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戦後日本における周産期医療の変遷と産育の現在 : 産婦人科医師の語りを通して

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戦後日本における周産期医療の変遷と産育の現在 :

産婦人科医師の語りを通して

著者

岡 いくよ

雑誌名

関西学院大学社会学部紀要

135

ページ

105-118

発行年

2020-10-31

URL

http://hdl.handle.net/10236/00029133

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1.はじめに

戦後日本における急速な近代化過程で、出産に 関わる医療者はいかに妊産婦や家族など当事者が 自らと子の生命に向き合うことを支えることがで きたであろうか。本稿は、戦後出産に関わってき た医師の語りを通して、高度成長期における出産 への対処、社会的認識の変容と医療者の抱える問 題を検討し、医師がどのように問題に向き合い対 処してきたのかを明らかにする。その上で人びと の生命の管理が高度に政治的、かつ技術的な統治 として進行する中で、妊産婦が生命に向き合うこ とを医療者はどのように支えることができるのか について検討する。 この目的に該当する出産医療システムの水準を はかる指標として、周産期死亡率がある。「周産 期」とは、世界保健機関が作成した国際統計分類 (ICD-10)により、妊娠 22 週から出 生 後 7 日 未 満と定義される。諸外国との国際比較では、日本 は最も安全なレベルの周産期医療体制を提供して いると評価されている1)。結果として 2018 年の 新生児死亡率2)(出生 1000 対比)は 0.9 と、1947 年の終戦間もない時代の 31.4 と比較すると大き く減少し、250 g 台で誕生した新生児が救命され る時代となった。出産が医療システムに包摂され 法制度的に確立するなかで、人びとの出産による 死の不安は軽減し、個々の出産観や誕生する子へ の生命観は変化してきた。 しかし、現在の日本では救命はできたものの、 発達に課題を抱える子どもたちの成育支援体制は 各医療機関等に任され、個々の医療施設や家族の みがケアを担う状況にある。また、少子化が進み 乳児の養育経験の少ない人々が親となり、人のつ ながりが希薄な社会のなかで、妊産婦の鬱や、育 児への不安など、産前から産後の親と子をめぐる 新たな問題が顕在化する。加えて、親から子への 育児の伝承は途絶え専門職の知識が信頼され、求 められる時代を迎えている。一方、妊産婦や家族 から頼られ、求められる立場の医師や助産師など 医療者は、生命管理の責任を担い医療施設内への 来院者への対応に追われ多忙である。 以上に対して、国は産前・産後の支援体制の切 れ目をなくし身近な地域で親身に支える仕組みを 整備するため、子育て世代包括支援センターの設 立を市町村にすすめる。国のマクロな施策はマニ ュアルが重視される傾向にあり、医療職による指 導やケアをベースに確立する。さらに、グローバ ル化時代の公衆衛生、保健医療の健康教育に関し ては、ヘルスプロモーションが進められ、最終的 に個々の自己責任という形で新たな統治が展開す る。 そのなかで親たちは安全に出産し新生児の救命 率が向上することだけでは、子どもの養育に安心 して向き合うことができず、その後も医療職の知 識に頼らざるを得ない状況に置かれながら、最終

戦後日本における周産期医療の変遷と産育の現在

──産婦人科医師の語りを通して──

い く よ

** ───────────────────────────────────────────────────── * キーワード:出産の医療化、支援体制、産婦人科医師 ** 関西学院大学大学院社会学研究科研究員 1)厚生労働省ホームページ『周産期医療体制の現状について』 (https : //www.mhlw.go.jp/file/05-Shingikai-10801000-Iseikyoku-Soumuka/0000096037.pdf 2020.2.26) 2)厚生労働省ホームページ『平成 30(2018)年人口動態統計月報年計(概数)の概況』 (https : //www.mhlw.go.jp/toukei/saikin/hw/jinkou/geppo/nengai18/dl/gaikyou30.pdf 2019. 10. 8) October 2020 ― 105 ―

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的には自己責任を求められている。この現状を乗 り越える糸口を得るために、当事者が医療職と距 離を取りながら権威に頼り切ることなく、自らお よび子の生命に向き合うことのできる支援のあり 方と変容を、居住地域での医療者のミクロな実践 を通して検討する。なお本稿では、出産が専ら制 度的に医療職によってのみ扱われる状態を「出産 の医療化」と限定的に捉えた上で議論をすすめ る。また、妊娠、出産から子どもが誕生後、家族 や地域の生活に受け入れられるまでの一連の流れ を「産育」と捉える立場をとる。

2.出産の近代化をめぐる研究動向

2.1 出産の変遷と医師の眼差し 近代日本における出産介助者は、1867(明治 元)年に発布された産婆取締規則により国家の統 制が始まり、1874(明治 7)年医制により医療行 為の制限などを通して医師と産婆・助産婦3)の関 係が規定された。伝統産婆が産育のプロセス全体 に関わることを出産介助と捉えてきた近代化以前 の時代(板橋 2007)から、胎児を取り出すこと のみを出産介助と捉えるように認識が変化する (岡 2020)。医師と産婆・助産婦とは、出産に向 き合う中で葛藤し反目しつつも、相互の信頼や協 力 関 係 を 構 築 し た(落 合 1990、西 川 1997 他)。 医師たちは、産婆・助産婦に西洋医学に基づいた 知識を教育しつつ、医師と同等の権利を持ち、別 の役割を担う独立した存在であると認識していた (大出 2018)ことが示される。産婆・助産婦は、 地域での出産介助を担い、異常時に医師に依頼す る体制を保ち、地域に根づいて産育を支えること になる。 戦後の制度改革により日本の出産は新たな医療 体制を整備した。助産職は看護職として括られ看 護教育を土台とした現制度が整う。医師の率直な 反応として「大体助産婦は医師の手足ですから或 程度の技術を備えていれば全国的に普及するため にも多い方がよろしいですね」といった意見があ る(大林 1989)。医師の思惑通りに働く補助的な 人材として助産師が捉えられ、医師が扱う出産を 補助する役割へと医師の認識が変化している様子 が窺える。 落合恵美子は、戦後「地域」が「近代国家」の 浸透力によりその内に包み込んできた「出産」を 外部へ吐き出し、生命管理の主体性を失った過程 を よ り マ ク ロ に 捉 え 返 す(落 合 1989、落 合 1990 : 257-322)。人びとは戦後の高度経済成長の 中で便利さ快適さと共に科学的に安全とされる安 全な出産を志向し、医師を求め、結果として出産 は医療施設で行われることが一般化した。こうし た戦後の出産の医療施設内への移行に関し、出産 可能な医療施設の増減(安井 2013)、都市化や家 族の変貌(舩橋 1994)、母子健康センター事業の 影響(中山 2001)などさまざまな要因が議論さ れてきた。また、新聞連載をきっかけに出産への 過剰な医療介入が問われ(藤田 1979)、科学的出 産管理に対し女性の主体性を取り戻そうとする自 然志向の動きが生じる(吉村 1985)。他方で、女 性たちは出産で生命が奪われる不安から解放さ れ、自ら進んで医療化を担った(田間 1999)と いう指摘もある。 以上の通り、これまでの議論の中心は医療や出 産介助者、出産方法など出産に焦点が当てられて きた。しかしこれらの出産の医療化をめぐる議論 は、妊娠、出産、育児と続く「産育」のなかの 「出産」を地域や家族から切り離して、医療シス テムへの包摂を議論したものであり、結果的に産 前、産後など出産以外の産育の議論を置き去りに してきた。人びとの生活に近い場所に位置し、出 産の介助を行ってきた地域の助産婦は、医療施設 中心の出産制度に飲み込まれる形で、受胎調節実 施指導や新生児訪問指導などの仕事を与えられつ つ次第に病産院に職場を移し、地域から切り離さ れていくことになった。同時に、医療施設内で助 産婦は看護職として括られ、一般には見えにくい 存在へと周辺化された。この事実は、出産を迎え る当事者たちが出産により家族や地域、生活から 離れ医療施設に包摂されることにより、産育を見 守る助産婦や地域のコミュニティから切り離さ ───────────────────────────────────────────────────── 3)本稿では時代ごとの呼称を用いた。1942 年から助産婦、それ以前を産婆。2002 年から助産師(引用の中では文 献の用い方に従った)。 ― 106 ― 社 会 学 部 紀 要 第135号

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れ、親となり子を生活に受容するプロセスを当事 者のみに任せてきたことに重なる。 2.2 高度化する出産管理と専門職によるケア 出産管理が高度化する中で、医療は生命を守り 安全に出産できるよう人員を配備し、救命救急体 制を整備するなどの貢献を果たした。人びとは医 療により出産に対する安心感を得たが、新生児の 主要臓器の先天的な欠損や産婦の出産時の出血な ど、すべての生命が 100% 保証されている訳では ない。医療の過剰介入による出産事故など新たな 問題も生じ、出産は今なお母子の生命が危機に陥 る時期であることに変わりはない。 しかしながら、医療技術が進むにつれ医療への 依存度は増し、医療訴訟の増加、医師不足による 出産施設の閉鎖、出産体制の地域格差などの問題 が生じた。それに対して 2008 年に『産婦人科診 療ガイドライン(産科編)』4)が作成され、周産期 医療の管理体制は強化された。厳密な医療管理 は、医療を必要とする出産の増加を招き、当時流 行しつつあった「産む力」「自然なお産」が強調 されることへの批判(伏見 2010)につながった。 他方、医療は出産の安全性に貢献すると同時に、 女性の心身の負担を増す点で両義的な側面をもち (松岡,加納 2010)、女性を中心に据えたマタニ ティ・ケアの必要性がマクロに主張された(松岡 2014)。出産が医療に包摂され、産育の分断が生 じるなかで地域や家族から離れた妊産婦は、それ ぞれが自ら医療的専門知に規定される規律に従順 に従うしかなく、現代の医療による統治と管理の 対象となった。 妊産婦、家族、地域の関係の希薄化に反し、医 療者に知識の提供や安心感を求め依存度は増大す る。妊産婦とその家族は、出産施設から退院後の 生活への移行過程で育児への不安が広がり、産後 うつの増加や自殺率の高さが指摘され5)(安田 2019)社会問題となるが、それに対し有効な解決 策は示されていない。周産期医療の発展ととも に、生命の安全が保証されることを期待された現 場の医師や助産師は、これらの経過をどのように 見つめてきたのであろうか。 本稿では、少子化の極まる現代へと続く出産現 場の現状から、誕生する子どもたちや出産する妊 産婦を、医療者はいかに支え育んでいくのか新た な議論の可能性を考察するために、ひとりの産婦 人科医師の活動を取り上げ、次の課題を設定し議 論を進める6)。まず、①出産医療制度はどのよう な変遷を辿り、人びとの出産観はどのように変化 したのかという点である。次に②専門職集団の堅 牢な出産医療システムと距離を保ちながら、日々 の実践を重ねる医師は、どのような問題に直面す ることになったのであろうか。そして、③その問 題を乗り越えるためにどのように妊産婦とその家 族の支援を模索したのかを分析する。最後に④妊 産婦、親、地域の人びとだけでなく、医師や助産 師など医療者が、どのようにすればお互いのつな がりのなかで妊娠、出産、育児を支えることがで きるのかについて検討を試みよう。

3.調査概要──戦前/戦後を生き抜いた

医師

今回調査した T 医師は、1923(大正 12)年に 男四人兄弟の三男として誕生した。生家は代々庄 屋を受け継ぐ家系であり、父は村長を務めた。 1941 年、旧制浪速高等学校(理乙)に入学、実 父の急死、直後の母の病気などの体験により兵役 中の兄たちに代わって家を切り盛りする。学徒出 陣の影 響 な ど を 受 け な が ら も、学 業 に 専 念 し 1943 年に旧制高校を卒業し、医学部に入る。医 学部在学中には長兄が大阪府会議員に出馬し、選 挙参謀として奔走する経験もした。在学中に産婦 人科を営む家に養子先が決まり、1947 年大学の 医学部を卒業後結婚。産科婦人科学教室に入局す る。「大学が新聞社のお向いにあって、道修町に 近くて。特に産科は、新しいことが起こると大学 ───────────────────────────────────────────────────── 4)『産婦人科診療ガイドライン産科編 2017』(日本産科婦人科学会/日本産婦人科医会編 2017)より。 (http : //www.jsog.or.jp/activity/pdf/gl_sanka_2017.pdf 2020. 3. 3) 5)国立成育医療研究センターホームページ『人口動態統計(死亡・出産・死産)から見る妊娠中・産後の死亡の現 状』(https : //www.ncchd.go.jp/press/2018/maternal-death.html# 2020. 7. 28) 6)出産支援者である助産師については、これまでに(岡 2020)で紹介している。 October 2020 ― 107 ―

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に問い合わせがくる。そういう意味で海外の情報 の先駆者、本拠地みたいなもんでした」と当時の 印象を語る。 大学での講師勤務を経て 1964 年、大阪の病院 の産婦人科部長に就任した。1977 年には、母子 衛生研究会の第 4 回目になる欧州・共産圏母子保 健視察団の団長として全国から医師、保健婦、助 産婦、看護婦、行政、その他関係者とともに保健 所や小児専門病院、産婦人科病院、家族計画セン ター等の見学を行った。欧州視察で感じたのは、 日本における看護教育改革、周産期医療、妊産婦 管理の遅れで、母子保健を充実させていくことを 意識するようになった。その後医療技術短期大学 部の教授として看護婦、助産婦教育に携わる。新 たな周産期医療センターの設立と助産婦養成校の 立ち上げを担い、学校長に就任。後に病院長とな った。1988 年の定年退職後はレディスクリニッ クを開院し、医師として地域医療に向き合う。 1995 年の阪神大震災でクリニックは全壊の被害 を経験するが 1 年で再建を果たし、以後 2017 年 94 歳まで現役で診察を続けた。 本稿で用いる主なデータ7)は、T 医師のインタ ビューデータに加え、著書、および過去に自身が 執筆し新聞雑誌等に寄稿したものを集めた『90 年の歩み』、『ドクター相談』、T 医師に指導を受 けた K 医師のインタビューなどである。インタ ビューは 3 回実施した。1 回目は 94 歳で現役医 師として診察を行っていた時の診療の合間(2017 年 3 月 24 日)。2 回目、3 回目は医師を引退した 後、96 歳時に入居施設を訪問(2019 年 8 月 6 日、 2019 年 11 月 19 日)。

4.出産と高度経済成長──T 医師の体験

本節では、T 医師の体験を時代の変化ととも に、戦後の高度経済成長による社会変化が医療や 出産にどのような影響を与えたのか、また医師を 取り巻く「出産の医療システム化」の背景、T 医 師の働きに変化を与えた事象などの 3 つの側面か ら述べる。 4.1 戦後の出産制度と人びとの出産観の変化 1947 年大学医学部を卒業後、産科婦人科学教 室に入局した T 医師は、教授の指示で産科に携 わることになった。当時の産科婦人科学医局は東 京大学、京都大学も含め婦人科の癌治療に関心が 高く、産科には関心がもたれていなかったそうで ある。当時を振り返り T 医師は「お産なんてあ んなん産婆のするものや。産婆でできることを何 で医学部でせんなあかんねんってね。産科なんて 出番あれへん。産婦人科医はいても産科医はほと んどおらへん。産科学なんてあるんかというよう な時代ですからね。医者が分娩に関わるなんて大 学としてはほとんどなかった。医学部のなかで産 科は帝王切開するだけの科やったんでしょうな。 お産で亡くなる人もものすごい多かったですし な。」と語る。1947 年から 1949 年の 3 年間は各 年出生数が 260 万人を超え、ベビーブームと呼ば れる時期である。1949 年の出生数 269 万 6638 人 は、戦後の統計において過去最多であった。逆に 2018 年の出生数は、91 万 8397 人と過去最少であ る。新生児死亡数は 1947 年の 84,204 人が過去最 多であり、1954 年には 42,726 人と半減し、2018 年の新生児死亡数は 801 人である。また、戦時中 に出された国民優生法を基に、1948 年に優生保 護法が「優生上の見地から不良な子孫の出生を防 止するとともに、母性の生命健康を保護する」こ とを目的として施行され、先天性の遺伝病などを 増やさないなど不妊手術を強いられる事態も生じ た。同時に人口増加を抑制するため、受胎調節実 地指導員として助産婦がその役割を担った。 1950 年代から 1960 年代半ばにかけて、地方の 若者は大都市圏に集中し、「都市化」や「核家族 化」が進展する。都会に出た出産世代の人びと は、出産場所を近隣の産婦人科医院に求め、開業 医に人気が集中し、1955 年頃から産婦人科医師 は正常 出 産 の 介 助 に 本 格 的 に 乗 り 出 す(藤 田 1979)。1958 年に母子健康センターが、主として 農山漁業地域の市町村を単位として設置され(全 国で 1964 年度までに 342 か所)、未熟児養育医療 制度が始まる。同年には国民健康保険法も制定さ ───────────────────────────────────────────────────── 7)関西学院大学社会学部の倫理規定に則り、事前に調査の趣旨を説明し、同意を得て調査を実施した。名前は伏せ ているが、著名な医師であり個人が特定される可能性があることも併せて同意を得ている。 ― 108 ― 社 会 学 部 紀 要 第135号

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れ、国民皆保険体制が確立し、分娩費(現在は出 産育児一時金)の支給がなされる。出産場所は自 宅分娩と施設分娩の比率が 1960 年に約 50% とな り、1965 年には 85% が医療施設へと急速な変化 をとげた。出産場所が移行する時期を振り返り T 医師は次のように語る。 あの当時8)医者っていうのは食うていかれ れへんねんね。35、6(歳)にならないと給 料ないんです。(医学部)出ても保険が通ら んからもうけが少ない。医者になる奴なんて おれへん。(昭和)40 年くらいからはお産は 産婦人科がするもんやって一般の考え方もな ってきまして、そこへ保険が通ったからほと んど全部いっぺんに(出産は病院で行われる ようになった)。(2017 年 3 月 24 日) 国民皆保険制度は、医療への受診を容易にし た。医師の存在する病院のシステムに人びとは安 心、安全を得て、出産を医療に委ね、医師には口 を挟みにくい状況が生じた。病院には分娩台や分 娩室、産褥室、新生児室などが設置され、妊婦、 産婦、褥婦、新生児が医療施設内で分けられるな ど管理が進んだ。また、分娩室では家族の立ち入 りが制限され、産婦と家族は離され、医療施設で の方針に従い出産、産後の知識を得ることになっ た。医師はすべての医療体制の管理の担い手とし て診療を行い、出産に付き添い、日々のケアを担 うのは看護婦や助産婦であるなど効率を重視した 分業体制が構築される。 4.2 助産婦とのかかわりと T 医師の経験 病産院において、医師は助産師や看護師との連 携が必要となる。T 医師は、1955 年から大学医 学部の附属助産婦学校の講師として助産婦教育に 携わることになった。「当時は助産婦教育なんて 興味持っている人なんて誰もいなかった。私は教 授から言われてね。」と振り返る。教育を始める と養成校の教員たちは T 医師に助産婦の抱える 不満や想いを伝えた。当時を振り返り T 医師は 医師と助産婦との関係について次のように述べ る。 産婆というものを認めるという考え方は医 者では私だけでした。昔は産婆と医師が並列 で大きくなってきたのに、(戦後)看護婦さ んの中に助産婦が入れられて。(それで私が) 助産婦の立場とか、助産婦教育の実態とか全 部考えたんです。事実上元祖になってしもて …。(2019 年 8 月 6 日) 彼は医療制度の中で出産を担うために、長時間 の陣痛緩和や直接出産介助を行う助産婦との協働 が不可欠であると考え、医師と助産婦の間に立 ち、そのどちらをも活かす道の模索を始めた。教 え子たちはイギリス、ドイツ、フランスに留学す るなど、活発に欧州の出産事情に学び、助産婦教 育の学問体系構築を目指した。T 医師は、1959 年から医学部で医師の教育も同時に担当した。 1966 年母子保健法が公布され、育児知識の普 及、先天疾患の早期発見、健康診査など母性の尊 重と乳幼児の健康の保持増進を目的に妊娠、出 産、育児の管理化が進む。この時代は、水俣病を はじめとする四大公害、サリドマイド剤被害の発 覚、カネミ油症事件などが社会問題となり、胎児 への健康被害が問題になった。T 医師は、有害物 質が胎児に及ぼす影響に着目9)し、日常生活と妊 産婦の生活指導を考え、その実践を助産婦が担え るようさらに検討を重ねた。 4.3 医療施設のなかの産科病棟──周産期医療 センター構想へ 1964 年から T 医師は大阪にある病院の産婦人 科部長として着任することになった。当時は近隣 の病院 2 施設に次ぐ出産件数を抱え、多い月で 160 件もの出産があった。仕事を終え一旦帰宅し ても直ぐに出産で呼び戻され、自宅と病院を 2 往 復したことや、当直で出産があり、そのまま翌日 ───────────────────────────────────────────────────── 8)T 医師が医師となった 1947 年から 1958 年までの国民健康保険法が制定される以前の時代のことを指している。 9)「妊婦の衣食住が胎児に及ぼす影響について」,1972『小児科臨床』25(2),131-140. 日本小児医事出版社より引 用。 October 2020 ― 109 ―

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の診療時間を迎えることも多々あったと回想す る。時間を作って、産科医療体制整備に向けた会 議のため、東京と大阪を何度も往復した。当時の 医療体制について、 大阪ではどれくらい地域に医者がいるか、 助産婦がどれぐらい必要でって、基礎データ を作ったんです。採算あいまへん。ようけ (お産)あったときは一晩に 4 つ 5 つで…10 くらいある。(病室さえなく産婦を)廊下に 寝させておったら、なんていうことやって怒 られるし、何もなくガラガラな時もある。産 科っていうのは病院での発言権はないんで す。病気は退院したら次入れたらいいけど。 そういう裏がいっぱいあるんです。恰好だけ でしたらいいけど、本式にやったら儲かって るけど赤字になる。(お産は)大きな資本で やるか、公的な病院やったら何とかなる。 (2017 年 3 月 24 日) と語る。出産は生理的なものであり、いつ出産が あるのか誰にも予測できない。出産が重なること があれば、全く出産がないなど波があり効率は悪 く、経済的には採算が合わない。また、多くの出 産に医療介入は不要であるが、母子の生命の危機 がいつ誰に起こるかが予測できない中で、どの程 度の管理体制を構築していくのかは課題であっ た。彼は病院内で「疾病」を扱う他科の医師たち と、疾病とは異なる出産への理解が進まない現実 に向き合い、医師だけではどうにもならない出産 医療体制を整備するため模索を続ける。 T 医師は、1977 年に欧州・共産圏母子保健視 察団の団長として欧州各国を視察し、助産婦の活 動とあり方について雑誌に寄稿している10)。そこ には各国の自立した助産婦像が紹介され、日常生 活における保健指導の重要性を含め、日本のこれ からの制度構築に向けたビジョンが提示される。 彼は「本当の意味で一番(お母さんらに)接して いるのは助産師ですから、実際やっている助産師 を評価せんとね」(2019 年 11 月 19 日)と、医師 を中心とした出産体制のなかで助産婦が医師の補 助業務とみなされることに違和感を抱く。また 「まだ医者のほうには、ありがとうございますっ てそういう考えをもっているでしょ。けど、助産 婦さんに対してはね。お産のときは厄介になって いるのに、ふだんはあぁ産婆か」(2019 年 8 月 6 日)と、その働きに比べ評価されない助産婦の現 状を憂いた。T 医師はさらに学問的な立場で医師 と対等に議論し、協働を果たす高い教育を受けた 新たな助産婦像を描き、助産婦養成校の大学化を 目指した。「外国(欧州)では助産学って別仕立 てでね、医師と同格なんです。よそはみな助産学 が確立している。けど、なんで看護師に大学なん てって馬鹿にされて。外国の視察でも看護を見に いかんと医学教育を見に行く。どこ行くにもみん な反対しよるし、しんどかったです」(2019 年 11 月 19 日)と当時を振り返る。産科は儲からない、 採算が合わないなど病院経営上の課題に直面しな がらも、T 医師は政治的な働きかけや、病院内で の産科医療への理解を求めて奔走した。彼は、日 常生活に寄り添いながらライフサイクルの一環と して出産を支え、産育の知恵や知識を有する助産 婦のいのち11)に向き合う立場に寄り添う、医療と は質の異なる役割に、その課題解決の糸口を見出 したのであろう。 4.4 新たな助産婦像と変わりゆく社会の価値観 T 医師は欧州・共産圏の母子保健を視察後、看 護要員の確保など病院運営のためのマネージメン トに関わる。また「赤ちゃんは死んでも当たり前 やって時代ですからね。当時は(出生児体重) 1000 g なんて問題外。」というような社会的風潮 のなか周産期医療を構想し始めた。同時に助産学 を日本で確立させようと国への交渉を行う。助産 婦教育の大学化構想と同時期に行政への提言を行 っていたが、大学化に先行し府の衛生対策審議会 から「母子保健総合医療センター(仮称)」構想 についての答申が出され、1981 年にセンターが ───────────────────────────────────────────────────── 10)「これからの助産婦のありかた〈特集〉:欧米各国における助産婦のうごきとそのありかた」,1979『産科と婦人 科』46(5),756-761. 診断と治療社より引用。 11)ここでは科学の取り扱う生物学的な生命と、心身およびその人の人生や存在などあらゆることを含意する意味で いのちと分けて用いている。 ― 110 ― 社 会 学 部 紀 要 第135号

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開設された。その 1 年前には助産婦学院が開学 し、卒業生らがスタッフに加わる。行政への働き かけを再三再四繰り返し、設立準備を重ねた T 医師は当時の反対を振り返り「(開業医は)表向 きは賛成してんねんけど裏ではもう…。お産を (センターに)取られると(収入が減り)食うて いかれへん。医師の団体も反対ならほとんど何や かんや反対ばっかりでした。2、3 年したらほと んどみな賛成してくれた。(センターでは)難し いお産しか取らんしね。金儲けのこと考えなあか ん人はものすごう反対しはる。今のままで十分や て、猛反対ですわ」(2017 年 3 月 24 日)と語る。 周産期センターが開設される前の 1979 年の全 国の周産期死亡率(出生 1000 対比)は 21.6、新 生児死亡率は 4.2、センター開設後 5 年目である 1988 年は、周産期死亡率 12.7、新生児死亡率 2.1 と、出生時の死亡率が半減し開業医との共存を果 たしていく。T 医師は開業医とセンター、医師と 助産婦など双方にとって共存のために丁寧な説明 を繰り返し続けた。 彼はまた、妊産婦の衣食住など日常生活におけ る有害物質が胎児に及ぼす影響や、早産児の出生 に至らない生活上の工夫、妊娠中毒症(現在は妊 娠高血圧症候群)予防など、妊産婦の健康管理の 必要性を新聞、テレビ、講演活動を通して伝え た。彼の出版した助産師向けの書籍は版を重ね、 長く助産師学生のテキストとして広く浸透し「よ く売れました」と語る。この本は助産師や看護職 をはじめとする妊産婦に関わる医療者に、一種の 公共空間をつくり上げるのに役立つこととなっ た。一方で T 医師は「何でそんな助産婦のかた 持つんや」といった批判的な意見を多くの産科医 師から受けたと振り返る。 1978 年の新聞連載で、夫の立ち合い出産やラ マーズ法などが紹介され、出産への過剰な医療介 入が問われるようになる(藤田 1979)。水中出産 やソフロロジー式分娩法、フリースタイル出産な ど新しい出産方法も注目された。T 医師と共に働 いた後輩医師は日本で水中出産を扱い、翻訳など を通じて自由な出産を紹介する(久 1987)。当時 ラマーズ法ができる施設として脚光を浴びたのは 助産院であり、助産婦の存在が再認識され、T 医 師の考え方を結果的に後押しする形となった。 1994 年に、カイロ国際人口開発会議において リプロダクティブ・ヘルスが女性の権利として推 進される。この時代はマタニティ雑誌や、40∼60 万部を超す漫画家や芸能人の「出産本」が出版さ れた12)。このような動向は、出産の個人化を促 し、日本における出産は、施設化、消費化ととも に私事化していく(白井 2011)。自然に産む、主 体的に産む、夫婦で産むなど「ロマンティックバ ース・イデオロギー」とでも呼べるような(岡 2016)方向へと出産が価値づけられていく。自然 な出産を求め多様な出産スタイルが紹介され、女 性の主張や選択が自己実現や自己責任に重ねられ るようにもなる。ただそれは、母子の生命の安全 性が医療により担保されていることが前提となっ ていた。結果として、自然出産などの広がりが、 出産の医療化を後押しし、人びとの医療依存を助 長することとなった。T 医師は「1990 年代くら いか、お産は無事で当たり前で感謝もされなくな ったというか、人の考え方が変わっていった」と 感じていた。

5.産科医師の負担と疲弊

時代の流れとともに人びとの出産観は変化し、 出産による生命の安全が保証されていることが当 然視される中で、医師はどのような課題に直面 し、向き合うことになったのであろうか。本節で は技術革新が進む医療の中で生じることになった 問題を、T 医師の立場から見ておこう。 5.1 技術革新と周産期医療の進展 合計特殊出生率13)は、1947 年には 4.54 であっ たが、1975 年には 1.91 となり、以後 2.0 を超え ることはなく少子化が現在に続く。子どもひとり ひとりへの期待が大きく、出産は医療に任せてお ───────────────────────────────────────────────────── 12)漫画家まついなつきの『笑う出産』(まつい 1994)60 万部や、内田春菊の『私たちは繁殖している』(内田 1994)、石坂啓の『赤ちゃんが来た』(石坂 1996)40 万部等がある。 13)ひとりの女性が出産可能とされる 15 歳から 49 歳までに産む子の数の平均を示す人口統計上の指標。 October 2020 ― 111 ―

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けば安心で安全な時代であるという風潮が広が り、出産時の母子の死は特別なこととなった。産 科では 1960 年代から超音波ドップラー胎児心音 検出器、分娩監視装置、超音波診断装置(以下、 エコー)など医療機器が次々と開発された。1980 年代からは一般の産婦人科にもエコーが普及し、 胎児の様子や大きさ、形状、性別、異常などの診 断がつけられ、胎児異常の早期発見が重視される (鈴井 2004)。T 医師が描いた周産期医療体制が 各地に整備され、早産児の救命率向上とともに、 出産の管理体制は次第に変化していく。母子の安 全を重視し、近年増加傾向にある帝王切開率につ いて T 医師は次のように語る。 欧州では帝王切開も一つの道具。助産学と 両立しているんです。帝王切開増えるのは当 たり前です。危険性を早う見つけるというこ とで対応策としては帝王切開しかないんやか ら。いつでも帝王切開できるという基本的な ことです。(それも)医療費の無駄使い、何 もせんと放っておいたらいいと文句言われ た。どこかで折り合いつけんならんけどそれ は誰もしない。(2019 年 11 月 19 日) 帝王切開技術の変遷と帝王切開率が上昇してい る現状を文献から調査した箕浦茂樹は、安全性の 観点からやむを得ない面も多いが「経腟分娩をい かにマネージできるかが産科医たるゆえんであ る」(箕浦 2016)という基本的な考え方について 示している。 近年は胎児の異常を診断する前段階に超音波胎 児スクリーニング検査が行われる。さらに新型出 生前診断14)により染色体疾患がわかり、産むのか 産まないのかという倫理的な課題もでる。また、 周産期医療では体重 500 g 未満で誕生した新生児 が救命される。このような産科技術の変化は、医 療機関での出産管理や倫理的課題を高度で複雑に し、勤務する医師や助産師など医療者に多くの作 業やクリアすべき課題を与えることになった。結 果的に、医師の施術時間が増え、業務に手を取ら れて助産師が妊産婦と接する時間は短縮(佐々木 2010)してしまうのである。 5.2 医療訴訟と医療者の疲弊 医師の「出産をコントロールしたいという欲 求」(松岡 2014 : 102-124)は、時代とともに陣痛 促進剤という薬品の呼称が子宮収縮剤へと変わる など様々に言説を変容させながら、現代へと続 く。他方で、近年では無痛分娩での事故などが報 じられ(『毎日新聞』2017. 7. 31 大阪夕刊)、陣痛 を起こす子宮収縮剤の使用に関し警鐘が鳴らされ る。2004 年の医事関係訴訟新受件数(医師 1000 人当たり)は、眼科が 2.4 件で、大半の領域は 5 件以内であるのに対し、産婦人科が 12.4 件と突 出している15)。子宮収縮剤や過剰な医療介入によ る事故は、胎児死亡や子宮破裂、母体死亡など医 療過誤によるものであり、不可避の出産時の異常 や死などとは分けて考えられている。しかし、分 娩監視装置などの医療機器が導入され、より厳重 な管理が求められると「見落とし」や「失敗」、 「死産」に伴う「訴えられる不安」が医療者にた だようことになる。 T 医師は産婦人科医師のジャーナル16)に、医事 紛争、人手不足、労働問題など解決すべき問題が 山積し、開業医間に「やめたい」「お産や入院を 取り扱いたくない」と他科へ転ずる傾向や、産婦 人科医師希望者減少について言及している。 計画分娩、計画通りに行ってくれりゃいい ですよ。お産の難しいのはそこですわ。夜中 ばっかりお産になって、こっちの計画通りい ってくれへんことがあ る。夜 中 に 10(件) ───────────────────────────────────────────────────── 14)妊婦の血液から胎児の DNA を調べられる検査で 2013 年から導入。異常が確定し妊娠を続けるかどうか選択で きた人のうち 96.5% にあたる 334 人が中絶を選択。検査を受けた女性は 27696 人。異常が分かっても妊娠を継 続した女性が 12 人(毎日新聞 2016 年 4 月 25 日朝刊)。 15)厚生労働省ホームページ「医療紛争処理等の現状について」から引用。(http : //www.mhlw.go.jp/shingi/2007/04/dl/ s0420-11c.pdf, 2018. 1. 14) 16)「産婦人科医の将来(これからの産婦人科〈特集〉)」1975,『産科と婦人科』42(1),9-10,診断と治療社より引 用。 ― 112 ― 社 会 学 部 紀 要 第135号

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もお産経験した医者は、2 回経験したらやめ よってなる。24 時間付き添わならんお産も あるわけで、昔やったら付き添いましたよ。 今頃はそんな長い間辛抱できることあれへ ん。みんな帝王切開ですわ。産科はええとこ なし、怖い目にあうとやめる。8 時間労働ち がう、20 時間ぶっ通しです。産科に来てく れるひとおれへん。払う方にしたらものすご い 時 間 給。い ま で も 当 直 料 高 い で し ょ。 (2017 年 3 月 24 日) こうした割に合わない出産の現状に対し、T 医 師は助産師との協働など妊産婦の周囲の人びとの 介入を模索した。 母子の死の危険性が大幅に減少し、無事誕生が 当たり前と受け止められるがゆえに、出産時は予 測がつかないことを知る医療者は、管理を徹底す る方向で検討を行う。2006 年頃より生じた産婦 人科医師不足問題を背景に、周産期医療の安全な 供給体制を目指し出産医療機関の集約化が提唱さ れた。2008 年からは『産婦人科診療ガイドライ ン(産科編)』(注 4 参照)による管理体制強化と 技術の標準化が図られる。妊産婦に対しても、同 意書による意思確認がとられる。また、日本産婦 人科医会は 2010 年から妊産婦死亡報告事業を開 始し、注意喚起を行う17)など管理が浸透し徹底さ れる。生命を保障することへの責任が医療に集中 し、疲弊した医療施設では、安全への期待と医師 の確保に備え管理を強化せざるを得ない事態に陥 っていた。 前出の松岡は、医療により出産の安全性が保た れ安心なはずの出産体制であったが、近代社会の 出産で①出産への恐怖が大きくなった、②帝王切 開が増加した、③産後の問題が増加したという 3 点を指摘する(松岡 2014 : 90-125)。周産期医療 の安全な供給体制により、出産医療機関が集約化 され、妊産婦は居住地から遠く離れた場所での出 産を余儀なくされ、地域や生活から離れてしまう ことにつながった。

6.押し寄せる問題と医師の実践

急速な時代の流れのなかで出産や出産介助者が いかに医療システムに包摂され変容してきたのか を、産婦人科医師の語りとともに論を進めてき た。T 医師は社会の要請に応え、周産期医療セン ター設立など医療体制を充実させ「出産」を支え てきた。しかしその過程では、さまざまな課題に 直面し、その都度丁寧に周りの人の意見を聞き、 折り合いをつけながら解決を模索し続けた。 本節では、T 医師が抱くことになった問題とそ の問題に、出産医療制度を中心となって担ってき た T 医師がいかに向き合い対処してきたのかに ついて考察する。さらに、それを通して現代的な 課題に対応するために必要な対応とはいかなるも のかという問題について検討しよう。 6.1 生命に対する責任と保証──妊 娠、出 産、 育児の分断と出産観のズレ 医療者は、生命の安心・安全というシステムを 保つため、「ガイドライン」を根拠に分娩促進や 帝王切開など医療介入の必要な出産管理によって 出産医療的リスクは回避できるが、逆に妊産婦が 出産に抱く恐怖心や鬱など、別のリスクを引き起 こすというジレンマを背負うことになった。例え ば、規模の大きな病院では人員など大規模な管理 体制が敷かれ、業務はさらに煩雑でケアやコミュ ニケーションが手薄になることにより、妊産婦の 不安は解消されずに医療者の負担を増大させると いう悪循環につながるのである。 T 医師は、周産期医療を充実させ出産にまつわ る母子の死のリスクを極力排除するために、実践 を重ね努力を続けてきた。医療経済的課題や医事 紛争、医療施設内の他領域との折衝、領域内の医 師同士の意見調整、助産師・看護師との連携、勤 務体制など、出産制度の矛盾に向き合ってきたと いえる。しかし、社会の変化とともに出産が家族 や地域の手を離れ医療に包摂され、産育から出産 の医療的な切り出しが進むことにより、家族や地 ───────────────────────────────────────────────────── 17)「母体安全への提言 2016 Vol.7」から引用。 (http : //www.jaog.or.jp/wp/wp-content/uploads/2017/08/botai_2016_2.pdf 2018. 1. 14) October 2020 ― 113 ―

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域では妊産婦を支えきれない事態が生じてきた。 人びとは無事出産できることを当然視し、安心・ 安全を求めて当事者の医療依存は高まり、さらに 産育全般の知識やケアを期待する。また、医療の 専門家に口を挟みにくい状況も生じ、生命を産 み、育てる当事者の役割として、「いのち」に向 き合う覚悟や態度を医療に委ね、自ら考える余地 がなくなっていった。 つまり、T 医師が抱え続けることとなった問題 とは、医療者だけが生命への責任を担い、管理を 強化し続けなければいけないこと自体にあった。 T 医師がセンターの院長であった際、彼の元で働 いた経験のある K 医師は、T 医師の当時を振り 返り「管理的な立場から現場を見ていらしたが、 T 先生はリスクへの対応について愚痴を零されて いたのをよく覚えている。何人もの正常に経過す る妊産婦を『リスク』と捉えて早めに対処するの か、それとも正常な経過を見守るのか、お産は難 しいからね」(2019 年 11 月 25 日)と話す。 高度化・複雑化した出産に関連する医療職の多 忙な実践は、今なお安全・安心な出産を提供する システムを保つことに関心が注がれる。T 医師 は、ジレンマを抱えてきたなかでどのような思い で現在の体制を眺めるのであろうか。 産科学はね、まだわからんことばっかりで す。日本の中で誰がお産をするのが理想かを 制度的に決めるべきなんでしょう。そういう 点はみな触りとうないもので…夜中に働いた ことのないひとはなんぼいうたってわからへ ん。時代は何でもかんでもみな責任負わしよ るし。お産やめよっていうのが実態です。妊 娠から子育てまでを支える、本当はそうある べき。それやったら視野も広うなっていくん ですけど。そういうものに対する金銭的な評 価というものが適当ではないんです。そうい う意味では日本の国の昔の産婆時代残ってい る方がよかったのかもわかれへん。(2019 年 8 月 6 日) T 医師は長い経験の中で臨床に真摯に向き合 い、産科学を探求し続けた結果として権限の分散 や裁量の余地を残すことを構想してきた。医師に 出産の権限が集中し、管理を徹底させる体制やそ の責任を一方的に担う現状への嘆きとも受け止め られる。 治療に関し、ある心臓外科医師は「みんなそん な(信用できる)患者さんだったらいいだろうけ ど、患者さんもいろんな人がいるし、その人が良 くても家族が何を言うかわからない。標準治療で ないと怖くて提案できない」(2017. 6. 24)と医 療に対するガイドラインや医師と患者の関係につ いて語る。出産現場で医師や助産師たち医療者 は、時代とともにガイドラインや同意書などを用 いて、妊産婦の生命の責任を担うことから距離を 置くようになったともいえる。 6.2 複眼的出産管理と支援者の「スキマ」 T 医師は「昔の産婆時代」という表現を用いつ つ医師と妊産婦をつなぎ、ケアを担う助産師の役 割に注目してきた。彼が実践の中で得た実感は、 医師と助産師が対等にそれぞれの役割で協働する 点と、病気の治療とは異なるという点で、医療制 度に新たな産科のための制度が必要であるという 点にあった。それは、単に身体的な生命の安全を 保障し、医師の権限において一切の責任を負いつ つ厳重な出産管理を行うという形ではない。医師 は異常を見逃さず対処し、助産師は正常な出産経 過を促すために出産環境を守り、産育の知恵や知 識を通して妊産婦に寄り添うという、その複眼的 な出産管理により、医師だけ助産師だけではもち ろんのこと、医師と助産師によっても埋めること のできない「スキマ」があることが明示化され、 そこを誰かが埋めるという柔軟な対応が必要にな るという視点にある。その視点による実践を通し て、日常生活や地域と医療をつなぎ、妊産婦を取 り巻く周囲の人びとが入り込む余地を創り出そう としてきた。 では、社会の変動とともに医師−患者/妊産婦 の関係に変化が生じるなかで、医師や助産師、妊 産婦と家族は、どのように誕生をめぐり母と子の いのちに向き合い、可能性を見出すことができる のであろうか。 無痛分娩も痛みを消しただけ。お産という ものに対する、ものの考え方も変えてもらわ ― 114 ― 社 会 学 部 紀 要 第135号

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んと。産むときだけと違うんです。妊産婦は しんどいもんや、世間全体が妊産婦を助ける っていう考え方でないとね。全体やないとあ かん。産科学は犠牲的な精神で昔はみなそん な生活ずっと続けてきて。お産好きでないと ね。家じゅうの人から心からの心情として感 謝してもらえると、産科もいいなって思える けどね。(2019 年 11 月 19 日) 出産が単に制度として金銭のやり取りの上に成 り立つサービスではなく「産むときだけと違うん です」という彼の発言は、多くの出産にまつわる 生命の危機に対峙し、向き合い続けた医師の経験 に裏打ちされる。彼は、新たないのちを生み出す ための心構えとして、出産が当事者だけでなく、 地域、医療者を含む、支援するひと全体で支える ことが大切であると考えていた。「全体で」とは、 個別に、あるいは部分的に物事をみるのではな く、長い人生の中に出産を位置づけ、医師だけが 責任を負うのではなく、個々人全体の役割である ことを指摘している。医療者や、身体を所有する 当事者、生活を共にする家族が、相互の関係の中 で生命の管理を担い、支え合う仕組みの必要性が 示される。それは、金銭的な評価を越え、人のつ ながりのなかで成立すると考えていた。 妊娠中から、出産、産後を一貫して支えるケア に医療職を含めた育児の専門職などが共に参加し つつ、当事者同士をつなぎ、その間に様々な人び との出入りを可能にした、自己と他者の関係を深 化させるための自由な実践やネットワークの可能 性が示される。

7.おわりに──日々の生活から相互にい

のちに向き合う態度を見直す

本稿では戦後の出産医療システムに包摂されて いく出産の変遷に、医師がどのようにかかわり人 びとの出産に向き合ってきたのか、出産の知恵や 知識をライフサイクルの一環として生活に埋め戻 すため、助産師との協働による解決策を構想し、 人びとに必要な出産医療システムを追求した医師 の実践の過程をたどることによって、出産とライ フサイクル、生命の管理権をめぐる周産期医療の 課題を明らかにしてきた。まとめよう。 これまでの出産をめぐる議論では、妊娠、出 産、育児と続く「産育」のなかの「出産」を地域 や家族から切り離し、医療システムへの包摂が問 われ、結果的に産前、産後など出産以外の産育の 議論を置き去りにしてきた。医療施設での出産が 定着すると、産育を見守る助産師や地域の機能は 失なわれ、親となり子を生活に受容するプロセス を当事者のみに任せてきた。生命の安全と安心を 強調するかたちで医師の管理は進み、技術革新を はじめ周産期医療での治療成績は向上する。しか し、少子化は続き、育児不安、産後うつなど妊産 婦の新たな課題が明らかになる。 以上のように、出産の医療的な管理体制が法的 にも制度的にも確立し「ガイドライン」の基準が 重視されると、医療者でない他の人びとの意見は 排除され、母と子を支援する人びとの入り込む 「スキマ」が狭められてきた。当事者が、生命の 主体としていかに生きていくことができるのかと いう問題について考えるためには、医療化した出 産管理体制に包摂されたなかでは、個々に寄り添 ったミクロな実践によってその問題点を改善する 可能性を見いだすしかない。急速な時代の流れの なかで、問題を抱えつつ T 医師は模索し続けた。 先述の T 医師の後輩医師であり、現在その意 志を継ぐ K 医師は、出産を扱うクリニックの院 長として日々出産を通して妊産婦や家族に向き合 う。勤務時代に出会った妊産婦や助産師の考えに 触れ、出産をみつめる中で次第にその考えを成熟 させた。自らのクリニックでは、助産師とともに 親と子が集まる場所の提供やつどい、小児科医師 の話を聞く会などを開催し、時に自らも参加す る。また、地域の助産院の嘱託医師として地域の 助産師を支援し、妊産婦の出産場所の選択を後方 支援する。彼は「医師は異常を見逃さないように 異常はないかという視点から、助産師は正常に経 過するために正常な視点からみるのがいい。同じ 妊産婦さんを少しずらした視点から複眼的にみる ことによって見逃しを防ぎ、よい結果へと向かう ことができるのではないかと思う。どちらかだけ の見方では偏ってしまう」(2019 年 11 月 25 日) と語る。T 医師の目指した、医師と助産師の協働 による出産体制の形が体現される K 医師の実践 October 2020 ― 115 ―

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は、医師や助産師、妊産婦と家族などをつなぐ新 たな「産育コミュニティ」を創出させようとして きた T 医師の実践を継承していたといえる。 T 医師は出産医療制度を構想する立場にありな がら、その問題点を工夫と実践によって乗り越え ようと構想してきた。その核心は、医師と助産師 を截然と分けるのではなく、それに関与する複眼 的な出産管理という視点を導入することと、当事 者の生活の必要に応じ医療者との相互関係のなか で生命の管理を当事者に引き寄せ、いのちの主体 として生きるため、出産を妊娠から育児までの文 脈、つまり産育のなかに位置づけて考えるという 点にある。 したがって T 医師の事例は、周産期医療セン ター構想という最先端の役割を担いつつ、それに 突き進むというものでも、産婆制度を見直し、医 師は出産から手を退くというものでもない。出産 医療体制を検討する立場からも、現場で出産に向 き合う開業医師や助産師の立場からも批判されか ねない、複雑な立場に身を置いてきたと言える。 しかし、こうした現場での妊産婦や家族の生活の 立場や、その身近に存在する助産師を尊重した折 り合いをつける立場の実践によって、出産医療制 度のなかに「スキマ」を創り出そうとしてきた点 に本論は着目したのである。 人びとの生命の管理が高度に政治的、かつ技術 的な統治として進行する中で、妊産婦は産育の一 連の流れとライフサイクル、地域での生活とを切 り離すことを強いられる。しかし、単に医療に任 せればいいのではなく、それぞれの人が子どもの 誕生を、生きている限り誰にも訪れる死を見据え た上でライフサイクルの流れの一部として受け止 め、人とつながりをもちながら支え合うことの自 覚が求められる。一方医療の側も、母と子をめぐ る周囲の人びとの関係を排除し、医療の管理を強 めることなく、支え合う人の関係に入り込む「ス キマ」を与えることを再考する時期が来ている。 それは T 医師のアイディアでもある。 戦後、出産が地域を離れ、医療施設に入ること によりさらに医療的管理は進み、医療者は疲弊 し、妊産婦や家族が不安を抱く時代を迎えてい る。出産による死は限りなく減少することができ たが、無事出産できるだけではどのように人生に 向き合うのかが見えない時代に、T 医師は、出産 という予測不可能な営みに丁寧に向き合い続け た。「私らの世代は与えられたらそれを全うする ために全力を注いできた」という T 医師の言葉 に、急速に変化する時代を生き抜いてきた医師の 矜持を貫く姿勢を感じる。医師と助産師の協働を 果たしながら、押し寄せる外部条件に対して対応 を積み重ねる過程を構想してきたといえる。 近代社会は個人化が進み、さまざまなリスクが 生じるとともにそれを解消するため専門職にその 役割が与えられてきた。そこでは「いのち」は 「生命」として個人的なもの、操作可能なものと 捉えられ、さまざまな権力が嵌入する可能性に晒 されることになる。それに対して、いのちは個人 的なものというだけではなく、社会全体で、連続 する時間の中で捉え、生を授かる誕生時に死を含 めたタイムスパンでライフサイクルを見通すこと は、生に向き合う機会を得ることにつながる。そ のような立場から T 医師は専門職という領域の 基本的な立場を少しずらし出産への関わり方を構 想しつづけたのである。 文献 藤田真一,1979,『お産革命』朝日新聞社. 舩橋惠子,1994,『赤ちゃんを産むということ──社会 学からのこころみ』NHK ブックス. 伏見裕子,2010,「産屋と医療──香川県伊吹島におけ る助産婦のライフヒストリー」『女性学年報』31, 98-119. 板橋春夫,2007,『誕生と死の民俗学』吉川弘文館. 松岡悦子,2014,『妊娠と出産の人類学──リプロダク ションを問い直す』世界思想社. ────,加納尚美,2010「出産時の医療介入とマタ ニティーブルーズとの関連の検討」『母性衛生』51 (2),433-438. 箕浦茂樹,2016,「文献からみた我が国の帝王切開の変 遷(特集 現代帝王切開学)──母性の立場から」 『周産期医学』46(9),東京医学社,1061-1064. 西川麦子,1997,『ある近代産婆の物語──能登・竹島 みいの語りより』桂書房. 中山まき子,2001,『身体をめぐる政策と個人──母子 健康センター事業の研究』勁草書房. 落合恵美子,1990,「ある産婆の日本近代──ライフヒ ストリーから社会史へ」『制度としての「女」── ― 116 ― 社 会 学 部 紀 要 第135号

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Changes in the Perinatal Medical System and Pregnancy/

Childbirth Care in Post-war Japan:

Narratives of Obstetricians

ABSTRACT

Many studies on the medicalization of childbirth have focused on childbirth, for

example, the growth of the perinatal medical system, changes in birth attendants, and

diversification of the methods of childbirth. However, studies that explored the

meth-ods employed by health care providers for supporting pregnant and nursing mothers

have been lacking. To re-examine the process of pregnancy to childcare as part of the

life cycle including death, this aims to focus on the relationship between the

obstetri-cian and pregnancy/childbirth care by investigating the narratives of physiobstetri-cians

in-volved in childbirth. The study argues that after the war, medical control increased as

births transitioned from the community to medical settings, which rendered medical

professionals exhausted. In addition, expectant mothers were forced to be separated

from childbirth and upbringing in the community. Overall, the study highlights

physi-cians who should refrain from separating doctors and midwives and managing births in

a manner. Additionally, diverse relationships should be nurtured without increasing

medical control.

Key Words: medicalization of childbirth, childbirth care support system, obstetrician

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