• 検索結果がありません。

物語る者としての現存在

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "物語る者としての現存在"

Copied!
52
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

「机」「赤」「正義」「勇敢さ」「殺人」・・・、我々は、日常的にこれらの語を使用し、会話や 行動を行っている。しかし、これは大変不可思議なことではないだろうか。というのは、我々 はお互いの頭の中を覗き見て、その語の意味が一致しているかどうかを確認できるわけではな いためである。確認できないにもかかわらず、普段我々は意味が共有されていることを疑う ことはない。しかし、相手の頭の中を覗き込めないという点で事情は同じであるはずなのに、

我々は犬や鳥、アリとはそのような理解が共有されているとは考えない。我々が名称や規範の 意味をどのように理解しているのか、もし人間のみが意味理解でき、動物にはできないとすれ ば、それを可能にするものは何かを明らかにすることが、本論文の最終的な目的となる。

本論文の主題を考究するために、本論文では、論題が示している二つの方向性から問題を考 察していく。第一は、マルティン・ハイデガーが『存在と時間』(1927)およびその後の 1930 年代前半までのテキストにおいて提起した現存在(人間)の分析である。特に、ハイデガーの 1929/30 年講義である『形而上学の根本諸概念』(1)における有名な人間と動物の定義を手がか りとしたい(1.)。第二の方途は、物語(narrative, story)の構造に着目するという方向性で ある。その際、ダントの物語文についての分析を用いることで、1. で明らかにされた意味の 構造についてさらに理解を深めることにする(2.)。

本論文2. では意味の構造を物語として解明することになるが、その過程で、二つの疑問に 突き当たることになる。第一に、我々が二つの出来事を順序づけて物語るためには、「今」の 変容が必要であることが明らかになるが、『存在と時間』における論述ではその機制が十分に 明確ではないことである。第二に、我々が二つの出来事を関係させ物語ったとしても、それが 即座に共有される意味とはならないことである。

以上の二つの疑問は、一見別々のものであるかのように見えるが、実は密接に関係しあって いる。そこで、3. ではまず、前者の疑問、二つの出来事を順序づけて物語ることを可能にす るような「今」の変容はいかになされるのかを、『存在と時間』の「今」についての分析を手 がかりに、社会学者の真木悠介らの知見を援用しながら考察する。

木 村 史 人

(2)

次に、4. では、後者の疑問、すなわち物語という構造を有する意味を理解した際に、ただ 自分一人だけが理解しているものとして了解されるのではなく、他者とも共有された意味とし て了解されることがいかにして可能となっているのかを、日本の社会学者である大澤真幸の

「第三者の審級」論を考察することで示す。

本論文の結論として示されるのは、「人間(現存在)とは何か」「人間(現存在)とそれ以外 の動物の種差は何か」に対する暫定的な回答である(5.)。

1.「世界形成的」な現存在

周知のように、ハイデガーが『存在と時間』において、我々自身がそれである現存在を「存 在の問い」を問う際の範例的な存在者であるとしたのは、人間のみが現存在として存在者の意 味としての存在や世界を了解する者であると考えたためである。すなわち、『存在と時間』に おいては、現存在(人間)のみが、存在やその意味を了解し、その他の生き物や無生物はそれ らを了解してはいないとされている。しかし、少なくとも何らかの意識や感情を有し、さま ざまな出来事に反応できるように観察できることから、生き物、特に比較的高等な知能をもっ た哺乳類が、全く存在や意味を了解していないということは自明ではないだろう。それゆえ、

『存在と時間』でハイデガーが現存在のみを「存在の問い」を問う際の範例的な存在者とした ことは、やや独断的であったといわざるをえないように思える。

しかしながら、良く知られているように、ハイデガーは 1929/30 年の冬学期講義『形而上学 の根本諸概念』において、人間と動物の差異に着目し、それを「世界」との関係で定義してい る。本節 1.1 ではまずこの講義における人間と動物との差異を確認することからはじめる。次 に 1.2 では、1931/32 年の講義『真理の本質について』においてハイデガー自身が用いている 図を参照し、1.1 で明らかにされた人間(現存在)の構造を視覚的に把握する。そして 1.3 では、

本節の考察を概括し、『形而上学の根本諸概念』の人間(現存在)分析の不十分な点を指摘す る。

1.1 『形而上学の根本諸概念』における現存在と動物の差異

1929 年から 30 年にかけての講義『形而上学の根本諸概念』において、ハイデガーは『存在 と時間』において展開された世界概念や、世界と人間とのかかわりの問題を、今一度彫琢しよ うと試みている。この『形而上学の根本諸概念』において、「石は無世界的(weltlos)である」、

(3)

「動物は世界貧乏的(weltarm)である」、「人間は世界形成的(weltbildend)である」という 三つのテーゼが提示される(GA29/30, 263)(2)

ハイデガーは、当時の動物学の知識を用いていくつか昆虫や動物の例をあげながら(3)、動 物の振る舞い(Benehmen)は、人間の関わり(Verhalten)、認取(Vernehmen)とは異な っており、或るものを或るものとして3 3 3 認取しえず、それにもかかわらず他のものによって取 り去らわれているという点で、「とらわれ(Benommenheit)」であるとする。たとえば、蜂の

「蜜を集める」→「帰巣する」という振る舞いは、蜜を蜜として3 3 3 認識しているのでも、巣を巣 として3 3 3 認識しているのでもない。この場合蜜によって腹が飽満となったという信号が蜜を吸う という衝動を抑止するため、蜂の振る舞いは直前にある蜜とは無関係であり、次々と継起する 衝動によって突き動かされているだけなのである。動物においてこのような衝動の抑止と解 除とは順次つながり、ひとつの「抑止解除の輪(Enthemmungsring)」を成しているとされる。

動物のこの輪の中には、抑止解除するもの以外は入ることはできず、それゆえ動物はその輪に よってあらかじめ規定されたものとだけ遭遇するのである。

それに対して、「人間は世界形成的である」というテーゼは、人間がただ存在者に関連を持 つだけではなく、人間には「全体において存在者が存在者として開かれている」(GA29/30, 412-413)ことを表現しているとされる(4)。重要であるのは、「全体において(im ganzen)」

という契機と、「存在者が存在者として3 3 3」、すなわち「として(als)」という契機である。

ハイデガーは、この「として」は、挙示的な語り(aufweisende Rede)あるいは挙示的な ロゴス(λόγος άποφαντικός)という命題の一形式であると指摘する(GA29/30, 417)。言葉に おける「として」は、たとえば「或るものとしての或るもの」、「b としての a」として表現さ れる。「b としての a」は、「a は b である」という単純な命題として、或るものと別の或るも のとの関係として考えることも可能である。しかしハイデガーはそのような理解では、「とし て」の本来の性格が逸されていると考える。なぜならば、そのような命題を言明する際には、

前もってすでに b としての a という存在者が出会われているはずであり、その出会いにおい てすでに「として」が働いているためである。言い換えれば、命題が成立するためには、その 内で b としての a という存在者が出会われるような「前述語的な(vorprädikative)開かれ」、

あるいは「前論理的な真理(vorlogische Wahrheit)」が必要である。このような「前述語的 な開かれ」、あるいは「前論理学的な真理」が、そこにおいて真か偽かが決定される「遊動空 間(Spielraum)」として開かれているからこそ、あるロゴスが、挙示的であるのかそうでは ないのか、言いかえれば、「真」である(存在者に適合し発見する)か「偽」である(存在者

(4)

に適合せず覆蔵する)かが可能となるとされる(GA29/30, 489, 502)。

この「前述語的な開かれ」あるいは「前論理的な真理」において存在者が出会われている ことが、「人間(現存在)と動物との種差とは何か」という問いに対する暫定的な回答となる。

別言すれば、「前述語的な開かれ」、あるいは「前論理的な真理」において何々「として」の存 在者と出会う人間(現存在)は、同じものに関わっていても、「抑止解除の輪」において物と 出会う動物とは、そこで出会われているものが相違しているのである。

しかし、この人間(現存在)に特有の「前述語的な開かれ」とは何であるのか、とさらに問 いを進めることができる。ハイデガーは「前述語的な開かれ」は、三つの契機から構成されて いるとする。三つの契機とは、第一に、拘束性へと進んで自らを差し出すことであり、第二に、

全体形成であり、第三に、存在者の存在を露呈する(enthüllen)ことである。

第一の拘束性へと進んで自らを差し出すこととは、言明において主題となっている存在者に 対して自ら拘束され、委ねることであり、上述の言明に先立ってある存在者が「~として」出 会われている事態を名指しているといえる(GA29/30, 496)。

第二に、すべての命題は、「全体における」が先行的に形成されていなければならないとさ れる。たとえば、「この黒板は黒である」という命題において、この黒板という存在者は前述 語的に開顕的でなければならないが、しかしそのためには、命題の中では表明的には現れては こない「全体」としての教室が「黒板は黒である」という命題を可能にする条件として開かれ ていなければならない(GA29/30, 501, 505)。

『形而上学の根本諸概念』においては、「全体」に関してのそれ以上の分析はなされていな いため、『存在と時間』第一部第一篇第三章における道具分析を手がかりとしたい。そこでハ イデガーは道具のあり方を分析し、ある一つの道具は、他者とも共有される意味の連関として の世界(共世界)を先行的に了解することにおいて、「本質上 > ~のための或るもの <」(SZ, 68)として出会われるとする。この「~のための(Um-zu)」という構造のうちには「或るも のへ向かっての指示」がひそんでおり、「存在者は、その存在者がそれであるその存在者とし て、或るものへと指示されているということ、このことへ向けて(daraufhin)、発見されてい る。存在者はその存在者でもって、或るもののもとで、その適所を持つ」(SZ, 84)とされる。

このように「でもって(mit)」と「のもとで(bei)」の連関において、或るものへ向かって指 示されていることによってその道具は適所性を得る。このような適所性の全体が、世界の構 造として世界性あるいは有意義性(Bedeutsamkeit)と呼ばれる(SZ, 87)。そして、この適所 性の連関は、中心のない連関ではなく、第一次的な目的(Wozu)としての「目的であるとこ

(5)

ろ(Worumwillen)」としての現存在の存在を起点にしているとされる。すなわち、家を作る という制作においては、現存在が宿るという可能性を目的として、世界は意義付けられている

(木村 2015, 74、122)。

以上の分析は、『存在と時間』第一部第二篇において、現存在の存在(気遣い)の意味を時 間性として捉え直すハイデガーの時間論にまで視野を広げることによって、より適切に捉え られうるだろう。道具を使用する際の現存在は非本来的な時間的なあり方であるとされ、予 期、忘却性、現在化によって構成されているとされる。たとえば、トンカチの使用においては、

完成された家やそこに住まうことが予期され、本来的な自己は忘却されることで、目の前のト ンカチが手に馴染んだものとして把持されつつ現在化される。すなわち、道具の連関としての

「全体」は、共時的な連関(現在そこにあるトンカチと木材、釘、仕事場)だけではなく、通 時的な連関(まだ存在していない完成した家、手に馴染んでいるもの)からも構成されている といえるだろう。

『形而上学の根本諸概念』において「前述語的な開かれ」を構成する第三のものとして挙げ られていたのが、存在者の存在の露呈であった(5)。着目したいのは、全体形成と区別されて、

存在者の存在の露呈が挙げられている点である。『存在と時間』においては、道具という手許 存在者の存在とは適所性であり、道具が適所にあるといえるのは、道具の指示の連関から形成 される有意義性としての世界において適切に位置づけられているためと考えられていた。この ような『存在と時間』の道具分析では、可能的なものと現在あるものからなる連関と道具の存 在としての適所性や適所性がその内に位置づけられる有意義性としての世界との区別は、明確 ではなかったといえる。それに対して、『形而上学の根本諸概念』においては、両者を明確に 区別したうえで(6)、三重の事態を生起させる働きが「企投(Entwurf)」として「世界形成」

(世界の現成(Wesen))と名指されているといえる(GA29/30, 526)。

1.2 『真理の本質について』における二つの図

『形而上学の根本諸概念』において現存在は、存在者に対して自ら拘束されること、全体形 成、存在者の存在の露呈という三層構造によって捉えられていた。この洞察を視覚的に把握し、

また当時のハイデガーが三階層からなるものとして現存在を捉えていたという 1.1 の考察を裏 付けるために、1931/32 年の講義『真理の本質について』で彼自身が提示する、二つの図に着 目したい。ハイデガーはこの講義の後半において、プラトンの『テアイテトス』の読解に取り 組み、まず以下のような図 A を提示する(7)

 

(6)

(GA34, 313)  

この図1は、虚偽のドクサ、見間違えを可能にする現存在の構造である二肢体(Gabel)を 示した図である。この図における水平方向の線は、目の前にあるものの現在化を表し、上方 への線は準現在化(Vergegenwärtigen)を表している。たとえば、遠くから歩いてくる人物

(本当はソクラテス)を、テアイテトスと間違えることは、現在化と準現在化とが協働してい ることによって可能となる。ある人物が遠くから近づいてくるを見かけたとき、テアイテトス が毎日この時間にここを通りかかることを知っていたため、まだその人物がはっきりと見えな いうちに、その人物をテアイテトスであると考えたが、実際に近くに来たとき、その人物がソ クラテスであることがわかり、先ほどのドクサは虚偽のドクサであったことが判明するという 状況である(GA34, 265, 311)(8)

同一の存在者について、準現在化と現在化とが協働していることによって、このような虚偽 のドクサが可能となる。この場合、現在化とは、遠くから近づいてくる人物の有体的な知覚で あり、準現在化とは、有体的な出会いに先立ってテアイテトスを思い出し、それによって予 期することである。このような二肢体において、準現在化の肢は「それを越えて(darüber)」、

つまり有体的な知覚としての「まっすぐに(geradeaus)」伸びる現在化の肢を越えて、可能 的なものへと伸びている。

ハイデガーは同講義において、もう一つの図を提示している。まずは、その図2を見てみよ う。

図1 二肢体

(7)

(GA34, 321)         

この図2において、現在化と準現在化は、存在者(Seiendes)へ伸びる二本の横線であり、

それを超えて存在(Sein)へと伸びる線が描かれている。さらに三本の線を取り囲むように、

「存在への志向(Seinserstrebnis)-開蔵性(Entbergsamkeit)」という矢印のついた曲線が書 かれている。

存在者に向かう二本の線は、図1の「二肢体」を示していると考えられる。心(Seele)、プ シュケー(ψυχή)は「身体あるいは身体的な能力を通路として」(GA34, 200)、音や色を知覚 することにおいて、現在化と準現在化という二重の仕方で働いている。しかしそれだけではな く、心は「それ自体でおのれ自身を通して」(GA34, 199)、「おのれ自身を通路として」(GA34,

200)、存在を了解していることを、この図の一番上の線は示している。そしてこの「存在への

志向」と存在者との関わりとが、「根源的な分岐体(die ursprüngliche Gabelung)」と呼ばれる。

我々の現存在0 0 0の本質構造には、現存在が存在者に対する態度において、どのような仕 方においてであれ、予めすでに存在へ向かって方向付けられているという、この根源0 0 的な0 0分岐体が属している(GA34, 322)。

我々は先行的に存在を了解しているからこそ、個々の存在者と出会うことができる。言い換 えれば、人間がある存在者が仮象であるのか否かを論じることができるのは、このような存在 者から区別された存在を了解する限りにおいてである。そして図2は、このような「根源的な 分岐体」とさきほどの図1において描かれていた虚偽のドクサを可能にする二肢体との関係と して理解することができる。二重の存在者への関わり(現在化と準現在化)をさらに根源的に

図2 根源的な分岐体

(8)

基づけるものが、存在へと伸びる直線なのである。

以上で確認された『真理の本質について』における二つの図、特に図2は、『形而上学の根 本諸概念』において「世界形成的」とされた現存在の構造と対応的に理解することができるだ ろう。すなわち、存在者に対して自ら拘束されること、全体形成とは、図1の二肢体に、ある いは図2における存在者へと伸びる二本の線によって表現され、そして存在者の存在の露呈は 図2における「存在への志向」によって表現されているといえる。

1.3 意味は固定的で先在するのか

本節のここまでの考察が示したのは、人間(現存在)は「前述語的な開かれ」を有している 点で動物と相違しているのであり、さらにそのような開かれが成立するためには、三重の契機、

拘束性へと進んで自らを差し出すこと、全体形成、存在者の存在の露呈が協働していなければ ならないことであった。そして『真理の本質について』の二つの図を参照することで、三重の 契機を有する「企投」に対応して、現存在の構造が三階層からなるものとして捉えられていた ことが視覚的にも確認された。

以上のように三階層からなるものとして現存在を捉えることによって、我々が道具の意味を 理解し、使用する事実、たとえば我々はある道具をその本来の用途とは異なった仕方で用いる 場合を、より適切に説明しうると考えられる。たとえば、トンカチ(釘を木材に打つためにあ るもの)を、高いところにあるものを取るためのものとして用いるという場合である。この場 合、我々の目的(予期された可能性)が「打つ」から「(高いところにあるものを)取る」へ と変更されたことで、「打つためにあるもの」は「高いところにあるものを取るためのもの」

へ変更され、そのことで周囲のものとの共時的な連関も変更されたといえるだろう。しかしな がら、この例の場合、我々は先程まで「トンカチ」だったものが、突如別のもの(たとえば

「棒」)となったとは考えない。すなわち以上の状況を、先程まで「トンカチ」だったものが消 失し、突如「棒」が現れると記述するのは、事態を捉え損ねているといえるだろう。そうでは なく、通常「打つためにあるもの」としての「トンカチ」が、今回は例外的に「高いところに あるものを取るために」用いられると考えるべきだろう。

このような例は、現存在が三階層をなすと考えることで、整合的に理解することできる。す なわち、「トンカチ」という存在者の意味は図 B における「存在への志向」が向かう「存在」

に対応し、予期された可能性は存在者へと伸びる二本の線のうちの上方の線に対応すると考え るのである。このように対応しているとすれば、「トンカチ」という意味が不変であることと、

(9)

目的(可能性)が変更されたこととが同時に成立しうることになる。トンカチが「高いところ にあるものを取るために」用いられる場合、トンカチの意味自体が「高いところにあるものを 取るためのもの」へと変貌しているわけではない。すなわち、存在・意味は変更されておらず、

準現在化がかかわる可能性の次元において、「木材で作製されたもの(たとえば、家)」という 可能性が、「高いところにあるものを入手すること」という可能性へと変化しているのである。

ハイデガーが、動物は「抑止解除の輪」を内側にもっているにすぎず、それゆえ「世界貧乏 的」であるとし、それに対して人間(現存在)は「世界形成的3 3 3」であると述べた際に考えてい たのは、以上のような三階層からなることによって、人間の世界への関わり方が「形成的」で あり、世界は状況に応じて可変的かつ多層的であることだと思われる(9)。「世界」も「抑止解 除の輪」も事物へと関係することを可能ならしめる構造であるが、人間の世界への関わり方が

「形成的」であるのに対して、動物の「抑止解除の輪」は変化することはなく、常に同一であ る。

しかし、「世界形成的」とは何であろうか。確かに、我々はある一つの物をひとつの意味を 保持したままで複数の用途に用いることができる。そうであるとすると、先述の例では、用途 が変化しても「トンカチ」の意味が変化しないことが確認されたように、意味は同様の可変性 を有しておらず、固定的・先在的であるということになるのだろうか。とすれば、人間(現存 在)の動物に対する種差、すなわち「世界形成的」であるということの含意は、固定的・先在 的な意味のもとである可能性を選ぶことができるという点にあるのだろうか。

以上の疑問を別の角度から照明するならば、本節で提示したような現存在解釈に対する根本 的な疑義の表明となるだろう。存在者の存在としての意味が固定的・先在的であるという解釈 は、あえて日常的な道具の使用から考察を始めることで、『存在と時間』のハイデガーが打破 しようとしていた存在の捉え方となってしまってはいないだろうか。というのは、『存在と時 間』の道具論の眼目の一つは、道具の意味が固定的・先在的ではなく、我々のその都度の目的 に応じて変化しうるという点を指摘することにあったように思われるためである。

しかし以上のように、意味を固定的・先在的なものとして捉えることは、『存在と時間』の 道具論に内在するある難問を解決する方途でもあるようにも思われる。その難問とは、「世界」

がその現存在に固有の「目的であること」を起点に連関付けられたにもかかわらず、「世界」

が他者とも共有された「共世界」でもあるとされることである。『存在と時間』第一部第一篇 第四章では、共世界で生きていることから議論が出発しているために、なぜ固有の「目的であ ること」から意義付けられた世界が「共世界」となるのかという点は曖昧的かつ独断的にとど

(10)

まっていたといえる。しかし、意味がそのつど形成されるのではなく、固定的・先在的である とすれば、すなわち、固定的・先在的な意味は他者とも共有されるが、そのつどの目的とそれ に応じた道具の用途はそのつど個々人ごとに別々であるとすれば、以上の難問は解決しうると いえる(10)

以上を概括しよう。意味が固定的・先在的であるとすれば、いかにして固有の「目的である こと」から意義付けられた世界が「共」世界となるのか、という難点は解消される。しかし、

そのような理解は、『存在と時間』においてハイデガーが峻拒しようとした立場であるように も思える。もしも本節で提起した『形而上学の根本諸概念』/『真理の本質について』におけ る現存在解釈が、意味の固定性・先在性を示しているとすれば、ハイデガーは『存在と時間』

出版後の数年間で、自身が峻拒しようとしていた立場を採用するようになったことになるだろ う。

本論文の結論を先取りしておくならば、以上の理解は即断であり、誤りであるといえる(11) 本論文の以下の節では、「世界形成的」ということを物語としての意味という観点から照明す ることによって、そのつどの使用においては不変である意味が、しかし形成されたものとして、

固定的かつ可変的であることを示したい。

2.物語の構造

前節の考察は、主として『形而上学の根本諸概念』および『真理の本質について』の議論を 参照し、その時期のハイデガーが現存在を三階層からなるものとして捉え、そこに人間と動物 の相違を見いだしていたことを確認した。しかし前節での考察は、意味について十分に照明し ていなかったことによって、「世界形成的」とは何であるのかを十分に解明することができて いなかったといえる。そのため、本節では意味の構造を、主に物語論を用いて分析することに したい。

本節では、まずアーサー・C・ダントが『物語としての歴史』において分析している「物語 文(narrative sentence)」の構造を確認する(2.1)。続いて、2.1 で得られた物語文の構造を 用いて、ハイデガーの道具論を分析する(2.2)。本節の最後では、意味が固定的・先在的であ るとともに、可変的なものでもあるという両義性を孕んでいることを明らかにする(2.3)。

(11)

2.1 ダントの物語(文)の分析

ダントは、歴史と物語の関係について、以下のように語っている(12)

歴史における物語の役割はいまや明白であろう。それらは変化を説明するのに用いられる のであり、ことに特徴的なのは、一生涯の期間と比較すれば長大であるような期間にわた って生じる、大規模な変化を説明するために用いられるのである。こうした変化を顕在化 させ過去を時間的全体に組織化すること、起こったことについて物語ると同時にそれらの 変化を説明すること―たとえ物語文に言語的に反映された時間的パースペクティブとい う手法の助けを借りてであっても―それが歴史の課題である(Danto 1980, 404-5)。

すなわち、変化を説明し、過去を組織化することこそが、「歴史の課題」であり、ダントは その物語の最小単位を、変化を説明する「物語文」に求める(13)。物語文とは、ある出来事と 別の出来事の間の変化を説明するという意味で、「中間を満たす」(Danto 1980, 372)もので ある。すなわち「物語とは、始めから終わりまでの変化がどのように起こったかについての 記述、言うなれば説明なのであり、始めと終わりはいずれも被説明項の一部である」(Danto 1980, 372)とされる。このことから、物語とは相互に脈絡のない出来事の羅列をただ記述す ることではなく、関連のある出来事を取り上げ、あるいは関連のない出来事を除外したうえで、

その変化を説明することといえる(14)

次にダントは、物語文の特徴を、「始まり(Anfang)」としての出来事に何が選ばれるのか ということが、「終わり(Ende)」(結果・帰結)としての出来事から規定されるという点に見 る。すなわち、「始まり」と「終わり」とは等価ではなく、物語ることとは「終わり」から規 定されるような「始まり」から「終わり」へとどのように/なぜ「変化」したのかを「説明」

することなのである(Danto 1980, 394)(15)。さらにまた、ダントは、どのようなカテゴリーが 変化の理由として想定されるかは、「物語 S の観点で出来事 E は S の部分を成すが、出来事 E’はそうではないという際に我々が引き合いに出す」(Danto 1980, 28)ような「物語の規準」

としての「一般法則」によってあらかじめ規定されているとする。

以上のダントの議論からは、ただ出来事の記録を集積するだけで歴史が形成されるのではな いこと、すなわち歴史の成立条件として、我々はただ二つの出来事を記憶しているのみならず、

記憶している二つの出来事を連関させ、その変化を説明することができなければならないとい える。本項で示された、ダントの物語文の性格を以下のように定式化できるだろう。

(12)

しかし、この図3では、物語文の分析が含意する重要な点が、適切に捉えられていないよう に思われる。それは、物語文が「変化」を説明するというときには、その変化が生起したこ との説明としての原因や理由が起こらなければ、事態 B が起こらなかったという認識が伴わ れているということである。別言すれば、事態 A → B という変化の説明として、物語文が機 能するためには、A → B が必然的ではないこと、すなわち B とならない可能性が見てとられ ていなければならない。たとえば、ダントの提示している例である「バンパーがへこんでい る」ことに対する物語文では、「へこんでいないバンパー(事態 A)→へこんでいるバンパー

(事態 B)」という変化がいつどのようにして起きたのかが説明されるが、その説明の要求は、

そのような変化の原因・理由がもし生起していなければ3 3 3 3 3 3 3 3 3 3 3事態 B は生起しなかった3 3 3 3はずだろう、

という認識を前提としていると考えられる。すなわち、我々は結果・帰結としての事態 B を 必然的なものではない3 3 と見なす限りで、言いかえれば、事態 B が起きなかった可能性、その 原因・理由が生起しなければ事態は変化せず、事態 A のままだっただろうという可能性が視 野に入る限りで、A → B という変化についての説明を有意味に物語りえるのである。以上の 議論を踏まえ図示するならば、下図のようになるだろう。

原因・理由(説明)

変化 事態

A

―→ 事態

B

〈過去の時点①〉 〈過去

/

現在の時点②〉

事態

A

(原因・理由の不在)

変化 事態

A

(原因・理由) 事態

B

〈過去の時点①〉 〈過去

/

現在の時点②〉

図3 物語文の構造(1)

図4 物語文の構造(2)

(13)

本項で考察したように、物語ることは、そうではなかった可能性(事態 A)との対比にお いて、変化の結果(事態 B)を見据え、その変化の原因・理由を説明するものである。さら に指摘したいのは、ただ思い出されるのではなく、このような物語ることが駆動され、事態 A → B の変化を説明しようとするのは、しばしば「そうではなかった可能性」が思い浮かべ られるような結果についてということである。

たとえば、「酒に酔って財布を落とした」という出来事を考えてみよう。この場合、酒を飲 む前の「財布を持っている」という事態 A から「財布を持っていない(落とした)」という 事態 B への変化の原因・理由として「酒を飲んだ(酒に酔った)」ということが挙げられ、事 態 A → B という変化がなぜ起こったのかが説明されている。それに対して、「酒に酔っても財 布を落とさなかった」という場合は、そもそも「(酒を飲む前に)財布を持っていた」ことや

「酒を飲んだ(酒に酔った)」ことが注目されることはないのである。

以上の考察からは、ダントの物語文において物語ることが駆動されるとき、我々は起こった 結果(事態 B)に対して、何らかの「ずれ」を感じているということができる。その「ずれ」

とは図4における〈過去 / 現在の時点②〉における事態 B と事態 A の「ずれ」であるといえ る。すなわち、結果(事態 B)が、何も起こらなかったならば生起しなかったことであると 我々に感じられた場合に、物語ることが必要とされるのである。

2.2 道具の意味の構造

2.1 において明らかになった物語文の構造を用いて、1. での『存在と時間』における道具 分析を再度捉え直してみたい。『存在と時間』において、道具の存在性格とは「でもって」と

「のもとで」という「目的-手段」の連関において捉えられていた。トンカチを例にとるなら ば、トンカチとは(たとえば釘を木に)「打つためにある」道具として、しかもペンチやノコ ギリなどとは異なったものとして理解されている。着目したいのは、以上の性格づけにおい ては、現在の事態 C(たとえば、木と釘がある)において将来の事態 D(たとえば、釘が木に 打ち付けられている)が予期され、事態 C から事態 D への変化をもたらすための手段として

「トンカチ」が位置づけられていることである。ここまでの考察を、前項の図3で示した定式 化に当てはめると、図5のように示すことができる。

(14)

ここで強調したいのは、前項において確認されたように、道具においても、終わりの事態は そうでなかった可能性において捉えられていなければならないという点である。というのは、

その道具を用いなくても事態 D が生起するとすれば、道具を使用する意味はないといえるた めである。そのため、その道具を用いなかったとしたら、事態 D が引き起こされないことが 理解されていなければならない。それゆえ、図5も図3と同様に、以下のように書き改められ るだろう。

ハイデガーの道具存在(手許存在)の意味と、ダントの言う物語文における物語ることとは、

二つの出来事の変化を説明するという点で、同一の構造を有しているといえる。しかし、過去 に起こった二つの出来事の変化(A → B)を説明することが歴史における物語であるのに対し て、道具の性格とは、現在の事態 C から将来の事態 D への変化を予期し、その変化を引き起 こすものとして理解されている点は異なっている。

それでは、事態 C → D という変化を引き起こすものとして道具の意味を習得することは、

いついかにしてなされたのだろうか。生得的に身についているという仮説を除外するならば、

変化 事態

C

―→ 事態

D

〈現在の時点②〉 〈将来の時点③〉

引き起こすもの・道具(説明)

図5 道具の構造(1)

事態

C

(引き起こすもの・道具の不在)

変化 事態

C

(引き起こすもの・道具) 事態

D

〈現在の時点②〉 〈将来の時点③〉

図6 道具の構造(2)

(15)

過去における試行錯誤や教示などの経験によって、道具の意味は習得されるという仮説を採る ことが妥当であると思われる(16)。すなわち、過去において、図4のような2つの事態の変化 を説明すること(物語ること)ができたという経験があったはずである。

さらに強調しておきたいのは、ただ過去に A と B という出来事が起こったことを記憶して3 3 3 3 いるだけ3 3 3 3では、道具の意味は生起せず、事態 A → B という変化を引き起こした原因・理由と して道具が意味づけられたうえで、その出来事の連関(A → B)が規則化3 3 3されねばならないと いうことである。すなわち、一回だけではなく、将来同じような事態 A’に直面したとき、そ の道具を用いることで、同じように事態 B’を引き起こせるということが理解されていなけれ ばならない。そのため、道具の意味が成立するためには、下図7のような規則化がなされねば ならないといえる。

たとえば、[木材・釘(事態 C)]を目の前にして、[釘を打ちつけられた木材(事態 D)]を 予期し、事態 C → D という変化を引き起こすために「トンカチ」に手を伸ばすことができる のは、ただ過去に、トンカチが[木材・釘(事態 A)→釘を打ちつけられた木材(事態 B)]

という変化を引き起こすために有用であったという記憶(事態 A → B)を持っているだけで はなく、今回の同様の事態 C に対して同じような対処をすれば、事態 D を引き起こすことが できると予期できなければならない。すなわち、道具の意味は、事態[A’→ B’]という仕方 で規則化されていなければならない。

以上の考察において強調しておきたいのは、可能性を準現在化することの役割である。2.1 で論じたように、その事態 A → B という変化を説明する物語文において、事態 B は変化がな かったら起こらなかった3 3 3 3ものとして捉えられている。準現在化は今目の前にあるものを超えて

事態

A’

変化 事態

A’

事態

B’

〈時点①〉 〈時点②〉

(「

」は、特定の事態や時点ではなくなっていることを示す)

(引き起こすもの・道具の不在)

(引き起こすもの・道具)

図7 道具の構造(3)

(16)

目的としての可能性を予期するという機能を有するが、それだけではなく起こったこと(事 態 B)を起こらなかったかもしれない3 3 3 3 3 3 3 3 3 3 という可能性において捉える際にも機能している。そし て、この起こったことを起こらなかったかもしれないという可能性において捉えているからこ そ、そもそも変化を有意味に物語ることができるのである。

2.3 先在的・反復可能・共有されるものであり、かつ可変的なものとしての意味

さて、ここまでの考察を踏まえて、前節の最後に提起された問い、「世界形成的とは何か」

という問いに戻ろう。そこで問題となっていたのは、『存在と時間』における「共世界」の成 立にまつわる難問であった。すなわち、存在者の存在としての意味が固定的・先在的であれ ばそれが共有されていることは理解しやすいが、そのつどの「目的であること」から意義付け られるという点が閑却されてしまう。言いかえれば、世界をそのつど形成している、という意 味合いで「世界形成的」を理解することはできなくなってしまう。それに対して、そのつど の「目的であること」からそのつど意義付けを行うとすると、そのように形成された意味が他 者と共有された「共世界」となることが説明されなくてはならないのだが、現行の『存在と時 間』にはその具体的な説明を見いだすことはできないといえる。

本節の考察は、以上の問いに対する解決の方向性を示していると思われる。すなわち、意味 は、図4で示されているようなこれまでの経験[A → B]が規則化されたこと(図7)によっ て、生成される。それゆえ、そのつどの行為にとって意味は、すでにあったという「先在する もの」として、そしてこれからも変わらず妥当する「不変のもの」、そして他者とも理解が一 致する「共有されたもの」として現れる。そのような「先在するもの」「反復可能なもの」「共 有されたもの」として意味が了解されていることで、我々は図6で示されるような現在におい て、事態 D を引き起こすために道具を適切に用いることができる。

しかしながら、本節の考察は、そのような「先在するもの」「反復可能なもの」「共有された もの」として現れる意味は、実は可変的でもある3 3 3 3 3 3 3 3 3ことを示したといえる。というのは、規則化 されることで意味を生成する事態 A → B の内実が異なれば、意味[A’→ B’]の内実もまた 変容するといえるためである。たとえば、数十年前と現在とでは、「電話」ということで意味 される内容は大きく変化したということができる。それは、電話という道具で説明される事態 A → B が変化したことで、意味[A’→ B’]の内実もまた変化したためである。またさらに、

これまでの意味[A’→ B’]では捉えられず対処できない事態に遭遇した際には、これまでの 意味の改変が行われることになるといえる。たとえば、はじめてスマートフォンを手にした者

(17)

は、これまでの「電話」の意味では、目の前にあるスマートフォンを適切に解釈し使用するこ とは困難であるため、目の前のスマートフォンから「電話」の意味を更新していかなければな らないはずである。

本節の考察は、人間(現存在)の意味の理解の根底に、物語りうる能力があることを示した。

すなわち、意味は一方では現在において「先在するもの」「反復可能なもの」「共有されたも の」として現れるが、他方ではこれまでの経験によって形成されるものであり、ダントのいう 物語文において物語られたことが規則化されることによって生成されるために、可変的でもあ るということができる。しかし、さらにいくつかの疑問を立てることができる。

第一に、人間(現存在)が物語ることを可能にする条件をさらに問わねばならないだろう。

さらに第二に、どうして物語られたことが規則化されたことによって、「先在するもの」「反復 可能なもの」「共有されたもの」となるのかを、つまりは規則化とは何かを、さらに問わねば ならないだろう。

3.物語ることの可能性の条件としての「今」の水平化

本論文の1. では、『形而上学の根本諸概念』における人間(現存在)と動物との種差を考え ることから、人間(現存在)のみが「前述語的な開かれ」を有していること、そしてその「前 述語的な開かれ」は現在化、準現在化、存在への志向という三階層からなる現存在の働きによ って構成されていることを確認した。2. では、ダントの物語文の構造を手がかりとして、道 具の意味の構造を分析し、これまでの経験3 3 3 3 3 3 3 [A → B]にかんする一回性の物語が規則化される ことで形成されたものであることを明らかにした。

本論文のここまでの考察は、人間(現存在)特有の能力としての物語ることの重要性を明ら かにしたといえるが、動物との種差として物語りうることを挙げるためには、さらに物語るこ とを可能にする条件を明らかにしなければならないだろう。以下では、前節の最後に提起した いくつかの疑問を解決することを通じて、この問題に迫りたい。

前節の最後で提起された最初の問題は、人間(現存在)が物語ることを可能にする条件をさ らに問うことであった。このことを本節では、本論文のここまでの議論において、物語におい て規則化される「これまでの経験」と名指していた経験がいかに成立するか、という問題を 問うことを通じて明らかにしたい。なぜ「これまでの経験」が問題となるのか。それは一般に、

図5および図6で示されたような現在の行為が過去となることによって、図3、図4が成立す

(18)

ると考えられるが、ダントが示していたのは、図3、図4のように過去の出来事を捉えること は、ただ二つの出来事を記憶していることとは異なるということであったためである。すなわ ち、物語るためには、A と B という二つの事態を二つの時点において起こったものとして俯 瞰して捉え、その変化を捉えられるような、物語がそこにおいて物語られる時間がいかに成立 するか、そしてさらに、この現在の出来事がいかにして過去にあったことになるのかが考察さ れなければならないだろう。

前節の最後で示されたのは、「これまでの経験」を規則化することによって生成された道具 の意味は、「先在するもの」「反復可能なもの」「共有されたもの」として現れるということで あった。この第二の問いは、規則化とはどのような働きなのかを問うことによって明らかとな るだろう。

本節ではまず、第一の問い、すなわち現在の出来事がいかにして過去の二つの出来事とな るのかを、主に『存在と時間』の「今」についての分析、具体的には「…する今」が「今、今、

今」および「今連続」へと変容するとする分析を確認する(3.1)。次に、真木悠介の『時間の 比較社会学』から、現代人には疎遠となっている「今、今、今」を生きている民族の実例を紹 介し、そのような原初的な時間意識から、近現代人の時間意識がどのように発生するのかにつ いての真木の分析を確認する(3.2)。その上で最後に、本論文のこれまでの考察も踏まえ、現 存在の「…する今」から目的・可能性が切り離され、それぞれの「今」が分離されることで、

「今、今、今」が成立することを明らかにする(3.3)。

3.1 『存在と時間』における世界時間の水平化

ここまでの考察によって明らかになったように、事態 A → B を意味[A’→ B’]へと規則 化することによって、道具の意味が成立するとすれば、そもそも A と B という二つの事態を 二つの時点において起こったものとして俯瞰して捉え、その変化を捉えねばならないだろう。

しかしながら、『存在と時間』においてハイデガーは、道具を適切に使用する際、我々は関わ っているものに没頭しており、二つの時点を俯瞰するような時間を生きてはいないと述べてい たと思われる。

本項では、『存在と時間』における「今」の三つの様態を検討し、そこにおいて物語ること が可能となる「今」の成立の機序を確認したい。『存在と時間』における「今」とは、第一に、

道具を配慮することを可能にする、保持・忘却と予期との連動において機能するものとしての 現在化である。

(19)

配慮は、「その時」においては予期しつつ、「あの時」においては保持しつつ、「今」にお いては現在化しつつ、おのれを言表している。「その時」のうちには、多くの場合には表 立たずに、「今はまだない」ということがある、[…]「あの時」は、「今はもはやない」と いうことをそれ自身のうちに蔵している。[…]「その時」と「あの時」とは、「今」とい う観点においてともに了解されているのである。言いかえれば、現在化することが特有の 重みをもっているのである(SZ, 406-7)。

配慮する際に理解されているこのような「今」は、「最終的には、現存在の存在しうること のためという目的のうちに固着させられている」ことによって、何々するに適切である、ある いは不適切であるという有意義性と同様の性格を有することから、「世界時間」と名づけられ る(SZ, 414)。世界時間とは、「日付け可能なものであり、伸張のあるものであり、公共的な ものであり、そしてこのように構造づけられたものとして世界自身に属している」(SZ, 414)

ような時間である。すなわち我々が道具を使用する際に気に掛ける「…する今」とは、均質で はなく伸び縮みするものであり、さらに他者とも共有されているものである。

ハイデガーはこの世界時間の公共性が、時計の使用によって「さらにいっそう高められ固定 される」と述べる。時計使用においては、日時計における影や針などのような際立って現在化 された存在者を規準尺度として理解されることによって、時間は「あらゆる人にとって「今、

今、今」として出会われる」もの、「いわば事物的に存在している今の多様性0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0のように、眼前 に見いだされる」ものとなる。

このような「今、今、今」の成立のためには、二つのことが生起している。第一に、「目的 であること」から、予期しつつ保持/忘却しつつ現在化するという現存在自身の時間性がそ のものとして見て取られていない3 3 3 ことであり、第二に、その代わりに影や針といった内世界的 なものから、「今」が捉えられることである。この二重の事態により、世界時間が有していた 有意義性が脱落する。すなわち、「…するために」適切/不適切であった特権的な「…する今」

が水平化され、それぞれ区別された「今、今、今」となるのである。

しかしながら、このような時計使用によって把握される「今、今、今」は、日時計や我々が 普段時計を使用する際に出会われる「今」であり、科学的な理論が前提するような厳密に均質 であるような今の連続という性格をまだ有していない。「今、今、今」への変容は、最終的に は「時間計算の完全化と時計使用の洗練化」(SZ, 415)によって、その公共性がいっそう高め られ固定されることで、純然たる「今」の継起としての「今連続」となる。

(20)

今連続としての時間の通俗的な解釈においては、日付け可能性と同様、有意義性も欠けて0 0 0 いる0 0。純然たる継起として時間を性格づけることは、日付け可能性と有意義性というこれ らの両構造を「現出」させないのである。通俗的な時間解釈はこれらの両構造を隠蔽する。

今の日付け可能性と有意義性とがそこにもとづく時間性の脱自的・地平的機構は、この隠 蔽によって水平化0 0 0される(SZ, 422)。

以上の考察を概括すれば、三種類の「今」があるといえる。第一に、道具の使用を可能にす る「世界時間」における日付け可能性、伸張性、公共性をそなえた「今」である。第二に、時 計の使用、時間測定によって、世界時間の有していた日付け可能性と有意義性とが水平化され、

「あらゆる人にとって「今、今、今」として出会われる」ものとしての「今」である。第三に、

第二の「今」がさらに水平化され、「純然たる継起」となった「今連続」である。

3.2 「牛時計」と「今、今、今」

前項の『存在と時間』の考察を具体的に考えてみるために、真木悠介の『時間の比較社会 学』の知見を瞥見しておきたい。真木は、アフリカのヌアー族という原始的な生活を営む民族 についてのレポートを参照する。牛の牧畜が生活の中心をしめるヌアー族は、一日の時刻を、

牛と関わる「牛時計」によって言い表しているとされる。たとえば、牛を連れ出す時間、搾乳 の時間、成牛を牧草地へつれていく時間、牛舎の時間、成牛の戻る時間、牛舎に家畜を入れる 時間などである。

真木は、このような牛時計は、「牛を生業の中心とするヌアー族やアンコーレ族の共同体の 内部においてはじめてその機能を果たすのであって、牛を生業の中心としない共同体において は当然にも通用しない。牛時計の通用範囲は、特定の風土的条件の中で、牛を生業の中心とす る共同体の範囲に限られる」(真木 2003, 37-8)と指摘する。あるいは、ヌアー族とはべつの 動物あるいは植物xを生業の中心とする共同体Xは、牛時計の代わりに「X時計」をもつだろ うと述べる。

このような「牛時計」「X時計」などのさまざまな時間の把握の仕方は、ハイデガーの『存 在と時間』の術語を用いれば、「…する今」を生きながら、それぞれの今を牛やXから「今、

今、今」として指示していることとして理解できる。注意しなければならないのは、ヌアー族 はそれぞれの今を「乳しぼりの時間」や「仔牛たちが戻ってくる頃」などの仕方で指示するこ とができるために、「…する今」だけを生きているわけではないことである。ヌアー族の「牛

(21)

時計」と我々の持つ「時計」が異なるのは、「牛時計」におけるそれぞれの今が行為と密接に 結びつけられている点といえる。

ヌアー族の成員同士では、「牛時計」で時間を指示することができるが、ヌアー族が別の「X 時計」をもつ共同体 X と関わるときは、「牛時計」では時間を指示することができなくなる。

真木は、このようにさまざまな時計をもつ共同体が交易および集住などによって深い関係をと り結ぶとき、より客観的な時間概念が成立し、我々が考えるような「時計」の萌芽が成立する と述べる。

ヌアー族の共同体がもしこの共同体Xと、生活を相互に依存し合うような深い交易関係に 入ったとすれば、少なくとも両者のあいだの(間・共同体的な)交易の時刻や時間を決定 するための時計は、牛時計でもX時計でもない第三の「時計」でなければならない。二つ の共同体の間であるうちは、じっさいにはそれらはさしあたり、ヌアー族にとっては牛時 計で、x族にとってはX時計でという、反照関係の成立にとどまるだろうが、さらに生業 をY、Z、U、V、W等々とする多くの集団 y、z、u、v、w 等々との、多角化され一般化 された交易関係に入れば入るほど、個別の具体的な動植物やこれと結合した活動形態から 抽象化された、一般的な0 0 0 0 0 0 0 0 0 0時間表示のシステムTを必要としてくるだろう(真木2003, 38-9)。

この一般的な「時間表示のシステム T」が、我々が時計と呼ぶものにほかならない。真木は、

このような「時間表示のシステム T」は、そこに関係する共同体の数が増大することに伴って、

その最大公約数となるために、具体性を失っていき、「一般化され抽象化された尺度としての

「時間」を析出せずにはいない」(真木 2003, 39)と指摘している。

ハイデガーの術語を使えば、「時間表示のシステム T」が生成されてくる段階は、「…する 今」と密着していた「今、今、今」が、「今連続」へと変容していく過程であるといえる。注 意しなければならないのは、確かに「時間表示のシステム T」においては、「牛時計」よりも 広範な共同体に妥当するような時間の表示システムが採用されるが、「今連続」というほどに 抽象化している必要は必ずしもないということである。たとえば、日時計などの使用を例とす るならば、確かに「牛時計」と較べて「…する今」からの距離は拡大し、適用範囲は拡大し抽 象化されているとはいえるが、いまだ内世界的な存在者から読み取られている点で、「今連続」

への過渡的な性格を有しているといえる。

参照

関連したドキュメント

うのも、それは現物を直接に示すことによってしか説明できないタイプの概念である上に、その現物というのが、

る、関与していることに伴う、または関与することとなる重大なリスクがある、と合理的に 判断される者を特定したリストを指します 51 。Entity

大学は職能人の育成と知の創成を責務とし ている。即ち,教育と研究が大学の両輪であ

大きな要因として働いていることが見えてくるように思われるので 1はじめに 大江健三郎とテクノロジー

(実被害,構造物最大応答)との検討に用いられている。一般に地震動の破壊力を示す指標として,入

この大会は、我が国の大切な文化財である民俗芸能の保存振興と後継者育成の一助となることを目的として開催してまい

 親権者等の同意に関して COPPA 及び COPPA 規 則が定めるこうした仕組みに対しては、現実的に機

本論文での分析は、叙述関係の Subject であれば、 Predicate に対して分配される ことが可能というものである。そして o