まえがき
その昔,晋の車胤(しゃいん)は貧しくて燈明の油を買うことも できず,夏の夜には蛍を捕えて明かりとし勉強したという.ホタル を新聞紙にのせるとお尻の光に照らされた部分だけは暗闇でも何と か字が読めるが,現代の私たちにはホタルの光は照明とはほど遠 い.しかし黄緑色の光を点滅させながら宵闇に舞うホタルは数十 メートル離れたところからでも光の点として捉えられる.一方,近 くの暗闇にいるホタルと同じくらいの小さな昆虫を探そうと,こち らから光で照らしても見つけるのは至難である.自ら光るという情 報発信力はきわめて大きい. ホタルなどの発光生物は体内で起こる化学反応により放出される エネルギーを効率よく可視光に変えている.生物の体内で起こる化 学発光が生物発光である.ここ 60 年ほど,生物発光と化学発光の 研究は互いに関連しながら目覚ましく発展してきた.この間のバイ オテクノロジーの進歩も著しく,生物発光に関わるタンパク質など が手に入るようになった.こうして,生物発光も化学発光もおのず から分子のレベルで光を出し情報を発信するツールとして,今では 生命科学の分野で欠かせないものとなっている. 本書では,基礎があっての応用という考えから,生物の発光と化 学発光の研究について発展の歴史を踏まえ,どのような仕組みで発 光するのかに力点をおいて書き下ろした.第 1 章では,人工的な光 に満ちている私たちの身のまわりの光について眺めなおす.第 2 章 では,"光と分子の関係"を中心に復習を兼ねて話をする.第 3 章 では,日ごろ何げなく目にする発光という現象について概観する. 次の章からは,第 3 章までの話を念頭において生物の発光と化学発 _19530340.indb 2 2019/11/08 9:41:48 化学の要点シリーズ 【35】巻 生物の発光と化学発光 日本化学会 編・松本 正勝著 https://www.kyoritsu-pub.co.jp/bookdetail/9784320044760vi まえがき 光について話を進める.第 4 章では発光する生物にはどのようなも のがいるのか,発光に必要な物質は何なのか,それらがどのように 反応して発光につながるのかについて話をする.第 5 章では,生物 発光の研究から構造を予想して誕生したジオキセタンに対比し,古 典的(古いという意はない)といわれるいくつかの化学発光基質を 取り上げる.第 6 章ではジオキセタンの化学について話をする.ジ オキセタンは化学的にきっちりと調べることが可能なただ 1 つの生 物発光や化学発光の高エネルギー中間体である.それぞれの章では 応用研究についてもふれ,締めくくりでは生物発光や化学発光の研 究の展望について記す. コラムでは,本文中で説明できなかった専門的な事柄について解 説するとともに,生物発光や化学発光にまつわるいくつかの話題に ついて紹介する.また,用語の説明については本文中に†印をつ け,その章末に記す. 生物発光も化学発光も今や生命科学と関連した応用研究が盛んで ある.一方,ノーベル化学賞を受賞された 故下村 脩博士は近著の 中で,「生物発光の化学的研究は 1970 年代がピークで,現在は衰 退期にある」,その原因に「研究が応用や利益に直接つながらない ことが多い」こと,そして「研究の著しい発展には時代の推移を待 つしかない」とも述べられている.しかし,この数年に生物発光の 研究では久しぶりに発光生物のルシフェリン(発光基質)が新たに 2つもみつかった.朗報である.本書を読んで,生物の発光と化学 発光の化学の面白さの一端を知り,生物の発光と化学発光だけでな く基礎から応用までを含めた生命科学の研究に関わりたいと思う研 究者の卵たちが生まれることを願ってやまない. 本書を上梓するにあたり,生物発光のメカニズムについていろい ろと議論、助言をいただいた信州大学の本吉谷二郎名誉教授そして _19530340.indb 3 2019/11/08 9:41:48 化学の要点シリーズ 【35】巻 生物の発光と化学発光 日本化学会 編・松本 正勝著 https://www.kyoritsu-pub.co.jp/bookdetail/9784320044760
まえがき vii 電気通信大学の平野 誉教授に厚くお礼を申し上げる.また文献の 収集,原稿作成にあたり多大のご尽力をいただいた伊集院久子博士 と渡辺信子博士に心より感謝する. _19530340.indb 4 2019/11/08 9:41:48 化学の要点シリーズ 【35】巻 生物の発光と化学発光 日本化学会 編・松本 正勝著 https://www.kyoritsu-pub.co.jp/bookdetail/9784320044760