茨城大学教育学部紀要(教育科学)31号(1982)49−65 49
国立国会図書館・中井副館長就任までの経緯
特に新村猛氏の証言を中心として
佐 藤 晋 一!
(1981年10月15日受理)
The Life of Nakai Masakazu up to his appointment as a Sub{.ibrarian of
National Diet Library:According to Shinmura Takeshi s works on Nakai
Shirトichi SAToH
(Received October 15,1981)
は じ め に
まさかず
?苣ウ一(1900〜1952)が,当初国立国会図書館(以下,国会図と略記)の館長に擬せられて いながら,難行に難行の末に結局副館長に就任したのは1948年4月16日であった。中井正一が,
それまで在職していた尾道市立図書館長から国会図・副館長に就任するまでの経緯は,非常に重 要な問題を含んでいる。中井自身にとっても,また中井を推せんした側にとってもそうである。
1979年に刊行されたr国立国会図書館三十年史』及び1980年刊行のr国立国会図書館三十年史・
資料篇』は国会図側からの証言として重要なものである。前者の書の中でも館長・副館長の人選 1)
ヘ参議院側の推す中井正一館長案と衆議院側の意見とが対立して「決して簡単には決定しなかった」
と記されている。
「敗戦に打ちひしがれた日本が,民主政治の確立と文化国家の建設に将来の活路を見出し,この
目的達成の礎石を国会図の創設に求めた。したがってこうした重大な使命を付托するに足る館長 2)の人選は内外注視の的であった」とするならば,館長・副館長人事が何故〈簡単には決定〉しな
かったのかという問題は,一一般的に言えば戦後日本が向かうべき方向との関連において分析され る必要があるだろう。範囲を限定して教育との関連で考えてみても,このことは無視できないで
あろう。即ち,国会図のモットーは「真理がわれらを自由にする」という国会図法前文の文言に 3)
sされているが,戦後日本の教育の出発点はまさしくこの点と,更に「最大の希望は子供にある」
ことの確認との2点にあったと言っても過言ではない。言うまでもないことだが国会図法は,憲法,
教育基本法,図書館法,学校図書館法,社会教育法,そしてアメリカ教育使節団報告書,教育委 員会の公選制と密接な内的関連性を有していた。教育をいかなる見通しのもとで考え,そして実 践してゆくべきかは国会図の創設とかかわる問題であったと言えよう。
中井正一が,館長ではなく副館長に就任するに至るまでの経緯については,これまでにいくつ かの研究や言及があるが,わけても当時参議院図書館運営委員長であって,中井館長案を最後ま で推した羽仁五郎氏の記述・発言は最も重要で信頼できるものであり,本質的にはそれらによっ て〈経緯〉は十分に説明し尽されていると見なしてよいであろう。とは言え,羽仁氏の記述等が
*茨城大学教育学部教育学研究室
更にいくつかの点で補足されるならば,それはより全きものとなるであろうと言えなくはない。
殊に,中井とは『世界文化』以来の友人であり,中井の館長就任をめぐって尽力するところの大 きかった新村猛氏の語るところの諸事実は,羽仁氏の記述等に対する極めて重大な補足であると 言える。もっとも新村氏の発言の内容は後にみるように,既に,かつて参議院調査部におり中井
やすし
副館長のもとで中井と共に苦闘した前・国会図副館長の酒井悌氏(1980年3月21日付で退職)に よって公表されている文章(酒井氏自身が新村氏から直接聞いた話がもととなっているもの)と 重複するところがある。その上酒井氏は羽仁氏との対談の中で羽仁氏自身に対して,新村氏から 聞いた話の内容を語っている。その対談は本年6月30日に刊行された,羽仁五郎氏の著書『図書 館の論理一羽仁五郎の発言』 (日外アソシエーツ刊)に収められている。従ってく補足〉はおお よそなされたとも言えよう。筆者が新村氏に直接伺うことのできた話の内容と多くの点で一致す るからである。しかしながら,酒井氏の文章を充分に参照させていただくのは言うまでもないが,
ともかくも新村氏の発言を忠実に再現してみることによって,羽仁氏の記述等へのくもう一つの補 足〉としておきたい。そうすることによって中井副館長就任までの経緯が,より少しでも明瞭な ものとなればと思う。また,新村氏が課してくれた筆者への課題をいささかなりでも果せたらと
思う。
そこで,まず羽仁氏の記述・発言に従って経緯を追い,次に新村氏の発言を採り上げてゆこう。
1.館長候補にあげられるまで
羽仁氏は参議院図書館運営委員長として,中井を国会図館長の最適任者として認めてから一貫 して中井館長案を強く主張し,推進しつづけた。氏は第1,第2国会で図書館運営委員会を務めた。
1948年10月12日の第3国会からは金子洋文氏が代って委員長となった。この羽仁氏の経過説明が 最も信頼しうるものであることは言うまでもない。羽仁氏の最も新しい談話(1980年11月18日)
から紹介してゆこう。r僕が参議院の図書館運営委員長になった(1947年5月20日国会議員に選
4) 5)
出され,6月3日就任)ら(18頁)」, 「6月21日」に「占領軍総司令部,GHQの国会課長だ ったジャスティン・ウイリアムス(知stin Williams)が僕に会いたいと言って来た……(そして)
『自分は日本の民主々義を建設する上に,国会図というものは非常に重要だと思う。それは,今 の日本の状態では,官僚がすべての資料を持っていて,議員は立法者だといっても全然何の資料 も持っていない,これでは本当の民主々義的な議会政治にはならない。だから,国会図書館って いうものにすべての資料を集め調査機能も持たす。官僚の持っている資料を全部吸い上げ利用で きるような国会図を,ぜひ作るべきだ』という。それから館長には若い館長を任命しろと言うん だよ。それは,アメリカの議会図書館が今日のような立派な図書館になったその基礎を作ったの は,ハーバート・バトナム(Herbert Putnam)という館長が三十いくつでもって館長に任命さ れたからだ。誰でも,三十才ぐらいで館長になると六十まで生きるとしても三十年間ある。三十 年間あれば自分の理想というものを実現することができるっていうんだよ。日本でも新しい国会 図を作るんだから三十代の館長を作れ,と。あなたならそういう話がわかるだろうって言うんだ よ。だから僕は,『僕もいままであんまり考えたことはないが,非常にいい考えだ,その考えで やろう』ということで,それで家へ帰って来て,三十代の館長っているだろうか,ちょっと考え てもいないんだと言ったら,羽仁説子が若い館長候補者がいるじゃないかって言うんだよね。それ 4)
ェ中井正一だった(18〜19頁)。」
また,「私を委員長とする参議院の図書館運営委員会は新聞社や大学や図書館やそのほか各方
佐藤:国立国会図書館・中井副館長就任までの経緯 51
面の意見もきいて,その結果,第一に若い人,第二に近代的の文化的感覚とともに民主的政治感
覚をそなえた人物,第三に今後数十年のみとおしをもつ進歩的の人物,という要件をそなえた人 4)
ィ(132頁)」を要望していた。この委員会は,さらに具体的に「広く国内の文化界・学界・ジャ
一ナリズム等の諸機関にアンケートを出し館長の適性とそれを具備した人材の推せんを求め」て 2♪もいたが「その回答の中に中井正一の名も散見していた。」酒井氏によれば「新聞社とか放送関
係,学術団体,労働組合等百数十の機関に対し『館長にはどのような人がいいか』ということを 4)羽仁委員長の名前で,アンケートをわれわれがガリ版を切って,出した(28頁)」のだというこ
とである。これに対し「衆議院の中村委員長が,国家の機関の長を決めるのに,一般からの意思 4)を求めるなどとはもっての外だと,両院の合同委員会で羽仁先生にくってかか(29頁)」ると
いうこともあったという。
の H仁氏自身,「本当に図書館に興味を持ったのはね,やっぱり国会図に関係してから(9頁)」
なのである。氏は1947年参議院に当選し,図書館運営委員長になったのである。この時中井は尾 道市立図書館長であった。国会図館長問題について羽仁氏が本格的にとりくむようになったのは
1947年以降ということになる。だから「巷間中井が羽仁五郎委員長と旧知であり,そのたあ羽仁 2)
セている。つまり,中井と羽仁氏は既に1946年10月5日京都大学で開催された三木清・戸坂潤追 7)
焔L念講演会において,新村氏,真下信一氏,久野収氏らの紹介で会っていたのである。そして 8)
シ者はこの集会で前後して講演をしているけれども,両者は,この時点では旧知や親友という程 のことはなかったようである。羽仁氏も言っている。「中井正一っていうのは,京都から三木清 が,東京に出て来た時に(三木は1927年4月法政大学教授となった。東京に居を移すのは1929年。)
京都で三木の後を継ぐような奴はいないのかって聞いたら,『殆んどいないが,ただ一人いる。 4) 一
?苣ウ一だ,と』その時言った(19頁)。」この発言からしても,羽仁氏と中井は,たしかに『世 界文化』への羽仁氏の協力があり,新村,真下,久野氏らを通じての間接的な交流はあったし,
その意味では相識るところがあったとは言えるが,それ以上ではなかったと言えよう。
だが,敗戦後初の公選首長選挙が1947年4月5日に行われることになり,中井は広島県知事選 9)挙に立候補し惜しくも敗れることになるのだが,この首長選挙とほぼ平行して行われたのが第一
回参議院選挙であり,羽仁氏が無所属で立候補していたのである。4月22日には当選が確実とな った。中井は県知事選に社会党公認のく民主陣営統一候補者〉として立候補したという事も一つ の理由となったのであろうが,羽仁氏の応援をしたのである。中井が羽仁氏を支援したもう一つ
の理由は,『世界文化』におけるつながり,それと関連するところの,新村氏が全力を傾けて創設 10)しようとしていたく京都人文学園〉と羽仁氏とのつながりにも求められるだろう。
参議院議員となり,図書館運営委員長となった羽仁氏が館長候補者について具体的に思いをめぐ らしていた時に,羽仁説子氏が中井を推したというのである。「僕(五郎)の参議院の最初の選 挙の時に,中井君は僕の立候補の趣旨とか意義とかを理解してくれて彼の地元の広島で非常に熱
4) 9)
心に仕事をやってくれた(19頁)」こと,「新しい戦後の文化活動に飛び回ってなかなかの実績 4)
ーていたこと(19頁)」を聞き,中井に対する信頼感を深めたようである。羽仁説子氏も「あ
あいう人なら,官僚のもっている資料を全部おさえて,本当に議会政治が官僚政治を打破する仕 4)
魔ェやれる(19頁)」と語ったという。この見通しは後に正しかったことが立証され,中井は世 界的にも例を見ない国会図の〈支部図書館制度〉を具体化していったのである。この中井の構想
は,1936年1月〜3月のr世界文化』に書いた「委員会の論理(1)(2){3)」にあったと羽仁氏は観
ている。 「僕は中井正一の論文 委員会の論理 を読んで,近代合議制の理解の高さにおいて比 4)
゙なき思想家であることを知っていた(171頁)」というのである。三木 清が中井を高く評価し た理由も,「委員会の論理」にあったと言える。
そこで「中井君を館長候補にするにはまず中井君に会ってみなくてはならんと思っていた」羽 仁氏は, 「新しい国会の始まった最初の年の夏,敗戦の翌年かな。ちょうど『中国新聞』が二人 の講師を呼んで,夏期講座というのをやった。その二人が,僕と金森徳次郎なんだよね。広島の
近くの因島という島で夏期講座がある。それで,尾道で中井君と会えるというので,中井君の家 4)
ノ行った(20頁)」というのである。ところで羽仁氏は別のところでは,「中井正一君を尾道に
訪ねたいと思っていたときに,ちょうど『中国新聞』という,当時なかなか進歩的だった新聞が 11)
道に近い忠海で夏期講座を開き,僕を講師に呼んだ(295頁)」と書いている。ここでは夏期 講座の期日がいつかは記されていないが,1947年のことであることは間違いないだろう。ただ,
羽仁氏は,「中国新聞」主催の夏期講座に出席する際に中井に会おうとして尾道に出向いたのが o
u1947年の夏(171頁)」であると語っているのだが,ところが中井等を中心とする広島県労働 12)
カ化協会主催の労農提携による夏期講座(夏季大学)が,やはり1947年の7月から8月にかけて 開かれていて,そこに羽仁氏は講師として招かれているのである。中井は書いている。「夏には,
私は大キャンペーンを企てた。羽仁五郎,平野義太郎氏等二十一人の東京の知識文化陣を二十二 13)
P市町村にばらまいて,労農提携の夏期大学講座を,労働文化協会でもつ」というキャンペーン
を。山陽新聞7月15日号(351号)によれば羽仁氏は,7月28日に尾道の夏期大学に講師として 、 14)
?トいる。そして「人民の歴史」について講義をしている。7月30日には佐伯郡地御前村の夏期 12)
蜉wで講義をしている。
いずれにせよ,羽仁氏は中井に会いに尾道に赴いた。ところが「中井君は留守で,お母さんが
出て来て,『まもなく帰るだろうから』と言うので,待つことにした。夏で,えらく暑かったん 4)
ナrお風呂へお入り』とお母さんが言うんだ(20頁)。」この中井の母の「風呂に入れ」は有名な 15)エピソードで,孫娘の由紀子氏も「いつもお風呂をわかして誰でもお風呂に入れとすすめ」たと
書いている。羽仁氏は入浴後,「お母さんに先に相談してみるかと思って,『中井君を新しくで きる国会図の館長にしようと思っているのだけれども,お母さんはどう思うか』と言うとrぜひ
そうしてくれ』と言うんだね。『どうしてぜひそうしてくれと言うのか』って言ったら,『実は, 4)
ウ一を産むについては,自分もずい分苦しんだ』と言う(21頁)。」中井は日本最初の帝王切開に よって生まれたのであった。中井の母・千代は子供が助かるのは七割,母が助かるのは三割とい
う主治医緒方正清の話を聞き「母親として三割しか助からないというのは悲しいが,しかし子供 4)
ヘ七割助かるというのなら,やはりやってもらおう(21頁)」と決意して産んだのである。そう いう子だと千代は羽仁氏に語ったと言う。次に「広島という舞台では,労して甲斐なしという感
じがする」ので, 「もっと日本全国を相手にして労して甲斐あるような仕事をさせてもらいたい」 4)ので「ぜひ東京に連れてってくれ(22頁)」と言ったのだそうである。つまり「尾道でやってい oる仕事は効が少い。もし国会図で働くなら多少役に立つんじゃないかと思う(142頁)」,「もっ 11}
ニ日本の役に立っような仕事をしてもらいたいと思うから(293頁)」というのが賛成の理由だ というのである。「そこへ中井君が帰って来たので,もうお母さんとの話できまってしまったよ
ナ)。」中井はしばらく悩んだすえ羽仁氏の提案をうけ入れることになるのである。
さて,ここまでを第一段階とするなら,中井館長案がついに拒否されて,結果的に金森館長・
佐藤:国立国会図書館・中井副館長就任までの経緯 53
中井副館長に至るまでが第二段階となるであろう。第一段階は,従って1947年8月までであり,
それから1948年2月9日の国会図法公布施行をはさんで4月16日の中井副館長任命までが第二段 階といえよう。細かく言えば,公式に中井副館長案が論義されるのは2月9日以降であるから,第 二段階はさらに1947年8月から1948年2月9日までと,2月10日から4月16日までの時期とに分 けることができよう。中井が羽仁氏の提案をうけ入れて東京に出る決心をすることが,いつごろ
どのようにしてなされたのか,そしてそこにいかなる問題があったのかについては,既に筆者は 9)
瘧アの検討をしているので,本稿ではもっぱら中井館長案が否定されてゆく経過を追ってゆきた
い。
2.副館長就任まで
1947年8月のく接触〉の際中井を説得できると判断した羽仁氏は,中井館長案を強力に推進し てゆくことになる。1948年2月10日の参議院図書館運営委員会において「国立国会図書館長選任 に関する件」について氏は,委員長報告をしている。 「館長及び副館長の問題について本委員会 は昨年数カ月にわたって調査討議の結果,現在の尾道図書館長の中井正一君を国立国会図書館長 とすることが最も適任であるという結論に到達し,全会一致で中井正一君を館長に推薦,これを
協議の結果,最近に至って金森徳次郎氏を館長,中井君を副館長とする考えで進んでおり,委員会の意見 Dを求められた。」この報告からすると,羽仁氏を中心とする委員会(徳川宗敬,徳川頼貞,山本有三,金
子洋文,岩本月洲,堀真琴,小林勝馬等が委員)は,1947年6月3日の羽仁委員長就任の時以来 精力的な活動を行っていた模様である。同年8月羽仁氏が尾道で中井に会ったのは,必ずしも羽 仁氏個人の判断によるものとは言えないのではあるまいか。委員会の全会一致による中井館長案 を,当時の参議院議長松平恒雄に報告したのはいつか,そして松平議長と衆議院議長松岡駒吉と の協議の結果,金森館長・中井副館長案が出てくるのだが,それがいつか正確な日時は判然とし
ない。
まず,松平議長への報告は,1947年8月の羽仁・中井面談の後の,それほどおそくない時期に
おこなわれたものと思われる。中井の名が具体的に出た時,松平議長は羽仁氏に対して「絶対的 4)な信頼をよせていた(22頁)」せいもあるが(「松平議長は図書館運営委員長としてのぼくを素 11)直に信用していた(291頁)」し,「ぽくが選んだ館長候補なら,かならず任命してくれるだろ 11)うという確信をもって(292頁)」いたと羽仁氏自身,書いている。),松平議長は中井が京都大
学出身であることを知り,「私と大学の同窓でしかも長らく京都大学の図書館長だった新村出さ のに聞けばその人柄がわかるだろうから(22頁)」と,独自に事を運び新村出氏による推薦をう
けて最後まで中井館長案を積極的に支持した。衆議院の方から,中井が治安維持法違反で逮捕さ
れたことなどを理由に反対意見が出された時にも,羽仁氏によれば「この辺で手を引いちゃうん 4)じゃないかと思ったらば,『お任せしてあるんだから,このまま進行して下さい』と言った(32頁)」 4)
ニいう。松平議長は,酒井悌氏に新村出氏への伺いの手紙を「お前がその旨の手紙を書け(22頁)」 ㊧と命じ,酒井氏は「松平議長の名で手紙を書いた(22頁)」のであるという。中井自身も自から
の判断で新村出氏に相談をしている。新村出氏は「これ(中井)は自分の息子の猛と仲のいい男
で,自分の所にも終始遊びに来ていてよく知っている,あれだったらいい。私も推せんしようと 4)
vっていたところだ(22頁)」という返事を書いている。この,新村出氏の「返書といいますか,
推せん状といいますか,それは新村猛さんが直接持参して上京して手渡されたとのことです。こ
4) 2)
れは新しい発見です(22頁)。」酒井氏はこのことを「最近猛氏から承った」ことだと書いている。
「最近」とはいつのことか不明であるが,これは1981年5月に刊行された『中井正一全集』第4
巻附録の中でのべられている。また,酒井氏,山領氏と羽仁氏の座談会が1980年11月18日にあり, 4)
サこでも新村猛氏から「最近になって教えられた(22頁)」と語っている。
ところで酒井氏によると,松平議長は中井の名が具体的にあがる「以前から国会図館長に誰 oがよいか,ひそかに新村先生に相談しておったようです(22頁)」というのである。国会図の館
長人事が一般的にも関心を惹いた問題であったことを,間接的に示すエピソードと言えるのでは あるまいか。殊に松平議長は後に新村猛氏の証言にもでてくるが,「新しく設立される国会図の 性格付けに透徹した見識と不動の信念をもって,常に指導的発言をされた」というが,その「裏
には松平議長と東大の同窓であり,長年の親友であったわが国の図書館の先達,京都大学名誉教 16)
新村出氏の献言が大いに影響している(34頁)」という事実があった。従って,松平議長は単 に受動的な態度で中井館長案に対していたのではないと言えよう。
このような事情について,当時最も近くにいて努力していた酒井氏は語っている。 「羽仁委員 長と松平議長とが,中井正一についてはピタッと,偶然の一致といいますかね。そういうような
ことがあって,中井正一という名が浮び上ってきたんですね。松平さんは,羽仁さんは大変な人 4)
ィを知っていると驚いていました(23頁)。」この指摘は貴重なものであると思われる。
図書館運営委員会での空気についても,やはり酒井氏の話が参考になる。委員の一人。岩本月洲 氏は「本願寺の坊さんなんで,その月洲さんの法話を,信仰の厚い中井のお母さんが毎月毎月お 家に呼んで聞いておられた。それで中井正一の報告を羽仁先生がなさった時月洲さんが,『あの 息子はいいそ,賛成だ』ということになりましてね,徳川宗敬さんなんかは羽仁先生が推せんす る候補だからというので,一寸考えておられたようですが,松平議長も岩本月洲さんも,『中井
がいい』と言う。それじゃ言うことないじゃないかというわけで,全員一致で中井正一に決めた 4)
墲ッです(23頁)。」いろいろな曲折はあったようだが,少くとも1947年8月以降のある時点から は中井正一についての議論が,参議院の図書館運営委員会の方では中心であったと言えるようで
ある。
1948年2月9日に公布されることになる国立国会図書館法案の審議がはじまると,特に衆・参 両議院の図書館運営委員会合同懇談会の決定に基づいて,1947年7月12日に両院議長がアメリカ 図書館使節団の派遣をGHQに正式に申し入れたのに対して,同年12月14日免rner靴Clapp とCharles H. Brownが来日してからは,館長の資格に関する問題がハッキリと前面に出て来 た。12月17日には両使節を交えた両院図書館運営委員会合同打合会がもたれた。12月24日午後3 時から開かれた両院運営委員会合同会議では,その前々日22日にアメリカ使節団から渡された案
・「最高管理及び図書館長の資格要件」をもとに議論がなされ,26日にも両院常任委員会との会 合で論じられた。この時には衆議院では独自の候補者を考えていたようである。29日には午後
1時から2時まで参議院図書館運営委員会懇談会が開かれ,委員のすべてと小林事務総長,川上 法制部長,調査部の担当者(酒井氏も含まれている),坂西志保氏(アメリカ議会図書館<LC>
の元日本課長で,当時参議院外務委員会専門調査員),東洋文庫長岩井大慧が参加。羽仁委員長 は,「両使節団が館長は年若き才幹あるもので相当長年にわたって勤務し得る者を強力に要望し
ている旨を伝え,坂西はLCの実情を説明。この坂西の原稿は半紙15枚にわたる詳細なものであ 16)
驕i41頁)。」2時からは両院合同委員会。「参院側は委員全員出席するも,衆議院側は中村喜寿 め)委員長のみ(41頁)」が出席したという。そしてこの日,羽仁氏はクラップを訪問する。30日に
クラップは「羽仁と中村に手紙を書き,国会図館長選任について両院議長への力添えを申し出る
佐藤:国立国会図書館・中井副館長就任までの経緯 55
16)i41頁あ」1947年の動きはここまでであった。
さて,クラップは1948年1月4日に,日記に次のように記している。「松平氏を公邸に訪ね討 議,更に館長の資格について松岡氏と会談した(彼等はそれぞれ参議院議長,衆議院議長だ)。
松平は非常に優秀な人の様で,要点をはっきりとつかむ人だ。中村嘉寿衆議院図書館運営委員長 は羽仁を共産党員だと非難するが,松平はそんなこと位十分に心得ていて,羽仁が一番適格な人
を館長に選任しようという良心的な努力をしているのを十分承知しているし,また(私は)中村 16)の推薦するのは政治家のなれあい(Logrolling)に過ぎないと思っている(41〜2頁)。」
一体衆議院側はどうしていたのであろうか。衆議院では「館界の最長老姉崎正治博士をはじめ 2)として次々と候補者を出し,なかなか衆参意見の合致をみなかった」という。羽仁氏によると「松
岡駒吉は中村嘉寿委員長推薦である姉崎正治をのもうとした………柳田国男を推薦する動きもあ
11) 4)
った(295〜6頁)。」のみならず「衆議院事務総長の館長事務代行とかいろいろの曲折(38頁)」
があったようである。
1月の29日に羽仁委員長はクラップ・ブラウンを訪ね,そこで使節団の側で作成していた「国 立国会図書館法」の最終草案を見て,委員長として指示をして参議院事務局に作らせていた案文 よりも「数等優っていることを感じとり,そこでとっさに法律は使節団起草のものをそのまま採 用し,その代りとしてかねがね考えていた『真理がわれらを自由にする』一連の文句を,前文と して挿入したい旨を申し入れたところ,クラップは直ちに賛成したが,ブラウンはそれを英訳し て示して欲しいとのことで,そこでクラップ自身鉛筆をとって The National Diet Library is hereby established as a result of the firm oonviction that truth makes us free,
and with the object of contributing to internationaI peace and the dem㏄ratjzation of ねpan as promised in our constitution と訳しブラウンに示した。ブラウンはこれを一読したのち,
直ちに賛意を表し,前文は付けることによって,反って館法自体に筋が通って引き立ってきたと 16)
嘱槓喜びようであった(43頁)。」この有名な前文の文言を羽仁氏はフライブルク大学にある
( WAHRHEIT WIRD MAN FREI MACHEN と印されているという)のを留学中に見て 16)いて,事務局に対して「これを何とか織りこめないか(43頁)」と要請していたのであったのだ 16)が,「法律になじまない語句なのでわれわれはその取扱いに苦慮していた(43頁)」と酒井氏は
回想している。 4)
@「クラップとブラウンを中心に両委員会が練り上げた(43頁)」国会図法は,2月4日「午前
ナ)。」2月6日には,両院議長主催の晩餐会があった。2月10日夜「クラップ・ブラウン両使節 はその図書館使節の任務を終って帰国するに先立って,連合軍最高司令部を代表するウィリアムス 博士(民政局国会課長)などの列席をもって,衆参両院の議長および図書館運営委員長を夕食会 に招待し,その際すでに国会図の初代の館長および副館長としての任命を予定されていた金森徳
ノ 17)
沽Yおよび中井正一の両君をそこに招待した。」尚,アメリカ側からは他に,国会課のロオプ女 史,民間情報局ニゥジェント局長,オァ次長も列席している。翌,2月11日にクラップとブラウ ンは帰国した。このように,羽仁氏の記しているところによれば2月10日には金森館長,中井副
1947年12月30日にクラップは,難行している館長問題に対する〈力添え〉を申し出ている。ま
た,翌年1月4日には松平議長と会っている。この時点でもクラップの記しているところによる
と,参院側の中井館長案がまだ優位にあったようである。松平議長は「ちゃんとクラップにも o
i『このまま進行してFさい』ということを)言っているんです(32頁)」と酒井氏は語ってい
る。ところが,羽仁氏によると「中井正一君が副館長に就任したこと……・㍗これは実際はむしろ 4)
阯フ軍の考えだったんです(140頁),」ということになる。衆院側は最後になって金森館長案を 出して来た。それがいつのことかは残念ながら判然としていないが,おそらく,1948年1月から
カている。このような案の出し方であれば,当然の如く決着をみるには至るまい。 『国立国会図 書館三十年史』が述べているように参院側は一貫して中井館長案を主張し,その実現に努力して 来た。それに対し衆院側は何度かく意見〉を出したのである。衆院側のこのような態度について は,後述のような事情があったのだという。
国会図法案は大体かたまり国会提出が急がれていた。延期することは許されない。こういう情 況の中で,ジャスティン・ウィリアムスが羽仁委員長に対して次のように語ったのだそうである。
「『中井を館長でおすのは無理だ。衆議院も姉崎なんていうのはひっこめて,やはり日本の今の 民主々義,議会政治の憲法を作るのに最も活動した金森徳次郎を館長に推せんしたのだから金森,
中井で争うということは無理だ。中井君は年齢が若いということがあるし,参議院側の候補という
こともあるから,中井君を副館長にしてくれ。それを君が承知すれば,マッカーサーの名前で, 4)
熬閧フパーティを開く』と言って来た(41頁)。」 「中井君はハーベート・バトナムがコングレス
・ライブラリーを三十年かかって築いたように,いずれ館長になってじゅうぶんに能力を発揮で 11)
ォるではないか(296頁)」とウイリアムスは羽仁委員長を説得したのである。羽仁氏は「その の
bを聞いた日には,家に帰ってから生まれて初あて泣いた(41頁)」という。「じつに残念だっ 11)た(296頁)」という言葉は重い響きをもつ。羽仁氏は「これを(金森館長案を)のめば必ず中 4)
苺寢ル長を任命するというので,この条件をのんだ(143頁)。」「衆議院の松岡駒吉議長は,金 森徳次郎博士を国立国会図書館長候補として承認して,その任命について参議院議長に合議を申し 入れてきた。ここにおいて参議院議長松平恒雄君は,ついに参議院の図書館運営委員長としての
ぼくを説得して,中井正一君を副館長として任命することを条件として,金森徳次郎博士を館長 4)として任命しようとする衆議院議長案に同意した(171〜2頁)。」にも拘らず「なかなか衆参両 4)
@の議長は任命しない(143頁)。」新報知新聞は2月11日に,〈初代国会図書館長金森さんの抱 18)
堰rという記事を掲載した。金森館長の任命すら2月25日になってであり,それも「副館長の人 1)選は未定のままで(61頁)」なされたのであった。
上述のようにウィリアムスは内定のパーティを,クラップ・ブラウンの帰国する前日,即ち2
月10日に「クラップ・ブラウン両使節が最高司令部で,中井君と金森君とを副館長と館長の内定 11)
メとして招待するという宴会を,ひらいてくれた(296頁)。」帝国ホテルでこのパーティがおこな
われた。 「もちろんマッカーサーは出て来なかったけれど。占領軍側が,国会図書館長と副館長 4)とを了解したということだ(42頁)。」この「一種の非合法の会合」については「何の記録も残っ 4)ていない(143頁)」のだが,「占領軍の代表者と衆参両議院の図書館運営委員長と両院議長, の金森,中井両氏が呼ばれ(143頁)」て出席していた。2月12日の中国新聞は中井副館長の内定
を報じている。羽仁氏は1962年には,「日本の方がなかなか任命しないんで,占領軍側で二人を の先に任命しちゃったんです(144頁)」と話していたが,1980年には「了解したということだ。
4)
ネかなか,任命というところまで持っていけなかったんだ(42頁)」と回想している。こちらの
佐藤:国立国会図書館・中井副館長就任までの経緯 57
方が事実に近いように思われる。
さて,ところが2月24日に衆議院図書館運営委員会が「国立国会図書館長並びに副館長任命に 関する件」で,委員会を開いた。席上,中村委員長は次のような発言をした(尚,当時の衆院図
書館運営委員には「吉田茂,芦田均,片山哲,石井光次郎,三木武夫などの政界の大物」がいたが, 4)「委員会などには出席してきません(25頁)」でしたと,酒井氏は回想している。)。
「(金森館長推せんについては)全員異議がないのでさようにお取り計らい願いたい。なお,
金森徳次郎氏を館長に推せんすることを本委員会は承認したが,これにはある人を副館長として 推せんする条件がついているごとく聞かれている。そのようなことはないと信ずるが,そういう
ことのないことを希望する。由来図書館の設立にあたり本委員会は,これを日本の知識の泉とし,
また立法のブレーンとし,整理の元締として,不秩序におこなわれているわが国の社会情勢,産 業情勢その他のものを能率増進するようにしたいという考え方から,この設立に努力をしてきた。
この目的を達成するためには,館長,副館長はもちろんのこと,ここに働く人々は人選を厳重に し,党派に関係したり,政治活動をすることを避けなければならない。このことは法律に厳に戒 められている。
何か交換条件のように,あるいはやみ取引のような形で副館長を任命することがあっては,禍 根を百年にのこすことになる。よって副館長の任命については人選を厳にしてもらいたい。副館
長は館長の代行をしなければならないことが往々あるのであるから,その識見,閲歴,人格にお 1)いて立派な模範的の人でなければならない(60〜61頁)。」
その上に,中村委員長は次のような決議をすることを提案した。
「 決 議
国立国会図書館の副館長は,国立国会図書館法第九条の規定により,館長が両議院の議長の承 認を得て任命するということになっている。館長の任命は,第四条により,両議院の議長が両議 院の図書館運営委員長と協議の後,国会の承認を得て行われる。その任命に際し,副館長の任命 を条件づけるということは,健全なる図書館の発展のため厳に戒めねばならぬ。衆議院図書館運 営委員会は,法律の本旨を体し,公明な人事の運用を期するため,大義名分に従って,副館長の
任命は厳に立法精神に立脚して行わるべきものなることをここに決議する。 D
@ 昭和二十三年二月二十四日。 (62頁)」
この決議案は正式に採択されたのである。このことに加えて驚くべきことには,ともかくもや っとのことで2月25日に至って館長が任命されたのだが,その翌日の26日には「中村委員長から
(金森)館長にあてて副館長候補者中井正一氏履歴書請求の件が提出され,また福井検事総長宛 に中井氏の性行,思想傾向,治安維持法違反に関する事項,その他参考事項に関する調査依頼の
6) 2)
カ書が送られた(22頁)」というのである。この文書は「極秘裏に」発送されたのである。「福 井検事総長からは三月三日に詳しい調査書が送られ,衆議院図書館運営委員会は全く硬化して中
ナ)。」このうち特に,治安維持法による有罪判決をうけたことが大きい問題とされたようである。
中村委員長がこうした行為をとったことにっいて,酒井氏は語っている。「中井さんを副館長 にするのに,中村嘉寿さんが反対するのには実は裏がありまして,使節団と運営委員が討論協議 するのに(39頁)」,「参議院の方は私なども出ていて記録をとったりして全部知っているが,衆 議院の方は委員長と担当の課長と二人しか出てこない。秘密主義でね。それで衆議院の運営委員 連中は僕たちのところにどうなっているのだと情報を聞きに来たものです(36頁)。」「その課長
に中村さんが『お前を副館長にしてやる』と先づけ手形を出しているものですから,その人は中 村さんの言いなりになって犬馬の労を尽した。それが中井さんが副館長になるとブイになるので ね。単に中井さんの思想信条に対する反対だけではないのです。クラップもこのことを十分承知 4)オて(39頁)」いたという(クラップのもった感想については,酒井悌・鈴木幸久の論文(註の 魎
P6)の文献)を参照されたい)。同時にこの頃,中井に対しての「あることないことのひどい中傷 が」あり,国会付近や「目白の自由学園の回りにも,ずい分ビラやポスターをはりめぐらされたり なんかした(39頁)1㍉新村猛氏も「創設間もない国会図書館をたずねた際灘宮(図書館)周辺 の樹木に極右分子がくアカを副館長にするな/〉というふうな趣旨のポスターをあちこちに張っ ていた」と記している。羽仁委員長側も,これらの動きに対して闘った。 「中井正一君は共産19)
主義者であるから国会図書館長候補として適当でない,という反対および攻撃がおこり,占領軍 当局にむかってかれを中傷するものもあった。これらに対して,ぼくは中井正一君の学生時代以 来の友人であった当時片山内閣の商工相水谷長三郎君が,かれを信頼することのできる人物であ り,館長候補として最も適当であるとした証言を,委員会および占領軍当局に提出するなど(71
@4)ナ)」したのである。
任命されたばかりの金森館長はかくして,2月末から3月にかけて「何度か中井氏に会ってそ の人物を検討し,副館長任命の可否について熟慮(22頁)」していたのであるが,3月24日にな
って衆院図書運営委員会は「当時の松岡議長の出席を求めて,中井氏の副館長任命は参院側の条 6)
助tではなかったかとただし(22頁)」た。松岡議長は「条件付ではないと答えている(22頁)。」
そればかりか,翌25日には「副館長任命に関する決議を行なっている(22頁)」のである。これ は2月24日の決議と同じ主旨であるが「館長を補佐する必要上,人格の高遵なること,偏傾なら
● ● ■ ● ・ ● ・
ざる思想の所有者たることを要し,同時に図書館業務につき多年の知識と経験とを持つ有資格者 6)任命せられんことを決議す(22頁)」とある。傍点を付した箇所なぞは,明らかに中井に対す
る国会図内部の反発を表わしているとみることができよう。執拗な反対の動きであった。この間 18)
R月6日には「新夕刊」がく決らぬ国会図書館副館長中井正一氏の内定に異議〉について報じた。
金森館長は,しかしながら「百般苦慮の末自己の責任においてついに中井を副館長に任命する 2)
アとに踏み切ったのである。」とは言うものの金森館長の残した手記には,中井に対する危惧が 表明されている。手記の全文は註の6)にあげた文献にのっているので,ここでは重要なところ を引用しよう。
「一、 中井君ハ
(イ積極的ナ図書館事務能力二於テ非常二適当デアルトスル実歴ハナイ。
(司消極的ナ面カラ言ウト従来ノ思想ヤ行動上二於テ,無色中庸ヲ必要トスル図書館員トシ テハ心配スルダケノ事実ガアル。但シ不適任ナリト確認シ得ル事実ガアルト言フノデハ
ナイ。
二、 略。
三、私ノ意見トシテハ……中井君ヲ副館長二任用シタイトハ思ハナイ。
四、然シコノ任用問題ハ従来種々ノ曲折ガアッタコトデアル。私トシテハ純粋ナ言ババ白紙 ノ立場デ之ヲ決スルコトハ出来ナイ。……若シ従来ノ考ヲカエルコトガ出来ルナラバカ エテ戴キタイト思ウ。
五、シカシソレデモ考エナオスコトガ出来ヌト言ウコトデアルナラバ,自分トシテハ先ニー 応承認シタ経過モアルコトダカラ止ムヲ得ズ之ヲ是認スルノ外ハナイ。
佐藤:国立国会図書館・中井副館長就任までの経緯 59
六、……私ハ中井君ノ将来二付イテ充分注意ヲセネバナラヌ。若シモ将来……禍根ノ心配ガ 単二心配デナクシテ実際的デアルコトノ脅威ガ生ズルナラバ之ヲ免職セネバナラヌコト ハ勿論デアル。」
かくして4月16日中井副館長が,ようやくのことで任命された。世界日報紙は,〈金森,中井 18)
シ氏内定,国会図書館正副館長〉と16日に報道した。これでさしもの反対も鎮まったかにみえた 6)
ェ「反中井運動はなお続いた(23頁)」のである。「中井さんが正式に決った後は,彼(衆議院 調査部第一課長)は,事実上の実権者になろうとして管理局長を強く希望した」が「金森館長は
@ 4)断乎としてこれをはねつけ,ついに管理局長は空席にしておきました(39頁)。」管理局は後に改 組されて管理部となり,1949年2月に初めて部長がおかれた。このことに成功しないと「今 度は彼の息のかかった者を呼びつけて,中井正一の名前で辞表をかかせ,三文判を買ってきて捺 せと強要した(39頁)4̲というのである。驚くべきことではあるが,当事者だった酉水孜郎氏は 書いている。 「反中井運動のうち特に印象に残る一つは円地與四松氏が衆議院常任委員会事務局
から図書館の受入局長に任命された日(五月三十一日)に私は谷中の彼の家に連れて行かれて中 井副館長の辞職願を代筆するように迫られたことである。他の一つは中井氏側も保身のための防 衛に立向ったことで,この場合には三通の文書が中井氏ほか二名の名で当時国会関係を担当して いたG・H・Qのウィリアムス博士のところへ提出されている。この結果G・H・Qから四項目 の指示があり,八月二十六日図書館組織の改組が行なわれ,調査局及び立法考査局以外の局は部 に改変,副館長の職務について次の点が明らかにされた。即ち『副館長は図書館全体の事務に関 し,館長を補佐し,受入部長及び整理部長を指揮監督する。館長に事故があり,又は館長の欠け
た時は副館長が館長の職務を行う』としたもので,いうまでもなく副館長としての中井氏の不満 6)
を緩和したのである。そしてこの時円地受入局長と細野一般考査局長が退職した(23頁)。」
一方,羽仁氏もこう書いている。「衆議院事務局のスタッフのひとりが,国会図書館のなかで 中井副館長を失脚させる陰謀をどうしてもやめないので,その人にやめてもらい,ぼくも委員長 11)辞任するということにまでなった(297頁)。」 20) ● ■
こうしてさしもの反対運動も終息せざるをえなくなった。中井が「田舎侍」と冷笑され,アカ だと攻撃されながらも,4月就任以来「外部の図書館人と良く接触して図書館界と国会図書館と フ意志の繭に全力を側た手晶や,「非常にむずかしかった支部図書館繊の確立に行政同 法部門を文字どおり飛び歩いて全搬球をして大きく鰍したことなど(24頁)6̲の実踊動を
通じて金森館長等の信頼を深めて行ったからでもある。そして日本図書館協会の理事長として 1950年には図書館法を成立させたのであ親他方で中井は,新しい図書館理論を構想し,とりわ け誕生間もない国会図の理論的な基礎固めをしたのである。このことは同時に図書館法を生み出 すための準備ともなっていた。
以上見て来たような,まことに「複雑な経緯を背負っての副館長就任ではあったが,中井はそ れら一部政治家とそれをめぐるグループの執拗ないわれなき中傷には一切頓着せず天命をここに 求あて酒々落々として全力投球の毎日であった。しかし彼は,ひそかにズボンの右ポケットに数 珠をしのばせており,事あった時には,それを固く握りしめて,ひたすら堪えに堪えていた。彼
は一合の配給の酒あらば,これを囲んで楽しみを分ちつっ多くの人々と館設立の理想を語り談笑 2)
の間に意志の流通をはかり,日ならずして全図書館人から全面的な支持をかち得たのである。」
尚,酒井氏の伝えるところによれば,1961年11月1日,国会図新庁舎落成の日の席上で・「かつて は中井いじめの先頭にたった運営委員の一人が私に『後で判ったことだが中井は大した人物であ
2)
チた。可愛想なことをした』との述懐を洩らされた」そうである。それが契機となって中井の母 と「会談が実現した。そしてその議員は母堂に対して深く頭を下げて不明を謝しぜ1という話が あるそうである。
3.新村猛氏の証言
新村氏は,中井の「国立国会図書館副館長就任に至るまでの事実の経過に,小生が関与した重 要な事実がありますので,それらを語り,将来中井正一研究の補充に資していただければ幸いで す(亡父と中井氏との関係にはこれまで誰も言及していないように見えます)」と,1981年1月2 日消印の私信において述べている。その新村氏の語るところを,テープによって再現しよう(1981 年1月20日,国際文化会館において収録したものである)。
『1946年10月5日に,中井の後輩である新村氏,久野収氏,羽仁五郎氏の一高の後輩である真下 信一氏などが,三木清・戸坂潤追悼集会を計画した。東京から羽仁氏,中井正一を尾道から呼ん 23)
ナ講演会をやろうということになった。ここで中井と羽仁氏がはじめて顔を合わせ,知り合う。
司会は久野君だったと思う。羽仁,中井両氏は講演をしている。京大の階段教室で行った。羽仁 氏は中井をr世界文化』で知ってはいたが,この日尾道市立図書館長をしていることを知って,
・ ● ● ● ● ● ● ● ● ●
館長として目をつけた(とすれば羽仁氏が参議院議員になる前の話となるが,ここでは中井が図書 館長として活動していることを知ったという意味に重点があろう)。』
当時坂西志儀詳が参院の外務委員会にいた。人文学園を設置する時に坂西氏の紹介でGHQ民 間情報局に行った。新村氏と坂西氏は親しかった。中井を国会図につれて来て,公表しろということになっ
た。羽仁氏も人文学園に講演に来た時,『中井君を参院の運営委員会で図書館長に推せんしたいと思うんだ
25)
と,僕(新村)と久野収に打ちあけた。で,中井君が登用されることに我々は異議なかった。当人が同意す るかどうかだった。また家族,奥さんやお母さんが同意するかどうかだったが,結局東京へ移った。
この時,羽仁氏が新村猛さんを副館長にしたいんだと言うんです,私に。そうしたら久野君が 怒ったんですよ。カンカンに。怒ったのはね,敗戦の年,11月の初めだったと思うんです。梅田
で久野君と清水幾太郎とおち会って,東京へ行って羽仁五郎さんを見舞いに行こうじゃないかと, 26)
夜汽車で出かけた。清水君は東京へ帰って来ただけで,久野君と私は二人で自由学園へ見舞に行 った。その時に,戦前自由学園だけが,軍事教練をやらないし自由を守っていた。関西にもそう いう学校が望ましい,と羽仁さんが言った。ぼくもそういう新しい教育運動をおこそうと考えて いた。 (羽仁氏に)激励されたわけですね。それですぐ帰ってから,すぐいろいろ準備をはじあ て翌年に人文学園を創設した(1946年3月9日学園創設発表。6月5日開校)。そういうふうに すすめておきながら,新村さんを引き抜くとは何じゃちゅうて怒った。カンカンに。ぼくは校長 だし,一流の人を講師におねがいしてなってもらっているので,ぼくはもう変る気なかった。
が・その案はね,坂西さんに会ったらあなたも副館長に矢島氏と共に,名前出てますよと言われ たんです。
そこで,中井氏の就任に至るまでの事情で,メモをとっていただきたいのは,私は中井氏とは
(彼の方が)年長だけども親しくしていた。父は,中井の先生の深田康算を世話した。それの愛 弟子な鯨だから・非常に艦と友情を寄せて・学士院から研究費をもらって〈気の研究〉なん かやらせた。このイキサッは,朝日新聞に書いた。中井さんの任命されるまでのイキサッを(1969 年6月27日付,夕刊)。父が中井さんをネ,図書館長候補になっているから推せん状を参議院議長 に書いてあげてくれと言った。父は戦争中(昭和17年),中井を推せんして〈気の研究〉に対す
佐藤:国立国会図書館・中井副館長就任までの経緯 61
る研究費が出るようにした。戦後,図書館長に登用されたのを大変よろこんで巻紙に長い推せん 状を父が書いてくれたのです。』
この推せん状のことにっいて,新村猛氏は次のようにも書いている。「参議院側では羽仁氏が 初代館長候補として卓越した美学者であり私の親しい先輩だった中井正一氏に白羽の矢を立てら れ,委員長の賛同を得るため,たまたま松平恒雄議長と相識の間柄であり図書館事業に功績の大 きかった亡父・出に中井氏推せん状を松平議長あてに書いていただきたいという話になった。そ のことを伝えて頼んだところ,京都在住の亡父は直ぐ快く和紙の便せんに長い推せんの手紙を書 いてくれたので,私は自らそれらを東京へ携行し参議院議長室で引見して下さった松平さんにお
@ 19)
nしした。」
この推せん状は『父の全集にも入れようと思ったが,松平議長が亡くなったのでどこにあるか, 2⑳
{せばあるかもしれない』とのことであった。 『大変長い手紙なんです。私は参議院の議長室へ 手紙をたずさえて伺ったんです。』
「松平恒雄氏がイギリス駐在大使の時,父がヨーロッパに行ってロンドンで会ったようです。
私の家は幕臣で松平家は親藩の方ですから大変尊敬していてね。ずっと(推せん文を)読んで,
読みおわって松平さん三あなたも副館長に来ませんかと(私に)おっしゃったですよ。そんなご とまで(1969年6月27日付朝日新聞夕刊には)書かないできたわけです。話があっただけです。
(中井が)治安維持法でどうかなったなんてことは,松平さん意に介しておられないですよ。
当時は片山内閣時代で,水谷長三郎が中井と同期ぐらいなんで,中井氏の登用に対して好意を 29)
烽チてくれた。父は京大図書館長をずっと明治の末期から昭和11年まで務めて,文学部長に 30)
ヘならなかった。日本図書館協会の会長を永く務めた。ですから,父が推せん者としてはなはだ 適任であった。父が中井を推せんしたというのは戦前の〈気の研究〉やr哲学研究』の編集者で 深田先生の愛弟子でしょう。随一の。それと私と心安くしていたから……。父を措いてはない。
旧幕臣系ですから……。
中井君がもっと永生きをして,そして人文学園が経営困難になって(私が)名古屋大学の教授 にならなければ,で,金森さんがやあて中井さんが館長になったら,ぼくも副館長になって来て たかもしれないですよ。時代がこうなったから,だから問題にならないけど……。中井がああな ったのは片山内閣,社会党内閣で時期が良かったからそういう話になって承認されたけれども…
@ 31)
c。ぼくも京都大学図書館の嘱託してたわけですから。中井さんの図書館の,新しい時代の図書館 というのはどういう機能を営むべきかということについて,実にざん新な創意に富んでいるんですよ。
酒井悌が割に早く登用されて務めていて,中井が恵比寿に移住してくる間の中井の仮住いに泊 めてもらっていたことがある。それから酒井氏と同じ宿舎か隣に(公務員宿舎のような小さなと
ころだが)いたことがある。ぼくも泊めてもらったことがあるんです。
その頃中井君がぼくと枕を並べて寝てた時に,朝,目をさましてみたら中井氏が枕をはずして 上半身をのり出して畳の上に何かをおいて,図書館論を書いていたことがあります。昭和23年〜
4年頃かな。気がつくことを(私が)後から言ってあげてね……。久野君や近藤洋逸君も泊った ことがあった。中井氏は独創的思考力に富んでいた,豊かな人だった。中井さん・…・・本当に惜し いことをしたなア。』
中井は,東京に出ることについて『渋ったことはないと思いました。家庭の事情とかお母さん の意向とか考えて,すぐ承諾しながったかもしれないが……。』 『中井の母はロマン・ロランの 母親みたいなものなんです。田舎にいたら才能がのびず,埋れるから……。中井も母親思いだっ