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1. 徳川家綱朱印状 津軽信政宛 先文4年
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7・ 徳川家康黒 印状 描水等宛 元和元年
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8・ 徳川秀忠朱 印状 同上宛 元和 3年
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10. 徳川家綱朱印状 同上宛寛文5年
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ll.徳川綱吉朱印状 清水寺宛 貞享 2年
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12.徳川吉宗朱印状 同上宛 享保3年
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状の
古文書学的研究‑寛文 印 知
の政治
史的意義H‑大野瑞男
はじめに
二寛文印知の実施こ'徳川歴代の領知安堵・三'判物・朱印状の事式の検討
結びにかえで‑寛文印知の歴史的意義︹史料紹介︺月享御判物御朱印改記
はじめに
周知のように、寛文四年(ハ六四)将軍家綱の領知判物・朱印状および日録が諸大名に対して1斉に発給され、翌
五年には公家・寺社に対しても判物・朱印状が旗布された。家康・秀忠・家光の三代にわたって、まちまちに発給さ
れていたものが、ここに統一的に同時に発布されたのであり、「寛文印知」といわれる。「寛文印知」.Q意義につき、北島正元氏は家康死後幕政の1元化の完了とともにしだいに整供された将軍朱印状制
儲知判物・朱印状の古文宙学的研究(大野)
史料館研究紀要第二二号二
(領地朱印状が将軍から発せられるという原則)の完成とみ「将軍朱印状の形式及び発行の手続きが整備し、.以後の模範とさ
れ」、1大名領知権が将軍の全国支配権に完全に包含されたという前提の上で、大名の領地に対する領有権の行使がゆ(1)るされたということを意味する。」とされる。藤野保氏は外様大名の配置が前代末までに完了し、大名の定着・領国の
固定に伴い'大名の領域・石高の.l定'郡村の区画・領地の堺目の確定に取応する政策であり、「領国単位・支配単位
の全聖地所属竃讐なったのであり」,「徳川暮雲国体制確立を苧る責な意義を有する」とさ駄)..bら
に藤井譲治氏は「すべての大名への同時の領知宛行状の交付は、将軍権力にとって、将軍‑大名の関係を個別的なも(3)のからより体制的なものとし、上位の権力としての将軍権力の強化・確立をもたらした。」とされる。視角や評価の方
法に差違があるものの'幕帝政治史の中において寛文印知に重要な意義を与えているといえよう。
本稿は、寛文四・五年(ハ六四・五)の徳川家綱の大名・公家・寺社宛領知判物・朱印状・日録を網羅した写本﹃寛
文朱印留﹄(上・下二冊'国立史料館喝史料館貴書1・2'東京大学出版会、)九八〇年)の校訂・解題作業に当たった筆者が'
その作業の中から得た知見をもとに、い‑つかの問題に分けて論述するものの一つである。総体的な課題は寛文印知
の政治史的意義について述べるものであるがへ個別の課題としては'慣知判物・朱印状・目録の古文書学的検討(本
棉)、寛文印知における地名なかんずく郡名と郡域の検討(別稿'平凡社r月刊百科l二二七号所載「江戸時代の部名」)、寛文
印知を中心とする国郡別石高の数量的検討、寺社髄支配の成立過程(以上未定稿)などを考えている。(4)右の如く'本稿は寛文四・五年の領知判物・朱印状の書式を中核に、その喜札礼の成立過程を主題にして寛文印知
の政治史的意義の一面を探るものであるが、判物・朱印状等の書札礼が完成された
と
思われる綱書時代のそれとして、「兵事御判物御朱印改記」(国立公文古館内閣文庫所蔵)を参考例として末尾に紹介し
てお
く。なお将軍代替わりごとに慣知判物・朱印状を改め、新たに判物・朱印状・目録を発給する。これを継目安堵という
が(これの大名側の手続きの例とし.ては、天明六年二七八六)の家斉の御朱印政の実際について'陸奥棚倉藩小笠原(6)佐等の記録を紹介した石井長助氏の論考を参警れ缶㌻た、三去次・辻蓉之助・義盛﹃社寺霞質の研究﹄
は王朝時代よりの社寺領を対象とし、後揃江戸時代に於ける社寺領は朱印状の形式及び文言および権利関係につき述
べたもので、社寺領の性質確定を主題としておっ'本稿に先行する古文書学研究とは必ずしもいえない。
了 ̲す T 注
北島正元r江戸幕府の権力構造J三二二‑三買.藤野保r新訂幕藩体制史の研究し四四三頁藤井譲治r家綱政権論」(松本四郎・山田忠雄拓r元禄・享保期の政治と社会」弟二幸五二頁‑講座日本近世史4)了)「武家厳制録」巻四九(石井良助編r近世法制史料叢書」3二四四1二五六室には'禁其・門跡・公家・武 家・寺社・神官に宛てた御内事・奉苔の事式が'宛所の格式・官位別に示されている。領知判物・朱印状の書式および書札礼と関連が深いが'本稿においては当面考察の対象から省いた。(5)石井良助r大名の御代替朱印改町ついて‑梯食洋の場合l(牧健二博士米寿記念r日本法制史論集」三七九‑四二四頁へ6)r東京帝国大学文科大学紀要」第一
一'寛文印知の実施ノ
寛文四年(ハ六四)三月五日、奏者番小笠原長矩≡河国青田四万石丁小姓永井尚庸(河内国の内二万石)に大名領知朱(1)印の奉行を命じ、十五日次のような「御朱印被下候二付御触書」が発せられた。
党
︼壱万石以上之面々江'今度領知之御朱印可被下旨、依之小笠原山城守、永井伊賀守挙行被仰付候啓
一御代々御朱印所持之面々ハ'御朱印こ写を差添、右両人御朱印拝見之上'写を可被相波、勿論国郡郷村之高辻
餌知判物・朱印状の古文番学的研究(大野)三
史料館研究紀要第l三号
四
.注帳面可被差上之、又御朱印無之衆ハ、国郡郷村領知之高委細書注之'両人江可被渡之事
一御朱印之外、御加増拝倍、或御朱印有之両所春候面々、威御朱印高之内領地わかり候面々、其旨趣書注之'両
人迄可被差上之事
、右之外可被相伺俵ハ、同車布江可被貴著也、
三月十五日‑....,
か‑してへ大名宛の領知判物・朱印状および日銀は、そのほとんどが寛文四年四月五日付をもって発給された。そ
して四月二十八日から八月二十六日まで、江戸城中において直接にあるいは名代に手交された。四月二十八日松平光
長ら二二人'二十九日松平(池田)光仲ら二.<'五月十六日松前高広、二十二日松平(前田)綱紀ら<五人、閏五月二
十六日本多利良ら四人、⊥ハ月三日保科正之ら九四人、′九日朱印状発給の奉行小笠原長矩'永井尚庸'二十一日酒井忠(2)義ら二人、七月十)日松平直政ら四人、八月二十六日水谷防宗・本多忠晴の二人、合計二l九人である。
ところで'領知判物・朱印状手交までの期間に変動のあった大名一〇人についてみると、判物・朱印状交付以前変
動の七人は変動後のものが発給され、すで筈交済みの三人はそのままとなった。変動後発給の七人は、久世広ho).(4)(5)(6)(エ(8)す)(10)(ll)戸臥忠昌二二宅康勝・松浦鋲信・相良析喬・本多忠暗・水谷勝宗であり、手交済みの三人は上杉網勝・立花忠茂・土(12)昆数直である。1大名宛の慣知判物は五丁通、朱印状はハ八通、合計二一九通であるが、、.領知目録は先の上杉氏宛のものが発給さ
れず、松前高応には朱印状のみであるので二一七通となる。発給された大名数は内分分家七人を加えると二二六人で
ある(他に内分分家旗本五家がある)。領知判物・朱印状発給のなかった大名は、甲府徳川綱重三十五万石)・館林徳川綱曹・
三十五万石)・尾張徳川光義(光友'六十一万九千五百石)・紀伊徳川頼宣(五十五万五千石丁水戸徳川光団(二十八万石)の徳
川五家と、伊予宇和島伊達宗利・同書田伊達宗純である。いわゆる徳川三家に対してほ、近世を通じて慶長十三年(13)(ハ〇八)八月尾張徳川義利へ義直)に与えた尾張一国知行宛行の秀忠判物以外の領知判物交付はなかった。従って交
付に洩れた大名は伊予の伊達両家である。宇和島の伊達秀宗は明暦三午(ハ五七)七月二十一日の致仕に際し、十万
石のうち宗利に七万石、宗純に青田三万石を分知した。そして家綱判物下付に先立ち、宗利は十万石1枕にするよう(14)願い.'宗純も別紙で朱印状下付を飼い出たために'結局両方とも下付されないままに終った.なおこのほか肥前小城・
蓮池・鹿島の鍋島支藩は佐賀鍋島光茂債石高のうち、長門長府・周防徳山・長門清末・周防岩国寺川)の毛利支藩は
長門萩毛利綱広領石高のうち、肥後宇土の細川支藩は熊本細川綱利領石高のうちに含まれて発給され'常陸額田・.煤
内の水戸徳川光国領新田藩、美作宮川の搾山森長継領新田藩にも当然朱印状の発給はなかった。(15)寛文五年三月1日'寺社宛の領知朱印状発給についで次のような触書が出され、寺社・公家に対しても1斉に継目
安堵がなされた。
党
1御当家御三代之御朱印所持之寺社之輩勿論'御両代之御朱印頂戴之分迄'不依寺社領之高下tt''継目御朱
印可被下之事
1御1代之御朱印頂戴之寺社領は、先五捨石以上之分.御朱印可被下事.
一寺領無之、境内許之御朱印雄在之'於一宗之本寺ハ、継目御朱印可被下之事
右之通、被仰出候間、面々債分有之寺社之輩、今年六月中江戸え、先御代之′御朱印持参侯梯二可被相触之供、
紙面之外は、重て可為御沙汰之間、不及参府之旨堅可被申渡之老也
三月(「御当家条例」は寛文五年巳年三月朔且
偵知判物・朱印状の古文苔学的研究(大野)
五