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価値形態論の見直しのために」再論
I 序 前稿│こおいて,筆 者 は価値形態論の再構築 について或る方向を探 ろうとした。 いわゆる第 工形態か ら第 皿形態への移行 において国家ない し緩やかな共同体的 要因の介入 を認 める方向を模索 したわけである。 こうしたことを試みたのは, 一方で旧来の価値形態論 に従 った貨幣把握が現代的貨幣現象の理解にとっての 認識障害 になっている とい う正木八郎氏 らの問題提起 に一定の共感を抱 きつつ, 他方で正木氏 らがそのゆえに価値形態論 その もの を捨 て去 ろうとしているのは いわば盤の水 とともに赤子 をも流 して しまう過 ちをおかす もの と危惧 したか ら である。つ ま り,旧 来の価値形態論 に従 うのみでは貨幣の備 える 「信頼」 とい う契機 ない し市場経済 システムの成員間の共通了解の集積的 ・象徴的担い手 と い う契機 を的確 に捉 ええず,そ のことは現代的貨幣現象の理解 に,ひ いては市 場経済 システムの本質の理解 に大 きな制約 をもた らしていると認めつつ,貨 幣 の備 えるこうした契機 を提 えるためにも価値形態論の第 I形 態―― マルクス言 2 ) うところの「すべての価値形態の秘密がひそんでいる」形態一一は有効であ り, 貨幣論はやはりここから出発すべ きと解 したのである。 だが,こ うした試みは,正 木説 らの吟味 とともに,信 頼ない し諸成員間の共 通了解の集積的 ・象徴的担い手 という契機に着目する含意,こ の契機を価値形 態論 に即 して掘 り起こす道筋,さ らにそのことといわゆる原論ない し原理論の 方法論的性格 との関連など,多 岐にわたるそれぞれに重要な論点を抱えてお り, とても短い紙幅のなかで意を尽 くして論 じうるものではなかった。のみならず, 拙稿 「価値形態論 の見直 しのため に」 K.マ ル クス,岡 崎次郎訳 『資本論』 『彦根論叢』第3 1 5 号, 1 9 9 8 年。 ( 1 ) 国民文庫 , 9 4 ペ ージ。 樹 直 沢 梅46 彦 根論叢 第 331号 筆者 には,不 換紙幣 を基礎づけるにあたって,流 通手段 としての貨幣機能 より む しろ価値形態論 における第 工形態か ら第 田形態への移行 にさい しての「共同 の仕事」とい う契機 にこそ着 目すべ きではないか とい う年来の問題意識があ り, その ことが論議 に性急 さを生んだことも否めない。 そ こで本稿では,山 口重克氏の労作 に拙論 を対置することを通 じて,前 稿で の問題提起 を敷行 してみたい。山口氏 は,一 方で正木氏 らのいわゆる「貨幣的 アプローチ」に宇野派の立場から厳 しい批判 を加えている。他方で,そ うした 山口氏 と正木氏 らの争点の基底には原理論の方法論的性格をいかに捉えるべ き かという問題が伏在すると解 されるのだが,ま さにこの問題をめく`って山口氏 は小幡道昭氏 と論争を繰 り広げつつある。すなわち,山 口氏に触発 されて宇野 理論の思いきった再構築を, しかも筆者には興味深い再構築を試みようとする 3 ) 小幡氏 に,山 口氏 自身が強い反発 を示 している。 こうして,山 口説 と拙論 との 異同を明 らかにすることは,前 稿での問題提起の意味 を鮮明にするうえで きわ めて有効 な試み と考 えられるのである。次節では,山 口氏が正木氏 らに加 えて いる批判の検討 を通 じて,争 点の基底 に原理論の方法論的性格 に関する認識の 問題が見出されることを検証する。ついで第皿節 において,山 口氏の小幡説 に 対す る反批判 と対比 しなが ら,拙 論の前提 となっている資本制市場経済 システ ムの原理的性格 についての認識 を確認する。 さらにそれ らを踏 まえて,第 IV節 において拙論 の敷行 を試みることとしよう。 I 山 口による正木説批判 をめぐつて 山口氏 は,『金融機構の理論 の諸問題』 に収録 された二つの論文 において, なかんず く正木説 に詳細 な検討 を加 えなが ら,正 木氏 らの貨幣的アプローチに 基づ く貨幣論 に厳 しい批判 を加 えている。その要点は以下の二点に絞 られよう。 す なわち,マ ルクスの価値形態論が価値実体論 に制約 されて難点 を抱 えてい る とい う正木氏 らの批判 に異存 はない。だがそれは,流 通形態論 に純化 した価 3)山 口重克「中間理論 としての類型論」,「同左」(2),「外的諸条件の構造化 と類型論の方法」 『政経論叢』 (国士舘大学)第 112号,114号 ,115号 ,2000年,2001年。小幡道昭「原理論 における外的条件の処理方法」『経済学論集』 (東京大学)第 65巻2号 ,1999年。
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「価値形態論の見直しのために」再論 4 7 値 形態論 の展 開 を要請 してい る とも受 け とめ られ うるのであ って, た だ ちに価 値 形 態論 の放 棄 を帰結 す る もので はない はず であ る。 じっ さい, 宇 野派 はそ う した価値形態論 を展 開 して きてい る。 しか るに,正 木氏 らは この宇野派説 の検 討 を蔑 ろ に し, 「 ( 貨幣生成論 の) 無 用論 の論拠 を積極 的 に述べ ない まま, マ ル クスの生成論 の欠陥 を論 じて,生 成論 の不 可能 を断 じ,そ れ を もって無用論 4 ) に代えているにす ぎない」と。 第二に,正 木氏 らの主張の背後には商品観念に関する思い込みが存する。正 木氏 らは価値形態論 を批判するにあた り,労 働価値説によって基礎づけられた 「確定的な社会的な関係性」をすでに備えたものという商品観念を,換 言すれば 「強度に締め上げられた,す でに出来上がっているものとしてのブルジョア的 総生産過程の表面での規定」としての商品観念を実質的に前提 している。だが, 流通形態論における商品観念は本来,「まだ社会的になりきつていないもの」, 「交換要求をしている財」として措定されるべ きものであるし,宇 野派はまさに D そのような商品観念を前提に価値形態論 を展開してきている,と 。 山口氏による正木氏 らの貨幣的アプローチに対するこうした批判には首肯 し うるところがある。正木氏 らが宇野理論の検討を怠ったまま一方的に」.カル トゥ 6 ) リエの貨幣的アプローチに惹かれた とは思わないが,宇 野弘蔵氏が切 り開いた もうひとつの選択肢 の方向を不確定 な世界 における経済主体の行動 に焦点 を当 てて よ り積極的に展開 して きた山口氏か らすれば,正 木氏 らの論議の運び方 に つ は偏 りが目につこう。また, 正 木氏の強調する「異質性の同質化」という貨幣機 能に関 して, 「そこ ( 第I 形態) か ら始めないで, ど うして異質性 を同質化 し 働ようとする貨幣の機能を説 くことができるのであろうか」と山口氏が投げかけ
4)山 口重克 F金融機構の理論の諸問題』御茶の水書房,2000年 ,255-57,26鱗 69,272,2 76-77ベージな ど参照。なお,( )内 は引用者 による補足。以下同様も 5)同 上書,268-69,270-71,274ペ ージな ど参照。 6)関 西原論研究会等 を通 じた個人的知見か らす ると,正 木氏 は宇野理論 に高い関心 を払 っ て きた人である。 じっさい,山 口氏が批判対象 に している論文 において も少 なか らず宇野 説 に論及 してはいる。 7)正 木八郎 「マル クスの貨幣商品説再考」 『経済学雑誌』 (大阪市大)第 93巻2号 ,1992年 , 5,8,27-28ペ ージな ど参照。 8)山 口氏,前 掲書,270-71ページ。4 8 彦 根論叢 第 3 3 1 号 ている反問も理解 しうる。筆者が正木氏 らの価値形態論批判に既述のような危 惧 を抱 くのも基本的にはこの論点に関わっている。とはいえ,筆 者は「異質性」 や「同質化」の内実の理解において山口氏 とは見解を異にする。そしてこの点は, 正木氏が敢えて宇野派説の積極的検討に立ち入 らなかった理由にも関わつてい そうである。 すなわち,正 木氏は,マ ルクスの貨幣論の原点は世界貨幣であったとみなし たうえで,そ のことを高 く評価 していた。つまり,正 木氏が貨幣によって同質 化 される対象 とみなす「果質性」は,諸 共同体 (=異 質なシステムを持つ諸社会) の間の異質性 といった,い わば共通項を持たない異質性であり, したがってま たそれらの同質化 とは,そ れらにとり外部的な存在によって超越的に遂行 され る同質化 ということだったのであるをかつ,こ れは正木氏 らが推すカル トゥリ エの貨幣的アプローチの核心に関わるところでもある。片岡氏によるカル トゥ リエの貨幣的アプローチの簡明な特徴づけを借 りれば,同 アプローチは貨幣を 「市場 における取引を可能にする社会関係」ない し「市場のコーディネーション の中心的要素」としての「ルールの総体」であって,「諸個人による自発的な交換 に先行する存在」 と捉えるものだからであると貨幣の体現 しているものがこの ように市場経済システムを構成する諸個人に先行する超越的なものと解されて いるかぎり,山 口氏 らが先に触れたようなかたちで宇野氏の切 り開いた方向を いかに洗練 させようとも,そ れは正木氏 らの日に積極的検討に値する魅力ある 試み とは映 じえなかったであろう。 た しかに,貨 幣の体現 しているルールのすべてが諸個人を超越 しているとは 思われない。だからこそ,「第 I形態から始めないで ・・・」といううえに触れ た山口氏の反間に筆者 も一定の共感を抱 く。また,貨 幣的アプローチの最大の 狙いは,経 済活動を自然的 ・没歴史的に概念化 しようとする新古典派経済学に
オールタナテイヴな経済学を対置することにあるとされているのだ力
寺そのこ
9)正 木氏,前 掲論文,5ペ ージ以下参照。 10)片 岡浩二 「貨幣 とは何 か ?― J.カル トゥリエの<貨 幣的アプローチ>一 」 F横浜国立大学 教育人間科学部紀要 田(社会学科)』No.2,1999年 ,7ペ ージ。 11)同 上論文,12,5-7ベ ージ。なお,次 注 にも関わることだが,こ の点は評価 されるべ き こ とであるとともに,そ の展 開方向については,そ もそ もカル トゥリエの出発点 に一定/F
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「価値形態論の見直しのために」再論 49 とがなぜ外部的 ・超越的存在 としての貨幣 を要請するのかについての正木氏 ら の説明 も十分 とは思われない。正木氏 らは実体的 ・技術的関係 にとらわれてい ては社会的 ・歴史的経済学は展開で きないことを精力的に論証 しようとしてい るが,流 通形態論 に純化 したうえで市場 を構成する諸成員の個 々的 ・主体的営 為 に注 目したばあい社会的 ・歴史的経済学の展 開をなぜ果た しえないのかの検 1 2 ) 証 は立 ち入 つてはなされていないのである。 しか しなが ら,山 口氏の側 も,市 場 を構成する諸成員の個 々的 ・主体的営為 に注 目す ることで貨幣が当該市場 におけるルール/共通了解の体現者 となるこ とをいかに解 き明か しうるのか示 しえていない。そ もそ も宇野派は,価 値実体 論 を生産論 まで留保す ることで, 流 通形態論 において実質的に量規走 を棚上 げ している。その結果,市 場諸成員 は,具 体的内容は未ださてお き,と もか くこ れ よ り有利 なら交換 に応 じて もよい とみなす固有の参照基準 を,ま たそれを基 礎づ ける固有の論理 をそれぞれ抱 きなが ら交換取引 に臨んでいるとい うこと自 体 をも,後 景 に退けて しまっている。それでは,交 換取引 を通 じて,換 言すれ ば市場 を構成する諸成員の出会いを通 じて,当 該市場 についての一定の共通了 解が編み上げ られてゆ くことも,さ らに貨幣は,唯一の現実的社会性の担い手 として交換取引 をオーソライズする主導者 として,ま さにそ うした共通了解 を 集積的 に体現 した象徴 的存在 になることも, 対 象化 され ようが ない。正木氏 ら が積極的関心 を示 さなかった として もむべ なるかなとい うわけである。 この点は,よ り根底的には,原 理論の方法論的性格 についての山口氏 と筆者 との理解の相違 に発 していると解 される。すなわち,次 節 においてあ らためて 詳察す る ように,山 口氏 は原理論 においては経済的に合理的に振舞 う主体のみ を抽象すべ きとみな していると換言すれば,市 場 を構成する諸成員が交換比率 に関 してそれぞれに固有の参照基準やそれを基礎づける固有の論理 を抱いてい \の錯誤がある と解 される。前掲拙稿 ,107-109ページ参照。 12)前 掲拙稿以降に刊行 された片 岡氏の論稿 によつて も,こ の点はやは り明確 になっていな い。む しろ,一 般均衡論 を批判対象 としたカル トゥリエ説 に引 きず られ,宇 野説や山口説 の方向で市場経済 システムを構成する主体の私的性格 を焦点化す ることも立派 に社会関係 の解析 であることの理解が希薄化 しているように見 える。同上論文5-7ベージな ど参照。 13)山 口氏,「中間理論 としての類型論」前掲,34ベ ージなど。5 0 彦 根論叢 第 3 3 1 号 るなどとは原理論では想定 されるべ きでない とい うわけである。 したがって, 彼 らの出会いを通 して市場 ごとに大 な り小 な り異 なる共通了解が編み上げ られ てゆ くといった事態 も問題 とな りえない。それに対 して筆者は,原 理論 におい て抽象 される市場 は構成諸成員が抱 く参照基準やそれを基礎づける論理 におい て さまざまな異質性 を内包 した ものであると解する。 くわえて,そ うした参照 基準や論理 には,個 別の主体 を超越 した緩やかな共同体的要因に由来するよう な価値観等 もまた介入 していると解す るのである。 こうして,筆 者か らすれば,正 木氏 らも山口氏 もマルクスの価値形態論が抱 えていた限界の超克 に徹底 を欠いた とい うことになる。すなわち,マ ルクスの 価値形態論 には,先 行 した価値実体論 に制約 されて,商 品世界の私的性格/潜 在 的社会性への着眼 とい うそのエ ッセ ンスを活か しきれていない ところがた し 1 4 ) かにあった。この問題に直面 して,一 方で山口氏は,制 約を振 り払ってエ ッセ ンスをいかに展開するかを問おうとしたのだが,私 的性格への着眼の徹底は市 場構成員が抱 く参照基準や論理の私的性格/異質性 にまで及ぶべ きものとは解 さなかった。他方で,正 木氏 らも,や はりこうした論点に目をやることなく, いきなり価値形態論そのものを放棄するという道を選んでしまった。 かつ,山 口氏が筆者からみれば徹底 さを欠いたのは,そ の原理論の方法論的 性格に関する認識に基づいている。そ して筆者は,こ こにも流通形態論への純 化の根拠づけに不徹底 さを残 した宇野理論の限界を見るとむしろこの点では, 方法論的個人主義によっては説 き明かせないものを貨幣に直観 した正木氏 らに 一定の鋭敏さが認められよう。だが,正 木氏らも,宇 野氏が切 り開き,山 口氏 が展開 しようとしたもうひとつの選択肢のどこに限界があるのかを明確にする かたちでかの直観 を根拠づけるにはいたっていないのであると 14)拙 著 F価値論のポテ ンシャル』昭和堂,1991年 ,16卜 75ページ参照。 15)同 上書,21617ペ ージ参照。 16)注 12)で触 れた片 岡説 に もういち ど論及すれば,市 場経済 システムにおける計算単位 は 実物的 な単位 ではあ りえない ことと,そ れが「論理的 に経済 に先行す る社会的与件」である こ ととをい ささか無媒介 に結 びつ け,「計算単位 を定義す る手続 きについての全 ての主体 による受容」の道筋 について,な ぜ価値形態論 のいっそ うの洗練 を追及す ることをオール タナテ イヴ と して考慮 に入れえないのかの説得 に欠けてい よう。片岡説 には,計 算単位が なければ商品世界 も成 り立 ちようがないのだか ら,計 算単位 としての貨幣が論理的に/
円 ︱ ︱ ︱ ト ー ー ︲ ︱ ︲ ︱ 「価値形態論の見直しのために」再論 51 正木氏 らに対する山口氏の批判の第二点 について も類似の構図が浮かび上が る。た とえば,片 岡氏が宇野説 に浴 びせた,結 局 は生産論 に予定 されている実 体的関係が舞台回 しをす るかたちで, 換 言すれば「価値法則 に仕 える」もの とし て,流 通形態論が展 開されているとい う批判│ま,た しかに労働力商品化の一点 に資本制市場経済 システムの矛盾 を収敏 させていった宇野原理論の限界 を鋭 く 衝 いている と思 われる。だが,不 確定 な世界 における経済主体の行動 に焦点 を 当て,価 値 の束 ・帯 といった概念 を創出 しなが ら在庫や投機 をも射程 にお さめ て きた山口氏,小 幡氏 らの 目か ら見れば,宇 野氏の切 り開こうとした方向が必 ず実体的関係 に強度 に締め上げ られた商品観念 に結 びつ くとい うことの論証 と しては片 岡説は不十分 としか受け とめ られないであろう。 とはいえ, うえに触 れた とお り,山 口氏の側 も,流 通形態論 における商品観 念 は実体 的関係 に強度 に締 め上げ られた ものではない とみなす ことの根拠 を, つ ま りなぜ資本制市場経済 システムについての原理論の第一編は流通形態論 に 純化 しうるのかの根拠 を明確 に しきれていない と筆者 は解 している。 のみな らず,「強度 に締 め上 げ られている」とい う問題 をひとまず 「実体的関 係」か ら切 り離 し,む しろ「超越 的 ・外在的存在 による同質化」とい う論点 に も 絡 めて,「個 々的経済主体の合理的振 る舞い」にどの程度締め上げ られていると 解すべ きか とい う問題 に置 き換 えた とき, 山 口氏の ような原理論 の方法論的性 格の捉 え方 には大 きな疑間が投 げかけ られることとなる。す なわち, 塩 沢 由典 氏やG . M . ホ ジソンらが興味深い論議 を繰 り広 げて きた ように, 市 場 に登場す \先行するのは当然とする響きがあるが,筆者にはそれは超越的で直観的な議論に留まって いると思 われる。む しろ,た とえば,本 稿末尾近 くで簡単 にスケ ッチするように,流 通形 態論 として純化 した初版 第 IV形態 を前提 に,そ の原基要素 としての形態 Iの 考察 によつて 私 的主体が出会 うとはいかなることなのか を解析 し,さ らに第 工形態の寄木細工的限界や 第 Ⅳ形態 におけるその さらなる展 開 を追 うことを通 じて,統一的計算単位がない と商品世 界が成 り立 ちえない とい うことの意味 を,商 品経済 システム とは何 なのかの基礎 的理解 と 合 わせ て総合的に理論化す ることのほ うが適切 なのではないか。片 岡氏,前 掲論文,9ペー ジ参照。 17)片 岡氏,「純粋 な流通形態論の位相」 『大阪市大論集』第83/84号,1996年,15758,164, 165-68ページな ど参照。ちなみに,宇 野原理論 のこうした限界 については,塩 沢由典氏が 宇野理論 のマルクス経済学版新古典派均衡論 的色彩 としてかねて指摘 していた。 18)山 口氏,『経済原論講義』東大 出版会,1985年 ,33-38ペ ージな ど,及 び小幡氏,F価 値 論 の展 開』東大 出版会,1988年 ,第 1章 を参照。
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52 彦 根論叢 第 331号 る情報 は膨 大 で分散化 していて しか も変化 が早 い,つ ま り人間が合理 的 にのみ 取 り扱 うには複雑 過 ぎるので あ って,満 足原理 に依拠 しつつ習慣 や定型行動 を 1 9 ) も組み込 んでは じめて処理 されている。かつ,満 足原理 に依拠する主体 を前提 とするなら,習 慣や定型行動の内実 に経済的合理性 とは異なる,た とえば諸主 2 0 ) 体 の属す る緩やかな共同体が歴史的に形成 して きた文化 ・価値観等 も介入 して いてなん ら不思議ではない。市場経済 システムは社会か ら完全 に自立 しうるの ではな く,や は り社会 に埋め込 まれては じめて成 り立っているのである。 とな る と,市 場経済 システム とはそ もそ も何 なのかを明 らかにするまさにその原理 的考察 において,こ うした側面 を切 り捨てた文字通 リユー トピアとしての市場 経済 システム像 を措定 し,さ らにそれを基準 に「現実的」市場経済 システムに追 ろ うとすることはどこか倒錯的 とい うことになろう。 しか も,第 一点の検討 に 際 して触れたように,社 会 に埋め込 まれた存在 として市場経済システムを抽象 すべ きことは,流 通形態論 としての純化の根拠 を明確 にすることとじつは不可 分 と解 される。節 をあ らため,こ の問題 を詳 しく考察 してみ よう。 皿 資 本制市場経済 システムの原理的性格 をめぐつて ここで も,山 口氏の小幡説への反批判の要点 を確認 しなが ら山口説 にもう少 し詳 しく立ち入 ることか ら始め よう。 まず,小 幡氏が宇野理論の思い きった再 構築 を模索 しつつあるのは,段 階論の方法論的性格 に関する山口氏の問題提起 に触発 されてのことであった。すなわち,山 口氏 は 『市場 システムの理論』 に 収録 された論文 において,「単 に資本主義の歴史を何 らかの基準 によって区切 つ てみせ た もの」とい う面が強 く,「原理論 との関係が よ くわか らなかった」それ までの段 階論 を,「現実のいわば混合 的,合 成的資本主義」の分析基準 として 19)塩 沢氏,『複雑 さの帰結』N研 出版,1997年。G.M.ホ ジソン,八 木紀一郎他訳 『現代 制度派経済学宣言』名大出版会,1997年。ホジソンの場合,定 型行動は,行 為に関する意 思決定 を階層的に構造化 し,重 要度に応 じて意思決定に割 り当てる時間を節約するという 面か らのみならず,他 の行為主体へ情報 を提供 し,「他人のあ りうべ き行為に対する行為 主体の推測を助ける」という意味において,発 信の側からも複雑性の縮減に資 していると いうことに目を向けている点 も興味深い。同上邦訳,138ページなど参照。 20)た とえば民族のような緩やかな共同体に属 していることが商品所有者に求められる私的 主体 としての性格 を必ず しも損なうものでないことについては,前 掲拙稿114ベージ参照。嵐ド
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「価値形態論の見直しのために」再論 53 「基礎理論 としての原理論」を補完する「中間理論」と位置づけるとい うように理 論 的 に整除す ることを試みていた。具体的には,「純粋資本主義論 には,現 実 には一元的な純粋化が実現で きなかった市場経済 とい うシステムの限界が何 ら かの形で反映 されているはず」とい う認識の もとに,次 の ような整除を提示 し ていたのである。原理論 は「純粋資本主義 をあたか も自立す るかのごとくに説 くために,い くつかの問題 をいわばブラック ・ボ ックスに入れている」のであ り,現 実の混合的,合 成的資本主義の分析へ と架橋するには「ブラック ・ボ ッ クス を開けて,不 間に付 されていた部分 を埋 める」ことが必須 となる。だが, この埋め方 は一義的ではあ りえない。その埋め方の相違 に応 じた社会的生産の 編成 の仕方 に係 るいろいろなケースを「整理 し,類 型化 して示 した」のが段階論 2 1 ) である,と 。 つまり,山 口説には,現 実の資本主義は混合的,合 成的資本主義であるとい うばか りでな く,「社会的生産を市場経済的な原理だけで自立的に編成するこ との無理」といった認識が備わっているのであって,「実は原理論においても, 明示的にではないが,構 成員について必ず しも経済人的とはいえない行動を予 2 2 ) 定せ ざるをえない場合がある」 という叙述さえ認められる。この点,筆 者 とし ても高 く評価 してお きたい。と同時に,山 口説は,そ うした認識を備えたうえ で,そ うした行動は「立ち入った考察を行われないままブラック ・ボックスに 入れられ,ご く消極的に扱われる」ことによって,「対象が自立 しているかのご とくに説 く」のが原理論であるという立場を強国に貫こうとしているのであると こうした山口説に対 して,小 幡氏は「原理論の内側から段階論の必要性 を問 2 4 ) いなお してゆこうとする」山口氏の姿勢に共感するとともに,「社会的生産を市 場経済的な原理だけで自立的に編成することには,す でに原理的に無理がある ことを積極的に認めている」点を,従 来の原理論があまりに労働力の商品化の みを「外的条件」として焦点化 してきたことに対 して「決定的な変更」を求めたも 21)山口氏,「中間理論としての類型論」前掲,21,33-34ベージ。なお,「段階論の理論的必 然性」同氏編 『市場 システムの理論』御茶の水書房,1992年,所 収,3-6ページをも参照。 22)同 上論文33-34ベージ。同上編著,5ペ ージ。 23)同 上論文34ページ。同上編著,5ぺ Tジ 。 24)小 幡氏,「原理論における外的条件の処理方法」前掲,37,38ベ ージ。54 彦 根論叢 第 331号 の と高 く評価 している告 その うえで,「原理論 と段階論 との区別その もの も統 合 的 に再構成す るべ きではないか」とい う観点か ら, 原 理論 の展 開を支 えるい くつかの外 的諸条件 をいかなる基準で もって構造化 して原理論の うちに取 り込
むかを探っていると また,そ うした立場に立って,段 階論は「
いかなる意味で
理論たりうるのか,そ れを理論たらしめる独自の展開方法とはなにか」をはじ
2 7 ) めとした,い くつかの疑間を山口説に呈 しているわけである。但 し,小 幡氏は, 「行動原理 としては一元的」であつても外的諸条件 しだいで「発現様式が変化す る」事例 にとくに強い関心を寄せてお り,「市場経済システムが社会に埋め込ま 2 8 ) れている」ことに対する原理論的関心 は相対的に弱い と解 される。 小幡氏が呈 した疑間に対 して山口氏 は逐条的 に反論 を加 えているが,本 稿 で はそれを個 々的に追 う必要はないであろう。む しろ,焦 点は小幡氏が原理論 と 段 階論の区別 その もの を統合的に再構成 しようとしていることに対す る強い反 発 にあることを確認 してお きたい。す なわち,「私 の関心 はまず は原理論 の役 割 を明 らかにす ることにあ った」。 さらに,ブ ラ ック ・ボ ックス を埋 める中身 は「純粋資本主義 をいわば不純化す る要因」であ って,「/1ヽ幡の ようにその純粋 性 を支 える条件 である とは考 えていない」し,こ うした点 にこそ「私の考 え方 と の決定的な相違点」がある。あるいは,「 『原理論的な要因』ではない外的諸条 件 は,原 理論 ない し純粋資本主義の 『自立性』 にとっては,そ の成立条件 とし て何 の役割 も果た していない。それが外的 とい うことの意味である。だか ら原 理論ではブラック ・ボ ックスに入れ られるのであ り,そ の構造化 は原理論の外 2 9 ) 部の問題 として,二 段構えで説 く重層的展開にならざるをえない」と。 要するに,「 『行動様式がつねに一義的に定まる』 ような 『単純な行動原理 に絞』って,原 理論ない し純粋資本主義論は展開されるべ き」であって,「行動 25)同 上論文,39-40ペ ージ。 26)同 上論文,38-39,41-42ペ ージ,43ベ ージ以下。 27)同 上論文,38-39ベ ージなど。 28)同 上論文,40ペ ージ。後者の論点 について言 えば,小 幡氏 は防J得追及以外 の行動原理」 は,「そ もそ も原理論の展 開に不可欠な条件ではない」として,除 外 して考 えてか まわない とみている。 29)山 口氏,「中間理論 としての類型論」前掲,33,36,43,49ペ ージなど参照。「価値形態論の見直しのために」再論 55 様式が多様になるのは原理論の世界の外の話」というのが1山 口氏の資本制市 場経済システムの原理的性格の捉え方である。この点,小 幡氏が挙げた比喩に 対する山口氏の感想が端的でわか りやすいので,補 足 しておこう。すなわち, 食欲 という同一の行動原理 も生肉にか じりつ くという直接的形態において満た されるのではなく,さ まざまな食事様式をもって発現 しているという比喩に対 し,山 口氏は「原理論では,た とえば 『生の肉にか じりつ く』 という単純な様 式を仮定 しておいて,人 間生活の原理を考察する」 というのがとっさの感想だっ 3 1 ) た と述べ ている。そ して,本 稿が問いたいの も,ま さにこうした資本制市場経 済 システムの原理的性格 についての山口氏の捉 え方にほかならない。 す なわち,筆 者 は,い わゆる転形問題論争か ら汲み取 るべ きもっとも重要な 論点 は資本制市場経済 システムの原理的性格 に関する示唆だ と解 していると こ の論争 において資本制商品の価格関係 はさしあた り価値関係 に触れることな く 特定 され うることが明 らかになったのであるが,そ のことはこの経済 システム が商品交換 という独 自の流通様式の展開する固有の論理でそれなりに自己組織 的であることを示 しているというわけである。つまり,自 己のシステムの基軸 として産業資本形式を展開 し,こ の形式において労働=生 産過程を, したがっ てそれが内包する自己にとっては外的な,社 会存立の基盤的関係 としての実体 的関係 を包摂 しつつ,そ れに直接に左右 されることなく自らの世界を自らの論 理で組織 しているのである。こうして,産 業資本形式までを含んでなお流通形 態論が流通形態論 として完結 ・純化 しうることが真に明らかとなった。 と同時に,そ のような資本制市場経済システムの流通形態としての自己組織 性は,そ のメタ ・システム性 をも示す ものである。労働力や自然力 といった, 自己に とって外 的な, そ れぞれに固有の論理 を備 える諸要素 を包摂 してなおそ れ らに直接左右 されるところがない とい うことは,そ れ らをそれらが備 える国 有 の諸論理 よ りいちだん高い抽象度 において包摂 しているとい うことにほかな 30)同 上論文,41-42ベ ージなど。「中間理論 としての類型論」(2)前掲,3,14,32-33ペ ージ な どをも参照。 31)同 上論文,38ベ ージ。 32)以 下 については,前 掲拙著,と りわけ第 4章 ,さ らに第 8章 をも参照。
56 彦 根論叢 第 331号 らない。 じっさい,資 本制商品の価格世界の自己組織性 を表す連立方程式は, あ らゆる ものをそれ らの備 える固有の諸論理 にかかわ らず,価 格 としてはい く らなのか とい う一点 に抽象 して取 り込 んでいる。 とい うことは,逆 に,資 本制 市場経済 システムは,自 らが取 り込む諸要素 にそれ ら固有の多様 な諸論理 を備 えさせたままそれらを包摂 しうるということでもある。そうした諸論理がメゾ ・レベルでそれぞれに大なり小なり機能することを活用 しつつ,あ るいはばあ いによってはそれと妥協 しつつ,自 らのシステム性を保持 しうるのである。た とえば,ア メリカ的ない し日本的価値観を備えた労働者を,あ るいは特有の性 別役割分業意識を備えた男性労働者や女性労働者を,ま さにそのように包摂 し ているというように。 さらに,こ のメタ ・システム性は,シ ステムの一部に自らと異質な論理を備 えたメゾ ・システムを,そ の局所のみを見ればそれなりに自律的に機能させつ
つ包摂しうることをも意味するとそうしたメゾ・
システムとの産物のやりとり
を自らの抽象的論理 に則 つて遂行 しうるか らである。労働力 とい う基軸商品の 再生産 を,固 有の性別役割分業意識が機能する家庭 とい うメゾ ・システムに委 ねてなお 自らのシステム性 になんら痛痒 を感 じないでい られるのは,そ の恰好 の事例 であろう。 じっさい,山 口氏 も「社会的生産 を市場経済的な原理だけで 自立 的 に編成す ることの無理」を認めていた。かつ,そ れでいてこの経済 シス テムは「あたか も自立 しているかのごとくに」描写 され うるものだ ともみな して いた。そ うしたことが可能であったのは,ま さにこのシステムが上述のように 自己組織的なメタ ・システムであったか らこその こととい うわけなのである。 こうして,資 本制市場経済 システム とは何であるかを原理的に解明 し,こ の 経済 システムの理解 の基準 を構築する基礎理論 においては,な によりこの経済 システムの 自己組織性,メ タ ・システム性 を明確 にしなければならない。 しか も,こ の 自己組織性,メ タ ・システム性 は,自 らの うちに多様 な異質性 を包摂 33)こ の点で,I.ウォーラーステインの資本主義=世 界システム論,さ らにそれをジェンダー 論 に発展的に応用 したM.ミ ース らの試みは,興 味深い。これらの見解の限界に関する筆 者の見方 をも含め, さしあた り拙稿「世界 システム論 と女性労働差別問題」若森章孝/松岡 利道編 F歴史 としての資本主義』青木書店,1999年,所 収,参 照。︱ ︱
「価値形態論の見直しのために」再論 57 しうるということと不可分なことなのである。この点を顕示化するには,さ ら に「社会的生産を市場経済的な原理だけで編成することの無理」をこの経済シス テムに関する原理的認識 として定礎するためにも,「あたかも自立 しているか のごとくに」という,い わゆる内面模写説を紡彿 とさせる説 き方は消極的過 ぎ る。まして,そ れを「つねに一義的に定まる」世界に限定 して展開しようとする ことは,こ の経済システムが何であるのかというまさにその原理的認識,こ の 経済システムの理解の基準 を変質させてしまうということになろう。 Ⅳ 貫 幣が担 う情報の構成的役割 前節で展 開 した ような認識 に もとづ き,拙 論 においては,資 本制市場経済シ ステムを市場経済 システム として抽象 した流通形態論 冒頭 において も,自 己の 保有す る商品の交換比率 について固有の参照基準 を備 えていると想定 される多 3 4 ) 様 な私的主体が措定 されることとなる。 したが って,そ うした私的主体が出会 い,取 引 を成立 させるとい うことは,彼 らない し彼女 らが備 える参照基準やそ の基礎 にある論理が正当なものか否かを吟味 し,共 通了解 を作 り上げてゆ く過 程 で もある とい うことになる。価値尺度機能 は, じつは量のみでな くそれを支 える質 をも形成 ・確定 してゆ くものであるとい うことが,そ の原基形態 におい て明 らかにされるわけである。また,こ の取引において現実的社会性 を担 う側, つ ま り等価形態 に立つ商品ない し貨幣の原基形態は,こ の取引 をオーソライズ す る主導権 を担 った存在 として,こ こに成立する共通了解の体現者 となる。 もちろん,こ こに作用する参照基準やその基礎 にある論理 には,た とえば民 族 といった諸私的主体 を包 む緩やかな共同体的要因が歴史的に育んで きた文化 ・価値観のような諸契機 も介入 しよう。これ らはた しかに方法論的個人主義 に 則 って説 き明か しうる ものではない。だが,貨 幣論 においてこうした諸契機が 問題 になることじたい,市 場経済 システムにおいて諸私的主体が出会い,取 引 34)念 のために,い わゆる単純商品生産システムと資本制市場経済システムと流通形態論に おいて抽象される市場経済システムとの連関を確認 しておけば,筆 者は,単 純商品生産シ ステムと資本制市場経済システムとは,よ り抽象的な市場経済システムという一般システ ムに含 まれるさまざまな亜種 どお しのなかの並列的な二類型 と解 している。5 8 彦 根論叢 第 3 3 1 号 が なされるとはいかなることであるのかが原基的に明 らかにされては じめて十 全 に理解 されるところであろう。換言すれば,正 木説 らの ような貨幣の導入法 は,そ の基礎づけを欠いた,超 越的な直観 に留 まる しかない と懸念 されるので ある。 さらに,こ うした諸要因 も,個 別主体 による諸取引の成立 を通 じて再生 産 されるものであること言 うまで もない。 ここにはいわゆる ミクロ ・マ クロ ・ ループが機能するわけである。かつ,こ の ミクロ ・ループを十全 に把捉するた め には,市 場経済 システムにおいて諸私的主体が出会い,取 引がなされるとは いかなることであるのかをまずその原基形態 において明 らかに してお くことが やは り必須 と解 される。筆者が「すべ ての価値形態の秘密がひそんでいる」第 I 形態 にこだわる所以である。 と同時 に,『資本論』初版第 IV形態の一部 を取 り出 した もの と第 I形 態 を位 置づ け, したがつてそれは第 Ⅱ形態 を介 して初版第IV形態へ と立ち戻 るとみな す拙論 にとって,同 形態での困難が何であ り,そ の克服のための決定的契機 は 何 であるかが明 らかにされるな らば,既 に上述の ような存在 として諸私的主体 を措定 している以上,か の「共同の仕事」とい う契機 に文字通 り共同体的要因を 介入 させ ることも決 して唐突ではない とい うことになる。 ところで,筆 者が信頼 ない し共通了解の集積的 ・象徴的担い手 とい う貨幣の 特質 に注 目す るのは,前 稿 で論 じた ように,N.ド ッ ドの貨幣論 に触発 されて の ことで もある。すなわち, ドッ ドは情報が構成的役割 を有 していることを強 調 していた。情報 は,自 らに先だって自らの外部 に厳然 と存在する対象 を叙述 し,そ れを伝 えるとい う媒介的役割ばか りでな く,情 報 を通 じて対象 自体 を構 成す る役割 も果たす とい うわけである。 したがって,貨 幣論 に即せば,貨 幣に ついての観念 に一一 これ も立派な情報である一一 ,現 実の貨幣が規定 されると 3 5 ) ころがあることとなる。かつ,貨 幣が市場経済 システムの象徴であるとするな らば,貨 幣 を規定するとい うことは市場経済 システムを規定するとい うことに ほかな らない。貨幣についての観念 は当該貨幣が象徴的存在 となっている当該 3 5 ) N . ド ッド, 三 階堂達郎訳 『貨幣の社会学』青土社, 1 9 9 8 年, 2 3 卜4 3 ページ。1 8 } 8 6 ペー ジなどをも参照。
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︲
「価値形態論の見直しのために」再論 59 市場経済 システムが何 ものであるかの問題だ とい うことである。本稿 は,こ の ことの意味 を,貨 幣 とは市場構成員が編み上げる共通了解の集積的 ・象徴的担 い手であるとい う問題 に即 して, したがってその共通了解が どうあるか という ことは当然 に当該市場経済 システムが何 ものであるかの重要な規定要因である とい う問題 として,考 察 しようとしたのであった。 ドッドは,こ うしたことをG.ジンメルに拠 りながら,さ らに現代のコンシュー マリズムに照応 した貨幣観念 と著 しい金融の自由化,国 際化 との連関を説き明 かす というかたちで提示 していたが, じっさい何が市場で取 り扱われてよいの か,そ れらを取 り扱 うさいの規範は何かということについての認識が異なる市 場経済システムは,同 じ市場経済システムとして安易に一括 りできないであろ う。たとえば,売 買春の対象 として小遣い稼 ぎに軽 くエンコーでもという女子 高生達を買う,つ まリオーソライズする貨幣が集積的に担っている共通了解は, 家庭の苦境 を救 うために苦界に身を沈めた女性達を買 う貨幣が担っているそれ とははっきり果質なところをもっているし, したがってそれらに象徴 される各 市場経済システムを安易に一括 りにはできない。これら二つの売買春のあ り方 の相違の背景には,そ もそもよリー般的にそれら二つの市場経済システムにお いて取 り扱われる商品の範囲,さ らにそれとも関連 してどのような儲け方は賞 賛 され,あ るいは暴利 を貸るものとして非難の対象になるのかといった規範に ついても相違が生み出されていて,市 場の働 き方そのものが異なる質を持つよ うになっていると解 されるからである。 山口説であれば,こ うした問題は段階論で扱えばよいということになろう。 だが,少 なくとも,貨 幣が市場構成員の編み上げる共通了解の集積的 ・象徴的 担い手であ り,そ うした存在 として当該市場経済システムに対 して構成的役割を
有し
ていることは原理論で明らかにしておかなければならなし
〔
をかつ,その
36)同 上邦訳,118,128,236,238,248-61ペ ージなど参照。ちなみに,金 融の国際化 に関 連 させ て言 えば,そ れは,構 成員の共通了解 を基礎 にそれな りに安定 していた小 国の市場 経済 システム を,そ うした共通了解 にとらわれないまさしく抽象的なグローバル ・マネー がか きまわす ことをどう規制す るか,ま たそれは呆た して可能なのか とい うことをあ らた めて問いかけている とい う意味で,現 代 において貨幣 とは何 か,市 場経済 システム とは何 か を考 えさせ る きわめて興味深い契機 と解 され よう。6 0 彦 根論叢 第 331号 ためには,一 義的に定 まる行動様式の もとであたか も自立 しているかのごとく に資本制市場経済 システムを抽象するのではな く,こ の経済 システムが多様 な 異質性 を内包するメタ ・システムであることを原理論 において しっか りと基礎 づけ,ま たその認識を活用することこそ不可欠 と考えられるというわけであると 37)こ の点,貨 幣的アプローチの論客の方 に筆者 はむ しろ共感 を持つ。正木氏 らで もそ うで あ るが,大 田一博 「貨 幣的秩序 の存立構造序説」(上)(下)『阪南論集 (社会科学編)』第35 巻4号 ,第 36巻1号,2000年 ,や M.ア グリエ ッタ/A.オ ル レア ン他,井 上泰男訳 「主権貨幣 とは何 か」 F環』Vol.3,2000年 ,藤 原書店,な どには,と くに明瞭 にこうした問題意識が 認 め られ るか らである。 したが って,拙 論 との相違 は,こ の問題意識 を資本制市場経済 シ ステムに即 して どの ように対象化,理 論化 してい くかの道筋 にあることとなる。ちなみに 言 えば,大 田氏が貨幣的秩序の再生産 を論ず るとき,そ れは「貨幣的秩序」とい うよ り生産 価格体系 を表現す る連立方程式 に担われる「資本制市場経済 システムの秩序」に置 き換 えて 追求 した方が適切 ではないか と,筆 者 には思 えて しかたがない。 38)貨 幣の帯 びる象徴性 は,金 子勝氏のセーフテ ィネ ッ ト論 に持 ち込 まれたことであ らため てホ ッ トな論点 となった,「貨幣の商品化の無理」とい うい ささか逆説的な命題 にも深 く関 わる。かつ,こ の点 に立 ち入 ろうとすれば,吉 沢英成氏がつ とに焦点化 していた,広 義の 交換行為 の歴史賞通性 とい う問題 にゆ きつ き,そ れはさらに流通 と労働 =生 産過程 とを形 態 =特 殊性 と実体 =歴 史貫通性 とにそれぞれ一方的に振 り分けかねないあや うさのなかで 貨幣 を捉 えることへの反省 を呼び起 こす。但 し,吉 沢氏の鋭い問題提起 にも前掲拙稿注34) で指摘 した ような難点が伏在 していると解 されるので,こ れ らの論点の立 ち入 つた考察 に ついてはあ らためて別稿 を期す こととしたい。吉沢英成 『貨幣 と象徴』 日本経済新聞社, 1981年,参 照。