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しかし魂のうちには,それ自体としては理性をもたたい部分がある

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上越教育大学研究紀要 第6巻 第2分冊 昭和62年3月 Bu11.Joetsu Univ.Educ.,Vol.6,Sect.2,March!987

事実から根拠へ

アリストテレスにおける倫理徳の位相

藤  澤  郁  夫

妻    旨

 アリストテレスによれば,人間が人間であることの証は理性をもつことにある。理性の座は魂 である。しかし魂のうちには,それ自体としては理性をもたたい部分がある。とは言え,理性を もたたい部分には,ある意味で理性にあずかり,理性の言葉を聞き分け,それに聴従する部分が ある。魂のこの部分に成立する人間としての卓越性は,アリストテレスによって倫理徳と呼ばれ る。これに対して,本来の意味で理性をもつ部分に成立する卓越性は知性徳と呼ばれる。徳の何 であるかは,類と種差による定義によって示される。徳の類は性向であり,徳の種は中間である。

しかし徳の何であるかは,これらの類と種の規定に加えて,選択や賢慮のようだ知性の働きを理 解しない限り,十分に把握されることはたい。従って,知性徳が教育と学習によって成立するま では,魂の理性をもたたい部分は,理性の言葉に聴従するよう訓練・陶冶されねばたらぬ。しか し反面,そもそも知性徳が芽生えるためには,その本性を理性に抗することとする欲求的部分の 陶冶が先行している必要がある。行為主体は,懲戒,叱責,勧奨等によって事実を知り,やがて 自らの知性によって,そう行為する根拠を自弁しつつ,自らの為すことを知り,選択し,確固と した動揺しない態度で事に臨みうるようにたる。たぜならアリストテレスにあっては,人間は自 然本性的に徳を受容するよう生まれているのであり,この天与の素質を完成させるようた存在で ある,と理解されたからである。

KEY WORDS

血ρε吻

δ αリOητ^κカ血ρετカ 童ξκ

that it is

知性徳 性向 事実

勿θ κ矛 血ρετ勿

童θOg μεσoτηぐ why it is

倫理徳 習慣 中間 根拠

1 人間性の基本構造

 人間としての善さが生まれながらの素質によって全面的に決定されるものでもなく,さりと てその獲得過程が計算機の演算過程のような明快さをもって語りえないとすれば,われわれは

「人間としての善さ」(幼ε功)を「学び」(座θησ g)という事態のうちに探求したげればなら たい。人間としての善さを人間としての徳とおさえておけば,rそもそも徳は教えられうるか」

はソクラテス・プラトンの問題であった。『メノン』の冒頭におけるメノンそのひとの間は,人 間としての善さを巡る問題状況に直接にかかわるであろう。「ソクラテス,あなたは次のような

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152 藤 澤 郁 夫

問題に答えられますか。すなわち[入間の]徳は教えることのできるもの(δエδmτδ〃)である か。それとも,それは教えられるものではたくて,訓練によって身につけられるもの(血σκητδリ)

であるか。それともまた,訓練しても学んでも得られるものではなくて,人間に徳がそたわる

(παρα枇γリε伽)のは,生まれつきの素質(φ伽g),ないしはほかの何らかの仕方によるもの

なのか(1〕。」

 このようた間が首尾よく答えられるものか百カ㍉そのことは今間わだい。しかしこのような 間は,結局人問としての善さが何一らかの仕方で人間にそたわってくる,そうした道徳的発達の 過程の記述が,十分にわれわれの批判に耐えうるものか否かは,そのひとがそもそも徳をいか に把握しているかにかかっている,という意味で十分に間われる価値をもっているであろう。

とすればr徳とは何であるか」を巡る問題状況と,r徳をひとはいかにして身につけるカ㍉学習 するか」を巡る問題状況とは相互に緊密に関係しているのであり,相互に依存し合っているの

である。

 ともあれ,何らかの仕方で徳がわれわれにそなわってくるものとして,その徳の生じる場と しての人間が,如上の問題を探求するに相応しい視角から先ず問題にされたければたらない。

すたわち,.倫理的な事柄(肋枇〃)を巡る領域において,人間性(人間であること)はどの ような基本的構造をもつのであろうか。換言すれば,アリストテレスがr考察すべきものはも ちろんのこと人間の徳についてである(2〕」と言うとき,このr人間の」(加物ω売リη)という形 容詞の走る領域を画定しておく必要がある。

 rだが,われわれは先に述べたことをも心に留め,すべての場合において精確さを同じよう に求めるべきではたく,それぞれの場合に,当面する素材に応じて,当の論究に相応しい程度 において求めなければならたいω。」このことは例えば,大工と幾何学者とでは直角の求め方が 違うのであり,倫理的た事柄を巡っての論究と自然的た事象を巡ってのそれとでは,当面する 素材(加。㈹με〃η猟η)が相違する以上,そこで要求される精確さ(加紐βε〃)も異なるとい

うことである。当面する素材に応じて減じられた精確さは,・当該の論究(μεθoδoζ)をそれだけ 不精確にしてしまう訳ではたい。ただわれわれは「添えもの(π∂ρεργα)が本来の仕事を上ま わらたいようω」注意する必要があるのである。r人間の徳とわれわれが呼ぶのは肉体の徳では なく,魂(伽肋)の徳のことである㈲」とアリストテレスは言う。ここには一つの人間理解が ある。人間は畢意するに精神であるとする理解である。すたわちr思考する部分(τδ

δ〃〃。ητ κ6リ)こそ,それぞれのひと自身(勤αστoぐ)であると考えられる(6〕」という言明や,

r理性活動をする部分(τδリ。o∂リ)がそれぞれのひと自身であるカ㍉あるいは,他の部分にま さってそれぞれのひと自身であると考えられるであろう{7〕」という言明,さらにはrところで,

ポリスについてもそのもっとも支配的た部分が他の何にもまさってポリスであると考えられ,

他のすべての組織体についてもそうであるように,人間についても同じように考えられる㈹」と いう言明,なお加えて「そして,これ[理性]がわれわれ自身のうちにあってわれわれを主宰 する優れた部分であるとすれば,これこそまさに各人そのものであると考えられよう(藺〕」という 言明,そしてそれゆえにこそ「この部分[理性コが他の何ものにもまさって人間(を吻ωπoぐ)

であるといわれるのに相応しいω」という言明のうちでアリストテレスが語っていることは,

人間であることの証を魂の活動のうちに,とりわけその理性的部分の活動のうちに見ている,

というそのことである{11〕。

 さて,人間を精神として把握するということは,人間としての善さを魂の善さとして考えて

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事実から根拠へ 153

ゆくということを意味する。従って人間性の基本構造を見ようとすれば,われわれは魂(ψ吻矛)

の基本構造に探求の目を向けなければならない。問題は倫理的な事柄という当面する素材(わ一 πoκεψるリη跳η)に相応しい霊魂論は何か,であろう。「魂に関するいくつかの点は一般向きの 論述においても(κα〜圭〃τo?g一萄ωτεμκoなλ6γωζ)満足に述べられている。われわれはこれ を用いるべきである(工2〕」とアリスト・テレスは言う。いずれにせよ倫理的た事柄を巡って選ばれ た霊魂論が「一般向きの論述」であり,しかもそれで十分であるとされたことは記憶に留めて おくべきであろう。ともあれこの論述に従えば,「魂の或る部分は理性をもたたい(τδ雄リ……

飢。γoリ)部分であり,他の部分は理性をもつ(τδδきλ6γo〃勃。〃)部分{I3〕」である。ここに 魂は理性(λ6γoζ)をもつかもたないかに従って両断されたかに見える。すなわち「一般向きの 論述」は霊魂論に関して二分説を採っているかに見える。しかしアリストテレスの論述を具に 見てゆくと,事態はそう単純ではたい。たぜなら魂の理性をもたない部分をアリストテレスは さらに二分するが,そのうちの一方を定義し,その働きを語るとき使用する言葉が種々の解釈 を容れる余地を残すからである。

 魂の理性をもたない部分のうちの一方は,「魂をもつものすべてに共通た部分であり,それは 魂の植物的な部分(φmκ6リ)である㈹」と言われる。この部分は栄養摂取(即帥εσθ〃)と生 長(α跨εσθ〃)の原因(τδα肋。び)である。栄養摂取も生長もそれぞれ一つの能力(舳〃μg)

であるが,これらの能力に加えられる卓越性(伽ετ勿)は,魂をもつものに共通している(κo〃勿)

のであってみれば,「人間の卓越性でないのは明白である㈹」とされる。r魂にはも5一っ何か 理性をもたたい本性(自然)(狐λη卿抑σ g……狐。γoζ)があるようであるが,ただしこの 本性はある意味では(πη)理性に奪ずかる(μετ軟。〃σα……λ6γo〃){16〕。」このアリストテレ スの言明のうちに事態のある意味では難しさ,ある意味ではまた微妙た性格が涼み出ていると 思われる。理性をもたない(狐。γo⊆)本性に強調点をおけば,理性をもたたい部分(τδ肌。γoリ)

に数えられるだろうが,理性にあずかる本性でもある点を強調すれば理性をもつ部分(τδ λ6γo〃勃。リ)に数えられるような性格をもつものが,われわれの魂のうちにあるのである。従っ て,この文字通り両義牲を負わされた部分,ないしある本性(τκφ伽^ζ)の解釈によって「一 般向きの論述」における霊魂論の性格もまた様々に解釈される余地がある1・・〕。

 しかし先ずもって理性をもたないある本性がある仕方(意味)(πn)で理性にあずかると言わ れた,その仕方(意味)が間われるべきであろう。このことを述べた後,アリストテレスは事 の説明理由(仰ρに注目)とも見られる一文において,抑制ある者(紡仰ατ桁)と無抑制者(丘一 仰〃牝)の例を引き合いに出す点が注目される。周知の塀りアリストテレスの入間性理解に従 えば,徳を実現しているひとと悪徳を実現しているひととの両極を埋めるのが抑制ある者と無 抑制者である。この両者の相違を徹底的に単純化して言えば,抑制ある者はその場の善を知っ ていて,かつそれに対抗する悪しき欲求に見舞われつつもそれを押さえ込むことのできるひと であるのに対し,無抑制者はその悪しき欲求に従ってしまうひとなのである㈹。両者ともども その場の善を知っていて,かつそれに対抗する悪しぎ欲求をもっている点では同じであるのに,

押さえ込むか引きずられるかで行為は反転する。結果において勝者と敗者との差異は明白であ るとしても「かれらの持ちあわせている理性をわれわれは賞讃するし,この理性を持ちあわせ ている部分を賞讃する一㈹」のである。しかし,結果的にかれらを差異に描くものは「本性上(自 然本性的に)理性に反する何ものか(肌λo mπα庫τb〃λ6γoリπεφ眺6ζ)㈹」であろう。

「この部分は理性と争い,理性に抵抗する{別)。」理性に反する何ものかは,理性と争い

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154 藤 澤 郁 夫

(μ初εσθm婦λ6仰)理性に抵抗する(加mε乏リε〃碕λ6岬)ということ,この事実は決 定的に重大た意味をもつ。なぜたら,理性に対して理性の力(言葉)で応ずるのではないけれ

ども,理性との共同の交渉の文脈に入るという一事は,そのもの自体としては理性をもたない と言われた魂の植物的た部分(φmκ6リ)との決定的な差異であろうからである。栄養摂取と生 長の原因となるもの(τδ泌τω〃)が,直接的に理性との交渉の文脈に入って来ることはない。

すなわち死の似像としての睡眠においてそのもっとも固有の働きを発揮する植物的た部分は,

rいかなる意味においても理性にあずかることがない㈱」からである。しかるに魂のもう一方 の理性をもたたい部分は,その本性を理性に反する(πα妙τδレλ6γoリ)という仕方で理性と 争い,理性に抵抗することをもって理性との共同の交渉(κo〃ω〃)の文脈に入って来る。

 とすればr本来の意味で,すなわちそのもの自体のうちに理性をもつ部分㈱」は,その本性 を理性に反する争いと抵抗をこととする部分と共通の土俵に立たされることにたる。本来の意 味で理性をもつ部分(κ%ωζλ6γoリ動。カが反逆者を押さえ込めば,そのひとは抑制ある者

(圭γψατ桁)と呼ばれ,反逆老に敗退してしまえば無抑制者(ムψα勿g)と呼ばれる。押さえ 込む側は,そうする理由を正に理性め説明する言葉として用意しているのに対して,押さえ込

まれる側は如上の理性根拠としての言葉を理解する訳では決してたい一なぜなら,それはそ のもの自体としては理性をもたない(鍬。γoリ)からである一が,押さえ込まれたという状態 は,あたかも「父親や友人の言葉を聞き分けた㈱」ように現象するのである。理性によって反 理性が押さえ込まれるという事態が「聞き分ける(λ6γoリ勃ε〃)」というある種の理性の側に 依拠した比喩として語られる,ないしr理性(言葉)にあずかる(μετ軌。〃λ6γoリ。rκo〃ωετリ λ6γo〃)」という比倫で語られたことは,r欲望的た部分(鋤θψηmκ6リ),一般的にいえば,欲 求的な部分(伽εmκ6リ)㈱」と言われたものが,本性的に理性に反する(m炊τδひλ6γoリ πεφ眺6g)という仕方で理性との共同の文脈に入って来ることを意味している㈹。そして抑制 ある者,ないし魂のすべての部分が理性と協和している書きひとにあっては,欲求的部分は

rちょうど父親の言葉に聴従するかのように㈹」理性の言葉を聞き分ける(λ6γoリ動ε〃)か のように現象する。従ってこの意味での聞き分けは,数学的なこと(μθηματ〃6リ)を理解す る(λ6γoリ動ε〃)のとはその分かり方が相違しているのである。

 以上を要約すれば,魂は一見すると理性をもつ部分ともたたい部分に一刀両断されたかの様 相を呈すが,その実理性をもっとも,また或る意味ではもたたいとも言いうる部分を内包して いる。いかなる意味でも理性にあずからたいと言われる植物的た部分(φmκ6リ)が,殊更に人 間的た部分でたいとすれば,人間としての卓越性,すなわち徳(幼ε功)は,本来の意味で理性 をもつ部分において」か,もしくは,たとえその本性が理性に反する(mρ泣τδリλ6γoリπεφW6ζ)

ものであろうと,事実の重みのうちで抑制ある者(卸κρα吻ぐ)と徳あるひとが立証しているよ うに,或る意味で理性にあずかり,聴従し,聞き分けるという仕方で理性との共同の文脈に入っ て来る部分においてこそ成立するであろう。後者に成立する人間としての卓越性を,アリスト テレスはr倫理徳(枇吻伽ε功)」と呼び,前者に成立するそれを「知性徳(δ 〃。m吻幼ε吻)」

と呼んでいる㈹。倫理徳として枚挙すべきものがどれだけあり,そして枚挙の原則が何である かについては議論のあるところである㈹。ともあれ,ここでは倫理徳として「もの惜しみしな い心の安さ」(凱ε〃θεμ6τηζ)とr節制」(σωφρoめ〃η)を,知性徳としてr知恵」(σOφ互α),

r弁え」(めリεαぐ)そしてr賢慮」(φρωη仇g)を挙げておこう㈹。そして,上に示されたア

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事実から根拠へ !55

リストテレスの人間性理解に照応して,倫理徳の成立する固有の場が魂の欲求的な部分(あ一 ρεmκ6リ)であり,その本性は理性に反するものであるとしても或る意味では理性にあずかる

(με売κo〃σαλ6γω)もの一であることを見た。

2 倫理徳(枇功伽吻)の類

 さて,われわれは人間としての徳に二種あり,一つは知性徳,一つは倫理徳であることを確 認した今,次に倫理徳とは何かを巡る探求を始める。アリストテレスはr倫理徳とは何か」の 問に,類と種差による定義という極めて常識的な方法によって答えている。そこで先ず倫理徳 の属すべき類(γるリ。ζ)が問われる。

 r知性徳が生まれ(γ釦εαg)育つ(雌ηαg)には,教育(δ δασκα〃α)に負うところがき わめて大きい。この種の徳を得るために経験(幼π刮ρtα)と時間(κρ6リ。ぐ)を要するのはこの ゆえである。これに対して倫理徳は習慣(きθoζ)から生まれてくる㈱。」ここで言われた教育と 習贋の差は,一方が理性を本来の意味でもつ部分に生れる徳の出自を語るのに対して,他方が そのもの自体としては理性をもたたい部分に生まれる徳の出自を語る差異と理解される。しか し教育と習慣がとれ程相違するにせよ,両者は一つの共通の特性にかかわる。すなわち,知性 徳も倫理徳も自然本性的に(φむ伽)生まれるのではないという特性である(鯛〕。すでに述べたよ

うに,魂の欲求的な部分(τδ 伽εmκ6リ)は本性的には理性に反する(παρδ τδリ λ6γoリ πεφm6g)ものであるとしても,或る意味で理性にあずかり,理性の言葉に聴従する(血一 κOVσm6リ)ことによって理性の言葉を聞き分ける(λ6γoリ動ε〃)のであった。従って欲求的 な部分に見出される本性(φ桁 ζ)は,「たとえ誰かが,石(λ乏θoぐ)を一万回上方に放りなげで 習慣づけようとしたとしても,上方に運動するように習慣づけることはできたい㈹」ようだ自 然本性においてあるもの(カφむσε 6πα)とは異なる存在様相を持っている。r石は自然本性 的に下方に運動する」のであって,この石の性質は正に自然本性的に生まれたのである。人間

としての徳が,この石の自然的性質と同断にその出自を問えたいことは当無であろう。

 rそれゆえ,さまざまな徳がひとのうちに生まれそなわってくるのは自然の本性による

(φ伽ε )のでも,自然の本性に反する(παρ立φむ伽)のでもなく,自然本性的に(πεφ眺6α)

さまざまな徳を受容する(脆ξασθm)よう生まれついているわれわれが,.習慣によって(δ就 τo眺θoκ),この天与の素質を完成させる(τελεωψε〃。κ)ことによるのである㈱。」言って みれば,このアリストテレスの言葉のうちには目的論的な思想が読みとれるであろう。すたわ ち,われわれは習慣によって徳を受容するような自然本性をもっているのであり,その終極

(売λoξ)への歩みにある,換言すれば自己の本性を完成させるような本性を生れながらもって いる,とするのである。とすれば,ここには完成に向う自然という思想がある。しばしばこの 思想は自然主義の倫理学と呼ばれる㈹。すなわち,倫理的な事柄を巡る人間の習慣にアリスト

テレスは少なくとも反自然(πα紬抑σ〃)を見ていたいであろう。

 ともあれ,倫理徳が習慣から生まれるとすることは,倫理徳が類として何であると規定する

.ようわれわれを方向づけるか。先ず習慣は類似の行為ないし教導の反復を必然含意するから,

すでに存在したものの自己展開として倫理徳を把握することはできたい。例えば,栄養摂取と か生長の原因とたるものは,自然の本性によってあらかじめわれわれにそなわっていたのであ

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156 藤 澤郁 去

り,rわれわれはこれをあらかじめ自然の能力(素質)(栃リαμεエ⊆)として受け容れて置いて,

後で,実際に働かせる㈹」のである。徳はこのようなものでない。むしろ方向は逆である。rわ れわれは,先ず働かせたうえで(きリεργ紬αリτεぐm6τερoリ)徳を獲得する(38〕」のである。恐ら

くこの言明はアリストテレス倫理学の核心に触れているであろう。先ずわれわれは,徳はあら かじめそなわったものとしての能力(素質)(栃〃με4ζ)でないことを確認しよう。そうではた く先ず働かせたうえで獲得されたものである。しかし何を働かせるのであろうか。習慣が類似 の行為(活動)(跳ργε〃)の反復であるとすればrわれわれは正しいことをすることによって,

正しいひとにたり,節制あることをすることによって,節制あるひとにたり,勇気あることを することによって勇気あるひとになる(鋤」のであろう。しかし,いまだ正しいひとではたい者 が,正しいことをすろことによって,正しいひとにたると言うのには,論理的な難点があるの ではないか。この難点は「習慣のパラドクス」(paradox ofhabituation)と呼ばれるが(40〕,ア

リストテレスの解決法は次のようたものである。

 正しいことや節制あることをしているならば,彼はすでに正しいひとであり,節制あるひと なのであろうか㈹。もし彼が,正しいひとが正しいことをするように正しいことをしているた

ら,すでに彼は正しいひとである。今話題は倫理徳に限定されている以上,倫理徳が成立する 固有の座としての魂の欲求的な部分に「今ここで何が正しいか」,「今ここでどう行為すること が正しいことか」という認識を自弁させることはセきない。たぜならこの部分は,本性的に理 性に反する(mρカτδリλ6γoリπεφ似κ6ζ)のであり・十分に見積・っても父親の言葉に聴従する ことにより父親の言葉を聞き分けて,もって理性にあずかるのがせいぜいのところなのである。

とすれば,いずれにせよr今ここで何が正しいか」,r何故むしろどうしてこのことが正しいの か」を巡るもろもろの根拠(理由づけ)は,差し当たり知性徳としての賢慮(φρ6リη吹)が自 弁したければならない。しかるにこのことは,子供には不可能である。それにもかかわらず,

自らはこの根拠を自弁できないながら,出自はどうであれ現在する言葉に欲求的な部分が従う ということがありうる。歪むしろ子供は根拠を決して自弁できたいとすれば,ひたすら聴従す ることによってしか「正しいこと」をする可能性はないと言うべきであろう。知性を欠く子供 一たぜなら知性徳は教育(ωα倣αλtα)に負うものであり,経験と時間を必要とするので あった一にとっては,先ず最初の,しかも当分の間それのみが彼の行為の動機である,快こ そが,最も枢要た習練の対象となろう。彼のなかの快への欲求は,押さえ込まれるにしろ,よ り大きな,しかもより美しい快に媒介されるにせよ,人問としての徳への牽びの文脈において 陶冶されなければならたい。そして,子供に限らず,根拠を自弁できたい者であって,「正しい

こと」をする可能性に開かれているという事は,決して小さたことではないであろう。とすれ ば,われわれは「正しいこと」をしているからと言って,「正しいひと」であるとは必ずしも言 えたい訳である。従って,いまだ正しいひとでない者が,自らそう行為する根拠(理由,説明)

を自弁していたいながら一(μεカλ6γo〃)でたいたがら一他者によって示された根拠に従 うことによって(κατaτδリλ6γo〃)正しいことをする(税κα〃m∂ττε〃)ことがありうる。

 以上のことから,徳の学びにおける始原の形態は,懲戒(リ。〃脆τηαぐ),叱責(虹〃μησエζ),

勧奨(παρ伽λησ ぐ)等によって(側,差し当たって訳も分からずたがらも,或るひとつの仕方で 身を持し,類似した活動(6μo〃 跳ργε舳)を反復しながらの(43〕,そう行為することの理由

(根拠)への歩みである。しかしそれらの活動が類似している限り,われわれはそれらを「或 る性質のものと言い表わさなければたらない㈹」であろう。すたわち,習慣(ξθog)は類似の

(7)

事実から榎拠へ 157

活動を含意するが,似ているというそのことは,性質(πo^6τηg)を含意する。従って徳が習慣 から生まれるものたらば,徳はある種の性質(πo 6τηζ)の範晴に入るであろう。倫理徳は魂の

うちに生じる。その意味でそれは,最広義には生成するもの(γ〃6με〃)である㈹。しかしこ の生成は一定の制約のうちにある。どのようた性質の活動(πo止牝圭脆ργε乏αζ)から生成したか が考慮される。従って,徳は魂に生成する何らかの性質であろう。

 しかるに性質とはなにか。『カテゴリー論』での規定を援用すれば,「性質(πo止6τηζ)とは,

それによって何かがrこのような」(π6τo^)と言われるもρ㈹」である。性質の一つの種(ε?一 δog)は,性向(卸S)と状態(δ θεαζ)である㈹。性向は永続的にして安定的であるのに対

して,状態は容易に運動し(幽〃ηm)速やかに転化する(m加μεταβをλλoπα)㈱〕。従っ て状態(δ必θεσ g)は徳の類としては相応しくないであろう。性質の第二の種類(γ帥。g)は「自 然的た能力(栃〃αμζφ伽吻)もしくは無能力(必〃ψ乏α)にしたがって語られる限りのも の(49〕」である。徳をこのようた自然的能力と考えるべきでないという点は,すでに述べられた。

性質の第三の種類(γるリ。g)は,受動的性質(παθητ〃α〜πα6τητεg)と受動(πをθη)である㈹。

受動は倫理徳との関係で言えば,むしろ情と言ったカがよいであろう。アリーストテレスは,徳 が情てたい理由を次のように述べる。rただ怒りを感寺るだけで,ひとが責められることはない。

責められるのは或る一定の仕方で怒りを感ずるひと(δπaζ[SC.伽γ^ζ6μ帥。ぐコ)である㈹。」

プラトンによれば,「嫉妬するひと(δφθo沁リ)とは,隣人の不幸に快の情をもつひと(勿一 δφμ帥。⊆)㈱」に他たらない。快はそれ自体としてはむしろ書いものである。しかしながら,r隣 人が不幸のうちにある」という認識に対しで庚を受動すること,これはすでに「そのひとがど のような性格であるか」の問題に踏み込んでいる。そもそもわれわれ人間が情をもつ存在であ ること,そのこと自体が徳の何であるかを決めるのではたい。さらにrわれわれが怒りを感じ たり,恐れを感じたりする時,そのことをみずから選択することはたいが,徳は一種の選択の 働き(momρるσεκ伽εg)であるか,あるいは少なくとも,選択の働きを欠きえたい㈹」とア リストテレスは言う。選択を欠く(細。α^ρετωg)という徴標は,徳でない指標なのである。

さて,性質の第四の種類は,「図形(σκ初α)と個物の周辺にある形態(μoρφ矛)」である㈹。

       ひとかどひとは円満にたったり,一角にたったりしても,そうであることが図形(σκ初α)であったり 形態(μoρφ矛)であるのではない。以上の手続きを経て,われわれは「徳は性質のうちの一つ の種としての性向(醇 ζ)である」と結論しよう。ξ同時に,徳の属すべき類は性向(靭ζ)で あるとしよう㈱。

3 倫理徳(枇吻伽勿)の種

 倫理徳が属すべき類は性向(籔ζ)である。性向が徳であるとは,徳ある者の行為がr確固と した動揺しない態度で㈹」(βεβα壬ωg〃≧幼ετακ〃和町勃帥)遂行されるとを意味する。し かし倫理徳の類としての性向が確固とした不動の行為能力であるとしても,これだけでは徳以 外の性向と区別できないであろう。それゆえ,一倫理徳が種(幽Og)として,どのようた種類の 性向であるかが次だる課題となる㈹。それはまた,性向という類の一つとしての種であるとす れば,その種差の画定作業でもある。

 先ず確認されるべきは,「すべての徳は,その徳を持つものをそのもの自体良い状態にある

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158 藤 澤郁 夫

(£.勃。リ)ものとして作り上げ,また,そのものの働き(τδ卸γoリ伽。∂)を善く(晶)発 揮させる(58〕」(傍点筆者)という論点である。この論点には二つの主張がある。徳は,それを持 つひとを完成させる(虹。τελετリ)という主張であり,人間には人問の仕事(τδ釦γoリ)一ネい

し働きがあるという主張である。従って,徳はそれが人間の持つものである限り,人間に固有 の働きを善く発揮させ,その入間を完成させるものたのである。そして,この論点を説明する のが「倫理徳の種差が何であるか」なのである。

 アリストテレス自身の言葉による限り,「徳(倫理徳)は一つの中間(中庸)である」との種 差を導くための最も適切な指標は,「倫理徳は情と行為をめぐるものであるが,清と行為のうち には過剰(加ερβo切)と不足(凱λε4伽g)と中間のもの(τδμるσoμ)が含まれている㈱」と の言明であると思われる。そして,この言明を支えているさらに抽象度の高い一般原則が,「す べて連続的た(σmεκ耐),したがって,分割されうるもの(δmρε栃リ)については,より大き い部分(τδπλετoひ)とより小さい部分(τδ凱αττoリ)と等しい部分(τδ桁。〃)を得ること が可能である(6冊)」との言明である。従って如上の文脈を救うためには,情(πをθoζ)と行為

(πρ∂ξ4ζ)とが,共にそれぞれ「連続的にして分割されうるもの」でなければならたい。少な くとも行為に関しては,「なぜたら運動(庇〃η卿)は連続的であり,行為(那aξ ぐ)は運動で あるからである(61)」との如上の文脈を支持するかの言明が確かに見出される。しかし亙Wの内 部に限って言えば,情についても行為についても,数学的(たいし自然学的)な意味での連続 量としてそれらを扱っている箇所は見出されたい。従って上の原則は別様の解釈を必要とす

る㈹。

 先ず「より大」,「より小」,「中間」(あるいは「等しい部分」)の成立場面が「事物そのもの における」(〃τ α加δτδmamα)それと,「われわれとの関係における」(mδζ加な)そ れとに分けられたことが注目される(64)。前者は「すべてのひとにとって一にして同じである(勘 κα〜τδα加δ)㈹」ような場面として成立するのに対して,後者における中間はr大きすぎ ることもなく,小さすぎることもなく,かつ一つでもたいし,すべてのひとにとって同じでも たい㈹」ようなものたのである。言ってしまえばr事物そのものにおける」中間は,客観とし てのものの側における定量的性格に対応する限りの事象における中間であって,典型的には算 術中項であるとカ㍉計測可能な物理量における平均だとが挙げられよう㈹。しかし,このよう な意味での正確さ(eXaCtneSS)ないし精密さを千変万化する人間の行為や情にもとめることは できないであろう。従って当面する素材に応じた精確さを求めるべきである(6宮〕。そして結局ア

リストテレスが言い切ったことは,倫理的な事柄という素材を巡ってはr自然がそうであるよ うに,徳はすべての術にまさる精確たもの(虹ρ βεσ売ρα)をもち,術よりも優れたもの(か μεzリωリ)であるとするならば,徳は[過剰と不足を排してコ中問のものを目標として狙い当て

る(στoκασm吻)㈹」のだし,「条件ぬきでの思慮深いひと[知性徳としての賢慮をもつひと]

とは,行為されうることのうち人間にとって最善のものを理性の働き(λoγ岬6ぐ)にしたがっ て狙い当てるひと(στoκασm6ζ)のことである㈹」という思想たのである。従って倫理的た 事柄に関して数学や自然学における精密さを求めるのは,一つの誤りである。むしろ徳は,過 剰と不足を排して中間を,しかしrそれが最善の,良いものであるという点からみれば,極端

(加ρ6τηζ)(71〕」を狙い当てる(στoκα伽砺)。しかしその都度の個別の行為における中間で あるとすれば,中間は具体的に分節される。中間が最善であるとはrあるべき時に,あるべき

ことに基づいて,あるべきひとびとに対して,あるべきものを目ざして,あるべき仕方で(72〕」

(9)

事実から根拠へ 159

行為や情が繰り出されることなのである。従って,その意味では,「中間とは,あるべきこと(当 為)(τδ脆ω)である㈹」とも言えよう。

 以上われわれは,アリストテレスによって提出された二つの中間という比較的対照,すなわ ち一つはr事物そのものにおける」中間,今一つは「われわれとの関係における」それという 対照が,彼の周到た配慮に基づいて書かれていることに思い当たるのである。r事物そのものに おける」中間は,およそ術(売〃η)が,言うところ一の正確さ,精密さをもって決めるであろう。

しかるに「われわれとの関係における」中間は,行為の場面で言えばわれわれがどのようた人 問であるかというそのこと,換言すれば人間として卓越していると.いうそのことが,術におけ るより以上の精確さ(虹ρ^βεσ吻α)をもって狙い当てるようたものたのである。ここには,何 でも計量することが精確さを生むというような偏狭た精神はたい。と同時に精確(厳密)と いう事態を柔軟に見ることのできる骨太いソクラテス・プラトンの伝統が流れているであろ

う㈹。

 「こうして,徳は一種の中間(με施τκ仰)であり,少なくとも,それは中間のものを狙い 当てるものである(75〕。」しか・しながら,倫理徳の種を確定した今,では倫理徳は中間を狙い当て る十分条件であるかを疑問にすることができよ5。否である。なぜたら,「中間とは,正しい理 性の告げるところにある㈹」からである。こうして倫理徳の種差は,知性徳との共同の文脈に おいて語られなければ決してその全貌を表現できたいのであり,その意味では誠に「賢慮

(φρ6ψησ4ζ)なしに,ひとが本来の意味に拓ける書いひとではありえたいこと,また,倫理徳 なしに,ひとが賢慮あるひと(φρ6〃μo⊆)でありえたいことは明らかである㈹」と言わねばな らない。小論は知性徳(δ〃リ。榊吻幼ε勿)の何であるかにまで論じ及ぶことがない。とは言 え倫理徳の何であるかは,知性徳の理解なしにはアリストテレス倫理学の全構造連関のうちで 理解することはできたいことを知るべきである。

 以上のことを銘記したうえで,未知の用語の文脈上の定義の力を援用して次のように言えよ う。rこうして,徳とは選択にかかわる性向(努κηomρετE吻)であり,われわれとの関係に おける中間を保たせる性向のことである。われわれとの関係における中間とは理性によって規 定された中間([μεσ6τηζ]釦岬るψλ6岬),すなわち,賢慮あるびと(φρ6叱μoζ)がそれに よってこれを規定するであろうようた,そういう理性にしたがって規定された中間である㈹。」

この定義から,倫理徳がいかに中問を狙い当てることと関系するかを疑問とし,むしろそれは 知性徳が全面的に遂行するかのように結論するひとがいれば,そのひとは誤っている。たぜた ら,行為の始まりは選択であり,選択の始まりは「欲求(卵εξ二g)と,そう行為するのがr何 のためか」(ξひε栃τ〃。g)にかかわる説明理由(根拠)(δλ6γoぐξリε栃伽。g)(79〕」だから

であ札行為の根拠を倫理徳単独では自弁できないこと・このことは真実であ乱し.かしたが ら欲求(卵εξ g)を欠いては選択の始まり(細切)もないとすれば,倫理徳を欠く選択もまた たいのである。

4 認識と倫理徳  事実から根拠へ

以上われわれは,倫理徳を類と種差による定義によってその概略を示した。ここでは,それ 自体として理性をもたない魂の欲求的た部分が理性との共同の文脈に入る事情を,認識と倫理

(10)

160 藤 澤 郁 朱

徳の問題として述べておこう。

 感覚,欲求,情の座とされる,魂の欲求的た部分(伽εmκ6リ),ないし聴従的な部分(を一 κo〃σm6リ)は,それ自体としては理性をもたない(をλoγOリ)のであるから,それは認識様相 をもたないと考えられる。しかし感覚にしろ欲求にしろ情にしろ,それらは何かの感覚であり,

何かの欲求であり,何かの情であろう。裏から言えば,一切の認識様相を遮断したところでは,

われわれは感覚,欲求,情とρ出会いの場を奪われるであろう。そのもの自体としては認識様 相をもたたい聴従的た部分が,認識様相を排除してはその現実活動の存在了解を拒まれている ということは,倫理徳の成立する固有の座としての聴従的な部分の存在論的性格として特筆さ れるべきであろう。認識を自弁できたい聴従的な部分は,上位の理性をもつ部分から認識を何

らかの仕方で提供される他はたい。

 従って,次に解明を要するのは,感覚,欲求,情と,認識(判断)との織り成す関係がいか なるものか,であろう。さてしかし,魂の聴従的部分の活動に知性的認識(判断)が関与する

とはどのようなことか。そのもの自体では理性をもたたい聴従的た部分が,理性との共同の文 脈に入る限りで,理性の側からの知性的な制御可能性のもとに落ちる,という事態以外ではた いであろう。知性による感覚,欲求,情の制御可能性の発見と研究は,プラトン晩年のアカデ メイア内部で特に盛んであったとされる㈹。人間の情に訴えることが,それたりの品格と有効 性をもっことになれば,弁論術(修辞学)は自ずと詩論,政治学そして倫理学に影響を与える ことにたる。しかし感覚,欲求,情,たかでも情と認識との関係を解明するためには,われわ れはプラトンの『ピレボス』における先駆的た仕事を理解しておかねばならたい。

 r[快と苦の]混合は,直接身体のたかに生じた身体的なものもあれば,また魂のたかに生じ る魂だけのものもある。しかしさらにわれわれは,魂にも身体にもかかわりのあるような,そ ういう苦と快の混合されたものを見つけるであろう㈹。」このようた見当をプラトンは表明し ていたが,上述の三種の混合に応ずる例は,次のようたものと言われる。肉体にかかわり肉体 にだけ見出される混合の例としては,一つには苦が快を凌駕している芥癬(伽ρα)に起因する 混合である。もちろん肉体内部の熱(τδ祭。〃)とか火膨れ(φλεmα oリ)は,擦ったり(切伽g)

ひっかいたり(〃矛αζ)してもそれらの芯には届かないとか〔82〕,むしろ逆に火のところにもっ ていくと,手のつけようのたい快(伽枕加。κ紬。リ牝)を生み出す(昌31というようた,事後的 な因果関係の認識は可能であろう。しかし問題は痂癬に起因する快と苦の関係のうちに,理性 による説得の余地があるか,ないかである。痂癬それ自体は肉体の病であって,それに起因す る快と苦は無理的である。従っでこのような受動1 iπをθOζ)を,アリストテレスが聴従的(血一 κo〃στ肌6リ)という言葉に託したとは考えられない。では次に,肉体と魂にかかわる情(受動)

とはどのようなものか。r空のときには(κる胞τ肌,名詞形庇リωαζ)充足(πλ伽ωσ ζ)を欲 望し(るπ^θψετ,名詞形動θψα),[充足のコ期待で(圭λ㎡ζω,名詞形凱劫ζ)快をもち,空 にあって苦をもつ㈹」ようだ事態である。この場合にも直接的には空は理性の説得に開かれて いたい。空腹に起因する食欲は,人間における自然の生理である。空腹を理性的に抑圧して食 欲を減じるというようた挙動はある種の心身現象としてありえても,空腹それ自体が,第一次 的た原因者として欲求(食欲)を結果しないとすれば,それは病気であろう。とは言え,充足 の期待に起因する快,もしくは満腹時において,未来事象としての空腹を先取しての恐怖に起 因する苦とたると,同工ではたいであろう。なぜなら期待(飢売ζ)は判断を前提にし,ある種 の認識を伴っ.ているからである。従って,この種の情には何ほどかの認識様相があると言うへ

(11)

事実から根拠へ 161

きであろう。最後に,魂にかかわり魂にだけ見出される混合とはどのようなものか。プラトン によれば,それらは,怒り(伽切),恐怖(φ6βor),憧1憬(π6θog),哀惜(伽ηリ。ζ),恋(釦ωg),

競争心(ζηλog),嫉妬(φθ6〃。ζ)たどである㈹。そして,これらの情(πをθη)」を巡る探求が 白日に曝すであろう(加αφα吻σε伽)ことは,r嫉妬するひと(δφθoリω)とは,隣人(泣 売λαg)の不幸に快をもつひと(枇μεリ。ζ)㈹」に他だらないということである。ここには明

らかに「隣人が今不幸に見舞われている」という認識がある。とすれば,そこに生起する快は,

認識に伴う受動(πをθoζ)であり,その限りで理性との共同の文脈に入る情動であろう。従って,

理性にあずかる(με売κoψσαλ6γoリ)とか,理性に聴従する(加。〃στ〃6リ)という表現に託さ れていた徴表は,快との苦の混合としての情のうちで,この最後の種族にこそ優先的に帰され るべきであろう。なぜなら,そこでは「隣人が今不幸に見舞われている」との判断,そしてそ の思想内容としての命題(λ6γ町)が快を受動しているからであって,単純に言ってしまえば,

そこにはロゴスのパトスがあるからである。

 以上で明らかにたったように,快と苦の混合としての情それ自体に,真偽の判定を下しえた いとしても,その情がある認識(判断)に対する受動であるとなれば,前段の認識部分に限っ て言えば紛れもたく真偽を問えるであろう。従って,r快がわれわれに生じる場合,真なる判断

(思われ)ではたく,偽なる判断が伴うことがしばしばあるように思われる個7〕」とのソクラテ スの言明は,大方の了解をえられよう。「隣人が今不幸に見舞われている」という判断は,通常 事実判断と呼ばれる。仮に,「この乙女は美しい」・というようた美的判断にしろ,rそう行為す

るのは不正である」のようだ倫理的判断にしろ,これらはすべて一定の認識を背景にしている であろう㈹。すたわちrわれわれにあって,快は判断を伴って生じる(μεカδ6ξηζ 〆γ〃εσθm)㈹」ことがある。しかし,ここで判断を伴ってと言われる,そのr伴って」(με栃)

なる前置詞の意味は正確にはいかなることであろうか。例えば,rこれら[真なる判断と偽たる 判断コに快と苦が随伴する(紡ε伽)㈹」という意味だとパラフレーズしても,さらにたお,

随伴(巌σθα^)という語が指し示す正確な意味は何か,と間われよう。

 アリストテレスは以上のプラトンの仕事を承けて,「判断を伴う快」(紬。吻μετ注δ6ξηζ)と いう表現の類型を《τ6δεμε命τoωε》たる語法として理解し,そこに解決の糸口を求めてい るように思われる㈱。最も常識的には,「水を伴う密」(μるλ μεθ 扮ατoζ)なる表現は,「密と 水」(μるλ∠κα〜粉ωρ)に同じか,「密と水から出率上がっているもの」(売虹μるλπoぐ〃〜を一 δατoζ)に同じ.であるて92〕。しかしこれらの語法は,「判断を伴う快」(紬。吻μετをδ6ξκ)のそ れでない。「怒り(幼γ矛)とは,軽視されているとの判断を伴う苦である」という文は,「何か が何かのゆえに生じる」(売舵δ必栃δε伽δσθα壱τ4)ことを表現しているのである(93〕。す なわちr軽視されているとの判断に伴う苦」とは,「軽視されているとの判断が原因で苦が結果

として生じる」という意味だというのである{94〕。実際「軽視されているという想定」(協ληψκ τoψあルγωρ眺σθ〃)は一つの判断であって,事実の対応関係のゆえに真偽を語りうるものであ ろう。このような判断が怒り(伽吻)という情を生起せしめうるという意味であれば,先の欲 求的部分の本性が「理性と争い,理性に抵抗する㈱」との言明と併せて,われわれは事の重大 さを感ずる。まず,理性をもたない欲求的た部分が,本性的に理性に反し,理性と争うという 仕方で理性との共同の文脈に入るとのアリストテレスの想定は,「真理ないし理性に反しうるも のは,真理邸・し理性に関連をもつもの以外には何もない㈹」とは考えたいとの宣言である。

その点はよろしい。しかし「軽視されているという想定」,ないし「隣人が今不幸のうちにある」

(12)

162 藤 澤 郁 夫

という判断は,本性的に怒り,ないし快を生起させる力がある,とまでアリストテレスは主張 しているのであろうか。否であろう。むしろ「隣人の不幸」という認識と「快」との連接は偶 然的である。いかなる意味に為いても,それらの間に必然的た因果関係などありえたい。それ        から くにもかかわらず,この低抗多い連接を偶然様相における因果関係として成立させる絡繰りは,

r嫉妬するひと」にあり,嫉妬するひとの性向(線ζ)にあるのである。すなわち「そのような ひと」において可能た認識と情の連接であろう。

 以上,これまで論じられたことを二点に絞って,小論を一先ず結ぶこととする。

 先ず,一倫理徳の固有の座とされた魂の欲求的な部分は,本性的に理性に反し(πα雄 τδリ λ6γoリπεφm6ζ),理性と争い,理性に抵抗する。それにもかかわらず,同時にそれが理性にあ ずかり(με売κo〃σαλ6γo〃),聞き分け(λ6γoリ動。リ),聴従する(加。〃伽κ6リ)ものである とすれば,あるべき時,あるべきことに基づいて,あるべきひとびとに対して,あるべきもの を目ざして,あるべき仕方での処方,説明,根拠を自弁できたい子供は,差し当たり教育

(δωασκαλてα)と学習(μ∂θη吹)によって知性徳が芽生えてくるまでは,懲戒(び。雌τησ ぐ),

叱責(勃吻ησEζ),勧奨(παρをκλησエζ)等によって訓練・陶冶されなければならたい。これ らは,いまだその理由・根拠の開示されていたい事実を構成する。従って,徳の学びは,先ず 徹頭徹尾事実との出会いから始まると言えよう。しかし,やがて彼は,倫理徳を身につけてい

ると呼称されるためには「第一に,かれが[自分のすることをコ知っていて,つぎに[これをコ 選択し,しかもそのもの自体のゆえに選択し,第三に,.確固とした動揺しない態度でこれをす る(97〕」のでなければならたい。すなわち,次第に一定の性向を身につけ,自分の行為の根拠を 自弁しなければたらないのである。ここには,言いたければ事実から根拠への歩みがあるであ

ろう。

 さて次には,一定の性向が認識と信とを結んでしまうという一論点がある。しかも,「性向を示 す徴し(σmεωリ)とみなされるべきものは,なされたことに付加的に生じ.る快楽,ないし苦 痛㈱」であり,かつ「倫理徳は,快(紬。〃)と苦(λ栃m)にかかわる(99〕」のであってみれ ば,この第二の論点のもつ意味は重い。たぜなら快には行為を促し,よかれあしかれその活動 を完成する働きがあるからである。従ってわれわれは,この場面でも認識と情の因果関係の事 実に出会わなければならたい。しかもこの関係は,前段の認識が理性的な吟味を容れるだけに,

後段の情の有り様は,より知性的た分節化を含む仕方で「そのひとがどのようなひとであるか」

を告げることになろう。しかし重要なことは,習慣によってでき上がった性向に見る事実と情 の連接が倫理徳に関係するということではたくて,「今隣人の不幸がある」,rこの乙女は美し い」,rそう行為することは不正である」と判断し認識しつつ,悲しみ,恋し,噴るこの「私の パトス」が,ただしいロコスー言葉  を根拠にしているか,とのあのソクラテスの探求に 投げ返されて,「美しいもの」が「この乙女」だと思いなす私の思われが,何かそれ自体探求の 動きにあるということと,その思われが「恋」と呼ばれる受動の動きにあるということとが,

何か不思議な仕方で「私がどのようたひとであるか」を決めているということ,このことたの である。とすれば,倫理徳は事実による徹底的た陶冶を前提しつつ,出会われる事実について の種々様々の思われが,探求に投げ返されるという動きのたかで成立するのであり,習慣(窒一 θog)と言われたものも,このような律動を反映すべきであろう。そして,このようなものとし ての習慣の律動の重さは,次のアリストテレスの言葉のうちに余す所なく表現されているであ ろう。「われわれが若い頃からすでに,このように習慣づけられるか,あのように習慣づけられ

(13)

事実から根拠へ 163

るかという違いは小さなものでたく,むしろ,きわめて大きい,いや,

ではたく,ぜんぜん違うのである一(m〕。」

きわめて大きいどころ

Plato,Memo70a1−4.

Aristote1es,〃〃ωMcomαcゐm,1102且13−14.以下該書を亙Wと略記.

Aristoteles,亙W,1098a26−29。

∫ろ5a. 1098日  32−33.

∫ろ4a.  1102a  16−17.

∫ろ4a.  1166日  16−17.

∫ろタa. 1166a  22−23.

∫あ4a. 1168b  31−33.

∫るつa.  1178a  2−3.

∫ろクa.  1178a  7.

   人間が肉体と魂から成るものであることはアリストテレスも認める。しかし肉体と魂の結 合様態をどう解釈するかは解釈者により相違している。例えばGauthierによれば,亙W,X,8.

1178a20に見える約リθετoζr合成された」なる語は,決して『霊魂論』での肉体と魂との実体 的結合,すなわち質料・形相の結合を表示するものではたい(N.A.Gauthier,工αmomJe〆 λ眺め圭e,1973,p.27)。もちろんこの解釈はニュイエンスのそれを継承するもので,亙Wの段階 では質料・形相主義の心身論は不在であるとするものである。彼らによれば,亙wの心身論は基 本的には魂を主人とし,肉体を道具とする道具主義(inStr㎜enta1iSme)に基づいている(肋 pp.8〜24)。しかしこれに対立する解釈もまた根強い。例えば,W.F.HardieはGauthierがrこ の語[栃リθετoぐコはそれ自体としてはいかなる特殊た射程ももたたい。プラトンもまた彼のもっ とも二元論的た作品『パイドソ』(78b−c)で,この語を使用しているのだ。」(〃♂p.27)と主 張するのに対して,rアリストテレスが亙Wを書いた時点で彼の頭のなかにDeλm伽αの全教説 がすでにあったたどと主張したいのではない。ただおたしは,人間という動物の種的た本性に関 しては,両作品は多くの点で一致すると言いたいだけのことである」(W.F.R−Hardie,A舳。圭挑 亙棚。α五丁加。η,2nd1ed.1980,p.73)とし,さらにめ〃θε卯くだる用語に関しても「それがプラ

トン的た考え方を示唆しているとすべき何ものも亙Wにはない」(乃倣p,77)と反主張する。さ らにはJ.M.Cooperは,「私の理解しうるかぎり,Gauthierの見解はアリストテレスの霊魂論の 発展過程に道具主義的段階(力㎞〃鮒mmem鮒e)があったとする,今では完全に疑問視されて し・るNuyensの仮説を頑固に主張しているだけのことである」(J.M,Cooper,R燃。m m6 Hmmm Gooa肋λ桃 o地1975,p.158)と考え,Hardieの側につく。筆者はこれらの解釈上の 問題を避けるのではたく,亙wの内在的た議論に注目手ることによって相対的に安全た道を歩こ

うと思う。特に倫理徳の場面では,これらの解釈上の相違は比較的深刻ではたいからである。

 ⑫ Aristote1es,亙W,1102日26−27.なおd堵ωτερ〃。セλ6γωの意味内容については岩波版 全集第13巻の三七六頁を参照されたし。

 (1割  ∫あ5a. 1102日  27−28.

 (14〕 ∫あ4∂.  1102目  32−33.

(14)

ユ64 藤 澤 郁 夫

 (15〕 Jあクa. 1102b  2−31  (1⑤  ∫ろクa.  1102b  13−141

 (1の プラトンのイデア論の語法に誌いてそうであったように,ここでも「理性をもたたいある 種の本性が,ある仕方(意味)では理性にあずかる(με売κo伽α)」というような語法は,そこで のrある仕方(意味)(πn)」が限定定義されない限り,正確な内容理解は生まれない。Gauthier も,この部分をr本質的には無理的」(irrationeue……paressence)であり「分有によって理性 的」(rationelle一・・par partidpation)と横のものを横に直しただけで済ませているのには不満 が残る(R.A.GauthieretJ.Y.Jo1if,工 励勿mδMcomασm,tom.II,1さrepart.,1970,p.97)。

 (1勘 もちろん読者は亙W第7巻でのアリストテレスの記述そのものによって伽ρατ加 と血一 κρατ桁の機制を理解すべきだが,このトピックを巡って最近書かれたすぐれた論考が参照され るべきである。筆者の事柄の単純化は場合によっては多大の誤解を招かないとも限らたいので一 言弁明を加えておく。加藤信郎,「行為の根拠について」Iのi『都立大学人文学報』一六一号,

田中享英,rソクラテスと意志の弱さ」H,『北海道大学文学部紀要』三十ノニ,岩田靖夫『アリ ストテレスの倫理思想』(岩波書店,一九八五年)第三章等を参照。

Aristote1es,亙W l102b 14−15.

∫ろクa. 1102h  17.

∫ろクa. 1102b  17−18.

∫ろ5a. 1102h  29−30.

∫ろタa. 1103日  2、

∫ろ5a. 1102h  31−32.

∫あ4a. 1102h  30.

   共同の文脈に入るといっても,それがいかたる文脈であるかは難しい問題にたる。確かに,

押さえ込むという意味では抑制ある者の意志の強さは,理性に反抗する悪しき欲求に勝利した訳 である。しかし押さえ込まれた欲求には必ず不満と後悔が残るであろうから,元よりこの押さえ 込み(overriding)は書きひと,徳あるひとに成立する理性と欲求とがつくり出す文脈でない。書 きひとに成立する文脈の解釈として一例を挙げるならば,J.McDowe11のそれがある(cf.J.

McDowell,The Role ofEudaimonia in Aristot1e s Ethics in亙∫∫αツ。mλれ8わneも亙mc5,ed.by A.O.Rorty,1980,pp.369−370)。節制の徳をもつひとの行為は,場合によっては,もし状況が 異なれば欲求を満足させることには魅力があったであろうが,今この場ではその機会を犠牲にす ることがある。人問の幸福が究極的には欲求の実現(したい通りすること(asonewou1dwish))

(〃ゴ.p.368)にあると考えるひとには,それは一つの好ましからざる損であろう。しかし幸福と は欲求の実現であると考えるひとが,節制の徳をもつひととは,欲求の実現を犠牲にすることが より欠きた欲求の実現(ないし失う損よりうる得の方が大きい)に連動すると考えるタイプのひ とのごとだと見傲せば,彼の行為は了解可能とたろう。しかし,如上のような損得・利害得失の 考量に依拠しない解釈もありえよう。それによれば,欲求の実現としての快は失われるが,損で はない。たぜなら,このひとにあっては徳に従った生活こそ幸福なのであって,彼は欲求をr押 さえ込む」(overriding)のでなくr沈黙させる」(silencing)からである(〃a,p,370)。アリス

トテレスによれば・徳あるひとのr魂のすべての部分は理性と協和している(伽。φω〃よ坤 λ6仰)」(亙W,1102b28)。しかるにMcDowe11の提起するsilencingたるものが,アリストテレス の言う魂のすべての部分の理性との協和を言い当てているか否かは,今後の研究を侯たねばたら ない。またこの点については,神崎繁氏のコメントが参考にたるが,該解釈の是非には触れてい ない。井上忠・山本魏編訳『ギリシア哲学の最前線』II(東京大学出版会,一九八六年)一二五

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