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「新聞記者」の誕生 -福地源一郎の自己認識を中心に-

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「新聞記者」の誕生 -福地源一郎の自己認識を中心

に-著者

岡安 儀之

雑誌名

日本思想史研究

44

ページ

48-67

発行年

2012-03-25

URL

http://hdl.handle.net/10097/56515

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「新聞記者」 の誕生

- 福地源一郎の自己認識を中心に

はじめに - 問題の所在 本稿で考察する福地源一郎(桜癖、天保一二年へ一八四一) ∼明治三九年へ一九〇六))/は、幕出・官僚・新聞記者・ 脚本家・小説家・史論家など多彩な顔を持ち、明治期にお いて、多岐にわたるジャンルで文筆活動を行ってきた人物 である。そして福地は、文明開化の卜に、社会が急速な変 化を遂げる中、その多才な能力を発揮し、さまざまな分野 でパイオニア的役割を果たしたのである。こうした多方面 での活躍により、一つの領域に専心できなかったことが、 稿地の生涯の失敗につながったという三宅雪嶺(万延一年 (-) へ一八六〇)∼昭和二〇年へ一九四五)) の評価もあるが、 明治維新以後、さまざまな世界で「先覚者」を必要とした 時代に、彼自身その自負と責任を持って臨んでいたことは 看過できない。もちろん、坂本多加雄も述べているように、 このような福地の生涯は、明治期を生きた知識人の中に あって、何ら特別なものではなかった。例えば、明治維新 岡  安  儀  之 以前は幕府に仕え、それ以後社会の指導的役割を果たした 人物は、明六社の社員などにも多く見られた。つまり、彼 _D の生涯は、明治知識人の一つの典型でもあった。その意味 で、福地という人物が、明治期の思想史上で果たした役割 を考えることは、その多様性を把捉する上でも重要な意味 を帯びている。 このような福地の多彩な活動の中でも、明治七年 (一八七四)から明治一七年(一八八四)までの約十年間、『東 (∼) 京日日新聞』主筆として健筆を振るい、日本のジャーナリ ズムの世界で先駆的役割を果たしたことはよく知られてい る。しかし、こうした活躍とは裏腹に、従来の研究で福地が、 その表舞台に上がることはほとんどなかったと言ってよ い。その大きな理山は、彼が自他共に認める御用記者であ り、本来あるべきジャーナリストとして、権力(政府) に 立ち向かう強い精神を持ち合わせていなかったと見なされ

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てきたという点にあろう。要するに、従来の研究では、権 力(政府) に対立し、自分の意見を発信できた人物こそ研 究すべき対象とする時代が長く続いたのである。しかし当 時、権力(政府) からの距離に各々違いはあるにせよ、そ こから完全に自由な言論人がどれほどいたのであろうか。 日本にジャーナリズムが定着していく明治初期の段階に おいて、新聞の世界は、立身出世の路線からあぶれた士族 の再雇用の場となったり、役人や政治家になるための一つ の踏み台とされるケースがあった。特に後者の中には、明 治初期の自由民権運動を支えた論客でありながら、その後 (-) 官吏となり高宮へと上り詰めた例も数多く存在した。つま り、民権派と呼ばれるような多くのジャーナリストにとっ ても、権力(政府) は非常に魅力的なものであったのであ る。そして、それは同時に、彼らの言論活動が、官界への 立身出世の欲望と不可分なものであったことを露呈してい る。むしろ、このような新聞記者から官界へという路線が 示すような根強い官尊民卑の風潮こそ、明治の日本社会の 一端を表しているのである。 一万、福地は彼らと違い、官吏から新聞記者へと転身し た数少ない経歴の持ち主である。こうした経歴は、当時言 論界で活躍した多くの論客の中にあって、福地が新聞とい うメディアに、彼らと異なる価値や可能性を見出していた ことを暗示している。その意味で、官を辞し新聞事業の発 展に尽くした福地という人物は、明治知識人の中にあって、 極めてイレギュラーな存在であったと言えよう。つまり、 このようなイレギュラーな存在であったからこそ、明治期 の日本の新聞という言論空間を叙述する際の一つの重要な 軸になるのである。 一体福地は、メディアの勃興と共に吹き出した顔の見え ない声を如何に聞き、考え、対応し、社会の発展に寄与し ようとしたのか。グローバル化が加速度的に進み、メディ アの発達した現代社会を生きる我々は、多様化する世界と の交流を受け入れざるをえない状況にある。しかしその一 方、メディアがもたらす溢れる情報の前で、我々はほとん ど無関心を決め込むか、知ったふりをするしか無くなって しまった。メディアの向こうに必ず生身の人間がいること すら、我々は忘れてしまいがちである。その意味で、福地 が取り組んだ問題は決して我々と無縁ではなく、我々が彼 に発する問いは極めて現代的なものになりうるのである。 だが、従来の明治初期思想の研究において、新聞や新聞 害(-記者は枝葉の存在であったと言ってよいだろう。やはりそ の中心は'「啓蒙」や「民権」と名の付くような著名な思 想家と呼ばれる人物であり、またそれらが集い意見し合う ような学術や政治に関する結社であった。しかし、そのよ 四九

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うな思想家と呼ばれる人々にとっても、多種多様な情報を 伝える新聞は、極めて身近なメディアであったろう。彼ら は、日常的に新聞を適して、変わりゆく日本、変わらざる 日本の世態を知る読者であったし、新聞というメディアの 向こう側にいる人々を憲識した上で、さまざまな場におい て言論活動を行っていたはずだ。つまり、多様なメディア を適して、活字、または声として発された言葉の数々は、 目には見えない多くの他者を意識し、また影響し合って生 まれたものであったのである1.さらに、明治の新聞を空間 的に考察することは、当時の人々がその社会における「知」 のあり方や「知」 の交流のあり方をどのように考えていた のかという問題も解き明かす鍵となろう。このような相互 の人的・思想的連関を無視して、明治初期思怨の全貌を解 明することは難しい。 以上をふまえ、本稿では、田本のジャーナリズムの世界 において、パイオニア的な役割を果たした福地の 「新聞記 者」としての自己認識に注目したい。それは、自分を何者 と考えるのかという問題が、その人の思想的基盤となり、 その行動や発言内容を規定していくものだからである。後 述するように、福地は、在野の知識人であることを自任し、 「新聞記者」として言論活動を行っていた。その自己認識は、 いわゆる蕗蒙思想家と呼ばれるような知識人と比較した 五〇 時、その特異性が際立ってくる。本稿は、このような福地 の自己認識を追うことで、彼が 「新聞記者」 の社会的な責 務を如何に捉え、言論を通した人々とのコミュニケーショ ンのあり方をどう考えていたのかという問題を、明らかに するものである。そして、以上のような試みによって、こ れまでいわゆる「韓蒙」や「民権」 の名が冠される思想家 を中心に描かれてきた明治初期思想の研究を、多元的に捉 え直すことができると考えている。 一、洋行体験と 『江湖新聞』 福地が、はじめて新聞事業に関わったのは、明治七年 (一八七四) の 刊東京日日新聞』 への入社を契機としてで はない。まず、それ以前の福地と新聞との関係を振り返ろ う。彼と新聞との出会いは、一五・六歳の頃、安政二・三年 (一八五五・五六) に遡る。 余が十五六歳のころ未だ郷里の長崎に在りて、我師名 村花践先生に就て和蘭語を学び、稽古通詞たりし時に、 オプノケ000 和蘭人より年々来舶の度ごとに、風説書と名けたる書 面を出して海外の事情を長崎奉行に報告したり。‥ ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ 此風説書は甲比丹が如何なる方法にて出島に居ながら ヽヽヽヽ 斯は知得るものにやと尋ねしに、先生去ばなり、西洋 ヽ  ヽ  ヽ  ヽ 一- ウ ェ ス ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ 諸国には新聞紙と唱へ毎日印行して自国は勿論他の外

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国の時事を知らしむる紙あり--と告げ、其座右にあ りける和蘭新聞紙の反古を出して余に与へられたり き。‥-是余が初めてニーウェスの語を聞きて異物を 見たる始なりき。既にして長崎には英米諸国の船も渡 来して新聞紙を麗し来る毎に、海外の近況をも白から 伝聞する様に成りたれば、出島に出入して和蘭人に接 する毎に是を聞くをば、子供心にも面白き事に思ひた )篤-りき。(傍点原文) / 当時、オランダ通詞名村八右衛門(花蹟) のもとで蘭学 を学んでいた福地は、オランダ人が出島にいながら、海外 賀-田 の情報を記した風説書を作成することに疑問を抱き、師か らその情報源となる「ニーウェス」という言葉と「新聞紙」 の存在を知らされる。福地が、その 「新聞紙」 の中から、 まだイメージの世界でしかない 「西洋」を自己の中で膨ら ませる喜びを感じていたことは想像に難くない。しかし、 福地はこの出会い以降、幕臣として二度の洋行を体験する ことにより、単なる「風説書」 に対する興味から、情報の 持つ重要性、さらには新聞の情報伝播・伝達に関する媒体 としての役割、社会的効能にまでその関心を拡大させてい くこととなる。 文久元年(一八六一)、幕臣としてヨーロッパに向け出 発した初の洋行での経験を、福地は次のように思い返して いる。 ハリ′ 幕使に従ひて欧州に赴き、初めて巴里に到りし時に、 日々諸種の新聞紙を旅館に送附せられても、仏文の哀 しさは盲の墳覗と一般にて、更に何事たるを了解せざ りしに、数日を経て英文の新聞を得て之を閲したるに、 現に我使節の一行の挙動を記し、或は其来意を説き、 或は其談判の趣意を論じたる個条を見て、的面我身の 00000000000 上の事なれば其興味を覚え、如何なれば新聞記者は斯 0  0  0  0  0  0  0  0  0  0  0  0  0  0  0  0  0  0     0  0  0  0  0 も我等の事を詳細に知り得るものなる平、然のみなら 0  0  0  0  0  0  0  0  0  0  0  0  0  0  0  0  C O O O O O O ず昨日の事を今朝すでに其紙上に載せたる迅速さよと 〓/=L/ 驚嘆したりき。尋で倫敦に到りては、益々新聞紙を読 む事の面白く成りて、或は見物の序に新聞社を訪ひ、 或は新聞記者にも面会して問もし尋もして、其組織の ooooooooo(8) 概略を聴得て欣羨の情を起したりき。(傍点原文) 幕府がはじめてヨーロッパに派遣したこの使節団に与え られた任務は、フランス・イギリス・オランダ・プロシア・ ポルトガルの国々と、安政五年(一八五八) の修好通商条 約で交わしたばかりの新潟・兵庫(神戸)開港と江戸・大 坂の開市の延期要請、及びロシアとの樺太境界を定めるも のであった。福地は、この任務に通弁万として加わりつつ、 新聞に関する見聞を深めようと、それを作り出す新聞社や 新聞記者の元を訪れ、話を聞くといった活発を行動も取っ 五一

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ていた。そしてこのような体験の中で福地は、西洋の新聞 のもつ情報伝播・伝達の速度に驚愕し、それを生み出す組 織形態にまで興味の振り幅を広げていったことがわかる。 また福地は、慶応元年(一八六五)に、横須賀製鉄所の 設立に関する用向きで、同じくヨーロッパに向け出発した 二度日の洋行での出来事も、次のように回顧している。 再び幕更に随行して英仏二回に駐在せる凡そ十ケ月、 ハリスU/ド/ この間放て繁劇と云にも非ざりければ、巴里、倫敦の ヽヽヽヽヽヽヽヽ 諸名家に会して新聞紙の事を問ひ、其内外の政治に関 ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  0  0  0 して輿論を左右するものは即ち新聞の力なりと聞き、 〇 〇 〇 〇 〇 〇  〇 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0  0 あはれ余にして若し才学文章あらは時機を得て新聞記 0  0  0  0 0  0  0  0  0  0  0  0  0  0  0  0 者と成り、時事を痛快に論ぜんものをと思ひ初めたり (〟) き。(傍点原文) このような二度の洋行体験を通して福地は、科学技術を 母体とした西洋式新聞のメディアとしての社会的な役割、 さらに「輿論」 に対する政治的影響力を学び、それの持つ 可能性・有用性を理解したのである。そして、いずれ自ら 新聞事業に参画し、言論活動を行おうとの志を抱くのであ る。こうした福地の活動は、大政奉還の翌年、明治元年 (一八六八) 四月に刊江湖新聞』 の発刊という形で具現化 され、実際に新聞記者としてのスタートを切るのである。 福地はこの『江湖新聞』を、のちに『東京日日新聞」を 五二 割刊した条野伝平(採第・山々亭有人、天保三年(一八三二) ∼明治三五年へ一九〇二))・師団伝助(天保九年(一八三八) ∼明治四三年へ一九一〇)) らの協力を得て発刊し、佐幕 (用) 的姿勢を露骨に表した言論活動を行っている。彼は、[江 湖新聞』 の発刊の辞で、次のように述べている。 しし.+)存つえP(I 新聞は隠事秘説といヘビも普く書記倣すを以て、大に有益 となれるものから各国此局あざるはなし。己に江府におゐ ても、中外新聞内外新報の二書発刻なせしが、これが為に 遠境の人といヘビも当今の時務を知るの便となり、座側の 重宝、何事かこれにしかん。今此一書は、童蒙婦幼の為 まいき-もつて に耳近きを枚挙し、加るに画を以するものは、いはゆる 大声僅耳に入ずの謂なりせばへ識者の嘲りをのがるべか (〓) らず。 ここから見えてくるのは、福地が新聞の情報伝達機能に 注目していたと言うことである。また彼は、「識者」 の嘲 笑を受けてでも、「童蒙婦幼」に理解できるよう振り仮名 をふったり、さらには挿絵を加えるなどして平易な紙面作 りを行うことを最初に表明している。このような振り仮名 や挿絵は、実際すべての紙面に見られるものではない。し かし、この発刊の辞から、『江湖新聞』 における福地の新 聞作成には、いわゆる高級紙ではなく、むしろ『ジャパン・ パンチ』 のような大衆向けのメディアの方が、より強く意

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識されたのかもしれない。 福地が実際どのような西洋の新聞を参考にしたかについ て、ここで明らかにすることはできないが、彼が平易な紙 面作りを心がけたことは、『江湖新聞』における言論活動 が、社会における知的上位層だけでは汚く、より広範な読 _)" 者層を意識して行われたことを示している。つまり、新聞 読者層の拡大、ひいては新聞による「輿論」の形成につい ても、彼は自覚的だったと言えよう。さらに、それ以前の / 日本の新聞の多くが、外国の新聞の翻訳によっていたこと も考えれば、彼の活動は、二度の洋行を中心に獲得した西 洋のジャーナリズムの知識を日本に常人し、新しい報道の あり方や言論のあり方を示すものであったのである。 また、その記事の中には、「戦報の空説若くは政況の虚 -∵ 聞を作為して以て記載したる事ありき」と回顧しているよ うに、福地自身で意図的に創作したものもかなり存在し、 彼が新聞をプロパガンダ的に利用しようとしていたことも 覗わせる。しかし、このような動きを当然好ましく思わな かった新政府は、明治元年六月八日太政官布告第四五二 号を発布し、「近日、新聞紙類頻りに刊行、人心を惑し候 -伝-ノ、なからrる(〓) 品不レ少に付」と、官許のない新聞の刊行を差し止め、福 地はその処罰対象とされたのである。 このように、福地の新聞記者としての最初のキャリアは、 極めて短命に終わった。しかしこの経験は、結果から見れ ば、彼の新聞事業に対する熱意を完全に失わせるものとは ならなかった。明治三年(一八七〇)、福地は、渋沢栄一 (天保二年へ一八四〇)∼昭和六年へ一九三一))の紹介 により、伊藤博文(天保二一年(一八四一)∼明治四二年 へ一九〇九))の知遇を得て、官途に就くのであるが、以上 のような幕末期の新聞を巡る経験が、その後彼の新聞記者 としての指針の一部と法り、彼を日本のジャーナリズムの 世界における先駆的地位へと導く誘因ともなったのである。 二、明治七年の転身 - 官界から「新聞記者」へ 福地が約四年に亘り奉職した大蔵省を去り、再び「新聞 記者」 へと転身を図ったのは、明治七年(一八七四)のこ ∴: とであった。彼は、その動機を後に振り返り、次のように 述べている。 ヽ ヽ ヽ ヽ  ヽ ヽ ヽ ヽ 1 、 、 ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ 辞職の上は何を以て足より我身を立べき乎と世上を観 ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ  ヽ ヽ ヽ 1 ヽ  1 ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ 望したるに、余に取りては新聞紙の右に出る地位は無 ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ 、 1 1 1 、 1 ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ し。新聞紙を機関として筆に任せて奮立つるものなら ヽ   ヽ ヽ  ヽ ヽ ヽ 1 ヽ 1 ヽ 1 ヽ ヽ ヽ ヽ  ヽ ヽ ヽ ば、遂には余が意見を世に行ふ事を得べしと考へたり。 ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ 朋友は皆これを聞て、辞職したるだに足下が為には太 ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ    ヽ 1 、 1 1 1 ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ だ得策ならざるに、刺さへ新聞記者と成らんとは何事 ヽヽヽヽヽヽヽ ぞや、高く思止るべしと交々余に向つて諌諭したり。 五三

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蓋し彼俗上の眼中にては当時新聞に重を属せずして半 〇  〇  〇  〇  〇  〇  0  0  0  0  0  0     0  0  c c  〇  〇  〇  〇  〇  〇  〇 遊戯物の如くに思ひたれば、新聞記者を見るも亦戯作 000000000000000 者一般なりと認めたりしが故なり。斯く思認したるも 放て一理なきに非ず。新聞紙の勢力も未だ幼稚にして、 記者にも亦有名の人才を多く見ざりしに付き、彼輩は 〇  〇  〇  〇  〇  〇  c c  0  0  0  0  0  0  0  0  0  0  0     0  0  0  0 其潜伏の勢力は将来如何に重大なるべき平、其記者の 0  0  0  0  0  0  0  0  0  0  0  0  0  0  0  0  0 意見は他日如何に輿論を影響すべき平を察知すること は能はざりしなり。余は彼輩に対して盛んに新聞紙の 00000000000ヽヽ 利益勢力を説き、古人が良相たらずんは良医たれと云 ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  0  0  0  0  0  0  0  0  0  0 へるが如く、今日の時勢にては内閣に列せざれば寧ろ 0  0  0  0  0  0  0  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ     ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ 新聞の主筆たれと云ふべき者なり。余にして等を新聞 ヽ   ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ   ヽ  ヽ  ヽ に執らば一般の新聞は必らず其勢力を得ん。余にして 記者たらは新聞記者は必らず其地位を高めん。公等副 ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ 目して共時の来るを待てと、抱負頗大にして、益々新 ∞_O-聞記者たらんと欲するの念を固くしたりき。(傍点原文) ここで描かれている福地には、これが自伝であると一一亭つ ことを差し引いても余りある程の、新聞事業に対する並々 (_7) ならぬ自信と情熱が溢れている。当時まだ新聞は、広く社 会に定着しておらず、新聞記者の社会的地位も低いも.の だった。そのため、新聞を「半遊戯物」、新聞記者を「戯作者」 レベルにしか見ていなかった福地の周囲の人々にとって、 彼の転身はまさに奇行以外の何ものでもなかったと言うの 五四 である。福地は、そのような風潮に泥む 「俗士」 に対し、 政府の高官と 「新聞の主筆」を比較してみせることで、自 らの転身の正当性を誇示してみせた。すなわち、福地にとっ て、新聞の社会的勢力の拡大と記者の地位向上こそが、文 明開化を推し進める当時の 「時勢」 において、何よりも優 先される課題であったのである。では、福地が 「新聞記者」 へと転身を図った明治七年の言論界は、どういった景況を 呈していたのであろうか。 牧原憲夫は、明治六年政変による政府部内の混乱が、そ の政治的正当性を大きく揺がし、民衆の間にも政治につい て議論する状況を作り出したこと、左院へ提出された建白 書の数が前年の二倍以上に増加し、建白者の半数を平民が 占めるまでになったことなどに触れた上で、「一八七四年 (明治七) は在野の人々が自分の考えを公表し、政府に本 (_8) 格的な論争をいどみはじめた最初の年であった」と述べ、 この年の社会史上の意義を提示している。この年に起こっ た代表的な論争と言えば、、民撰議院論争であろう。この 論争が、以後広範に拡大していく自由民権運動に大きな影 響を与えたことを考えれば、この明治七年という年は、日 (国) 本の民主的議論の発展を考える上で、「論争元年」 であっ たと言って過言では無い。つまりそれは、その議論の場と なった新聞や雑誌などのメディアの価値が浮上し、社会的

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に機能し出したことも同時に示しており、明治の言論界に おいて、まさに一大転機の年でもあった。 しかし、明治七年という年は、それだけに止まらない重 要な意味を帯びている。それは、前年の明治六年(一八七三) に森有礼(弘化四年へ一八四七)∼明治二二年へ一八八九)) や福沢諭吉(天保五年へ一八三五)∼明治三四年(一九〇一)) など、当時を代表する知識人らによって誕生した明六社が、 四月二日に『明六雑誌』を創刊して、そのメンバーを中心 / に学者職分論争が起こり、近代的国民国家を目指す開化期 の日本の中で、知識人がいかに生きるべきかが議論された 年であったと言うことである。 明」ハ社設立の主旨は、「明六社利親」 (明治七年二月制定) の第一条に、「我国の教育を進めんがために、有志の従会 同して、その手段を商議するにあり。また、同志集会して )靴-異見を交換し、知を広め誠を明にするにあり」とある。つ まり、明六社は、国民の教育を目的に集まった 「先覚者」 を自負する人々が、その百科全書的な知識を持ち寄り「商 議L L、自由闊達に「異見」を交えることで、より高次の" 学知が生み出されるとの認識のもとに発足した学術結社で あったのである。そして、その学知を単に明六社員、及び その周辺の限られた範囲に押しとどめるのではなく、文明 開化期の社会の変化に惑う人々に対し、広く普及していく ために創刊されたのが『明六雑誌』 であった。 『明」ハ雑誌』第一号(明治七年四月発行) に西周(文政 二一年へ一八二九)∼明治三〇年へ一八九七)) が寄せた 論説「洋字を以て国語を書するの論」 には、この活動にか ける明」ハ社員達の意気込みがありありと描かれている。 かくのごとき人民の愚も、左提右筆、労来輔翼その苗 を堰くことなく、去て走らざることなく、時宜を制し て漸次開明の域に進ましむるは、もとより当路諸公の 任にして、これに反すればその罪まさに政事上にあら んとす。しかれども、この弊に閑て斯世の民、幸福を 蒙ることを得ず、衰弊の極、救薬すべからざるに至る は、またひとり政府の罪たるのみならず、そもそもそ の国人民、自己世道へ㌶)上の罪にて、いやしくも賢 智の従たらんとする者は、先んじてこれを救うことな くんは、また世道上においてその罪なしというべから ず。今、森先生のこの学・術・文章の社を結ばんと欲 (21) するも、けだしまたここにあるべし。 この中で西は、啓蒙されざる「人民」を「開明の域」 に 近付ける方法を、「政事上」 と 「世道上」 IIIsocia-の訳 語としての社会、人々の道義 - とに分け、前者の担当 を「当路諸公」すなわち政府の重要な地位にいる者、後者 の担当を「貴簡の従たらんとする者」すなわち知識人とし、 五五

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その職責に関する認識を示している。つまり、明六社の社 員が「同志集会」した背景には、「世道L」 の文明化を自 らの責務とする断固たる決意があったのである。そして、 このような決意は、「学者」-知識人が、どのように文明 化に関わっていくかという具体的な問題へと発展し、学者 職分論争として顕在化したのである。 この論争は、福沢が『学問のすゝめ』第四編(明治七年 一月刊行) に書いた「学者の職分を論ず」を巡って、明六 社の社員の間で行われた。テ明六雑誌廿第二号所載の田本 の論説は、すべて福沢の論説に対するものになっており、 この問題の重大性を表している。この論争での福沢の主張 をまとめると、次のようになる。 「文明」化を進め、国の「独立」を維持するのは、政府 ひとりの力で成し遂げられるものではない。しかし、日本 の現状は、「政府は依然たる専制の政府、人民は依然たる 一2)(告) 無気無力の愚民のみ」で、「唯政府ありて未だ国民あらず」 という有様である。日本の 「文明」を進めるためには、人 心を一新し、「人民の由る可き標的を示す者」が必要であ り、「其任に当る者は唯一種の洋学者流あるのみ」である。 しかし、その彼らも「宮あるを知て私あるを知らず」、「恰 暮聞l も漢を体にして洋を衣にするが如し」という旧弊を抜け出 ておらず、そのほとんどが官途を志し、実際その任に就い 五六 ている。また、国の独立維持のためには、内の「政府の力」 と外の 「人民の力」を平均させる必要があり、政府の生命 (i..) 活動を促進させる「外物の刺衝」としての「人民の力」を 確立しなければならない。以上のことから、福沢は、「天 下の人に私立の方向を知らしめん」 ことが重要であり、「学 )g!_ 者は学者にて私に事を行ふ可LL と断じた。 このような在野における「掌者」-知識人の重要性を指 摘した福沢に対して、当然の如く在官の社員から反論や理 解を示す交々の声が上がった。つまりこの論争は、「字書」 -知識人としての自負を持つ者にとって、自らの社会的意 義、存在意義は何なのか問い直す重夫な契機であったので (r二-) ある。福地が官を辞し、「新聞記者」へと転身を決めたのは、 まさにそのような状況においてであった。 福地は、以上のような論争の場となったF明六雑誌』に 寄稿したことはなかったが、明六社の会合に一度だけ客員 o開因 として参加した記録が残っている。その参加の理由を知る ことはできないが、明六社の社員の中には知己も多くお り、その存在を意識していなかったとは到底思えない。そ のことは、『明」ハ雑誌』 の廃刊に際して、福沢が明治八年 (一八七五)九月四日、『郵便報知新聞」 に掲載した 「明六 雑誌の出版を止るの議案」に対し、福地がいち早く九月八 日の F東京日日新聞』社説において、異を唱えていること

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からも伺える。 明六社の設立より以来、未だ数年を経ずと艶とも、其 の社員諸君は概ね一世の名望を繋ぎ、今代の智誠を備 ィマ へ、才能学術の高級に位する人々なれば、所謂る徳星 の集る者にして、幾分の禅益を間接に於て人民の進歩 に与ゆるかを想像するに足れり。此社に引続き何社何 社と号する者陸続として相起り、社会の交際を拡張せ ソサィナー んと欲するに付き、社員の多き醸金の慨なるが如き、 或は明六社の士に在るも、観望は却て是に之に劣るに 似たり。然る所以の者は何んぞや。明六社は僧に一月 両度二十人許りの集会たりとも、其の社員の徳学白か ら他に冠絶するの故にあらざるを得んや。而して世上 に在りて其の徳学を窺ひ其の稗益あるを証するは、又 只明六雑誌の出版あるに依るのみ。去れば明六雑誌は 此社の英華にして社会の成跡と称するに足る可き者に (I-.) 非ずや。 福地は、明」ハ社の設立後数多くの結社ができたが、学識 や徳行において、明六社が群を抜いていると見ていた∵特 に、明六社社員の学識や徳行を『明六雑誌』というメディ アを使って広く流布させたことが、社会的な利益をもたら したと高い評価を与えている。つまり、福地は先述した「明 六社制規」(明治七年二月制定)に示された設立の主旨や 西の知識人観に近似した思想を持ち、「人民の進歩」にお ける「智誠を偏へ、才能学術の高級に位する人々」=「学者」 の役割を重要視していたのである。それ故に「明六雑誌を 嗣出すると否とは、観望を有したる明六社の廃興にも匝接 し、諸社会の盛衰にも問接し、一般の進歩にも間接するに ー膿-於てをや」とへ この結果が広く「一般」にも及ぼす影響を 考え、「明」ハ雑誌』 の廃刊を惜しんだのである。なかでも、 ここで注目したいのは、この社説の中で明六社の活動に言 及しながら、福地が見せた次のような自己認識である。 吾曹新聞記者は各自の名望学識に於て明六社員と優劣 なきを得ざれとも、比しく足れ操弧の班に列し、学者 (月) を以て白から任する従なり。 福地は、明六社やF明六雑誌』に対して、その社会的影 響力を鑑み最大級の評価を与えたが、それは何よりもその 活動を支える明六祉社員のような「学者」 の社会的重要性 を強く認識していたからであった。そしてここで福地は、 その「明六社員」と「新聞記者」としての自らの地位を、 「学者」として同列に置いてみせたのである。当時「戯作者」 と同視され卑下されることもあった「新聞記者」 に、「学 者」として社会に関わる責務を求めた福地。そこには、旧 来の新聞記者としてではなく、「学者」として社会の発展 に寄与しようとする彼の明確な自己認識が見られるのであ 五_じ

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る。つまり、福地の 「新聞記者」 への転身は、既存の新聞 記者像を打破し、在野の「学者」=知識人として文明化に 関わろうとする強い意志の発露であったのである。 以上のように、福地が官界を去り、「新聞記者」 へと転 身を遂げた明治七年という年は、学者職分論争に見られる ような、知識人がいかにして社会に参画するべきなのか、 その存在意義が問われた時代であった。そのような中、福 地は在野の 「新聞記者」-「学者」として、文明化に関わ る道を選んだのである。その去就は、在官のまま「学者」 として社会の発展に関与しようとした知識人たちとは、明 らかな認識の違いを表しているとも一一言えよう。では、福地 にとって新聞やそれに携わる「新聞記者」とは、どのよう な社会的存在として認識されていたのであろうか。 三、「政事家」と「先覚者」の責務 官吏から新聞の世界へと転身を果たした福地の「新聞記 者」像を考える上で重要なのは、彼が社会における「政事 家」と「先覚者」の役割をどのように考えていたかという ことである。この節では、まず、「為政の道」 (明治一四年 へ一八八一)六月二九日)という社説の考察からはじめたい。 既に社会あれは、此に一定の法則ありて存せり実。こ の法則に運へは、社会の進歩も秩然として序あり、簗 五八 然として観るべきありと艶も、若し之に連はざるとき は、或は委靡不振の褒状を為し、或は崩壊滅裂の変形 を現するものなり。世の政事家たるもの恩はざる可ら ざるは、其れ此社会一定の法則ならずや。何をか一定 の法則と云ふ平。社会は一の活動物なり。而して之を 誘導して進歩せしむるは先覚者の掌るべき所にして之 田臓鴎 を随伴して整理するは政事家の職とすべき、是なり。 福地は、社会を一つの 「活動物」と見なして、その進歩 に決まった「法則」があると考え、社会での「政事家」と「先 覚者」 の役割を全く別のものと認識していた。福地にとっ (;) て、「先覚者」の役割とは、社会を発展に導くことであり、「政 事家」 の役割とは、社会の発展に随い、秩序を維持してい くことであった。すなわち、「先覚者」は、社会の発展に 関して責任を負う立場にあり、一方の 「政事家」は、社会 の発展に関してあくまで副次的な存在であったのである。 このような福地の 「政事家」像は、極めて限定的な彼の 政治観に起因するものである。「政治の権域」 (明治二一年 へ一八七九)三月五日) と題された社説の中で、彼は次の ように述べている。 政治也者は強を削て弱に添へ、富に取りて貧に与ふる を以て政務の本分とするに非ざるなり。例は救皿の衆 庶の仁慈より出て、貧苦に施指するが如き、例は子弟

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の教育を望みて学校を設立するが如きは、固より社会 の為に不可欠の盛挙なりと艶とも、夫すら任他主義よ り直論すれば、教育救皿は国費より支弁すべきの本分 に非ず。其之を国費より給する者は、政府が一般の慈 愛心に代りて之を便弁するの権道なりとは云ひたる程 の事なり。究売すれば政府本分の目的は、秩序を保ち ヽヽヽヽヽヽヽヽ 静護を安じ公正を処弁し、所謂る其所を得せしむるに 止るが故に、政治の権域は公正平等善良の法律を制定 / して、以て衆庶の権利を保護し幸福を上進せしむるに 在り。兼敏を避けて適宜の租税を課し以て国用を浪費 せざるに在り。法律に於て貧富貴賎賢愚を同視し、更 に共闘に於て偏頗の分界を設けざるに在るなり。若し 誤て一歩を進みて業種、若しくは其族に特例の保護を 与ふることあらば、是れ即ち政府は己に其政治の権域 を輸超して、其本分に於て干渉すべからざる区域に干 饗鉦露 渉する者なり。(傍点原文) 福地にとって、社会に存在する「貧富貴賎賢愚」などの さまざまな不平等は、本来「政府」 の力によって是正され るものではなかった。「教育救他」なども民間に任せ、「政 府」 は政治的不干渉の立場を遵守し、「法律」 の制定や「権 利」 の保護といった 「秩序」 の維持に関わる任務にのみ取 り組むべきものとされていた。つまり、このような夜警園 家的とでも言うべき政治観を持つ福地にとって、過剰な「政 府」 による保護は、国民に 「政府に依頼するの志を増きし ー関-むる」もので、社会の発展を停滞させるものと考えられた のである。 以上のように、彼が極めて限定的に 「政府」 の役割を認 識するに室った根拠は、次のようなものである。明治一〇 午(一八七七)一〇月九日の社説を見てみよう。 自治を尊び自主を喜ぶの英米諸国の如きは、常に不渉 政治に非ざるは莫し。夫の不渉政治の主義は、人民の 生命財産栄誉を保護して以て社会の安寧を謀るに止ま るが為に、之を兼渉政治に比すれば則ち不仁の政たる に似たり。然り而して其の成速を見れば、人民の自治 の精神は不渉政治に滴養せられ、民心に背馳するの政 ∞棚l は却て兼渉の超度より生ずるに非らずや。(傍線原文) 福地は、彼が模範とした「英米諸国」 の政治体制の基礎 に、政治的不干渉があると看取していた。「自治」や「自主」 を尊重する 「英米諸国」 の政治は、一見「不仁の政」 のよ うにも見えるが、「人民」の「自治の精神」を養ってきたのは、 正にこの政治的不干渉にあるというのである。重要なのは、 「政府」による時に「民心」と轟離した政治的保護ではなかっ た。それよりも「政府」は干渉せず、「自治」を通して「人民」 に政治的実践を積ませることが優先されたのである。つま 五九

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り、福地にとって政治的放任主義こそ、社会をより順調な 発展に導くものであり、そのことは同時に、「先覚者」の 社会的存在意義を高める立脚点ともなっているのである。 しかし、なぜ福地は「政府」による社会への関与を最小 限に抑え、民間に任せるべきと考えたのか。それは次のよ うな彼の社会観と関係がある。 人類の団結群居するは、即ち人類自然の性なり。而し て所謂天然の自由到底人世に行なはる可からず。希臓 の大賢アリスト-トル固く、天の人を牛ずるや、必ず 之に賦するに好政求交の心を以てすと。故に人は一身 一家を以て自ら満足せず、益ます其社会を大にし、愈々 其交際を広くし、終に広大なる邦国を成立し、政事を 施行するに至て始めて、典好政求交の本性を遣うする (i.) を得べきなり。(傍線原文) 明治九年(一八七六)九月七日の「自由の説」という社 説中で福地は、ルソーのような天賦人権の立場に立った社 会契約説を否定している。このことは、彼がフランス革命 や民権派を批判する論拠ともなった。福地は、諸個人の存 在を前提とし、「人為」的に契約を結ぶことによって国家 ができたとは考えてはいない。人間は元来政治的な動物で あり'他者を求め「交際」を拡大させることで、結果的に 国家が「自然」発生的に誕生したものと理解していた。つ 六〇 まり、福地にとって人間は、生まれながらに「政事」を好 み、他者と理性を前提とした交流によって問題を解決する 「本性」を具備しており、「政府」による余計な干渉が無く ても、社会を「自然」に発展させることができると考えた のである。 また、福地によれば、人間は「団結群居」する性質を有し、 自ずと「交際」の枠を広げ、社会を発展させてきた。しかし、 その社会が発展し、他者との交流が広がれば広がるほど、 より多くの 「交際」上の問題が噴出しない訳ではない。そ こで重要になってくるのが、自己や他者の「自由」を守る 「法律」の存在であると、福地は考えた。彼は、「法律自由 の二者は文明の根軸」(明治一二年へ一八七九)三月三日) という社説の中で、次のように述べている。 文明の根軸は、善良の法律、秩序の自由に在りて、無 法不倫の自由に在らざるや明実。仮令ひ政権の自由に 限る所あるも、選挙の権理に限る所あるも、法律は須 興も人世の幸福より蹴る、可からざるを知らは、寧ろ ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ 無法の自由は人世に必要ならずと云はざるを得んや。 ヽ  ヽ  ヽ    ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ -是政に、今吾哲が文明の根軸なりとして求むる所 ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ     ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ は、善良の法律を求むるに在り。善良の法律に保護せ ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ (3) らる、の自由を求むるに在り。(傍点原文) 福地にとって、「文明」的社会とは、「善良の法律」と「秩

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序の自由」を基盤に成立するものであった。つまり、社会 をよく観察し、非「文明」的な「無法の自由」を認めず、 現実に適した「善良の法律」に守られた「自由」を与える こと、それこそが「政府」 の責務であったのである。他者 との交わりを求める性質を本然的に有する人間。彼らが発 展的な交流をしやすい環境を作り上げること、そこに「政 府」 の政治的任務は限定されているのである。そして、こ のような理由から福地は、社会の発展に関わる責務が、「政 事家」ではなく、「人民L el教育に直接関与できる在野の 「先覚者」 のものと考えたのである。簡潔に言えば、「先覚 者」は「人民」と交流し社会を導いていく存在であり、「政 事家」はその交流を制度の面から支える存在ということに なろう。 前節で述べたように、福地は、「新聞記者」を「学者」 と位置づけ、その社会的重要性を認識していた。このよう に考える福地にとって、自ずと「新聞記者」 にも「先覚者」 としての強い意志が求められた。それは、次の「新聞紙の 責任」 (明治一〇年へ一八七七) 二一月二五日) と題され た社説からも明らかである。 新聞の地位は、社会公衆に向て宰重の責任を担負する に付き、其記者は乃ち責任の衝に当る者なり。--新 聞記者は其一身に於ては基厘も社会を支配するの権力 なしと艶とも、其言論を以て人心を左右し輿論を喚起 し、其先覚たり饗導たるの実効を致すに付き、之に同 意するの読者は取も直さず其支配に在るの理なれば、 記者は各々英国民に向ては思想の一分を支配するに等 ' ' ' ' ' ' ' ' ' ' ' ' ' ' ' (a) し。--新聞紙は大衆の変革を司とる者なり。(傍点 原文) 福地にとって、「新聞記者」には、言葉の力で「人心」や「輿 論」を牽引していく社会的責任があった。それは、新聞に は、目に見えない 「大衆」を「変革L L、社会を進歩させ ていく力があると、彼が強く信じていたからに他ならをい。 つまり、福地にとって「新聞記者」 は、「政事家」 のよう に直接政治に関与することができない存在ではあるが、新 聞を通して「人心」を改良し「輿論」を導き、社会を発展 させていくことができる「先覚者」 でなければいけなかっ たのである。 以上のように、福地は、「新聞記者」の社会的役割を「学者」 や「先覚者」として捉え、重大な責務を持って言論活動を していたわけであるが、彼の自己認識を考える上で、もう 一つ看過できない問題がある。それは彼が、社説中でしば (用) しば、「吾曹平民」 というような表現を用い'自己の社会 的な立場を表明した上で、発言を行っていたということで ある。この「吾曹」が指す範囲をどこまで押し広げて理解 六一

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するのかが大きな問題となるわけだが、言論の力で 「人心」 や「輿論」を導くことを企図していた福地にとっては、市 井の多くの読者を想定しての発言と捉えることが妥当であ ろう。このように福地は「新聞記者」として、知識人であ ることを自任しながら、「官営は実に東京の平民素町人な (〓) れとも」 と、その主張が在野からの発言であることを殊更 に強調するのである。このような自己認識のもとに行って いた福地の言論活動は、明六社のような学術結社が、『明 六雑誌』という活字メディアを通して行っていたものと、 明らかに一線を画する。すなわち、さまざまな社会的地位 の人々が集まった明六社ではあるが、それと福地の論説を 比較した時、ともに知識人を自負しながらも、前者は貴族 的であり、両者の啓蒙のあり方に、大きな径庭があるとい )糊" うことである。 このような福地の自己認識から見えてくるのは、次のよ うなことである。それは、福地にとって言論を通した思想 的交流とは、人間同士の対等な関係を前提とした 「対話」 によって成立するものと考えていたということである。言 い換えれば、社会の発展には、この「対話」型の交流が欠 かせないものと考えていたということだ。それは例えば、 彼が、明治八年(一八七五) 三月に起こった士族平民民権 )肥l 論争において、四民平等を前提とした国民形成論を主張し ーヽ-一 1/I ていたこととも大いに関連していよう。彼にとって人間は 元来政治的な動物であるのだから、身分的制約を撤廃する ことで、より広範な「交際」が可能になると考えたのであ る。そして、福地にとって、その 「交際」を可能にする一 つの場が、多くの顔の見えない読者を結びつける新聞とい うメディアであり、そこでの「対話」を通して「輿論」を 形成していくことが、「新聞記者」の責務であったのである。 おわりに 福地と新聞との最初の出会いは、故郷長崎で過ごした青 年期であった。その後、彼は幕臣として渡ったヨーロッパ において、西洋の新聞に関する見聞を広め、大政奉還の翌 年には、実際に自ら『江湖新聞』を発刊した。この新聞で 福地は、「識者」 の嘲りを買ってでも、「童蒙婦幼」 にも理 解できる平易な紙面作りを心かけ、広範な読者層を基盤と した人心を意識して言論活動を行った。また、幕末期の日 本の新聞の多くが、外国の新聞の翻訳に依存していたこと を考えれば、彼の活動は、西洋の新聞を範とした新しい報 道や言論のあり方を示すものであった。しかし、佐幕的色 彩の濃い記事は、新政府の目に留まることとなり、創刊後 間もなく発行禁止を余儀なくされたのである。以上のよう な幕末期の新聞を巡る経験は、その後福地の 「新聞記者」

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としての活動に大きな影響を与えるものであり、彼をその 分野における先駆的地位へと導く誘因となったのである。 その後福地は、約四年の聞明治政府に奉職するも、明治 七年(一八七四) に 「新聞記者」 へと転身を遂げた。この 年は、学者職分論争に見られるような、知識人の社会的存 在意義が問われた時代であった。そのような中、福地も、 明六社社員と同様に、社会における「学者」=知識人の重 要性を強く認識していた。そして、彼は「新聞記者」を「学 者」と同列に置くことで、その社会的な責務を強調してみ せた。そこには、旧来の新聞記者としてではなく、「学者」 として社会の発展に寄与しようとする福地の明確な自己認 識が見られるのである。つまり、彼の 「新聞記者」 への転 身は、既存の新聞記者像を打破し、在野の 「学者」=知識 人として、文明化に関わろうとする強い意志の現れだった のである。 また福地は、社会を発展に導く「先覚者」としての役割も、 「新聞記者」に求めていた。それは、彼が「政事家」や「政 府」 の責務を極めて限定的に捉える政治観を持っていたこ とが大きい。福地は、「政府」 による「人民」 に対する過 剰な保護が、社会の停滞を招くと考え、「自治」を通した「人 民」 の政治的実践を積ませることを優先したのである。そ れは、福地にとって'人間とは元来政治的動物であり、白 ずと「交際」 の枠を拡大させ、社会を発展させる「本性」 を有していると考えたからに他ならなかった。そして、そ の 「交際」とは、人間同士の対等な関係を基礎とした 「対 話」型の交流であると考え、福地は市井の「学者」=知識 人として言論活動を行ったのである。つまり、福地は、自 らの正当性を自分の中にしまい込むことなく、日々社会へ と投げかけ、「対話」を通して、有名無名の読者を取り込み、 「輿論」を牽引することこそ、知識人としての「新聞記者」 の社会的責務であると考えたのである。「新聞記者」とし て、このような思想的交流の形を模索した福地の姿は、明 六社に属し啓蒙的言論活動を行った知識人とは異質なもの である。すなわち、福地源一郎という「新聞記者」 の誕生 は、新聞という言論空間に新たなコミュニケーションの形 を提示し、新聞の価値を変容させるとともに、知識人の社 会的役割を拡大させる契機となったのである。 (付 記) 本文の引用資料中、旧字体・異体字については新字体に改 めたほか、適宜句読点を補った。また、資料原文中の変体 仮名・片仮名は、平仮名にすべて改めた。さらに、-・ま 引用者による省略を一ホしている。

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〇i〇〇      iioiさ       EiIEI 5   4   3 2曇ら      i重要国       〃さ00!? tioiさ 7 )

明治四三 (一九一〇)年に刊行された刊偉人乃跡』 の中で 三宅雪嶺は、「一事に定住せず、絶えず変化し廻はるは、其 の人の自由意志にして、実に好機会に道連する所以なりと 艶も、其の最も香華とすべきも亦た此に在る」 と福地論を 述べている。引用文は、柳田泉編『明治文学全集〓 福地 桜痴集』(筑摩書房、一九六六年所収。四。二頁)からのもの。 坂本多加雄「福地桜癖と明治維新」 (坂本多加雄『近代日本 精神史論』講談社、一九九六年所収。一九四頁。初出掌 留院大学法学部研究年報」一九号、一九八四年)。 社長職を聞直彦(安政四年(一八五七)∼昭和九年へ一九一二回)) に譲り、退社したのは、明治一二年(一八八八)七月である。 山本武利「官吏への記者の転身」 (日本近代思想大系〓 ÷-∩ 論とメディア・付録 [月報1 6ご岩波冨店、一九九〇年)。 これまで新聞に関する研究は、メディア史や自由民権運動 に関する立場から'積極的に考察されてきた。しかし、そ の優れた書誌的・社会史的研究成果は、これまでの思想史 研究に十分反映されてきたとは言い難い。 福地桜親日新聞紙実歴」 (前掲F福地桜痢集』へ一二五頁。 初山は、明治二巳年(一八九四)民友社から刊行。以下、『実 歴』と略記。)。 松本三之介は 「新聞の誕生と政論の構造」 (前掲二言論とメ ディア」) の中で「西洋の新聞の果たす役割について、日本 の為政者や知識人が注目するようになるのは、幕末、オラ 六四 ンダの商館によって作成された「風説書」 を契機としてで あった」 (四五二頁) と述べている。その意味で、福地も例 外ではなかった。 F実歴』 (前掲F福地桜痴集山) ▲二一五頁。 『実歴』 (前掲『福地桜痴柴山)..六頁。 福地は、口実雁山 の中で、幕府擁護の理由を次のように述べ ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ ヽ ている。「余は初より尊王に附ては固より微塵も異論なく、 ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ 又将軍家が大政を返上し玉へる御処嵩に附ても反対の意見 ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ ヽ   ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ ヽ   ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ を有せざりしかへ 爾来其実況を見るに、政権は朝廷に帰せ ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ ヽ   ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ ずして却て薩長に帰す。然らば則ち幕府仕れて薩長は第二 ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ ヽ   ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ ヽ   ヽ  ヽ  ヽ の幕府をなす者なり。是決して我等が聖にあらず、又維新 ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ の目的にも非ざるなり」 (傍点原文)。(『実歴L (前掲J福地 桜痴集』、三二六頁))。また、坂本多加雄は'「福地や福沢 の幕府擁護論の--特徴は、幕府を開園政策ゆえに文明の 側に位崗するものと看倣していたということである。これ に対して明治新政府は従来の撰夷運動の延長上にあるもの とされていた」(前掲坂本「福地桜廟と明治維新」二一五貞) と述べている。両者の明治政府観の類似性について、ここ で述べることはしないが、福地が『江湖新聞』 を発回した 重要な動機の一つは、このような現実に対する彼なりの抵 抗であったことは疑いないだろう。 木村毅編F幕末明治新聞全集』第四巻(世界文庫、一九六六年) 三頁。 福地は「実歴』 の中で、新聞の草稿をすべて自分で書いた と述べている。その掲載された内容は、戊辰戦争に関する

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/-\   (     ( 15 14 13 )     )   \_ノ ものが多いが、「横浜新聞紙」や「英仏之新聞紙」の翻訳だ けでなく、「其外朝野之雑報、詩歌、連俳、落ン晒、或は力 士、俳優、暫女等の取沙汰迄、間に任せ等をとり相認め候」 (同前'二一頁)とある。実際に紙面を見るとそうした記事 はそれほど多くはないが、福地は市井の人々を意識し文芸 や娯楽までも報じようとしていた。 『実歴』(前掲『福地桜痴集』)三言ハ頁。 前掲呈口論とメディア』、四〇八頁。 辞職時期についてへ福地は『実歴』の中で'「明治七年の秋 に至りて辞職したり」(前掲『福地桜痴集』、三八頁)ど 述べているが、詳細はわかっていない。またへ福地の文人 的側面に注目し、数多くの研究を残した柳田泉は'福地の 辞職理由とその時期について、次のように述べている。「明 治四年十二月、岩倉一行に従って一等書記官で四度目の洋 行。六年七月帰朝。然し政府当局と財政上の意見に相違が 出来たり、伊藤が丁部へ去ったり、征韓論の騒動となった りして、漸く役人生活が面白くなくなったので、大蔵省四 等出仕、紙幣権頭というのを弊履のように棄ててしまった。 それが七年一.一月だ。伊藤〔博文-引用者註〕が気の寿がっ て引留めたが、きかずに野人となった。」(柳田泉「福地桜痴」、 前掲『福地桜痴集」四二貞)。福地の「新聞記者」 への転 身を考える上で'政府国の動向も視野に入れ、なぜ宮を辞 したのかという視点で考えることも必要であろう。そのこ とは、彼がその後「新聞記者」としても、政府と一定の距 離を保ち続けたことを考えれば、看過できない問題である。 困胴囲 (川) 四棚田 国訓圃 (男…) しかし本稿では、紙幅の関係上、なぜ「新聞記者」となっ たのかという問題を中心に考察を進める。 [。実歴』(前掲『福地桜痴集l I)≡.八頁。 『江湖新聞L創刊以来、福地と交流のあった広岡幸助(文政 二"年へ一八二九)∼大正巳年へ一九一八))の回想によれ ば、入社後福地は次のように語ったという。「福地さんが入 ってから、果して新聞の売れ高は殖えて来た。十号ぐらいで、 百づ,二百づつ殖えて来た。福地はHへらさうと弾きうと、 こっちの腕にあるLなんて言って、まるで寄席で芸人の良 いのが出ると客が殖えるやうな塩梅で、さういふことを言 って居た。」(石井研堂『明治事物起源』春陽堂、一九:ハ年、 -八ヒ貞)。 牧原憲夫「明治巳年の大論争  建白書から見た近代国家 と民衆』(日本経済評論社へ-九九〇年)六頁。 同前、六頁。 山室信一・中野口徹校注『明六雑誌(ド)」(岩波書店、 二〇〇九年) 四.三貴。 山室信一・中野日徹校注『叩六雑誌(上)』(揖波書店、 一九九九年) 二九∼二〇頁。 福沢諭吉「学者の職分を論ず」[学問のすゝめ(四編)山 一八己叩年一月。(「福沢論吉全集山第‥巻、岩波書店、 一九六九年) 四九∼五〇頁。 同前、五二頁。 同前へ 五一頁。 同前、叩九頁。 六五

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i国  電i〇〇 闇 遡 〇〇〇 iさi!〇 同前へ 五二頁。 福地が、官吏から「新聞記者」への転身を図る原因の一つに、 学者職分論争があったと直接証明できる資料は今のところ ない。しかし'転身を図る士で、この間題に対して福地が 全く無自覚だったとは到底思えない。例えば、明治三四年 (一九〇一)'福沢の死に臨み'福地が彼に贈った「旧友福 沢諭吉君を英す」 には'「新聞記者」 への転身を巡る際の両 者の関係が、次のように描かれている。「明治七年、余〔福 地-引用者註〕 が東京日々新聞を主宰するに当り、君〔福 派-引用者註〕 は余に告げて日く、足下が新聞事業に従ふ はははていけい 太だ好し、唯々慎みて政府と提撃すること莫れ'提撃せば 必ず足下を誤らんと」(福地源一郎「旧友福沢諭吉君を英すL F日出国新聞」明治三四年二月五日へ前掲『福地桜痴集』所 収、四〇四頁)。結果的に福地は、福沢の忠告を反故にする 訳だが、福地と福沢は自らの処世について意見を交換でき る程の関係にあった。それに、官を辞して在野に下り、新 聞事業に乗り出そうとする福地に対して、福沢が高い評価 を与えていることも見逃せない。また福地は、幕府瓦解後 の進退についても、福沢との間で次のような意見が交わさ れたと懐古している。「余は明治二年なりと記臆す、君は余 に告げて円く、今や薩長土肥の諸藩、維新の功勲を以て朝・ 政の枢機を専有す'足下は幕府の遺臣なり、出て仕ふるも 牛後に居るに過ぎざるべし'足下当世に志あらは、塾を開 きて書生を教へ、多く門生を蓑ひ'他日の羽翼を作るべし と。余は真言の理あるに服し'君の忠告に従ひ家塾 〔日新 困閥田 圃閥四 国間図 四副因 (TtJ) 園潤的 園胴長 困潮田 困脳田 園珊函 六六 いくはく 令-引用者註〕 を開きしかへ 幾も無くして之を閉ぢ'明治 政府に出仕したりき」(福地源一郎「旧友福沢諭吉君を英す」、 同前)。福地の人生の転機に彼の前に現れ、アドバイスする 福沢。そしてそれに納得し従う福地。両者の関係を表す貴 重なエピソードである。福沢が常に、民の立場で新聞や教 育事業に関わるよう忠告していることは、福地の知識人観を 考える上でも'非常に興味深い。 戸沢行夫『明六社の人びと』(築地書館へ一九九一年)ヒ六頁。 『東京日日新聞』 明治八年(一八七五) 九月八日(第 二一八号)。以下、『東京目口新聞』は、『東口』と略記。 同前。 同前。 「為政の道」『衆目』明治一四年(一八八一)六月二九日(第 二八六六号)。 福地は、社会が 「人為」 的にのみ導かれていくとは考え ていない。「人為」 ではなく、「自然」 に進歩していくこ とも指摘している。それについては、坂本多加雄「福地源 一郎の政治思想 - 「漸進主義」 の方法と課題」 (『思想』 六五九号、一九ヒ九年) を参照のこと。 「政治の権域L H東口』明治一一一年(一八七九)三月五日(第 二一七一号)。 同前。 『東日』明治一〇年(一八七七)一〇月九日(第一ヒ五七号)。 「自由の説」 『東日』 明治九年(一八ヒ六) 九月ヒ日(第 一四二七号)。

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〇〇ii Ziiii ES l10   39   38 9さとさ       〇〇〇      iさi各a (   /-\   ( 43 42 41 1!〇〇 iさ〇〇  g言i各i 「法律自由の二者は文明の根軸」『東日』明治一二年(一八七九) 三月三日(第二一六九号)。 「新聞紙の責任」 『衆目』 明治一〇年(一八ヒ七)一二月 二五日(第一八二〇号)。 この 「百雷平民」 など 「平民」 に関わる一人称は、明治 一〇年以前の『東口』 の社説に散見されるが、その後の社 説には管見限り見当たらない。このような変化がなぜ起こ るのか明確にはわからないが、この「吾曹平民」という語が、 単に 「平民」だけを意識したものではなく、それに対する 「士族」 の存在も強く意識され、使用されていたことも視野 に入れて考えなければならない問題だろう。 『東日』明治八年(一八七五)一〇月一三日(第二五六号)。 この間題に関しては、別稿にて子細に検討したい。 福地は、「士族」と「平民」 の法制的・経済的区別を撤廃し、 四民平等を確立してこそ、「士族」と「平民」 の対等な関係 ができ、人心の統合がなされた上で、「国民」としての強固 な結束が生まれると考えていた。詳しくは、拙稿「「平民」 民権家・福地源一郎の「国民」形成論1--士族平民民権論 争を中心に」 (『歴史』第二〇輔、二〇〇八年)。 六 七

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