客観的帰属論の理論史的考察(二)完
その他のタイトル Dogmengeschichtliche Betrachtungen uber die Lehre von der objektiven Zurechnung (2)
著者 山中 敬一
雑誌名 關西大學法學論集
巻 45
号 1
ページ 1‑76
発行年 1995‑04‑30
URL http://hdl.handle.net/10112/00024617
客観的帰属論の理論史的考察口完
︹ 論 説 ︺
目 次 一 は じ め に ニオーストリア民法における違法性連関の理論の展開 三ドイツ民法における規範目的論の展開 四ドイツ刑法における客観的帰属論の展開
m一九世紀における﹁帰属﹂の概念
②ラーレンツの客観的帰属論︵以上前号︶
③ホーニッヒの客観的帰属論︵以下本号︶
④ヘルムート・マイヤーの客観的帰属論
③ ハ ル ト ヴ ィ ッ ピ の 帰 属 論 固エンギッシュの行為の危険と危険実現の構想 五オーストリア刑法における違法性連関の理論の展開 客
観 的 帰 属 論 の 理 論 史 的 考 察 口 完
①オーストリア刑法における﹁構成要件特殊的違法性﹂の理論
②オーストリア刑法における初期判例の展開
③オーストリア刑法における﹁危険性連関論﹂の展開
④ 判 例 の そ の 後 の 展 開 固 小 活 六 七
0年代のドイツ刑法における客観的帰属論の展開
①ロクシンによる客観的帰属論の展開
②ロクシンの規範の保護範囲の理論
③シューネマンの客観的帰属論
④ ル シ ュ カ の 帰 属 論 固ヤコプスの客観的帰属論の基礎 七 ま め
と
山 中
敬
リッヒャルト・ホーニッヒは︑
( 2 1 8 )
論文を公刊し︑その中で︑刑法における客観的帰属論を展開した︒ラーレンツの帰属論の哲学的考察とは異なり︑
( 2 1 9 )
ホーニッヒの考察は︑意識的に︑﹁一切の哲学的基礎を横に取りのけて﹂︑﹁客観的帰属の概念を一切の哲学的見地と
一九
年のフランクの古稀祝賀論文集において﹁因果関係と客観的帰属﹂という三0
一般的法理論の一般に承認された原則から演繹する﹂ことを目指した点に︑その特徴がある︒
一九
0六年に︑グラーフ・ツー・ドーナは︑その論文﹁相当因果関係論に関する論稿﹂において︑相当因
果関係論については︑﹁因果的考察はすでに終わり︑結果の帰属可能性について判断すべき別の種類の考察方法に逸
︵ 碑︶
脱している﹂と述べ︑また︑ザウアーも︑
それはもはや因果関係ではなく︑そこでは︑それとは﹁全く異なった種類の︑目的論的に基礎づけられ︑規範的・法
( 2 2 1 )
的に方向づけられた問題﹂が論じられていると位置づけていた︒この当時すでに︑相当説が条件説にかわって有力化
しはじめており︑﹁法学においては︑たんに因果関係そのものの認定のみが問題となるのではなく︑むしろ︑
( 2 2 2 )
法秩序の要請に対応する︑行為と結果の間の関係の特殊性が論じられる﹂べきものと認識されはじめていたのである︒
ホーニッヒによれば︑﹁因果判断に︑その他の別の独立の判断として客観的帰属に関する判断が加わるのであり︑そ
( 2 2 3 )
の判断は︑法秩序にとっての因果関係の重要性を︑法秩序自体により与えられた基準に即して下される﹂のである︒
このように︑ホーニッヒにおいては︑客観的帰属論は︑すでに法的因果関係としての相当因果関係説が意味していた
ものを︑明確に︑因果の問題ではなく︑その法的・規範的観点からの限定の問題であると捉えられ︑この点が考察の
すで
に︑
は独
立に
︑
( a )
ホーニッヒの帰属の意義と出発点
(3)
関法
第四五巻第一号
ホーニッヒの客観的帰属論
一定
の︑
一九ニ︱年のその著書﹃刑法の基礎﹄の中で相当因果関係説を支持しつつ︑
こう
︒
ホーニッヒの帰属論の基本原理ーー'﹁客観的目的可能性としての帰属論﹂
ホーニッヒは︑結果の帰属につき判断する原理を明らかにするのであるが︑これを箇条書きの形にしてまとめてお
︵ 磁︶
①帰属判断は︑結果が関係していく出発点として︑専ら意思表示の意味における人間の行為を前提とする︒
②第二に︑結果の概念についても︑法的観点から決定される︒それは︑法益侵害やその危殆化である︒
③意思表示の意味における人間の行為の本質を正しく評価することによって︑因果連鎖の中のその他の無数の因子
の中から﹁起因﹂となるものを選ぴ出すことができる︒結果の意思表示への関連性が客観的帰属の概念によって特徴
づけられるのであれば︑帰属判断の内容は︑人間の意思表示の目的論的起因性にかかっている︒その意味での人間の
( 2 2 5 )
行為は︑人間がその目的を自然事象への干渉によって実現する手段である︒
④﹁まさに自然事象への目的的な干渉が人間の行為の本質をなすのであれば︑客観的目的可能性
(o bj ek ti ve Zw ec kh af ti gk ei t)
が︑
廷
g果の帰属にとっての基準であり︑したがって︑偶然の事象からの区別にとっての基準でもあ
( 2 2 6 )
る︒かくして︑目的的に設定されたと考えられうる結果が帰属可能なのである﹂︒
⑤客観的帰属によって︑いまだ行為者の行為や結果に対する責任の問題が解決されたわけではない︒たんに﹁客観
的見地から判断されるべき︑行為の結果への目的論的関連性の可能性に関する判断﹂を問題にしているにすぎないの
︵ 四︶
⑥この判断の基礎としての﹁行為者の現実の知識や意欲﹂は問題ではないが︑﹁その潜在的能力﹂は問題である︒
客観
的帰
属論
の理
論史
的考
察口
完
であ
る︒
( b )
出発点となっている︒
点が置かれることになる︒
第 四 五 巻 第 一 号
相当説のように︑結果が誰にとって予測できるのか︑行為者か客観的観察者か︑それとも最も洞察力のある人間かと
いう争いは︑客観的帰属論においては︑その余地がない︒その争いが︑予測可能性の問題がその本質上理論的な問題
であり︑したがって様々な立場を許すからだという点に還元されうるのならば︑結果の帰属可能性にあっては︑行為
︑
︑
︑
︑
︑
︑
︑
︑
︑
︑
︑
︑
︑
︑
の客観的目的可能性という包括的な実際的な問題が重要である︒一定の目的の達成可能性を判断するには︑事実のあ
らゆるモメントが本質的であり︑したがって︑相当説のように﹁一般化﹂が重要ではなく︑事案の一回性に判断の重
⑦決定的なのは︑つねに︑事実的なものであり︑それはたとえ個別の事例における事象の経過が極めて異常なもの
︵ 磁︶
であってもそうである︒例えば︑雷の日に丘に送り出すという周知の事例において︑重要なのは送り出した伯父にと
り︑雷に打たれるというのが︑純然たる偶然なのか︑伯父が雷という自然の力を利用したといえるかどうかである︒
それは︑その時期につねに雷が丘に落ちていたし︑それが繰り返されることが予測できるかにかかっている︒
⑧﹁予見可能性﹂や﹁予測可能性﹂の概念によって︑結果に対する行為者の客観的関係の中心が構成されるのでは
なく︑ただ︑因果経過の﹁支配﹂の概念によるのである︒因果関係の概念を用い︑帰属の問題であるとしない限り︑
本質的なものを曖昧にしてしまうのであり︑ここでは︑ラーレンツがいうように︑﹁一定の因果経過の可能性ではな
( 2 2 9 )
く︑意思によるその支配﹂が問題なのである︒
⑨これによって︑客観的帰属概念の導入は︑実際的な観点から正当化されたように思われるが︑その概念は︑範疇
的な法概念として︑法が専ら行為の精神的基礎としての意思に向けられていることによって正当化される︒法は︑人
間の意思に働きかける命令や禁止によって人間の行動を統制するが︑その際︑人間に期待されうるもののみを要求す 関法
四 四
(4)
ヘルムート・マイヤーは︑ ( a
) ヘルムート・マイヤーの客観的帰属論 ラーレンツの客観的帰属論と異なって︑ホーニッヒの場合︑確かにヘーゲル哲学からは距離を置いて︑実際的な帰
属論を展開しようとしている︒しかし︑その帰属論には︑﹁人間の意思﹂が中心とされ︑﹁客観的目的可能性﹂とは︑
結果の人間の意思による﹁支配﹂を意味していた︒それは︑
なかったということができる︒確かに︑客観的帰属論は︑その名称を用いる限り︑.因果経過や結果の﹁支配﹂ないし
﹁予見可能性﹂の観点から完全に解放されることはないであろう︒しかし︑それは︑﹁人間の意思﹂による主観的支
配よりも︑因果関係論が目指したように︑﹁客観的﹂な支配︑﹁客観的﹂な連関を求める方向に進むべきである︒
論﹂を展開した︒
意思で支配する可能性をもっていたときに︑結果を起因者としての意思に帰属する︒この帰属判断は︑正確な因果的
知識ではなく︑実践的生活経験の意味における因果判断を含み︑意味無内容な因果関係の中から重要な︑意思に帰属
(C )
五
五
( 2 3 0 )
る︒したがって︑﹁人間の力の範囲内にあり︑人間に可能であると思われる行為のみが期待されうるのである﹂︒この
ようにして︑法命題の立場からも︑﹁結果にとって因果的な人間の行為は︑それが結果の惹起や回避に関して目的的
( 2 3 1 )
に設定されたと考えられうる場合にのみ︑法的に重要である﹂という結論に至るのである︒
ホーニッヒの客観的帰属論の評価
マイヤーの帰属連関中断論 いまだ﹁主観的﹂な基準を中核とする帰属論の域を越え
一九五三年のその教科書の中で︑ラーレンツとホーニッヒに引き続いて﹁客観的帰属
マイヤーは︑次のようにいう︒﹁われわれは︑行為者の代わりになる平均人が︑事象の経過をその
客観的帰属論の理論史的考察口完
第四五巻第一号
( 2 3 2 )
できる連関を際立たせる﹂︒この判断は︑主観的帰属可能性︑
さて
︑
関法
一切の者が︑その者によっ つまり責任とは独立の判断である︒その際︑
によれば︑﹁結果の起因者は法的意味においては人間の意思のみである﹂︒
で惹起してはいないというのである︒﹁これに対して︑たんなる過失の共働の場合には︑
...L. ノ
六
マイ
ヤー
マイヤーによれば︑﹁人間の意思にとって何らかの程度に予測可能な︑すなわち︑全くありえないというのではな
( 2 3 3 )
い結果が行為の構成要素として妥当する﹂︒この予測可能性は平均人の能力という客観的な基準で測られるのである
が︑もちろん︑個々の行為者にとっては︑たまたま特別の知識をもっていたとき︑例えば医師の知識などによって拡
マイヤーは︑相当因果関係説をまさ大される︒これは︑相当因果関係説の折衷説の判断基底に関する基準であるが︑
︵ 四︶
にこの﹁行為者の特別の知識﹂を考慮しえない理論であると批判する︒つまり︑それは︑相当性を﹁たんなる客観的
可能性﹂と解するのであり︑異常な因果連鎖の事例を排除しようとすれば︑事件の具体的な条件を無視しなければな
らないのである︒そこでは︑﹁この種の行為が一般にそのような結果の惹起を助勢したかどうかが基準なのである﹂︒
刑法においては︑行為者が具体的な条件のもとで考慮しえた事情︑すなわち︑被害者の特異体質を考慮しえたとき︑
因果関係が異常であるからといって当罰性を否定できない︒そこで客観的帰属論が採用されるべきなのである︒
マイヤーは︑次に︑﹁正犯者の完全に帰属可能な故意による行為は︑決して同時に背後者の行為であると見
( 2 3 5 )
なされてはならない﹂という﹁遡及禁止﹂論の命題を展開する︒背後者は︑故意行為者の行為を決して惹起犯の意味
て設定された条件に対して︑惹起者として責任を負う﹂︒過失共犯の不可罰性は内部的に根拠づけられる︒﹁たんなる
過失的所為に対する一切の刑罰は︑もともと責任の最外部に位置するものである︒行為が故意行為者の処罰によって
贖罪される場合には過失関与者を処罰する必要性はない︒他方では︑行為を同時に正犯者の意思行為であり︑背後者
七
︵ 七
のそれでもあるとみなすことは不可能である︒このような概念上の不可能は︑因果的ドクマの支配の時代には﹁因果
関係の中断﹂という不幸な表現で表された︒しかし︑ここでは︑因果関係ではなく︑﹁責任連関または帰属連関﹂が
( 2 3 6 )
問題なのであり︑そのような連関は十分に中断されうるのである︒
マイヤーの帰属論の評価
この
よう
に︑
マイヤーの﹁帰属連関の中断論﹂は︑処罰の必要性から根拠づけられている︒ナウケは︑これを﹁正
( 2 3 7 )
義概念から流れ出る論証﹂であり︑﹁刑事政策﹂的なものであるとする︒ナウケによれば︑﹁法秩序には︑その行為を
( 2 3 8 )
故意によって惹起した第二の行為者が責任を問われうる場合︑十分なことがなされた﹂のである︒しかも﹁結果犯の
ゆえの可罰性が︑第三者によって故意的に惹起された刑法上禁止された結果に対するあらゆる過失によって設定され
た予備条件に拡大されるならば︑1ここでは︑市民の自由としてのー法的安全性が危険にさらされる︒遡及禁止
の否定は︑⁝⁝警察・検察の捜査活動の範囲にとっては極めて重要である﹂︒さらに︑ナウケは︑
( 2 3 9 )
防の観点からも︑第一の行為者を過失致死罪として処罰することは意味がないという︒そして︑この遡及禁止論は︑
条件説に対する批判として発展された客観的帰属論に位置づけられるのである︒
ヘルムート・マイヤーの客観的帰属論は︑遡及禁止論をその︱つの内容とし︑それを処罰の必要性論から根拠づけ
た点にある︒それをさらに強調して︑﹁刑事政策的帰属論﹂を展開したのが︑ナウケであった︒このような帰属論の
側面は︑目的論的帰属論の考察方法においてすでにその萌芽が見られたところであったが︑マイヤーとナウケにおい
てこの点が強調されたのであり︑これが︑後にロクシンの帰属論の刑事政策的側面につながって行くのである︒
( b )
客観
的帰
属論
の理
論史
的考
察口
完
一般予防•特別予
第四五巻第一号 一九五七年に公刊されたハルトヴィッヒの﹃帰属論﹄は︑批判的・理論史的考察の部分と自らの理論構成の部分と
( 2 4 0 )
から成り立っている︒理論構成の部分では︑ハルトヴィッヒの究極の目的は︑帰属論によって新たな﹁刑法体系の萌
芽﹂を作り上げることにあることが示される︒これについて︑ハルトヴィッヒは︑次のようにいう︒﹁帰属概念は︑
法には不可欠の結合概念である︒それによって︑それは︑刑法体系の萌芽となる︒そこでは︑法のすべての個々のモ メントが︑結合させられる︒この概念は︑したがって︑必然的に︑因果概念とは異なって︑曖昧模糊として違いをな
( 2 4 1 )
くしてしまうことのない意味での全体的考察に至るのである﹂︒これは︑具体的に何を意味するのであろうか︒ハル
トヴィッヒは︑この一
00
年から一五0
年の一般的帰属論の意味を振り返ってみると︑その客観的側面である因果関 係論と主観的側面である責任能力論とに分化し︑それが︑﹁価値から自由な﹂構成要件や︑回顧的にこの構成要件に 価値判断を加える違法性︑それに︑行為者個人の観点からこれらの構成要件や違法性に同じく回顧的にもう一度価値 判断を加える責任という刑法体系の展開に導いた︒このような因果的な体系は︑﹁累進的な段階的判断﹂と﹁回顧的 な﹂判断とから成り立つ﹁直線的﹂なものである︒ここでは︑帰属の判断は︑惹起に関する判断である︒帰属とは︑
惹起を意味するにすぎないことになる︒﹁因果関係と帰属の概念には︑二つの全く異なった考察方法が結びつけられ
︑︑
︑︑
ている︒帰属の概念の意味を直線的に累進・回顧的に把握することは不可能である︒帰属の概念には︑図で表すと︑
法︑法王体︑法事象という三つの点が︑相互関係の中で結合させられる円として表象されうる別の考察方法が結び付
( 2 4 2 )
けられる﹂︒帰属論は︑個々の構成部分の意味が常に全体に対するその意味を意識して明らかになるというように構
(5)
( a )
ハルトヴィッヒの全体的考察方法としての帰属論 ハルトヴィッヒの帰属論 関法
ノ\
八
さて︑それでは︑どのようにして︑この事象に主体が関係させられるのであろうか︒この問いに答えるために︑よ
り詳細に問いを立て答えを考えると︑次のようにいうことができる︒
①なぜ違法な事象が汝に帰属されるのか︒なぜなら︑それが生じないことが汝の法的義務だからである︒
②いつ違法な事象が汝に帰属されるのか︒汝が︑それを意欲できたと限りで︑それを意欲したとしたら︑それを回
︵初
︶
避でき︑方向転換しえたであろうときである︒
客観的帰属論の理論史的考察口完 そして︑それは︑事象と人格の関係の問題となる︒ らであり︑それ自体評価だからである︒
九
九
( 2 4 3 )
ハルトヴィッヒの因果的考察方法の批判には︑目的的行為論による批判が用いられている︒不法と責任を分離する
ことが不可能であるということは︑決定規範と評価規範その順番については明確でないはないがーからの複合
体たる法は︑少なくともその行動を統制する能力をもつ人間にのみ向けられうることによる︒ハルトヴィッヒによれ
ば︑構成要件が価値中立的であるともいえない︒そもそも構成要件は︑当罰的な不法である行為を記述したものだか
︵ 祖︶
ハルトヴィッヒによれば︑帰属の問題は行為と結果を結合することにある︒行為と結果とがそもそも分離できるこ
とは︑行為とは本来何かという独特の見解から導かれる︒行為を全体と捉える目的的行為論とは異なって︑
ヽレ
ト
ノ
︶
ヴィッヒは︑結果を目的とされた事象︑世界における出来事であるとみなし︑行為とはそれに対する手段であるとみ
る︒したがって︑行為とは意思の道具であり︑主体の道具である︒それは︑ハルトヴィッヒが﹁目的構造﹂
( 2 4 5 )
︵2 4 6 )
(U
m'
zu
'S
tr
uk
tu
r)
と名づけるものを表す︒そこでは︑行為と結果との非因果的な結合が求められているのである︒ 想されるのである︒これが︑全体的考察方法である︒
現代の客観的帰属論は︑その名称においては︑あらゆる帰属基準を総括するものとして︑﹁客観的帰属﹂論という て共通性をもっとはいえるかもしれない︒
この
よう
に︑
ハルトヴィッヒの帰属論は︑刑法体系を再構成し︑それを分析的・因果的方法から全体的・目的的・
規範的方法へと転換を図る意図をもったものであった︒その意味では︑それは︑まさにラーレンツが目指した目的論
的帰属論の方向をよりいっそう推し進めたものだともいうことができる︒
ロクシンやオットーというある意味でのハンプルク学派に︑
( 2 5 2 )
のかは︑興味深い研究テーマではあるが︑ハルトヴィッヒの帰属論は︑帰属論が︑全体的考察方法において構成され
る傾向をもつことが否定できないという︱つの証左ではあろう︒しかし︑現代の客観的帰属論が︑すべて︑全体的考
察方法を採用しているわけではない︒それは︑
( b )
ハルトヴィッヒの帰属論の評価
第四五巻第一号
ハルトヴィッヒの帰属論がどの程度影響を与えている ハルトヴィッヒは︑この①と②の答えの関係について︑﹁違法な事象は︑主体がそれを回避できたであろうときに︑
その主体に帰属されうるという命題によって︑帰属の問題は︑その一般的輪郭において詳細に記述された﹂ことにな
( 2 1 8 )
るという︒かくして︑法義務が帰属の主要原理であるとされる︒﹁帰属の法的根拠は︑操縦そのものの事実ではなく︑
( 2 4 9 )
操縦が法義務のもとに立つとの法的事実である﹂︒この回避可能性とは︑ハルトヴィッヒによれば︑事象の操縦可能
( 2 5 0 )
性を前提とするが︑この事象の操縦は︑﹁特別の法的因果関係﹂ないし﹁目的的・規範的因果関係﹂と呼ばれる︒こ
れによってハルトヴィッヒの理論においては︑帰属が明らかに因果関係から切り離され︑規範との微妙な連関にある
( 2 5 1 )
ということが特徴となっている︒ 関法
ハルトヴィッヒの帰属論とは︑その規範的・目的論的考察方法におい
10
( 1
0)
させた場合︑それは︑生命に対して危険であり︑したがって︑一般的な死亡結果に対して相当である︒これに対して︑ (a)
(6) で
ある
︒
概念を用いている︒しかし︑現代客観的帰属論は︑ラーレンツやホーニッヒあるいはハルトヴィッヒのそれが目指し た﹁結果は行為者のしわざである﹂ときにのみ帰属されうるという根本的な考え方にその内実が反映しているのみで あって︑これらの客観的帰属論とは別の帰属基準を内部に取り込み︑もっと多様で豊穣なものとなっている︒すでに
︱つは︑民法において展開された﹁規範目的論﹂を取り込んだことであり︑もう︱つは︑次に改め
て言
及す
る予
定の
︑ エンギッシュの﹁行為の危険﹂と﹁危険の実現﹂の分析から危険判断の構造論を受け継いだこと
エンギッシュの行為の危険と危険実現の構想
相当因果関係論の中で展開されたエンギッシュのこの危険構造論の分析は︑わが国においても周知の概念となった︒
抽象的な構成要件的結果︵死︶に対する事前的な﹁行為の危険﹂は﹁広義における相当性﹂ともいわれ︑具体的な結 果︵その具体的な死︶に対する事後的な﹁危険の実現﹂︵狭義の相当性︶に対比される︒これが︑現在︑﹁危険創出﹂
︵ 邸︶
と﹁危険実現﹂という客観的帰属論の基本的分析用具となっている︒
エンギッシュの行為の危険論
行為の危険とは︑構成要件という基準によって一般化された﹁結果﹂に対する危険である︒それは︑過失犯におい ては︑この意味における﹁相当な行為﹂とは﹁不注意な行為﹂でありる︒例えば︑被害者の側で不注意に花火を爆発 その爆発の結果︑被害者が麻酔によって死亡したかどうかは︑特別の種類の構成要件的結果の問題であって︑行為の
客観
的帰
属論
の理
論史
的考
察口
完
検討したように︑
第四五巻第一号
違法
性の
認定
︑
(︱
二︶
︵ 四︶
つまり︑行為の危険の認定には重要でないのである︒エンギッシュによれば︑﹁何人かが違法に行為
︵必要な注意を怠った︶かどうかという問題︑したがって︑その者が︑構成要件該当結果を相当な態様で惹起し
たかどうかという問題は︑﹃事前﹄に︑そして︑行為の場所で︵少なくとも蓋然性のないものではないとして︶知ら
︵ 蕊︶
れていたまたは認識可能であった事実的な事情を基礎にしてのみ答えられうる﹂という︒これは︑もちろん︑その他
の﹁最も注意深い人間﹂に考慮に入れられていたような事情をも含めるという形で補充される︒さらに︑それは︑
︵ 邸︶
﹁行為の時の最高の法則的知識﹂を基礎として行われる︒
エンギッシュの危険実現論
﹁危険実現論﹂の萌芽は︑ミュラーの規範目的論に見られる︒ミュラーは︑﹁ある事実は︑それが︑有責行為に
︵ 四︶
よって︑しかも︑そのためにその行為が有責となった危険の実現において惹起されたときに︑有責に惹起された﹂の
だと
した
︒
一九
三一
年に
︑
エッギッシュはこの考え方を受け継いで︑構成要件的結果に関する相当性︵広義の相当
性︶と因果経過の特別の種類と方法に関する相当性︵狭義の相当性︶を区別し︑後者の相当性の問題が︑危険の実現
( 2 5 8 )
の問題であるとした︒すなわち︑例えば﹁人の死﹂という一般的な構成要件結果に対する行為の﹁危険性﹂の問題が︑
広義の相当性の問題であり︑﹁その具体的な因果経過を辿った具体的な死﹂といった︑因果経過をも考慮した具体的
な結果に︑その行為の危険性が実現したかどうかが︑狭義の相当性の問題なのである︒エンギッシュによれば︑例え
ば ︑
AがBに︑有責で生命に対して危険な行為によって重大な火傷を負わせたが︑Bが︑異常体質のため皮膚移植の
ための麻酔によって死亡したという事例につき︑﹁Aの違法有責な行為と︑それによって惹き起こされた特別の種類
の構成要件該当結果︵麻酔による死︶との間には︑﹃違法性連関﹂
(R ec ht sw id ri gk ei ts zu sa mm en ha ng )
は存
在し
ない
︒
( b )
した
関法
( 2 5 9 )
なぜならば︑その特別の危険が実現されていないからだ﹂という︒
エンギッシュは︑この行為の危険性と危険実現の区別を︑事前判断と事後判断によって特徴づけた︒エンギッシュ
︵ 瀾︶
によれば︑事前的に危険であるが︑事後的に︑そもそも合法則的条件の関係になかったという事例︑すなわち︑事後
的に条件関係がないことがわかった事例のみならず︑事前的には﹁危険であるが︑事後的には無害である行為が︑時
間的に継起する構成要件該当の結果を合法則的に条件づけた事例﹂︑すなわち︑条件関係は存在するが︑事後的に
﹁危険の実現﹂がなかったような事例も考えられるものとする︒そして︑その例として︑ェクスナーの﹁花火の事
例﹂を挙げて説明する︒打ち上げ花火をした際に︑重大な事故が発生した︒花火の販売者は︑彼の不在中︑その息子
に花火の販売を任せていたが︑買い手に︑正しい花火の使い方について教えるよう指示しなかった︒しかし︑実際に
は息子は︑正しい指示を与えていたが︑ただ︑買い手がそれに従わなかったのであった︒この事例において︑可罰的
な行為は︑息子に指示を与えないで販売を任せた危険な行為に認めることができる︒傷害という構成要件的結果に関
するこの行為の相当性には︑疑いの余地はない︒これに反して︑その危険な行為が︑具体的に実際に﹁有害であっ
た﹂ことが明らかになったとはいえない︒というのは︑危険は︑息子が︑花火を指示せずに販売するであろうと危惧
された点に認められるからである︒しかし︑息子が指示を与えたことによって︑彼に販売を委任したことの無害性は
明らかとなった︒それにもかかわらず︑父親のそのような無害な行為は︑構成要件該当の結果を惹起した︒なぜなら
ば︑息子への花火の販売の委任に続く事象が︑
法則的な条件関係に立つからである︒父親の無罪は︑この因果経過において父親が︑息子に指示を与えないで︑花火
の販売を任せたことによって許されない方法で惹き起こした危険は︑﹁実現﹂しなかった︑という点にのみ根拠づけ
客観
的帰
属論
の理
論史
的考
察口
完
つまり︑息子による花火の販売︑この花火の使用︑および事故が︑合
(‑
︱︱
‑︶
第四五巻第一号
られるのである︒息子が指示を与えたにもかかわらず︑花火の販売によって事故が起こるだろうという︑微々たる︑
いずれにせよ法的に意味のない可能性は︑相当性の判断にとって何らの役割をも果たしえないのである︒したがって︑
この特別の因果経過に対する相当性につき︑﹁危険実現﹂の要件が欠けているのである︒
エンギッシュの行為危険論・危険実現論の評価
( 2 6 1 )
エンギッシュの危険実現論は︑最近のわが国の相当因果関係論に大きな影響力をもった︒しかし︑
エン
ギシ
ュが
︑
その構想をミュラーの﹁客観的規範違反論﹂の示唆を受けて展開したように︑本来︑規範目的論の中でこそ︑十分に
︵ 泣︶
活かされるものであった︒なぜなら︑行為危険論と危険実現論の区別は︑実は︑初期の危険を高めたかどうかを中心
的な判断基準とする相当説の基本構想に矛盾するものだからである︒というのは︑相当因果関係の相当性の判断は︑
行為危険と危険実現の判断が揮然一体となっている点にこそ特徴があり︑それは︑あくまでも︑事前の立場からの
﹁事後予測﹂に本質があったのであって︑当該の行為が事前の立場から結果発生の蓋然性を高めたかどうかを判断す
るものだったからである︒これに対して︑エンギッシュの危険実現論は︑事後判断の立場を基礎とするのであり︑こ
こでは︑相当説には本来見られない︑事前の規範違反︵注意義務違反︶たる危険が︑事後的には︑その目的の射程内
に入っておらず︑その危険は結果に実現したものではないという保護目的論の考え方が顕著だからである︒
この
よう
に︑
(C )
関法
エンギッシュ自らいみじくも﹁違法性連関﹂という言葉を用いているように︑危険実現論は︑実は︑
違法性連関論および保護目的論の中で展開されたものであって︑相当説の枠組を突き破る原動力を秘めていたのであ
る︒第二次大戦後になって︑エンギッシュの行為危険論と危険実現論は︑危険創出論と危険実現論として客観的帰属
論の骨格をなす分析となるのである︒
一 四
︵一
四︶
(~) Richard Honig, Kausalitat und objektive Zurechnung, Festgabe fiir Reinhard von Frank, 1930, S. 174 ff. ,¢;1,..q'*ーII "凶s~ 睾忌茉墜纏!.l.('; ヤざvg.Claus Roxin, Gedanken zur Problematik der Zurechnung im Strafrecht, Festschrift fiir
Richard Honig, 1970, S. 133 ff. ; Koriath, a.a.O., S. 526 ff.
(目)Honig, a.a.O., S. 181.
(~) Alexander Graf zu Dohna, Beitrag zur Lehre von der adaquaten Verursachung, Monatschrift fiir Kriminologie und Psycholo・
gie 1906, S. 425 ff.
(g:J) Wilhelm Sauer, Grundlagen des Strafrechts, 1921, S. 443. :I=-心トーゴ~~甜さ'娯!t‑S[IJJ忌如祁轡....),¢;6年葉裳ユ縄囲
忌ユ錠顆や~~墜囲如正訊S!.l.芸...)ヤ昭河揺ti'出癒Sll!t14N!.1.‑¥t::室(':!;;-&~戸-@Sや~s;:-.'「坦姐如S脳裟」は痣'"
~sや~-@Alヤ没゜m) Honig, a.a.O., S. 175.
(~) Honig, a.a.O., S. 179 ff. (器)Honig, a.a.O., S. 182. m) Honig, a.a.O., S. 183. (器)Honig, a.a.O., S. 184. (恒)Honig, a.a.O., S. 185.
(器)Honig, a.a.O., S. 186.
(~) Honig, a.a.O., S. 187.
(~) Honig, a.a.O., S. 187.
(目)Honig, a.a.O., S. 188. (餞)Hellmuth Mayer, Strafrecht Allgemeiner Tei!, 1953, S. 131. (阻)Mayer, a.a.O., S. 134.
(弱)Mayer, a.a.O., S. 137. (蒻)Mayer, a.a.O., S. 138.
的峯忌茉晦纏S制縄以忌将縣口{1):!lk=l (lk=l)
窒坦撚国ば鞠載l食
(蒻)Mayer, a.a.O., S, 138.
(~) Wolfgang Naucke, Uber das Regre.Bverbot im Strafrecht, ZStW 76 (1964), S. 425.
(蒻)Naucke, a.a.O., S. 425.
(思)Naucke, a.a.O., S. 426. I 1~(I 1く)
(~) Werner Hardwig, Die Zurechnung. Ein Zentralproblem des Strafrechts, 1957, S. 5, 9; vgl. Koriath, a.a.O., S. 125.
(函)Hardwig, a.a.O., S. 240.
(簑)Hardwig, a.a.O., S. 1 75.
(妥)Koriath, a.a.O .. S. 126.
(蓑)Hardwig, ・a.a.O .. S. 127.
澤)Hardwig, a.a.O .. S. 83.
(蓑)Hardwig, a.a.O., S. 127.
(姿)Hardwig, a.a.O., S. 121.
(簑)Hardwig, a.a.O., S. 121. US回蝦后器起如宰鰈S廿令誕~Alヤ心訳蕊ざター今r<.'.1'-'(\ヤ剤お攀茶~~(HansJiirgen
Kahrs, Das Vermeidbarkeitsprinzip und die conditio‑sine‑qua‑non‑Formcl im Strafrecht, 1968)0•J~.'.1 (':; ヤ,vgl.
Joachim• Vogel, Norm und Pflicht bei den unechten Unterlassungsdelikten, 1993, S. 58.) 0
(簑)Hardwig, a.a.O .. S. 151.
(~) Hardwig, a.a.O .. S. 149, 156.
(~) Koriath, a.a.O., S. 131.
(蒻)1" "...,̲ーS宰譴纏人一¥‑''vgl.Harro Otto, Kausaldiagnose und Erfolgszurechnung im Strafrecht, Festschrift fiir Reinhard
Maurach, 1972, S. 91 ff. ; ders., Grundkurs Strafrecht Allgemeine Strafrechtslehre, 1976, S. 72 ff . ./:!>邸ロヽぶ,ヽざ~s
如瞬忌妾晦纏.'.lti'.:::~...,_:i:--ヽ".lJs宰曝纏S憮積駁豆心涵馨ti./:!>̲:;Al ̲:;,r‑゜→全̲j'.::: ;、"~ヽ堂女~.'.1華憮蓋s涵轍屯心
~(\~AJti :;,~,/:!>:;Al:; 長('(涎鯉)〇
(巽)•J s誕~.'.10:;ヤti'1"'や.'.1'ヨ廿『案栄.'.1-,q~>Q図眠匡逃心妾冥』は国属~}<--'匡・坦{tf.;纏縣回llllllf111=I In肘回〇<賦
以下参照︒なお︑中博士のこの概念の理解に対する批判として︑同﹁行為者自身の第二行為による因果経過への介入と客観
的帰属﹂﹃福田・大塚博士古稀︵下︶﹂二六八頁以下︒その他︑この概念と実行の着手論ついては︑同﹁過失犯における﹃予
見可能性﹄と﹃実行行為﹄﹂﹃刑法基本講座﹄︵第二巻︶︵一九九四年︶三一0
頁以
下参
照︒
︵ 磁 ︶
Ka rl En gi sc h, i D e K au sa li t3 t a l s M er km al de r s tr af re ch tl ic he n T at be st an de , 1 93 1, S . 5 5.
︵ 蕊 ︶
En gi sc h, . a a
. O •.
S . 55
. とくに﹁行為の危険性﹂について詳しくは︑山中・前掲法学論集四三巻一
1 1二
号四
0八
頁参
照︒
( 2 5 6 )
En gi sc h, a. a
. 0
s . •.
57 .
︵ 加 ︶
Ma x L. M i i ll e r , D ie Be de ut un g d es Ka us al zu sa mm en ha ng es m i St ra f
1
un d S ch ad en se rs at zr ec ht , 1 91 2, . S 58 .
( 2 5 8 )
En gi sc h, . a a . O. , S. 61 f
f ・
( 2 5 9 )
En gi sc h, . a a . O. , S . 6 1.
( 2 6 0 )
En gi sc h, a. a . O. , . S
64
f f . ( 2 6 1 )
井上裕司﹃行為無価値と過失犯論﹄(‑九七三年︶一四八頁以下︑一七九頁以下町野朔﹃犯罪論の展開ー﹄(‑九八九年︶
10
五頁
︑ニ
︱五
頁以
下‑
=︱
1 0
頁以下︵行為の危険性を不要とする︶︑曽根威彦﹃刑法における実行・危険・錯誤﹄(‑九
九一年︶三八頁以下︑山口厚﹁因果関係論﹂﹃刑法理論の現代的展開I﹄︵一九八八年︶五六頁以下︵行為の危険性を不要と
する︶︑林陽一﹁刑法における相当因果関係②﹂法学協会雑誌一0三巻九号一四0頁以下︑振津隆行﹁刑法における因果関
係の意義﹂﹃刑法基本講座﹄︵第二巻︶︵一九九四年︶︱‑八頁以下︒
( 2 6 2 )
振津・前掲論文︱ニ︱頁も︑狭義の相当性の判断を緻密化すればするほど﹁相当説﹂の枠組から外れ︑もはや相当説とは
いえないと評しうるとする︒
学説および判例実務において独自の帰属論を展開したのが︑オーストリア刑法である︒そこでは︑学説は︑違法論 における﹁行為形象﹂に﹁特殊な﹂違法の理論の展開を経て︑民法のエーレンツヴァイクの﹁違法性連関論﹂ないし
客観的帰属論の理論史的考察口完
五 オ ー ス ト リ ア 刑 法 に お け る 違 法 性 連 関 論 の 展 開
一 七
︵一
七
為形象該当的行為が可罰的とされるのが︑その行為が︑行為形象の意味における不法である場合︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑法者に行為形象を形成するにあたって念頭に置かれた法益に向けられているような種類の不法である場合にのみであ
つま
り︑
とくに立 オーストリア刑法においては︑
︑
︑
︑
︑
︑
︑
︑
︑
︑
すでにカデッカによって︑違法性とは行為形象の意味において特殊なものでなけれ ①オーストリア刑法における﹁構成要件特殊的違法性﹂の理論 連関﹂の思想に結実するという経過をたどる︒
第四五巻第一号
﹁違法の相対性﹂論の影響を受け︑判例において明らかに﹁違法性連関﹂の理論が採用され︑やがてそれが︑﹁危険
ばならないとされ︑行為者が︑立法者によって特定の結果において侵害された法益を保護するために発せられた規範
( 2 6 3 )
に違反したときにのみ︑そのような違法があるとされた︒これを敷術しよう︒カデッカは︑過失犯において︑可罰的
で違法な過失行為とそうでない行為とを区別するには︑﹁行為形象﹂
(T at bi ld )
という補充的な要素が必要であると
︵ 磁︶
して︑次のように言う︒﹁行為形象とは︑その行為が不法または不法な事実に向けられていることを前提にして︑行
為を可罰的とする要素である﹂︒﹁行為形象と違法性との間には︑次の場合に︑関連性が存在する︒すなわち︑ある行
る場合﹂である︒カデッカは︑次のような例を挙げる︒日曜日に︑所有者から依頼されて家を壊す作業を始める大工
は︑彼が日曜安息規定に違反したからといって︑他人の所有にかかる建築物を違法に﹁破壊した﹂のではないと︒こ
こでは︑﹁行為形象﹂という概念が用いられ︑﹁違法性連関﹂の概念はまだ登場していないが︑﹁行為形象﹂論は︑明
( 2 6 5 )
らかに︑それを表したものである︒
この思想は︑リットラーの教科書にも受け継がれている︒リットラーによれば︑﹁構成要件該当の︑そしてその他 関法
一八
︵一八︶
①最高裁判所一九五六年四月二四日判決
(S St 2 7
/22) 確に﹁違法性連関﹂に言及したものが見られる︒ ②オーストリア刑法における初期判例の展開 られてはならない︒
一 九
︵一
九︶
の犯罪要件に対応する行為が何らかの観点のもとで違法という修飾語に値することでは十分ではない︒それは︑行為
形象の意味において違法でなければならない︒それは不法類型を現実に行為形象が記述する叙述にもたらすものでな
ければならない︒行為形象と違法性とは互いに関連させられるのでなければならない︒このような特殊な︑行為形象
の方向に置かれた違法性が存在しないなら︑その行為がいずれにせよ違法であると見える場合でも︑犯罪は存在しな
い︒何人かが︑正当防衛で︑攻撃者の身体を傷害したが︑その者は︑その際︑特定の武器の携帯を禁止する警察規定
に違反していた︒ここでは︑傷害の構成要件の行為形象の充足と全く異なった領域に存在する違法性は︑含めて考え
一五二条の行為形象において類型化された違法性︑
防衛の不法阻却事由によって阻却される︒そのようにして︑傷害罪は与えられない︒禁止された武器の使用に存在す
︵ 磁︶
る違法性は︑ここでは考察外にとどまる﹂︒
ここでは︑﹁違法性連関﹂という言葉は用いられていないが︑結果との関係における違法性が問題にされており︑
︵ 加︶
明らかに︑オーストリア民法で展開された違法性連関の思想が影響を与えている︒とくに︑ここで展開された考え方
は︑﹁違法の相対性﹂の議論にもつながるものであり︑
客観的帰属論の理論史的考察口完 つまり︑他人の身体の完全性の侵害は︑正当
エーレンツヴァイクの見解に影響されているものと思われる︒
判例は︑違法性連関の思想を採用した︒すでに一九五六年の最高裁の判例の中に︑リットラーを引用しながら︑明
い ﹂ ︒
第四五巻第一号
︵二
0)
被告人は︑岳父Rにそのオートバイを売ることを約束した︒そして︑Rが運転免許を取得する数日前に︑オートバイ
を試し乗りするためにRに引き渡した︒Rは︑何度か試乗したが︑そのうち転倒し︑自分は死亡し︑同乗していたKは軽傷を
負っ
た︒
Rは︑オートバイの乗り方は知っていたが︑乗っている途中で酒を飲んだのであり︑この状態でオートバイの制御を
失ったのであった︒第一審は︑被告人を刑法三三五条の軽罪で有罪とした︒免許を持っているかどうかを確かめないでオートバ
イを引渡したことは︑車両法一〇一条二項に反し︑過失によって上述の結果を惹起したというのである︒
︻判
旨︼
もとより被告人の行為と発生した結果の間の因果関係は存在する︒しかし︑被告人の禁止違反行為と発生した結果の
︑
︑
︑
︑
︑
︑
︑
︑
︑
︑
︑
︑
︑
︑
︑
︑
︑
︑
︑
︑
︑
︑
︑
間に︑必要な違法性連関は欠落している︒なぜならば︑刑法三三五条の規定にとっても違法性は特殊な行為形象の意味において
︑
︑
︑
︑
︑
︑
︑
︑
︑
︑
︑ ヽ
︵ 磁
︶
与えられなければならないという一般命題は妥当するからである︒何人かが過失によって禁止を破ったという状態は︑確かに︑
具体的に彼に予見可能でなかった結果に対しても︑その者の責任を問うのであるが︑しかし︑ただその防止のために禁止が妥当
一切のその他の︑責任非難と結びつかない結果に対しても︑責任あり
車両
法一
0一条の規定の意義と目的は︑自動車の運転のための資格が欠ける人々から︑それにもかかわらずそれを運転するこ
とを防止しようとすることである︒したがって︑Rに必要な能力ないにもかかわらず運転させたとすれば︑被告人は事故に対し
て責任を負うであろう︒﹁しかし︑このような方向での認定を︑第一審は行わなかった︒書類によっても︑そのように認定する手
がかりはなく︑また︑Rが酔っばらって運転することが予見できたという手がかりもない︒以上によれば︑事故は︑被告人に
とっては︑具体的には予見不可能であったのみならず︑発生した事故は︑そもそも被告人が有責に違反した禁止と何ら関係がな
この判決では︑﹁特殊な行為形象﹂というリットラーの文言を用いて︑﹁違法性連関﹂の思想によって︑予見不可能 としようとすることは︑責任刑法の枠内では主張できない︒ するような結果に対してのみその責任を問う︒行為者を
︻事
実︼ 関法二0
性とならんで︑違反した禁止規範と結果との連関の不存在を認めて刑事責任を否定した︒続いて︑
交通事犯について﹁違法性連関﹂の概念が用いられている︒
②最高裁判所一九五八年︱一月一三日判決
(S St 29 /7 0)
︱︱
歳の
Gは︑被告人Jの息子であったが︑自転車で時速一0キロメートルで走行していて曲がろうとして︑道路中
央に出たため︑被告人Kの自動車が近づいており︑Kは右にハンドルを切り︑プレーキをかけたが︑歩道に乗り上げ︑通行人B
を巻き込んで死亡させた︒刑法三三五条による生命の安全に対する軽罪が問題となった︒Jは︑その息子G
に ︑
ご一歳未満の者
に必要な官庁の許可なくして︑成人の付添いなしに道路上で自転車を利用させ︑交通に参加させたことによって同じ罪で責任を
問われたが︑無罪とされた︒検察官は︑無効を訴えた︒
︻判
旨︼
︱二歳未満の者として官庁の許可なく単独で道路交通に参加したことは︑明らかに道路交通規則五六条一項な
いし道路警察規則六七条二項に反している︒その規定において︱二歳未満の子供が自転車交通に参加することが禁止されている
目的は︑その肉体的・精神的発達に関する状態により︑原則としてまだ自転車を安全に交通規定に従って運転することができな
い自転車乗りを︑公的交通手段から遠ざけておくということである︒しかし︑本件において︑交通状況と交通規則にしたがって
振る舞う未熟な自転車乗りGの無能力が︑発生した事故の原因であったのではないのであるから︑Jが︑その︱二歳未満の息子
︑︑
︑︑
︑
Gのために自転車交通への参加に対する特別の許可をとることを不作為したことと︑発生した事故の間の必要な違法性連関が欠
︑︑
︑︑
けている︒なぜならば︑刑法三三五条の規定にとっても︑違法性が行為形象の意味において特別に与えられなければならないと
いう一般命題が妥当するからである︒何人かが過失によって禁止を破ったという状態がその者の刑法上責任を問題にするのは︑
それを防止するためにその禁止が発せられたような結果についてのみである︒
③最高裁判所一九六0年ニ一月二二日判決
(S St
31/124)
客観的帰属論の理論史的考察口完
︻事
実︼
G
が ︑
︵ニ︱) 一九五八年にも︑
負う
︒
の意味においても正当ではない︒
︻判
旨︼
責任があるものとした︒
第四五巻第一号
︵二
ニ︶
かなり酪酎したPは︑オートバイで家に帰ろうとしたが︑エンジンがかからず︑灯火しないまま押して飛び乗ろうと
して左側車線に入ってしまった︒次に︑灯火しようとしたとき︑四五度の角度で右側車線に戻った︒その間に︑Gがトレーラー
で同方向に︑時速五0キロメートルで近づいていた︒Pを見落としたGは︑そのまま直進し︑その右側を追い越し︑衝突した︒
Pは︑転倒して軽傷を負った︒Gは︑トレーラーを止め︑その同乗者とともに戻って被害者を引きずって車道から退けようとし
た︒その間に︑酔っばらってオートバイに乗ったMが︑事故に気づくことなく事故現場に近づいており︑最後の瞬間に︑G
らは
︑
Pを車道脇に運ぶことができた︒Mは︑まだ車道にあったオートバイの上を走り︑スリップして自らは軽傷を負い︑同乗者Jは
死亡
した
︒
第一審は︑被告人Gは︑両事故を惹起し︑PとM
の負
傷に
も︑
Jの死亡にも︑刑法三三五条の生命の安全に対する軽罪につき
上告理由は︑因果関係の認定を争うのみでなく︑﹁違法性連関﹂の存在をも争うものである︒しかし︑上告理由は︑こ
﹁確かに︑刑法三三五条の規定の基準によって判断されるべき行為者の責任は︑その構成要件該当行為が︑結果との関係でも
︑︑
︑︑
︑
違法である限りで︑すなわち︑行為と結果が違法性連関に立つ限りでのみ及ぶ︒なぜならば︑刑法三三五条の規定にとっても︑
行為者は︑その防止のためにその禁止が妥当するような禁止違反的な行為の結果に対してのみ責任を問うという一般的命題が妥
当するからである﹂︒﹁しかし︑交通規定の目的が︑⁝⁝たんに直接に交通に危険であって︑また︑公共に危険な事象に関係した
人々の安全のみならず︑そのような事象によって創出された危険状況が継続する場合には関係させられたあらゆる人々のそれを
︑︑
︑︑
︑
も保証することであるがゆえに︑この違法性連関はここでは存在する﹂︒したがって︑被告人は︑﹁後続事故﹂に対しても責任を
い わ ゆ る
﹁ 違 法 性 連 関
﹂ に 関 す る オ ー ス ト リ ア の 最 高 裁 判 例 に つ い て
︑ ヴ ォ ル フ ガ ン グ
・ シ ル ト は
︑ そ の 概 念 の 用
︻事
実︼ 関法