旧制長崎高等商業学校における教育 と成果
一 明治 ・大正期を中心 として ‑
松 本 陸 樹 ・大 石 恵 *
旧制長崎高等商業学校 におけ る教育 と成果 一 明治 ・大正期を中心として‑ 235
Abstract
NagasakiCommercialHighSchool(NCHS)wasestablishedin 1905andturnedoutabout2,300graduatesintheMeijiandTaishoeras. Inthisarticle,Somecharacteristicsofitscurriculumsandgraduates' jobsareshown.Firstly,bydiscussingcurriculumsinNCHSandother nationalcommercialhighschools,itbecameclearthatNCHSmadeef‑ fortstomakeitscurriculumsequallymatchthoseofTokyoandRobe CommercialHighSchools,andthatNCHS,ontheotherhand,gavefor‑ eignlanguagelessonsspecializinginChinaandtheSouthAsia.Second‑
ly,itwastriedtoinvestigatethegraduates'courseintheeras.Although itwasimpossibletocollectcompletedata,somefeatureswereascer‑ tained.First,mostofthegraduatesgotjobsintheenterprisesand bankswhoseheadquarterswereinJapan.Second,aboutlo鋸 ofgradu‑
ateswentontohigherschools(imperialuniversities,TokyoCommer‑ cialUniversityorgraduatecourseofNCHS)in1920'S.
Keywords:NagasakiCommercialHigh School;Curriculums;Jobs afterGraduation
は じ め に
明治期 における商業学校制度は,1884(明治17)年の 「商業学校通則」 に よって創設 された。 この通則は中等教育機関 としての商業学校を制度化 した にすぎなかったが,商業学校を 「第一種」 と 「第二種」の 2つの課程 に分け た点で興味深い。 この うち,「第‑種」が小学中等科卒業,年齢15歳以上の 者を入学 させ,修業年限
2
年の教育を施す課程であったのに対 し,
「第二種」の方は初等中学科卒業の年齢16歳以上の者を入学 させる修業年限3年の課程
*
本稿は,大石 (長崎大学経済学部第44回卒業)が 自らの構想を具体化す る過程で松本 がそれに協力するという形で執筆 された共同論文である。執筆分担は,「は じめに」およ び 「1長崎高等商業学校の沿革」が松本,以下は大石である。但 し,「おわ りに」は共 同執筆 であ り,また全体 について表記な どは 2人で調整 した。なお,本稿では,引用文 をも含め原則 として新字体に統一 した。であった。前者が中等教育機関であったのに対 し,後者は後の実業専門学校 に繋 がるものであ った。 したが って,旧制高等商業学校 (以下,高商)の法 制度上の源流 をここに兄いだす ことが可能である。
それか ら15年後の1899(明治32)年 には 「実業学校令」 (明治32年勅令第29号) が発令 された。同令 は,それまでは商業 と農業 に関 しての通則が作 られたに すぎなかった実業学校を統一的規定に よって運営す ることを 目的 とするもの であった。その第一条 には 「実業学校ハ実業二従事 スル者二須要ナル知識技 能 ヲ授 クルヲ以テ 目的 トシ兼テ徳性 ノ滴養二カムへキモ ノ トス」 と詣われ, また同第二条では 「実業学校 ノ種類ハ工業学校農業学校商業学校商船学校水 産学校其 ノ他実業教育 ヲ為ス学校及実業補習学校 トス」 と述べ られている。
すなわち,実業学校 とは,工業 ・農業 ・商業等の実業 に従事する者に対 して 必要な教育を施す機関であ り,またその種類 としては工業学校 ・農業学校 ・ 商業学校 ・商船学校 ・水産学校,及び実業補習学校 とい うことである。
高商の歴史 を振 り返 って見た場合, この実業学校令の発令は大 きな意義を 有 していた。 と言 うの も, この ように して実業学校の制度が整備 されると, 例 えば後述す る 「高等商業学校」(「東京商業学校」)の ように1890年代頃か ら 欧米の商業教育の影響を受けなが ら次第 に高度な専門教育を行 う実業学校が 登場 して来 るようにな ったか らであ る。そ して, 1903(明治36)年 には専門 学校令 (同年勅令第61号)の発布 とともに実業学校令 が改正 され,「実業学校 ニシテ高等 ノ教育 ヲ為 スモ ノヲ高等専門学校 トス」「高等専門学校二関シテ ハ専門学校令 ノ定ムル所二依ル」 とい う規定が盛 られ,実業専門学校なる制 度類型が高等教育に加 えられた。 こうして,実業専門学校 とい う制度類型の 1つであ り,中学校卒業者 に専門教育 を施す高等教育機関 として,高商が制 度上位置付け られるに至 った 1。
ここで,個別の高商の歩みを見 よう。まず森有礼が私設 した 「商業講習所」
1 以上の記述では,とりわけ次の文献に依拠した。文部省編 『学制百年史』(記述編 ;質 料編),帝国地方行政学会,1972年O仲新監修 『学校の歴史』第一法規出版,1979年,第
3巻,第4巻。
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が,「東京商業学校」に改称 された後 の1885(明治18)年 に文部省 に移管 され, さ らに1887(明治20)年 には 「高等商業学校」 に改称 された。 同校 は,商業 についての高等教育を行 う我が国最初の教育機関であ り, したがってまた我 が国におけ る最初の高商であった。 その後,後述 す るように1902(明治35) 年 に神戸に も高商が設立 されるに至 り,その年 に 「東京高等商業学校」へ と 更なる改称 を行 った。周知の ように同校 は,1920(大正9)年 に 「東京商科 大学」へ と発展 し,後 に一橋大学 となる。
次いで設立 された高商は,「大阪高等商業学校」である (但し,官立ではな く,大阪市立)。 同校の前身は1880(明治13)年 に設立 された 「大阪商業講習 所」であ り,いわば東京 に次 ぐ我が国二番 目の商法学校であった。その後, 1889(明治22)年 には,市制特例による大阪市制の発足 に伴 い,「市立大阪商
業学校」へ と発展 し,1901(明治34)年 には 「市立大阪高等商業学校」へ と 昇格 した。 その後1928(昭和3)年 に 「大阪商科大学」へ と発展 することに なる。
官立 として第 2番 目に設置 されたのは,「神戸高等商業学校」(1902[明治
35]年)である。同校 は1929(昭和4)年 には 「神戸商業大学」へ と昇格す る。
そ して,上述の ように1903年 における専門学校令の発布 とともに実業学校 令が改正 され,制度上 も高商が高等教育機関 として認知 されると,官立の高 商の設立が相次いだ。 まず,1905(明治38)年 には官立 としては第 3番 目と
なる高商が山口と長崎 に設置 されることになった。以後,官立の高商 として は,以下の各高商が続 いた (かっこ内は設置ないし開校年)0 「小樽高等商業学 校」(1910[明治43]年),「名古屋高等商業学校」(1920[大正9]年),「福 島高
等商業学校」(1921[大正10]年),「大分高等商業学校」(1922[大正11]年),
「彦根高等商業学校」(1922[大正11]年),「和歌 山高等商業学校」(1922[大 正11]年),「横浜高等商業学校」(1923[大正12]年)
,
「高松高等商業学校」(1923[大正12]年),「高岡高等商業学校」(1924[大正13]年)0
また,旧外地で も官立の高商の設立がみ られた。1919年 に 「台北高等商業
学校」 と 「台南商業専 門学校」 が設 立 された。 そ して後者 は,1926年 に至 り
「台南高等商業学校 」 と改名 され 台湾 に2つの高商 が併存 した。 しか し, ま もな く 「台南 高等商 業学校 」 は 「台北 高等商 業学 校 」 へ移管 され 「台北 高等商業学校 台南分校 」 と改名 されたが (1929年), その翌年 には分校廃 止 に 至 った。 この ほか に も, ソウル には 「京城 高等商業学校」 が,また大連 には
「大連高等商業学校」 が設置 された。
さて, こうした官立 の高商 は戦時下 の1944年 に旧外地 の高商 も含 め経 済専 門学校 と改称 され (一部は工業専門学校を併設),敗戦 を迎 えた。 そ して, 内地 で は1947(昭和22)年 制 定 の学校 教育 法 (昭和22年法律第26号)に よ り, かつ ての専 門学校 令 や高等学校令 ,大学令 は廃 止 され2,2年後 の国立学校 設置 法 (昭和24年法律第150号)に よ り,各経 済専 門学 校 は新制 大学 として歩 み 出
す に至 った。
他方 , 旧外地 の経済専 門学校 のその後 を辿 るな らば, 日本統 治 か ら解放 さ れた後 に 「台北経済専 門学校」 が台北 帝 国大学 の跡 を継 いだ台湾大学 に,ま た 「京城経済専 門学校 」 が京城帝 国大学 の跡 を継 いだ ソウル大学校 にそれぞ れ統合 された。 ただ,「大連経済専 門学校」 は廃校 とな った。
ところで,高商 に関 して今 日多 くの研究者 や高商 の後 身た る大学の関係者 等 が関心、を持 つの は,高商 が収集 して きた資料 ・文献 についてであ る。 とい うの も, とりわけ植 民地等 に関す る膨 大 な資料 を体 系的 に各高商 が収集 して きた とい う事 実 が存在 す るか らであ る3。 更 に,高商 各校 は研究 や資料 収集 の面 で地 域 に特化 す る傾 向にあ る と言 われて お り4,各校 の特 色 を考 え る上 2 前述の 「実業学校令」そのものについては,その後幾度かの改正を経て,1943(昭和
18)年の中等学校令 (同年勅令第36号)によって廃止された。
3 「おおづかみに言って,旧制帝国大学よりも,旧制商科大学及び旧制高等商業学校で, 植民地等に関する体系的な資料の収集が行われていた」(飯島渉 「旧制横浜高等商業学校 収集資料について」 Ⅴペー ジ 〔『横浜国立大学経済学部附属貿易文献資料センター所蔵旧 制横浜高等商業学校収集資料目録』2001年,所収〕)と言う指摘は決して誇張ではない。
4 この点について井村哲郎氏は,「たとえば山口高商では 『満州』,朝鮮,『支那』を,小 樽高商はシベリア,長崎高商は,『南支那』,南洋というように研究や資料収集の面で地 域に特化したところもあった」と記している。ただ,そのうえで 「日本との関係が深か
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で極めて興味深い。
概 して,旧高商の後身である各大学では,程度の差は大 きい ものの高商時 代の資料の整理 ・活用 を進め, 目録 を刊行 し,公開 しているのみな らず, 各大学 の蔵書検索 システムや総合 目録 デー タベ ース
www
検索サー ビス (NACSISWebcat)で検索可能にしているケース もある5。その結果,そ う した資料については, これまでに多 くの研究蓄積があ り,かつ現在 も研究が 続 け られてお り,現在では所蔵資料 とい う面 か らも,各高商の特色や傾 向った中国東北 (『満州』)については, どの旧制高商で も収集を行なっていたようである」
と述べていることも付言 してお く。井村哲郎 「国際シンポジウム 『中国東北 と日本 :質 料の現状 と課題』報告」『環 日本海研究年報』第12号,2005年2月,106ページ,参照。
5 この点は重要であるので,やや詳 しく述べておこう。 旧高商の後身である各大学では, 主に経済学部図書館 (分館) と附属施設 (名称は様 々であるが)を中心に して高商時代 の資料 を所蔵 している0 1965年 にアジア経済研究所が国内の主要各機関の協力を得て当 該資料の所蔵状況を調査 し,その後その調査結果を一連の 『目録』の形で刊行 したが, そこに網羅 されたのは概 して各大学の図書館が所蔵する文献が中心であった。そこで, 各高商の後身はその附属施設が所蔵する図書について別途 目録を作成することとなった。
実際,当該文献 を附属施設が所蔵 していないような一部 の大学 を除 くな ら,すべての大 学はそうした 目録を1980年代にはば刊行 し終 えた。
ただ長崎大学経済学部での取 り組みは きわめて遅 かった。 ようや く1989(平成元)午 になって,本学部の同窓会である社団法人竣林会か らの助成 を得て,当該文献の整理及 びその 目録作成に向けての準備作業を開始 した。その後,『長崎大学東南アジア研究所所 蔵 戦前期文献 目録 (旧植民地機関刊行物編)』を内部資料 として作成 したが,公刊する ような体裁 は欠いていた。 とはいえ,それを前提 にして他大学か らは大幅 に遅れなが ら も1993年 よ り松本 と江頭絶代美助手 (当時) とによって旧植民地関係資料の 目録を,上 記のアジア経済研究所 による分類に準拠 しつつ,また刊行機関に関する詳細な解説文 を つけて本学部の 『経営 と経済』誌上に順次掲載するに至 った。それは次の通 り。「長崎大 学東南アジア研究所所蔵 旧植民地機関等刊行物について (1)台湾編」『経営 と経済』第73 巻第2号1993年9月,「同(2)朝鮮編」『経営 と経済』第73巻第4号,1994年3月,「同(3) 満州国 ・関東州編 (上)」『経営 と経済』第74巻第3号,1994年12月,「同 (4)満州国 ・ 関東州編 (下)」『経営 と経済』第74巻第4号,1995年3月。
しかし, この計画は最終的には一冊の冊子体 目録 として刊行することを前提 としてい たにもかかわ らず,途中で中断することとなった (『経営 と経済』誌上での 目録掲載 も上 記のように第4回で終わった)。その理 由はい くつかあるが,最大の理 由は時代の要請が 冊子体 目録か らweb上での検索へ移行 した と言 う点である。現在は,長崎大学東南アジ ア研究所独 自のデータベース としての公開を前提 にして,国内機関の刊行物の 目録 も遡 及入力を続けてお り,いずれweb上で公開出来 る日が来 るであろう。ただ,その場合書 誌情報q)みの公開であ り,『経営 と経済』誌上で掲載 した詳細な解説文の ようなものは, 必要な らば研究論文な りの形で別途発表することになろう。
な りは多少 とも明 らかにな りつつある6。
むろん,高商が戦前の教育 において果た した役割な どについては教育史の 視点か ら多 く論 じられてきた し,個別の高商 に関す る研究 も行われるように なった7。 したが って,各高商の特色 な り,各地域 で果た した役割な どはむ しろこうした分野において こそ次第 に明 らかにな りつつあると言 えよう。た だ,教育史の分野では概 して学歴主義や試験な どいわば社会史的枠組みの中 での研究が主流であ り,高商の教育課程その ものや卒業生の進路 にまで立ち 入 って論 じた ような研究は決 して多 くはなかった し,更にそ うした手法 によ り個別の高商の特色や傾向を明 らかにす るような本格的研究 となると極めて 少ない8。
本稿は,長崎高商 の明治 ・大正期の教育課程 と卒業生の進路を主に 『長崎
6 概 して,旧高商の後身の大学では,専任の教員あるいは附属施設に事実上専属する専 門的な職員により,当該施設が所蔵する図書の紹介 ・分析な どを主に当該大学の紀要な どで行 って きた。 さらに,例えば今年度の 日本台湾学会 (第7回学術大会,2005年6月 4日,天理大学)で 「旧高等商業 におけ る旧植民地関係 コレクシ ョンの形成 と現況 一 台湾を中心に ‑ 」なる分科会が設定 されるな ど,近年学会 レベルで こうした問題が扱 われるようになった ことは注 目すべきであろう。
7 例 えば,天野郁夫 『近代 日本高等教育研究』玉川大学出版部,1989年,同 『旧制専門 学校論』玉川大学出版部,1993年は,高商 についての専著ではないが,高商の位置づけ や高商が果た した役割な どについて多 くの事実を指摘 している。また,高商の入学者や 卒業生の各校別の人数,そしてまた高商全体の卒業生の簡単な進路等については,山田 浩之氏の手による 「日本教育史統計データベース」(http://www.cc.matsuyama‑u.ac.
jp/〜yamada/database/tertiary/kosho/kanritsu/index.html)によって知 るこ とができる。
また,同 じ山田氏による一連の高商関連の研究は教育史的視点に基づ く優 れた研究であ る (中で も山田浩之 「彦根高等商業学校生の社会的属性 一 地方高等商業学校の社会的 機能」『松山大学論集』第10巻第1号,1998年, 4月は出色である。また私立の高商であ るが,同 「戦前 における地方高等教育機関の社会的機能 一 松 山高等商業学校を中心 と して」『松山大学論集』第11巻第5号,1999年12月 も興味深い)0
8 この点で,井揮直也 「大正期における専門学校卒業生の海外進 出に関す る研究 一 山 口高等商業学校の事例 にそ くして」『東洋文化研究』 (学習院大学),第5号,2003年3月 は注 目に値する。 また,関連する研究 として下記の ものがある。酒井真 「明治期高等商 業教育の変容 一 東京高等商業学校,慶鷹義塾 における教育内容の検討を通 して」『教育 学研究紀要』第47巻第 1部,2001年,宋典麗 「く資料〉京城高等商業学校が韓国経済近代 化に果た した役割 ‑ 一九四五年度以前入学者及び卒業者の社会進出状況を中心に」『拓 殖大学百年史研究』第4号,2000年3月,横井香織 「日本統治期の台湾 における高等商 業教育」『現代台湾研究』第23号,2002年7月。
旧制長崎高等商業学校 における教育 と成果 一 明治 ・大正期を中心 として ‑ 241
高等商業学校一覧』に依拠 して検証 し,そのことによって長崎高商の特色な り特質の一面を明 らかにしようとい う試みである。同時に,それは資料 目録 の刊行 とい う点では他の高商の後身 に後塵を拝す るという屈辱に甘んじた長 崎大学経済学部 に とって,ささやかなが らも誇 りうる成果 となろうと自負す
るものである。
1 長崎高等商業学校の沿革
長崎高商の教育課程 を論 じる前にまず,主に 『長崎高等商業学校三十年史』
(1935[昭和10]年刊行[以下,『三十年史』])に依拠 しつつ,長崎高商の明治 ・ 大正期 における沿革をあ らためて確認 しておこう。
長崎高商の設置を定めた法令は,1905(明治38)年 3月28日の勅令第96号 である。そ して同じ年 の6月8日の文部省告示第105号をもって,同校の位 置を長崎県西彼杵郡上長崎村 とし,また同年9月 より授業開始の旨公示 され た。また,同じ6月8日付けの文部省令第8号では同校の 「学校規程」が定 め られている。それによれば,修業年限は3箇年 であ り,また, とくに第二 外国語は 「清語,韓語,猪語及露語 トシ,生徒 ノ志望二依 り其 ノ1ヲ修 メシ ム」 とされている (但し,実際には,早 くも同年8月31日には規則改正を行い,
「第二外国語」については当分の間 「清,韓,猪」の 「三国語」 と定めた)0
さて,先 に述べた文部省令第8号では,同校設置の 目的について,次の様 に述べ られている。「本校ハ実業学校令及専門学校令 ノ定ムル所二拠 り商業 二従フ者二須要ナル高等教育 ヲ施スヲ以テ 目的 トス」 と。そして,定員につ いて も明示 されている。「本校 ノ定員ハ三百六十人 トス」。 しかし,この点に 関 しては,早 くも1908(明治41)年3月9日に定員を480人にまで増加 した。
ただ,修業年限の方 については,同校関係者の側 としては不満であったよ うである。 と言 うの も,当時東京,神戸の両校は予科 1年,本科 3年の4年 制であった。従 って,同校の修業年限が3年であることは,先行する両校に
見劣 りす る感 が否 めな か った らしい。
しか し,授業 時間数 を可能 な限 り増 やすな どして対処 し,3年制 であ りな が らも先 行 す る両校 に匹敵 す る内容 を全 うす る よう努 めた模様 であ る。 それ で も,東京 ・神戸 の両校 と同様 に4年 とい う修業年 限 に したい と言 う望 みは 持 ち続 けていた ようであ るが,先発 の両校 が大学 に昇格 し, また大正以降の 新設 高商 もすべて3年 制 とい う現実の前 に抗 すべ き術 はなか った と見受 け ら れ る (ただ,実業専門学校長会議では例年4年制度延長の要望が提出論議されていた
という)0
さて,最初 の入学 者選抜試験 は1905(明治38)年 7月25日よ り4日間 に渡 り本校 及 び東京 にお いて行 われた。 志願者 は437人 に達 した。 そ して,9月 1日にはその志願者 の中か ら113人 に入学 を許可 し,翌 日に授業 を開始 した。
従 って,今 日言 う ところの後期 セ メス ター か ら関学 したわけであ る9。 この 結果 ,最初 の入学 者 の卒業 はそれ か ら3年 は ど経過 した1908(明治41)年 夏
と言 うこ とにな った (実際,同年7月23日に77名に卒業証書が授与された)0 1906(明治39)年 か らは4月入学 ・3月卒 業 で行 われ る ようにな った。 こ の第 2期 生 についてみれば,入学志願者371人 に対 し入学許可者 は116人であ った。更 に翌1907(明治40)年 の場合 には,入学志願者332人 に対 して入学許 可者 は120人 であ った。 ただ,彼 らとは別 に,「韓 国人 1人」,「清 国人 5人」
に も入学 が許 可 され た こ とが記 録 されて い る (なお彼 らには卒業時には卒業証 書ではな く,「畢業証書」が授与された)100
9 学期の区分については開校当初は春 ・秋 ・冬の3期と定めたが,1911(明治44)年6 月に2学期制に改正し,第1学期を4月1日‑10月30日,第2学期を11月1日一翌年3 月31日とした。
10ちなみに,前年の1906(明治39)年4月には外国人特別入学規程細則が制定された。
外国人入学の事情について,『三十年史』は次のように述べている。「長崎は,歴史的に も地理的にも,朝鮮 ・満州 ・支那等と最も密接な関係を有するので,此点を考慮した本 校は,負笈渡来して高等商業教育を受けんとする彼地学生に対し, (中略)‑・外国人 特別入学規程細則を制定して之を入学せしめ,四十三年三月初めて其の第‑回畢業生を 出した。斯 くして大正四年迄は,毎年数名の畢業を見ることとなったが,其後種々の事 情により,一時支那方面よりの入学者は途絶するに至った。」(同書,28ページ)
旧制 長崎高等商業学 校 におけ る教育 と成果 一 明治 ・大正期を中心 として ‑ 243
さて,1917(大正 6)年 5月には,文部省令第 6号によ り海外貿易科 を設 置するとい う,長崎高商史上大 きな出来事があった。 これは主に同校を卒業 した者を対象にした ものであ り,修業年限を 1年 とした。すなわち,それま での課程が本科 とな り, この海外貿易科はその上 に設置されたいわば専攻科 のようなもの として存在することになった11。 こうした海外貿易科を設置 し た意図について,『三十年史』には次のように記 されている。「大正三年欧州 大戦の勃発以来,我国際貿易は未曾有の進展を示 したので,本校は此情勢に 鑑み,国際貿易乃至国際商業 々務に従事せ しむべ き人材の養成を企画 し,六 年五月 とくに海外貿易の‑科を新設 した
。
」(同書,111ページ)最後 に,昭和初頭にも課程に関する大 きな出来事があった ことを付言 して おこう。即 ち,1929(昭和4)年5月の文部省令第23号により長崎高商の規 程改正を行い,主に中等学校卒業者 を対象 とする貿易別科を新設 したのであ る。新たな規程では 「貿易別科ハ特二支那及南洋貿易二従事セン トスル者二 須要ナル知識技能 ヲ習得セシムル ヲ以テ 目的 トス」 (第57条)とあ り,育成す べ き人材が中国 ・南洋 との貿易に従事する者であることが明記 された。なお, 同科の修業年限は一年 であった。
こうして,昭和初頭の長崎高商には,本科,海外貿易科に加え,貿易別科 とい うあわせて3科が置かれるに至 った。『三十年史』は, こうした状況を 次の ように説明している。「本校は,嚢 に海外貿易科 を設置 して,本校卒業 者又は之 と同等以上の学力ある者に対 し,海外貿易に関する緊要実際的の諸 知識を教授するに至ったが,更に中等学校卒業者 にして,直ちに海外貿易, 特に支那 ・南洋方面の商業貿易に従事せん とする者に対 し,・・・(中略)‑質 易別科の‑科を新設,極めて短期の問に其教育を施す こととした。本科の設 置は,前述の海外貿易科同様,本校の誇 とする特殊施設の一つであって,戟 国現下の情勢に鑑み,誠に好適の設備である
。
」(同書,196ページ)11 この点に関 しては,同科の規則の次の ような定めに留意 すべ きであろう。「入学 ヲ許可 スへキ者ハ本校卒業者又ハ之 卜同等以上 ノ学力アルモ ノ トス但シ本校卒業者以外 ノ者 二 在 リテハ成績考査 ノ上入学 ヲ許可スルモ ノ トス相当 ノ学 力ア リ ト認 メラレタモ ノハ選修 生 トシテ聴講 ヲ許可スル コ トアルへシ。」(『三十年史』11ト112ページ)
2
教育課程 とその特色本節では,長崎高商における教育内容をカ リキ ュラムの面か ら検証 してみ よう。以下では,同校に設置された本科,海外貿易科,貿易別科の各カリキ ュラムを調査 し,それぞれの学科の特徴を考察する。なお,本稿の分析対象 はあ くまでも明治 ・大正期であ り,昭和期に設置 された貿易別科 に関する言 及は最小限に留めている。
2‑1 本 科
長崎高商設置当初,同校には3年制の本科のみが開設 されてお り,初期は 中等学校 出身者を念頭に置いたカ リキ ュラムで教育活動 を行 っていた12。そ の内容をま とめた ものが,表 1である。 この表か ら長崎高商の特徴や傾向を 論 じるべ く,以下では,他の高商のカ リキ ュラム と比較検討 してみよう。
まず,長崎高商 と同年 に関学 した山口高商のカ リキ ュラム (表2)と比較 することか ら始め よう。表 1・2を見比べるな らば,毎週の授業時数,開講 科 目とも類似 していることが分かる。ただ,第二外国語に関 しては両校で差 違 が見 られた。長崎高商の場合,既 に述べた ように 「韓語」13,「清語」14,
「猫逸語」の3言語が選択可能であったが,山口高商は 「韓語」
,
「清語」のみであった15。 この点は,山口高商が開校当初か ら中国 ・朝鮮半 島で活躍す
12 入試 お よびカ リキ ュラムで商業学校 出身者への配慮がなされ るようになったのは, 1913(大正2)年以降であった。例 えば,第1学年のカ リキ ュラム中に 「中学出身者」
および 「商業学校 出身者」用の科 目 ・授業時数が明記 され,中学 出身者 に対 しては 「商 業学,商業実践」や 「簿記,計算学」が,商業学校出身者 に対 しては 「国語漢文」,「物 理,化学」,「博物」などの科 目が課 された。
13 日韓併合 (1910[明治43]年)以降,『長崎高等商業学校一覧』中の表記が 「朝鮮語」
に変更 されている。
14 中華民国建国 (1912[大正元]年)以降,『長崎高等商業学校一覧』中の表記が 「華語」
あるいは 「支那語」に変更されている。
15 やがて,1911(明治44)年2月の文部省令第7号で,中国大陸における ドイツの 「商 業的発展 に応ずる為」 (『山口高等商業学校沿革史』〔以下 ,『沿革史』 と表記〕1940年刊 行,588ページ),第二外国語の選択肢に 「猫逸語」が加えられた。
旧制 長 崎 高 等 商 業 学 校 に お け る教 育 と成 果 ‑ 明治 ・大正期を中心として ‑ 245
表 1 長 崎 高 商 の カ リキ ュラ ム と毎 週 授 業 時 数
<明治期 >
(1)開校当初のカ リキ ュラム
科目 学年 1学年 2学年 3学年
英語 10 川 10
第二外 国語 * 3 3 3
工業大意 3
商業実習
商業算術 2 2 1
商業地理 3 3
商品学
書法及商業文 2 2
倫理 1 1 1
経済学 3 4
簿記 4 2 2
民法商法 3 3
体操 3 3 3
合計 35 35 35
(2)1909(明治42)年4月改訂のカ リキ ュラム
科目 学年1学年 2学年 3学年
英語 10 10 10
第二外 国語 * 3 3 3
工業大意 3
商業学 3 5 10
商業実践
商業算術 2 2 1
商業地理 2 3
商品学
書法及商業文 2 2
倫理 1 1 1
経済学 2 2 3
財政学
簿記及計算学 3 3 3
法学通論,民法商法 2 2 2
体操 2 2 2
[備考]*第二外 国語の選択肢 に関 しては,表4を参照 されたい。
[出所] 『三十年史』12‑14ページ,『長崎高等商業学校一党』 (自明治43年4月至 明治44年3月), 20‑21ページ よ り作成。
る実務家の育成を念頭 に置いていた ことを示 してお り
1 6
,きわめて興味深い。16 山 口高 商 の初 代 校 長 ・松 本 源 太 郎 は , 当時 の文 部 大 臣 ・久 保 田譲 か ら同校 の教 育 方 針 として4ヶ条 を指 示 され た。 そ の うち の 1つ が 「本 校 の 卒 業 生 は成 るべ く満 韓 地 方 の 実 業 に従 事 せ しむ る 目的 を 以 て教 育 す る こ と」 (『沿革史』578ペ ー ジ) で あ り, 当時 の 日本 政 府 の 指揮 下 で 山 口高 商 が東 ア ジ ア地 域 へ の進 出 に有 用 な人 材 を育 成 す る機 関 として期 待 され て いた こ とを表 して い る。
表2 山 口高 商 の カ リキ ュラム と毎 週 授 業 時 数
(1)開校当初のカ リキ ュラム (2)1908(明治41)年4月改訂のカ リキュラム
科目 学年1学年 2学年 3学年
英語 ll 10 9
第二外国語 * 3 3 3
商業学 3 3 8
商業実習
商業算術 2 2 1
商業地理 2 1
鷹用物理学 2
応用科学及商品学 3 2
書法及商業作文 2 2 1
倫理 1 1 1
経済学 3 3
簿記 3 2 3
民法商法 3 3
体操 3 3 3
科目 学年1学年 2学年 3学年 英語 10 10 10
第二外国語* 3 3 3
商業学 3 5 7
商業実習
商業算術 2 2 1
商業地理及歴史 2 2
応用理学及商品学 2 2 2
書法及商業作文 2 2 1
倫理 1 1 1
経済学 2 2 2
簿記 3 2 2
民法商法 2 2 2
体操 3 3 3
[備考]*第二外国語は,「韓語」,「清語」の何れかを選択。
[出所]『山口高等商業学校一覧』 (自明治39年至明治40年,自明治43年至明治44年)学則,『沿革 史』584‑587ページよ り作成。
次に,長崎高商 に先行 した東京,神戸の両高商の場合 (表3) と比較 して み よう17。すると,以下の点が指摘で きる。第一に,長崎高商では法律系科 目の授業時数,開講科 目が少ない。表 1 (1)に示す ように,長崎高商では
「民法商法」を第 2 ・3学年で各週 3時間開講するのみであったが,例えば 表3 (1)に示す東京高商の場合
,
「国際法」,
「私法」,
「破産法」,
「商事行政 法」の計 4科 目を開講 し, これ らを各学年で週3‑7時間教授 していた。な お,長崎高商では法律系科 目も含めたカ リキ ュラムの改訂を早期 に実施 し,17 東京 ,神戸 の両高商 は4年 制 (予科 1年 ,本科 3年 ) であ り,東京高商 については専 攻部 も設置 されてい たが,特 に指定 しな い限 り, ここでは両高商本科 の カ リキ ュラムを 比較対象 とする。
旧制長崎高等商業学校 における教育 と成果 一 明治 ・大正期を中心 として ‑ 247
1909(明治42)年4月,「法 学 概 論 ,民 法 商 法 」 を 開 講 す る に 至 っ た (表 1 (2), 参 照 )。 と は 言 え , 先 行 し て 開 校 し た 2高 商 と の 格 差 を 埋 め る に は , 授 業 時 数 , 科 目数 と も に 不 十 分 で あ っ た と言 え よ う 。
表3 東京高商,神戸高商の明治期カ リキ ュラムと毎週授業時数
(1)東京高商 (1906[明治39]年) (2)神戸高商 (1904[明治37]年) 科 目 学年 1学年 2学年 3学年
英語 6 6 6
第二外国語* 3 3 3
機械工学 1
商業学 2 7
商業実践 5
商業算術 2 3
商業地理 2 2
商品学 3
商業文 1
商業道徳 1
商業歴史 3
商事行政法 1
経済学 3 3 3
財政学 2
統計学 1
簿記 2 2 1
国際法 2
私法 3 3 3
破産法 1
体操 3 2
蒜盲\‑、‑学年\ 1学年 2学年 3学年
英語 6 6 6
第二外国語 ** 5 5
商業学 5 4 8
商業実践
商業算術 2 2
商業地理 2 2
商品学 2 2
商業文 1 1
商業道徳 1
商業史 3
経済学 4 3 3
財政学 統計学
簿記 3 2
民法商法 4 3 5
破産法 国際法
体操 2 2 2
[備考](1)辛「俳蘭西語」,「西班牙語」,「漏逸語」,「伊太利語」,「清語」,「露語」,「韓語」の中 か ら1カ国語 を選択。
(2)**「清語」,「俳蘭西語」,「猫逸語」,「露語」の中か ら 1カ国語を選択。
[出所]『東京高等商業学校一覧』 (従明治39年至明治40年),25‑26ページ,『神戸高等商業学校一 覧』 (自明治37年5月至明治38年4月),14‑15ページより作成。
第二 に,長崎高商 の英語の毎週授業時数は東京 ・神戸の各高商 より週 4時 間多い10時間に設定 されてい る。む ろん, これには週あた り総授業時数が こ れ らの高商 よ り3時間多い35時間 と定 め られてい ることも影響 しているであ
ろ う。ただ,長崎高商 は3年制 であ ったため4年制 の2校 との格差 を埋め る 必要 があ り,こうした措置 が とられた もの と察せ られる。とい うの も,東京 ・ 神戸の両高商では,予科の段階でそれぞれ週9時間,10時間の英語教育 を行
ってお り18,本科 において長崎高商並 みの授業時数 を確保す る必要性 が低 か った と考 え られ るか らであ る。
第三 に,長崎高商 には歴史系の授業 が全 く開講 されていなかった。 同校で 授業科 目に歴史系 の科 目名 (「経済史」,「世界近世史」など)が登場 す るのは 1923(大正12)年度 以降の こ とであ る。 しか し,東京 ,神戸の両高商では明 治期 か ら 「商業歴史」な る科 目を教授 し,山口高商 において も1908(明治41) 年 のカ リキ ュラム改訂で 「商業地理及歴史」 として商業史教育 を行 うように
な った (表2 ・3,参照)。 これは,上記第二点 と関連 してい る とも推察で き る。つま り,カ リキ ュラムの中で英語 にかな りの授業時数 を割いたため,莱 学 と直結 しない科 目を開講す る余裕 がなかったのではないだろうか。実際, カ リキ ュラムの開講科 目名 を一瞥すれば,長崎高商が よ り実学 に傾斜 してい ることが認め られ,山口高商の ように関連科 目に歴史系科 目を組 み込 まない 限 り授業時間を確保 するのは困難であった と言 える19。
最後 に,長崎高商 におけ る第二外 国語の選択肢 について も言及 しておこう (表 4,参照)。長崎高商では関学以降,第二外国語 を 「韓語」,「清語」,「猪 逸語」,「露西亜語」,「併蘭西語」,「和蘭語」,「西班牙語」,「馬釆語」の8カ 国語の中か ら選定 していた。関学当初,第二外国語 として選択可能だった語 18 神戸高商の予科に関しては,第 1部,第2部ともに英語の毎週授業時数を10時間と定
めていた (『神戸高等商業学校一髪』各年版,参照)0
19 当時,商業学校規定において歴史が必修課目となり,甲種商業学校 (中等商業教育機 関)でも 「商業歴史」の概要を教授するようになっていた。そのため,山口高商では歴 史科目の必要性に鑑み,「商業地理及歴史」として1科目を開設した (『沿革史』587ペー ジ,参照)。
旧制長崎高等商業学校 における教育 と成果 一 明治 ・大正期を中心 として ‑ 249
学は 「韓語」,「清語」,「濁逸語」に限 られていたが,時代 と共に 「韓語」が な くな り,代わ りに 「和蘭語」,「西班牙語」,「馬釆語」 という南方 ・南洋方 面の使用言語に比重が置かれるようになった。 この改訂は昭和に入ってか ら 実施されてお り, 日本の南進政策 との関連性 とい う視点から見 るな らば,檀 めて興味深い現象 と言 える。
表4 長崎高商における第二外国語の選択肢の変化
年度 語 学 韓 語 清 語 猪逸語 露西亜語 俳蘭西語 和蘭語 西班牙語 馬来語 明治38‑41 ○ ○ ○ × × × X 〉く
明治42‑43 ○ ○ ○ ○ ○ × × ×
大正8,9 ○ ○ ○ ○ ○ × × ×
大正11 × ○ ○ ○ ○ × × ×
大正12‑昭和4 × ○ ○ ○ ○ ○ ○ ×
[備考] ×は,当該年度に第二外国語の選択肢 に含まれていないことを示す。
[出所]『長崎高等商業寧校一覧』 (自明治43年4月至明治44年3月,大正8, 9年,大正11年〜
昭和14年の各版),『三十年史』 より作成。
2‑2 海外貿易科
海外貿易科は外地および南洋を中心、に活躍する人材の育成を 目的 としてい たため,植民地事情に精通 した実務家の育成に主眼を置いたカ リキ ュラム と なっていた (表 5,参照)。また,本科卒業生の進学先 としての位置付けにあ ったため, より専門性の高い科 目を教授 していた。そして,選択外国語 とし て 「華語」,「露西亜語」,「馬来語」,「和蘭語」に加え,本科にない 「葡萄牙 語」を選定 していたことは特筆すべ き点であろう。
昭和 に入 ると数度のカ リキ ュラム改訂が行われたが,1933(昭和8)年度 以降,週2時間の 「教練」が加わるものの大 きな改訂はみ られない。そのた め,1932(昭和7)年度をもって当該科のカ リキ ュラムが一応の完成をみた と言 ってもいいだろう。なおこの改訂 に伴い,選択科 目として 「支那通商史」,
「支那社会事情」,「東洋法制」な ど学科設置の 目的に沿 った授業が追加された。
(1)大正期*
表5 海外貿易科のカ リキ ュラムと毎週授業時数
(2)昭和期 **
科 目 授業時数
国際公法 2
国際私法 2
行政法 (特 ニ殖民地法制 ヲ含ム) 2 経済史 (一般経済史,商業史) 3
殖民政策 3
農業大意 2
国際金融 2
海外貿易事情 5
商工経営 2
統計学 (特ニ貿易統計学) 2
衛生学 1
外国語 英語 3
選択 ** 3
科 目 授 業 時 数
第 1学期 第2学期
国際公法 2
国際私法 2 2
貿易経営論 2 2
貿易実務 2 2
国際金融 2 2
貿易政策 2
景気論 2
物価論 2
経済統計 2
東洋経済事情 4 4
海商法 2
外国語 英語 3 3
選択 ** 5 5
選択学科 目**** 4 4
研究指導 不定時 不定時
[備考](1)*研究指導は,カ リキ ュラム外で不定時で実施。
(2)**選択外 国語は 「華語」,「露西亜語」,「馬釆語」,「和蘭語」,「葡萄牙語」の中か ら 1カ国語を選択。
(3)***本表 に掲載 した ものは1932(昭和 7)年度のカ リキ ュラムである。
(4)****選択科 目は,海運,殖民政策, 日本通商史,支那通商史,東洋法制,海事特別 法,支那社会事情等の中か ら毎学期2科 目を選択履修すること。
[出所]『長崎高等商業寧校一覧』 (大正8, 9,ll‑15年度の各版),『三十年史』 より作成。