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特殊学級(精神薄弱)成立経緯の研究 ― 教育課程 論への問題提起 ―

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奈良教育大学学術リポジトリNEAR

特殊学級(精神薄弱)成立経緯の研究 ― 教育課程 論への問題提起 ―

著者 津曲 裕次

雑誌名 奈良教育大学教育研究所紀要

巻 4

ページ 47‑57

発行年 1968‑03‑25

URL http://hdl.handle.net/10105/6145

(2)

特殊学級(精神薄弱・)成立経緯の研究    一教育課程論への間顧提起一

       津   曲   裕   次       (障害児学教室)

I は じ め に

 戦後20年のあゆみの中で、現在の精神薄弱教育の最大の課題は、その教育課程にあるといえる。精 神薄弱教育に関する法律や行政、制度は、数々の問題が指摘されているにもせよ、養護学校、特殊学級、

福祉施設等を軸にして一応の方向がさだまってきた。また、教師、保母、指導員、あるいは研究者の層 も戦前のそれとは比較にならないほどあつくたってきている。

 かくて、いまや、精神薄弱に対する具体的た教育、指導のあり方が問われ、行政、研究、実践それぞ れの場で、最大の関心事となってきている。例えば、文部省では、すでに公立養護学校の学習指導要領 を示し、数年前から特殊教育の教育課程に関する中央研究集会を主催している。これをうけて、地方で も、教育課程試案や、具体的な指導事例集を提示しはじめた。各種の専門誌、機関誌に招いても教育課 程論に大きなスペースがあてられているのが現状である。

 本論は、このような精神薄弱教育の現状に対して、教育課程論そのものをいかに組みたてたらいいか という問題提起である。私は、さきに、ある研究集会で、教育課程論には、教育観、心理的要因、制度、

社会、普通教育の動向、教育課程行政等にわたって精神薄弱教育研究の成果が結集されなければならな いということを論じた。

 この報告は、そうした問題意識に立って、現在、任意設置とされている特殊学級の設立経緯を調べ、

そこでの問題点が、特殊学級の教育課程にどのような影響を与えているかを明らかにすることをねらっ ている。

 具体的には、埼玉県加須市立加須小学校特殊学級の設立以来の実践記録の分析を軸として、特殊学級 の設立経緯の問題を考える。これには、同特殊学級を開設時から担任し、現在は埼玉大学付属中学校で 特殊学級を担任している宮崎直男氏の全面的資料提供、協力があったことが大きな動機となってい孔

実践記録の分析ということ自体が教育研究の方法論としてもきわめて難しいものであるが、宮崎氏の擦 力を得ながら、一歩ずつ進んでいきたいと考えている。

皿特殊学級設置の歴史的背景 一一加須小学校の場合一

 現行の法制のもとでは、特殊学級は、学校教育法第6章「特殊教育」の第75条にr小学校・中学校 及び高等学校には、次の各号の1に該当する児童及び生徒のために、特殊学級を置くことができる」と あるように、いわゆる任意設置の段階にある。(三木編 1966:11)

 したがって、その設置にいたる経緯は種々様々であり、その事情が教育課程を含めて、特殊学級の経 営に大きな影響を持っていることは容易に推則できる。そこで、ここでは、加須小学校特殊学級の設立 経緯を軸として、特浅学級の設置の過程におきる諸問題を考察する。

 加須小学校において、特殊学級が開設されるのは、1959年(昭和34年)のことである。その時期 は、戦後精神薄弱教育が復活して以来舛なりの年月が経過していた。したがって、まず、加須小学校に

一4アー

(3)

特殊学級が設立されるに至るまでの日本及び埼玉県下の精神薄弱教育のあゆみが、そこでどのような影 響を与えたかということを明らかにしなければならない。

 しかしながら、精神薄弱教育史の分野において、第二次大戦後から現在にいたる時期の研究は若干の 卒業論文をめぞいて、ほとんど手つかずの状態であるといってよい。むしろ、近年になって、地域の歴 史、施設、学園の歴史、関係団体の年譜等が公にされてきて、ようやく戦後史への糸口がひらけてきた 段階であるといえる。こうした研究段階にあって、1959年当時の精神薄弱教育のあゆみを、しかも埼 玉県加須市という段階にまで立入ってのぺることは不可能に近い。しかし、この点を明らかにすること が、加須小学校の位置づげにとって欠くことができず、今後の研究の基礎となるものと考える。

〔1945年(昭和20年)〜1946年(昭和21年)〕第二次世界大戦は、明治時代の中頃から細々 とながら続いていた精神薄弱教育に対しても打撃を与えた。戦争の激化とともに、多くの精神薄弱の特 殊学級は閉鎖され、施設や学校等は軍に徴用されるものもでてきた。こうした中で、心ある教師や施設 の職員たちは、疎開させたり、自宅にひきとったりして、児童を守りっづけた。

 やがて敗戦、戦後の混乱の中で、特殊学級や学校、施設が再開さ札また、新たな需要のもとに新設 されはじめた。この間の事情はまだよくわかっていないけれども、東京、渋省め大和田小学校特殊学級の 再開、富山市の堀川小学校特隊学級、滋賀県立近江学園の新設等が、それぞれ、1946年のこととして 記録に残っている。(精神薄弱間題史研究会、1965)

〔1947年(昭和22年)〕 この年、日本国憲法、教育基本法が制定され、教育の機会均等の原則が 明らかにされた。一方、学校教育法第6章において、特殊教育が日本の教育史上において、はじめて法 的なよりどころを持つことになった。また、児童福祉法の制定により、精神薄弱児もその対象とされ、

社会福祉の領域でも、その根拠が明らかになった。

 同年6月、現在の東京都立青鳥養護学校の前身、品川区立大崎中学校分教所が、文部省研修所内に開 設された。(杉田、飯森、1953:58)文部省は初等教育課に特殊教育を担当する視学官をおくかたわ

ら、C・I・Eと協力して、特殊教育に関する各種の講習会を開催しはじめる。

〔1948年(昭和23年)〕 この年も、中央・地方での講習会が開かれ、それをひとつの契機として、

大阪府下四条中学校等、地方に特殊学級開設の動きがみられる。埼玉県において、戦後最初の特殊学級 が開設されたのもこの年である。4月1日、行田市立埼玉小学校にr病弱者を養護する名目で、その中 に精薄児もいるという、混合学級」(田村、1966:53)が開設された。(先崎、1966.1. 88:

57)。ここでは小3までの3学級があって、男子40人、女子36人の計ア6人が対象となっていた という(宮崎、1965:140)。当時、埼玉県では、社会福祉関係の精神薄弱児収容施設として、浦 和市に「久美愛国」(1933年、昭和8年設立)があるだけであった。(日本精神薄弱者愛護協会、

196ア:46−47)

〔1949年(昭和24年)〕 この年には、施設職員、教師、研究者等の各種団体の再開、発足がみら れた。「日本精神薄弱者愛護協会」(1934年、昭和9年設立)が、戦中の中断を経て、この年再開さ れ、一方、特殊教育の研究者、特殊学級担任、行政官等によって「特殊教育研究連盟」が結成されたの

もこの年である。埼玉県では、県下で2番目の児童福祉法による精神薄弱児施設iが認可されてい乱

〔佃50年(昭和25年)〕 第二次米国教育使節団が、9月に、「身体的、精神的障害を有する児童

に対する教育の機会均等」について、その報告書で触れているが、それに先だって、5月、精神衛生法

       一48}

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が制定され、身体障害者福祉法(1949年)で除外された精神薄弱を含む精神障害者の保護医療がとり あげられた。「特殊教育研究連盟」は機関誌「児童心理と精神衛生」を発刊している。

 埼玉県では、9月1日、戦後2番目の特殊学級が、元加治小学校に設けられた。但し、田村(1966

:53)によれば、1950年には、すでに本庄西小学校にも「低学年の学業不振児を集めて3年生までに 学業を追いっかせ、4年生から普通学級にもどすという促進学級」があったとされている。しかし、宮 崎の調査では、本庄西小学校に該当する特殊学級はないが、本庄小学校に1936年(昭和11年)に小学 校3年までの身体虚弱児のための特別学級がつくられ、かなり続いていたことがわかった。(宮崎、

1965:140)この間の事情は、今後の調査にまちたい。

 こうした事情を含めて、1950年は埼玉県における戦後精神薄弱教育の実質的な出発の年であった。

この年、県教育委員会の指導主事として、兼務ではあったが特稼教育をも担当することになった田村正 雄氏は、秋の文部省主催の特殊教育指導者講習会に参加する。同講習会には、埼玉大学の先崎正次郎氏

も参加しており、この再者がその後の埼玉県の精神薄弱教育の推進にあたる。まず、両氏の努力によっ て、9月、埼玉県特殊教育研究会が発足した。同会は、啓蒙・理解の増進を中心に、①、研究協議会を 各教育事務所単位に開くこと、②、特殊教育の研究枝を委嘱すること、③、特殊児童、生徒の実態調査 の3つを当面の目標とした。その第1次の研究指定校には埼玉小学校特殊学級が選ばれ、具体的な教育 内容の研究が開始された。

〔1951年(昭和26年)〕大学、研究機関の側の問題として、4月、東京教育大学教育学部に特殊 教育学科が設置された。また、11月、日光で開かれた第1次日教組教研集会では、特強教育分科会が 設けられている。

 埼玉県では、1月、財団法人埼玉県社会福祉協議会が発足、その中に児童福祉事業部会が生れている。

また、前年より開始された特稼教育研究指定校には西武小学校(テーマ「特殊教育の歩み」がえらばれ、

以後毎年、一地域1校以上の指定、発表会をおこなっている。また、県教育委員会発行の「埼玉教育」

11月号は、第1回の特殊教育特集号を出している。その主な内容は;

  橋本勝三:特殊教育について

  村上政三:問題の子どもの指導(口をきかない子)

  戸賀崎恵太郎:精神遅滞児のための精神検査   元加治小学校:特殊学級の経営

〔1952年(昭和27年)〕 この年は、戦後精神薄弱教育史のひとつの山であった。1月、特殊学級 担任、指導主事、行政官、研究者等があつまって、第1回全国特殊峯級研究協議会(下関市)が開かれ た。この研究協議会は、主催者、名称はかわったが、今日につづいている。4月、明治41年開設で、

戦争で中断していた東京教育大学付属小学校特殊学級が再開された。現在の同大学付属大塚養護学校で ある。6月、日教組は「教師の倫理綱領」に階殊児童の教育の機会均等を与えること」を入れる。7月 には、精神薄弱児を持っ親の会r精神薄弱者育成会」の発会式がもたれた。同会は、 12月に第1回全 国大会を開き、タブロイド版の機関誌「手をったぐ親たち」を発行している。文部省は8月の機構改革 で、初中局に特殊教育室を設置、特殊教育推進の中心機関とした。各地で特殊学級の開設があいつぎ」

東京都墨田区教委が特殊学級の「計画設置」をうち出して、関係者の注目をあっめたのもこの年である。

 埼玉県でも、常盤小学校に特浅学級が開設された。この年の研究指定校は幸・孕』、学校(1951年開設

)で、「本校における特殊教育」をテーマに研究発表をおこなっている。また、、.「埼玉教育」は、8月

       一49一

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号で、次のような第2回の特殊教育特集号を出している。

  先 崎 正次郎:特殊児童の心理と教育

  戸賀崎 恵太郎:普通学級における特殊児童の指導   田 村 正 雄:埼玉県下における特殊教育の現況   常盤小学校:特殊学級をつくるまで   石田幸吉:特殊学級の経営

  三上 清:友情によって殻をやぶった一事例   黒沢哲夫:中学校における特殊教育の諸問題   行平晃一郎:精神薄弱児の顔と顔

〔1953年(昭和28年)〕 この年は、その後の精神薄弱教育、福祉の路線が明らかにされた。6月。

文部省は、「教育上特別な取扱を要する児童、生徒の判別基準について」次官適達を発し、それまで各 学級の自由裁量にまかせていた対象児に一応の基準を示した。ついで9月、全国学令児童生徒の精神薄 弱児の実態調査の結果を発表、特殊教育対象者の出現率を4.25%と見積った。

 中央青少年問題協議会は、5月に精神薄弱児を持っ親たちの陳情を受け、「精神薄弱児対策小委員会

」を設置してその対策を検討していたが、11月、「精薄児に対する適切な諸対策を樹立推進し、国民 の理解と協力のもとに、その福祉を積極白勺に保障するという趣旨で」(全特連他編、1961:9) r精 神薄弱児対策基本要綱」をきめ、総理大臣に意見具申した。この基本要綱は、関係各省の施策の総合調 整、実態調査、当面の諸対策、恒久的対策にわたり、その方向を示している。

 この年、埼玉県では、川越第二小学校と粕壁小学校に特殊学級ができる。また、県特殊教育研究協議 会は、はじめて、全県下の小中学校児童、生徒を対象として実態調査をおこなった。こうして、この年 は、全国的にも、埼玉県という地域においても、精神薄弱児の実態がようやく明らかになりはじめた時 期であるといえよう。また、同年度の第3次日教組教研集会には「埼玉県における精神遅滞児教育の現 状とその問題点」(福島吉郎)というレポートがなされている。

〔1954年(昭和29年)〕 本年以降は、「基本要綱」の実現の過程である。6月r盲学校、聾学校及 び養護学校の就学奨励に関する法律」が公布、施行された。しかし、養護学校に関しては、学校教育法 第93条による義務化の政令が未制定のため、この法律の養護学校児童、生徒への適用は保留されたま まであった。(辻村、1956:32)なお、この年から東京教育大学、岡山大学等に養護学校教員養成 の4年課程が認定され、教員養成制度が軌道にのせられた。12月には、中央教育審議会が、特殊教育 及ぴ僻地教育の充実、振興について文部大臣に答申した。この答申を受けて、文部省は、精神薄弱を対 象とする養護学校、特殊学級の整備、拡充のために、特殊学級建設費補助(1955年度から)、設備費 補助(195ア年度から)職業教育設備費補助(1959年度)等をうちだすこととなった。

 埼玉県においても、この年、県下の手をつなぐ親の会、特殊教育研究会等が、前年の「基本要綱」に もとづいて、県下に精神薄弱児職業補導所を設立するようにと県当局に陳情した。また、県下で最初の 中学校特殊学級が、常盤中学校に設置さ札たのもこの年である。同年の研究指定校は、川越小学校(担 任、御菩薩木の、墓、テーマ「養護学級の教育計画、特殊児童の治療教育」)であった。

〔1955年(昭和30年)〕 前年の中教審の答申にもとずいて、本年度から特殊学級設置のための建

設費の国庫補助が開始された。3月、東京で精神薄弱児、肢体不自由児教育義務制実施促進大会が開か

れ、労働省は、「精神薄弱児の職業実態調査」を実施した。9月、文部省は、義務教育の不就学児、長

      ・一50,

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期欠席児対策要綱を実施している。

 この年以降、埼玉県では、特殊学級設置が軌道にのる。この年、所沢小学校、小手指小学校、南川小 学校にそれぞれ1学級ずつの特殊学級が開設されている。研究活動の面では、常盤中学校特浅学級担任 の望月勝久氏は「精神遅滞児の作業能力の研究上・下」(「埼玉教育」1955年6月号〜8月号)「精 神遅滞児の運動能力」(「埼玉教育」1955年9月号)「精神薄弱児の職業教育の実践」(第5次日教 組教研集会)を発表している。同年の研究指定校は、粕壁小学校(担任、佐久間文彦、テーマ「精神薄 弱児の指導について」、常盤小学校(担任、福島吉郎、采沢好子、テーマ不明)、常盤中学校(担任、

望月勝久、テーマr精神薄弱児の職業指導」)であった。

〔1956年(昭和31年)〕 公立養護学校が義務教育諸学校と同じ扱いをうけることができるように なったのは、この年6月、「公立養護学校整備特別措置法」の制定、公布によってであった。同時に、

 「盲学校、ろう学校への就学奨励に関する法律」が改正されて、それまで保留されていた養護学校に就 学している児童、生徒にも就学奨励費が支給されるようになった。この年をさかいにして、養護学校の 数が急激に増加していく。文部省は、これに先だって、4月の機構改革により、初等特殊教育課を新設 それまでの特殊教育室長を特殊教育主任官と改称した。日教組等は、これに対して、特殊教育課独立促 進協議会を結成して運動を開始した。

 全日本精神薄弱者育成会は、3月から全国主要都市で山下清展を実施、大いに精神薄弱への関心をた かめる一方、4月には月刊指導誌「手をつなぐ親たち」を発刊した。特殊教育研究連盟は1953年、全 日本特殊教育研究連盟と名称をあらためたが、1956年12月、それまでの機関誌「児童心理と精神衛 生」を「精神薄弱児研究」と改題した。こうして、「愛護」(日本精神薄弱者愛護協会機関誌)を加え て、現在の三団体の機関誌がそろったわけである。

 埼玉県では。この年度には特殊学級新設の記録はない。しかし、 「埼玉教育」3月号は次のような第 3回目の特殊教育特集号となっている。

  田村正雄:本県特隊教育の現状と将来 福島吉郎:特麩学級の経営

新井道雄:治療指導の足どり

行 平 晃一郎:普通級校における特殊児童の指導 佐久間 又・彦:精薄児の作文指導

新井 美智子:発音異常児の指導        :精神遅滞児の要求水準

 同年の研究指定校はノ』・手指小学校(担任、吉元ミツエ、テーマr治療教育」)であった。また、第6 次日教組硫集会には、渡辺登氏がr精神薄弱教育の諸問題と盲児の実態」というレポートをおこなって

いる。

〔1957年(昭和32年)〕 この年は、制度上で新しい時期を画した。1月、都立青鳥中学校が、養 護学校とたった。4月には児童福祉法の一部改正により精神薄弱児通園施設がつけ加えられた。この通 園施設として、5月には、東京都立北児童学園、新潟市明星学風が発足する。また、4月には重症児、

重複障害児のための国立施設設置がきまった。但し、これが国立秩父学園として実現するのは次の年g 6月のことであったが、こうして、195ア年には、実際的に、養護学校、特独学臥社会福祉施設、通 園施設の並列時代がはじまったのである。

       一5イニ

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 文部行政の上では、6月、学校教育法が改正され、養護学校に就学している児童、生徒をも就学義務 を履行しているものとみなされるようになった。8月、文部省は機構改革をおこない、特殊教育主任官 室を独立させ、将来の特殊教育課への道をひらいた。また、本年より、養護学校への就学奨励費、特殊 学級への設備補助費の支給が開始されている。

 この年、埼玉県では、ノ」、学校2校(飯能第1小学校、熊谷西小学校)、中学校2校(熊谷桜田中学校、

初雁中学校)、計4校にそれぞれ精神薄弱児を対象とする特殊学級が1学級すっ開設された。特殊学級 の設備費補助を契機に全国的に特浅学級の設置が軌道にのりはじめるが、埼玉県もその例にもれなかっ たといえる。しかしながら、内容的には、「埼玉教育」を例にとると、田村正雄氏の「特殊教育の立場 から」(4月号)、望月勝久氏の「精神薄弱児の社会的生活能力の発達について」(5月号)の2篇が あるだけであり、研究指定校のテーマも「個々を生かす教育」(所沢小学校、担任、新井迫雄、内野要 之)と、量的には、いささかさびしい年でもあった。但し、同年8月には、待望久しかった県下で最初 の公立施設である埼玉県立明林学園が開園している。1954年、手をつなぐ親の会や県特殊教育研究会 から職業補導所設立の陳情を受けた県当局は、1956年度予算に土地買収費を計上、1年がかりで敷地 を選定し、1957年3月着工、ようやく8月1日より開園にこぎっけたのであった。同国は、児童福祉 法第42条による精神薄弱者施設であり、9力年の義務教育を修了した精神薄弱を2カ年間収容し、こ れを保護するとともに、将来の社会的目立のための知識、技能を与えることを目的としていた。(荒井

富之、1958:24)

〔1958年(昭和33年)〕 1月、大阪市教育委員会は指導課に特殊教育係を設置した。中央での 施策がようやく地方で実りはじめた時期といえる。文部行政では、4月、学校保健法が成立し、これに

よって就学時に児童の一斉健康診断がおこなわれることになった。その一環として精神薄弱児発見のた めの知能検査も実施され、その早期発見が容易となる条件ができた。同じく4月から、特殊学級担任者 には4%の調整額が支給されはじめた。

 5月、学校教育法施行規則が改正され、特殊学級は、特に必要がある場合は、普通学級の教育課程に よらずに、特別な教育課程を編成することができるようになった。かくて、精神薄弱教育における教育 課程の問題があらためて関心をあつめてきたのである。

 手をつなぐ親の会は、この年の5月、社会福祉法人となり、11月には、精神薄弱者収容施設、名張 育成園を創設、自らの手で経営にのりだした。また、12月には精薄対策促進強化について国会請願運 動を展開、幹部と自由民主党、総理府、各省関係局課長と懇談会をひらいた。

 埼玉県においても、この年もまた特殊学級の開設に力がいれられた。大宮小学校、秩父西小学校、花 の木小学校、秩父南小学校の4小学校にそれぞれ1学級すっ特殊学級が発足した。しかし、その他の面 では、前年にひきつづいて、量的には、さびしい年であった。「埼玉教育」誌上には、望月勝久氏の「

精神薄弱児の乃ち性の発達について」(5月号)がみられるだけであり、1956年以降、特殊教育の特 集はない。研究指定校は熊谷西小学校の「特殊学級および普通学級におけるおくれた子どもの指導」 ( 担任、福田まさ子)、第ア次日教組教研集会レポートは、武田静子、内野要之、坂本昭三、石井寿夫諸

氏による「普通学級における特殊児童の指導」「特殊学級における教育環境の実態について」の二つで あった。

以上が、埼玉県加須市で特殊学級設立への胎動がはじまる1958年までの国及び埼玉県の精神薄弱教

      一52一

(8)

育の概略である。それをひとくちでいえば、国全体としてみると、法律、制度あるいは研究体制、民間 団体の側では一」芯の方向づけが出来て、次の時代の量的拡大、内容の充実、整備への足場ができた時期

といえよう。この足場の上に、ひきつづき、特殊学級設立5力年計画、あるいは養護学校の増設等が進 んでいくのである。

 それを埼玉県という側からみれば、1948年以降、10年のあゆみの中で、ようやく特殊学級設置の 足並みがそろいはじめたころであり、まだ、内容の充実については模策の時期であった。

 勿論、 「はじめに」の項でもふれたような現在の研究段階からみて、上にのべた結論めいた部分は、

あくまでも仮説としかいいえない。しかし、こうした検討の中に、戦後精神薄弱教育の流れの道筋、中 央の施策が地方に実現する際の法則性、地方の実情が中央に反映していく仕方が明らかになるだろうと 考えている。以下でのぺる研究は、そのひとつの試みである。

皿特殊学級設立の過程及考察  埼玉県加須市立加須・峰校特殊学級の場合を通して一  1.設立の経緯(加須小・中学校、1963)

・1958年(昭和33年)6月中旬 5才の長男が重症児であるS氏が、就学猶予中の女児をもつN氏 に働きかけ、2人で地元の加須小学校のK校長に、就学猶予、免除中の子どもたちを収容する学級をっ くってくれるようにお願いにいく。校長は教室の確保その他について好意的な返事をする。(その後半 年ほど話は立消えになる。)

・1958年11月3日、S氏は、テレビで文化勲章授与式をみながら、才能的にめぐまれた人たちだけ のためでなく、精神薄弱児たちのためにも何かをしてやることが大切ではないかと考え、再び行動にう つる。

01958年11月4日 S氏はN比とっれだって、社会福祉事務所長のA氏に就学猶予児の対策にっい てお願いにいく。A氏は、当時、市内の精神薄弱児についての資料を集めており、市内に就学猶予児が 約30名いること、就学している児童の中にも精神薄弱児がいることなどを話してくれる。「特殊学級 をっくるにはどうしたらよいか」という質問に対し、「就学猶予児の家をまわって様子を聞くこと」を すすめる。

0S,N両氏は就学猶予児の家庭をまわり、特殊学級設置の運動に協力してくれるように頼むが、「家 の子はそんなところに入れたってどうにもならない」と相手にしてくれない。

。特殊学級とは何かということを知るために既設の特殊学級の見学を計画。身体障害者協会のF会長、

社会福祉事務所長、F教育長代理、S,N両氏の5人で幸手小学校のI学級を見学。

 ここで、S,N両氏は、特殊学級とは「学校にいけない子どもたちを集めて、学校の一隅の教室を借 りて保護する程度の学級だ」と考えていたのが、実は、「手もおぼえられないような低い子どもは大級 させないで、教育効果のあがる子どもたちを大級させている」ことを知る。これでは、特殊学級ができ ても自分たちの子どもはその対象にならないことがわかったが、それでも、市内の精神薄弱児のために

と運動をつづける。

o「特殊学級設置促進協議会」をつくる。市当局に請願書を出すことに決定。

・一

P958年12月10日ある市会議員から請願書を提出するように要請され、身体障害者協会の協力を えて、琢のような請願書を出す。

一53.

(9)

 r請願 書

  新制度の創設とともに、終戦後の教育はいちちるしく進展して小中学校教育はその設備内容の両面  に亘り、目ざましい整備充実を見るに至りましたのは、市民としても、この上もなく喜ばしい事であ  り、当局の御努力に対して深く感謝している次第です。

  しかしながら、つらつら考えまするに、現在の小中学校教育は、ひとり当市に限ったことではあり  ませんが、その施設、内容とも大方は普通。正常以上の児童生徒を対象として計画実施されておりま  すので。心身の障害のため、普通の能力を恵まれていない児童、生徒に対しては、何等積極的施策が  講ぜられていないのではたいかと思われます。

  教育基本法は昭和22年に於て、つとに教育の機会均等を宣言して、「すべての国民はひとしくそ  の能力に応ずる教育を受ける権利を与えられなければならない」と規定しているにもかかわらず、少  数とは元へ、不幸な児童は尚末だ真の教育の機会を与えられないに等しい状態にあると云はねばなり  ません。

  これは児童の保護者はもとより、まだ単なる福祉社会の一員たる市民としても、まことに見るにし  のびない悲惨事であり、人権の軽視、これより甚だしいものはないと思ふのであります。聖書には「

 九十九匹を野原に残して為いていなくなった一匹の羊を見つけるまでは捜して歩かたいであろうか」

 と書いてあります。幸にして正常児童教育は既に一応の整備を下るに至りました。この際、これ等不  幸な児童らも、社会構成の1負として、その生存の意義を果すことのできます様、特殊教育の実施に  ついて何分のご高配を仰ぎたく請願いたす次第であります。

   昭和33年12日10日  請願者代表 N,S」

 この請願に賛同した人々は162名そのうち約100人ま児童委員、民生委員で、あと、宣教師、牧師、

施設長、保健所長、体協理事長、公民館長、歯科医師会長、各地区P T A会長、住職身体障害者地区 会長、遺族会長、保護司、福祉会長等が名前をつらねていた。

。請願書をっくるかたわら、隣接市の教育長をたずね、特殊教育の法的根拠として、学校教育法第6章 に「特殊教育」の条文があることを教えられる。また、予算的裏づけをとるためにたぴたぴ市長を訪ね て、特殊学級設置の費用として3万円を予算に計上してくれるように要請する。これに対し、市長は5 万円をさいてくれることになる。

01958年12月19日 市議会委員会は、前記の請願の審査に入る。席上、請願者代表、S,N両氏 はrとりあえず、加須小学校内に知能指数の低い精神薄弱児童に対し、特殊学級を設け、特殊教育を施 され、将来は全地域の学校に普及すると同時に身体障害児に対しては、これから施設を考慮せられたい

」(市議会議事録、1958 1223)とのべる。委員会は教育長、社会福祉事務所長等の出席をもと め、県内における特殊学級設置の状況及び身体障害の児童に対する施設の状況及び市内の身体障害児重 の数及び知能指数が低いため等の事由により、就学を猶予されている児童及び免除されている児童数を きいた。

。1958年12月22日 市議会委員会は、既設校の運用状況を知るために、浦和市立常盤小学校を視 察、ひきつづいて委員会を開き本請願を採択、新年度よりでもこれが実現がみられるようにとの希望し て、市長及び教育委員会に交付した。

01958年12月23日 市議会は本会議において委員長報告通り、「心身障害のために主常教育を受 けられない児童に対する特殊施設設置方請願」(市議会議事録、1958 1223) を採択した。

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(10)

。請願通過の時点で、予算を30万円に増額してくれるように市長に頼む。

。特浅学級の担任さがしに着手、F中学校長のすいせんでF小のM教諭の説得にかかる。M教諭は引受 ける意志のないことを言明。

。一 福ナ・特浅学級担任の定員1名増を県教委に働きか1才乱県の方針としては、1958年までは特殊 学級の場合、開設1年後にその実績の上に立って、定員の1名増をおこなっていたが、1958年11月 頃、1959年度からは、開設と同時に1名配当する方針にかえていた。S,N両氏はこれを知って、加 須小学校に特殊学級を開設すると局時に{名配当してくれるように強力に働きかけた。

。地域啓蒙のため先進校の常盤小学校特殊学級、県立精神薄弱児収容施設明休学園の見学や埼玉大学の 先生の講演を計画、たくさんの人の協力があって成功。

。1959年(昭和34年)1月 定員増をねらって町の有力者、県議、県教育委員等に働きかける。手 ごたえなし。県当局としてはすでに1959年度の定員を決定しており、増員は考えられないとの意向を

示す。

。1959年2月1日 設置希望校加須小学校の講堂落成式に参列の県知事に定員増を陳情。「考えてお く」との返事をうる。知事を動しうる人や県議、県選出代議士に働きかけを強化。

。1959年2月19日 県教育委員会よりN氏宅に定員1名増が決定したとの連絡がある。

。1959年2月22日 再びM教諭の説得にあたる。M教諭は固辞。

。1959年3月23日 身体障害者鵠会が特殊学級設置資金をあっめるもよおしを主催、利益4万2千 円を加須小学校に寄付。

。M教諭は担任問題で埼玉大学のS助教授を訪問。S助教授は「2,3年担任すれば、子どもの見方、指 導の仕方がすばらしくなる……担任して一くれといわれるなら担任した方がいい」と助言。一M教諭はまだ 決心がつかない。

。1959年3月31日 M教諭に辞令が交付される。

。1959年4月 1日 加須小学校に特浅学級の開設決定。同時にM教諭がF心より着任

。1959年4月 4日 既定の方針としてM教諭に特殊学級担任がいいわたされる。

。1959年5月 7日 加須小学校特浅学級開級。

2.問題点とその考察

与えられた紙数も残りわずかになったので問題点を列挙する。

(1〕精神薄弱、特に重度、重症児を含む就学猶予、免除への対策が不在であったこと。

12〕重症児をもつ親たちが終始一貫して特磯学級設置運動の担い手であったこと。しかしながら、特  殊学級が設置された時彼らはその対象者からはずされてしまったのである。

(3)社会福祉事務所、民生委員、児童委員、身体障害者協会等の積極的な協力があったこと。

(4)これに対して、教育の第1線にある学校側は、特殊学級の設置には協力的であったが、最後まで  受動的であったこと。

(5)教育行政当局の姿勢は不明確であったこと。特に市教育委員会は消極的であった。

(6)特殊学級設置、定員増の決定において、知事をはじめとする、いわゆる有力者の力が大きかった  と推定されること。

(7)特殊学級担任者の選定、説得が難航して、正式決定をみたのが鯛級直前であったこと。しかも、

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(11)

 担任予定者は開設校からは選ばれず、また、全くの未経験者であったこと。

(8)特殊学級設置の決定から開級までの準備期間が1ヵ月しかとられていないこと。

 特殊学級自体が、制度的にもまだ流動的な状態にあることから、ここで列挙したいくつかの問題点カミ 全体的視野の中で、どのような位置づけを与えられるべきであるかということはまだ結論めいたことを いう時期ではない。しかしながら、こうした問題点が、その後の特稼学級経営のあらゆる面に大きな影 響を持っていることも事実である。したがって、私たちは、すこしずつでも、その意味を明らかにして

いく努力を積重ねていかなければならないのである。

 なお、ここでとりあげる小学校特殊学級の場合について、設置経緯に関する研究は全くなきれていな いといってよいが、養護学校高等部の設置経緯に関しては井村らの研究(井村逸郎、藤島岳、1969

103)があることを付記しておく。

lV まとめと残された霞題

 まえにのぺたように、日本の戦後の精神薄弱教育の流れの中で、1958年当時は、すでに、制度的に は一応のととのいをみせ、内容の充実、整備にかかろうとしていた。そしてまた、埼玉県でもわずかな おくれをみせたがらも、ほぼ、同じあゆみをしていた。しかしながら、それをひとたび、個々の学級の 実情にてらして考える時、数多くの問題点が指摘された。前節で列挙した問題点は、それぞれに中央や 県の施策のもつ問題点の反映でもある。例えば、精神薄弱教育の啓蒙ということが、戦後精神薄弱教育 の出発から声を高くしていわれながら、加須ノ」、学校特殊学級開設のプロセスにおいて、それが、いかに 困難なものであるかということが、あらためて問題として提起される。今後は、こうした個々の実態を 土台にした施策、方針がうちだされ、実行されなければならないが、そのためのひとつの試みが本論な

のであ孔以下で残された問題点を要約して稿をとじる。

 1.戦後精神薄弱教育の歴史の研究、特に都道府県段階から、各学級段階に至る実証的研究  2.就学猶予、免除の対象となった児童の問題とその対策

 3.特殊学級設置の要求とその実現の過程  4.特殊学級担任者をめぐる諸問題

〔引用文献〕

1.荒井富之(1958):学園紹介、埼玉県立明林学園、「精神薄弱児研究」1958.3,5:24

2.井村逸郎、藤島岳(1967):精薄教育の方法論的研究V一形態の種類と意味一一5)一   一一高等部の形態一、日本教育学会第26回大会発表集録、196ア8:103

3 加須市議会議事録、1958 12

4。加須小、中学校(1963):遠い道一特殊学級担任の記録一、加須市教育委員会、1963 5.三木安正編(1966):精神薄弱児の教育、一。東京大学出版会、 66

6,宮崎直男(1965):研修の機会を与えられて}研究会と講義の記録一1965、

  (代謄写)

Z 日本教職員組合(1966):心身障害児教育一「日本の教育」1〜14案よりr   日本教職員組合、1966

      −56一

(12)

8,

9

10.

11.

12.

13.

141

日本精神薄弱者愛護協会(196フ):全国精神薄弱施設名簿、r愛護」1697、臨時増刊 日本精神薄弱者愛護協会、1967

精神薄弱問題史研究会(1965):精神薄弱教育史年表、精神薄弱問題史研究会、1965.10 先崎正次郎(1966):特殊教育風土記、埼玉、「精神薄弱児研究」1966.1. 88:57 杉田 裕、飯森義次(1952):精神薄弱教育の変遷、「精神薄弱児講座」1952.2:29−

68

田村正雄(1966):埼玉県における戦後精薄教育の発展、r精神薄弱児研究」1966.10−

97:52−55

辻村泰男(1956):特殊教育一その現状と基本間題一、光風教育ライブラリー203 光風出版、1956

全日本特殊教育研究連盟勉編(1961):精神薄弱者問題白書1961、日本文化科学杜 1961

      −196Z  12. 25 一一一一一

・・

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参照

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