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財閥系生保の戦後の相互会社化

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財閥系生保の戦後の相互会社化

GHQ指導説の検証

黒 木 達 雄

■アブストラクト

第二次世界大戦終戦時,わが国の生保相互会社は第一,千代田,富国の僅 か3社に過ぎなかったが,戦後まもなく発生した相互会社化の波により16社 へ急増した。戦後の相互会社化は世界的にも稀有な事象であるが,その理由 については諸説あるものの,いまだ定説を得るに至らず十分な解明がされて いない。とりわけ財閥系生保の相互会社化の理由として比較的有力視されて きたGHQ(連合国最高司令部)指導説には,裏付けとなる客観的資料の欠 如という弱点があり,GHQ指導説否定論者の根拠となってきた。

こうした中,本稿は,米国のエドワーズ財閥調査団報告書および国務・陸 軍・海軍三省調整委員会文書(SWNCC302/2修正文書)によって,財閥系 生保の相互会社化が米国政府の財閥解体政策の一環であった事実を明らかに した。これにより,GHQが財閥系生保の相互会社化を導いたとするGHQ 指導説は定説となり得る要件を具備したといえる。

■キーワード

相互会社化,財閥,GHQ

Ⅰ.はじめに

わが国に相互会社という企業形態が欧米から到来するのは20世紀になって

会全国大会報告による。

*平成24年10月20日の日本保険学 25年10月3日原稿受

/平成 領。

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からである。日本初の相互会社である第一生命が,農商務省の初代保険課長 を務めた矢野恒太によって設立されたのは1902年であり,その2年後には慶 応義塾・福沢諭吉の高弟,門野幾之進らによって千代田生命が設立されてい る。しかし,戦前の日本では相互会社の仕組みや理念が企業家等に正しく理 解されることは難しく,第二次世界大戦終戦時において,国内の生命保険会 社全20社のうち相互会社は第一,千代田に1923年設立の富国生命(旧富国徴 兵)を加えた僅か3社を数えるのみで,残り17社はすべて株式会社という状 況であった。

こうした株式会社優勢の状況は終戦後の生保危機により一変する。第二次 世界大戦敗戦により深刻な経営危機に瀕した国内生保会社の多くが,相互会 社形態の第二会社を設立することで戦後の経営再建を図ったためである。こ のことは,戦後60余年が経過した今日振り返ってみても,わが国の生命保険 業史において特筆すべき一大変革であったといえる。1947年5月に日本生命 が相互会社形態の第二会社を設立したことを契機に突如として発生した相互 会社化 の波は,それから1年も経過しないうちに,終戦時3社を数えるに 過ぎなかった相互会社形態の生保会社を一挙に16社へと急増させたのである。

このようにわが国保険業史上も極めて重要なメルクマールを形成する戦後の 相互会社化であるが,その理由についてわが国の保険研究者の間でも依然と して十分な理由の解明がなされていない。

そこで,本稿の目的は,戦後一斉に相互会社化へ踏み切った13社を財閥系 生保7社(明治生命,帝国生命,三井生命,安田生命,住友生命,野村生命,

日産生命,図表1参照),非財閥系生保6社(日本生命,大同生命,第百生

1) 相互会社形態の第二会社を設立し,後に株式会社形態の旧会社の保険契約お よび財産を包括移転した現象(旧会社はその後清算)もわが国では相互会社化 と呼ばれており,本稿でもそれを踏襲するが,本来の相互会社化とは,同一会 社が株式会社から相互会社に組織変更することを指す。旧保険業法には1939年 法改正で株式会社から相互会社に組織変更する規定(19条,31条)が設けられ ていたが,生保会社の適用例はなく,損保会社の共栄火災が1946年4月に同規 定により相互会社化した事例が唯一ある。

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命,大和生命,新日本生命,太陽生命)に分類した上で,前者を中心とした 相互会社化の理由を解明することである。先行研究にはあまり見られないこ うした分類による分析手法を採用するきっかけとなったのは,エドワーズ財 閥調査団報告書である。同報告書は,1975年7月に米国で情報公開されるま では米国政府の機密文書として保管され,戦後約30年にわたり外部にその存 在や内容が知られることはなかったが,後述するように,財閥系生保の相互 会社化を紐解く大きな鍵を提供している。

以下では,まず,終戦直後にわが国の生保業界がおかれていた経営危機状 況を概観し,続いて戦後の相互会社化に関する主な先行研究をレビューする。

その上で,財閥系生保7社の相互会社化理由の解明へと分析を進めていく。

旧会社

図表1:財閥系生保の相互会社化

*相互会社化のプロセスについては脚注1を参照されたい。

(出所) 生命保険協会(1973),734‑735頁を参考に筆者作成。

第二会社(新会社)の設立

1947.6安田生命(相)設立 1947.10光生命(相)へ改称 1952.1安田生命(相)へ改称

1947.7帝国生命(相)設立 1947.8朝日生命(相)へ改称 1947.7明治生命(相)設立

1947.7東京生命(相)設立

1947.8日産生命(相)設立 1947.9日新生命(相)へ改称 1954.5日産生命(相)へ改称

1947.8三井生命(相)設立 1947.10中央生命(相)へ改称 1952.6三井生命(相)へ改称

1947.9国民生命(相)設立 1952.6住友生命(相)へ改称 安田生命㈱

帝国生命㈱

明治生命㈱

野村生命㈱

日産生命㈱

三井生命㈱

住友生命㈱

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Ⅱ.終戦直後における生保の経営危機

相互会社化の理由解明に先立ち,相互会社化が実施される前の終戦直後に おいて,財閥系生保を含む生保業界全体が直面していた経営危機について概 観しておきたい。

終戦直後の生命保険会社に財務的窮状をもたらした主な要因は,収入サイ ドでは,営業活動における極度の新契約不振と既契約の失効・解約増加から くる保険料収入の減少,資産運用における利息配当金収入の激減であり,支 出サイドでは,戦争死亡保険金の支払い増加とインフレ進行による事業費の 急騰であった。こうした生命保険各社の収支悪化に拍車をかけたのは,在外 資産の喪失と政府の戦時補償打ち切りである。生保会社の在外資産の喪失額 は26億円に達し,これは当時の総資産約110億円の約25%に相当する巨額な ものであった。また,戦時中に行なった軍需産業への投資(株式,社債,貸 付金等)に対する政府の戦時補償が打ち切られ,保有有価証券の評価損13億 3,000万円,貸付金の損失3億5,000万円という大きな損失を余儀なくされた のである 。

1946年8月に金融機関経理応急措置法が施行されると,生保各社は1946年 8月11日午前零時を指定時とする臨時決算を行い,新旧勘定分離を実施した。

戦争や戦時補償打ち切りの損失処理を旧勘定で行なった上で新勘定による経 営再建を企図したのである。新勘定には,現金,国債,地方債等の健全な資 産と,保険金1万円以下または既払込保険料1,200円以下の契約に見合う保 険契約準備金が移され,その他の資産,負債,資本金等は旧勘定とした。旧 勘定の負債には,保険金1万円を超過する部分および既払込保険料1,200円 を超過する部分の保険契約準備金が含まれたが,保険金1万円以上の保険契 約について保険金支払が当面停止(いわゆる指定時前契約の棚上げ )され

2) 宇佐見(1984),232‑233頁。

3) 指定時前棚上げ契約は件数319,991件,保険金額11,915百万円にのぼった。

(大蔵省銀行局[1953],472頁)。

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たことは,生命保険に対する契約者の信頼を大きく失墜させる要因となった。

1946年10月に金融機関再建整備法が施行され,新旧勘定の整理方法が決定す ると,生保各社は1948年3月31日を目途に旧勘定の確定損を決め,最終処理 を行うこととされた。生保全社による最終処理の結果は図表2の通りである が,旧勘定の確定損は78億円に達し,積立金,資本金,債務を取り崩しても 不足したため38億円の政府補償を受けて埋め合わせたのである。これは当時 の全金融機関に対する政府補償額122億円の約3割を占めるものであり,生 命保険会社の経営危機の深刻さを示している 。

一方,1947年2月に第二次金融制度調査会は,最終処理により旧勘定の資 本金が全額切り捨てとなる金融機関には第二会社の設立を認めることを答申 した。その時点で生保各社は旧勘定の毀損状況から第二会社設立は不可避と 判断し,全生保会社から労使代表者が参加する 生命保険再建会議 を設置 して第二会社設立計画案を業界ベースで検討する準備を進めていたが,相互 会社化の先陣を切った日本生命はこの時期既に相互会社形態による第二会社 の早期設立に動いていたことが知られている。

4) 大蔵省財政史室(1982),50‑54頁。

(出所) 岡村文人(1954),3頁。

図表2:生保全社の最終処理状況 (単位:百万円)

確定損等の内訳 確定益等の内訳

(有価証券)

(貸付金)

(在外資産)

(契約準備金)

(その他)

前 期 繰 越 損 調整勘定振替

4,687

(1,328) (353)

(2,612) (355) (37) 1,815 1,103 201 7,807

確定益の額

積立金の額(留保分を除く)

資本金(又は出資金)の総額 整理債務の総額

指定債務の総額

政府補償額

1,366 66 33 2,499 3,972

3,834

7,807

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Ⅲ.主な先行研究のレビュー

続いて,第二次世界大戦後のわが国生保会社の相互会社化を扱った主な先 行研究をレビューする。既述のとおり,財閥系生保と非財閥系生保に分類し た上で財閥系生保に特化した分析を行っている先行研究はほとんどないため,

以下に取り上げる先行研究は総じて非財閥系生保も包含したものとなってい るが,財閥系生保の相互会社化理由を解明していく上でそれらをおさえてお くことも有益である。

まず,先行研究の中では質・量ともに頭抜けている青地(2001)を取り上 げる。青地(2001)によれば,相互会社化は,①資産家・株主層の弱体化,

②労働運動高揚化への危機感,③新経営層による経営権の強化という,敗戦 直後の日本企業にみられたコーポレート・ガバナンス構造の動向に生保会社 自身が対応したものであるとし,GHQの経済民主化政策は,相互会社化の トレンドを促進あるいは追認したものに過ぎなかったと主張する。その説明 として青地(2001)は,① ②については経営再建に伴う損失負担や労使問 題を巡って大株主と経営陣の間に生じたストレスを回避する目的や,加熱す る労働運動を鎮静化させる目的が相互会社化にあったとし,③については,

公職追放により従来の経営者が一掃された後に就任した経験不足の若手経営 者にとって,株主からの監視や買収の危険がなく経営権の強化を図りやすい 相互会社が志向されたと述べる。一方で青地(2001)は,相互会社化した生 保会社のうち財閥系7社については,財閥解体の趣旨から親会社である持株 会社(財閥本社)との資本的関係を断ち切りたいGHQの強力な指導があっ たと考えられるが,非財閥系6社についてはGHQの指導ではなく相互会社 化は独自の行動であったとの見方も示している。ただし,財閥解体もGHQ の経済民主化政策の一環とすると,冒頭の主張に従えば,仮にGHQの指導 がなかったとしても財閥系7社は相互会社化を行なっていたことになるが,

株式会社のまま戦後の株式持ち合いを通じた旧財閥グループ形成に組み込ま れていったのではないかという疑問は残る。

(7)

次に,青地(2001)も指摘したGHQ指導説については,これまで支持・

不支持が混在してきた。宇佐見(1984),宮脇(1993)などGHQ指導説を 肯定的に捉える論稿がある一方で,弘世(1988)や米山(2001)はGHQ指 導説に否定的である。実際,米山(2001)は, 今のところGHQが相互会 社化を指令した,ないしは実質的な後押しをしたという証拠は,見出されて いない と指摘し, むしろ相互会社への転換は,終戦後のきわめて困難な 時期における,企業の主体的な戦略決定の一つであった としてGHQ指導 説を否定する立場をとっている 。GHQ指導説が比較的有力とされながら 依然として定説に成り得ない最大の要因は,GHQが相互会社化を望んでい たとする客観的な 証拠 が従来見出されてこなかったことにあるが,後述 するように本稿でこの 証拠 が明らかにされる。

続いて旧株主層の弱体化説について述べる。旧株主層の弱体化説とは,当 時の旧株主層(大株主)の経済的弱体化が株式会社形態の第二会社設立を困 難にしたとする説であり,宇佐見(1984),弘世(1988)などがこの説を唱 えている。実際,弘世(1988)は 株式会社の大株主側の事情もあった。

(中略)日本生命の場合も,山口吉郎兵衛元会長らの大株主の方々が,相次 ぐ預金封鎖,財産税徴収などで大変難儀されたとか聞いている として,大 株主側の経済的事情も相互会社化の理由に挙げている 。

しかしながら,旧株主層の弱体化説には従来指摘されてこなかった問題点 がある。生保各社が相互会社組織の第二会社を設立した際,役職員(5〜20 人程度)を中心とした発起人達から調達した基金は最大手の日本生命も含め 大半が100万円と少額であったが,設立資本の少額性は仮に第二会社が株式 会社であっても変わらなかった可能性が高いのである。明治生命が第二会社 を株式会社と相互会社でそれぞれ設立した場合の比較検討資料が 明治生命 百年史資料 に収録されているが,それによれば株式会社の資本金と相互会

5) 米山(2001),14‑18頁。

6) 弘世(1988),36頁。

→脚注が入らないため、アキを作成しています。注意

(8)

社の基金は同じ100万円で検討していたことが確認できる 。また,第二会 社のうち唯一の株式会社である平和生命の資本金も100万円で,株式は旧株 主,従業員,保険契約者に 1/3ずつ割り当てられた(要するに旧株主以外の 出資が 2/3を占めた)。さらに,生命保険中央会を改組して設立された協栄 生命は,認可申請時の設立計画では基金50万円の相互会社であったが,GHQ の指導により資本金50万円の株式会社に変更され,株式はすべて役職員に割 り当てられたのである 。これらの事実から,旧株主層に頼らずとも,株式 会社形態の第二会社を設立しようと思えばその資本金を調達することは十分 可能であったと考えられるため,旧株主層の弱体化説は既に説得力を欠いて いるといえる。

続いて国崎(1959)を取り上げる。国崎(1959)は,事業の成長・拡大と ともに大数の法則によりリスク発生率が安定化し,バッファーとしての株主 資本の必要性が低下するという生命保険事業の持つ特性が相互会社化を導く 要因であったとし, 時代の推移とともに,保険会社は他の金融機関と同様 にその公共性が重視されるようになり,次第に株主に対する配当額に制限が 加えられ,株式の存在意義は乏しくなって…(中略)…所有と経営の分離の 現象が進むにつれて,株主は一種の会社債権者と化すなどいろいろの事情か ら,株主,保険契約者双方からの相互会社への組織変更が要請されてくる と述べた 。しかし,戦前から終戦直後まで日本の生保会社では大株主が実 質的な経営者というケースが大半であり,米国で当時進んでいた所有と経営 の分離や経営者支配といった状況には至っていなかった事実に照らせば,国 崎(1959)の唱える学説は当時のわが国生保会社のガバナンス状況を踏まえ た説になっていない。株主資本の必要性が低下し,かつ,株主配当が制限さ れて投資妙味に欠けるとはいえ,それだけを理由に経営者が大株主としての 地位を自ら放棄することになる相互会社化を選択したとは考えにくい。

7) 明治生命(1982),169頁。

8) 協栄生命(1963),88‑100頁。

9) 国崎(1959),223‑228頁。

(9)

Ⅳ.財閥系生保の相互会社化理由

以上の考察を踏まえ,財閥系生保7社(明治生命,帝国生命,三井生命,

安田生命,住友生命,野村生命,日産生命)について,相互会社化を選択し た理由を解明していく。

1.財閥解体の影響

財閥系生保の相互会社化理由を解明するに先立ち,まずGHQの財閥解体 政策が,当時の財閥系生保の経営に如何なる影響を及ぼしていたかについて 概観しておきたい。

橘川(1996)は,当時の日本の財閥にみられる特徴として 家族・同族の 封鎖的所有・支配がかなりの程度制約されていたのであり,だからこそ財閥 系企業で専門的経営者の積極的な進出がみられた と述べている。たしか に,財閥系生保では財閥家族が経営の中核ポストを握って経営に直接関与す るといった例はほとんどなく,財閥持株会社から派遣されてきた役員を中心 とする経営が従来行われてきた。しかし,戦後の財閥解体や公職追放により こうした役員がことごとく会社を去り,財閥系生保の経営陣は全面的な刷新 を余儀なくされた。財閥解体は,財閥系生保にとって安定株主の喪失だけで なく,経験に富んだ経営者の喪失も意味したのであり,企業経営的には非常 に不安定な状態に置かれたのである。

財閥系生保を更なる苦境に立たせたのが制限会社令(勅令第657号 会社 の解散の制限等の件 1945年11月20日)であった。制限会社令は,財閥資産 の散逸を防ぐため大蔵大臣が指定した制限会社による事業の譲渡や解散,財 産処分を制限する旨定めたものであるが,1946年3月16日の改正(勅令第 143号)を経て前述の財閥系生保7社も制限会社に指定された 。続いて

10) 橘川(1996),83頁。

11) 全産業ベースでみると,1945年12月8日のGHQ指令により,財閥15社に日 立製作所等3社を加えた18社に関係ある336社が制限会社に指定され,その後

(10)

1946年8月に持株会社および指定者の所有する有価証券その他財産を譲り受 け,これを管理処分して持株会社の整理を促進する持株会社整理委員会が発 足し,同年11月25日に証券保有制限令(勅令第567号 会社の証券保有制限 等に関する件 1946年11月25日)が公布・施行されると,財閥系生保7社に も証券保有制限令が適用され,同一資本系統間による株式の取得や保有なら びに役員・従業員の兼務が禁止されることになったのである 。

こうした状況から,財閥系生保の相互会社化は,旧財閥との関係を遮断す るための主体的判断であったとする学説も存在する。

印南(1952)は,相互会社化の理由は,旧財閥と絶縁することにあったと し,旧財閥との資本的及び人的つながりを自ら断ち切る手段として相互会社 形態が選ばれたと主張している 。類似した考えは山中(1966)にもみられ,

旧財閥との資本的関係を明瞭に断ち切ろうとしたことを理由に挙げている 。 しかしながら,旧財閥持株会社や旧財閥家族が保有していた系列生保の株式

(図表3参照)は当時既に持株会社整理委員会の管理下に置かれ,また前述 の通り旧財閥持株会社から派遣されていた役員も財閥解体や公職追放ですべ て経営陣から去っていた事実に照らして考えれば, 資本的及び人的つなが り は相互会社化を行なうまでもなく既に事実上断ち切られていたのであり,

相互会社化の理由としては説得性に欠ける。さらに言えば,相互会社化にあ たって安田生命,三井生命,日産生命,野村生命,住友生命は第二会社に従 来どおり旧財閥名を冠した(又は冠しようとした)。その後まもなくGHQ 等の指導でこれら5社は光生命,中央生命,日新生命,東京生命,国民生

数次にわたる追加指定により,1947年9月末の制限会社数は約4,500社にのぼ った。

12) 財閥解体と経済の民主化措置をさらに推進するため,1947年4月に 私的独 占の禁止及び公正取引の確保に関する法律 (独占禁止法),同年12月に大企業 の分割を強力に推進することを目的とした 過度経済力集中排除法 ,そして 1948年3月には 財閥同族支配力排除法 が相次いで公布された。

13) 印南(1952),36‑37頁。

14) 山中(1966),238‑239頁。

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命 にそれぞれ社名を変更し旧財閥名を外したが,当初だけとはいえ第二 会社に旧財閥名を冠した(又は冠しようとした)それらの会社に旧財閥と絶 縁する意図があったとは考えにくい。

15) 野村生命から東京生命への社名変更は,内認可通知の際にGHQと大蔵省保 険課から勧奨を受けて第二会社設立直前に行われた(東京生命[1970],253 頁)。また,住友生命についても 社名については,当初 住友 の名称を踏 襲する予定であったが,その後情勢が急転して旧社名の使用が不可能となった ため,新たに社名を従業員から募集して 国民生命保険相互会社 と定めた とある(住友生命[1964],49頁)。なお,1951年9月にサンフランシスコ講和 条約が調印されて以降,光生命,国民生命,中央生命,日新生命の4社はそれ ぞれ安田生命,住友生命,三井生命,日産生命へ社名変更を行い,旧財閥名を 復活させた。

図表3:財閥系生保の主要株主一覧(1945年9月1日時点)

旧会社名

(出所) 生命保険協会(1973),724‑725頁より筆者作成。

主要株主(持株比率)

①三菱本社(14%)②三菱銀行(10%)③東京海上(9%)④岩崎 久弥(8%)⑤藤山愛一郎(7%)⑥川喜田壮太郎(4%)

①古河従純(33.5%)②帝国銀行(10.9%)③古河鉱業(8%)

①住友吉左衛門(n.a.)②住友本社(n.a.

①三井高公外(47.8%)②三井本社(24.5%)

①保善社(41.6%)②安田一(16.6%)③安田楠雄(8.3%)

④安田善五郎(8.3%)⑤安田順子(8.3%)⑥安田善衛(8.3%)

⑦安田善助(8.3%)

①野村銀行(n.a.)②野村殖産貿易(n.a.)③野村合名(n.a.)④ 野村徳七(n.a.)⑤野村恵二(n.a.

①日産(31.7%)②日立製作(30.6%)③日立造船(17.5%)

④日立精機(7.5%)⑤片倉合名(5.0%)

明治生命㈱

帝国生命㈱

住友生命㈱

三井生命㈱

安田生命㈱

野村生命㈱

日産生命㈱

(12)

図表4:旧財閥系生保の社史にみる相互会社化の理由

会社名 相互会社化の理由

安田生命

東京生命

明治生命

第二会社設立の準備を進めていた会社の多くが相互会社をもくろん でおり,総司令部などの助言も考慮して相互会社化に傾斜した。まし て当社は創業の精神が互助共済であるうえに,一度は相互会社への組 織変更を企図しながら当時の法制不備などにより実現しなかったとい う歴史もあったことから,新会社設立にあたっては,相互組織こそ伝 統の理念を名実ともに具現するものであるとの説が大勢を占めるにい たった ( 安田生命百年史 195頁)

生命保険の使命は,保険加入者の相互扶助による共存共栄にありま すので,相互組織の経営が理想的であります。然も現会社の主権者で あった野村家は,従来大家族主義を家憲としてこの精神の下に事業を 進めて参りまして,機会ある毎に相互組織の精神を経営面にとり入れ て来た次第でもありましたので,今般新会社を設立するに際しまし て,相互組織を選んだ次第であります ( 東京生命七十年史 226頁)

わが国における相互組織の経験もすでに十分集積された今日,相互 組織を採用することが阿部頭取をはじめとする創立関係者の意志を正 しく新時代に承継するものであり,また経済民主化の線にそってわが 国の再建に最も貢献するものと確信し,第二会社を相互組織によって 設立することと決した ( 明治生命 十年史 84頁)

第二会社設立に際し多くの新会社が相互組織を採用したのは,当時 の経済民主化の機運に合致するという理由もあったが,GHQの意向 が相互会社化にあったことが,なりよりも決定的な要因となったので あった ( 明治生命百年史 186頁)

三井生命 連合軍総司令部は,経済民主化を目途にすえ,第二会社設立方式と しての相互会社化への指導に乗りだしていた。この反面で,財閥傘下 にあった業界数社の場合は,親会社の解体によって大株主を失った結 果,株式会社方式をとった際の経営権の帰趨いかんが最も重要な問題 であった。当社では,再建組織についての両方式の長短と,社業の将 来性をめぐって,慎重に審議を重ねたすえ,総司令部方面からの助言 を考慮し,かつ,保険契約者の利益増進と合理的・科学的経営を理想 とする観点から,相互会社方式を採用することとなった ( 三井生命 五十年史 19頁)

朝日生命 新会社の会社形態は,相互救済を目的とする保険事業本来の公共的 性質に鑑み,相互組織によることとした。 ( 朝日生命 十年史 147 頁)

日産生命 組織については,生命保険事業の公共性と社会的使命にかんがみ,

民主的経営を図るため相互組織に改組することになり(以下略) 多数の会社が相互会社化した理由は,GHQの強い意向もあったが財 閥解体等で大株主が弱体化し積極的に動けなかったという事情もあっ た ( 日産生命80年史 195頁,182頁)

(注) 住友生命の社史には,相互会社化の理由に関する記述が見当たらないため 本表には掲載していない。

(13)

そこで前述の先行研究レビューでも取り上げたGHQ指導説が依然として 賛否両論はあるものの,現在でも比較的有力な説となっている。実際,旧財 閥系生保各社の社史に掲載された相互会社化の理由(図表4参照)をみても,

総司令部方面からの助言を考慮し (三井生命), GHQの意向が相互会社 化にあった (明治生命), 総司令部などの助言も考慮して (安田生命),

GHQの強い意向もあった (日産生命)というように,GHQの関与を示

す表現が目立っている。

既に指摘したように,それでもGHQ指導説に依然として賛否両論がある 主な要因は,GHQが相互会社化を望んでいたとする客観的な 証拠 がこ れまで見出されていなかったことにある。GHQ指導説を支持する前述の青 地(2001)も, 財閥系生保会社の相互会社化は財閥解体措置の一環として 理解でき,GHQの 指導 の可能性が濃厚であるが,実際にはこの点に関 して明示的な指令などは見出せない と述べている。また,GHQ指導説 を否定する米山(2001)のように,1946年3月29日にGHQ会議室で大蔵省 保険課および生命保険協会の幹部一行に対して当時のGHQ保険監督官ルッ カー中佐が, 株式会社の相互化の問題に就ては,抑々相互会社とか株式会 社とか其れは現在では唯形式上の問題で,今日日本に於ける生命保険会社の 実態を見れば,其の経営上に相互と株式と何等優劣は無い。従って現在株式 会社を相互化しなければならぬ理由は無いし又その必要は無いと思ふ と発 言したとする生命保険協会資料 を,GHQ指導説を支持しない根拠の一つ にあげる者もいる。

こうした中,GHQ指導説に対して筆者は,財閥系生保の相互会社化に関

してのみGHQ指導説を支持するものだが,それは次に述べるような明確な

根拠があるためである。

16) 青地(2001),32頁。

17) 生命保険協会(1973),322頁。

→見出しが入らないため、アキを作成しています。注意

(14)

2.エドワーズ財閥調査団による相互会社化勧告

筆者が財閥系生保の相互会社化はGHQが指導したとするGHQ指導説を 支持する根拠は,財閥解体政策に関するエドワーズ調査団報告書に盛り込ま れた勧告内容である。そこで,まずエドワーズ財閥調査団報告書(正式名称 Report of the Mission on Japanese Combines)が作成された経緯から 述べることとする。

1945年10月に安田財閥の持株会社である安田保善社からGHQへ自主解体 計画 (いわゆる 安田プラン ) が提出されると,米国の国務省 (State De- partment)と陸軍省(War Department)は共同で,安田プランの調査及 び他の財閥についての解体計画立案を目的として,ノースウエスタン大学経 済学部教授コーウィン・D・エドワーズ(Corwin D. Edwards)を団長と する財閥調査団を日本に派遣した 。日本での2ケ月余に及ぶ調査活動を終 えたエドワーズ調査団が1946年3月14日に財閥解体政策に関する具体的勧告 をまとめた調査報告書をGHQに提出すると,GHQは勧告内容を詳細に分 析した上で,1946年5月17日にGHQ経済科学局局長のマーカット准将より 米国ワシントンの統合参謀本部へGHQのコメント を提出した。後に

18) エドワーズ調査団のメンバー8名は,以下の通り。

コーウィン・エドワーズ(Corwin D. Edwards):団長,国務省のカルテル関 係顧問,ノースウエスタン大学経済学部教授,ロバート・ドーキンズ(Robert Dawkins):連邦取引委員会法律顧問,ウィリアム・ディクソン(William  B. 

Dixon):司法省反トラスト部,司法長官特別補佐官,ジェームズ・ヘンダー

ソン(James M. Henderson):司法省反トラスト部,司法長官特別補佐官,

R・ハンター(R.M. Hunter):連邦電力委員会顧問,オハイオ州立大学法学 部教授,サミュエル・ニール(Samuel Neel):司法省反トラスト部,司法長 官特別補佐官,レイモンド・ヴァーノン(Raymond Vernon):証券取引委員 会,証券取引部副部長,ベンジャミン・ウォレス(Benjamin Wallace):関税 委員会特別顧問(竹前・中村[1999],25頁)。調査団が日本に滞在したのは 1946年1月6日から3月15日であったが,メンバーのうちヘンダーソンは,調 査終了後も勧告実施のために日本に残り,のちにGHQ経済科学局反トラス ト・カルテル課長に就任している。

19) 竹前・中村(1999),196‑199頁。

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GHQによる財閥解体や経済力の集中排除に関わる基本政策の指針と位置づ けられることとなったエドワーズ財閥調査団勧告であるが,当初,勧告に対

するGHQの評価は必ずしも好意的ではなかったとされ,統合参謀本部に提

出したコメントの中でも勧告内容について多くの修正要望が出されている 。 ここで注目すべきは,エドワーズ財閥調査団報告書の中で,破綻状態にあ る財閥系保険会社については相互会社として再編することが勧告されていた 点である。具体的には,エドワーズ調査団報告書の第6章が財閥解体政策に 関する勧告(Chapter VI:An Outline of Recommended Policy)となっ ており,その第6項(6.Destroying Financial Favoritism)において,

The most practicable and expeditious manner in which to recon- stitute insolvent insurance companies is to mutualize them  by cutting back the face amount of outstanding policies. If this procedure were  adopted, no problem  of liquidating zaibatsu holdings in such com- 

panies would exist.(筆者仮訳:破綻状態にある保険会社を再編する最も 実行可能で迅速な方法は,保有契約の保険金額を削減した上で相互会社化す ることである。この手法を採用すれば,財閥保有の保険会社株式を整理する 問題は存在しなくなる。) として,破綻状態にある財閥系保険会社の相互会 社化が勧告されているのである 。この勧告部分についてGHQは統合参謀 本部に提出した前述のコメントの中で修正を求めてはおらず,GHQはエド ワーズ調査団の勧告した相互会社化については当初より受け入れていたこと が分かる。

また,この事実は前述したGHQ保険監督官ルッカー中佐の発言内容とも 矛盾しない。ルッカー中佐と大蔵省保険課・生保協会幹部一行との会合が開

20) エドワーズ調査団報告書が作成された経緯については,竹前・中村(1999),

8‑23頁を参考。

21) Report of the Mission on Japanese Combines Department of State Publication2628, Far Eastern Series14, 1946年3月, 221頁。 なお, 同 報  告書は,国立国会図書館・憲政資料室所蔵のGHQ/SCAP文書(マイクロフィ ッシュ資料)より閲覧可能である。

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かれた日(1946年3月29日)はエドワーズ調査団の報告書がGHQに提出さ れた日(1946年3月14日)からまだ間がない時期であり,またGHQにおけ るエドワーズ財閥調査団報告の位置づけも当初は流動的であったため,ルッ カーの発言は従来の持論を述べたものに過ぎないと解釈すべきであろう。裏 を返せば,GHQは少なくともエドワーズ財閥調査団の勧告が行われる以前 は生保会社を相互会社化させる意向は特段持っていなかったのであり,その ことを示す証拠としてルッカーの発言は捉えられるべきである。

3.国務・陸軍・海軍三省調整委員会によるエドワーズ財閥調査団勧告承認 エドワーズ調査団の勧告は,それ自体では勧告に過ぎず,公式に決定され た連合国の政策ではない。公式な政策となるには,占領政策の決定ルールと して,日本占領管理に関する連合国の最高意思決定機関として連合国11ケ国 の 代 表 に よ り 構 成 さ れ る 極 東 委 員 会(Far Eastern Commission,通 称 FEC)の承認が必要で,FECが承認した政策が,米国政府を通じて連合国 軍最高司令官であるマッカーサーに指令として伝達されるというルールが表 向きには敷かれていた。ただし実際的には,米国の占領政策を決定する国 務・陸軍・海軍三省調整委員会(the State-War-Navy Coordinating Com- mittee,通称SWNCC又はSWINCC)による承認をGHQは最も重視して いたことが知られる。

SWNCCの極東小委員会は1946年7月より,エドワーズ財閥調査団報告 とそれに対するGHQコメントをもとに政策文書原案SFE182文書を作成し て検討を開始し,同年8月には再びGHQへ送付してコメントを求め,同年 10月15日にGHQからコメントを受領している。1947年1月21日にGHQか らのコメントを反映したSFE182╱1文書がSWNCC極東小委員会で承認 されると,翌1月22日にSWNCC302╱2文書( 日本の過度な経済力集中 に関する米国の政策について−国務・陸軍・海軍省調整委員会極東問題小委 員会報告 )としてSWNCCに回覧され,三省関係者による検討プロセスに 入った。1947年4月29日に開催されたSWNCC第56回会議は,三省検討に

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よる修正が加えられたSWNCC302╱2修正文書を承認し,ここに,エドワ ーズ財閥調査団によって勧告された内容の大半が,米国政府の財閥解体政策 として正式に承認されるに至ったのである 。SWNCC302╱2修正文書の 第9項には, Zaibatsu insurance companies which are insolvent should be mutualized by cutting back the face amount of outstanding pol- 

icies, where sufficient assets still exist to render this procedure prac- ticable.(筆者仮訳:経営破綻状態にある保険会社に関しては,それを実行 するのに十分な資産が残っている場合は,保有契約の保険金額を削減した上 で相互会社化すべきである。) と明記されており,経営破綻状態にある財閥 系保険会社の相互会社化は正式に米国政府の方針となったのである。なお,

SWNCC302╱2修正文書が最終承認されるまでの間,GHQ側でコメント送 付など本件の対応をしてきたのは経済科学局(ESS)であり,同局に籍をお く保険監督官ロイストン やその前任者マックリンは,自身の職責にも関 わるこうした一連の動きを当然認識していたはずである。

SWNCC302╱2修正文書はその後,米国政府の方針として1947年5月12 日に国務省から極東委員会へ審議のために送付され,以後はFEC230号文書 と呼ばれるようになった。正式な政策決定プロセスによれば,極東委員会の 審議・承認を待たなければならなかったが,財閥解体を急いだマッカーサー は,極東委員会は言うに及ばずSWNCCでまだ審議されている段階からす でに,エドワーズ財閥調査団勧告のうちGHQとして受け入れていた部分に ついて先行して実施させていた 。SWNCC302╱2修正文書の前文に,す

22) 大蔵省財政史室(1982),162‑180頁。

23) ロイストン(John P. Royston):ルッカー(C. F. Looker),マックリン

(D. A. McLean)の後を継いで1946年秋頃から1949年5月までGHQに保険 監督官として勤務し,保険業界の戦後再建を指揮した。元米国コネチカット州 保険監督庁勤務。GHQで保険行政を担当したのは経済科学局Economic and Scientific Section財政課Finance Division  通貨金融係Money and Banking Branchで,そのスタッフの 一 人 が 保 険 監 督 官 で あ っ た(大 蔵 省 財 政 史 室 

[1979],182‑183頁)。

24) ハドレー(1973),152‑153頁。ハドレーは,GHQで財閥解体に関わった唯

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でに政策は実行に移されている旨の文章が挿入され,政策文書として不自然 な形になってしまったのは,このためである。

生命保険会社の相互会社化が一斉に起こる1947年時点において,エドワー ズ財閥調査団勧告がGHQの財閥解体政策の指針としてすでに位置づけられ ていたことは,重要な意味を持っている。1947年6月設立の安田生命(相)に 始まり,同年7月設立の帝国生命(相),明治生命(相),東京生命(相),同年 8月設立の三井生命(相),日産生命(相),同年9月設立の国民生命(相)と続 いた一連の財閥系生保7社による相互会社化は,高額既契約の棚上げ(保険 金額の削減と実質的に同じ)も含めて,エドワーズ財閥調査団が勧告した内 容に全く符合するものであり,時期的な観点からみても,GHQがエドワー ズ調査団勧告に基づき当該7社の相互会社化を指導した結果であると考える のが自然であろう。また,同じ財閥系保険会社でありながら,財閥系損保に 相互会社化を実施する会社が1社も現れなかったことも,戦後の財務毀損が 総じて軽微だったため経営破綻状態に陥った会社が1社もなかった事実と照 らし合わせれば,エドワーズ財閥調査団勧告に反するものではなかったこと も指摘しておく。

Ⅴ.おわりに

本稿では,財閥系生保7社の相互会社化は米国政府の財閥解体政策の一環 であったことを裏付ける客観的資料として,戦後長らく米国政府の極秘文書 であったエドワーズ財閥調査団報告書および国務・陸軍・海軍三省調整委員 会文書(SWNCC302/2修正文書)の記載内容を初めて指摘した。この事実 により,従来GHQ指導説の弱点とされてきた客観的裏づけ資料の欠如とい う問題は解決され,財閥系生保の相互会社化理由としてGHQ指導説が一段 と説得力を有することになったと言えよう。

一方,GHQは財閥系生保に対しては米国政府の方針を受けて相互会社化 を積極的に指導したが,非財閥系生保6社の第二会社設立に際しては同様の

一の女性としてその名が知られている。

(19)

指導は行なわなかったと考えられる。このことは,実際に板谷生命に対して 株式会社形態の第二会社(平和生命)の設立を認めているという事実に加え て,新日本生命の第二会社(東邦生命)設立時の経緯もその裏づけとなる。

東邦生命保険相互会社五十年史 には,米国の再保険会社副社長に転身し

ていた元GHQ保険監督官ロイストンから生命保険協会専務理事・野口正造

へ送られた1952年書簡の写しが掲載されており,第二会社設立当時ロイスト ンから新日本生命・太田社長には株式会社で第二会社を設立しても差し支え ない旨事前に伝えてあったが,第二会社の認可申請をみると相互会社だった ので驚いたとの記憶が綴られている。

以上のように,GHQ指導説が財閥系生保7社についてのみ有効であると いう現実は,残りの非財閥系生保6社が相互会社化した理由は一体何である かという課題をあらためて浮き彫りにさせる。戦後の相互会社化の全体像を 明らかにすべく,非財閥系生保6社の理由解明にも引き続き取り組む所存で ある。

(筆者は名古屋商科大学教授)

<主要参考 献>

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ガバナンス構造の視点から⎜ 経営史学 第36巻第2号,27‑47頁。

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宇佐見憲治(1984) 生命保険業100年史論 有斐閣。

エレノア・E・ハドレー(1973) 日本財閥の解体と再編成 (小原敬士・有賀美智子 監訳)東洋経済新報社 (Hadley, E. M.[1970],Antitrust in Japan, Princeton University Press)。  

大蔵省銀行局編(1953) 第二回銀行局金融年報 昭和28年版 金融財政事情研究 会。

大蔵省財政史室編(1979) 昭和財政史―終戦から講和まで―第14巻 保険・証券 東洋経済新報社。

大蔵省財政史室編(1982) 昭和財政史―終戦から講和まで―第2巻 独占禁止 東洋経済新報社。

(20)

岡村文人(1954) 生命保険会社の調整勘定について(上) 生命保険協会会報 第36巻第2・3合併号,1‑7頁。

橘川武郎(1996) 日本の企業集団 有斐閣協栄生命保険株式会社(1963) 協栄生命史稿国崎裕(1959) 生命保険 東京大学出版会住友生命保険相互会社(1964) 住友生命社史

生命保険協会編(1973) 昭和生命保険史料 第五巻 再建整備期

竹前栄治・中村隆英監修(1999) GHQ日本占領史 第28巻 財閥解体 日本図書セ ンター

東京生命保険相互会社(1970) 東京生命七十年史日産生命保険相互会社(1989) 日産生命80年史弘世現(1988) 私の生命保険昭和史 東洋経済新報社三井生命保険相互会社(1978) 三井生命五十年史

宮脇泰(1993) 保険史話―保険史実の一側面― 保険毎日新聞社明治生命保険相互会社(1963) 明治生命 十年史

明治生命保険相互会社(1981) 明治生命百年史明治生命保険相互会社(1982) 明治生命百年史資料安田生命保険相互会社(1980) 安田生命百年史山中宏(1966) 生命保険金融発展史 有斐閣

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参照

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