毛利元就と
﹁
張
良
か
一
巻
之
書
﹂
岸
裕
之
田
』 ま じ め に 毛利博物館には寸均馬仙翁千午将軍張良師伝一巻書﹂と題する兵書が二巻伝存する。一つは永禄四年(一五六 二四月の毛利隆元書写とするものであり、二つは元和九年二六二三)八月の毛利輝元書写とするものである。 この兵書は、それぞれ紐付きの錦の袋に入れ、葦表に蒔絵で張良が馬上の仙翁に沓を捧げる図が描かれた黒漆塗 りの箱に納められている。そしてそれには萩藩主毛利宗広の﹁当家累代相伝極秘兵書、嫡子為家督之上、一世一度 ( 一 七 四 二 可披見、此外全不可開之、右古来書伝如此、今度改而書直者也、元文六年辛酉春﹂という自筆の書付(包紙は、ウ ハ書に﹁錦袋二添書付披見之時可開之﹂とあり、宗広の黒印で封じられている)が添えられている。 そしてこの兵書二巻は、詳しくは後述するが、どちらも毛利元就書写本を底本にしたものと考えられるのである。 毛利元就(一四九七1
一五七二は、京都の室町幕府と山口を本拠に外国貿易によって富を蓄えた地域大名大内 氏の境目地域の安芸固にあって、国衆連合の盟主から、国衆の主権的権利を制限ないし奪取して地域社会の集権化 を進め、国衆の統合者 H 戦国大名 H ﹁ 国 家 ﹂ 主 に の し 上 っ た 人 物 で あ & 。 一 方 、 張 良(
?
1
前一八六)は、漢の高祖(劉邦)に仕えた人物として知られている。張良が日本歴史のなかで 毛利元就と「張良か一巻之書J(岸田) -329一どのように位置づけられてきたかについて、若干事例をあげてみたい。 著名な建造物の堂内の襖絵には、中国の故事を題材にして描かれている例がある。 たとえば紫鹿殿(現在のものは安政年間の造営)。その賢聖障子には、中国の唐代までの張良を含む賢臣や文人 三十二人の画像が描かれているが、それは寛平年間(八八九
1
八九八)に図を巨勢金問、賛を小野道風に執筆させ た の が 慣 例 に な っ た と い 弘 。 また、本願寺は、天正十九年(一五九ご閏正月五日に秀吉から七条堀川の地を寄進されて、現在地に移転した。 その西本願寺の対面所(書院・鴻の間)は江戸時代初めの寛永年間の建立であるが、その上段正面の床貼付の障壁 画には、中国の﹃史記﹄に題材をとった寸張良引四暗語太子園 L が描かれている。張良が案内する﹁四暗﹂とは東 園公・締里季・夏黄公・舟里先生であり、面会する﹁太子﹂とは前漢の高祖の皇太子劉盈(のちの恵帝)のことで あ る 。 西本願寺の対面所は見学が可能であるが、より見学しやすいものとして西本願寺の唐門があげられる。 西本願寺には、境内の南側の小路に面し、対面所等の接客施設の正式な門として唐門が位置している。無数の豪 華・精巧な彫刻で飾られ、﹁日暮門﹂と呼ばれるほど、観る者をして飽きさせない桃山時代を代表する建造物であ る。この唐門は、﹁元和三年暮の火災に焼け残った御影堂門を、元和四年に現在の場所に移したものである可能性 が 高 い L と い う こ と で あ も 。 その腰欄聞は、腰長押と頭貫の間にある人物大欄間であるが、中国の説話を題材にした四枚からなっている。 南側(外側)の東に馬上の黄石公(左足は裸足である)、西には龍(三本爪)のうえで黄石公の沓を拾い捧げる 張良の姿を彫り込んでいる。こうして信頼を得た張良が黄石公から兵法書を授けられ、高祖を輔佐して秦を滅ぽし、 前漢を立てたという、いわば武功の出世物語を題材とする。 -330一 龍谷大学論集これに対して、北側(内側)には、ともにいわば隠棲をよしとする者の典型とされる流水で耳を洗う許由が西に、 川から牛を離して引く巣父が東に彫り込まれている。 本願寺対面所の障壁画や唐門の彫刻は、戦国時代以降に本顕寺が天皇や公卿ら朝廷関係者と交流を深めたことが 影響していると思われる。 紫震殿や本願寺の事例は、京都の政権が、平安時代に唐風化して以来、いわば理想的な君臣関係、統治の有様な どを想う画題としてそれをとらえ、それにふさわしい場所に描かれたことを示している。張良はそうした賢臣の一 人 で あ っ た の で あ る 。 こうした建造物関係とは別に、戦国時代の文化・芸能分野においても張良は確かめられる。たとえば、﹃大日本 史料﹄九編之六に所載の永正十三年(一五二ハ)七月七日条には、同年月日に死没した観世小次郎信光の﹁能本作 者註文﹂が引かれており、そのなかには﹁張良﹂ほか三十番が書きあげられている。能演なども張良の普及を促し た と 考 え ら れ る 。 それでは、乙の張良と毛利元就がどのように結びつくか、毛利元就は張良を戦国大名化の過程でどのように活用 したか、そしてまたそれは子孫にどのように受けとめられたか、具体的に考えてみたい。こうした兵書が戦国大名 の領国支配にどのように活用されたかを究明した研究は、これまで見あたらない。
一、﹁均馬仙翁千午将軍張良師伝一巻書﹂の翻刻と解説
本章では、毛利博物館所蔵の 1 均馬仙翁千午将軍張良師伝一巻書﹂と題する巻物を翻刻し、若干の解説を加える。 前述したようにこの巻物は二種類伝存するが、ここでは毛利輝元書写とする巻物を翻刻する。その理由は、両者 を比べてみて、輝元書写本の方が脱漏が少なく良本と考えられることによる。隆元書写本は字体が荒いうえに、輝 毛利元就と「張良か一巻之書J(岸田) -331一元書写本と比べてみると、文章の脱漏がままみられる。この事実から考えられることは、輝元は隆元書写本を底本 にして書写したのではないということである。この両巻しか伝存していないので、それらの底本という伝本は他に 見あたらないのであるが、脱漏がある隆元書写本を輝元が書写したというのであれば、当然のことながら隆元書写 本の脱漏部分を穴埋めした形の輝元書写本は生まれない円。いまは、輝元は隆元書写本を書写したのではなく、他に 底本があったと考えておきたい。 また、隆元書写本には朱書きを全く欠くが、輝元書写本は、朱字はないものの、朱引、題目と各箇条の首にム、 真言秘術には
1
の朱書きが付けられている。これらは、輝元が照合したしるしと考えられる。 そうした考慮すべき点はあるが、ここではより良質な伝本と考えられる輝元書写本を翻刻したい。 凡 例 てここでは毛利博物館所蔵の毛利輝元書写﹁均馬仙翁千午将軍張良師伝一巻書﹂を調刻する。 一、字体は新字を用いた。なお、解読しがたい文字、党字、ならびに各箇条ごとに記されている真言秘術は、 その形状を示した。助詞として用いられるy(
して)は原形を残した。 て朱引きは割愛した。朱の符号はム可で示した。 て本文には読解のための参考として読点を施した。 ム均馬仙翁千午将軍張良師伝一巻書 夫秦代漸ク末ニ及テ漢ノ代忽ニ興ル、至テ秦ト漢トニ両帝相戦事度々ニ成リヌ、秦ノ師強クゾノ漢ノ箪破タリ、 愛ニ漢ノ高祖下ニ千午将軍ト云者有、此事ヲ歎テ祈ニ話回天匙ム諸天其志之深キ事ヲ知リ給ヒ、哀ヲ垂テ一人之 n, u q o q 唱 υ 龍谷大学論集老人ト顕現
y
、張良ト向路シテ行ニ、此老人ハ馬ニ乗テ在リケルカ、張良カ心ヲ見ンカ為ニ左ノ沓ヲ落シヌ、 汝我ニ其ノ都ヲ取テハカせヨト云、張良此ノ老人ノ姿ヲ見ルニ直ノ人ニ非ス、神通せル人也ト見ケレハ、辞ス ル事無ク取テハカス、数里ヲ行テ文落シヌ、前ノ如ク取テハカス、知此スル事三度ニ成リヌ時ニ此ノ老翁ノ云、 汝我ニ忠功ノ志アリ、身ニ取テ何カ望ナル事有哉、アリノ健二云へシ、其レニ臨テ望ヲ叶へ申サント云、張良 云ク、我レ高祖ニ仕テヨリ以来、官職心ノ憧ニ成、更ニ心ニ望事無シ、但高祖ト秦帝ト相戦ニ我カ君負玉フ事 度々ニ及へリ、此事ヲ身ニ取テ大ナル歎ト成也、然者高祖ニ勝せ奉ル事教授ケ玉ハンヤト云、仙老日ク、サル 事アリ、昔天ノ帝樺ト阿修羅合戦スル事在リシ時二、帝樺ハ此法ヲ伝へ勝玉へリ、阿修羅ハ未伝サレハ負ニケ リ、然者天仙モ秘シ玉へル法也、兵法ノ秘術一巻ノ書ト名ク、帝韓宝瓶ノ中ノ第一ノ宝也、人間ニ伝へ得ル事、 優曇花ヨリモ甚希也、其ノ趣ヲ云へハ、算数轍ルニ及ス、警へハ一二千大千世界ニ沙金ヲ厚ク四十里ニ満タリト モ轍ク此法伝へサレト云云、文此書ノ徳ニハ一見スルニ立所ニ師伝ニ昇ル者也、惣y
ハ天下ノ宝別y
ハ 武 門 之 助ケ也、我此ノ書ヲ胸臆中ニ秘メ、鳩ノ杖、富ノ髪ヲ頂ク迄、子孫ニ未 ν伝y
百八十余歳之春秋ア送ル、然ニ 汝君ニ忠在リ、我ニ孝在、依之伝ント云テ、仙屋ニイザナイ行テ璃璃ノ文箱之中ヨリ金銀ヲ銘タル箱ヲ取出y
、 其中ヨリ錦ヲ以テ七重ニ裏ミタル一巻ノ書ヲ取出シ、張良ニ与レ之、披キ見ルニ、マキ数僅ニ二八余篇目ヲ云 へハ六七ヶ条也、軍兵ヲ引、軍陣ヲ張ニ何事カ、是ニ漏レタル物之侍ラン、真実ニ目モアヤナル秘術也、見ル ニ擁テ神通ヲ得タリ、老翁ノ云ク、此事ヲ深致二信心 J 軽忽ニスル事ナカレ、不信ナレハ諸天之加護無シ、秘 法ノ穂ア失、若シ人伝へハ賢明ニy
信心深カラン人ニ伝へへシトテ授畢ヌ、張良悦ヒ帰テ高祖ニ奉教授、高祖 ウ チ シ タ カ へ ヲ ヒ サ ケ 忽ニ武性ヲ顕ス、秘術ヲ悟リ玉へリ、伺一人当千ノ名誉ヲ得、奉ニ討-随 ν世 玉 へ リ 、 故 ニ 一 一 一 尺 ノ 鋼 提 ナ カ ラ 万 機ノ政ヲ助玉フモ、此兵法ノ徳ヲ用侍者也、我朝ニ兵書伝来シ事ハ、人王九代帝開化天皇十九歳壬寅ヨリ始テ、 太唐ヨリ中書侍郎石丸是ヲ伝へ来シヲ、余ニ秘シ玉ヒ世間ニヵ、ル物在リトモ知サリシカハ知人無シ、サテ 毛利元就と「張良か一巻之書J (岸田) 内 ︽ υ 内 、 u η t υ崇神・垂仁・景行・成務・仲哀ニ至迄、ヵ、ル国ノ宝在リトモ知リ玉ハテ過サせ玉ヒシヲ、神功皇后宮此書ヲ 不慮ニ御覧得テ新羅ヲ攻玉フ、此書ヲ悟知リ玉フ故ニ新羅百済ヲ討随へ我御身ニハ痕ヲ受サせ玉ハス、其後御 子応神天王ニ付属シ玉フ、此天王思召勢ルハ、此書ヲ世間一留タラハ火ニモ焼ヶ、又伝モ失ハン事モアルへ シ、只御身ノ内ニ納メ置テ利益ヲ長久ニせント誓ヒ玉ヒテ、此書ヲ細ク巻テ呑ミ玉へリ、此故ニ世間ニ絶不 ν 伝、然者八幡大菩薩軍神武芸ヲ守玉フ神トテ胃ノ上鎮笠シルシ楯ノ面ナントニ奉 ν書此謂也、然ニ人王六十代 ( 九 二 三 ) F E -之帝醍醐天王御字、旧ヌル事ヲ趣シ廃タル道ヲ改玉ヒシニ、延長元年契未三月七日公卿此事ヲ愈議シ、我朝ニ 絶タル事ヲ歎テ、左中弁宰相大納言大江維時朝臣使ニ定レテ兵法伝へ来ラン為ニ、槍海万里之畑浪ヲ凌キ砂金 ( 九 = 一 一 ︺ 十万両持せテ渡シ玉へリ、太唐国明州ノ龍樹将軍ニ相ヒ、此法ヲ伝テ朱雀院御宇承平充辛卯七月ニ帰朝せシヨ リ ( 返 り 点 脱 ) リ、朝家之重宝、当家ノ大事トゾノ相伝スル処也、然ニ鎮守府将軍義家朝臣東夷追罰為ニ蒙ニ宣旨発向せシ時、 志ヲ深ク運テ申テ云、今度東国発向之事惣
y
ハ国家無為之為メ、別市ハ朝家安穏ノ為也、当家案否ノ境此時ニ 当レリ、云 ν恰云 ν恰、此調略ヲ拝下y
、柳カ励ニ武威之勇﹂逆徒ヲ退ケ、海内ヲスマシメント以 ν夜 ν継日、致 匡 ( 一 O 七 七 y ' J 懇望之問、有ニ御許諾﹂白川院ノ宣旨ヲ被下、大江 O 房奉承暦元丁巳六月五日 Z 酉男山八幡宮ニy
授 ニ 達 其 望 ﹂ 義家申テ云ク、義家生ニ弓馬之来一少年ヨリ蛍雪ノ窓ニ向ハザレハ更文道之器難 ν悟、漢書ノ知クニテハ難心得、 願クハ和字ニy
、 田 和 ν見心得ヤスカラン事ヲト云也、其時匡房所望ニ随テ、此書ヲ仮名ニシテ記出ス所也、 ム篇目四十二ケ条兵法秘術一巻書 ム第て軍出風船正一一不f
被 ν知、西方ニ向テ右ノ手ヲ銅ニy
、右ノ腰ニ並テ、左ノ手ヲ施、無畏一一y
三度タ リクダシテ、此真言ヲ満ヨ、必軍神来リ我ヲ守、敵ヲ滅シ玉フ、 ﹃h e Z
-ゐ
f
7
9
丸
投
q q
、 -334-龍谷大学論集ム 第 二 、 軍 出 時 酒 一 叫 ν飲事、其ノ肴ニハ打飽勝栗也、酒ニハ竹ノ葉ヲ立ル也、東方ニ向テ此敵打飽此軍ニ勝栗此 ム ケ 勝利ヲ酒得テプせト三度唱テ軍神ニ酒ヲ奉 v向、肴盛様打飽ヲハ右ニモレ、勝栗ヲ左ニモレ、其ヲ食ニモホソ キ方ヨリ食也、其習可秘、 ﹃
h e
Z 4
3
ヲ
タ
ア
導
者
口ヲ激キ、具足ヲ着、兵具ヲ調へ、三度礼拝y
、左右ノ手外縛、此ノ神呪ヲ~ì 主き
f
者二
て 丈 高
jて 、 鳥 勧 飛 請、
来 スヲ 也 ル
守 、 事案
Z
そ
ム第四、軍神送ル時ツクル作法、敵ノ方へヨせテ作ルニハ、初ヲホノク終ヲフトク打勝テ、勝時作ニハ始ヲフト ( ソ 脱 ) ク 後 ヲ ホ ク 作 ル 也 、ヂ
- V J
Z
宮 、
7 2 4
今
突
此神呪ヲ依 ν不 ν知敵ニ負ル也、転法輪之印ヲスへシ、 ム第五、膨舵落馬ノ事、弓手へ落タラハ悪事也、妻手へ落タルハ大事無シ、幡樟モ末ノヲレタルハ大事無シ、本 ノ折タルハ悪事也、真言有、ヂ ﹂
4
4
乞
守
ヲ
ご
必
マ
ベ
ミ
サ シ ユ ヒ 転法輪ノ印又左右ノ手ヲ銅ニy
大指ノハラヲ人指指ニテ押テ、右ノ手ヲノベ立ヨ、 毛利元就と「張良か一巻之書J(岸田) F h u q o n弓 U﹃ ¢ ダ
7
T
2
7
1
脅
芽
、
み
ム第六、弓折カヘル事、握ヨリ上ハ不 ν苦、下ハ凶也、袖ヘカへルハ不レ苦、内ヘカへルハ凶也、絃モ末ノ切ル、 ハ不苦、本ノ切ル、ハ悪事也、争カ此習ヲ不 ν習知へキヤ、転法輪ノ印ニテ前ノ真言ヲ唱ヨ、不苦也、 ル ム第七、敵ヲ討ニ不 ν顕事、東ニ棚ヲ高サ一尺五寸ニカケテ、其上ニ赤キ紙ニテ人形ヲキリテアヲノケテ並テ、 ト リ ウ ソ レ 其上ニ鳥鵜腰ヲ押テパリヲヲシカケサせテ其ヲ鬼門之方ニ穴ヲ堀テ埋也、其上ニ幣ヲ一本立テ、此真言ヲ満ヨ、 ア ラ ハ レ ス 、 ﹃h
g
Z
3
0
3
3
暮
司
有
て
射 ル ト ヲ ラ ム第八、我カ着タル甲胃ヲ敵 O 矢不レ通秘密、左右ノ大指ヲ中指無名指頭指テテ押シテ、小指ア立テ此真言ヲ廿 一 遍 唱 ヨ 、 敵 ノ 矢 身 ニ 不 立 、ザ
?
7
r
キ
d
q
と
ム第九、太万万ノ中ヨリ異ノ有ルヲ見出ス事、左ノ大指ノハラニテ中指無名指ヲ押テ懐中ニテ五度招ク、神呪 廿一遍満ヨ、異ノアルハサキニ光アリテ見ユル、是ヲ有性ノ鯛ト云也、 ム第十、魔縁ヲ伐随ヘル事、イカナル者モ此密法ヲ不 ν知難叶、此真言ヲ満ヨ、又太万万ノ目貫ヲ銀ニテ摺トヲ シテ持也、大事ノ秘密也、﹃
ず
ま
ず
マ
キ
訴
を
p h v q ぇ υ 丹 合 υ 龍谷大学論集ム第十て太万仕敵ト打合ニ此真言廿一遍満レハ我具足通ヲ得、廿一返ト現
y
、敵ヲ射事安シ、印ナシ、 ﹃h g
乏
ヂ
ヘ
キ
守
認
可
そ
ム第十二、鉾ヲ飛せテ敵ノ身ヲイタマシムル事、左ノ手ヲ鋼ニy
右ノ手ヲハウツプせサマニy
、鉾ノ柄ヲ取、思 ヲシテ此神呪七遍満レハ、敵スクミテ不 ν 戦 、ぶヨ守
Y
2
z
Z
﹃
奇
仁
ム第十三、弓矢ヲ加持シテ有性ノ弓矢ト成ス事、右ノ手ヲ銅ニy
左ノ股ノ上ニ並テ、弓ヲヨコタへテ持也、毎日 不 ν怠此真言百遍唱テ加持せヨ、主ノ守ト成也、一大事ト思時敵ニ立也、﹃
パ
ザ
湾
長
引
Z J
ハ
V 4
7
替 布
、 と
ム第十四、敵ノ魂ヲ抜取事、敵ノ性名ヲ赤青キ紙ニ書キ、其廻リニ鬼ト云字ヲ書、敵ノ年ノ数、土ニテ鬼形ヲ作 リ、其鬼ノ口ノ内へ書タル敵ノ性名ヲク、マせテ、我カ居ル丑弓ノ方ニ穴ヲ二尺ニ堀リテ彼鬼共ヲ埋ムへシ、 其上ニ鬼ノ数ホト幣ヲ立ヨ、赤紙青紙色々ニ立也、朝毎ニ行テ鬼一ツニ真言モ敵ノ年ノ数満也、必滅也、 ﹃h e
馨
J 7
、
参
議
d η
口 M 文南ヨリ北ニ流ル、川、朝 O ニ向テ手ヲ夕、キ、水ヲサカサマニカキアケテ、此真言ヲ敵ノ年ノ数カソへテ満 ョ、必滅ル也、是ヲ悪魔ノ逆手ノ法ト名、 毛利元就と「張良か一巻之書J(岸田) の t n ︽ υ 丹 、 υλ
タ
縛
裳
'
必
d
﹃
守
イ
ど
ム第十五、敵ヲスクマせテ、太万万ノ具足ヲツカハせスシテ、思ヒノ憧ニ随へル事、南方へ向ヒ左右手ヲ内縛シ テ、此真言ヲ七遍満ヨ、其敵心ホレテ弓矢ヲ取ニ及スシテ安ク随へラル、也、~
~
可9 /J ム第十六、強敵ヲ安随ル秘密事、丑弓方ニ向テ合掌シテ、 ﹃ 前 無 敵 降 伏 天 ト 唱 テ 、 ﹃ ヂ 尻 紙 降 る 拘 可d
q
ト 唱 へ シ 、 ム第十七、敵ノネラウヲ知事、大事ノ敵ヲ持タルニ朝夕ネラウ事一大事也、其ヲ知ント思ハ¥毎日向ニ朝日-此 神呪ヲ満レハ、日天子ノ使トシテ鳥又ハイタチ来也、敵山野一一テネラハ¥空ヲ鳥飛へシ、文家付而ネラハ、 四足ノ物来テ鳴へシ、秘事也、印ハ左右手ヲ外縛シテ左右ノ中指ヲ直ク立ヨ、h
l
.
,
,
、
f
h
ヨ 謝 官
、
F
ず
ヰ
ギ
と
ム第十八、中a
ニ相ヌ大事、東ニ向テ左右ノ手ヲ内縛シテ其手ヲ散y
、両ノ大指ノハラニテ中指ノ爪ノ甲ヲ押 ス、毎日向朝日可 ν謂 ν 之 、 o o q 喝 U 丹 、 u 龍谷大学論集1
1
z
t
T
ク
エ
ゾ
脅
す
ム第十九、敵ニ被取龍テ陣中文ハ大事ノ所ヲ遁出る事、西方ニ向フ思ヲ成シテ此真言ヲ三遍満ヨ、空ヨリ鉄霧降 リ敵ノ眼ニ入テ見付ル事ナシ、合掌y
満 ヨ 、一
基
本
必
T
d
q
t
ム第廿、敵ニ隠ント思フ時不見付事、日天子ノ前ニ宝瓶有リ、則摩利支天ノ尊形也、其瓶中へ入ト観念y
真言 ブ満レハ、摩利支天御前ニ居ト云也、隠形真言、ぎ
郁
夫
停
案
略
式
ム第廿一、敵ヲ討ン時陣ヲ出ル時案否ヲ知事ハ、鼻ヲヒルヲ聞テハ千人行テモ一人モ不 ν帰、阿修羅ハ此大事ヲ 依 ν 不 ν知、帝稗ニ打負也、鼻ヒルヲ聞ハ不可行、不 ν行叶マシキナラハ、具足ヲ着、直火ナントヲ改テ祝ナヲ シテ行へシ、此真言ヲ満ヨ、 ﹃h z a
都
主
に
伊
警
﹂
脊
奇
と
ム第廿二、敵ニ不 v殺秘術、軍ニ出ル時、午方ニ向テ右手ヲ剣ニy
胸ノ程ニ並テ、左ノ手ヲノヘテ我カ身ニ取付 物 ヲ 払 様 に 払 へ シ 、 毛利元就と「張良か一巻之書J(岸田)-339-﹃ ‘
7
3
3
シ ヰ
キ ゼ
( 返 り 点 悦 ) ム 第 廿 三 、 敵 ト 戦 -一 不 ν被庇秘術ニハ辰巳方ニ向テ合掌y
、此神呪ヲ百遍満ヨ、イカニ戦トモ不 ν被 ν庇 也 、,
Z
ヲ
す
ム第廿四、庇ヲ被テヨロシカルへキニ必大小心ニ任テ庇ヲ被ル事、酉方ニ向テ左手ヲ鯛ニゾノ、人サシ指ヲノへテ 我庇ウケ度所ヲサシテ此真言ヲ満ヨ、真言ノ数庇ヲ被也、ヂ
与
a F
ヘ ン ・
与
Z
X
可 不
-- 七
ム第廿五、生子ニテ具足着タル敵ニ相へトモ、其恐無事、子ノ方ニ向テ左右手ヲ銅ニy
、甲胃ヲ着タル知ク押へ テ加持シ、両方ノ肩ヲハ左右手ヲ打チ違へテ、此真言ヲ鎧着タル知腰マテタレ下y
、真言廿一遍唱テ敵ニ向へ シ、更無 ν 煩 、イ
長
l
'
j
'
~/
有
キ ム第廿六、一人シテ万騎ノ敵相戦へトモ無 ν怖事、東ニ向テ左手ヲ銅ニゾノ、大指ヲ立、胸ノ前ニ持テ、右ヲ剣ニy
、左ノ大指ノ立タルヲ握龍テ、三度フルイウゴカシテ此真言ヲ敵数満ヨ、無大事一人当千ノ法是也、- e
A '
7 3
3 7
啓
司
、
芝
-340-龍谷大学論集ム第廿七、敵ト戦時矢種ツキテ負ヌへキ時、丑弓方ニ向テ左ノ脇ニ弓ヲハサミ、右ノ手ヲノベ出シテ矢ヲ請取、 ル 心シテ此真言ヲ十遍満ヨ、敵矢ノクル心シテ不懸、此故ニ城ヲ不 ν破 也 、
﹃
ザ
雪
yb
や
え
を
対
ず
し
ム第廿八、敵ト戦時太万長万ナントヲ打折タルニ敵ニ見付ラレス、其難ヲ遁ル、事、子ノ方ニ向テ何トナク敵一一 カ シ ラ 相シラせスシテ、右ノ手ヲ頭トヒトシクサシ上テ、此真言ヲ三遍満レハ、敵我カ具足ノ折タルヲ不 ν知y
殺 ル、事無シ、昔ハ天ヨリ鋼下ルト云也、 ﹃h g ι
も
49
・乙
v
為
吋
ま
ム第廿九、敵ニ水ノ中へ被追入、既ニ死ン七いん時、左右ノ水指ヲ大指ノハラニテ握カクシテ、中指頭指ヲヵ、メ テ此神呪ヲ三遍満レハ、水五寸身ニ近付ス、摩角ノ法トモ、トヒタキノ法トモ云也、ぎや受縛サ
4
可必刊を
ム第品川、敵我ヲニテ攻ンニ其難無事、南無水雨天王ト唱テ、手
電
転
手
交
ム第品川一、敵ノ城ナントニ火付テ焼度ニ、兼テ此法ヲ常ニ火ヲツクレハ必焼ル秘法、東方ニ向テ右ノ手ノ中指ヲ 駅テ、余ノ棋界官握テ、敵ノ城ニ向テ取付様一一y
、此真言満レハ、必焼ル也、ケせトモ不消、 毛利元就と「張良か一巻之書J(岸田) 噌i a n 官 q d﹃
ヂ
れ
ぬ
折
蒙
批
句
者
c "
ム第品川二、敵ト引組テ太万万ノヌケサル事、是則敵ニ被降伏タル也、心ヲ弓方ニ向フ思ヲ成シテ三遍 ﹃ 前 無 得 大 利 銅 天 王 ト 唱 ヨ 、﹃ パ グ 計
ハ
ム第品川三、我カ生死ヲ知事、朝日ノ出ルニ向テ、左右ノ中指ノ爪ノ甲ヲ大指ノハラニテヲシテ、此真言ヲ百遍唱 ョ、其後景ヲ見ルニ則死へキハ景ナシ、一月有テ死スへキハ腰ヨリ上計有、二月有テ死スヘキハ頚ナシ、空白 曇ラハ燈ノ景ニテモ見ヨ、又月ノ光ニテモ見ヨ、ず
2
4
マ
ラ
手
司
会
ユ
雰
¥
ム第叶四、前ニ必死定葉ヲ延ル秘法 ケ ン サ ク 中央ニ私ニ奇字 J 変y
応エ大盤長其上一一ご芝字 J 則青黒大聖不動ト成玉プ、左ノ御手ニ制縛絹索ヲ以テ、 念 ロ 右御手ニ知恵ノ利銅ヲサケタマイ、ナンソクノ物ヲ繋縛シ玉フ、 O 怒降伏ノ御形後ニハ迦棲羅焔有、左右ノ脇 ニハ金伽羅、勢多、伽倶利、伽羅龍王等ノ香属等囲緯シ守リ玉フ、依エ彼明王ノ秘法﹂必死定葉ノ我カ身命ヲ 延玉フ事六月アリ、延命法トハ真言家ニ是ヲ云也、文
句
ポ
ぶ
'
心
不
、
と
-342一 龍谷大学論集上根ハ六月、中根ハ三月、下根ハ一月、右手ヲ銅ニ
y
、右ノ肩トヒトシクシテ持也、左手ヲ縄ヲ持心ニ左腰ニ ヲ ク 、 ム第舟五、神通ノ弓ヲ作事、深山ノ南ノ方ニ只一本生タル木ヲ品川日行y
、 此 真 言 ヲ 品 川 三 遍 毎 日 満 ル 、 右 ノ 中 指 ノ ζ キ 爪ノ甲ヲ大指ニテ握リテ余指ヲ立ル也、是ニテ加持、ザ縛拡﹂
3
玄
斜
m
守点汁ノ﹂
木ハマユミノ木ノ事也、四町五町ヲモ射ワタス、カネヲモトヲス、主ノ守ト成ル也、 ム第品川六、神通ヲ矢作ル事、七里アル浜スカニ風ノ吹方へ葉ヲナヒカス、竹ヲ切テ七日壇ニ立テ、右手ヲ鋼ニy
チ ¥ ¥ 愛 ニ 不 審 ア リ 、 中指ヲ立、我カ乳ノ間ニ並テ、左ノ手ヲハヒロゲテハ l ムキサキニ並テ、毎日百遍宛満ル也、イカナル悪魔鬼神 ヲモ射ル也、クマ鷹ノ羽ニて妨ヘシ、秘事也、四町五町ヲモ射渡ス、カネヲモトヲス也、ヂ
1 4
y
ヅ
ラ
f
a
q
4
ベ モ
ム第冊七、我カ守ト成ヘキ具足ヲ知事、右手ヲウツフケテ具足ヲ押へテ、左ノ手ヲ施、無畏ニy
耳トヒトシクy
、 此神呪ヲ廿一遍満レハ、チト具足動ク様ナルハ守ト成也、ヂ ジ
ム
ι
7
5
家 守
﹂
ム第舟八、兵ノ中ニ二心有ヲ随へテ、心ヲナヲサスル事、我方ノ物向テ左右ノ手ヲ外縛y
、 此 神 呪 ヲ 百 遍 満 レ ハ 、 心替ノ者モ帰テ致 ν忠、失 ν命 事 ヲ 専 ト ス 、 無 疑 、 毛利元就と「張良か一巻之書J(岸田) -343一会
,
~ j-(S ム第品川九、毒ノ矢ニテ射タルヲ直ス事、射レテ死せントせハ、サカサマニツルシテ水汲カケテ、シロカネヲ摺リ テ歯ヲクイツメタラハ、中へ筒ヲ以テ入ヨ、又手クチニモカネヲスリ付ヨ、毒ヲ吐捨ル也、右ノ小指無名指ト ノ爪ノ甲ヲ大指ノハラニテ押シテ、順逆三度加持スヘシ、 L E -r J・
1 3 ・ T 目 J f . a答司挙後ト守勢不べ勺
A
f
四十、敵ヲ庇ヲツケス討事、頓死シタル人ヲハイニ焼テ、太万万トギタル水ニテトイテ太万万矢ニモ付テ射 ョ、血モタラス切目モナクシテ、人ハ死スル也、可秘ノ¥、 、伊四十一、軍ノ勝負永々敷ヲ早クスル大事、南方ニ向テ左右ノ手ヲ外縛シテ、此真言ヲ壬遍宛満レハ、七日三 日ノ中ニ勝負ヲ決シテ勝事ヲ得へシ、 ﹃U
Z
君
主
舎
孫
、
と
ム第四十二、其大将タラン人、陣ヲ張リ城榔ヲ構ンニハ、深山ヲ後ニ当テ、深キ海河ヲ前ニ当テ取ヘシ、軍ニ負 ヌへキ時、山ニ付市ハシノビニモヨシ、海河ヲ前ニヲケハ敵ヨせニクキ也、イカニモノ¥、敵ヨリ上ノ手ヲせ ント番沼ムへシ、テキヲ前ニ並ナカラ、心ヲ緩ク持事ナカレ、文十死一生ノ日、酉ノ方ニ向テ戦フ事ナカレ、 ( 叶 ) ユカデ昨間敷ナラハ、丑弓ノ方ニ向テ、左右手ヲ釦ニゾノ無名指ヲ立テ、大指ノハラニテ小指爪ノ甲ヲ押シテ、 此真言ヲ満ヨ、必可 ν勝、甚深至極之秘事也、 4 4晶 a ι τ q 喝 U 龍谷大学論集!
・
- - g
干 す
, ﹄
,
T
イ
2
4
1
v
す
都
北
背
べ
と
ム兵接之秘術四十二ケ条大事畢、 ( 一 五 一 二)E
永正九年前八月吉日 文 牧 天ご 文芸 従 廿 童 五 四 ) 位 年 下 卯 乙 行 八 右 月 馬 吉 頭 日 大 江 フE 就 朝 臣 刀くこ 禄主 従;~三 五 年 ) 位 酉 辛 下 卯 行 月 大 吉 膳 日 大 夫 大 江 隆 フE 朝 臣 ]l;ー 和さ 従 九 三 四 年 ) 位 亥 実 上 八 行 月 黄 吉 門 日 右 馬 頭 輝 ]l; 朝 臣 なお、この輝元書写本は、縦一二、七、横五八五、五センチメートル、軸がない巻紙である。 隆元書写本と輝元書写本の両方の巻首と巻末の写真図版をあげておいたが、隆元書写本の巻末を念のため翻 刻 す る 。 毛利元就と「張良か一巻之書J(岸田) F h υ a n宮 内 毛 υ天文廿四年乙卯八月吉田 従五位下行右馬頭大江元就朝臣 寸永正九年壬申八月吉日 毛利隆元書写本(巻首) 文 牧 毛利隆元書写本(巻末) 毛利輝元書写本(巻末) 龍谷大学論集
-346-永禄 λ 年 辛 酉 卯 月 吉 日 従五位下行大膳大夫大江隆元朝臣﹂ 隆元書写本の巻末をいま写真図版でみると、﹁文牧 L も 、 コ 克 就 L も、っ隆元﹂も、そしてそれぞれの年月日も、 全て同筆 H 隆元の書写であることが確認される。この事実は、文牧が書写した一巻を元就が読書して署名し、また それを隆元が読書して署名して、相伝してきたものではないことを明示している。隆元が書写した底本は、別に存 在していたということである。なお、文牧という人物については詳らかでない。 輝元書写の一巻は、この奥書にコ克和九年笑亥八月吉田従四位上行黄門右馬頭輝元朝臣﹂が加えられたもので あるが、その巻末を写真図版でみると、やはり﹁文牧﹂も、 J 克 就 ﹂ も 、 ﹁ 隆 元 ﹂ も 、 そ し て そ れ ぞ れ の 年 月 日 も 、 全て同筆 H 輝元の書写であることが確認される。前述したように、隆元書写本を底本にしたとは考えられない。 寸天文廿四年乙卯八月吉田従五位下行右馬頭大江元就朝臣 L という奥書からみて、現在は見あたらないが、こ の元就書写のものが、のちに隆元や輝元が書写した底本であると思われる。 それでは、翻刻した﹁均馬仙翁千午将軍張良師伝一巻書 L の内容について、若干の解説を加えておきたい。 この書き出しに﹁愛ニ漢ノ高祖下ニ千午将軍ト云者有、此事ヲ歎テ祈ニ誓天道﹂諸天其志之深キ事ヲ知リ給ヒ、 哀ヲ垂テ一人之老人ト顕現
y
、張良ト同路シテ行ニ、此老人ハ馬ニ乗テ在リケルカ、張良カ心ヲ見ンカ為ニ左ノ沓 ク ツ ヲ落シヌ、汝我ニ其ノ沓ヲ取テハカせヨト云、張良此ノ老人ノ姿ヲ見ルニ直ノ人ニ非ス、神通せル人也ト見ケレハ、 辞スル事無ク取テハカス﹂とあるが、この行は西本願寺唐門の彫刻にも通じる。 この伝来については、﹁我朝ニ兵書伝来シ事ハ、人王九代帝開花天皇十九歳壬寅 L であったが、秘するあまりに ついになくなったこと、そして醍醐天皇の政道のもと、延長元年(九二三)三月七日に公卿が愈 世 間 に 知 ら れ ず 、 毛利元就と「張良か一巻之書J(岸田) -347一議し、﹁我朝ニ絶タル事ヲ歎テ﹂、大江維時(八八八
1
九六三)を使として砂金十万両を持たせて渡海させ、唐の明 州の龍樹将軍に会い、この兵法書を伝え、朱雀天皇の承平元年(九三二七月に帰国し、以来寸朝家之重宝、当家 ノ大事トy
相伝スル処也﹂とする。 さらに鎮守府将軍源義家が発向するにあたって懇望したため、白河天皇はこれを許し、大江匡房(一O
四 一i
一 一 一 一 ) が 承 暦 元 年 ( 一O
七七)六月五日に達したとする。源義家が懇望したのは、それが寸八幡大菩薩軍神武芸 ヲ守玉フ神﹂とされていたからであろう。 源義家は大江匡房に﹁義家生 2弓馬之家-少年ヨリ蛍雪ノ窓ニ向ハザレハ更文道之器難 ν悟 L と し 、 ﹁ 漢 書 ﹂ で は な く﹁和字﹂で見易く書き記すよう要望したため、﹁其時匡房所望ニ随テ、此書ヲ仮名ニシテ記出ス所也﹂とする。 したがって、この一巻書は大江匡房が漢書を書き改めたものであり、﹁朝家之重宝、当家ノ大事トy
相伝スル処 也﹂とある﹁当家﹂とは大江氏のことであると知られる。匡房は維時以来の大江氏相伝の漢書を書き改めたものと 考 え ら れ る 。 内容は、﹁篇目四十二ケ条兵法秘術一巻書﹂とあるように、それぞれの軍事作法と真言秘術を組み合わせた、ま さに﹁兵法秘術﹂である。 大谷節子氏は、﹁﹃張良一巻書﹄伝授語考│謡曲﹃鞍馬天狗﹄の背景 I H ﹂において、その多様な事例を取り上げ、 ﹁ともかくも﹃張良一巻書﹄が四十二箇条からなる陰陽の書であるという理解はその実体が何であるかをも超えて、 室町期には、先述の六輔説三略説素書説よりも広く俗聞に流布伝播していたと思われる﹂(三O
五 頁 ) と し 、 ﹁ し か し、﹃張良一巻書﹄の面目、秘伝の秘伝たる真骨頂は、これら置換可能な四十二箇条の部分ではなく、序肢に記さ れた伝授の系譜、血脈にある。伝来の経緯そのものが、所持者の必勝不敗を約束する秘巻であることを物語り、証 明し、秘巻たることを実現していくという自己証明の構造にある﹂(一一二六頁)と注目し、﹁四十二箇条の﹃張良一 -348一 龍谷大学論集巻書﹄が、右の如き統治のための教導書的性格を持つコニ略﹄注と根本的に異なるのは、この秘巻を持つ者に天下 奪取を賭けた戦いでの勝利を約束し、天下国家を治めるべき資格を与える秘法であることが説かれる点である﹂ ( 一 一 二 七 頁 ) と 述 べ て い る 。 本稿は、毛利博物館所蔵の﹁均馬仙翁千午将軍張良師伝一巻書﹂を張良関係諸本の分類や系譜等の研究のなかに 位置づけて考えることがねらいではない。そうした所持者の必勝不敗および治国平天下を約束するという秘法が、 戦国大名によってどのように活用されたか、毛利氏を事例にそのことを具体的に考察し、領国支配における役割や その意識をさぐるのが目的である。 一一、﹁張良か一巻之書 L
の意義
﹃毛利家文書﹄中に収められた毛利元就自筆書状に﹁張良か一巻之書﹂という言葉がいくつか表れる。その初見 は、大内氏を討滅した弘治三年こ五五七)の十一月二十五日に作成された、いわゆる三子教訓状(同四O
五 ) に 添えられた隆元宛のものである(同四O
六 ) 。 ( 端 裏 切 封 ウ ハ 書 ) ﹁ ( 迫 筆 ) ﹁ 去 年 状 也 ﹂ ( 墨 引 )読
書
隆元又まいる 是又御披見之後返可給候/¥、 巻物之内ニ可申候へ共、此儀肝心候、おそれなから、三人のためにハ、守にも、何にもまさる事にて候問、 別紙ニ申候、三人之問、露塵ほともあしきまニ成行、わるくおほしめし候者、はや/¥めつほうと可被思召 ( 守 ) 候ノ¥、唯今嘗家のためハ、別ニまほりも思惟もあるましく候、た﹀/¥此儀定かため、御方雨人之ためハ 毛利元就と「張良か一巻之書J(岸田) -349一不能申、子共迄之守たるへく候、張良か一巻之書にもまし候へく候、如今三家無二に候者、 圏中之人々にもこまたハか﹀れましく候、他家他国のおそれもさのミハあるましく候/¥、 一富家をよかれと存候者ハ、他国之事ハ不能申、嘗固にも一人もあるましく候ノ¥、 お そ れ な か ら 、 一嘗家中にも、人ニより、時々により候て、さのミよくハ存候ハぬ者のミあるへく候、 一三家今のことく無二ニ候者、此家中ハ御方之御心ニまかせられ、小早河家中ハ隆景存分ニまかせ、吉川家中 ( 侮 ) ハ元春可任所存候ノ¥、もし/¥すこしもわるく候者、先家中ノ¥よりあなつり候て、一かう事ハ成ましく 候/¥、然問、た﹀嘗家を初候て、三家之秘事ハ、是まてニであるへく候/¥、一巻之書是ニてあるへく候、 露程も兄弟関わるきめくみも候者、めつほうの基と可被思召候/¥、吉事重盤可申承候/¥、かしく、 妙 玖 尚々、めうきう被居候者、かゃうの事ハ被申候するに、何まてもノ¥、一身の気遣と存計候ノ¥、かしく、 この書状は、第一条の内容によってよく知られてい&が、全体の解析はいまだ行われていない。 前文では、﹁巻物 L H いわゆる三子教訓状の内容は重要であり、三人の﹁守 L にまさるものであること、三人の 仲が露塵ほども悪くなれば滅亡と心得ること、毛利家にとっては別に﹁守﹂も﹁思惟﹂も無用であり、ただこの儀 を定め固めて三人のためはもちろん﹁子共迄之守 L とすべきこと、そうすれば﹁張良か一巻之書﹂にもまさること、 ﹁如今三家無二に候者 L 、安芸圏内で小股を掬われることも、他家他国の脅威もないことなどを述べている。 つづいて第一条で毛利家をよかれと思う者は他国はもちろん安芸圏内にも一人もいないとし、第二条では毛利氏 家中にも人により時によってよく思わない者のみであるとし、第三条では﹁三家今のことく無二ニ候者﹂、毛利氏 家中は隆元、小早川氏家中は隆景、吉川氏家中は元春が存分にできること、もし三人が少しでも仲悪くなれば、ま ず家中から侮られることになると述べ、ぷ画家を初候て、三家之秘事 L は兄弟の結束であること、まさに﹁一巻之 -350 龍谷大学論集
書是ニであるへく候﹂と断じ、それを露ほども欠くならば滅亡の基と思うべきであることを説いている。そして、 み よ う き ゅ う このようなことは、妙玖(元就の室。天文十四年︿一五四五﹀死没)が生きていたならば、妙玖が話すのだがと 垣 間 り か け て い る 。 元就は、﹁嘗家﹂ならびに﹁三家之秘事﹂、すなわち奥義、秘伝は、隆元・元春・隆景三兄弟の結束であること、 ﹁ 如 今 三 家 無 二 に 候 者 L 、すなわち現実に三兄弟の結束があったから、ついに大内氏を討滅したこと、それに各家 中も随い、安芸国衆も協力したこと、結束が、このように見事に三家の発展という現在の実績をあげたではないか と説き、三兄弟の結束は寸守 L であり、また﹁(三兄弟の)子共迄之守 L でもあること、そしてそれこそが﹁張良 か一巻之書にもまし候へく候﹂としているのである。そして三兄弟の母妙玖の役割を強調してい&。 元就が三兄弟の結束によって毛利家の存続をはかろうとしたことは、家中統制に苦しんだ過去をふまえ、国衆や 家中の﹁人の心持﹂の有様を重視し、それを前提にしていわば変り身が早い﹁人の心持﹂を押え込むだけの力を生 み出そうとする認識によるものであった。 この元就自筆書状はどう評価できるか。それは、いわゆる三子教訓状の歴史的意義をどう評価するかに関わって く る 。 毛利元就が隆元・吉川元春・小早川隆景の三子に宛てたいわゆる三子教訓状は、長さ約三メートルにもなる長文 のものである。拡大した領国の支配にあたる家中の人材不足、三兄弟に女婿の宍戸隆家を加えた相互間の意識のズ レを懸念していた元就は、﹁毛利と申名字之儀、涯分末代まてもすたり候ハぬやうに、御心かけ、御心遣肝心まで にて候﹂(第一条)、寸毛利之二字、あたおろかにも思食、御忘却候てハ、一円無曲事候﹂(第二条)と、毛利家の存 続を高く掲げ、三兄弟の仲が少しでも疎開あれば﹁三人御滅亡と可被思召候﹂としてその結束を説き(第三条)、 結束によって各家中は治められるとし(第四条)、元春・隆景をして家督の隆元の下知に服さしめ(第五条)、かっ 毛利元就と「張良か一巻之書J(岸田) F 円 u q t u
(弔) 宍戸隆家をして同様に協力せしめんとした(第八条)。そしてそれが亡き妻妙玖への﹁とふらいしであるとしてい る(第七条)。元就の認識は、﹁嘗家よハく成行候者、人の心持可相替候﹂(第四条)というものであり、またこう した結束ができれば、﹁孫之代まても、此しめしこそあらまほしく候、さ候者、三家数代を可被保候之条、かやう にこそあり度者候へとも、末世之事候問、其段まてハ及なく候 L ( 第六条)というものであった。 やや遡るが、天文二十年(一五五二に陶隆房が大内義隆を殺害した事件に与同して勢力を拡大した毛利元和は、 同二十三年になると陶晴賢(隆房)と断交する。同年三月十二日の毛利隆元自筆書状(﹃毛利家文書﹄七六二に は﹁国家ヲ可保事可油断トノ事ニテハ努々無之候﹂という言葉が表れる。すなわち、毛利氏の国家を保つという意 味である。その内容は、史料では﹁洞他家分国を治保﹂とか、﹁家を保、分国をおさめ﹂と表現されている(同六 五 六 ) 。 寸 洞 L は毛利氏家中のこと、寸他家﹂は他の安芸国衆のことである。後者から、﹁国家 L とは、具体的には毛 利氏の家を保つこと、そしてその政治的支配領域としての国を治めることが合体したものだということが明確にな る。したがって、毛利氏家中と国衆領を含めた毛利氏の統治の及ぶ範囲が毛利氏分国であり、﹁国家 L 支配とは観 念的には毛利氏家中が領国支配権を行使することによって他国衆家中や寺社・商人・職人・百姓らを支配している 状態を指している。すなわち、﹁国家 L 支配とは、家中において主従制的支配権を行使することを基軸にして、領 国における統治権的支配を実現するということである。 うつろ ﹁分国をおさめ﹂るためには、その前提として﹁家を保 L ことが重要である。洞 H 家中が分裂しては、領国の 統治は成り立たない。 毛利氏﹁国家﹂の体制づくりのためには、何よりもまず家督の隆元の主君としての地位を明確にし、兄弟聞の内 紛を避砂、一族内における抗争に終止符をうち、一族の結束を固め、家中を統制し、その安定をはかることが不可 欠である。そうして﹁国家﹂支配の中枢を不動のものにし、支配機構や軍事組織、法規範の整備を進める必要があ n r “ 戸 h υ 内 4 u 龍谷大学論集
った。したがって、このいわゆる三子教訓状の歴史的意義は、毛利元就が、毛利氏の寸家を保﹂ためにただ単に三 兄弟の結束を説いたというものではなく、家督の隆元の主君としての地位を明確にしたものであり、それによって 三兄弟・一族聞における下魁上の禁止を宣言したものと評価できる。そうしてこそ﹁国家﹂支配は安定する。 前掲の元就自筆書状は、いわゆる三子教訓状に述べた三兄弟の結束を一層強調したものであるが、異なるところ は 、 ﹁ 張 良 か 一 巻 之 書 L を引き合いに出したこと、主君たる隆元にだけ宛て﹁御披見之後返可給候 L と極秘の書状 としたことである。自らの現状認識に基づいて、隆元に主君としての自覚をあらためて説いたものといえる。 一つは、年未詳であるが、小早川隆景に宛てた元就自筆 ﹁張良か一巻之書﹂は、このほかにもいくつか表れる。 ( 同 五 四 五 ) 。 書状においてである 隆景からの書状で隆景と元春の仲がおだやかならざることを承知した元就は、この個別の問題としても、また一 般論としても、人の仲というものを論じ、三兄弟と女婿の宍戸隆家の結束を説き、それが各家中の統制を強化する ことにつながること、そうでないと孫の代までは存続しがたいこと、したがって分別が大切であると述べている。 十箇条に及ぶ長文の書状であるが、その第六条に次のように述べている。 一此三四ヶ年あとの事にて候つる歌、封隆元、我等此段を申聞せ候き、兄弟三人之上ニてハ、張良ヵ一巻之書 も更入間敷候、た﹀隆景元春井五竜半たに能候者、是則張良一巻之書ニてあるへきと申聞せ候つ、隆元分別 仕候、元春隆景之御上にも、是までにであるへく候と存候/¥、 また一つは、永禄十一年(一五六八)に比定される小早川隆景宛の元就自筆書状においてである(同五七九)。 この書状も隆景から到来した書状への返書である。美作地域の政治的軍事的情勢について﹁海上をか﹀え、舟付 毛利元就と「張良か一巻之書J(岸田) 9 0 ' h u q t u
なとこそ遠国遠路之所務なとも成事ニて候へ、作州辺なとハ、一円所務等も成間敷候﹂と述べたり、豊後国大友氏 との縁辺や北部九州における戦争、伊予国河野氏への援軍の派遣など、隆景の愁訴に回答したものである。 十箇条に及ぶ長文の書状であるが、その第四条に次のように述べている。 一如仰、嘗時之儀者、儀理も法も不入候、弓なとも一圏不入候、た﹀/¥諸人之いやかり候事をは一かう御取 もち候ハて、人々之すき候する事ハかり被何めきれ候て御座候する事、肝心迄候/¥、張良か一巻之書にも ま し た る へ く 候 / ¥ 、 前文書は、いわゆる三子教訓状に添えられた元就自筆書状の場合と同様に、隆元・元春・隆景、そして宍戸隆家 の結束が寸固定則張良一巻之書ニてあるへきと申聞せ候つ、隆元分別仕候﹂と説き、それを隆元も心得ていることを 伝 え た も の で あ る 。 後文書は、隆元の死没(永禄六年︿一五六三﹀)後のものであるが、現在の緊迫した軍事情勢下においては、﹁儀 理 ﹂ ﹁ 法 L ﹁弓なと﹂も不用であり、唯﹁諸人之いやかり候事 L はせず、﹁人々之すき候する事ハかり﹂をすること が肝心であり、それが﹁張良か一巻之書にもましたるへく候﹂と説いている。前文書の内容とはやや趣を異にして おり、当面の戦争遂行にあたっての人心掌握などの心がまえ、統治に関わる姿勢など、戦時下の根本について述べ て い る 。 これらの事例から、元就は、毛利家存続のため、兄弟が結束し、各家中を統制し、そして対大内氏、対尼子氏、 対大友氏戦争を勝ち抜き、領国を安定的に統治し、強化していくそれぞれの段階において、くりかえし寸張良か一 巻之書﹂を引き合いに出し、それこそ寸張良一巻之書ニてあるへき﹂とか、寸張良か一巻之書にもましたる﹂とか、 -354一 龍谷大学論集
子供たちを説諭し、兄弟が結束することによって成果を生み出すという意識を高揚させていたことが確かめられる。 この寸張良か一巻之書 L こそ、元就が天文二十四年(一五五五)八月に書写した寸均馬仙翁千午将軍張良師伝一 巻書﹂であると考えられる。なお、張良関係諸本のなかでこの永正九年(一五一二)八月に文牧が書写した一巻書 が、いつどのような経緯で安芸国毛利氏のもとに伝えられ、毛利元就が書写するところとなったかなどについては、
ω
その経緯を直接的に示す史料はない。 ところで、毛利元就がこの一巻書を書写したのは、奥書によれば天文二十四年(一五五五)八月のことである。 それは、十月一日の厳島合戦直前のことであった。 元就がこの軍事作法と真言秘術を組み合わせた四十二箇条をどのように受けとめ、どのように勝負にいかしたか は詳らかにできない。ただ、秘術の影響力が大きい時代であったとはいえ、合理的な性格の元就が、合戦中に緊急 に生じた生命の危機をここに個別に決められた動作を行いながら神呪を規定回数唱えることによって回避できると そのまま信じていたとは考えられない。元就は、﹁仙老日ク、サル事アリ、昔天ノ帝樺ト阿修羅合戦スル事在リシ 時二、帝稗ハ此法ヲ伝へ勝玉へリ、阿修羅ハ未伝サレハ負ニケリ、然者天仙モ秘シ玉へル法也、兵法ノ秘術一巻ノ 書ト名ク、帝韓宝瓶ノ中ノ第一ノ宝也 L ﹁我此ノ書ヲ胸臆中ニ秘メ、鳩ノ杖、鶴ノ髪ア頂ク迄、子孫ニ未 ν伝y
百 八 十余歳之春秋ヲ送ル、然ニ汝君ニ忠在リ、我ニ孝在、依之伝ント云テ、(中略)一巻ノ書ヲ取出シ、張良ニ与 ν 之 、 披キ見ルニ、マキ数僅一一一一八余篇目ヲ云へハ六七ケ条也、軍兵ヲ引、軍陣ヲ張ニ何事カ、是ニ漏レタル物之侍ラン、 真実ニ目モアヤナル秘術也、見ルニ擁テ神通ヲ得タリ、老翁ノ云ク、此事ヲ深致二信心ム軽忽ニスル事ナカレ、(中 ウ チ シ タ カ へ ヲ 略)張良悦ヒ婦テ高祖ニ奉教授、高祖忽ニ武性ヲ顕ス、秘術ヲ悟リ玉へリ、何一人当千ノ名誉ヲ得、奉エ討-随 ν世 玉へリ﹂というところからも読みとれるように、所持者の必勝不敗および治国平天下を約束するという兵法秘術と しての由緒・伝統を踏え、厳島合戦直前に書写したものと考えられる。陶氏と断交した毛利氏は、既に天文二十三 毛利元就と「張良か一巻之書J(岸田) -355一ω 年六月五日の安芸国佐西郡折敷畑合戦において宮川甲斐守の率いる陶氏軍に勝利していた。元就はその後も臨戦体 制の整備・強化を進めるが、それらを合わせて考えると、厳島合戦直前のこの時期にこの一巻書を書写するにあた っては、既にその由緒・伝統が生み出す価値を十分に評価していたのではないかと推察される。そして、厳島合戦 に勝利し、大内氏を討滅して以降、寸張良か一巻之書﹂を引き合いに出し、隆元・元春・隆景の三兄弟の結束が築 きあげたまさに寸如今﹂き実績と比較し、﹁張良か一巻之書﹂の極意はそこにあると評価し、兵法秘術そのものよ りも、コニ家之秘事﹂、三兄弟の結束が重要であることを説いたのである。現実の合戦での勝利によって所持する ﹁張良か一巻之書﹂の価値は確信されるところとなったのであり、三兄弟の結束こそそれにもまさること、そして 寸子共迄之守﹂と、くりかえし機会をとらえて説いたのである。 それによって三兄弟の結束は堅固なものとなり、より一層一族や家臣の統制を進め、それが安芸国衆を求心化さ せたのであり、毛利氏の﹁国家﹂主 H 戦国大名としての地位はいよいよ強化された。そうして、この﹁三家之秘 事 L は、毛利氏の統治の奥義、秘伝としての性格を有するものになったと言ってよい。 奥書によれば、毛利隆元は、永禄四年(一五六一)四月にこの一巻書を書写しているが、その直前の三月二十六 日から閏三月六日まで、元就とともに小早川隆景から新高山城に招かれ、安芸国衆の熊谷信直・平賀広相・天野隆 重、備南国衆の渡辺・渋川・有地らも同席し、懇切な接待をうけている(﹃毛利家文書﹄四
O
三 ) 。 そ れ は 、 出 雲 国 富田城の尼子氏攻撃のため出陣する直前のことであった。 そして前述したように、永禄十一年に元就は小早川隆景への返書において、緊迫した軍事情勢に留意して人心掌 握等にていねいに対応することが肝心であるとし、それが﹁張良か一巻之書﹂にまさると、この一巻書を引き合い に出して説いている。尼子氏を降伏させたのが永禄九年のことであるから、三家の結束の実績はさらにあがり、そ の効果のほどはほとんど疑うところのない説得力に充ちたものであったと思われるが、領国の東部、西部、そして -356一 龍谷大学論集南の四国におりる緊迫した軍事情勢下において、それに対応するため再びこの一巻書を引き合いに出したのである。 史料上の初見の弘治三年(一五五七)から一二年目のことであるが、肝心な事柄はくり返しくり返し述べるという のが元就の性格であるとはいえ、このことは、均馬仙翁千午将軍張良師伝一巻書の価値の高さを指摘するとともに それを周知せしめ、それによってそれを極めて有効な比較材料として、兄弟の結束がもたらした家の発展という現 実の実績と対比させて用い、一族結束の意識をいよいよ高揚させ、毛利氏の﹁国家 L 支配の中枢を強化していくと ころにそのねらいがあったと考えられる。 お わ
り
毛利氏は、室町時代には吉田惣領家対庶子家麻原氏を軸に対立抗争がくり返されたが、惣領豊元が大内政弘に属 して麻原氏を追放している。また元就は、大永三年二五二三)に家督を相続した直後に弟相合元綱を殺害し、享 禄二年(一五二九)に兄興元の正室の実家である高橋氏を滅ぽい、天文十九年(一五五O
)
には井上元兼一族を諒 伐し、天文十九年には元春が相続した吉川氏の前当主興経父子を殺害し、沼田小早川氏をも相続することになった 隆景に対抗する重臣らを粛清するなど、家中内外において荒療治を行っている。そして、天文二十年に起こった陶 隆房の大内義隆殺害事件に与同して安芸圏内において勢力を拡大し、天文二十三年には﹁国家﹂宣言を行って陶晴 賢と断交し、弘治元年(一五五五)には厳島合戦で勝利し、つづいて大内氏を討滅する。 ところが、毛利氏﹁国家 L 樹立以後においては、元就は、三兄弟の結束の重要性を説くとともに、元春・隆景は 家督の隆元の下知に従うべしとし、隆元を頂点とする権力中枢の秩序を明確にし、それまでの風潮、いわば下魁上 はまかりならぬと断じたのである。それは﹁国家﹂形成期における根本的な課題であり、具体的にはいわゆる三子 教訓状に負わされた﹁家を保 L 役割であったが、それが上すべりしないためにたえず引き合いに出したものが、厳 毛利元就と「張良か一巻之書J(岸田) 円 z t p h u q屯 U島合戦直前の天文二十四年八月に書写した均馬仙翁千午将軍張良師伝一巻書に依拠した寸張良か一巻之書にもまし 候へく候、如今三家無二に候者﹂という論理であり、それによる現実の実績に訴えることであった。所持する﹁張 良か一巻之書﹂の伝統的価値と現実を比較することによって、三家の結束は強固な意識を注入され続けたのである。 それでは、こうしたあり方を子孫はどのように受付とめたのであろうか。 宗瑞(輝元)は、慶長十八年(一六一三)十二月に在江戸の毛利秀元・福原広俊に宛て長文の自筆書状を認め、 二十歳になる嫡子秀就へためらいや用捨のない訓諒を行うよう依頼するなかで自身の少壮時代を回顧し、﹁十一に ( 元 就 ) て親にはなれ、十三にて島根陣へ被否寄、罷出候市、日頼様御そはに相詰、十九ニ成候まて、御そははなれす御 奉公申て候、終ニ人鉢達毛頭不仕、よくもあしくも日頼様御意うか﹀い、ほうそんをおき、親子之問、是こそう へなし之振舞なと h 被思召候ハんこと不仕候、日頼様御折樟者、内々大形ならぬ事ニ候つる﹂﹁我等事、日頼 様余御折櫨候上ニ、隆景元春さし合種々異見達被申、はや此分にてハ身上続ましきなと﹀存ほとの事、幾重も候つ る﹂などと述べ(﹃毛利家文書﹄一一五七)、元就、そして小早川隆景・吉川元春らによる自身への﹁人幹﹂教育が きわめて厳しいものであったことを語っている。輝元は、こうしたなかで元就らから﹁張良か一巻之書 L に つ い て も訓詩を受けていたと考えてよかろう。 江戸時代に入るが、翻刻した一巻書は、元和九年(一六二三)八月に﹁輝元﹂が書写したものである。毛利氏は、 関ケ原の戦いのあと防長両国に移封されていたが、大坂の陣も終わって政治的にやや安定した状況にあった。 関ケ原の戦いのあとも西国大名にとって国制上における豊臣家の存在は大きかった。しかし、大坂夏の陣直前の 慶長二十年(一六一五)四月十四日に毛利氏は、宗瑞(輝元)、嫡子秀就をはじめ、秀元、元鎮、元倶、吉川広 ( 元 就 ) 家・広正、宍戸元続ら一族一二名が、寸日頼様守御書置之辻、各無二ニ申談、対毛利御家不可存別心之事﹂など、 元就の遺訓を守って結束をはかっていくことを三ケ条に認め、熊野牛王宝印二枚を継ぎ、その裏を反して神文と傘 o n u F 町 υ
句 。
龍谷大学論集連判形式に署判し、誓約している(﹃毛利家文書﹄一
O
三八)。大坂の陣という極めて不穏な情勢のなか、毛利氏家 中は、佐野道可(宍戸元続の弟内藤元盛)の大坂城入城事件もあって大きく動揺していたが、ここに至って徳川氏 を支援する方針を立て、こうして一族が結束したのである。大坂城落城後に毛利輝元は徳川家康から佐野道可の件 を問いつめられるが、道可父子を自刃せしめて釈明し、危機を乗り切っh
。 それは、輝元にとってはもちろんのこと傘連判に署判した一族一二名にとっては、元就が説諭した 8 結束。がも たらした極めて大きな実績として意識されたと考えられる。元就がいわゆる三子教訓状で﹁末世之事候問、其段ま てハ及なく候 L としながらも﹁孫之代まても、此しめしこそあらまほしく候 L とし、同添状で﹁子共迄之守たるへ く候﹂としたことは、死没後四十五年を経ても毛利氏の精神的支柱、最高の指針としてその役割を果たしたのであ る。毛利氏﹁国家 L 形成期における元就の努力は、後世においても十分に功を奏したといえる。元和九年八月にな って輝元がこの一巻書を書写したことは、そうした歴史的経緯を踏まえて考える必要があるように思われる。 そして注目すべきことは、その直後の元和九年九月十日には、秀就が萩城に入城し、宗瑞から家督を譲り受ける 儀式が行われていることであふ。宗瑞は、体調を崩しており、この年の将軍秀忠、家光の上洛には吉川広正を名代 として派遣し(同一四二O
てその二年後の寛永二年(一六二五)に七十三歳で死没している。 輝元は、この一巻書を書写するにあたって、秀吉の死から大坂の障に至るまでの天下の動乱、家中では吉見広長 の出奔や熊谷元直の訴伐事件、そして佐野道可事件による不協和音などを乗り切って、元就が説いた﹁張良か一巻 之書﹂にまさる一族の結束という大義を再び取り戻し、秀就に家督を譲与できる喜びをかみしめていたのではない かと思われ品。そしてまた自らが書写することによって、その精神が将来の世代へ継承されていくことを強く願っ ていたと思われる。そしてそれは、官頭に指摘したが、藩主毛利宗広が元文六年こ七四ごに﹁当家累代相伝極 一世一度可披見、此外全不可開之、右古来書伝如此、今度改而書直者也 L と し た よ う に 、 秘兵書、嫡子為家督之上、 毛利元就と「張良か一巻之書J(岸田) -359一時代状況は変わったものの、藩主によって確認をくりかえしながら伝えられていたのである。 元就が厳島合戦直前の天文二十四年八月、隆元が尼子氏攻め直前の永禄四年四月、輝元が秀就に家督を譲る儀式 直前の元和九年八月という、いずれも毛利氏が直面した政治的軍事的に緊迫した重要な時期にこの均馬仙翁千午将 軍張良師伝一巻書を書写していることには、そうした事態に際して、所持者の必勝不敗および治国平天下を約束す るという秘法に依拠し、権力中枢の秩序を明確にし、また兄弟・一族の結束をはかることによって、毛利氏﹁国 家﹂の支配体制を意識的にも実態的にも整備・強化しながらその一大事に取り組もうとしたところに歴史的意義を 見出すことができる。 註
ω
毛利博物館が一九九三年(九月五日i
十月十一日)に開催した特別展の図録﹃大名の遊戯と噌み﹄に臼杵華臣氏が ﹁ 毛 利 氏 伝 来 の 兵 書 に つ い て L と題して紹介している(四四頁)。また、一九九七年に放映した NHK 大河ドラマ﹁毛 利元就 L の最後に付けた﹁元就紀行﹂の第三二回﹁兵書を学ぶ L ( 八月十日放映)で広く紹介した。このミニ番組は、 中園地域・瀬戸内海地域の戦国時代史像を学術的に発信したものであるが、放送後に全五O
回をビデオ化している(岸 田 裕 之 監 修 ﹃ 元 就 紀 行 ﹄ 、 NHK ち ゅ う ご く ソ フ ト プ ラ ン 、 一 九 九 八 年 ) 。ω
これについては、岸田裕之編﹃毛利元就と地域社会﹄(中国新聞社、ニOO
七年)の第一部第 1 章の岸田﹁境目の盟 主・毛利元就の﹃国家﹄づくり﹂にまとめている。ω
﹃ 国 史 大 辞 典 ﹄ 6 ( 吉川弘文館)の﹁紫震殿 L 項ならびに同 5 の﹁賢聖障子 L 項。なお、慶長年間に造営された紫震 殿は寛永十九年こ六四二)ころ仁和寺に移されて金堂とされたこと、狩野孝信筆という賢聖障子七r r
も 同 寺 に 伝 え られたことが記されている。私は、ニOO
九年二月五日に京都国立博物館で開催中の特別展覧会﹃京都御所ゆかりの至 宝﹄を見学した。そのなかに寛永十八年(一六四一)に仁和寺金堂として移築された慶長年間造営の紫震殿にそなえつ けられていた慶長十八年二六一三)に狩野孝信が制作した現存最古の賢聖障子(絹本著色)一一十面が展示されていた。 -360一 龍谷大学論集正面に一対の松、その聞に獅子と狛犬、その図の右方に十二名、左方に二十名の賢聖がならんでいたが、現在の紫笈殿 の状態から考えて各賢聖の上方に賦されるのが通例の銘を記した色紙形は遺存していなかった。しかし、寛文年間造営 の同二年(一六六二)に狩野探幽が制作した賢聖障子について、弟子の小方守房(のち福岡藩絵師)による縮図写一枚 (紙本淡彩)が残されており(福岡県立美術館所蔵)、あわせて展示されていた。その巻末には寸此銘依懇望書付畢、 (花押)禁中紫震殿、賢聖之写、依所望図之、寛文二年寅極月日狩野探法印筆小方守房写﹂とあり、賢聖三十二 名についてそれぞれ上部に人物名が付記されている。それによれば、張良は向って右の十二名のうち七番目に配されて いることが知られる(図録一七八
i
一 九 五 頁 のm
-m )
。ω
唐門には、麟麟、龍、虎、獅子、孔雀、鶴など動物(想像上の蹴麟も含む)たち、それと組み合わされた牡丹、松、 竹などの植物も見られるが、この四人の人物の彫刻はなかでも材の厚みが大きい(﹁黄石公﹂などは厚さが六0
センチ メ ー ト ル ほ ど あ る ) 。 唐門の屋根替、塗装替工事は、昭和五十三年四月一日に着手し、同五十五年三月三十一日に竣工している。京都府教 育委員会﹃国宝本願寺唐門修理工事報告書﹄(昭和五十五年三月)には、これら彫刻の彩色等の特徴について述べたう えで、唐門の建立時期について、第三章﹁調査事項﹂の第一節﹁本願寺唐門の建立時期﹂の四﹁建築上からみた唐門の 移建﹂において、次のように記されている。 上述のように文献上からは、唐門が元和三年暮の火災に焼砂残った御影堂門を、元和四年に現在の場所に移し たものである可能性が高い。それでは唐門の建築そのものに、このことがどのようにあらわれているであろうか。 ﹃秘録﹄によると、扉の上の孔雀の彫刻は移建前のものである可能性が高い。そう思ってみると、唐門の彫刻 はその技法・表現からみて、大きく二種あることがわかる。 ( 中 略 ) 要するに、唐門の建築自体は元和火災前の規模形式を伝えており、主要部を含む大半の部材もそのまま用いら れているとみなしてよかろう。そして慶長期の唐門を表現するにその彫刻の代表のようにとりあげられたのが ﹁扉の上の孔雀﹂であるとすると、現在それをかすませてしまうほどの迫力のある他の彫刻群は、慶長期には未 だなかった、とすべきであろう。とすれば、慶長遠忌から元和火災までの聞に後者の彫刻を付けるほど大きな模 毛利元就と「張良か一巻之書J(岸田) -361一様替を必要とする大きな行事が知られていないのであるから、後者の彫刻は元和火災後の造営事業のなかで、書 院群の正式の門、それもおそらくは﹁御成門﹂として位置づけられた時に付加されたものと考えるのが自然では な い か と 思 わ れ る 。 ( 沓 ) ク ツ