奈良教育大学学術リポジトリNEAR
文集指導史の研究(?)
著者 増田 信一
雑誌名 奈良教育大学教育研究所紀要
巻 30
ページ 1‑11
発行年 1994‑03‑01
その他のタイトル A Historical Study of Teaching for School literary Anthologies
URL http://hdl.handle.net/10105/6855
文集指導史の研究(I)‡
増 田 信 一 (国語科教育研究室)
要旨:本学に教育資料館が誕生した。私も、委員の一人として教育資料館の設 立のために尽力してきた。開館までの第一期の資料集めは、教科書類の収集に 重点が置かれたが一段落したので、今年度から第二期の資料集めの中心は、文 集類の収集に力点が置かれることになった。文集指導は、作文学習の事後指導 の一つとしての性格を持っているが、長い間、教育資料としての価値を評価さ れにくい傾向があって、子どもたちが卒業してしまうと、多くの貴重な文集が 消失して行きやすかった。ここに、文集の果たすべき役割を再検討して、文集 指導の教育的な意義を明らかにし、今後の文集指導を盛んにしようとするのが
この研究である。
キーワード=作文指導 文集 奈良教育大学教育資料館
I 文集の定義と種類
「文集」については、いろいろな考え方があるので、最初に整理しておく。現在の国語教育界 の代表的な辞典として、『国語教育研究大辞典』があるが、その「文集」の項(747〜749ぺ一ジ)
は私が担当し、次のように記したので、それを利用する。(注1)
定義 文集とは、表現学習をした結果の産物として、児童や生徒が作ったいろいろの文種の文章 を集めて、特定の編集意図のもとに編集し、印刷し、発行したものをいう。中には、一枚文集と いう形で継続して発行していき、学期末か学年末に一つにまとめて製本する場合もある。個人文 集などの場合には、手書きのままのものをとじて、文集にすることもある。
文集指導の恵義 文集を作る目的は、児童・生徒の言語による表現力を伸ばすことと、その活動 を通して思考力や表現力を伸ばすためである。それを具体化すると、次の三点に分けられる。
11〕文集に自分の書いた文章が載るのだということを意識させることによって、文章を書こうと する意欲を高め・書く目的をはっきりさせ孔
(2〕他人の書いた文章を観賞したり、批評し合うことによって、自分の今後の表現活動に取り入 れたり・活用すべきことがらを発見させ、自分の表現活動を充実させ孔
(3)文章をまとめ上げた満足感や、自分自身が自分の考え方を変容することができた満足感を味 わわせる。
「文集」本来の意味は「詩や文章を集めて本の形にしたもの」であり、上記の私の記述は、この
*AHistorica1StudyofTeachingforSchoo11iteraryAntho1ogies
**Shinichi MASUDA(Department of Japanese1a㎎uage Education,Nara University of Education)
の辞典の性格上、教育面を強く打ち出している点に特色がある。何種類かの国語教育辞典類に当 たってみたが・大筋においてはほぼ同様な記述であっれ
次の「文集の種類」については、小見出しだけを出し、本文の引用は省略する。
文集の種類
(一) 読者対象による分類 (1)個人文集 (2)学級文集 (3) グループ文集 (4) 学年 文集 (5)学校文集 (6)地域文集
(二) 印刷の仕方による分類 (1)手書きの文集 (2)謄写版印刷の文集 (3)活版印刷の 文集
(三) 発行の目的による分類 (1)学習用の文集 (2)機関誌としての文集 (3)記念碑的 な文集
分類上はこのように分けられるが・(三)の(2)と(3)については重複するものもあ飢な お、「文集」の性格上、消失しやすいものが多く、「個人文集」や「手書きの文集」などは、ほと んど収集できていない。印刷技術の急速な進歩もあって、(二)の(1)や(2)は、昭和50年代 に入ると急激に少なくなってしまっれ
皿 文集指導の歴史的概観
大正時代になって、自由教育の機運が高まって来るにつれて、子ども自身の書きたいことを自 由に綴る作文が盛んになりだした。このような風潮の中で、鈴木三重吉による雑誌「赤い鳥」が 1918年から始まり、作文指導に情熱を傾ける教師が急増した。
昭和期に入ると、「生活綴り方運動」が盛んになり、作文指導に熱心な各地の教師が、おたがい の学級の成果を文集にまとめて、子どもたちの指導に役立てたり、教師間で交換し合うようになっ た。これが、今日のような学校教育における文集の出発となったのである。
文集を作ろうとする機運は、昭和10年頃まではかなり活発な動きが見られたが、戦争が激化す るとともに、教師の自主的な教育活動は極度に制限され、やがては弾圧されるようになり、文集 を作る教育活動も消されていってしまった。
戦後は、いち早く出発した雑誌「赤とんぼ」r子どもの広場」などに、児童の作文や詩を積極的 に取り上げられたことに刺激されて、文集を作る動きが復活しだした。この傾向は、昭和26年に
「全国文集コンクール」(児童文学者協会主催)が始まったこともあって、飛躍的に盛んになって
いった。
その間の事情を物語る貴重な資料として、実践国語研究会編になる、昭和二十四年七月二十五 日付けの「全日本学校新聞・文集・詩集活動一覧」(注2)がある。ここには、「戦前」と「戦後」
に分けて、都道府県別に文集名・号数・印刷形態・版型・ぺ一ジ数・学年・編集者・学校名・発 行年月日などが載せられている。この中から「文集」だけに限定して、地域別に集計すると次の
ようになる。
く表1 「文集」の地域別の集計〉
地 域 戦前 戦後 計
北海道 東北 関東 東京 東海・北陸 近畿 中国 四国 九州 外地 不明
8 26
7 24 25 13 9 6 5 2
2 1 11 30 12 3 6 8 2
10 27 18 54 37 16 15 14 7 2 2
合計12577202
(表1についての解説)
・ここに示した数値は、あくまでも実践国語研究 会の資料を集計したものであり、実際の発行数を 知るバロメーターにはならない。
・都道府県別のベスト5は、東京74、秋田15、岡 山13、香川11、北海道10であり、逆にゼロの県は、
石川・福井・奈良・島根・広島・高知・佐賀・長 崎・大分・沖縄の10県である。
・作文教育の流れには、教科作文の色彩の濃いも のと生活綴方の色彩の濃いものとがあるが、実践 国語研究会は両方の立場の文集を幅広く集め得て いる(同書の記述中に「吉田瑞穂氏、西原委員長、
滑川委員から戦前の貴重な資料を提出していただ いた」とある)と私には思える。
・戦前の「外地」は中国・朝鮮のものを指してお り、戦後の「不明」は学校名の記入が抜けている ものである。
紙面の都合で、きわめて概括的な集計になったが、私がここで強調したいことは、戦前・戦後 を通じて、奈良県の文集は1点も実践国語研究会に寄せられてはいなかったことである。さらに 言えば、滑川道夫の「文集全国展望」(注3)には、1935年前後の学級・学校文集が900点集めら れているが、奈良県の文集は1点あるに過ぎない。これらのことは、奈良県の文集指導の歴史を 考える上で特記すべきことであると私には思える。
現在ならば、各種の研究組織も育ってきているから、文集を収集する手だてもなくはないが、
昭和24年当時はこのような研究組織は育っていなかったから、文集の収集もごく一部の人脈に頼 るしかなかった。このような条件を割り引くとしても、上の統計の中に奈良県の文集がなかった という事実は、考えの一つに入れて置かなくてはなるまい。
I皿 教育資料館に集められた奈良県の文集
開館までの2年間を費やして、教科書類の収集に全力を尽くしてきたが、その収集が一段落し たので、第二期の資料収集の重点は、県下の学校で作成された文集を集めることに置かれること になった。
このような仕事は、文集そのものが消失してしまいやすい性格を持っていることもあるし、長 年にわたって作文指導に携わって来られた先生方は引退してしまわれたこともあって、大きな困 難を伴う。それだけに、できるだけ早い機会に本格的な収集活動に入らなければならない。今回 は、収集作業の中心となられた小柴幸文主幹の尽力が大であったことを特記したい。
〈衰2 奈良散青大学教育資料館で収集した文集(1993・11・1現在)〉
西暦 年 点数 西暦 年 点数 西暦 年 点数
1951 昭禾口26 1 1966 昭禾口41 16 1981 昭禾口56 1
1952 27 4 1967 42 21 1982 57 7
1953 28 O 1968 43 22 1983 58 3
1954 29 9 1969 44 11 1984 59 8
1955 30 27 1970 45 13 1985 60 18
1956 31 17 1971 46 9 1986 61 12
1957 32 16 1972 47 6 1987 62 13
1958 33 29 1973 48 9 1988 63 22
1959 34 26 1974 49 3 1989 平成1 46
1960 35 10 1975 50 3 1990 2 109
1961 36 17 1976 51 3 1991 3 76
1962 37 25 1977 52 7 1992 4 117
1963 38 23 1978 53 15 1993 5 39
1964 39 12 1979 54 7
合 計 8 4 8
1965 40 13 1980 55 3
本学の教育資料館で収集している文集は県外のものもあるし、県内から集められた文集で未整 理のものもあるので、この数値は一時的なものに過ぎないが、平成5年11月1日現在の統計とし て見ることにする。
残念ながら、昭和24年以前のものは一点もなかった。それだけになおさら、さきの実践国語研 究会の統計が重みを感じさせる。 〈表2〉のままでは漠然としすぎるので、5年ごとにまとめな おしたのが〈表3〉である。なお、〈表3〉に「音声言語の文献資料」という項目があるのは、
この数年来、私が収集している「音声言語教育実践史」の資料の点数である。
〈表3 表2の数値を5年ごとにまとめた数値(音声言語の文献資料の集計も含む。)〉
西 暦 年 1951〜1955 昭和26〜30
1956〜1960 31〜35 1961〜1965 36〜40 1966〜1970 41〜45 1971〜1975 46〜50 1978〜1980 51〜55 1981〜1985 56〜60
1986〜1990 61〜平成2 1991〜 平成3〜
合 計
教育資料館の文集 41 98 90 83 30 35 37 202 232
音声言語の文献資料 341 288 325 205
81 ※ 87 ※ 126 ※ 161
27 848 1641
私自身の「音声言語教育実践史」の資料は、まだ収集途中であるからこの数値も一時的なもの に過ぎないが、この2種類の数値を検討していくと、顕著な共通点があることに気がっく。それ は※印を付けた1971年から1985年までの15年間の数値が異様なほどに少ないことである。しかも これは両者に共通しているのである。なぜ、このような共通の落ち込みが出てきたのか明らかに しなければならない。
IV 文集指導が低調になった原因
私は、国語教育史の研究を進めていく中で、現代区分を次のようにしている。「明治期
(1868〜1912)・大正期(1913〜1926)・昭和前期(1927〜1945)・昭和中期(1946〜1967)・昭 和後期(1968〜1988)・平成期(1989〜 )の6期であるが、昭和中期と昭和後期との境目を1 968年に置いている。これは、文部省が学習指導要領の公布の時期と密接に関連している。
学習指導要領は戦後6回出されている。各期の学習指導要領と作文教育の特色・その時期の教 育界の大きな流れなどを簡潔に示すと次のようになる。
昭和22年版学習指導要領試案(アメリカ教育を直輸入した経験主義教育)
昭和26年版学習指導要領賦案(昭和22年版を具体化・能力表による能力の絞り込み)
・児童雑誌「赤とんぼ」「子どもの広場」「コドモノハタ」「銀河」「詩の国」(1946)・「こども の村」(1947)など創刊。
・寒川道夫『山芋』(1951)、無着成恭『山びこ学校』(1951)、国分一太郎『新しい綴方教室』
(1951)、西原慶一『日本児董文章史』(1952)、倉澤栄吉『作文教育の大系』(1952)、石森延 男『わが作文教育』(1953)、日本作文の会『生活綴方の伝統』(1953)、金子書房編『生活綴 方と作文教育」(1953)、波多野完治他『作文教青講座」(6巻)(1955)。
・「作文の会」(1948)結成、1952年再組織。児童用「さくぶん」「作文」の発刊。
・「日本綴方の会」(1950)結成、「作文研究」創刊。1951年「日本作文の会」と改称、1952年 「作文と教育」再刊。
・「全日本国語教育協議会」(1948)結成。「全国大学国語教育学会」(1950)結成。「日本コト バの会」(1952)結成。「日本国語教育学会」(1954)結成。
・雑誌「コトバ」(1948)復刊。季刊「作文教育」(1948)創刊。雑誌「実践国語」(1949)復刊。
雑誌「ことばの教育」創刊。雑誌「綴方同人」(1950)創刊。雑誌「言語生活」(1951)創刊。
雑誌「教育」(1951)創刊。
・文部省、全国小・中・高等学校で第一回の学力調査(抽出)(1956)実施。
◇コア・カリキュラム教育の思想高まる。単元学習についての論議盛ん。
◇作文・生活綴り方教育論争起こり(1952)、技能重視の作文指導と生活重視の作文指導の対立 (1953)へ。
◇民間ラジオ放送開始(1951)。NHKテレビ本放送開始(1953)。
昭和33年版学習指導要領告示(能力主義教育への転換・法的規制力)
・百合出版『生活綴方講座』(5巻)(1962)、文部省『書くことの学習指導』(1963)、森岡健二
『文章構成法』(1963)、輿水実『国語科の基本的指導過程』(5巻)(1966)、森岡健二他『作 文講座』(5巻)(1967)。
・「日本作文教育研究会」(1965)結成、季刊「作文教育」刊行。
・雑誌「教育科学国語教育」(1959)創刊。「国語教育の近代化」(1962)創刊。雑誌「国語教育 研究」(1965)(児言研国語改題)刊行。
・文部省、全国小・中・高等学校で第二回の学力調査(1959)実施。文部省、全国小・中学校 一斉学力調査実施(1962・1963・1964・1965・1966)。
◇教科書無償給与開始(1964)。
◇教育の科学化・近代化の思想台頭。
◇各地で、勤評反対闘争激化(1958)。日航機よど号事件(1970)。浅間山荘事件(1972)。
昭和43年版学習指導要領告示(能力主義教育の強化)
・野地潤家『世界の作文教育』(1975)、滑川道夫『日本作文綴方教育史I』(1977)(lIは1978・
皿;ま1985)o
・「全日本国語教育学会」(1970)設立(日本国語教育学会を中心に4研究団体が統合)。「全日 本中学校国語教育研究会(1971)設立。全日本小学校国語教育研究会(1972)設立。全日本 国語教育協議会(1976)解散。
・雑誌「国語の教育」(1968)創刊。季刊。「国語教育誌」(1971)創刊。季刊「国語科研究資料 (1973)創刊。「国語科教育学研究」(1975)創刊。
◇国語科教育のシステム化。
◇主任職制度化の文部省令公布(1975)。
◇家永裁判、東京地裁判決(1974)。
◇東京大学等、51大学で紛争(1968)。
昭和52年版学習指導要領告示(ゆとりある教育と基本的事項の精選)
・国立国語研究所『児童の表現力と作文』(1977)、飛田多喜雄『国語科教育方法論大系』(1O巻)
(1984)、大内善一『戦後作文教育史研究」(1984)。
・雑誌「実践国語研究」(1977)創刊。雑誌「月刊国語教育」創刊。
◇自己教育力の育成。
◇国公立大学共通一次テスト実施(1980)。
◇校内暴力事件の激増(1980)。東京都中野富士見中いじめ事件(1986)。
平成1年版学習指導要領告示(生活科発足・5日制導入)
◇兵庫県神戸高塚高校女生徒校門圧死事件(1990)。
◇文部省、業者テスト禁止の次官通達(1993)。
昭和22年版と昭和26年版は「試案」であったために、民主的な教育観が広まり、教師自身の自 主的な教育を創造しようとする動きが活発化し、「文集」指導に情熱をかけようとする教師が続出
したが、昭和33年版以後「告示」となり、法的な規制力を伴うようになると、教育界に暗雲が立 ち込めるようになり、意欲的な教師の「文集」指導の動きにも影をさすようになった。
しかし、戦後の新教育のもとで教育現場に育ちっっあった民主的な教育観は、そう簡単には消 せるものではなかった。私が教職についたのは昭和32年のことであるが、この頃から「学力テス
ト闘争」「勤務評定反対闘争」が激化していったことを記憶している。
「60年安保闘争」の頃は、毎週何度か、組合の動員がかかり、日比谷の野外音楽堂に集結した り、国会議事堂前に座り込んだりしたものである。毎回の座り込みは2〜3時間程度のものであっ たが、コンクリートの道路の上に座り込んで、先輩教師たちから民主的な教育観をうかがうのが 楽しがつ㍍私自身の教育観の多くはこの時に培われたように恩㌔
当時は日教組の組織率もかなり高かったから、このような場で作文指導の勘どころを学び、文 集指導に情熱を傾けるようになった教師の数はかなりあると、私は想像している。
ところが、教育現場に対する文部省の締めつけは年を追うごとに厳しさを増しつづけた。1958 年「勤評闘争」、1962から5年間にわたる「学力テスト闘争」は教師たちの教育に寄せるエネルギー を奪い続けていき、1975年の「主任制導入」の頃になると、闘争力だけでなく、学校教育そのも のが無力化してしまった。
昭和30年代は、9教科だった公立高等学校の入学試験が、昭和40年代になるとともに、国語・
数学・英語の3教科に変更されて、高等学校の人学試験が激化しはじめ、塾通いをする子どもた ちが増加していき、偏差値教育が加速化していくことに伴って、○×式のテストが多用されるよ うになった。
このような情勢になると、それまで作文指導に情熱を傾けていた教師たちは、点数に直結する 読解指導に力を入れるようになってしまった。
1971年から1985年にかけての15年間に、「文集活動」や「音声言語教育の実践」が急激に低下し ていった原因はこのへんにあると、私は考えている。
V 文集指導が必要な根拠
文集を作ることがどうして大切なのかということにっいての発言は、数多く存在するが、ここ では、 〈表1〉で引用した「全日本学校新聞・文集・詩集」の筆者である小山玄夫のものを引用 する。(注4)
こつこつと原紙を切っていき、一枚一枚大きな労力を消費して謄写していくことは、決し てなまやさしい仕事ではない。しかし、この国の作文の力強い発展と向上は、この尊い、そ して陰の力があってこそ始めて可能のものと云ってい㌧であろう。文集を作る程の労力を使 うのならばと一方では、暗に文集作成に対しての批判の声もあるようである。けれど文集を 作る時間をほかに使って、どれだけの教育の効果を挙げ得たであろうか。その結果について は、まだ一度も聞いた事がない。文集製作はたしかに労力多くして、報いられる点は少ない かも知れぬ。しかしそれを嘆く必要はない。それをとやかくいう必要も更にあるまい。これ によってこどもの作文の力が向上していくなら、それでいいのではあるまいか。わたしは少 なくともそのように信じている一人である。(下線は筆者)
昭和40年頃までは謄写版刷が主流を占めていた。私も、テスト問題を始めとして全ての印刷を
ガリ版でやってきたから、一冊の文集を作るのにどれだけの努力が必要とされるか、よく知って いる。毎日、子どもたちの帰ったあとの時間はガリ切りに費やしたものである。
印刷技術が進んでガリ切りをしなくてもよくなったら、教師の労力は比較にならないほど軽減 されるのであるから、文集の量は増えてよいはずであるのに、上の数値で見る限り、実際は逆に 減少してしまったのである。
この原因は、先に述べたとおり、行政側の圧力によって、教育現場の教師たちのエネルギーが そがれてしまった結果である。このような歴史的な現実があるからこそ、改めて、文集を作るこ との意味を問い直す必要があるわけである。
引用部分の下線部の「文集を作る時間をほかに使って、どれだけの教育の効果を挙げ得たであ ろうか。」という記述は作文指導に携わった経験のある人ならば、だれでも味わわされたことと思 われる。この点に作文教育そのものの難しさがあるし、それが大きな壁となって作文教育の前進 を阻み続けてきたのである。
さらに、下線部の記述は文集指導の本質を突き得ている。文集を作りながら作文指導を展開し て行かなければ、子どもたちの確かな文章力は向上しないし、作文学習に対する本格的な喜びや 達成感は満足させられないのである。
1949年4月に復刊した月刊誌「実践国語」で「文集東西南北」欄を担当した佐藤茂は、その中 で次のように呼びかけている。(注5)
文集は・作文の一ということは「生活的」ということになる一芽だ。幹だ。花だ。果 実札そして作文運動の電波探知機汽
新人も旧人も文集を作ろう。学校新聞を指導しよう。できたら、実践国語編集部へどしど し送ってもらいたい。文集交換もしよう。そして、おたがいにみがきあって、自分と子供た ちの国語力、生活力の肥料にしようじゃないか。
私は、1967年に、国語教育実践理論の会の会員に加えていただいてから、24年間にわたって、
佐藤茂さんにお付き合いいただいた。毎月の月例会の席上で、口癖のように、「私は学習指導要領 がきらいだ。どうして皆さんは学習指導要領ばかり気にするのか。」と話されたことを、今になっ てもはっきりと思い出す。
すでに見てきたように、学習指導要領の拘束力が強くなるに連れて、文集活動は低調になって いった経過からして、文集活動の推進役を果たしてきた佐藤さんが、学習指導要領を嫌った気持 ちが分かるような気がする。
w 文集指導を推進する上で考えなければならないこと
これまで述べてきたように、文集を作るためには、指導に当たる教師の労力が大きいが、この 面については、印刷技術の進歩によってかなり改善されてきた。それにもかかわらず、国語科教 師たちの文集に対するとまどいは大きい。その原因について明らかにし、対策をたてていく必要
がある。
1.指導目標を明らかにする
これまで文集を作ったことのある教師は非常に多いが、その文集を子どもたちの指導にどのよ うに役立てたのかという問題になると、明快な答えの返ってくる率は少なくなってしまう。文集 を作ること自体に意味があるとする考え方もあるが、それだけでは消極的すぎる。
子どもの作品を文集に載せてやることによって、子どもたちの作文意欲は高まるから、その高 まった意欲を今後の作文指導に役立てているという教師も存在する。確かに学級経営や教科指導 の上で文集を定着させている教師の場合はそれでよい。まずは子どもたちに喜ばれる文集を継続 的に出し続けることが大切である。
子どもたちの学校生活の多くは教科を単位として成立しているから、文集も教科ごとに作られ る場合が多い。教科指導に役立てる目的のもとに作るなら、教科の単元目標と直結したものにす べきである。また、学級指導や道徳指導に役立てる目的なら、それらの年間計画に直結するよう に作らなければならない。
このように考えてくると、文集全体の構成の仕方を目的に合わせて工夫しなければならなくな る。各章の始めや終わりにr学習の手引き」的な課題をつけて、今後の指導に結びっけるように することが必要になる。
2.評価基準を明らかにする
古い教育においては評価は教師だけのものであったが、新しい前進をめざす学習にあっては、
評価は、主役であるべき子ども自身のものでなくてはならない。そのためには、学習目標と直結 した自己評価項目を簡潔なチェックリストとしてそのっど用意する必要があ孔
もちろん、一人一人の子どもの学力や学習に対する興味・関心は同じではないから、その子自 身がチェックリストの項目を作らなければならない。始めのうちは無理であろうから、教師が相 談に乗ってやり、子どもたちの自己評価力の高まるのを待つことにな孔
これまでの作文学習は、どちらかというと、教室の中で静かに行われてきたが・より望ましい 作文活動においては、「テーマの設定」「取材」「構想・構成」「表現・推敲」の各学習段階におい て、個別的な学習がなされるはずであるから、学習の場は一定しなくなるし、現在のような小学 校で45分(中学校では50分)単位の細切れの時間では学習しにくくなる。
取材の方法も・インタビューは校外に飛び出していくケースもあるだろうし、現地へ出向いて 取材しなければならないケースも出てくる。図書館の資料を駆使しなければならないヶ一スもで てくるだろう。このような学習を可能にするためには、少なくとも現在のような管理主義の学校 環境を改善しなくてはなるまい。
3.個別学習とグループ学習を多用する
作文学習においては、一斉学習の形態は極度に少なくなる。そして、個別学習の場面が多くなっ てくるが、グループ学習の場面を適度に混ぜることが必要になる。子どもたちはまだ未発達の面 が多いから一人で行動するのには無理が生じる場合もある。
校外に出ていって取材する時などは、共通するテーマの者をグループ化して同一の行動をとら せればよいし、取材してきた結果の集約・構成などの活動をグループでさせることによって、お
互いに教え合い学び合うようにさせることも、大切なことである。
このように考えてくると、教師のすることはなくなってしまうではないかと心配する向きがあ るかもしれないが、実際にこのような指導をしてみると、子どもたちからの教師に対する質問が 激増するので、一斉指導の時よりもはるかに忙しくなる。しかし、教師との相談を繰り返してい
くうちに、学習の仕方を身にっけてしまった子が続出して、同質の相談は目に見えて少なくなっ
ていく。
指導にあたる教師は、個人別のカルテを用意して、それに記入しながら、一人一人の成長ぶり をチェックしていくことになる。教師の評価はこのようなカルテを見れば、一目瞭然となるはず である。要は、そのような段階まで子どもたちを引っ張っていくことである。
4.教師や友達の励ましの言葉をそえる
教青の具体的な場面において、子どもの長所を認めてやり、ほめてやることの大切さを私はこ とあるごとに強調しているが、このことは作文指導においては特に意味のあることである。ほめ てもらえるためには、完成度が高いこと・推敲が行き届いていること・清書しであることなどが 必要になる。
ほめてやるためには、その前段階として、テーマに対する推敲・材料の吟味に対する推敲・構 成に対する推敲・言己述に対する推敵などがしっかりとできていなければならない。このように見 てくると、教師の指導の手はいくらあっても足りなくなるはずであるが、グループ活動に慣れた 子どもたちは、友達が教師の指導を受けているのを見て、自分は教師に指導される前に直してし まおうとするから、そう心配することはない。
文集における励ましの言葉は後まで残るから、今後の学習にプラスになりそうなことを書くよ うに心掛ける必要がある。子どもたちにもこの観点を忘れないように注意してやるとよい。当然 のことながら、励ましの言葉は、テーマ・材料・構成・表現などに幅広く触れるようにすること も大切である。子どもたちは、文集中に書かれた教師の言葉にとても注目するから、このような 配慮は特に大きな意味を持つことになる。
5.文集を他校と交換し合う
多くの労力をかけて文集を作り、担任の子ともたちとすはらしい学習を展開することができた のに、それだけで終わってしまう例が多い。文集を作るほどの情熱を持った教師は、それ以上向 上したいという願望を抱くはずであるから、文集を作っている教師同士が連絡し合って、お互い
の指導の成果を交換し合うようにしたいものである。
お互いの文集を比較し合うことによって、お互いの学ぶべき点や修正したほうがよい点が見え てくるはずである。このような直接的なはっきりした収穫は得られなくても、お互いに励まし合 い、今後の文集指導に役立てることはできるはずである。さらには、これをきっかけにしてお互 いに刺激し合って、向上していくことも期待できるかもしれない。
自分の近くに、同じように作文指導で努力している人がいるということに気づいたときの喜び は、必ず次の作文指導の起爆剤と.なって生かされる。このような期待を持って、文集の交換相手 を求めるなり、指導助言してくれる人を探して欲しいものである。このような努力を積み重ねる
ことによって、文集指導は前進していくのである。
注
1) 増田信一 「文集」 (『国語教育研究大辞典』 国語教育研究所編 明治図書 1988年)
P747〜749
2) 小山玄夫 「全日本学校新聞・文集・詩集活動一覧」 (『日本児童文章史』 西原慶一 東海出版社 1952年) P698〜711
3) 滑川道夫 「文集全国展望」 (『日本作文綴方教育史3 昭和篇1』 国士社 1983年)
P481〜495 4) 2)に同じ
5) 佐藤茂 「文集東西南北」 (雑誌「実践国語」 1949年4月号 穂波出版社) P36