一八五劇場から見る東アジアの近代文化︵榎本︶
榎 本 泰 子 劇場から見る東アジアの近代文化
は じ め に
筆者はこれまで︑近代以降の中国において西洋音楽がどのように受容されてきたのかに焦点を当て︑主要な音楽家
の事績や音楽学校の創立史︑楽団史などを研究してきた︒その過程で︑音楽分野にとどまらず︑中国の近代文化の形成には上海租界の存在が大きな影響を与えていたことを改めて確認し︑そこに居住していた外国人の文化・芸術活動
の実態に関心を持つようになった︒中国国内においては︑一九世紀半ば以来の上海の繁栄を︑帝国主義列強による支
配と搾取の象徴とする歴史観が存在していたため︑外国人の文化・芸術活動に関する実証的研究は遅れていた︒そこ
で研究上の空白を埋めるべく︑中国人研究者をも含めた共同研究︵
1を開始し︑上海で一五〇年の歴史を誇るライシャ︶
ム・シアター︵Lyceum Theatre︑蘭心大戯院︶に注目して︑公演の実態や文化史における意義などを解明した︒個
別の劇場に特化した研究は︑中国および世界の上海地域研究の中でもおそらく初めてである︒筆者らが編者となって
刊行した﹃上海租界与蘭心大戯院
︱
東西芸術融合交滙的芸術空間﹄︵上海人民出版社︑二〇一五年︶は中国の学術界一八六
で少なからぬ反響を得た︒
一方︑同じ研究グループを基盤として︑日本でも﹃上海租界の劇場文化
︱
混淆・雑居する多言語空間﹄︵大橋毅彦ほか編︑勉誠出版︑二〇一五年︶を刊行した︒そこに寄せられた各分野の研究者の論考は︑上海で上演された演劇・
舞踊・音楽・映画などが同時代の中国各地のほか︑日本やアジアの諸都市︑ヨーロッパやアメリカとも密接にリンク
していたことを明確に示している︒上海は二〇世紀前半においてヨーロッパからアジア︑日本︑そしてアメリカ大陸
を結ぶ航路の主要な寄港地であり︑多くの人とモノが行き交うターミナルであった︒上海を中国の一部として限定的
に考えるのでなく︑東アジアを代表する都市ととらえると︑国家の枠を超えたアジアという地域の中で芸術・芸能・
風俗等が互いに連動している様子が見えてくるのである︒
本稿では筆者がこれまで上海について明らかにしてきた劇場に関わる事柄を︑東アジア地域の一つの現象としてで
きるだけ相対化し︑地域内の他の都市と比較することで新たな意味付けを行うことを目的としている︒今回は主とし
て東京や横浜など︑日本の都市との比較が多くなるが︑西洋芸術の動向︵広がりや伝播のルート︑各地における普及
の実態や特徴︶を世界史的な視野でとらえるための第一歩としてみたい︒
一.西洋芸術の普及と劇場の役割
上海のライシャム・シアターは一八六六年にイギリス人のアマチュア劇団︵Amateur Dramatic Club︶の専用劇場
として建設された︒一八四五年のイギリス租界設置以来︑居留民自身による演劇や音楽の発表会は︑コミュニティの娯楽活動であると同時に︑祖国から遠く離れた地にあって︑自らのアイデンティティを確認する意味合いがあった︒
一つの劇場の建設は︑恒常的な活動を担保する﹁場﹂の構築であり︑建築物そのものが居留民の精神的なよりどころ
になり得る︒ライシャム・シアターは名実ともに上海における﹁西洋芸術の殿堂﹂であった︒
ライシャム・シアターは火災による焼失を経て︑一八七四年に場所を変えて二代目が建設され︑一九三一年にはさ
一八七劇場から見る東アジアの近代文化︵榎本︶ らに場所を移して三代目が落成し︑現在に至っている︵上海中心部の茂名南路に現存︶︒三代目の収容人数は約七〇〇
と中型で︑基本的には演劇用の劇場であるが︑欧州から訪れた歌劇団や芸術家の公演会場としても用いられ︑一九三
四年からは共同租界の市営オーケストラである工部局交響楽団の定期演奏会の会場となった︒この時代になると︑中
国人の社会的地位が向上し︑留学帰りの知識人や上流階級が少しずつ劇場に足を踏み入れるようになる︒つまりライ
シャム・シアターは欧米人居留民の郷愁を慰める場所としてだけでなく︑西洋芸術がいかなるものであるかを中国人
に伝える啓蒙的な役割を担ったのである︒
さらに一九四〇年代︑太平洋戦争開戦によって日本軍が進駐し︑租界から英米人が追放されると︑ライシャム・シ
アターは中国人市民に対してより広く開かれるようになった︒そこには劇場の経営を引き継いだ日本側の思惑︑つま
り戦時中であっても国際都市上海の文化生活が維持されていることを演出したいという意図が隠されていた︒しかし
別の角度から見れば︑英米人がいなくなったことで従来の文化的ヒエラルキーが崩壊し︑西洋芸術が中国人市民にと
って近い存在になったと言うことができる︒日本側は﹁上海音楽協会﹂という団体を設立してオーケストラ︵工部局
交響楽団から﹁上海交響楽団﹂に改称︶の運営にあたり︑中国人聴衆を意識して親しみやすい曲目を選び︑パンフレ
ットも中国語で印刷するなどの工夫を行った︵
2︒︶
日本人にとって上海とは﹁東洋のパリ﹂であり︑一九二〇年代以来洋行せずとも西洋の風俗を体験できる場所とし
て知られていた︒オーケストラやバレエなどの西洋芸術が定期的に上演され︑市民の日常に溶けこんでいる様子は東京の比ではなく︑日本人芸術家が研鑽を深めるのに大きなメリットがあった︒とりわけ太平洋戦争期にライシャム・
シアターの管理運営を引き継いだことで︑残留する白系ロシア人の芸術家らと交流し︑オーケストラやバレエの公演
を共同で制作するという稀な機会が生まれた︒のちに世界的指揮者となる朝比奈隆や舞踊家の小牧正英などは︑上海
での経験を糧に戦後日本の芸術界を牽引したのである︵
3︒︶
上海には欧米人たちの生活空間があり︑そこで展開されるライフスタイルや文化・芸術活動は現地の中国人や日本
人の手本となった︒それでは日本には上海のような場所があっただろうか︒日本人は例えば︑西洋式の劇場がどのよ
一八八
うなものであるかをどこで知ったのだろうか︒
上海租界と同様な条件を持つ場所を日本で探してみると︑まず挙げられるのは横浜である︒江戸時代末期︑ペリー
艦隊の来航を受けて開国に踏み切った日本は︑下田・箱館のほか神奈川・長崎・新潟・兵庫︵神戸︶の開港と江戸・
大坂の開市を決めたが︑神奈川のかわりに開港されたのが横浜であった︒一八五九年に開港した横浜は江戸︵東京︶
に最も近く︑新たな市場を求める各国の貿易商人らによって急速に繁栄した︒貿易港・外国人居留地としての横浜の
歩みと︑上海租界の歴史は多くの共通点がある︒上海と横浜は一九七三年に友好都市提携を結び︑一九八〇年代から
は歴史学者による共同研究も行われてきた︒上海側は上海市档案館や上海社会科学院歴史研究所などを中心とし︑横
浜側は横浜開港資料館や横浜市立大学の研究者らが中心となって︑両都市の形成史の比較研究を行い大きな成果を挙げた︵
至っていない︒そこで次章では︑上海と横浜でそれぞれに行われてきた劇場の研究を突き合わせる目的を持って︑主 4︶︒しかしそのほとんどは居留地の建設や行政・経済の仕組みに関わることであり︑文化・芸術活動の比較には
に横浜側の事象を紹介していきたい︒
二.横浜と上海の共通性
開港直後の横浜にはまず上海からイギリス商人たちがやって来た︒その中にはジャーディン・マセソン︵Jardin Matheson︶商会やデント︵Dent︶商会など︑草創期の上海を代表する貿易会社の人々が含まれている︒これまでの 研究によれば︵
チュア演劇が行われていた︒開港から五年も経たないうちのことである︒上海と比べてみると︑上海は一八四五年に 5︶︑横浜では一八六三年に横浜ホテルでアマチュアによる音楽会などが開かれていたほか︑倉庫でアマ
イギリス租界が設置され︑一八五〇年からアマチュア演劇が行われていたので︑生活が安定し娯楽に意識が向くよう
になるのにやはり五年くらい必要だということがわかる︒
一八六四年には︑横浜を訪れたサーカス団リズレー︵Risley︶一座が自らの公演のために﹁Amphitheatre︵円形劇
一八九劇場から見る東アジアの近代文化︵榎本︶ 場︶﹂を開設した︒これが日本最初の西洋式劇場だと見なされている︒この劇場は翌年ロイヤル・オリンピック・シア ター︵Royal Olympic Theatre︶と改称したが︑この名前は明らかに︑一八〇六年にロンドンに作られた伝統ある劇
場にあやかったものである︒イギリス人たちは居留地に劇場を建てる時︑しばしばロンドンにある劇場の名を取った︒
上海にもロイヤル・オリンピック・シアターが存在したし︑ライシャム・シアターもロンドンにある劇場の名と同じ
である︒ 上海と横浜は航路で結ばれており︑欧州からやって来た音楽家や歌劇団︑サーカス団などは︑しばしば上海で公演
したあと横浜にやって来た︵途中︑長崎や神戸でも公演を行うことがあった︶︒特に︑一八六九年にスエズ運河が開通
して航路が大幅に短縮されると︑ヨーロッパからアジアを訪れる芸術家が増え始めた︒筆者が上海発行の英字新聞﹃ノ
ース・チャイナ・ヘラルド︵︶﹄を調査したところによると︑上海で音楽会が増え始めるの
は一八七四年からで︑その大きな理由は二代目ライシャム・シアターがこの年に開場したからである︒つまりふさわ
しい劇場があれば興行の計画が立てやすく︑長い旅の目標にもなるので︑劇場の存在こそが世界ツアーの実現に重要
な役割を果たしたのである︒この点については次章でも触れる︒
視点を横浜に戻すと︑横浜で欧米人のアマチュアが最初に喜歌劇を上演したのが一八七〇年九月のことで︑その場 所はチャイニーズ・シアター︵Chinese Theatre︶と呼ばれた﹁会芳楼﹂であった︒演目はギルバートとサリヴァン のオペレッタ﹃コックスとボックス﹄で︑これは日本で上演された最初の西洋歌劇とされる︒会芳楼は横浜居留地内に中国人によって建てられた娯楽場で︑劇場と飲食店を備え︑通常は中国の伝統劇を上演していた︵
6︒上海から貿易︶
商人が横浜に渡って来た時︑彼らの使用人である中国人や買弁も続々とやって来た︒一八七〇年代には欧米人が約八
〇〇人いたと推定されているのに対し︑中国人は約二〇〇〇人とはるかに多い︵
7︒当時中国人が集中して住み着いた︶
地域は︑二〇世紀になって飲食店街として発展し︑現在でも﹁横浜中華街﹂として有名な繁華街となっている︒
上海の居留民が自らの娯楽施設としてライシャム・シアターを作ったのと同様に︑横浜の居留民たちも劇場建設に 取り組んだ︒こうして一八七〇年一二月に開場したのがゲーテ座︵Gaiety Theatre︶である︒この劇場については︑
一九〇 すでに升本匡彦が横浜発行の英字新聞﹃ジャパン・ヘラルド︵︶﹄﹃ジャパン・ガゼット︵︶﹄﹃ジャパン・タイムス︵︶﹄などを調査した詳細な研究︵
8があり︑本稿の記述の大半はそ︶
れに基づくものである︒
ゲーテ座を最初に建設したのはオランダ人商人ノールトフーク・ヘフト︵M. J. B. Noordhoek Hegt︶であり︑彼は 一八六五年に横浜居留地に成立した参事会︵Municipal Council︶の最初のメンバーの一人であった︒ヘフト自身はア
マチュア演劇に参加していたわけではないようだが︑会芳楼が不便であることを劇団関係者に相談され︑もしも劇場
としての経営が困難になった場合は倉庫など他の用途にも転用できるよう設計しておく︑との条件で劇場建設に応じ
たという︒本町通り六八番に建てられた建坪一二五坪の劇場は石造りの平屋で︑約二〇〇人を収容することができた︒
Gaiety TheatreのGaietyとは︑楽しい︑にぎやか︑などの意味であるが︑日本人には発音しにくかったため︑もっぱら﹁ゲーテ座﹂と呼ばれていた︵文豪ゲーテとはまったく関係がない︶︒なおロンドンには一八六九年に同名の劇場が 建てられているので︑横浜の劇場はその盛名にあやかって命名されたもの︑と升本は推測している︵
9︒︶
ゲーテ座はもともとイギリス人中心のアマチュア劇団のために建てられ︑管理・経営もその劇団が行っていたが︑
彼らは二年も経たないうちに財政難で解散してしまった︒毎月メキシコ銀一〇〇ドルの賃貸料を払って劇場を借りな
ければならなかったことが負担になったのである︒市民の代表が協議を繰り返した結果︑一般市民からも広く出資を
募り︑以後は公会堂︵パブリック・ホール︶として演劇以外の用途にも利用することで存続を図ることにした︒この
方式は成功を収め︑以後ゲーテ座は出資者から選ばれたパブリック・ホール委員会が運営することになった︒
居留民の代表︑特に多くの出資金を出した有力者によって当地の娯楽や福利厚生活動が推進されるという方式は︑ 一八六二年に設立された上海娯楽基金︵Shanghai Recreation Fund︶とも共通している︒同年に競馬場の内側に作ら
れた運動場や︑上海クラブ︵一八六四年オープン︶︑パブリック・ガーデン︵一八六八年オープン︶などの建設には︑
いずれも上海娯楽基金が大きな役割を果たしていた︒ライシャム・シアターも初代の焼失後に再建された二代目は︑
やはり市民の出資によって支えられていた︒コミュニティが小さく税収も少ない時代には︑行政が市民の娯楽や福利
一九一劇場から見る東アジアの近代文化︵榎本︶ 厚生を保証することができず︑個人の熱意や善意に頼るところが大きかったのである︒ こうして一八七〇年代前半という同じ時代に︑上海と横浜ではそれぞれ居留民全体の文化・芸術活動を代表する劇場が確立し︑そこで多様な公演が行われるようになった︒ただし︑この時代においてはこれらの劇場に出入りするのは居留外国人だけであり︑現地の人々に対する影響はほとんどなかった︒
三.芸術家の往来と東アジアの音楽市場
本町通りのゲーテ座あらためパブリック・ホールは︑何度かの改修や改装を繰り返したのち︑より広い場所を求め
て山手二五六番・二五七番に移転した︒山手は港から離れた高台で︑外国人のための高級住宅地であった︒新しい劇
場は一八八五年四月にオープンし︑一九〇八年には名称をパブリック・ホールからゲーテ座に戻したので︑升本は﹁山
手ゲーテ座﹂と呼んで初代と区別している︒資金集めや敷地の選定がなかなか進まず︑設計変更を繰り返した結果︑
当初予定していた演劇と音楽それぞれの専用ホールの設置をあきらめ︑多目的ホール一つと集会用の小ホール一つを
中心に建てられた︒多目的ホールの座席数は約三〇〇で︑当初計画の五〇〇よりずっと小規模になってしまった︒と
は言え︑この劇場は一九二三年に関東大震災で倒壊するまで︑居留民の文化・芸術活動の中心となったのである︒
升本匡彦は本町通りゲーテ座︵本稿では初代と呼ぶ︶の建設から山手ゲーテ座︵本稿では二代目と呼ぶ︶の終焉ま での約五〇年間について︑主に英字新聞の記事や広告に基づいた演目一覧を作成している︵
10︒それによれば︑当初こ︶
の劇場はアマチュア劇団の公演のほか︑日曜日の礼拝や競馬クラブ等の諸団体の会合に利用されていたが︑一八七五
年頃からプロによる音楽会や来日歌劇団の公演が多くなってくる︒この変化は先に述べたような︑同時期の上海の動
きと連動していると言えよう︒
実際に︑上海で活躍した音楽家が横浜にも足跡を残している︒早い例として︑一八七五年一〇月に上海で演奏した
ヴァイオリニストのジェニー・クロスは︑翌年一月七日と二五日に初代ゲーテ座で演奏会を開いている︒
一九二 また︑上海工部局交響楽団の前身︑上海パブリックバンド︵一八七九年設立︶で二代目指揮者を務めたメルキオー ル・ヴェラ︵Melchior Vela︶も横浜で公演した経験がある︒ヴェラは元ミラノ・スカラ座のコンサートマスターで︑
夫人のマティルデ︵Matilde MilaniVela︶はスカラ座の第一歌手であった︒筆者の調査によれば︑ヴェラが最初に上
海を訪れたのは一八七九年一二月頃で︑同月二四日の﹃ノース・チャイナ・ヘラルド﹄には︑ヴェラが上海のアマチ
ュア楽団﹁フィルハーモニック協会﹂の指揮者として登場したことが報じられている︒その後一八八一年三月︑ヴェ
ラは夫人と共に﹁イタリア王立座︵Royal Campagnie Italienne︶﹂というグループで来日し︑三月二三日︑三一日︑四
月一一日の三度にわたって初代ゲーテ座で演奏した︒ヴェラのヴァイオリンの腕前は︑日本でも好評を博している︒
上海に戻ったヴェラは︑同年五月に共同租界の行政機関である工部局と契約し︑パブリックバンドの指揮者に就任している︒それから一八九九年に欧州に帰国するまで︑ヴェラは一八年の長きにわたり上海音楽界の発展に貢献した︵
11︒︶
一九世紀末の東アジアに︑航路で結ばれた音楽市場が存在したことを早くに指摘したのは中村理平の労作﹃洋楽導
入者の軌跡
︱
日本近代音楽史序説﹄︵刀水書房︑一九九三年︶である︒中村は欧米各国やアジア各地で新聞や公文書などの一次資料を精力的に調査し︑近代日本の音楽教育に貢献した外国人音楽家の足跡を明らかにした︒また︑すで
に一八八〇年代にはアジア各地の居留地を中心に欧州出身の職業音楽家が存在し︑各地を往来して公演を行っていた
ことを指摘した︒筆者が﹃上海オーケストラ物語 西洋人音楽家たちの夢﹄︵春秋社︑二〇〇六年︶において︑上海租
界初期の音楽界の様子や︑工部局交響楽団の創立史を書くことができたのは︑中村や升本ら先人の研究手法に学んだ
からである︒
ところで中村は︑一八八〇年代の各居留地の欧米系居留民の人口と︑主要な音楽会場を表にまとめ︵
12︑音楽文化の︶
ハード面すなわち劇場に即した考察を行っている︒それによると一八八四年当時四九五〇人と最も多くの居留民を抱
えていた香港では︑シティ・ホールが主要な音楽会場だった︒これはジャーディン・マセソン商会の寄付金を元に一
八六九年にオープンした公共施設で︑内部にはシアター・ロイヤル︵Theatre Royal︶と呼ばれる大劇場のほか︑セ ント・アンドルーズ・ホール︵St. Andrews Hall︶という音楽専用ホールもあった︒一方︑一八八五年に三〇七八人
一九三劇場から見る東アジアの近代文化︵榎本︶ の居留民を抱えていた上海については︑代表的な劇場としてライシャム・シアターを挙げている︒またシンガポール︵一八八四年当時の居留民二七六八人︶についてはタウン・ホール︑横浜︵一八八五年当時一二五五人︶についてはパ
ブリック・ホール︵二代目ゲーテ座︶を挙げている︒居留地としてはずっと規模の小さい神戸︵一八八六年当時四〇
四名︶には体育館劇場︵Gymnasium Theatre︶︑長崎︵一八八五年当時二二二名︶にはパブリック・ホールがあった という︒ 欧州の音楽家や歌劇団がアジア各地の居留地を巡演したのは︑各地に適当な会場があり︑来場する居留民を一定数期 待できたからである︒﹁興行で上げる収入は︑動員観客数とともに上演劇場の収容人員や賃貸料と密接な関係がある︵
13﹂︶
と中村が述べているように︑ある程度収支の見込みが立たなければ大がかりなツアーはそもそも不可能であった︒
横浜の初代ゲーテ座は手狭で設備もあまりよくなかったが︑一八八五年に二代目ができたおかげで︑同年立て続け に二つの歌劇団が来日公演を行った︒一つ目のマスコット歌劇団︵Mascot Opera Company︶は︑中村の調査によれ
ば︑シンガポール↓香港↓上海↓神戸↓横浜↓香港↓上海と巡演しており︑横浜では八月二五日を皮切りに︑九月一
九日まで複数の演目を上演している︒欧州で人気のオペレッタ作者︑ギルバートとサリヴァンの﹃ペンザンスの海賊﹄
﹃乳しぼり女ペイシェンス﹄や︑やはり有名なルコックの﹃アンゴー夫人の娘﹄などである︒二つ目のエミリー・メル
ヴィル歌劇団︵Emelie Melville Opera Company︶は香港↓上海↓神戸↓横浜↓神戸と巡演しており︑横浜では一一 月一〇日から二七日まで複数の演目を上演している︒一連の公演の頭にはビゼーの﹃カルメン﹄を持って来ている︵
14︒︶
マスコット歌劇団と共に来日した上海在住オランダ人ピアニスト︑ギヨーム・ソーヴレー︵Guillaume Sauvlet ︶は︑
歌劇団でピアノ伴奏を務めただけでなく︑ゲーテ座で何度も単独の演奏会を開いた︒ついには歌劇団と別れて日本に
定住し︑一八八六年には実力を見込まれて音楽取調掛︵近代日本初の音楽教育機関︶の外国人教師に就任した︒
一九四
四.日本人が見た西洋歌劇
ソーヴレーのような音楽家が文部省の重視を受け︑いわゆる﹁お雇い外国人﹂として厚い待遇を受けたのは︑この
時代の日本政府が欧化政策を取っていたことと密接な関係がある︒一八八三年に設立された西洋式社交場︑鹿鳴館で
は夜ごと西洋音楽が演奏され︑ドレスを着た男女がダンスを行って欧米の外交官や賓客を接待した︒西洋の猿まねと
いう嘲笑を受けつつも︑日本の文化水準の高さを列強に示そうとしたのは︑不平等条約の改正という大きな目標があ
ったからである︒すなわち一八八〇年代︑横浜のような居留地のコミュニティが成熟してきたのとちょうど同じ時代に︑日本人は主体的に西洋の音楽や舞踊を導入し始めたのだった︒
幕末から明治初期に欧米を視察した政府高官や財界人の中には︑ヨーロッパの歌劇場の壮麗さに驚き︑音楽や演劇
が上流階級の高級な娯楽であり重要な社交の場であることに注目した人々がいた︒日本では歴史的に︑歌舞伎などの
伝統演劇は︑民衆のための卑俗な娯楽という位置付けであり︑上流階級がわざわざ劇場に足を運ぶことはなかった︒
そこで︑演劇界の内部からも︑演目の内容やセリフの改良などの動きが起こると同時に︑格式の高い劇場の建設を進
める気運が生じてきた︒
最も早く劇場の改革を試みたのは︑移転・焼失を経て一八七八年に新規開場した新富座である︒当時まだ珍しかっ
たガス灯を備え︑外国人観客のために二階正面に椅子席を設け︑開場式では軍楽隊が西洋音楽を演奏した︒舞台も︑
従来の四隅を柱に支えられた屋根付きではなく︑今日の﹁額縁舞台﹂に近い一直線にし︑観客にとって見やすいもの
にした︒堤春恵の研究によれば︵
15︑新富座における﹁西洋﹂を象徴する演目は一八七九年九月に上演された﹃漂流奇︶
譚西洋劇︵ひょうりゅうきたんせいようかぶき︶﹄である︒遣欧使節団に参加し欧米での豊富な観劇経験を持つ福地桜
痴が︑新富座の守田勘弥にアイディアを与え︑黙阿弥が書き下ろした作品である︒日本人の漁師父子がそれぞれ漂流
してアメリカ︑ヨーロッパに渡り︑当地で知り合った日本人らと苦難・曲折を経てパリ・オペラ座に集結するという
一九五劇場から見る東アジアの近代文化︵榎本︶ ストーリーだが︑そこで劇中劇として西洋歌劇が上演される︒これを演じたのが︑当時来日していたロイヤル・イングリッシュ・オペラ・カンパニー︵Royal English Opera Company︶ことヴァーノン一座であった︒
堤によれば︑座頭のハワード・ヴァーノン︵Howard Vernon︶はイギリスの植民地であったオーストラリアに生ま
れ︑メルボルンで活躍していた歌手・俳優で︑一八七〇年代に一座を組み︑オーストラリア︑ニュージーランド︑イ
ンド︑中国を巡演し︑上海を経て来日したという︵
16︒升本﹃横浜ゲーテ座﹄では︑一座の名称からイギリスから来た︶
歌劇団としているが︵
17︑そうではなかったことになる︒来日後の一八七九年六月から八月にかけ︑横浜ゲーテ座でド︶
ニゼッティ﹃連隊の娘﹄︑ルコック﹃アンゴー夫人の娘﹄などを一〇回にわたり上演し︑九月に新富座に出演した︒﹃漂
流奇譚西洋劇﹄の劇中劇としては︑これらの作品から一幕ずつを日替わりで上演したという︒
筆者が上海の英字新聞﹃ノース・チャイナ・ヘラルド﹄を調査したところによると︑ヴァーノン一座は来日以前︑
香港での興行を経て上海にやって来︑約三か月間公演した︵会場は不明︶︒ところが両地での収益をめぐってトラブル
となり︑上海でヴァーノンは興行主を相手に訴えを起こしたが︑自身も三人の女性出演者から給料を求めて訴えられ
ている︵
18︒また増井敬二﹃日本オペラ史﹄によれば︑東京・新富座での公演後︑ヴァーノンらは横浜で個別の音楽会︶
に出演していたが︑ヴァーノンとバリトン歌手レオニとの間で契約不履行をめぐる領事裁判が行われたという︵
19︒以︶
上のことから︑華やかに見える興行ではあるが︑必ずしも十分な収益が上がるわけではなく︑分け前をめぐって争い
が生じやすいことが見て取れる︒
ところでヴァーノン一座にとって︑上海や横浜で欧米人相手に演じるのとは異なり︑新富座での上演は初めて現地
の日本人相手に演じる貴重な機会だったはずである︒ところが結果は散々だった︒プリマドンナの聞かせどころに至
るや︑その発声法が鶏を絞め殺すようだとして爆笑を引き起こし︑とうてい喝采を浴びるどころではなかったのであ
る︒西洋音楽を聞いたこともない日本の一般市民にとっては無理もなかった︒客足も遠のき︑当初六週間の契約は途
中で打ち切られ︑新富座の方は二万円以上の損害を出す羽目になった︵
20︒︶
一九六
五.劇場がつなぐ日本と中国
新富座から遅れること一〇年︑西洋式の外観を持つ初代歌舞伎座が建設され︵一八八九年︶︑二〇世紀に入ると有楽
座︵一九〇八年︶︑そして帝国劇場︵一九一一年︶が建設されることになる︒近代日本の劇場建築のメルクマールたる
帝国劇場は︑欧州の歌劇場を思わせる堂々たる風格を誇り︑収容人数も一七〇〇名と破格の大きさで︑西洋の歌劇か
ら歌舞伎までジャンルを問わず何でも上演された︒
ところで二〇世紀初頭の日本には︑中国から多くの留学生が来ており︑明治日本の近代化の手法を吸収し︑祖国の改革に役立てようと燃えていた︒演劇・美術・音楽などの分野でも︑東京で学んだ人々が先駆的な役割を果たしたが︑
それらの留学生を送り出し︑また迎え入れるのが上海であった︒すでに貿易や商業で経済発展を遂げ︑中国人市民に
よる消費社会が出現していた上海は︑古い都である北京とは異なり新奇な娯楽を好む傾向があった︒そこで演劇の改
革も上海を中心に進み︑新しいタイプの劇場も上海に初めて作られることになる︒
一九〇八年に上海・十六舗︵上海旧城東門の外側︶に建設された﹁新舞台﹂は︑欧州と日本の劇場を参考に作られ
た最初の近代的劇場である︒陳凌虹﹃日中演劇交流の諸相﹄は︑演目や演劇人の研究のみならず劇場に着目して日中
両国の比較をしているが︵
21︑それによれば新舞台の新しさとは︑従来型の柱に支えられた正方形の舞台ではなく︑前︶
側を半月形にせりだして柱も取り払い︑﹁額縁舞台﹂に近づけたところにあった︒さらに回り舞台や背景の書き割り・
大道具を備え︑上から雪︵紙吹雪︶を降らせたり舞台に水を流したりすることも可能だったという︒また伝統的な劇
場︵茶園︶では茶を飲みながら芝居を見るため︑座席の間にテーブルが並べられていたが︑それをとりやめて椅子を
並べた︒座席は後ろへ行くほど床の傾斜が高くなるので︑すべての席から舞台がよく見えた︒三階建てで収容人数は
二〇〇〇人と大規模であり︑茶代と観劇料金が区別されていなかった従来のシステムを廃止し︑チケット制を導入す
ることに成功した︒
一九七劇場から見る東アジアの近代文化︵榎本︶ 新舞台では京劇などの伝統劇のほか︑新しい演劇である﹁文明戯﹂が演じられた︒文明戯は︑日本に留学した人々が当時流行していた新派︵壮士芝居や書生芝居を源流とする現代劇︶に影響を受けて作り出したもので︑中国近代劇の最初の形である︵
22︒その先駆となったのは李叔同らが一九〇六年に東京で結成した春柳社で︑翌年﹃巴黎茶花女遺︶
事﹄︵原作デュマ﹃椿姫﹄︶や﹃黒奴䳅天録﹄︵原作ストウ夫人﹃アンクル・トムの小屋﹄︶などを上演し︑日本の
演劇界において一定の反響を得た︒その消息が上海に伝わると︑影響を受けた王鐘声が春陽社を設立し︑一九〇七年
一一月に上海で﹃黒奴䳅天﹄を上演した︵
23︒︶
この︑春陽社の旗揚げ公演の舞台となったのがライシャム・シアターだった︒中国の新しい演劇︵セリフ中心であ
ることからのちに﹁話劇﹂と呼ばれる︶がライシャム・シアターで演じられたのはこれが最初であり︑その後続々と
設立された自由演劇団や新民社などの文明戯劇団もそこを利用した︵
24︒それ以前からライシャム・シアターには︑演︶
劇に関心を持つ中国人が少数ではあるが出入りしており︑外国人の演劇活動に注目していた︒徐半梅の回想によれば
この劇場︵二代目ライシャム・シアター=引用者注︶の音響効果はすばらしく︑舞台上のささやくようなセリフが三
階席まで届いたという︵
25︒こうした優れた効果があったからこそ︑新しい劇を演じるにあたり︑中国人たちはライシ︶
ャム・シアターを選択したのだろう︒
ただし徐半梅は︑当時︵明記されていないが二〇世紀初頭と推定︶の外国人による演劇を﹁我々の生活とかけ離れ た演劇﹂であるとし︑﹁中国の一般の民衆とは関係がなかった﹂と断言している︵
演も︑おそらく高額な賃貸料の関係で単発に終わっており︑ライシャム・シアターの先進的な照明設備や舞台背景が 26︒一九一〇年代の文明戯劇団の公︶
中国人の演劇関係者の耳目を引くにとどまった︒この劇場で連続した話劇の公演が行われ︑一般大衆の関心を集める
ようになるのは一九四〇年代のことである︒太平洋戦争期のライシャム・シアター︵三代目︶は︑前述のように日本
側の管理でオーケストラやバレエの公演が行われていたが︑劇場の稼働率を上げるため︑昼間はしばしば中国人の話
劇団に貸し出されていた︵
27︒︶
以上のことから︑上海では居留外国人による演劇公演が中国人に受け入れられた事実はないが︑劇場というハード
一九八
面においては中国演劇の発展に貢献したと言うことができる︒上海市档案館︵公文書館︶のまとめによれば︑上海で
は一九四〇年代に一二八の劇場があったといい︑そのうち四〇は映画も上映する劇場であるが︑残り八八のうち話劇
専門の劇場はわずかに二軒︑ほかはほとんどが伝統劇︵中国各地の地方劇︶専門であった︵
28︒伝統劇専門の劇場であ︶
っても︑旧来の演目ばかりでなく︑連台本戯︵通しものの芝居を数日から数週間にわたり毎日上演する︶のような新
しい舞台効果を売りにする劇が演じられる場合もあったはずだが︑総じて伝統劇の優勢が明らかである︒その中で︑
話劇専門のライシャム・シアターは存在感を見せていると言えよう︒
六.劇場から見る日本の近代化
近代以降の日本の劇場の変遷を考えてみると︑いくつかの興味深い点がわかる︒まず︑日本が明治維新以来西欧を
範に取る近代化を推し進めたことは周知のとおりだが︑それは演劇︑音楽︑舞踊など︑長い伝統を持つ芸能にも大き
な変化をもたらした︒知識人たちは積極的に西欧の学問・芸術を取り入れ︑それをいかに我がものとするかに精力を
傾けた︒新しい思想に照らしつつ︑﹁遅れた﹂ものを批判する精神は旺盛で︑変革に対する迷いのようなものはほとん
ど見られない︒鹿鳴館での舞踏会が示すように︑急速な変革は時として外形を取り繕うことにとどまり︑内実が伴わ
ないという珍妙な場面を生み出した︒しかしある意味で︑日本の近代化とは︑政治・経済から衣食住などの文化・風
俗まで︑まず外形を整えることから始まったのである︒﹁型﹂さえできれば内実は後から備わってくる︑という考え方
は︑茶道・華道や武道の数々に表れているように︑近代以前から受け継がれてきた日本の伝統的な思考方式であると言うこともできるだろう︒
劇場に対しても︑政府や財界の代表が欧米での視察を通じて歌劇場という﹁入れ物﹂に着目したこと自体︑﹁型﹂へ
のこだわりを見ることができる︒明治末期に次々と建てられた劇場がいずれも西洋式の建築であり︑伝統演劇の本拠
地たる歌舞伎座すらも外形だけは西洋式だったことは︑当時の社会の風潮を如実に表している︒
一九九劇場から見る東アジアの近代文化︵榎本︶ 一方横浜ゲーテ座は︑その建設や運営に日本人がまったく関わっておらず︑一九二三年の関東大震災によって突然歴史が絶たれてしまったため︑その役割を日本の芸能史の中に位置づけることは難しい部分がある︒しかし本稿で紹介したように︑一九世紀後半の欧州を中心とした世界的な芸能市場において︑横浜は極東の一翼を担っていた︒開国間もない当時の日本人がまだ意識していなかったにせよ︑横浜には欧州で人気の演目などが確実に届いていたのであり︑世界の流行と連動していたのである︒ 日本では大正時代に大衆文化が成熟したが︑それは帝国劇場の存在を抜きには考えられない︵
29︒﹁今日は帝劇︑明︶
日は三越﹂という当時の有名な宣伝文句が示しているように︑帝国劇場で観劇をし︑三越百貨店で買い物をすること
が︑知識人のみならず中間層にも浸透した︒帝国劇場ではオペラやシェークスピア劇のような﹁モダン﹂︵ここでは外
国渡来であることを指す︶な演目から︑歌舞伎や日本舞踊など伝統的な演目まで幅広く上演されたが︑それだけでな
く﹁歌劇部﹂を併設して人材育成を行い︑オリジナルのプログラムも制作・上演した︒単に西洋の真似をするだけで
なく︑こうした日本独自の取り組みをすることが︑外来文化を定着させるのに大きな役割を果たし︑西洋式の歌劇の
土着化を促進したのである︒同じ時代に他の劇場を本拠地とした﹁浅草オペラ﹂や︑今日まで続く﹁宝塚歌劇団﹂が
誕生したことは︑現地化された西洋式歌劇が日本の大衆にいかに歓迎されたかを示している︒
一八八〇年代に﹁型﹂から始まった西洋芸術への模索は︑一九二〇年代に至ってようやく日本らしい内実を備えた︒
当初少数のエリートのための知的な刺激だった西洋芸術は︑大衆社会の発展と︑ラジオや映画のような新しいメディアの発達により︑一般市民の娯楽として定着していく︒その需要に応えるために︑舞台の上では演劇や舞踊や音楽の
さまざまな試みが生まれたのである︒
日本人が一九四〇年代にライシャム・シアターでやろうとしたことは︑それまで日本国内で試行錯誤してきた舞台
芸術の制作を︑今度は上海という国際都市で試してみたいという野心の表れだった︒例えば当時上海交響楽団のマネ
ージャーを務め︑バレエ・リュス︵ロシアバレエ団︶の公演もプロデュースしていた草刈義人は︑バレエがセリフを
要さず音楽と身体で表現できる芸術であることから︑﹁将来ロシアン・バレエならぬニツポン・バレエを通じて日本を
二〇〇 主張する可能性も夢ではない﹂と考えていた︵
30︒それは後発国たる日本が︑世界に通用する芸術を創造して欧米先進︶
国に誇示したいという願望にほかならない︒つまり太平洋戦争中の上海における日本の文化工作は︑戦時中の市民生
活をコントロールするための一つの手段という側面のほかに︑一部の芸術家による芸術的野心の追求という側面があ
ったのである︒それは日本の敗戦によって断ち切られたが︑戦後の日本において形を変えて継続され︑小牧正英らに
よる﹃白鳥の湖﹄全幕上演︵一九四六年八月︑帝国劇場︶や︑朝比奈隆による関西交響楽団の設立︵一九四七年四月︶
につながっていく︒
おわりに ︱ 地域単位の文化史研究の可能性
本稿では上海のライシャム・シアターに関する研究を基盤として︑日本の横浜ゲーテ座と比較対照を行い︑両者の
間を行き来した音楽家や歌劇団の事例を追ってみた︒また︑日本と中国におけるいくつかの劇場を取り上げ︑両国の
演劇史上の交流や影響関係について先行研究を元にまとめた︒最後に劇場をめぐるさまざまな事象から東アジアの近
代化の特徴を考察する目的で︑特に日本の文化・芸術が目指して来たものについて論じてみた︒今回︑中国の近代文
化の方向性について大きく論じるには至らなかったが︑将来日本との比較研究を行うことが目標である︒また東アジ
ア地域を論じるからには朝鮮半島を抜かすことはできず︑今後研究を進めることが課題である︒
近代以降の東アジアにおける文化・芸術活動を︑個別の劇場や特定の公演を手がかりとして総体的にとらえる研究
はまだ少ない︒開港場︵居留地︶をつなぐ芸術家のネットワーク︑公演を計画する興行師の存在︑チケット販売のシステムなど︑重要ではあるが依然として不明な点も多い︒﹃ノース・チャイナ・ヘラルド﹄など上海発行の外国語新聞
のデジタルデータベース化が進む今日︑他の居留地で発行された新聞との比較対照が容易になれば︑開港場ネットワ
ークの研究が一気に進むことが予想される︒そうすれば︑西洋芸術がアジアに﹁伝来した﹂という従来の平面的・一
方的な見方ではなく︑アジア各地での受容の実態や地域間の交流などを立体的・双方向的にとらえることが可能にな
二〇一劇場から見る東アジアの近代文化︵榎本︶ る︒国家の枠を越え地域というより広い視野で歴史を検証することで︑文化の流動性や人々の生活に与える影響力の大きさを再確認することができるだろう︒付記 本稿は中央大学特定課題研究費﹁東アジア近代都市文化の比較研究﹂︵二〇一五〜一六年度︶による研究成果の一部である︒
二〇一六年八月に上海社会科学院において行われたシンポジウム﹁文化空間与文化融滙
︱
上海都市文化歴史演進暨蘭心大戯院一五〇周年国際学術討論会﹂での口頭発表﹁従劇場的変遷看中日両国的近代化﹂の原稿を大幅に加筆・修正した︒
注
︵
1︶科学研究費補助金基盤研究︵B︶﹁上海租界劇場文化の歴史と表象
︱
ライシャム・シアターをめぐる多言語横断的研究﹂︵二〇一一〜一三年︶および同基盤研究︵B︶﹁一九四〇年代における上海租界劇場芸術の連続性と他地域への展開の諸相をめぐる
研究﹂︵二〇一四〜一六年︶︒いずれも研究代表者は大橋毅彦・関西学院大学教授で︑メンバーは筆者のほか井口淳子︑趙怡︑
関根真保︑藤田拓之である︒
︵
2︶詳しくは拙論﹁太平洋戦争期の上海における音楽会の記録
︱
上海交響楽団の演奏活動について﹂︵中央大学人文科学研究所編﹃現代中国文化の光芒﹄中央大学出版部︑二〇一〇年所収︶を参照されたい︒
︵
3︶詳しくは拙論﹁日本人が上海の劇場で見た夢﹂︵大橋毅彦ほか編﹃上海租界の劇場文化混淆・雑居する多言語空間﹄勉誠出
版︑二〇一五年所収︶を参照されたい︒
︵
4︶論文集として﹃横浜と上海﹄共同編集委員会編﹃横浜と上海近代都市形成史比較研究﹄横浜開港資料館発行︑一九九五年 があるほか︑﹃横浜と上海 二つの開港都市の近代﹄︵展覧会図録︶横浜開港資料館発行︑一九九三年がある︒
︵
5︶主に﹃横浜もののはじめ考﹄︵改訂版︶横浜開港資料館発行︑二〇〇三年︵改定第三版︶︑一二〇
−一二一頁﹁劇場﹂の項を
参照した︒
︵
6︶前掲﹃横浜もののはじめ考﹄六二頁および﹃横浜中華街一五〇年
︱
落地生根の歳月﹄横浜開港資料館発行︑二〇〇九年︑二〇頁による︒
︵
7︶升本匡彦﹃横浜ゲーテ座
︱
明治・大正の西洋劇場﹄︵第二版︶︑岩崎博物館出版局︑一九八六年︑二四頁︒二〇二
︵
8︶前掲書︑初版は一九七八年︒発行元である岩崎博物館は︑一九八〇年に二代目ゲーテ座の跡地に建てられた︒往時の建築を
模した建物には﹁山手ゲーテ座ホール﹂が併設され︑サロンコンサートなどを開いて当時の雰囲気を偲ばせている︒
︵
9︶前掲書︑三六
−三七頁︒な
お升本はGaiety Theatreと同名の劇場は﹁イギリス国内のみならず︑他の英語国や海外のイギリ
ス人が多く住む地域にも見られた﹂とし︑同書三九頁の注︵
16︶でボンベイ︑シドニー︑ヨハネスブルク︑漢口に加え上海を
挙げているが︑管見のかぎりでは上海にその名を持つ劇場は確認できない︒
︵
10 ︶前掲書︑巻末所載︒ほかに﹁劇・オペラ・オペレッタ題名索引﹂や﹁映画題名索引﹂もある︒
︵
11 ︶榎本泰子﹃上海オーケストラ物語西洋人音楽家たちの夢﹄春秋社︑二〇〇六年︑第二章を参照されたい︒
︵
12 ︶中村理平﹃洋楽導入者の軌跡
︱
日本近代音楽史序説﹄刀水書房︑一九九三年︑六四六頁︒︵
13 ︶前掲書︑六四五頁︒
︵
14 ︶前掲書︑六五二頁および﹃横浜ゲーテ座﹄二一八
−二一九頁︒
︵
15 ︶堤春恵﹁﹃漂流奇譚西洋劇﹄あるいは歌舞伎とメロドラマの出会い﹂﹃交差する歌舞伎と新劇﹄︵近代日本演劇の記憶と文化 4︶︑森話社︑二〇一六年所収︒
︵
16 ︶前掲﹃交差する歌舞伎と新劇﹄一〇〇頁︒
︵
17 ︶前掲﹃横浜ゲーテ座﹄九七頁︒
︵
18 ︶﹃ノース・チャイナ・ヘラルド﹄一八七九年五月一三日および五月二〇日の紙面︒
︵
19 ︶増井敬二﹃日本オペラ史〜一九五二﹄水曜社︑二〇〇三年︑二〇頁︒
︵
20 ︶同右︒
︵
21 ︶陳凌虹﹃日中演劇交流の諸相﹄思文閣出版︑二〇一四年︒第四章第二節﹁劇場研究
︱
近代新式劇場の登場﹂を参照した︒︵
22 ︶文明戯の成立過程や日本との関わりについては飯塚容﹃中国の﹁新劇﹂と日本
︱
﹁文明戯﹂の研究﹄中央大学出版部︑二〇一四年に詳しい︒
︵
23 ︶瀬戸宏によれば︑従来春陽社の演目は春柳社と同じ﹃黒奴䳅天録﹄と見なされてきたが︑近年の研究により︑春陽社の公演
当時︑演目名はすべて﹃黒奴䳅天﹄と表記されていたことが明らかになったという︵瀬戸宏﹁ライシャム劇場︵蘭心大戯院︶
と中国話劇
︱
上海聯芸劇社﹃文天祥﹄を中心に﹂前掲﹃上海租界の劇場文化﹄所収︑一二二頁︑注︵1︶︶︒陳凌虹によれば︑
春陽社と春柳社のそれは上演の意図は同じだが︑脚色が異なるという︵前掲﹃日中演劇交流の諸相﹄一〇〇頁︶︒
二〇三劇場から見る東アジアの近代文化︵榎本︶ ︵ 24 ︶前掲﹃日中演劇交流の諸相﹄二九七頁︒
︵
25 ︶徐半梅﹃話劇創始期回憶録﹄中国戯劇出版社︑一九五七年︑四頁︒
︵
26 ︶前掲書︑五頁︒
︵
27 ︶大橋毅彦︑榎本泰子ほか編﹃上海租界与蘭心大戯院
︱
東西芸術融合交滙的芸術空間﹄上海人民出版社︑二〇一五年の巻末附録﹁蘭心大戯院上演演目一覧表︵一九四一
−一九四五︶
﹂︵趙怡編︶を参照されたい︒また当時の上演状況等については邵迎
建﹃上海抗戦時期的話劇﹄北京大学出版社︑二〇一二年に詳しい︒
︵
28 URLhttp://www.archives.sh.cn/shjy/scbq/201203/︶王慧青﹁上海戯院的演変﹂︑上海档案館信息網︑二〇〇八年四月一日︒
t20120313̲6039.html︵最終閲覧日二〇一七年九月二〇日︶
︵
29 ︶帝国劇場の創立史については嶺隆﹃帝国劇場開幕﹄︵中公新書︑一九九六年︶のほか︑帝劇史編纂委員会編﹃帝劇の五十年﹄
︵東宝株式会社︑一九六六年︶︑﹃帝国劇場開場一〇〇周年記念読本 帝劇ワンダーランド﹄︵東宝株式会社発行・監修︑ぴあ︑
二〇一一年︶を参照した︒
︵
30 ︶榎本泰子﹃上海オーケストラ物語﹄二二八
−二三〇頁を参照されたい︒引用部は﹁舞踊の春︵下︶上海バレエ・リユツスへ
の期待﹂﹃大陸新報﹄一九四三年四月五日︒