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古市古墳群白鳥陵地区の神社と寺院
阪南大学国際観光学科 4 回生 今成友美 Shrines and Temples in the Hakucho-ryo Section of Furuichi-Kofungun
Tomomi Imanari
白鳥神社
Shiratori Shrine
羽曳野市古市 1 丁目に鎮座する。近鉄古市駅のプラットホームから東のコンクリート壁 を見上げると、その上に本殿の背後が見える。道を歩いても 3 分ばかりの距離にある。社 殿のある敷地が円形であるのは墳丘長 120mばかの前方後円墳の後円部をもって境内とし ているためである。墳頂部に建つ拝殿から西へのびる参道は東高野街道に当たり、そこに 石造の一の鳥居が立てられている。拝殿は文化財指定を受けていないものの、瓦葺の立派 な割拝殿で、正面の千鳥破風が印象的である。北側の摂社に並ぶ朱の鳥居には「白長大明 神」の額がかかる。 設置された羽曳野市の説明板には以下のように記される。「白鳥神社の社伝によると、寛 永年間(1624-43)末期、軽墓(軽里)の伊岐谷にあった伊岐宮を、古市村の産土神として現 在の地に移築したとあります。伊岐宮には日本武尊が祭られていましたが、南北朝や戦国 時代の兵火によって焼失し、峯ヶ塚古墳にある小さな祠として存在していました。しかし、 慶長の大地震(1596 年)で倒壊すると、そのまま放置されたといわれています。享和元年(1801) の河内名所図会には『伊岐宮、誉田の南、五町、古市村にあり、日本武尊の霊を祀て白鳥 明神と称す。古は伊岐谷にあり、後世、つひに勧請す。相殿牛頭天皇、婆利賽女を併祭る。 此所の生土神とす。』とあります。現在は日本武尊と素戔嗚命を祭神とし、秋祭りには東町・ 西町・南町・北町・中之町・堂之内町の地車(だんじり)が町内を練り歩きます。」とあって、 日本武尊白鳥陵のある軽里から遷された神社であるとしている。 年中行事は、祭旦祭が元日、節分祭が2 月 3 日、夏まつりが 7 月 11・12 日、秋まつりが 10 月 8・9 日、そして、最大の行事である「古市だんじり祭り」が 10 月第 2 土・日曜日に 行われ、相当なにぎわいを見せるようである。 白鳥神社の拝殿と摂社の白長大明神2
長円寺 Choen-ji Temple
羽曳野市古市 1 丁目にある。古市駅のすぐ南を東西に走る竹内街道を西に歩くと、踏切 から200m足らずで道の北側に長円寺の山門が現れる。山門の西には地蔵堂が隣接し、門前 には説明板が立てられている。それによると、「古市の西町、竹の内街道沿いにあり、浄土 宗知恩院派の寺として、江戸時代の寛永九年(1632 年)に僧孝順によって開基された。境内 は 209 坪(690 平方米)で、本堂・庫裏・観音堂・地蔵堂・門がある。その中で地蔵堂はも と字西口の路傍にあったものを明治5 年 4 月に当時の境内に移転したもので、地蔵盆には 大変にぎわう。なお、当寺には、重要文化財の十一面観音の立像がある。」とある。 観音堂にまつられる十一面観音像については、羽曳野市のWeb サイトに、「観音像は、桧 材の一木彫で、顔や体格は豊満に造られている。右手は垂れ下げて、『与願印』を示し、左 手には水瓶をもっています。頭上にある十一面の小像は本像の頭髪と美しい輪郭で区切ら れています。」と記す。また、『羽曳野市史』(第7 巻、29 頁)に「本像は他所より移された像 と見られる。当地には飛鳥時代以来の法燈を継ぐ古代寺院の西琳寺があり、明治初年の廃 仏で大打撃を受け、現在は小堂を残すのみとなったが、旧本尊の釈迦如来像が延命寺(河内 長野市)に伝わるなど多くの寺宝が流出しており、長円寺像も西琳寺より伝わったと推定す る見方がある。」と推定している。 本像は平安時代の作として昭和13 年に国の重要文化財に指定された。寺は明和 6 年(1769 年)に一度焼失し、寛政時代に再建されたが、享和元年(1801 年)には無住の状態であった らしい。現在の本堂は寛政再建時の本堂を天保3 年(1832 年)に改築したものである。今も 無住寺で非公開のため、拝観は藤井寺市の宗善寺に申し込む必要がある。西琳寺
Sairin-ji Temple
羽曳野市古市 2 丁目にある。飛鳥時代に創建された古代寺院である。寺伝では応神天皇 の時代に百済から渡来した王仁(わに)の子孫である西文氏(かわちのふみうじ)が建てた寺 であるとする。平安時代に編まれた『新撰姓氏録』によれば、西文氏は文筆や記録を職務 竹内街道に面した長円寺の山門3 とし、外交にも携わった氏族であり、古市一帯を本拠地としていた。西琳寺が彼らの氏寺 であるという寺伝はそれなりに信憑性がある。現在は高野山真言宗の寺となり、向原山の 山号をもつ。 四脚門である山門の前に立つ説明板には「これまでの発掘調査によれば、東に塔、西に 金堂を置いた法起寺式伽藍配置が推定され、境内には舎利孔と添柱穴をもつ巨大な塔心礎 が残っている。金堂の棟を飾っていたと考えられる鴟尾は高さが 1.3mあり、腹部に宝珠、 火焔宝珠、蓮華紋などを浮き彫りにした、類例のない優品である。鎌倉時代には奈良西大 寺の僧叡尊が中興し、広い寺領を所有して隆盛をきわめた。」とあり、元来は大規模の伽藍 を誇っていたようである。境内に据えられた巨大な塔心礎は推定で重さ 27tばかりの巨石 を使い、半円形の添柱孔を四方にもつ柱穴が上面に彫り込まれている。明日香村の橘寺、 法隆寺の若草伽藍、香芝市の尼寺廃寺、そして羽曳野市の野中寺のように、半円形の添柱 孔を3 方もしくは 4 方向に彫り込んだ例が飛鳥時代の寺院に見られる。柱穴の底面には心 柱の意味をもつ「刹」の字が刻まれる。礎石の側面に彫られた円孔は運搬用のものだろう。 かつては竹内街道や東高野街道に面した広大な敷地をも っていた伽藍の規模が巨大な心礎を見るだけでわかる。 心礎の東側に立つ石造五輪塔 5 基は羽曳野市の Web サ イトによれば、「昭和32 年(1957)、工事中に高屋城跡の土 塁の下からばらばらに埋められた状態で出土した。文安 3 年(1446)の「西琳寺流記」に見える「高屋宝生院」の叡 尊、総持、道明寺開山の超運尼、浄意、空忍ら西琳寺に関 係した高僧の供養塔とされる。いずれも花崗岩製で最も大 きな叡尊塔とされるものは高さ3.1m あり、鎌倉時代の特 色を備えた重厚なつくりである。」とあって、高屋城の築 造時に転用されていたものを西琳寺へ移したものである。 昭和45 年(1970)に跌石1 個・石造蔵骨容器 1 口とともに 大阪府の有形文化財に指定された。 西琳寺の巨大な塔心礎 西琳寺塔心礎実測図 『羽曳野市史』より
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西念寺
Sainen-ji Temple
羽曳野市古市4 丁目にある。浄土真宗本願寺派の寺院で、山号は高屋山。説明板によれば、 鎌倉時代の宝治年間(1247-49)に真言僧である俊海(子は歌人の寂蓮法師)によって創建され たが、南北朝の争乱で焼失した。その後、室町時代中期の宝徳2 年(1450)に河内の守護大 名で高屋城主の畠山持国(1398-1455)が城詰の家老格であった老臣の斎藤忠国に命じて再建 させた寺院である。忠国は自ら出家して住職となり、その後は忠国の子孫が代々住職をつ とめ今日に至るという。現在の本堂は宝暦8 年(1758)に再建されたもので、いかにも浄土 真宗の寺院らしく、八間四面の大堂である。境内には本堂の他に、庫裡・寺門・鐘桜・座 敷がある。 本堂の西にある庭園は昭和 54 年(1979)に改修されたもので、その時に出土した風変わ りな石が苑池の中に据えられている。この石についてはひとつの伝説がある。奈良時代の 聖武天皇の神亀6 年(729)に古市郡の下級役人である賀茂子虫が甲羅に「天王貴平知百年」 という文字の見える珍しい亀を発見して、朝廷に献上した。天皇の政治は貴く、平和で、 百年も続くであろうという瑞祥である。この功績によって子虫は無位から従六位まで一気 に昇進し、亀の字をとって年号は「天平」と改められた。一年間の租税を免除された古市 郡の人々は子虫の功績をたたえるために亀石を彫り、地中に埋めたという。それが庭の改 修時に出土したという経緯である。 亀石を見るために庫裏でことわり、墓地から庭園に回ったが、フェンスの扉がしまって いたために遠目に観察しただけである。人工的な彫刻がなされているのかどうかを確かめ ることができなかったが、風化した自然石のようである。見ようによっては亀に見えない こともない。庭園は一般公開されていないため、見学は事前に申し込む必要がある。真蓮寺
Shinren-ji Temple
羽曳野市古市 3 丁目にある。浄土真宗西本願寺派の寺院で、山号は光明山、院号は宝池 院と号し、築地塀には寺の格式を示す 3 条の白線が入っている。地元では「東の寺」と呼 ばれている。平安時代末期ごろには真言宗の寺で、「蓮華台寺」と称していたようだが、鎌 倉初期の暦仁元年(1238)に親鸞が訪れ、その教化によって浄土真宗に改宗されたらしい。 西念寺庭園と亀形石(画面中央)5 その後、浄土真宗の実質的な開祖である覚如(1270-1351)の時に「真蓮寺」と改称され、室 町時代から江戸時代にかけては、河内における門徒宗根拠地のひとつになった。石山合戦 (1570-80)の際には、その当時の住職で9 世目の善超は子である善正とともに本願寺教団の 部将として参戦し、天正8 年(1580)に父子とも討死してしまった。本願寺が東西に分離さ れた際には、准如について西本願寺派の寺に属した。明治 13 年(1880)に古市郡の郡役所 が設けられた際、境内の一角が利用され、行政府が各地に誕生する明治22 年までの 9 年間、 古市郡役所が置かれていた。この旨は山門の前に立てられた説明板に記されている。山門 は閉ざされ、参拝客以外の立ち入りはできないようである。西念寺と同じく本堂は大きい。
石不動と姥不動明王
Ishi-fudo and Uba-fudo
いずれも羽曳野市古市5 丁目にある。古市の町から東高野街道を南下し、大乗川に架か る高屋橋を渡ると、近鉄南大阪線の踏切から南へは上り坂となる。この坂は不動坂と呼ば れ、高屋城の搦手であった。踏切を渡ると、不動坂の自動車道とは別に、西側高台の住宅 地に登る細い歩道があり、それをのぼり切ったところに近代的な祠が建てられている。 中には「弘法大師 不動明王」と刻まれた石碑と弘法大師像が祀られ、横手にある小さな 木造の祠には線刻の不動明王像が祀られている。『羽曳野市史』(第 7 巻、171 頁)には、「不動 坂西側の小高いところに、通称『石不動』を祭った小堂がある。石不動とは、現高1.35m の安山岩の自然石に浅く線彫りした不動明王立像で、体部の輪郭はやや幅広く彫りくぼめ る。像高約0.8m。体部の周囲には火炎が渦巻き、両眼見開いた忿怒相で、頭部は巻髪で頂 蓮を載せる。右手に剣を持ち、左手には羂索を下げる。像の左右に梵字を二字ずつ添え、 向って左側に『□□二二年正月十一日』と刻む。室町末期ごろの製作と考えられるが、風 化が甚だしいのが惜しまれる。」とあるが、祠の格子戸から覗き込むと、はっきりと不動明 王の姿を確認することができる。 『羽曳野市史』には記載が見えないが、安閑天皇陵の南、東高野街道に面して通称「姥 不動明王」が祀られ、その顕彰碑に、「移築の現姥不動明王は嘗ての居城唯一の守護神で歴 真蓮寺の本堂
6 代城主の慰霊の祖神として奉祀せる本街道の道祖神として今尚香煙絶ゆる事なき歴然たる を縁起とす。依つて爰に既述著名の城跡と関連併記せしものにして往来頻繁の本街道を去 来する老若男女の来拝萬徳の道祖神たらしめんとするにあり。因に本碑文は地元旧家森田 家秘蔵の文献より抜粋せるものなり。」と刻まれる。祠は大小2 棟が並び、小さな祠に「姥 不動明王」と刻まれた石碑が収められている。大きな祠には頭のやや尖った自然石が祀ら れているが不動明王の像が刻まれているのかどうかは、肉眼では確認できなかった。