沖
研究紀要
第55号
昭和58年3月
研究紀要
第55号
昭和58年3月
身延山晩年の日蓮聖人⋮⋮⋮・⋮⋮⋮⋮⋮⋮・・・⋮・⋮・⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮上田本昌︵..●今︶
l弘安四年九月から十一月までl
朝師御書見聞の一考察・・⋮⋮⋮⋮⋮・⋮⋮⋮・⋮⋮⋮⋮・⋮⋮⋮⋮⋮⋮・中條暁秀︵9
1安国論私抄についてl
誓願と霊性⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮.:町田是正︵酉
1日蓮聖人の﹁誓願﹂の意味l
智頭﹃法華文句﹄における信⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮・⋮⋮・⋮⋮・⋮望月海淑罰︶
焔肩仏を手がかりとして.⋮・⋮⋮⋮・⋮・⋮⋮⋮・⋮⋮・⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮高橋堯昭︵g
西安草堂寺奉安の羅什像の原画と注法華経目⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮若杉見龍︵轡
仏教者と憲法第九条⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮・⋮⋮・⋮⋮⋮⋮⋮⋮・中里悠光︵哩
書評・⋮⋮⋮⋮・⋮・⋮・⋮⋮⋮・⋮⋮⋮⋮⋮⋮・・・⋮⋮⋮⋮・⋮⋮⋮奥野本洋︵砂
第三十五回・日蓮宗教学研究発表大会要旨・⋮・⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮・⋮⋮⋮⋮⋮⋮:⋮⋮⋮⋮⋮.盆︶語、論⑥。⋮⋮⋮⋮・⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮・⋮⋮⋮・⋮⋮⋮⋮⋮:大森孝︵1︶
二口白川期
学園葉報・学園だより⋮・・⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮・⋮⋮⋮⋮⋮耐︶後記
棲神第五十五号目次
六十歳の秋を西谷で静かに迎えた日蓮聖人は、身延山をこの上なく愛し、尊い霊山であると受けとめ、この頃には、 弟子や檀越に対しても、法華経の根本道場であることを、強調されるに至っていた。 すでに慢性化した病状も、一進一退のうちに夏を越し、凉風のなかでやや健康をとりもどすようにも見受けられ ときか た。そうした九月十一日に南条兵衛七郎から、塩一駄・大豆一俵・鶏冠菜一袋・酒一筒等の食糧品が送られてきた。 〃 その折りの御礼状が記されている。真蹟は伝わっていないが、日朝の写本が遺されている。それによると、﹁上野国
︽夕ラニゆかしぐシリへリシクシ︵1︶
より御帰宅候後未し入二見参一候、淋敷存候し処に品盈の物ども取副候て御音信に預候事申尽難き御志にて候﹂とあるの で、この頃はしばらく南条家との交信がたえていた事がわかる。 ところで、南条兵衛七郎という人物であるが、この人は時光や七郎五郎の父に当る。聖人とは鎌倉で知り合いにな ?︶ り、入信して一家をあげ篤い信仰を持った。南条新左衛門頼員の弟で、妻は松野六郎の女であるという。しかし、文 ︵毎凹︶ 永二年頃に臨終正念で残したと伝えられているので、ここでいう南条兵衛七郎というのは、七郎次郎時光のことを指 身延山晩年の日蓮聖人︵上田︶身延山晩年の日蓮聖人
一、弘安四年の秋︵九月︶l弘安四年九月から十一月までI
上田本昌
(I)﹁此処は人倫を離れたる山中也。東西南北を去て里もなし。かかるいと心細き幽窟なれども、教主釈尊の一大事 の秘法を韮鷲山にして相伝し、日蓮が肉団の胸中に秘して隠し持てり。されば日蓮が胸の間は諸仏入定の処也o 舌の上は転法輪の所、喉は誕生の処、口中は正覚の卿なるべし。かかる不思議なる法華経の行者の住処なれば、 シス︵巨凹︶ いかでか霊山浄土に劣るべき。法妙なるが故に人貴し。人貴きが故に所尊と申は是也。﹂ と述べている。即ち、一応は後生に霊山浄土へ生まれることができるとして、対機説法の形をとっているが、そのす ぐあとで、法華経行者の住処をもって、霊山浄土に劣らぬ処であるとし、現世においての霊山浄土を示し、神力品に おいて明らかなように、たとえ林中・樹下・僧坊いずれの処にあっても、即是道場であり、法華経行者の住処はいず こにあっても、直に霊山浄土たりうることを明らかにしているといえる。なかでも身延山をもって、最も勝れた処で 延山のことを指して、 ﹁釈迦仏は、我を無量の珍宝を以て億劫の間供養せんよりは、末代の法華経の行者を一日なりとも供養せん功徳
力ヒ
レフキリ
ン︽ノ は、百千万億倍過ぐべしとこそ説せ給て候に、法華経の行者を心に入て数年供養し給事、難し有御志哉。如二金言一 メマプ
︿4竃︶ 者、定て後生は霊山浄土に生れ給くし。いゑじき果報哉。﹂ メマプ
と外護の檀越に対する功徳の甚多たることを明らかにしている。﹁定て後生は霊山浄土に生れ給くし﹂という表現か らすると、いかにも霊山浄土は、後生でなければ到達することのできない処のように考えられるが、聖人のいう霊山 浄土は、必ずしも死後の来世でなければ到達することのできない場所を意味するものではない。もちろん後生におい ても生まれることのできる浄土ではあるが、後生に限定されているわけではない。それは、右の文のすぐあとに、身 しているものと考えられる。 身延山晩年の日蓮聖人︵上田︶ (2)あると理解し、﹁此卿に望まん輩は無始の罪障忽に消滅し、三業の悪転じて三徳を成ぜん︵乃至︶彼月支の霊鷲山は 本朝此身延の嶺也。﹂と言明されるに至っている。 即ち、聖人の身延霊山説は、晩年に至って次第に確定的となり、身延山は霊鷲山に似ているという中期の表現から、 さらに一歩を進めて、﹁身延即霊山﹂という考え方に進展して来ているのである。その一つの現れが、この御書の中
シテノヲ
にも見ることができるといえよう。﹁彼中天竺の無熱池に臨し悩者が、除一愈心中熱気一充満其願如清涼池とうそぶきテく
しも、彼此異なりといへども、其意は争か替るべき﹂と述べて、身延山を中印度の無熱池に唇え、この地に足を運ぶ 者は、罪障消滅し転悪成徳の利益を得ることができるものとしている。したがって最後に﹁参詣遙に中絶せり。急々シツヲ
チッテ に可レ企二来臨一。是にて待入候くし。﹂と記し、日本の無熱池たる身延山への参詣を勧奨しているのである。これは身 延山をもって、端に霊山浄土に擬したというだけでなく、日本の霊山浄土たる身延山へ参詣することにより、無始の 罪障が消滅され、妙法五字の光明に照らされ、三業の悪が三徳と転じ、現身に仏を得ることができるというところに、 最も大きな聖人の意図があったということができよう。さらに一歩を進めてみるならば、仏在世の霊山浄土は、印度 の霊鷲山であり、滅後末法の霊山浄土は﹁法華経の行者の住処﹂ということになり、その最も代表的な具体的場所 は、﹁本朝此身延の嶺﹂ということになるであろう。 ︵侭U︶ 聖人が身延へ入山の当初は、﹁結句は一人になって日本国に流浪すべき身﹂と述べながらも、九年間一度も山を離 れて山外に出ることなく、あえて身延山に住居を定められたことは、やはりこうした考えが、その根底にあったから ではなかったかといえるのである。少なくとも身延山を﹁心中に叶﹂った山として入山当初から、九年後に下山する まで一貫して持ち続け、年と共にその度合いを深め、ついに霊山浄土として高められていったことには、間違いない 身延山晩年の日蓮聖人︵上田︶ (3)で︶ 九月にはもう一度、二十日に御供養の品々が上野殿から届けられた。﹁いゑのいも一駄・こぱう一つと.大根六本﹂ といった食粗品である。﹁いもは石のごとし。ごばうは大牛の角のごとし。大根は大仏堂の大くぎのごとし。あぢわ ひは切利天の甘露のごとし。﹂と形容している点からぶても、当時としては貴重な食糧であり、病身を支える上で、 モ 大切な栄養源として用いられたものと考えられる。﹁千金の金をもてる者うえてし︵餓死︶ぬ。一飯をつと︵苞︶に 二ク つつめる者にこれ劣れり。経云うえたる世にはよれ︵米︶たっとしと云云。一切の事は国により、時による事也。仏 ︵Q凹︶ 法は此道理をわきまうべきにて候。﹂と語っている。 聖人在世当時は、すでに﹃立正安国論﹄で述べられているように、いつも飢鐘が襲い、人奄の食生活は、想像を絶 ︵加︶ する貧しさであったようである。﹁牛馬発し巷骸骨充レ路、招レ死之輩既超二大半一、不し悲レ之族敢無二一人こという現実 の中にあって、しかも山中の交通不便な草庵で、病身を癒すことは、安易なことではなかったであろう。当時は聖人 だけではなく、一般の食生活も極度に逼迫しており、芋・牛芳・大根といった野菜類も簡単には入手できない状熊の 中で、乏しい中からのご供養であって恐れば、﹁切利天の甘露﹂として味わうことができえたにちがいない。 また、.切の事は国により、時による事﹂としたのも、いかにも﹁弘安の役﹂の後だけに、﹁国﹂と﹁時﹂を重 くゑていたことがわかる。仏法とはこうした道理をわきまえることだとする点にも、この頃の聖人における考え方の 一端を窺うことができよう。道理をわきまえるとは、一つには仏法の道理、二には世法の道理であるが、仏法の道理 が正しければ、世法の道理もまた正常さを保つことになるという立場が、聖人の基本的立場であったのである。尚、 このお礼状は﹃上野殿御返事﹄として、本満寺本の写本が伝わっている。 ︵勺0︶ ものがあったといえよう。 身延山晩年の日蓮聖人︵上田︶ (‘)
︵ 、 ︶ また九月には﹁俗日常﹂に授与された曼茶羅と、﹁俗守常﹂あてのもの、計二幅が遺されている。日常授与の曼茶 羅は、山梨県休息の立正寺に保存されているが、二幅とも筆勢は力強く、病身はいささかも感じられない。曼茶羅の 上からみると、聖人は最後まで力を入れて書写されており、現存する弘安五年六月の最後の御本尊まで、筆法は調っ て力が入り、精神をこめて記された跡が判然としている。日常・守常といった人がどのような信徒であったか明確で はないが、この頃の数少ない曼茶羅が授与されている点から考え、かなりの信交があり、篤信の徒であったことがわ 十月に入ると聖人の病状は、また重くなられ、書簡による返事を記すのにも、時として耐え難い状熊であった。十 四日付の富木入道からの書状は十七日に西谷へ到着した。さらに﹁後の七月十五日﹂の御消息については、同じく二 十日頃に到着していたが、﹁老病﹂のため食欲もほとんどない状熊だったので、返信が雷けなかった。﹃富城入道殿
プトノヲル
ータラワ
レカラ︵旭︶ 御返事﹄によれば、﹁其外錐レ賜二度度貴札一為二老病一之上又不食気候間未し奉二返報一候条其恐不レ少候﹂とあるので、こ の頃の健康状熊が、極めて不調であったことがわかる。 この御書の真蹟については、中山蔵となっているが、﹃昭和定本﹄では、﹁但門下代筆?﹂と疑問を提示したかた ちになっている。また浅井要麟教授は中山蔵の原書について、稲田海素師の説と同じく真蹟ではない事を明らかにし ︵蝿︶ ている。さらにこの御書は蒙古の大軍が来襲して、国難にあった時、大暴風雨によって敵船が沈没して、国難からま ぬがれたのは、真言宗諸師の祈禰調伏によるものであるとする説が、鎌倉に流れたので、富木氏がこの説を西谷へ伝 身延山晩年の日蓮聖人︵上田︶ かる◎ 二、弘安四年の秋︵十月︶ (5)ノシキ
ス更ルノ ノ セリ 冒頭の﹁今月十四日御札同十七日到来。叉去後七月十五日御消息同二十比到来﹂という記述は、真実性に富むもの ノ であり、﹁賜二度度貴札こという事実は、実際に受取った人でなくてはわからぬことであるといえよう。全く後人に よって偽作されたものとは考えがたい。恐らくは﹃定本遺文﹄が指摘しているように、そば近くに侍していた弟子の チンデワ シ だれかが、聖人に代って筆を執ったものか、或いは口述筆記したものともいえよう。﹁価忍レ病一端是を申候はん・﹂ という病状から推して、師の口述を弟子が筆記したと考えることも充分できうることであろう。 此の御書から考えられることは、富木氏がしばしば西谷へ書を送り、聖人の安否を心配されると同時に、なにくれ と外護の丹精がおこなわれていたようである。 ス ハリソヌ令邸︶ 末文近くに﹁又必しいぢ︵推地︶の四郎が事は承候畢﹂とあって、推地四郎が登場してくる。この人は鎌倉在住の 武士であったといわれているが、詳しい事は伝わっていない。ただ﹃宗祖御遷化記録﹄によると、﹁御葬送次第﹂の ︵ 肥 ︶ 中に、後陣の弁阿閤梨のもとで、兵衛志の次に﹁御腹巻推地四郎﹂と記されている。従って晩年の聖人に使え、教 化に浴していた篤信の徒であったことがわかる。 また、齢六十に及んでいるので、天台大師の御報恩講を催すつもりであるが、﹁承ぐるしげに候房をひきつくろい 身延山晩年の日蓮聖人︵上田︶ えて来たのに対し、承久の乱の先例を挙げて、誘法の徒が行う修法では、真の成就はありえないことを明らかにして ︵M︶ いる。したがって﹃本満寺御欝﹄では、本書のことを﹁承久合戦之間事﹂とあり、﹃日諦目録﹄では﹁報富木氏害﹂ ︵蛎︶ として別に﹁承久消息﹂となっている。また﹃本満寺本﹄では﹁十月廿二日﹂の日付が入っている。本書については 尼︶ 偽撰とする説もあるが、浅井要麟師の説の如く、﹁考証は当否相半ばしている﹂ものであって、一概に決することは むずかしいといえる。 ( 6)︵蛆︶ 候ときに、さくれう︵作料︶におろして候なり。﹂とあるので、大師識までには草庵を改修する予定であったことが 知れる。﹁みぐるしげに﹂なったというのであるから、建治三年の冬に十二の柱が傾き、壁の落ちたあと、一旦は修 がく’よう ︵鋤︶ 復したものの、人夫もなく学生たちによって応急処置がとられた草庵は、いよいよ住むに支障をきたす状熊となった ため、大勢の門下を集めて大師講を修するには、どうしても象ぐるしげなる草庵では不可能であったのである。 この御書からもわかるように、聖人が朽ち果た草庵を大改修するための目的は、自身のためではなく、六十歳の還 暦を迎えた記念に、大師講を営承報恩の誠を捧げるため、多くの門下を一堂に会させる必要からであったといえよ り う。富木氏からの銭四貫もその折りの建築費用に当てるつもりであると述べ、﹁一閻浮提第一の法華堂造たり、と霊 ジ ブ 山浄土に御参候はん時は申あげさせ給くし。﹂という文で結ばれている。故に端なる草庵の改修ではなく、今度は﹁一 閻浮提第一の法華堂﹂を建立するつもりであったことが推察できる。﹁第こというのは、伽藍規模だけを意味する ものではなく、第一の経王たる法華経の殿堂を建立するものであるという、深い意味がこめられていたものであると 考えられるのである。ともかく聖人はこの頃、法華堂の建立を決意しておられたことがわかる。 これは一か月のちの十一月に、草庵の大改修がおこなわれ、妙法華院久遠寺が建立されるに至り、現実化すること になるのであるが、今は富木入道から寄せられた﹁銭四貫﹂をもって、その費用の一部にあてることを記しおかれて これは一か月のちの十一月︾ になるのであるが、今は富木司 さて十月も下旬に入った二十七日に、同じく富木氏宛の一書﹃越州嫡男並妻尼事﹄と名付けられた一紙十一行の真 ノ リ又︵瓢︶ 蹟がある。﹁九月九日写鳥、同十月廿七日飛来仕候了﹂とあるので、返信であることがわかる。越後守時盛の次子で ノ ある時光が妻尼らと謀反を企てた疑により、異島流罪に処せられたことをあげ、﹁過分事歎﹂と指摘している。この 身延山晩年の日蓮聖人︵上田︶ いるに留まっているのである。 (7 )
たしかに入山の直後は、一種の敗北感に似た感慨を持ち、流浪の旅にのぼるつもりも一分あったように受け取れる 面もあるが、それは一時の心理的に複雑な一コマを表したものであって、それがただちに聖人の心的内面のすべてを しめていたという事はできないであろう。 とが首肯できよう。 身延山晩年の日蓮聖人︵上田︶ 時光は聖人に対して弾圧を加えた武蔵守宣時の従兄に当る人である。また四条三郎左衛門尉の書簡についてもふれて ノ ノ おり、さらに﹁伊与殿事、存外性情智者也。当時学問無し隙﹂と記している。伊与殿とは、富木氏の義子であるとい われており、秀れた智者として、習学に専念していたもののごとくである。文面から受ける感じでは、当時、伊与房 は西谷にあって、聖人のもとで習学にいそしんでいたことが推察できよう。病身の聖人に仕えつつ学問の道に精進し ていた様子がわかるようである。断片一紙のため詳しい内容はわからないが、この頃、各地の弟子や信徒らから、さ まざまな情報を知らせる書信が、西谷へ飛来していたであろうことが推察されてくる。 聖人はいつも各地の門下から、国内における政治や社会の動き等に関する情報を、集収して、適切な判断を下し、 門下への指示を流していたようである。身は西谷の草庵に在っても、当時としては早い情報の入手ができていたよう に感じられる。例えば、先きの他国侵逼の難についても、いち早く一一ユースを知ることができる態勢を持っていたの である。門下の主要な入念が、常に聖人の情報網として、活躍していたことが推察できよう。 時光流罪のニュースも、当時としてはなかなか伝りにくい甲斐の山奥に、飛来していったのであった。聖人はこう した情報を早く察知することにより、各地に散在する門下に対して、時宜をえた指導や教化を与え、門下の充実に資 したものと考えられるのである。こうした点からゑても、身延時代の聖人の生活は、端なる隠居生活ではなかったこ (8)
さて晩年のこの頃に至ると、病身であったことも加わり、筆を手にすることが、従来のようなわけに行かぬことも 多く、曼茶羅の授与についても、たやすく記すことは、次第にむずかしくなってきていたようである。したがってこ の時期に、御書や曼茶羅の授与者は聖人との関係が、よほど密接な者であったろうとも考えられる。十月には、次の 四幅の受茶羅が図顕され、それぞれ門下に授与されている。即ち、一つは千葉市の随喜文庫に保存されている御本尊 で、授与者は削損され不明である。二幅目は俗守綱授与で、京都本法寺の所蔵である。三幅目は俗真永に授与したも ので、高知市要法寺の所蔵である。四幅目は俗近吉へ与えたもので京都本能寺の蔵である。四幅共一紙で、四菩薩の 表現等に、やや従来の筆勢と異りを感ずるのは、病状を押しての執筆であることを看取することができる。 ところで、西谷では草庵がいよいよいた象がひどくなり、壁や柱、それに屋根も雨漏りが大きくなり、このままで は常住している聖人はもとより、集ってきて聞法しようとする僧俗に至るまで、支障をきたすことになったので、地 元の波木井氏を始め、門弟らの進言により、草庵を改修して、規模も大きなものにしようとする動きがみえはじめた 十月に入ると、その相談は急テンポで進展した。先きの富木氏からの﹁銭四貫﹂も、その費用に当てられることに なったが、十一月の十五日には上野尼御前から、白米一駄と、洗芋一俵が送られてきた。西谷では普請も一段落して ︵配︶ いる頃であった。その礼状が記されているが、末尾の一紙の象真蹟現存で、京都本禅寺にある。この尼御前は周知の モ ノ ︵露︶ 通り、南条時光の母尼のことであり、﹁抑御消息を見候へぱ、尼御前の慈父故松野六郎左衛門入道殿の忌日と云云﹂ 身延山晩年の日蓮聖人︵上田︶ のである。
三、堂宇の造営
(9)身延山晩年の日蓮聖人︵上田︶ とあるので、尼御前が父の命日に供養として届けられた次第がわかる。松野氏については、すでに明らかな通り、駿 河国松野の邑主で、聖人には古くからの外護者の一人であった。 ス ﹁妙法蓮華経と申は蓮に警られて候﹂という文で始る一文には、﹁蓮華﹂の説明が詳しくされており、①前華後菓、 ②前菓後華、③一華多菓、④多華一菓、⑤無華有菓、等と花の種類を挙げ、蓮華は他の花と異り、華菓同時であると ス レ して、因果同時に当るものと解しているのである。即ち、﹁法華経と申は手に取ば其手やがて仏に成り、口に唱ふれ ば其口即仏也﹂という因行果徳の同時性を主張している。また唐の祥公によって記された﹃法華経伝記﹄に出てくる ズ 烏龍と、その子遺龍の物語を引用し、法華経によって﹁必仏になる﹂ことを明らかにしている。こうした物語は法華 経の霊験を現したものとして、中国の物語や史伝と共に、聖人は御書の随所に引用されている。当時渡っていた唐・ 天竺の文書について、仏典はもちろん、博く各分野にわたって被見されていたことがわかる。 フ ナ︵、毎︾ 末文には、﹁此由をはわきどのよみきかせまいらさせ給くし。事そうそうにてくわしく申ず候・﹂となっているの で、伯耆房日興が富士方面一帯の教化活動については、重要な位置にあり、常に門下の動静についても、気を配って いたことがわかる。いわば富士地方における布教第一線の責任者といった立場であったろう。日興に限らず六老僧を 中心とする直弟子の門下は、それぞれの地にあって、西谷からの指示に従いつつ、聖人の手足となり、教化活動や情 報の連絡等に、大きな役割を果していたといえる。聖人が身延へ入山されてからは、ますますこの傾向が強くなり、 ︵弱︶ 伝道の出先機関としての役割を果す結果ともなって行ったとみることができよう。 先きにもふれた通り、十一月はいよいよ草庵の大改築が始められ、従来の草庵から一新して、大坊・小坊それに馬 舎を持つ寺院としての建造物が、初めて完成し落慶式の行事が、盛大におこなわれたのであった。廿五日付で領主の (〃)
南部六郎に宛た﹃地引御書﹄によると、この時の坊の大きさは十間四面に庇を造り加えたものであったことがわか る。坊の敷地には山を切り開いて整地し、拡張工事も行い、十月から二十四日間もついやして、用地の準備が調えら れたのであった。この間、不思議にも雨が全くなく、工事は順調に進展していった。かくして、 ンヌ ﹁十一月ついたちの日、小坊つくり、馬やつくる。八日大坊の柱だて、九日十日葺候了。しかるに七日大雨、八 リ ふり 日九日十日はくもりて、しかもあたたかなる事、春の終のごとし。十一日より十四日まで大雨ふり、大雪下て、 ︵ 鰯 ︶ 今に里にきへず。山は一丈二丈雪こほりて、かたき事かねのごとし。﹂ と記されているように、先ず小坊と馬舎が、一日に造られ、七日には浄めの大雨があって、八日に大坊の柱建てがあ り、九・十の両日で屋根が葺き終ったのであった。しかもこの日は暖かな日和で、建築日和ともいうべきものであっ こうして諸堂の建築が終るのを待ち構えていたように、十一日からは地固めの大雨が、大雪にかわり、凍って固い ことは金属のようであったというのである。まさに諸天善神のご守護によるものということができよう。 そこで二十四日に落慶式を挙行することになったのであるが、前日の二十三日からは、再び天候に恵まれ、﹁そら 晴て、さむからず。人のまいる事、洛中かまくらの町の申酉の時のごとし。さだめて子細あるべきか。﹂という状熊 であった。二十三日は開堂供養のための準備で、山内はいつになく活気を見せ、各地から馳せ参じた弟子や信徒らに よって、賑やかに仕度が調えられるに至った。 当日の二十四日は、遠近からの参詣者が多数集い、ちょうど京都や鎌倉の町中で、最も人通りの多い夕方四時から 五時頃にかけての賑わいようであったという。諸天の加護がなければ考えられないような順調さと天候に恵まれた落 身延山晩年の日蓮聖人︵上田︶ たのである。 (皿)
ワシトワクト
ところで﹃高祖年譜﹄によれば、この時の建物をもって﹁久遠寺落慶﹂とし、﹁縦横六丈、山号一身延一寺扇一久遠一、 シナヲス
ス ︵ 函 卸 ︶ 十一月二十四日修一大師講一落慶、遠近群集、﹂とあり、﹁身延山久遠寺﹂の号が、ここで付けられたことになってい シ テ る。ただし、﹃仏祖統紀﹄では文永十一年六月十七日に、聖人が西谷の草庵へ入られた時点で、﹁高祖扁呼二身延山久・r︵銘︶シテプ・r︵麹︶
遠寺こという説を立てている。﹃本化別頭高祖伝﹄でも入山の当初に、﹁扁呼一身延山久遠寺ことし、﹃身延鑑﹄に 罰︶ も文永十一年の﹁六月十七日に庵室をむすび身延山久遠寺妙法花院と号し、天竺霊鷲山をうつし、﹂となっているた 虚︶ め、﹃年譜孜異﹄では此の点を﹁不審﹂であると指摘している。 聖人自身は、この点についての明確な記述をしていないため、さだかではないが、﹁身延山﹂の号は、入山の初期 より用いられている。例えば、入山の翌年文永十二年二月十六日の﹃新尼御前御返事﹄には、﹁此所をぱ身延の獄と 異鍵︶ 申﹂とあり、﹁身延の嶺﹂とも称している。したがって﹁身延山﹂という山号は当然考えられてくるが、﹁久遠寺﹂と か﹁妙法華院﹂という寺号・院号については、いつ頃から称せられたものか、確定的なことはいえないことになる。 ﹃身延山史﹄によると、﹁蓑夫を身延と替へ玉へるは入山早盈にして、文永十二年二月十六日の御消息に、此所をぱ 罰︶ 身延の鍬と申すとあるに徴して明なり。﹂とあり、元来﹁蓑夫﹂であったものを﹁身延﹂と改められたことになって いる。しかし、久遠寺と称したとは記されていない。これは弘安四年に﹁従来の草庵を改築して十間四面の伽薩を造 身延山晩年の日蓮聖人︵上田︶ 慶式であったことがわかる。身延山久遠寺創建にふさわしい日女であったといえよう。かくして従来の住承馴れてき た草庵は、ここに本格的な堂宇をもった建築として、生れ変ったのである。四、身延山久遠寺妙法華院
(〃)。 ◎ 営す。時に聖祖方めて身延山久遠寺妙法華院と扇せらる。即ち一度此山に詣づる輩は、罪障消滅して已身の寿命を廷 0O ︵鋤︶ 長し、久遠本果を光顕する。事の寂光土を表示せるものなり。﹂とあって、弘安四年の堂宇造営を機に﹁久遠寺妙法 華院﹂と称したことを明らかにしている。つまり﹃年譜﹄説を採用しているわけである。 そこで、この両説のいずれを採るか、という問題になるが、先ず祖書に出てくる﹁身延山﹂は、いわゆる山号寺号 としての﹁身延山﹂というよりは、四山四河の中の一つとして数えられている山の名として使用されていることは、 御薔に当ってゑて了解できるところである。また﹁久遠寺妙法華院﹂という寺号院号は、御書にその名を見ることが できないとしたら、恐らくは聖人が、身近かに使えている人々に対して口にはされていたものの、御書に記すという 段階にまでは至っていなかったのではないか、と推察しうる。 ここで私見を加えてゑるならば、①入山の当初は、すでに明らかなごとく﹁いまださだまらずといえども、大旨は 認︶ この山中心中に叶て候へぱ、しばらくは候はんずらむ。結句は一人になって日本国に流浪すべき身にて候﹂とあるよ うに、この山に根拠地を置いて永住するという考えは、まだ定っていなかったようである。②その上、﹁今年の飢渇 へ弱︶ に、はじめたる山中に、木のもとに、このはうちしきたるやうなるすゑか、をもひやらせ給・﹂という住居であった。 恐らく南部六郎にしてゑると、急に決った入山とはいえ、しっかりした堂宇を建立して聖人を迎えようと考えたにち がいない。ところが聖人は当時の一般的な例にならい、質素な草庵での生活を望まれたため、身の廻りの世話をする 弟子一人と共に、文字通り雨・露をしのぐだけの庵室となっていったものであろう。木の元に、木葉を敷きつめたよ うな草の庵は、﹁身延山久遠寺妙法華院﹂といったものものしい伽麓を用意したものではなく、わずかに十二の柱か らなる庵室であったのである。③聖人は最初から山号寺院号をもった大寺院を望まれていたのではなく、あくまで山 身延山晩年の日蓮聖人︵上田︶ (I3)
身延山晩年の日蓮聖人︵上田︶ 林にまじわりつつ、後半の人生でやっておかなくてはならない、幾つかの仕事を進めて行くつもりであったろう。④ 聖人にとって最初からの大寺院は、必要としなかったのであった。もしも、入山の当初に久遠寺妙法華院といった立 派な名称をつけていたとしたら、在山九年間の御書中に、少なくとも何回かその寺院名が記しおかれていて当然とい える。⑤しかるに、現存の御書中には久遠寺・妙法華院という名称は見当らない。という事は、聖人在山当時は専ら ﹁草庵﹂で通っていたのではないかとも考えられる。事実﹁木の元に木葉うちしきたる﹂栖では、山号寺院号を必要 とする段階にまで至っていなかったからであろう。⑥﹁一人になて日本国に流浪すべき身﹂であって象れぱ、大寺院 を構える必然性もとぼしいものであったといえる。⑦また前にもふれた通り、当時は鴨長明が日野山の草庵で、一丈 四方の庵室に龍り、ひたすら﹃方丈記﹄を著したように、﹁草庵仏教﹂と称されるような風潮にあったので、聖人も こうした例に習ったものとぶなしうる点もあろう。 以上の諸点から再往検討してみるとき、弘安四年の大改修で、大小の坊や馬舎をもった堂宇の造営を機に、従来の 草庵から、身延山久遠寺妙法華院という称号を持つようになったものとも考えられうる。したがって、先きの﹃高祖 年譜﹄の説は、一応妥当なものということができよう。ただし、﹃地引御書﹄を見ると、この時の造営の様子や、落 慶式の模様が、詳しく日を追って記されている。もし仮りにこの時、聖人によって、かかる山号寺院号の命名が正式 にあったとしたら、恐らくこの御書の中に、そのことをふれておられるのが当然といえる。天候から人出の様子に至 るまで詳述されているのであるから、山号寺院号の命名があったとしたら、この点を表記しないということは、常識 的に考えてもありえないことといえよう。もしこの仮説が許されるとしたら、﹁身延山久遠寺妙法華院﹂の名称は、 きっと聖人が口にはされていたものの、正式に書き表すことはされていなかったのではないか、後人の歴代がその意 (I4)
を帯して﹁身延山久遠寺妙法華院﹂と名ずけ、弘安四年の大改修の時、聖人によって名ずけられたものと伝えるに至 ったのではないか、と推察することができよう。 一一 さて、十一月二十四日は﹁大師講竝延年、心のごとくつかまつりて、二十四日の戌亥の時、御所に集会して、三十 上︻一 ︵ 訂 ︶ 余人をもって一日経書きまいらせ、竝申酉の刻に御供養すこしも事ゆへなし。﹂と開堂落慶の諸行事が、とどこうり なく進められた様子を記している。西谷では天台大師講が、その命日に営まれていたようであり、その日を選んでの 開堂式ということになる。大師識を重視していた一つの証左ともいえよう。また延年の舞いは、天下泰平国土安穏を 祈って修せられた嘉齢延年の舞のことであるといわれ、平安末期から寺院で、法会の後、余興的に僧侶によって演じ 認︶ られた芸能で、舞楽・田楽・猿楽などを含むものであるといわれている。例えば﹃吾妻鏡﹄によると、建久五年三月 ︵ 釣 ︶ 十五日の項に、頼朝が若宮別当の坊において、舞曲を覧た時、﹁僧徒延年に及ぶ﹂と記されているごとくである。身 延ではこれを機に、毎年延年の舞が演じられるに至ったが、現今では伝わっていない。﹃啓蒙﹄では﹁今︿十月十二 ︵柵︶ 日待夜二行し之突﹂とあるので、一時は御会式の逮夜に演じられていたことがわかる。次に一日経であるが、一日の 中に法華経を書写することをいうのであって、この日は朝の八時頃から三十余名で、夜半の三時頃までかかって、無 事に堂供養の儀を済ませたという。 次に﹃地引御書﹄では、堂宇造営の任に当った人とに対する労をねぎらい、働きぶりについても記している。それ によると南部六郎の一門で、子息の次郎を始めとする公達が、親の言い付けもあったとはいえ、我が心から進んでエ ノ ︵ 伽 ︶ 事に当り、﹁われと地をひき、柱をたて、藤兵衛・右馬の入道・三郎兵衛尉等已下の人を、一人も疎略の義なし。﹂ というから端なる役目として行なったのではなく、心をこめての普請であり、疎略に思う者は一人もいなかったとい 身延山晩年の日蓮聖人︵上田︶ (お)
身延山晩年の日蓮聖人︵上田︶ う点だけを見ても、いかに南部一門の人常による誠意が深いものであったかが窺えよう。とかく南部一門と聖人との 関係について、平素疎略の感なきにしもあらずといった一念をいだかせる向きもあるが、この造営についてゑてもわ かるように、身延山における外護は、篤いものであったことがわかる。 シ ﹁坊はかまくらにては一千貫にても大事とこそ申候へ。﹂というから、完成した大小の坊舎は立派な建造であった ことがわかる。身延山久遠寺妙法華院と称するにふさわしい容相であったろう。 ところで、南部六郎は今回の造営に当り、一つの祈願を持ち、その所願の成就を願っての供養も兼ねたものであっ たようである。﹃啓蒙﹄では﹁南部殿別二立願有テ堂供養ノ次テヲ以テ執行レシト見へタリ、堂建立モ定テ南部殿檀たようである。﹃啓蒙﹄では かくして、西谷では堂宇の造営も完成し、盛大な中にも荘かに落慶式を済ませたのであるが、聖人の健康は門下の ︵侭︶ 安否を気づかう中で、次第に悪化し﹁老病の上、不食気いまだ心よからざる﹂状態が続くなかで、弘安四年の幕が迫 って来た。三島の左衛門次郎に法門を記した御書を送るのにもやっとの思いであったようである。 ︵ 妃 ︶ 頭ナルヘシ﹂とみなしている。 ︹註︺ ︵ 田 上 ︶ ︵ ワ 写 ︶ ︵ q J ︶ ︵ 4 坐 ︶ ︵ 眞 凹 ︶ ︵ 侭 u ︶ 南条兵衛七郎殿御返事 ﹃仏祖統紀﹄ ﹃御遺文講義﹄ 南条兵衛七郎殿御返事 同 富木殿御書 定同定 定 遺 遺 遺 二 一一四四一 八八八l l八 ○八八一一八 九四四 八三 頁頁頁 頁 (16)
︵7︶鈴木一成教授は﹁身延山御書系年考﹂︵大崎学報第二○号︶の中で、身延霊山思想の展開を根拠としながら、﹃身延山御 書﹄をもって、そのピークとしている。︵一四頁︶
︵8︶上野殿御返事定遺一八八五頁
︵9︶同同一八八五頁
︵m︶立正安国論同二○九頁
︵u︶﹃日蓮聖人真蹟集成﹄第一○巻二○’一二頁 ︵聰︶富木入道殿御返事定遺一八八六頁 ︵週︶﹃日蓮聖人遺文全集﹄別巻三四五頁︵皿︶本満寺御番録外一三’一二六
︵婚︶日諦目録定遺三’二八二一頁
︵咽︶荒木勇﹁承久書の真偽如何﹂︵﹁法華﹂四巻九号六○頁︶では、七項目にわたって、偽説を立てている。 ︵Ⅳ︶富城入道殿御返事定遺一八八八頁︵肥︶室不学全書﹄二’一○四
︵四︶宮城入道殿御返事定遺一八八八頁︵釦︶庵室修復書同一四二頁
︵皿︶越州嫡男並妻尼事同一四八九頁 ︵犯︶対照録では弘安三年と見ている。 ︵認︶上野尼御前御返事定遺一八九○頁︵型︶同同一八九四頁
︵弱︶聖人滅後六老門家を中心に、各地の布教活動は活溌化するが、すでに在世中から、こうした動きは盛んであり、西谷からの 指示も又しばしばであったようである。︵瀦︶地引御雷定遺一八九四頁
︵”︶﹃高祖年譜﹄四八頁
︵鯛︶﹃仏祖統紀﹄七’六頁
身延山晩年の日蓮聖人︵上田︶ (〃)身延山晩年の日蓮聖人︵上田︶ ︵調︶﹃本化別頭高祖伝﹄下巻一二頁
︵釦︶﹃身延鑑﹄一二
︵皿︶﹃年譜孜異﹄下’四四
︵犯︶新尼御前御返事定遺八六四頁
︵詔︶﹃身延山史﹄一二
︵弘︶同二○
︵弱︶富木殿御書定遺八○九頁
︵錨︶上野殿御返事同八一九頁
︵訂︶地引御書同一八九四頁
︵銘︶﹃全訳吾妻鏡﹄別巻二三頁
︵調︶同二巻二九八頁
︵如︶﹃録内啓蒙﹄三六’一三九︵仙︶地引御書定遺一八九五頁
︵鑓︶﹃録内啓蒙﹄三六’一三九︵鯛︶老病御書定遺一八九六頁
(I8)祖滅間もなく始まった日蓮教団の京都への布教は目覚しいものがあった。特に四条の妙顕寺・六条の本国寺がその 二大拠点とされ、室町前期の日蓮教団の主力は関西へ移った観を呈していた。すなわち、中山門流の玄妙日什︵一三 一四∼一三九二︶の分離独立をはじめとして、久遠成日親︵一四○七∼一四八八︶の本法寺、月蔵日祝︵一四三七∼ 一五一三︶の頂妙寺の分立。印門の六条門流より円光日陣︵一三三九∼一四一九︶の分立。像門の四条門流より通覚 日実︵一三一八∼一三七八︶の妙覚寺、仏性日慶︵一三九七∼一四七八︶の妙蓮寺、慶林日隆︵一三八五∼一四六四︶ ︵勺且︶ の本能寺、常不軽日真︵一四四四∼一五二八︶の本隆寺等全が分離して、宛ら諸門流勃興時代の到来となった。 翻って、かかる諸師が主に関西で教線を拡張し、宗風の刷新を計ったのに対し、行学日朝︵一四二二∼一五○○︶ は一人関東の祖山にあって、祖廟の確立と日蓮教学の大成を期したのであった。 周知のように、日朝は豆州宇佐美に生まれ、字は鏡澄、加賀阿闇梨といい、はじめ宝聚院と号し、のち行学院と改 称した。幼にして聡敏、八才の時三島本覚寺の祖一乗坊日出に師事し剃髪得度。長じて武州仙波に負笈し天台学を修 朝師御書見聞の一考察︵中條︶
朝師御書見聞の一考察
日はじめに
l安国論私抄についてI
中條暁秀
(〃)日朝の著述は極めて多く、古来世に伝うるもの約六十部七百五十余巻という。現に身延山所蔵になるもの約六百巻 ︵ 3 ︶ が数えられ、本門法華宗の祖慶林日隆とともに、本化門下述作の双壁、世に東朝西隆と称されている。 なお身延山所蔵の詳細なる日朝関連著作については、近を出版の運びになる﹃身延文庫典籍目録﹄を待ちたい。 今は、﹃日蓮宗々学章疏目録﹄・﹁日朝上人著述目録﹂︵﹃本尊論資料﹄所収︶・﹁著述目録﹂︵室住一妙氏﹃行 ︵ 4 ︶ 学院日朝上人﹄所収︶等にしたがって、その主たるものを掲げ大雑把に分類を試承ると、 朝師御書見聞の一考察︵中條︶ め、南都北嶺に遊び諸宗を渉猟し、京都本覚寺真如日住︵一四○三’一四八六︶の門に在って宗学を研鎖したという。 越えて、寛正三年︵一四六二︶日朝四十一才の時身延山久遠寺十一世に晋象、円鏡日意に法灯を継承するまでの三十 七年の長き間貫首職を務め、物心両面に亘る数多くの業績を残し、現今の祖山としての基礎を確立し、廷山中興と仰 がれている。特筆されるべきは、 艸久遠寺を狭隆な西谷の地より現今の地に移転して、伽壷の整備に尽力 側年中・月例の行事等を定め、諸種の法則を莫定して制度を確立 側祖書の蒐集謹写とその注釈事業を通して、教学の組織化と子弟教育に全精魂の傾注 ︵2︶ 等であろう。かくて、明応八年︵一四九九︶行学院に退蔵。翌九年六月二十五日入寂。世寿七十九才であった。 なお拙稿は、文明十年︵一四七八︶十月中旬起稿、翌十一年二月脱稿になり、身延山久遠寺に蔵され、日朝の直筆 が存する﹃御書見聞﹄所収の﹁安国論私抄﹂について、少しく思うところを述べるものである。
ロ日朝の著述
(20)l御書見聞についてl
︵ワ0︶ ﹃御書見聞﹄は、﹃朝師御書見聞﹄・﹃朝師見聞﹄・﹃朝抄﹄と古来から呼ばれ、宗祖の遺文に注釈を施したもので、 ︵。。︶ その部立ては五大部を中心として、現在二十六篇四十四巻が存し、﹃日蓮宗々学全書﹄第十五・十六・十七巻におい ︵⑪ワ︶ ては二十三篇四十巻が収録され、身延文庫においては﹃補施集﹄と題されて、十八篇三十三巻三十三冊が蔵されてい 朝師御番見聞の一考察︵中條︶ このように日朝は、 値するところである。 仙本典関係補施集︵法 側祖典関係補施集︵祖 側天台関係補施集︵玄 側宗義関係弘経用心記 ㈱史伝関係元祖化導記 佃諸宗関係一代五時記 切論義関係例講問答 等である。そして、日朝に佃諸宗関係一代五時記
補
施
集
︵
法
四
宗
要
文
切論義関係例講問答立正会問答三日識問答
等である。そして、日朝にはかなりの数の中古天台関連の所持本・書写本があり、かつ門弟等が招来した諸山諸門流 ︵6︶ 等々の資料が身延文庫に蔵されている。したがって、これらの典籍も当然のごとく注目される。 このように日朝は、宗義関連のみならず台学は勿論のこと、一般仏教・各宗にまで及び、その学識の深さは驚嘆に華経講義分︶法華草案抄法華講演抄法華十講法華大綱抄
言︶ 補施集︵祖書講義分︶ 補施集︵玄義・止観講義分︶恵心流七箇見聞私弘経用心記弘経要文当家朝口伝本迩事本尊相伝祈祷相伝
匂安国論私抄の検討
(”)言うまでもなく日朝が特に力を注いだものは五大部と思われる。それは巻数という量的な面から見ても明瞭であ る。すなわち、﹁安国論私抄﹂五巻、﹁開目抄私見聞﹂四巻、﹁本尊抄私記・私見聞﹂八巻︵ただし、八巻中第一か ノ ︵ 、 ︶ ら第五までが散逸するによって、﹃補施集﹄の﹁観心事﹂を以てこれに当て、これを﹁本尊抄私記﹂と称す︶、﹁撰 時抄私見聞﹂二巻、﹁報恩抄私見聞﹂二巻、これら五大部の巻数が全体の半数を占めるを見ても頷けよう。なお﹃定 遺﹄三巻続篇所収の﹃彼岸抄﹄に注釈を加えた﹁彼岸抄見聞﹂一巻の存在が注目されるところである。 次に﹃御書見聞﹄述作の意趣についてである。厳密にいえば﹃御番見聞﹄ばかりでなく、日朝の著作の凡てに共通 することであるが、㈹大局的には身延山を布教興学の中心地たらしめようとする点。③眼を近くに転ずれば、例えば
ヲノノ
ト ユワ︽
ノ希唾︶ ﹁報恩抄私見聞﹂第二には﹁願以二書写力一上下諸恩者我等与二衆生一皆共成二仏道一、右為二広宣流布門徒繁栄一也﹂、﹁開︵鯛︶︵皿︶
目抄私見聞﹂第一には﹁願以書写力、師父母自身及法界衆生皆共成仏道﹂、とそれぞれの奥書に明記されるように、 ﹁広宣流布﹂であり、﹁師父母﹂等の追善及び法界群生の利益の回向である。つまり日朝は、これら一連の書を著わ B︶ す書写力によって、報恩に準えようとされたものと思われる。加えて、文明十三年︵一四八一︶は宗祖正当二百遠忌 という一つの大きな節目に、祖山の貫首として値遇するがゆえの報謝の発露であったことであろう。 朝師御悪見聞の一考察︵中條︶ るが、当初の篇巻数は明らかではない。しかし、このような大部に亘る祖書の注釈書として、本格的な体裁を整えて ︵ 蛆 ︶ 登場してきたものは、この﹃朝師御書見聞﹄を以て嚥矢とするというべきであろう。以下﹃宗全﹄にしたがって整理 すると、身延山所蔵に係る正本が二十八、写本が三、他は藻原寺・越後蓮昌寺・立正大学図書館等に正・写本が散在 し、その大半の執筆は文明八年から十三年の六年の間で、執筆場所は身延山行学院︵現在の東谷覚林坊の地︶においし、その圭 てである。 (22)﹃御書見聞﹄の執筆順でいえば、六番目に手懸けられた﹁安国論私抄﹂︵全五巻︶は、第一・二・三・五の四巻は 日朝の直筆本が、第四巻は日意の写本が身延山に蔵され、それぞれの端書・奥書等に執筆の時期・場所が明示されて ︵妬︶ いる。すなわち、第一の端書に﹁文明十年戊戌十月中旬初之﹂と、第二・三なく、第四・五の奥に﹁文明十一年己亥
命︶通︶
二月三日於身延山久遠寺行学院誌之﹂・﹁文明十一年己亥F一月時正第七於身延山久遠寺行学院書之﹂とあって、 約三ケ月半にて脱稿したことを知る。今、その構成を大掴象に図示すれば、 ︵項目数︶ 3I安国論私抄の構成I
│安国論私抄’
朝師御番見聞の一考察︵中條︶ 第 | 第 一 第’
l l l l 四三二 段段段段 ; ; ; ; ! ; ; § | | ’ 七六五 段段段 ; ; ; ; ; § ︵一間︶⋮⋮⋮⋮胆l ︵一答︶・・⋮⋮⋮︾●61 ︵二間︶⋮⋮⋮⋮31 ︵二答︶・⋮⋮.。⋮型I ︵三問︶⋮⋮⋮⋮卯l ︵三答︶・⋮・⋮・⋮71 ︵四問︶⋮⋮⋮⋮311行3行
岬T︵第一段︶P初IP初
巻 5 1 全 胆’一 壱本 (23)の三区分が出来る。そして、それぞれの主たる点を簡潔に述べるならば、 ︵第一段︶冒頭より﹃安国論副状﹄・﹃宿屋入道許御状﹄及び﹃八幡愚童訓﹄等々を援引しての﹃立正安国論﹄述 朝師御齊見聞の一考察︵中條︶ l第五
l第四I
−1,八段⋮⋮︵四答︶⋮⋮⋮⋮鈍’’九段⋮⋮
I十段⋮⋮
’’十一段⋮⋮ ’十二段⋮⋮ ’十三段⋮⋮ ’十四段⋮⋮ ’十五段⋮⋮ ’十六段⋮⋮ ’十七段⋮⋮ ︲’十八段⋮⋮ ’十九段⋮⋮ ︵五問︶⋮⋮⋮⋮岨I︲ ︵五答︶⋮⋮⋮⋮調I ︵六問︶⋮⋮⋮⋮51 ︵六答︶⋮⋮⋮⋮71 ︵七問︶⋮⋮⋮⋮11 ︵七答︶⋮⋮⋮⋮M︲ ︵八問︶⋮⋮⋮⋮51 ︵八答︶⋮⋮⋮⋮31 ︵九問︶⋮⋮⋮⋮51 ︵九答︶⋮⋮⋮⋮皿l ︵十問︶⋮⋮⋮⋮31池川一砲術lwm
PP
巻 5 1羽I︵第三段︶全
一 本 9銅行型行
11︵第二段︶P2,くP超 巻 1 5 全 昏不 (2イ)作の背景説明。善神捨国の力説。﹃種を御振舞御雷﹄等を援引しての他国侵逼難の的中の強調。 ︵第二段︶﹃安国論﹄の十問九答を十九段の節に分けてそれぞれ注釈を施し、第八段︵四答︶を軸に、法然の浄土 ︵第二段︶﹃安国論﹄ 念仏義についての破折。 ︵第三段︶前の十九段の注釈の拾遺と社参問題。 等が挙げられよう。 生する﹁念仏者追放事﹂ 八引用経論釈についてV ﹃御書見聞﹄を通観していえることであるが、遺文の注釈に重きを置くという立場からか、その執筆姿勢は、宗祖 の思想・教学の探究という面には比較的力点を置かず、主に遺文に記される経典・論釈・雷名・人名・地名等なの原 典を引用するという、いわば訓詰学的色彩を帯びたものであるといえよう。しかしながら、そこには文献学的・文証 的熊度をも見逃すことは出来ない。 ﹁安国論私抄﹂についていえば、全五巻中に引用される経論釈等との典籍は、彪大な量に上る。本来ならばここ で、本私抄中の引用経論釈について、その出典を含め具さに検討対照すべきであろうが、紙巾の都合で省く。ただ 朝師御書見聞の一考察︵中條︶
l安国論私抄の検討l
﹁安国論私抄﹂を検討すると、様盈な問題が存する。例えば帆引用経論釈について切善神捨国について側法然 の浄土念仏義について側社参について伽安国論の諸本について等が挙げられるが、今回はい・側及び側から派 ノ 生する﹁念仏者追放事﹂と﹃金綱集﹄との関連について、の三点を述べることとし、他は後日に譲るものとする。 (25)等の典籍が挙げられる。 ︵ ⑬ ︶ そして、引用経論釈等々を丹念に検すると、確認の出来ぬものも見られるのであるが、概ね正確に記されてあると 見て差し支えないように思われる。ただし、﹁或記﹂・﹁或抄﹂・﹁或義﹂というような引用表現が、かなりの頻度 であることが、気になるところである。しかし、これは日朝が執筆するに当って、仰出典名等がはっきりせぬ場合。 側出典等をはっきり限定せずにいう場合。の二意あるがゆえに、このような表現を用いたものではなかろうか。なぜ ならば、周知のように、宗祖の弘経の基本姿勢は折伏にあって、その守塔沙門として宗祖を讃仰すること人後に落ち 浄土宗抄
㈲遺文関係安国論副状宿屋入道殿許御状一昨日御書中興入道御消息種を御振舞御書顕立正意抄安国
論御勘由来如説修行抄本尊抄唱法華題目抄太田抄︵曽谷入道殿許御書のこと︶報恩抄曽谷殿御返事三
沢抄乙御前御消息略八幡抄︵四条金吾許御文のこと︶撰時抄
伽中国の仏教典籍関係止観玄義弘決文句記釈鎮止観義例法華義疏仁王般若経疏三論玄義般舟讃
目日本の仏教典籍関係秀句依懇天台集伝述一心戒文秘蔵宝鋪三教指帰教時義選択集選択伝弘決疑抄
普賢経大般若波羅蜜経
㈹経典関係浬薬経
朝師御書見聞の一考察︵中條︶ し、本私抄中に引用される主たる経論釈等の出典名の承を記すと、㈹経典関係浬薬経法華経大集経金光明経仁王経薬師経観無量寿経摩耶経心地観経無量義経
㈱中古天台の典籍関係山家御釈︵牛頭決のこと︶㈲その他の典籍関係史記文粋千字文注左伝礼記論語八幡愚童訓元亨釈書平家物語
(26)ぬ日朝が、その教学の特色の一つに、充分に吟味された経論釈を引用して、自説の援証とする文証主義が、極めて旺 盛であったことを知らぬはずはないからである。そして、日朝もまた、かかる主義を厳密に踏襲している。一例を挙 げると、それは﹁安国論私抄﹂第三の八段︵四答︶の﹁就之見之引曇鴛道緯善導之謬釈等事﹂中に、道緯の﹃安楽集﹄ の吟味をめぐっての問答往復中に見られる。すなわち、﹁安楽集上云・・・・︵中略︶・・・・・是故大集月蔵経云 カ ノ ナリ ノ キ ︵釦︶ 我末法時中億億衆生、起行修道未有一人得者、当今末法是五濁悪世、唯有一浄土一門一可二通入一路也、﹂と、﹃安楽集﹄ ↑ニノ ︵瓢︶ が﹃大集経︵月蔵分︶﹄の文を援引するのに対し、日朝はかかる経文を吟味して、﹁大集月蔵経今文無し之、憶説也、﹂ ︵ 理 ︶ と、断を下すによって明瞭であろう。なお﹃大正蔵経﹄を緒く時、確かに﹃安楽集﹄中にはかかる一文は存するので あるが、﹃大集経︵月蔵分︶﹄中には見当たらない。あるが、﹃大集経︵月蔵 ﹃立正安国論﹄といえば、正式には文応元年七月十六日宿屋左衛門尉入道最信を取次として、最明寺入道時頼に上 ︵ 麓 ︶ 申されたものをいい、今日これを文応本と称している。この安国論はいわゆる諫暁書であるから、再び本人の手許へ かえることはない。したがって、今日通常にいう安国論とは中山本を指し、この中山本には、﹃安国論﹄を幕府に献 ︵型︶ 進してから、十年後の文永六年十二月八日書写の奥書のあるもので、現在中山法華経寺に蔵され、その署名はない。 ︵ 鰯 ︶ そして、真間切損本と称されるものが各所に散在し、明治八年の大火で焼失した身延本等が存在していた。 さらに建治・弘安の交に係年される﹃立正安国論﹄広本と呼ばれるものが、京都本国寺に所蔵されている。いわゆ る文応の安国論をはじめとする諸本を通称略本と呼ぶのに対し、この本国寺本を広本乃至建治・弘安の再治本と称し
昂︶命︶
ている。中山日祐の﹃本尊聖教録﹄に﹁安国論一帖並再治本一帖﹂とあり、本成日実の﹃当家宗旨名目﹄には﹁建治 朝師御書見聞の一考察︵中條︶ 八略本と広本についてV (27)朝師御密見聞の一考察︵中條︶ 再治安黒御座麓と、また、白蓮日興に仮托され、菫系の初期文献である﹃富士一跡門徒存知事﹄に﹁此有二両 ノ レ
ヘノ
ーニヘタマフヲモシノ
本一、一本文応元年御作、是最明寺殿及法光寺殿奏上本也。一本弘安年中於一身延山一先本添二文言一、而無一別旨趣一、 フノ卜︵四︶ 只云一建治広本一。﹂とあって、広本の存在を明記している。 かかる中で日朝は、﹁安国論私抄﹂中に﹁安国論略本広本事﹂・﹁天台沙門日蓮勘之﹂の二項を立て、﹁凡安国論ニ ノ ーー ノ ノ モ文永六年御直筆ノ本ニハ天台沙門無し之、其本下総中山有し之、叉建治年号ニテ再治安国論トテ有し之、其本ニモ天台ノハ急釦︶︽ノ
沙門言無し之﹂と述べ、広本は略本を再治したものとの見解を示し、その一方第三者の言として、﹁或人云広本草案ノ︽異玉〃︵誠︶
御本也、当時略本公界出御本也。﹂と記し、広本は略本の草稿本であるとの説を伝えている。とすると、広本は再治 卜ジブ 本かそれとも草稿本かということになるが、日朝は﹁安国論私抄﹂第二の冒頭の項﹁尋云立正安国論題玉意如何﹂中へ二
面ダニ 畢 金︶ に、﹁師云守護国家論卜云ル御書有し之、公方奏状書し之玉フト云ヘドモ、余広博ナル故後二此書ヲ書玉ヘル也、﹂と 急︶ 述べている。かかる表現から見て、日朝は広本草稿本説に消極的ながら、疑問を抱いていたように思われる。 ところで、日朝が﹁安国論私抄﹂を手懸けるに当って、底本としたものは当然のことながら身延本であろうが、身 ノ ー 廷十五世宝蔵日叙︵一五二三∼一五七八︶は前述の﹁略本広本事﹂の左に付記して、﹁日叙私云御自筆安国論中山一 二 ユノ︽〃トシ
︵ 製 ︶ 巻本国寺一巻、当山一巻也、.・・・.︵中略︶・・・・・当山所納本世流布本少異所有し之、﹂と述ぺ、身延本がい わゆる中山本と少異あることを記している。現在身延本は焼失して存在しないが、これと同じものが身延二十一世寂 照日乾︵一五六○∼一六三五︶の模写に係るものとして、京都本満寺に蔵されている。筆者は先年その日乾本と中山 認︶ 本とを対照して承たが、字句の相違が見られるだけで、驚く程の違いはない。 ノ ハ﹁念仏者追放事﹂と﹃金網集﹄との関連についてV (28)ノ ﹁安国論私抄﹂第四の第十二段中に﹁念仏者追放事﹂という一項が設けられ、﹁或記云﹂として﹁追放宣旨﹂九篇 が掲げられている。言うまでもなく念仏者の﹁追放宣旨﹂を掲げる主旨は、破仏法の因縁であり、亡国の邪法である 法然房源空の専修念仏を、例えば﹃守護国家論﹄のように法門教義で責めるのではなく、法令制度を以て対治・折伏 ・捨邪帰正を促進しようとするものである。 ノ ところで、この﹁念仏者追放事﹂中の九篇は、﹃定遺﹄第三巻図録所収の﹃念仏者追放宣状事﹄中の﹁追放宣旨﹂ ノ と七篇が共通で、しかも、身延山久遠寺に蔵される﹃金網集﹄︵﹁浄土見聞集﹂下八念仏者所追事V︶に至っては、 九篇全部が同で、かつ、その配列・順序までが一である。加えて、これらの﹁追放宣旨﹂は、﹃念仏無間地獄抄﹄及
び武州一の江妙覚寺の祖日全︵三九四∼三四四︶の雲華問答正義塗︵全二士蕃八付浄土宗V︶とに、それ
ぞれ共通のものが見られる。これら一連のものを整理し略示すると左の通りである。 朝師御書見聞の一考察︵中條︶ (29) 2 1 七月四日の宣旨 ︷且﹄日 六月二十九日の 追放宣旨の称 P、122 8行 I P.122 13行 P、121 13行 I P、122 7行安国論私抄
︵宗全十五巻︶ P、215 8行 I P.215 13行 P.214 13行 I P.215 7行金網集
胤銭霊断鐸禮︸ P.2263 12行 I P.2264 4行 念仏者追放宣状 事︵定遺三巻︶ 念仏無間地獄 抄︵定遺一巻︶ 法華問答正義抄 ︵十三巻。付浄 土宗︶殊に注視すべきは、﹃念仏者追放宣旨状事﹄・﹃念仏無間地獄抄﹄・﹃法華問答正義抄﹄等が、﹁追放宣旨﹂の引 用を、必要な個所の承適宜取捨選択しているのに対し、先に少し触れたが、﹁安国論私抄﹂と﹃金綱集﹄とは、その 7 6 3 − 8 4 9 5 御関の隆 返東宣寛 事ョ 旨の り 配 宣 所 旨 改 ノ 易 嘉禄三年十月二 十日武蔵守殿へ の宣旨 十月二十日修理 権の亮殿への宣 匡日
永尊の状
﹄日 七月十三日の宣 七月五日の宣旨 朝師御謹見聞の一考察︵中條︶ P、124 P.124 P.123 13行 l P.124 3行 P.123 P.122 P、125 P、124 14行 l P.123 9行 l P、124 4行 l P.124 9行 l P.123 13行 l P.125 6行 l P、127 8行 12行 8行 12行 8行 5行 P、217 P、217 P.216 P、216 P.215 P、218 P.217 4行 I P、217 14行 l P、216 13行 I P.217 9行 l P,216 8行 l P.217 5行 l P.219 3行 13行 I P.218 I 12行 8行 12行 7行 3行 4行 P.2265 P.22621P.22631P.2265IP、2262 P.2266 2行 l P.2265 3行 4行 11行 12行 l l l l l l l P.2262IP、2263IP.2266IP.2263 5行 I P.2266 4行 2行 9行 6行 11行 11行 一 一 P.40 8行 l P、40 P、41 2行 I P、41 6行 P.40 14行 l P.41 2行 P、41 6行 l P.41 9行 14行 109丁 109丁 110丁 (”)配列・その内容までもが全同であるということである。今、全同といったが、異なる個所が一点ある。それは9の
ノ二
﹁永尊の状﹂にである。すなわち、﹁安国論私抄﹂が﹁抑人人判談之詞大旨風聞候、御筆之書遙勝二擢邪輪師蝿鋤慈筆 ノハノ︵覗叫︶ 体義理整足殊勝之由人人申候、又自見給也、○又此十一日念義云法然房所造撰誇法書也﹂と本文省略の符号の﹁○﹂ ︵銘︶ 印を付すのに対し、﹃金綱集﹄は省略される一四九文字を漏れなく収録しているということである。かかる事実から ノ 察するに、日朝はこの項を立てるに当って、身延山蔵の﹃金綱集﹄を当然閲覧し、それを踏まえて﹁念仏者追放事﹂ という一項を設けたものと思われるが、如何なる理由に基づくものか、﹁金綱集二云ク﹂とせず、﹁或記二云ク﹂と 弱︶ しているのである。とすると、日朝は他の念仏者追放関係の典籍を閲読したものであろうか。﹁安国論私抄﹂を検討 ︵ 側 ︶ した範囲内の典籍引用例からいえば、﹁或記云﹂とせず﹁金綱集云﹂とするのが妥当なように思われる。 以上極めて平板な論となってしまったが、〆くくりとして拙論の要点を述べるならば、 ⑧日朝が﹃御書見聞﹄をはじめとする尼大な書物を著わすに至った気力の根源の最第一は、報恩と思われる。つま り日朝は、ものを書くという書写力によって報恩に準えられた、と考えられるのである。 ⑪日朝は充分に吟味された経論釈等を援引して、注釈を施しており、かつまた、その資料の豊富さには驚嘆させら ある。 れるところである。 ⑥日朝は﹃立正安国論﹄広本を建治の再治本と称し、当時流布していた略本草稿本説に、疑問を抱いていたようで 朝師御書見聞の一考察︵中條︶画むすび
(3I)側日朝は﹁或記﹂と︲ がその出典と思われる。 などを挙げることができよう。 へへへへ 15141312 ー耳曹嘗 へへへへへ 7 65 4 3 ーーーゼー へへ 2 1 ー曹 へへへへ 111098 ー嘗一嘗 執行海秀氏﹃日蓮宗教学史﹄︵三’八︶、﹃日蓮教団全史﹄︵一三五’三○○︶を参照されたい。 日朝の伝記については、﹃本化別頭仏祖統紀﹄︵二九七’三○○︶、﹃身延山史﹄︵六二’八四︶、﹁日朝上人略伝﹂︵宗 全一五巻一’四︶、室住一妙氏﹃行学院日朝上人﹄、﹃日蓮教団全史﹄︵三○六’三一○︶、﹃日蓮辞典﹄︵一二○’一二 一︶、﹃日蓮宗事典﹄︵六七七’六七八︶を参照されたい。 宗全一五巻の﹁例言﹂︵一︶を参照されたい。 執行海秀氏前掲箸︵八五︶、望月歓厚氏﹃日蓮宗学説史﹄︵二五’二六︶を参照されたい。 一般には﹃御番見聞﹄と称されているが、身延文庫においては﹃補施集﹄と題されている。 田村完誓氏﹁身延文庫所蔵の中古天台口伝文献について﹂︵六四三’六五八﹃イソド思想と仏教︶を参照されたい。 安国日講は﹃御書見聞﹄を﹃朝抄﹄と称している。例えば﹃録内啓蕊﹄巻一’三︵﹃立正安国論﹄︶を見ると﹁朝抄云﹂と する箇所が五十一点にも及ぶ。 宗全一五巻の﹁例言﹂︵一’六︶を参照されたい。 宗全は﹁開目抄私見聞﹂に追加本︵正本身延︶の存在を示しているが、身延文庫には見当たらない。 上田本昌氏﹃日蓮聖人における法華仏教の展開﹄︵三一二’三一八︶を参照されたい。 ﹃録内啓蒙﹄は﹁本尊抄私記﹂をしばしば﹁別本朝抄﹂として引用している。一例を示せば﹃啓蒙﹄巻十六︵一九八九・一 九九八・二○七二︶のごとくである。 江利山義顕氏﹁身延文庫蔵本・行学朝師奥密集﹂︵﹃棲神﹄一五・一六・一七︶を参照されたい。 ﹃日蓮宗事典﹄︵九九︶を参照されたい。 ″十五巻二二一 宗全十六巻一○二 ほ﹁或記﹂として、﹁念仏者追放宣旨﹂九篇を掲げているが、その配列・省略の仕方等から見て、﹃金綱集﹄ 朝師御書見聞の一考察︵中條︶ (32)
へハヘヘ 19181716 ー曹曹一 へグヘヘグヘヘヘ/へ/へ/ 、へ/■、ダム、へ/画、へ〆、へ 3635343332313029282726252483223120 ー曹一、一ノーー、=ノーーゼ、=ノ四、‐ノー嘗一、=ノ 宗全十五巻一
〃参一四九’一五○
〃参一匹九
遂一原典に当たって対照を試みたが、取意ではなかろうかと考えられるもの。詮索不可能と思われるもの。等を残念ながら 一部残し、現時点未確認のものがある。 宗全十五巻八六 大正蔵経四七巻一三︵下︶ ﹃安国論御勘由来﹄︵定遺四二二︶ ﹃安国論奥書﹄︵定遺四四二’四四三︶ 定遮二○九の脚注を参照されたい。 略本・広本・再治本とは後世の人の称するところで、宗祖は何もいわれてはいない。 定遺二七四○ 宗全二巻一二二 ヶ一五巻三一 多一五平壱三″〃一八七
拙稿﹁立正安 宗全一五巻四 巻下二〃〃〃
前掲拙稿︵一○五の注皿︶を参照されたい。 立正大学図番館蔵︵写本︶。なお日全の略歴については宮崎英修氏﹃不受不施派の源流と展開﹄︵四一’四二︶を、教学に ついては渡辺宝陽氏﹁日全の教学叙述﹂︵一三九’一四五﹃中山法華経寺誌﹄︶を、また﹃全綱集﹄と﹃法華問答正義抄﹄ との関連については浅井円道氏﹁金綱集と法華問答正義抄﹂︵四六’六六﹃大崎学報﹄一三五︶を参照されたい。 朝師御書見聞の一考察︵中條︶ 拙稿﹁立正安国論の略本と広本について﹂︵六七’一○八﹃棲神﹄五一︶を参照されたい。〃〃二五
〃〃四
(33)付記 なお﹃昭和定本日蓮聖人遺文﹄は定遣﹃日蓮宗を学全書﹄は宗全、﹃大正新脩大蔵経﹄は大正蔵経、とそれぞれ略称した。 へ 40 誉 へへへ 393837 ー曹一 ﹁安国論私抄﹂中には﹁蒙古詞事﹂︵宗全十五巻一七’一八︶という一項が設けられてある。昨年の十一月芹沢泰学氏︵静岡 県三島市在住︶のご好意により、日朝が記すところの蒙古の言葉を東京外大︵モンゴル語科︶で見ていただいたところ、仙高 麗朝の朝鮮語だと思われる。側おそらく、朝鮮人が徴用されてモンゴル兵となったものであろう◎とのご返事をいただいた。 宮崎英修氏前掲著︵四一︶を参照されたい。 宮崎英修先生から﹁日法筆の重心仏者追放宣状事﹄︵岡宮光長寺蔵︶があるが、日朝はそれを見たとは考えられないか。﹂ とのご教示をいただいた。いずれ機会を得て拝し、検討を試承たい。 ﹁安国論私抄﹂中には、﹁金網集云﹂というような引用例は見られない。 宗全十五巻一二五 朝師御醤見聞の一考察︵中條︶ (34)
わが日蓮教団では、﹁誓願と霊性﹂という論題名は余り見ることがないであろう。その理由は、宗教性の特異な概 念としての﹁霊性﹂という語が、キリスト教的用語であり、我国の宗教界では、曹洞・臨済禅に於て比較的抵抗なく 用いられている程度であって、わが教団内で使用するときには、抵抗を覚える以上に、奇異に感ずるであろう。 我国に於て﹁霊性﹂の問題について、始めて学問的成果をあげたのは、鐸湖滝拠蝿轄あ苑ここで、博士の著書 ﹃日本的霊性﹄の所論を参照し、筆者の理解を加味して、﹁霊性﹂の意味を少しく紹介しておきたい。 ﹁精神﹂と﹁霊性﹂に当るヨーロッ・︿語、たとえばドイツ語では、共に国①閉︵瀞冒﹂と同じ綴りで日常用いられ ている。然し、学的用語に厳密性と意味を求めるドイツでは、別に﹁霊性﹂に当る語として﹁島のの詳農呂雨昼を用 い、その宗教的色彩を強調しており、単に日常会話で﹁ガイスト﹂︵精神︶と使用する場合と一線を画している。 誓願と霊性︵町田︶