著者 伊藤 雅文
雑誌名 金大考古
巻 58
ページ 8‑14
発行年 2007‑10‑26
URL http://hdl.handle.net/2297/7177
北陸における横穴墓の諸問題
伊藤 雅文(石川県埋蔵文化財センター)
1 問題の所在
本稿は、 筆者が石川考古学研究会々誌 50 号で発表し た論文 ( 1) と平成 18 年度に関西大学に提出した学位論 文の一節をもとにしている。 これらの内容を要約することと したい。
概念
崖に横穴をうがって築いた古墳を横穴墓 ・ 横穴古墳ある いは横穴といっており、 北部九州の古墳時代中期中ごろ に豊前地域で成立したと考えられている。 さらに6世紀前 葉以降近畿地方や山陰地方に伝播して築造を開始し、 さ らにこの時期に東海地方の遠江 ・ 駿河までおよんでいると いう研究もあり (2)、 現在のところ少数意見であるが重要 な指摘である。 横穴という条件が人骨を良好に遺存させて おり、 そのために横穴式石室より墓室の近い印象を与える。
古墳時代終末期から一部奈良時代になっても作られ続け たこの墓の名称を、 「横穴墓」 とする人が多いのは、 墳丘 を持つ古墳と異質な感覚を持つためであろう。 そして7世 紀を律令国家体制への過渡的時代として古墳時代の終焉 との理解に立脚すれば、 横穴墓の概念が古墳概念から遠 い存在となってしまう。
私は古墳時代中期以降続くこの墳墓様式を 「古墳」 の 一類型と考えており、 横穴古墳という呼称に違和感を持っ ていない。 「横穴」 は墳丘を持たず埋葬施設のみからなっ ている点を重視し、 箱形石棺墓などの 「墳丘をもたない埋 葬施設」 の用例にならって 「横穴墓」 の語句を用いること にする。奈良時代につくられた横穴形式の墓を「横穴古墳」
ということは、 「古墳」 の用語の持つ時代的な限定性と奈 良時代の時期区分と相容れないものであり、 この点からも 時代的概念の希薄な 「横穴墓」 の方がより妥当な用語で あると考えている。 なお、 小林行雄氏 (3) や白石太一郎 氏 (4) は単に 「横穴」 としているが、 各種利用があるこ とから、 適当でない。
研究史抄
池上悟氏によると古墳時代の横穴が墓として広く認知さ れたのは、 明治 30 年代以降という (5)。 北陸においても、
明治 28 ・ 29 年の東京人類学雑誌上に須藤求馬氏によっ て報告が提出されている (6)。 金沢市近郊に所在する横 穴分布調査報告で地元の聞き取り調査をおこない計測 ・
形状を報告している。 おそらく第四高等学校教員として県 外から転入してきた須藤氏にとって、 横穴が奇異なものに 写ったのであろう。 須藤氏が中心メンバーであった北陸人 類学会が明治 28 年に発会し、 翌 29 年に会誌1号を刊行 しているが、 横穴の記述はいくつかあるのみで、 会誌2号 以降にいたっては皆無である (7)。 当地に居を構える人々 にとって、 横穴が同時代の施設として利用しているために、
研究意義が意識されなかったのであろう。
北陸の横穴墓に対して考古学的調査が実施されたのは、
上田三平氏による内務省の史跡調査が嚆矢である (8)。
敗戦前におけるそれ以降の研究はほとんどないに等しい状 態で、 わずかに秋田喜一氏が調査報告を考古学雑誌に 載せる程度であった (9)。 戦後の研究は、 郷土の歴史を 解き明かすことを目的とした高等学校教育のクラブ活動の 一環として実施された富山県立氷見高等学校による氷見 地域の横穴墓調査 (10)、 石川県立大聖寺高等学校によ る栄谷丸山横穴墓の調査 (11) など断続的な実測調査が おこなわれた。
田嶋氏明人は加賀市法皇山横穴墓群発掘調査成果をま とめ、 研究の先鞭をつけた (12)。 まず須恵器編年を整理 して編年軸を確定する。 横穴墓の築造年代を出土土器か ら推定し、 その消長と変遷を微細に観察して横穴墓の形 態変化を整理し、 高麗尺によってつくられているいる可能 性を指摘した。 横穴墓は横穴式石室墳の群集墳と同じ家 族墓であり、その最小単位が「房戸」である可能性を示した。
家族史の今日的研究成果によると、 古代家族を戸籍上に 見られるような房戸-郷戸編成はかなり制度的に作られた ものである考え方が主流であり (13)、 家族もまた夫婦によ る核家族でもない (14)。 妻問い婚姻形態による不安定な 家族形成が古代女性史研究から指摘されているとおりであ る (15)。
その後、 1973 年には志雄町史編纂に伴って町内の横穴 墓群を対象に金沢大学考古学研究会を主体として測量調 査及び発掘調査が実施され (16)、 1975 年の珠洲市史 編纂にかかる調査で多数の横穴墓調査もまた田嶋氏や金 沢大学考古学研究会によっておこなわれた (17)。 このよ うに 1970 年代には横穴墓を調査する機会にめぐまれ、 豊 富な研究材料を提供した。 しかしながら、 1980 年代以降 急速に横穴墓に対する研究熱が冷めていったのである。
全国的には 1990 年ごろ以降、 各地域における横穴墓の 研究が急速に進み、 墳丘を持つ横穴墓が確認されるなど
(18)、 それまで知られていなかった様相も明らかになって
きたとともに、 地域単位で横穴墓の構造把握を目的とした 微細な研究が盛んになった (19)。
2 分布の特徴 概要
北陸における横穴墓分布の偏りは明瞭である。 北陸中 央部の加賀北部 ・ 能登 ・ 越中西部に集中し、 加賀南部、
越前や若狭では限定的に分布し、 越中東部と越後、 佐渡 には全く分布しない。 横穴墓が岩盤を掘って作られるため に、 どこでも作ることができるわけではない。 掘削容易でな おかつ崩落しない土質のある地質の岩盤に作られている。
しかしながら、 近現代横穴が多く分布する志賀町や小松市 には古墳時代の横穴墓の分布が希薄であるので、 地質と 横穴墓の因果関係は絶対的な条件ではない。 横穴墓と横 穴式石室墳が混在がある。 この場合、 同じ墓域の中に横 穴式石室墳が存在し、 それぞれの墓域を犯さないように分 布している。 横穴式石室墳と横穴墓の築造される要因は 自然条件以外である。
横穴墓は横穴式石室と異なって明確な墳丘を持ってい ないためにその存在を知ることは難しく、 また玄室や羨道 の陥没によってその存在が推定できるのみである。 横穴が 開口していたとしても、 単純な構造から 「古墳時代の横穴 墓」を特定することもまた必要である。 現地踏査によっても、
横穴墓群を確定し何基で構成されているかという基礎的な データの把握が非常に困難である。
およそ何基ぐらいが作られたかという想定を試みる。 算出 根拠は以下のとおりである。 横穴墓は横穴式石室を主体と する群集墳と同様に数基が一つのグループを形成している ことを通例としており、 横穴墓群の最小単位として認識する ことができる。 法皇山横穴墓群ではこれを 「単位群」 とよ び、 家父長を中心とする一つの家族のまとまりとして想定し ている。 5~6基を前後するまとまりを横穴墓の最小単位と して (小) 支群と把握し、 それが一つの場合もあり、 複数 集まる場合もあろう。 その構造体が横穴墓群となっている のである。 そして、 単独の (小) 支群で横穴墓群を形成 する例はまれであるので、二つが最小の構造体と考えたい。
したがって、 少なくとも横穴 10 基前後で群を形成するのが その最少数であると考え、 横穴墓が1基のみ確認できたも のは 10 基を最少とする群を形成していたとする。
また横穴墓の立面的横穴墓の分布状況および平面的な 分布状況から、 小支群の数をある程度想定することができ る。 さらに、 横穴墓はかなり地形的な制約を受けて作られ
ているので、 地形観察によってもおおよその分布を類推す ることができる。 このような作業をおこなうことで、 小支群の 数を推定し、 それに支群の基本構成数を 5 基として換算 することで、 古墳時代に作られた横穴墓の数を推計する。
若狭 ・ 越前 ・ 加賀
若狭でややまとまって分布する。 上中町から小浜に流れ る南川と北川の合流付近にある若狭国分寺周辺に小浜市 検見坂横穴墓群などがあり、 約 140 基が推定できる。 横 穴墓と横穴式石室墳は山麓に展開しつつもそれぞれのま とまりで分布するのではなく、 数基の支群ごとのまとまりで 分布し、 ミクロで見ればそれぞれの墓域を犯すことはない ものの、 山麓全体から見れば同じ墓域の中に混在する状 況である (20)。 越前では敦賀や越前国府が置かれた武 鯖盆地の横穴墓が検出される可能性はあるが、 現状でそ れを否定する材料が多い。 南加賀は江沼地域の一部に横 穴墓がある。 加賀市法皇山横穴墓群では約 200 基が推 定され、 単独の横穴墓群では北陸でもっとも大規模な横 穴墓群である。 同一地域には小松市金毘羅山古墳があり、
また南加賀の須恵器の一大生産地を控える立地であること が、 このような大規模な群集形態を作ることができたと考え られる。
能登 ・ 越中西部
能登から越中西部の横穴墓は、 分布や数に大きな異同 がある。 能登半島先端の珠洲で 500 基以上を推測し、 最 も集中する。 珠洲にありながら横穴式石室墳が無い平野 部に 80%以上の横穴墓が集中するし、 分布状況に大き な違いが認められる。 氷見は十二町潟をとりまく丘陵に約 330 基の横穴墓を推定している。 氷見市加納横穴墓群が 推定 150 基と群を抜いて大きい。 潟湖に面しない灘浦海 岸沿いの横穴墓は小河川が作る沖積地で完結する地域に 営まれた小規模なものである。 小矢部川左岸の西山丘陵 では 300 基前後の横穴墓を推定しており、 横穴式石室墳 の分布は不明瞭である。 北陸の横穴墓の半分以上が珠洲 と越中西部の領域に作られたのである。
志雄で 140 基の横穴墓が推定され、 ややまとまって分布 する。 この地域は後期後半に大型横穴式石室に北陸で唯 一組合式家形石棺を蔵する宝達志水町散田金谷古墳が 作られるなど前段階から古墳が集中する。 この地域を貫流 する子浦川を遡れば上庄川にいたり氷見の富山湾に抜け ることができる。 近世はこのルートを臼ヶ峰往来といい交通 の要衝である。 このルートの山を挟んで西に志雄の横穴墓 が位置しているのであり、 東に氷見の横穴墓があるのであ
る。
意外と横穴墓が少ないのは七尾湾岸の地域である。 発 掘例が少なく実体がよくわからないのが実情といえようが、
大きな群が多数分布する状況ではなく、 20 ~ 30 基程度 の小規模な群が散在するようである。 古代 「三井駅」 付 近の輪島市三井興徳寺横穴墓群、 古代 「待野駅」 付近 の同大川横穴墓群、 あるいは大市駅付近の同稲舟横穴 墓群は小規模な横穴墓群でありながら特徴ある。 これらは、
大きな沖積平野がない地域に作られ、 三井は山間の狭隘 な盆地形で水田経済に依存しきれない地域である。 8世紀 に政治的中枢がおかれた地域に横穴墓群が位置すること に大きな意義があるのであり、 被葬者がその地域支配に積 極的に加わっていると考えられる。
横穴墓群の偏在する意味は、 決して地質的要因のみで なく、 政治的要因をはじめとする複数要因による。
3 立地の特徴
以下のような分類をおこなう。
A平面的な位置関係
Ⅰ類 : 狭い谷あるいは尾根により作られた狭い谷状地形に 位置 (金沢市伝燈寺横穴墓群、 珠洲市二ノ谷横穴墓群、
宝達志水町小谷屋横穴墓群など)
横穴墓群から外部世界の平野や平地を見ることができ ず、 隔離されたような環境である。 谷の入口から奥まで横 穴墓が分布しているが、 尾根が作り出す谷状地形では、
その奥に横穴墓が位置することが多い。 谷状地形の左右 に張り出す尾根がやせていることが多いために谷の範囲が 狭くなるので、 谷地形奥に作られたのであろう。 このような 景観は終末期古墳によく見られ、 Ⅰ類とした横穴墓が7世 紀代に作られたと考えて大過ない。
谷状地形に作られた一群は、 竹並横穴墓群A群の一部 やD群、 H群にあるようにように大きな墓道 (池上悟氏は 墓前域とする (21)) を共有する状況を髣髴させる。 この 地形では谷の斜面が絶壁となって迫ってくるので、 あたか も異次元の空間に入りこんだような錯覚に陥る。 これによっ て谷状地形全体が横穴墓の共有する墓前のマツリ空間とし て機能していると考えられ、 共有される空間は共通する葬 送の対象への祭祀をおこなう場であり、 横穴墓の一つのま とまりが墓前祭祀の対象となっているのである。
Ⅱ類 : 平野や平地に面する (珠洲市鈴内山岸横穴墓群、
金沢市塚崎横穴墓群、 高岡市城ヶ平横穴墓群、 富山市 番神山横穴墓群など)
このような立地は墳丘をもつ古墳によく見られる立地で、
眺望のよい平野側の墳丘を大きくあるいは丁寧につくるな ど、 外から見られることを意識している。 横穴墓群では、
全体として平野から横穴墓群を視認できても、 あのあたり というような漠然とした位置関係しか認識できず、 墳丘を持 つ古墳との違いは大きい。 横穴墓群に立ってもそこから見 える平野が意外と狭く感じるのは、 地図上で横穴墓群の 手前に大きな平野があったとしても、 横穴墓のある尾根が 少し横の谷に面するなど、 実際見える眼前の平地は狭い。
それほど広くない範囲に地縁的な関係が想定可能性だろ う。
Ⅲ類 : 海に面する (珠洲市谷崎横穴墓群や七尾市能登 島の横穴墓群、 氷見市脇方横穴墓群など)
想定される旧地形からⅢ類に該当する横穴墓群が意外と 多い。 墳丘を持つ古墳が海に面する立地であれば、 海を 意識した古墳とか海上権を掌握した被葬者という想定とな るのが一般的だが、 横穴墓の場合はどうであろうか。 脇方 横穴墓群や南黒丸横穴墓群等では、 海とのかかわり示す 副葬品の出土は皆無である。 脇方横穴墓群は小河川が作 り出す小さな沖積地に作られた 10 基程度からなる小規模 な群である。 能登半島東側基部にはこのような小さな平地 がいくつか存在し、 それごとに小規模な横穴墓群が存在し ているので、 彼らがこのような小さな平地に居を構えていた 小集団と考えることができよう。 小さな平地のみでは水田経 済を成り立たせることは不可能で、 半農半漁のような生活 を営んでいたことと推測され、 副葬品の点で海とのつなが りが見出されなくとも、 海が必要な存在であったことをうか がうことができる。
B立面的な位置関係
Ⅰ類 : 尾根中位~上位 ・ 頂部 (宝達志水町聖川寺山横 穴墓群 ・ 珠洲市谷崎横穴墓群など)
一般的な立地のあり方である。 平面的位置によるAⅡ ・ AⅢ類のような眺めの良い立地にあるものはこのタイプの立 地にある。 生産基盤の平地であるならば、 被葬者が横穴 墓を眺める目的であろうし、 海に面している場合海上交通 に関係し海から眺めることに期待しているのであろう。 聖川 寺山横穴墓群の一支群には、 墳丘のように見える顕著な 尾根の高まりの下部に横穴墓が作られている (22)。 また、
高岡市二上 1 号横穴墓は中期ごろと思われる古墳の下部 に作られ、 同2 ・ 3号横穴墓も巨石の下部に作られている
(23)。 北部九州では6世紀初頭に墳丘を持つ横穴墓が出 現し、 山陰地方でも6世紀後葉の墳丘を持つ横穴墓の事
例が増えつつある (24)。 東海でも静岡県地蔵谷横穴墓 群など古墳の墳丘を利用して横穴墓の墳丘に見立てる状 況など、 地域における初現期横穴墓の一部で確認されて おり (25)、 墳丘を持つ特別な意味が存在したことは確実 である。 したがって、 この場合も墳丘を持つ横穴墓と認定 してよい。
Ⅱ類 : 尾根下位 (金沢市伝燈寺横穴墓群、 法皇山横穴 墓群A群など)
類例は多くない。 伝燈寺横穴墓群では、 谷の埋没によっ て現農道より低い位置にもつくられているものがある。 外か ら眺められることを期待していないのである。 埋葬当時の 道が横穴墓開口部に近い高さにあったことが容易に推測 できる。
4 築造尺度と掘削技術 方法論
横穴墓に地域を越えて類似する形が確認されており、 そ の築造には何らかの設計図のような企画が存在したことは、
池上悟氏によって論じられている (26)。 池上悟氏は方眼 操作によって 35cm、 30cm、 24cm という単位を抽出し、 関 東地方の横穴墓の検討によって基準の長さが6世紀第 4 四半期に晋尺から高麗尺に変化し、 7世紀第 1 四半期に さらに唐尺に変化していることもまた指摘している。 しかし、
横穴墓の築造企画論にはいくつかの問題が存在すると思 う。
第1点は尺度による方眼操作の根拠が必ずしも明確でな いことである。 高麗尺 ・ 晋尺 ・ 唐尺は、 晋尺を中心に前 後約 5cm の幅があり、 方眼操作をおこなう場合平面のどこ を基準にするのかによっていずれの尺度も当てはまる可能 性がある。 結果的に、 基準尺度の採用にあたっては、 方 眼内における横穴墓平面形のおさまりの良いものを選んで いることになっている。
第二点は、 なぜその基準尺度なのかという方眼操作をお こなうための論理が不明確である。 それぞれの基準尺の長 さをセンチメートルで換算すると、 よく似た数字となる。 晋 尺約 25cm は 50 ・ 75 ・ 100 ・ 125cm となり、 唐尺約 30cm は 60 ・ 90 ・ 120cm、 高麗尺約 35cm は 70 ・ 105cm となる。
すなわち、 晋尺3尺が高麗尺二尺に近似し、 晋尺4尺が 高麗尺3尺に、 また唐尺4尺が晋尺5尺に近似するのであ る。 根拠となる計測値には誤差を含むことがあり、 掘りすぎ 等の掘削の状態あるいは風化による崩落や破損などの不 確定要素を含んでいるのである。
第3点は、 尺度の方眼操作に横穴式石室と同様の方法 を援用していることである。 横穴式石室は、 あらかじめ決 められた位置に外方から石材を置くことによって作られる。
平面的な形は計画された設計どおりの線引きで作られるの である。 この構造物の設計を読み取ることは、 築造上の間 違いや石材等による予定外の仕様などを取捨することで可 能である。 いっぽう横穴墓の場合、 岩盤をくりぬく作業ゆ えに、 石室のような設計図があらかじめ大地に刻み込まれ ているわけではない。 平面形は掘削しながら、 設計との違 いを適宜修正していかねばならず、 臨機応変に対処する ことが必要なのである。 当然、 掘りすぎもあるだろうし、 岩 盤の土質によって予定変更も十分に想定されるのである。
使用尺度
横穴墓の尺度の抽出は、 各部計測値の差が尺度とどの ような関係にあるのかを見ることによって尺度の根拠として 提示する (27)。 しかし、 多くの横穴墓玄門などの接続部 分幅が 0.5 m~ 0.7 m程度と、 奇妙な数字の一致がある。
これは棺を入れるときの最低サイズの反映であると考えるこ とができるので、 これを根拠にして尺度論を進めることはで きない。 その結果晋尺をモジュールとしていると考える。
法皇山 18 号横穴墓を検討する。 玄室奥幅と玄門の幅で は 28cm (普 1.1 尺、 高麗 0.8 尺) の差がある。 床面から 天井軒表現部までの高さが 1.25m(晋5尺、高麗 3.5 尺)で、
天井まで 2.25m (晋 9 尺、 高麗 6.3 尺) である。 閉塞の 板をはめ込む溝幅が 1.05m (普 4.2 尺、高麗3尺) である。
このような数値は高麗尺あるいは晋尺どちらでも可能であり にわかに決しがたい尺度の数値の性格上いかようにも概ね 当てはまるような傾向にある。
しかしながら、 横穴墓の床面は主軸方向に傾斜している ので、 平面で尺度の方眼を当てた場合、 実際の長さよりも 短くなる。 そこで、 傾斜に沿って各部の数値を探ると、 法 皇山 13 号横穴墓では玄室長 3m (晋 12 尺、高麗 8.3 尺)、
法皇山 50 号横穴墓の玄室長 2.8m(普 10.8 尺、高麗 7.5 尺)
棺台長 1.5m (晋 6 尺、 高麗 4.2 尺)、 法皇山 18 号横穴 墓玄室長 4.98m (晋 20 尺、高麗 13.8 尺) 棺台長 1.7m (晋 6.8 尺、 高麗 4.7 尺) など、 高麗尺よりも晋尺のほうがより 合致する確率が高い。 したがって、 実際の掘削は床面の 傾斜すなわち実際の掘削面を基準に各部の大きさを決め ている可能性が高い。 おそらく玄室長や幅の企画された長 さは平面であったと思われるが、 実際は掘削面で測ってお り、 現場合わせの掘削といえよう。
法皇山 13 号横穴墓では掘削の起点はわからないものの、
羨道で屈曲する段 (A) を見当に方眼をあわせると、 2尺 で閉塞板設置溝にいたる。 さらに2尺で前室入口、 さらに 6尺で玄室入口になる。 前室と玄室の掘削は、 それぞれ の入口が起点となって予定された大きさに掘り抜かれるの であろう。 羨道から一直線にならない横穴墓もおおい。 そ の場合、 屈曲点で掘削の起点が再生産されるのである。
たとえば法皇山 50 号横穴墓では、 前庭部と接続部が斜 交しており、 前庭部と奥の掘削基準が異なる。 前庭部は 幅の一定しない通路から羨門にいたると8尺の幅に仕上げ られ、 その中央に羨道が掘り込まれているので、 そこにい たる前庭の企画は問題でない。 左側壁 (奥壁からみた場 合の左右) の羨道と接続部が直線となっていることから、
これを基準に作られたことがうかがえ、 右の空間を掘って いたのであろう。 それゆえ玄室右奥が左よりも二尺長くなっ ているのは、 このような掘削による誤差ないしは大きさ変更 によると考えられる。 法皇山 56 号横穴墓でも斜交する前 庭部があり、 6尺幅の羨門から二つ目の前庭部が幅4尺、
奥行4尺、 幅 5.5 尺で作られ、 さらに斜交して玄室がつく。
玄室は向かって左壁から2尺のところから作られている。 こ のように見ていくと、 前庭部を仕上げた後、 羨道から玄室 に掘削をおこなっていることがわかる。 この掘削方法は、
法皇山横穴墓群だけの持徴ではない。
5 横穴構造とその変化
横穴構造の変化の特徴は、 以下の三点に集約できる。
一つには、 6世紀末頃に北陸に波及した横穴墓は、 その 淵源が複数の地域あるいは系譜の異なる複数の集団に よってもたらされた可能性が高い。 北陸の横穴墓が作られ 始めた当初から、 玄室台形や家形、 あるいは長方形や複 室構造など各種のタイプが存在することから容易に理解で きる。 これはまた、 横穴墓の波及は若狭から越中まで北陸 の中をリレー式に移っていくのではないことも示す。 複数の 横穴墓築造社会からの文化的あるいは社会的発信が、 北 陸のそれぞれの地域にストレートに及んでいるのである。
二つには、 塚崎横穴墓群で台形の玄室形態が次第に崩 れていくさまを見ることができ、 小谷屋横穴墓群でも 17 号 横穴墓の次の4号横穴墓がやや長くなりながらも台形を踏 襲しているように、 それぞれの築造集団で最初に作られた 横穴墓の規格が基本的形態として踏襲されているのであ る。 これはひとたび横穴墓が作られだすと、 それ以外の地 域から影響を受けて横穴墓を作っていくわけではないとい うことであり、 固定された安定した築造集団社会といえよう。
横穴墓を作る集団が、 結果的に法皇山横穴墓群のような 大規模な群を形成しているにもかかわらず安定した墓作り をしている点が重要である。
三つには、 7世紀後葉から末ごろの群形成最終末になっ て非常に小型化した横穴墓となって、 それまで継承してき た規格から外れている。 新たな横穴墓の築造がかなり規制 を受けているのであろう。
6 埋葬過程
高岡市江道横穴墓群に良好な資料がある (28)。 23 号 横穴墓は玄室長 2.38m、 同幅 1.99m の狭い空間に5基の 木棺が埋納されていた。 6世紀末ごろに作られ、 7世紀前 葉ごろに埋葬を完了している。 奥から順に木棺ナンバーを ふっている。1号木棺は玄室主軸に直交しておかれている。
奥壁側に葬送儀礼に使われた須恵器杯が5個と鉄鏃二本 が並べられ、 刀子二本が遺骸に添えられていた。 木棺内 は壮年男1体、少年期人1体、幼年期人二体の計4体がちょ うど収まるように入っていた。 人骨は、 西端に頭骨があり棺 側に大腿骨や腕骨、 内部に寛骨や肋骨などが目立つよう である。 このようなバラバラに配置状態となった骨格はとて も骨化する前の状態で埋葬されたものとは思えない。
4号木棺も1号木棺とほぼ同じ状況で熟年女1体、 青年期 人1体、 少年期人1体、 幼年期人一体の合計5体が収めら れていた。 木棺の西端に頭骨が 3 体分あつめられ、 中央 から東にかけて大腿骨が並べられ特に木棺内に横におい て仕切りのように大腿骨があることから、 意図的な骨の配置 である。
この人骨出土状況は、 骨化した人骨を再配置している状 況すなわち再葬骨であり、 耳飾もまた改めて納棺されたも のである。 すべての人が再葬されている。 この横穴墓の人 骨の状況からいえることは、 ひとつの木棺に複数の人骨が 収められ、 それが何らかのルールのもとで収められている 可能性があり、 人の死と横穴墓築造契機が直接的に結び つかないことである。
いっぽう、 2 ・ 3号木棺は長さ 0.35 ~ 0.45m、 幅 0.35m と小型で共に幼年期人1体ずつ収められ、 第5棺はやや 大きく長さ 0.75m、 幅 0.35m で少年期人1体、 幼年期人1 体があった。 木棺は小さいが骨の配置に大きな乱れはな く、 第5棺が膝を抱えるような埋葬体位のような状況と推測 され、 1 ・ 4号木棺のような骨化を待って木棺におさめてい る状況とは異なり、 彼らの死直後に埋葬されているのであ る。 このような解釈として、 ひとつの木棺にどのような人を
埋葬するかという収めるべき規範が存在したと考えられる。
その規範とは、 1 ・ 4号木棺から類推すると、 父母どちらか に子どもが属して養育されるという双系社会を反映した居 住の最小単位をひとつの木棺に収める、 と想像する。
江道 15 号横穴墓では4つの木棺が縦に並置されている と思われ、 熟年男4体、 熟年女1体、 壮年男1体、 成人 二体、 少年期人3体、 幼年期人一体の合計 12 体が埋葬 されていた。 頭川城ヶ平 14 号横穴墓は 14 体の人骨が玄 室内から出土しているが、 よく観察すると頭骨がいくつかの まとまりになるようで、 骨盤である寛骨は反対に広範囲に分 布し、大腿骨や腕骨は直線的に並ぶ傾向にある。 頭川城ヶ 平 17 号横穴墓でも熟年男 1 体、 壮年男 1 体と熟年女 1 体の合計 3 体の人骨も同じような状況である。 これは江道 23 号横穴墓の再葬人骨を収めたものであることを示してい る。
これとは逆に、7世紀中ごろの頭川城ヶ平5号横穴墓 (29)
では二基の木棺が確認され、 奥の第一棺に熟年男一体と 幼年期人1体、 手前の第二棺に熟年女1体が埋葬されて いた。 第二棺は伸展葬だが第一棺の熟年男は頭と腰を接 するように折り曲げられ足元に幼児を置いているという変則 的な体位であり、 何らかの目的を持っていると考えられる。
頭川城ヶ平 15 号横穴墓では熟年男 2 体がそれぞれ木棺 に収められて埋葬されていた。
このように、 木棺への埋葬のあり方に死直後木棺に収め る場合と、 再葬した人骨を収める場合の二通りが存在する。
そして、 木棺内に複数の人骨を収める場合居住の最小単 位とするような規範が存在すると予想されるのである。
7 結語
北陸横穴墓研究は 1980 年ごろからストップした状態で あった。 様相を整理することで、 その入口にやっと辿りつ いた。
(1) 若狭から越中までほぼ同じ築造開始と考えられ、 遅く ても6世紀第4四半期で須恵器型式で TK209 型式に相当 する。 とはいえ暦年代で 20 年から 40 年の隔たりが存在す る。 この年代幅におさまるように北陸の広汎な地域で横穴 墓を作り始めており、 しかも作られる地域が偏在する。 西 日本から横穴墓を作る風習や思想あるいは作る集団が、
一気に北陸まで到達している状況といえよう。 このような動 きは、 横穴墓を受け入れ、 あるいは導入した地域の自律 的な動きと考えるには時期的にそろっている。 横穴墓を作 る契機は、 それぞれの地域に対する他律的な働きかけが
あったと考えられる。
(2) 横穴墓が作られ始めたころ、 ドーム形 ・ アーチ形 ・ 家形の基本的な玄室形態がすでにつくられた。 横穴墓 の導入時期には玄室方形の横穴墓にいくつものタイプが 存在し、 それが横穴墓群の個性によってさまざまなバラエ ティーとなっている。 横穴墓の波及は各地域をリレー式に 到達したのではなく、 西日本各地に存在したと想像される 横穴墓淵源の地から北陸の各地域に直接入ってきたので ある。 各地域に導入された横穴墓群の形態は、 最初に作 られた横穴墓の形を踏襲して作り続けるようで、 築造終息 までさらなる横穴墓を作る思想や技術の影響がなかったこ とを意味する。
(3) 築造の単位は横穴墓4~5基で構成された血縁関係 のまとまりのある支群ないしは小支群で共通した横穴墓の 企画である。 小支群は狭い一定エリアを墓域として他の群 と共有することはなく、 7世紀末に作られても個々の横穴 墓は独立した前庭部を持っている。 このような玄室の形の 執着ともいうべき固定された姿は、 墓への葬送儀礼が築造 のはじめから終末にいたるまで変化しなかったためである。
そして横穴形態が小支群の中で伝統的に継承され、 決め られた領域の中でのみ墓を作っており、 その複合体が支 群となって私たちに見えるのである。
(4) 埋葬の単位は血縁的なつながりをもつ実質的に居住 する間柄とおもわる。 埋葬人骨の多くが 10 代の少年期や それ以下の幼児期に属するものがあり、 十数体もの人骨出 土例では半分以上がこのような若年層の人骨である。 人骨 出土が少ないものは幼児骨の出土数も少ない。 幼児骨は 通常大人の骨とともに入れられており、 血縁的なつながり を積極的に想定できると考える。
註
(1) 拙稿 「北陸の横穴墓研究ノート」 『石川考古学研究会 会誌』 50 号 2007 年
(2) 松井一明 「遠州における横穴墓の伝播と展開」 『静岡 県考古学研究』 33 号 静岡県考古学会 2001 年 (3) 小林行雄 「横穴」 『図解考古学辞典』 東京創元社 1959 年
(4) 白石太一郎 『古墳の知識Ⅰ 墳丘と内部構造』 東京 美術 1985 年
(5) 池上悟 「横穴墓の被葬者と性格論」 『日本横穴墓の形 成と展開』 雄山閣出版 2004 年
(6) 須藤求馬 「加賀国河北郡傳燈寺長屋谷横穴探検略記」
『東京人類学会雑誌』 114 号 東京人類学会 1896 年 同 「加賀国河北郡小金村大字傳燈寺及び長屋横穴測 定表並に考説」 『東京人類学会雑誌』 118 号 1897 年 (7) 北陸人類学会 『北陸人類学雑誌』 1~4編 1896 ~ 1901 年 (第一書房復刻 1982 年)
(8) 上田三平 『石川県史跡調査報告』 第 1 輯石川県 1922 年
(9) 秋田喜一 「能登国鹿島郡西湊村横穴群調査報告」 『考 古学雑誌』 17 巻 9 号 1927 年
(10) 氷見高等学校歴史クラブ 『富山県氷見地方考古学遺 跡と遺物』 1964 年
(11) 上野与一ほか 「加賀市丸山横穴群第二次調査報告」
『加賀市文化財紀要』 1輯 加賀市教育委員会 1959 年 (12) 田嶋明人 「 補論 」 『法皇山横穴古墳群』 加賀市教 育委員会 1971 年
(13) 中村英重 「家族と家 ・ 氏」 『列島の古代史3 社会集 団と政治組織』 岩波書店 2005 年
(14) 関口裕子 『日本古代婚姻史の研究』 塙書房 1993 年
(15) 義江明子 「婚姻と氏族」 『古代史の論点2 女と男、
家と村』 小学館 2000 年
(16) 金沢大学考古学研究会「子浦川流域の古墳文化」『志 雄町史』 志雄町 1974 年
(17) 田嶋明人 「珠洲地域の横穴墓群と構造」 『珠洲市史』
1 巻珠洲市 1976 年
田嶋明人 「横穴墓群の盛行と古墳社会の変質」 『珠洲 市史』 6 巻 1980 年
(18) 池上悟 「日本の墳丘横穴墓」 『日本の横穴墓』 雄山 閣出版 2000 年
(19) 地域単位による研究の領域が、 現在の行政区分に左 右されていることが多いのは、 残念なことである。 しかしな がら、 このような小地域ごとの分析の累積をまとめる研究が 次の段階に必要であり、 期待したいところである。
(20) 小浜市 『小浜市史 通史編』 上 1992 年
(21) 池上悟 「横穴墓の名称」 『日本横穴墓の形成と展開』
雄山閣出版 2004 年
(22) 2005 年 4 月 15 日に筆者が等差をおこなって確認 (23) 西井龍儀 「二上横穴墓群の調査」 『二上山研究 (二 上山総合調査研究会会報)』 第 4 号 2007 年
(24) 池上悟 「日本の墳丘横穴墓」 『日本の横穴墓』 雄山 閣出版 2000 年
(25) 松井一明 「地蔵ヶ谷横穴墓群から見た遠州の横穴墓 の特徴」 『地蔵ヶ谷古墳群 ・ 横穴群』 Ⅰ ・ Ⅱ 袋井市教 育委員会 2004 年
(26) 池上悟 『東国の横穴式石室と横穴墓』 1991 年 (27) 拙稿 「総括」 『大畠南古墳群発掘調査報告』 石川県 立埋蔵文化財センター 1993 年
(28) ) 山口辰一ほか 『江道横穴墓群調査報告』 高岡市教 育委員会 1998 年
(29) 酒井重洋ほか 『頭川城ヶ平横穴墓群第Ⅱ次発掘調 査報告』 高岡市教育委員会 1984 年
図 1 北陸横穴墓の分布