五 時 副 車、 置 旄 頭 雲 罕 車、 儛 八 佾、 設鐘 虡 宮懸。王后・王子・王女爵命之号、一遵旧典。 また、 ﹃旧唐書﹄巻一・高祖紀には、 五月乙巳、天子詔高祖冕十有二旒、建天子旌旗、出警 入蹕。王后・王女爵命之号、一遵旧典。 とある。 ﹃隋書﹄に比べ、 ﹃旧唐書﹄に記載された礼遇は省 略され、李淵の男子の名号については王子が省略されてい る。さらに、 ﹃新唐書﹄巻一・高祖紀では、 ﹁隋帝命唐王冕 十有二旒、建天子旌旗、出警入蹕﹂という記載のみで、家 族の名号についての記載が見られず、後の時代に編纂され た史書ほど、隋唐禅譲の前における李淵の礼遇と妻子の名 号に関する記述が簡略になっていく傾向が看取される。 さて、李淵が天子の礼遇を獲得した後、彼の妻子の名号 は変更があったのだろうか。実は、 李淵の嫡妻竇氏は、 ﹁太 原挙兵﹂の前に死去している。しかし、 義寧元年︵六一七︶ 十一月甲子に、李淵が唐王になって、同月五日後の己巳に 隴西公の李建成を世子に立てた 後 ︶42 ︵ 、同年十二月癸未に、竇 氏 は 唐 の 王 妃 に 追 贈 さ れ た ︶43 ︵ 。 さ ら に、 武 徳 元 年︵ 六 一 八 ︶ 六月己卯に、王妃竇氏は太穆皇后に追諡されており、同年
8 六月庚辰に、世子の建成を皇太子に立ててい る ︶44 ︵ 。これを見 る限りでは、この禅譲の前に、李淵の嫡妻と嫡嗣の名号は 改 変 さ れ て い な い。 そ れ で は、 な ぜ﹃ 隋 書 ﹄ と﹃ 旧 唐 書 ﹄ に﹁ 王 后・ 王 女 爵 命 之 号、 一 遵 旧 典。 ﹂ と い う 記 載 が あ る のだろうか。それは禅譲の過程を記録する上で無視できな い 措 置 で あ る た め、 こ こ に 特 に 記 載 さ れ た と 考 え ら れ る。 一方、ここには世子・太子の記載がない。李淵が天子の礼 遇を獲得してから隋恭帝が禅譲の詔書を発布するまでの時 間が十三日あり、妻子の名号を変更することは十分できた はずである。ここに詳細な記載がないのは、のちに敗死し た隠太子李建成に触れることを忌避したためだと考えられ る。 以上の内容をまとめると、六朝隋唐の時に、帝王の実質 を持ちながら未だ帝王の名号を有していない者が、皇帝位 につく前に、これらの王后と太子の名号を彼らの妻子に与 えていた。さらに、この名号は禅譲礼儀の中で重要な地位 を 占 め て い た。 こ れ ら の 名 号 は ど の よ う な 名 号 で あ る か。 次節では、王后・王太子号の沿革を詳述したい。 二 王后・王太子号の沿革 王后・王太子の名号については、各種の史籍に様々な解 釈が示されている。まず、 王后号の沿革を分析しておこう。 周の天子及び諸侯などの妻妾の名号について、伝世文献の 中で比較的完全で系統的な記録を保存する﹃礼記﹄曲礼下 には、 天 子 之 妃 曰 后、 諸 侯 曰 夫 人、 大 夫 曰 孺 人、 士 曰 婦 人、 庶人曰妻。公・侯有夫人、有世婦、有妻、有妾。 とある。周の天子の嫡妻の名号は﹁后﹂であり、諸侯の嫡 妻の名号は﹁夫人﹂であり、大夫・士・庶人の嫡妻にもほ かの特定の名号がある。 建初四年︵七九︶十一月に、後漢の章帝は白虎観で学者 を集めて五経の異同について議論させて、 経義を統一した。 その結果を班固に編纂させた書物が﹃白虎通﹄で、後漢政 府と当時の学界において主流を占めた解釈を示 す ︶45 ︵ 。﹁王后﹂ について、 ﹃白虎通﹄には次のように見える。 天子之妃謂之后何。后者、君也。天子妃至尊、故謂后 也。 明 配 至 尊、 為 海 内 小 君、 天 下 尊 之、 故 繋 王 言 之、 曰﹁王后﹂也。 ﹃春秋伝﹄曰、 ﹁迎王后于 紀 ︶46 ︵ 。﹂ こ れ に よ る と、 ﹁ 后 ﹂ は 天 子 の 配 偶 者 の 専 称 で あ り、 地 位 が極めて尊い。周の天子は﹁ 王 ︶47 ︵ ﹂という名号を用いたので 周の天子の后は王后と称することができる。ただし、天子 の嫡妻の名号としての﹁后﹂は、周代になってから初めて 出現し、それ以前の記載は見られないとい う ︶48 ︵ 。
9 六朝隋唐の王后・王太子号について(柴) 秦朝の初めにあたり、 最高統治者の名号は ﹁王﹂ から ﹁皇 帝﹂になり、この名号がこの後の帝政時代に通行した。こ れと異なり、最高統治者の嫡妻の名号は﹁后﹂という名号 を踏襲し、 ﹁皇帝﹂に対応して、 ﹁皇后﹂と称し た ︶49 ︵ 。最高統 治 者 の 正 妻 の 名 号 の 沿 革 に つ い て、 ﹃ 初 学 記 ﹄ 巻 一 〇・ 中 宮部・皇后第一によると、 周 則 天 子 立 后、 正 嫡 曰 王 后。 秦 称 皇 帝、 正 嫡 曰 皇 后。 漢 因 之、 帝 祖 母 称 太 皇 太 后、 母 称 皇 太 后。 魏 晋 之 後、 母后之号、並遵秦漢、其余嬪御、代有沿革矣。 とある。ここでは、周の天子の正妻と後世の皇帝の母親の 名号について述べられている。王后は周王の嫡妻の名号で ある。秦始皇帝は皇帝の名号を採用した際に、彼の嫡妻を 王后ではなく、代わりに皇后と称した。漢王朝は秦朝の制 度を継承し、皇帝の嫡妻の名号も秦と同じであった。その 後 の 王 朝 は 全 て こ の 名 号 を 踏 襲 し た、 と い う。 要 す る に、 周代から天子の正妻は﹁后﹂を用い、後世の君主の正妻は 全てこの名号を踏襲した。なお帝政時代に入っても、王后 の名号は廃止されていないが、皇帝の嫡妻についてはこの 名号を使用しなくなったのである。 春秋戦国時代、周王室が衰微し、各諸侯は﹁王﹂を僭称 し た ︶50 ︵ 。そのため、春秋戦国時代に、諸王の正妻が王后と称 する記載がよく見られる。秦王朝が滅亡した後に、項羽は ﹁ 西 楚 覇 王 ﹂ と 称 し、 六 国 の 貴 族・ 有 功 の 将 軍・ 秦 朝 か ら 投降将軍などに王爵を分封し た ︶51 ︵ 。この時、諸侯王の嫡妻も 王后の名号を使用している。これは春秋戦国時代の風潮を 踏襲したものであり、その淵源は周代の制度である。 前漢に入っても、諸侯王の正妻は以前の王后号をそのま ま使用した が ︶52 ︵ 、文帝期に賈誼は﹁天子親、号云太后、諸侯 親、 号 云 太 后。 天 子 妃、 号 曰 后、 諸 侯 妃、 号 曰 后。 然 則、 諸 侯 何 損 而 天 子 何 加 焉。 妻 既 已 同、 則 夫 何 以 異。 ﹂ と 指 摘 し た ︶53 ︵ 。前漢の景帝・武帝は諸侯王を抑制したが、それでも 彼らの嫡妻はなお王后の名号を使用した。出土した前漢の 封泥や銅器の中に、太后・王后の記載がよく見られ る ︶54 ︵ 。さ らに前漢の末期、漢平帝の母親もまた王后の名号を使用し た ︶55 ︵ 。つまり、前漢王朝の時、諸侯王の正妻は王后の名号を 使用し続けた。 新朝を建国した際、王莽は﹁天無二日、土無二王、百王 不易之道也。漢氏諸侯或称王、 至於四夷亦如之、 違於古典、 繆於一統。 ﹂と考えて、 前漢の諸侯王の王号を公号に改めて、 四夷の王号を侯号に改め た ︶56 ︵ 。それ故に、王莽の時期には王 后という名号は見られない。そして後漢に入って、諸侯王 の正妻の名号に王后を使わ ず ︶57 ︵ 、王妃の名号を使用し始めた。 これは後漢政府の﹁后﹂という名号に対する認識と密接な 関 係 が あ る。 上 引﹃ 白 虎 通 ﹄ に よ る と、 ﹁ 后 ﹂ は 天 子 の 嫡
10 妻の名号である。そして、後漢政府は諸侯王の正妻が王后 の名号を使用することを禁止した。諸侯王の母と妻に対し て、後漢政府は以下のように明確に規定している。 ﹃続漢書﹄百官志五には胡広語を引いて、 後漢妾数無限別、乃制設正適、曰妃、取小夫人不得過 四十人。 とあり、 ﹃続漢書﹄輿服志上には、 大貴人・貴人・公主・王妃・封君油画 輧 車。 とあり、 ﹃続漢書﹄百官志三には、 諸公主及王太妃等有疾苦、則使︹小黄門︺問之。 と あ る。 ま た、 熹 平 四 年︵ 一 七 五 ︶、 後 漢 の 霊 帝 は 質 帝 の 母親の陳夫人を渤海孝王の王妃に拝し た ︶58 ︵ 。要するに、後漢 時期、制度上においても実質的にも諸侯王の正妻は王妃と 称したのである。 次に、天子嫡子の名号について、 ﹃白虎通﹄には、 ﹃韓詩内伝﹄曰、 ﹁諸侯世子三年喪畢、 上受爵命于天子。 所 以 名 之 為 世 子 何。 言 欲 其 世 世 不 絶 也。 ﹂ 何 以 知 天 子 之 子 亦 称 世 子 也。 ﹃ 春 秋 ﹄ 曰、 ﹁ 公 会 王 世 子 于 首 止。 ﹂ 或曰、 天子之子称太子。 ﹃尚書伝﹄曰、 ﹁太子発升王舟。 ﹂ ﹃中候﹄曰、 ﹁廃考、立発為太子。 ﹂明文王時称太子 也 ︶59 ︵ 。 とある。天子の嫡子は、周文王の時に太子と称し、春秋時 代に太子・世子の二つの名号を使用したというが、諸侯の 嫡子が太子という名号を使用することができるかどうかに ついては言及しない。 その点に言及するのは、 ﹃初学記﹄の次の記述である。 ﹃韓詩外伝﹄曰、 ﹁五帝官天下、 三王家天下。家以伝子、 官以伝賢。 ﹂故自唐虞已上、 経伝無太子称号。夏殷之王、 雖則伝嗣、 其文略矣。 至周始見文王世子之制。 ﹃白虎通﹄ 曰、 ﹁ 何 以 知 天 子 之 子 称 世 子。 ﹃ 春 秋 伝 ﹄ 曰、 ﹃ 王 世 子 会于首止是也。 ﹄何以知天子之子称太子。 ﹃尚書﹄ 曰、 ﹃太 子発升于舟是也。 ﹄﹂ 或云諸侯之子称世子。則 ﹃春秋伝﹄ 云、 ﹁晋有太子申生、鄭有太子華、斉有太子光。 ﹂由是 観之、周制、太子・世子、亦不定也。漢制、天子称皇 帝、 其 嫡 嗣 称 皇 太 子、 諸 侯 王 之 嫡 称 世 子。 後 代 咸 因 之 ︶60 ︵ 。 これによれば、周代には天子と諸侯の嫡嗣はすべて太子や 世子と称し、漢代に、天子の嫡子は皇太子と称し、諸侯王 の嫡子は世子と称するようになり、後世の王朝は全てこの 名 号 を 踏 襲 し た、 と い う。 し か し、 ﹃ 史 記 ﹄ に よ れ ば、 秦 始皇帝の嫡子も太子と称 し ︶61 ︵ 、また、前漢初期の諸侯王の嫡 嗣 は 皇 帝 の 嫡 嗣 と 同 じ く 太 子 の 名 号 を 使 用 し た ︶62 ︵ 。 そ し て、 列侯の嫡子は世 子 ︶63 ︵ や太 子 ︶64 ︵ と称している。王莽の時に、諸侯 の嫡子は世子と称 し ︶65 ︵ 、後漢に入って、列侯の嫡嗣は太子で はなく、もっぱら世子と称するようになっ た ︶66 ︵ 。しかしなが
11 六朝隋唐の王后・王太子号について(柴) ら、 後漢時期の諸侯王の嫡子はそのまま太子号を使用した。 例えば、済南安王の劉康の嫡嗣の劉錯は太子と称し た ︶67 ︵ 。後 漢の和帝の時に、下 邳 恵王の劉衍の嫡嗣も太子と称してい る ︶68 ︵ 。皇族等諸王の嫡嗣を太子ではなく、世子と称するよう になるのは、曹魏以後のことである。 以上をまとめると、理想的な時代とされる王政の周代に は、 ﹁ 后 ﹂ と﹁ 太 子 ﹂ は 天 子 の 嫡 妻 と 嫡 子 の 名 号 で あ り、 秦始皇帝以後、帝政時代に入るとこれらの名号は皇帝の嫡 妻と嫡嗣の専称になった。ただし、前漢の時には、それほ ど厳しい制限がなく、諸侯王の嫡妻と嫡嗣もこの名号を使 用 し た。 そ し て、 後 漢 の 時 に、 ﹁ 后 ﹂ と い う 名 号 の 使 用 に 対して、厳格な制限が生じたが、諸侯王の嫡嗣はなお﹁太 子﹂の名号を称することができた。前述のように、その後 の 六 朝 隋 唐 時 代、 王 朝 禅 譲 の 前 に 権 臣 の 王 国 の 中 で 王 妃・ 王世子が王后・王太子に変えられる現象が現れた。なぜ王 后・王太子という名号を採用したのか、そのことには如何 なる意味があるのか。次節では、これらの名号と禅譲政治 との関係を検討したい。 三 王后・王太子号と禅譲政治 上古における禅譲の起源や変遷について、これまで多様 な研究成果が蓄積されてき た ︶69 ︵ 。帝政時代に入って、王莽は 初 め て 禅 譲 の 実 践 を 試 み た ︶70 ︵ 。 た だ し、 そ の 禅 譲 に お い て、 漢帝が王莽に王爵を授与することはなく、彼の嫡妻や嫡嗣 の名号には前述のような変化がなかった。そこで、次の漢 魏禅譲において、漢献帝から曹操の嫡妻や嫡嗣に授与した 名号にあらためて注目したい。 第一節で述べたように、曹操は魏王位につき、次第に天 子と同格の種々の礼 遇 ︶71 ︵ を獲得した後、礼遇と爵位をそれ以 上に追加することができなくなったため、彼の嫡子・嫡妻 の名号が太子・王后に変更された。曹操がこの礼遇と名号 を 創 出 し、 司 馬 昭 が こ れ を 継 承 し 完 全 な も の と し た の で あった。そして、これは後の王朝交替のモデルとなり、後 世の権臣もこの名号を採用する。禅譲の前に、皇帝は彼ら の嫡嗣と嫡妻にこの名号を同時に授与するとともに、これ らの権臣に皇帝の礼遇を与えてい る ︶72 ︵ 。これに対して、曹操 の時には、これらの礼遇と名号をすべて与えるのにほぼ六 年間を費やし た ︶73 ︵ 。とは言え、後世の禅譲の過程に見られる 天子の礼遇と王 后 ︶74 ︵ ・王太子という名号の創建者は曹操だと 言える。 なぜ曹操は右のような礼遇特に名号を創始しようとした のか。後漢時期に、儒学が繁栄し、人々は君臣父子の秩序 を遵守したため、後漢が滅びる寸前でさえ人々は漢王朝を
12 助けることを自分の使命にしたと評価されてい る ︶75 ︵ 。その上、 両漢王朝が四百年も続いたため、人々から思慕されたとも いわれ る ︶76 ︵ 。これらの要因によって士大夫の後漢王朝に対す る熱烈な支持を生じさせ た ︶77 ︵ 。だからこそ、曹操は漢献帝に 取って代わる野望と実力があったにもかかわらず、このよ うな状況に鑑みて軽率に行動することができず、漢魏の王 朝交替は長い年月を要したのだろう。彼は比較的平和な方 式を採用し、次第に自分の地位を高め、最後に皇帝と同格 の礼遇を得て、その後、漢魏王朝の交替を実現するという 考えだったのではないだろうか。とすれば、上述の礼遇や 名号はこのような背景の下で創始されたものであった。 こうした儒学が繁栄した時代に、曹操は袁紹ほどの優秀 な家学の伝統を継承しなかったが、彼は﹁明古学﹂と見な された。そのため、彼は従妹婿の宋奇が誅殺された際に連 坐 し て 免 官 さ れ た 後、 再 び 議 郎 に 任 命 さ れ る こ と が で き た ︶78 ︵ 。ここから、曹操も高い儒学の素養を持っていたと考え られる。田餘慶氏は曹操と何 夔 ・陳群の関係を考察し、晩 年 の 曹 操 の﹁ 意 識 形 態 ﹂︵ イ デ オ ロ ギ ー︶ が 儒 家 へ 回 帰 す る傾向にあり、これは彼が全ての政敵を消滅させた後、残 すは皇冠をつまみ取るだけの時に、必然的に現れた態度だ と述べ る ︶79 ︵ 。この儒家への回帰は魏公・魏王への進号を正当 化するために曹操が董昭の提出した封建論という古制を利 用する時に現れ た ︶80 ︵ 。すなわち、曹氏父子は周代の再現とし て、儒家経典中の理想的な聖王に倣おうと考えていた。具 体的には以下の施策を指摘できる。 第一に、曹操は自らを周文王の物語になぞらえた。建安 二十三年︵二一八︶九月、曹操は長安に行き、蜀を征服し ようとした。この時劉 廙 は曹操が周文王に倣って徳行を用 いて周辺を宣撫すれば、戦いに奔走する必要がないと上奏 した。それに応じて、曹操は﹁今欲使吾坐行西伯之徳、恐 非其人也﹂と答え た ︶81 ︵ 。建安二十四年︵二一九︶十月、 孫権 ・ 夏侯惇・陳群・桓階らが曹操に漢朝に取って代わることを す す め る と、 彼 は﹁ 若 天 命 在 吾、 吾 為 周 文 王 矣 ﹂ と 答 え、 一生﹁漢臣﹂となっ た ︶82 ︵ 。これを見ると、曹操は漢朝に取っ て代わる願望があったが、自身でこれを成し遂げることな く、自分の息子の曹丕に完遂させた。これは周文王の物語 になぞらえることができよ う ︶83 ︵ 。 第二に、曹魏の祖先の系譜を周王室に遡らせた。曹魏の 祖先としては、四人の人物が挙げられていた。即ち漢相国 の 曹 参 ︶84 ︵ ・ 曹 叔 振 鐸・ 顓 頊 ︶85 ︵ ・ 舜 ︶86 ︵ で あ る。 ﹃ 三 国 志 ﹄ 巻 一 四・ 蒋済伝の裴松之注には以下のような記載がある。 魏 武 作﹃ 家 伝 ﹄、 自 云 曹 叔 振 鐸 之 後。 故 陳 思 王 作﹃ 武 帝誄﹄曰、 ﹁於穆武皇、胄稷胤周。 ﹂ ﹃世本﹄ によると、 曹叔振鐸は周文王の息子であ る ︶87 ︵ 。そして、
13 六朝隋唐の王后・王太子号について(柴) 曹 操・ 曹 植 は 自 分 が 周 王 室 の 後 裔 で あ る と 標 榜 し て い た。 さて、曹魏は自分の祖先を数度変更したが、これは漢魏王 朝 の 交 替 と 密 接 な 関 係 が あ る。 朱 子 彦 氏 の 研 究 に よ る と、 曹参・曹叔振鐸の後裔であることを標榜したのは身分を高 めるためであるのに対して、顓頊と舜の後裔を標榜したの は禅譲政治に必要であったためとい う ︶88 ︵ 。私見では、曹操が 自分の祖先を周王室に遡らせたことには、身分を高めるほ かに、周王室の後裔を標榜し、聖王になろうとする思惑が あったと考えられる。 第三に、祖父を﹁太王﹂と追尊した。曹丕は魏王につい た後の延康元年︵二二○︶五月に、彼の祖父曹嵩を太王と 追尊してい る ︶89 ︵ 。太王は周文王の祖父古公亶父の尊号である。 周の王業の創建は彼から始まると見なされてい た ︶90 ︵ 。それ故、 周の武王は周を立てた後、古公亶父を太王に追封した。経 学が繁栄した後漢時代に、士人たちは儒学の典故に通じて おり、 ﹁太王﹂の地位や意義の重要性をよく分かっていた。 ただし、曹嵩の曹魏における地位と古公亶父の周代におけ る地位は同一に論じることができない。さて、曹嵩はこの ような名号を獲得できるほど、曹魏の建国に貢献していな い。しかし、 漢魏王朝交替という背景と合わせて考えると、 彼が太王に追尊されたことは曹魏が漢王朝に取って代わる ことを意味する。この点については、当時の尚書令の桓階 たちの上奏文から、太王という名号が持つ深い政治的意味 を見出すことができ る ︶91 ︵ 。 さて、曹操の王爵が有する性質については多くの論説が ある。曹操の魏公国・魏王国は秦漢以後の名義上の諸侯国 とは性質を異にし、封建領主の実を備えたものであ る ︶92 ︵ 。こ の時、漢と魏の関係は以前の君臣主従関係ではなく、魏国 はすでに独立王国になっていた。従って、曹操の王爵は漢 制の二十等爵ではなく、五等爵制を基礎として建てられた 王爵であ る ︶93 ︵ 。曹操が享受した殊礼から見ると、彼が得た魏 公は実質的には諸侯王に相当し、魏王は漢の天子に比して 遜 色 な い 権 威 を 備 え て い た ︶94 ︵ 。 ま た、 ﹃ 三 国 志 ﹄ 巻 一 四・ 董 昭伝には、 昭 建 議、 ﹁ 宜 修 古 建 封 五 等。 ﹂ 太 祖 曰、 ﹁ 建 設 五 等 者、 聖人也、又非人臣所制、吾何以堪之。 ﹂昭曰、 ﹁自古以 来、人臣匡世、未有今日之功。有今日之功、未有久処 人 臣 之 勢 者 也。 ﹂︵ 中 略 ︶ 後 太 祖 遂 受 魏 公・ 魏 王 之 号、 皆昭所創。 とある。これによると、董昭が建封五 等 ︶95 ︵ を提出した時、曹 操 は こ れ が 人 臣 に よ っ て 作 ら れ た も の で は な く、 聖 人 が 作ったものだと述べた。それに対して董昭は曹操の功績が 非常に大きいものであって、永く人臣に居るものではない と答えている。その後、 董昭の意見を採用し、 曹操は魏公 ・
14 魏王になった。このことから、曹操の魏公、特に魏王は既 に単なる﹁人臣﹂ではなく、 ﹁聖人﹂ ︵帝王/天子︶の地位 と 見 な さ れ て い た こ と を 窺 え る。 最 近、 ﹃ 献 帝 起 居 注 ﹄ を 考察した徐冲氏の考論に拠れば、この書の記述は建安二十 一年︵二一六︶二月壬申で終わっており、漢魏禅代のプロ セスを最後まで書く意図が見られず、漢献帝の皇帝権力が こ こ に 至 っ て 遂 に 消 滅 し た と 考 え ら れ る と い う ︶96 ︵ 。 そ し て、 漢 献 帝 の 皇 帝 権 力 が 消 滅 し た と さ れ る 二 月 の 後 の 五 月 に、 曹 操 は 魏 王 に な り、 皇 帝 の 権 力 を 代 行 す る よ う に な っ た。 要するに、曹操の魏王国は禅譲の過程で一時的に設けられ た独立王国であったが、彼に与えられた魏王という名号は 封建制の中の最高統治者の ﹁王﹂ 、即ち周代における ﹁天子﹂ と意味が同じである。その上、さらに曹操は天子の種々の 礼遇を受け、妻子の名号も﹁天子﹂と等しくしていた。 以上の経緯からすれば、曹操の礼遇と妻子の名号を高め た後、各種の激しい反対が湧き起こったのは当然のことで あ っ た。 建 安 二 十 二 年︵ 二 一 七 ︶、 曹 操 が 天 子 と 同 格 の 礼 遇を得て、嫡子が太子に立てられた。その次年正月、許昌 で金 禕 らの叛乱が発生し た ︶97 ︵ 。また、 建安二十四年︵二一九︶ 七月、曹操の夫人卞氏が王后に立てられ、九月、 鄴 都で魏 諷らの叛乱が発生し た ︶98 ︵ 。柳春新氏はこれらの叛乱特に魏諷 の乱が曹操の称帝計画を乱したと見なしてい る ︶99 ︵ 。もしこれ らの叛乱が起きなければ、曹操は皇帝位についていた可能 性が非常に高い。上述の状況を考慮し、魏諷の乱を平定し た同年の十月に孫権が曹操に天命があると説き、曹操に皇 帝 即 位 を 勧 め た 時、 曹 操 は﹁ 是 児 欲 踞 吾 著 炉 火 上 邪。 ﹂ と 答え、ついに皇帝と称さなかっ た ︶100 ︵ 。 第 二 節 で 述 べ た よ う に、 ﹁ 后 ﹂・ ﹁ 太 子 ﹂ は 周 代 の 天 子 の 嫡妻と嫡子の名号である。この点を踏まえると、漢魏王朝 交替の際に曹操がこの名号を使用したことは、周代の制度 に な ぞ ら え る こ と で、 周 制 を 隠 れ 蓑 と し つ つ、 ﹁ 簒 漢 ﹂ を 進めようとしていた意図の表れであろう。つまり、曹操の 魏王とは周代の﹁王﹂即ち﹁天子﹂と同じ意味である。こ の 王 爵 と は、 儒 家 に 高 く 評 価 さ れ た 周 代 の 封 建 制 の 中 の ﹁王﹂である。禅譲の時に、 ﹁王﹂から﹁皇帝﹂に変わるこ とと秦王 嬴 政が天下統一を成し遂げ、最高統治者の名号が ﹁ 王 ﹂ か ら﹁ 皇 帝 ﹂ に 変 わ る こ と と は 似 て い る。 曹 氏 父 子 が苦心して築き上げた漢魏の禅譲は、中世王朝の交替の禅 譲モデルとなり、後世に深い影響を与えた。 おわりに ﹁ 后 ﹂・ ﹁ 太 子 ﹂ は 王 政 の 周 代 の 天 子 の 嫡 妻 と 嫡 子 の 名 号 である。帝政時代に入り、最高統治者の名号は王から皇帝
15 六朝隋唐の王后・王太子号について(柴) に変わり、皇帝の妻子は以上の名号を用いながらも、より 尊貴であることを示すためにその前に﹁皇﹂を加えた。諸 侯 王 の 妻 子 は、 前 漢 初 期、 ﹁ 后 ﹂・ ﹁ 太 子 ﹂ 名 号 を そ の ま ま 用いたが、後漢の時この名号を使用することに制限が加え られた。漢魏王朝の交替の過程で、王朝交替の理念のため に曹操はこれらの名号を初めて使い、後世の王朝がこれを 踏襲した。 六朝隋唐で、禅譲の前における権臣らの礼遇は、皇帝と ほぼ同等に達し、これ以上爵位を追加することができなく なった時に、彼らは自分の嫡妻と嫡子の名号を変えた。そ の後、王朝の交替に伴って、権臣らの名号は王から皇帝に なるが、彼らの嫡妻と嫡子の名号は二つの段階を経 る ︶101 ︵ 。ま ず、王妃・王世子から王后・王太子になる。次に王后・王 太子から皇后 ・ 皇太子になる。もちろん、 特殊な原因によっ て、こうした過程を経ない場合もあったが、この名号の変 更は既に禅譲儀式の中で、重要不可欠な地位を占めるよう になったのである。また、この名号の変更は、禅譲儀式中 に限定されず、禅譲以外の方式によって立った政権の創建 過程において、これらの創始者及び妻子の名号にも上述の 変 化 を 生 じ さ せ た。 つ ま り、 六 朝 隋 唐 に お い て は、 王 后・ 王太子という名号は各政権に対して深い影響があり、漢族 政権及び胡族政権の中に流行していたと言えよう。 注 ︵ 1︶ ﹃ 廿 二 史 劄 記 ﹄ 巻 七・ 禅 代 条 に 拠 る。 ま た、 楊 永 俊﹃ 禅 譲 政 治 研 究
│
王 莽 禅 漢 及 其 心 法 伝 替 ﹄︵ 学 苑 出 版 社、 二 〇 〇 五 ︶ 第 三 章﹁ 王 莽 禅 漢││ 対 簒 逆・ 居 摂 政 治 的 突 破 ﹂、 一 一 一∼ 一 五 二 頁。 朱 子 彦﹃ 漢 魏 禅 代 与 三 国 政 治 ﹄︵ 東 方 出 版 中 心、 二 〇 一 三 ︶ 第 一 章﹁ 王 朝 鼎 革 的 主 流 形 態 ︰以 漢 魏 禅 代 為 中 心 ﹂、 三 五 頁 注 ③ 等 も 参 照 し た。 ち な み に 唐 と 後 梁、 後 周 と 北 宋 の 王 朝 交 替 も﹁ 禅 譲 ﹂ の 方 式 に よ り 完 成 し た。 し か し、 礼 制 特 に 名 号 の 面 か ら 考 察 す れ ば、 こ の 二 つの ﹁禅譲﹂ と前代王朝の事例とは明らかに異なる。唐梁 ・ 周 宋 の 事 例 で は 礼 制 面 の 規 定 は 多 く 省 略 さ れ、 し か も 王 朝 交 替 の 時 間 も 更 に 短 く な り、 た だ﹁ 禅 譲 ﹂ の 虚 名 が 残 っ た 状 態 で あ っ た。 こ の 変 化 に つ い て、 宮 川 尚 志 氏 は こ れ と 貴 族 主 義 風 潮 の 転 換 や 貴 族 勢 力 の 衰 退 な ど に 密 接 な 関 係 が あ る と 指 摘 し た︵ ﹁ 禅 譲 に よ る 王 朝 革 命 の 特 質 ﹂、 ﹃ 東 方 学 ﹄ 第 一 一 輯、 一 九 五 五、 五 〇∼ 五 八 頁 ︶。 故 に、 本 稿 で は 漢 魏禅譲から隋唐禅譲までの歴史を考察対象とし、 唐と後梁、 後周と北宋間の禅譲に言及しない。 ︵ 2︶ 周 国 林﹁ 魏 晋 南 北 朝 禅 譲 模 式 及 其 政 治 文 化 背 景 ﹂︵ ﹃ 社 会 科学家﹄一九九三年第二期︶三八頁。 ︵ 3︶ 魏 国 太 子 の 冊 立 は 形 式 的 に せ よ 漢 献 帝 の 詔 が 必 要 だ っ た の か、 そ れ と も、 漢 献 帝 と は 関 係 な く 魏 国 自 ら 決 定 で き た の か、 と い う 問 題 に つ い て 史 籍 の 記 載 は 異 な っ て い る。 例 え ば、 上 述﹃ 三 国 志 ﹄ 巻 一・ 武 帝 紀 の 他 に﹃ 資 治 通 鑑 ﹄ 巻 六 八・ 献 帝 建 安 二 十 二 年 十 月 条 に は、 ﹁ 魏 以 五 官 中 郎 将 丕16 為太子﹂とある。 ︵ 4︶ 王 后 の 冊 立 と 上 述 の 太 子 の 冊 立 状 況 は 同 じ で あ る。 ﹃ 三 国 志 ﹄ 巻 五・ 武 宣 卞 皇 后 伝 に は、 王 后 を 冊 立 す る 策 文﹁ 夫 人 卞 氏、 撫 養 諸 子、 有 母 儀 之 徳。 今 進 位 王 后、 太 子 諸 侯 陪 位、 群 卿 上 寿、 減 国 内 死 罪 一 等。 ﹂ と あ る。 ﹃ 資 治 通 鑑 ﹄ 巻 六 八・ 献 帝 建 安 二 十 四 年 七 月 条 に は、 ﹁ 詔 以 魏 王 操 夫 人 卞 氏 為 王 后 ﹂ と あ る。 こ れ に 関 し て、 盧 弼 の﹃ 三 国 志 集 解 ﹄ 巻 五・ 武 宣 卞 皇 后 伝 に は、 ﹁ 立 后 策 文、 当 為 魏 国 之 策 命、 非漢天子之詔也。策文減国内死罪一等、 減魏国国内死罪也。 ﹃通鑑﹄誤。 ﹂とある。 ︵ 5︶ ﹃三国志﹄巻三三・後主伝。同書巻三四・先主穆皇后伝。 ︵ 6︶ ﹃ 三 国 志 ﹄ 巻 二・ 文 帝 紀。 曹 丕 が 孫 権 を 呉 王 に 冊 封 し、 九 錫 を 与 え た 理 由 に つ い て は、 朱 子 彦﹁ 九 錫 制 度 与 漢 魏 禅 代 │ │ 兼 論 九 錫 在 三 国 時 期 的 特 殊 功 能 ﹂︵ ﹃ 人 文 雑 誌 ﹄ 二 〇 〇七年第一期︶一三七∼一三九頁を参照。 ︵ 7︶ ﹃三国志﹄巻四七・呉主伝。 ︵ 8︶ ﹃三国志﹄巻四七・呉主伝。 ︵ 9︶ ﹃ 三 国 志 ﹄ 巻 五 〇・ 呉 主 権 徐 夫 人 伝、 同 書 同 巻 呉 主 権 步 夫人伝。 ︵ 10︶ ﹃三国志﹄巻四・三少帝紀。 ︵ 11︶ ﹃晋書﹄巻六・元帝紀。 ︵ 12︶ ﹃晋書﹄巻六・元帝紀。 ︵ 13︶ ﹃晋書﹄巻三二・元敬虞皇后伝。 ︵ 14︶ ﹃晋書﹄巻六・元帝紀。 ︵ 15︶ ﹃晋書﹄巻六・元帝紀。 ︵ 16︶ ﹃ 晋 書 ﹄ 巻 一 〇 四・ 石 勒 載 記 上。 そ の 後、 咸 和 五 年︵ 三 三○︶石勒が趙天王についた際に、その夫人 ・ 世子は王后 ・ 太 子 と な っ た︵ 同 書 巻 一 〇 五・ 石 勒 載 記 下 ︶。 こ れ は、 王 で は な く﹁ 天 王 ﹂ の 場 合 だ が、 禅 譲 直 前 の 王 の 場 合 と 同 様 の事例と見なすことができる。 ﹁天王﹂ │王后 ・ 太子の例は、 馮跋︵同書巻一二五 ・ 馮跋載記︶ 、 赫連勃勃︵同書巻一三〇 ・ 赫連勃勃載記︶の事例にも見られる。 ︵ 17︶ ﹃晋書﹄巻一〇五・石勒載記下。 ︵ 18︶ ﹃晋書﹄巻一〇九・慕容 皝 載記。 ︵ 19︶ ﹃晋書﹄巻一二六・禿髪 傉 檀載記。 ︵ 20︶ ﹃宋書﹄巻四一・孝穆趙皇后伝。 ︵ 21︶ ﹃ 宋 書 ﹄ 巻 四 一・ 孝 懿 蕭 皇 后 伝。 た だ し、 こ れ と﹁ 武 帝 紀 中 ﹂ の 記 載 に は 異 な る と こ ろ が あ る。 ﹃ 宋 書 ﹄ 巻 二・ 武 帝 紀 中 に は、 ﹁︹ 義 熙 十 四 年 六 月 ︺ 詔 崇 豫 章 公 太 夫 人 為 宋 公 太妃。 ﹂とある。 ︵ 22︶ ﹃ 宋 書 ﹄ 巻 三・ 武 帝 紀 下。 ま た、 ﹃ 宋 書 ﹄ 巻 四 一・ 孝 懿 蕭 皇 后 伝 に は、 ﹁ 義 熙 七 年、 拝 豫 章 公 太 夫 人。 高 祖 為 宋 王、 又加太妃之号。 ︵中略︶ 在外凡五年、 后常留東府。高祖践 阼 、 有 司 奏 曰、 ﹃︵ 中 略 ︶ 伏 惟 太 妃 母 儀 之 徳、 ︵ 中 略 ︶ 臣 等 請 上 宋 王 太 后 号 皇 太 后。 ﹄ 故 有 司 奏 猶 称 太 妃 也。 ﹂ と あ る。 た だ し、 ﹃ 宋 本 冊 府 元 亀 ﹄ 巻 一 八 九・ 閏 位 部・ 尊 親 条 に は、 ﹁ 宋 高祖永初元年六月即位、 尊王太后蕭氏為皇太后。有司奏曰、 ﹃︵ 中 略 ︶ 伏 惟 太 后 母 儀 之 徳、 ︵ 中 略 ︶ 臣 等 請 上 宋 王 太 后 号 曰 皇 太 后。 ﹄﹂ と あ る。 こ れ に よ る と、 ﹃ 宋 書 ﹄ の 太 妃 は 太 后 の は ず で あ る。 劉 裕 が 皇 帝 位 に つ き、 蕭 氏 が 王 太 后 か ら
17 六朝隋唐の王后・王太子号について(柴) 皇太后に改変される前に、 有司の上奏文はなお ﹁︵王︶ 太后﹂ と称した。 ︵ 23︶ ﹃宋書﹄巻四一・武敬臧皇后伝。 ︵ 24︶ ﹃宋書﹄巻四・少帝紀。 ︵ 25︶ ﹃宋書﹄巻三・武帝紀下。 ︵ 26︶ ﹃南斉書﹄巻三・武帝紀。 ︵ 27︶ ﹃南斉書﹄巻二〇・高昭劉皇后伝。 ︵ 28︶ ﹃南斉書﹄巻二〇・高昭劉皇后伝。 ︵ 29︶ ﹃宋書﹄巻一〇・順帝紀、 ﹃南斉書﹄巻一・高帝紀上。 ︵ 30︶ ﹃ 南 斉 書 ﹄ 巻 八・ 和 帝 紀 に は﹁ 甲 午 ﹂ と あ り、 ﹃ 梁 書 ﹄ 巻 一・ 武 帝 紀 上 と﹃ 南 史 ﹄ 巻 六・ 梁 本 紀 上 に は、 ﹁ 丙 午 ﹂ と あ る。 ﹃ 南 斉 書 ﹄︵ 中 華 書 局 修 訂 本、 二 〇 一 七 ︶ 巻 八・ 和 帝 紀の第一五条校勘記によると、 ﹁丙午﹂ のはずであるという。 ︵ 31︶ ﹃梁書﹄巻七・高祖郗皇后伝。 ︵ 32︶ ﹃南斉書﹄巻八・和帝紀。 ︵ 33︶ ﹃梁書﹄巻八・昭明太子伝。 ︵ 34︶ ﹃陳書﹄巻一・高祖紀上。 ︵ 35︶ ﹃陳書﹄巻二・高祖紀下。 ︵ 36︶ ﹃陳書﹄巻七・高祖章皇后伝。 ︵ 37︶ ﹃北斉書﹄巻五・廃帝紀。 ︵ 38︶ ﹃魏書﹄巻一二・孝静帝紀。 ︵ 39︶ ﹃北斉書﹄巻四・文宣帝紀。 ︵ 40︶ ﹃ 隋 書 ﹄ 巻 一・ 高 祖 紀 上。 ﹃ 隋 書 ﹄ で は 唐 太 宗 の 諱 を 避 け る た め 世 子 を 長 子 と 書 い た。 た だ し、 ﹃ 北 史 ﹄ 巻 一 一・ 隋 本紀上では、直接﹁世子﹂と記している。 ︵ 41︶ ﹃隋書﹄巻一・高祖紀上。 ︵ 42︶ 李 建 成 を 世 子 に 封 じ た 時 の こ と に つ い て は、 ﹃ 大 唐 創 業 起 居 注 ﹄・ ﹃ 隋 書 ﹄・ ﹃ 旧 唐 書 ﹄・ ﹃ 新 唐 書 ﹄・ ﹃ 資 治 通 鑑 ﹄ の 記 載に相違がみられる。 ﹃大唐創業起居注﹄ 巻三は ﹁︵十一月︶ 己 卯、 以 隴 西 公 為 唐 王 世 子 ﹂ と あ る。 ﹃ 隋 書 ﹄ 巻 五・ 恭 帝 紀 は﹁ ︵ 十 一 月 ︶ 已 巳、 以 唐 王 子 隴 西 公 建 成 為 唐 国 世 子 ﹂ とある。また、 ﹃旧唐書﹄巻一 ・ 高祖紀は﹁ ︵十一月︶甲子、 隋帝詔加高祖假黃鉞、 使持節、 大都督内外諸軍事、 大丞相、 進 封 唐 王、 総 録 万 機。 以 武 徳 殿 為 丞 相 府、 改 教 為 令。 以 隴 西 公 建 成 為 唐 国 世 子。 ﹂ と あ る。 ﹃ 新 唐 書 ﹄ 巻 一・ 高 祖 紀 は ﹁ 十 二 月 癸 未、 隋 帝 贈 唐 襄 公 為 景 王。 仁 公 為 元 王。 夫 人 竇 氏 為 唐 国 妃、 諡 曰 穆。 以 建 成 為 唐 国 世 子。 ﹂ と あ る。 ﹃ 資 治 通 鑑 ﹄ 巻 一 八 四・ 恭 帝 義 寧 元 年 十 一 月 条 は﹁ 己 巳、 以 李 建 成 為 唐 世 子 ﹂ と あ る。 本 稿 で は﹃ 隋 書 ﹄ と﹃ 資 治 通 鑑 ﹄ の 記載に従った。 ︵ 43︶ ﹃新唐書﹄巻一・高祖紀。 ︵ 44︶ ﹃旧唐書﹄巻一・高祖紀。 ︵ 45︶ ﹃ 後 漢 書 ﹄ 巻 三・ 章 帝 紀。 ま た 朱 漢 民﹁ ﹃ 白 虎 通 義 ﹄ ︰帝 国 政 典 和 儒 家 経 典 的 結 合 ﹂︵ ﹃ 北 京 大 学 学 報︵ 哲 学 社 会 科 学 版︶ ﹄二〇一七年第四期︶一五∼二三頁を参照。 ︵ 46︶ ﹃白虎通﹄巻一〇・嫁娶・王后夫人条。 ︵ 47︶ 封 建 制 に お い て、 最 高 統 治 者 の 天 子 は 王 と 称 し た。 た だ し、 西 周 時 期 に、 周 王 朝 の 封 建 制 以 外 に お い て、 小 さ い 邦 国 の 邦 君 が 王 と 称 す る 例 が あ る。 こ れ ら は 大 体 蛮 夷 戎 狄 の 国 で あ り、 彼 ら は 王 と 称 す る 旧 俗 を 踏 襲 し た。 こ れ ら に つ
18 い て は 趙 政 烺 ﹁ 夨 王 簋 蓋 跋 │ │ 評 王 国 維﹃ 古 諸 侯 称 王 説 ﹄﹂ ︵陝西省考古研究所等編 ﹃古文字研究﹄ 第一三輯、 一九八六︶ 一 七 九∼ 一 八 〇 頁、 王 震 中﹁ 中 国 王 権 的 誕 生 │ │ 兼 論 王 権 与 夏 商 西 周 複 合 制 国 家 結 構 之 関 係 ﹂︵ ﹃ 中 国 社 会 科 学 ﹄ 二 〇 一六年第六期︶一九四∼一九五頁を参照。 ︵ 48︶ ﹃日知録﹄巻二四・后条。 ︵ 49︶ ﹃漢書﹄巻九七上・外戚伝上。 ︵ 50︶ 呂思勉 ﹃呂著中国通史﹄ ︵華東師范大学出版社、 一九九二、 初 出 は 一 九 四 五 ︶ 三 三 一∼ 三 三 二 頁。 前 掲﹁ 中 国 王 権 的 誕 生
│
兼 論 王 権 与 夏 商 西 周 複 合 制 国 家 結 構 之 関 係 ﹂、 一 九 六頁。 ︵ 51︶ ﹃史記﹄巻七・項羽本紀。 ︵ 52︶ 例 え ば、 趙 王 の 張 敖 の 嫡 妻 は 王 后 と 称 し た。 ﹃ 史 記 ﹄ 巻 八九・張耳陳餘列伝。 ︵ 53︶ ﹃新書﹄巻一・等斉。 ︵ 54︶ 呉 栄 曽﹁ 西 漢 王 国 官 制 考 実 ﹂︵ ﹃ 北 京 大 学 学 報︵ 哲 学 社 会 科学版︶ ﹄一九九〇年第三期︶一二一頁。 ︵ 55︶ ﹃漢書﹄巻九七下・中山衛姫伝。 ︵ 56︶ ﹃漢書﹄巻九九中・王莽伝中。 ︵ 57︶ 後漢の初期、 ﹁王太后﹂と称する例は一つだけあるが、 ﹁王 后 ﹂ と 称 す る 例 は 見 ら れ な い。 ﹃ 後 漢 書 ﹄ 巻 一 〇 上・ 光 武 郭皇后紀には、 ﹁后︵郭皇后︶以寵稍衰、 数懐怨懟。十七年、 遂 廃 為 中 山 王 太 后、 進 后 中 子 右 翊 公 輔 為 中 山 王、 以 常 山 郡 益 中 山 国。 ︵ 中 略 ︶ 二 十 年、 中 山 王 輔 復 徙 封 沛 王、 后 為 沛 太 后。 ﹂ と あ る。 な お、 ﹃ 後 漢 書 ﹄ 巻 一 下・ 光 武 帝 紀 下・ 建 武十七年冬十月辛巳条にも関連する記事がある。 ︵ 58︶ ﹃後漢書﹄巻八・霊帝紀。 ︵ 59︶ ﹃白虎通﹄巻一・爵・諸侯襲爵条。 ︵ 60︶ ﹃初学記﹄巻一〇・儲宮部・皇太子第三。 ︵ 61︶ ﹃史記﹄巻六・秦始皇本紀。 ︵ 62︶ ﹃史記﹄巻一〇六 ・ 呉王濞列伝。王先謙と瀧川亀太郎︵瀧 川 資 言 ︶ は 周 寿 昌 語 を 引 い て、 ﹁ 漢 制、 王 及 列 侯 長 子 皆 称 太子、 王母称太后、 不必天子也﹂という。 ﹃漢書補注﹄巻四 ・ 文帝紀。 ﹃史記会注考証﹄巻一〇・孝文本紀。 ︵ 63︶ ﹃ 史 記 ﹄ 巻 四 九・ 外 戚 世 家 に は、 ﹁ 衛 子 夫 立 為 皇 后、 后 弟 衛青字仲卿、 以大将軍封為長平侯。四子、 長子伉為侯世子、 侯世子常侍中、貴幸。 ﹂とある。 ︵ 64︶ ﹃ 史 記 ﹄ 巻 一 〇・ 孝 文 本 紀 に は、 ﹁ 其 令 列 侯 之 国、 為 吏 及 詔所止者、遣太子。 ﹂とある。 ︵ 65︶ ﹃漢書﹄巻九九中・王莽伝中。 ︵ 66︶ ﹃後漢書﹄巻一〇下・皇后紀下。 ︵ 67︶ ﹃ 後 漢 書 ﹄ 巻 四 二・ 光 武 十 王 伝 に は、 ﹁ 錯 為 太 子 時、 愛 康 鼓 吹 妓 女 宋 閏、 使 医 張 尊 招 之 不 得、 錯 怒、 自 以 剣 刺 殺 尊。 国相挙奏、有詔勿案。 ﹂とある。 ︵ 68︶ ﹃ 後 漢 書 ﹄ 巻 五 〇・ 孝 明 八 王 伝 に は、 ﹁ 衍 後 病 荒 忽、 而 太 子卬有罪廃、 諸姫争欲立子為嗣、 連上書相告言。和帝憐之、 使 彭 城 靖 王 恭 至 下 邳 正 其 嫡 庶、 立 子 成 為 太 子。 ︹ 注 ︺﹃ 東 観 記 ﹄ 載 賜 恭 詔 曰、 ﹃︵ 中 略 ︶ 前 太 子 卬 頑 凶 失 道、 陷 於 大 辟、 是 後 諸 子 更 相 誣 告、 迄 今 適 嗣 未 知 所 定、 朕 甚 傷 之。 ︵ 中 略 ︶ 太 子 国 之 儲 嗣、 可 不 慎 歟。 王 其 差 次 下 邳 諸 子 可 為 太 子 者 上19 六朝隋唐の王后・王太子号について(柴) 名、将及景風拝授印綬焉。 ﹄﹂とある。 ︵ 69︶ 鄭傑文 ﹁禅譲学説的歴史演化及其原因﹂ ︵﹃中国文化研究﹄ 二 〇 〇 二 年 春 之 巻 ︶ 二 六∼ 二 七 頁。 彭 裕 商﹁ 禅 譲 説 源 流 及 学 派 興 衰 │ │ 以 竹 書﹃ 唐 虞 之 道 ﹄・ ﹃ 子 羔 ﹄・ ﹃ 容 城 氏 ﹄ 為 中 心﹂ ︵﹃歴史研究﹄二〇〇九年第三期︶四∼一五頁。 ︵ 70︶ 王 莽 代 漢 に つ い て は 禅 譲 と 簒 奪 の い ず れ に 見 な す べ き か 、 学 界 で 多 様 な 見 解 が あ る 。 楊 永 俊 ﹁ 王 莽 禅 漢 ︰復 古 建 制 中 創 封 建 王 朝 更 替 新 統 ﹂︵ ﹃ 求 索 ﹄ 二 〇 〇 六 年 第 三 期、 二 一 二 頁 ︶ を 参 照。 王 莽 代 漢 が 後 世 王 朝 に 与 え た 影 響 に つ い て、 楊 永 俊 氏 は 王 莽 代 漢 が 後 世 の 魏 晋 南 北 朝 隋 唐 五 代 宋 の 王 朝 交 替 政 治 に 重 大 な 影 響 を 与 え た と 考 え る。 前 掲 楊 氏 の 文 章 を 参 照。 松 浦 千 春 氏﹁ 王 莽 禅 譲 考 ﹂︵ ﹃ 一 関 工 業 高 等 専 門 学 校 研 究 紀 要 ﹄ 第 四 二 号、 二 〇 〇 八、 二 九 頁 ︶ は 王 莽 禅 譲 と 漢 魏 禅 譲 と に は 多 く の 違 い が あ り、 後 世 の 禅 譲 儀 礼 は全て漢魏禅譲に倣ったと考える。徐冲氏 ﹁﹃禅譲﹄ 与 ﹃起 元 ﹄ ︰魏 晋 南 北 朝 的 王 朝 更 替 与 国 史 書 写 ﹂︵ ﹃ 歴 史 研 究 ﹄ 二 〇 一 〇 年 第 三 期、 一 〇 九 頁 ︶ は 王 莽 代 漢 が 特 殊 な モ デ ル を 採 用 し、 後 世 に お け る 王 朝 交 替 の モ デ ル と な ら ず、 魏・ 晋 王 朝 が 中 国 古 代 に お い て 最 初 に 禅 譲 モ デ ル に よ っ て 完 成 し た 王 朝 交 替 で あ っ た と 考 え る。 本 稿 は、 主 に 禅 譲 儀 礼 中 の 王 后・ 王 太 子 号 に 対 す る 考 察 で あ る が、 こ れ は 曹 操 が 創 建 し、 司 馬 昭 が 継 承 し て 完 全 な も の と し た も の で あ っ て、 王 莽代漢とは関係がないと考えている。 ︵ 71︶ 建安十五年 ︵二一〇︶ 、曹操は袁術が九江で皇帝を僭称し、 衣 被 の 制 を 全 て 天 子 と 同 格 に し た こ と を 非 難 し た。 ﹃ 三 国 志 ﹄ 巻 一・ 武 帝 紀 注 引﹃ 魏 武 故 事 ﹄ 所 載 の 十 二 月 己 亥 令 に は、 ﹁︵ 中 略 ︶ 袁 術 僭 号 于 九 江、 下 皆 称 臣、 名 門 曰 建 号 門、 衣 被 皆 為 天 子 之 制、 両 婦 預 争 為 皇 后。 ﹂ と あ る。 し か し 曹 操 の 場 合 で は、 こ の 時 に 曹 操 が 衣 被 の 制 に と ど ま ら ず、 全 て天子と同格の礼遇を獲得している。 ︵ 72︶ 例 え ば、 ﹁ 楽 舞 八 佾 ﹂︵ 曹 操 が 魏 公 に 冊 封 さ れ た 時 は 六 佾 之 舞 ︶、 ﹁ 置 旄 頭、 宮 殿 設 鐘 虡 ﹂、 ﹁ 天 子 命 王 設 天 子 旌 旗、 出 入称警蹕﹂ 、﹁冕十有二旒、 乗金根車、 駕六馬、 設五時副車﹂ などである。 ︵ 73︶ 第 一 節 で 言 及 し た 漢 魏 の 禅 譲 は、 建 安 十 八 年︵ 二 一 三 ︶ 五月から建安二十四年 ︵二一九︶ 秋七月までの時間である。 ︵ 74︶ ﹃ 三 国 志 ﹄ 巻 五・ 后 妃 伝 に は、 ﹁ 太 祖 建 国、 始 命 王 后。 ﹂ とある。 ︵ 75︶ ﹃ 後 漢 書 ﹄ 巻 七 九 下・ 儒 林 伝 下 の﹁ 論 曰 ﹂ に は、 ﹁ 自 光 武 中 年 以 後、 干 戈 稍 戢 、 専 事 経 学、 自 是 其 風 世 篤 焉。 ︵ 中 略 ︶ 故 人 識 君 臣 父 子 之 綱、 家 知 違 邪 帰 正 之 路。 ﹂ と あ る。 ﹃ 資 治 通鑑﹄巻六八 ・ 献帝建安二十四年十一月臣光曰条には、 ﹁自 三 代 既 亡、 風 化 之 美、 未 有 若 東 漢 之 盛 者 也。 及 孝 和 以 降、 貴 戚 擅 権、 嬖 倖 用 事、 賞 罰 無 章、 賄 賂 公 行、 賢 愚 渾 殽 、 是 非 顛 倒、 可 謂 乱 矣。 然 猶 綿 綿 不 至 於 亡 者、 上 則 有 公 卿、 大 夫 袁 安・ 楊 震・ 李 固・ 杜 喬・ 陳 蕃・ 李 膺 之 徒 面 引 廷 争、 用 公 義 以 扶 其 危、 下 則 有 布 衣 之 士 符 融・ 郭 泰・ 范 滂・ 許 卲 之 流、 立 私 論 以 救 其 敗、 是 以 政 治 雖 濁 而 風 俗 不 衰、 至 有 触 冒 斧 鉞、 僵 僕 於 前、 而 忠 義 奮 発、 継 起 於 後、 随 踵 就 戮、 視 死 如 帰。 夫 豈 特 数 子 之 賢 哉。 亦 光 武・ 明・ 章 之 遺 化 也。 ﹂ と
20 ある。 ︵ 76︶ ﹃ 宋 書 ﹄ 巻 三・ 武 帝 紀 下 の﹁ 史 臣 曰 ﹂ に は、 ﹁ 漢 氏 載 祀 四 百、 比 祚 隆 周、 雖 復 四 海 橫 潰、 而 民 繋 劉 氏、 惵 惵 黔 首、 未 有遷奉之心。魏武直以兵威服衆、 故能坐移天暦、 鼎運雖改、 而民未忘漢。 ﹂とある。 ︵ 77︶ ﹃ 後 漢 書 ﹄ 巻 七 九 下・ 儒 林 伝 下 の﹁ 論 曰 ﹂ に は、 ﹁ 自 桓・ 霊 之 間、 君 道 秕 僻、 朝 綱 日 陵、 国 隙 屢 啓、 自 中 智 以 下、 靡 不 審 其 崩 離。 而 権 彊 之 臣、 息 其 闚 盗 之 謀、 豪 俊 之 夫、 屈 於 鄙 生 之 議 者、 人 誦 先 王 言 也、 下 畏 逆 順 埶 也︵ 中 略 ︶ 跡 衰 敝 之 所 由 致、 而 能 多 歴 年 所 者、 斯 豈 非 学 之 效 乎。 故 先 師 垂 典 文、 褒 励 学 者 之 功、 篤 矣 切 矣。 ﹂ と あ る。 ﹃ 資 治 通 鑑 ﹄ 巻 六 八・ 献 帝 建 安 二 十 四 年 十 一 月 臣 光 曰 条 に は、 ﹁ 以 魏 武 之 暴 戻 強 伉、 加 有 大 功 於 天 下、 其 蓄 無 君 之 心 久 矣、 乃 至 没 身 不 敢 廃 漢 而 自 立、 豈 其 志 之 不 欲 哉。 猶 畏 名 義 而 自 抑 也。 ﹂ と あ る。 田 餘 慶﹁ 孫 呉 建 国 的 道 路 │ │ 論 孫 呉 政 権 的 江 東 化 ﹂ ︵﹃ 秦 漢 魏 晋 史 探 微︵ 重 訂 本 ︶﹄ 所 収、 中 華 書 局、 二 〇 一 一、 初出は一九九二︶二九三頁。 ︵ 78︶ ﹃三国志﹄巻一・武帝紀注引﹃魏書﹄ 。 ︵ 79︶ 田餘慶 ﹁曹袁之争与世家大族﹂ ︵前掲 ﹃秦漢魏晋史探微 ︵重 訂本︶ ﹄所収、初出は一九七四︶一五九∼一六一頁。 ︵ 80︶ ﹃三国志﹄巻一四・董昭伝。 ︵ 81︶ ﹃三国志﹄巻二一・劉 廙 伝。 ︵ 82︶ ﹃ 三 国 志 ﹄ 巻 一・ 武 帝 紀 注 引﹃ 魏 略 ﹄・ ﹃ 魏 氏 春 秋 ﹄。 ﹃ 資 治通鑑﹄巻六八・献帝建安二十四年十一月条。 ︵ 83︶ 前掲﹁曹袁之争与世家大族﹂ 、一五七頁。 ︵ 84︶ ﹃三国志﹄巻一・武帝紀。 ︵ 85︶ ﹃三国志﹄巻二・文帝紀引﹃献帝伝﹄ 。 ︵ 86︶ ﹃三国志﹄巻三・明帝紀引﹃魏書﹄所載明帝詔。 ︵ 87︶ ﹃世本﹄諸侯世本・曹国条。 ︵ 88︶ 前 掲﹃ 漢 魏 禅 代 与 三 国 政 治 ﹄ 第 一 章﹁ 王 朝 鼎 革 的 主 流 形 態 ︰以漢魏禅代為中心﹂ 、五六頁。 ︵ 89︶ ﹃三国志﹄巻二・文帝紀。 ︵ 90︶ ﹃ 毛 詩 正 義 ﹄ 巻 二 〇︵ 二 〇 之 二 ︶ に は、 ﹁ 后 稷 之 孫、 実 維 大王。居岐之陽、 実始翦商。 ︹大音泰。後大王、 大平皆同。 ︺﹂ と あ る。 李 忠 林﹁ 周 人 翦 商 史 実 考 略 ﹂︵ ﹃ 北 大 史 学 ﹄ 一 二、 北京大学出版社、二〇〇七︶一∼一二頁も参照。 ︵ 91︶ ﹃ 通 典 ﹄ 巻 七 二・ 天 子 追 尊 祖 考 妣 上 尊 号 同 条 に は、 ﹁ 魏 文 帝 即 王 位、 尚 書 令 桓 階 等 奏、 ﹃ 臣 聞 尊 祖 敬 宗、 古 之 大 義。 故 六 代 之 君、 未 嘗 不 追 崇 始 祖、 顕 彰 所 出。 先 王 応 期 抜 乱、 啓 魏 大 業、 然 禰 廟 未 有 異 号、 非 崇 孝 敬 示 無 窮 之 義 也。 太 尉 公 侯、 宜 有 尊 号、 所 以 表 功 崇 徳 発 事 顕 名 者 也。 故﹃ 易 ﹄ 言 乾 坤、 皆 曰 大 徳、 言 大 人 与 天 地 合。 臣 等 以 為、 太 尉 公 侯、 誕育聖哲、 以済群品、 可謂資始、 其功徳之号、 莫過於太王。 今 迎 神 主、 宜 乗 王 車、 又 宜 先 遣 使 者 上 諡 号 為 太 王。 ﹄ 於 是 漢 帝 追 諡 為 太 王。 及 受 禅、 追 尊 太 王 為 太 皇 帝、 考 武 王 為 武 皇 帝、 尊 王 太 后 為 皇 太 后。 ﹂ と あ る。 ﹃ 通 典 ﹄ の 原 文 は 錯 乱 が あ り、 戴 衛 紅 氏﹁ 魏 晋 南 北 朝 帝 王 諡 法 研 究︵ 下 ︶﹂ ︵﹃ 許 昌 学 院 学 報 ﹄ 二 〇 一 六 第 三 期 ︶ 一 一∼ 一 二 頁 の 考 論 に 従 っ て改めた。 ︵ 92︶ 前 掲﹁ 禅 譲 に よ る 王 朝 革 命 の 特 質 ﹂ に は、 ﹁ 中 国 が 封 建
21 六朝隋唐の王后・王太子号について(柴) 制 社 会 で あ っ た と い う 学 者 も 政 治 的 封 建 の 階 層 組 織 は な く 中 央 集 権 的 官 僚 政 治 が 一 貫 し て 行 わ れ た と い う。 な る ほ ど 禅 譲 革 命 が 行 わ れ た 時 代 に あ っ て も 天 子 の 専 制 権 力 は 必 ず し も 弱 か っ た と 断 定 で き な い が、 王 朝 末 期 に お い て は こ の 意 味 で 分 権 的 封 建 制 が 暫 時 的 に 存 在 し た と 言 え ま い か と 思 う。 し か ら ば こ う い う 一 時 的 封 建 王 国 の 間 歇 的 出 現 を も っ て 中 国 中 世 社 会 の 特 質 と も 考 え ら れ よ う。 ﹂ と あ る︵ 五 七 頁︶ 。 ︵ 93︶ 衛 広 来﹃ 漢 魏 晋 皇 権 嬗 代 ﹄︵ 書 海 出 版 社、 二 〇 〇 二、 初 出 は 二 〇 〇 一 ︶ 第 四 章 第 一 節﹁ 求 才 令 与 漢 魏 嬗 代 ﹂、 三 五 八∼三五九頁。 ︵ 94︶ 菊 地 大﹁ 曹 操 と 殊 礼 ﹂︵ ﹃ 東 洋 学 報 ﹄ 第 九 四 巻 第 一 号、 二 〇一二︶一∼二六頁。 ︵ 95︶ こ こ で の﹁ 五 等 ﹂ に つ い て、 ﹃ 孟 子 ﹄ 万 章 下 に は、 ﹁ 天 子 一 位、 公 一 位、 侯 一 位、 伯 一 位、 子・ 男 一 位、 凡 五 等 也。 ﹂ と あ る。 ﹃ 白 虎 通 ﹄ 巻 一・ 爵 に は、 ﹁ 天 子 者、 爵 称 也。 爵 所 以称天子何。王者父天母地、為天之子也。 ﹂とある。 ︵ 96︶ 徐 沖﹁ ﹃ 献 帝 起 居 注 ﹄ 与 献 帝 朝 廷 的 歴 史 意 義 ﹂︵ ﹃ 華 東 師 範 大 学 学 報︵ 哲 学 社 会 科 学 版 ︶﹄ 二 〇 一 八 年 第 四 期 ︶ 四 〇 ∼四九頁。 ︵ 97︶ ﹃資治通鑑﹄巻六八・献帝建安二十三年正月条。 ︵ 98︶ ﹃資治通鑑﹄巻六八・献帝建安二十四年九月条。 ︵ 99︶ 柳 春 新﹃ 漢 末 晋 初 之 際 政 治 研 究 ﹄︵ 岳 麓 書 社、 二 〇 〇 六、 初 出 は 一 九 九 七 ︶ 上 篇 第 六 章﹁ ﹃ 魏 諷 謀 反 案 ﹄ 析 論 ﹂、 七 九 ∼八八頁。 ︵ 100︶ ﹃三国志﹄巻一・武帝紀注引﹃魏略﹄ 。 ︵ 101︶ こ の 過 程 に は、 嫡 妻・ 嫡 子 の 名 号 の み な ら ず、 諸 王 子・ 王女・王孫などの爵命の号の変化も含まれている。 ︻ 附 記 ︼ 本 稿 は、 二 〇 一 八 年 度 東 北 史 学 会 大 会 で の 報 告 を も と に 加 筆 修 正 し た も の で あ る。 席 上 貴 重 な 意 見 を 下 さ っ た 松 浦 千 春先生、内田昌功先生に、心より御礼申し上げます。