韋氏
研
究
矢
野
主
税
目 次第一節 漢及三国︑晋時代の章氏
第一項 章氏の祖先
第二項 漢代の章氏
第三項 魏晋時代の章氏
第二節 南北朝時代の章氏 第一項北朝章氏 第二項南朝童氏︵以上本号︶第三節唐酒毒氏
第一項 北朝系統の子孫 第二項 南朝系統の子孫
結 語
志 章氏世系婚姻表
序
所謂三三の章氏が︑唐代において有数の名門と見られたことは︑当時
の諺に︑﹁城肇杜︒奏尺吾︵資治一団︵鵬︶景雲元年六月の二胡注︶と評せられてい
たところで明かであるし︑或は︑ ﹁父子三人皆至宰相︒有唐已来︒莫与
為比︒﹂︵旧召書︵88毒筆謙伝︶︶とか︑﹁近属至大官者数+入︒﹂︵難霞︶︶とかいわれ
ている如く︑官僚としても有数の繁栄をしたことは史上明かなところである︒今︑その門閥としての︑叉門閥より官僚への動きを明かにする為
に︑漢代以来の童氏の社会的︑政治的変遷をたどってみようと思う︒ 第一節 漢及三国︑晋時代の章氏
第一項 章氏の祖先
後世の京兆章氏の祖先として︑最も早く史上に現われるのは章賢であ
る︒彼は魯国郷人であるが︑その祖先に童孟なる者があり︑彰城にいて︑
楚の元王の傅となり︑元王の子夷王︑孫戊の傅ともなった︒然るに戊が荒
淫であった為︑孟は位を去って郷に徒つたという︒楚元仁は漢の高祖の
同父少弟であるから︑章孟は前漢初頭の人物であった︵漢書︵37︶章賢伝全書︵36︶楚之王伝︶︒
ところが孟が位を去る以前に戊を諌めた詩の中に︑その祖先のことを叙しているので︑それによって章氏の祖先のことを知りうる︒その詩に
よれば︑大体次の如く述べている︵艶趾3︒
﹁祖先は股においては家章氏と称して商伯となり︑三三を総べて股を翼
け︑周になっても諸侯となって盟会の事に預っていたが︑周回報の時講
せられてその邦を絶たれてしまった︒その為祖先は衰え︑彰城に回り︑
爾後︑秦においては野にあって︑ ﹁来親以耕﹂する有様であった︒然る
に漢が起って四方を征し︑高祖が弟元王を楚に封ずるや︑孟が召されて
師傅の大任をうけたのである﹂と︵国語鄭語第十六参照︶︒
勿論︑この詩の伝来について︑漢書は︑ ﹁或日︒其子孫好事︒述先人
之志︒満作是画引︒﹂との異説も隻ているにしても︵運上誰自伝︶︑この所伝
が遅くとも豊代には成立していたことは間違ないわけであるから︑周代
における有力な諸侯であり︑周末及秦代一時衰えていたのが︑孟の時に
及んで再興の⁝機に恵まれたということぐらいは信用してよいのではなか
ろうか︒ ︶
︵ 49
卑 氏 研 究
章 氏 研究第二項漢代の章氏
第一目政治的活動
漢書︵73︶章賢伝によれば︑孟の五世孫が賢である︒賢は学問に通じ︑﹁郷
魯大儒﹂と称せられ︑昭帝の世徴せられて博士となってより︑累進して
大回臓卿に至った︒史記の伝︵︵96︶童丞相賢伝︶によれば︑﹁以読書術為吏﹂と見
える︒宣帝即位するに及んで︑その冊立の謀議に与り︑宗廟を安んじた
という理由で関内侯を賜い︑先帝の師たるの故を以て尊重せられ︑本始
三伍六月︑丞相となって扶一一に封ぜられた︵漢書︵73︶章漂鳥及全書︵18︶外戚恩沢表︵6︶︶︒そ
の子は四人であったが︑最も著れたのは少子玄成で︑明経を以て用いら
れ遂に丞相となった︒故に郷魯の地方では︑﹁遺子黄金満蕨︒不如一経︒﹂
という諺ができたという︵漢書︵73章一頃︶︶︒
玄成伝︵漢書︵73︶︶によれば︑彼は学問もあったが︑為人も謙虚な人物であ
った︒彼が大河都尉となった時︑長兄方早く卒し︑次兄弘︑獄に繋がる
るに及んだので︑一族並に父の門下生等の議により︑賢の嗣となるに至
った︒而も徴せられて長安に至り︑襲爵を命ぜられたが︑彼はそれが賢
の意志によるものではないのを知って︑赤り狂したが︑のち已むを得ずして襲爵した︒その後宣帝に仕え︑永光中に丞相となった︒親子二代の
丞相であり︑而も︑﹁宗族至心二千愚者十余人︒﹂といわれる如き官僚と
しての繁栄を致している︒
さて︑賢を嗣いで扶陽侯となった玄成の子孫はどうなったかという
に︑玄成伝︵漢音︵73︶︶によれば︑子寛︑孫育︑曽孫沈とあって︑﹁自邸伝国︒
至玄孫乃絶︒﹂とあるが︑外戚恩沢表によれば玄孫は瀟とある︒更にこの
表︵漢書︵17︶︶によれば︑曽孫湛の条に︑﹁元始中︒戸千四百二+︒王葬敗絶︒﹂
と注している︒これらによれば沈と湛とは同一人の如くも思われるが︑
或は兄弟かも知れず︑はっきりできない︒然るに章義伝︵後漢書︵56︶﹀によれ
ば︑ ﹁義字季節︒高祖父玄成︒⁝⁝兄順字叔父︒⁝⁝次兄豹字季明︒﹂と
あって︑薫と同列に順︑豹︑義の三人がいたことが明かである︒新唐書 宰相世系表︵︵74︶上︶によれば︑豹を育の孫としているが︑そうとすれぽ瀟とこの三入は兄弟でなければならないが︑章義伝によれば︑明かに兄弟は三人のみであるから︑瀟とこの三人は同じく玄成の玄孫であっても︑系統を異にするものと考えざるを得ない︒併しながら︑この三人並に豹の子著は︑祖先の如き高位高官には至らなかった︵後漢書︵56葦彪伝︶︶︒ 次に玄成の兄の子孫で後漢まで続いたと思われるものに︑弘の子孫がある︒弘の子賞は前漢蓑帝に仕え︑旧恩の故を以て大司馬の地位まで進み︑関内侯を賜った︵漢書︵73︶章玄成伝︶︒賞の孫に彪があった︒彪は扶風平陵人とあるが︑これは彼が一族から離れて独り夕風に遷った為である︵離踏︵56︶︶︒血彪伝︵後漢書︵56︶︶によれば︑彼は祖先の風をうけて学問を好み︑儒宗と称されたほどであった︒建武末孝廉にあげられ︑一旦仕官したが︑病を得て帰郷し︑教授に従い︑悠々自適の生活を送っていた︒のち︑明帝︑章帝に召され︑太常卿に至った︒彼は宛も章帝の頃に問題となりつつあった官吏任用問題について献言し︑帝の納れるところとなった︒即ち︑﹁士宜以才行為先︒不可純以閥閲︒然直島帰在三選二千石︒二千石賢則貢挙皆得其人︒﹂とて︑閥閲をのみ重んずべきでなく︑才行を先にし︑賢二千石を採用すべきを説き︑更に章帝の政治が当を得ていないことを指摘し︑苛刻の吏の除き︑又︑天下枢要の転たる尚書の地位は︑大能の士を挙ぐべく︑他の職についてもその任用に留意すべきことを述べている︒彪の人物は清倹であり︑禄賜は殆ど宗族に頒ち︑その死するや家には余財はなかったという︒ 第二目 学問的伝統と官僚性 明経が漢代に於いて官途につく最善の方法であったことは︑既に学者の指摘するところであるが︵瀦蒙繋率土醒塾死東遜塗下憂し︑それは章氏の場合においても見られるところである︒賢は礼︑尚書︑詩に通じていたといわれ︑早成は詩︑論語に明かであり︑賢の第二子弘の
子賞は詩に明かであり︑彪も﹁好学沿聞︒雅称儒宗︒﹂と伝えられている ︶
︵ 50
とは︑玄成について︑﹁以明経擢為諌大夫︒﹂と見えるところでも察せら (漢ソ書︵56︶三三伝︶︒この明経が官僚としての立身の基となっていたこ
れる︵漢書︵73︶三脚三二︶︒このような手段で︑血罠一族は官僚としての地位を固め
ていったようであるが︑更にこの家には︑戦国以前からの名家であり︑
且つ重代有力官僚の家柄であるとの誇が漸次出来上りつつあった如くで
ある︒それは前述の彪の態度にそれを見ることができるのではあるまい
か︒彼は官吏任用について︑一般の陳事老と異った意見を述べている︒
一般陳事者の意見は︑郡国の貢挙は功次によって欲しい︵離鰭︵56︶︶とい
うものであるが︑大庭氏の説によれば︑功次とは平々凡々の累日積労の
官吏の勤務成績である︵﹁三代における功次による昇進について﹂ ︵東洋史研究12の3︶︶︒すると︑功次を重
んじてほしいという意見は︑当時一般の官僚の意見であり︑所謂平凡な
る官吏達の気風を示したものといえよう︒それに対して彪の意見は︑前
述の如く︑それを全然否定するわけではないにしても︑寧ろ才行を第一
とすべく︑それも小才ではなく大才を挙ぐべきだと主張している︒これ
は︑彼自身学問に張れ︑﹁安貧楽道︒悟於進取︒﹂という個人的為人から
とも考えられないことはないが︵轍蝶瀦︵56︶︶︑他面︑章帝に対して︑前漢
高祖及宣帝の功臣の勲功を顕わすべきことを主張して︑帝の納れるとこ
ろとなったこと︵全上︶奮考え含せれば︑自らも宣帝の功臣の子孫である
という︑その家柄の安定を確信する気持が多分にあって︑このような意
見となったのではないかと考えられる︒このように考えるのは︑余りに
穿ちすぎた見方かも知れないが︑章氏が前漢中期以降︑官僚の家柄とし
て確固たる地位を築き上げたことは認められよう︒第三目宗族的結合
この問題解明の手掛りをうるために︑先ずその居住地についで一瞥し
よう︒章賢伝︵漢書︵73︶︶によれば︑孟以来賢までは郷にいた︒けれども︑賢は
昭帝の時平陵に徒つた︒然るに賢の死後︑第三子舜は︑﹁留紅炉墳墓﹂
つたという︵漢書︵73葦賢伝︶︶︒このように墳墓の地に留るのは︑単に墳墓があ
章氏 研 究 つたということだけでなしに︑其処に相当の︑宗族の残留組のあったことを示すものであることは︑呉志︵︵・︶︶呉静伝に︑﹁活気墳墓宗族︒不出楽仕︒﹂と見えることによりても浮せられる︒而も章氏の場合︑北魏の時代に魯郡の払暁として平氏のあったこと︑既に筆者が指摘した如くで
てよいのではあるまいか︒その後玄能は︑平陵から杜陵に起つたが︑一 (拙キ崎大学学芸学部社会科学論叢第6号︶︶︑これこそ肇の後喬であると考え
族の者多くはこの時杜陵に随つたのであろう︒けれども︑彼は死する
時︑特に上書して父の墓に帰葬せんことを願っているから︵漢書︵73︶章職階伝︶︑少
くとも平陵に賢の墓があり︑多少の一族のものもあったであろう︒ 一族
の大部分が玄成と共に杜陵に徒つたと思われるのは︑卑義伝︵後漢書︵56︶︶に︑
初彪独徒扶風︒故義云為京兆杜陵人達︒﹂とあるところで明かな如く︑弘
の子孫彪も︑玄成の子孫たる義と共に杜陵にあった︑と思われるからで
ある︒するとこの一族は︑玄成の頃には︑魯の郷に留まった人々と︑平
陵にあった人々と︑杜陵に徒つた人々との三派があったのではなかろう
か︒勿論︑後漢末︑三国時代以後︑正史に見える満濃の多くは︑ ﹁予兆
杜囚人﹂とあるから︑杜陵に最も多くの一族が徒り且つ栄えたことは間
違あるまい︒これらの移住は︑漢代における数次の徒民政策によるもの
で︑皐氏の希望ではなかったであろうが︑賢が昭帝の時︑何年に平門に
徒つたかは明かでない︒玄成が杜陵に徒つたのは︑元康元年春正月の︑
﹁徒丞相︑将軍︑列侯︑吏二千石︑讐万者杜陵︒﹂︵漢書︵3宣帝紀︶︶というの
によったのであろう︒彪が後に独り扶風一三に徒つたのは︵轍熊鰭︵56︶︶︑
恐らくは賢︑玄成等の墓を祭るためであったのではなかろうか︒
さて︑後漢書︵56︶葦彪伝によるに︑﹁彪清一楽施︒禄賜分与宗族︒家
子余財︒﹂とある︒これによれば︑宗族はよく協力して相互に緊密な結合
をしていた如くである︒而も玄成伝には︑ ﹁宗族至吏二千石二十余人︒﹂
とあり︑賢の四子の系統について記しているから︑宗族十余人というの
は︑賢の子孫全体を意味している如くである︒さて︑前述の如く事実上
OP
章氏 研究
三分派が生じていたにしても︑これら分派の発生が祖先を祭るというと
ころからきたとすれぽ︑少くとも精神的な面においては︑族的結合は極
めて強かったのであろうか︒併し実際生活においては︑相当疑問があ
る︒というのは︑平陵と杜陵は兎も角︑郡に残った分派と︑平陵︑杜陵
にあった分派とが︑常に緊密な生活上の結合をもつていたとは到底考え
られないからである︒禄賜が宗族に分与されたとしても︑それは平陵だ
けか︑広く見ても杜陵ぐらいまでであったであろう︒更に︑牧野氏・守
屋氏の研究の如く︵牧野巽族研究︶空聾早旦の欝艶事ザ鶴橋蟻謎論琳憲繊
異業︶︑既に後漢時代父の死後︑時には生前に於てすら︑異書ハ財が
一般的状態であったとすれば︑この三分派間には経済的には緊密な結合
は到底あり得なかったと見るべきで︑禄賜を宗族に分つた時の宗族は︑
せいみ\平陵に於ける一族を指したものと解してもよさそうである︒
では賢の一族が︑ ﹁吏至二千石者十余人﹂という場合は如何に考うべ
きであるか︒それは外部から津氏一族を見た場合は︑仮令現実的には分
裂している場合でも︑全宗族的な見地から︑その繁栄が述べられたもの
と解すべきではないか︒実はそのような態度は︑既に各分派︑門流が︑
夫々独自の生活をしていたこと明かな南北朝末においてさえ︑見受ける
・ころであるからである︵内書︵78︶五鼎伝に見える隔高祖と鼎との対談︒守屋氏﹁六朝門閥の一研究﹂第三章第三節参照︶︒
第三項 魏・無代の章氏
前漢時代に繁栄した章氏も︑後漢時代にはやや衰えをみせ︑ ﹁三三冠
族﹂︵熱讃撃馨伝︶として知られてはいたものの︑魏晋時代に入る
や︑全く政治的には不振であったらしい︒
後漢末︑完成の推薦によって曹操に従った人物の中に卑康があった
徴為太僕︒康代為書州刺史︒時人栄之︒﹂と見えるが︑この端は︑魏志︵21︶ ( ス伝︶︶︒李賢の注によれば︑蔑字元将︒京兆入︒町端評説州牧︒
劉勧伝の斐注所引記章叙爵に︑ ﹁誕字仲将︒太古端之子︒有文才︒⁝⁝ 稽遷侍中︒中書監︒以光緑大夫贈位︒﹂とあるところの太僕卿端であること︑魏志︵−o︶荷或伝斐注によって明かであり︑康の弟誕であった︒康は後に馬超の軍に殺され奈︵魏志︵25︶楊阜伝蜀志︵6︶馬起伝︶︑誕は京師にあって学問︑能書を以一名であったという︵世説新語︵巧芸21︶︒魏志︵11︶活惚伝︑魏志︵21︶劉勧伝所引斐注︶︒これによっ
て︑略述卑氏の一分派が一時涼州方面にいたことを知る︒けれどもこの
系統が︑上述の如何なる入々の子孫であるのか︑叉︑彼等の子孫がどう
なったかは全く不明である︒ また︑晋代には章護がある︒京兆人といわれるから︑杜陵葦氏に属す
るものであろう︒その子に伯陽があったが︑管轄は西肥後の北方諸政権
に隻た︵晋書︵91︶葦談伝全書︵㎜︶一関伝︶︒学者として薫れていたらしいが︑その世
系は不順である︒彼自身は︑ ﹁工高我曽︒重光累徽︒我意我考︒父父子
子︒﹂︵晋書︵91葦護伝︶︶と述べ豪系を誇っている︒このような時言の急激な衰
頽は︑一体何によるものであろうか︒勿論それは︑社会的評価について
ではなく︑政治面のみについてであるに過ぎないことは︑後述南北朝章
氏の調査によって明かであるけれども︒それは恐らくは︑山東文臣の後
弓としての彼等が︵宇都宮清吉氏﹁岡崎直士者南北朝における社会経済制度書評﹂ ︵東洋史研究南一巻第一号︶︶︑公権に依存
する度合が高かった結果ということもあろうが︵巡覧巽籍動転叢
騨調
̀漸 w勲
マ幅怐j︑しかし︑主としては後漢末の大乱によるものではなか
ろうか︒後漢末の大乱の中心となった三輔の地方は︑宿志︵23︶斐潜伝の
斐注所記魏略列伝に︑﹁会三輔乱︒哲多流宕︒而︵厳︶幹︑︵李︶義不去︒
与諸知故︒相浮沈︒採樵自活︒﹂と見える如き有様で︑大乱中にも留まっ
て窮乏め生活をした人々は︑去るだけの資力もない厳幹・李義の如き連
中が多かったろうし︑章氏の如きは一時的にもせよ故郷を去って各地に
流寓せざるを得なかったが故ではあるまいか︒
或は又︑晋代の章氏においても︑恐らく墨書︵70︶応窟伝に︑﹁初京兆
章泓︒喪乱之際︒親属託疫並尽︒客遊洛陽︒素聞通名︒遂依托之︒魯与
分甘誌面︒情若兄弟︒遂随従深海︒⁝⁝後位愚案言忌︒﹂という如く︑西 ︶
︵ 52
晋末には︑近親とも死別し︑他人に附して南渡した如きことも多かった
であろう︒或は叉︑流浪して北独諸国家の勢力下にあったものもあるこ
とは︑国書︵601︶石塔龍載記に︑雍秦の割信の東徒せるものとし黒氏が
見え︑故郷に還らんと欲する者はこれを許したと見えることによって察
せられる︒後漢末︑西晋末両度の乱の中心にいた華氏は︑以上の如く一
時本貫を離れて各地に流寓するものが特に多かったであろう︒
第二節 南北朝時代の三州
南北朝時代の章氏は︑北朝と南朝に分れている︵末尾︑世系表参照︶︒従って︑そ
の活動は︑北朝津氏と南朝章氏に分って考察するのを便とする︒いま︑
北朝章氏から考察しよう︒
第一項北朝章氏
第一目 政 治 活 動
ω 潜の子孫
潜の系統の著名人は卑鎭である︒その出自については︑ ﹁京兆杜陵人
也︒世為三輔著姓︒﹂︵固書︵39血早預伝︶︶と記している︒鎭は玉代の人であるが︑
魏代の血歯についても︑﹁世為三輔冠族︒﹂︵魏書︵45章閲伝︶︶とあるから︑津氏は
後漢末から晋代にかけて政治的には不振であったにしても︑なお社会的
には京兆の著姓として認められつづけたものであろう︒頭の伝︵回書︵39︶︶に
よれば︑その曽祖恵度は一時後秦に仕え︑その滅亡後︑南下して宋に仕
え順陽太守となったが︑のち魏に帰して中書侍郎を拝し︑祖千雄は略陽
太守︑父英は代郡守であった︒鎭は学問もあったが︑寧ろ特徴は武略に
長じたことにあり︑屡々戦功があった︒而も吏才もあり︑周太祖の丁台
左内たるこど両度︑﹁明察有野里︒﹂と称せられ︑瓜州刺史として善政を
聞き︑﹁夷親心之︒﹂といわれる学院でもあった︒その次子師は経史︑騎
射並に長じていた︒周にあっては権臣宇丈護の用いるところとなり︑階
童氏 研 究 高祖受禅に及んでは指笛侍郎となり︑賢妻広にも信頼せられて︑開皇七征晋王広が八州牧になるや︑ ﹁盛存望第﹂し︑司空楊雄︑左黒蓋高僧の如き才地すぐれた人物を用いたが︑師も亦主簿を拝した︒このように︑彼は中央政権との間に密接な関係をもつていたが︑高祖はその女を長寧王撮の妃とした︵早書︵46章師伝︶︶︒② 穆の子孫 この子孫の中︑繁栄したのは楷の系統と罷⁝の系統である︒④楷の系統 楷は晋に仕えて長楽︑清河二郡太守を経たが︑その子達は慕容垂に従って大長秋卿に至った︵末尾世系表参照︶︒達には︑長子と次子閾と第三子粛とがあり︑長子と閾の系統が繁栄した︒
長子の系統︒章氏世系表︵末尾︶覧る如く︑達の長子の子に真喜があ
り︑その子孫は繁栄した︒然るにこの世系については︑一言弁明してお
かねばならぬ︒それは真喜及びその子について異説があるからである︒ の O
A
魏書︵︵45︶葦閲伝︶説
B新唐書︵趾︶説
︒耀醜︵血鑑伝︶ 閲兄i真喜 中書侍郎 薦塊太守
祉
1禎
このA︑B︑Cの説で異同のあるのは︑
嘉︑直善は同一人なのか否か︑
喜の子は果して何人であるのか等である︒
ず注目せられるのは︑B説がA︑
る︒それは官職並に子の名についてみれば明かである︒新重書説が折衷
説であるとすると︑真喜の父は閲の兄という魏書説が正しいと考えられ
閲弟一真嘉−旭
中書侍郡 薄端︑洋風 i祉 二幅太守 直 善i旭風二選守 凋蠣︑扶説
ω閾の兄か弟か︑②真士暑︑真
同一人とすれば何れが正しいのか︑⑧真
これら三品の主張をみて︑先
C両説の折衷説であるということであ
童氏 研究
る︒次に真喜︑真嘉︑直善は果して同一人か否かということになるが︑
これは同一人とみてよいのではなかろうか︒例えば︑これらの人々が魏
末同時の重氏に属し︑これらの人名が極めて類似して誤字し易いもので
あることなどと共に︑読響書説がA︑C両説の折衷案であると考えた理
由を考え合せれば︑これらの人名は同一人を指しているに過ぎないとい
えるであろう︒では︑折衷案としての真嘉は別として︑真喜と直善とは︑
何れが正しいのかということになるが︑それの決定は︑これだけの資料
では不可能であるから︑一応魏書の説に従って真喜としておきたい︒で
は最後に︑真喜の子は何人であったか︒筆者は︑旭︑祉︑禎の三人であ
ったと考える︒何故なら︑魏書は必ずしもその子孫を網羅して書いてい
るわけではないこと︑例えば恪を省いている如き点︵製表参照︶︑周書北
史の場合には︑卑孝寛の直系祖先のみを記したものであるから︑自然傍
系尊属には触れていない点を考慮してである︒
さて︑真喜は郡守︑旭は魏末の南幽州刺史となり︑雍州大中正を加え
られている︒旭の子孫では隻と孝寛の家が栄えている︒
隻の家︒隻は若くして仕官したが︑仕官を好まずして官を去り︑その
後十度に及ぶ徴辟にも応ぜず︑悠々自適の生活を送った︒けれども周の
朝廷の重んずるところであったという︵回書︵31卑夢伝︶︶隻の長子世康は早くよ
り仕官し︑軍功もあり︑民政の手腕もあったことは︑ ﹁尉廻之作乱也︒
高祖憂之︒謂世康日︒扮絡旧記匝斉分界︒因此乱階︒恐生動揺︒今以委
公︒善為三門︒因授一州刺史︒以雅望鎮之︒四境清粛︒﹂︵隔書︵47︶章世康伝︶と伝
えられていることで明かである︒もっともこの記事によって陪の高祖に絶大の信頼をうけていたことも明かであるが︑更に吏部尚書の要職にあ
ること前後二度十余年聞に及び︑至極公平なる態度を持し︑﹁多門進抜︒
朝廷称為廉平︒﹂という能丈でもあった︒のちに︑荊州総領となったが︑
﹁時天下唯置四大総管︒丼︑楊︑益三州︒並親王臨統︒唯荊州委於世
康︒時論以為美︒﹂と伝えられる如く重用されたのであった︵即言︶︒
世康の兄弟には傑れた人物が多い︒洗及び芸は夫々周に仕えて軍功を 立て︑叔父孝寛に従って尉遅廻討伐に功あり︑階に仕えても武功を立てて︑洗は広州総評︑芸は謡言総管に終った︵階書︵47章三六︑︶血昂芸伝︶︒沖も雪囲代に軍功を立てたが︑階となっては民政面に功績をあげ︑最後に営州総管となり︑ ﹁懐撫鞍鵜契丹︒男能致死力︒﹂と称せられ︑民部尚書に終った(全
O伝︶︒
孝弟の家︒旭の次子孝寛は周に仕えて武人として活躍し︑この頃の旭
一門を率いて戦に従った︒彼が将才を有したことは︑ ﹁孝寛在辺多載︒
屡抗強敵︒ 所有経略︒ 布置之初︒人莫之解︒恐恐万事︒方乃一服︒﹂
北斉神武帝との戦で︑大統十二年一斉が山東の衆を傾けて西進を図った (八F卸量︶と隻るところで明かである︒特に彼が軍功を立てたのは︑
時︑玉葉の要衝でその軍を喰止め︑あらゆる神武帝の攻撃にも拘らず︑
遂にその防禦を完うした事であった︵全心︑及北辿書︵2神武本陛下︶︶︒その後日撃経
て︑尚書右僕射となり︑宇文氏を賜姓されたが︑再び玉壁に鎮せしめら
れ︑彼の勲功に因んで隠球に勲州を立て︑勲州刺史を授けられた︒彼
は︑以後永く三州にあって北斉との抗争の境を固守し︑敵状を把握する
重大な戦線の任を完うした︵周書︵31︶章影野伝︶︒それらの功績により遂に天和五年
一国面食邑万戸に封ぜられ︑伐陳の役には行軍元帥として軍功をあげ︑
相州総管尉高上の乱を平定するの大功をたてた︵全上及び周書︵8前帝本紀︶︶︒けれど
も︑彼は単なる武将ではなく︑若きときより︑﹁渉猟経史﹂し︑﹁難在軍
中︒篤意丈史︒政事之余︒病犬披閲︒末年患眼︒一一学士読削減之︒﹂
閾の系統︒閾は一時慕容氏に仕えていたが︑のち北魏に仕え︑世祖に (周F自伝︶と伝えられる如き篤学の人物であった︒
よって武都太守を拝し︑在郡+六年に及んで卒した︵魏書︵45津彪伝︶︶︒その子孫
は多くは郡部︑刺史等となり︑中央顕職に至る者はなかった詮鉦毅靴鱗旙
この系統に中正たる者︑儒・綱の二人があった︵北史︵26章彪伝︶︶︒
粛の系統︒閾の弟粛は︑白重の北征後︑劉義真が関中に齢するに及ん
で主簿に召され︑南渡して予州刺史となった︒その死後︑子崇は母と共 ︶
54
︵
に北帰し︑河洛の間に居住し︑孝文帝に用いられて郡守を歴任し︑且つ池州中正︑河南邑中正を加えられた︒崇の子休心も亦河南邑中正を加え
られた︵悪書︵45章謬伝︶︶︒㈲罷の系統
罷は前事符堅に順え︑丞相王猛の重んずるところで︑東海太守となっ
たが︑後添の分裂するや︑江南に奔って劉裕に仕え︑三州刺史となっ
た︒その長子道福は宋に仕えたが︑徐州刺史醇黒姫の北帰と共に帰国
し︑功を以て高密侯を賜り︑その三七宗も北帰の功により賜爵された︒
道福の弟尚の子に珍があり︑良吏としての誉を得たが︑武将としても︑
南斉との戦に第一線将軍として功労を立てたが︑その子孫も概ね武将と
して活躍した︵魏書︵45︶巨万伝北史︵26︶︶︒
以上︑北朝章氏の政治活動をみるに︑民政長官として︑或は中央高官
として︑政治的活動をなした者もあるが︑多くは武将として軍事的面に於
て活動している︒それについて︑特に注目すべきは軍功による賜爵の多
いことである︒これらの球威がどのような意味をもつものであるのか︑
特にその経済的内容については既に発表した︵拙稿﹁蔵書︑北周︑階における三三制﹂ ︵古代学5の2︶︶と
ころを参照されたい︒
第二目 族的結合と官僚化
先ず潜の子孫について述べよう︒露霜は世々三輔の著姓として知られ
ていたとはいえ︑鎭の祖先は概ね地方長官にすぎなかったのに︑鎭に及
んで急に中央政権に近づいたのは何故であろうか︒勿論︑瑛の俗才︑武
将としての材などの理由はあろう︒けれども︑西粉末の実権者周太祖に
よって︑特別の功なくして長安県男に封ぜられ︑そののち戦功や平常輔
政の功によって子・伯と進み︑公に進封せられたことや︑恭帝二年に
﹁妻氏﹂を賜姓されたこと等︵周書︵89章填伝︶︶からみるに︑周太祖による︑
章氏の社会的名声の利用ということがあったのではあるまいか︒賜姓と
いうことが︑聖業説を批判された内田氏の説の如く︵内田吟風氏︑﹁飼奴等研究﹂−の皿︶︑
章 氏 研 究 仮令大門閥の発生進出を防ぐものであったとしても︑地方有力者の心を収干する政策であったことは︑﹁以望族兼領避止︒﹂と見えることでも察せられる︵菊地英夫氏﹁北朝軍制に於ける所謂郷兵について﹂︵松先生古稀記念九大東洋史論叢︶︶︒そのように章氏の莚性を利用することが︑太祖の勢力拡大化の一つであったのであろう︒ では︑この門流と他の門流との族的結合関係はどうであったか︒それξいて︑講の伝︵隔書︵46︶︶には誠に興味ある話をのせている︒前述の如
く︑晋王后が雍野漆となるや︑師を引いて主簿とした︒ところが︑世康
の弟無爵も亦法曹従事となった︒それを知った世康は︑非常に怒って食
事することすらできず︑且つ︑証約が師の下にあるのを責めて︑ ﹁汝何
故為従事︒﹂といって世約を杖したというのである︒野営兄弟は師の系統
とは別流で︑遠縁の宗人である︒世康と師との関係について︑ ﹁其族人
世康鉱産部尚書︒引割素懐勝負︒﹂とみえるところがら察するに︑彼等の
間に全く同族たる意識がなかったわけではないと思える︒けれどもその
意識は門流中心の意識であって︑同族内にありながらも自らの門流の繁
栄のみを願い︑相反擾し合う性質のものであったといえよう︒即ち︑同
族全体の結合意識は殆ど崩壊しつつあり︑全くの他入の一歩手前までき
ている感がある︒
次に穆の子孫についてみよう︒この分派は︑前述の如く極めて多様に
分れていたのであるが︑正史には一括して京兆樋門の著姓として記され
ている︵魏書︵45︶童閲伝︑寸書︵31︶章孝寛伝︑隔書︵47︶阜世一伝等参照︶︶︒後流末以来北魏までの間に︑大し
た顕官を出しているわけではないから︑一流門閥と見ることはできない
にしても︑なおかつ︑一流意馬としての社会的地位は持ちつづけたもの
であろう︒けれどもそれは一般的な社会評価であって︑だからといっ
て︑分派した各門流が同様な祉会的勢力をもつていたわけでもなく︑また広い族的結合が行われたとも考えられない︒
筆者は︑そのような穆の子孫の状態を明かにする為に︑各門流の現住
所の問題から考えてみよう︒章世康の門流がどこに居住したかの明記は
ない︒けれども隻の伝︵二字︵31︶︶に︑﹁弱冠被召︒拝雍只中従事︒﹂と見え︑
65)
章 氏 研 究
世康及その兄弟等が西魏︑北周に仕えていることから察するに︑恐らく
本貫下臥はその近くにいたことであろう︒ この門流と密接な関係にあ
り︑同じく旭の子孫である章孝寛の門流も︑恐らく同様であったであろ
う︒この両門流の親しい関係は︑ ﹁証文節欲以女妻之︒孝寛辞以兄子世
康年長︒帝嘉之︒遂軒瓦世康︒﹂︵回書︵31︶階四丁伝︶と見えるので明かである︒こ
れは世康の伝︵直書︵47︶︶によると︑周海霧の脳裏楽公主のことのようであ
る︒或は叉︑世康の弟洗や芸の如きは孝寛に従って戦功をたてたこと前
述の如くであった︒
閾の門流は︑前述の如く武都太守たること十六年といわれるから︑諸
所を流浪したかも知れないが︑後には本貫地附近に帰っていたのではあ
るまいか︵北回書︵27三子藥伝︶︶︒ところが闘の三七は三一渡したが︑その子崇は
帰国して河南の地に居住したこと前述の如くであった︒
次に罷の門流は︑一時宋にあったが︑秘記の時帰国して彰城に寓居し
た︵魏書︵45章閥伝︶︶︒
勿論︑以上あげたものは生活の根拠地であって︑其所を全然離れなか
ったというのではないこと言うまでもない︵全上皇閲伝章残の条︶︒
このようにみてくると︑旭の子孫︑閾の一門は杜陵若しくはその近傍︑
崇の門流は河洛の地︑罷の門流は彰城と︑それぞれ居住地を異にしてい
る︒これらの門流の間には殆ど族的結合などはなかったと思われる︒と
いうのは︑異った所に居住した門流の間は勿論のこと︑同じ杜陵地方に
いたと思われる旭︑閾の門流の間についても︑何等そのような記録が見
出せないからである︒ただ旭を中心とした篁︑下士の間は前述の如く親
密であり︑また︑享姪親属再︒悉哲西魏︒−多数必滅︒﹂︵北斉書︵27章子粟伝︶︶
といわれているところをみるに︑章閾の門流が︑血縁のみならず︑姻戚
をも含めて︵仁井博士︑﹁支那身分法史﹂第三章第二節参照︶︑極めて緊密な結合をなしていたこと
を知る︒併し︑この百というのは仮令実数ではないにしても︵離暁承
類摯︶︑章氏全体を持したものではなく︑華寛一族について晋公護が︑ ﹁重公子孫︒難多数不満百︒扮北築城︒遣誰固守︒﹂︵奏書︵31︶三孝三三︶といっている場合を思い合せれば︑三孝寛或は万世還流の範囲のみを指していると考えられる︒従って︑緊密な族的結合が行われているのは︑前述章師の場合も考え合せて︑悟る門流内のことであって︑決して同族全体に及ぶものではなかったと主張してよいであろう︒勿論︑例外的には兄弟であっても顧みない例はあるが︵北斉書︵27︶津子緊伝階書︵47︶章世康伝︶︑一般的傾向とは孝えられない︒ さて︑宮川氏によれば︑北魏の中正は実権をもつていたといわれる
なっていることは︵羅表参照︶︑気強の著姓たゑ貴としては肯けるもの (「ェ山大学法文学部術紀要第一号︶︶︒この中正に謁一割引に旭が雁垂中正と
がある︒元来中正は︑客卸本新入任︒﹂︵通口︵14︶選挙典︵2︶︶といえる如く︑本貫
地において任ぜられたものであり︑北魏に於いても同様であったと岡崎
博士は述べられている︵﹁北魏における中正制度﹂ ︵南北における社会経済制度所収︶︶︒ところが粛の門流
の者が︑司法︑河南の中正となっているのは何故であろうか︵末尾世系表参照︶︒
これは粛一門の寓居地であるから︑北魏においては中正の現住地任用主
義がとられたのであろうか︒岡崎博士によれば︑それは恐らく中正制度
の憂態と見るべきであろうといわれる︵全上論文︶︒
ところが︑中正の現住地任用は意外に多いのであって︑単に変態とし
て見るべきものではない︒例えば︑同じく清河東武城の崔氏に属しなが
ら︑武城に現住せる時鐘は翼州大中正となり︵魏書︵24︶鷹野伯伝︶︑芸州に現住した
崔僧渕は青州中正となり︵全上︶︑本貫地河東聞喜たる桑中の南来落窪
属する植︑粂︑畑三人が揚州大中正になっているし︵嘲備耀靱薙三
塁楚斐︶︑同じく養中でも︑暖は河北郡中正となっている︵全上︶︒或
は陛西独道が本貫たる辛纂は︑太二二︑洛陽に寓居して河南邑中正とな
り︑同族の一巡は広州大中正になっている︵漢書︵77辛雄伝︶︶︑更に︑随西独道の
出身たる李彦は秦州大中正であるのに︑その弟慶は河南邑中正になって ︶
/\ 56
いるが︵魏書︵39李宣伝︶︶︑これは恐らく虞が生活の根拠を河南にもっていたが故
.であろう︒
以上の如き現住地任用の中正は︑この外にも多く見られる︵翻鯖撮
鮨参︶︒勿論︑筆者も岡崎博士︑宮川博士の等しく主張される如く額甜
翻縣︶︑多くはその本貫地の名族が代々中正となるのが普通であるという
説を全く否定するつもりはないが︑単に一変態とみるには余りに現住地
主義による任用が多いことを注目すべきであると思う︒では︑この現住
地任用は如何なることを意味するものであろうか︒
以上の例についてみるに︑このような現住地主義がとられているの
は︑殆ど太和末益から世宗以後にかけての任用であることが注目され
る︒これについて想起されるのは︑通典の次の記事であろう︒ ﹁自太和
以前︒精選中正︒以徳高郷国者充︒其辺州小郡人物単鮮者︒則併附他
州︒其在僻随者︒則閾而不置︒当時称簡当意謂得人︒宣武︑孝明之時︒
州無大小︒並置中正︒既不可墨黒其人︒﹂︵顯鞍懸ガ︶︶この記事によれば︑
三和以前は徳高き者を以て充てたというのであるから︑地方名門の者が
多く充てられたのであろうが︑現住地において挙げられた人々にも三和
中の者もあるが︑世宗以後の者も多いことを考えれば︑適当な人物が仲
々得られなかったことによるのかも知れない︒
けれども︑現住地任用主義がとられる為には︑それに相応するだけの
各地分派門流の成長がなければならず︑前述の粛一門︑洛陽の辛氏︑青
鷺の崔氏の如きは︑それぞれの寓居の地に於いて既にその地の勢力とし
て成長していたであろう︒いうまでもないが︑現住地とは必ずしも現に
存するところという意味でなく︑其処に住みつき或は登籍されて︑全く
本貫地と変りなき状態のものを指すのであることは︑蓑氏の場合に予て
も干せられるし︵鰭妹羅嘆難霧聖旨︶︑叉︑後述の崔亮等の例によ
っても察せられる︒しかし︑それは必ずしも土着的意味において成長し
ていなければならない理由はなく︑寓居地を生活の本拠とする︑政治的
章 氏 研 究 勢力であってもよいわけで︑いな︑むしろ最早本貫地を離れてその土着性を自ら絶ち切った人々であるが故に︑政治的勢力として成長した人々であったであろう︒換言すれば︑北朝政権と政治的に密接な関係にある人々が︑現住地において中正として採用されたといえないであろうか︒例えば︑襲畑について︑﹁善事権門︒領三元叉三三金嵩︒除鎮遠将軍︑散騎侍郎︑楊州大中正︒﹂︵魏書︵71︶斐三業伝︶とある如きは︑ このような考察を可能ならしめるものである︒ 更に︑斐植以下の斐氏が一州大中正となったのは︑南北両勢力境界上の大勢力として帰国の功が重視されたということであろうし︵魏L﹁羅碓玖澗轄馳賊輪緋纏殉年齢黙遇い︶︑清河出身にして青州大中正となった崔亮の場合は︑内臥せしめられて︑副道固に従って平城西北に新にたてられた平年にいて︑平斉戸として苦境にあった︵塚本善隆氏﹁北魏の僧三戸︑仏図戸﹂︒︵支那仏教史所収︶︶が︑高祖に信任され董部郎とし垂雪に与り︑叉︑世宗に重用された︵講雄亮︶︒彼にとっては︑青州は以前の現住地であって本来そこに生活していたわけであった︒頭上渕の場合も同様で︑崔道書と共に入国し︑一時不遇であったが︑善和中となってその学問が高祖の重んずるところとなり青州中正となった︵罫書︵24︶撰玄三三︶︒彼が︑高祖の官僚としての肇を持していたことは︑瀟鷺がその族兄恵景をして書を送らしめて︑これを責めた時︑僧渕は返書して︑ ﹁主上之為人也︒無漏不照︒無細浦存︒仁平無遠不及︒博則盤ハ不究︒−⁝礼俗書叙︒銘肝復興河洛之間︒﹂︵全上︶といった態度に明かである︒河南邑中正となった辛纂も︑粛宗・敬宗にかかけて頗る軍功あり︑特に帝の信任するところであり︑又︑榮陽太守として良吏の称があった︵草書︵77辛雄伝︶︶︒これが︑その中正となった理由であろう︒章氏の場合においても︑崇は母方の鄭裁にその人物を知られ︑高祖はその女を当れて華嫉にあて︑それより望洋としての治績を知られて中正となったのである︵︵魏書︵45卑間伝︶︶︒ 以上の如く見るならば︑新しく住みついた寓居において中正となった ︶
︵ 57
章氏研 究
人々は︑その出自が全く問題とせられなかったわけではなかろうが︑寧
ろ帝権との結びつきの故を以て中正を命ぜられたことが看取できる︒と
いうことは︑宮川氏の指摘される如く︵前掲中正関係論文︶︑中正設置の主動性が朝
廷にあったというその官僚的性格をここにも明かに示し︑各門流が最早
本貫地に残った人々と何等関係なく官僚化して行ったことを示してい
る︒ 若し︑以上の如く各地に名族の分派が官僚として成長しつつあったこ
とを認めるならば︑最早京兆章氏︑清河三王という如きは単なる形式的
表現にすぎないので︑外部からはなお同族としての社会的評価を受けつ
つも︑実質的には全く夫々独立した門流を形成していたと見てもよいの
ではあるまいか︒
第三目婚姻関係
次に婚姻関係について考察しよう︒章氏世系表︵末尾︶にみる如く︑旭の
系統に資料が多いので︑この系統を中心に考えたい︒
先ず注目せられるのは︑周室︑階室との婚姻である︒旭の系統で王室
以外との婚姻は︑海面と天六氏に過ぎない︒このことによって︑周以降
この門流が王室と密接な関係に入ったことを知るが︑それは恐らく章孝
志による高級官僚化の結果だと推定できよう︒
さて︑章孝寛は楊侃の女と豪している︒では楊氏とはいかなる一門な
のであるか︒侃の父播は魏書の播伝︵%︶によれば︑百云恒露華陰人し
とある︒所謂弘農の楊氏に属するか否かは疑聞の家であろうが︑播の高
祖結の時からの世系は明かであり︑結は慕容氏に仕え︑曽適適は魏太祖
の時入国し︑祖真︑父謙共に魏に仕え︑多くは郡太守︑謙は洛州刺史に
至った︒従ってこの一家は所謂楊氏に属したか否かは明かでないとして
も︑一応官僚としての地位を確保した地方勢力の家であったことは間違
ない羅輪︶︑︒そのことは︑播の弟椿が子孫を誠めた言葉の中に︑﹁我
家入魏争論︒即為上客︒給田宅︑賜奴碑︑馬︑牛︑羊︒遂成富室︒自爾 至今二+年︒二千石方伯不順︒禄憧甚多︒﹂︵全上︶と述べる如く︑上客待遇をうけたことによって明かである︵雛墾︒而も勢妻︑即ち播の母は︑楽浪王氏で文明太后の外姑に当る︵密書︵13︶文成文明太后伝︶が︑禁洛州刺史に至ったのも︑恐らくそのような関係の故であったであろう︒即ち︑彼等が王室の優遇信頼をうけたことは︑ ﹁太和初︒吾兄弟三人並居内職︒兄在高祖左右︒吾与津在文明太后左右︒﹂︵魏書︵58楊椿伝︶︶とか︑﹁高祖謂諸王諸貴日︒北京之日︒太后厳明︒仁恕得杖︒左右因此︒有是非言︒飽和朕母子者︒唯楊椿兄弟︒﹂︵全区︶と隻られることによって明かであるからである︒播は武将として活躍し華州刺史に至った︒従って侃の頃は既に楊氏両は︑蒔播両︒貴満朝廷︒児葦通︒﹂︵淫書︵58楊椿伝︶︶という有様であり︑ ﹁汝家仕皇魏以来︒高祖以下︒乃有七郡太守︑三十二州刺史︑内外顕職︒時流少比︒汝等若能存礼節︒⁝⁝足成名家︒﹂︵魏書︵58七巡伝︶︶と椿自らが子孫を誠めている如き︑誠に有力な官僚家であった︒ このような勢門である楊侃に見出されて︑その下僚となり︑その女を三つた章孝寛であるから︵回書︵31︶卑孝寛伝︶︑従来社会的莚ではあっても政治的には不振を続けていた章氏が︑孝寛に及んで顕官に至ったのには︑恐くらその推挙も与って力あったものと思われる︒ さて︑前述の如く孝寛の甥世康は周文帝の女︑裏釘公主と閉した︒その婚姻が︑孝寛の功績によって屍室との密接な関係が生じた結果であることも前述した如くである︒世康が彼自身の強い隠遁の志にもかかわらず︵晴書︵47︶童世康伝︶︑次第に中央政治の表面にでて活動せざるを得なくなったのは︑かかる婚姻による朝影との結びつきの故であろう︒更に晴においては︑世康の弟沖の女は斉王陳に嫁し︵司書︵59︶覇王陳伝︶︑孝寛の子寿の女無恥広の妃となり︵拙影Y総の女は元徳李些している如くあって︵難襲鮎論説議.︶︑このような中央政権との結びつきが︑世康をして内
にあっては吏部尚書︑外にあっては荊身空管の重任につかしめ︑孝寛の
子を﹁貴公子﹂︵魏書︵47︶童世康伝︶と呼ばしめ︑五更をして社会的にも政治的にも ︶
︵ 58
名実共旛る﹁名家﹂として浮び上らせ︑世系表︵末尾︶にみる如き︑有力
門閥としての実を備えしめたも・のであろう︒
その他︑章閲の孫儒は郭酢の女と︑粛⁝は榮陽の鄭裁の妹と︑罷は符堅
の丞相王猛の女と︑融は陛西李理の女と濡している︒これらの家が夫々
著姓であるか︑或は当時権勢の家であったことは︑正史に明かである︵難鶉離響搬姫灘¥従って︑これらの家と結んだ三は︑
章氏夫々の門流の発展に影響したと思われる︒
第四目 経済的境遇
北朝卑氏に関する記録には︑貧窮であったというが如きは殆ど見られ
ない︒併し反面︑大土地所有の富豪であったという記録も殆どない︒た
だ︑童隻について︑ ﹁所居之宅︒枕帯林泉︒三三旧記書︒三三自逸︒﹂
(罫I伝︶︶と隻られ︑或はその子世康の兄弟のうち︑﹁変遷済世約三途
不漁︒共推父時田宅︒尽以与之︒店回其義︒﹂︵回書︵47︶章世康伝︶と見えるところ
によれば︑隻は相当の田土や宅地をもつていたといえるようである︒或
は︑罷⁝の子孫脳について︑ ﹁時田口倹︒脳下家下弓粥︒以飼三人︒所活
甚衆︒﹂︵声曲︵45童閲伝︶︶という如きも︑幾何かの財があったの如く思われない
でもない︒けれども一般的には︑官僚としての俸禄︑或は北魏時代にお
いては国秩等の収入︑即ち官僚としての保証によって生活したものでは
ないであろうか︒それを暗示するものは︑前述締約についての記事であ
る︒世康等が世約に生活の資としての田宅を与えたのは︑独り二二が︑
宙途達せざるが故であったというから︑宙途達した他の人々は官僚とし
ての収入で生活でき︑またした筈である︒例えば章孝寛について︑ ﹁叉
早喪父母︒事兄捜甚謹︒所得俸禄︒不入凶冷︒親族有遺孤者︒必加振
贈︒朝野以此称焉︒﹂︵謹書︵31︶津孝寛伝︶と見えるところでは︑颪自らの生活並
に他の親族をも支えるだけの俸禄収入があったようである︒勿論︑顕官
ともなれば︑世康の弟営州総隈芸の如く︑ ﹁而大治産業︒与北夷貿易︒
家兎鈍万︒頗為清論鼠子︒﹂︵引書︵47︶三世康伝︶というような︑その地位を利用し
章氏 研 究 ての大規模の蓄財も行われたであろうし︑一般に外任にあった人々が庶民を侵暴することは何時の時代でも行われたことであるから︑そのような収入もあったかも知れぬ︒ 何れにせよ︑ 北朝章氏は著姓ではあっても︑それは必ずしも経済的富有さを示すものではなく︑単に社会的家格を示すだけで︑一部には相当の田土所有者があったとしても︑大部分の人々は冨僚としての経済生活を送っていたとみて差しつかえあるまい︒
第二項南朝章氏
南朝章氏には二門流があり︑共に享兆杜陵より等比に移住していた︒
第一目政治的活動
ω 玄の系統
新唐書︵上74︶宰相世系表によれば︑南方章氏の中︑玄の門藻︑その父
華が宋の高祖に随って江を渡り嚢陽に居住したと伝えるが︑これは恐ら
く誤であろう︒というのは︑回書︵7︑8︶後秦載記によれば章華は他の
人々と共に嚢陽流人一万人を率いて銚興に降り︑その後銚興に仕えて尚
書右侯射に至っている︒恐らく華は京兆から一度嚢陽に逃れ︑更に東晋
に叛して後宮に降り︑長安に帰ったものと思われる︒従ってその子玄は
長安にあったと芝らるべきである︒そのことは章叡伝︵梁書︵12︶︶に︑﹁祖
玄避吏隠於長安南山︒宋武帝入関︒以太尉橡徴不至︒﹂と見えることによ
っても確めうる︒武帝の南帰に従ったのは玄の子祖征︑祖帰であろう
か︒これらの人々が裏陽に移住したことは︑その子孫の章思謙伝︵旧唐書︵88︶﹀
に︑﹁其先自京兆南従家子裏陽︒﹂とあるので明かであり︑叉︑章叡やそ
の子放が先ず雍州主簿に任じたことからも︵回書︵2童叡伝︶Y毅伝︵鰹踏︶に︑
﹁斉末多故︒不欲遠郷里︒求二上庸太守︒﹂と見えることからも察せられ
る︒ さて︑玄の子祖思は国士を以て目された人物ではあったが︑早く赫連
勃勃に殺され︵講翫︑二二は宋に著し光禄勲︑私等は寧遠長史に
O9)
血畢
=@研究
至った︒けれども︑この門流の名声を高めたのは制動の第三子叡であっ
た︒彼は伯父祖征に愛せられ︑常にその任地に従い︑又外兄杜幼文に従
って梁州にも行き︑幼時より政治の実際面にふれていた如くである︒宋
永光の初︑雍州刺史蓑顎に見出されて州主簿となってから︑地方官を歴
任し︑斉末上記太守となるに及んで︑梁の高祖と結ぶ機会に恵まれた︒
高祖が裏陽に挙兵するや︑郡人二千を率いてこれに参じ︑その策謀は多
く採用せられる如き信任を得︵梁書︵12卑叡低︶Y高祖が即位するや︑廷尉卿を
拝し梁都子邑三百戸に封ぜられ︑一三二年北方の要衝予州刺史を拝し︑
翌々年王師北征するや︑三軍の都督を命ぜられ︑これより武将としての彼
の真価を発揮した︒即ち︑天監四年合肥の戦に勝ち︑五年には北魏中山
王英の百万と呼号する大軍を郡陽に破り︑功を以て公に叙爵せられた︒
その後︑地方︑中央の要職を経て︑普通元年侍中︑蓄尿将軍を以て卒し
た︵全上︶︒
彼は地方民政にも実績をあげたが︑真面目は武将としての活躍に現わ
れている︒合肥の戦には︑﹁朝廷授此︵節︶︒非以満遍︒斎座之法︒不可
犯也︒﹂と厳格なる軍規を示し︑郡陽の大戦には︑ ﹁魏人已堕吾腹中︒卿
曹勿書判︒﹂と部下を激励し︑斐遼と共に華言の名将と称せられた︵謎堵
翻騙︶︶︒かくて︑彼こそ北下の南通を支える力であったので︑﹁北軍歌
日︒不起瀟恵与呂姥︒嚥下合肥章武︒武謂津叡︒﹂とか︑﹁元英日︒薫臨
川難験︒其下有好受章︑斐之属︒亦領導当︒﹂などと伝えられている
叡の長子放も早くより高祖に知られ︑地方官としても治績を挙げた (南・、宏伝︶︒
が︑武将としても満濃との戦に活躍し︑中大通二年北画州刺史となり︑
在勤三年にして卒した︵離麺諜蔀ぎ照︒放の子の中では︑粂が著名
であり︑父祖同様の武将としての活動が目立っている︵回書︵43章集伝︶︶︒彼は晋
安王に仕え︑王が太子となるや歩兵校尉に遷り︑東宮領直に累進した︒
彼については︑﹁粂以旧恩︒任三綱密︒難居職屡徒︒常留宿衛︒黒檀権︒﹂ ︵全上︶といわれる如く︑旧恩の故を以て中央権力と密着して殆ど外任にあることはなかった︒ところが︑侯景の乱が起るや︑父祖以来の武将的性.格を発揮し︑司州刺史柳島礼と共に景軍に当ったが︑遂に戦死した︒この時彼の子弟殆ど戦死し︑穎戚死者警入︒﹂と隻られる︵尊上︶︒ 放の弟正には載︑昂︑鼎の三子があったが︑載は八景の乱に王国辮に従って功あり︑陳の高祖に用いられ董用された︵陳書︵18章載伝︶︶︒ところが鼎はこの門流に珍らしく︑経史に通じ︑相術を善くし︑その故を以て陳並に階において重用せられたが︑政治的に活動した形 はない︵晴書︵78章鼎伝︶︶︒② 広の系統 この門流は章軌が東晋考証帝太元初年に光陽に南遷したというから
し︑この両門流の問の関係は全く不明である︒広の門流はさして栄之た (梁、伝︶Y玄の門流に比べて相当早く嚢陽に定着したものである︒しか
わけではないが︑代々概ね郡守の地位についている︵全党︶︒陳の世になっ
て翻があり高祖に親任せられ︑永貞元年歩兵校尉となり︑ついで下町将
軍に遷り︑朱衣直閣を領した︒蕪将軍について︑その伝︵陳書︵18章劒伝︶︶は︑
﹁剛比之職︑旧領営兵︒兼統宿衛︒自梁代己来︒転任喩重︒出路羽撃清
道︒入則与二衛通直︒臨軒島町殿侠侍︒﹂と説明している︒更に︑﹁劒素
有名望︒毎大事恒令侠侍左右︒時人栄之︒号日侠御将軍︒﹂︵全車︶と述べて
いるところを参照するに︑彼が高祖に信任された武将であったこと明か
であろう︒
以上の二門流に共通する性格は︑何れも武将として活動していること
である︒勿論︑文武両道を兼ねる人々や︑文転たりし人々も多く︑卑叡
の伝にも︑蒔難老︒暇日猶課諸児以学︒第三子下尤明経史︒﹂︵南史︵58章叡伝︶︶
と隻られ︑纂については︑沈約によって︑翼学非臣輩也︒﹂︵全軍︶と称
せられたほどであるし︑稜は︑ ﹁以書史為業︒博物彊記︒当世之士︒威
就質疑︒﹂︵新書︵12章叡伝︶︶という学者であり︑その弟賠も亦︑﹁少習経史︒有文
ω。)