• 検索結果がありません。

天津の文化、及びその背景を知るための基礎的研究(

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "天津の文化、及びその背景を知るための基礎的研究("

Copied!
14
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

翻訳

天津の文化、及びその背景を知るための基礎的研究(6)

A Study Note for Understanding The Culture and Background of Tianjin6

後藤 岩奈1 GOTO Iwana

1 はじめに

本稿は、国際地域研究学会編『国際地域研究 論集』第10号(2019年)所収の拙稿「天津の文 化、及びその背景を知るための基礎的研究

5)」(以下「天津(5)」と略記する)に引き 続き、天津の文化、及びその背景となる歴史に 関する基礎的研究のために、天津の歴史につい て記述された文献を資料として引用、翻訳紹介 するものである。

「天津(5)」では、文化大革命に関する内容 を訳出した。これは、朱其華主編、劉永沢副主 編『天津全書』(天津人民出版社、1991年。以 下『全書』と略記する)に記載された内容で あったが、天津における文化大革命の事件史的 な内容であった。本稿でも天津の文化大革命に 関する内容を取り扱うが、下記の文献を使用す る。

《当代中国》叢書編輯委員会編『当代中国的 天津』上巻(中国社会科学出版社、1989年。以 下『当代中国』と略記する)

この文献には、天津における文化大革命のう ち、政治的な動き、経済的な状況、さらに唐山 大地震に関する内容が記載されており、これら を訳出することとする。

以下、28章において、各章のテーマに該 当する『当代中国』の当該箇所の翻訳を掲載し、

9、まとめ」において、気づいた点を挙げて みることにする。なお『当代中国』の原文中の

「注」、および図示されている写真は紙数の関係 で省略した。訳文中の[ ]による訳注、およ び全章の文中の「注」は、いずれも筆者(後藤)

が付したものである。

2 天津市革命委員会に関する記述 の翻訳

天津市革命委員会の成立とその活動、影響に ついての記述を、『当代中国』より訳出する2

(二)革命委員会が極左路線を推進する機構 となる。

1967126日、解学恭が主任を務める天津 市革命委員会(以下市革委と略称)が成立し、

続いて、天津市の各級の革命委員会も続々と成 立した。これらの革命委員会は、名義上では

"三結合"を実行したが、実際には"造反派"

が権力を掌握し、林彪、"四人組"の極左路線 を推進する権力機構となった。天津市革委が成 立すると、ただちにそれまでの政権機構の破壊 に力を入れた。彼らはすべての力を集中して、

もとの市委、市政府の指導幹部を攻撃迫害し、

上から下まで、その多くを攻撃した。1968年5 月、市革委第三回全委拡大会議は次のように決 議した。"右傾翻案と反右傾翻案は、目下の闘 争の一つの重要な表れである"、"万張[万暁塘 と張淮三]反革命修正主義集団およびその残党 は、右傾翻案の風を巻き起こし"、"ブルジョア 階級のための反動路線翻案を企て、党内最大 の、一握りの走資派およびその天津における代

(2)

理人万張反革命修正主義集団のための翻案を企 てた"。この市革委第三回全委拡大大会の終了 後、全市で大規模な"清理"[徹底した政治的 な整理、検査]が展開され、各級の"清理指揮 部"が総動員で出動し、いわゆる"万張反革命 集団によって長期に庇護されてきた一つまみの 反革命分子、ゴロツキ、窃盗分子、投機分子お よびその他の悪質分子"を徹底して整理した。

このような一網打尽のやり方は、攻撃された者 本人が政治的な枷が被せられ、屈辱を受けただ けでなく、さらに親友にも連座した。市革委で さえも、彼らのやることなすことが深刻な社会 的結果をもたらすことを認めざるを得なかっ た。77日、市革委は、中央への"革命を掴 み、生産を促す"報告の中で、次のように述べ ている。上半期の工業生産総額は、計画の三分 の一をわずかに多く達成しただけである。一部 の大工場の"階級闘争の蓋はまだ徹底して開か れておらず"、生産はまだ追いついていない。

1969年から1970年まで、全市で形式上の大連 合が実現し、並びに整党建党を行ない、政策を 着実に実行する工作に着手した。市革委政治部 の報告によると、1969年1月までに、天津市の 5503の基層単位のうち、すでに革委会の成立を 正式に承認したところは4558で、82%を占めた。

その中で、区、局、大工場、大専院校[総合大 学と単科大学の総称]は合計86単位、すでに革 委会の成立を承認しているものは69で、80.2% を占めた。5月、市革命委は中央に"幹部の解 放"の状況を報告して述べた。全市ではすでに 各級の指導幹部15402人を解放し、指導幹部の 総数の80%を占め、そのうち、35%が、各級の 革委会に参加した。続いて市革委は第11回全委 会議を召集して、中共"九大"[第九回党大会]

精神を貫徹し、『天津市、闘、批、改規划綱要』

(草案)を承認し、真剣に着実に政策を実行し、

整党建党工作を展開し、上部構造領域の"闘批 改"等の任務をきちんと行なうことが提起され た。このようにした結果、形式上長期に指導工 作に従事したことのある一部の幹部が各級の革 委会に参加することになったが、しかし中共

"九大"の思想路線、組織路線、政治路線がい ずれも誤ったものであったので、そのため天津 市革委は依然として、引き続き誤った路線を推 進した。

中共"九大"以後、天津市革委は、"革命を 掴み、生産を促す"方針をしっかりと推進し、

"唯生産力論"を批判した。同時に、全市範囲 内で、知識青年と、労働を離れた住民が農村に 行って定住する新たな潮流が急速に高まりを見 せた。1969720日の統計によると、全市で

41571人が農村に派遣され、その中でも各種

の"分子"は15688人で、随行した家族は25883 人であった。19702月、天津市はさらに、い わゆる"五・一六"反革命分子を清査する運動 を展開し、多くの無辜の者が"反革命"にされ、

深刻な結果をもたらした。1970818日、

『天津日報』は、陳伯達が南郊西右営で"四清"

を行なったのを持ち上げた文章『英雄的な西右 営』を発表し、並びに社説『英雄的な西右営を 学習する』を発表したが、これは天津が極左路 線を鼓吹して踏み出した深刻な一歩であり、全 国でも極めて悪しき影響をもたらした。これら すべてが、天津の"三五"[第三次五か年]計 画の夭折に、火に油を注ぐ作用をもたらした。

(三)経済社会が破壊を受けた主な表れ

"文化大革命"前期の全国的な混乱は、天津 市革委の主要な責任者が強力に極左路線を推し 進めたことも加わって、天津市の各社会主義事 業も全面的な損害と破壊を被った。

1、教科文衛領域が重大災難区となった。

"文化大革命"は天津において、全国と同様に、

始まるとすぐに矛先が教科文衛[教育、科学、

文化、衛生]の領域に向けられ、多くの著名な 専門家、教授、作家、芸術家が"反動学術権威"

あるいは"反革命修正主義分子"とされた。若 い世代は深く研究し、向上する機会を失い、ま るまる一世代の育成を無駄にした。そしてその 後の結果は、数世代いずれも挽回し難いもので あった。教育事業が破壊の重点となり、天津解 放後の18年の教育が"修正主義教育路線が支配 的地位を占める"、"大きな赤い甕"と言われ、

(3)

いくつかの学校は取り消され、知識分子は下放 して労働、改造させられた。大学レベルの学校 と大部分の中等専門学校、技工学校は学生募集 を停止した。大学レベルの学校は、1965年の16 校が1970年の9校に減少し、在校学生は2.8万 人から285人に減少し、教師は5330人から3919 人に減少した。中等専門学校と技工学校は1965 年の175校から1970年の75校に減少し、在校学 生は4.32万人から5020人に減少し[職業中学、

農業中学の在校学生を含む]、教師は3324人か ら1028人に減少した。文化事業は深刻な損害を 受け、天津解放後の18年の文化事業は"一本の 太く、長い黒い線に貫かれている"、"封建、資 本、修正の闇商品を売買している"と言われ、

多くの文化団体が解散させられ、文芸工作者は 空前の迫害に遭い、ある者は下放させられ、あ る者は職業の変更を迫られた。1970年と1965年 を比べると、芸術上演の場所は28か所から12か 所に減り、芸術上演団体は29団体から8団体に 減った。公共図書館は10か所から9か所に減 り、蔵書は321万冊から279万冊に減り、博物館 は5館から2館に減り、文化館は12か所から10 か所に減った。出版図書は475種から39種に 減った。医療衛生事業も深刻な損害を受け、多 くの医者が下放されて農村に行き、病院の課、

室は連、排に改められ、病院は58家から56家に 減り、医者は10585人から9046人に減った。

2、経済領域の比率の失調、管理の混乱、効 果利益の下降。"三五"期間の工業投資の比重 が過大で、教科文衛事業、都市建設と人民生活 施設方面の投資を詰め込み、工業建設と教科文 衛事業、都市建設の間の比率関係の失調をもた らした。例えば全民所有制の基礎建設の投資総 額のうち、工業投資が69.8%を占め、文教衛生、

科学研究投資はわずか3.1%を占め、商業飲食 サービス業、物資供給機構の投資は2.8%を占 め、都市公共事業は5.1%を占めていた。生産 性投資は87.3%、非生産性投資は12.7%を占め、

その中で住宅建設投資はわずか4.1%であった。

重工業、軽工業、農業投資の比率は64.45.45.2 となった。このような状況のもとで、人民の生

活問題は積もれば積もるほど多くなり、乗車 難、病気治療難、託児難、ついにはトイレ難が 出現した。1970年の末、都市住民の一人当たり 平均の居住面積はわずか3.4平方メートルで、

天津解放初期の1949年の3.8平方メートルの水 準よりも低かった。企業管理に従うべき規則が なく、規則と制度は破棄され、あるいは執行不 能で、職能事務は取り消され、あるいは"簡素 化[精簡]"、合併され、技術員、管理人員は、

あるいは職場に下放されて一般の労働者に充当 され、あるいは農村に下放されて"再教育"を 受けた。1968109日の『天津日報』の報道 によると、天津市区の1700余りの工場企業のう ち、80%以上が機構を"簡素化"し、70%以上 の事務職員を"下放"したため、企業の計画、

管理調整、統計、検査、技術の各方面の工作は 正常に行われなかった。企業の設備は増加した が、しかしその効果を充分に発揮できず、たと えば全民所有制単位の基本建設は固定資産交付 使用率が新たに増加したが、おしなべて恢復時 期、"一五"[第一次五か年]計画時期、"二五"

[第二次五か年]計画時期と1963年から1965年 までの調整時期よりも低く、前4つの時期に新 たに増加した固定資産交付使用率はそれぞれ 88.3%、88.1%、72.9%、87.4%となり、"三五"

時期には下降して68.1%となった。全民所有制 の工業企業の職員労働者は1965年の46.12万か ら1970年の58.77万にまで増加し、職員労働者 が増加し、1時間の労働量が浪費し、随意に生 産の第一線の職員労働者を引き抜いて政治運動 を行なわせた。正式な職員労働者の1時間の労 働量が大量に浪費される状況のもと、多くの工 場企業は大勢の臨時工を雇用するよりほかな く、ついには少数の企業は主に臨時工の雇用に 頼って生産を維持し、国家に経済的損失をもた らした。農村の一人当たりの年純収入は、1965 年の87元から1970年の74元にまで下降した。

3、"三五"計画が定める指標は全面的に達 成されなかった。"三五"計画が確定した、天 津市を"毛沢東思想の大学校"、"大慶式都市"

に建設するという"左"の全体建設計画がまっ

(4)

たく実現できなかっただけでなく、"三五"計 画が定めた経済指標さえも全面的に達成でき ず、たとえば最も重要な工農業生産値の"倍増

[翻番]"の指標は完全に達成されなかった。計 画の定めるところでは、1970年までに工業生産 総額を140億元にまで達成させ、1965年に比べ て倍増したが、実際には河北省から天津市の直 轄に編入された薊県、宝坻、武清、寧河、静海 などの5つの県の工業生産総額を加えていっ しょに計算すると、ようやく96.42億元が実現 し、わずかに計画の68.9%を完成したのみであ る(もともと河北省に属していたこの5つの県 は、1973年に天津に編入されたが、当時"三五"

計画が制定された時、天津市内に含まれておら ず、統計規格を統一するために、天津市の解放 後の数年で実際に達成した経済指標を統計する とき、この5つの県を天津市内に含めたもので ある)。食糧生産は、"三五"計画の定めたとこ ろでは、1970年までに9kgを達成、1965年に 比べて倍増させ、統計の数字から見るとすでに

11.75kgを達成し、計画を超過しているが、

しかし実際には、上述の5つの県の食糧生産量 を加えて計算すると、この計画外の5つの県の 生産量は、もともとの天津市郊外地区の食糧生 産量をはるかに超えている。もしも5つの県の 食糧生産量を除外するならば、"三五"計画が 定めた食糧生産量の指標も達成していない。

4、政治領域の混乱は、盲目的崇拝と熱狂的 な情緒が一度にその極点にまで達した。林彪が 宣伝した、毛沢東のような人物は"世界数百年、

中国数千年に一人出現した"という蠱惑のもと で、人々はひたむきに指導者を神として迷信し て祭り上げ、盲目的に崇拝した。林彪は毛沢東 の著作を"最高指示"、"一言は一万言に匹敵す る[一句頂一万句]"という説教を持ち上げ、

広く、深く毒を流し、人々にどこでも、いつで も、何事も毛沢東の著書の中から答案を求める よう駆り立てた。ひところ、いわゆる"早く指 示を乞い"、"遅く報告し"、"忠の字踊り"を舞 い、"忠の字の歌"を歌う熱狂を巻き起こし、

まったく人民大衆を愚弄し、頭を使わず思考で

きない木偶の棒にしようとした。林彪の"突出 政治(政治を突出させる)"の毒害のもと、正 業につかない者が表彰され、まともに働く者が 批判され、正業につかない者が"突出政治"に 行ったため、まともに働く者はただ業務を顧み るのみであった。実に、善と悪が顛倒し、是と 非が混淆し、人々を途方に暮れさせた。

5、指導機関は一度に麻痺状態に陥り、全市 の局面は混乱に陥った。"造反有理"、"革命は 暴動である"、"文化大革命は命を変える人の 命"のスローガンの中で、またたく間に天津の 共産党各級党委は"黒党委"となり、各級政権 は"黒組織"、"ペテフィ・クラブ"を組織し、

権力を奪われ、すべての指導機関は麻痺状態に 陥り、全市の経済社会は制御を失い、全面混乱 をもたらした。老幹部は"叛徒"[裏切り者]、

"特務"[スパイ]、"走資派"、"反革命修正主義 集団"、"黒幇"[反動的な組織]、あるいは

"「五・一六」天津の黒班底[反動的な役者]"

として陥れられた。そのため下放で労働改造さ せられて、その中のある者は暴行を加えられて 障害が残り、ついには冤罪でこの世を去った。

老共産党員は"ニセ党員"と貶められ、ついに は"造反派"によって党籍を剥奪された。公安 局[警察]、検察院[検察]、法院[裁判所]は 破壊された。共産党組織の組織生活は停止し、

一部の悪人が革命委員会に混入して、破壊略奪 分子李栄貴が市革命委員会副主席の座につい た。

以下のことが分かる。1966年の『五・一六通 知』の発布をもって起点とする「文化大革命」

は、天津市の国民経済の発展に災難をもたら し、"三五"計画は全面的に夭折した。この歴 史の教訓は、悲惨で、深刻で、永遠に記憶され るべきものである。

3 林彪事件後の整頓工作について の記述の翻訳

林彪事件後の整頓工作についての記述を、

『当代中国』より訳出する3

(5)

二、林彪反革命グループ粉砕後の整頓工作 1971522日から26日まで、中共天津市第 3回代表大会が開催され、選挙によって新たな 天津市委が生まれ、解学恭が第一書記の任につ いた。同年9月、林彪反革命グループが粉砕さ れた後、毛沢東主席の支持のもと、中央の日常 工作は周恩来総理が中心となって行ない、整頓 工作の展開に着手した。このような大きな背景 の下、市委は一方で林彪、陳伯達反革命陰謀グ ループの罪行を暴露批判し、一方で整頓の措置 を貫徹し、さらに政策を着実に実行し、各部門 の指導機構を回復、建設、完成させ、経済を発 展させることを、全市人民に呼びかけた。197110月から11月まで、天津市は農業機械化会議 を召集し、全国農業機械化会議の精神の貫徹を 伝達し、天津市の農業機械化"四五"[第四次 五か年]計画(草案)について討論し、制定し た。19722月から3月まで、天津市は計画会 議を召集し、会議は、国務院が197112月から 19722月までに開催した全国計画会議の精神 にもとづいて、天津市の1972年の国民経済発展 計画を着実に実施する準備をし、工農業生産総 額を117.63億元を達成することを要求し、実際 には118.96億元を達成して、0.9%超過して計画 を達成した。197310月、全市衛生工作会議が 召集され、北方15省、市、自治区の風土病の防 止と治療工作会議と全国衛生工作会議の精神を 貫徹することを伝達し、農村合作医療の強化と 発展、農村公社の衛生院建設の強化に関する、

および都市衛生工作に関するいくつかの問題を 通して意見を討論し、これは全市の人民の医療 健康のレベル向上に一定の効果をもった。整頓 の措置を貫徹執行したために、1971年から1973 年まで、工農業生産は回復が現れ、上昇の趨勢 が見られ、いくつかの重要な成果を得た。しか し、この3年中に、極左路線は依然として支配 的な地位を占めていた。政治的に見ると、市第 3回党代表大会は、思想上、政治上、組織上、

いずれも誤ったものであり、市委は前後して中 央に送った張淮三、万暁塘に対する、いわゆる

"審査報告"は、張淮三を"党内に潜伏する裏

切り者、スパイ、死んでも悔い改めない走資派"

であるとし、万暁塘を"死んでも悔い改めない 走資派、反革命修正主義分子、万張反革命修正 主義グループの頭目、劉少奇ブルジョア階級司 令部の天津における忠実な代理人"であるとし た。経済的に見ると、市委は"工業は大慶に学 べ"、"農業は大寨に学べ"を絶対化、一面化し、

大慶を学ぶか否か、大寨を学ぶか否かは"異な る階級、異なる道、異なる路線の闘争である"

と提起した。

4  “批林批孔”、“評法批儒”運動 に関する記述の翻訳

"批林批孔子"と"評法批儒"についての記 述を、『当代中国』より訳出する4

三、"批林批孔"と"評法批儒"の経済社会 に対する破壊

19719月から19733月までの短い時期の 相対的な安定を経て、全国と同様に、天津の経 済社会は回復と発展をみた。しかし江青反革命 グループは、周恩来が力を入れた整頓工作に現 われた経済回復の局面を"右傾回潮"と見なし、

そして1973年末に"反右傾回潮"運動を発動し た。1974年初め、さらに林彪、孔丘を批判し、

法家を評論し、儒家を批判する"批林批孔"、

"評法批儒"運動を展開し、その矛先はいずれ も直接周恩来に向けられていた。天津は"批林 批孔"、"評法批儒"運動中の表れがさらに特殊 で、天津にもたらした損失は特に深刻であっ た。

天津市委の主要な責任者たちは江青と緊密に 癒着して、いわゆる上部構造領域の革命の典型 をでっちあげ、"評法批儒"を口実にして、当 てこすりの史学を宣揚し、全国に先がけて宰 相、周公を批判し、女皇にへつらって江青を吹 聴し、"四人組"が党と国家の最高指導権を奪 い取るために反革命輿論をでっちあげた。19741月、天津市委は常務会議を召集し、江青が 中心となって選択編集した『林彪と孔孟の道』

(6)

などの資料を学習し、鉄路分局天津駅など8つ の職場を市委が直接に指導する"批林批孔"の 試験モデルの職場とした。1月から2月まで、

市委は"批林批孔"学習班を始め、学習に参加 したのは区、県、局以上の指導幹部と新たに選 抜された青年幹部500人余りであった。それと 前後して、市委はさらに個別に市クラスの機関 と全市の"批林批孔"動員大会を開催した。こ のような鳴り物入りの中で、江青は619日、

彼女の"創作班"と伴って、自ら天津を訪れて 指揮をし、市委が召集した"儒法闘争史"報告 会に参加した。彼女は会議上、今回の運動の重 点は"党内の大儒"を批判することであると述 べ、公然と矛先を直接周恩来に向けた。会議の あと、江青はまたも一群の人を連れて宝坻県城 と小靳庄に行って活動し、人民公社社員の"批 林批孔"大会に参加して、ある一人の社員の名 前を改めて"周克周"とし、暗に周恩来を攻撃 した。江青が去ったあと、市委は10万人余りが 参加する"儒法闘争史"報告大会を開催した。

すぐあとに続いて、市委はさらに常務会議を召 集して、全市の"批林批孔"運動の状況に関す る市委宣伝部の報告を聴取し、会議は、江青が 指定した3つの"点"(小靳庄、鉄路分局天津 駅と大型機器工場)の指導をさらにいっそう強 化することを決定し、並びに班を組織して法家 著作を研究し、『天津日報』にコラムを設け、

鉄路分局天津駅のいわゆる"儒法闘争"を宣伝 説明する経験を連続して報道した。これによっ て"評法、批儒、批周公"の悪しき波が天津か ら全国へと蔓延し、全国にその極めて深刻な影 響をもらたした。

天津の"批林批孔"、"評法批儒"運動を、い わゆる更に深い段階に推し進めるために、全国 で"様板"[革命模範劇]を行ない、天津市委 はまたも具体的な手配を行なった。19748 月、市委の関係する部と市革委の関係する組が 連合して法家の著作を注釈する計画会議[法家 著作規划会議]を召集し、天津市注釈出版法家 著作計画を制定し、儒家の通俗読物を批判し、

儒法闘争史を研究する文章作成の準備を行なっ

た。続いて、市委はさらに、特に"批林批孔"

工作会議を召集して、"批林批孔"をさらにいっ そう深く展開させる手配をした。"批林批孔"、

"評法批儒"を深く展開させるという要求に応 じるために、市委は市委"理論工作"指導小組 を成立させることを決定し、分担して関係する 市委の書記が組長と副組長を担当したが、その 重視する程度はおおよそ見当がつく。天津に現 われたこの"評法批儒"の波は全国に注目され るところとなり、これは大衆を愚弄し、人々の 思想を撹乱した。

5 1975年の経済社会の整頓工作に 関する記述の翻訳

1975年の経済社会の整頓工作についての記述 を、『当代中国』より訳出する5

四、1975年の経済社会の整頓工作

197412月、周恩来の病状は重く、毛沢東の 推薦と支持を経て、鄧小平が中心となって中央 の日常工作を行なった。鄧小平は工作を回復さ れると、断固として各方面の整頓から着手し、

"文化大革命"がもらたした混乱を一掃するこ とに力を入れ、安定団結と国民経済の発展を促 進した。このとき天津は全国と同様に、経済の 形勢は好転し始め、社会の秩序も混乱から収ま りつつあった。

1975年1月、天津市委は全委拡大会議を召集

し、中共中央主席毛沢東の三つの指示[プロレ タリア階級独裁の下での継続革命の理論、修正 主義の反対防止を学習し、安定団結し、国民経 済を向上させる]を学習し、中共102中全会 と第4回全国全人代会議の精神を貫徹するよう 伝達した。続いて市委は常務委会議を召集し て、市計委の華北長期計画座談会[「華北長遠 規划座談会]の状況と、次の段階の工作意見に 関する報告を聴取したが、会議は、工業は古い 企業の技術改造を強力に行ない、潜在能力を発 掘すると同時に、鋼鉄、石油化学工業、電力な どの中核項目を重点的に建設すべきであること

(7)

を強調し、ならびに薊県の建材基地を開発し、

徐々に建材の自給レベルを向上させることを決 定した。10月、市革命委員会生産指揮部は公共 交通系統整備の企業会議を召集し、企業管理の 経験交流を総括し、企業整備[整頓]問題を討 論研究した。この会議は実際には、国務院が8 月に制定した『工業発展の加速に関する若干の 問題』(すなわち『工業二十条』)を検査し、着 実な実施をさらにいっそう貫徹する会議であ り、天津の公共交通企業の発展に対して、前を 受けて後を啓く効果を生じさせた。

わずか一年の整頓を経て、天津経済は比較的 顕著な変化が生じ、一定の成果を得た。1975年 に全市は工業生産総額142.68億元を達成し、年 計画の1.2%を超過し、1974年と比べて8.1%増 加した。財政収入は39.2億元となり、予算の 1.7%を超過し、1974年と比べて5.9%増加した。

6  “右傾翻案の風に反撃する”運 動に関する記述の翻訳

周恩来総理の逝去、"右傾翻案の風に反撃す る"運動についての記述を『当代中国』より訳 出する。6

一、"右傾翻案の風に反撃する"運動によっ て、天津の経済社会はまたも低調に陥った。

1975年末、"四人組"は"右傾翻案の風に反 撃する"運動を口実にして、当時中共中央副主 席、国務院副総理を担当していた鄧小平に矛先 を向け、党の奪権を企てた。この運動の中で、

中共天津市委の主要な責任者は、政治上、組織 上深刻な誤りを犯し、極めて良くない影響をも たらした。

197618日、周恩来総理が逝去した。天 津全市の人民はみな、敬愛する周総理を失って 深く悲しんだが、彼らのこのような悲しい心情 を表現することはできなかった。市委、市革命 委が大衆の追悼活動を組織しないという状況下 で、人民大衆は15日から自発的に、分散して

様々な形式の追悼会を挙行し、周総理に対する 哀悼の意を表した。そして天津市委の主要な責 任者は全市の人民のこのような悲しみの心情を 顧みず、24日から7日までと11日、市常任 委会議が連続して召集され、『人民日報』に発 表された『科学技術界の右傾翻案の風に反撃す る』と『プロレタリア文化大革命の継続と深化』

等の文章と、関係する文献の学習討論が行われ た。会上、鄧小平が"大いに右傾翻案の風を吹 かせた"という、いわゆる"罪行"が名指して 批判され、"右傾翻案の風のすべての根っ子は 鄧小平である"とされた。会の後、全国に先が けて鄧小平を攻撃し、罪に陥れる報告を中央に 送りつけた。48日、天津市委の主要な責任 者はさらに全国に先がけて、天津市10万人大会 を主催召集し、会上、鄧小平の党内外のすべて の職務を取り消すことに関する中共中央の『決 議』を自ら読み上げ、講話の中で、"天安門の 反革命政治事件を糾弾"し、"死んでも悔い改 めない走資派鄧小平"を批判しなければならな いと提案した。天津市革委はさらに人員を派遣 して鄧小平を擁護する"反革命分子"の捜査逮 捕をおこない、610日には"現行反革命分子 を鎮圧する公判大会"を開催し、"鄧小平を称 え、右傾翻案の風への反撃を破壊した"などの 罪名で、多くの人に判決を下した。このような やり方は、天津だけでなく全国でも極めて良く ない影響を生じ、1975年の整頓を経たばかりの 天津の国民経済はまたもや低調に陥り、それに より天津の"五五"[第五次五か年]計画が最 初の年に実現できなかった重要な原因の一つと なった。

7 唐山大地震に関する記述の翻訳

1976年7月、および11月の二度にわたって発

生した唐山大地震は、天津市においても甚大な 被害をもたらした。この唐山大地震に関する記 述を、『当代』より訳出する7

(8)

二、地震の発生と抗震救災

1976年に前後して二度の大きな地震が発生し た。一回目は728342分、震源地は唐山 市で、震度8であった。唐山市に近い天津市寧 河県、漢沽区は全市の重大災害区となり、天津 市区にも波及した。この時の地震は全市で死者 24256人、重傷者21462人であった。その中で、

震源地区に近い寧河県では16097人が死亡し、

漢古区では4507人が死亡した。被害に遭った各 種の家屋建築は6300万平方メートルで、原有面 積の61%を占め、倒壊と被害が深刻なものは 3600万平方メートルで、原有面積の35%を占め た。その中で、都市と郊外の住宅で被害を受け たものは4300万平方メートルで、住宅総面積の 66%を占め、倒壊と被害が深刻なものは2400万 平方メートルで、70万人に近い人が住居を失っ た。7つの工業局の統計によると、被害が深刻 な企業は289企業で、企業総数の33%を占めた。

農村の公社生産隊が使用する家屋で被害にあっ たものは450万平方メートルに達し、原有面積 の64%を占めた。大、中、小型ダムで被害に あったものは6か所で、北大港ダムと於橋ダム はいずれも深刻な被害を受けた。一部の耕地は 砂や水が吹き出し、アルカリ土壌の濃度が増加 し、25万畝[中国の1畝は6.667アール]の耕 地が異なる程度の被害を受けた。二回目の地震 は11152152分に発生し、震源地は寧河県 にあり、震度6.9であった。二度目の地震は天 津市の被害の程度を重くし、被害面積を拡大 し、全市で死者53人、重傷者377人であった。

各種建築物の破壊は1100万平方メートルで、原 有面積の10.7%を占めた。工業系統の損失は各 種金属切削機械150台余り、動力および専用設 備900台。都市の公共施設と耕地水利施設もい くつかの新たな損失があった。二度の地震で損 壊した各種家屋は合計7052万平方メートルで、

原有面積の68%を占め、全市で合計約75億元の 経済損失をもたらした。

地震がもらたした直接の経済的損失は、人の 死傷と物質の破壊であった。しかし経済発展と 建設の角度から見るならば、その経済的損失は

はるかにこれに留まらなかった。ましてや地震 が人々にもらたした心理的な傷も、回復するの に一定の時期を必要とした。

地震の発生後、直面した最も緊迫した任務は 負傷者の救助と手当てで、被害を受けた大衆に 食べさせ、飲ませ、住まわせる準備をすること であった。地震後、中共中央はただちに慰問団 を天津に派遣して慰問をおこない、天津の抗震 災害救援工作を指導、支援した。7月30日から 812日まで、中央慰問団が前後して天津市内 の工場、農村、街道、商店、病院と部隊を訪れ て慰問をおこなった。84日と5日、中央慰 問団総団長の華国鋒も天津を訪れ災害の状況を 視察した。中共中央の深い配慮と真摯な慰問 は、抗震救済活動を行なっている天津人民に大 きな励ましと力を与えた。

中共天津市委は地震の翌日に市抗震救災指揮 部を成立させ、具体的に全市の抗震救災工作の 組織と指揮の責任を負った。84日、市委は さらに常任委員拡大会議を召集し、さらにいっ そう抗震救災工作を研究、手配したが、その主 要な精神は、大衆を立ち上がらせ、団結して闘 い、抗震救災の新たな勝利を勝ち取ることで あった。会議は抗震救災の10項目の具体的な措 置を手配した。すなわち家屋の臨時建設と修築 をしっかりと掴み取り、商品供給工作をしっか りとおこない、大衆の住、食、使用の問題を適 切に解決する。医療衛生工作を真摯におこな い、積極的に疾病を防止治療する。交通運輸と 通信連絡を迅速に回復する。工場の応急修理を し、機器設備の検査修理をおこない、工業生産 の早期の回復を勝ち取る。農業生産をしっかり とおこない、秋季の豊作を勝ち取る。抗震救災 闘争の中で、党員、幹部を考査して党の建設を 強化する。防衛工作を強化し、階級の敵の破壊 と撹乱を厳しく防止する。会議の後、市抗震救 災指揮部と各区、県、局、部門、学校などの各 級抗震救災指揮部は、ただちに力を集めて、市 委員常任委員拡大会議が決定採択した10項目の 措置を全面的に実行した。例えば、被害を受け た住民の住宅問題を解決するために、全市の大

(9)

学、中学校のグランドに、住民のための臨時の 住宅を建てる場所を開設することを決定し、指 揮部によって計画に基づいて統一的に区画設置 された。

広範な労働者、農民、幹部、医療工作者、商 業工作者と天津駐在部隊の指揮官戦闘員など全 市の各戦線が一斉に出動し、地震後の負傷者救 助という最初の戦役を開始した。多くの指導幹 部と大衆は息を合せて、運命を共にして、自分 の親族の死傷を顧みずに、工作の持ち場を堅守 して、戦闘を指揮した。寧河県委書記の邢国俊 は、崩れた家の下から抜け出すとすぐに、自分 の二人の子供が被災したのも顧みず、ただちに 県委に駆けつけ、緊急常務委員会を召集し、全 県の抗震救災工作を手配した。医療関係の人員 は負傷者を救助する中で態度が際立ており、あ る者は重傷を負いつつもなおも工作を続け、怪 我をした大衆の応急手当をした。宝坻県で巡回 医療をしている天津市第一中心医院の呂暁虹ら 3名の女性医師は、地震の際に全員が負傷した が、彼女らはお互いに簡単に縫合して包帯を巻 いた後、ただちに負傷者の応急手当の工作に参 加した。財政貿易、公共交通、郵便電信などの 系統の職員労働者は自覚的に抗震救災と人民生 活の手配、様々な保障工作という重荷を担い、

非常に困難な条件の下で、救済物資と人民生活 の必需品の提供および交通通信の運行を保証し た。天津電力局送変電工程公司は、寧河県に行 き変電所と送電線を修復する任務を受けたが、

上級からは5日以内に4つの変電所、8本の送 電線を修復せよとの要求であった。そこで公司 は1400人余りの応急修理の隊列を組織して、

ただちに被災区に赴き、戦闘に加わった。ある 路線は数十里[中国の1里は500メートル]も の長さに延び、車では走行は不可能で、労働者 たちはその身に道具、器材を背負い、田畑を横 切り、水路を渡って、水の中、泥の中を歩き、

180本余りの電信柱を一つ一つ巡回検査をして、

5日間の任務を1日でやり終えた。多くの基層 の商店は、大地震の後も依然として正常な営業 を続け、被災した大衆の困難を大いに軽減し

た。河北区の飲食会社である十月飲食基層店の 7つの店頭販売部のうち、6つが地震で破壊さ れたが、職員労働者らは自分の家庭の被害を顧 みずに、ただちに6つの臨時の飯場を組み立 て、6つの大型のかまどを築き、地震当日の夜 から火を起こして主食品を作り、毎日5000キロ グラム余りのマントウ、大餅、烤餅を作り、被 災区の人々の食用として提供した。人民解放軍 の天津駐在部隊の広範な指揮官戦闘員は、負傷 者の救助において勇敢かつ頑強で、危険に直面 しても恐れず、最も危険な所に赴き、負傷した 大衆と人民の財産を救助するために偉大な功績 を立て、広範な大衆の称賛を受けた。天津駐在 の某部の砲一連隊の指揮官と戦闘員は地震の発 生後、命令を受けてただちに被災状況の深刻な 漢沽区に赴き、倒壊した建物の下に突進し、負 傷した大衆を救助した。ある班の班長王世和が 続けざまに4名の怪我をした大衆を救助したと き、余震が引き続き襲い、最上階のセメント板 がいつでも落下してくる危険があったが、彼は 自らの安否を顧みずに、あくまでも負傷した最 後の1名を救い出した。地震が引き起こした海 潮が、塘沽の天津碱廠[アルカリ工場]の一つ の小山のような石灰の山に押し寄せてこれを崩 し、馬屋と倉庫が水没し、状況は大いに緊急を 要した。天津駐在空軍の某部七連隊の指揮官と 戦闘員は消息を聞いた後、大至急現場に駆けつ け、身の危険を顧みずに石灰の液体の中に飛び 込み、石の塊で皮膚が破れ、石灰の液で手足を 火傷したが、彼らは少しも退くことはなかっ た。3時間余りの緊迫した奮戦を経て、指揮官 と戦闘員は、ついに石灰の液の中で一つの裂け 目を探り出し、馬屋と倉庫の房門を開けて、26 頭の馬と700キログラム余りの食糧とその他の 物資を迅速に救い出した。

これと同時に、全国各省、市、自治区も天津 人民の抗震救災工作を強力に支援した。首都の 人民は地震の当日の夕方、車で天津に最初の薬 品を送り、続いて138台の車で33万キログラム の食品を運送した。上海の人民は、別々に"大 慶40"号と"大慶413"号の二隻の貨物船に1.5

(10)

万トンの淡水を積んで、84日と6日に前後 して天津新港に到着した。雲南の人民はたくさ んの止血特効薬――雲南白薬を送って来た。山 東の人民は超過勤務をして生産した小麦粉を天 津まで運んだ。山西の人民は精選したジャガイ モを送って来た。湖南、湖北の人民はコメを 送って来た。人民解放軍の支援である服装、テ ントもただちに送り届けられた。大連、青島な どの港は連夜で船を派遣し、天津新港に淡水を 運んだ。その他の省、市、自治区の人民が支援 する多くの物資が、空、海上、陸路から続々と 絶え間なく天津に運び込まれ、社会主義制度下 の"一方に困難があれば、八方が支援する"と いう崇高な精神を充分に示した。まさに中央の 指導と全国各省、市、自治区の支援を得、中共 天津市各級党組織と人民大衆の共同の努力を経 て、抗震救災工作の第一段階の任務、すなわち 負傷者の救助と手当て、被災した大衆の食事、

飲み水、医療、住宅などを手配する工作は、そ の年の末に勝利のうちに完成した。

第二段階の任務は生産の回復、郷土の再建で あった。この任務はもともと2年の時間をかけ て完成させることを計画しており、国が抗震救 災の特別支出金を支給するものであった。19761029日、中共天津市委常任委員会は会議を 召集し、生産の回復、郷土の再建の計画準備に 関する市計画委員の報告を聴取した。会議は討 論を経て、国家財政の収支差額が比較的大き く、原材料が逼迫しており、施工の力量が不足 していることを鑑み、もともと2年で生産の回 復と郷土の再建の任務を完成させるとしていた 計画を3年に改めることを決定した。生産の回 復と郷土再建の工作中、山東、湖北などの省の 建築の部隊が続々と天津に入って天津人民の抗 震救災を支援し、多くの工場の家屋、住宅、事 務室などを補強、維持修理、再建した。鉄道兵 の3つの部隊は郭維城副指令の指揮のもと、前 後して天津に入り、抗震救災工作を支援した。

しかし生産を回復し郷土を再建する工作量はた いへんに多く、震災後5年、すなわち1981年に はなおも多くの住民が仮設住宅に住み、仮設住

宅はおおよそ5.1万間で、街の至るところにあ り、住民生活の困難は依然として大きかった。

この年、市政府は断固とした措置をとり、年末 前に架設住宅をすべて撤去し、住民を新しい住 宅に住まわせる決定をした。新しい住宅の建設 が加速したため、この決定は実現をみた。同時 に、国は1981年から、毎年抗震救災の特別支出 金8.2億元(そのうち3億元は天津が自ら用立 てた)を支給し、これは主に住宅建設に用いら れ、この特別支出金の支給は1985年に停止する まで続けられた。

天津人民は抗震救災闘争の中で、一つ一つ勝 利を勝ち取った。物質的には地震がもたらした 一部の損失を奪回し、"五五"計画の最初の年 に規定されていた年度経済指標の実現は不可能 であったが、しかし震災後の経済回復の第一歩 を踏み出した。思想建設において社会主義精神 文明建設の新たな一ページを記し、自己を犠牲 にして人を救い、他人を第一とし、団結して相 互に助け合い、刻苦奮闘する、生き生きとした 事例の一つ一つが天津人民の人生価値観を充分 に体現していた。組織の上でも、天津在住の中 国共産党の各級組織を検証し、これらは試練に 耐えうる隊列であり、大衆を指導して困難を克 服し、郷土を再建し得る隊列であることを、実 践によって証明した。

8  「文化大革命」時期の経済の発 展とその原因に関する記述の翻

文化大革命時期の経済の発展とその原因につ いての記述を、『当代中国』より訳出する8

10年の内乱の中で、天津の国民経済と社会発 展は極めて深刻な破壊に遭遇し、"三五、"四五"

時期の経済成長の速度は、生産額を追求する一 種の水増しされた速度であった。しかしたとえ 水増しを差し引いても、やはり一定の成長速度 を保っており、その原因は多方面にわたってい た。

(11)

一、経済発展の表れ

「文化大革命」の時期、天津の経済発展の表 れの一つは、工業戦線で広範なエンジニア、技 術者、労働者と幹部の奮闘を経て、重要な成果 を得た。例えば、19699月、天津新港船廠

[造船所]は自ら設計、建造した1万トンの貨 物船を進水した。1969年、天津市工廠企業は 4000余りの項目の新たな製品、技術、方法、材 料を創出し、その中の一群は全国生産における 空白を補填した。19704月、市革命委員会は 全市的な大会戦を組織することを決定し、101日の前に全国計画会議が決定した緊急の建設 プラン―6000トンの水圧機を製造し、50万キロ ワットの水力発電ユニットを増築する工程を完 成させた。12月、最初の6000トン水圧機の製造 に成功し、正式に製造を始めた。19712月、

天津開関廠[バルブ工場]は世界の先進レベル の新型10キロワット500兆ワットの高圧小油バ ルブの研究製造に成功し、一定の量の生産に 入った。7月、天津第一煉鋼廠[製鋼工場]は 平炉の頂で連続製鋼1375炉の最高記録を出し、

全国の先進レベルに達した。19722月、天津 鍛圧機床廠[鍛圧機械工場]は全国で最初の 630トン[双動薄板衝圧液圧機]の研究製造に 成功した。197312月、天津発電設備廠は、全 国で最初の11000キロワット蓄能水力発電ユ ニットを自ら設計し、製造に成功した。

天津経済発展の表れの二つ目は、"三五"、

"四五"の期間に一定の成長速度を保持したこ とであった。例えば、"三五"の期間には平均 して毎年速度が逓増し、社会生産総額は8.8%

となり、国民収入は7.3%、工農業生産総額は 9.5%、工業生産総額は10.2%、全民所有制の独 立採算企業全員の労働生産率は5.1%、農業生 産総額は3.4%、社会商品小売総額は4%、対 外貿易部門の輸入貿易総額は26.7%となった。

1970年と1965年とを比べると、社会生産総額は 52.4%増加し、国民収入は42%、工農業生産総 額は57.7%、工業生産総額は62.5%、全民所有 制の独立採算工業企業全員の労働生産率は 28.4%、農業生産総額は18.2%、社会商品小売

額は21.7%、対外貿易部門の輸入総額は2.26倍 に増加した。"四五"の期間、平均して毎年速 度が逓増し、社会生産総額は8.9%となり、国 民収入は7.5%、工農業生産総額は8.1%、工業 生産総額は8.2%、全民所有制の独立採算工業 企業全員の労働生産率は2.9%、農業生産総額 は7.3%、全民所有制単位の基本建設投資の総 額は18.7%、社会商品小売総額は8.2%、外国部 門輸入貿易総額は16.6%、輸出総額は19.3%と なった。1975年と1970年とを比べると、社会生 産総額は52.8%増加し、国民収入は43.4%、工 農業生産総額は47.5%、工業生産総額は48%、

全民所有制の独立採算工業企業全員の労働生産 率は15.4%、農業生産総額は42.2%、社会商品 小売総額は48%、外国貿易部門の輸入総額は 1.16%、輸出総額は1.42%増加した。

二、経済発展の原因

「文化大革命」の期間、天津の国民経済の発 展は一定の成長速度を維持していたが、その主 要な原因は以下である。

(一)このような成長の速度は基本建設の規 模の拡大と投資の増加に依拠して実現したもの である。

10年の中で、天津の国民経済の5つの部門

(すなわち工業、建築業と資源調査、農林水利 気象、運輸と郵便電信、商業飲食サービス業と 物資供給機構。以下同じ)の基本建設の規模は 空前の拡大をみて、投資総額は49.11億元に達 し、1949年から1965年までのこの5つの部門の 基 本 建 設 の 投 資 総 額 は29.62億 元 の1.66倍、

"一五"時期と比べると、"二五"時期のこの5 つの部門の基本建設投資総額23.16億元は25.95 億元増加し、1.12倍増加した。10年間で、天津 の全ての工業基本建設の規模はさらに空前の拡 張をみて、投資総額は34.77億元で、1949年か ら1965年までの工業基本建設の投資総額19.56 億元の1.78倍、"一五"時期、"二五"時期の工 業基本建設の投資総額15.41億元は19.36億元増 加し、1.26倍増加した。このような大量の基本 建設投資が形成した外延拡大再生産の能力は、

(12)

ある一部分はこの期間に効果を発揮し、"三五"

時期、"四五"時期の経済成長を促すの重要な 要因となった。しかし、このように単純に基本 建設の規模の拡大、外延拡大再生産の結果に依 拠することは、必然的に内涵拡大再生産と単純 再生産を軽視する悪しき結果をもたらすことに なり、さらに基本建設と生産の比率の失調をも たらす。事実はまさにこのとおりで、国民生産 総額のうち、第一産業の占める比重は1965年の 9.8%から1975年の6.3%にまで下降し、第二産 業の占める比重は63.8%から72.1%にまで上昇 し、第三産業の占める比重は26.4%から21.6% まで下降した。工業では、またも重工業が一面 的に発展し、工業生産総額をして、重工業の占 め る 比 重 は1965年 の37.22% か ら1975年 の

50.04%まで上昇し、軽工業の発展は緩慢で、

人民の日用工業品の需要は大きな制限を受け た。固定資産投資では、資金を不適切に、過多 に生産的建設に用いて、全民所有制単位の生産 的建設投資の占める比重は1965年の64.7%から 1975年の84.4%にまで上昇し、非生産的建設投 資は深刻な排除を受け、その結果、住宅、医院、

学校や都市公共施設等の人民生活の需要にかか わる建設項目は手配を得ることができず、"骨"

と"肉"の食い違いが形成され、住民は家が無 い家が少ない家庭が増加し、公共交通は混雑 し、医院はベッド数が不足した。国民収入の使 用額の中で、工業基本建設の規模が大き過ぎ、

戦線が長過ぎたために、蓄積と消費の正常な比 例関係は破壊に遭い、国民収入の使用額の中 で、蓄積の占める比重は1965年の27.8%から 1975年の42%に上昇し、天津の歴史上最高の蓄 積率に達した。

追加投資への単純な依拠がもたらしたもう一 つの結果は、必然的に経済の効果利益の向上を 軽視することとなり、効果利益の犠牲と交換で 成長速度を手に入れた。十年間で、天津の工業 は大量の設備が増加したが、しかしこれらの設 備は十分に効果を発揮しなかった。例えば、全 民所有制の独立採算工業企業の100元ごとの資 金提供の生産総額は、1965年は173.95%であっ

たが、1975年には162.76%にまで下降した。

100元ごとの生産総額が提供する利潤、税金は 28.12元から25.87元にまで下降し、工業生産総 額の物質消耗率は66.62%から67.29%に上昇し た。地方の予算内工業の中の欠損した企業の欠 損金額は、1965年の462万元から1975年の6943 万元に増加し、14倍増加した。製品の品質も下 降するところとなり、48種の製品に対する統計 に基づくと、品質は歴史上最もよいレベルを下 まわるものは41種で、85.4%を占めていた。

(二)このような成長速度は、一定程度、人 民大衆が仕事の持ち場を堅守することによって 実現された。

天津の"文化大革命"において、災難が深刻 であった分野は教科文衛[教育、科学、文化、

衛生]の領域で、大多数の企業と農村は、教科 文衛の領域のように"生産を停めて革命を行な う"ことはなく、広範な労働者、農民、エンジ ニア技術者と幹部はできる限り妨害を排除し て、生産と建設をやり続けた。特に周恩来総 理、鄧小平副総理が中心となって中央の日常工 作を行なった期間、人民大衆は希望を見い出 し、生産と建設の実行に尽力した。人民大衆の 生産の積極性は主に、多くの重点項目を建設 し、多くの成果を得たことに表れている。この 時期、天津の工業建設の重点は石油工業、冶金 工業と機械工業であった。石油化工[化学工 業]において、大港油田は最大の基本建設項目 であった。10年間で、大港油田の職員労働者は 全市の工業投資の40%以上を占める任務の量を 達成し、1975年に至り、石油工業の生産額はす でに全市の工業生産額の4.7%を占め、それは 1965年の前史工業生産総額の11.2%に相当し、

これは"三五"計画、"四五"計画期間の天津 市の工業生産総額の成長に重要な効果をもたら した。大港油田と関連する250万トンの製油工 場も197012月に南郊の上古林で建設が始ま り、1976年に正式に生産を開始した。見込みの 投資2億元、年生産額5億元の天津石油化工総 廠は19745月に建設が始まり、1983年に正式 に生産を開始したが、これは石油工業の発展に

(13)

一定の効果をもたらした。冶金工業における渉 県鉄廠は天津最大の建設項目であった。この工 場は1969年に計画建設が始まり、天津市と河北 省の共同による指導グループが組まれ、共同で 建設、管理し、生産された生鉄の総量の三分の 二を天津に帰するものとし、三分の一を河北省 に帰するものとした。3年近くの奮戦を経て、

19725月になり、この工場の最初のコークス 炉、高炉が建設されて生産を開始した。515 日、天津市は"迎鉄祝捷"大会を開催し、この 工場で生産された生鉄を満載した最初の列車が 天津に到着したのを歓待した。さらに3年奮戦 して、19757月には当該工場の二つ目のコー クス炉、高炉が継続して建設され、生産を開始 した。これと関連するものとして、さらに天津 初軋廠[圧延工場]、第二煉鋼廠[製鋼所]な どの工場の新たな建設と改造の工程があった。

それによって冶金工業は"三五"時期、"四五"

時期の平均毎年成長の速度はそれぞれ10.3%と 9.9%に達することとなり、全市工業の平均成 長速度よりわずかに高いものとなった。機械工 業のうち、大型機器工場、トラクター工場、新 港造船所、新河造船所などに対して、比較的大 きな建設の継続、増築を行なった。これらの建 設項目の生産の開始は、天津の機械工業の生産 能力を向上させ、"三五"時期、"四五"時期の 毎年平均の成長速度をして、それぞれ15.7%と 9.4%に達することとなり、また全市工業の平 均成長速度よりも高かった。機械工業の生産額 は、その全市の工業生産総額における比重も、

1965年の21.2%から1975年の28.6%まで向上し、

全市の工業の中で生産額が占める比重がもっと も大きい工業部門となった。

天津の軽紡績工業は10年の"文化大革命"の 中で、建設の重点に並べられることはなく、そ の発展速度は明らかに重工業より立ち遅れてい た。しかし軽紡績工業の中のある幾つかの製品 の発展は、やはり比較的速かった。例えば"飛 鴿"印の自転車を生産する天津自行車廠[自転 車工場]は、1969年から技術革新と技術改造を 行ない、4年余りの努力を経て、自転車の生産

が1969年の60万輌から1974年の100万輌にまで 増加した。天津手表廠[腕時計工場]は1973年 から"海鴎"印の腕時計を輸出し始めた。腕時 計の生産量は、1965年には13.3万個となり、

1975年になると100万個を超えた。天津縫紉機 廠[ミシン工場]は1973年に投資の増加を開始 し、基本建設項目となった。1974年はさらに主 機工場の部品生産が郊外の県にまで拡散し、20 余りの加工所が建設された。ミシンの生産量 は、1975年と1965年を比べると3.1倍増加し、

僅かに上海、広東に継ぐ、全国のミシン生産基 地の一つとなった。たとえそうであろうとも、

当時の極左路線の妨害と種々の破壊によって、

大衆の生産の積極性を発揮させるのはやはり困 難であった。

(三)このような成長速度と、1963年から 1965年まで行なわれた国民経済の調整がもたら した後から出てくる力も、一定の関係がある。

1963年から1965年までの調整の時期、すでに 基本的に順調な国民経済の主要な比例関係であ り、決して1966年に始まった"文化大革命"の 衝撃でただちに平衡を失ったのではなく、まさ に順調な経済関係がある一つの過程を必要とす るのと同じく、比例関係の失調をもたらし、並 びに経済運用の中で明らかになってくるのも、

やはり一つの過程を必要としている。国民経済 を 連 続 し て 運 用 す る 過 程 か ら 分 析 す る と、

"三五"、"四五"期間のいくつかの年度(たと えば1966年)国民経済が比較的高い成長速度を 維持することができたのは、実際上、前の運用 期間に行われた調整の、後から出てくる作用が もたらした結果と関係がある。いったんこのよ うな後からの作用が使い果たされると、国民経 済の運用は大いに困難な境地に陥ることになる のである。

こ こ か ら 以 下 の こ と が 分 か る。" 三 五 "、

"四五"期間の天津の国民経済が一定の成長を 維持できたのは、様々な要因の総合的作用の結 果である。同時に、この種の成長速度は、それ 自身すでに危険を孕んでおり、事実上、比例の 失調、効果利益の下降、人民生活のレベルが影

(14)

響を受ける等の、後からの結果が現われた。

1976106日、中共中央は全党と全国人民 の意向を執り行い、断固とした措置を取り、一 挙に"四人組"を粉砕し、10年の内乱である"文 化大革命"がここに終結したことを宣言した。

天津の700万人民は大いに喜び、1021日から、

連日勢い盛んな集会やデモを行ない ―全市で 銅鑼や太鼓を打ち鳴らし、爆竹を鳴らし、家々 では喜びの麺を食べ、至る所で喜びの酒を飲み、

この歴史的な偉大な勝利を熱烈に祝賀した。

9 まとめ

以上、『当代中国』より、文化大革命に関す る記述を見てきた。気づいた点を挙げてみる。

文化大革命は、当初、文芸運動という形で始 まったが、これらの記述からは、文革に至るま での文芸批判運動の流れがよく分からない。

天津の文化大革命を題材とした日本語書籍 に、以下のものがある。

馮驥才著、田口佐紀子訳『ドキュメント 庶 民が語る中国文化大革命』、講談社、1988年(原 著『一百個的十年』 香江出版公司、1987年)。

この書籍には、主に天津(文中、T市となって いるが、作者は天津在住で、多く天津を題材と している作家なので、天津であろう)で文革を 体験した10名の体験談が書かれている。

王輝著、橋爪大三郎、張静華監修、中路陽子 訳『文化大革命の真実 天津大動乱』、ミネルァ 書房、2013年(原題『天津文革親歴紀事』2006 年)。著者の王輝氏は1930年天津出身で、長年 中国共産党天津市委員会弁公室に努めており、

文革初期には文革弁公室の副主任、文革終結時 には中共天津市委員会および天津市革命委員会 の弁公庁主任を務めていた9。同書では、天津 における文革について詳細な記録と回想、分析 がなされている。王輝氏は、文革時に「天津経 済が崩壊の瀬戸際だったことはない」、「経済は ずっと持続的に成長している」としている10。 その理由として、一つには、各部門で実務を担 当する「主な責任者はやはり経験豊富な領導幹

部だった」こと、二つ目には、文革の時期、「各 級の領導幹部の作風は清廉潔白だったこと」こ と、三つ目には「当時の労働者農民は共産党・

政府に対して尊敬の念と一体感を強く感じてお り、党と政府を信頼し、社会全体の雰囲気がよ く、道徳はもとより、職業倫理が高かった」こ とを挙げている11。また王輝氏は、天津の文革 が他の地方ほど激烈でなかった理由として、

「濃厚な港町文化」とその「柔軟性に富み、闘 争性が弱い」特徴を挙げている。また「文革が 改革開放の道を開いたという逆説」にも言及し ており、それは第一に、「思想の上から、毛沢 東個人に対する迷信を取り除いた」、第二に、

「「文革」は、高度に集中した伝統的な計画経済 を打破し、改革開放のための条件を創造した」

ことを挙げ、「「文革」は完全に誤りであるが、

それでも「文革」の一〇年間の活動が全て誤り だったわけではない。この一〇年、経済建設は 緩やかではあるが着実に進み、国防はしっかり していた」と述べている12

今後、引き続き、天津の改革開放の状況など について見てゆきたいと思う。

1 新潟県立大学国際地域学部([email protected]

2 『当代中国』、144~150頁。

3 同上、153~154頁。

4 同上、154~157頁。

5 同上、157~158頁。

6 同上、158~159頁。

7 同上、159~166頁。

8 同上、168~175頁。

9 王輝著、橋爪大三郎、張静華監修、中路陽子訳『文 化大革命の真実 天津大動乱』ミネルヴァ書房、

2013年、「序文」ⅰ。

10 同上、487頁。

11 同上、490492頁。

12 同上、511513頁。

参照

関連したドキュメント

 事業アプローチは,貸借対照表の借方に着目し,投下資本とは総資産額

の主として労働制的な分配の手段となった。それは資本における財産権を弱め,ほとん

2012 年度時点では、我が国は年間約 13.6 億トンの天然資源を消費しているが、その

2012 年度時点では、我が国は年間約 13.6 億トンの天然資源を消費しているが、その

■特定建設業者である注文者は、受注者(特定建設業者

告—欧米豪の法制度と対比においてー』 , 知的財産の適切な保護に関する調査研究 ,2008,II-1 頁による。.. え ,

企業会計審議会による「固定資産の減損に係る会計基準」の対象となる。減損の兆 候が認められる場合は、

従って,今後設計する機器等については,JSME 規格に限定するものではなく,日本産業 規格(JIS)等の国内外の民間規格に適合した工業用品の採用,或いは American