椙山女学園大学
津阪東陽『杜律詳解』訳注稿(3)
著者
二宮 俊博
雑誌名
椙山女学園大学文化情報学部紀要
巻
2
ページ
137-166
発行年
2002
URL
http://id.nii.ac.jp/1454/00002415/
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津阪東陽
﹃
社
律
詳
解
﹄
本稿には、津阪東陽﹃杜律詳解﹄巻上の﹁臓日﹂詩から﹁曲江二 首﹂其こまでを収める。原文の﹁メ﹂は﹁シテ﹂に、﹁寸﹂は﹁コト﹂ に、﹁沌﹂は﹁トモ﹂にそれぞれ改めた。明らかに訓点が脱落してい ると思われる箇所には、これを補った。また詩句の左傍にところど ころ附されている和訓は、※をつけて改行して示した。書き下し文 は、紙幅の都合で省略する。なお、詩題の上には便宜的に通し番号 を施した。 *本稿は、平成十四年度椙山女学園大学学園研究費 ( C ) の 研 究 報 告 の 一 部 で あ る 。w
⋮ 臓 日 脚奉和買至舎人早朝大明宮 側宣政殿退朝晩出左披 側紫展殿退朝日号 即題省中院壁 仰曲江二首(其一) 仰曲江二首 ( 宜 三 一 )訳注稿
日
二
宮
俊
博
即臨日 ( 注 l ) ( 注 2 ) ' P 臓ハ歳終祭ノ名O
古 用 一 一 冬 至 ノ 後 第 三 成 之 日 ↓ 。 唐 朝 以 一 一 大 寒 後 辰 ノ 日 イ 矯レ開。漢奮f
-一目、服ハ者帯端鬼紳古聖賢有レ功一一於同一一貫也。覇 宗ノ至徳二載四月、公奔コ左拾遺一一。此是冬之作 J 拾遺ノ掌=供奉調諌 ↓。嘗守本朝侍従一云。己下四首、所-一以山市華づ也。 ( 注 1 ) ﹃ 説 文 解 字 ﹄ 四 篇 下 に ﹁ 服 、 冬 至 の 後 三 戊 。 臓 は 百 神 を 祭 る ﹂ と 。 ( 注 2 ) ﹃ 唐 詩 貫 珠 ﹄ 巻 五 十 一 、 冬 至 附 臓 日 除 タ に 、 こ の 詩 を 載 せ 、 ﹁ 杜 詩 釈 義 に 日 く 、 唐 は 大 寒 の 後 の 辰 の 日 を 以 て 臓 と 為 す ﹂ と 。 な お 、 ﹃ 杜 詩 釈 義 ﹄ に つ い て は 、 鄭 慶 篤 他 編 ﹃ 杜 集 室 閏 目 提 要 ﹄ や 周 采 泉 ﹃ 杜 集 書 録 ﹄ に 著 録 し て お ら ず 、 未 詳 。 ち な み に 、 仇 兆 禁 の 詳 註 ( 巻 六 ) に 引 く 明 ・ 趨 大 綱 ﹃ 杜 詩 測 旨 ﹄ に も 、 同 様 の 指 摘 が あ る 。 ( 注 3 ) 後 漢 ・ 衛 宏 の 撰 。 ﹃ 喜 文 類 爽 ﹄ 巻 五 、 歳 時 部 下 や ﹃ 太 平 御 覧 ﹄ 巻 三 十 三 、 時 序 部 に 引 く 。 な お 、 ﹃ 漢 旧 儀 ﹄ は 、 ﹃ 唐 詩 貫 珠 ﹄ に 挙 げ る 。 ( 注 4 ) 左 拾 遺 は 、 門 下 省 に 属 し 、 正 員 二 名 、 従 八 品 上 。 ﹃ 大 唐 六 典 ﹄ 巻 八 、 門 下 省 の 条 に ﹁ 左 補 閥 拾 遺 は 、 供 奉 調 謀 、 乗 輿 に 屋 従 す る を 掌 る ﹂ 云 々 と 。 杜甫が左拾遺の官を授けられた時期について、宇都宮遜庵の増広本に挙 げ る 明 ・ 単 復 の 年 譜 に 至 徳 二 載 ( 七 五 七 ) 四 月 と し 、 お そ ら く 東 陽 も こ れ に 拠 る が 、 五 月 の こ と で あ る 。 ﹃ 訳 注 稿 ﹄ 付 、 社 文 貞 公 伝 の ( 注 お ) 参 照 。 ( 注 5 ) 清 華 は 、 清 貴 の 官 職 に ふ さ わ し く 、 詩 が 上 品 で 華 や か な こ と 。 い ぬ ︿臓﹀は、歳の終りに行う祭りの名。古代には冬至後三回目の成の日に行なわれた。唐朝では、大寒後の辰の日を鵬とした。﹃漢旧儀﹄に 一五う、寸楢酬は、もろもろの鬼神や古の聖賢、民に功労のあった者に報 いるものである﹂と。粛宗の至徳二載四月、公は左拾遺に拝せられ た。これは、その冬の作。拾遺は、天子の供奉調諌を掌る。わが国 の侍従に相当するという。以下の四首が清華なるゆえんである。 ( 注 6 ) 蹴日常年暖向遥ナリ今年鵬日凍全ク消ス ※ 凍 ・ ・ ・ イ テ 常 年 得 ν 暖ヲ、自レ鵬後敷十日、今年ハ凍己ニ全ク融シ、日気暖然トシテ知 レ 春 ノ 也 。 ( 注 6 ) ︿ 常 年 ﹀ 、 朱 鶴 鈴 の 輯 註 ( 巻 四 ) は ︿ 長 年 ﹀ に 作 り 、 ﹁ 一 に 年 年 に 作 る ﹂ と 注 す る 。 宇 都 宮 遜 庵 の 増 広 本 に も 輯 註 を 挙 げ る 。 ︿常年﹀だと暖かくなるのは、︿臓﹀から数十日たった頃なのだが、 い て ︿今年﹀は八凍﹀がもうすっかりとけ、陽気がぽかぽかとして春の ようである。 ( 注 7 ) 侵 陵 コ テ 雪 色 五 窓 口 萱 草 一 漏 一 一 洩 γ テ 春 光 イ 有 一 一 柳 修 一 ※ 謙 一 : ・ ヨ ミ ガ へ ル ( 注 自 ) 還 ハ 猶 レ 積 ノ 也 。 言 三 秋 来 所 レ 失 ヒ シ 再 タ ヒ 復 コ ル ヲ 奮 色 一 一 也 。 萱 ハ 於 一 一 諸 草 一 一 ( 注 9 ) 最 早 ク 枯 ル 、 而 春 気 櫨 ニ 動 ハ 、 便 一 番 百 一 土 ヲ O 今 年 陽 和 早 ク 催 、 γ 、 雄 一 強 ( 注 油 ) 雪 猶 埋 ↓ 、 然 ト モ 能 侵 二 陵 シ テ 之 ↓ 、 先 巳 一 一 義 生 ス ル 也 。 洩 音 醇 、 亦 漏 也 。 ( 注 目 ) 有 ト ハ 者 、 他 日 所 レ 無 リ シ 、 今 見 レ 有 げ 之 也 。 先 げ 時 ニ 漏 り テ 春 ヲ 含 レ 芽 ヲ 、 亦 己 一 一 見 レ 有 コ 榔 保 之 動 ↓ 也 。 蓋 天 地 品 目 齢 、 高 物 含 レ 春 ヲ 、 就 け 中 ニ 一 一 物 尤 得 二 気 之 先 ザ 、 故 ニ 只 血 至 二 物 イ 、 而 一 切 景 象 在 一 一 其 中 一 一 一 実 。 ( 注 7 ) 八 陵 ﹀ 字 、 輯 注 は ︿ 凌 ﹀ に 作 る 。 東 陽 が 底 本 と し た 部 簿 ﹃ 集 解 ﹄ も 同 じ 。 ( 注 8 ) 基 づ く と こ ろ が あ る の か 、 不 明 。 な お 、 還 字 に つ い て 、 鈴 木 虎 雄 ﹃ 杜 少 陵 詩 集 ﹄ 第 一 巻 ( ﹃ 続 国 訳 漢 文 大 成 ﹄ 所 収 ) は 、 マ タ と 訓 じ 、 古 川 幸 次 郎 ﹃ 社 甫 詩 注 ﹄ 第 五 冊 ( 筑 摩 書 房 、 一 九 八 三 年 ) に は ﹁ ︹ 還 萱 草 ︺ の ︹ 還 ︺ は 、 ほ れ 、 あ の 、 や は り 、 例 の 、 と い う 程 の 軽 い 助 字 。 旧 来 の 和 訓 、 マ タ あ る い は ナ オ ﹂ と 指 摘 。 ( 注 9 ) 一 番 の 語 、 唐 代 か ら 見 え る 口 語 で 、 ひ と た び 、 同 二宮俊博/津阪東陽『杜律詳解」訳注稿 一 回 の 意 だ が 、 こ こ で は 多 品 ひ い づ ﹁ 最 初 に ﹂ の 意 に 用 い る か 。 輯 註 に ﹁ 侵 凌 雪 色 は 、 萱 草 初 め て 土 を 苗 る 時 を 言 ふ し と あ る 。 宇 都 宮 遮 庵 の 増 広 本 に も 、 こ れ を 引 く 。 な お 、 八 萱 草 ﹀ は 、 よ 詩 経 ﹄ 衛 風 ・ 伯 今 に 見 え る ﹁ 設 草 ﹂ の こ と で 、 和 名 は ワ ス レ グ サ 、 カ ン ゾ ウ 。 東 陽 が 何 に 基 づ い て い る の か 不 明 だ が 、 そ の 説 く 内 容 は 、 萱 草 よ り も 、 款 冬 花 ( フ キ ノ ト ウ ) に 該 当 す る よ う に 思 わ れ る 。 例 え ば 、 明 ・ 李 時 珍 の ﹃ 本 草 網 目 ﹄ 巻 十 六 、 款 冬 花 の 条 に 寸 宗 爽 日 く 、 百 草 中 、 惟 だ 此 れ 氷 雪 を 顧 み ず 、 最 も 春 に 先 ん ず る な り 。 故 に 世 之 を 鎮 凍 と 謂 ふ ﹂ と あ る 。 ( 注 目 ) 例 え ば 、 明 ・ 梅 謄 一 昨 ﹃ 字 葉 ﹄ に は ﹁ 先 結 の 切 、 音 屑 。 漏 洩 な り ﹂ と 。 ( 注 日 ) ち な み に 、 後 世 ﹁ 漏 春 和 尚 ﹂ と 言 え ば 、 柳 の 別 称 。 ( 注 ロ ) 鉱 盆 は 、 気 の 盛 ん な る さ ま o ﹃ 易 ﹄ 繋 辞 下 伝 に ﹁ 天 地 細 組 、 万 物 化 醇 す ﹂ と 。 細 組 は 気 盆 と 同 じ 。 な お 、 包 ﹁ 至 日 興 を 遺 る 。 北 省 の 旧 閣 老 ・ 両 院 の ハ リ 故 人 に 奉 寄 す L 詩 二 首 其 一 に 、 白 鼠 在 感 の 一 語 が 見 え 、 東 陽 は ﹁ ハ ル メ キ タ ル ﹂ と 左 訓 を 施 す 。 ︿還﹀は、蘇とほぼ同じ。秋以来失われていたのが再びもとの色に一民 ることを言うのである。︿萱﹀は、草のなかでは最も早くに枯れ、春 になるといちばん先に土の中から出て来る。八今年﹀はうららかな陽 和の気が早くも兆し、残雪がまだ積もっているとはいえ、それを押 せ っ し退けて、もう生えて来ているのである。︿洩﹀、字音は醇、やはり 漏の意。︿有﹀とは、昨日までなかったのが今日有るのを見ることで ある。季節に先んじて春気を、漏らし芽吹くのは、これもやはりすで に︿柳条﹀の動くことに表われている。けだし天地誌孟の気に包ま れ、万物が春を含み、なかでもこの二つの物が春の気配をまっさき に感じることができる。それゆえ、ただ二つの物を挙げているのだ が、すべての景象は、そのなかに存在しているのだ。 縦 に シ テ 酒 欲 レ 謀 ン 卜 良 夜 ノ 酔 還 げ { 不 一 初 テ 散 ス 紫 震 ノ 朝 ※縦酒:・オホノミ謀・:クメンスル ( 注 目 ) 縦 酒 ハ 謂 一 一 劇 欽 イ 。 察 邑 濁 断 ニ 蹴 日 ハ 縦 コ テ 吏 民 一 一 宴 飲 セ シ ム O 蓋 因 げ 祭 -一 夜 ( 注 日 比 ) 宴 ス 、 故 ニ 回 一 一 良 夜 ノ 醇 寸 。 紫 震 ハ 本 謂 二 天 帝 之 居 イ 。 唐 比 シ テ 以 矯 二 殿 ノ 名 ↓ 。 日 ニ 視 レ 朝 ヲ 之 所 。 散 パ ハ 朝 ヲ 、 膿 日 ノ 朝 賀 撞 畢 テ 退 散 ス ル 也 。 此 聯 錯 綜
文化情報学部紀要,第2巻, 2002年 ( 注 目 ) シ テ 成 レ 句 ヲ 、 且 欲 パ ハ 謀 コ ト 夜 飲 イ 、 正 二 在 一 一 散 レ 朝 ヲ 之 後 一 一 、 是 倒 句 ノ 法 。 言始テ散す紫展之朝イ而還レ家ニ、欲下謀コ良夜之宴ザ而縦飲 M ン ト 也 。 (注目)﹃唐詩貫珠﹄に挙げる。察邑は後漢の学者(一三一二1一九二)。秦漢の文 物制度などを記した﹃独断﹄は上下二巻。その巻下に見える。なお、﹃独 断﹄には寛文九年(一六六九)刊の和刻本があり、汲古書院﹃和刻本漢籍 随筆集第十集﹄に影印を収む。また訳注に福井重雅編﹃訳注西京雑記・独 断 ﹄ ( 東 方 書 庖 、 二
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年 ) が あ る 。 ( 注 HH) 紫は、天帝の居とされた紫微星をいう。震は、帝居の意。紫寝殿につい ては、次の鵬﹁貰至舎人需に大明宮に朝するを奉和す﹂詩の詳解に見える。 (注目)訳注稿向、仙﹁張氏の隠居に題す﹂詩の(注ロ)参照。ちなみに、宇都宮 遮庵の詳説に﹁此一聯六句ヨリ五句へツヅケテ、其義ヲ可レ取。此レ倒句 ノ 法 ナ リ ﹂ と 。 ︿縦酒﹀は、劇飲のこと。察邑の﹃独断﹄に﹁膿日には、官吏と民衆 とに好き放題、宴飲するのを許したしと。けだし祭にちなんで夜宴 するので、︿良夜の酔﹀という。八紫展﹀は、もともと天帝の住居の こと。唐では擬えて宮殿の名とした。日々政務を執るところである。 ︿朝を散ず﹀は、︿臓日﹀の朝賀の儀式が終わって退散するのである。 この一聯は、錯綜して句を成している。それに夜飲もうと思うのは、 ちょうど朝会がはててから後のことである。これは倒句の法だ。そ の意味は、やっと紫展殿の朝会がはて、これから家に一民って、︿良夜﹀ の宴を︿謀﹀って存分に飲もうと思うというのである。 口 脂 苗 薬 随 一 J恩 津 一 一 翠 管 銀 響 下 コ 九 審 ↓ リ ※ 目 指 : ・ カ ン ノ ベ ニ 面 薬 : ・ ト ウ ヤ ク 唐 ノ 制 、 鵬 日 宣 一 一 賜 ス 近 臣 一 一 口 脂 面 薬 イ 。 口 脂 ハ 蹄 脂 也 。 面 薬 ハ 蓋 鉛 粉 ニ 合 二 香 薬 イ 者 也 。 公 局 コ 拾 遺 一 、 得 レ 預 コ ト ヲ 恩 賜 一 一 o 不 り テ 臼 レ 蒙 ル ト 市 日 い ( 注 目 ) f ( 注 口 ) 随ト、謙辞也。翠管銀響ノ所レ盛ル之器也。管ノ筒也。酉陽雑姐二鵬日 賜 ニ 北 門 ノ 息 子 士 一 一 口 脂 蝋 脂 寸 盛 ル ニ 以 一 一 碧 鰻 ノ 一 分 筒 ↓ 。 按 ス ル ニ 割 高 傑 有 下 ( 注 凶 ) 謝 レ 賜 一h
脂 面 薬 イ 表 上 云 、 宣 一 一 奉 ス 聖 旨 イ 賜 一 一 臣 ニ 蹴 日 ノ 口 脂 面 脂 紫 雲 紅 零 サ 。 離 奮 既 一 一 開 ハ 、 珍 薬 斯 ニ 見 ハ ル O 一 一 骨 凝 リ 雪 壁 ャ キ 、 合 レ 液 ヲ 騰 レ 芳 ヲ 。 又 志 向 即 ヵ 宮 調 ニ 黄 金 合 裏 ニ 盛 一 J 紅雪ィ、重結ス香羅四出ノ花、一一傍遺書 コ 期 ノ 字 イ 、 中 使 送 輿 ス 大 臣 ノ 家 。 蓋 口 脂 面 薬 以 禦 一 一 寒 凍 ザ 也 。 或 目 、 漢 恵 帝 時 、 黄 門 侍 中 、 皆 博 コ 脂 粉 イ 。 貌 菅 ノ 習 俗 、 尤 多 数 レ 之 一 一 o 疑 ク ハ 唐 ノ 朝 亦 復 若 レ 此 ノ O 蓋 潔 け テ 身 以 準 ム 、 出 一 一 於 敬 九 ニ 君 ヲ O 故 ニ 遂 ニ 有 一 一 是 賜 一 也 。 九 審 ハ 九 重 之 天 。 謂 二 其 深 遠 一 、 比 シ テ 栴 コ 禁 中 ↓ 。 九 ハ 局 こ 陽 敷 之 極 一 。 算 盤 計 一 一 物 敷 イ 、 亦 究 コ 子 九 一 一 一 。 至 川 ハ 十 ニ 則 矯 山 一 実 。 故 一 一 室 田 博 ニ 凡 ソ 一 ゴ 一 口 レ 九 ト 者 三 皆 指 ユ 其 極 ザ 爾 。 如 二 九 淵 九 咳 之 類 づ 、 不 一 二 必 シ 二 一 一 一 教 へ 嘗 -。 時 ニ 公 局 一 J 拾 遺 寸 寄 遇 セ ラ ル 、 此 日 喜 レ 逢 コ ト ヲ 臓 祭 令 節 一 ↑ 、 天 気 如 レ 春 ノ 、 草 木 義 生 ス O 欲 日 置 酒 縦 飲 シ テ 蓋 } 一 良 夜 之 歌 イ 。 既 ニ 退 け 朝 ヲ 蓮 山 家 二 、 中 使 尋 ァ 至 、 節 物 之 賜 、 白 川 テ 天 而 下 ル O 翠管銀響、恩栄輝光、是 ( 注 沼 ) 公 一 生 得 意 ノ 時 、 不 レ 可 一 一 多 得 一 者 也 。 (注目)部宝﹃集註﹄巻二十三、時序類に見える。醇益﹃分類﹄巻二、節序も悶 じ。いずれも、宇都宮遜庵の増広本に引く。﹃唐詩賓珠﹄は﹃社律虞註﹄ を 挙 げ る 。 (注口)晩唐・段成式(字は洞古、?1八六一二)の撰。ここに挙げる箇所は、そ の巻一、忠志に見える。なお、司酉陽雑姐﹄には、元禄十年(一六九七) 刊の和刻本があり、汲古書院﹃和刻本漢籍随筆集第六集﹄に影印を収む。 また平凡社東洋文庫に今村与士山雄氏による訳注がある。ちなみに、北門の 学士は高宗の時に置かれた。牙筒は象牙製の筒。なお、﹃西陽雑組﹄は、 輯註に引き、宇都宮遜庵の増広本にも挙げる。また﹃唐詩貫珠﹄にも抄録 し て 、 こ れ を 引 く 。 (注回)字は夢得(七七二1八四二)。貞元十七年(八O
二、准南節度使の杜祐 に代わって作った﹁暦日の間脂口脂を謝するの表﹂(﹃劉賓客文集﹄巻十二) に﹁臣茶言す。中使愛子燐歪り、聖旨を奉宣して臣及び将左・官吏・僧道・ 嘗寿の百姓等を存関し、兼ねて臣に墨詔及び貞元十七年の新暦一軸、臓日 の箇脂・口脂・紅雪・紫雪井びに金花銀合二、合綾合二を賜ふ。(中略) あ ら か が ゃ あ 隣官既に聞けば、珍薬斯に見はる。一一昔凝り雪釜き、液を含み芳を騰ぐ﹂ 云々と。中使は宮中の使者。官官が充てられる。紅雪、紫雪は薬の名。な お、宇都宮遜庵の詳説には、明・楊慎﹃丹鉛総録﹄巻二十一、詩話類、ロ 脂の条に、李幡(六七五?1七一四?)の﹁口脂を賜る表 L、令狐楚(七伺 六 六
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八三七)の表それに劉百円錫の表を挙げて﹁杜詩註の遺を補ふ可し﹂ というのを引く。﹃升庵全集﹄巻六十、口脂面薬の条もこれと同じ。また 同集巻五十八、紅雪紫雪の条には、劉高錫の表と王建の宮詞の例を挙げ る 。 (山在日)原文には謝字の下に﹁レ﹂点を歓く。今、これを補う。 (注初)王建(七七01
八二九)の﹁宮詞 L 百首其六十七三全唐詩﹄巻三 O 一 二 。 なお、尾張の恩田仲壬(号は意楼。一七四三1
一八一三)訓点による文化 七 年 ( 一 八 一O
)
刊の﹃唐王建詩集﹄がある(汲古書院、﹃和刻本漢詩集 成唐詩第八輯﹄に影印を収む)。また伊勢の東繋(号は夢亭。一七九六1
一 八四九)に﹃王建宮詞百首筆注﹄があるが、未見。 (注幻)﹃史記﹄巻一一一五、倭幸列伝に﹁孝恵の時、郎・侍中、皆鶏読を冠し、 貝帯し、脂粉を侍す﹂と。侍は附の意。﹃漢室百﹄巻九十一二、俊幸伝にも同 様 の 記 事 。 (注幻)﹃唐詩貫珠﹄に﹁此れ是れ公拾遺為りし時、臓日の令節に逢ふを喜ぶの 作。通篇天気和暖、草木生発し、良夜酒を飲み、朝参早に帰り、更に恩賜 を受く。此れ公が一生得意の時、多く見る可からざる者なり﹂と指摘する。 麿代の制度では、臓目、近臣に八口脂﹀や︿面薬﹀を下賜された。 八口脂﹀は、腕脂である。︿面薬﹀は、けだし鉛粉に香薬を混ぜ合わ せものであろう。公は拾遺となって思賜に与かることができた。蒙 ると言わず、︿随ふ﹀と言うのは謙遜の辞である。︿翠管﹀︿銀喜﹀は、 それを盛る器。︿管﹀は、筒である。﹃酉陽雑姐﹄に﹁臆目、北門の 学士に、口脂・噛脂を碧纏の牙筒に盛って下賜された﹂とある。按 ずるに劉百円錫に﹁口脂面薬を賜ふを謝する表﹂があり、﹁聖旨を承り、 臓日に口脂・面脂・紅雪・紫雪を賜りました。浮かし彫りが施され は と た金の蓋を聞けると、一一居間がねっとりと雪のように輝き、どろんとし た液からとてもよい香が立ち上って来ました﹂といい、さらに王建 の寸宮詞﹂に﹁黄金合裏紅雪を盛る、重ねて結ぶ香羅四出の花。一 一傍辺に勅の宇を書し、中使送与す大臣の家﹂という。けだし︿口 脂﹀や︿百薬﹀は、それで寒さや凍てを禦ぐのであろう。或いはい う、漢の恵帝の時、黄門や侍中はみな脂粉をつけ、説晋の習俗もほ 二宮俊博/津阪東陽『杜律詳解』訳注稿 とんどそれに倣ったと。唐朝でもやはりこのようであったのだろう。 けだし身を清潔にして進見するのは、君を敬する気持ちから出るこ とであって、きればかくてこのように下賜されるようになったので ある。八九番﹀は、九重の天。深遠の意で、比して禁中を称す。︿九﹀ は陽数の極で、算盤で計算する時も九できわまり、十に至ると一に なる。きれば、古典にすべて八九﹀という場合は、いずれもその極 数を指しているだけのことだ。九淵・九壊といった類で、いちいち 数えるまでもない。時に公は拾遺となって答遇を受けており、この 日、臓祭の節目にゆきあったのを喜んだ。天気は春のようで草木は 芽生え、酒を用意して存分に飲み、︿良夜﹀の歓を尽くしたいと思っ ていた。朝廷を退き家に戻って来ると、まもなく中使がやって来て、 季節の品をかしこきあたりより賜った。︿翠管﹀や︿銀審﹀は、恩栄 に輝いている。これは公が一生のうち得意の時で、多くは得られな かったものなのである。ー
(
注
1 一 ) ' 似 奉 一 一 一 和 ス 買 至 舎 人 早 二 朝 サ ヲ 大 明 宮 一 一 奉 猶 レ 恭 ノ 也 。 和 ハ 者 同 賦 コ テ 其 事 ィ 、 以 答 一 一 来 遣 い 一 猶 乙 有 下 首 一 一 唱 ス ル 歌 イ 者 上 随 市 和 町 之 ヲ 也 。 中 書 省 ノ 起 居 合 人 見 一 一 王 前 一 一 。 此 蓋 朝 す 大 明 宮 之 宣 政 殿 一 一 也 。 唐 ノ 禁 城 大 内 ヲ 帰 一 一 太 極 宮 づ 、 東 内 ヲ 矯 二 大 明 宮 ↓ 、 在 二 龍 ( 注 3 ) 首 山 ノ 上 一 一 、 此 地 ハ 本 太 極 宮 之 後 苑 ニ シ テ 在 二 其 東 北 一 一 。 故 ニ 謂 一 J 之 ヲ 東 内 ゴ ( 注 4 ) ( 注 5 ) ( 注 6 ) 而 謂 一 J 大 内 イ 矯 一 一 西 内 ↓ 。 高 宗 厭 一 J 西 内 ノ 誠 監 イ 、 修 山 東 内 一 ト 取 バ 伎 ヲ O 自 レ 是 天 子 多 在 二 東 内 一 一 、 制 度 尤 局 二 華 備 寸 。 正 南 ヲ 矯 二 丹 鳳 門 ↓ 。 門 内 第 ( 注 B ) 一 ノ 正 殿 ヲ 日 二 合 一 克 殿 ﹁ 。 謂 一 之 ヲ 大 朝 ↓ 。 在 一 レ 周 ニ 矯 一 一 外 朝 十 。 元 旦 冬 至 ノ 大 朝 舎 一 一 ハ 御 パ 之 ニ o 其 後 ヲ 日 二 宣 政 殿 ↓ 。 謂 一 一 之 ヲ 前 殿 汁 、 亦 日 一 一 正 衛 ↓ 。 即 周 ノ 内 朝 。 凡 ソ 朔 竪 ノ 起 居 及 大 知 拝 、 劃 コ ル ハ 四 夷 ノ 君 長 一 御 パ 之 ニ O 又 北 シ テ 而 矯 二 紫 度 殿 づ 。 乃 内 便 殿 、 謂 一 一 之 ヲ 内 街 寸 。 即 周 ノ 燕 朝 。 亦 謂 一 己 ヲ 閤 ↓ 。 猶 一 一 古 之 言 戸 寝 ト 。 隻 日 ノ 常 朝 ハ 御 パ 之 ニ O 雌 耳 目 ハ 不 レ 覗 レ 朝 ヲ o 宰 ( 注 9 ) 、 ( 注 目 ) 相 嘗 山 ハ 奏 M ル ニ 事 ヲ 、 即 時 特 ニ 御 一 J テ 延 英 殿 一 一 召 封 ス 也 。 此 篇 ノ 是 三 月 ノ 詩 、文化情報学部紀要,第2巻, 2002年 ( 山 託 口 ) 則 非 一 一 合 元 殿 一 一 一 矢 。 街 ハ 朝 見 、 其 鵡 寧 シ O 閤ハ宴見、其事殺ク O 詩中所 レ 教 ス ル 骨 守 備 慶 大 、 故 ニ 知 ル 宣 政 之 朝 曾 ナ ル ヲ 也 。 ( 注 1 ) 買至、字は幼機。洛陽の人(七一八
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七七二)。開元の末もしくは天宝 の 初 め に 明 経 科 に 及 第 し 、 校 量 一 閏 郎 ・ 単 父 県 尉 な ど を 経 て 、 天 宝 末 、 起 居 合 人 と な る 。 安 禄 山 の 乱 が 起 こ る と 、 玄 宗 に 一 庖 従 し て 萄 に 行 き 、 中 室 田 舎 人 に 遷り、至徳元載(七五六)八月、粛宗へ位を伝える冊文を撰して、これを 奉じて霊武の粛宗のもとへと赴いた。乾元元年(七五八)、房瑠の一派だ として汝州刺史に出され、さらに岳州司馬に反論されたこともあったが、 次の代宗の時、中央に復帰し、中書舎人・尚書右丞・礼部侍郎・兵部侍郎・ 京兆弄・右散騎常侍などを歴任し、大暦七年(七七二)卒した。﹃旧唐書﹄ 巻一九O
、 ﹃ 新 唐 室 百 ﹄ 巻 一 一 九 。 ﹃ 唐 才 子 伝 ﹄ 巻 一 二 。 独 孤 及 寸 貰 尚 書 を 祭 る 文 L ( ﹃毘陵集﹄巻二十、﹃全唐文﹄巻三九三)。その事跡については、惇瑛 環﹁賀至考﹂(﹃唐代詩人叢考﹄所収、中華書局、一九八 O 年 ) に 詳 し い 。 松浦友久編﹃続校注唐詩解釈辞典︹付︺燈代詩﹄(大修館、二OO
一 年 ) 詩人小伝、貫主の条(植木久行執筆)参照。 ち な み に 、 杜 甫 に は ﹁ 賀 厳 二 閣 老 に 留 別 す し ( 詳 註 巻 五 ) 、 ﹁ 百 貝 閣 老 の 汝 州に出さるを送る﹂(詳註巻六)、寸岳州の賢一司馬六丈、巴州の厳八使君両 閣老に寄す五十韻﹂(詳註巻八)、寸唐十五誠に別る、因って礼部の買侍郎 に 寄 す L ( 詳註巻十四)等の作がある。 ( 注 2 ) 訳注稿口、仙﹁献納使起居田舎人澄に贈る﹂詩参照。 ( 注 3 ) 龍蓄については、後漢・班固﹁西都の賦 L ( ﹃文選﹄巻一)に﹁澄濡を挟 み、龍首に拠る L、後漢・張衡﹁西京の賦 L ( 向上巻二)に﹁龍首を疏して あ 以 て 殿 を 抗 げ 、 状 窺 山 我 と し て 以 て 笈 案 た り ﹂ と 見 え 、 南 宋 ・ 程 大 目 白 ( 一 一 二 三1
一 一 九 五 ) の ﹃ 一 一 雄 録 ﹄ 巻 一 、 龍 首 山 麓 首 原 の 条 に ﹁ 高 宗 に 至 っ て 巳 に風情畔に染まり、太極官の下湿なるを悪み、遂に遷る。東北角龍首山上に 拠って別に大明二呂を為る﹂という。高宗は、唐第三代の天子(李治、在 位六四九1
六 八 三 ) 。 ( 注 4 ) ﹃落録﹄巻三、唐宮総説に﹁唐の都城、三大内有り。(中略)太極宮、 西に在り、故に西内と名づく。大明宮、東に在り、故に東内と名づく。別 こ も ご た が に興慶世間なる者有り、(中略)南内と号す。此の三内嘗て更も迭ひに朝を 受け、大明、朝を視ること最も数しばなり﹂と。 ( 注 5 ) 掛 川 隆 は 、 手 狭 な 上 に 低 湿 地 で あ る こ と 。 ﹃ 左 伝 ﹄ 昭 公 二 一 年 に 斉 の 景 公 が 妻子に﹁子の宅、市に近し。淑障害塵、以て居る可からず﹂といった言葉 がみえ、杜預の注に﹁被は下、降は小 L と 。 ( 注 6 ) 移伎は、天子の出行をいう。ここは、居を移すこと。﹃潅録﹄巻一二、唐 東内大明宮の条に﹁龍朔二年(六六一一)、高宗風情畔に染まり、太極宮の卑 下を悪み、故に就いて大明宮を修め、名を蓬莱宮と改む﹂と。 ( 注 7 ) 例 え ば 、 ﹃ { 木 史 ﹄ 巻 二 八 四 、 宋 序 伝 に ﹁ 唐 に 大 内 有 り 。 又 た 大 明 宮 有 り 。 宮は大内の東北に在り、高宗以後、天子多く在り。大明宮の正南門を丹鳳 門と臼ふ。門内の第一殿を含元殿と臼ひ、大朝会のとき則ち之に御す。第 二殿を宣政殿と日ひ、之を正衡と謂ふ。期望の大冊拝のとき則ち之に御 す。第三殿を紫震殿と臼ひ、之を上関と謂ふ。亦た内街と日ふ。隻日の常 鴇のとき則ち之に御す﹂云々とある。 なお、伊藤東涯の﹃制度遅﹄(寛政九年[一七九七]刊)巻二、内朝外 朝並ニ朝会ノ事に、﹁漢ヨリ以来、大朝会ノ礼有リ、又是ヲ大享ト云ヒ、 朝賀ト一五、本朝ノ節会ノコトナリしといい、また﹁唐ノ時、百官朝見ノ 次第、一二所アリ。正街、便殿、含元殿ナリ。十日へノ三朝ニナゾラフ。正街 トイフハ、宣政殿ノ事ニテ、古へノ治朝ナリ。便殿トイフハ、紫宗殿ノコ トニテ、イニシへノ燕朝ナリ。正街コレヲ常参ト云、便殿コレヲ入閣ト云。 コ ノ 外 ニ 又 含 元 殿 ア リ 、 下 一 一 詳 一 一 ス 。 計 義 補 一 一 云 、 唐 以 一 日 宣 政 殿 J V 為 コ 前 殿 ↓ 、 謂 一 一 之 ヲ 正 街 ぺ 、 即 古 之 治 朝 也 。 以 一 一 紫 震 殿 イ 為 二 便 殿 寸 謂 一 元 ヲ 入 閤 ↓ 、 即 古 之 燕 朝 也 。 而 外 別 一 一 有 二 含 一 元 殿 一 。 含 元 ハ 非 コ パ 正 至 大 朝 会 一 一 不 レ 御 セ 、 正 街 ハ 則 日 -一 見 コ 群 臣 マ 百 官 皆 在 、 謂 一 一 之 ヲ 常 参 寸 是 一 一 テ ソ ノ 大 路 シ ル ベ シ ﹂ という。ちなみに、﹃街義補﹄は、明・丘溶(一回二一1
一 四 九 五 ) ﹃ 大 学 信義補﹄のこと。その巻四十五、王朝之礼上に見える。 ( 注 8 ) 例えば、司歴代名臣奏議﹄巻九および﹃続資治通鑑﹄巻十六、宋・太宗 淳化二年(九九ごの条、張泊の上疏に、寸今の乾元殿は、即ち唐の合元 殿 な り 。 周 に 在 つ て は 外 朝 と 為 し 、 唐 に 在 つ て は 大 朝 と 為 す 。 冬 至 一 元 日 一 、 全伎を立て、万国を朝するは、此の殿に在るなり。今の文徳殿は、即ち唐 の宣政殿なり。周に在つては中朝と為し、漢に在つては前殿と為し、唐に 在っては正街と為す。凡そ朔望の起居及び妃后・皇子・王公・大臣を冊拝 し、四夷の君長に対し、制策の挙人を試みるは、此の殿に在るなり。今の 崇徳殿は、即ち唐の紫辰殿なり。周に在つては内朝と為し、漢に在つては 宣室と為し、唐に在つては上閤と為す。即ち隻日常朝の殿なり﹂とある。( 注 9 ) もっとも、﹃落録﹄巻四、延英殿の条には﹁高宗初め蓬莱宮を瓶りしと き、諸門殿亭皆己に名を立つ。上元二年(七六二に至って、延英殿御座 に当たり玉芝(瑞草の名)生ず、則ち是れ初め大明有りしとき即ち延英殿 有り。顧召して宰臣に対するは則ち代宗に始まるのみ。代宗、苗晋卿の年 ゆ る 老い寒甚だしきを以て閣に入りて趨せざるを聴し、為に延英に御す。此れ 優礼なり﹂という。また、その場所については、﹃大唐六典﹄(巻七、工部 尚書の条)に拠って﹁官一政殿前の商、上関門の西、即ち延英門為り。門の 左、即ち延英殿﹂とする。 (止在日)ちなみに、侍瑛環主編﹃唐代文学編年史{中唐巻︼﹄では、乾元元年(七 五八)二月に繋年する。 (注目)﹃公羊伝﹄億公二十二年、﹁辞繁にして殺せざる者は正なりしの条、何休 の注に﹁殺は省なり﹂と。 八奉﹀は、恭とほぼ同義。︿和﹀は、ともにその事を賦して、来意に 答えること。ちょうどはじめに歌う者がいて、それに続けて唱和す るようなものである。中書省の起居舎人のことは、前に見える。こ こでは、けだし︿大明宮﹀の宣政殿に朝するのであろう。唐の禁城 は、大内を太極宮とし、東内を大明宮として、龍首山の上にあった。 この地は本末、太極宮の後苑であって、その東北に位置していた。 それで東内といい、大内を西内とした。高宗は西内が手狭で低湿地 にあるのを厭い、東内を修築して移られた。それ以来、天子は多く しつら 東内におわしまし、設えや調度品はとりわけ豪華で完備していると されていた。その真南が丹鳳門で、門内にある第一の正殿を含元殿 といい、大朝のことである。周代では外朝にあたる。元旦や冬至の 大朝会の時、天子がここにお出ましになる。そのうしろを宜政殿と いい、前殿のことで、正衛ともいう。即ち周の内朝である。すべて 月の朔(一日)および望(十五日)の起居や皇后や太子を冊立した り大臣を任命する大冊拝の時、さらに夷狭の君長に対面なされる場 合には、ここにお出ましになる。それから北にゆくと紫寝殿。これ ぞ内便殿で、内衝のこと。即ち周代の燕朝で、閤ともいう。 国 三宮俊博/津阪東陽 r社律詳解』訳注稿 ち ょ ﹀ づ ど古代に寝といわれるものである。隻日(奇数日)の常朝(一般的 政務)には、こちらにお出ましになる。双日(偶数日)には政務を 執られない。宰相が至急奏上する必要がある場合には、ただちにわ ざわざ延英殿にお出ましになり、そこに召されて奉答する。この篇 は三月の詩。だとすれば含元殿ではない。街で行なわれるのは朝見 で、その礼式は尊厳であるが、閤のは宴見で、その次第は略式であ る。この詩に述べられているのは尊厳広大であり、きれば宣政殿で の朝会だと知られるのである。 五 夜 ノ 漏 整 催 コ 暁 箭 ↓ 九 重 ノ 春 色 酔 一 一 仙 桃 一 ※五夜漏声・:アケナ、ッノトケイ暁箭・:ジコクノカズトリ 酔 ト ロ け ノ 五 夜 ハ 寅 時 也 。 漢 親 以 来 、 紀 以 ル ニ 夜 ヲ 以 レ 五 ヲ 局 レ 節 ト 、 以 一 一 甲 乙 丙 丁 戊 ( 注 刊 以 ) イ 栴 以 之
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故 一 一 戸 主 夜 叶 。 又 謂 一 一 之 ヲ 五 更 一 。 漏 ハ 貯 一 げ 水 ヲ 定 一 一 時 刻 ↓ 之 器 。 一 ( 注 目 ) ( 注 民 ) 以 二 銅 査 イ 受 レ 水 ヲ 刻 以 節 ヲ o 董 夜 其 ニ 百 節 謂 一 之 ヲ 漏 刻 寸 。 古 無 一 一 白 鳴 鐘 一 、 故 ニ 以 一 一 漏 下 づ 量 レ 時 ヲ O 箭 ハ 更 箸 也 。 此 先 言 一 一 夜 榔 両 日 長 一 一 。 凡 朔 聖 ノ 朝 ( 注 目 ) ( 注 凶 ) 縄 、 百 官 侵 レ 暁 ヲ 詣 げ 闘 ニ 待 レ 漏 ヲ 、 五 更 ノ 三 貼 、 候 可 青 鎖 ノ 開 サ 、 随 レ 班 二 ( 注 口 ) 〆 ( 注 認 ) 一 P 雁 行 シ テ 而 入 也 。 九 重 ハ 栴 コ 禁 中 ノ 穆 穆 寸 ヲ O 楚詞ニ君之円以九重。九ノ ( 注 目 ) ' 一 ( 注 却 ) 義 見 一 一 子 前 一 一 。 酔 ハ 謂 一 一 春 色 ノ 包 畠 ゴ ヲ 。 唐 殿 庭 ノ 問 、 多 植 二 花 柳 イ 、 馬 一 一 一 朝 曾 之 時 百 官 依 コ 其 蔭 一 一 也 。 禁 内 ノ 名 花 、 非 二 人 間 之 種 一 一 、 故 ニ 構 シ テ 矯 J ' ( 注幻 ) J 一 一 仙 桃 ↓ 。 非 一 一 一 必 シ モ 用 山 一 一 西 王 母 ヵ 事 ↓ 。 蓋 暁 景 漸 ク 分 レ テ 、 桃 花 紅 艶 峡 レ 天 ニ 、 殿 庭 ぶ 一 熟 色 、 嫡 浬 如 レ 醇 ル ヵ 也 。 或 ハ 以 馬 コ ハ 桃 花 若 づ け 含 け 酔 ヲ 浅 ご 実 。 へ十ヱ同ん} 按 ス ル ニ 撞 ノ 玉 薬 ニ 朝 ス ル ハ 耕 り テ 色 ヲ 始 テ 入 ル 、 君 ハ 日 出 テ 而 覗 レ 之 ヲ o 此 言 一 一 耕 レ 色 ヲ 始 テ 入 之 景 ↓ 也 。 (注辺)輯註(巻四)に銭注(巻十)に拠って衛宏﹃漢書儀﹄の﹁五夜は、甲夜 乙夜丙夜丁夜戊夜しというのを引く。また﹃顔氏家訓﹄巻六、主百詮第十七 に﹁漢貌以来、謂ひて甲夜・乙夜・丙夜・了夜・戊夜と為す。又た一鼓・ 二 鼓 ・ 一 二 鼓 ・ 四 鼓 ・ 五 鼓 と 云 ひ 、 亦 た 一 一 史 ・ 二 更 ・ 一 二 更 ・ 四 更 ・ 五 更 と 云 ふ。皆五を以て節と為す﹂と。いずれも宇都宮遜庵の増広本にこれを挙げ文化情報学部紀要,第2巻, 2002年 る。なお、﹃顔氏家訓﹄には、寛文二年(一六六二)刊の和刻本があり、 汲古書院﹃和刻本漢籍随筆集第十集﹄に影印を収む。また平凡社東洋文庫 に 宇 都 宮 清 土 口 氏 に よ る 訳 注 が あ る 。 (注目)﹃大唐六典﹄巻十、秘書省太史局、翠壷生の条に﹁冬は夜漏六十刻、思一 漏 四 十 刻 、 春 分 秋 分 は 夜 漏 五 十 刻 、 思 一 漏 五 十 刻 、 夏 至 は 夜 、 漏 四 十 刻 、 同 骨 一 漏 六 十 刻 ﹂ と あ る 。 ( 注 M ) 明・謝肇湖﹃五雑組﹄巻二、天部二に﹁西僧刑璃費、自鳴鐘有り。中に ご と J 9な は 機関を設く二時に遇ふ毎に純ち鳴る。是の如くにして歳を綬て頃刻の差 説無きゃ、亦た神なり﹂と見える。刑璃賓は、イタリアの宣教師マテオ・ リ ッ チ の こ と 。 (注目)腿﹁至日興を遺る。北省の旧閣老・両院の故人に泰寄す﹂詩二首其一の 首聯に﹁去年葱の辰御林を棒ぐ、五更三点鶴行に入る﹂とあり、詳解に寸更 は、歴なり、経なり。故に夜時を五分して之を更と謂ふ。漏刻、更毎に五 点を分つ。点は漏を下る滴水を以て名と為す。五更三点は、寅の刻の六分 な り ﹂ と 。 (注目)青墳と同じ。宮門をいう。ちなみに、青墳については、訳注稿口、脳﹁献 納使起居田舎人澄に贈る﹂詩参照。 (注口)例えば﹃礼記﹄曲礼上に﹁天子穆穆﹂とあり、唐・費公彦の硫に﹁穆穆 は、威儀多き貌﹂と。 ( 注 四 日 ) ﹃ 楚 辞 ﹄ 九 孫 。 ﹃ 文 選 ﹄ 巻 三 十 三 に も 収 む 。 (注目)仰﹁験日し詩。 (注初)部停﹃集解﹄に﹁唐の殿中、花柳を種 L 、 ﹃ 唐 詩 貫 珠 ﹄ 巻 二 、 帝 京 二 に 、 買歪の寸早に大明宮口に朝し両省の僚友に呈す﹂詩を載せ、﹁唐時殿庭、皆 花柳を植ゑ、遂に風雅の助と為す﹂と。唐の宮廷に花柳が植えられていた こと、南宋・朱烹(一一三
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に も 指 摘 が あ る ( ﹃ 朱 子 語 類 ﹄ 巻一二八、本朝二、法制 ) 0 (注包)輯註に﹁仙桃酔ふは、春色の穣、桃花酔ふが如きを言ふ。禁内に在るを 以ての故に仙桃と日ふ。王母の事を用ふるに非ず﹂と。また顧展﹃辞麗園 杜律註解﹄七三口律詩巻一に﹁諸註皆他桃を以て西王母が漢の武帝に五桃を お も 与ふる故事と為し、謂へらく天子九重の上に御し、其の容顔春色の桃に酔 へるが如しと。此れ随説なりしと指摘する。宇都宮遜庵の増広本に輯註お よび顧註を引き、詳説には顧註を挙げる。なお、西王母の故事は﹃漢武故 一 事 ﹄ に 見 え る 。 (注幻)顧展﹃註解﹄に﹁禁内の春色欄漫として其の桃盛んに開くこと酔ひを含 むが若きなり﹂と。宇都宮遜庵の両著に引く。 (注お)﹃礼記﹄玉藻篇。 レ ﹂ A り 八五夜﹀は、富一の刻である。漢規以来、夜を記するのに五つに分けて 甲乙丙了戊でこれを称した。それで︿五夜﹀といい、また五更とい め も り う。︿漏﹀は、水を貯めて時刻を定める器械。銅査で水を受け節を刻 んだ。昼夜で百節があり、これを漏刻といった。古代には自鳴鐘が なかったので、︿漏﹀が下がることで時間を計った。八世間﹀は、更箸 (時刻の数とり)である。ここではまず夜から明け方になろうとす るのを言う。すべて月の朔及び望の朝礼では、百官は暁をついて宮 闘に至り、︿漏﹀が五更三点を示し、宮門が聞くのを待って班列に随 ぃ、雁行して入るのである。︿九重﹀は、禁裏のうるわしくりっぱな ことを称する。﹃楚辞﹄に﹁君の門以て九重﹂と。︿九﹀の意味は前 に見える。︿酔﹀は、春色の立ちこめていること。唐では殿庭の聞に 多く花樹や柳を植えた。朝会の時、百官がその蔭に依るためである。 禁裏の名花は、この世のものではなく、されば︿仙桃﹀と称するの である。必ずしも西王母の故事を用いたものではない。けだし、し だいにあやめを分かつようになると、桃の紅く艶やかな花が天に映 え、殿庭の景色は澗漫と酔うがごとくである。桃花が酔いを含んで いるのだとみなす説もあるが、理解が浅い。按ずるに﹃礼記﹄玉藻 に寸朝するは色を耕じて始めて入り、君は日出でて之を視るしとあ るが、これはあやめを分かつようになってから、ようやく入朝する 情 景 を 一 言 う の で あ る 。 ( 注 目 ) 旋 旗 日 暖 一 一 γ テ 龍 蛇 動 キ 宮 殿 風 微 ニ シ テ 燕 雀 高 シ ※暖・:ホツコリ動・:ユラメク微:・ソヨノ¥ 濁 闘 争 一 一 薩 旗 イ 、 諸 く ノ 儀 杖 在 一 一 其 中 一 ↑ 失 。 護 者 須 一 一 想 像 シ テ 而 得 一 也 。 日 暖 J 一 戸 一 旭 日 始 テ 升 テ 暁 果 、 全 ク 融 イ ル ヲ 也 。 龍 蛇 ハ 童 日 ル 於 雄 旗 一 一 者 。 動 ハ 言 一 一 映に い げ テ 日 ニ 活 動 ゴ ヲ 也 。 此 即 君 出 テ 而 臨 レ 朝 一 一 之 時 也 。 風 微 ハ 朝 気 太 タ 静 ニ シ テ 細 風 徐 ニ 来 也 。 燕 雀 ハ 即 殿 廉 ニ 所 い 棲 ム 者 。 高 二 一 一 一 口 一 一 蝿 げ 風 ニ 高 ク 期 づ 也 。 ( 注 お ) J ( 注 お ) 一 一 一 聯 極 テ 寓 コ 春 朝 和 喧 ノ 光 景 イ 。 見 一 陣 和 シ 物 育 ス 泰 平 気 象 ↓ 。 龍 蛇 燕 雀 ( 注 幻 ) ( 注 お ) ノ ノ 員 一 服 取 レ 封 ヲ 、 謂 一 之 ヲ 借 封 汁 。 宮 殿 燕 雀 ノ 暗 ニ 用 一 一 大 度 成 テ 而 燕 雀 賀 ヌ ル 之 意 ↓ 。 時 職 山 ヵ 乱 後 、 殿 閣 新 ニ 修 ス ル 也 。 不 り ハ 然 ラ 和 バ ル ニ 人 ニ 用 二 燕 雀 ィ 、 不 レ 菟 一 一 唐 突 イ 奏 。 風 微 ノ 二 字 、 言 コ 朝 景 之 静 イ ル ヲ 、 而 形 一 一 容 ス 燕 雀 ノ , 一 ' ( 仲 間 m U ) ' J 軽 態 ↓ 。 宛 然 ト シ テ 如 レ 見 ル カ O 劉 須 渓 云 、 壮 麗 白 是 、 若 シ 非 日 ノ 微 ノ 字 ノ 清 酒 一 一 一 、 不 レ 克 一 一 療 肥 イ 実 。 (注目)︿旗﹀字、輯註には八餅﹀に作り、﹁俗に旗に作るは非 L と注する。宇都 { 呂 、 遜 庵 の 増 広 本 に も 挙 げ る 。 (注お)原文は、見字の下の﹁二 L 点を寸一﹂点に誤まる。 (注お)後漢・張衡寸帰国の賦 L ( ﹃文選﹄巻十五)に﹁仲春の令月、時和し気清 む ﹂ 、 同 じ く ﹁ 東 京 の 賦 ﹂ ( 同 上 巻 三 ) に ﹁ 陰 陽 交 和 し 、 庶 物 時 に 育 ず ﹂ と 。 (注幻)﹃夜航詩話﹄巻四に﹁真仮対を取る、之を借対と日ふ。亦た活対と日ふ﹂ といい、唐詩のみならず宋元詩からも多くの例を挙げている。 ( 注 お ) ﹃ 准 南 子 ﹄ 説 林 訓 に ﹁ 湯 泳 回 一 ( は り て 仙 開 設 相 弔 し 、 大 度 成 り て 燕 雀 相 賀 す 。 憂楽別るればなりしと。このこと、顧展﹃註解﹄に既に指摘する。 (注却)劉須渓は、宋末元初の文人(名は辰翁、字は会孟。二二ニ二
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一 二 九 七 ) 。 東陽が引く箇所は、劉辰翁批点・高楚芳編雇用千家註批点杜工部集﹄(巻 四)に見える。ちなみに、この書はわが国でも室町以降流布した。﹃天理 図書館善本叢書﹄(八木書底、一九八七年)に影印本が収められている。 黒川洋一氏の解題参照。 ただ︿控旗﹀を挙げているだけだが、各種儀伎の類はそのなかに含 まれている。読者は想像して分からねばならぬ。八日暖﹀は、旭日が ようやく昇って、明け方の寒さがすっかり消えたのを言うのである。 八龍蛇﹀は、︿薩旗﹀に描かれたもの。︿動﹀は、日光にきらめいて 動く様子。これは君がお出ましになり、朝廷に臨御される時の様子 にほかならない。八風微﹀は、朝廷のしいんと静まりかえった気配の そ よ か ぜ なか微風がおもむろに吹いて来ることである。︿燕雀﹀は、宮殿の軒 二宮俊博/津阪東陽吋土律詳解』訳注稿 端に棲んでいるもの。︿高﹀は、風に乗って高く期ぶことを言う。こ の一聯は、春の朝廷のおだやかな情景を描写している。時は和やか で万物がすくすくと育つ太平の気象をあらわしている。︿龍蛇﹀︿燕 雀﹀は、本物(真)と偽物(仮)とが対偶になっている。これを借 対という。︿宮殿﹀︿燕雀﹀は、暗に寸大慶成りて燕雀梱賀すしの意 を用いている。当時、安禄山の乱が終憶した後で、殿閣が新たに修 築されたばかりなのである。そうでなければ、人に和するのに︿燕 雀﹀の語を用いるのは、唐突の感を免れない。︿風微﹀の二字は、朝 廷の景色の静寂なるを言い、︿燕雀﹀の軽やかな様子を形容している。 ありありとまるで目に浮かぶようだ。劉須渓が云う、﹁壮麗なのはそ れでけつこうだが、もし八微﹀字のさっぱりとした感じがなければ、 ごてごてとした棋点を免れぬ﹂。 靭 罷 テ 香 煙 播 ニ 満 袖 一 一 詩 成 テ 珠 玉 在 一 一 揮 官 宅 一 一 ※満袖・:タモトニアマル 香 煙 ハ 御 鑑 ノ 香 気 。 機 二 満 袖 一 一 一 三 一 口 下 以 一 一 近 臣 ↓ 密 中 遁 ス ル ヲ 御 前 ド 。 唐 書 儀 ( 注 却 ) 衛 志 、 朝 ノ 日 宰 相 雨 省 ノ 官 ハ 封 一 知 一 於 香 案 ノ 前 一 一 、 百 官 ハ 班 コ 於 殿 廷 一 一 、 是 中 書 舎 人 ハ 班 近 一 一 香 案 一 一 。 即 其 詩 ニ 所 レ 云 衣 冠 ノ 身 ハ 惹 二 御 錨 ノ 香 イ 也 。 詩 ハ 指 二 買 ノ 所 一 J 作 。 珠 玉 ハ 比 一 一 詞 藻 之 美 イ 。 在 ト ハ 者 三 口 下 珠 玉 自 一 一 事 端 一 湧 出 す 也 。 (注幼)﹃新唐書﹄巻二十三上、儀衛志上に﹁朝の日、殿上に舗展・臨席・窯燈・ 香案を設く。御史大夫、属官を領して殿の酋燦に至り、従宮朱衣伝呼し、 百官を促して班に就かしむ。文武、両観に列す。監察御史二人、東西朝堂 の甑道に立ちて以て之に粒む。平明、伝呼皐はり、内門開く。監察御史、 百官を領して入る。階を爽み、監門校尉二人、門籍を執りて臼く、籍を唱 せよと。既に籍を視れば臼く、在りと。入り畢はりて止む。次の門も亦た 之の如し。班を通乾・観象門の南に序し、武班は文班の次に居る。宣政門 に入るに、文班は東門自りして入り、武班は西門自りして入り、関門に至 るも亦た之の如し。爽階校尉十人同唱し、入り畢はりて止む。宰相両省の 官は香案の前に対班し、百官は殿庭の左右に班す﹂云々と。文化情報学部紀要,第2巻, 2002年 (注担)貰至の寸早に大明{呂に朝し両省の僚友に皇す﹂詩のこと。この詩は、 (注お)(注必)にそれぞれ挙げる王維や本参の詩とともに﹃唐詩選﹄巻 五にも収められている。買至の原作は次のとおり。 銀 燭 朝 天 紫 陪 長 銀 燭 天 に 朝 し て 紫 陪 長 し 禁 城 春 色 暖 蒼 蒼 禁 城 の 春 色 暁 蒼 蒼 千 篠 弱 柳 垂 青 頑 千 条 の 弱 柳 青 墳 に 垂 れ 百 嚇 流 管 内 緩 建 章 百 嚇 の 流 驚 建 章 を 繰 る 剣 侃 聾 隠 玉 堤 歩 剣 侃 声 は 玉 堤 の 歩 み に 随 ひ 衣 冠 身 惹 御 鐘 香 衣 冠 身 は 御 鍾 の 香 を 惹 く ほ と り 共 泳 恩 波 鳳 池 上 共 に 恩 波 に 休 す 鳳 池 の 上 ひ ぴ 朝 朝 染 翰 侍 君 王 朝 朝 翰 を 染 め て 君 王 に 侍 す ︿香煙﹀は、御炉の香気。︿満袖に携ふ﹀は、近従の臣であるので御 前近くに侍っていることを言う。﹃新唐書﹄儀衛志に﹁朝見の日、宰 相および中書門下両省の官僚は、香炉の置かれた案凡の前に左右に 整列し、百官は殿廷に整列する﹂とある。中書舎人は、その位置が 香炉のある案九に近い。貰至の詩に云う﹁衣冠の身は御鐘の香を惹 く L にほかならない。︿詩﹀は、買至の作を指す。︿珠玉﹀は、詞藻 の 美 に 喰 え る 。 ︿ 在 ﹀ と は 、 ︿ 珠 玉 ﹀ が 筆 端 よ り 湧 き 出 る の を 一 一 一 一 口 う の で あ る 。 欲 パ ハ 知 わ 卜 世 ( 掌 リ 綿 織 ↓ 美 U 池 上 手 レ 今 有 ご 鳳 毛 一 ※世・:ダイノ¥糸給・:ミコトノリ池上:・ヤゴトナキ鳳毛・:チ、 ニ オ ト ラ ヌ ( 注 明 記 ) 締 輸 ハ 謂 一 一 制 詰 イ 。 暗 記 ニ 王 言 如 レ 締 ノ 、 其 出 コ ト 如 レ 論 ノ 0 美 ハ 謂 一 女 子 耀 ( 注 お ) 一 レ 美 ヲ O 左 惇 ニ 世 ︿ 済 ユ 其 美 イ 。 世 美 ノ 字 本 山 ク 此 一 一 。 池 ハ 鳳 皇 油 、 謂 一 一 中 ( 注 弘 ) 書 省 ↓ 。 青 書 ニ 萄 昂 白 二 中 書 監 一 貫 一 向 書 令 ぺ 。 人 賀 川 之 ヲ o 晶 目 、 奪 一 ハ 一 レ 我 鳳 皇 池 ゴ 何 ソ 賀 ス ル 也 。 蓋 中 書 ハ 凝 遼 、 故 ニ 以 比 コ ル 天 上 ノ 鳳 皇 池 一 一 一 也 。 ( 注 お ) ( 注 苅 ) 南 史 ニ 宋 ノ 謝 鳳 ヵ 子 超 宗 有 一 文 辞 一 。 孝 武 見 一 一 其 文 イ 、 嵯 賞 目 、 超 宗 殊 ニ 有 二 鳳 毛 一 。 謂 一 一 一 其 得 コ ル ヲ 父 之 文 采 ↓ 、 因 一 J 父 ノ 名 一 一 以 比 コ ル 鳳 之 羽 毛 一 一 也 。 ( 注 幻 ) 公 自 註 ニ 舎 人 先 世 嘗 テ 掌 一 J 総 論 イ 。 按 コ ル ニ 唐 書 ザ 、 買 曾 景 雲 中 擢 一 寸 中 書 舎 人 一 一 o 子 至 天 賓 ノ 末 又 奔 す ル 中 書 舎 人 一 一 。 父 子 櫨 レ 美 ヲ 、 明 皇 嘗 テ 構 内 之 ァ 。 此 更 ニ 推 開 テ 泥 ク 向 一 J世 人 一 一 一 種 以 之 ヲ 。 欲 パ ハ 知 町 貰 氏 掌 一 J テ 詔 詰 イ 、 世 く 漕 一 一 其 美 イ 之 盛 廿 ル ヲ 、 須 レ 見 刊 鳳 皇 池 上 、 貴 要 之 地 、 子 げ 今 ニ 有 一 一 鳳 毛之相櫨一、不勺唯其父而巳勺世。此篇前回句阜ニ朝コ大明富一一、後 四 句 美 一 一 買 舎 人 イ 世 。 第 五 匂 言 一 一 退 朝 之 事 一 、 結 げ 上 生 川 下 ヲ o 第六句言 コ 舎 人 有 汀 ヲ 詩 、 就 テ 讃 二 美 ス 之 イ 。 結 更 推 本 ツ キ テ 賛 コ 父 子 縫 レ 美 ヲ 之 盛 ( 注 お )
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施 テ 及 一 一 先 世 一 一 、 厚 キ 之 至 也 。 顧 修 遠 註 一 一 二 品 、 因 一 一 一 賀 原 唱 ニ 有 一 一 鳳 池 ノ 三 字 一 、 公 遂 ニ 折 一 一 用 ス 之 て 以 賛 コ 父 子 縫 っ 川 ヲ 美 ヲ 。 蓋 世 く 掌 コ ハ 総 論 ( 注 泊 ) ( 注 羽 ) ィ 、 惟 賀 氏 ノ ミ 信 用 レ 然 リ ト 0 王 維 本 参 之 和 亦 皆 用 一 一 鳳 池 イ 。 倶 不 レ 過 一 } 瓦 ク 言 一 一 一 中 書 イ 、 未 レ 克 一 一 雷 同 イ 、 而 公 ハ 則 用 テ 以 稽 コ 父 子 イ 。 不 レ 可 三 移 易 テ 以 和 コ 他 人 一 一 o 是 公 詩 所 一 一 以 濁 歩 ゴ 也 。 (注お)﹃礼一記﹄絡衣篇。天子の言葉は絹糸のように細くとも、臣下はそれを給 (官印を身に結ぶ組紐)のように心得るという意。 (注お)﹃左伝﹄文公十八年に﹁世よ其の美を済し、其の名を隙さず L 。 じゅんきょく (注泊)﹃血日室田﹄巻三十九、萄島伝に﹁(萄)鼠久しく中警に在り、機事を専 管す。之を失ふに及び、甚だ問問恨恨す。或いは之を賀する者有り。国助日 く、我が鳳風池を奪ふに、諸君我を賀するやと﹂とある。 (注お)﹃南史﹄巻十九、謝霊運伝に附された謝超宗の伝によ謝)鳳の子超宗、 (中略)好学にして文辞有り。盛んに名誉を得。新安王(劉)子驚の国常 侍に選補せらる。王の母、殺淑儀卒す。超宗、誌を作り之を奏す。帝大い に礎賞し、謝荘に謂ひて日く、超宗殊に鳳毛有り、霊運復た出づと﹂と見 える。ちなみに、超宗は、劉宋・謝霊運(三八五1
四 二 一 三 ) の 孫 に あ た る 。 (注お)原文には有字の下に﹁二 L 点を紋く。今、これを補う。 わ か (注幻)﹃新唐室田﹄巻一一九、賢曾伝に﹁ E 墨田、河南洛陽の人。(中略)曾少く して名有り、景雲中、吏部員外郎と為る。玄宗太子と為り、宮僚を議選し、 曾を以て舎人と為す。(中略)俄かに中書舎人に擢んでらるるも、父の嫌 名(父の名、一言忠の忠が中書舎人の中と音通)を以て拝さず、諌議大夫・ 知制詰に徒る﹂とある。景雲は、容宗の年号(七一01
七一二)。また買 曾伝に附された貰至の伝に﹁至、{子は幼鄭。明経の第に擢んでられ、褐を ぜ ん ぽ 単父の尉に解く。玄宗、萄に幸するに従ひ、起居舎人・知制諮を拝す。帝、己 位を伝へ、至、冊を譲するに当たり、既に棄を進む。帝日く、昔、先天の つ く な ん ぢ 詰命は、乃の父之が辞を為る。今蕊の命冊は、又た爾之を為る。両朝の 盛典、卿が家の父子の手に出づ。美を継ぐと謂ふ可しと。至、頓首し、流 沸鳴咽す。中書舎人を歴す L 云 々 と あ る 。 (注総)顧展﹃註解﹄に寸買が詩に鳳池の二{子有るに図って、公遂に云ふ、池上 お よ 今に子いて鳳毛有りと。蓋し陛よ糸給を掌るは、曹一氏のみ然りと為す。買 が 鳳 池 は 、 泥 く 鳳 恩 池 を 一 マ 一 口 ふ に 過 ぎ ず 。 而 し て 公 の 属 和 、 遂 に 賀 氏 父 子 を 撃定し、移し易へて以て他人に和す可からず。公の詩独歩する所以なり﹂ と。宇都宮遜庵の増広本にも挙げる。 (注ぬ)王維(字は摩詰、七
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一1
七六一)が唱和した詩は、次の如くである。 当時、王維は中書舎人(正五日間上)であった。 経憤鶏人報暁筆一苛鋒績の鶏人暁筆一司を報じ 命 衣 方 選 翠 雲 菜 尚 衣 方 に 進 む 翠 雲 菜 九 天 閣 閣 開 宮 殿 九 天 の 間 関 宮 殿 聞 き ぺ ん り ゅ う 蔦 函 衣 冠 奔 回 免 疏 万 国 の 衣 冠 見 旗 を 拝 す 日 色 穣 臨 仙 掌 動 日 色 縫 に 仙 掌 に 臨 ん で 動 き 香煙欲傍衰龍浮香煙衰龍に傍ふて浮ばんと欲す す ぺ か 朝罷須裁五色詔朝罷みて須らく五色の詔を裁すべし 開設管轄仰向鳳池頭現声帰り向ふ鳳池の頭 (注必)本参(七一五1
七 六 九 ) が 唱 和 し た 詩 は 、 次 の 如 く で あ る 。 当 時 、 写 会 ノ ノ も同じく中書省に属する右補関(従七品上)の任にあった。なお、これは 杜甫らの推薦によるもの。日﹁省中の院患に題す L 詩 の ( 注 3 ) 参 照 。 ハ リ 鶏鳴紫陪曙光索、鶏は紫陪鳴いて曙光案、く 鴬噂由主州春色関驚は自主州に鳴いて春色闘なり 金 関 暁 鐘 開 高 戸 金 闘 の 暁 鐘 万 戸 を 開 き 玉 階 仙 伎 擁 千 官 玉 階 の 仙 佼 千 官 を 擁 す 花迎剣侃星初落花は剣細川を迎へて星初めて落ち 柳携旋旗露未乾柳は娃旗を払ひて露未だ乾かず 濁 有 鳳 風 池 上 客 独 り 鳳 恩 池 上 の 客 有 り み な 陽 春 一 曲 和 皆 難 陽 春 一 曲 和 す る こ と 皆 難 し ︿糸輪﹀は、制詰のこと。﹃礼記﹄に﹁王言は糸の如し、其の出づる こと輸の如し﹂と。︿美﹀は、父子で美を継ぐこと。﹃左伝﹄に﹁世 二宮俊博/津阪東陽「杜律詳解』訳注稿 よ其の美を済すしとあり、八世﹀八美﹀の字は、これに基づく。八池﹀ は鳳風池、中書省のこと。﹃晋書﹄につ萄晶が中書監から尚書令に昇 進した。人がおめでとうと言うと、萄自助日く、わしの鳳風池を奪わ れて、何のめでたいことがあるものかと L 。けだし中書省は幽還の地 にあるので、天上の鳳恩池に比すのである。﹄同史﹄に﹁宋の謝鳳の 子、超宗には文辞の才があった。孝武帝がその文章を見て、嘆賞し てき口った。超宗には特別に鳳毛があると﹂。その父の文才を受け継い だことをいい、父の名に因んで鳳の羽毛に比したのである。公の自 注 に 寸 舎 人 の 先 世 、 嘗 て 糸 輸 を 掌 る ﹂ と 。 守 唐 書 ﹄ を 按 ず る に 、 ﹁ 面 賢 一 位日は景雲年聞に中書舎人に抜擢された。子の至が天宝末にまた中書 舎人を拝命し、父子で美を継いだのを明皇がかつてこれを称えた﹂ とある。ここではさらに押し広げてあまねく世人に向って推称して いるのである。曹一氏が詔詰を掌り、代々その︿美﹀を済すことの盛 んなるを知ろうとすれば、鳳風池の上、貴要の地において、︿今﹀も ︿鳳毛﹀がちゃんと受け継がれており、ただその父だけではないこ とをとくと見なければならない。この篇の前半四句は︿早に大明宮 に朝す﹀ことで、後半四句は︿買舎人﹀を称えたものである。第五 句は、朝廷より退出することを言い、上に述べたことをまとめ以下 を導き出している。第六句は、︿舎人﹀に詩が有ることを言い、それ について讃量一大している。結びでは、さらに拡げて父子が︿美 V を 継 ぐことの盛んであるのを讃えており、先代にまで説き及ぼしている のは、手厚いかぎりである。顧修遠の註に云う、﹁買至の原作に︿鳳 池﹀の二字があることから、公はこれをふたつに分けて用い、父子 が美を継ぐことを讃えている。けだし代々︿糸輪﹀を掌ったのは、 ただ賀氏だけがそうであった。王維と本参の唱和した作に同じくど ちらも︿鳳池﹀の語を用いているが、いずれも一般的に中書省を指 して言うに過ぎず、雷同を免れぬ。しかるに公はそれで父子を称し、 移し易えて他人に唱和することはできない。これぞ公の詩が独歩して世に並ぶ者のないわけだ L 。 文化情報学部紀嬰,第2巻, 2002年 間 宣 政 殿 退 朝 暁 二 出 一 一 左 披 イ ︹ ( 注 1 ) ( 注 2 ) 披 音 突 、 正 門 芳 下 ノ 小 門 也 。 漢 書 ノ 注 ニ 披 門 在 一 一 雨 芳 一 一 、 若 一 入 之 管 服 ソ 也 。 唐 中 書 門 下 ノ 雨 省 在 二 宣 政 殿 門 ノ 左 右 一 一 。 門 下 省 在 レ 左 ニ 、 故 ニ 謂 一 一 之 ヲ 左 披 寸 。 公 貫 一 拾 遺 ¥ 属 ユ 門 下 省 一 一 。 此 詩 朔 或 ハ 望 、 早 ニ 朝 一 J 中 日 一 政 殿 一 一 一 、 朝 罷 テ 闘 テ 入 一 一 左 省 一 一 、 興 一 同 僚 一 廿 一 ( 一 一 修 レ 職 ヲ 、 及 一 げ 暁 ニ 退 出 、 y テ 市 還 一 一 私 第 一 也 。 ( 注 1 ) 例えば、﹃広韻﹄に披字に注して﹁一に臼く、正門の芳の小門なり﹂と。 ( 注 2 ) 輯註(巻四)に挙げ、宇都宮遜庵の増広本に引く o ﹃ 漢 書 ﹄ 巻 十 、 成 帝 紀、建始三年の条、唐・顔師古の注に﹁披門は両芳に在り、人の皆肢の如 くなるを言ふなり﹂と。 、 え き ︿披﹀、字音は英、正門わきの小円である。﹃漢書﹄の注に寸披門は、 両脇にあり、人体でいえば蔽のようなものである﹂と。唐代、中書・ 門下の両省は、︿宣政殿﹀門の左右にあり、門下省は左側にあったの で、これを︿左披﹀という。公は、拾遺となり、門下省に属した。 この詩は、月の朔もしくは望に、朝早く︿官一政殿﹀に参内し、朝儀 が終わってから左省たる門下省に入り、同僚とともに職務を執り、 ︿晩﹀になって退出して私邸にもどるのである。 天門日射ル黄金構春殿晴レ曝ス赤羽旗 ※ 射 ・ : テ ラ ス 腰 山 ・ : ヵ 、 ャ ク 射 謂 一 剥 ニ 照 づ 。 黄 金 梼 ハ 謂 一 一 金 装 ノ 門 肩 イ 。 蓋 殿 門 掲 レ 額 ァ 以 レ 金 ヲ 塗 レ ( 注 3 ) 字 ヲ O 朝 日 韓 ニ 上 、 便 先 映 射 也 。 聴 ハ 日 入 ル 飴 光 。 此 猶 レ 一 一 一 一 口 レ 耀 ク 十 也 。 ( 注 4 ) ノ ( 注 5 ) 一 一 一 作 レ 重 勺 。 一 一 コ 口 一 一 若 レ 護 レ 香 ヲ 然 づ 也 。 赤 羽 旗 ノ 即 朱 雀 之 量 一 回 一 旗 。 諸 珪 旗 ( 注 6 ) 中 、 此 尤 燦 欄 タ リ o 故 ニ 特 ニ 一 一 一 口 レ 之 ヲ O 一 聯 言 ⋮ 一 殿 廷 文 物 、 朝 景 目 暗 イ 也 。 ( 注 3 ) ﹃集韻﹄平声二、文韻に﹁隠は、日入る絵光しと。﹃古今韻会挙要﹄巻五 も同じ o J 韻会﹄は、宇都宮遜庵の増広本に引く。 ( 注 4 ) 銭注(巻十)及び輯註に﹁一に票に作る L と。輯註は、宇都宮遜庵の増 広本もこれを挙げる。 ( 注 5 ) ﹃ 唐 詩 解 顕 ﹄ に 見 え る 。 ( 注 6 ) 隠は、﹃集韻﹄に寸大目なり﹂とあるが、それでは意味が遥じにくい。 自 に み ち る こ と を 一 言 う の で あ ろ う か 。 ︿射﹀は、斜めに照らすこと。︿黄金傍﹀は、黄金で装飾された門匿 のこと。けだし殿門には額を掲げ金で文字を塗つであるのだろう。 朝日が少しでも昇ると、すぐにまず光にきらめくのである。︿曝﹀は、 日が沈む時の飴光。ここは、耀くと言うのとほぼ同義。一に黒に作 る 。 匂 い た つ よ う で あ る の を 一 一 一 一 口 う 。 ︿ 赤 羽 旗 ﹀ は 、 朱 雀 の 描 か れ た 旗 。 さまざまな旗のなかで、これがとりわけきらきらと輝いている。そ れで特に一一一一口う。この一聯は、殿廷の文物で朝の景色の目に映ったも の を 言 う 。 ( 注 7 ) 一 、 宮草罪罪承コ委侃イ櫨畑細細駐日遊綿イ ※宮草・:カラシパ葬葬・:ヒラノ¥細細:・チラノ¥ ( 注 8 ) 払 哨 9 ) O 罪 嘗 レ 作 レ 葬 ニ o t 井一非ハ搬草盛貌承ハ受也。委側ハ謂二阿川玉之垂下
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也 。 ん 町 酌 ニ 主 ノ 侃 垂 ル レ ハ 則 臣 ノ 侃 ハ 委 ス O 蓋朝撞所い立庭上、細草鋪げ 地 ニ 如 レ 聾 ノ 。 其 向 け 殿 ニ 拝 伏 ス 、 侃 障 テ 委 り テ 地 ニ 、 而 草 便 受 レ 之 ヲ 、 如 一 一 ( 注 目 ) 相待者 V 也。蝿姻ノ御櫨ノ香畑。唐書儀衛志ニ朝日ノ殿上設二重⋮蝿香案 一 ( 注 ロ ) J イ。遊締二名陽焔。春空揺曳之気乍族リ乍散スル者。此則長ク在、故 一 一 日 レ 駐 ト o 言 庭 上 御 櫨 ノ 香 畑 、 長 邑 一 説 如 ロ シ テ 纏 ノ 而 上 り 、 繋 一 一 住 シ テ 遊 締 イ 而 令 レ 不 レ 散 E 也 。 其 賓 ハ 櫨 姻 上 リ テ 而 不 レ 絶 、 停 一 駐 シ テ 空 中 一 一 一 如 一 一 遊 締 日 爾 。 蓋 御 櫨 在 一 一 階 前 之 庭 一 一 也 。 一 聯 以 一 一 傭 何 イ 局 レ 封 ヲ 、 見 二 晴 景 和 喧 、 天 静 ニ シ テ 無 一 J 風 。 ( 注 7 ) 八雰暗号、銭注は︿微微﹀に作り、﹁一に葬罪と云ふ﹂と。輯註も同様。 ( 注 8 ) 釈大典﹃唐詩解顕﹄に罪字の下に注して﹁通パ葬一一﹂と。なお、明・万 暦四十六年(一六一八)刊の坊刻本﹃新刻李衰二先生精選唐詩訓解﹄(巻 五)は︿霧器非﹀を八奔葬﹀に作る。この﹃唐詩訓解﹄には、寛文年間(一 六 六 一1
一六七二)以前に刊行された和刻本がある。ちなみに、李は李墾 龍 ( 字 は 子 鱗 、 号 は 治 演 。 一 五 一 四1
一 五 七O
)
、 哀 は 哀 宏 道 ( 字 は 中 郎 。 一 五 六 八1
一 六 一O
)
のことで、その名に偽託したもの。江戸初期におけ同 る﹃唐詩訓解﹄の受容については、日野龍夫校注﹃唐詩選国字解 1 ﹄ ( 平 凡社東洋文庫、一九八二年)解説参照。 ( 注 9 ) 何か基づく所あるのか、不明。 (注目)﹃礼記﹄曲礼下に寸主の侃侍れば、則ち臣の侃垂れ、主の侃垂るれば、 則ち臣の側委す﹂と。侍は身体につき、委は地面につくこと。 (注目)側﹁買主古人早に大明宮に朝するを奉和す L 詩 の ( 注 ぬ ) 参 照 。 (注ロ)﹃唐詩解顕﹄に初唐・慮照郊の﹁長安古意﹂に見える︿遊糸﹀の語に注 して、﹁春日晴ル時、空中揺曳之気﹂という。しかし実際は、﹁くもや小虫 などが始めてかえったときについた細い糸が無数に空中に飛びただよう もので、春の景物になっている。日本では比較的すくないので、よく陽炎 (水蒸気の作用で生ずる現象)のこととまちがえられている﹂(集英社漢 詩大系 6 ﹃ 唐 詩 選 ﹄ 、 斎 藤 嫡 訳 注 ) 。 こ の こ と 、 川 口 久 雄 ﹁ ﹃ か げ ろ ふ 日 記 ﹄ の書名について︿かげろふ﹀の語義とその変遷 │ L ( ﹃西域の虎!平安朝 比較文学論集﹄収録、吉川弘文館、一九七四年)に指摘。なお、顧震の﹃註 解﹄には﹁妹糸の遊散する者﹂という。 ︿暗号は、当然︿弄﹀に作るべきだ。︿弄奔﹀は、若草がやわらかに 萌えるさま。︿承﹀は、受である。︿委侃﹀は、鋼玉が垂れ下ること である。﹁曲礼﹂に寸主の伽垂るれば則ち臣の侃委す﹂と。けだし朝 礼で立つ庭には、細い︿草﹀がびっしりと地面を敷きつめ、毛艶の ようであったのだろう。宮殿に向かって拝伏すると、侃玉がそれに つれて地面に︿委﹀し、︿草﹀がこれを受けて、待ち構えているよう である。︿嬢畑﹀は、御炉の香畑。司唐室田﹄儀衛志に﹁朝の日には殿 上に重⋮櫨・香案を設ける﹂とある。八遊糸﹀は、一名陽炎。春空にた だよう気で、むらがったかと思うとあっという間に散ずるもの。こ こでは長くとどまっているので︿駐﹀という。その意味は、殿庭の 上にある御炉の香畑がゆらゆらと細い糸のように立ち上り、︿遊糸﹀ を繋ぎとめて散らさないようにしているということである。実際は、 ︿櫨畑﹀が絶え間なく上がり、空中にとどまって︿遊糸﹀みたいで あるのだ。けだし御炉は、階前の庭にあるのであろう。この一聯は、 備して見たものと仰いで見たものとを対偶にしている。晴れわたっ 二宮俊博/津阪東陽『杜律詳解」訳注稿 た景色はのどかで暖かく、穏やかで風ひとつないことがみてとれる。 ﹁ 主 は J 雲 近 一 J テ 蓬 莱 一 一 常 一 一
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雲 建 リ モ 鴻 鵠 一 一 亦 多 時 ナ ラ ン ヤ ※ 多 時 : ・ ホ ド ナ カ ラ ン ( 注 目 ) 蓬 莱 ハ 即 大 明 宮 。 高 宗 ノ 時 改 テ 日 一 一 蓬 莱 宮 寸 。 取 コ 殿 後 ノ 蓬 莱 池 イ 矯 レ 名 ト o ヘ 主 S J 以 擬 -一 海 上 ノ 仙 山 一 一 。 後 二 復 帰 二 大 明 宮 づ 。 此 仰 テ 見 二 朝 霞 映 九 ヲ 宮 ニ 、 因 テ 一 一 首 フ o 雲 成 コ ハ 五 色 て 仙 嚢 ノ 瑞 気 、 N 4晶 一 近 ゴ 蓬 莱 一 一 、 故 ニ 常 ニ 然 ル 也 。 常 ニ ト ハ 者 不 二 濁 今 朝 リ ミ ナ ラ 也 。 沈 約 ヵ 宋 書 ニ 慶 雲 五 色 ハ 者 、 太 平 之 躍 也 。 ( 注 刀 ) 一 i -暗 ニ 用 一 J 此 意 イ 以 寓 パ 祝 。 鶏 鵠 ノ 漢 ノ 宮 観 メ 名 。 借 用 テ 以 封 言 語 莱 一 一 。 謂 二 ( 注 目 ) 深 宮 ノ 殿 関 イ 。 亦 多 時 ハ 加 二 畳 ノ 宇 一 看 。 一 一 一 一 口 レ 富 一 一 不 ザ 日 ナ ラ 消 融 べ 也 。 二 ( 注 目 ) 聯 皆 自 一 一 春 晴 ノ 二 字 一 来 ル O 朝廷閉暇、瑞日照照、泰平ノ気象、完シ出 γ 蓋 セ リ 突 。 (注目)︿五色﹀、銭注及び輯註は八好色﹀に作る。 ( 注 M ) 鵬﹁買至舎人早に大明宮朝するを泰和す﹂詩の(注 6 ) 参 照 。 (注目)﹃史記﹄秦始皇本紀および封禅室田に、溺海にあるという三神山の一っと して蓬莱の名を挙げる。 ( 注 v m ) 梁 ・ 沈 約 ( 四 四 一1
五 一 二 一 ) の ﹃ { 木 室 田 ﹄ 巻 二 十 九 下 、 符 瑞 志 下 に ﹁ 雲 に 五色有る、太平の応なり。慶雲と日ふ。雲の若くして雲一に非ず、煙の若く して煙に非ず、五色紛組、之を慶雲と謂ふ﹂と。 ( 注 口 ) 前 漢 ・ 可 馬 棺 如 ﹁ 上 林 の 賦 ﹂ ( ﹃ 文 選 ﹄ 巻 八 ) に ﹁ 石 闘 を 楚 し 封 時 間 を 歴 し 、 鶏鵠を過ぎり露寒を望む﹂とあり、張揖の注に﹁此の回観(石関・封轡・ 鶏鵠・露寒を指す)は、武帝建元中に作る。雲陽甘泉宮外に在り﹂と。 (注目)﹃夜航詩話﹄巻五に同様の指摘がある。 ( 注 目 ) ﹃ 唐 詩 集 註 ﹄ 巻 五 に 、 こ の 詩 を 載 せ 、 ﹁ 中 ノ 四 旬 、 応 コ 春 精 一 一 一 ﹂ と 。 ︿蓬莱﹀は、即ち大明宮のこと。高宗の時、改めて蓬莱宮といった。 宮殿の背後にある蓬莱池から取って名づけられたのである。東海上 にある仙山の名に擬えた。後に再び大明宮とした。これは仰いで朝 がたの赤い雲気が宮殿に映じているのを見て、それで言う。八雲﹀が ︿五色﹀をなしているのは、仙界の瑞兆の気で、︿蓬莱﹀に近いこと から、いつもそうなのである。︿常に﹀とは、今朝のみに限ったこと文 化 情 報 学 部 紀 要 , 第2巻, 2002年 ではないのである。沈約の﹃宋書﹄に﹁慶雲が五色であるのは、太 平の応徴である﹂と。暗にこの意を用いて祝意を寓している。︿鶏鵠﹀ は、漢の宮殿の名。借用して︿蓬莱﹀と対にしている。深宮の殿閣 のこと。︿亦多時﹀には、宣の字を加えて看よ。きっと日ならずして 消え溶けてしまうに違いないことを言う。以上の二聯は、いずれも ︿春﹀︿晴﹀の二字から来たものである。朝廷はのんびりとして何事 もなく、めでたき陽光がうらうらと照らす。泰平の気象をすっかり 描き尽している。 侍 臣 緩 歩 シ テ 謂 U 青 潰 ↓ リ 退 食 従 容 ト シ テ 出 ル コ ト 毎 ニ 遅 シ ※緩歩:・シヅノ¥ト従容・:ユツタリ毎・:イツノヒモ ( 注 却 ) 、 ( 証 明 以 ) 侍 臣 ハ 公 自 謂 。 青 璃 ノ 既 弓 見 。 闘 で 車 円 環