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活仏教 利用統計を見る

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(1)

活仏教

著者名(日)

井上 円了

雑誌名

井上円了選集

4

ページ

375-536

発行年

1990-03-31

URL

http://id.nii.ac.jp/1060/00002889/

Creative Commons : 表示 - 非営利 - 改変禁止 http://creativecommons.org/licenses/by-nc-nd/3.0/deed.ja

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第一段 絡論 第一節 死佛教と活佛数との別  我ロ本に大莱の数理あうて、大乗の宗旨なしとは、余が日頭第一に絶 叫せんと欲する所な⑬、法相奉嚴天台真言は言ふも更な6、口添土真宗 日蓮に烹るまて、名を大莱に假うて、賞を小釆に取らざるなし、登浩欺す .へきの至ウならずや。  夫れ小莱は厭世敬にして、大乗は非厭世なう、小乗は個人的にして、大 乗は非個人なう,小乗は利己岱本にして、大乗は自利◆他なカ、小莱は非 圏家主義にして、大乗は日家主義な,.小乗は退守的消極的にして、大来 は鎚取的積極的なう、折し︸言以て之を覆へば、小乗は死侮敏にして、大    $一段績鎗      一 (巻頭) 大正元年9月5日 4.刊行年月日   初版

大正4年9月5日

定本:4版 5.句読点 あり 第 その他  (1)原本の目次には「付録 6. 三編」の項の見出しは省略され 本書ではそれを加え ているが, た。 1.冊数

  1冊

(タテ×ヨコ) サイズ 2. 193×135㎜ ページ  総数:340 3. ρ0  4   1 ・  .     ・  ・

言次

序目

本文:241 79 付録

印 印 馴 刷 所 者 大大大大大 正正正IT…正 囚二元元元 年∠L勾㌧{F年 九十十九九 月月月月月 .五十.tt’菟.− nnn口n 四三再毅印 登著版版版側 行 者 者

猿行所

定債金近鋼拾督 幕貰町小■川田顛町六●亀 蚤魯n節東軍一五六八六呑 電断魯町 二六〇︵● 井 上  随 了 高 島 × 閲  軍京幽小石周冨顛可六●亀 佐久間衡治  箪儒宜蹟属︻酎筒町Wセ書㎏ 芸秀 英 舎  ま‡坊頂阿紺頴町介七●培

丙午出版砒

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活仏教

序 言  昨年来、赤道以南を周遊し、豪州、南ア、南米、南洋等を巡察したる結果、わが仏教を革新して国家の原動力 にいくぶんの新勢力を添うるの急要を感じ、多年懐抱せる宿論をここに告白公表するに至れり。これ余が南半球 より将来したる旅行土産となして可なり。  この革新論の大要は、先年﹃仏教活論﹄の最後の一編として立案したりしものにて、その題名を﹁護法活論﹂ とする予定なりしも、そののち物換わり星移り、時勢もおのずから変遷したれば、多少これに修正を加え、﹃活仏 教﹄と改題して発表することとなる。これすなわち余の仏教革新案なり。  本書の一端を読みて、全部を通観せざるものは、あるいは余の革新の・王旨を誤解せられんことを恐る。余の期 するところは世界の大勢に伴い、国家の隆治をたすくるように従来の諸宗を改新するにありて、決して旧宗を破 壊するがごとき過激の革新にあらず、また新宗を開立するがごとき野心ある革新にあらずして、あくまで現時の 各宗を存置し、輔翼するの革新なり。ただ従来の小乗的厭世迷信を改変して、大乗の真面目を発揮せしめんとす る外に別意あるにあらず。  本書は余の一片の至情より流れ出でたるものなれば、熱誠のあまり図らずも言文の常軌を失して、疎狂に類す る語なしとせず。ただ恐る、読者の好意を害し、不快を買わんことを。ここにあらかじめその罪を謝し、海大の 寛量を割愛せられんことを請う。  本書中に引用せる仏教の術語は、いちいち解釈を付記せず。もし難解の文字あらば、近著﹃日本仏教﹄を参看 375

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せられんことを望む。       76  すでに本書の稿を脱して、まさに梓に上さんとするに当たり、にわかに天嬰し地もまた泣かんとする絶大の悲 3 報に接せり。誠に恐慎恐愕、おくところを知らず、九腸寸断の思いをなせり。余や草葬の小民なれども、皇恩に 沐し、聖沢に浴するの無上の光栄を担うこと久し。いかんせん微力にして、いまだその万一に奉答することを果 たさず、その罪実に重くしてかつ大なり。今や竜駕高く九天を華じ、また余影を拝するを得ず。はるかに紫雲を 隔てて、叡霊を仰ぎ、ひそかに誓わんとす、今後余命のあらん限り、仏教革新の素志を貫徹して奉答の寸衷を捧 げんことを。仏門に衣食するもの、いかに頑迷固随なりとも、ひとたびこの大凶事に遭遇して、愕然として恐催 沈痛せざるものあらんや。無情の草木すらなお愁色を帯ぶ、いわんや国民を教導する職にあるものをや。たとえ 出世間の身なりとも、同じくこれ天皇の臣民なり。この際必ず大いに自省自発するところあるべし。こいねがわ くは十万の僧侶、必猿を駆り、意馬に鞭打ち、必死を期して仏教の廃頽を挽回しきたり、全力をつくして本山の 腐敗を掃討し去り、花々しく革新の実功を挙げ、仏教をして日進の大勢に伴わしめ、国運の発展を助けしめ、も って積年の鴻恩に報答し奉らんことを。僧家尽忠の道、けだしこの外にあるべからず。もし僧侶諸氏が天に働し 地に実するの心をもって、革新を進行するに至らば、その成功のごときは日を期して待つべし。今や新天子宝詐 を践みて盛業を継がせ給い、先帝天の原にましまして神鑑を垂れ給う。諸氏が活眼を開き、活機を握り、活躍を 試むるは実にこの時にあり。奮起せよ、猛進せよ。     明治四五年七月三〇日  聖天子崩御の当日、涙を揮うて書き終わる。       和田山哲学堂内光風舞月の下にありて   井上円了誌

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第一段緒論

活仏教

      第一節 死仏教と活仏教との別  わが日本に大乗の教理ありて、大乗の宗旨なしとは、余が冒頭第一に絶叫せんと欲するところなり。法相、華 厳、天台、真言は言うも更なり、禅、浄土、真宗、日蓮に至るまで、名を大乗にかりて、実を小乗にとらざるな し。あに浩嘆すべきの至りならずや。  それ小乗は厭世教にして、大乗は非厭世なり。小乗は個人的にして、大乗は非個人なり。小乗は利己為本にし て、大乗は自利利他なり。小乗は非国家主義にして、大乗は国家主義なり。小乗は退守的消極的にして、大乗は 進取的積極的なり。もし一言もってこれを覆えば、小乗は死仏教にして、大乗は活仏教なり。       第二節 仏教の枯骸  現今わが国に現立せる仏教諸宗は、いずれも大乗の真源を汲み、大乗の正統を伝うるものなれども、伝来の久 しき宿弊の多き、自然に活機を失い、厭世に流れ、自利に走り、大乗の精神を忘れて、いたずらに形式を墨守し、 いかに寺門堂塔、村々落々に魏立するも、実に仏教の枯骸が随処に堆を成すがごとき観あり。これを死仏教と呼 ばずして、またなんとかいわん。  わが国明治の維新は、日就月将もただならず、堂々乎として旭日の昇るがごとく、文武共に四表を光被し、泰        77        3 西の列強と相伍して、遜色なきに至れるに当たり、千四百年間わが世道人心を維持しきたれる仏教の頽勢、すで

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にかくのごときをみて、いずくんそよく傍観座視するに忍びんや。ひとり仏教に結縁あるもののみならず、いや       78 しくも国家の隆替に志あるもの、あに憤起してその革新を唱えざるを得んや。これ決して対岸の火災にあらざる 3 なり。        第三節 国家の前途  今や日露の戦塵すでに鎮まり、国威は遠く坤輿を震憾するの勢いなるも、戦後の経営いまだ全く成りたりとい うべからず、富強の基礎なお確立せざるところ多し。これに加うるに国家の財政、日に月に困億を重ぬるの兆し あるをみる。故をもって農工商はもちろん、百般の事業萎靡して振わず、国家の前途なお杞憂に堪えざるものあ り。率土の浜いまだ泰平を謳歌するの秋にあらず、憂国の士いまだ枕を高くして、眠るの時にあらざるなり。        第四節 宇内の大勢  静かに書をおおうて宇内の大勢を一瞥するに、弱肉強食の悲劇、依然として世に行われ、優勝劣敗の逆浪、宿々 として地を捲くの形勢あり。この際に立ちて国運を伸長せんとするには、詔書のいわゆる上下心を一にし、自彊 息まざるの精神を発揮し、百難を排して奮闘し、必成を期して猛進せざるべからず。仏語のいわゆる獅子奮迅の 勢いをもって勇猛精進せざるべからず。果たして然らば同胞五千万、同籍六千万の国民をして、かかる活動的大 精力を啓発せしむる方法を講ずるは真にこれ目下の急務なりとす。        第五節 教育の欠点  この問題に対して世人はみな曰く、学校教育を奨励すれば足れり、これを外にしてまたなんの方法かあらんと。 余をもってこれをみるにこれ学校教育を過大視し、偏重視したる僻見のみ。人は本来智性と信性とを有し、この

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活仏教

両性相待ちて、始めて人格の完成をみるべきに、学校教育は智性を修養するにとどまり、信性のごときはかえっ てこれを破壊し去らんとす。その事実は近くわが四〇年間奨励しきたれる教育の成績に徴して知るべし。かつそ れ国民一般に及ぼす教育は、尋常小学六年間の修業のみ。かかる短歳月の教育をもって健全なる国民を造出し得 ると思うは、架空もまたはなはだしといわざるべからず。けだしわが国の世論は教育万能の流行病に感染せるも のならん。  教育もとより万能力を有するものにあらず。ある境遇と場合とに対しては、その力の極めて薄弱なること多し。 しかしてよくその不足を満たし短所を補うものはただ宗教あるのみ。わが国仏教の現状はほとんど廃頽に瀕する がごときも、積年薫習せる潜勢力が深く一般人民の心底に固結し、冥々のうちにその力実に侮るべからざるもの あり。もし仏教の消長をもって国家の興廃、社会の盛衰に影響することなしと断言するものあらば、余はこれを 評して民心の前面をみて、背景を知らざる一種の盲人といわんのみ。        第六節 儒者の遺伝病  わが国の自ら識者をもって任ずるものは、仏教を無用視し度外視し、はなはだしきに至りてはこれを蛇蜴のご とく厭忌し、悪疫のごとく排除せんとするものあり。これ徳川時代の儒者的根性を遺伝せるものなり。かの時代 にありては儒仏並び行われ、士族の教育は儒の占領するところとなり、平民の教化は仏の専有するところとなり、 競争の結果はなはだしき軋蝶を生じ、当時の儒者は排仏穀釈をもって己の本分と心得、仏を憎んで僧に及び、僧 を憎んで袈裟に及ぶに至れり。しかして明治の革新を唱え、教育の基礎を開きたるは、みなこの儒者の薫陶を受        79        3 けたる士族なれば、自然に排仏殿釈の根性を遺伝せられ、なんとなく仏教を厭忌する風を習成し、その存亡のこ

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ときは全く度外に置き、不問に付し去れり。余はこの風を名付けてわが国士族累代の遺伝病という。かかる遺伝 病にかかれるために仏教がいかに世道人心を稗補したるかを鑑識するの明を失うに至れるは、邦家のために慨せ ざるを得ず。        第七節 仏教界の木石  しかりしこうして仏教が今日の悲境に陥りしは、寺院僧侶の自ら招くところにして、自業自得の責を逃れ難し。 現今なお八万の仏堂は村落にそびえ、十万の円顧は山門を満たすにもかかわらず、さきに尊皇復古の戚声、轟然 として天地に震い、明治維新の曙光、赫然として暗黒を破るに際し、ほとんど一人のこれに唱和し、これに尽痒 するものなかりき。今や文運鰻々として進み、皇化洋々として遍きに当たり、痴雲依然として彼らの眼界を遮り、 頑夢固結して彼らの心天を鎖す。乞食坊主、ばか坊主、なまぐさ坊主、くそ坊主などの罵署の言、議誘の語、四 隣に鷺々たるも、悟として顧みず、否、自ら甘んじて得々たるもののごとし。ああこれなんぞ木石と異なるとこ ろあらんや。余がこれを指して死仏教と呼ぶも、けだし過言にあらざるべし。        第八節 僧侶の功績  しかれども僧侶をしてこの無精神のどくろと化し去らしめたるの責任は、ひとり仏徒に帰すべからず、世間ま たあずかりて罪ありというべし。明治以前にありては幕府の保護その度に過ぎ、維新以後に至りては官民共にこ れを蔑視し、これを冷遇したりしもの実にその親因たり。請うみよ、明治の今日百般の文物は面目を一新したり というも、一として政府の策励によらざるものなかりしを。政府もしこれを自然の趨勢に一任しきたらば、学校 教育は依然として従前の寺子屋教育を伝え、医術は依然として草根木皮を歓迎しおるならん。しかるにひとり仏 380

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活仏教

教に至りては政府はこれを放任し、世論はこれを不問に付し、人民はこれを度外に置き、全く捨子同様の待遇に 接せり。かくのごとくんば僧侶おのずから腐敗し、寺院おのずから廃頽するに至るは必然の勢いなるべし。幸い に寺院僧侶が今日なお旧態を維持し、よく仏灯をして滅せざらしめたるは、これを儒門の不振に比するにいささ かその功績を称揚するに足る。        第九節 天=思難窺  誠に恐れ多きことながら、つとに軍人に対してはかしこき辺りより軍人勅諭を下し賜り、つぎに教育家に対し ては教育勅語を下し賜り、また更に農工商等一般の国民に対しては、戊申詔書を下し賜りたり。これにおいて軍 人も教育家も実業家も、群鳥やかましきとき鶴の一声の感を起こし、奮然立ちて恪守輸誠の実を挙ぐるに至れり。 しかして宗教家においてはいまだ鳳詔を拝するの皇沢に浴せず。したがって五里霧中に彷復して、針路を知らざ るの観あり。天意の深遠なるは、到底草葬の間に起臥せる余輩のうかがい知るところにあらざるも、もし霞震の 一声、高く九重雲深きところより宗教門内に落ちきたらば、いかなる痴僧頑徒も必ず一時に長夢大覚するに至る べし。        第一〇節 革新の難易  余おもうに仏教の革新のごときは決して難事にあらず。これを教育や医術に比するにかえって容易ならん。も し国民全体が宗教の改善は国運の消長に重大の関係あることを自覚し、各方面よりその刷新の急要を唱え、学者 もその論鋒を仏教の法城に向け、教育家もその意向を仏教の理海に注ぎ、実業家もその歩武を仏教の門路に進め、       捌 おのおの競って革新を迫らば、政府の干渉を待たずして、たちまち面目を一新するに至らん。もししからざれば

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世論の制裁をもって僧侶の淘汰を促し、人格の野卑なるものは僧侶として待遇せざるはもちろん、これを寺門外       82 に放逐し、品位あり徳望あり、学識ありてよく社会に活動するものを、大いに好遇優待するに至らば、自然に門 3 内の腐敗を一掃して、廓然たるを得べし。よって余は今日なお仏教の革新を見ざるは、あたわざるにあらずして なさざるの罪なりといわんとす。  しかれども従前のごとく革新の一事を僧侶の手に放任して、その実行を挙げしめんとするは、黄河の清きを望 むとなんぞ異ならんや。必ずや門外より積極的に急促せざるべからず、今やその機運ようやく熟するを知る。こ の際八方より大いに刺激剤を投じ、清涼散を与えて、獅子身中の虫を除去するに至らば、実に国家の宿病を根治 するにおいて必ず即効あるべし。        第一一節 仏教門内の光景  余がかく危言を反覆するは、別に他意あるにあらず。不肖幸いに千載一遇たる明治の隆治に会し、文運の勃興 を見、皇沢に浴すること大にして、国恩に荷うところ重し、日夜ただなにをもってこれに報ぜんかを思うや久し。 顧みるに大政一新以来、百般の文物みな面目を一変し、詔光遽通に遍く、幽谷もまた春風の観を呈するに、ひと り仏教門内に旧時の積雪をとどめ、凄涼たる光景を存するは、昭代の欠点にして、余の深く遺憾とするところな り。明治維新の大功もただこの点において一贅を欠くの感なきあたわず。しかして宗教の興廃は国家の安危に関 するものなれば、そのことたるやすこぶる重大なりというべし。余がつねに明治の維新一半すでになりて、一半 いまだならずというはこの故なり。  これにおいて余微力といえども願わくば死仏教を一転して活仏教となさんと欲し、一服の活剤を僧家の脳裏に

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活仏教

注射し、もって活動の精神を興奮せしめ、これによりて将来永く列国の競争場裏に立ちて、国運発展の一助とな さんこと、これ余が平素懐抱するところの赤心にして、皇恩の万一に奉答せんとする一片の至誠なり。拙吟もっ て素志を述ぶること左のごとし。   皇恩と祖恩とに報ぜんと欲して、多年野に臥し和魂を養う。法苗今日まさに枯死せんとするに、たちて活泉   を汲み、仏園にそそがん。   欲レ報皇恩与二祖恩べ多年臥レ野養二和魂↓法苗今日将二枯死べ起汲二活泉一灌二仏園べ        第一二節 わが同胞の姑息  余が欧米を歴遊したるや前後三回、南半球を視察するやここに一回、幸いに足跡を五大州に印し、眼軸を万国 に転ずるを得て、世界の大勢を一敵したりしに、今日欧米の列強と称する国民は、いずれも進取の気性に富み、 堅忍の精神に長じ、自立自営の力うちに満ちて外にあふれんとし、球の南北を分かたず、洋の東西を問わず、一 天四海、みなわが家の心得にて、万里の大波濤をこえて雄飛し、世界の大舞台を華じて奮闘するの活劇を目撃し、 はからずも心ひそかに敬慕の念を起こすに至れり。しかるに翻りてわが同胞をみるに、姑息因循、小成に安んじ て倦怠しやすく、墳事に拘泥して大機を没却し、他人に依頼するの念に制せられ、母国を愛念するの情に引かれ、 たとえ海外に巨利を占むるの道あるも、進みてとることを知らざるもののごとし。なんぞ意気地なきのはなはだ しきやの嘆声を発せざるを得ず。        第一三節 海底原頭みなわが墓        皿  わが大日本帝国はその名すこぶる大なるも、その実叢爾たる東洋の一孤島のみ。そのうちに無数の群生、轟爾

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として動くも、またなんの能かあらん。すべからく感奮一番、海外に向かいて飛躍すべし。願わくば今よりのち       84 われら国民は自国を遊園とし、海外を工場として活動せんことを。もししからざれば国運を発展する前途ほとん 3 ど絶望ならんを恐る。いやしくも神国の民籍に加わり、一片の和魂を抱くものは、天地をもって家とし、四海を もってしとねとするの気概あるを要す。  余南半球を巡了し、深くこのことに感ずるところありて自ら黙止し難く、従来人口に謄表せる﹁骨を埋むる、 あにただ墳墓の地のみならんや。人間いたるところ青山あり。﹂︵埋レ骨宣唯墳墓地、人間到処有二青山一︶をもってな お不足とみなし、これを改めて﹁海底、原頭みなわが墓なり。骸を埋むる、なんぞ必ずしも青山に限らんや。﹂ ︵海底原頭皆我墓、埋レ骸何必限二青山一︶となすべしと大呼するに至れり。  昔日は京坂地方を一巡するに、なお五〇日、一〇〇日の時日を費やせり。しかるに今日は、地球を一周するに 四〇日にて足れり。昔日は京参りせざるものは、一人前の男女たるを得ずして、社会より損斥せられしが、今日 以後は地球を一周し、赤道を一過せざれば、一人前の男女たるを得ざるに至らざるべからず。しかるにかかる活 世界に生まれながら、わが国民が因循姑息の旧風を守り、勇往果進の元気に乏しきは、他に参酌すべき事情なき にあらざるも、従来久しく民心を支配しきたれる仏教の厭世に傾き、消極に陥りたりしはその一原因なりと信ず。        第一四節 明治の一大怪象  百科の学芸、万種の事業は日新を競って、鰻々として勃興するに、仏教ひとり旧態を改めず、新衣を着けざる は実に怪しまざるを得ず。余はこれを名付けて明治の一大怪象といわんとす。仏教あに骨董的古物ならんや。今 日ランプあり電灯あり、ガス灯あるに当たり、依然として旧来の行灯を点じ、種油を用うるものあらば、人これ

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活仏教

をなんとか評せん。必ず狂人にあらざれば痴人なりといわん。仏教各宗の依然として旧習を脱せざるは、明治の 新天地における種油、行灯と、ややその観を同じうするがごとし。  今日の実況を西洋に比考するにわが国の仏教は、ローマの末路より中世期におけるかの旧教の状態をへだたる こと遠からざる形勢あるに似たり。果たしてしからば仏教の大勢は西洋の進歩に後るること、少なくも三、四百 年の相違ありといわざるを得ず。余がこれを昭代の怪象と呼ぶも、あながちに酷評として販すべきにあらざるべ し。故に仏教の革新は一日も忽諸に付すべからず。       第一五節 仏教のマーチン・ルター  かく公言しきたらば世間あるいは余を目して、仏教のマーチン・ルターを気取るものとなす人あらん。これ余 の遠く当たるところにあらず、かつ革新の本意にあらざるなり。余の期するところは決して旧仏教を全排して、 新仏教を樹立するにあらず、諸宗を統一して、仏教の新紀元を開くにあらず、ただ余が所望は従来の各宗をして、 その理論その実際共に世界の大勢に伴い、国運の伸長を助くるように刷新を行わしめ、この目的を達するため、 国民の世論を喚起して、外より革新を促さしめんとするに外ならず。換言すれば内外相応して小乗的宿弊を除き、 大乗的面目を開かしめんとするにあり。更に換言すれば死仏教をして活仏教となさしめんとするにあり。  余自ら革新の中枢に当たるを避け、ルターの位置に立たざるは、あるいは卑怯の評を免れ難きも、およそこと の成功を期するには、必ず順序階梯あることを忘却すべからず。その順序としてはまず革新の警鐘を鳴らして、 その時機の到来せるを世間に報ずるを初めとす。すなわち余はその任に当たるものなり。故に余は大喝一呼して、        85        3 内外に警報するをもって足れりとす。しかれども世間もしこの声に応じて、更に革新の一歩を進め、東洋のルタ

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1もカルヴァンも出で、明治の伝教も弘法も起こり、白雨一天を洗い去るがごとき大々的革新の実現を仏教界に       86 みるは、余の国家百世のため、仏法万歳のために大いに歓迎するところなり。ただしその革新がもし死仏教をし 3 て活仏教たらしむることあたわざるにおいては、余はあくまで反抗の態度をとらんのみ。        第一六節 仰望偉人  およそ新宗教、新宗派を開立して、祖師開山とならんと欲するものは、その識見、その人格、その徳望の傑出 するところあるを要す。西洋にありてはルター、ツウィングリ、カルヴァン、ノックスのごときは、みな一世の 傑物なり。わが国においては伝教︹最澄︺、弘法︹空海︺、親鷺、日蓮のごときも、同じく非凡の大徳なり。余のご とき浅識非徳のものいずくんそよくこれに当たらん。余愚かなりといえども、なお己の資性の拙劣なるを自覚せ ざるほどの愚かにあらず。ただ余は仰ぎて大偉人の仏教界に輩出せんことを待望するのみ。        第一七節 非僧而俗の素志  元来余は真宗の門下に生まれしも、いささか時事に感激するところありて、僧門に衣食するを好まず、身を俗 海に投じて、邦家のために微力を尽くさんと欲し、爾来自ら非僧非俗道人と称したりしも、その実は非僧而俗道 人なり。しかしてその国恩に奉答するの道は、仏教の真理を発揚し、僧家の宿弊を洗除するにありと信じ、さき に﹃仏教活論﹄を著して、護国と愛理との二途ならざることを論じ、仏教と国家との相反せざるゆえんを説きた り。更に広く世人をしてこの道理を知了せしむるは、著述のみの力によるべからざるを自覚し、その結果哲学館 を創設して、己の理想を実現せんことを企図するに至れり。  人身受け難く、昭代遇い難し、余輩なんの好縁ありてか、幸いに人界に生をうけ、明治の隆運に会す。願わく

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活仏教

ばこの幸運を空しうせざらんことを思い立ち、あるいは筆硯の事業に苦辛し、あるいは学校の経営に拮据し、あ るいは詔勅の普及に奔走したるも、その素志は始終を一貫してかわらず。二十余年一日のごとく、国運発展の万 一を助成し、人生の本分を全うせんことを期するに外ならず。これ余が俗界にありて国家および社会の恩恵に報 ぜんとする平素の志望なり。        第一八節 先天の約束  かくのごとくたとえ形骸を俗簑に寄せ、学籍を哲学に置くも、宗教信仰の一段においては、ほとんど先天の約 束のごとく仏教を遵奉して今日に至れり。そもそも哲学は理性の学にして、宗教は信性の法なれば、余は理性上 にては哲学を奉戴すると同時に、信性上にては仏教を崇信するものなり。もし理性と信性の別のごときは、拙著 ﹃哲学新案﹄に述明せるをもって、ここに重言せず。しかして仏教は哲学と宗教とを兼備せる法なり。これをも って余は仏教を講究すれば、理性信性の両方の要求を満たすことを得べきを知り、数十年来もっぱら仏教を研修 するに至れり。        第一九節 余の信仰の告白  仏教中には宗派多岐に分かれて、その所立おのおの同じからず。もし人ありて余の信ずるところはいずれの所 立なりと問わば、余は真宗なりと答えん。仏教は応病与薬の法と称して、その機根に相応ずる宗派を選択する自 由を許す。しかるに余は最初真宗門下に生まれたる縁故と、幼時よりその門内の教育を受けたる素養とにより て、宗教の信仰としては真宗の所立が最も余の信性に適合せるを自覚す。これすなわち余の病に相応ずる良薬な       捌 りと信ず。

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 しかれども余の真宗信仰は他の信者のごとく、狭陰偏屈なるにあらず。一方においては哲学上より仏教の教理       88 はもちろん、真宗の宗意も自由に討究することを許し、向上発展の方針をとるべきものとなす。他方においては 3 余が真宗を信ずると同時に、他人の他宗を信ずるを拒まず。各人その病その機に相応ずる法薬を信受すれば足れ りとす。故に余は真宗信者中の最も教権の束縛を脱し、自由討究、随意信仰の開放主義をとるものなり。        第二〇節 ﹁仏教活論﹂の立案  更に顧みて﹃仏教活論﹄編述の当時にさかのぼり、その立案いかんを考うるに、吾人は人類として真理を愛する 点より、理論上仏教の哲理を開達するを要し、国民として国家を護する点より、実際上仏教の応用を刷新するを 要すとし、理論の方を﹃破邪活論﹄﹃顕正活論﹄の二編に分かち、すでに上梓して世に公にせり。実際の方を ﹁護法活論﹂と題したるも、いまだ起草するに至らずして、哲学館を開設したれば、校務多端、塵事蝟集、年一 年よりはなはだしく、従来予告の著述は一時中絶のやむをえざるに至れり。その後神経衰弱症にかかり、閑地に 就きて静養を加え、傍ら明窓浄机の下に今後の半生を送らんと欲し、断然意を決して二〇年間独力経営せる哲学 館を退隠し、校務のごときは全部を挙げてこれを後継者に一任したり。爾来療養を兼ねて地方を歴遊し、山阪海 隅、至るところに教育勅語、戊申詔書の聖旨を敷術開設して、幸いに粗餐の責を免るるを得たり。客歳南半球遠 遊中、先年予告せし﹁護法活論﹂を起草して、﹃仏教活論﹄を大成するの急要を自覚し、帰国後ただちにその準備 に着手するに至れり。すなわちこの革新論なり。  さきに﹃顕正活論﹄を編述せしより、二五年の星霜を隔て、社会の風潮も宗教の状態も大いに変移したれば、 余の志向を発表する形式においても、自然に改変するの必要を感じ、﹁護法活論﹂の旧名を用いずして、新たに

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活仏教

﹃活仏教﹄の題号を選定せり。したがってその内容も先年の腹案と同轍ならざるところあり。これここにあらか じめ告白しおかざるべからず。        第一=節厭世的仏教の末路  方今西洋社会においては仏教の小乗的厭世風を拒絶することはなはだし。一時は仏教を歓迎せんとする傾向あ りしも、かの地に伝わりし仏教が、元来セイロン、ビルマ方面より輸入せしものなれば、純然たる小乗にして、 徹頭徹尾厭世的なり。故に文化を進捗し、国運を開達するに、害ありて益なきものとみなされ、一般に厭忌する 風潮をきたすに至れり。わが日本においても近時厭世的仏教を好まざる趨勢となりたり。ただし国民の多数は積 年の惰力により、旧来の崇信を継続するために、僥倖にして各宗が面目を改めざるを得るのみ。すでに上流の識 見あるものは、日蓮を歓迎せんとする傾向ある一事に徴しても非厭世を喜ぶの一端を見るべし。日蓮宗はこれを 他宗に比するに、楽天の風致と奮闘の事跡とを有するをもって、自然に時代の要求に適するところあり。しかれ どもその日蓮もなお大いに刷新を要する点多きことを記取せざるべからず。        第一=一節 厭世の面目一新  余をもってこれをみるに、日本の諸宗はいずれもその原理においては、必ずしも厭世たるべき理なしといえど も、種々の事情に制せられて、その応用は厭世に傾くに至れり。もし宗教の真意よりいえば、いずれの宗教にて も人間本位にあらざる以上は、厭世の評を免れ難し。ヤソ教のごときは自ら楽天教なりと称するも、その真面目 はやはり厭世教なり。新教革新以前のヤソ教をみるに、小乗的仏教に異なることなかりき。しかるに時勢の要求       89       3 に促されて、漸々その針路を楽天の方に変位するに至れり。わが各宗もこの実例に考えて、今日の活動的社会、

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奮闘的生活に適するように革新するを要す。これ国民一般の必ず歓迎するところなるべし。        90  仏教の方面にても、国運を発展するの責任あるはもちろん、その興廃は国家の消長と相伴うことを忘るべから 3 ず。日蓮の語に、   それ国は法によってさかえ、法は人によって貴し。国亡び人滅せば、仏をだれか崇むべき、法をだれか信ず   べけんや。国家を祈って、すべからく仏法を立つべし。   夫国依レ法而昌、法因レ人而貴、国亡人滅、仏誰可レ崇、法誰可レ信哉祈二国家へ須レ立二仏法ハ︵﹃立正安国論﹄︶ とあるがごとく、わが日本の国勢他日よく海外を圧倒するにおいては、自然に仏教の宇内に伝播するに至るべし。 ことに大乗仏教がインドに亡び、シナに衰え、ひとり日本に栄ゆるは、畢寛するに千四百年の久しき、皇室の擁 護、国家の扶翼の賜なるは明らかなり。果たしてしからば仏教家たるものその鴻恩に報ずる心得にて、永く皇室 の尊厳を保ち、国家の隆盛を祈らざるべからず。もしこの責任を全うせんと欲せば、各宗が大革新の急務なるを 自覚し、自ら進みてこれを実行せざるべからず。        第二三節 本論の題目  宗教は一般に厭世を本領とするうち、ひとり大乗仏教はその原理において厭世的なると同時に世間的にして、 かつ活動的なれば、これを革新して世界の大勢に適合せしむるは、ヤソ教を革新するよりなお容易なり。よって余 はまずその原理性質を論じて、ようやく革新の方針および手段に及ばんとす。故に本論の題目を左のごとく定む。    原理論    性質論

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   発達論    革新論    方法論  右の順序を追うて余が積年の宿論を表明し、もって天下の公評を請わんとす。もしこの理想にして実現するを 得ば、余が人生に生まれたる使命を全うせるものと信じ、いつ死すとも、快哉と呼びて瞑目し、喜び勇みて黄泉 深処に向かうべし。

活仏教

第二段原理論一

      第二四節 仏教の体相用  仏教の源泉は遠くインド、ガンジス河畔に発し、流れてシナに入り、分かれて日本に注ぎ、あるいは小乗大乗 一乗三乗、頓教漸教、顕教密教、聖道浄土等の諸教となり、あるいは法華、華厳、天台、真言、禅宗、浄土、真 宗、日蓮等の諸宗となり、法門多岐義類多端なりといえども、末を摂めて本に帰り、枝を去りて根に就かば、万 法、因果、真如の三大原理の存するをみるのみ。これすなわち仏教の体相用なり。   万法︵相︶  因果︵用︶ーー真如︵体︶ 万法とは事々物々、千差万別の相状をいう、いわゆる宇宙の相なり。真如とは不生不滅の真理を意味し、事物の 本源、万法の実体なれば、いわゆる宇宙の体なり。あるいはその理を指して浬築という。この真如と万法、すな 391

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わち体と相との関係を示し、万法の生起を明かすものは因果の理法なれば、これを宇宙の用と名付くべし。        第二五節 真如因果の二大理  この体相用の三大元は実に仏教の全系にして、諸宗諸派の教相はみなこれより分出せる細目に過ぎず。もし仏 教を一家にたとうれば、真如は礎のごとく、因果は柱のごとく、万法は屋壁のごとし。たとえばここに一家あり。 遠くこれを望むに最初目に触るるものは、柱にあらず礎にあらずして、屋壁なり。ようやく近づききたり、その 内部をうかがうに及んで、屋壁のよって立つゆえんは柱礎あるによるを知る。これと同じく吾人の目に最初触る るものは、宇宙の相状たる事々物々の万法なり。その万法を熟察精究してのち、初めて仏教の大壇は真如因果の 体用を柱礎として魏立せるゆえんを知るに至る。故に三大元を要約すれば、    真如    因果 の二大理となる。すなわち真如を礎とし、因果を柱として、仏教全系の構成せらるるをみる。世に仏教の根本原 理は真如浬藥の一理体のみとする説あるも、これ余のとらざるところなり。        第二六節 小乗の人身観  この理を証明するに、まず小乗大乗の所立につきて叙述せざるを得ず。小乗にては人身を分析して色受想行識 の五種より成るを見、宇宙を分解して七五種の法体より成るを知り、この諸元の集散離合によりて、我あり人あ り、物あり心あり、天地あり世界あり、この諸元を離れて一事一物なしとす。そのいわゆる色は物質にして、こ れを色法といい、受想行識は精神にして、これを心法という。この色心二法相合して仮に人我あるを見るも、ひ 392

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活仏教

とたび分散すれば人我なし。故にわが身は五緬仮和合の境涯なりとす。五纏とは色受想行識を指す。これ小乗の 人身観なり。かくして無我の結論に達す。すなわち吾人の身体中に一定不変、確然不動の我体ありと信ずるを迷 いとし、無我の理に体達するを悟りとするなり。        第二七節 小乗の世界観  つぎに七十五法を類別して、有為無為の二法とし、有為の諸法は転変生滅あるも、無為法は不生不滅なりとす。 たとえば虚空のごとき浬葉のごときは不生不滅なれば、無為法に属し、人獣魚虫、山川草木、天地日月のごとき は生滅無常なれば、有為法に属す。その有為法の生滅無常なるは、諸元の集散離合より生ずるものにして、もし その諸元の自体を査定すれば、みなつねに実有なるものとす。その説を法体恒有という。これ小乗の世界観なり。 よって人身観にては無我をもって真理とし、世界観にては法有をもって真相とす。これを我空法有説と名付く。 我空とは無我のいわれなり。小乗中にも多少の異説あれども、古来この我空法有説をもってその標本と定めり。        第二八節 因果の作用  諸法は無我なり、法体は恒有なり。その恒有なる法体が相集まりて我を生じ、世界を現ずるは、因果の作用あ るによる。その散ずるもまた因果の作用なり。すべて生あり滅あり、転変あるは一として因果の作用ならざるは なし。因明の語中に﹁諸行は無常なるべし、所作性なるが故に﹂とあるは、因果によりて造り出されたるものと の意なり。故に因縁性のものはみな無常なりとす。その集まるには集まるの因あり、その散ずるには散ずるの因 あり。因きたりて物生じ、縁去りて物滅す。この道理をもって宇宙万象の変化を説明するは、小乗大乗の共にと るところなり。故に諸法の起本は実に因果にあり。 393

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       第二九節 小乗の浬薬の真相       94  有為の諸法に因果をもって起本とするも、無為の浬薬に至りては生滅なく、常住なるものなれば、因果の関す 3 るところにあらず、因果を超絶せる境遇なり。この境遇に昇進転入するをもって、吾人の究寛の目的とする一段 に至りては、大小二乗のその軌を一にするところなれども、浬薬の見解においては大いに相違するところあり。 小乗所立の浬薬は、消極的にして、世相の生滅を断尽し、苦楽を滅無したる状態を指すに過ぎず。すなわち空々 寂々、虚無暗黒の浬薬なり。故にその状態を説きて身心都滅、灰身滅智といい、心灯の滅して暗黒となりたるが ごとき境涯なりとす。換言すれば死物的浬藥なり。そのうちには生なく活なく、明なく覚なきものなり。またそ の浬築界と生滅界とは隔歴絶縁のものとす。故に大乗家より小乗を斥して外道の一種に加え、真の仏教にあらず とするは一理なきにあらざるを知るべし。        第三〇節 三法印の名義  古来仏教と非仏教とを判別するに三項の標準あり。これを三法印と名付く。その名目左のごとし。   一、諸行無常  二、諸法無我  三、浬薬寂静 この三法印に合するものを仏教とし、合せざるものを非仏教とす︵﹃雑阿含経﹄﹃智度論﹄﹃婆沙論﹄等に出づ︶。 しかるに小乗はまさしくこれに合するものなれば、仏教たるに相違なきも、ただその見るところ狭く、究むると ころ浅きのみ。しかしてその三法印は余のいわゆる万法、因果、真如の三大元に外ならず。諸法諸行は万法の差 別的方面にして、無常無我は因果の作用なること言を待たず。しかして浬樂寂静は真如の静的状態を指したる語 なり。更に諸法の生起するゆえん、諸行の遷流するゆえんを尋ぬるに、これまた因果なり。故に三法印は因果と

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活仏教

真如との二大理に帰着す。小乗はこの三法印を柱礎として建立せるものなれば、やはり因果と真如とを根底とす ること明らかなり。        第三一節 小乗の修行  以上は小乗を哲学の方面より観察したるものなるが、更に宗教の方面より審判するに、哲学は理想的論究にし て、宗教は実際的修行なり。小乗の修行は、あるいは苦集滅道の四諦を観修し、あるいは無明、行、識、名色、 六処、触、受、愛、取、有、生、老死の十二因縁を覚了し、その期するところは諸法生滅の迷界を脱して、浬磐 寂静の悟界に進入するにあり。故にその目的は浬粟の彼岸に到達するにあれども、これに到達する階梯は全く因 果の理法による。        第三二節 四諦の解釈  まず四諦を考うるに、苦集は迷門の因果、滅道は悟門の因果なりとす。そもそも人生は苦境なり、生老病死あ り、禍災憂患あり。もしその苦をいといてその因を求むるに、煩悩惑業の集まりて招ききたせるものなるを知る。 これを苦果をみて集因を知るとなす。これ迷門にして、これを有漏の果因という。漏とは煩悩の異名なり。これ に反してその苦の滅したる境涯は浬藥の彼岸にして、その彼岸の無苦唯楽の境涯なるをみて、これに達する道因 を求むるに、戒定慧の三学を修習せざるを得ざるを知る。すなわち滅諦は浬築を指し、道諦は戒定慧三学の修行 を指す。これ悟門にして、無漏の果因という。これを要するに四諦は迷悟の因果を示すものと知るべし。        第三三節 十二因縁の解釈       95       3  つぎに十二因縁の解釈は数書に出つるが、左に﹃三蔵法数﹄によりてその大意を説明すべし。

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第一の無明とは、過去世の煩悩が本性を覆うて明了するところなきをいう。       96 第二の行とは、過去世の身口に造作する一切の善不善の業をいう。       3 第三の識とは、過去の惑業相ひくによりて、この識をして母胎に投托せしむ。すなわち最初母胎にまさしく  生を結ぶ時の描をいう。 第四の名色とは、名はすなわちこれ心なり。心ただ名ありて形質なし。色は色質にしてこれ身なり。すなわ  ち託胎以後数週を経て、諸根の形を生じて四肢相分かる、これを名色という。 第五の六入とは、名色以後更に数週を経て髪毛爪歯を生じ、ようやく開張して諸根具足し、六塵に入るの用  あるをいう。 第六の触とは、出胎以後三、四歳に至るとき、六根外境に触るるといえども、いまだ苦楽を生ずる想を了知  することあたわざるをいう。 第七の受とは、五、六歳より一二、三歳に至るの時に、六塵に触れてよく対境の好悪等を受納するも、いま  だ淫倉を起こすことあたわざるをいう。 第八の愛とは、一四、五歳より一八、九歳に至る時に、種々愛求の念を生ずるをいう。 第九の取とは、二〇歳以後倉欲の心が五塵の境に向かって追馳するをいう。 第一〇の有とは、諸境を馳求するによりて善悪の業を起こし、三界六道の果を牽引するをいう。 第=の生とは、現世の善悪の業に従って、後世六道中に受生するをいう。 第一二の老死とは、来世の受生以後、五艦所成の身熟し終わりて、還りて衰壊するをいう。

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活仏教

 以上は文字につきての略解なり。もしその要旨を約言すれば吾人の生老病死の苦果をみてその因を究め、終わ りに無明に達し、この無明が因となりて、種々の惑業苦境を縁起し、その結果、生死界に流転出没するに至るゆ えんの階段順次を開示せるものなり。無明とは煩悩を指す。これを過去、現在、未来の三世に配合して、三世両 重、二世一重の類別をなす。今左にその表のみを挙示せん。 三世両重

  過

  現

  重

現    

在    去

二因議明︸能引

∴︸能生

二∴死

十因

了三

二世一重       97       3 この表に照らすに十二因縁はもとより因果の作用に外ならず。かくのごとく煩悩惑業をもって生死の境涯の起本

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とする説明を業感縁起説という。        第三四節 小乗の骨目  小乗の哲学にては万象を分析して、人身も世界も因果によりて生滅変遷するゆえんを論明し、これを宗教に応 用して苦楽を転換する道も、因果によらざるべからざる理由を証立し、その終極の目的は浬薬に悟入するにあり とす。故に小乗の起点は万法界にして、終点は真如界なり。しかしてこれを連結するものは因果の理法なり。因 果に善悪の二種を分かち、更に有漏の二類を設け、善因は善果を引き、悪因は悪果を結ぶべく、有漏因を積めば 有漏果をきたし、無漏因を修むれば無漏果を招くべく、迷界に出没するも悟界に昇進するも、因果の作用によら ざるはなしと定む。故に余は小乗の骨目となるものは、帰するところ、因果と浬藥との二大理に外ならずと断言 するをはばからざるなり。        第三五節 法相宗の哲学  つぎに大乗の所立をみるに、権大乗と実大乗との類別あれば、まず権大乗につきて略説せざるべからず。権大 乗中法相宗の哲学は小乗を継続し、更にその上に論歩を進めて、外界の万象を心界に収め、唯心論を開立したる ものなり。小乗にて有為の諸法を色心二元に摂したるは、いわゆる物心二元論なるが、法相宗にてはこれを一変 して唯心一元論となせり。また小乗にては無我の理を証明したるも、諸法の体は実有なりとして、我空法有説を とるに反し、法相宗は諸法の体も心界の所現に外ならざれば、これまた空なりとして、我法二空説をとれり。要 するに法相宗は純然たる主観論なり。  今その唯心論を述ぶるに、心界を分かちて八種とし、その第八位におるものを阿頼耶識と名付く。これを訳し 398

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活仏教

て蔵識という。これを蔵と名付くるは諸法の種子をその体内に包蔵せるによる。この種子より外界万象を開現す るに至るとなす。これを頼耶縁起説と名付く。しかして諸法を開現すべき種子は阿頼耶識中に本来具存せりとな す。これを本有種子という。すなわち物心万象の因なり。その種子が、前七識の作用によりて、万象を開現する に至るは果なり。その果が更に新種子を阿頼耶識中に重⋮殖するを新薫種子と名付く。これ果が更に因となるもの なり。その新薫種子が諸法を生起する因となる。これを﹁種子は現行を生ず、現行は種子を黒ず。﹂︵種子生現行、 現行薫種子︶という。これにおいて第八識と前七識とは互いに因となり果となるの関係を有す。その関係を互為因 果という。  ﹃唯識論﹄に曰く、﹁諸法を識において蔵し、識は法においてもまた爾なり。更互に果性となり、また常に因性 となる。︵中略︶阿頼耶識ともろもろの転識とは、一切の時に展転して相生じ、互いに因果となる。﹃摂大乗﹄に 説く。阿頼耶識と雑染法とは互いに因縁となる。娃と炎と展転して生じ焼けるがごとし。また、束盧の互いによ りて住するがごとし。﹂︵諸法於レ識蔵識於レ法亦爾、更互為二果性べ亦常為二因性べ ︵中略︶阿頼耶識与二諸転識一於一二切 時一展転相生、互為一因果、摂大乗説、阿頼耶識与一雑染法互為因縁、如・姓与レ炎展転生焼べ又如一束薦互依住べ︶︵二巻一 七紙︶ またその種子と現行との前後の関係を説きて同時なりとす。これを因果同時の法門という。        第三六節 因果の起源  小乗は因果をもって諸法生起の原理となすも、その起源を明示するに至らず。法相宗は因果の根元にさかのぼ        珊 り、八識相関の理より互為因果、同時因果を論定するに至る。また論理の一段の進歩なり。しかして一切万法は

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識心より変現し、八識自体の種子は阿頼耶識所蔵の種子より開発すると立つる点よりみれば、因果の本源は帰す        oo るところ阿頼耶識中にありといわざるべからず。これを要するに万法生起の原理を因果の作用に帰するは、小乗、 4 権大乗の共に一致するところなり。        第三七節 無為法の自体  以上は有為法の説明のみ。もし無為法の自体を考うるに真如あるのみ。阿頼耶識は諸法の根本なるも、有為法 に属す。故に諸法と共に生滅を継続するを免れず。しかして真如は不生不滅なり。この真如と阿頼耶識との関係 につきては、おのずから体用の別あり。阿頼耶識は真如によりて立つものなれば真如をもってその体とす。しか して真如はただその所依の体となるのみにて、諸法を縁起する作用を有せず。これを﹁真如は凝然として、諸法 を作さず。﹂︵真如凝然、不作諸法︶という。しかして諸法を縁起する作用は阿頼耶識にありとす。すなわち因果の 理法の活動する舞台はこの識にありとす。これを要するに、宇宙の本体は真如とする説なり。        第三八節 法相宗の事理二界  以上の所説によりて、法相宗の原理も万法と因果と真如との三大元なるを知るべく、その三大元を追究すれば 因果と真如との二大理に帰するを知るべし。もし事理の二界につきていえば、有為の事界は因果の原理の支配に 帰し、無為の理界は真如の独占に帰するなり。しかしてこの二界は互いに隔歴して存し、融合せるにあらずとす るは法相の所立にして、これを事理隔歴の法門という。        第三九節 法相宗の三性説  事理二界は隔歴すというも、その二者の間は小乗所説のごとく、絶縁なるにあらず。この関係を示すに遍依円

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三性の説明あり。第一の遍計所執性とは一切諸法は我空法空なるに、吾人の妄情迷見によりて実我実法ありと執 する方をいい、その体、実在せざるもの故、これを妄有とす。遍計所執の名は諸法を遍く計度分別して、実我実 法ありとの迷執を起こすの意なり。第二の依他起性とは他の因縁によりて生起するの意にして、因縁所生の法は 有にして空にあらざるをいう。これを仮有とす。第三の円成実性とは円満成就真実の義にして、真如の自体を指 したる名目なり。これを真有とす。この遍依円三性、妄仮真三有につきて、法相宗における事理二界の関係いか んを知るべし。かつこの三性がまさしく余のいわゆる仏教の三大元を示すものなるをみるべし。すなわち   万法につきて遍計所執性を立て、   因果につきて依他起性を説き、   真如につきて円成実性を説く。 故に法相宗の遍依円三性は仏教の三大元の真妄を論明したるものと定むべし。そのうち第一を妄有とし非有とし、 第二を仮有とし非空とし、第三を真有とするをもって、因果と真如との二者を非空実有とするものなれば、三大 元は帰するところ二大理となるを知るべし。  更に遍依円三性の関係につきて中道の妙理を開説するあり。遍計の空と依円の有とを対望して、前者は空にし て有にあらず、後者は有にして空にあらず、畢寛するに非有非空の中道なりとす。その中道の理を敷術しきたり、 三性を対望して非有非空を立つるを要せず、物心万差の諸法中、一法一法の上に中道の妙理を具することを唱う るに至れり。 401

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       第四〇節 法相宗の宗教門       02  以上は法相宗哲学の大綱にして、この理を応用したるものが宗教の所立なり。まず哲学の方面にては一切諸法 4 に実我実法なきゆえんを証明したる結果を応用しきたり、宗教の方面にては我法実有の迷執を観破する方法を設 く。すなわち一家特有の唯識観を起こし、万法唯識、識外無法の理を達観せざるべからず。これを達観する方法 に至りては、もとより戒定慧三学を要するなり。かくして有漏の識を転じて、無漏の智を得せしむ。これにより て証得したるものは浬藥なり。しかしてこの浬磐は小乗のごとき暗黒的浬築にあらずして、慈智を円満せる光明 的浬藥なり。もし各人が生死界を脱離して浬磐に帰入するに至らば、これすなわち成仏なり。しかるときは智光 明らかなるをもって、生死に住せず、慈心満つるをもって浬藥に住せず、自利利他円満成就すという。  その宗教門の目的は浬藥にあることむろんなりといえども、これに到達する修行の方法は、我法二執の迷障を 断尽するにも、有漏識を転捨して無漏識を証得するにも、みな因果の規程に従いて履修せざるべからず。戒定慧 三学共に因果の原理に基づかざるはなし。故に権大乗法相宗は小乗と同じく哲学宗教両方面において、因果と真 如とを柱礎とせること明らかなり。ただ小乗と権大乗との別は、小乗は因果の作用を説くも、その根元を示さず、 真如の境遇を説くも、その内容を示さざるに反して、権大乗は主観的に因果の根元および真如の内容を明示開説 するにあるを知るべし。        第四一節 五性各別の法門  法相宗の特色とするところは、五性各別、三乗各別を立つるにあり。三乗とは声聞、縁覚、菩薩にして、衆生 中生来、声聞性のものと、縁覚性のものと、菩薩性のものとありて、その性を転換することあたわずという。そ

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活仏教

の三乗性の外に不定種性と無性有情の二性あり。不定種性は三乗の各性の一定せざるものをいい、無性有情は生 来全く成仏の性を有せず、必定して浬磐の仏果を証得することあたわざるものをいう。これを合して五性各別と 唱うるなり。かくのごとく衆生の機類に成仏不成仏の別を立つるは、種子説をとるによる。吾人の阿頼耶識中に 本来包有せる種子に三乗性、成仏性、不成仏性の別あるものなれば、その結果に至りても五性各別なるべきもの となす。これまた因異なれば果もまた異なるの因果の規則によること明らかなり。        第四二節 三論宗の所立  権大乗中に加わるものは法相宗の外に三論宗あり。その宗はすべて吾人の有と執し、空と執する諸見をことご とく破斥し、その極一も執着するところなきに至りてとどまる。これを有所得の見を破して、無所得の理をあら わすという。この説によれば真如は真空の状態に帰し、因縁所生の諸法は絶無たるべき理なれども、三論にては 別に真俗二諦の法門を設けて、真空と説くは真諦門の沙汰となす。もし俗諦門にきたらば諸法の仮有を許し、空 は宛然として有となり、因果は歴然として存することとなる。しかしてこの真諦と俗諦とは相離れず、俗諦ある をもっての故に、真際を動かさずして諸法を建立し、真諦あるをもっての故に、仮名を壊らずして実相を説くと いう。これに至りて三論の所立も万法、因果、真如の三大元を根底とし、また因果と真如との二大理を柱礎とす ることを知了すべし。        第四三節 天台宗の真如万法  以上は大乗中の初門たる権大乗の所立なるが、つぎに実大乗をみるに、まず天台宗にては法相宗の凝然真如の       硯 静止的を一転して、活動的となし、真如の水が動きて、万法の波を現ずることを唱え、水すなわち波、波すなわ

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ち水なるがごとく、真如即万法、万法即真如と説ききたり。この二者は同にして異、異にして同なりとす。その 関係を不一不二という。これにおいて法相の事理隔歴の法門が一変して、事理融通の秘奥を開くに至れり。また 法相にては万法唯識の唯心論を成立せるも、その唯心は人々個々の唯心にして、彼我の差別を有する唯心なり。 これに反して天台にては絶対の一元の上に唯心を説ききたりて、真如自体の上にただちに彼我自他の差別を現立 することを示せり。よって前者は相対的唯心論となり、後者は絶対的唯心論となる。        第四四節 空仮中三諦の法門  この事理相関の理を説くに空仮中三諦の法門あり。千万差別の諸法はその自体なきものなれば、これを空諦と し、たとえその体なきも、縁にしたがい事に応じて、万境を開現するに至るをもって、これを仮諦とす。しかし てこれを空とし仮とするは相対の沙汰にして、もしその真相をいえば空にして仮、仮にして空なるが故に、これ を中とす。この三を合して空仮中三諦と称するなり。その三諦を仏教の三大元に配合すれば、   万法につきて空諦を唱え、因果によりて仮諦を説き、真如に基づきて中道を立つるなり。 換言すれば空仮中三諦すなわち宇宙の三大元なり。  更にその空諦を推究するに、万法生起の作用は因果の理法に外ならざるをもって、因果と真如との二大原理に 帰着すること、法相等の下に述ぶるところに異ならず。ただ法相にては真如と因果とを別置して、真如の自体よ りただちに因果の作用を起こすことを説かず。因果は有為法の中心となり根本となるところの第八阿頼耶識の体 中に固有せるものとなすに反し、天台にては因果の作用は真如自体より起こるものとなすの異同あるのみ。よっ て天台の絶対的唯心論にては、万法も因果も真如もその実一体にして、余のいわゆる三大元も二大理も、一元一 404

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活仏教

理に帰するを知るべし。しかしてその一元一理の上に三大元二大理を成立するもの、これ天台哲学の妙趣なりと す。        第四五節 因果不二  すべて天台にては不二の法門を設け、色心不二、内外不二といい、因果もまた不二となす。その語に曰く、   因果のことなることなければ、始終の理は一なり。︵中略︶これすなわち不二にして二。因果のことなるを立   つは、二にして不二、始終の体は一なり。        ル   因果無レ殊始終理.︵中略︶是則不..而..、立肉果殊︵.,而不..、始終体.、二卜不.一門指要紗﹄巻下の一二紙︶   ︹*‖﹃十不二門﹄︺ この因果体一とみるは事理融通、万法無磯の理に基づく、体一にしてしかも別あり。これを不二にしてかつ不一 なりとなす。故に因果の関係も同じく不一不二の四字をもってあらわすを得、これを大乗最高の法門とす。  また天台にては﹁一色一香も中道にあらざることなし。﹂二色 香無非中道︶と説き、これを宗教門に応用して、 ﹁国土山川、ことごとくみな成仏す。﹂︵国土山川悉皆成仏︶を唱え、﹃金鉾論﹄にはコ草一木、一礫一塵、おのお の一仏性、おのおの一因果なり。﹂︵一草一木、]礫一塵、各一仏性、各 因果︶と論断するも、その宗の得意とする ところなり。 405

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第三段原理論二

       第四六節 天台の宗教門  天台の哲学門を説きおわりて、更に宗教門をうかがうに、一心三観の観門を知らざるべからず。三観とは三諦 の理を観照する意にして、空も仮も中も一心中にありと達観するを一心三観というなり。この観法によりて凡夫 の迷情を転じ、仏果の証智を開くをもって一宗の要旨とす。これもとより迷悟因果の理を証して、浬磐の仏果を 開現するの意に外ならず。すなわち浬薬を目的とし、因果を階段とすることは、小乗、権大乗の所立とすこしも 異なることなし。しかして天台と法相との相違は五性三乗を立てず、一切衆生ことごとく成仏の果地に至ること を説く。よって法相を三乗教と名付くるに対し、天台を一乗教と名付く。ひとり天台のみならず、実大乗の諸宗 はみな一乗教なりと知るべし。        第四七節実相の一印  さきに︵第三〇節︶仏教と外道とを識別する標準は三法印にあることを述べしが、この三法印は小乗大乗に通 ずる標準なり。しかるに小乗に対して大乗の特色を示すときには、諸法実相印をもって標準とす。その源は﹃智 度論﹄に出づ。その意を敷術せる﹃法華玄義﹄の文、左のごとし。   もろもろの小乗経はもし無常と無我と浬薬の三印ありてこれを印すれば、すなわちこれ仏説なり。これを修   すれば道を得ん。三法印なければすなわちこれ魔説なり。大乗経にはただ一法印のみあり、諸法実相をいう。

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活仏教

  ﹃了義経﹄と名付け、よく大道を得る。もし実相の印なくんば、すなわちこれ魔の説くところなり。   諸小乗経若有二無常無我浬築三印、印レ之即是仏説、修レ之得レ道、無二三法印一即是魔説、大乗経但有二一法印べ諸法実   相名二r義経べ能得二大道べ若無一実相印即是魔所説、︵会本、巻八上の三四紙︶ これ大乗にて万法即真如、生死即浬藥と説けるによる。  この実相を天台にては空仮中三諦の理をもって説明せり。左に再び﹃法華玄義﹄を引用してこれを証せん。   一実諦とはすなわちこれ実相なり。実相とはすなわち経の正体なり。かくのごときの実相は即空仮中なり。   即空の故に一切凡夫の愛論を破し、 切外道の見論を破す。即仮の故に三蔵の四門の小実を破し、三人共見   の小実を破す。即中の故に次第の偏実を破す。またもろもろの顛倒小偏等の因果四諦の法なく、また小偏等   の三宝の名なし。ただ実相の因果のみありて、四諦三宝宛然として具足す。またもろもろの方便の因果四諦   三宝を具す。なにをもっての故に。実相はこれ法界海なるが故なり。ただこの三諦はすなわちこれ真の実相   なり。 、実諦者即是実相、実相者即経之正体也、如レ是実相即空仮中、即空故破 一切凡夫愛論⇒破二切外道見論べ即仮故 破二.二蔵四門小実べ破二.二人共見小実、即中故破二次第偏実べ無二復諸顛倒小偏等囚果四諦之法ハ亦無二小偏等.二宝之名べ 唯有二実相因果べ四諦三宝宛然具足、亦具一諸方便因果四諦三宝一何以故、実相是法界海故、唯此一、、諦即是真実相也、 ︵会本、巻八下の二紙以下︶ ﹃智度論﹄には﹁諸法の実相はすなわちこれ般若波羅蜜なり。﹂︵諸法実相即是般若波羅蜜︶ り。要するに万法の本体たる真如を指して実相と名付けたるは論を待たず。 ︵同論、巻一八初紙︶とあ 407

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       第四八節 三法印と実相印との異同       08  三法印の万法、因果、真如の三大元を根拠とすることたやすく知了すべきも、実相印に至りては真如一元のみ 4 に帰すべし。しかるに何故に余は仏教の三大元を主唱するやとは衆人の必ず起こすべき疑問ならんと信ず。故に あらかじめ一言の答弁をなさざるべからず。諸法とはなんぞや。曰く、万法なり。実相とはなんぞや。曰く、真 如なり。この諸法と実相との関係を示すものはなんぞや。曰く、因果なり。故に諸法実相は余のいわゆる万法、 因果、真如の三大元を短縮せる語のみ。かつ余の所見によるに、三法印も実相印も必ずしも別物にあらず、ただ 語句の上に詳略の差あるのみ。三法印中の諸行無常、諸法無我の二印は、実相印の諸法の二字中に摂するものと みるべし。第三の浬藥寂静は実相と同じく真如の理体を指すものなれば、もとより同印なり。ただし真如の相状 を説く点が、小乗と大乗と相異なるのみ。        第四九節 実相と万法因果との関係  更に実相の語に、つきて考うるに、実相とは諸法に関連する語にして、目前に諸法あるが故にその実相いかんの 説起こるなり。もし最初より諸法を全くなきものとすれば、実相は無意味の語となるべし。故に実相の語中に諸 法を具するを知り、実相と説く前に諸法の仮立を予定せざるを得ず。更にまた諸法の語につきて考うるに、その うちに因果の語の伏在せるを知るべし。今吾人が諸法の現立をみて、その実相の真如なることを知るは、なんの 理によるかを思いきたらば、因果の理法によることむろんなり。ことに諸法そのものが因果によりて生起せるも のなれば、その語中に因果の理を含むことおのずから瞭然たり。﹃婆沙論﹄︵巻二〇の一七紙︶に﹁諸法の生滅は みな因縁による。﹂︵諸法生滅皆由二因縁一︶とあるがごとく、因果を除き去らば諸法の生ずべきはずなし。故に諸法

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活仏教

実相は三大元を縮説せるものなるは明らかにして、更にこれを要約すれば因果と真如との二大理に帰することま た疑いをいれず。        第五〇節  ﹁起信論﹂の真如縁起  つぎに華厳宗の大要を述ぶる前に、﹃起信論﹄につきて一言する必要あり。この論は実大乗の真如縁起を最も簡 明に説示せるものなり。その説によるに諸法の本体は一心とす。その一心はすなわち絶対にして、真如これなり。 この真如の本体に更に心真如、心生滅の両面あることを示せり。すなわち不変真如、随縁真如これなり。そのい わゆる不変真如は静的方面にして、随縁真如は動的方面なり。その動的方面において諸法の生滅を縁起したるも のとし、その生滅の起源を無明に帰するに至れり。故にその語に曰く=切世間の境界の相、みな衆生の無明の 妄念によりて建立するを得、云々。﹂二切世間境界之相皆依二衆生無明妄念一而得二建立一云云︶とあり、その意を約す るに万法の本体は真如にして、真如より万法を生起するに無明の内薫あるによるとなせり。このいわゆる無明は 諸法生滅の根本因に与えたる名目なることは問わずして明らかなり。その因によりて生じたる果は生滅の諸法、 すなわち差別の万法なり。もし無明の起源を追尋するときは、無始以来相続せるものとなる。これすなわち無始 因果なり。  また一心中に覚と不覚との二性あることを説き、その不覚性によるが故に、生死界に流転するに至り、覚性に よるが故に、浬薬界に帰入することを得るとなす。前者を流転門といい、後者を還滅門という。しかしてその流 転するに至るも還滅するに至るも、すべて因果の作用によらざるはなし。つまり真如と因果と万法とは相離るべ       09       4 からざる関係を有す。よって﹃起信論﹄に左の所説あり。

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