飯田女子短期大学紀要 第
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間 接 伝 達 論 的 論 理 学
第 2 部 ・ 注 釈 部 ( そ の 6 )
清 水 茂
雄
Die mittelbare-mitteilungstheoretische Logik
Zweiter Teil・Anmerkungen <6>
Shigeo SHIMIZU
Zusammenfassung:IchwillindieserAbhandlungeinigeGedichteYonHolderlin er亡)rtern.Aberich habekeinlnteressedaran,HeilderlinsGedichteauszulegen. DieEr(汁terungderGedichtevollziehtsi°h,damitdarindasmagischeWor上der Vorbereitungsi°hselbstsagt.
DasmagischeWortderVorbereitungmeintnichtdasZauberkunstharte,Sondern isteineTerminologieftlrLogik(genaudiegeschichtlicheLogik).Indervorigen Abhandlunghabeichgezeigt,daL3HeideggersDenkenwesentlichTautologieist. Aber、habeichnichtgezeigt,warum dieTautologlemOglichist.DarhermOchte
ich hierdieQuelleder MOglichkeit suchen,indem ich H61derlins Gedichte er亡irternd das magischeWortder Vorbereitung darin finde und zelge.Die MOglichkeitderTautologie,die nur be主der Philosophie Heideggers einzig entsprlngt,kann erstdaringefunden werden,Wo MeiglichkeitalsMoglichkeit von Shingon deriniertwird.Dieses Definieren des Shingons entspricht den magischen WortderVorbereitung.HeideggersDenken beziehtsi°h wesentlich aufHeilderlinsDichtung.
Keywords:Holderlin(ヘル ダー リン),dasmagischeWortderVorbereitung(用意 の秘術語),Heidegger(- イデガー)
は じ め に
この論文 は 「間接伝達論的論理学」の第2 部である注釈部のための一連の論文の第6報 である.注釈の形式は第5
報 までの もの と同 じである.最初の番号 は 「注釈部 ・その 1」 か らの通 し番号,続 くか っこ内には注釈個所 のページと行,その下のイタ リック表記 の文 が注釈 される対象である.3
4.(
P.
2
4
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行) rこの r屑意J
はあ くまで ∩論理学J
_上の r論理学軌
術語であることは注意 されね ば な らない」
ここで指摘 されている注意 は理解す る (計 算的思考 にとって も,更 には,かな り訓練 さ れた哲学的思考にとってす らも) のが極めて 困難なことが らへ と注目するようにとい う注 意であり,奥の深い豊かな内実を蔵 している ので, ここで詳 しく注釈を加 えたい.2
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年4
月2
7
日受理●● 我々が 「論理学」 と言 っているものは従来 的によ く知 られているよ うな思考の法則を思 考するような種類の論理学で はないことは, 読者にはもうおわか りのことと思われるが, しか し,そういう仕方の規定ではなん ら積極●● 的なものが見えて こない.しか し, この我 々 の 「論理学」 の積極的な規定をす る前 にある 困難な了解が必要 になる.それはここでたと えば 「用意」 ということを視野に入れること が可能 になった思惟が経験す るような困難な ことなのである.我 々はここで直面す るこの 困難なことを理解 しやす く説明することを最 ●● 初か ら放棄す る. なぜな ら,我々がここに直 面 していることは 「理解する」 というような 思考の仕方 (厳密に言 うな ら
,
「私が理解する」
という思考様式) には全 く受 け入れがたいこ とだか らである.そこで, この 「用意」 と言 われることが起 こっている理解不可能な境界 へ,ドイツの詩人,ヘルダー リンのい くつか の詩を解釈す るという道を歩んで近づ くこと を試み, これによって 「困難 な了解」への見 通 しが開かれ るように したい.その際,- イ デガ∼のヘルダー リン解釈がその道の唯一の 道標になるのであ り,我 々は,その道標 の指●● 示する方向に,我々の目的地を見出す ことが で きるのである.この長 い注釈か ら, あ る驚 くべ き思索 (と詩作)の境 位 を この我 々 の 「論理学」が,そ して- イデガーのEr
e
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の思索 とヘルダー リンの詩作が開いているの だ ということが明か され るであろう.この注 釈を最後 まで忍耐強 く精読 した人には,この 解 き明か しが,個人の思 いっ さなどではなく, - イデガーが見抜いたように,歴史的な,蛋 大 なことであることが見えて くることであろう.
最初に. ここで 「用意」 と言われているこ の語が 「論理学的」術語であるということを, 全 く諸々の配慮抜 きで端的に解 き明か したい. この語,
「用意」 は秘術語で あ るとい うこ とである.秘術語の固有性 はそれが 「一義性」
を もっているという点 にある. しか し, ここ で 「一義性」 という語その ものが実は秘術語 なのである.そこで,それではなにも明 らか にな らないではないか,ひとつの閉ざされた 世界でいわば自己満足 しているだけではない かと捉え られそ うであるが,言葉の最 も厳密 な意味で確かにこうした開示の仕方は 「閉ざ されている」
.
しか し, ここで 「閉 ざす」 と いうことは,その ものの他 な る ものに対 して 自己を閉ざして しま うとい うことで はな く, 自己の本来固有 な ものが,
「閉 ざす」 とい う 仕方で 「明かす」 ということなのである. こ のよ うな意味の 「閉ざす」解 き明か しこそが 最 も深い意味での 「自己を明かす」 というこ とである. ここで自己は本来の 「自己満足」
を獲得す る. しか し, このように して本来の 「自己満足」 になっていることは, 自己を本 来的に明かす ものが明かされているというこ とであり,いわゆる自我, または 「私」 はむ しろ深 く 「断念」 しているのである.つまり, ここでは後出する真言がひめやかに言 うのを 断念 した自己がただ 「聞いている」のである. このようになっているとき, はじめて本来的 な 「自己満足」が実現 している.そして. こ のよ うにな っているところで よ うや くかの 「秘術語」が解 き明かされるのである. このような 「秘術語」が語 られているとこ ろ,つまり,秘術語の発言が聞 き取 られてい る境界,はハイデガーがよ く使 う言葉 で言 う ならば,接合(
Fu
gu
n
g)
ということが認 め ら れる. ドイツ語のFu
ge
(つなぎ目)はギ リシ ア語 の-ルモニアに対応 しているが,秘術語 もまた真言に対 してひめやかな接合構造をもっ ている. この接合構造の可能空間がやがて解 き明かされなければな らない 「国家」(厳密 にはクこと名づけられるべ きであるが今はこ の名称を使用する)である. というの も, こ こでようや く一義的に支配 と被支配 との構造 の起 源が解 き明か されていたか らである. 「ようや く解 き明かされて いた」 とい う奇妙 ー2-飯田女子短期大学紀要 第18集(2001) な言 い方 は時間性が ここに兄いだされること を表現 している.すなわち, これか ら未来に 起 こることはすでに有 ったことなのである. 時間の起源 と同時的に国家 もまた呼 び出され て くるのであり (古事記の 「つ ぎにクニわか くあぶ らのごとくして,くらげなす ただ よえ るとき」の記述の前後 の文脈 を参照),国家 と歴史 との同根源性が こ-こに見出されるので ある. 「用意」 はこのような接合構造を組み立て ている秘術語であり,誤解 され ることを承知 で言 うな ら,このような秘術語が発言 され る●●●●●●● とい うことは,この発言の中に 「用意の女神」 が現れるということを意味するのである.ミュ トスの境界は 「この発言の中に」存立で きる のであり,人間の空想 とか想像の中に存在す ることは出来ない.実証科学的なものの見方 しか出来ない知性には,このような境界 の こ のような 「有 り方」 その ものがまった く不可 解な ものとなる.実証科学的に見れ ば, ミュ トスとはまさに 「おとぎばなし」である. し か し
,
「用意 の女神」 とい う名称 は,す こし 考えると,我々にある隠された真相への通路 を指示 しているのである.なぜなら,
「用意」
とい うの は一般 的 な抽 象概念 で あ るの に, 「女神」が意味するのはあ る神 的な もの に し て個人, ない しは個であるか らである. これ は,たとえば,「正義の女神,デ ィケ -」 とい う場合 も同様である.個 は普遍性を もつ, と は物事をよく思考 したことがある人 には理解 できることである. しか し,普遍がそのまま 個であるということは思考にはひとっのつま ず きである.たとえば,神 とい うよ うな普遍 者が現実的な個人 としてそこに歩いていると いうことを想像することは出来 るか もしれな●●●● いが,思考することは困難である.青 とい う●● 色はこの青であり,人間 という普遍概念 もこ の人問になる,それ故,普遍 は個にな るで は ないかと考えるな ら,我 々は,
「女神」 とい う名称のそばを通過 して しまうことにな る. 通過せずに立ち止まる注視の中に,「用意」の 「女神」と言 われなければな らなか った理 由 がようや く見えて くるのである.この理 由が 分か もとき, そこi=はじめて一義的に 「用意」 と言 われて, 自己を閉ざす とい う仕方で本来 的に 「明か しているもの」が関顕す るのであ る. 「用意の女神」 とは, それ故,
「用意」 と いうことがある神的な様相で言われ,かつ個 的に自らを開田するとい うことを述べている のである.一体,我 々は, た とえば,
「風が 吹 く」 ということを風の神 として経験 したこ とがあるであろうか.風を我々はどのよ うに 経験 しているのであろうか.冬か ら春 になる とき,寒風の中にも春の気を感ずるとき,我々 は風を経験 しているといえようか.北風に我々 は人生の抵抗感を重ね合わせるとい うことも あろ う.風をエネルギー源 として捉えること もあろう. あるいは,風 とは空気の移動であ り,気圧の差が原因です と科学的に説明す る こともあろう.あるいは芭蕉の よ うに,
「松 風や軒をめ ぐりて秋暮れぬ」 と風 と人間 との 深い連関を詩的に開示す ることもまたあろう. あるいは禅の問答のように,風が動 くのか旗 が動 くのかそれとも心が動 くのか といったよ り概念的な問いに気づ く場合 もあろう. しか し,誰 も風の神 については通 り過 ぎてい くの である.誰 も風の神 とい う奇妙な言 い方 に立 ち止 まることができない.風が神的にとらえ られ,かつ個 として捉え られるようになる, ある驚 くべ き思索の境界への入 り口に立 ち止 まることがなかなか出来 ないのである.風の 中に風その ものが,風への入 り口が開かれて いるのに,そこを我 々人間 は通 り過 ぎて行 く のである.風が原初的に風の神 として言 われ ている所,そこが国家の有 るところであると いうこと, 風 の神 が言われて い る所 に国民 (クニタ ミ)の固有 な国土 が拓かれて い ると いうこと, こうしたことが思考 され る事 はほ とん ど有 り得ない ことなのであ る.「あめつ清水 :間接伝達論的論理学 ちはじめてひ らけ しとき
」
, 神 々が現 れ, そ して次 に 「くに」が原初の形で現れたという 古事記 の記録を,我々は不用意に も,未開人 の,科学的知識にまった く無知なやか らの幼 稚な自然認識 とみな して しまう.しか し,む しろ,未開人であるのはそのように幼稚 に し か この古事記の記録を読むことのできなくなっ て しまった我 々,現代人の方 なのである.「用 意」が 「用意の女神」 と して言 われて いる境 罪,つまり.用意が秘術語 として 「論理学」 の接合構造に組み入れ られているところ,そ こでは,古事記のその記録はある別の相貌を 呈することになり,なぜ,この記録が ミュ ト スとして発言 されているのかが明かされてい るのである. 「用意」は真言が言われるための準備の段 階,真言 の言われ る日の前夜であるが,我々 は, こう 「説明」 され るとただちに,
「用意 の女神」を素通 りして しまうのである.つま り,我々はまだ決 して用意が用意 として言わ れていることを知 らないのに,食事の用意 と いわれていることと全 く同次元に 「用意の女 神」を下落 させ, 自分たちの分かるよ うな低 次元村落へと女神を仲間 にいれて安心す るの である.風の神について もまた同様である. 女神たちは,人間たちのこうした引っ張 り込 みにたい して握手 はせずに正当にも足を出 し て応対する.握手 はただ人間が逆 に女 神 たち の住まう圏域 に引 き入れ られ ることで しか し て もらえないのであるが,人間たちは自分た ちのほうが女神たちよ り上位 にあると勘違い しているのである. あるいはこう考える人 もあろう.真言の前 夜 としての 「用意」 というのは,食事 の用意 というように使われる用意の概念をなにかあ る深い宗教的な体験内容の表現 として適用 し たので はないか..実際, キ リス ト教に もイエ スとの神的結婚 という言葉 もあり,それは宗 教的な神 との一体化を男女の結婚 とい うこと に重ね合わせて表現 した ものである, と. もしも, ここで我 々が言 お うとしている●● 「用意」 をそのように捉えるとしたなら,我々 が 「論理学」の秘術語 としてそれが考えられ ているといってきたことは根 こそぎ無効にさ れて しまうことになる.「用意 の秘術語」 は これによって一義的に 「用意」が定義 されて いるということであり, この定義 によって有 ることにな った 「用意」
,つ まり,
「用意の女 神」に基づいて初めて 「食事の用意」 という ような 「用意」の概念が使用されるのである. だか ら,我々がここで解 き明かそ うとしてい る 「用意」がそれより秩序的に後のものか ら 説明されるということは本末転倒 しているこ とになる. このことは風の神の場合 も同様で ある.我々は風が一義的に定義されていると ころ,つまり,風の神 と言われている境界か ら風の本質を考え るべ きなのに,本末転倒 さ せて,その定義に基づいて秩序的に後か ら出 て きた風の様態 とその構造か ら風の何である かを理解 しようとしているのである.近代人 は風を気圧か ら説明 して知 ったかぶ りの顔を す るのであるが,風 はこのような手合 いのそ ばをもう通 りすぎているのである.彼 は風の 神の風下 に立っ しかない者である. こうした 転倒に気づ くとい うことは困難なことである. なぜな ら,我々特 に近現代人には抜 きがたい●●●●● 思 いあが りがあるか らであ る.
「深 く断念す る」 ことで しか視界に入 って これない境界が あ り,それが必然的に ミチ トスという有 り方 になっているとい うこと,このことは,知識 を得,利用 し,不明なこと,謎 を解明 しよ う とする獲得的な知の態度 にはまった く不可解 ならとであるか らである. 「用意の秘術語」が発言 されている境界へ 赴 くために,ヘルダー リンという道 を取 り, -イデガ-のヘルダー リン解釈 という道標を 頼 りとするということは,ち ょうど神社の境 内に入 る前 に,手を洗い清めるよ うに,これ までの一切の獲得的な知を洗い清めることを 要求する.ほんのわずかの汚れ (覆 い)もこ-
4-飯田女子短期大学紀要 第18集(2001) の道 の導 くところで発言 されている言語の調 子を狂わす.-イデガーは rヘルダー リンの 詩作の解明」第
2
版の序文にヘルダー リンの 「コロンブス草稿」 の一節 を引用 して,彼の 詩の解明が どうあるべ きかを告げている.そ の引用された詩節は,我々の目的か ら見ても, 深意を蔵 している. 夕駒を告げて鳴 り響 く鐘 は, 雪 のよ うな些純な もののために 調子を狂わされた. (演田絢子氏訳) 「用意の秘術語」Jが言われている境界 は, 「雪のような些細な・もののために調子 を狂わ され る」・音 もな く草 の夕暮 れに雪 が降 る・I 夕的を告 げる鐘 は,I、この中で調子を狂 わ され るのである.人間の獲得的な知 もまた,音 も なく,ヘル ダー リマの詩作の道の先か ら聞 こ えて くるかすかな音の調子を狂わせ る.これ か ら,我々が進む蓮 は,しか し,このよ うな ことが可能な道であ り,調子 を狂わせ る雪 が 降るとい うことがようや く可能にな ったとい うことである.こうしたことが見えて きた と いうことその ものがすでに 「夕駒を告 げて鳴 る鐘」の音が出現 したということに他な らな い.-イデガーはこのような境界の論理学的 側面 をEreignisと名付けた. この境界の中で その論理学的側面 と隣 り合 って並ぶ同一の根 をもつ双樹の もう一方がヘルダー リンの詩作 のことが らである.「間接伝達論的論理学」 はその双樹の 「根」 に関わ っているのであり, 双樹 とと もに,
「雪 のよ うな些純 な もののた めに」調子を狂わされるのである. ハイデガーは若い頃か らヘルダー リンの詩 に親 しんでいた.そ して,フライブルク大学で 1934/35年の冬学期 と1941/42の冬学期,更 に1942年の夏学期の計3回にわたってヘルダー リンの讃歌の解明を行 っている.また,r
ヘル ダー リンの詩作の解明」と題する著作を公刊 している.この時期のハイデガーはいわゆる後 期哲学の形成時期であり,実際,彼の第2
の 主著 とされる r哲学への寄与 (Beitrageztlr Philosophie)J
(以下,
r
寄与Jlと略記す る)は この時期 に書かれている.それ故.我 々 は, r寄与」の中に,ヘルダー リンの詩 にお いて 詩作 されていることが思索 されて展開 されて いるのを看取することが出来 る.しか し, ヘ ルダー リン解釈は直ちに r寄与J の内容 と同 一 とみなすべ きではない.詩作 と思索 は緊密 な連関の中にありなが らしか し異 なるもので あるという基本的なハイデガーの考え方 はこ の場合 もまた維持 されている. -ルダー リンの詩に対す るハイデガーの立 場か らす る解釈はいわゆる客観的 に果た して 妥当するのか どうかという問題 は,本質 的な 問いへの道の入 り口を通過す るのに役立っだ けである.そのような問題提起 は,
「夕駒 を告 げて鳴 り響 く」鐘の調子を狂わす雪に もなっ●● ていない.我々はそのようなことには関 わ る ことはで きない. なぜなら,-イデガーがへ ルダー リンの詩作の中に見て取 ったことが ら●●●●●●●●●● は本質的に未来的なことであ り,彼 ら以 外の すべての人間 にとって将来することにな って いるか らである.客観性云々を問題視す る人 間はこのことがまった く見えていないのであ る.彼 らはある歴史的に重大な出来事 に立 ち 会 っているということがそ うした人間 には分 か らない.なぜな ら,
「間接伝達論 的論理学」 において 「用意の秘術語」が発言 されている 境界, ここがハイデガーの思索が思索 してい る内容に して空間なのであるか ら,その内部 で展開 されることはすべてが 「用意の秘術語」
の様相になっていなければな らない. しかる に. そのことはつまり,言葉が言糞の言 われ る言われを言 うということの最初の開門になっ ているということであ り,言葉がようや く伝 達手段 としその,精神の定有 としての誤解か ら脱出 して言葉の最 も固有な言わなければな●●●●●● らない言 (こと)を言 うことが可能になったということを意味す るか らである. このよう な時空が聞 き出されたということは歴史的な 重大事件であり, この時空 (「用意の秘術語」 の様相時空)のこの開かれを透明にして保存 することが-イデガー哲学の歴史的使命なの である.そ して, このような時空の霊気の中 でヘルダー リンの詩作の言葉 もまた生誕 して いるのである. この同 じ時空 に生 い茂 った言 葉同士が互いにうち解けあって対話 (後出の 「集言」)を交わ してい るその現場が- イデ ガ一によるヘルダー リン解釈の出来事である. もちろん,ハイデガー もヘルダー リンも自ら の思索 と詩作が 「用意の秘術語」 の発言の内 部様相になっていることを知 る由 もない.な ぜな ら,「用意の秘術語」 は,ただ,真言 との 関係 において しか言葉にな らないからである. しか し
,
「用意 の秘術語」 の発言 内部 の様相 時空 に留 まっていることで,両者 は唯一 的な●● 言が らを目撃 し,かつ,対話す る ことが可能●●●●●● になっているのである.このような 「可能性」
の開かれを-イデガー自身が 『寄与J)の中で 問 うているが,その問いの深 さは真に驚嘆す べきものである.なぜな ら,このよ うな 「可 能性」 は-イデガ-がか ってに創 り出 したも●●●●●●●●●● のではな く,すでに用意 されていたか らであ る.-イデガ一によるヘルダー リン解釈 が こ のような唯一性を固有性 に している時空を地 盤に してなされているということ. このこと がほん とうに了解 されている限 り,彼の解釈 が客観的に妥当するかどうか とい うことは全 くどうで もよいことになるのである.問題視 すべ きことは,ただ,かの時空で両者 が対話 を交わ してということを我々が了解で きてい るか否か ということである. -イデガーのヘルダ- リン解釈の地盤がか の時空であること,そ して. この地盤の上 に はじめて深い共同性 (つまり,対話すべ きこ との共有 とお互 いの理解)が出て くることを ハイデガーは以下のように語 っている. この 箇所は人間同士が本当の意味の共同性を確保 するということが,常識的見方 とは異 な り, お互 いが孤独になることで可能になるという ことを明 らかにしている.なお, この引用を 読む人は最高度の注意 の集中をもって読む必 要があり,それを促すために区切 って引用し, 合わせて解説を加えてお く. 「私たちは或 る全 く特定の (論理学)の長 い支配の もとに,本質 とは,全面的に (普遍 的な もの)であり,規則であ り,法則である と思惑す るの に慣 れて いる.1
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世寮己の諸々 の紛糾に属 していることで次のことが有 る. それ は,歴史の一度的な経過が歴史学 には対 象 として前 もって与え られているのではある が,歴史学は正 しい科学 になるために, ちょ うど数学や自然科学のように,普遍的な もの と法則を帯びるものを求 めなければな らない とい うことを人々が思惑 したとい うことであ る.全 くこのような方向性においてたとえば シュペンダラーは考え,すべての歴史の (形 態学) と く頬型学) は考えている.歴史的な 知ることの対象は個別化 されたものとしての 個で もなければ普遍的な ものでも規則で もな く,唯一的な もの としての個である.」
(Gesamtausgabe,Bd.39,S.227) 「歴史的な知 ること」か ら 「唯一的な もの としての」 という箇所で言われていることと その前の文章で言われている事柄 との間には 深淵が横たわ っている.「歴史的な知ること」 か ら始まる文章の言葉が生育する土地 は,突 如 として,かの 「用意の秘術語」の発言 され ている境界に変わ っているのである.それは 浜辺で釣 りを していたところか ら突然光 も届 かぬ深海へ潜水 したよ うなものである.この 断絶 に気づかぬ人 は,
「歴史的 な知 ること」 と 「唯一的な もの」 とい う二つの語の意味す ることをこれ らの前の文章の語 られている次 元 と同次元のこととみな し,或 る大事 な こと が語 られようとしているところを通過 して し まうことになるのである. このような不注意 によるうっか り通過をせずに立ち止 まる人に-6-飯田女子短期大学紀要 第18集(2001) は次に続 く引用が意味を持つようになる. 「唯一性 は偉大 な ものの本質であり, しか しまた,卑小 ならの, と頑落 した ものの非本 質である.」(ibid.S.227) ここで言われている 「偉大 なもの」 とは, 上記の比職を使 うな ら,深海の見物 とそれを 眺めている者 に対 して言 っているのであって, 我々が普段考 えているような,たとえば歴史 上の英雄のよ うな ものを言 っているのではな い.実際,ヘルダー リンは,- イデガーも言 及 しているように,生前 は家庭教師 も満足に できず この世の価値基準か らみれば最 も役 に 立たない種類の人間であ り, さらに人生の後 半を精神病者 として人のやっかいになって送 っ た,その意味では,いわゆる 「歴史的」 には 全 く取 るに足 らない人間ではあるが, しか し, 披 こそ ドイツ民族の歴史的使命を遂行する真 の意味での 「偉大 な人間」であったのである. いわゆる普通 の人間は実のところ,偉大な人 間がどうして 「偉大」であるかを全 く知るこ とがな く,その故 にこそ彼は普通の人なので ある.偉大 な人間 とは,「偉大 な もの」 に関 わっている者 のことである.ところが
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「偉大 なもの」 とは,この世的な尺度か ら計 るなら, まった く無視 されているものなのである.本 当の意味の 「偉大 さ」 はこの世的な偉大なこ とのち ょう ど正反対の方向に有 るのであり, そこでは人知 には知 られない或 る驚 くべきこ とが生起 しているのである. この驚 くべきこ とがつまり,
「唯一 的 な もの」 であ る. 引用 を続けよう. 「唯丁性 は歴史の本質の形態であ り,対象 性である.」(ibid.S.227) ハイデガーが 「歴史」 と言 うときには,我々 が年表を思 い浮かべて,歴史 というものをぼ んや りと表象するのとは全 く別のことを考え ているのである.彼が言 う 「歴史」 とは,か の 「用意の秘術語」が発言 されている境界の 内部様相を考えているのである.たとえば, 『寄与』の中でハイデガーはこう述べている. 「歴史 はSeynその もののWesenで ある. 歴史 はただ,世界 と大地の争_L、の根底 として の神々と人間の向かいの問の中に遊ぶ.歴史 はかの間が固有 に起 こること以外の何 もの至 らない.」(BeitragezurPhilosophie,S.479)ここで 「神々と人間の向かい」 と言われて いることが 「唯一的なこと」 であ る. 「用意 の秘術語」が発言 されている時,その発言 の 内容 はこの発言 とは別のなにかではな く,こ の発言 自身の発言す ることである.そ して, この発言が 「用意の秘術語」 とい う発言をす るのである.ここで,始めて,支配 と被支配 との関係が生成することになり,国家 が起 こ る.このような国家の可能性の中で人類 の歴 史 といった ものが歴史性を得ることがで きる よ うになるのである.どんな歴史的出来事 も すでに して国家の可能性の中で歴史的にな る ことがで きる.徳川家康 という人物が歴史 的 な性格を得 るには,国家概念を必要 に して い る.このような歴史の本質の 「対象性」 が唯 一性 とい う本性を もっているのである. 「唯一性を経験す ること,それを尋ね当て ることがその もの自身において知 るというこ との全 く唯一的な行状なのである.唯一的な ものの集 まることの様式, その世界性格, は 孤独であるということである.孤独であるこ とは閉 じこもるとか排斥す るということで は な く, いかなる共同体 もかって到達す ること もないかの根元的な統一性の中へ と出てい っ て耐え ることである.」(ibid.S.227) ここで 「唯一的な ものの集まること」 とい うのは,唯一的な ものがこの唯一的な ものの なかに集中することを意味 している.多 くの 個がひとつのところに集まるとい うように考 え ると, ここで言われていることが逸せ られ る.そ うではな く.唯一性 その ものが 「集 ま る」 という本性を もっているのである.そ こ で,ここに天 と地,神々と人間,それ らが唯 一性 というあ り方で集 まるのである.つまり, ここにはじめて世界 というものが開かれ るの
である.それゆえ, このよ うな 「集 まり」 は かつて いかな る共 同体 も達 した ことのない 「いっしょに」 とい うことにな る. この唯一 性 の集 まりが,我々に国家 とい うものの定義 がどこでなされているのかを知 らせているの である.それ故,ここか ら,この唯一性 の中 への集 まりが 「世界の性格」であり,孤独で あるということが判然 となるわけである. こ の集まりの中で我々は真の意味の孤独になる ことができるのであ り.同時にそこにすべて の人間が,神々が,国土が集 まるのである. 「集 まる」(ドイツ語 のge),それ は不思議 な ことだ ったのである.なぜな ら,ただ 「用意 の秘術語」の発言の様相内部時空に一義的に 「集 まる」 ということが生成 して いたか らで ある.「集まった」 ものは国家 に集 ま ったの であり,国家 はこの 「集まり」に他ならなかっ た.このような理に対 して理解の困難 を感ず る人は,次のようなことを熟考 してみるとよ いで あろう.我々が他者 と本当の意味での出 会 いをするのは自分 自身が自己の固有 なもの に自分で至 った場合であるとい うことを.孤 独であることは唯一的なものの集 まりに入 る ことなのであり,広が りと開放 と親密性を獲 得することである. しか し, ここで我々が うっか り通 り過 ぎて しまうことがあるのである.それは,こうし た唯一一性の集 まるところが 「知 るということ の唯一的な行状である」 と言われていること である.国土が拓かれ,人間が集 まる (「集 まる」 ことに集 まること) とい うことは 「知 ること」の中で知 られるのである.そ してな により, これが 「唯一的な」知 ることなので ある.ここに我々は,「論理学」の 「秘術語」と 言 っていることと唯一性 との深 いっなが りが -イデガーの思索のなかに見えてきているこ とを確認できるのである. 「用意」 の秘術語 が発言 されている境界は必然的 に唯一性の支 配領域であり, このことはハイデガーの思索 とは全 く無関係に 「間接伝達論的論理学」か ら明かされて くる.そ して, この 「用意の秘 術語」の発言の内部様相の論理学的側面が-イデガーの哲学の仕事場である.それ故 に彼 は
,
「唯一的な知 ること」 とい うことが らを 言葉 にす ることが可能なのである. しか し, 彼の哲学 の仕事場は,これまた必然的にヘル ダー リンの詩作の仕事場 に隣 り合 っていて, 両者が この内部様相を構成 しているのである. 彼等は自らこの時空を創設 したのではな く, この時空 は 「用意」 として時間 といった もの をここではじめて用意 していたのである.す なわち,用意 と して ここに 「これか ら」(未 莱) といったことがはじめて生起 したのであ る.しか し,-イデガーの哲学 はヘル ダー リ ンの詩作 とともに 「用意の秘術語」が発言 さ れている境界に生育する双樹になっているの ではあるが,「用意 の秘術語」 その ものの発 言をすることは出来ない.なぜな ら,この双 樹 は,「用意 の秘術語」 の発言 の内部様相時 空の様子 を語 ることで,「用意」 をなす とい う使命を遂行す ることになっていたか らであ る.従 って,そこは 「用意」の唯一的場面 で あることにな り,そのかぎり,そこには (用 意が整 って)「待つ」 とい うことが必然 にな る故, この領域 には本質的な 「耐える」 とい うことが らが言葉になって くるのである.上 記引用の最後に 「耐える」 ということが突然 言われるのであるが,それはけっして唐突 に 外部か らもたらされて付け加え られた内容で はな く,唯一性 とい うことと内面的に結びっ いているのである. 以上のように,-イデガーがへルダー リン の詩を解釈する際に両者が共通のところに有 っ て,互 いに言糞を交わ し有 っているというこ と,そ して,その共通のところとは 「唯一的 な もの」 という場面であり, しかも, ここで 「共通 の」 とは共通の思想 内容 とか共通 の休 験内容 とか共通の感情 とか という意味の 「共 通」 とはまった く異 なるものであり,唯一的 な 「集 まり」 に集まるという意味での 「孤独」
ー8-飯田女子短期大学紀要 第
1
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集(
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1) の境界を意味するとい うことが明 らかにな っ た. 唯一的なものの集 まりの中に 「我 々」という 言糞がはじめて発言 されるようにな る.Weは ここで一義 的 に定 義 され て い て,
「私 」 は 「我 々」 の起 こって いる様子 を眺め ることが できる.「用意の秘術語」 が発言 されて い る この境 界で 「我 々」(「私」 は,この境 界 で 「集 まる」か らで あ る,従 って ,この境 界の 向こうは 「我 々」 ではな くな っている)が定 義 されていて,
「共 に」 秘術語 の発 言 の内部 様相 を言組立 て (「こと くみ たて」 とは,言●●●●● 葉を使 ってあ る思想 とか芸術を創作す ること ●●● ●● ●●●● ではな く,言葉が 「我 々」を使 って 「用意」 の宴席を設 けることである) している.「我々」 とい う.ことが ここで定義 されているとい うこ とは言葉 にとって言葉が言われるために 「我々」 が定義 された とい うことである.つ ま り, こ こが最 も困難を極 めることなのだが,
「我々」 が定義 され,
「我 々」が原初 的 に有 るよ うに なっているこの唯一性の現場で,言葉が言葉 の固有な言わなければな らない言 (こと)を 言い得 るようにな るので あ る. そ こで ,この 「我 々」 のこのような発生現 場 での こ うした 驚 くべ き眺めをヘルダー リンも目撃 していて, 以下 のよ うに詩作 し, そ して,同 じ 「我々」 のひ とりである- イデガー もその-ル ダー リ ンの詩作 されたものを思索す るのである.両 者 は 「言葉」 をめ ぐって対話することになる. 多 く人間 は経験 した. 天上 の者たちの多 くを名付 けた, 我 々がひとつの集言 とな り,互 いについて 聞 くことが出来 るよ うにな って以来. (宥和す るものよ 第3
稿) ハイデガーは1
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3
8
年 の講義 の中で このヘル ダー リンの詩句を引用 して周到 な解釈 を施 し ている. その中で彼は次のよ うな言責 を語 っ ているのである. 「そ こで,発言 (上記 のヘル ダー リンの詩 の 「我 々がひ とつの集言 となり」という箇所) は言葉通 りに理解 されなければな らない.我々 の有 ること(Seyn)は集言 (Gesprach)と し て起 きるのである. つま り, こうい うことが 起 こるということの中に.それは,神々が我々 に語 りか け. 彼 らの語 りかけの下 に我 々を立 て,我 々を言葉へ ともた らす とい うことであ り, その際, その集言 は,我 々が有 るのか ど うか, どのよ うにあるか,我 々が どう答え る のか,つ まり,我 々が彼 らに我 々の有 を与 え ることを承諾す るか,それ とも拒絶す るか と い うものである.」(
S
7
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)
ここで 「集舌」と訳 された原語 のGesprach は, ドイツ語 の通常 の用法では会話 とか対話 とい うよ うな意味で あ るが, それで は,ここ でヘルダー リンが詩作 していること,並びに, その解釈 としての上記のハイデガーの思索 内 容 を理解す ることはとうてい出来ない.言 葉 がその固有 な ものを言い始めるこの現場,つ まり,
「用意 の秘術語」 が発言 され る境 界 の 内部様相時空 では,言葉 はただ独 りで言葉 の いわれを言 うので はな く, 唯一 的 な ものの 「集 ま り」 の場所 に限界付 け られて,Ge(集 まる)-Sprache(言葉) として, 互 いの言 葉 の語 り合 いにおいて語 りだ され るのであ る. もしも, この 「用意 の秘術語」 の更 に先 に言 葉が出てい くな らば (上 で言及 した よ うに, そ こで は 「我 々」 は言われな くなる),Geと い うことは無 くな って しまい,言葉 はひ とり ば っちで言葉 の純粋 な話 しをす るよ うにな る のである. それ故, このよ うな孤独を極 め る 独 り言 の準備 の時空 にな って い るこ こ,
「用 意 の秘術語」 が発言 され る境界では言葉 は言 葉 が言 うので はな く,言葉以外 の何者かが言 ●●●●● 葉 の ことを語 り 「合 う」 のであ る. ここに出 て きたその 「言葉以外の何者か」が 「我々」の 定義であ り,
「我々は一 つ のGesprach」 とな るのである.孤独な人間たちが冬の一夜. こ たっのまわ りに集 まって言葉 について話 し合うというようなこととはまった く異なること が目撃 されているのである.言葉が言葉 の奥 義を語 り出すために 「我 々」 なるものを定義 し呼び出 して,この定義 されて 「有る」(seyn) ようにな った 「我 々」 がGesprachと してか の言葉の奥義 の語 りに聞 き入 るのである. ち ちろん,奥義を語 るのは孤独を極めている言 葉 (真言)ではな く
,
「神 々」で あるが. 人間 はここにようや く親密な関係,つまり,
「我々」 となるのである.実 は我々が 日常,人 と話 し 合い,、会話 をす る ことがで きるの も, この 「集言」 において 「我々」が「Gesprach」であ るか らに他な らないのである.他者 と親密に な りたいと思 うの も 「我々」の定義がかの時 空 (ここがEg家の有 ることであったことに注 意するように)でなされているか らである. しか し,我々の日常 の会話 はまだ対話ではな く,いわんやけっして 「集言」 で はない.た
んなるお しゃべ りは親密 さを装 っているにす ぎないのではあるが,その中で も,「集言」 は 目立たずに支配 して い るのであ る.他者 とお しゃべ りをす ることでなにか親密になれた気 になるの も理 由があるのである.もちろん, お しゃべ りはただ自分がお しゃべ りを したに す ぎないので あ り,
「対話」 を少 しも経験 し ていない. さて, このような唯一的なものの 「集まり」 (厳密には,唯一的に 「集 まること」 におい て集 まって きた ものが集 まっていること)の 中で 「我 々」 は 「天上の者 たちの多 くを名付 けている」のであり, ここに人間は 「多 く経 験 した」 のである.「天上 の者 たち」 とはか の神々のことである. 風 の神, 雷の神,
「用 意 の女神」
,
「必然の女神」
,等々,多くの神々 が命名 されているのである (もちろん,ヘル ダー リンにとっては主 としてギ リシアの神々 である).それ はこの命名 とい うことが 「集 まる」 ということで可能 にな るか らであ る. 神 々はここに 「降 りて きて」「我々」に話 しか け,人間 は「登 ってきて」「我々」となって神々 に名を付けるのである. それ故,この 「集言」 がなされているところは人間 と神々が出会 う 場所にな っていて, ここではじめて言葉がそ の固有の話を し始めることが可能 になるので ある. この 「言葉の固有 な話」がヘルダー リ ンの詩作の中のできごとである. それ故に, ヘルダー リンの詩作の中で,かの唯一的なも のの集 まりもまた集 まってきているのである か ら,夫 と地,神々と人間,国土が起 こって いることになるのである.それは ドイツ語の 本来の役 目であ り, ドイ ツ民族 は,このよ う な 「用意の秘術語」 の発言の内部様相を語 る ことをその国家の歴史の目的にしているので ある. 以上のように,ヘルダー リンの詩 とそれを 解釈する-イデガ-の思索 との対話が 「間接 伝達論的論理学」 における 「用意」の場面で 起 きているということが示 されたので, ここ か ら或 る核心的なことが らが取 り出されるこ とになる. 上述 したように,言糞 はここではまだ独 り きりで言葉の話を しているわけではな く,言 葉以外の何者かが集 まって きて (weが定義 され る)言葉の ことを語 る,つまり,
「失言」 が起 きている. そこで, この場面では,語 る 者 は,言葉を対象に して言葉 について語ると ころの言葉 とは切 り離 されて独立 した者では な く,言葉 の固有なものを語 るその語 るもの がその当の言葉か らいわば呼び出され,ある いは,言葉の奥か ら産み出されて言葉のその 奥所を語 るとい うようなまことに不可思議な ことにな っている.言葉 はまだ 「言葉が」 語 ることになっていないので,言葉を語 る者 は 言葉か ら呼び出されて,言葉 を語 る(厳密 に は,言葉について語 る) のであ る. この呼 び 出されて くるのは言葉のほうから生 まれて く るのである. しか し, このように して言葉か●●●●●●● ら呼び出されて真言 に代わって言葉の固有な 話をするということは, もはや純粋に真言そ の ものの話ではな くなっているということに-1
0-飯田女子短期大学紀要 第18集(2001) なる.つまり
,
「用意 の秘 術語」 が発言 され るということは言葉の話に耳を傾け,言語の 奥所に向けて 「尋ねる」 ということになる. 「集 まる」 ということに集 ま った 「我 々」 な るものが.そ して, こうして言柔の奥所 に向 けて聞 き,尋ね行 く者が当の尋ね求め られ る 言柔のほうか ら定義 されている (集 まった) ことにな り,語 る者が語 られるべきものか ら 語 られるということが起 きることになる.つ まりへルダー リンの詩作において当の詩人 自 身が,詩作されていることが らとしての言葉 の奥所か ら言葉にされてその詩作の中に詩作 されるという奇妙な事態が必然的に起 こるこ とになる.ハイデガーはここのことを把握 し て,端的にヘルダー リンを 「詩人の詩人」 と して特徴付けたのである.それは詩人 の中 の 最 もす ぐれた詩人 とい う意味ではな く,詩人 について詩作す る詩人 ということである.つ まり,ヘルダー リンの詩作の中に生起 してい ることが らは,
「用意 の秘術語」 の発言 の内●●●● 部様相である故 に必然的に詩作 されているも のが詩作する者,つまり,詩人を定義するよ うになっているのである. その詩の中で詩人 が定義 されるのである.
「詩人の詩人」 の詩 作の中に起 きているこのよ うな奇妙 な渦巻 き 構造が 「用意の秘術語」の発言 の内部様相時 空の固有の組み立てになっている.そ して, なにより, この渦巻 きを明か し, この渦巻 き を詩作の中に巻 き起 こす ことが ドイツ語に課 せ られた歴史的使命なのである.つまり,言 葉の奥義を語 る言葉の質はここでは ドイツ語 になっているのである. この場面の更 に奥処 を言 う言葉の質はもはや ドイツ語ではないか もしれない.-イデガ-は,ヘルダー リンの 詩作の本質をなす このような渦巻き構造を彼 の rゲルマーニエン.Iと題する讃歌の中に見 つけだ している.我々はこの渦巻き構造 を, それを最初に発見 したハイデガーの指摘に沿 いっつ も,別の視圏か ら見ていかな くてはな●● らない.なぜな ら,我 々は,
「用意の秘術語」 の発言 されている境界を問題に しているか ら である.「用意の秘術語」 の発言 の内部様相 は 「詩人の詩人」の詩作の中に必然的に生起 す る渦巻 きとして起 こるのではあるが, しか し,その様相の時空が 「用意」 という意味 を もつ境界であるということをこの渦巻 き構造 の言組立て は発言出来ないので あ る. 「用意 の秘術語」が発言 されている境界内部でかの 渦巻 きが必然的に発生 す るとい うことは,こ の 「用意」が用意す る本番 にな っては じめて 眺め られるのであり, このときには言葉 はも はや渦巻 きの底深 く脱底 してそれを抜 けきっ ている. しか し, この渦巻 きは用意の 「秘術 語」 にはな っているのであるか ら, この中で ある秘密が語 られ 奥義 (吉葉 の)が明かさ れているのである.それは 「川が流れる」 と いうことの奥義である.ヘルダー リンの rラ イ ン,)と題する讃歌の第4詩節の冒頭の部分 が このことを歌 っている. 純粋 に発源 した ものは,ひとっの謎である. 歌 もまたそれを開披 させ ることはほとんど 許 されない 「詩人の詩人」の詩作の中に巻 き起 こるか の渦巻 きと川の流れ (純粋 に山並み深 くか ら 発源 した川) とは奥義 として統一的な連関の 中にある.その統一性の基盤は 「用意 の秘術 語」が,その発言の内部様相の時空を言組立 て していることによって,同時 に秘術語 を語 り出 して もいるということにあるのである. すなわち,かの渦巻 きを巻 き起 こ し,また. ただこの渦巻 きの中でのみ,奥義が明か され るようにな っているのである.以下,我 々は かの渦巻 きを巻 き起 こしつつ, ドイツ民族 の 歴史的根元性を歌 った讃歌,r
ゲルマ一二エ ンJ と奥義 その ものを明か している河川讃歌, 『ライ ン」を解明 しなが ら,
「用意 の秘術語」 が発言 されている境界へと赴 きたい.すで に 述べたように,その際には,ハ イデガーの解駅 がそ こへ の道 の道標 とな る.しか し,- イ デガーの-ル ダー リン解釈 は単 なる道具 と し ての道標で はない ことはこれ まで論 じて きた ことか ら明 らかで あろ う.ヘル ダー リンと-イデガ-とはかの唯一 的な 「集 まること」 に 集 まった唯一的 なWeであ るか らで あ る.彼 らの 「我 々」 は
,
「集言」 にな って い るので あ る.我 々 もまた この 「集言」 に耳を傾 け る ことで,かのWeと して,「集 ま る」 へ 集 ま ら なければな らない. ヘル ダー リンの後期讃歌 を代表す る両作品 が,あ る根源的な関連性 を持 っている ことを - イデガー も気づ いて いた.た とえ ば,1
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4
2
年夏学期 に行 った講義 rヘルダー リンの讃歌 イスター」 の中で彼 は,次 のよ うな興 味深 い ことを述べて いる. 「これ らの流れ の讃 歌 は共 に,讃歌 rゲル マ-ニエ ンJ への根源的唯一 的関連 において あ るものであ る.
」 (創文社 ,- イデ ッガ ー全 集第5
3
巻,p.
2
4
1) ここで,
「これ らの流 れ の讃 歌」 とは,
r
ラ イ ンJ と rイス ター.Iとい う川 への讃歌 の こ とであ る.上 で論 じた よ うに,言葉 の奥義 は 「渦巻 き構造」 の発生 とと もに明 か され るの で あ り,その意味 で は,讃歌 rライ ン」 だ け を川 の讃歌 と して取 り上 げ るの は片手落 ちに は違 いない.しか し,
r
ライ ン』 の解明が進 む うちに明 らか に な るよ うに,そ こに は,
町イ ス ター止 よ りもむ しろ深 い内実 が詩作 されて ●● い る.我 々の 目的 にとって は,
r
ライ ンJlだ け で十分 であ ることが,理解 され るであろ う. rゲルマ 一 二 エ ンJ
(Ge
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)
は大 変 長 い讃歌であ るが, その全体がかの 「渦巻 き」 を起 こ してい るのであ るか ら, どうして も部 分的 に取 り出 して解明す るとい うことがで き ない. そこで,全 体を まず ここに載せ ること にす る.その前 に簡単 な予 備知識 を得てお く のが この詩 の理解 に役立つであろ う. ヘル ダー リンは1
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7
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年 ドイ ツの ネ ッカ ー ル川 の ほとりにあ るラウフェ ンとい う町 に生 まれ,1
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年 に亡 くな った.1
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年 ころか らすで に尋常 な精神状態 でな くな っていたへ ル ダー リンは,1
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年 に精神病科 のあ る大学 病院 に入院す る.そ して,1
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年 か ら指物 師 の ツ インマ-とい う人の一家 の厄介 にな りそ こで亡 くなるまで過 ご したのであ る.死後, ヘ リングラー トとい う人が中心 にな って彼の 全作品 を6巻本 と して世 に出 した.詩 の題の 「ゲルマ一二エ ン」 とは ローマ時 代 の ドイ ツ のEg名であ り. また, この詩 の中 に登場す る ゲルマ一二アは ドイツを象徴す る女神を意味 す る. なお,以降 この注釈 に載せ るヘル ダー リンの詩の 日本語への翻訳 は,故有 って, 他 の専門家の翻訳 を参照 しなが らも筆者が独 自 に行 った.底本 と したテキス トは, 「
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」で ある.原詩 の改行 の仕方 ,句読点 などは重要であ るが,日本語への翻訳 の際 に は忠実 に従 うことによ って意味不明 にな るお それが あるので,意味を明瞭 にす ることを主 眼 に して,それ らにはこだわ らない ことに し た.主 ち る解明の対象 とな ったへルダー リン の二つの讃歌 は,
「用意 の秘 術語」 の発言境 界の内部様相 を伝えてい るのであ るか ら,そ の様相が見えて くるよ うに翻訳 しなければな らない.しか し,この時空で 「集言」 して い るのは,ヘル ダー リンと- イデガ-の二 人 し かいない.しか も,彼 らはまだ この 「集言 」 の可能性が 「用意 の秘術語」 に根拠があ るこ とを発言す ることがで きないのである.それ ●● ゆえ,我 々の 目的,つ ま り,
「用意 の秘術語」 の発言 の境界 に赴 くとい う目的のために は,●●● あ る特異 な翻訳 を しなければtilらないとい う ことになる.この 「特異 な翻訳」 とは,ヘル ダー リンの詩作の ことが らの向 こうか らこの 詩 作を照 らす とい う仕方 の翻訳であ る.それ で は,牽強付会 その ものにな るで はないか と 思 う人があろ う.しか し,その人 は,
「用意 の 秘術語」の 「秘術語」 とい うことがよ く.分か っ-1
2
-ていないのである. 飯田女子短期大学紀要 第18集(2001) 人の聖 なる群 は, これ以上青い空の中でため らってはいないか らだ. ケリレマ一二エン Ⅰ 彼 ら.現れたことのある至福の者等,古 き国の神々の諾像たちを, もはや私 は呼ぶ こ とを許 されない. しか し,汝等故郷 の川 よ, 今,汝等 とともに心の愛が嘆 くとき,他 にな にを欲するとい うのか,聖 なる悼みをいだ く 者は. なぜなら,期待に満ちて土地 は横たわ り,そ して暑い日々に降 りて くるよ うに.汝 等憧れ る者 たちよ,予感 に満ちて一つの天が 私たちを陰で覆 うのだか ら. この天 はこれか ら起 こることに満ちていて,私 には脅か して いるように もみえる. けれども.私 はこの天 のもとにとどまろうと思 う.そ して,魂 は私 か ら逃れて汝等過 ぎ去 った ものたちに戻 って いくべ きではない.私には愛 しすぎる過ぎ去 っ たものたちよ. なぜな ら,かつてあ ったよう に,汝等の美 しい顔を見 ること,私 はそれを 怖れるか ら.亡 き者たちを目覚めさせるとい うことは命 の危険があることであり,またほ とん ど許 されざることなのだか ら. Ⅱ 逃れ去 った神々よ,汝等 は現在 して はい るが,当時 はもっと真実 に,汝等の時を もっ ていた.私 はここでは何物 も拒 まないし.何 物 も懇請 しない. なぜな ら,それが終わ って しまい,昼が消えた時には,おそらく最初に それは祭司に的中するだろうし,それで も愛 しっっ,神殿 と神像 とそ して祭司の しきたり は祭司に従 って暗い土地へ と付 き従 い,何 も のももう輝 くことはないであろ うか ら. ただ 埋葬の炎か らひとす じの金色の煙が立っよう に,言 い伝えが垂れ込め,今や私たち疑 う者 の頭のまわ りを謄脱 とおお う. そして如何な る者 も自らにどのようなことが起 こるのかを 知 ることはない.彼は,かつてあった者 たち の影を.地上を新たに訪れる古 き者 たちを感 じている. なぜなら,そこにや って来 る者た ちが私たちに押 し迫 って きていて, もはや神 Ⅲ それどころかすでに.まだ開墾 されてい ない時の前奏の中, その時のために育て られ た耕地 は緑な し,祭壇には供え物が用意 され ている.そ して,谷 と流れとは予言的な山々 をめ ぐって遠 く開ける.男子が東洋 にまで眺 めることがで き,そ こか ら諸変化が彼のここ ろを動かすほどに. しか し,天空の霊気か ら は信実な形象が下 ってきて,数えきれない神々 の呪文が雨降 り,最内奥の林苑の中で鳴 り響 く.そ して. イ ンダスか ら来たと思われ る鷲 が,雪 におおわれたパルナ ッソスの頂 きを越 え, イタリアの犠牲の丘高 く飛び,父のため に悦ば しい獲物を捜 し,かつてよりも飛期に おいて熟達 した年老 いた鷲 は,歓呼 しなが ら ついに, アルプスを越えて,千種の国々を見 る. IV その益女,神の最 も静かな娘,深 い単純 性のなかに沈黙を愛すること甚だ しい彼女, ある嵐が死の脅か しで もって彼女の頭上 に鳴 り響いたとき.彼女 はそれをまるで知 らない ように開いた眼で眺めていた,その彼女 を鷲 は捜すのだ. この娘 はあるより書 きものを予 感 していた.そ して,遂 に, ひとつの驚 きの 声が遠 く天上 に起 きた.-なるものは,彼女 自身のように,信ず ることに大いなるもので あり, また,恵みを贈 り,高みの力であるが 故に, それ故,彼 らは使いを送 ったのだ.使 いは,彼女をすばや く認めると,微笑みなが ら思 う.破壊 されない者,汝をある別の言糞 が試 さなければな らない.そ して, ゲルマー ニアを眺めつつ,その若い鷲 は声をあげて叫 ぶ
,
「汝 こそ,選ばれ,大 いな る慈 しみ を持 つ ものにして,重 き幸福を担えるほどに強 く なった者. Ⅴ 森の中に,花咲 く嬰粟の中に隠 され,甘きまどろみに満ちて,酔 って.汝 は私 に注意 しなかったあのかつての時以来,長い間,そ の間,まだなお誰 もこの乙女の誇 りを感ず る こともな く,汝がどこの素性でどこか ら来た のかにも驚 くこともな く,汝 自身 もまたそれ を知 らなかった.私 は汝を見壬員なうことはな か った.そ して,内緒に,汝が夢見ている問 に,私は真昼に別れ,汝に口の花を残 した. そ して,汝は独 りで語 っていた. しか し, こ の金色の言葉の充溢を.汝 はまた.至福なる 者 よ,流れと共に送 ったのであり,それ らは そのまわ りの土地全体に湧 き出ている, なぜ な ら,聖 なる汝の母であり,万物の母 は,常 に●は,人間か ら,隠れた ものと名付け られて いる様に,汝 は愛 と苦悩.そ して,予感 と胸 の平和で満ちているか らである. Ⅵ おお,朝の風を飲み,汝 はついに開かれ る. そ して,汝の眼の前の ものを名付 けよ. もはやこれ以上,秘密 は語 られぬままにな っ ていることは許 されない.秘密 は長 く覆われ ていたのだか ら. なぜな ら,死すべき者たち には内気がふ さわ しく,そ して,神について もまた多 くの場合, そのよ うに語 ることは貿 明だか ら. しか し,混 じりけのない泉 よりも より一層,金が溢れ出てきて,天 における怒 りが真剣になった処,昼 と夜の間に, いっか 一つの真なるものが現れなければならない. 汝 はそれを三重 に言いかえよ. しか しまた, 無垢なる者よ,その真なるものは,現 にある ままに語 られずに留 まらなければならない. Ⅶ おお,汝,聖 なる大地の娘よ,さあ,母 を名付けよ.水の流れは岩 にざわめき,森の 中では嵐がざわめき,そ して,かの母 の名前 の もとに,古 き時か ら,過 ぎ去 った神 々が再 び響 きわたる. どれほど事態 は異 なっている ことだろう.未来的な もの もまた遠 くか ら喜 ば しくひたす ら輝 き,語 る. だが,時の中央に,捧げ られた処女のような 大地 と共 に天の霊気は静かに生 き,そ して, 想起へ向けて,彼 ら欠乏 していないものたち は欠乏 していない者たちの もとによろこんで 親 しみ迎え合 う. 汝の祝いの日々に,ゲルマ一二ア.そこで汝 は益女であ り,そ して,周 りの王たちと諸民 族 に武器を帯びず忠言を与える. さて, この讃歌の中で詩作 されていること は自然で も,感情で も,人生でも,思想でも, 歴史的叙事詩的 な もので もない. ここには 「用意の秘術語」が発言 されている境 界の内 部様相がどのような語 り方で語 られているか が詩作 されている.すなわち,かの 「渦巻き」 が この讃歌の中に引き起 こされているのであ る.この構造をとってかの時空が生成 し,磨 史的な国家が原始的に建立 されているのであ る.その国家が ドイツの古 き国名ゲルマ一二 エ ンである.このような時空の創設が ドイツ 語の為すべ き固有なことであ り,それ故, ド イツ民族の歴史的使命の成就がこの讃歌の中 で行われているのである.本来の歴史 的国家 (ゲノレマーニエ ン)を創設 してい るかの時空 に構造的に起 きている 「渦巻 き」 とは,上述 したように,語 る者が語 られ るものか ら語 ら れ るというおよそ信 じがたい出来事である. 以下,我々は,この 「渦巻 き」が上記 の讃歌 の中でどのように言い表されているかを示さ なければな らない. とりあえず,我 々は,この讃歌 の中で語 っ ている者 は誰か ということに注目 しよう. まず, この詩の第1詩節 と第2詩節の始め は 「私」が語 っている.「古 き国 の神 々の諸 像たちを,もはや私 は呼ぶ ことを許 されない」 か ら始 まって
,
「私 はここで は何物 も拒 まな い」 まで.続いて,
「今や私 たち疑 う者 の頭 のまわ りを膜臓 とおお う」 か ら,語 る者 は 「私たち」 にな り,第3
詩節か らは,
「男子」 が主人公になる. この 「男子」の視界に-羽 の大賀がインダスのかたより飛んで くるのが-1
4-飯 田女子短期大学紀要 第
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集(
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1) 見える.大背 は 「神の最 も静かな娘」である ゲルマ一二了に向か って 「破壊 されない者 , 汝をある別の言葉が試 さなければな らない」 か ら始 まる長いお告げを語 る. ここで聞いて いるのはゲルマ一二アで はあるが. 同時 に 「男子」 もまたこの両者 の問 の語 りを聞 いて いて,我々が聞けるように して くれている. それ故, この詩の中で語 る者 は次のように 変わる.1
,私 2,私たち■3
,男子 実際は男子の視界の中で語 る鷲 この語 る者の変化 は,単に同 じ景色を次 々 と 人が変わ って見 る■と見 られた もの も変わると いうような ものではない. 「私」 が語 る者 と して語 り出す ことが らは 「逃れ去 った神々」
,
ここではギ リシアの神々が もはや手 に届かな くなってい るとい うことである. そ して, 「私たち」は,
「そこにや って来 る者 たちが私 たちに押 し迫 って きていて」 と言われている ようにある予感を感 じている.そ して,第3 に鷲が語 るのは奥義 (秘密)についてであり, ゲルマーニアに 「現にあるままに語 られずに 留まらなければな らない」 と言いF111かせるの である.ハイデガーの指摘 に従えば,
「男子」 とは詩人の ことである.ち ょうど出世魚のぶ りが,つばす,はまち,め じろ,ぶ りとい う ように名前をかえてその成長の段階を経 るよ うに, ここで も 「私」
,
「私 たち」
.
「詩人 で あ る男子」 というように人間が名前を変えて出 世する,つ まり,世か ら出て行 くのである. しか し,世か ら出るとは苦行僧のように世を 捨てることではな く,民族の創造的原初 に出 世 してい くということ,真の歴史的時空 へ と 出て行 くことである.つまり,唯一的な 「集 まること」へ集 まるということである.ハイ デガーはこのような集 まりのことをヘルダー リンの言葉を用いて,
「時の頂」 と呼んで い る.礼,私たち,男子 という変化はこの 「時 の頂」への人間 という出世魚の呼び名の変化 なのである. なお,ハイデガーは全集第3
9
巻,
r
ヘルダー リンの讃歌<ゲルマ一二エン> と< ライン>』
の中で 「男子」の■いわば背後で 「鷺 と乙女」 の出来事が起 きていると解 している (S.115). それ とい うの も,
「私たち」
,
「男子」の待ち こ がれ と展望の先に期待 していた ものが現れる とい うことで はないか らで あ る. む しろ, 「時の頂」への人間の出世 とは時 の根元 へ と 後 ろ向 きに前進することであるか らである. さて,詩人,つまり.男子 は,鷲が 「神の 最 も静かな娘」
,
「沈黙を愛す ることはなはだ しい」丞女 に語 ることを眺めている.人間存 在 の出世魚の最高段階,
「男子」 は, 詩 人で あ り,詩作することを固有の仕事 に している が,それは家を建てるとか,小説を創作す る とか,独 自な言葉の世界を創造す るとい うよ うないわゆる創造的営為ではな く,鷲が沈黙 す る丞女 に語 ることを聞 くことなのである. この場面,つまり,鷲が沈黙す る 「神の最 も 静かな娘」 に語 っている場面を開 くのは詩人 (厳密には,詩人の詩人)である.「詩人 の詩 人」だけの固有な仕事 は,詩作の中に この場 面 を顕開 させることである.そ して,詩 人 は この場面で取 り交わされる言葉 を聞いて語 り 伝えるわけであるが, その取 り交わ され る言 葉 は,言葉 についての言葉なのである. そ し て, この言葉についての言葉を直接聞 くのは 詩人 というより,ゲルマ-ニ7,つ まり, ド イツの民族の存在理由を打 ち立 てている女神 であり,
「神の最 も静 かな娘 ,深 い単純性 の なかに沈黙を愛す ることはなはだ しき」者で ある. このような条件下に,
「用意 の秘術語」 が発言 されている境界の内部様相が語 られる ●●●●● のである.真言 はここではまだ真言 としては ● 言 われて いない. ただ, そ の準 備 の時 に, 「用意の秘術語」が発言 され るので あ る. 時 ● はようや く時になる.この時 に,鷲 が東方 か らアルプスを越えてや って来て, ドイツ語の 原初の発生現場で詩人の詩人を呼びだ し,この 「用意」の場面を開 き, この時空において 言糞 は言糞の固有な ものを語 りだす,すなわ ち,言葉 は 「言葉 について」語 る. ところで, ここで重要な役割を漬ず る鷲 と は何を意味するのであろうか.-イデガ一に よれば.鷲 とは 「神の使い」の ことである. 実際,.この讃歌 の中で も