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ma
p.
wa
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see{iklfi*e}k
ey
ig
g
mE
s
as
op*
ZeitbewuBtsein
undSubjektivitdt-Eine
phanomenologisehe
Betraehtung
Hideaki
IwANo
Was
behandeln
wirin
dieser
Abhandlung
?
Wir
fragen
uns ursprUnglichUber
die Zeit Aristotelesdefiniert
sie objektiv,die
Zeit
sei die Zahl(arithmos)
der
Bewegung nachdem
Frtther und Spater.Aber wir sollen die Sache selbst sehen. Das erm6glicht die phljnomenologische Methode. Was
ist
die
phljnomenologische
Zeit
?
Husserl,
der
Grttnder
der
Phtinomenologie,
beschreibt
dieStruktur
der
Zeit
als den selbst-gebenden
Akt,
d.h.Wahrnehmungsakt,
und die Retention. Es istbemerkenswert, daBdiese
Zeitstruktur
nicht mehr die objektive Zeit,sondern dasZeitbewuBtsein
ist.Aber
wokann
mandas
Subjektive
des
ZeitbewuBtseins finden? Husserl nennt den BewuBtseinsfluB "die absoluteSubjektivitat."
Was istdie
Subjektivitat
in dem ZeitbewuBtsein?Um
die Subjektivitat zu begreifen,kOnnenwir
dasBewuBtsein
nach zweiMomenten
betrachten:Passivitat
und Aktivitat. DieUrimpression
und dasZeitbewuBtsein
sind passiy. DieSynthesis
der Zeit istpassiv.Im
Rahmen
der
Husserls
Phanomenologie
istdiese
PassivittiteineRUckbezUglichkeit,
die
ein philosophischesPrinzip
ausdrifckt.Aber
eine anderePhtinomenologie,
d.h.
Merleau-Pontys
Phtinomenologie,
hat
das
Prinzip verneint. Wir, mit M-Ponty, rnUssen diePassivitat
immer tiefer erfassen.Sie
bedeutet das In-der-Situation-sein(un
ateren situation).Anderseits nennt man
die
Subjektivittit"Aktivitat."-Wes fur eine Beziehung auf das ZeitbewuBtsein,oder, vom
M-Pontys
Standpunkt
aus gesagt,die
Zeitigung,hat
die
Subjektivitat
?
Die
Subjektivittit
unddie
Zeit
sinddasselbe.
Im
welchemSinne
?
"DieSubjektivitat
Ubernimmt
und lebt(od.
erlebt)die
Zeit."
(M-Ponty)
Die
subjektivistischeSubjektivittit
konstituierte
die
Welt
mit einer ewigenSouvertinittit.
Aber die
Ewigkeit
ist
nichts andres als "Quasi-Ewigkeit"(quasi-eternite),
deren Analyse von M-Pontyuns einen tieferen,ontologischen
Begriff
von derZeit
gegebenhat.
So
ist
die
wahreSubjektivitat,
diedie
Zeit
lebt,
nichtdie
subjektivistischeSubjektivittit.
Die
Subjektivittit
grUndet sich auf dieWelt,
die nicht mehr die objektive Welt, sondern die vor-objektive
(pre-objectif)
Welt ist,und die Zeit, diesie
tibernimmt
undlebt,
ist
nichtimmanent,
sondern transzendent, Gegenwart bedeutetPrasenz
in
der
Welt.
Auchdie
Vergangenheit
ist
in derWelt
prasent. Retention ist,etwas zu halten, wie es war.Sowohl
das
Subjekt
als auchdie
Zeit
grUndet sich aufdie
ursprtinglicheWelt,
die
gegen das BewuBtsein und die objektiveWelt
fremdist,
und zwischenbeiden
liegt. Das Subjekt und dieZeit ergtinzen einander,und
damit
bringen
sieihre
wahrenGestalten
ins
klare.
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NII-Electronic Library Service
鞠
相 模工 業大学 紀要 第4巻 第 1号 批判し てい っ た領 域の うちの一
つ で ある。 これ らの実 存 哲 学 者が受けた思 想 的 影響は, 勿論キル ヶ ゴー
ル , =一
チ ェ 等の主体的 体 験に源 を 発 する。
そ し てこれ らの主体 的 体験の哲 学は, 伝 統 的な 学 的構成 を 極め て価 値の低い もの と 見 た が,
し か し これ らの 影 響 を蒙むっ た 後の 実 存 哲 学 者達は必 らずし も学 的構成 と言うもの に反 感を抱い たの で はな く, む し ろ 自 分 以 前の時代に権威をもっ て い た学を解 体し再 構成 し て ゆ くと言っ た学へ の新たな意 欲 を示 した の で あ る。 (後期に おけ るハ
イ デ ッ ガー
は 例 外 で ある。
〉フ ッ サー
ル の現 象学は, 近 世 哲 学の 伝 統を批 判 的に受け 継い だ学 的 構 成の哲 学で あるが, 実 存哲学は こ こに彼等の 解 体 と再 構 成の 目標 をとらえた。
こ の よ う な 関 連に おい て時間意 識の構 造の問題は彼等に とっ て根 本 問 題の一
つ と な る。 メ ル ロー
・ ポン テ ィ は彼 自身言 う よ うに, 「意識 と 自 然との関 係」の 問題に想いを 凝 ら した哲 学 者で ある1) 。その関 係は彼の言 う ところの両義性が基礎に置か れ るこ とに よっ て理解さ れるべ き もの で ある。 時 間性の 問題も
.
.
ロ
リ
い わ ゆる両 義 性の哲 学 (ド
・
ヴ ァー
レ ソ の 語 ) の展 開の一
部を成 すが , メル ロー。
ポンテ ィは, フ ッ サー
ル , サ ル トル , ハ イデッ ガー
との思 想 的対 決をこ こで も遂行す る。 メ ル ロー
。 ポ ンテ ィ は, 「コ ギ トー
」と 「自 由」の問 題と共に 「時 間性」 の問 題を, 「対 自存 在と世界に お け る 存 在」なる名の章 下に ま とめ る。 「身 体」や 「世界」につ い て の考 察の後に, 伝 統 的に は主 と して意 識の領 域に根 づ い てい ると考え られ た 問 題へ 進ん だの である 。 時 間性 の概 念は果し て意 識それ 自身に包 まれ るべ き もの で あろ うか。 こ の問い はメ ル ロー
・ ポンテ ィに とっ て の 問題で あると同 時に 我々自 身の問 題で も ある。
時 間の 問題は, ア リス ト テ レ ス以来哲 学者の意 識を去 っ た こ と が ない 。 「時間と は, 〈前 〉 と 〈後〉 とに関 する 運動の数で あ る」 と言 う定
義
は有 名であるP} 。 これは フ ッ サー
ル の言 う 「客観 的 時間 」に属 す るもの で あろう。 けれ ど もア リス トテ レ ス の次の 言葉は ど うで あろ うか。
「そして もの は 時 間に よ っ て 変 化 を蒙むる (πd
σXSC)」 と 述べ られてい るSj。 変化を蒙む る ところの 「もの」 と は一
体い か な る本性 を持つ 「もの 」 なの で あ ろ う 。 「もの 」 は 〈Tt>に当て た筆者の訳で ある が,
これ が 〈τ0 δレ〉を意 味 す る とし て も 問 題は か たつ か ない4} 。 結局 ア リス ト テ レ ス の時間の定 義に帰 らねば な らない で あろう。 ア リス ト テ レ ス に お け る時間 概念は客 観的時間に 終始 し, 「も の 」 も 「存 在」 も客観的 次 元に と どまっ たよ うに 思 える。
し か し, 「変 化 を蒙 むる」と言 う事実
は どこまで 客 観 的 キ ネ シ ス 定義と両 立 し得 る ものか は, 問 題である。 変 化は 〈前〉 と 〈後
〉の地 平におい て どこま で把握され 得るか。
我々 は 以 下に お い て
,
時 間 概 念の現 象 学 的 考察を主 体 と して,
その周 辺に在る主 観 性の問 題を取り扱う。 しか しこ の 二つ の問 題, 時 間 性 と 主観性, と は密 接な関 係に ある。
時 間 と 主観とは互い に 内 的 な 関 係に あり, 両者を 分けて論 ずると して もそ れは事 柄 自体の性質に よ るので は な く, 表現 方 法の功 利 性に 由 来 する もの で ある。 メ ル ロー・
ポン ティ も , 「我々は 時 間そ れ 自身を考 察しな け れ ば な らない の であり, その 内的 弁 証 法につ い てゆ くこ とに よっ て は じめ て主観の概念
を鋳直
すところへ 導かれ る」 と述べ て い るS〕 。L
時 間 意 識
構 造 フ ッ サー
ル に よれ ば,
過去の現 在に対す る関 係は, 把 持 志 向 (Retention)の 概念に よっ て構成 される。 我々は フ ッサー
ル に従っ て時 間 意 識の構造を, 自己附 与的 作 用 と し ての 知覚
ないし根 源 印象の 概 念まで た どっ て 行こ う。
その 上で,
さ ら に如 何な る問題が在り, フ ッ サー
ル に おい て は如何に取 り扱わ れ たか を考 察 するこ とに し よ う。
過 去 の現在に 対 する関 係は, 時間構 造の 最 も本質的 な形 態, 言 わぽ原型と考え られる。 未 来の現在
に対 する 関 係は, こ の原型の現 在の時 点を中心 と した 対称 図 形と して 考 え られる。 即 ち Protention (未 来 志 向 )は,Retention
の時 間的 対 称 形であ る。 従っ て時間意 識の分 析に おい て はRetention
に特別の 重 心 がか かっ て 来る の で ある。 それで は Retention と は何か。 これ はフ ッ サー
ル が引い てい る例で はない が, 仮 りに今ある楽 句を 聴いた と し よう。 最後の音符が奏 される。 する とこ の最 後の音はフ ッ サー
ル の言 うところの彗星の尾 と して, 印 象の 余 韻を伴 なっ て, 我々 の 意 識の中にある時間 だけ 留 まる であ ろ う。 そし てこ の印象の余韻が時間の経 過に従 っ て 我々の 意識の中で 色褪せ 消え てゆ くのが 感じられ る。 また, 我々 は再びこ の音 楽を想い起こす こ とも 出 来 る。 さ て, こ の よ うな 例で示 さ れた経 験の中に は如 何な る意 識 構 造が見い 出さ れ得る で あ ろ うか。 フ ッ サー
ル は やは り,一
つ の 音を聴 く場 合 を 例に引い て述べ てい る6,。 厂(一
定の音が) 過去に沈みゆ く時に私はそ れ をまだしっ か り と 保持 し て お り 把 持 (Retention )の中に そ れ を持 つ , 云々」 と。 こ こ に我々は 時 間 意 識の機 構へ の示唆を 読み 取るこ と が 出 来 る。 即ち経 験に お い て,
ある もの の 印象の中に は, 「しっ か り と保
持 する」と言 う一
種の努力の感 情 が 必 ず 伴 う。 こ の感情に対 応するのが 把 持 と 言 う概 念で あ る。 こ こに如何 なる方法 論 的 前 提があるか は 別の処で述べ る であろ う
。
把持 志向 と言 う ものはいかな る構造を 持っ てい るの で あろ うか。 把持 志向は
一
次 的 記憶であ る。
こ の点で把 持 志 向は 再想起と区 別さ れ る。 フ ッ サー
ル は こ の一
次 的 記一
721
N工 工一
Eleotronio Library時 間意識 と 主 観 性
一
現 象 学的考 察 (岩野秀明) 憶につ い て,
「一
時的記憶ま た は 把 持志 向をそのつ ど知 覚に接 続するところの彗 星の尾 として 記 述し た云々。」 7) と述べ て い る。 こ の叙 述か ら明らか なように,一
次 的 記億として の把 持 志 向に は, その構 造とし て, 知 覚が必 ず 先行 するの で ある。 これに対 して 二次的記憶ま たは再想
起は現 前 化 (
Vergegenwartigung
)と特 徴 づけ られs, , 把 持 志向に先 行す る知 覚は そこ には含ま れ ない。
把 持 志 向を現 在に お い て対 象 化 するのが再 想 起で ある と言え よ う。 再想 起 の う ちに 知 覚と 言 わ れ るべ き もの が あっ てロ
ロロ
も, それ は 「現在化 と し て の知 覚」 (傍点筆 者) 9)にす ぎ ない。
これに対し て把 持 志 向 が 接 続 する知 覚は, 「自己 附 与 的 作 用と して の知 覚」で あると され る1°} 。 こ こに 二 次 的 記憶と 区別さ れて 明ら かに さ れた よ うに, 把持志向 の構造的 特 質は 自 己附 与 的 作 用とし て の知覚へ の接続でロ
ロ
あり, こ の よ う な知覚を 自己の うちに持っ てい るこ とが 把 持志向の本.
匪 なのであ る。 それで は自 己 附 与 的 知 覚 とは どの よ う な 知覚なので あ ろうか。 知 覚の概念は, 特にフ ッ サー
ル に おい ては,
多 義 的で ある。 それは 単に物を視 る際の 知 覚で もあり得, またこ こ に示さ れ た ような現前 化 ない し現 在 化で も あ り 得る。 問題の 自己附 与 的作 用と しての 知 覚と言 う もの は どのよ うな事を言っ てい る の であろ うか。 これ を 我々は一
次 的 記 憶の.
陸 質に 即 して 考え るこ とが 出 来る であろ う。 フ ッ サー
ル は次の ように述べ てい る。 「・
・
一一
次 的■
想起に お いて の み 我々 は過 去にな っ た ものを 視るので あ り
,
それに お い て のみ 過去が購 成され,
そ れ も 再現的 (rePrtisentativ )に では ないが現 示 的に (Prasentativ )そ うなの で ある 云々 。」 11)即 ち 自己附与 的 知覚は,
い わ ば 過 ぎ 去っ た もの に対 す る知 覚であ り, こ の知覚に よっ て 過 去の存在は現象 学的に保 証され 構 成さ れ るのである。
コ
過 去 を 視ると言 う意 味での知覚が存 在 するが 故に, 過 去 は現 在に対し て
一
定の関 係 を 保 ち得るのである。 そ し て こ の知 覚が 連 続 的に 自己を射 影し てゆ くこ とに よっ て, 時 間の連 続 性 と方 向の不 可 逆性が可 能になる。
フ ッ サー
ル は,
「我々が 原 的 意 識, 印象,
あ るいは知 覚と呼ん で い るもの は, 追 え 間 な く段階 化 する作用 (ein sich stetigabstufender Akt )で ある」 と 述べ てい る 12}
。
こ の段 階 化の作 用に よ っ て時間意識の連 続 性は保 証 される。こ の よ うに し て過去の 現在に対 する関 係の側面か ら見 た時 間意識の構 造ば, 知 覚の概念に至 る まで の
一
連の概 念に よっ て理解さ れ よ う。
時 間 意識の構 造の特 質は”
この概 念 系 列の最 後に位 置する知覚の概 念を
,
印 象 と して 考 え, これにつ いて検 討を加 えるな らばよ り 明瞭にな る で あろ う。 知覚と印 象と は根 本 的には同じ ものを含む が 印象につ い て述べ られ た処 を見る と, さ らに問 題 が拡大 さ れ てゆ くのが分るの であ る。 意 識 流 以上 に述べ た ところか ら時 間 意 識の構 造は 自己 附 与 的 作 用と し て の知覚の概 念を基 礎とすることが 明 らかにな っ た。
さて こ の知 覚の 概 念は意 識 構造の動的 側 面か ら考 える時, やは りその根源にあ る もの と さ れる。
フ ッ サー
ロ
ル に とっ て意識は流れ (FluB)であ り, 流れの湧出の根ロ
ロ
’
ロ
源と して根 源 印 象 が (Urimpression )考え られる。
こ の 場 合 知 覚に印 象が取 っ て代わ るこ と に よっ て意 識の動 的ロ
側面 が強調 さ れ るの で あ る。 さて意 識の構 造に とっ て流■
れの構造は た し か に見逃し得ぬ事 実である。 例え ば具体 的 な 感 覚につ い て考えてみ よう。
感 覚さ れ る ものが音楽 の メ ロ ディー
の よ うに変 化しそれ 自体流れるもの の場 合 には, 意 識の流 れの構 造を経験 的に理解するこ と は容易 であろう。 だ がこ の場 合に, 流 れ と言 う もの は意 識の視 点ない し観察 者に よっ て は じ め て現わ れ得ることに注 意 すべ きであろ う。 主 観な くし て客観は ない と言うべ きで ある。 ま た眼の前に置かれてある イ ン クつ ぼの よ うな不 動な対 象の場合にも, 我々が意 識の事 実その ものに注意 することに努 力 を 傾 けるなら ば,
決して同一
の物 体 が そ こに ある と言う固定し た意 識ではな く, かえっ て新た な 印 象を 生じ る 二とに よっ て, 意 識は流れ るもので あるこ とを 理解 する であろ う。 し か しこの場 合ic
我々は外 なる 世 界に注意を 向 け てい るこ と を自 覚すべ きで あ ろ う。
意 識に注 意を向 け るこ とは 世 界か ら 自 己の内へ 戻るこ と と は 異 なる。
反 対に世 界へ 自己 を 開い てゆ くこ とで はある まいか。 世界なくし て主観は ない と言 うべ きである。 フッ サ
ー
ル の意 識の流れの概 念の 根 柢に もやは り世 界と主 観 との固 有 な 関 わ りがある と思われる。 のロ
さて意 識の流れ と 言 う概 念は い か に して導 き 出 され 得 るものであろうか。 フ ッ サー
ル は時 間 意 識の 分 析に続 く 章に お い て, 「時 間 及び 時 間 客 観の構 成 段 階」に つ い て 論じるが, その場合 時間 意識は一
つ の構 成 原理と見倣さ れる。 そ して構 成 的 原 理 が 構 成 する もの で あるの に 対し て, 時 間及び時間客観は構 成さ れ るものである と言 う厳 然た る区 別が な さ れ る。
原理的 轟 成 者は 「絶 対 的 時間 構 成的 意識流」 である13} 。 時間の構成 問 題が扱われる場 面 で 流れない し 意識 流と言 う概 念が 特に 照明を当て ら れ る。 これに 対し て こ の原 理 的 構 成 者た る意識流に よっ て 構成 さ れ る領域 を二 つ の部分に分け る。
即ち内 在 的 時 間 と客 観 的 時 間 とで ある。 フ ッ サー
ル の 言葉に即し て言 え ば,
「経験 以 前 的 時 間に おける内 在 的 統一
二 と, 「客 観 的 時間に おい て経験さ れ る物 (Dinge
)」 とで ある14〕。
従 っ て三つ の 段 階に お い て 時間と言 う ものが 考え られてい る。 (1
)意識 流,
(2)内在 的 時間, (3
) 客観的 時 間であ る。 こ の 三段 階は,
フ ッ サー
ル に よ っ て屡々なさ れ る 三 次 元の区別に相応する。 (1
)意識 (流), (2
)現 象 (内一 73 一
NII-Electronic Library Service
、
、
相模工 業 大 学 紀 要 第4巻 第 1号 在 的 客観), (3
)対 象, の区 別である 15) 。 原理的構 成 者 は, これらの三段 階の第一
の段 階に あ るわけで ある。 意 識 流は内在的時間や客観 的時間を構 成するの で ある。
しか し意識 流は時間意 識と本質的に異ならない。 構成 問 題
ロ
の場 面に お い て強 調されるのであり,
最 初か ら在
る意 識.
その もの で ある。 時間の根 源その ものが流れの構造を持 つ ものなの で ある。 自己附 与 的 作 用 として の知 覚と把 持 志 向に よっ て構 造附けら れ る時 間 意識その ものが, 流れ で ある と思われる
。
■
ロ
さ て流 れ と言 う概 念に関し てフ ッ サー
ル は , 客観 的 規 定を拒否 す る。「時 間 構 成 的 諸現象は,今の うちに在る と か,時 間 的に相 次い で続 くと か,互い に同時である と か,
言うことも従っ て無意味 t の である 」 と述べ てい る16 即 ち, 今の うちに在る等の述 語附けは構 成される時聞の みに関し て言えるだ けであり, 時間構成 的意 識 流に関し て は, その よ うに述べ ることは 出来ない。 若しその よ う.
ロ
.
コ
ロ
ロ
ロ
.
つ
に言 う と して も, そ れ は 「構成 されるもの に模し て」
(nach
dem
Konstituierten
.
)そ う言われる だけにすぎぬ17) 。 ほん と う は 「流 れは時 間 的に全 然 く客 観 的 〉 な も
ロ
.
ロ
コ
の で な く, それ は, 絶対 的主観 性であり
,
そ れは 〈流れ 〉.
と して の形豫 (Bild)の中で 記 述 されるべ き もの, 顕 在 性 基 点 (Aktualitatspunkt
), 源泉 点,
〈今〉,
の 中に湧出するもの, の絶 対 的 性質を持つ 。」 ls) こ こ に 言わ れ る 絶
■
■
ロ
■
対 的 主 観 性 とは如 何な るこ とで あ ろ うか。 そ れは例えば カ ソ トの意味 す る 主観 性で は ないが
,
だ か ら と言っ て単 に 客観性の 絶対的 否 定 と言 うことのみで はない であろ う。 例えば 「純 粋 我」の概 念との関連を否 定するこ と は 出 来 ないで あ ろ うtg ,。
だ が我々 は , この絶 対 的主観 性の 概 念を 具体 化するため に, 別の途を取りたい。 我々 は こ のの概念の う ち に根 源 印 象の概 念 が 密 接に関 係し てい る と 考 えるの で ある。 上の引用 文に 「
・
…
湧出 す る もの」と 言 わ れて い るもの は 何か。 そ れを 根 源 印 象 と 推 定 し た い。 と言 うのは フ ッ サー
ルは別の個 所で根源印象につ い て次の よ うに述べ てい る か らである。 厂常に変 様は 新た な変様 を 産 出 する。 根 源 印 象はこ の 産 出の 絶 対 的 始 元,
根本源泉, 他の全てが そこか ら産 出 され る ところの もの で あり, 根 源 印象は産出されず, 産出さ れ たもの と し て 発生するので は な く, 自然発生 (genesis sPontanea )に よって発 生し, 根源 産出 (Urzeugung
)な の で あ る。
」の
コ
ロ
■
の
ロ
ロ
ロ
り
■
ロ
とPO} 。 根 源 産出と は 〈今〉 の中に 湧 出 す る もの の湧 出に 他ならない と思わ れ る。 即ち根源 印象が意識流の湧 出の 根源と して考え られ, 時間 意識の動的側 面に お い て根源 印象が基礎とな るの である。 基礎であると 同時に現 象学 的 時 間 論の 限 界で もあるの で はない か, この点につ い て 次に考 察し たい。 初め に我々は こ の時間論の方法論 的 前 提 を 明 らかに し, 次に根 源 印 象の概念の批 判に移る であ 74 ろう。 方 法論 的前 提 ロ ’ 普通 印象と言えば漠然と な が ら精神も物 質も身体をも 共に前 提 し, 精 神と物 質との接 点と考 えられるものが印 象と言 うもの である。 これに対し て現 象 学は, 現 象 学的 還 元と言 う方 法 論的前 提をお くこ とに よっ て, 印象の原 因と して の物 質と か印 象の主体と し ての精神と か は度外り
視, つ ま りフ ッサ
ー
ル の言 う ところの排 去 を す るの であロ
■
ロ
ロ
■
る。
そ れ 故 日常 我々が 自 然 的 観 方に従っ て,
在る と思っ て い る精神や物 質は,
少 な くとも構 成 的 原 理 と しては,
全 く無 力 な もの と されるの で ある。
「イ デー
ン」第一
巻 に よ れば,
現象学的還元 の方法 論 的 前提とは,結局こ の 自 然 的 観 方 及び その対 象 的双関 者 を,
排去または括 弧入 れ することに よっ て方 法的に否定 する こと, た だ し懐疑 論 的否
定と は 異 な り哲学
がそこ に お い て成立する存在のあ る領域 を 残 す ことに帰着 する。 こ こに言 う残 さ れ た存 在■
とは , 意識 とし て の存 在で あり
,
意 識 されて在 る と言 う ■ 意 味での存在と言 え ば事 柄の核心はほぼ 明 らか になる。 そ れはフ ッ サー
ル の言 う純 粋 意識,
先 験 的 意識,
絶対意 識 の こ と である2D。 こ の方法論的 前提は, イ デー
ソ全 体に亙っ て適 用 さ れるべ ぎ もの である が, こ の同じ方法 論的前提は時 間 意識の分 析に とっ ても根本的前 提と し て 変わ ら ない 22〕。
「内的 時 間意 識の 現 象 学講 義」に おい ては, 現 象学 的 還 元の方 法 論は 「客 観 的 時 間の排 去」 と し て考 察される もの と 思 われ る。 「講 義」 に おい て は,
「イ デー
ソ 」で概.
ロ
.
ロ
ロ
コ
念化された 自 然 的観 方と言 う もの は客観 的時 間の概念に 相 当する。 自 然 的 観 方に支 配さ れ る客 観的時 間の 概 念を 排 去 し, その代りに時 間 意識を構成 的 原 理 と し て打ち建 て る, と言 うのがフ ッサー
ル 時 間 論の方 法 論で ある。 こ の点につ い て 「講 義」§1 に お い て 興味深い検 討 が な さ れ る が,
特に 空間概 念との ア ナ ロジー
を引き合い に 出す 所は面白い観方であると思わ れ る。 フ ッ サー
ルは, 「客 観 的 時間の排 去が意味する ものが恐ら く最 も 明瞭に なる のは, 我々が 空 間 との比較を 行 なっ てみ る時であ ろ う。」 と述べ て い る2S) 。 我々は暫らくフ ッ サー
ル の説 明を聴こ うと思 う。
「空 間」 と はい か な る現 象学 的規 定を持ち得 るの か。
フ ッ サー
ル は我々が常 識 的に考えて い る空 間の 基 礎に, 現象学的原 理と して の 空間 を 見い 出すの であ る。 「全て の超 越 的な意 味を 度 外 視し, 知 覚 現 象を与え られてい る一
次的 内容に還元する と, それ は準空 間的で あり, 空 間 あるい は空 間 内に おける平 面で はない ところ の視 覚野の連続 体を もた ら す。
あ りの ま まに言 え ば,
そ の連 続 体は 重 層 的 連 続 多 様体である。
」 と フ ッ サー
ル は 述べ て い る24, 。 我々が 空 間の中に眼 を 凝 らすと, そこ に は物が物と互いに並び, 他の物と重 な り合い, 他の物の1
_ _」
時間 意識と主 観性
一
現 象 学 的 考 察 (岩野秀明) 中に包まれて い る, 等の現 象を視る が, フ ッサー
ル に より
れ ば その時 我々 は準 空 間 的な連 続 体を視て い る の で あ り, 三次 元 的に構 成された 客観的 幾 何 学 的か つ 計 量 可 能 な 空 間で は ない , その根 源を 視るの である。 従 っ て,
「こ の 視 覚 野の一
点 が, 机の 縁か ら 1m 離 れて い ると か, そ れ と並んで い る とか , その 上方に在るとか言 うこ と は 意味が ない の である。
」25) とも 言 わ れ るの で ある 。 フ ッ サー
ル の言うとこ ろの準 空 間 的 連 続 体 とは, デカル ト自 然 学の基 礎 となる延 長 概 念で もな け れば, ニ ュー
ト ソ物理 学にお け る絶 対 空 間でも な く, これ らの存 在の前 提 を な す 客 観 化 以 前の 概念で あると思わ れ る。
こ の よ う にフ ッ サー
ルが 空 間 概 念 を 現 象 学 的に分 析してみ せるの は, 他でもない 時間 意識を客 観的 時 間か ら 区 別す るため の ア ナ ロ ジー
を 提供 するこ とに 目 的 が ある。 そ れでは, 準空 間的 連 続 体に相当する時間 意識は どの ように考え得り
る であろ うか。 フ ッ サー
ル は時 間 意 識の方 を 受 容 され る サ(ま た は 感 覚 さ れ る) 時 間と考 え, (ein empfundenes
コ
■
■
■
Zeitliches) 他方 客観 的 時間の 方を 知覚される時 間 と考 える。 受 容さ れ る と言 うこ r
一
は, フ ッサー
ル に とっ て,
現 象 学 的 所 与の本 質を意味 する。 例えば, 「赤」い色 の 体 験につ い て考 えるな らば, 先 ず 現 象 的 所 与と して 「受 容され る赤」が あ り, そ こ に ある 「把 握機 能」(Auf ・
ロ
リ
fassungsfunktion ) が は た ら くこ とに よ っ て,
客 観 的 な赤と言 う性質が 生 じるの で ある。一
般に 「客 観性」 は,
現 象 学 的所 与に把 握機 能を 通 じて 「魂 が 与 え ら れ る 」 (beseelt)こ とに よって得られ る。 こ の 「赤」の経 験 と同 様に, 客観 的 時 間も, 先 ず受容さ れ る時 間が あっ て , そ こに把握 機能が作 用し て,
成 立 す る もの で ある。 現 象学 的分 析の一
般的構造と しては,
「把 握 内 容」 と 「把 握」の 構 造 が考え られ る。 け れ ども,
時 間 分 析に お い て 「受 容 される時 間」が厳 密に 「把握内容」の一
形態と考え られ る か ど うか は 問題で あ り, そ の点で フ ッ サー
ルが施 こし た 「脚註」は重 要 で ある26)。
「受容さ れ る時間」の特 殊 の性格に関し て はこ こ で はこれ 以 上 触 れ ない 。 こ の よ う に し て, フ ッ サー
ル は客 観 的 時間 を排 去し, 後に は 時 間 意識が, 受 容さ れる時間 と して残 され るの であ る。 普通 我々 が 時 計に よっ て 計るLt
「界 時 間 (Weltzeit)等は, 客 観 的 時間の 領 域に属 す るもの とし て括 弧入 れ を 蒙 む るこ と になろ う。 こ の よ うな形で, 「イデー
ン」 に示 さ れた 現 象 学 的の還 元 方 法は 「講 義」に おい て既に 前 提さ れて い る方 法 論と言 うこと がで きる。 根源 印象の問題「イ デ
ー
ン」及 び 「内 時 時 間意識の現 象 学講 義」 につ い て考察し た方 法 論,
現 象学 的 還元の方 法 論,
は始めに述 べ た 時 間意 識の 構 造を規 定し て い たの で ある。 自 己 附 与 的 作用と し ての 知 覚と把持 志 向に 基づ く 時 間意 識の構 造, さらにその 動 的 側 面である 意 識 流, 根 源 印 象の概 念, これら全て がそ うである。 フ ッ サー
ル 時間論は全て こ の方 法 論が全 体に浸透する こ とに よ っ て成就さ れたの で ある。 問題は方 法 論 的 前 提か らみ ち びか れ た帰 結の側に, ま ずは じ めに, 指摘し得る。 その帰結と は 即 ち根 源 印 象の 概念で ある。 すで に我々は, 「時間意 識の動 的 側面に お い て, 根源 印象が基 礎に な る, と同時に, 現 象学 的 時 間 論の限 界で も あるの で は ない か 。」 と述べ た。さて, 今 考 察し た方法 論の立 場を取る限り, 根源 印象 の性格は, 日常我々 の 理解し てい る 「印 象」 と は異 な り, 産 出 されぬ根 源 産 出 とい うこ とであることを 承認せざる を 得 ない。 逆に 日常 的 態 度, フ ッ サ
ー
ル の言 う自然的 観 方, に もっ と 深い もの を 認め るな らば, 「印象」 と言 う もの は果してその よ うな もので あろ うか。 む し ろ, 物質 に よっ て何らか の仕方で触 発さ れ, ま た精神に よっ て 創 造 され るもの が 印象とい う もので は ないか。 従っ て時 間 意識 とい うもの も, 単に 現象学 的 意 識の中に内 在 化さ れ るべ きもの で はな く, 自然と精神 との中 間に あっ て両者 へ 関与 する 地平を持っ て い る もので は なか ろ うか。 そこ で根 源 印 象の 「産 出さ れ ぬ根源産 出」 と言 う性格につ い て 検 討を加え, か つ 思考の方 向を 定 め よ う と思 う。
「産出 さ れぬ根 源 産 出」の構 造 はい か な るものか
。
こ こ でフ ッ サー
ル時間論の 解 釈者の一
人, 高 橋里美に 聴 く サこ とに し たい
。
高橋里美は根 源印象の構 造を受動 性とし て と ら えて い る。
彼は フ ッ サー
ル の時間 論 に創 造 的 進 化 の ような 見 方が 取られていない ことを 指摘 しな が ら, 「彼れ (フ ッ サー
ル=
筆 者 )の時間の見方は大 体に おい て受 動 的ない し受 容的で ある 」 と述べ てい る27, 。 「根源 産出」 とい う もの は た し か に彼の指 摘 する よ うに意 識の 自発性を制限 され,
意識 の創造性 を拒 絶さ れたもの で あ る。 そ して も し仮 りに意 識する者 と意識さ れ る客 観とい う対 立を考え, これ を 根源 印 象に 関し て 適用する な ら ば, 意識す る者は た しか に根 源 印 象を受動的に受 容する こ とに な ろ う。 し か しこ の よ うな 対立 がそ もそ も意 識 流 また は 根源 印象の 搆 造とし て 可能か どうか は 疑 問で あ る。 我 々 とし て はこ の対 立は一
つ の 比喩と考え たい ?S)。
従っ て 「受 動 性」 と は 非 創 造性,
非 自 発性 の別の 表現と 考えるべ きであろ う。 高橋
里美は, 実は意 識の非 創造 性 を指 摘し たの で あ り, 意 識 流に おい て は意 識 と根 源 印 象 とが 対 立 的関 係にない 以上, その ことは同時に根 源 印 象 の非創 造性 を意味 するの で ある。 従っ て根 源 印 象の構 造 は受 動 性 と 言 うよ りも非 創造性であ り, ポジ テ ィブ な言.
コ
い 方をすれば, 再帰性と言 うこ とがで ぎよ う。 産 出さ れの
■
ぬ根 源 産 出 とは 自 己の 自己 に よ る産 出で あり, 再 帰 的産 出関 係である。 (同 様に, それ自身は構成 さ れ ない 構 成,
一 75 一
NII-Electronic Library Service 噌 相模工業大学 紀要 第
4
巻 第 1号 と 言 う もの も 自 己 が自己 を構成 すると言 う再 帰 的溝造 を もっ て い る。)根源印象は 再帰 性の構
造
をもつ のである。 さてこ の再 帰 的構 造は,
現象学 的 方 法 論の立 場に立っ て見 られ た 構 造で あり, フ ッ サー
ル の言 うところの世界 観 的学 と無縁 な事象そ の ものを厳 密に記述する方法論に応 ずる もの で ある。 だ が, 逆に 日常
的世界
の中に 立 ち出でて考え れ ば, 根 源印象の再帰 的構 造と言 うもの は, あ まりに も学 的で あり過 ぎ, 現 実に合 致 し ない ので あ る。 む し ろ印象 と言う もの は何か 他の もの に よっ て産出される, と言 う 受 動 性に おいて在るもの であろ う。 即ち自然に よっ て触 発される と か精神に よっ て創 造 されるとか言 う意 味で の 受 動 性を持つ べ きもの であろ う。 こ こに一
つ の問 題 が 生 じる,(1
)印 象の受 動 性 とは い か なるもの か 。同時に これ は意識の受動性の意 味を も間 うの であ る。
第二に,
(2
) 再帰的 構 造と 言 うものは ど うな る であろ うか。 第三 に, (3
) 能動 性と言うものを如何に考 えるべ きであろ うか。 根源印 象の概 念の 検 討は,
およそ こ の 三種の問題を 生 じ る。 主 観性の問題 こ れら 三問 題に は,
主 観 性の 問 題が含まれるこ と に注 意し たい。
能動 性の典 型 的 な 表 現 として カ ソ ト哲 学に お ける 理論理性を 考えることが 出来る。 その能 動 性は, 「我思惟する」 とい う 形 式 を 持つ 統覚の能動 性で あ り, 感 性の形式に よっ て与え ら れる感 覚的質 料を能動 的に統一
する もの である 。 我々は こ の種の能 動 性 を 主 観 主 義 的 と言 うであろ う。 主観主義 的 能 動性と か,
主観主義 的主 観 性 とか の言葉を 用い るで あ ろ う。
カン ト の 「我 思 惟す る,
は凡 ゆる経験に関与し かつ これ に先 行 する ところの 形 式で あ る」 と 言 う言 葉か ら推測 さ れ う るよ うに29),
主 観主義 的主観性は経験に先 行し, 時 間意識に対して は こ れに超 越 的に関 与しその多 様を外か ら統一
す る。 し か し 主 観 性 とい う ものは時 間意識に対 し て超 越的で あるこ と は許され る であろうか。 我々 は時 間意 識の周 辺におい て 主観 性の概 念 を 求め てゆこ う と思 う。IL
主 観 性
受 動 性 メ ル ロー
・ ポン ティは, 「知 覚の現 象学」に おい て 時 間 性の 問 題を扱っ てい る。 そ こ に我 々が まず 注目するのり
ロ
.
は, 時間の受 動的 綜 合 と言 う概念
である。 これは メ ル ロー ・
ポ ン テ ィ の指 摘 する よ うに フ ッ サー
ル に 由 来す る。
まずメ ル ロー ・
ポンテ ィの言 葉を 引用 す ることから 始 め よう。 「過 去や未 来を持つ ため に は,
知性 的 作 用に よっ て射 影の連続 を結 合する必 要はない。 そ れ ら (過去, 未 来=
筆 者 )は,
自然的かつ 根 源 的統一
の よ う な ものであ り, 射 影 を 通 して現 わ れ るの は 過 去 ない し未 来それ自体 で ある。 これは, フ ッ サー
ル と共に時間の 《受 動的 〉 綜 合 と呼び 得るところのもの の パ ラ ドッ クスである。」 と 述べ , そし て附け 加え る。 「そ れは勿 論, 解釈で はな く, 問題を 呈 示 する ため の指 標と なる言葉である,」 と s°) 。 問 題は綜 合の受 動 性に あるこ と は明らか で あろ う。
我々 は次に受 動性の概 念を, こ の受 動的 綜 合 と言 う事に関 連 し て考察 を 進めたい。 第一
に ブ ッ サー
ル 現 象 学の線に 沿 っ て, 第二 に メ ル ロー ・
ポγ テ ィ現 象 学の線に沿っ て考 え てゆ く。 (1
) 時間におけ る現 象は一
般に, それ が世界 時間で あ れ 内在 的 時 間であ れ, ともか く統一
さ れ た 現 象であ る。 例 え ば 過 去 とい う ものは, 現在の意識に おい て何ら か の仕方で統一
さ れなけ れば 過 去と言 うこ と は言え ない し,
未 来につ い ても同様である。
そこで第一
に内在的 客 観と し ての時間につ い て, これを構成 するものを 考 える な ら ば,
それは意識流 ない し時間 意 識であ る。
そ してそ の構 成の 仕 方は,
そ こに綜 合 統一
が なされる限 りに おい て,
能動 的で ある。
次に時間 意 識その ものを考えてみ る と, これは内 在 的 時間客 観に対 して構成的で は ある が, これ 以 上の何か か ら構成さ れ る と 言 うこ と が ない。
時 間 意 識を能動 的に構 成する者は存 在し ない。 その綜 合はそ れ 自身 をと言 う形 以外に は不 可 能である。 そこ で これ を 受 動 的 綜 合 と呼ぶ こ と も 出 来よ う。 これに対し内 在 的 時 間 客観に おけ る綜 合は,
その綜合 そ れ 自体 を考え るな ら ば, 能動 的綜 合と言い う る で あろ う。 こ のよ うな意 味に おける受 動 性 (綜 合の受 動 性 ), 即 ち 自己に よ る自 己の構成は, フ ッ サー
ル現 象 学に固 有の 礎 石である。 これに対してメ ル ロー
・ ポンテ ィ は, パ ラ ドッ ク ス と呼ぶが,
それは フ ッ サー
ル現 象 学 を 超 える立 場からの発 言で ある。
フ ッサー
ル現 象学の線に沿っ て考 えるな らば,
パ ラ ドッ クスで ある どこ ろ か , まさに原理 的 なるもの で ある。 自 己に よ る 自己の 構成に 関 連し て,
「把 握 内 容 把 握」 の 図式の問題を考え て お こ うと思う。 この図 式に 自己構 成 (自己に よる 自己の構 成, を 簡 単に こ う言 う)に とっ て は妥 当し ない 問 題 的な もの である。
この図式に お い て は,
「魂 を 吹 き 込 む 把 握」(beseelende
Auffassun9 )sll が 必ず 作用し てい る。 し か し, 時間 意 識に おける自己構成 に おい ては, こ の魂を吹 き込 む 把 握は 権 利を捨て, その 代 りに フ ッ サー
ル の 言 うところ の 「根 源 把握 」 (Urauf ・
fassung >が作 用す る。
自己構 成は こ の 根 源 把 握に基づくと考え ら れるが
,
こ の構 成におい て はもは や かの 図 式 は 通用 し ない で あろ う。 フ ッ サー
ルが, 「全ての構 成が,
把 握 内 容一
把 握の図式を 持つ わ けで はない」 と言 うの は こ の意味に おい て で あろ う。 32)(こ の図式の問題に は,
_ 76 _
つ、
へ
」 N工 工一
Eleotronio Library時間意 識と 主 観 性
一
現 象 学 的 考 察 (岩野秀 明 ) 「受容さ れ る時間」と言 う概 念が関 連 する が,
これにつ いて は既に 述べ てあるので こ こ に は 繰 り返さ ない。)内容 と 言 う もの は ど うな るの で あろ うか
。
メ ル ロー ・
ポ ン デ ィ の 言 う ように, よ り深い作 用におい て内 容 それ自身が 用 意されるのである。 過 去 とい う内 容は把 持 志向と同 時.
の
.
■
に与 え ら れ
コ
ると考え ら れ る。
フ ッ サー
ルの言 う 自己 附 与 的 作用と して の 知 覚が 作 用 す るの で ある。 受動的綜合 は , 把 握 内 容一
把 握の図式にあて は ま ら ない構 成で あ り, 根 源 把 握に基づ くの で ある。こ の よ うな意味で の受 動 的 綜 合は
,
フ ヅ サー
ル現 象学 に固有な るもの で あ りその礎 石で ある。
しか し,
ひ と た びフ ッサー
ル 現象 学を超 えるな らば,
そ れは原 理 的な も の で はな く,
メ ル ロー ・
ポγ テ ィの言 うよ うにパ ラ ドッ ク ス であ り問題で あることになろ う。
(受 動 性の意 味と して,
これもフ ッ サー
ル現 象 学に属す る もの に,
非創 造 性がある。 これにつ い て は既に述べ た が,
要 する にベ ル グ ソ ン の 純 粋 持 続の よ う に 生命的意 味を 持たない 単 な る受容i
生が, フ ッ サー
ル 時 間 意 識の 特徴であると 言 え る。) (2) 受 動 性の概 念 を,
次に メ ル ロー ・
ポン テ ィ現 象 学に従っ て考え る た めに, は じめ に意 識と存 在との関 係 につ い て予備 的 考察を行な う。
メ ル ロー ・
ポン ティ は, 「現在」 につ い て述べ てい るある個 所で,
「現 在とは存在 と意識の合致する領域である 」と述べ てい る。
これは, 純 粋 意 識へ の現 象 学的還元 を す るの とは逆に,
意識を存 在へ 関与 させ る た めの言葉
である。 これに対し てフ ッ サロ
■
一
ル は,
在る と 言 うこ と を意 識さ れてある に 帰 着せ しめ る。 メ ル p− ・
ポソテ ィは逆に存
在へ の超 越を求め るた め の地 平 を 「現 在」 の うちに見よ う と する。
さ てメ ル ロー・
ポソ テ ィは受 動性 をいかに考えてい る か。一
言で言 う な らば,
それ は 「状 況を引き受 ける 」と い う意味である。
メ ル ロー・
ポン ティは, 「意識は状 況 を引 き受 けつ つ 存 在と時 間の う ち に根づ い てい る 云 々」 と述べ て い るs3)。
受 動 性の 意味につ い て, メ ル ロー ・
ポ ン テ a は次の よ うに述べ る。 「受動 的とは , 我 々が 見 知 ら ぬ現 実な り我々 に加 え ら れ る外からの原因 と しての作 用 なりの受 容で はな く, 包 囲で あり状況の中に あ るこ と で ある。 それ 以 前に は我々は存在しない の であ り, そ れ を 我々は永 遠に繰 り返 すのであり, 我々 自身の構 造 なの である。」 と 3% 状況の中にあ る,
とは また , 「世界に現 存 し てい る」 こ と で もある。 r
我々が 我々 自 身に対 して 現 存し てい るのは,
我々が世界に現 存し てい る からであ る。」 3s} メ ル 卩一 ・
ポ ン ティ に とっ て は,
意識の受動 性,
時聞 意識の受動 的 綜合の受動 性, は 「状 況」 または 「世 界」 の中に現 存 し てい る と言 う事実をさすの である。 こ れはある意 味で は, 日常的 観 方に深い意味を見い 出し た と言 うこ と が 出 来よ う。 何 故 な ら, 意 識は自 然に よっ て 触 発さ れてい る と言 うのが 普 通の考え方であり,
これ を 哲学 的に深 化す ることに よう て以上の受動 性概 念が得
ら れ た と考え るこ とが 出来る か らで ある。以上に よ っ て 我 々は受 動 性の概 念がフ ッ サ
ー
ル 現 象 学 か らメ ル ロー ・
ポ ソテ ィ現 象 学へ と,
どの よ う な発 展を たどっ た か を大 体に お い て明 らか に出 来た と思 う。 そこ で次の問 題で ある, 能動性 即ち主 観 性の 概 念に つ い ての 考察に移 ろう。 た だ その考 察の 仕 方は, 既に述べ たよ う に, 時 間意 識の 周 辺におい ての 考察に限 定す る。 メ ル ロー
・ ポ ソ テ ィ に とっ て も, フ ッ サー
ル が そ う規 定し たよ うに,
意 識は流れ (fluxion)で ある。 「意識は 時 熟 (temporalisation)の運 動その もの,
フ ッ サー
ル の 言葉を 使 え ば流れの運 動 で あ り,
不 可離の 流 れ で あ■
■
る。」 s6) フ ッ サー
ルは 流れの中に絶対 的 主 観 性 を 見た が,
メ ル ロー ・
ポン テ ィはいか な る構造の主観性を考 えてい るのであろ うか。 我々 は これ を 自 己 触 発の思 想の中に と ら えるこ とが 出 来る。メ ル 卩
一 ・
ポン テ ィ ば,
「時間は く自 己の 自 己に よ る触 発 〉で あ る 」 と述べ てい るS7 ] 。 し か しこ の思 想ぱ その根 源 をカ ン トとハ
イ デ ッ ガー
に持つ の であり, 我 々は主 とし て ハ イデヅ ガー
に っ い て これ を 考 察し なければ な ら ない。
自 己 触 発 メ ル ロー ・
ポンテ ィが 指 摘 してい る よ うに, 自己触発 の概 念は最初 ヵ ン ト に よ っ て 心性 (GemUt )に つ い て述 べ ら れ た もの である。 それ を受けてハ イ デッ ガー
は こ の 表現を時 間へ 移す。
ハ イ デ ッ ガー
は,
「時間は その本質 上自己 自身の純 粋触 発で ある。」と述べ て い る 3S) 。 しか し カン トは心性につ いて,
自己触発を述べ てい るのであ る。 カソ ト は,
「心性の う ちに何もの かが指 定されぬ か ぎり直観は何 もの をも表 象しない 故に, 直 観の形 式と は 心性が自 己の行 為に よっ て つ ま りその表象の こ の指 定に よっ て,
従っ て 自 己 自身に よっ て触 発される仕 方 即ち そ の形式に従え る 内 感に ほか な ら ない 。」 と述べ た39〕 。 カ ソ ト は こ こで は 時 間の 自 己触 発を 述べ て い る の で はな く, 心 性の 自己触 発を語っ て い る の であり, 従っ てハ
イ デ ッ ガー
の 自 己 触発の思 想は こ こ に は 見い 出せ ない。
し か し時 間の概 念との 関連は見い 出 さ れ得るの で あ り, そ れは次の よ うな関 連に おい てで ある。 即 ちカ ア トは心 性 が 自己の行 為に よっ て従っ て自己 自身に よっ て触発 され る 仕方とい うこ と を考え, そ して これ を 「その形式に従 える内 感 」 と同一
視し, これが直観の形式であ る とい う のである。 心 性の 自己 触 発の仕 方は内 感でありこれ が直 観の形 式で ある とい うのであるか ら, 心 性の 自 己 触 発のサ
リ
仕方とは,
カン ト の言 う ところの時 間に等し い 二とに な ろ う。
だがそ うである か ら と言っ て時 間の 自己 触 発の思一
77
一
NII-Electronic Library Service 簧 相 模工業大学 紀 要 第4巻 第1号 想が こ こ に現わ れ てい る と言え ない こ と は明 らかであろ う