有 機 体 説 と 弁 証 法
︵ 三
︶
川 田 俊 昭
ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ
飛躍して云えば︑11 寧ろ我々に於ける恩考・論理(悟性)そのものが︑我々人間における有機的生の一表白
ヽ ヽ ヽ ヽ
としての意義・限界をもつ︑ということにならぬか︒(これは︑まさに︑逸すべからざる・考慮すべき基礎問題であ
ヽ ヽ ヽ
る︒) (例えば︑)人は容易‑云う'﹁論理上相互依存関係にある個々の認識の1体系である学なるものは︑論理上統
ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ
一ある即ち我々の恩惟にとって全‑同じ性質を有する対象に関係せしめての外は︑考え得べからざるものである﹂︑
とO(アモン︑﹃理論経済学の対象と基艇概念﹄) 或は云う'﹁およそ︑権威のある学問であろうと願う以上は︑ど
の学でも︑その概念が︑特に基本的なものについては︑夫々統一されている﹂︑と︒(同︑﹃経済的基礎概念と基礎
問題1経済学入門‑﹄)‑‑学における統1︑体系︑秩序︑関聯︑聯関︑法則・・・‑etc. 一般的な・自明と
ヽ ヽ ヽ
しての・大前提としての所謂﹁同一性原理﹂の要求︑これである︒﹁学問とは寧ろ体系的知識に等しい︒故に体系化
は科学的叙述の核心をなすものである︒﹂(H・ワーゲンフエール︑﹃経済学における体系思考1一つの方法史的
考察
﹄)
﹁真理が存在する真の姿は'体系的思惟たり得るのみ︒﹂(ヘーゲル)
経 営 と 経 済
九
;¥
再言しよう││
この
こと
は︑
一有機体としての我々における︑﹁生の恐ろしい秘密﹂(ゴットル
)ll
﹁我
々の
生活︑即ち体験する生活が︑他の生活︑即ち有機体的生活に︑
る ﹂
ではあるまいか︒蟹は甲羅に似せて穴を堀る︑とか︒ 従属していることは︑我々の生の恐ろしい秘密であ
││我々は我々自身に似せて考える︑のでは
あるまいか︒(有機体説は言わばその極限にある︒)
なる
が故
に︑
(例えば︑)カントの云示︑
﹁:
・・
・・
思弁
的純
粋理
性の本質:::純粋理性は︑許多の肢体から成る有機体そっくりの構造を︑もつものである︒それだから︑
乙乙
では
︑
一切のものが夫々一個の器官であり︑全体は各個のために存し︑各個は又全体のために存する︑という工合である︒
従ってどんな些細な欠点にせよ︑││それが誤謬(誤見)であろうが或は欠陥であろうが︑ーー使用してみさえ
すれば︑その正体を表さずにいないのである︒私はこの体系が︑これから先いつまでも斯かる不変な性格を持ち続け
ていくことを願っている︒私が将来に対してもこういう確信を持つのを当然と心得ているのは︑徒らな自惚れのせい
ではなくて︑全く次の様な一目瞭然たる事実に基いているのである︒つまり純粋理性の最も些細な要素から始めて順
次にその全体に達し︑今度は逆に全体(斯かる全体も純粋理性の究極目的によって︑それだけで完結しているものと
して実践的なもののうちに与えられているのである)から始めて個々の部分に至る︑というこ通りの進行から生じた
結果が相等しいのである︒それだからどんな些細な部分でも︑これを変更しようとすれば︑この(純粋理性の)体系
においてのみならず︑一般に人間理性において︑すぐさま矛盾を惹起せずにいないのである︒:::
‑(
純粋
理性
の)体系の構造は︑いわば有機的統一を有するものと看倣される︒:::﹂(﹃純粋理性批判﹄)
﹁﹃
体系
﹄と
は︑
一つの編成されたる全体であって︑その採り上げる領域に関しては比較的の完成を主張するもの
である︒その成員(部分)の相互間に矛盾があってはならない︒略言すれば︑次の様にも定義出来るであろう
D
体系とは形式的全体性である︑と︒﹂(ワーゲンフュ
l
ル)
︽全
l
個︾(全体l
個別︑又は普遍l
特殊:::)における矛盾の発生(前述のカント﹃純粋理性批判﹄よりの援用ーーその終り近く﹁矛盾﹂の語の出る箇所
1 1
︑
語のある
1 1
︑ 参 ) を
︑
│
│ 寧 ろ
︑ 肯 定 的 に 可 能 と し
︑ ー ー
原理
l
カントの﹁不変﹂に対する││)の場合である︒
l l
ルの援用及びその後にあるワーゲンフュ1 i
同じく﹁矛盾﹂の
意識的に取扱ったのが︑へ
l
ゲルの弁証法(勤学﹃同一性は︑矛盾に対しては︑只単純なる直接的なるものの︑
死せ石存在の︑現在に過ぎない︒しかるに︑矛盾は︑凡ての運動と生命性との根源である
ρ
何等かのものは︑それ自身のうちに矛盾をもっ限りにおいてのみ︑それは運動し︑街動と活動とをもっ︒﹄
カント乃至カント的なるもの
1i
i
﹁抽象的なるもの或は悟性的なるもの己
g ﹀ σ
巳3 5 0 0
仏 ・
︿ 句 丘 山 口 丘
m o ‑ ‑
: :
悟
性としての思惟は︑固定した規定性並びにそれの他に対する差別性の傍らに止まる︒一つの斯かる制限された抽象的
それにとって独立に成立し存在するものとして認められるのである︒﹂(三木清︑
なる
もの
が︑
﹃社会科学の予備
概念﹄︑昭和四年)﹁形式論理学ハリカント︺に従えば︑普通はそれ自らに即して独立に存し︑どこまでも普遍であ
って︑決して同時に特殊であると思惟することは許されぬのである︒斯く形式論理学は専ら悟性的思惟に止まるので
あるが︑これに反してへ
l
ゲルの所詞弁証法的論理学は︑乙の悟性的思惟を思惟の出発点として認めるが︑しかし︑思惟活動のすべてではなく︑単にその不可欠の一要素と看倣したのである
0
・ :
悟性的思惟が抽象的・普通的規定に
有機体説と弁証法
国
九九
経 営 と 経 済
一OO
固執すればする程︑却ってその規定は否定され︑内的必燃性をもってその反対の規定即ち特殊的規定に移行せざるを︐
得ないのである︒何となれば︑普通はそれに対立する特殊があればこそ普遍なのであって︑特殊がない場合には最早a
何等の普遍もなく︑即ち普遍は最初から特殊によって限定されたところの有限的規定であるから︑我々が普遍という︒
ものを強く意識すればする程︑却って普遍はそれ自ら存するものではないと否定し︑その反対の規定たる特殊を考え
ざるを得なくなり︑矛盾に陥るからである︒:::斯かる思惟の否定的・消極的方面こそ︑へ
i
ゲルの所謂﹃弁証法的方面﹄である︒﹂(武村忠雄︑﹁独逸経済学﹂︑慶応義塾大学詰座・経済学︑昭和十三年)
﹃弁証法とはこの内在的な移渡︑そこでは悟性の諸規定の一面性と制限性は︑それが在るところのものとして︑即ち
それの否定として自らを表現する︒一切の有限なるものは︑このもの︑自己自身を止場するということである︒弁証
的なるものは従って学問的行程の運動する魂を形造り︑そして︑それによってひとり内在的なる聯関と必然性が学問
の内容のうちべ来り︑並びにそのうちに一般に有限なるものを越えての真実なる︑外面的ならぬ高揚が横たわってい
るところの原理である︒﹄
しかも︑有機的生に即して:::︒
その
占⁝
︑
││本稿の立場にとって││(我国における)最近の新しい論文
の一
つ︑
加藤
尚武
︑
﹁青
年期
へ
l
ゲルにおける﹃生﹄の弁証法﹂(雑誌﹁思想﹂︑九月号︑特集﹁ へ
lゲル﹂︑所収)
は︑極めて示唆的である︒
結果
︑
へ
i
ゲルの弁証法が(俗流におけるが如き)単なる論理学︑﹁魔女の九九﹂でないことの私自身の確信││私自身の思い付き︑を動機とした
li
を ︑
ヨリ一層固める乙ととなった︒
三木話︑福
井孝
治︑
の二論文においても︑ ﹁有機体説と弁証法﹂(前掲著︑﹁浪漫的・有機的社会観と強力国家思想﹂(﹃経済学の基礎にあるもの﹄︑
ヘ l
ゲル青年期の論文︑諸著作について︑若干の斯かる言及があったものの︑加藤氏の場合は︑ 所収)昭和三十三年︑
所収
﹀
具体的且つ詳細にして︑尚顕著である
D
'も
っと
︑も
︑
この
こと
は︑
(専門家である)加藤氏に││私自身︑今の今まで関知しないことであったが︑ーーー
よれば︑我国哲学者聞において一部自明のこととされていた様である︒即ち︑氏はその論文努頭において云う︑
その多岐に亘る弁証法的発想の基本的なものの全んどすべてを︑おそらくその認識論的側面を除いてーーー
ー「
J ¥
!ゲ
ルが
︑
その認識論に対し
τ
も基礎的な意味をもっ1 1
存在の弁証法的形式の全んどすべてを︑青年期の所詣﹃
生の哲学﹄において︑形成し終えているという乙とは︑最近に至るまでのへ
l
ゲル研究において︑概ね公認の事実となっていると言ってよいであろう
D
﹂と言
って
も︑
先の武村氏の援用に対照すべく︑加藤氏の援用を用いれば︑即ちこうである︒
﹁彼
(へ
l
ゲル)の特有の﹃自然主カント的な理性の理念としての神を︑要請という彼岸的非現実
つまり︑可能性としてではなく︑乙の世の現実性として︑存在として︑彼岸ではなく現在
00
・
m g d g
ユとして︑実現しようとする要求がその背後にあると云えよう︒第二に︑悟性の形式的・抽象的画一性では
義﹄は︑様々の観点から理解出来よう︒先づ第一に︑
界においてではなく︑
なく
︑ 個体の多様性を生けるものとして尊重しようとする態度があり︑しかも︑
第三
に︑
それを受動的・受苦的
‑ o E O
ロハ凶な態度ではなくて︑能動的・主体的な態度においてのみ果し得るとする﹃主体性﹄の立場がある︒乙の現実性︑
有機体説と弁証法
同
O
経 営 と 経 済
O
個体性︑主体性の要求を︑一一一一口でいって︑人間の現実存在におけるカント的理念の実現とも表し得ょう︒﹂
然 り
!
(世間的常識に反する様であるが︑)カントには︑へ!ゲルにとってかなりの首定の部分がある︒が故に︑
加藤
氏も
︑
へ
l
ゲルの﹁生﹂について次の様に書き得たのである︒﹁﹃
生﹄
とは
︑
いわば﹃自然﹄と﹃共和国﹄の統
一さ・れたものであり︑同時に﹃国家﹄を越えている様なものであるロ
その中心的なイデーは︑個体的なものを保持する全体的統一であると言えよう︒と云うことは︑とりも直さず︑人間
﹃自
然﹄
にお
いて
も︑
﹃共
和国
﹄に
おい
ても
︑
とその生きる社会において︑人間的自然としての︑カント的意味での傾向性を含めて︑全人間的な街勤という主体性
と︑社会的な律法の普遍性・客観性とが︑統一されているという乙とでもある︒﹃そこで主観と客観との対立が喪失
するところの︑主観と客観の綜合﹄なのである︒﹂
カントの︑或は有機体説の所謂﹁統ごは︑ここでかなりの幅をきかしている︑と言うべきであるロが︑
は次の点においてやや異るーーー換言すれば︑﹁弁証法﹂となるーーのである口
的な原理も多様なものの統一ではある︒しかし︑
J ¥
ゲ
ノ レ
﹁たしかに︑律法の拠り所とする客観
﹃斯かる原理は普遍的なものであり︑従って概念であるが故に︑必
然的に︑特定の(規定された)状況における特定の応用︑つまり特定の義務が現れる︒それらが各々絶対的に存立す
る限り︑様々の徳は互いに破壊し合う︒﹄:::概念の抽象的統一こそ︑その普遍的な寛容なき妥当性・画一性と同時
に︑具体的状況における特殊な義務の相殺を生むものである︒ところが生はあらゆる特殊なものを貫いて︑それ
K
許しを
与え
︑
その中に変容しつつ生きる︒﹃生ける結合︑生ける統一は︑概念の統一と全く具る︒これは特定の状況に
特定の道徳をあてはめない︒様々の関係の幅駿にあっても︑その外面的形態は無限に変容し︑二度と同じ形態をとる
ことはないが︑裂かれることなく単一である︒﹄﹂
‑﹁
彼(
へ
l
ゲル)は主要な関心の的であった宗教に関してその本来的なあり方としての主観的宗教と︑批判の対象としての客観的宗教を︑二つの自然観に対応させて述べている︒
﹃主観的宗教は生けるものである︒‑::客観的宗教は拍象である︒前者は自然の生ける書物であり︑互いに一緒にな
って生きている植物であり︑見虫であり︑烏であり︑動物である︒後者は︑自然学者の陳列室である︒自然学者
らゆ
るも
のを
︑
は︑見虫を殺し︑植物を枯らし︑動物を剥製にし︑アルコール漬けにして保存したりする
D
そして自然が区分したあただ一つの目的に従って秩序づける︒自然は諸目的の無限の多様性を︑ある
一緒
にし
て格
付け
にし
︑
優しい紳で編み合せておいたのに︒﹄﹂
カントよりヘ
l
ゲルを区別せしめたのは︑より
へ
i
ゲル自身のそれが︑文字通りヨリ﹁生﹂の理解に近い︑という(へl
ゲル自身の)確信だったのである︒││認識論的優越でなく︑寧ろ我々の現実︑ ー
l
少くともへl
ゲル自身の理解に拠る限り︑ーーカン
トの
﹁生
﹂
﹁生﹂自体に即した存在論的根拠に基く優越である︒﹁非現実の彼岸
において約束される概念が︑如何に美しいものであろうと︑それが人間存在に内在する何ものかでないならば︑究極
それは人間の外なる他者のーーー当時のへ
l
ゲル
の用
語で
一一
一口
うと
││
実在
的命
令に
外な
らな
いで
あろ
う︒
﹂
にお
いて
︑
斯くして︑同じく﹁統こと言い条︑
カン
トと
具り
︑
へ!ゲルにあっては︑個(部分︑特殊)が︑殊更に強調され
ることとなる︒(︽全
l
個︾における﹁矛盾﹂の発生︑の可能性)﹁生において部分は全体と同一の一者である日﹂﹁生における統一は︑多数性を生かす統一である︒全体が一つのものであると同時に︑部分も夫々一つのものである︒
理論的統て概念による統一とは違って︑﹃ある与えられた多様性に統一をもちこむのではなく︑
そ
れその
統一
は︑
自身統一である﹄ような︑そういう統一である︒:::﹃生あるものの多数性は対立の一程である︒生あるものは有機
体と看倣されてなくてはならない︒生の多数性が対置される︒﹄﹃唯︑客体について︑死せるものについてだけ
全体は部分を別のものであるということがあてはまる︒生あるものについては︑反対に︑部分は全体と同一の一者で
有機体説と弁証法
国
一
O 三
経 営 と 経 済
一 O
四
ある
︒﹄
:・生は全体と部分の同一性としての有機体であるから︑生が多数性︑つまり分肢をもつことは︑生の外
部にある或は生の外部から見られた区分ではなく︑生そのものにおけるその統一(単一性)に対する区分である︒﹂
﹃個々の部分を︑全体の聯関から無理に引き離して互いに比較・対照すれば:::矛盾らしい個所を指摘することが
出来る︒﹄(カント︑前掲著)
問題にする時︑ しかしながら︑果して︑我々の有機体について︑その様な論理が可能であろうか︒我々の悟性・論理自体に即して
これは明らかに矛盾控着を侵していることとなるからである︒が︑へ
1
ゲルによれば︑有機体そのもの
﹁生﹂そのものに即して考慮する限り︑それは矛盾ではないのである︒
へ
l
ゲルの云う︑﹃死の領域に矛盾するものも︑生の領域においては矛盾ではない︒例えば三本の枝をもっ木は︑その枝と合せて一本の樹木である
D
しかし︑各々の木の息子︑れ自身一つの木である︒﹄(加藤︑前掲著より) つまり枝は(従って他の子供︑︑つまり葉も花も)︑そ
又 ︑
へ
l
ゲルの(木の比輸を用いて)云う︑﹃一首は花が聞くことによって消える︒人は言うことが出来よう︑苦は花によって否定される︑と︒同様に︑果実によって花は植物の虚偽の定在と宣告される︒そして︑植物の真相として
花の代りに果実が現れる︒これらの諸形態は自己自身を区別するばかりでなく︑相互に両立し難きものとして排斥し
合う
D
だが
︑
それらの流動的性質は︑それらを同時に有機的統一の契機たらしめ︑そこではそれらは闘争し合わない
ばかりか︑何れも等しく必然的なるものである︒そして︑この同等の必然性が始めて全体の生命を形成するのである︒
﹄(福井︑前掲著より)
而して︑福井氏は続けて云う︑﹁生命過程は︑個々の形態がそこから相互に区別され限定されて出てくるところの
継続的な流れとして現れる︒斯かる限定性は︑全体という立場からみる時︑
しめるものである︑というのがへ
l
ゲルの見解である﹂︑と︒ これら形態をして全体の単なる契機たら或は又︑三木
清の
云う
︑
﹁﹃
有機
的﹄
︑
﹃有機的統一﹄などいう語は︑彼(へ
i
ゲル)の書物の種々なる箇所において見出される
Q
数多くの中から一︑二の例を引いておこう︒﹃植物の芽l
この感性的に存在する概念
l
ll
は︑その発展をそれと同様な存在をもって︑種子の生産をもって閉ぢる︒:::この端初と終末とが一つに結び合うこ
と︑この概念がその実現において自己自身に来ることは︑しかるに︑精神において︑単に生けるものにおいてよりも
尚一層完成された姿をもって現れる︒蓋し︑後のものにあっては︑生産された種子は︑このものがそれから生産され
たところのものと同一でないに反して︑自己を認識する精神においては︑生産されたものは生産するものと一つの同
‑:そこでは︑個々のものは︑全体の発展と生命とにおける一つの﹃契機﹄に過ぎず︑そして
ただこの聯関における項としてのみ︑真理性と意味とを獲得する︒﹂(後半の行文における福井氏のそれとの酷似に 一のものである︒﹄
注意せよ!)
加藤氏の強調が︑何れかと言えば︑﹀ロ色︒
F l E W
円巴与にあるに︑福井・三木両氏のそれが盟可包各
l
﹀ロロ
ロ仏
呂円色︒﹃乃至﹀ロ包各:::﹀ロロロ己呂円包与の強調にある︑というニュアンスの違いはあるにしても︑三氏共に有
機体(植物)とへ
l
ゲルへl
ゲル弁証法との密接は示唆されている︒(以下︑加藤氏の論文に︑更に︑斯かる示唆砂若干
l
主として氏によるへl
ゲルからの援用ーを︑拾ってみよう︒)﹃生は︑単に合一︑関係︹統一︺としてのみならず︑同時に︑対立とも看倣されなければならない︒﹄
﹃
::
:A
口一
︿
O吋巴
巳m
OD
‑‑
::
合一
存在
含ω
︿ R
a E E o
‑ ‑ : :
合一されるためには︑二律脊反の項目は︑相互に脊反するものとして︑
有機体説と弁証法
国
一 O
五
経 営 と 経 済
一
O
六それら相互の関係が二律脊反として感じられ︑認識されていなければならない︒しかしながら︑互いに相反するもの
が︑相反するものとして認識されるのは︑ただそれが既に合一されている︑ということによる外はない︒﹄
﹁個
体的
な生と全体的生は︑直接的に統一されているこ冶によって︑個体的生は︑無限の生を自己の内に映現・示現している
のであった口しかし︑これはいわば無自覚的統一である口反省によって︑この統一は︑一日一対立へ粛されざるを得な
い︒しかし︑対立は︑反省の自覚を通じて再統一される︒生における弁証法的展開が︑ここに与えられている︒
生
は︑自己自身から自己を離間させて(自己を二分し)︑そして再び自己を合一する︒﹄﹂
一つの生あるものを前提し︑しかも我々観察者を前提とするならば︑我々の制約された生の外部に措定
﹃我
々が
︑
された生は︑無限の多様性︑無限の対立︑無限の関係をもっ無限の生である︒乙の無限の生は︑
( α )
多数性としては
諸有機体・諸個体の無限の多数性であり︑
(β
)単一性としては︑唯一の有機化され︑分敵され︑合一された全体ーー
即ち自然である
D
﹄﹁生においては︑統一から対立への展開・転落の可能性が常に内在している︒客体性を止揚する完全化の営みは︑
統一から対立へ︑対立から﹃より完全な統一﹄へと段階的に形成されざるを得ない︒﹃もし私が︑生は対立と関
係︹統一︺の結合であると言うとしよう︒すると︑この結合自身が再び孤立化されて︑この結合は非結合と対立する
ということが言い出されるであろう︒そこで私は︑﹁生は結合と非結合の結合﹂であると表現せざるを得なくなる︒﹄
と言って︑加藤氏は︑三木・福井両氏における如く︑へ
l
ゲルを有機体説と近接乃至直結せしめる見方には︑必ずしも賛成していない︒氏が提示されるのは︑ヘ
l
ゲル乃至へl
ゲル弁証法の有機的・有機体的新解釈であって︑ゲルと所謂﹁有機体説﹂
1 l
旧態然たる︑クラシカルな︑或は場合によっては形而上学的なliとの結びつきではな
い︒(この点︑私は氏に賛成・同意したい︒)即ち︑氏の言う︑﹁部分としての個体が︑有機的な生という全体にお
J ¥
いて︑はじめて一個の生として存立可能になる口‑しかし同時に又ここでは︑全体が単一性田口町包仲をもったも
のとして把えられて居り︑個は全体への緊張関係においてのみ個である︒個体主議と全体主義が生という特異な存在
椋相において統一されるところに︑へ
l
ゲル弁証法は成立をみたのである︒この生というものが︑社会理想として生み出されてきたものであることをも:::︒これをしかし︑現念化され・形而上学化された﹃社会有機体説﹄に過ぎな
い︑と断定するには︑余りにも原理的な︑つまり一つの社会思想という枠で把えるには余りにも根本的なロゴ︑スが︑
そこに提示されていることにも︑充分な注意を払わなくてはならない︒﹂
﹁純粋理性は︑認識原理に関する完全に独立した・それ自体だけで存在する︑一個の統一体である︒
つま
り︑
こ
のに存在し︑全体は又各個のために存在する︒更に又︑どんな原理にしても︑
ためには︑同時に︑純粋な理性使用全体に対する全搬的関係において吟味せられねばならない︒﹂(カント︑前掲著)
ll
恰も一個の有機体におけるように︑
li
一つの関係の中へ確実に採り入れられる 他の一切の構成要素のため統一体においては︑各々の構成要素は︑
比愉して云えば︑ーーーへ
i
ゲルにおける理性が︑︽個l
全︾であるならば︑1 1
であり︑それ自体として完全な平衡(バランス)と独立
ll
自己完結を保っている︒従って又︑斯かるカントにおけ
る﹁有機体﹂の認識・規定(所謂﹁カントの有機体説﹂)は︑次の如きである︒ カントのそれは︑︽全
i
個︾有機体説と弁証法
日
一
O
七経 営 と 経 済
一 O
八
﹁或る物が自然目的︹有機体︺であるために︑第一‑に必要なことは︑ーー部分は(その現実的存在及び形式に関
して)全体に関係することによってのみ可能になるということである︒乙の物はそれ自身目的であり︑従って或る程の
概念或は理念によって
il
換言すれば︑元来この物に含まれている限りの一切のものをア・プリオリに規定せねばら
ない様な理念によって︑統一されているからである︒しかし︑或る物がこの様な仕方でのみ可能であると考えられる
限り︑斯かる物は︑技術による作為に外ならない︒換言すれば︑物質(即ちその物の部分)から区別される椋な理性的
原因の所産である︒そして斯かる理性的原因の原因性(部分を集合し又結合する)は︑この原因性によっ
τ (
それだからその物の外にある自然によるのではない)可能であるような全体という理念によって規定されるのである︒しかし︑
或る物が自然的所産として︑目的に対する関係をその物自身とその内的可能とのうちに含むというのであれば︑
111
換言すれば︑斯かる物が自然目的としてのみ可能であって︑その物の外にある理性的存在者の概念による原因性を全
そのために必要な第二の要件は︑その物のすべての部分が互いに夫々の形式の原く必要としないというのであれば︑
因にもなり︑又結果にもなるという工合に結合して︑統一された全体を形成するということである︒この様な仕方で
のみ︑今度は逆に(相互的に)︑斯かる全体の理念が一切の部分の形式と結合とを規定することが︑可能になるので
ある︒しかし︑乙の場合に︑全体の理念は︑原因ではなくて(もしそうだとしたら︑この物は技術による所産になる
だろう)︑与えられた物質(部分)のうちに含まれている一切の多様なものの形式及び結合の綜合的統一の認識根拠
‑ i
乙の物を判定する人に対するーーに外ならない口それだから︑或る物体そのものが︑その内的可能に関して自然
目的と看倣されるというのであれば︑そのために必要なことはこの物体のすべての部分が︑夫々その形式並びに結
合に関して相互的関係にあり︑こうして︑夫々の部分そのものの原因性から︑一つの全体を産出するということであ
る︒そうすれば︑この全体の概念は︑今度は逆に(概念に従って斯かる所産を生ぜしめる原因性を具えているよ去な
存在者において)︑原理に従って斯かる全体を産出する原因となり︑従って(機械的)作用原因を統合したものが︑同
時に︑究極原因による結果として判定されるだろう︒斯かる自然的所産においては︑如何なる部分も他の一切の部分
によってのみ存在すると同時に︑又他の一切の部分及び全体のために実在する
D
換言
すれ
ば︑
Fすべての部分が︑夫々
道 旦
ハ
(O
門 m m
凶口器{呂)
と看倣されるのである︒しかし︑こう言うだけではまだ充分でない︒(部分は技術の道具にもなり得るし︑従って又可能的目的一般に過ぎないとも考えられ得るからである︒)要するに如何なる部分も︑他の部
分を(従って又︑すべての部分が夫々他の部分を相互的に)産出する器官なのである︒このような器官は︑およそ技
術の道具ではあり得ない︒寧ろ道具に(技術の道具にすら)一切の素材を供給する自然の道具でなければならない
D
斯かる自然的所産は︑有機的存在であると同時に自分自身を有機的こうしてのみ︑又この様な理由によってのみ︑
に組織する存在者として︑自然目的と称せられ得るだろう︒﹂(﹃判断力批判﹄)
﹁:::自己完了的な統一体:::有機的全体は常に完結的全体である︒.
云う︑﹃判断力批判は︑カントがそこにおいてイデ
l
の表象︑否!思想を云い表したという︑著しいものをもって
いる︒直観的悟性︑内的合目的性︑等の表象は︑同時にそのもの自身において具体的として考えられた普通である︒
従ってこれらの表象においてひとりカントの哲学は思弁的として自らを示す︒﹄
へ l
ゲル自身もカントを批評してカントが︑夙に有機体に結びつけ
たところの具体的普遍的なるもの︑ヘ
l
ゲルの謂う思弁的なるものは︑まことに有機体説の主なる思想内容である︒具体的普通にあっては︑
時v各の部分は全体を要求し︑且つ部分部分を互いに要求する︒それと共広︑全体は又部分を要求し︑且つ各の部分
をして互いに要求せしめる︒如何なる部分も︑全体によって規定されて︑全体の意味を表さぬものとではない︒カン 一切の特殊が一つの完了した・統一ある全体の中で︑一義的な・必然的な位置を保つ︒この
有機体説と弁証法
国
一
O
九経 営 と 経 済
二
O
トは︑斯くの如き構成を有機体において見︑ドイツ歴史学派の有機体説は︑それを歴史的存在一般のうちに見た︒﹂
(三木︑前掲著)
﹁生物体は開放系であって︑生物体構成物質は絶えず流動し︑しかも環境の物質と絶えず交代しているが︑しかも︑
生物体は︑特殊な場合を除けば︑形態や構造の急激な変化を示さない︒この原因は︑代謝が全体としてよく調節され
ていて︑生命を保持する合目的性をもっているからである︒生物体は物質的には︑不断の更新による保守性︑
4
一 一 口 い
換
えると︑動的安定性をもっている︒﹂(岩波講座﹃哲学﹄︑
U
﹁自
然の
哲学
﹂
ll
以下同署より若干援用)
カン
トの
弔問
える
︑
﹁諸
学の
限界
が混
一泊
され
るな
らば
︑
それは学問を増大するのではなく︑不具にするものである︒﹂
が︑反面︑社会科学(殊に経済学︑社会学)における生物学(更には生態学)の
(貢献の)無視︑或は︑所謂有機体説の過少評価は︑又︑他の誤解を招くこととなる︒有機体説は︑
ータ!も示唆せる如く(先稿︑参)︑ーーー
宜とを粛すからである︒ (﹃純粋理性批判﹄︑第二版序言)
ーー
ーシ
ュム
ペ
それなりに︑或はその発展の可能によっては︑我々に随分の説得力と便
﹁尚︑なさるべきことが残されている限り︑何もかも︑まだなされていないと看倣される
ロ ロ
ω ♀
B 吋 ロ
o u c g
ロデ包A C E S M M O
円 ︒
ω ω σユ
m m
g 仏 ロ
B
︒ ﹂注意すべきは︑二つの真理の混治であって︑その交渉ではない︒
ればならぬ︒﹂(マルクス︑﹃資本論﹄︑第二版後書) ﹁叙述方法は︑確然と︑研究方法と具っていなけ
(有機体説についての我々の立場を)誇張して云えば︑こう
であ
る︒
﹁さきに自然のうちに存しなかったものは︑社会のうちにあることはないZ520
巳 吉
g
己巳
巳σ
ρロ
怠
ロOロ
ω
口 一 行
mw mw pH O門広時
ロロ
山門
・ロ
ω
円︒ ﹂
﹁理性は︑自然から学ばねばならないことや︑又理性自体だけではそれについて何も知り得ないようなことを︑自
分自身が自然の中に入れたところのものに従って︑これを︑自然のうちに求めねばならぬ︒﹂(カント)
その良き典型がマルクスである(と︑私は考える)︒
マルクスは云う︑﹁すべての人間史の第一の前提は︑勿論︑生きた人間的個体の生存である︒従って︑確認され得
る第一の事態は︑これら個人の身体的組織と︑そしてこれによって与えられるところのその他の自然への彼等の関係
とである︒﹂と云って︑無論︑マルクスは︑生物学から:::自然に関わる諸科学そのものから︑彼の社会科学を始め
ここでは勿論︑人間自身の肉体的性状にも︑又人間の眼の前に見出される自然条件即ち地るのではない︒
﹁我
々は
︑
質学
的︑
風土的その他の諸関係に立入るわけにはゆかない︒すべての歴史記述は︑
と︑歴史の行程での人間の行動によるこれらのものの変更(即ち生産︺から出発しなければならない︒﹂(﹃ドイツ
地理
学的
︑
これら自然的な基礎
‑イデオロギー﹄ーーー以下︑断りなき限り︑同著より援用
││l):::
その
他︒
﹁人間は︑意識によって︑宗教によって︑その他任意なものによって︑動物から区別されることが出来る︒しかし︑
人間自身は︑彼等が彼等の生活手段を生産官︒仏ロ
N F R S
し始めるや否や︑自分を動物から区別し始める︒﹂
有機
体説
と弁
証法
日
経 営 と 経 済
しか
し﹃
マル
クス
の場
合︑
このことは︑人聞を﹁動物から﹂︑更には有機体一般から︑分離8
宮 ユ
R g
する︑と
いうわけではない︒﹁この一歩は︑彼等の肉体的組織によって制約されているものである口人間は︑彼等の生活手段
を生産することによって
y
間接に彼等の物質的生活そのものを生産する︒﹂li直接
にか
︑
﹂)か︑の相違に過ぎない︒と同時に︑このことは︑﹁個人の身体的組織:::他の自然への彼等の関係﹂としての︑或
は﹁関係﹂そのもの(の象徴・表出)としての生活手段が︑今度は逆に人間の生き方一般を規制する反面のある乙と ﹁間接に﹂(所謂﹁迂回
を看過し得ない︒﹁人聞が彼等の生活手段を生産する方式は︑先づ第一に︑限の前に見出され︑再生産さるべき生活
手段そのものの性状に︑関っている︒生産のこの方式は︑単にこれが諸個人の肉体的生存の再生産であるという面か
らだけ︑考察されてはならない︒それは︑・寧ろ︑既にこれら個人の活動の一定の仕方であり︑彼等の生活を表出する
一定の仕方であり︑彼等の一定の生活様式戸包
g ω
毛色忠である︒諸個人が彼等の生活を表出する仕方は︑即ち彼等
が存在する仕方︑である︒従って︑彼等が何であるかは︑彼等の生産に︑即ち彼等が何をさ2生産するか︑並びに
又如何に
tz
o生産するか︑に合致する従って︑諸個人が何であるかは︑彼等の生産の物質的条件に関っている︒﹂
D
有機体としてのスケールは︑斯かる﹁生産﹂を基軸(とした関係・交互作用)と共に︑動物
l l
個人l l
社会(又﹁この生産は︑人口の増加と共に︑初めて表れる
D
人口
ω
増加は︑それは社会的生産)︑と拡張される︒即ち云う︑自身︑又諸個人相互の聞の交通︿
R W O F
吋を前提する︒乙の交通の形態は又生産によって制約されている︒﹂いわ
ば︑
生産(乃至﹁生産力﹂)は︑有機体的生(について言えば)︑その生そのもの︑生の烈度︑生の占める領域そのもの︑
なの
であ
る︒
﹁種々の国民相互の関係は︑どの程度まで︑これら諸国民の夫々が︑その生産力︑分業︑内部交通を︑
発展させているかに関っている︒この命題は一般に認められている︒しかしながら︑単に他国民への一民族の関係ば
かり
でな
く︑
この国民そのものの内部編成全体も又その生産とその内部及び外部の交通との発展段階に関っている口
どの程度まで一国民の生産力が発展しているかは︑分業が発展している程度によって︑最も明白に示される︒どんな
新しい生産力でも︑乙れが今迄既に知られた生産力の単に量的な拡張(例えば所有地の開墾)でない限り︑分業の新
しい発達を結果として伴るのである︒
問題は更に拡張され︑複雑・精妙を極め(得)る︒所詮︑拡張以外の何ものでもなく︑その帰するところは︑最初
の有機体的テ
l
ゼ ︑
﹁人間史の第一の前提﹂が︑その基準︑根幹となっていることに変りはないのである︒斯くて︑
その帰結すると乙ろ︑(周知の)次の如き命題となる︒
﹁
‑
j i
‑ ‑
人間の存在とは︑彼等の現実的な生活過程である︒イデオロギー全体の中で︑人間及び彼等の関係が恰も
暗箱の中での様に逆立ちして表れるにしても︑乙の現象は︑恰も網膜上の対象の逆立ちが彼等の直接の肉体的な生活
過程から生れるのと同じように︑彼等の歴史的な生活過程から生れるのである︒天上から地上へ降りるドイツ哲学と
は全
く反
対に
︑
ここでは地上から天上へ登る︒即ち︑人聞が語り︑想像し︑表象するところのものから出発し︑或は
又語られ︑思考され︑想像され︑表象される人聞から出発して︑乙こから具体的な人聞に辿りつくのではない︒現実
的に活動している人聞から出発し︑彼等の現実的な生活過程からこの生活過程のイデオロギー的な反射及び反容の発
展をも叙述するのである︒人間の頭の中のもやもやした形成物も又︑彼等の物質的な・経験的に確認出来る・そして
物質的前提に結びついた生活過程の必然的な昇華物である︒斯くて︑道徳︑宗教︑形而上学その他のイデオロギー及
びそれらに対応する芯識形態は︑回以早独立性の見せかけを持たなくなる︒それらはなんら歴史をもたず︑何ら発展を
もたない︒寧ろ︑彼等の物質的生産と彼等の物質的交通とを発展させつつある人間が︑彼等の乙の現実と共に︑彼等
有機体説と弁証法
国
一 一 一 一
一
経 営 と 経 済
一一
四
の思考及び彼等の思考の生産物をも噂変えてゆくのだ︒意識が生活を規定するのではなく︑生活が意識を規定する︒
第一の見方では︑生きた個人としての意識から出発するが︑第二の現実的生活に対応した見方では︑現実的な生きた
諸個人そのものから出発し︑そして意識をただ彼等の意識としてのみ考察する︒﹂(││有機体思想としてのマルク
スの一証拠が︑ここにはある︒)
マル
クス
の場
合︑
﹁我々が出発する前提:::現実的な前提﹂:::﹁すべての人間史の第一の前提﹂
1
1
ー は︑
換言すれば︑﹁肉体的組織﹂を備えた有機体としての人間(社会)噌その生活である9
﹁生
き
た人間的個体の生存である︒﹂
﹁従って確認され得る第一の事態は︑これら個人の身体的組織と︑そしてこれに与えられるところの︑その他の自然
即ち生きることは︑生産(代謝
l
l
無論︑代謝は︑﹁交換﹂乃至﹁分││有機体的生活の持続の(外的・現象的)条件は︑自然との関 への彼等の関係ハ1代謝・生産︺とである︒﹂
配﹂の範時でも適当・把握され得る
i l )
である
︒
係における絶えざる﹁新陳代謝﹂である︑が故に
D
﹁新
陳代
謝
5 0 g σ 0 } 2 5
・
ω
円O
R
︿
巴﹂:::﹁生物体におけるd 8Z
物理作用・化学作用によって︑体内に必要な生活物質が摂取せられ︑排出せられる現象︒生物体は︑生活現象を間断
なく行うために︑絶えず︑物質を消費して︑不用となった物質を体外に排池し︑それを補給するため︑外界から新鮮
な物質を摂取し︑これを同化して︑自己の成分として生活を持続する乙と︒:::物質代謝︒物質交代︒代謝︒メタボ
リズム︒﹂(岩波﹃広辞苑﹄)
‑﹁
物質
代謝
﹂︑
即ち
︑
マル
クス
の一
一弓
つ︑
﹁労
働は
すべての社会形態から独立せ
る人間の一存立条件であって︑人間と自然との物質代謝
ω Z
止 さ
o o E
巴を
︑
・﹁物質代謝﹂のもつ社会科学的意義については︑拙稿︑
従っ
て︑
人間の生活を媒介するための
永久的自然必然性である︒﹂(﹃資本論﹄
会に対する科学的分析の方法論﹂︑
﹁ア
ジア
に関
わる
研究
︑
﹁アジア的社
一体系﹂││何れも﹁
K
・A
・ウイットフォl
ゲルの場合﹂と副題︑ーー東南アジア研究年報一九六八年︑一九六九年号︑参)
﹁無前提的であるドイツ人のもとでは︑我々はあらゆる人間的存在の︑従って又あらゆる歴史の
第一の前提を︑確認することから始めなければならない︒即ち人間は︑
マル
クス
の一
五︾
つ︑
﹃歴史をつくりの
σ ω
の
E
o E O B 2 F g
﹄得るためには︑生きてゆくことが出来なければならぬという前提である︒ところで︑生きるのに必要なのは何よりも先
づ食うこと︑飲むこと︑住むこと︑着ること︑その他尚いくつかのことである︒従って第一の歴史的行為は︑
乙れ
ら
の欲望を満たすための手段の産出マ即ち物質的生活そのものの生産である︒しかもとれは︑只人間の生命を繋ぐため
にも︑今日尚数千年前と同じく日々刻々やり遂げられねばならない歴史的行為でありあらゆる歴史の根本条件なの
であ
る︒
﹂
(再び援用しよう︑)﹁すべての歴史記述は︑これら自然的な基礎と︑歴史の行程での人間の行動による
これらのものの変更とから︑出発しなければならない︒﹂
向坂
逸郎
氏は
︑
その著﹃経済学方法論﹄(昭和二十四年)︑第一章にも次の殺に書いて居られる︒
﹁人類は二つの世界に住む︒自然と社会である︒:::自然と社会を差別と統一において理解することに︑史的唯物
論の粕髄は尽きると言ってよい︒::・マルクスの﹃資本論﹄における方法も︑要するに︑この社会と自然との統一的
これという風に︑個々に考えることではない︒ :::彼においては諸問題を考えるということは︑あの時はあれ︑他の時は
一切の問題を統一において理解すること︑換言すれば︑一切の問題が 理解の中に見出される外はないのである︒
として有機的に結びつくという乙とに外ならない︒ 一つの統一ある知的体系の中に所を得る乙とである︒問題が解決されるということは︑それが我々の知的体系の一環
・﹃資本論﹄の方法は︑マルクスの思想体系の中において理
有機体説と弁証法
同