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つ 政権

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(1)

政 権

﹁武家政権について﹂とい

という日本の

特殊な性質の政治権力が

いう嵐にとらえるかということについて︑若干の時間を語りてご批特

を持軍たいと思うむ かかげたが一口にいって鎌倉幕府

した事実を︑B

の立場からどう この間題拡ついてはご承知と思うが︑最近十年ぐらいのことだが︑

有力な学説として権問体制論というのが為る︒これについて大阪大学

の富家と

の黒田龍雄氏が最初に発表されたのは昭和三十八年︿一九六三)で︑

護講座︑日本歴史

eh中世2︑一所収)という

題の論文明h

︐そこで初めて権門体観論と名づけられる説を発表された

しく紹介する時間はないが︑品出回ってみれば︑主

にしているのは︑鎌倉幕府を初め

としてる武家政権法︑

したところ

つの独立した語家権力のように晃られ︑

またそのように れているがそうではない︒その経済的基礎は︑その当時の公家費

公家貴族は富家の 接大社寺というものと全く同じ荘髄制的土地所有を基礎としている︒

しての職能を持ち︑社寺は仏法の力紅よって

に対して幕府は 童家を護持するという職能を換わされ︑またそれを果している︒それ

こういう幾つかの基本的拡は性質を同じくする権門が額補い合って日 る ︒ 本の爵家体制を作っている︑という理解である︒

この説が出てから︑従来の見解はだんだん色あせてきて︑特紅最近 では権門体制論

色のよう民思われる︒この問題について以前に多少 議いた糞歪もあるの句︑もう一度控討してみたいと帯ゑたわけである︒

黒田氏の権門体制論は︑京都の朝廷側の論理でめりむしろ顕議であ る︒こういう状態がかつてあったということは否定しないし︑

態が存続することを京都の朝廷鑓として額っていたということは するにやぶ窓かではない︒また鎌倉纂詩の側が黒田氏の理解を許す一 部があることも事実なのである︒例えば︑頼朝が亡くなって

代将軍

頼家が

継いだ時に︑京都の朝廷の方から今まで通ち御家人を演っ

家来を使って国家を守

よといっているわけで.

つの武力

歯家の警犠の役にあてているのであれソ︑幕府の方でもそれを苔定して

いないことである︒

つは︑嫌倉幕府の場合に御家人の最も薫要な軍役として京都 大番役に従事することが義務付けられている︒これもおかしい話で︑

(2)

御家人が主人の頼朝の身辺を護るのならばわかるが︑京都へ行って 居を護ることを義務付けられるのは︑頼朝が皇居を護る義務を負わさ

れており︑

それを直分がやらずに家来にやらせるという論理としか考

えられないのであるむ

こういうことを考えると︑確かに幕時が軍事力を以て朝廷を護り︑

国家を護るという義務を負わされているという

つの権門であるとい う黒田氏の理解は

一面ではあたっているといわなければならない︒

しかし︑これで幕府の本質を説明できるかというと︑私にはそう思わ れない︒すべて盾の

麗ではなく総体として評価するということでな ければ︑物の評価はできないであろう︒向よりも武家の政権をつくっ てそれを支えた人びとの努力と成果を︑このような理解で正しく評部 できるだろうかということに強い疑問を感ずるわけである︒

そこで︑こういう疑問から発して︑今まで全く論ぜられていないと いうことではないが︑鎌倉幕府は京都の朝廷から半独立的な東関政権

で占めったという東盟政権論をもう一度むし返してみたいと思う︒

ι

︑幕野の成立の問題を考えて︑

成立の時点を寿永二年の十月官一旨に求め︑

その時の幕府の性格を東田 行政権の獲得と説明したことがある︒この主張は︑その後いろいろ難 点も怠ったが︑戦後の数多くの細かな研究の中で︑私が主張した一番 大事なところが取上げられないで︑その次に出現する文治の守護地頭 設置への移行の問題の中に東国政権論がぼかされてしまったというこ

とがある︿私がきちんとやれなかったことも占めるが﹀︒本自の話の趣旨

かつて主張した東間致権論をもう一喪裂の点を祷強して主張し

ja

 

r h みたいとしγ

うことも多少あるわけである日 そこで少し詳しくなるが︑鎌倉幕府が成立する過援をもう一度ふり 返ってみると︑次のような点が私

ι

は註自される︒それはど承知の通 り︑頼朝は京都における治議四年の

の挙兵をきっかけ仁して 伊立の流入の身から兵を起すわけであるが

に以仁王の令 旨が載っている︒その最初に三事最勝王鞍構云々

L

という書き出しが ある︒つまり以仁王を最勝王と称しており︑平家を反逆者とし︑また 仏法に対する反逆者日仏敵としてこれを打ちほろぼすということが本 文の中

この文書は本物ではなく︑後世つくられたものではないかという見 方が強いのであるが︑必ずしもそう断定するにも及ばないと私は考える が︑絞りに当時のものでないとしても︑当時の確実な史料として京都

‑ 2 ‑ の藤原兼実の日記である可玉葉

L

とか或は歌人として知られる藤原定

であるJ

があるので︑そういう日記の中に以仁王の ことを最勝親王と呼んで︑頼朝がかついでいるということが純白も出 てきている︒最勝王の宜と称して武士

ι

命令しているということが書 いてある︒特に

JA

nb

は︑頼朝が最勝王の

て伊勢神宮に顕 文を納めているということが書いてある︒以仁王は京都で討死したは ずなのに生きていると称して持に祈願しているのはどうもおかしい︒

持に嘘をつくことがあるだろうかという風にして疑問の

次に宮土問の戦いで平家が時売した後︑頼朝吟撃がこれを追って京 蔀にのぼるかどうか意見が

一つに分れるという有名な話がある︒結論

(3)

的には鎌倉紅一戻って東冨を臨めるべきだという意見を︑頼朝が

りにしている武将の平広嘗とか千葉常現というような豪族が主張して︑

通って︑頼朝は鎌倉拡引揚げたので・あるが︑その当時でな お京都では頼朝が上京し︑広常らが以仁王をまもって錐倉の寵守をま

もるのだという噂が

られている︒

以上のことから考えると︑頼朝を支持した関東の豪装層の主張とい うものは︑頼朝の上に以仁王或いはそれに相当する患践的な人物をか ついで東闘を酉める︒そして京都の

から独立した東闘を地盤とす

つの富家をつくることをめざしたのではないかと考えたいのである︒

京都の朝廷に対して何ほどか独立した揖家を樹立するには︑額載の ょう主身分では足り主いのであって︑もっと高貴な身分を奉じなけれ

ばならないという袈強い身分部列の鵠概念があった︒天豪から皇族︑更

に摂関家︑その下の公家などの身分序列の観念があって︑

それに裏う ちされた主張が︑平家を代弁者とする京都朝廷の圧力に反農をひるが えした関東の豪族磨の基本的な主張であったと私は考えたい︒これは まさに天皇家

ι

対する議種信抑即ち天患を最も高畿な身分と仰ぐ考え方 によりかかりながら︑京都朝廷の支配から離脱する'という考え方だと

思うのである︒

このよう金平広常︑千葉常維を代表とする人びとの主張

ι

対して頼 朝の立場は極めて弱かったはずである︒後自身の農鍾性は蔀述のラン クでみれば極めて抵いはずである︒後自身には武力は全くないのであ

る︒復程度の身分で武力︑

をもっている者はその

の関東を見 渡しても決して少くはない︒例えば甲斐拙郎氏の故田氏や常陛の佐竹託︑

更にひと起ききに行動を起している啓州の義仲などが占める︒

このようにしてみると︑頼朝が該自身の立場を固めるためにはどう いうことをしなければならないかというと︑

まず第一に東闘の独立を 主張する豪族層を分裂させてそのカを弱めることである︒第

に彼臨

身のライバル

つまり武罰氏や註竹氏などを弱め倒すことである︒第

ι

京都の朝廷から競る程衰の東国支配権を護得して豪族麗の設求に

或る麗︐度筈えなければならないとであろうと患う︒

については︑寿︑氷年の末に行われた一千広需の殺害である︒庁治

常は最も強襲な独立論者であり︑頼朝に対しても下馬して孔をしなか った気泣の高い豪族であったわけだが︑頼朝に殺された︒この事件に ついて︑後に頼載はこの男は京都の朝廷

ι対して不忠の者だったので 殺したのだと告自している

﹂れはど意知のように

qu

nbに出て

いる言葉である︒第二の点は︑佐竹氏の追放

Tあり︑武田一一族の殺裁

であり︑義仲との争いであることは改めていうまでもない︒禁三の点 が先に指擁した持永

より正確にい えば東留の陸喬の指揮権の接得である︒

このよう広して寿永二年の末頃の段培では︑頼朝は東臨強立政権の 欲求に或る程度答えながら︑健部では王轄と結ぶことによって彼自身 の立場を強めようとしていたわけである

cこの後の

:︑ :

ふ ね hu v

M

その次の

は文治一冗年末のいわゆる守護地一撲の設震で為る︒

この事件は頼朝の支詑領壌の拡大という意味では非常に画期的な大 発震と評価されるが︑これから数年にわたる京第朝廷勢力との激しい 戦いの中で頼朝は結果的には大騒に敗退する︒例えばせっかく諸国の

(4)

在苛官人の指棚得権を朝廷から獲得しながら︑僅かの問に︑在庁官人は を作成する点に限って頼朝の命令を搬向けばよいということになるa

せっかく獲得した田橋夜庁指揮権の大半を放棄したという

つは非常

ι

大事だと思うが︑全国一の武士の軍事稲揮権を掌握し

ょうとしてついに失敗に帰するのである︒さきほどあげた京都大番役 について見ると︑頼朝は全国の武士の指揮権を掌握して︑この権限に よって全国の武士を京都に召集して大番役を勤めさせるということを 望んだと考えられるが︑最終的にはこれ拭実現せず頼朝の家来である 御家人だけを使えということになる︒これも極めて大きな彼の権限の

後退であるといわなければならない︒

﹂のようにしてせっかく寿︑氷の段階で或る程度獲得した東掴行

政権というものの実繋が︑地域的には全国に拡がる段階︑それから数 年間の段階で︑逆に実質は非常に弱められたというふうに訟は考えた

この後の頼轄の政治的努力はどういうことに向けられるかというと︑

伎は御家人の統率者としての地位︑穣梁としての地位を強化すること 切の努力が向けられると考えられる

G

が鎌倉幕府の官後制の整髄であり︑官僚制による鐸家人統制の

強化であるむ

第二が王朝の権威にすがる方策である︒その第

はいうまでもなく

宣下であって︑これは被の強い希議にもかかわらず後白河法皇の 生存中はついに実現出来なかったが

の死後ようやく征夷大持箪

をもらうことができた︒職名の権威によって御家人に対する自分の軍 事的権威を鋳ることが将箪職獲得の語的である︒もう一つは︑多分に 推溺が入るわけだが︑頼朝の晩年に︑頼朝らしからぬことをした例と して引かれる入内工作である︒つまり頼朝は娘を後鳥羽天皇の後宮に 入れる希望を抱いて︑初めは長女の大姫に盟みを託し︑彼女が病気で 亡くなると次女の乙援を入内させようとしたことが為る︒これは歴史 的な先離として藤原撰関家の歴夜の慨があり︑獲に極めて近い例とし

て平清盛の例が為るから︑頼訓郡は自分叩娘を朝廷に入れて外誌を天皇

つまり天皇家の外戚紅なることを望んだのだと理解して︑

よいよ彼の朝廷への接近の重要な現れというふうに考えて︑せっかく

武家政治をつくりながら︑最後の段階で武家政治の創始者らしからぬ

ことをしたと解釈されている︒しかし恐らくそうでは主いであろう︒

4 ‑ 娘を天皇家に入れて︑生れた男子を鎌倉に迎えるということが復の望

みであったであろうと私は考えるわけである︒

頼朝が建久十年正月に亡くなると子供の頼家があとを継ぐが︑二代 将軍鞍家がやはり父の頼轄の希襲をうけついで何とか不姫を朝廷へ入 内させようとするのだが︑乙姫も病気でなくなったために実現しない︒

その後頼家が失鰐し︑実朝が三代将軍になるのはど承知の通りだが︑

実朝が殺される誕年に敦子が京都へ持って後鳥羽上患の嘉子を錐会に 違えようとして画策している︒これは実朝の生命が長くないことを克 越してその後を考えたのだといわれているが︑恐らくそうではないだ ろう︒突輔がいても構わないのであって︑実朝の上に親王をもって

くるということであって

つまち大蔵なり乙姫を朝廷に入れて外孫を

(5)

競食に迎えることの

であり︑最初に頼朝が兵を挙げたとき︑頼朝

が呼蕗し

をかついで武家政権をつくったという︑そのたて前

の再現である︒ところが政子の要請は後鳥羽上患によって拒杏される︒

を鎌倉にやって臼本闘を一つにするような

﹂とを自分がするものぞしとったわけだが(﹁愚管抄b︑これこそま

さに鎌倉剣の狙いをずばり看破したものであった︒

その後︑これが

しなかったものだから︑藤諒道家の幼少の子供 を溜える︒これが頼経で藤原将軍︿際家将箪)といわれている︒これ

はいわば親王持事の代案である︒

なお︑少し先走るが︑その後接原将軍一一代のあと︑後嵯融上阜の底

子で為る宗務寂王を追えて︑ついに初めて親王将軍が実現する︒この

時点だけで見れば︑後嵯峨院政と幕府との妥協の産物として親王将箪 が実現したのだというふうに考えられているが︑長期的

ι

克ると︑こ

れは鎌倉幕前が創立以来求めていたものの実現といわなければならない︒

事実の点では先に進んだが︑以上のよう

ι

考えると頼朝の文治

t

久の乱までというものは東田独立論がまさに黒田後鑑氏のいわれるよ

つまり幕府が京都朝磁の番犬として仕える

というあり方になかば変った時期というふうに考えることができると

恐らく承久の設の話発には︑そういう状況に対する東国の豪族層そ

の他疾く東悶武士蹄の不満が根底にあったと考えたいのであって︑こ

の点は承久の乱と京都の側︑後鳥羽上皇の鵠からの政権臣復運動とし

てだけ理解していた従来の考え方をもう

度考え薩してみる必要があ

ろうかと思うが︑

それはここでは立入らないとして︑そのような状況 を受けついで承久以後の鎌倉幕府というものは再びかつての東国独立

的な体制勝への務力を進めるわけである︒

その最もはっきりしたあらわれとしてやはり御成敗式自の制定をあ

げなければならないと患う︒今宮残っているのは五十一ヶ条であるが︑

最初はあれほど

aにもなかったのではないかと悪うが︑ともかくあのま まであるとしても︑罷か五十一ケ条の律令にくらべれば極めて小規模 なしかも津令ほどの法典として整った形もとっていないが︑韻定の意 欲は大変なものであって︑京都の律令に対して武家の法典をつくるの

だという強い意歓に襲うちされたもので為ったわけである︒

更に引続いて裁特制麓の充実があるわけだが︑これなどはまさに裁

判の公正をモツトi

とし︑特に身分によって暫定が左右されることを なくするという点をうち出しているのである

Q

それから頼轄の初期に史料約に少し出てくる盟国の境界争論につい (これも前広︑正装したことがあって︑

いまだ十分な賛同は惇られな いのだがてとくに歯と掴との境界のいについて述べたいQ

例えば摂津冒と播磨闘の境界争いとか︑武裁障と相撲国の境界争い

とかのような国と国との境界争いが龍った場合︑

西霞の方の争いは朝

廷にお顕いするという原踏を騒々幕府が言明している︒これを私は︑

東閣の争いは幕蔚が裁定権をもっているということの裏返しの表現と 読むわけだが︑そういう形での東留の境界裁定権というものが特に承 久以後薙定すると考えたいのである

Q

先ほど触れた京都大番役を︿特拡北条一零時の時代であるが﹀大輔に

(6)

縮少することをやっている︒ところが文永以降︑とくに蒙古襲来のニ

その防禦態勢を固めるようになった頃から︑頻りに 全国的な支配権を獲得する方向に幕府が乗り出してくる︒その限りに

おいて東国独立論は後退するのである︒

そうであるから︑文永以降幕府の滅亡迄は︑全国支配体制の強化と いうことで朝廷の支配権の奪取に向うという傾向が確かに強いわけで

天皇の権威をかりるという限りにおいてそれへの接近

あるが︑他面︑

が同時に考えられなければならないわけである︒

そのようにみてくると︑その次の建武新政下に(僅か二年たらずで あるが﹀おいて︑足利尊氏の弟の直義が後醍醐天皇の皇子成良親王を 奉じて鎌倉に下って東国を支配するという事実があるが︑これはまさ に東国政権の復活である︒直義自身の政治思想を併せ考えると︑これ

は鎌倉前期l

承久の乱から文永までの間

iJ

の東国独立体制にもう一

度戻ろうとしたものと理解できると思う︒しかしこれはご承知のよう に︑僅かの間で消滅し足利氏は京都を本拠として幕府をつくるという ことになるわけである︒その限りにおいて武家政権の朝廷への回帰が

行われる時期であると考えてよいだろうと思われる︒

しかし南北朝六十年間の争乱において︑屡々皇族をかつぐ事実が見 られる︒これは一面︑貴種信仰が衰えていないことをあらわすが︑こ うした事実が度重なることによって逆に貴種信仰が薄れて行く︒つま り天皇家の権威が以前にくらべて意味をもたなくなってくる一面があ ることを指摘したいわけである︒天皇家の権威をかりで武家の棟梁と して武士に臨むということは︑武家の棟梁としての権威が天皇の権威

と切り離せないものとして考えられていたことを示すものであるが︑

南北朝の争乱の帰結として︑そのような性質をもった棟梁の権威の重 要さが減じて︑幕府のもっている国政権の方の重要さの方が認識され

るというふうに変ってくると思われる︒

その段階であらわれるのが足利義満による明への朝貢である︒これ

は日本が明の冊封体嗣の中へ巻き込まれる︑つまり明の冊封を受けて日本の

国王となるという体制であるが︑これについてもかつては明から色々 なものを輸入するという対明貿易の便利上から冊封体制を受入れたの だというように理解されていたわけである︒私はそのようなことを否 定しないが︑むしろそれよりは冊封を受けることによって義満の日本 における日本国王としての地位を明の皇帝によって保障してもらうと いう点が︑義満にとって重要であったのであろうと考える︒これは中

‑ 6 ‑ 国の皇帝の周囲辺境の諸国に対する支配体制をのぞいてみるとわかる

日本の国王は足利義満であるということ

ように︑例えば明の皇帝が︑

を承認し︑それを国王に封ずるということにすると︑若し日本の中に 反乱がおきて足利氏以外の者が事実の上で王権を奪った場合に︑明は それを認めない︑あくまで明が認めたものだけが日本の国王であると する体制である︒だから新しく実力で王になった者は明へ行って国王 の冊封を受け︑更に明との国家貿易に参加しようと思っても︑明の方 でこれを拒否するというのが冊封体制の意味である︒そういう形で明 の皇帝によって日本の王の位が保障されるという意味である︒恐らく

当時としてはそれなりに合理的な考え方であっただろうと思う︒

﹂れまでの長い伝統的な身分序列の観念︑特に天皇家に対する貴種

(7)

信仰からすると︑義満が明の時封を受けることは︑経だけしからぬ考

え方ということになるわけ℃︑史料的にはそう多く残っていないけれ

ども︑当時の費族が非営に変援したことは十分理解できるし︑義溝が

死亡後管鎮の斯披義将がそれを非難し︑次の将軍義持の代になって対

関関孫を断絶したにとはよく知られている通ちである︒しかし︑その

次の義教の代になると若干の修正をしてもう境対明関係を復活する中

つまり強い訟統的観念からの反嬢を少し慰搬するという形で事態をも

鹿北朝争乱の関に色々な古い意識が薄れたと同じように︑議講のし

いた冊封体制が一屈では今述べたように強い反援を受けながらも︑他

面において天皇家及びそれを取巻く貴族躍の法統的権威を次第にうず

め︑弱めていっただろうということはいえるだろうと思う︒義満・義

日本閤主としての意識を持続し強化することの努力

が是科将軍の重要な課題となってくる︒恐らく義教将撃と関東管領と

の長年

ι

Rる抗争の末︑永亭の乱で関東管領を減す事件とか︑初めて

比叡山に討伐撃を向ける(結果的には失敗したが︑後には⁝⁝部長がある

だけである﹀とかの軍事行動を強行するというのも一に義教将箪の王

権の持主としての誇りというか王権を確立しようとする努力のあらわ

れというふうにしか考えられないわけである︒

後の方は駆け足になったが︑もう一度まとめれば︑中散の前期拡は︑

特に頼朝の時代に前十聞に押し出された武家の棟襲・なるものの地位権限

の保障を求めることに幕府の鍔カが額註された︒棟棄とは集開花おい

て主人が従者を支配する権限の最高総括的な形であって︑それは本来

維持の保障をもたない︒主人のカの強弱と変北によって幾らでも家来

の数などが変北するという性質のものだからである︒そこで︑武家の

棟袈の権限を保障するものを何に求めるかということが鎌倉幕府の将

にとって最大の謀題であったと思う︒その場合に京蔀の醜廷の権威

をかりなければならないということになるのだが︑それが恐らく寓北

騎を経過して足利義識の時代ぐらいになると︑ようやく棟梁観念とそ

れを重視する考え方というものが急速に弱まってくる︒そしてもう

つの国政権の頂点としての︑事実上の閤王の地金権限を確立する方向

広諜題がきりかえられて行くと考えたいのであるD

︿本構は昭和五十年十月五日の弘前大学調史訴究会での

公開講演をまとめたものである︒費任は編集係拡ある︒﹀

参照

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