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| 張 良 家 の 暦 史 |

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稿

|張良家の暦史|

    序

 張姓は中国に於.ける最も一般的な姓の一つで︑古来種汝の系統が

存するが︑その中で︑筆者は張良の一族をとり上げて︑前漢時代か

ら唐代までの︑その︑二皮を明かにしてみたい︒そのねらいは︑既に

戦国の名門で︑前漢の有力官僚であり︑後漢の末に門閥として知ら

れていた既払が︑南北朝時代を経て唐代に及ぶ間に︑如何なる生活

−政治的︑社会的︑或は経済的な一を経て来たか︑それが門閥とし

ての地位保全と如何なる関係にあったかという所謂南北朝貴族の実

態を明らかにし︑ついで唐朝に入って︑如何に官僚化して行ったか

を明かにする点にある︒要するに︑この張氏を一つの具体例として

六朝門閥といわれるものの中から︑如何にして唐朝官僚が生れて来

たかを検討してみようというのである︒

  第一節 門閥張氏の形成

    第一項張.氏の始租

 張良家の始祖に関する論は︑大体次の二系統の如くである◎ 第一読は︑黄帝の子︑少痛罵陽極の第五子揮より出で︑その子孫

張氏を吊し︑周藩王の時︑達士に仲あり︑その後半が晋の大夫とな

り︑その大夫に老があった︒晋の分裂するや︑韓に仕えて宰相として五罪に仕え︑韓相思の子が良であるとする︒これは新説書籍世系表︵書下︶に載せた張氏の伝婁ある︒これ

がそのまま信用できないことは勿論であるが︑では一体どのころか ら信用できるであろうか︒

前漢書︵巻四十︶張良伝によれば︑﹁其先韓人也︒﹂とあって︑晋の

分裂後︑韓に仕えたといわれる以後のことしか肯定していない︒

とξが︑三眠の籍なる文苑英華︵巻九百六十二︶処士張府君墓誌銘によ

ると︑ ﹁府君田恪︒其先晋人︒晋有張老︒﹂と述べている︒張読

は︑勿論唐玄宗時代の人であるから︑前漢書に比べてその愚依性は

劣るわ勾であるが︑この﹁晋に張老あり﹂というのは︑多少の現實

性がないわけではない︒というのは︑激陽交忠翼下︑集謡講蹟一

過︶後漢竹邑籍張一一の条に︑その碑丈を引用して︑﹁君馨字

仲吾︒其先晋大夫張一盛徳之畜︒⁝⁝⁝挙孝廉︒遷竹邑侯相︒年八

十︒建寧元年五月虫唾卒︒﹂と見えているからである︒①建寧元年

は塞帝の元年で後即日のことであるが︑このころ﹁晋大夫張老﹂の

実在が認められていたわけである︒併し︑一塁書の主張する如く︑

張老或は張壽が良の祀先である︑という積極的証拠は別にないわけ

であるが︑若しこれを認めるとすれば︑張氏の組先は晋まで遡りう

るわけである︒

又︑同じ碑銘艮港︶の張仲器銘の餐︑跨禦︑﹁心張仲

⁝器紐革Q:::詩六月之卒章日︒侯誰在 o張仲孝友︒芸皿周宣王時人也︒距今昔千九百余年︒﹂と述べているところによれば︑張仲すら実在の人物であった如くである︒勿論︑この場合は假令仲が実在の人物であるとしても︑それが良の組先であるという証拠づけは出来

ない︒以上によって︑仲並に老を明かに良の祀先であると断定する

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張氏研究稿︵矢野︶

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張氏研究稿︵矢野︶

のには︑爾資料の不足を感ずるわけである︒②

第二設は︑文苑華︵揆憩殿中監張遅霜轟に︑黄帝の少子弦

孤氏より出でたとするものである︒併し︑ヒれには︑その後の具体的      ︑な人名はでて来ないので︑軍なる伝論として受取るより外はない︒呈によって暑に︑張氏の鶉は︑史記︵毒忌侯世家︑前漢

童.︵巻四十︶張良伝に記されている︑韓霜たりし開地を以て宛てるの

が最も確実であろうが︑強いて遡るとすれば︑晋の大夫たりし張老

は︑それが韓に分裂する出前の国の大夫であった曹という理由から︑

全く不可というわけでもない︒.

註①歪石葦編︵詔旨︶筥籍張毒に高様の記豪星る︒

 ② 困学紀聞巻十二には︑張良工仲三十代孫︒張老十七代孫と見え︑その原

  注に﹁張氏譜﹂に﹁仲見詩︒老荘春秋礼記﹂とあるという︒けれどもこ

  ・の﹁張氏譜﹂なるものさえ如何なる性絡のものか不明であるに於ては遽

  に此説を信用することは出来難い︒翁註困学紀聞巻十二参照︒

    第二項 門閥張氏の成立

 張氏の三国時代迄の世系表を示せば︑次の如くである︒

   表−         其先韓人也      開  地一       i不       平−良相韓昭侯宣恵王裏哀王 相韓螢王悼恵王  漢留侯iO¶  ︵前漢書巻四十張良伝︑史記巻五十五留侯世家︑前漢書巻十六功臣表︑後漢 書巻八十六張晧伝︑同書巻一百十下張超伝︑三国志巻四十五張翼伝︑戴陽 国志観覧︑南史巻三十四顔竣伝による.o︶ この表によって見るに︑張良の組先は韓の名族であったこと聞違なく︑身分的に低いものの多かった漢の高組の臣下では珍しい存在だといわねばならぬ︒従って韓の滅亡後も︑家僅三百人を所有し︑或は家財万金を投じて客を求め︑秦に仇を報ぜんとし︑更に陳渉の兵を起すや︑自らも少年百余人を聚めて反証の一翼を担おうとした等のこと覧られるきに︵聴難伝︶︑相当な財力蕃えていたこと明かである︒漢の高祀に随うようになって以来︑多病の爲に兵を.動いて戦斗に参加することはなかったが︑﹁常費画策臣︒﹂といわれ︑高組をして︑﹁蓮篶策惟握申︒決勝千里外︒子房功也︒﹂と構せしめる如ぎ︑策謀の中心として功績を立て︑途に 侯に封ぜられたのであった︵全上︶︒ここに︑秦の時一時断絶した名族としての張氏が︑漢の官僚として〆復活したわけである︒子不幸が高后三年嗣いだが︑孝丈帝五年国を除かれた︒それが良の玄孫の子乗千秋に至

   疑10iO一Ol乗千秋墾齪     騒鯉 除    ㌧    詔復家﹁嚢侍中    薪遠巻七+二下による︶       

一⁝⁝難空﹁誓劇轟.副礎.

⁝   予州牧︷−−−○一○一翼      翼州刺史超     都亭侯別部司馬 徴①広漢太守

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つて元康四年陽墜とし覆過した︵纏羅鴬遷灘攣︒②けれ

ども︑この・乗千秋の後が如何に嗣がれて.いったかについては︑寡聞

の故か全く手掛りがない︒

 さて表1にみる如く︑良の六会孫と辮する張晧が腱薫習武陽人として現われてくるQ③晧は後漢和帝永元中に地方官となり︑八年彰h

城相︑安帝永寧元年に廷尉を拝し︑黒糸の即位に及んで司室を拝

し︑陽嘉元年再び廷尉となσ︑同年八十三才にて卒した︒廷尉とな

ってはその疑獄を弁正すること公平詳審であり︑司室となっては薦達するところ㌘︑﹁天下構義士︒﹂したという︵湿糠陰︶︒

 其の子綱は︑少くして経学に明かであり︑而も気節の士であって︑

順帝の時宙官の政治干与を悪んで︑﹁繊悪事朝︒不能薄身下命︒堀

国家之難︒難生吾不.願也︒﹂と歎じて宿墨排斥の上疏をなしたが容

れられなかった︒然るに漢安元年八月︑侍中杜喬以下八人の一日儒知

名の士劃して顕位を歴任した者を地方に特派して督察せしめた時︑

網も亦其天に彫れた︵後漢書巻六順帝本紀後漢書巻八十六張晧伝︶︒狸独り年少昌

官微であったが︑而も彼は野江が夫汝地方に出向したに拘らす︑独り京師に止享三﹁射狼当路︒安間狐狸︒﹂︵搬灘︶とて︑先づ中央に於て﹁甘心卜辞Q縦恣無爵︒多樹躇諌︒弊害忠良︒﹂してい

る外戚の徒を排すべきであることを主張したが︑︵島上︶順帝の容れ

るところとならなかった︒ついで︑同年廣陵の賊張嬰を降して功あ

り︑爵を与えられようとしたが︑外戚十勝の抑ゆるところとなって

止み︑餐元年蓬羅宇太守に羅つた︵三国志蜀志巻十五張翼伝︑斐注所引続漢書︶︒綱の子忌は郎中︑その続続は尚書︑方は予州牧となっている︒爾綱の

子孫に翼とその子⁝徴とがあり翼は劉備に仕えて予州密書となり戦功

があった︒徴は廣漢太守に至った︒共に武陽に住した一︵三八︶︒

 さて︑前後漢時代の張良後商を見るに︑前述の如く前秦時代より

有力なる名家であり︑前漢一時其の衰邊をみたものの︑後漢中期以

張氏研究稿︵矢野︶ 降再び名家としての地位を回復した如くである︒晧が芽室の地位に至り︑或は︑綱が年少微官にして八使の一人に選任された如きそれを示すものといえよう︒或は又︑他の系統の子孫と思われる影野にしても︑車詳悉軍の別郭司馬であったというから︑相当の地位にあったものと見てよい︒三国時代に於ても夫汝相当な官転についているのであって︑ここに張氏は門閥としての地位を確立していたものと見てよいであろう︒④ ・註① 新唐書宰相世系表によれば︑詳細な世系が記されていて︑良の子孫は  一目瞭然であるが︑世系表には多分の錯誤があるので︑今は出来るだけ 辱正史によった︒ ② 但し前漢書︵巻八︶宣帝紀によると︑元康元年六月に高祖功臣緯侯周勃  以下一百三十六家が復劃せられた如く見え︑元康四年の条には該当記事  はない︒功臣表の方では元康四年に復家したものが非常に多いのである  が︑何れかの誤りではあるまいか︒ ③張三悪には表に示した如く︑良の演劇孫という︒併し晧が若し六五の  孫であるならば︑乗千秋の子孫でないことは明かである︒何故なら乗千  秋は前漢宣帝の時の人であり︑晧は後漢順帝の頃の人物であって少くと  も百入十年位を隔てているからである︒従って世系表は表の如く示して

  

ィいた︒姦華︵巻九百六十二︶の処表黒蟻墓誌銘によれば︑八代孫と記され

  満票書世系表によれば九代孫というQ何れが是であるかは決定できない

  が︑今仮に漢の高祖より後漢三下の初までを三百三十年差見積り︑一世

  代を三十年と仮定すれば十一世となる︒すると︑新装書世系表が最も正

  碓に近いかも知れないが︑勿論決定的なことは言えない︒

 ④門閥とは守屋氏が﹁六朝門閥の一研究﹄にいわれる如く︑相次いで官

  人を生み出した家とすれば︑張氏も亦門閥と呼ばれるに相応しい家であ

  つた︒

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張氏研究稿︵矢野︶

  第二節 南北朝の張氏

 漢儒の乱︑西晋末の乱等によって張氏は各地に分散し︑夫欧の地

の名族として栄えた︒それらを大別すれば︑︵1︶苑陽張氏︑へ2︶

臭斜張氏︑ ︵3︶清河隠球であるQ

    第一項 苑 陽 張 氏

 その世系表を・記せば次の如くである◎

︵並日書巻一二十山ハ︷張重工︑梁書巻七心張皇后伝︑全巻十一︑壬申︷巻五十六張弘策

 伝︑梁書巻ヨ十四︑幅出五十六張四三による︒︶

表H︐ 平−華難守舗腔

   口恥

 藤−輿一01次恵礫轄舎人鞭陽   ﹂避難−建 過江 散騎 侍郎

瀟氏︵.梁太祖従姑︶  ÷

宋︑交州刺史

之一︑弘之一弘青州主簿南蛮行参

梁︑富陽公主  十   籍− 嶺 齊鎮西将軍 利七戸      劃策ノ子−張皇后  十 梁太祖   冑

 劉  氏

結縄申

π 十 海芋公主 ○一Oi徳

 希黄門侍郎   政郵州刺史

1嶺兼侍申鞭灘鵡藩論醤・塞欝・

くめ  糸二部爾書 衙書謀計射 加侍申

−絢!維誰︑車緬従兄

 安陽公主  十− 交 太子洗馬︑秘書丞  ︵1︶政 治活 動 前述の如く︑晧の髪綱の系統は糊爲郡に居住したが︑晧の子孫に苑陽に居住する別系統があった︒前引張府君墓誌銘には晧の子の宇の時に︑ ﹁遭漢乱離︒家於苑陽︒﹂とあるが︑ごれ芭陽張氏の組であろう④︵讃︒

皿・書︵捲杉張華伝に.航ば︑華は苑陽姦の人といわれ︑その父

は卒という︒亭は漁陽墨守とあるが︑その子華は﹁七言貧︒自牧

羊︒﹂といわれているから︑父に早く死なれて貧困の中に育つたも

のらしいQけれども︑学問も人物も誠に優秀であって︑﹁器識弘︐膿︒

時人牢能測之︒﹂という非凡の爲人であり︑例の糸薄すら﹁王佐之

才也︒﹂と馨したという︵晋書巻三十六張華伝︶︒早一から︑蕩の一団覧

出され︑その推薦によって文帝に用いられ︑ついで三三に仕えて政

治の櫃機に参与する機会を与えられた︒後︑江南臭の名家たりし陸

機兄弟が入洛するや︑北方人士を軽んじたが︑華をみるに及んでそ

の人物を推重したという︒︵全上︶

 華が武帝に仕ゆるや︑先づ伐英の計血行上の功績があった︒伐臭

・計画の主唱者は願事であって︑屡汝帝に其計を上奏するとこるがあったが︑撃臣多く反対する中に︑独り賛意を表したのぱ華であり

  

漉」+︶︑ごの計画も華の意見にξて最後の決断が行われたと

(曙

見ても過言ではない︵晋書巻三十四杜預伝︶︒而も盛丁五年±月︑大挙器討

つや︑度支尚書として出征の軍をして後顧の憂なからしめ︑帝と協

力して必勝の意気に燃えて諸臣の反対を抑え︑途に最後までやり通した︵聴講+︶︒従ぞ臭が平定されるや︑武帝が︑﹁薯関内侯

張華コ与二大傅羊結共創大計︒雷門掌軍事︒部分諸方︒箋定権略︒

蓮簿決勝︒有謀誤之計︒﹂︵二上︶と詔してその功績を賞したのは当

然であった︒のち費后專政に及んで︑彼が衆望のよる所である故を.以て政事を委ねらるるに至り︑華は鋭意政に当り︑﹁錐当闇主虐后

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之朝○而海内嬰然︒華之迄也︒﹂と欝せられたのであった︵図上︶︒

 華の長子灘の子器に及んで︑永嘉之難を避けて江南に遷り︑苑丁

張氏は南方に栄えることとなった︒苑緊張氏が南遷後何処に居住したか明記するものはないが︑弘策が梁の高祀に従って裏陽令となっ

てより裏罫に居佳したのではあるまいか︒というのば︑新唐書宰相

世系表にも安之の一族は裏陽にいたという︒併し︑何時頃からかは

明かにして挨い︒これ裏陽張氏︵三口書巻九十一張東之伝︶といわれる所以であ

ろう︒ さて︑輿の子次恵に二子あり︑穆之の系統と安之の系統に分れ

る︒華以後︑一時政治的不振時代に入っていた張氏は︑安之の子弘

策に至って再び中央政権に近づいた︒それは一に穆之の女が梁の高

組の母であった関係からで嚢︵梁書巻七太祖張皇后伝︶︒前書︵挙張蜜漬伝に

よれば︑彼は高跳と同年輩で︑幼時から常に遊友達であり︑特に親しい聞柄であった︒彼は早くから高租に天下を墓うことをすすめて

いたが︑野末東平即位して朝政素るるの徴候あるや︑高租は常に弘

策によって謀をめぐらし︑裏陽に覧て挙兵の準⁝備を整えたという

(梁相ェ一武帝本紀︶︒愈垂動せんとするや︑弘垂雪珍と隠匿

議を定め︑自らも出会兵言いて戦功を立てた︵梁書巻十一底幅珍伝︶︒誠に

彼は梁朝建国の第一の功臣であった︒不幸にして急信の余党に殺さ

れたが︑高組は深く働惜して︑﹁痛哉衛尉︒天下事忌復興誰論︒﹂

と警たといわれる︵南史巻五十六張弘策伝︶︒をにいう聖︑弘策は最後には営業卿に任ぜ.られていたが︑ この転が重任であったことは︑首書⁝

(甘

セ)テ義宣伝に︑﹁孝武欲画鋲︒覆置欝卿︒欝買置.

自警鳥撃︒﹂とある如くであり︑以て高祀と商策との親子関係を推

測しうるであろう︒ 弘策の長子に緬があった︒彼は子供の時から非凡な人物であった

らしく︑外祀の中山の劉仲卸は﹁此児非常器︒爲張氏二七︒﹂と丁

張氏研究稿︵矢野︶ しているへ羅甦+︶︒弘毒死するや︑父の撃嚢︑僅か夫才にして准南太守となったが︑年少にも拘らす立派な政治をなし︑高組の歎漏するところであった︵図上︶︒のち︑諸念を罪数し最後に筆順内曇となった︒その政治朕態は︑ ﹁爲政恩恵︒不尊母距︒掛人化君徳︒亦不幸欺︒故老成云︒数十年未之有也︒﹂と伝えられている

︵全上︶︒父下策が王朝交代に当って軍事的謀臣として活動したのに

対して︑これは平和な時代の循吏として活動したのであった︒大通三

年侍中に召されたが︑未だ拝せすして卒し︑途に中央政治に参加す

ることなくして終った欄︵全上︶Q

 弘策の第三子綴は従伯母籍をついだ︒心理はその人物の非凡さを

認めて︑﹁肚武公云︒後八葉有逮二者︒其此子乎︒﹂といったとい

う︵梁書巻三十四一一伝︶︒奥護藁餐︑大通三護支署︑喬二年半

部尚書となったが︑外任にもついて︑珪華太守となっては︑﹁治郡︒

省信順︒務清静︒﹂めて民吏の心を得︑吏部に入っては︑﹁緻居選︒

其後門寒素有一介︒皆見引抜︒不爲貴男屈意︒﹂という有様で︑人

士天然としてこれを噂したという︵全通︶︒更に大同五年には高湿に

よって︑﹁外氏英華︒朝申領袖︒司室以後︒名冠萢陽︒﹂と辮せら

れたその人物の故に︑尚書僕射となり︑大同九年には再び準準刺臭

として外任につぎ︑﹁在位四年︑流人自帰︒戸口増心密万︒﹂︵全上︶

という政績をあげた︒

 弘策の第四子縮は出でては郡守となり︑入っては御史申丞等の諸

官を歴任したが︑御奥中丞たること再度に及んだ︒当時高門の者は

憲台に就かぬのが普通であったが︵野史巻ご十二園芸処伝︶︑これは装填の自らいうところによれば︑コ爲国之急︒惟雷雲憲直縄︒用入本不限升降︒

⁝卿勿疑是毒︒﹂というのであって︵梁書巻三十四張緬伝︶︑特に国家の急

務と目される御史台に韓ぜしめたもので︑彼の﹁弾糾無所廻報︒豪

右揮之︒﹂といわれたその剛直にたよった故であろう︵全身︶︒つい

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張氏研究稿︵矢野︶

で︑吏部術書︑湘東内書等を経て︑承聖二年尚書右僕射に至った︒

 その他の一族昏亦皆相当の官瑠についたことは︑表丑の示す如く

である︒ さて︑此の一族の政治活動を見るに︑華ば補習︑天下統一の功臣

で︑且つその後の国家経営に功あり︑芸態は梁朝創建の策謀の功あ

り︑その子.纒︑縮等も帝王をめぐる中等官僚として政治に参癒し夫

汝功労があった︒これたよって︑この一門が晋︑南朝政権と密接に

結びついた門閥であったことを知る︒

ところが︑これに対して南史︵巻五十六張網伝︶にば︑展本論門︒以外戚

叢論︒高自署倫︒﹂とあって︑この苑陽張氏は羅馬なりとの記事が

見える︒成程︑苑陽張氏が隆盛に1殊に梁に於て−趣いたことの裏

には︑帝室との結合という理由がないではないQけれどもそれ故に

のみ張氏は顕重となったのではなく︑官憲既に甲門であったこと

は︑華の子が散丁霊侍︑散騎侍郎の慰留についているととでも明か

である︒更に讃自身についても︑彼が秘書郎に任ぜられた時のこと

ξいて︑梁書︵巻三十四戸惑伝︶に婆の如逸べている︒﹁無量有

四員︒宋︑齊以黒垂・族起魚群選︒待飛入補︒其迄忌数十百日︒使丁

任︒﹂と︒これによれば︑秘書郎は苗族出身の者の初任の官転−所

謂群盗であって︑次.の昇進の爲の足がかりの地.位であった︒ところ

が綴︑縮共に先づ秘書郎に任ぜられていることは︑少くとも讃︑紹

任官に際しては張氏が甲族であったことを意味する︒   ・

 では︑何が故に﹁本門門﹂といわれたのであろうか︒今ぱ甲門であることを認め︑本来は寒極であるとすると△梁朝以前と即言との

間に於ける黒氏一門の変化が認められねばならないQ︐藪に於て我

汝の注意を惹くのは︑南渡以後梁朝以前の張工の衰微であろう

︵表丑参照︶︒門閥とは元来官僚なのであるから︑本寒門︑今は甲⁝門と

Mう縛︑この張氏の官僚としての衰微︑もっと正確には顕宮に至る 者がなかったということが寒門と見徹されるに至った理由であり︑論策より政権に近づき重任についたことが豊門と目されるに至った理由でなければならない︒それは宛も︑南齊に仕えた江譲が︑重陽考城に僑居した門閥江氏一族に属しながら︑その租︑並に父の如ぎ直接の温先が︑太守︑県令に過ぎなかったが故に︑彼自身はまさに区部倫書を任命せられんとする際であるに拘らす︑太阻から寒士と呼ばれて断るのと里であろう︵爾済書巻三十一江讃伝︶︒

−以上の如く考えるならば︑甲門︑寒期という家門に対する評価

は︑官転によって決定されたものと考えねばならない︒

 尚︑このような考を裏附けるものとして︑.次の如ぎ事件を指摘す

るこ言書る︵愛媛大学越智民の御教示による︒︶︒南黒捲〜ま奥伝によれば︑

 奥諸兄出身諸王国焼侍Q而英起首著作佐郎︒瑛驚顔延之与︵王︶

 球鼠鳴 梢異常︒撫英背日︒盛祥始冤寒士︒

と見える◎英は瑛邪王氏たる曾朗の孫︑粋の子であるが︑出でて従

組球をついでいる︒その諸兄は王国の常侍となったのに︑独り典は

清算たる著作二郎に任ぜられ︑同じ兄弟ながら一方は依然として寒

士︑英は寒士たるを下れたのである︒然るに英が清官につく爲には

綴の場合に於ける如く既に常流に属していなければならない︒とす

れば︑諸兄と彼との任官の区別は︑諸兄が黒門に属し彼が高門に属

していたという門流の相違でなければならぬ︒即ち英.が球をついだ

という点にその区別を求めるより外はない︒球は︑例の王導の孫た

る譲の子で︑玉高は東晋花潜裕に親しみ︑録尚書事に至った人物で

あり︵晋書巻六十五王導伝︶︑球墨書︵燈︶の伝によれば︑宋の幕に隻て

中書令︑警部尚書︑尚書僕射等に歴任した最高官僚であった︒然る

に﹈.方僧朗一門は︑同じく王導の子孫でぱあるが︑その父穆は臨海

太守に過ぎす︑平身は毒︵巻八十五︶王婁伝によれば︑太阻元嘉中

侍中となり︑世祀大明末伺書左僕射に至り︑太宗の皇后がその女で

6

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あった故を以て開府儀同感司に進み︑特進を加えられたが︑しかし

これは.全くの優遇であって謹直の人物ではあっても政治的活動は殆

どなく︑その子醤菖侍郎に止まった︵南齊書巻四十九︑南史巻二十三王奥伝︶︒同じ

王導の子孫でありながら︑このような両者の家の経歴が︑特に粋と︑

球との閲歴の差が︑黒門と寒門の区別を生じ︑英をして桜煎たるを

回れしめたものであろう︒このように猿邪王氏の中に於てもその系

統によって獄門︑寒門の区別があったし︑又王氏と並ぶ謝氏に絶て

も謝超宗︵鞭九︶︑謝恩全上︶︑下民︵全上︶の如権門︑寒冷自さ

れ矢姦多かったのであった︒︵宮川爾志﹁魏暴及南朝の寒門︑寒人﹂東亜人丈学報三の二︶︒宋書

に立言は尚書僕射︑中書令であったにも拘らす一の子演が︑若くし (巻n伝︶によるに︑垂によりて下士︑布衣と見られた璽雫時

藩官たる著作郎に任ぜられているのは︵疎網野慰︑亮の璽・時代

の組先日︑威︑は二代つづいて司隷校尉の重任について寵任せられ

ているに拘らす︵晋書巻四十七︑傅玄伝︶︑その直接の引湯︑張不明︑釜は

護太守髭ぎなかったのに対し︵周回猷︑南北史世系表︶︑演にとって父たる亮

は宋朝最高官・僚として活動したことが︑亮を寒士と目さしめ︑演は

甲門として取扱われる如き歌態をもたらしたと見るならば︑王典の

場合も納得されるであろう︒勿論︑英の場合︑例えば豪毅とみられ

た謝洪が清官についた如く︑その人物の故に擢でられたものだとい

羨いこともなく︵魚脳駐︑又︑壷︵蜷+︶置物陵伝によれば︑

彼が豊漁たる太子洗馬に任ぜられた時︑梁の武帝は﹁官以伝燈︒量

限甲族◎﹂といったという︒併し︑その言葉の裏には︑一般に竜門

につくものは甲族に限られていたことを示すものがあろう︒奥の場

合もそう考えて問違いあるまい︒何れにしても︑官転が門流の評価

の基準になるという考は動くまい︒ 以上の如く考えるならば︑童謡︑心門の区別は決して絶対的のも

張氏研究稿︵矢野︶ のでぱあり得す︑官武を基準として容易に変化するものであったことを知る︒それは更に︑帝権の強化︑王朝の門閥統制の問題となるであろうが︑今はふれない︒︵2︶学問と敢養一南北朝の貴族が︑個人の完成に努め学問に励み藪養を積んだことは誓指蓼れているとξであるが︵難嘆軽妙繭講評︶︑このような面に於ても此の一門の特色を指摘することができる︒この

一門のもつ学問的伝統は︑その門閥としての地位の維持に大に役立

つたと考えられる︒ 最も著名なのは華である︒彼が少くして孤貧であったころは︑こ

れを認める人物は少なかったが︑鶴鶉賦を著してより院籍に知られ

て量隻才也︒しと馨られ︑これより名蒙薫れ︵晋書巻三十六張工伝︶︑

推挙せられて先づ就いた転は太常博士であり︑その博覧強記は︑武      む帝に漢の宮室制度を問われたとき︑応対黙るる如くで︑聞く者倦む

を忘れ︑帝これを異としたとの話でも明かである︵陸上︶︒その後︑

政治的に用いられること多く︑徳望を以て朝に繕せられたが︑彼の

本領は矢張り学⁝附にあったようである︒鵜竿の伝には︑﹁愚案書籍︒

身屋廿日︒魚篭余財︒不為文史盗干几筐︒︑激徒居︒葉書三十乗︒秘

書電環虞撰定官書︒消毒紫斑本藍取下焉︒天下奇秘︒世所希有者Q

悉有華語︒由是博物沿聞︒世無与比︒﹂と述べて︑その所有書籍の多く且つ善本︑稀押書の多いことをいっている︒更に︑それらを学

んだ彼の博識について薫炉の逸話を挙げた後︑﹁華之博物多此類︒

不可詳載焉︒﹂と評しているゆ彼の子心及踵も︑夫汝﹁好学謙敬︒﹂﹁懇望曉委︒﹂︵忍業+︶轟されている㌍︑父の畢受けて

いた◎誠に︑西晋時代の依存ほ学者混交官として仕官していたといっ

て過言ではない︒      ﹁

 弘策の子緬も亦学問に励み﹁読書手不綴巻︒尤明後漢窯晋代︒﹂

7

(8)

張氏研究稿︵矢野︶

︵難難+︶︑といわれ︑その学問が膏藩されていたことは︑巖

中郎欠︒帝詠嘆勉日︒此面旧用文学︒薫蒸行蔵首︒宜並等其人︒二

障緬藝︒﹂とい量件によっても明かである︵南熱帯五十六張緬伝︶提つで

彼も﹁聚書志万巻︒﹂いる藏書家であり︑数種の著述もあった︵全上︶︒

 その弟綴も緬に劣らす.学問に親しみ︑兄の墨書を昼夜耽読した

に拘らす︑朝廷の図籍を読破する野心をもつて︑遷官を欲しなかっ (梁」緬伝︶︒彼は︑始め秘蘇となり︑やがて任替るべ馨あった

たとの逸話が伝えられ︑このような態度が︑彼が侍中に任ぜられる

や︑ ﹁時人以爲早喰◎﹂といわれる早き立身の一因であったようで

あり︑流石剛腹の蓑子野すら︑その寧ろ晩ぎを恨んだほどであり︑又は子野と忘年の友となり︑昭明太子の師友となり︑張緬と共

に+学士の選に入り︵南史巻二十三王鐙伝︶︑更に尊容み交遊苦りにしな

かった梁の宗室安平侯景の子励の友人ともなった理由であったよう

である︵山照・更巻五十山企画階ハ伝全巻五十一呉平雪景伝︶︒

 讃の弟縮にしても・︑その子交にしても︑不同檬に優れた学者であ

った︵梁書巻三十四張無二︶︒︵3︶姻戚関係

 我汝は次に萢陽張氏の姻戚関係を省みることによって︑その門閥

としての在り方を調べてみようゆ正史に見えるところによれば︑張

氏の婚姻は劉氏と薫氏との閤になされている︒︵表慶参照︶

 華は劉放の女と婚しているが︑父平は漁陽太守であったとはいえ

華・は貧困のうちに成長したこと前述の如くである︒魚層は華の將来

覧込んで女を妻をたという︵晋書巻ご一十六張華伝︶︒劉放は三国志︵轄四︶

の伝によれば︑漢の宗室の流である西郷侯宏の子孫である︒放は太

原の孫資と共に魏の各帝に仕え︑常に椹機に参じ︑三十余年に亘っ

て飼政を経饗した功臣でありた︵企上︶︒その子許は活語等と共に丈 辞を以て構せられたという︵誌上︶︒この様忙︑二子の権勢の家と質したことは︑張華の栄進を助けるものがあったに違いない︒ ︑弘策の妻が諸氏であったことは緬の外組が劉仲徳であったことで票である︵梁書巻三十四張芝伝︶︒仲卸は誰績之で︑東莞嘉動転太守た

りし損の父で︑東晋に召されたが仕官しなかった︵叢叢蕪灘︶︒馳

その屡の皆は明かでな馨︑晋黄捲臥︶劉毅伝によれば︑鎭之

ば毅の叔父朽であり︑毅の曾祀は晋廣陵相であったという︒その一

族︑刺史或は太守となり︑毅自らは劉宋の武帝と勢力を孚つた猛

將であって︑この一族は一流の名門とはいえないかも知れないが

 さて︑蕃⁝氏との婚姻はどうであったか︒蓄⁝氏というのは︑梁の王 (町コ之伝︶︑東晋末に摩る有力な武舎僚であったと見てよい︒

室である︒塩竃︵巻軸︶太息張皇后伝によれば︑后の母即ち上之の妻

は瀟氏であり︑文帝︵太祖︶の蛍窓である︒丈帝と后との間に︑懲︑

敷及高組︑暢︑義興昭長公主a五子が生れた︒ここに後の梁の王室

との密接な関係が生じた︒穆之と丈帝従姑たる薫氏とが如何にして

婚したかは知る由もないが︑穆之は宋の丈帝の元嘉中に交趾太守で

卒している︒︵全上︶従って彼等の婚姻は如何に邊くみても元嘉中のこ

とである︒とξが︑梁の太阻暴の幕の一族であり︵梁書巻一武帝ホ紀上︶︑

その齊の王室薫氏は︑宋の元嘉中は高帝瀟道成の父の時代に当り︑

(南V書巻一高帝本紀上︶︑道成の父は元嘉翠済南太守となり︑同製+四年奮

太守で死んでいる︵全章︶Q而もその家柄はせいぜい地方豪族であっ

て︑有力官僚を出すこともなくて道成の父に至ったことを考えるな

らば︵繭羅聾︶︑その一族であ藁の太祀にしても︑社會的重ん

ぜられていたとは思われない︒とするならば︑梁の減租の従姑たる

.薫氏が︑南遷以來一時衰微殺生にあった張氏と婚姻したのは︑偶然駒な緒合に過ぎなかりたのではあるまいか︒罵りて︑梁の太組と張

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(9)

皇后との婚姻は︑そのような両家の接近︐に.基づくものがあったであ

ろう︒ けれども齊の狭襟の王朝建設︑又梁の高組の王朝建設という事情

が起るに及んでは︑これらの婚姻は︑萢陽張氏にとっては誠に幸蓮

な婚姻であったといわねばならぬ◎前述の如く︑弘策が梁・の高組の

挙兵の参謀であり︑挙兵準備に参劃し︑政治の相談相手であったの

も︑彼が卜祀の従舅であるという関係によることは明かで.あり

高︒﹂と評されている智蟹︑貴勢姦し︵羅驚箏︑張氏再 (梁髢{紀上︶︑﹁弘策勤人寛厚︒皆無旧故︒及居隆重︒不以貴響

興を見るに至ったのも︑この姻戚関係によるものであろう︒ その後︑讃が高阻第四女と︑讃の子希が太宗第九女と︑維の子堕

が太宗第十一女と辛しているのも︑︵表π参照︶梁の王室と張氏との

密接な接近関係を示すものである︒前述した如く︑ ﹁二本雲門︑以

外戚顕重︒﹂という如く﹁︑一時的とはいえ︑寒門とすら目される落

目にあった張氏が︑外戚を以て壁跡となったのは事實であり︑苑陽

張氏は︑王室と結びつくことによってその中興の蓮に再會したとも

いえよう︒

︵4︶経 済 生 活

 所謂門閥は官僚であるとしてもそれらの.家柄が多く不動産的富の

所有をなしていたことは︑よく指摘されるところであり︑叉一概に

否定でぎない︒けれども正門には案外にその貧困を伝えるものの多ととも亦否め秩︒例えば試みに業事みても直ちに劉衆捲咽︶

山濤︵巻四十三︶密婦︵馬上︶要︵帰属あげられる︒此等の人あ父は︑

県令︑太守の如きであって地方における有力者であった筈で︑全く

の貧賎から身を起したものではない︒苑陽張工もそのような例の一

つである︒

 張華が父の死後貧困に計りたことは既に触れた︒華は感熱まで至

張氏研究稿︵矢野︶ つたが︑その死するや残したものは書籍のみであった︒趙王倫によって華及びその二子が謙鐵をうけ︑輿が江南に遷るに及んでは︑仮令江北に財産があったとしても︑苦しい生活を続けねばならなかったであろうQ江南に遷ってからは代汝地方官として活動したようであるが︵表且参照︶︑それでも︑﹁緬母劉氏︒以導波家貧︒葬礼有闘︒

単身不尽正室︒﹂︵梁書巻三十四酒蒸伝︶と馨れている如く︑窮乏は続いた如一である︒勿論︑弘書痙賜軍畑之襲.L︵撫蘇讐と連

れ︑緬が﹁在郡所得豫意趣敢用︒乃至妻子不易衣裳︒及還都︒並置其母︒賑膿親権コ錐累載患畜Q 一朝随鑑︒緬私令室常勤︒亡霊素

者︒﹂︵梁書巻三十四張緬伝︶といわれる恕︑一院の健財を遷ること

も多かったであろうが︑それにしても以上の記事は︑張氏が俸緑の

外に何等の財をもつていなかったことを︑証明するものの如くであ

る︒このことは︑既に要害に於て張氏の生活の基礎は俸緑を殆ど唯

一のものとしたこと︑換言すれば土着的性格は見られない至くの官

僚であったことを物語るものではないのか︒ただ讃のみが︑晩年

﹁頗実積聚Q多写図書数万総Q有油二百触︒米四千石︒佗物理是﹂

産的な富であって︑不動産的蓄財が見られないの︐は何故であろう (南」績伝︶という蓄財を芒た考である︒けれどもこれらは︑動

か︒ それは︑江北より南遷した後︑仲汝田土が得難いという事情の下

にあっては︑︵唐長嬬﹁南朝的屯︑邸︑別肇及山沢管領﹂ ︵愚管足半

夢第︶地方に墾おろして土養性肇つ至り上げる前に︑早く中

央権力と結んで官僚化して行ったというのも一つの理由であろう︒

我汝が上述したところで明かにしたように︑この一族に循吏的性格を見るのも︑そのことを傍証するものであろう︒そのことは又︑顔

氏家訓︵渉務篇︶に︑﹁江南朝士因晋中興南渡江︒卒爲方量︒至直

音︑九世︒未有力田︒悉資謹聴而早耳︒﹂というところによって証

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(10)

張氏研究稿︵矢野︶

明される︒ けれども︑ここに注意すべきは︑官僚化は藤江ど共に始まったわ

けのものではなく︑華の場合に於てすら緬などの如く父死して貧な

りと表現されているところがらみれば︑既に西晋の時代頃から俸

緑による生活が行われていたのではないか︒そのような官僚的性格

が︑弘策が梁政権と結びつくに及んで遅駆強められ︑その子が侍中︑

吏部尚書︑尚書僕射の如ぎ帝側近の中央官僚にのし上る結果を齎し

たのではないのか︒このように考えることは︑ζの一族の官僚化を

余りに強調しすぎるであろうか︒    第二三三弓張氏

 先づ世系表を示せば次の如くである︒

 ︵宋書巻五.十三︑南史巻三十一張茂度伝︒南齊書巻三十三︑南史巻一ご十一張 緒伝︑南齊書巻三十二︑南南巻三十一張岱伝︑南齊書巻二十四︑南史巻三 十一張譲伝︑南苗穂三十一廊下伝︑梁書巻二十ヅ︑南史巻三十一張充伝︑梁 書巻三十二︑南千三三十一張率伝︑梁書巻四十三︑旧史巻三十一張糠伝︑

 申木書巻四十山ハ︑南甲史巻一二十二︸張郁伝︑心陶齊書⁝巻四十一︑南申◎巷三十二張融

 伝︑陳書巻二十一︑高張巻三十一張種伝南舘巻四十懸崖果伝︑世説新語言語 第二︑南齋書巻四十九南史巻三十二張沖伝︑旧史巻四十九孔珪伝晋書巻八 十九張韓伝による︶表皿  七世孫 良⁝⁝⁝○⁝::嘉−澄一!・彰祖敵  申  長沙  晋  光豫  広州刺吏     太守  丞相       大夫     始遷     於呉  呉国内更 侍漢画書 東晋i玄  之吏部爾書冠軍将軍

  宋i 裕 字茂度 五兵樹書

 ・会稽太守

 演太乎舎人 齋緒鶉讐   克 濟・梁i充i子最  侍中 追憶爾書 筒書僕射 散騎常侍.1允 安世功過 i藤 1鏡荒蕪 + 十−永宋︑侍申征北将軍黒部爾書南紀州刺史

韓        章三女齊︑      +

轍幣誹公

      ︵他十人ノ兄弟アリ︶齊︑梁  会落孔氏        十一穫 ︑ 一三媛  侍中筒灘鎮北将軍

1 弁 i 略      太子申庶子 大司農 広州刺更 臨海太守      女一岱   待申 +     三三暁 三部回書 一州刺更 南寛州刺史一恕

晋項邪王国上申令 一糠細書郎︑呉興太守

11畷一見−准   始蔵王−睾    +

諮議参軍  司徒左長更 一稜 陳︑中書令      司寒熱       稚才三子左民部尚書  種    女

 吏部術書 十七太守一牧

太子中庶子

一輯−悦  侍申偽更部尚書 巴郡太守一女 十会落孔珪 一滝 東陽太守光緑勲−融 儀曹郎一︷玉梅畑︵〜第一ハエJ︶ 盧陵太守−鉄−女 十二郡陸世

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湘州刺史呉興太守 敷L屑沖i   征虜将軍野馳門 侍郎玉翫高飛︵出継敷︶

巻 稜族兄四一一書

         離女

斑譲氏がある︒︵舶難避難編離鑛監和︶

表W 良⁝⁝⁝⁝肱⁝⁝⁝⁝華i嘉110101裕一Ol億︐         晋司空 丞相      宋司徒    晴︑呉郡    侍申       都督    避地三江︒     完工聞    画工干呉︒   干郡︒故    故其子孫称     所居号    迷答︒      孝張里

﹁鵬  台州臨海令右要図について;巳て蓼たい︒宋書︵彗張蔑伝をみる

に︑﹁留書度呉催事人︒張謡講也︒名寄高帝誰同︒故構字︒良七世

孫爲長沙太守︒始遷於呉︒﹂とあって︑良の七世の孫にして長沙太

守たりし者が︑臭に遷ったというから︑呉郡張氏なるものは︑恐ら

くは後漢初野からあったのであろう︒臭郡に調て張氏を脅せしもの

には︑後嘆の嚢︑武父子︵後漢書巻百二︶︑三国時代に張允とその子温︑

砥︑良転堕︶︑晋代には嚢︵晋書巻九+穴︶︑震︑翰父子︵譜耀辮

蟹鑑︶・の如二選て碧︒恐ら一箋郡尽目窟するものであ

ろうが︑月塞を構するものは誠に多いので︑軍に呉郡出身というの

みで良の子孫というのは速断に過ぎる嫌があリハ且つ所謂呉引張氏

なりとの積極的証拠ぱ何もないので一応論外においた︒︵1︶︑政治的活動

 所謂奥郡張氏が︑臭郡に於ける著姓として早くその地位を確保し

     張.氏研究稿︵矢野︶ ていξとは︑軽守屋氏が指警れた如く︵六朝門閥の一研究︶︑世馨語賞巻篇第八︑劉孝標注所引の︑ ﹁奨録士林日︒臭郡有理︑陸︑朱︑張爲四姓︒三国之聞︒四姓盛也︒﹂という記事によって明かである︒薙に掲げた世系表によっても︑嘉以来皆相当の官選について裕に至っているのであって︑門閥としての実質を備えていたのである︒但し︑江南一流の名門たる王謝に比すれば︑一号低いものと見られていたらしい︵廿二史劉卵巻十二江左世三無功臣︶︒あ張氏の繁栄ξいては;の臣下ある︒旧記挙︶張裕伝によれば︑裕の曾祀澄が父の葬に当って郭瑛に墓地を占ってもらったところ︑其処に葬れば百年を過ぎて位三司に至るが子孫はさかえない︒他の某地に於ては.︑五十年位で位は卿校に至り︑累世貴顕であろうということであった︒そこで澄は後者に葬った︒ところがその占の如く︑その子孫途にさかえたという◎この事件が事實であるか否かは別としても︑澄の子孫が︑栄えたことは事蟹である︒而もこの伝読ぱ臭郡張氏の官僚としての繁栄の程度を暗示するものがあり︑恐らく東晋時代の張氏の繁栄の仕方を反映した伝論であろうか︒奥国内史たりし敵の子に茂度︑騰︑郡三人があり︑夫汝子孫が栄えたので︑今は読明の便宜上︑この三系統について論明を加えよう︒

︵イ︶張裕の系統

 裕即ち茂度は︑宋の武帝︑丈帝に仕えて地方郡守︑刺史を歴任し

或は州中正となり︑或は五兵尚書等を経て︑元嘉十八年會稽太守に

期せられ翌年卒した︒彼は使持節督諸軍事も加えられていたが︑必

ずしも軍事的活動はその得意とするところではなく︑寧ろ彼の本領

は︑﹁素有吏能︒在郡県転漕甚明︒﹂とある恕︵柴書巻五十三張茂別伝︶董としての活動にあった︒

 茂度の子は︑演︑鏡︑永︑弁︵岱の五子であったが︑皆知名の人

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張氏研究稿︵矢野︶

物で︑﹁時謂之華氏五霞︒﹂︵囎灘三ごといわれた︒

 演は早世したが︑その前緒は少くして優れた人物でみって︑叔父

鏡は混琴豊楽広也︒L恥している︵南齋書巻三十三張緒伝︶︒乱筆はその伝によれば︵晋書巻四十三︶かの聲あるとと享独歩と奪られた嚢楷芒

て︑﹁我所不及也︒﹂と歎息せしめた人物であるから︑緒の人物も

推察できょうというものである︒従って従父暢によつて宋の孝武帝

に推薦せられ︑太子申舎人︑郡中正︑黄門郎を歴任し︑更に大子中

庶子︑州大中正となり︑明帝の世︑吏部郎となっては大選を参掌し︑

齊初申書令に転じ︑その人物の故に齊の至言の敬異するところであ

った︒つで世組の代となるや︑吏部尚書︑散騎常郵駅に転.じ︑永

明七年国子祭酒︑光緑大夫にて卒した︒其の間殆ど中正の転を領し

ていたようである︵南齊書巻三十三張緒伝南茸雲三十一︑全︶︒南薯の伝の史臣評に︑

﹁張緒⁝⁝朝宗民望︒夫如緒之風流者︒壼不動之名臣︒﹂と見ゆる

が︑緒が當時その人物を重んぜられたことは︑狼邪王氏の鳳族で齊の武帝に信任せられた尚書三王倹をして︑﹁緒以位尊我︒我四徳貴

緒也︒﹂と歎ぜしめ︑又︑﹁北士中不見張緒︒過三月有人︒﹂と構揚芒めた如碁勇た︵楠講健︶︒けれども︑彼は專ら文目であ

って︑他の人汝の場合の如く武人としての活動は至然見当らない︒

 緒の三子中︑充は中央官僚としで︑南明に於て侍申となり︑梁朝に

及んで運脚尚書︑倫書僕射を歴任したが︑のち出でて奥郡太守とな

った︵難攣亘︑帳早強︶︒ 湿度の三男永は︑文武の道に優れた人物であった︒元嘉十八年剛

定郎となって︑尚書の繁雑な条制の修撰を掌ったというから︑事務

的な才能もあったらしいが︑而も書史を渉猛し︑文章︑書をよくし

昔律に通解する文人であった︒ ﹁所居皆有事績︒﹂といわれる所以

であろう︵宋書巻五十三張永伝︶︒併し乍ら︑他面將才もあり︑裁量認められて︑各地の太守︑刺史を歴任し︑北魏との交戦にも活躍した

(魏ム元伝︶︒その聞︑度三七︑侍中の妻ξぎ︑郡中正︑州大繭

簿も充てられ︵宋書巻五十三罫引伝︶︑明帝の世に至るや︑その畢的功績の

故に︑外戚として貴顕となった王景文と共に謀反を疑われる如き有

力な人物であった︵南史巻二十一二王華伝︶︒その毒も変武の才を兼ね︑薯

太租に仕え︑武功を以て臭郡太守を授けられたが︑建元四年には度

支尚書となり︑その後︑高分に及ぶまで・仕えて︑地方長官︑給事中等を歴任した慨嘆雛︶︒禦奥政治家として遂せられたこ

とは︑建元元年侍中に遷るや︑太祀は彼に︑ ﹁謎謎我事︒我二二不

異頓︑懇︒﹂︵南史巻三十一張礒伝︶といつξとでも明かであり︑又勢長

官としての政績の⁝挙ったことも︑彼が離任した後にその刺更たりし

濠州にでかけた安陸王縛について︑ ﹁有野老来迄細︒問何不事産而

行乞邪︒−答日︒張全一二二三物︒ 百姓家得相保︒後人政厳︒故国

行乞︒結由是深嵯賞︒﹂一との話が伝えられていることから回せられ

る︵南野鼠三十一張濃伝︶︒彼は武功も蓼たと婆え︑多天喜して平凡の

裏に功績を挙げたようである︒

 壊の子率は幼くして優れた人物であったらしい◎沈約は︑彼と同

郡の陸極幻との二人を目して︑﹁此二子後進才秀ρ皆南金也︒﹂と

評し︵梁書巻三十三張率伝︶︑蕩の霧︑忌日と共に+学吉藩れた︵聾

刑部︶︑のち馨丞三つたが︑あ地位簗の高批が︑﹁馨丞天

下清官︒東南冑望︒未有爲之者︒今以相処︒足門訴轡︒﹂といった

如き地位であって︑臭郡張氏の江南に於ける名門としての重さも推

し測られるわけである︵梁書巻三十三南逆巻三十一︑張濡雪︶︒

 永の第三子に稜があった︒初め貧を以て外官を求め︑劉県令とな

り︑黄門侍郎︑侍中等を歴任し︑早朝のたつや中押H令︑尚書蛇毒射

等に至ったが︑地方長官も歴任した︒彼は特別に才能ある人物では

なかったが︑所謂循吏として眞面目な人物であったらしい︒それは

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(13)

彼が臭興太守として善政を施し︑よく聖心を得ていた話がらも伺

われるきろである︵南阿巻三十一張稜伝︶稜︒の子羽も亦著名な人物であった

が︑秘書郎崔ぜられてより器量太守窒つた︵難難篁挙上︶︒

 永の弟に弁あり︑その孫に種があった︒種は初め極めて不遇で︑

年四十余にして一地方県令となり︑侯景の乱にあって流浪をつゴけ

て綿里に帰り︑五十才に及んで王櫓弁の引立によって漸く諸等を累

遷し︑陳の高組立つに及んで太府卿︑左民部尚書となり︑高踏即位

するや中書令に至った︒この間︑東揚︑揚二州の大中正を領した︒

彼ば︑﹁臣薄薄懐況密︒文史優裕Q東南貴秀︒朝廷親賢︒単為其猷︒

宜居左執︒﹂と推重せられる入物であり︑又その識量広.博の故に︑

﹁時人皆以爲宰相之器︒﹂と評せられたのであって︑專ら丈吏とし

て活動したものの警である︵陳書巻二十一︑南万巻三十一︑張種芋︶︒

 弁の弟岱も亦︑呉興太守殿沖に︑﹁張東遷⁝⁝名器方顕︒終回大

至︒﹂と評せられる如き人物であったらしい︒初め地方官に歴任する

や︑その政治は無理のない調和のとれたものであったようである︒

(南誌相ェ三十二張岱伝︶のち︑吏部郎︑侍中︑吏部暮簿至り︑中央政治に参加

したが︑︵南齊書巻四+九王績伝︶争ぱ勢に出で型︑太守管なり︑使卑

下諸軍事を加えられで︑地方治安に活動した︒世租の世︑使持節監裏︑寛︑徐︑青︑翼五州珍事︑南温州型にて卒した︵霧貯蓄錘︒

︵ロ︶張偉の系統.

 裕の弟偉に関しては余り伝えられるところがない︒緯は東晋最后

の恭帝に親信せられたので︑劉裕は彼をして恭帝を毒殺せしめよう

としたが︑誰は不臣の行をなすに忍びすY自ら毒を仰いで死んだと

隻られる︵晋書巻入十九張謬伝︶︒兄が理学に用いられた毒して︑託は前

朝に殉じた︒けれども表班に見るが如く︑その子孫は決して栄えな

張氏稿研究︵矢野︶ がつたわけでばない︒中でも優れた人物であったのば暢であ9たα特認巷三十二の論に皆皆の賢良多きを述べて︑﹁宋早早間︒雅道彌盛︒其前主云Q敷︑演︑鏡︑暢︒蓋其尤著者也︒﹂とか︑或は又︑宋書︵巻四十六︶張郡軽傷ξいて︑﹁覆進之秀︒﹂とぢ誓︑暢は宋齊の闇に於ける張氏中の賢良著しぎものであった︒彼ば︑太子中庶子︑浦郡太守等を歴任し︑元嘉二年魏兵の南侵するや︑江夏王義恭に従って敵を防いだが︑時の北魏の將李孝伯の言によれば︑﹁翼壁聲遠聞︒足使我知︒﹂というのであって︑その名は北魏にまで聞えていたものであろう︒のち︑吏部伺書となり野島二年置稽太守に遷った︵蕪灘+︶◎

︵ハ︶張郡∵の系統

 灘の弟郡は主として軍事的な取を歴任し︑宋の武帝は︑彼が事に

臨んで不撹︑且つ大臣の体あるを重んじたという︒元嘉五年目虜両

軍となり︑寧日校尉︑畿州刺史を領し都督を加えられ︑後に一時官

を冤ぜられたが︑轟太守となって卒した︵葎臨+︶その子︒敷も

人物端雅にして学問あり︑武帝はかれを見て︑ ﹁眞千里駒也︒﹂と評したという︒又︑纏その至孝を以て鰹られた︵蘇灘騨一丸

灘張︶︒

 敷の弟東の子沖ぱ敷の養子となったが︑三楽永に従って羽書としての功績があった︒零雨︑刺史等を歴任したが高少くより戎事に従

い︑朝廷も幹力を以てこれを待ち︑永元二年郵州刺皮持節点軍に至

り︑其冬征虜將軍に進んだ︒沖の如きは︑祀郡よりも武人として活躍し︑塞な武人亜聖勇たと髪られる︵地墨蠕議︶︒︵2︶貴族的性格

 奥郡雷魚が三國時代から著姓で︑あったことは上述の如くであり︑

又南朝に亘って政治的に栄えたことも上述したところで明かである︵表麺参照︶︒前61の張氏繁栄必読の袈が覧る窒つたのも当然で

13

(14)

張氏研究稿︵矢野︶

あろう︒臭郡重氏は萢陽張氏と異って︑当時の大野の任命せられた

という中正の転につく者が多かった︒今︑表をつくれば次の如くで

ある︒氏名

張 裕

11

 職名

揚州中正癖馬工

強豪

揚州大中在

鵜揚類盤︸

能事 備  考

}(汪ェ︶

︵梁書巻十六︶

︵陳書巻二十一︶

 これによって注目すべきことは︑宋︑齊︑梁︑陳の各王朝に亘っ

て中正の転についていることで︑これは奥郡張氏が揚州におけ.る着

姓としての社會的名聲と地位とを南朝を通じて保有していたによる        みと考えてよい︒これに恕して︑苑心張氏は誰一人として中正の転に

ついていないのであるが︑一体これは如何なることを示すものであ

ろうか︒それは︑苑陽張氏の場合は︑その組先以來の大族の藍蝋は

あったものの︑江南に移っては︑一応新来の家であり︑一時的にも

せよ寒門と見られる立場忙あり︑傑出した入物は多﹁く出したとして

も︑樹王室との接触がその中興の大きな要素をなしていたのに対し︑奥郡革紐は早くより江南にあり︑土着著姓として動かし難い社

歯舞勢力をもつていたことを示すものではあるまいか︒・それは臭郡張氏が臭郡陸昏並ぶ名肇あったことが票であり︵傭羅響︑

或は盧江の露点︑陳郡の謝藷︑奨國の張融︑會稽の孔徳璋が﹁爲莫

逆之吝︵南史養二十何点葉︶と選れる如く︑張氏が当時の名家と並び奪ら

れるものであったことによっても介せられる︒

 遷て︑呉織張氏が土着著姓としてその社甥御勢力を自負してMた ことは︑南齊書︵糞︶の張緒伝の記事に誠鋸的に伺われる︒ 長沙王属悪用異下聞人琶︒三州議曹︒緒以囚籍不当︒執不許︒晃 邉書佐︒固請之︒緒正色︒謂晃信日︒此是身家州郷︒殿下何得見 逼︒この時緒は申正の転にあったのではあるが︑ここには自己の転務に忠實であるというよりも︑寧ろ自己の出身州郷を以て自らの勢力範圃であるとする態度︑自家の社會的地位を誇る傲岸な態度こそ看取でぎるであろう︒そしてその東南地方の名家たることは︑南史︵讐馨伝に引くと乞の︑梁の武帝の駐日する言葉に︑面東南物望︑朕宿昔所聞︒﹂という如く︑誰でもが認めていたところでもあった︒そういう土着同姓性を背景にもつ門閥としての自意識ば︑張氏自身の態度にも︑張氏に接する外部の入汝の態度にも反映しているのであって︑雑書︵無骨訪叢伝に敷歪員中書郎転じた書のこととして︑ 中書舎人秋当︑周糾並管要務︒以敷同省名家欲詣之︒︑赴日Q薬事 不相容接︒不如勿往︒網目︒吾等並己員外郎 ︒何々不得起坐︒ 敷先設難平︒磁壁三︑四尺︒二尊就席︒蟹隈左右日︒移我遠客︒ 赴等失色而去︒.其自標遇如此︒しという事件が述べられているのは其適例であろう︒或は又︑同じく張敷に関して︑ 張敷島宋秘書郎自彰城請假還東︒子時相国府有一参軍督 護︒亦請假︒武帝造伝令語敷云︒可無事︒答日︒臣性無雑︒途不 載︒と隻られるのも︵太平御覧巻六百一ご十四︶︑彼の門閥意識を示すものではある.まいか︒更に︑南齊の新安︑王子鷺が南徐州刺史となった時︑孝武帝はその佐皮を高選して張岱を召した︒その時帝は︑﹁卿美効裁量︒

兼資宙巴多︒無欲用卿爲子鶯別駕︒総轄皮之任︒無謂蝋屈︒絡当大

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